つれづれなるままに

2025年08月

IMG_0517
お米は難しい

さて8月、今年も戦争の話をやっていこうと思います。

宮沢賢治と楽しく合唱した農民は何故深夜病床の賢治を訪ねたのか
[フレーム]

さて今回は前に取り上げた映画「銀河鉄道の父」より人生の迷走の中にあった宮沢賢治が羅須地人教会を設立し、地域の農民を豊かにしていく為の共に歩んでいくというある意味で彼の人生の軸を形成した象徴的なシーンである演奏会のシーンです。農民たちは彼の演奏に聞き入り、人生の楽しみを広げていく言うなれば宮沢賢治にとっての豊かな実りの秋とも言えるシーンです。しかしその後のシーンでは彼が結核で療養中にその演奏に感じ入ったであろう農民が夜遅く療養中の賢治を訪ね、作物の育成について非常に焦燥した様子で相談するシーンがその後出てきます。

「銀河鉄道の父」に思う

かつて賢治と共に楽しく合唱していた農民は何故夜中療養中の賢治を訪ねるほど追い詰められたのでしょうか?
それは単なる冷害による凶作だけなのでしょうか?

senzen1
表:大正〜昭和初期の米価と米輸入・移入量推移(米価(左・右上)は名古屋米穀取引所格付清算取引相場一覧表@米価の変遷 - Wikipediaより、輸入・移入量(右下)はその1:お米の自給率@農林水産省より)

それを考える上で羅須地人教会のできる前の大正時代の米価の推移を見ていきます。大正時代の米価は、日本全体でコメの消費量が増えた事もあり、大正4年にボトムの13.348円/石をつけてから上昇し、大正8(1918)年には38.213円/石とボトムから3倍近い価格となり、そのまま大正年間では30円/石を下回らずに推移します。一方で旺盛な需要と価格の高騰から併合した朝鮮半島等からの移入米、タイなどからの輸入米も年々増加して供給も増えていきます。

昭和金融恐慌@Wikipediaより
日本経済は第一次世界大戦時の好況(大戦景気)から一転して1920年に戦後不況に陥って企業や銀行は不良債権を抱えた。また、1923年に発生した関東大震災による経済混乱に対応するための震災手形が膨大な不良債権と化していた。折からの不況を受けて中小の銀行は経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。1927年3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相(第1次若槻内閣)が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言[1]したことをきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した


しかし第一次大戦後不況が続き、特に昭和に入ると第一次若槻内閣での失言がきっかけに大手商社の鈴木商店の倒産するなど恐慌と言って良い状況に入っていきます。そして米価も昭和に入って年5%以上の低下が続いていく事となります。

金解禁@Wikipediaより
1929年(昭和4年)7月、新しく成立したのは濱口雄幸を首班とする立憲民政党の濱口内閣である。新内閣の大蔵大臣には、元日本銀行総裁で元大蔵大臣(第2次山本内閣)の井上準之助が任命された。立憲民政党は「金解禁の断行」と「放漫財政の整理」を公約に掲げていたが、日銀総裁・大蔵大臣を歴任した井上にはその旗振り役が期待されたのである。井上は直ちに「旧平価による金解禁の実施」を主張して、その準備のために緊縮財政を実施の上で財政支出を抑え、為替相場を回復させることを表明したのである。〜中略〜
まず、井上は、前内閣が定めた昭和4年度当初予算の5%にあたる9,000万円のカットを行い(予算総額16億8千万円)、続いて昭和5年度予算も緊縮型予算(予算総額16億1千万円)とした。また、公務員給与の1割カットを提唱した(ただし、実行されず)。さらに、津島寿一を再度アメリカ・イギリスに派遣して、アメリカ・イギリスの銀行から1億円相当のクレジットの約束を取り付けた(11月19日横浜正金銀行)。また、日本銀行には公定歩合の引き上げを、横浜正金銀行には円為替への介入と外貨集積を指示した。これによって保有外貨が3億ドルに増加し、為替相場が48ドルまで戻った。これを見た濱口内閣は、同年11月21日、来年1930年(昭和5年)1月11日をもって旧平価による金解禁を実施することを発表した(大蔵省省令)。〜中略〜
ところが、この少し前の1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨーク株式市場(ウォール街)の株価大暴落が発生して、アメリカ経済は大混乱に陥っていた(「暗黒の木曜日」)。これが後の世界恐慌のきっかけになるが、当初日本国内ではその影響について意見がまちまちであった。これを見た「新平価論」を唱えていた石橋ら経済評論家やアメリカ経済の動向を危惧する三菱財閥の各務鎌吉らは、旧平価での金解禁に強く反対した。一方、三井財閥の池田成彬を中心とした金融界は、これ以上の金解禁の遅延は許されないとして金解禁を支持。井上も、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していたことから、今回の恐慌を通常経済の範囲内の出来事と考えたために方針変更を行わなかった。
そして、1930年(昭和5年)1月11日、当初の予定通り「金2分=1円=0.49875ドル」(1ドル=2.005円)の旧平価による金解禁が実施されたのである。


そして更に濱口内閣井上蔵相の緊縮財政と世界恐慌のきっかけとなる暗黒の木曜日後でも修正されずに行われた旧平価(円高誘導)での金解禁が経済にとどめを刺します。この後米価は昭和5年には15.3%、昭和6年には18.6%と大幅に下落し、19.52円/石とピークの半額まで落ち込んでしまいます

昭和農業恐慌@Wikipediaより
1931年(昭和6年)には一転して東北地方・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれた。不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢饉水準の窮乏に陥り、貧窮のあまり東北地方や長野県では青田売りが横行して欠食児童[注釈 1]や女子の身売り[注釈 2]が深刻な問題となった[2]。税収入が激減したため小学校教員を含む公務員の給料不払い問題も起こった。また、穀倉地帯とよばれる地域を中心に小作争議が激化した。〜中略〜
1933年(昭和8年)以降、輸出好調により景気は回復局面に入るが、同年に昭和三陸津波が起こり、東北地方の太平洋沿岸部は甚大な被害をこうむった。また、1934年(昭和9年)は記録的な大凶作となって農村経済の苦境はその後もつづいた


そして羅須地人教会の農民たちには追い打ちとも言える事が起こります。米価が半減した昭和6年には冷害で大凶作、昭和8,9年も三陸津波や、大凶作も起き、彼らはデフレで経済的に追い込まれたうえに凶作で破綻した人も多かったのではないでしょうか?そしてよく言われる欠食児童や娘の身売りが言われるようになったのはこの時期です。だからこそ農民が深夜に病床の賢治を訪ねるあのシーンが起こったと言える訳です。あのシーンが示しているのは映画製作者の意図はともかく普通の時は上手くやっていた農民に代表される多くの人が景気後退時の緊縮政策によって破綻の危機に追い込まれ、生活が社会が破壊されている光景です

no more war! no more deflation!!

弱体化・空白化した政治と空白を埋めた者たち
この時期の主な政治家対処のテロ、クーデター事件br /> 昭和5年11月 濱口首相遭難事件 濱口雄幸
昭和7年2〜3月 血盟団事件 井上準之助、團琢磨
昭和7年5月 五・一五事件 犬養毅
昭和11年2月 二・二六事件 岡田啓介、高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎、鈴木貫太郎

br /> そしてそんな中政治は信頼を失っていきます。選挙で政権交代ではなく政治家を直接暴力で何とかしようとするテロリズムが相次ぎました。

[画像:senzen2]
昭和、終戦までの首相と在任日数(太字:選挙で選ばれた議員、赤字:在任日数1年未満)

その結果、五・一五事件以降、選挙で選ばれた議員による首相は選ばれなくなり、また在任1年未満の短期在任の首相が相次ぐようになり、政治が弱体化しました。

国防の本義と其強化の提唱@Wikipediaより
『国防の本義と其強化の提唱』(こくぼうのほんぎとそのきょうかのていしょう)とは1934年(昭和9年)10月に陸軍省新聞班が発行したパンフレット。B6判56頁、約60万部を刊行。序文の「たたかひは創造の父、文化の母である。」で知られる。
このパンフレットは「陸軍パンフレット」と称され、これをめぐる騒動は「陸軍パンフレット事件」と言われている。〜中略〜
政党政治家は強い反対を唱え、議会では陸軍大臣が追及されたが、「国民の一部のみが経済上の利益特に不労所得を享有し、国民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延ては階級的対立を生ずる如き事実ありとせば、一般国策上は勿論国防上の見地よりして看過し得ざる問題である」といった見地に立った統制経済の提唱に対しては、革新系の中野正剛や赤松克麿は賛意を表明し、なかでも社会大衆党の書記長麻生久は「パンフレットに沿って進まないものは、社会改革活動の落伍者である」との熱烈な賛辞をおくった。


そして出来上がったある意味での政治的空白を埋めたのが陸軍を中心とした軍でした。二・二六事件の前の昭和9年に発行された所謂陸軍パンフレットは象徴的です。実際この時期急激に議席を伸ばしていた社会大衆党など新規の政治勢力が積極的に賛辞を送って政治力を高めようとしています。

軍部大臣現役武官制@Wikipediaより>
軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)とは、1900年(明治33年)から1913年(大正2年)までと、1936年(昭和11年)から1945年(昭和20年)までの間に日本に存在した軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度である[1]。現役武官に限るため、文官はもちろん予備役・後備役・退役軍人にも就任資格がないのが原則だったが、1913年(大正2年)から1936年(昭和11年)の間は予備役や後備役の将官にも就任資格があった[1](軍部大臣武官制)。〜中略〜
1937年(昭和12年)に宇垣一成(予備役陸軍大将)に対して天皇から首相候補に指名されて大命降下があった際、陸軍から陸軍大臣の候補者を出さず、当時現役軍人で陸軍大臣を引き受けてくれそうな小磯国昭(当時朝鮮軍司令官)に依頼するも断られ、自身が陸相兼任するために「自らの現役復帰と陸相兼任」を勅命で実現させるよう湯浅倉平内大臣に打診したが、同意を得られなかったため、組閣を断念した。1940年には米内内閣が畑俊六陸相の単独辞職により崩壊するなど、日本の軍国主義の深刻化に拍車をかけることになった。


また二・二六事件後の昭和11年には所謂軍部大臣現役武官制が復活しました。この制度では陸軍大臣、海軍大臣が現役の軍人でなくてはならず、陸海軍と政府が対立した際、大臣を退任させ、代わりの大臣を出さないと、内閣を総辞職に追い込めるため、例えば廣田首相退任後次の首相と大命降下されたものの結局陸軍大臣を陸軍が出さなかったため、組閣できなかったと言った話も出てきます。言って見れば多くの人の生活や社会を破壊した政治が信頼を失った結果、軍部が空白となった政治の主導権を握っていったわけです

誰かを貶めて主導権を奪おうとする野党やメディアが信頼と共に監視能力すら失った
統帥権@Wikipediaより
統帥権干犯問題とは、明治憲法の第11条(もしくは第12条)の権能が、軍令事項(国務大臣の輔弼が必要でない軍令的専権事項)なのか軍政事項なのか、それとも両者を含むものなのかという解釈をめぐって争われた問題である[2]。1930年(昭和5年)のロンドン海軍条約の批准をめぐり問題が表面化した[8]。〜中略〜
1930年(昭和5年)4月下旬に始まった帝国議会衆議院本会議で、野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎は、「ロンドン海軍軍縮条約は、軍令部が要求していた補助艦[注釈 6]の対米比7割には満たない」[注釈 7]「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。元内閣法制局長官で法学者だった枢密院議長倉富勇三郎も統帥権干犯論に同調する動きを見せた。6月、加藤寛治大将は昭和天皇に帷幄上奏し辞職した。この騒動は、民間の右翼団体(当時は「国粋団体」と呼ばれていた[9])をも巻き込んだ。


さて野党をはじめとする議会やメディアも政権奪取の為のくだらない政争やスキャンダルで信頼を無くしていきました。例えば1930年のロンドン海軍軍縮条約批准の際には統帥権干犯(統帥権:軍隊を指揮監督する最高の権限、明治憲法期は天皇大権の一つとされた)問題として犬養毅、鳩山一郎を中心とした当時の野党政友会で詰問し、その後軍部暴走の1つの要因とされたのはその一例です。

帝人事件@Wikipediaより
帝人事件(ていじんじけん)は、戦前の1934年(昭和9年)に起こった疑獄事件。齋藤内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となった。〜中略〜
1934年(昭和9年)1月17日、『時事新報』(武藤山治社長)が「番町会」を批判する記事「番町会問題をあばく」を掲載、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた
議会で関連を追及された鳩山は「明鏡止水の心境」と述べ、これが辞任の意思表示だと報道されたため、嫌気がさして辞任した。なお、同年3月に武藤の射殺事件が起きたが、本事件との関係は不明である。〜中略〜
その後、帝人社長や台湾銀行頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら全16人が起訴された。これにより政府批判が高まり、同年7月3日に齋藤内閣は総辞職した。


また帝人事件の様なメディアの暴走による冤罪疑獄事件も起き、それが猶更政治、議会の信頼を失わせていきました。

反軍演説@Wikipediaより
反軍演説(はんぐんえんぜつ)は、1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会衆議院本会議において立憲民政党の斎藤隆夫が行った演説。日中戦争(支那事変)に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説した。この演説により、3月7日、斎藤は衆議院議員を除名された[1]。この経緯は言論弾圧としても扱われる。なお、「支那事変処理を中心とした質問演説」や「支那事変処理に関する質問演説」を、一般的に「反軍演説」と称している。


その結果、泥沼に陥った日中戦争(支那事変)への根本的な疑問を呈した斎藤隆夫議員の議会演説が問題になり議員除名となる等軍・政府への外部監査機能も失う事となってしまいます。一見議会弱体化の話にも見えますが、本来適切で弱体化していない政権・軍部であるならこのような正論に対して適切に受け止めて対応すればよいのですが、それも出来ない言って見れば平時に誰かから主導権を奪うために他人を貶める野党やメディアは信頼を失い、弱体化した政治は正論を受け入れる余裕がなくなるわけです。

弱体化・空白化した政治が適切な対応が出来ずに辿り着いた場所
仏印進駐@Wikipediaより
1937年(昭和12年)7月の日中戦争(支那事変)勃発以降、中華民国の蔣介石政権に対して行われていたイギリスやアメリカ合衆国などによる軍事援助は、いわゆる援蔣ルートを通じて行われていた[3]。特にフランス領インドシナを経由するルート(仏印ルート)は4つの援蔣ルートの中で最大のものであった[3]。10月27日、フランス領インドシナ政府は中国に対する輸出を禁止したが、密輸は継続されていた[4]。1938年(昭和13年)10月、日本は国境線の封鎖と視察機関の派遣を要求したが、拒否された[2]。〜中略〜
独仏休戦協定が成立した6月22日に、ヴィシー政権はカトルーを解任した。カトルーの独断行動が直接の原因だったが、自由フランスに近いことも忌避の要因だった[10]。後任の総督はフランス極東海軍司令官[9]のジャン・デクー(フランス語版)提督だった[11]。しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリ大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。8月末には交渉が妥結し、松岡・アンリ協定が締結された。この中では極東における日本とフランスの利益を相互に尊重すること、フランス領インドシナへの日本軍の進駐を認め、さらにこれにフランス側が可能な限りの援助を行うこと、日本と仏印との経済関係強化が合意された[12]。〜中略〜
7月5日(裁可の3日後)には駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが日本の南進について外務省に懸念を申し入れている[38]。日本側は情報漏洩に驚き、進駐準備の延期を行ったが、イギリス側も日本を刺激することを怖れ、これ以上の警告を行わなかった[38]。7月14日には加藤外松駐仏日本大使がヴィシー政府副首相のフランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐許可を求めた[1]。ヴィシー政府はドイツの意向を探ろうとしたが、おりしも駐仏ドイツ大使オットー・アベッツ(英語版)は旅行に出かけており、不在であった。フランス政府はドイツ側と協議することなく、7月19日の閣議で日本側の要求を受け入れることを決定した[1]。〜中略〜
野村大使が南部仏印進駐後アメリカ側の反応が明らかに悪化したと観測しているように、南部仏印進駐後のアメリカの態度は極めて強硬なものとなった。8月1日、アメリカは「全侵略国に対する」石油禁輸を発表したが、その対象に日本も含まれていた。また、蘭印もこれに合わせて石油協定を破棄した[39]。イギリスも追随して経済制裁を発動した


そして弱体化した政治が機能しなくなる中外交面でも難しい事態な状況への対応力を失ってしまいます。上はアメリカの石油禁輸を引き起こすきっかけとなった仏印(ベトナム)進駐の経緯です。もともと日本が交戦中の中国へのアメリカ・イギリスの援助ルートをつぶすための施策ですが、経緯を見ると、行われた時期がドイツがフランスを下した後で、交渉相手がドイツに降伏したヴィシー政府だっただけに政府間で進駐交渉は成功しています。とは言え最終的にアメリカの石油禁輸と言う日米開戦への決定的な状況に陥ってしまいました。もしこの段階でもう少し粘り強く外交状況を分析し、行動すれば米英の決定的な態度硬化に繋がらない形で援助ルートをつぶすことは可能ではなかったのかと思います。しかしこれまで描いてきたように弱体化・空白化した政治の主導権を漠然と軍部が持つという状況下ではそれは望めなかったのではと思います。こうして最終的に12月8日の日米開戦に繋がる事になります。

落ち着いて安定した無理のない政治が一番
「これは戦争です」参政党、新宿南口の街宣は大パニック@黒猫ドラネコ【トンデモ観察記】

さて今度の参院選での参政党の躍進がまだまだ様々な波紋を広げているようです。ただ今回戦争までの歴史を調べて見て思うのは、彼らの政策は支持しないですが、少なくとも彼らが自らの不満をいきなり暴力的な直接的な排斥に結び付けることなく、あくまでいろんな人に姿をさらし皆が注目する場で議論する事で対応していくというのは戦前の「いきなり政治家を殺す」と言う状況より数十倍マシでしょう。その上で重要なのは井上準之助の「不況時の緊縮財政、金解禁」の様な無茶はせず、状況に落ち着いて対処し、つまらなくても安定し、落ち着いた政治をすることでしょうか?今はそれが段々難しくなっていますが、落ち着いて安定した無理のない政治こそ大切、それが井上金解禁から始まる悲劇から学ぶべきことなのではないでしょうか?


タグ :
#緊縮財政
#テロリズム
#戦争
#銀河鉄道の父
#宮沢賢治
#井上準之助
#金解禁
#昭和農業恐慌
#反軍演説
#仏印侵攻
IMG_0282
選挙の月でした。

さて選挙の熱風に煽られた2025年7月のランキングです。
1.お金の話外伝その4〜家が導く都会のキラキラパワーカップルが苦しく地方の地味な介護職が夢を持てる時代〜
2.Choose or Loose1997消費税率変更の悲劇を避ける為の参院選2025エピローグその1:国を憂う愚直な良き隣人の政党の躍進と危うさ
3.令和の大きな宿題その1〜親から自立できない中年未婚女性はどれだけいるか〜
4.Choose or Loose横須賀市長選挙2025 エピローグ
5.令和の大きな宿題外伝その10〜さす九にみる「共感」の恐ろしさ〜

1位にはお金の話外伝その4〜家が導く都会のキラキラパワーカップルが苦しく地方の地味な介護職が夢を持てる時代〜が入りました。

『15歳から貯金して現金一括で家を買った』人がすごい「何が介護士は底辺だ!」「全国の介護士に希望を与えた」@together

底辺職と心無いことを言われる事もある介護士さんが一生懸命貯金して一戸建てを購入した世知辛い世の中で久しぶりに良い話だなと思って取り上げた話、単純にいくら貯めた話でなく、決して所得は高くないが地域をきちんと回していく為に頑張っているエッセンシャルワーカーがお金を貯め地域で良い物件を紹介してくれる人脈も確保し、家を購入したというのは色々考えさせられます。この人が地域で気づいた資産は単に家を購入するお金だけでなく、良い情報を回してくれる人間関係もそうで、それは今後得た家を守っていく際にも役立ってくれそうだなと言うのも良い話だなと思いました。
2010年代後半は東京を中心に「キラキラした大都会でバリバリ働き華やかな生活を送る」と言う物語がもてはやされた時代だとすると2020年代は彼の様な「地域で地味に堅実に働き有形無形の資産を築き上げる話」が注目されそうな気がします。

2位にはChoose or Loose1997消費税率変更の悲劇を避ける為の参院選2025エピローグその1:国を憂う愚直な良き隣人の政党の躍進と危うさが入りました。20日に投開票が行われた参院選で躍進を遂げた参政党の話です。

公認候補者検索@参政党

参政党の候補者を見ると興味深いのは1位の記事で出てきた介護職の様なエッセンシャルワーカーや地域に根を張った自営業者が多い事です。

父になりました@神谷 宗幣

そして神谷党首のはきはきした演説や、blogで子供が出来た時の記事なんかを見ると記事では「良き隣人」と書いたのですが良い人に感じたのも確かです。確かに政策は支持できないですが単にファシストと切って捨てるのではなく、この「良き隣人」である事、そして多くの人達の共感を集めた事を意識しておかないといけないのではないかと言うのがこの記事の趣旨です。大変な話ですがただこの面倒とどう付き合うのが政治なのではと感じます

3位には令和の大きな宿題その1〜親から自立できない中年未婚女性はどれだけいるか〜が6月に続きランクインしました。

昔の婚姻率が高かったのって、女性は結婚しないと生活できなかったからだよね

さてこの令和も7年になってこんな話が出て来ていますが、昭和末期の男女雇用機会均等法以降の「女性の自立」の内実、特に悪い面がそろそろ出てきそうな気がします。変な言い方してしまえば「実家住まいで生活は親だよりなのに少しバイトやパートしただけで自立していると言い張って結婚しなかった」中高年女性みたいな問題が親世代の死で浮き彫りになってくるというか、参政党の神谷党首の「高齢化した女性は子供が産めない」と言う発言が問題になりましたがよく考えたら当たり前のこの言葉がデリケートな問題になるのはこういった女性が決して無視できないからだと思います。果たしてどうなる事やら。

4位にはChoose or Loose横須賀市長選挙2025 エピローグが入りました。個人的にはある意味で参院選の前哨戦、参院選で吹き荒れ参政党と国民民主党の躍進をいざなった熱風を1足早く味わう羽目となりました。

日産「城下町」に衝撃、横浜市は対策本部を設置...追浜工場近くの弁当店「ショック大きすぎる」@読売新聞2025年7月16日

さてそんな横須賀市ですが、日産追浜工場の生産ラインが撤退する事が発表されました。正直厳しいところですが熱風の逆風吹きすさぶ中選ばれたベテラン上地市長には頑張ってほしいところです。

電車とバスでGo!その12 野球を見に行こう
電車とバスで行ってみたその9:横須賀スタジアムにファーム開幕戦を見に行く

大変なことになっている追浜ですが、ベイスターズの2軍球場が立地しているので興味にある方はぜひ見に行って追浜の街で美味しいものでも食べて来てもらえると地元民としては有難いところです。

5位には令和の大きな宿題外伝その10〜さす九にみる「共感」の恐ろしさ〜が入りました。楽しいツイッタランドで流行る「さす(が男損女卑アイランド)九(州)」と言う九州生まれの人間にとってはちょっとありがたくないスラングへの反論として作成しました。

映画「さすが九州」企画案を妄想してみる

ちなみに映画化もツイッタランドで話題になっていたので企画案を妄想してみたのですが、その際に出演キャストと考えていた声優林原めぐみさんが「一部の海外留学生に無償で補助日本の学生は奨学金(返さないといけないから平たく言うと借金ね)」と書いて炎上したので現状どうなのかを映画で取り上げると言うネタを追記で書くこととなりました。この炎上騒動にも通じるのですが今良い事とされる「共感」と言うのは怖い言葉だなと言うのがこの記事のテーマです。「共感」と言うと聞こえは良いですが、要は誰も責任も裏付けも取らない言葉に先導される事とも同じことであるわけですから。参政党の躍進にも通じるところがあります。「良き隣人」である彼らを最終的に支持できなかったのは最終的に政策に裏付けがあまり感じられなかったからです。今回の選挙が「共感の害」についてじっくり考えるきっかけになってくれるのを祈ってなりません。

如何だったでしょうか?7月は政治の季節のラストランナー参院選があった関係で選挙やそれに連なる関連記事、そして正義の季節が終わった後の光景を見据える記事が読まれたかなと思っています。それでは8月が読者の皆様にとっても筆者にとっても良い1月である事を祈念します。


タグ :
#お金
#マネー
#介護士
#家購入
#参院選
#参院選2025
#参政党
#中高年未婚女性
#横須賀市長選挙
#さす九
最新記事
人気記事
リンク集
読者登録
広告
広告3
広告4
広告2
アーカイブ
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:
ギャラリー
楽天

Template by decoweb

traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /