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2012年10月07日

東和田義隆 歌の心地よさ〜歌の始まり

8月のシラフ君企画で何年かぶりに東和田義隆を観て以来、
たまに聴いているのがこれ。
本人も存在を忘れていたみたいだけど、
多重録音もあればライブそのままの曲もある、デモ音源なのかな。
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彼の歌は、なんの事はない日常の出来事を、少し変わった視点で淡々と歌っている。
ちょっと聴くと棒みたいなメロディラインに微妙な抑揚、言葉遊びの様な言葉の繋ぎ方、
だけど韻を踏んでいるのとはちょっと違う、言葉の意味じゃなくて音の流れか、
それが妙に心地よい。

この心地よさは一体なんだろう?
坊さんの読経に似ているのか、、、違う。
歴史の年号を覚えるのによく使う語呂合わせ「うぐいす794平安京」とか、
、、、近い様な気がする。
そういえば俺の母親は戦前の教育を受けたもんだから、
歴代天皇の諡号(おくりな)を年とってからも記憶していて、
「じんむすいぜい〜」と独特な抑揚でうなっていたっけ。
記憶しているといっても、もちろん諡号の音だけなんだろうけど、
これも聴いていて悪い気はしなかった、この感じが近いか。
俺にとっては、頭の記憶領域を微妙に刺激する言葉の音(おん)の流れを持った歌が、
聴いていて心地よい歌なのかもしれない。

そもそも歌とは、記録の為、伝達の為のものだったのではないか。
人類が文字の発明以前に何かを記録しようとすれば、
古代壁画みたいに線で絵をかくか頭に記憶する位しかなかっただろう。
音でしかない言葉を記憶する為には、
その音に抑揚をつけた方が脳を刺激しやすいだろう。
そして抑揚を集団でやりだせばリズムの発生か、、、。

そして、文字が発明されて記録媒体が誕生した以降も、
記憶の為の歌は残ったに違いない、いわゆる口伝というやつか。
秘密を守るためには記録しない方がいいわな、
かって、古今伝授が口伝だった様に。
口伝といえば、帝紀、旧辞が残っていたのに稗田阿礼が暗誦を命ぜられたってのも
考えてみればおかしな話だ、、、権力による歴史の書き換えか。
、、、、話がそれたな。

まぁ音楽聴いてれば、たとえ歌ものでも、歌だけが耳に入って来るわけではない、
カウンターメロディやらもあれば、敢えて歌声に楽器の音をぶつけるアレンジもある。
美しいメロディの歌が、必ずしも頭に残るとか心地よいという訳でもない。
歌詞には意味があるし、その意味を聴き取ろうとするのと、
音を聴き取るのとは別な領域なのだろう、その二つが合わさるポイントが重要なのだな。
シラフ君の必殺の一行に東和田君の音の繋がり、、、
「八月のフォークボールはどこに落ちるか」という企画は今にして思えば秀逸だった。

と書いて来て心地悪い歌を思い出した。
歌会始で聴いたあの抑揚、伝統だかなんだか知らないが
形だけのものは頭に残らん。


男サマタ
posted by もんち&男サマタ at 15:38| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 本,CD,DVD,映画,劇など | 更新情報をチェックする
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