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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2015年12月

日本の雇用の問題について鋭い分析を行ってきた濱口桂一郎の新刊は女性と雇用の問題を扱ったもの。『若者と労働』(中公新書ラクレ)、『日本の雇用と中高年』(ちくま新書)につづく三部作の完結編と言っていいのですかね。
若者と中高年(男性)に関しては、「今までは日本型雇用の受益者の面も強かったが、現在はそうとも言えなくなってきた」という存在だと思います。一方、日本型雇用において一貫して不利を被っていたのが女性です。この本では、歴史的経緯を丁寧に紐解くことで、問題の所在と今後の展望を明らかにしようとしています。

目次は以下の通り。
序章 日本の女性はなぜ「活躍」できないのか?
第1章 女子という身分
第2章 女房子供を養う賃金
第3章 日本型男女平等のねじれ
第4章 均等世代から育休世代へ
終章 日本型雇用と女子の運命

教員などをしていると、学校(中学や高校)では女子のほうがリーダーシップを取るケースが多いように見えますが、企業となると事情は違ってきます。日本では女性のトップや女性管理職はまだまだ珍しい存在です。
これに対して、「日本は男尊女卑だから」、「封建的だから」といった理由がすぐさまあがりますが、本書が指摘するように1960・70年代までは、欧米の職場も男性中心であり、女性は排除されていたのです。ところが、欧米社会ではその後、女性の職場への進出が進んだのに対して、日本では男女雇用機会均等法などの法整備はなされたものの、職場における女性の地位は低迷したままでした。
その理由は、日本の雇用システムの特徴にあります。

まずポイントとなるのが「生活給」という考え方です。
「生活給」とは、労働者の賃金を決める際の基準として労働者の家計が成り立つかどうかを重視するもので、家族を扶養する必要がない若年期は安くてもよいが、家族を扶養しなければならない壮年期以後はそれなりの額が必要だという形になります。
この本では、そうした「生活給」の考えが、1920年代に労働者の「思想悪化」(=共産主義化)を憂う管理者側(呉海軍工廠の伍堂卓雄)から出てきたことを紹介し、さらにそれが戦時体制の中で強化されていったことを指摘しています。

この「生活給」は、戦後GHQなどによって批判され、さらに財界の中からも仕事の内容に応じて賃金が決まる「職務給」を目指す動きが出てきますが、労働組合は逆に「生活給」を主張します。「生活給」は、賃金を「労働の価格」ではなく「労働力の価格」と考えるマルクス経済学と相性がよく(この辺はややこしいので本書の104-110pを読んでください)、左派色の強かった労働組合は、「生活のための昇給」を目指してくことになります。

この「生活給」の考えは、「年功賃金」として定着し、その「年功賃金」は小池和夫によって「知的熟練」の対価であるとして理論化され(しかも、この小池理論のバックボーンにもマルクス経済学がある)、日本企業の「強み」、「先進性」を表すものとして称揚されていくことなるのです。

しかし、この「生活給」や年功に伴う「知的熟練」といった考えによって犠牲になるのが女性です。
いずれ結婚して夫に扶養してもらう女性に「生活給」は不要ですし、結婚や出産を機に退職する女性は「知的熟練」を重ねていくわけではありません。
戦後の労働基準法によって男女同一賃金の原則が盛り込まれましたが、「生活給」や年功型賃金のもと、女性の賃金は低く抑えこまれました。

この本のタイトルの「女子」という言葉に反発を感じる人もいるかもしれませんが、日本の企業は女性を、まさに「女子」として扱ってきました。
企業(特に大企業)が雇用する女性は、あくまでも学校を卒業してから結婚するまで短期間働く「女子」であり、その女子が「家族を扶養するための生活給」をもらうということは想定外なのです。
ですから、多くの企業で女子は結婚したら仕事を辞めなければならないという結婚退職制が設けられ、某銀行の人事担当者は「ここにいらっしゃるお嬢さんがたが、めでたく御嫁入りの日には、銀行としては、心から前途をお祝いして、御退行ねがうということを今からお約束しておきます」(55-56p)などと入行式で語ったりしたのです。

1985年に男女雇用機会均等法が制定され、雇用の場での男女平等が推進されていくことになりますが、企業と社員の間に「ある意味では婚姻にも似た強い結びつき」(167pで紹介されている日本生産性本部の報告書より)が要求される日本において、生活のほぼすべてを企業に捧げることのできない女性社員は周縁的な存在でした。
結局、多くの企業が、「総合職」「一般職」というコースを設けて、男女をある意味で隔離していくことになります。

90年代の不況の中で、企業は徐々に「一般職」のOLを減らし派遣などに切り替えていきます。同時に女性総合職を活かしていこうという風潮も出てくるのですが、彼女たちの競争相手は「ワークライフバランス」の「ライフ」の部分を専業主婦である妻に丸投げした男性であり、よほどのスーパーウーマンか結婚・出産といった「ライフ」をあきらめない限り、勝つことが難しい相手でした。
また、出産後の女性は「マミートラック」と呼ばれる以前よりも軽い業務に移ることが多いのですが、そこにはやりがいをなくしていく女性と、業務のしわ寄せによって疲弊するその他の社員がいます。

こうした現状に対する著者の回答は、「女性の「活躍」はもうやめよう」(237p)というものです。
著者の持論とも言える、「限定正社員」「ジョブ型正社員」という職務や勤務地が限定される代わりにやや待遇の低い正社員の導入によって、女性に「活躍」を求めるのではなく、普通の「仕事」と「生活」の両立(つまりワークライフバランス)を求めるものです。

このように女性をめぐる雇用の問題と来歴を広範な知識で説明してくる面白い本ですし、「ジョブ型正社員」という回答も間違ってはいないと思うのですが、『若者と労働』や『日本の雇用と中高年』が雇用システムと教育や福祉といった外部のシステムとの「噛み合い」を鋭く指摘していたのに比べると、この本はそういった部分がやや弱いと思います。
最後に海老原嗣生の新卒採用はそのままに35歳くらいから「ジョブ型正社員」にチェンジしていくというアイディアが、高齢出産との兼ね合いの問題から検討されていますが、個人的にはこうした部分がもっと読みたかったです。

ここからは本書から離れた完全な私見ですが、日本の女性の雇用問題を解決する一つの鍵は、公務員の数とそのあり方だと思います。
北欧の国というと男女平等のお手本のような国に見えますが、G・エスピン‐アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』でも指摘されているように、北欧諸国の女性の雇用は公的セクターに偏っています。つまり、女性の安定した雇用の多くは公務員なのです。そして、前田健太郎『市民を雇わない国家』が指摘するように、日本はその公務員が世界的に見ても極めて少ない国です。
少なすぎる公務員と、民間の大企業のような公務員の賃金体系、この2つの問題の改革が必要なのではないかなと考えています。

働く女子の運命 (文春新書)
濱口 桂一郎
4166610627
12月23
カテゴリ:
その他
今年は56冊の新書を読みました。ほぼ週に1冊ペースですね。
全体的にけっこう面白い新書が多かった2015年ですが、例年通り、その中から5冊あげてみたいと思います。

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)
坂井 豊貴

4004315417
岩波書店 2015年04月22日
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まさに新書ならではの本で、社会選択理論を基礎から実際の政治問題との関わりまでをコンパクトかつ明晰にまとめています。
個人的にこの本が素晴らしいと思った理由は、(1)社会的選択理論を初歩から丁寧かつ明晰に説明している点、(2)明晰であるがゆえに著者との根源的な政治観や人間観の違いが明らかになって政治に対する認識がより深まった点、の2つ。
(2)からもわかるように、個人的には推移律を問題なく認める立場には疑問があって、著者のこの本での主張も必ずしも正しいとは思えないのですが、そういった問題に気づくことができるのも、この本がわかりやすく明晰に書かれているが故です。(紹介記事はこちら)



移民たちの「満州」: 満蒙開拓団の虚と実 (平凡社新書)
二松 啓紀

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平凡社 2015年07月17日
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1位の『多数決を疑う』に比べると、それほど評判にはならなかったかもしれませんが、これも文句なしに今年の収穫と言っていい本。
京都府天田郡(現在の福知山市)の天田郷開拓団の悲劇を描きつつも、それを「戦争の犠牲者」、「国策の犠牲者」といった言葉に押し込めて語るのではなく、満州移民の中国人への加害者性や、大きな視野で満州移民という「国策」の失敗とその責任を問うものになっています。
世の中には、わかりやすい「机上の空論」が多くの犠牲を生み出してしまうことがあって、満州への「分村移民」はまさにそれです。この本は、その「机上の空論」を推し進めた責任を鋭く問うものとなっており、「国策の犠牲者」という安易なまとめを許さないそのスタンスは素晴らしいと思います。(紹介記事はこちら)



アホウドリを追った日本人――一攫千金の夢と南洋進出 (岩波新書)
平岡 昭利

4004315379
岩波書店 2015年03月21日
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台風情報などでよく聞く南大東島。この島は周囲を20メートルほどの断崖絶壁で囲まれた島で、人が上陸することはかなり難しい島でした。ところが、 1900年になるとこの断崖をよじ登って島に上陸する人々が現れます。また、日本の最東端の南鳥島。台風などが来ればひとたまりもない絶海の孤島ですが、ここにも明治期の日本人は進出していきました。
この日本人を南洋の孤島へと駆り立てたもの。それこそがこの本のタイトるにも出てくるアホウドリなのです。
この本はアホウドリの羽毛による一攫千金を求めた明治以降の日本人の姿を追ったものですが、同時に日本の軍事的な南洋進出や、アメリカとの対立などさまざまな問題を考えさせるものになっています。個人的には、20世紀初頭の日米関係と今の日中関係が重なって見えたところが面白かったです。(紹介記事はこちら)



代議制民主主義 - 「民意」と「政治家」を問い直す (中公新書)
待鳥 聡史

4121023471
中央公論新社 2015年11月21日
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政務費の不正使用(&号泣会見)、セクハラやじなどの問題が噴出し、地方議会への目が厳しくなっているだけではなく、安全保障法制をめぐる反対運動では 「国会よりも路上に民意がある」といったことが言われなど、議会という存在自体に厳しい目が向けられている中で、その議会の意義を歴史や制度の面から探り、擁護しようとした本。「委任と責任の連鎖」と「民主主義的要素と自由主義的要素の結合」の2つのポイントから代議制民主主義を読み解いています。
密度の濃さは、正直なところ新書のレベルのものではなく、「入門書」だと思って読むと骨が折れるかもしれませんが、徹底的に制度に寄り添った分析は面白く読み応えがあります。(紹介記事はこちら)



真田四代と信繁 (平凡社新書)
丸島和洋

4582857930
平凡社 2015年11月16日
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来年の大河ドラマが真田信繁(幸村)を主人公にした『真田丸』ということで、真田氏関係の本が続々と登場する(した)と思いますが、これはその中でおそらくレベルの高い本。
戦国大名を研究する気鋭の学者が、しっかりとした歴史学の方法のもと史料を読み解きながら、真田家と真田家を取り巻く状況を丹念に、そして戦国時代の構造を大胆に描いて見せています。
特に戦国好きが高じて史学科に行きたいと考えている高校生などがいたら、ぜひこの本を読むといいと思います。歴史学者がどのように歴史にアプローチしているのかがわかるような内容にもなっています。
また、織豊政権の性格や、「兵農分離」の問題などについても鋭い分析がなされており、真田一族について見取り図だけではなく、戦国時代から織豊政権期の見取り図も得られる本です。(紹介記事はこちら)




次点は、輪島裕介『踊る昭和歌謡』(NHK出版新書)と筒井淳也『仕事と家族』(中公新書)。
また、今年は戦後70年であり安保法制が話題となりましたが、そうした問題を考えていく上で有益な本も多かったです。特に安全保障の問題と沖縄を考える上で、福永文夫『日本占領史1945-1952』(中公新書)、櫻澤誠『沖縄現代史』(中公新書)、佐道明広『自衛隊史』(ちくま新書)といった有益な新書が出ました。さらに、小熊英二『生きて帰ってきた男』(岩波新書)も戦後70年について改めて考えさせる本でしたし、ナチ・ドイツに関しては石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)という良い入門書が出ました。
他にもIS(イスラーム国)については、素早く池内恵『イスラーム国の衝撃』(文春新書)という鋭い解説が出ましたし、桜井啓子編『イスラーム圏で働く』(岩波新書)も新書らしい良い企画だったと思います。
レーベルとしては相変わらず中公新書のアベレージが高かったですが、今年は岩波新書のラインナップも非常によく、興味深い本が多かったと思います。ちくま新書と講談社現代新書はややもの足りずで、歴史物に関しては平凡社新書のブランドが個人的に高まってきた感じです。
ヒトラーとナチ・ドイツがある程度の国民の支持を受けて政権を獲得し、その統治は第2次世界対戦が始まって戦況が悪化するまで高い支持を得ていました(もちろん、そこにはからくりもあって、そのからくりは石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)に詳しい)。
しかし、すべてのドイツ人がヒトラーの起こした戦争や、ユダヤ人の迫害を支持したかというと、もちろんそうではありません。困難な中にあっても、ナチ政権を倒そうとした人、ユダヤ人を助けようと活動した人々がいます。
この本は、愛国心や歴史認識の問題を考えさせるとともに、そうした「市民的勇気」を発揮した人々の姿を描きだしています。

目次は以下のとおり。
第1章 圧倒的に支持されたヒトラー独裁と市民の抵抗戦時体制下の反ナチ運動)
第2章 ホロコーストと反ナチ・ユダヤ人救援ネットワーク
第3章 ヒトラー暗殺計画に関与する抵抗市民たち
第4章 反ナチ抵抗市民の死と"もう一つのドイツ"
第5章 反ナチ市民の戦後

反ヒトラー・反ナチの運動というと、トム・クルーズ主演の映画『ワルキューレ』でとり上げられたヒトラー暗殺計画の実行者・シュタウフェンベルク大佐を知っている人は多いでしょうし、同じく映画『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最後の日々』の《白バラ》グループを知っている人もいるかもしれません。
この本では、そうしたある程度知られている反ヒトラー・反ナチ運動だけではなく、反ヒトラー・反ナチの運動に携わった人々をできるだけ網羅的にとり上げようとしています。

ナチ・ドイツの統治下では、ユダヤ人や国外から略奪されたものがドイツ国民に提供されたために、戦争が長引いても国民のヒトラーへの忠誠心は大きく揺らぎませんでしたし、それはホロコーストへの見て見ぬふりへもつながりました(21ー24p)。
しかし、ホロコースはやはり異常な事態であり、ユダヤ人を救おうとした人々もいました。ドイツ国内に潜伏したユダヤ人はおよそ1万5千人。彼らのかなりの多くは意外なことに首都のベルリンに潜伏しました。これはベルリンで強制移送が始まったのが他の都市よりも遅かったことと、何よりもベルリンが大都市で匿名で隠れ潜むのに適していたからです(34ー35p)。

この本の第2章では、そうしたユダヤ人たちを危険を犯して匿った《ローテ・カペレ》、《エミールおじさん》といったグループや教会の活動などが紹介されています。
また、学生として反ナチ運動を展開した《白バラ》グループも、こうしたグループとの繋がりなどを含めて紹介されています。
彼らの多くは知識人でしたが、敬虔なキリスト教徒の立場から信念を持って反ナチの運動を行う者もいました。
第3章でとり上げられる、たった一人でヒトラー暗殺を企てたゲオルグ・エルザーもそうした中の一人です。

1939年11月8日、ヒトラーが演説を行ったミュンヘンの大規模なビアホール「ビュルガーブロイケラー」で爆発が起こりますが、予定より30分ほど早く演説を切り上げたヒトラーは難を逃れます。予定通りであればここでヒトラーは死んでいたかもしれません。
この暗殺計画を一人で計画し実行したのが、ゲオルグ・エルザーでした。国民学校を卒業し家具職人などをしていたルザーは、「ドイツ政府は現在の教会つまりキリスト教を廃棄」(107p)しようとしていると考え、戦争に突き進むドイツを止めるにはヒトラー、ゲーリング、ゲッペルスの三人を排除しなければならないとして、単独で計画を練ったのです。
彼は「ビュルガーブロイケラー」の常連となり、物置に潜んで閉店後、店が施錠されてから早朝まで30から35回ほど作業をして爆弾を縁談の背後の石柱に仕掛けました(110ー111p)。信じられないような意志の強さをもって、ナチを打倒しようとした市民もいるのです。

一方、国防軍の反ヒトラー派は1938年のヒトラーのズデーテン地方の割譲要求のときに、このままでは戦争になるとクーデター計画を練りますが、結局、戦争が回避されたことによって計画はたち消えになってしまいます。
政治への介入はしないという伝統と、ヒトラーが軍にとって宿願の再軍備を実現させたということから、軍は反ナチでまとまることはなかったのです。

しかし、独ソ戦がはじまり戦争の行方が不透明になると軍の中からも反ナチの動きが出てきます。
北アフリカ戦線で右手首上部と左手の小指と薬指、そして左目を失ったシュタウフェンベルクは、不屈の精神力で軍務に復帰すると、一般軍務局参謀長に就任し、クーデター計画を練り始めます。
これには、以前から反ナチの活動を行っていた、モルトケ(プロイセンの参謀総長だった大モルトケの一族の末裔)の《クライザウ・サークル》も加わり、ヒトラー亡き後のドイツのビジョンなども討議されました。

失敗に終わった計画(7月20日事件)を知っている立場からすると、暫定政府や新生ドイツのビジョンなどを話し合うよりも、とりあえずヒトラー暗殺にすべてをかけるべきではなかったか、とも思いますが、この本を読むと、「第一次世界大戦においてドイツは国内の反乱によって敗北した」という認識がトラウマのように残っていたことがわかります。
彼らは、自分たちのクーデターによってドイツが戦争に負ける(秩序だった降伏ができなくなる)ということをなんとしても避けたかったのです。

この本では、さらに7月20日事件が失敗に終わって以降の《クライザウ・サークル》のメンバーの運命や、残された家族の運命といったものも追っています。
さらに戦後、反ナチ運動が再評価されるまでにいかに時間がかかったかということもだ第5章で詳述されており、非常に興味深いです。
反ナチ運動には、「裏切り」のイメージがつきまとい、また、かなりの数のナチ党員が司法の場などに残ったこともあって、反ナチが表立って評価されるにはかなりの時間がかかったのです。
この本には1951年6月から52年12月に行われた全国世論調査を紹介していますが、その中に7月20日事件について聞いた質問の中に「戦時下に抵抗すべきであったか、戦後まで待つべきであったか」という設問があります。これに対する答えは「抵抗すべきである」20%、「待つべきである」34%、「どちらにせよ抵抗すべきでない」15%、「わからない」31%で、多数は「待つべきである」となっています(229p)。
この本は、そうした「共同体を裏切る行為」の難しさと、それにもかかわらず行動した人々の勇気を教えてくれる本になっています。

ヒトラーに抵抗した人々 - 反ナチ市民の勇気とは何か (中公新書)
對馬 達雄
4121023498
副題は「興安軍官学校の知られざる戦い」。けれども、「モンゴル独立を目指したジョンジョールジャブの生涯」といった副題のほうが内容を表しているといえるでしょう。
満州国の成立を機に、内蒙古のモンゴル人たちは日本の支援によって中国からの独立を夢見ますが、日本にとってモンゴル人は日本の勢力拡大のため協力すべき存在にすぎませんでした。
そんなモンゴル人の日本への期待と幻滅、そして中華人民共和国の成立によってさらに民族の誇りを奪われてしまったモンゴル人の悲劇を描いた本です。

著者は中国内の南モンゴルに生まれ、北京で日本語を学び、1989年に来日して以来、日本で暮らしている人物で、文化大革命におけるモンゴル人の虐殺を描いた『墓標なき草原』で司馬遼太郎賞を受賞しています。
非常にモンゴル民族への思い入れが深く、今の中国政府にも反感を持っているのですが、そういった思い入れの深さが、歴史的事実をわかりにくくしている面があると思います。

目次は以下のとおり。
序章 軍人民族主義者とは何か
第1章 騎兵の先駆と可愛い民族主義者
第2章 民族の青春と興安軍官学校
第3章 植民地内の民族主義者集団
第4章 興安軍官学校生たちのノモンハン
第5章 「チンギス・ハーン」のモンゴル軍幼年学校
第6章 「草原の二・二六事件」と興安軍官学校の潰滅
終章 「満蒙」残夢と興安軍官学校生の生き方

19世紀末から中国人(漢民族)によるモンゴル高原への入植が始まりますが、これは遊牧を行なうモンゴル人たちのとっては死活的な問題でした。植生が貧弱なモンゴル高原は一度開墾されるとすぐさま沙漠化してしまい、遊牧もできなくなってしまうからです。
そんな中で、当時、満蒙に進出してきた日本と手を組んで中国製力を駆逐しようとしたのが本書の主人公・ジョンジョールジャブの父バボージャブでした。
1916年、袁世凱政権からモンゴルの地を取り戻すべくバボージャブは日本の支援を得て兵を挙げますが、あえなく戦死。その夢は子どもたちに引き継がれます。ちなみに「男装の麗人」と言われた川島芳子の夫がバボージャブの子でジョンジョールジャブの兄に当たるガンジョールジャブです。

ジョンジョールジャブは中学から日本に渡り、日本のアジア主義者などと交流し、「可愛い民族運動の主唱者」という肩書で新聞にも紹介されたりしています(36p)。
その後、ジョンジョールジャブは陸軍士官学校に入り、東條英機、松井石根らの面識を得ます。このように、日本でもてはやされたジョンジョールジャブでしたが、一方で、陸士では彼が一番憎いんでいた中国人と一緒に「中華隊」に編入されるなど、モンゴル人としての立場をたびたび軽視されることになります。

この、持ち上げられつつもあくまでも日本人の都合でしか扱われないというのは、ジョンジョールジャブだけではなく、この後のモンゴル人全体にも共通したものでした。
1932年に満州国が建国されると、モンゴル人たちは自分たちも独立へと燃え上がりますが、日本が認めようとしたのはあくまでも自治でした。また、すでに外蒙古には社会主義国のモンゴル人民共和国が成立しており、日本のモンゴル人への肩入れは、モンゴルの「赤化」防止のためでもありました。
そうした中で1934年にモンゴル人を軍人として教育するためにつくられたのが興安軍官学校です。

興安軍官学校は、独立を夢見るモンゴル人たちの期待を集めますが、1936年に興安北省省長でモンゴル人の有力者だった凌陞(りょうしょう)が関東軍の憲兵隊によってソ連と通じた罪で処刑され、ノモンハン事件が起こると、モンゴル人の心は日本から離れていきます。

ノモンハンではモンゴル人を含む興安軍が編成され戦いに動員されますが、ソ連側にもモンゴル人が動員されており、いわばモンゴル人が日本とソ連の代理戦争に動員されている形でした。
こうした状況に嫌気が差したモンゴル人部隊からは逃亡する者も続出し、また、日本人のモンゴル人に対する偏見がますますモンゴル人たちの士気をそいでいきました。

結局、その後もモンゴル人たちの民族自決の夢は日本の勢力範囲内での「自治」という形に矮小化され、ジョンジョールジャブの不満は終戦直前に爆発します。
ソ連の侵攻を知ったジョンジョールジャブは、8月11日に日系将校を殺して、日本軍の裏切ります。モンゴル人の想いを裏切り続けてきた日本軍を最後に裏切ったのです。
著者は、このジョンジョールジャブの蜂起を二・二六事件と重ねていますが、まあ、これはどうなんでしょう。

ただ、この後成立した共産党政権のもと、モンゴルの軍人たちは1958年にチベットに派遣されて弾圧を行ったあと、文化大革命が始まると粛清されていきます。
このなんともやるせない運命が興安軍官学校をはじめとする日本の記憶を美化している面もあって、著者もその狭間の中で揺れ動いています。

ですから、正直なところ読みやすい本ではないと思います。内容もジョンジョールジャブ中心なのか興安軍官学校中心なのかぶれている点がありますし、時系列も整理されているとは言い難い面があります。
けれども、そうした揺れ動く記述を通して、大国に翻弄される民族の悲劇が伝わってくるのは確かです。

日本陸軍とモンゴル - 興安軍官学校の知られざる戦い (中公新書)
楊 海英
412102348X
来年の大河ドラマが真田幸村(信繁、この本では信繁の名が正しく幸村という名は江戸時代の創作であるとしている)を主人公にした『真田丸』ということで、真田氏関係の本が続々と登場する(した)と思いますが、これはその中でおそらくレベルの高い本。
戦国大名を研究する気鋭の学者が、しっかりとした歴史学の方法のもと史料を読み解きながら、真田家と真田家を取り巻く状況を丹念に、そして戦国時代の構造を大胆に描いて見せています。
特に戦国好きが高じて史学科に行きたいと考えている高校生などがいたら、ぜひこの本を読むといいと思います。歴史学者がどのように歴史にアプローチしているのかがわかるような内容にもなっています。

目次は以下のとおり。
一章 真田幸綱 真田家を再興させた智将
二章 真田信綱 長篠の戦いに散った悲劇の将
三章 真田昌幸 柔軟な発想と決断力で生きのびた「表裏比興者」
四章 真田信繁 戦国史上最高の伝説となった「日本一の兵」
五章 真田信之 松代一〇万石の礎を固めた藩祖

このように真田信繁(幸村)だけにスポットライトを当てた本ではなく、信濃の国衆から武田家の家臣、そして大名として独立し、江戸時代に松代藩の領主となった真田氏の歴史をたどるものとなっています。
タイトルの「真田四代」というのが、幸綱、信綱、昌幸、信之で、それに大阪の陣でその名を馳せた信繁を加える形です。

まず、史料を使いながら歴史を丹念に読み解いてる部分ですが、例えば、この本では真田昌幸の正室・山之手殿の出自を5ページ近く使って分析しています(84ー89p)。
いかにもつまらなそうな部分に思えるかもしれませんが、著者は現在伝えられている6つの説をさまざまな史料やその整合性を考えながら分析していきます。多くの本では、このあたりは比較的あっさりと「〜の説の可能性が高い」と片付けてしまうところですが、この本ではその検討の過程をしっかりと見せてくれているので、歴史学者というものがいかにものを考えているかも見えてきます。

さらにこの本では、こうした史料の丹念な検討によって戦国時代の大きな動きも見せてくれます。
武田家の滅亡というと、長篠の戦いで武田勝頼が織田信長の鉄砲の前に打ち破られ有能な家臣を数多く失ったことから必然的に起こったことと思われがちですが、武田家の滅亡を決定づけたのは長篠の戦いではありません。
武田勝頼は同盟を破棄した北条氏との戦いでは優位に立っており、長篠の戦いの後に急速に力が衰えたわけではありません。勝頼の凋落を決定づけたのは「高天神崩れ」でした。

勝頼は遠江の高天神城に旧今川家の岡部元信を据え、各国から兵士を集めて防備を固めていましたが、北条氏との戦いに集中するあまり、徳川家康によって包囲された高天神城に援軍を送れないでいました。
岡部元信は家康に降伏を申し入れますが、相談を受けた織田信長は降伏を拒否するように指示し、「勝頼は高天神城を見殺しにした」という形をつくろうとします。
結局、降伏を拒否された高天神城勢は家康軍に突撃し壊滅。高天神城には甲斐や信濃、上野といった武田家の全領国から将兵が派遣されたいたため、武田家の軍事的信用は一気に崩壊することになります(102ー106p)。

この他にも本能寺の変後の信濃・上野・甲斐といった国々での勢力争い、その中での昌幸の立ち回り、豊臣政権下での信繁の地位、真田丸の実態などを、史料の丹念な検討によって浮かび上がらせています。

さらに、真田氏の動きを追うと同時に、同時代のさまざまなしくみについて鋭く言及しているのもこの本の面白さの一つです。
戦国時代から織豊政権、そして江戸時代にかけては「兵農分離」が行われた時代として認識されています。特に、信長・秀吉の「先進性」を示すものとして、「兵農分離」の推進といったことが言われることが多いです。
これに対し、黒田基樹は『戦国大名』(平凡社新書)の中で、信長・秀吉による「兵農分離」を否定してましたが、この本の著者も、信長・秀吉が「兵農分離」政策をとったということを否定した上で次のように述べています。
実際に兵農分離が成し遂げられるのは、戦乱の時代が終結を迎え、村落から雇っていた「傭兵」を解雇した結果に過ぎない。戦国大名と信長・秀吉は、家臣の城下町集住を志向するが、これは兵農分離を目指したためではなく、いわば勤務先に住まいを持たせ、かつ妻子を人質に取ろうと考えたためである。そして、江戸幕府が確立した結果、「非正規雇用」であった村落の「傭兵」は解雇され、「正規雇用」である武士が勤務先である城下町に集住することになった。つまり兵農分離とは、政策ではなく、平和の達成に伴う結果論と評価できる。(181ー182p)

個人的にこれは非常に腑に落ちる説明でした。「兵農分離」という現象自体を否定するわけではないが、「兵農分離」という政策は否定する、非常にわかりやすい説明だと思います。

これ以外にも、戦国大名や豊臣政権における「取次」の説明も興味深かったですし、大谷吉継についての記述なども新鮮で、真田家にまつわる部分以外のところも勉強になりました。
もうちょっと真田信繁に焦点を当ててほしいと感じる人もいるかとは思いますが、真田氏を描くことを通じて、戦国から元和偃武までの政治・軍事の見取り図を描くことにも成功している非常に面白い本だと思います。


真田四代と信繁 (平凡社新書)
丸島和洋
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政務費の不正使用(&号泣会見)、セクハラやじなどの問題が噴出し、地方議会への目が厳しくなっているだけではなく、安全保障法制をめぐる反対運動では「国会よりも路上に民意がある」といったことが言われなど、議会という存在自体に厳しい目が向けられている中で、その議会の意義を歴史や制度の面から探り、擁護しようとした本。
著者の待鳥聡史は『首相政治の制度分析』でサントリー学芸賞を受賞し、今年も『政党システムと政党組織』といった著作を送り出している政治学者。今作でも非常に密度の濃い議論がなされています。ただ、この密度の濃さは、正直なところ新書のレベルのものではなく、「入門書」だと思って読むと、骨が折れるかもしれません。

目次は以下のとおり。
序章 代議制民主主義への疑問―議会なんて要らない?
第1章 歴史から読み解く―自由主義と民主主義の両輪
第2章 課題から読み解く―危機の実態と変革の模索
第3章 制度から読み解く―その構造と四類型
第4章 将来を読み解く―改革のゆくえ
終章 代議制民主主義の存在意義―バランスの視点から

この本での代議制民主主義を分析するポイントは、「委任と責任の連鎖」と「民主主義的要素と自由主義的要素の結合」の2つになります。

まず、「委任と責任の連鎖」について。
代議制民主主義において、有権者は政治家に政治的決定を委任し、政治家が官僚に政策の実施を委任します。有権者は常に政治家に関わってるわけには行きませんし、大勢で政治的問題について話し合うのは時に非効率です。同じように政治家が一つ一つの政策の実施までを請け負うのも非効率です。ですから、有権者は政治家に、政治家は官僚にその権限を委任します。つまり「委任の連鎖」が存在するのです。
しかし、委任されたからといって好き勝手にできるわけではありません。政治家は有権者に、官僚は政治家にそれぞれ説明責任(アカウンタビリティ)を負います。ですから、ここには委任の連鎖とは逆向きの「責任の連鎖」が存在します。
この「委任と責任の連鎖」こそが、代議制民主主義の必要条件なのです(12ー13p)。

次に「民主主義的要素と自由主義的要素の結合」について。
ここはもともとアメリカ政治を研究していた著者らしい整理ですが、アメリカの政治制度には民主主義的要素だけではなく、「政治に関与するエリート間の競争を通じた相互抑制」(32p)を重視する「マディソン的自由主義」の要素があったといいます。
むき出しの民主主義を嫌ったマディソンをはじめとするアメリカ建国の父たちは、政治的権力を議会に集中させるのではなく、三権分立と選出方法の違う上下両院などのしくみによって、「多数者の専制」に抵抗しようとしたのです。

このようなアメリカの経験を経て、20世紀になるとヨーロッパや日本でも君主の権力が弱められ、参政権が拡大していくことになります。こうして成立した代議制民主主義について著者は次のように述べています。
このような変化は、廃止を含めて君主の権限を弱め、代わって政治に関与しようとするエリート間の競争の場として議会に大きな政治的影響力を与えるという自由主義的要素と、議会選挙の有権者資格を拡大し、議会を社会構成員の代表者として機能させるという民主主義的要素の、理念と制度の両面における結合であった。こうして議会は民主主義と結びつき、代議制民主主義が成立したのである。(54p)

こうした基本的な視座をもとにして、第1章と第2章では代議制民主主義の成立と展開を述べていくわけですが、やはり面白いのは第3章以降の議論でしょう。

代議制民主主義において、「委任と責任の連鎖」こそがポイントだと著者は言いますが、その委任において、政治家などのアクターにどの程度裁量が認められるかは制度によって違います。
例えば、議院内閣制の場合、有権者→議会→首相→大臣→官僚という単線的な「委任と責任の連鎖」になりますが、大統領制の場合、有権者は大統領と議会の双方に委任を行い、また官僚は大統領と議会に説明責任を負います。
このため、大統領制のほうが権力は分立することになり、代議制民主主義における「自由主義的要素」が強まります。

また、選挙制度は「民主主義的要素と自由主義的要素のバランス」に大きな影響を与えます。
比例代表制の場合、有権者の意見の分布がそのまま議席に反映されるので、有権者を代表するという「民主主義的要素」が強まります。一方、小選挙区制では有権者の意見はかなりデフォルメされた形で反映されるため、政治家の裁量が高まり「自由主義的要素」が強まることになります。

つまり、制度的に言えば、大統領制で選挙制度が小選挙区制となると「自由主義的要素」がもっとも強まり、議院内閣制で選挙制度が比例代表制となると「民主主義的要素」がもっとも強くなるのです(この本では他にも半大統領制についても踏み込んだ分析をしています)。

しかし、制度をつくればその制度の目論見通りに政治が動くとは限りません。例えば、ラテンアメリカの国々は大統領制と比例制の議会という組み合わせで本来ならばコンセンサスを重視する政治になるはずですが、代議制民主主義の自由主義的要素(大統領制)と民主主義的要素(比例制の議会)がぶつかるため、政府の運営が行き詰まりやすく、かえって大統領の独裁を招くこともあります(172ー173p)。

日本の政治においても、衆議院の小選挙区比例代表並立制の導入によって日本の政治は明確にレイプハルトのいう多数主義型へと変化しましたが、参議院や地方議会の選挙の改革は殆ど行われておらず、小政党が分立する一つ要因となっています。
著者はこのような「マルチレヴェルミックスがもたらす非一貫性の効果は、政治改革そのものへの否定的評価とも密接に関連していると思われる」(189p)と述べています。

さらに第4章では、こうした分析をもとに日本で起こっている事象に焦点を当てるのですが、ここは切れ味が鋭いです。
例えば、日本の政治に対して「決められない政治」と「決めすぎる政治」という正反対の批判の声があがっています。
日本の国会は参院の力が強い二院制で、本来、権力集中的な議院内閣制に権力分立の要素が混在しています。ですから、「ねじれ国会」になると「決められない政治」になりやすいです。
一方、与党が衆参で過半数を抑えれば政府提出の法案の成立は約束されたようなものなので国会審議は形骸化します。これは議院内閣制が本来的に持つ権力集中的な特徴」(194p)なのですが、国会ではすでに結論の出ているものに対して揚げ足取り的な質疑が行われることが多くなり、「決めすぎる政治」と「無駄な国会」のセット(195p)という印象が強くなってしまいます。

また、地方においては日本は大統領制的なシステムをとっています。ですから、首長と議会の間で権力が分立する形になるのですが、実際は首長が行政職員などを使って与党議員に対して事前に根回しをする議院内閣制的な議会運営がなされていて、議会の形骸化が目立っています。

他にも、「小選挙区で政治家が小粒になった」というよく聞く嘆きの声に対しては、中選挙区制では当選のボーダーラインが低いため、「「気骨のある一言居士」とは、結局のところ独自公約を掲げ、それを実現できなかったのにもかかわらず、有権者から制裁されなかったというだけに過ぎない」(199p)と斬っています。

この徹底的に制度に寄り添った分析は面白く読み応えがあります。
ニュースなどで政治家の問題発言などが話題になると、すぐに「政治家の質」に目が言って、「政治家に最低限の知識をチェックする試験を!」みたいな話になりやすいのですが、まずは自分たちがどのような制度のもとで政治家を選んでいるかを改めて認識してみることが重要でしょう。
そうした点からも、この本は今一度政治を考え直すきっかけと視点を与えてくれる非常に良い本だと思います。

ただ、最初にも書いたように政治学の本に馴染みのない人には、やや難しく感じるかもしれません。政治学の本を読んだことがないという人には、政治に対して著者と比較的似た捉え方をしている砂原庸介『民主主義の条件』を読んでからこの本を読んでもいいかもしれません。

代議制民主主義 - 「民意」と「政治家」を問い直す (中公新書)
待鳥 聡史
4121023471


民主主義の条件
砂原 庸介
4492212205
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名前:山下ゆ
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