2012年04月
この手の日本の加害責任について書かれた本では、「左」の人がその中でも特に悲惨な目にあった人々の証言を用いて日本の国家と国民の加害者としての責任を告発し、一方で「右」の人々はうまくいったいくつかのケースを出してきて「そんな悲惨な例だけではない」と否定する展開になりがちです。
しかし、この本はそのどちらでもなアプローチになっています。
著者は、朝鮮人の強制連行について、日本の残した公文書を中心にその実態を丹念に追い、そこに日本の植民地支配と戦前・戦中の日本社会の矛盾を見出しています。
例えば、朝鮮人の強制連行を否定する議論として用いられるものに、朝鮮人の日本への「密航」の存在があります(著者が46pで指摘するように日本帝国臣民である朝鮮の人びとが日本に来ることを「密航」とするのは本来ならばおかしい)。
「朝鮮から日本に「密航」した人びとが大勢いたのに、朝鮮人を強制的に連行したというのはおかしいのではないか?」「だから強制連行は実はほとんどなかったのだ」という議論です。
実際、この「密航」は存在しました。「密航」で摘発された朝鮮人の数は1940年で5885人、また規制が強化されたにも関わらず動員計画に基づかない朝鮮人の「縁故渡航」は3万人以上にのぼります(76p)。
確かに、自発的に日本で働こうという朝鮮人は存在したのです。
しかし、同時に朝鮮では地方組織や警察などを通じて日本で働くための労働者が集められています。
これは同じ日本で働くといっても働く場所や条件が違うからです。朝鮮人労働者を希望したのは炭鉱の経営者などであり、その理由は劣悪な労働条件でも働いてくれる人材を調達するためでした。
確かに朝鮮人にとって当時の日本の重化学工場などで魅力的なことでしたが、炭鉱となるとそうでもありません。日本の炭鉱は「監獄部屋」とも呼ばれる特殊な親方制度のもとに運営されている前近代的な職場で、日本の中でもかなり劣悪な職場であったからです。
本来ならば機械化や待遇改善によってその労働条件を引き上げるべきだった炭鉱経営者は、使い勝手の良い人材として朝鮮人労働者に目をつけます。けれども、当然ながら朝鮮人も日本に来れば炭鉱の条件の悪さや他によい職場があることを知ることになります。実際、朝鮮人労働者が炭鉱から「逃亡」する例は跡を絶たなかったようです(63p)。
そこで、朝鮮人労働者は「逃亡」防止のために厳しい管理下のもとに置かれ、日本人の一般労働者とはわけて管理されることになります。
最初の動員が強制ではないとしても、その内容は「強制労働」に近くなってくるのです。ちなみに当初は朝鮮総督府も炭鉱での待遇から朝鮮人の内地移送へ難色を示しています。
一方、朝鮮人の強制連行について、日本人に対しても「徴用」があったとして、「強制連行」を特別なものではないとする見方もあります。
確かに、戦局が悪化するに連れて数多くの日本人が徴用され、さまざなま仕事に強制的に従事されれました。
しかし、朝鮮においては行政機関の貧弱さから法的手続きに従って徴用を行うことが困難だったこと、炭鉱が陸海軍の雇用や軍需工場などのように基本的に徴用の配置先ではなかったこと、炭鉱が徴用によって動員された人びとを迎えるにふさわしい環境ではなかったこと、徴用によって動員された者の残された家族には国がその生活の面倒を見る必要があったことなどから(146ー148)、朝鮮での徴用はなかなか進みませんでした。
このことについて著者は次のように述べています。
当初、2年間の予定で連れてこられた朝鮮人労働者の契約は日本側の都合で延長され(155p)、要員確保は困難になっていきます。朝鮮では「寝込みを襲ひ或は田畑に稼働中の者を有無を言はさず連行する等相当無理なる方法を講し」、徴用令の令状を交付して輸送しています(178p)。
また残された家族への援護策も行政のインフラの不備などもあってうまく機能しませんでした。
一方、著者は炭鉱に朝鮮人が連れてこられる一方で、戦争末期の日本の炭鉱労働者の70%弱が日本人であったことを指摘し(238p)、「むしろ、朝鮮人の存在によって日本人民衆に対する抑圧もまた続けられていたと見ることが可能である」(237p)と述べています。
朝鮮人という安い労働力が使えるという認識のものと炭鉱での待遇改善が先延ばしにされた側面もあるのです。
このように、この本では朝鮮人の強制連行におけるさまざまな問題点を指摘しているのですが、この本を読んで思い起こされるのが、今日本で働いている外国人研修生の存在です。
外国人研修生の実態については安田浩一『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』で紹介されていますが、ここでは朝鮮人の強制連行と全く同じ問題が繰り返されています。
この外国人研修生は、表向きは日本の優れた技能を外国人に教えるという制度ですが、実質は生産性が低く日本人を雇う余裕のない地場産業や農家が安い労働力を得るための手段となっています。基本給5万円で、そのうち3万5千円は強制貯蓄、残業代は1時間300円など、最低賃金をはるかに下回る待遇で働かされているケースが数多くあります。
日本にやってきた外国人はその低い待遇を嫌って「逃亡」し、それを防ぐために経営者がパスポートを取り上げたりしていることもあるそうです。これも朝鮮人の強制連行とまったく同じ図式ですね。
このように、この本は朝鮮人の強制連行についてだけではなく、日本社会の矛盾や現在まで続く問題点を知ることの出来る本です。岩波新書でこのテーマなのでやや様子見をしていたのですが、非常に良い本だと思います。
朝鮮人強制連行 (岩波新書)
外村 大
4004313589
しかし、この本はそのどちらでもなアプローチになっています。
著者は、朝鮮人の強制連行について、日本の残した公文書を中心にその実態を丹念に追い、そこに日本の植民地支配と戦前・戦中の日本社会の矛盾を見出しています。
例えば、朝鮮人の強制連行を否定する議論として用いられるものに、朝鮮人の日本への「密航」の存在があります(著者が46pで指摘するように日本帝国臣民である朝鮮の人びとが日本に来ることを「密航」とするのは本来ならばおかしい)。
「朝鮮から日本に「密航」した人びとが大勢いたのに、朝鮮人を強制的に連行したというのはおかしいのではないか?」「だから強制連行は実はほとんどなかったのだ」という議論です。
実際、この「密航」は存在しました。「密航」で摘発された朝鮮人の数は1940年で5885人、また規制が強化されたにも関わらず動員計画に基づかない朝鮮人の「縁故渡航」は3万人以上にのぼります(76p)。
確かに、自発的に日本で働こうという朝鮮人は存在したのです。
しかし、同時に朝鮮では地方組織や警察などを通じて日本で働くための労働者が集められています。
これは同じ日本で働くといっても働く場所や条件が違うからです。朝鮮人労働者を希望したのは炭鉱の経営者などであり、その理由は劣悪な労働条件でも働いてくれる人材を調達するためでした。
確かに朝鮮人にとって当時の日本の重化学工場などで魅力的なことでしたが、炭鉱となるとそうでもありません。日本の炭鉱は「監獄部屋」とも呼ばれる特殊な親方制度のもとに運営されている前近代的な職場で、日本の中でもかなり劣悪な職場であったからです。
本来ならば機械化や待遇改善によってその労働条件を引き上げるべきだった炭鉱経営者は、使い勝手の良い人材として朝鮮人労働者に目をつけます。けれども、当然ながら朝鮮人も日本に来れば炭鉱の条件の悪さや他によい職場があることを知ることになります。実際、朝鮮人労働者が炭鉱から「逃亡」する例は跡を絶たなかったようです(63p)。
そこで、朝鮮人労働者は「逃亡」防止のために厳しい管理下のもとに置かれ、日本人の一般労働者とはわけて管理されることになります。
最初の動員が強制ではないとしても、その内容は「強制労働」に近くなってくるのです。ちなみに当初は朝鮮総督府も炭鉱での待遇から朝鮮人の内地移送へ難色を示しています。
一方、朝鮮人の強制連行について、日本人に対しても「徴用」があったとして、「強制連行」を特別なものではないとする見方もあります。
確かに、戦局が悪化するに連れて数多くの日本人が徴用され、さまざなま仕事に強制的に従事されれました。
しかし、朝鮮においては行政機関の貧弱さから法的手続きに従って徴用を行うことが困難だったこと、炭鉱が陸海軍の雇用や軍需工場などのように基本的に徴用の配置先ではなかったこと、炭鉱が徴用によって動員された人びとを迎えるにふさわしい環境ではなかったこと、徴用によって動員された者の残された家族には国がその生活の面倒を見る必要があったことなどから(146ー148)、朝鮮での徴用はなかなか進みませんでした。
このことについて著者は次のように述べています。
朝鮮において国民徴用令がこの時点まで発動されなかったことは"より寛大な方法"での動員が続いていたことを意味するわけではない上に(すでに見たように要員確保の実態は日本内地での徴用よりも厳しいものであった)、国家による名誉、生活の援助からの除外をもたらしていた。この時点の朝鮮人の被動員者は、いわば"徴用されない差別"を受けていたのである。(149p)そして、こうした矛盾は戦局が悪化していくに連れてますます拡大します。
当初、2年間の予定で連れてこられた朝鮮人労働者の契約は日本側の都合で延長され(155p)、要員確保は困難になっていきます。朝鮮では「寝込みを襲ひ或は田畑に稼働中の者を有無を言はさず連行する等相当無理なる方法を講し」、徴用令の令状を交付して輸送しています(178p)。
また残された家族への援護策も行政のインフラの不備などもあってうまく機能しませんでした。
一方、著者は炭鉱に朝鮮人が連れてこられる一方で、戦争末期の日本の炭鉱労働者の70%弱が日本人であったことを指摘し(238p)、「むしろ、朝鮮人の存在によって日本人民衆に対する抑圧もまた続けられていたと見ることが可能である」(237p)と述べています。
朝鮮人という安い労働力が使えるという認識のものと炭鉱での待遇改善が先延ばしにされた側面もあるのです。
このように、この本では朝鮮人の強制連行におけるさまざまな問題点を指摘しているのですが、この本を読んで思い起こされるのが、今日本で働いている外国人研修生の存在です。
外国人研修生の実態については安田浩一『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』で紹介されていますが、ここでは朝鮮人の強制連行と全く同じ問題が繰り返されています。
この外国人研修生は、表向きは日本の優れた技能を外国人に教えるという制度ですが、実質は生産性が低く日本人を雇う余裕のない地場産業や農家が安い労働力を得るための手段となっています。基本給5万円で、そのうち3万5千円は強制貯蓄、残業代は1時間300円など、最低賃金をはるかに下回る待遇で働かされているケースが数多くあります。
日本にやってきた外国人はその低い待遇を嫌って「逃亡」し、それを防ぐために経営者がパスポートを取り上げたりしていることもあるそうです。これも朝鮮人の強制連行とまったく同じ図式ですね。
このように、この本は朝鮮人の強制連行についてだけではなく、日本社会の矛盾や現在まで続く問題点を知ることの出来る本です。岩波新書でこのテーマなのでやや様子見をしていたのですが、非常に良い本だと思います。
朝鮮人強制連行 (岩波新書)
外村 大
4004313589
- 2012年04月30日23:18
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フリージャーナリスト・評論家の佐藤幹夫が精神科医の滝川一廣にインタビューした本で、『「こころ」はどこで壊れるか』、『「こころ」はだれが壊すのか』につづく第三弾ということになります。
滝川一廣にはこの他にも『「こころ」の本質とは何か』とは何かという本があって、これは非常に面白くオススメです。
今回の本のサブタイトルは「発達障害を考える」。
養護学校で教員を務めていたこともある佐藤幹夫が、子どもの発達や発達障害の人間が関わったとされる浅草のレッサーパンダの防止をかぶった男による殺人事件、大阪の寝屋川事件などを軸について、滝川一廣にさまざまな話を聞いています。
ただ、それ以外の話が多すぎるのがこの本の欠点。
この本は第一章「依存と発達」、第二章「「親」であることの意味と責任」、第三章「「こころ」はどこで育つのか」、第四章「「性」の発達をどう考えるか」、第五章「育つことと育てられること─中井久夫の姿勢から学んだこと」、終章「3・11を体験して」という6つの章で構成されているのですが、発達障害の話がメインテーマになっているのは第三章と第四章のみ。他は社会時評的な性格が強いです。
例えば、第一章もタイトルは「依存と発達」ですが、いわゆる「自己責任論」を論じている部分が多く、「発達」についてはそれほど深く論じられてはいません。また、終章の「3・11を体験して」も震災後の本ということでこういうのを入れたいというのはわかりますが、「この二人で原発事故について論じても...」という部分はあります。
基本的に佐藤幹夫が滝川一廣にテーマを振る形で本が進行していくので、こうしたテーマの選択には佐藤幹夫の影響が出ているのだと思いますが、個人的にはあまりしっくり来ませんでした。
ただ、滝川一廣のコメントにはやはり光るものがあります。
佐藤幹夫は自らの取材ている軽度の知的障害の人のための成人施設「かりいほ」を紹介し、そのうまくいっている点として、「自然の中での生活」「施設長の父性」「利用者同士の自治」といったことをあげます。それに対して滝川一廣は「往年の戸塚ヨットスクールもそうだったかもしれません」(35ー36p)とコメントしています。さらりとですが「大自然」+「父性」のある種の危うさを指摘しているのはさすがだと思いました。
また、発達を「認識」と「関係」の2つの軸で捉えた発達論も、『「こころ」の本質とは何か』でも触れられているところですが、図にまとまっているぶん、こちらのほうがわかりやすいかもしれません。
あと、最後に一点だけ指摘したいのですが、171pの中学生・高校生の初体験経験率の表の高1女子14.6%、高2女子26.4%、高3女子44.3%という数字を見て、佐藤幹夫は「合計すると「85.3」ですから」と述べていますが、これは累積の数字で足しちゃいけないものですよね。
「こころ」はどこで育つのか 発達障害を考える (洋泉社新書y)
滝川 一廣 佐藤 幹夫
4862489249
滝川一廣にはこの他にも『「こころ」の本質とは何か』とは何かという本があって、これは非常に面白くオススメです。
今回の本のサブタイトルは「発達障害を考える」。
養護学校で教員を務めていたこともある佐藤幹夫が、子どもの発達や発達障害の人間が関わったとされる浅草のレッサーパンダの防止をかぶった男による殺人事件、大阪の寝屋川事件などを軸について、滝川一廣にさまざまな話を聞いています。
ただ、それ以外の話が多すぎるのがこの本の欠点。
この本は第一章「依存と発達」、第二章「「親」であることの意味と責任」、第三章「「こころ」はどこで育つのか」、第四章「「性」の発達をどう考えるか」、第五章「育つことと育てられること─中井久夫の姿勢から学んだこと」、終章「3・11を体験して」という6つの章で構成されているのですが、発達障害の話がメインテーマになっているのは第三章と第四章のみ。他は社会時評的な性格が強いです。
例えば、第一章もタイトルは「依存と発達」ですが、いわゆる「自己責任論」を論じている部分が多く、「発達」についてはそれほど深く論じられてはいません。また、終章の「3・11を体験して」も震災後の本ということでこういうのを入れたいというのはわかりますが、「この二人で原発事故について論じても...」という部分はあります。
基本的に佐藤幹夫が滝川一廣にテーマを振る形で本が進行していくので、こうしたテーマの選択には佐藤幹夫の影響が出ているのだと思いますが、個人的にはあまりしっくり来ませんでした。
ただ、滝川一廣のコメントにはやはり光るものがあります。
佐藤幹夫は自らの取材ている軽度の知的障害の人のための成人施設「かりいほ」を紹介し、そのうまくいっている点として、「自然の中での生活」「施設長の父性」「利用者同士の自治」といったことをあげます。それに対して滝川一廣は「往年の戸塚ヨットスクールもそうだったかもしれません」(35ー36p)とコメントしています。さらりとですが「大自然」+「父性」のある種の危うさを指摘しているのはさすがだと思いました。
また、発達を「認識」と「関係」の2つの軸で捉えた発達論も、『「こころ」の本質とは何か』でも触れられているところですが、図にまとまっているぶん、こちらのほうがわかりやすいかもしれません。
あと、最後に一点だけ指摘したいのですが、171pの中学生・高校生の初体験経験率の表の高1女子14.6%、高2女子26.4%、高3女子44.3%という数字を見て、佐藤幹夫は「合計すると「85.3」ですから」と述べていますが、これは累積の数字で足しちゃいけないものですよね。
「こころ」はどこで育つのか 発達障害を考える (洋泉社新書y)
滝川 一廣 佐藤 幹夫
4862489249
- 2012年04月22日00:09
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副題は「「伝家の宝刀」をなぜ抜かないのか」。
64年間の歴史の中でわずか8件の最高裁の違憲判決。その詳細を最高裁の歩みとともに検討し、今後の最高裁のあり方を考えた本です。
著者は岩波新書から『名誉毀損』を出したこともある山田隆司。新聞記者でありながら、大学院に通い法学博士の学位を得た人物で、法学者の書いた本よりはずいぶんと一般の人にも読みやすいものになっています。
目次は以下の通り
歴代の最高裁長官の略歴や任期中の主な事件を紹介しつつ、それぞれの法廷が憲法に対してどのような判断を示していったかということが書かれています。
この叙述の仕方は、その時代ごとの最高裁の特徴がわかって面白いのですが、「違憲判決」に焦点を当てた本としては少ししっくりこないものがあります。
まず、最高裁で初めて違憲判決が出たのは1973年の「尊属殺人違憲判決」です。そして、その後1975年の「薬事法事件判決」、1976年の「議員定数訴訟違憲判決」と続きます。
最高裁発足後25年以上なかった違憲判決はこの短い期間に3つ立て続けに出ています。
もう一つのピークが、2002年の「郵便法事件違憲判決」、2005年の「在外選挙件事件違憲判決」、2008年の「国籍法事件違憲判決」と3つの違憲判決が相次いだ00年代です。
この2つのピークの間に、1985年の「議員定数訴訟違憲判決」、1987年の「森林法事件違憲判決」が挟まります。
確かに21世紀になってからの3件の違憲判決に関しては、最高裁の変化を窺わせるものがあります。
ここに時代の流れ、最高裁の変化を見て取ることは可能でしょう。
けれども、それ以前の時代に関しては、最高裁の変化と違憲判決があまりリンクしているようには思えない。
ですから、最高裁の変遷、違憲判決の分析、それぞれの記述は面白いのですが、そのつながりが弱いので全体的に少し間延びしている感じなのです。
(これは印象論ですが、70年代以降から違憲判決が出始める理由は、70年安保が終わって自衛隊や安保について最高裁が正面から判断を迫られるような可能性が減ったからではないでしょうか?)
ただ、個々の違憲判決、あるいは合憲判決についての分析はわかりやすいですし、それぞれの判決の理論構成についても解説されています。
また、最後の棟居快行氏へのインタビューは独特の見解が出ていて興味深かったです。
最高裁の違憲判決 「伝家の宝刀」をなぜ抜かないのか (光文社新書)
山田 隆司
433403666X
64年間の歴史の中でわずか8件の最高裁の違憲判決。その詳細を最高裁の歩みとともに検討し、今後の最高裁のあり方を考えた本です。
著者は岩波新書から『名誉毀損』を出したこともある山田隆司。新聞記者でありながら、大学院に通い法学博士の学位を得た人物で、法学者の書いた本よりはずいぶんと一般の人にも読みやすいものになっています。
目次は以下の通り
序章 違憲判決とは何かこれを見ればわかるように最高裁の判断の特徴を時代ごとに区切って分析しているのがこの本の特徴。
第1章 政治からの「逃避」1947〜1969----政治に踏み込まず、の"家訓"を宣言
第2章 北風と太陽 1969〜1982---- 「公人」に厳しく「私人」には優しく
第3章 審理方法に変化の兆し1982〜1997----「規制目的二分論」に疑問符?
第4章 「救済の府」の覚醒1997〜 ----人権保障の砦に
補章 「1票の格差」訴訟を追う
終章 岐路に立つ最高裁----国民に近づける3つの改革案
識者インタビュー
泉徳治・元最高裁裁判官
棟居快行・大阪大学教授
歴代の最高裁長官の略歴や任期中の主な事件を紹介しつつ、それぞれの法廷が憲法に対してどのような判断を示していったかということが書かれています。
この叙述の仕方は、その時代ごとの最高裁の特徴がわかって面白いのですが、「違憲判決」に焦点を当てた本としては少ししっくりこないものがあります。
まず、最高裁で初めて違憲判決が出たのは1973年の「尊属殺人違憲判決」です。そして、その後1975年の「薬事法事件判決」、1976年の「議員定数訴訟違憲判決」と続きます。
最高裁発足後25年以上なかった違憲判決はこの短い期間に3つ立て続けに出ています。
もう一つのピークが、2002年の「郵便法事件違憲判決」、2005年の「在外選挙件事件違憲判決」、2008年の「国籍法事件違憲判決」と3つの違憲判決が相次いだ00年代です。
この2つのピークの間に、1985年の「議員定数訴訟違憲判決」、1987年の「森林法事件違憲判決」が挟まります。
確かに21世紀になってからの3件の違憲判決に関しては、最高裁の変化を窺わせるものがあります。
ここに時代の流れ、最高裁の変化を見て取ることは可能でしょう。
けれども、それ以前の時代に関しては、最高裁の変化と違憲判決があまりリンクしているようには思えない。
ですから、最高裁の変遷、違憲判決の分析、それぞれの記述は面白いのですが、そのつながりが弱いので全体的に少し間延びしている感じなのです。
(これは印象論ですが、70年代以降から違憲判決が出始める理由は、70年安保が終わって自衛隊や安保について最高裁が正面から判断を迫られるような可能性が減ったからではないでしょうか?)
ただ、個々の違憲判決、あるいは合憲判決についての分析はわかりやすいですし、それぞれの判決の理論構成についても解説されています。
また、最後の棟居快行氏へのインタビューは独特の見解が出ていて興味深かったです。
最高裁の違憲判決 「伝家の宝刀」をなぜ抜かないのか (光文社新書)
山田 隆司
433403666X
- 2012年04月15日23:03
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日本人一人あたりの持つ物的資産は966万円。
津波による浸水地域の住んでいる人の数はおよそ50万人。
966万円に50万をかけるとその被害額はおよそ4.8兆円。津波意外の被害などを多めに見積もっても被害額は6兆円(なお、この本では原発事故に伴う損害はまずは東電が負担すべきものとして計算に入れていない)。
けれども政府の示す復興に必要な金額は19〜23兆円。
もし23兆円使うとしたら、被災者一人あたりに4600万円の復興費を書けることになります。
この試算と政府の復興計画がいかに無駄と欺瞞に満ちたものであるかということを示したのがこの本。
やや大雑把で乱暴な部分もある本ですが、震災復興における「合理的」な考えというものを鮮やかに示すと同時に、現在の復興計画の問題を鋭く突いている本です。
著者は復興に一人あたり4000万円以上かかる理由を、仮設住宅や高台移転、エコタウン造成など、必要以上にコストのかかるものばかりにお金を使おうとしているからだといいます。
例えば、仮設住宅は寒冷・豪雪地仕様だと撤去費用も含めて500万円かかるといいます。
2年で撤去する予定の仮設住宅に500万円かけるということは一家族あたり月に20万円以上の支援をしていることになります。
それならば月5万や10万の家賃補助をしたほうがいいし、家を建て替えたい人には仮設住宅に入らない代わりにこの500万円を住宅ローンの頭金と支給する方が合理的であろうというのが著者の主張です。
また、この本では震災復興の予算について分析していますが、その中には震災復興とは関係のないものが数多く紛れ込んでいます。
58pに2011年度第3次補正予算の東日本大震災関係費の一覧が掲示されていますが、その中には著者も指摘するように、「レアアースの安定供給確保」「林業の復興」「配合飼料価格安定」「海外展開を狙う中小企業の経営基盤強化」など震災とは関係のないメニューが並んでいます。
復興関連の公共事業に関しても、長い年月のかかるものが数多くあり、そうした事業は人びとを政治に依存させることにしかならないと、著者は斉藤淳の『自民党長期政権の政治経済学』を引用しながら述べています。
現在の形での復興では、補助金がなければやっていけない事業やゴーストタウンを生むだけだというのです。
確かに関東大震災においては、後藤新平を中心とする帝都復興院が大きな都市プロジェクトを掲げ、震災を機に都市改造がある程度成し遂げられましたが(ただ、本書の142pで指摘されているように後藤が復興院にいたのは3ヶ月ほどで、すべてを後藤の功績とすることに著者は疑問を持っています)、今回被災した三陸地域は、関東大震災の時の東京都は違ってこれから人口減少が見込まれる地域。
著者は新しい都市建設などの巨大プロジェクトよりも、個人財産の復活の援助こそがより早い、より効果的な手段だとしています。
この個人財産に対する「私有財産非保障」の原則は、林敏彦『大災害の経済学』でも問題視されたもので、これが今回の震災のような大災害の復興において逆に無駄を生んでいます。
著者はこの個人財産の復活への援助が、一面でモラルハザードを起こす可能性があることを認めつつも、それは補償の仕方によって解決可能だといいます。
そして、次のように述べています。
もちろん、ここで想定されている被災者はそれなりに行動の力のある人(ローンの頭金を出せば家の建て替えが出来る人など)で、高齢者が多い被災地では著者の考えるプランがうまくいくとは思えません。さらに日本人の土地へのこだわりというのも考慮に入れる必要があるでしょう。
ただ、それでも現在の復興政策の無駄に関しては的確に指摘していると思いますし、復興を考える上での一つの「合理的」な考えとして広く読まれるべき本だと思います。
震災復興 欺瞞の構図 (新潮新書)
原田 泰
410610461X
津波による浸水地域の住んでいる人の数はおよそ50万人。
966万円に50万をかけるとその被害額はおよそ4.8兆円。津波意外の被害などを多めに見積もっても被害額は6兆円(なお、この本では原発事故に伴う損害はまずは東電が負担すべきものとして計算に入れていない)。
けれども政府の示す復興に必要な金額は19〜23兆円。
もし23兆円使うとしたら、被災者一人あたりに4600万円の復興費を書けることになります。
この試算と政府の復興計画がいかに無駄と欺瞞に満ちたものであるかということを示したのがこの本。
やや大雑把で乱暴な部分もある本ですが、震災復興における「合理的」な考えというものを鮮やかに示すと同時に、現在の復興計画の問題を鋭く突いている本です。
著者は復興に一人あたり4000万円以上かかる理由を、仮設住宅や高台移転、エコタウン造成など、必要以上にコストのかかるものばかりにお金を使おうとしているからだといいます。
例えば、仮設住宅は寒冷・豪雪地仕様だと撤去費用も含めて500万円かかるといいます。
2年で撤去する予定の仮設住宅に500万円かけるということは一家族あたり月に20万円以上の支援をしていることになります。
それならば月5万や10万の家賃補助をしたほうがいいし、家を建て替えたい人には仮設住宅に入らない代わりにこの500万円を住宅ローンの頭金と支給する方が合理的であろうというのが著者の主張です。
また、この本では震災復興の予算について分析していますが、その中には震災復興とは関係のないものが数多く紛れ込んでいます。
58pに2011年度第3次補正予算の東日本大震災関係費の一覧が掲示されていますが、その中には著者も指摘するように、「レアアースの安定供給確保」「林業の復興」「配合飼料価格安定」「海外展開を狙う中小企業の経営基盤強化」など震災とは関係のないメニューが並んでいます。
復興関連の公共事業に関しても、長い年月のかかるものが数多くあり、そうした事業は人びとを政治に依存させることにしかならないと、著者は斉藤淳の『自民党長期政権の政治経済学』を引用しながら述べています。
現在の形での復興では、補助金がなければやっていけない事業やゴーストタウンを生むだけだというのです。
確かに関東大震災においては、後藤新平を中心とする帝都復興院が大きな都市プロジェクトを掲げ、震災を機に都市改造がある程度成し遂げられましたが(ただ、本書の142pで指摘されているように後藤が復興院にいたのは3ヶ月ほどで、すべてを後藤の功績とすることに著者は疑問を持っています)、今回被災した三陸地域は、関東大震災の時の東京都は違ってこれから人口減少が見込まれる地域。
著者は新しい都市建設などの巨大プロジェクトよりも、個人財産の復活の援助こそがより早い、より効果的な手段だとしています。
この個人財産に対する「私有財産非保障」の原則は、林敏彦『大災害の経済学』でも問題視されたもので、これが今回の震災のような大災害の復興において逆に無駄を生んでいます。
著者はこの個人財産の復活への援助が、一面でモラルハザードを起こす可能性があることを認めつつも、それは補償の仕方によって解決可能だといいます。
そして、次のように述べています。
個人財産の補償を始めれば際限なくなるという人もいる。しかし、現実には、それをしないことが際限のない復興費の拡大をもたらしている。私の案では、復興に必要な費用は4兆円である。個人財産の補償をせず、公共事業で復興を図ろうという案では19兆円から23兆円のコストがかかる。(115p)この他にも、震災後のデフレ対策の必要性やエコノミストの視点から見た原発問題についての分析もあり、200ページに満たないボリュームながら、なかなか中身の詰まった本だといえるでしょう。
もちろん、ここで想定されている被災者はそれなりに行動の力のある人(ローンの頭金を出せば家の建て替えが出来る人など)で、高齢者が多い被災地では著者の考えるプランがうまくいくとは思えません。さらに日本人の土地へのこだわりというのも考慮に入れる必要があるでしょう。
ただ、それでも現在の復興政策の無駄に関しては的確に指摘していると思いますし、復興を考える上での一つの「合理的」な考えとして広く読まれるべき本だと思います。
震災復興 欺瞞の構図 (新潮新書)
原田 泰
410610461X
- 2012年04月08日22:06
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1857(安政4年)から1937年(昭和12年)までの80年間の日本近代史の通史の本。
これだけの長い期間の歴史を一人の著者が書くというのは、最近ではなかなか考えられないことかもしれませんが、その難事業を坂野潤治は450ページほどの新書でやりきっています。
まず、この本では次のような時代区分を行い、それぞれに1章をあてています(カッコの中の時代名称は著者が「はじめに」の中で日本近代史で使われる一般的な名称として紹介しているものです。また、1937年以降の記述はこの本にはありませんが、「崩壊の時代」と名付けられています)。
この時代区分については、一見して日清戦争から第1次大戦までを含む「再編の時代」が長すぎるのではないか?といった疑問もあるかと思いますが、この本は基本的に国内政治史に焦点を当てて記述されていて、この時代区分は国内の政治体制の変遷に基づいた区分になっています。
ただ、もちろん国内の政治史であっても、この80年を網羅的に取り扱うことは不可能で、それぞれ著者がクローズアップした政治家や政治的な対立軸を中心に時代が描かれています。
第1章と第2章でクローズアップされるのは西郷隆盛です。
他の尊王攘夷の志士とは違い、西郷にはあらゆる改革勢力を糾合して幕政を刷新しようという「合従連衡」的な考えがあったと著者は言います。
また、西郷は勝海舟や横井小楠といった人物の考えも取り入れた上でそれを乗り越えた考えを持っていたとします。具体的には勝海舟や横井小楠が朝廷を中心とした有力大名たちによるに「上院」的なものを考えていたのに対し、西郷は諸藩の志士たちを集めた「下院」的なものも視野に入れていたというのです。
このあたりの役割は従来、坂本龍馬に与えられることが多かったのですが、この本で著者は明確に幕末期の中心人物に西郷隆盛を据えています。
第3章では坂野潤治+大野健一『明治維新 1858-1881』で打ち出された議論が少しかたちを変えて展開されています。
明治初期の政治を、たんに「富国強兵」の実現、あるいは「外征派」と「内治優先派」の争いとして描くのでなく、「富国」(大久保利通)、「強兵」(西郷隆盛)、「輿論」(板垣退助)、「公義」(木戸孝允)の4つのグループの争いとして分析しています。
このうち「富国」は殖産興業、「輿論」は議会開設、「公義」は憲法制定をそれぞれ目標にしていると単純に考えていいでしょう。「強兵」の西郷についてはその目的を単純化することが難しいのですが、明治維新に伴って生まれた「革命軍」の不満を外征によって解消しようという考えというのが著者の見立てです。
この4つのグループが対立と連携を繰り返しながら政治が動いていたっという観点から著者はこの時代を描いています。
第4章では自由民権運動における「士族民権」から「農民民権」への動き、そして憲法制定をめぐる駆け引きと初期議会の動きが分析されています。
西南戦争における「富国」派の勝利によって、大久保利通、その後を継いだ大隈重信が「富国」政策を進めますが、西南戦争のもたらしたインフレは「富国」派を挫折へと導きます。
当時の税金は地価を基準とした地租でした。地価を頻繁に改定しないかぎり地租による政府の収入は基本的に一定になります。つまり、インフレになっても税収は増えず政府の収入が実質的に減ることになります。一方、インフレになれば地租を払う農民たちにとっては収穫した米が高く売れるので生活は楽になります。
逆にデフレになれば逆のことがおこります。政府が豊かになり農民が苦しくなるのです。このデフレによって政府の財政を立て直そうとしたのが松方財政(松方デフレ)でした。
この松方デフレに対する反発が「農民民権」の盛り上がりと「地租軽減」の主張を生みます。
そして初期議会において自由党と政府は「地租軽減」をめぐって激突し、「拒否権型議会」ができあがっていったのです。
第5章では、一般的に日本発の本格的政党内閣をつくったとして高く評価される原敬を批判的にとり上げながら、大正デモクラシーの時代が描かれています。
大正デモクラシーを代表する人物として連想される原敬ですが、実は普通選挙には反対し続け、同じく大正デモクラシーを代表する人物である吉野作造からは批判され続けました。
自由党の指導者であった星亨は今までの政府との対決路線を捨て、元老に接近し公共事業による地方(特に貧しかった東北地方)の開発を求めました。星亨は伊藤博文を担いで立憲政友会を結成し、第4次伊藤内閣で逓信大臣を務めたのですが、この星の「積極主義」(公共事業による利益誘導)と「万年与党主義」の路線を引き継いだのが原敬でした。
原は「桂園時代」を演出し、ついに「平民宰相」として首相にまで登りつめますが、あくまでも「民本主義」とは対立し続けたというのが著者の見立てです。
第6章では大正デモクラシーの時代に確立した政党内閣が崩壊していくさまが描かれます。
軍に批判的だった高橋是清に代わって陸軍出身の田中義一が党首になることで、著者は「侵略と天皇主義」の政友会と「平和と民主主義」の憲政会(民政党)の二大政党制ができあがったとしています(346p)。
ロンドン海軍軍縮条約の「統帥権干犯」問題や(これを言い出したのが政友会の鳩山一郎)、浜口雄幸内閣の金解禁による経済失政などにより、政党内閣そのものを否定するファッショ勢力が台頭してくることになりますが、対立を続ける二大政党、そしてそれに批判的な無産政党らは、その動きに対して有効な対策を打てませんでした。
この時代は、政党だけではなく、陸軍や海軍の内部においてもグループ間の対立があり、容易にまとまることができない状態でした。結局、この分裂状態はその分裂をすべて丸抱えで包摂しようとした近衛文麿内閣まで続くわけですが、近衛にリーダーシップがあったわけではなく、この「四分五裂」状態は解消されませんでした。
著者は日中戦争時において、「すでに国内の指導者は四分五裂していて、対外関係を制御できなくなっていた」(442p)と述べています。
細かいところにはいろいろと言いたいところもありますし、いくつか大事な部分が抜けている通史だとは思います。
ただ、一人でしかも日本近代史の研究のせいかも踏まえてこれだけの長い期間の歴史が書けるというのは素直にすごいですし、ある程度、歴史の知識のある人なら読み物としても非常に面白いと思います。
個人的には「司馬遼太郎は好きだけど歴史学の本を読む気にはならない」という人に特にお薦めしたいです。歴史学者が書いた本としては珍しく歴史上の人物がいきいきと描かれていますし、それでいて司馬遼太郎の時代にはまだなかった歴史学の研究のせいかも取り入れられています。
最後に、少し長いですが「おわりに」の文章を引用したいと思います。
日本近代史 (ちくま新書)
坂野 潤治
448006642X
これだけの長い期間の歴史を一人の著者が書くというのは、最近ではなかなか考えられないことかもしれませんが、その難事業を坂野潤治は450ページほどの新書でやりきっています。
まず、この本では次のような時代区分を行い、それぞれに1章をあてています(カッコの中の時代名称は著者が「はじめに」の中で日本近代史で使われる一般的な名称として紹介しているものです。また、1937年以降の記述はこの本にはありませんが、「崩壊の時代」と名付けられています)。
改革の時代 1857-1863(公武合体)
革命の時代 1863-1871(尊王倒幕)
建設の時代 1871-1880(殖産興業)
運用の時代 1880-1893(明治立憲制)
再編の時代 1894-1924(大正デモクラシー)
危機の時代 1925-1937(昭和ファシズム)
この時代区分については、一見して日清戦争から第1次大戦までを含む「再編の時代」が長すぎるのではないか?といった疑問もあるかと思いますが、この本は基本的に国内政治史に焦点を当てて記述されていて、この時代区分は国内の政治体制の変遷に基づいた区分になっています。
ただ、もちろん国内の政治史であっても、この80年を網羅的に取り扱うことは不可能で、それぞれ著者がクローズアップした政治家や政治的な対立軸を中心に時代が描かれています。
第1章と第2章でクローズアップされるのは西郷隆盛です。
他の尊王攘夷の志士とは違い、西郷にはあらゆる改革勢力を糾合して幕政を刷新しようという「合従連衡」的な考えがあったと著者は言います。
また、西郷は勝海舟や横井小楠といった人物の考えも取り入れた上でそれを乗り越えた考えを持っていたとします。具体的には勝海舟や横井小楠が朝廷を中心とした有力大名たちによるに「上院」的なものを考えていたのに対し、西郷は諸藩の志士たちを集めた「下院」的なものも視野に入れていたというのです。
このあたりの役割は従来、坂本龍馬に与えられることが多かったのですが、この本で著者は明確に幕末期の中心人物に西郷隆盛を据えています。
第3章では坂野潤治+大野健一『明治維新 1858-1881』で打ち出された議論が少しかたちを変えて展開されています。
明治初期の政治を、たんに「富国強兵」の実現、あるいは「外征派」と「内治優先派」の争いとして描くのでなく、「富国」(大久保利通)、「強兵」(西郷隆盛)、「輿論」(板垣退助)、「公義」(木戸孝允)の4つのグループの争いとして分析しています。
このうち「富国」は殖産興業、「輿論」は議会開設、「公義」は憲法制定をそれぞれ目標にしていると単純に考えていいでしょう。「強兵」の西郷についてはその目的を単純化することが難しいのですが、明治維新に伴って生まれた「革命軍」の不満を外征によって解消しようという考えというのが著者の見立てです。
この4つのグループが対立と連携を繰り返しながら政治が動いていたっという観点から著者はこの時代を描いています。
第4章では自由民権運動における「士族民権」から「農民民権」への動き、そして憲法制定をめぐる駆け引きと初期議会の動きが分析されています。
西南戦争における「富国」派の勝利によって、大久保利通、その後を継いだ大隈重信が「富国」政策を進めますが、西南戦争のもたらしたインフレは「富国」派を挫折へと導きます。
当時の税金は地価を基準とした地租でした。地価を頻繁に改定しないかぎり地租による政府の収入は基本的に一定になります。つまり、インフレになっても税収は増えず政府の収入が実質的に減ることになります。一方、インフレになれば地租を払う農民たちにとっては収穫した米が高く売れるので生活は楽になります。
逆にデフレになれば逆のことがおこります。政府が豊かになり農民が苦しくなるのです。このデフレによって政府の財政を立て直そうとしたのが松方財政(松方デフレ)でした。
この松方デフレに対する反発が「農民民権」の盛り上がりと「地租軽減」の主張を生みます。
そして初期議会において自由党と政府は「地租軽減」をめぐって激突し、「拒否権型議会」ができあがっていったのです。
第5章では、一般的に日本発の本格的政党内閣をつくったとして高く評価される原敬を批判的にとり上げながら、大正デモクラシーの時代が描かれています。
大正デモクラシーを代表する人物として連想される原敬ですが、実は普通選挙には反対し続け、同じく大正デモクラシーを代表する人物である吉野作造からは批判され続けました。
自由党の指導者であった星亨は今までの政府との対決路線を捨て、元老に接近し公共事業による地方(特に貧しかった東北地方)の開発を求めました。星亨は伊藤博文を担いで立憲政友会を結成し、第4次伊藤内閣で逓信大臣を務めたのですが、この星の「積極主義」(公共事業による利益誘導)と「万年与党主義」の路線を引き継いだのが原敬でした。
原は「桂園時代」を演出し、ついに「平民宰相」として首相にまで登りつめますが、あくまでも「民本主義」とは対立し続けたというのが著者の見立てです。
第6章では大正デモクラシーの時代に確立した政党内閣が崩壊していくさまが描かれます。
軍に批判的だった高橋是清に代わって陸軍出身の田中義一が党首になることで、著者は「侵略と天皇主義」の政友会と「平和と民主主義」の憲政会(民政党)の二大政党制ができあがったとしています(346p)。
ロンドン海軍軍縮条約の「統帥権干犯」問題や(これを言い出したのが政友会の鳩山一郎)、浜口雄幸内閣の金解禁による経済失政などにより、政党内閣そのものを否定するファッショ勢力が台頭してくることになりますが、対立を続ける二大政党、そしてそれに批判的な無産政党らは、その動きに対して有効な対策を打てませんでした。
この時代は、政党だけではなく、陸軍や海軍の内部においてもグループ間の対立があり、容易にまとまることができない状態でした。結局、この分裂状態はその分裂をすべて丸抱えで包摂しようとした近衛文麿内閣まで続くわけですが、近衛にリーダーシップがあったわけではなく、この「四分五裂」状態は解消されませんでした。
著者は日中戦争時において、「すでに国内の指導者は四分五裂していて、対外関係を制御できなくなっていた」(442p)と述べています。
細かいところにはいろいろと言いたいところもありますし、いくつか大事な部分が抜けている通史だとは思います。
ただ、一人でしかも日本近代史の研究のせいかも踏まえてこれだけの長い期間の歴史が書けるというのは素直にすごいですし、ある程度、歴史の知識のある人なら読み物としても非常に面白いと思います。
個人的には「司馬遼太郎は好きだけど歴史学の本を読む気にはならない」という人に特にお薦めしたいです。歴史学者が書いた本としては珍しく歴史上の人物がいきいきと描かれていますし、それでいて司馬遼太郎の時代にはまだなかった歴史学の研究のせいかも取り入れられています。
最後に、少し長いですが「おわりに」の文章を引用したいと思います。
三月十一日の三重の国難を迎えて以後の日本には、「改革」への希望も、指導者への信頼も存在しない。もちろん東北地方の復旧、復興は日本国民の一致した願いである。しかし、それを導くべき政治指導者たちは、ちょうど昭和一〇年代初頭のように、四部五裂化して小物化している。「国難」に直面すれば、必ず「明治維新」が起こり、「戦後改革」が起こるというのは、具体的な歴史分析を怠った、単なる楽観に過ぎない。「明治維新」や「戦後改革」は日本の発展をもたらしたが、第6章で明らかにしたように、「昭和維新」は「危機」を深化させ、「崩壊」をもたらしたのである。(444p)
日本近代史 (ちくま新書)
坂野 潤治
448006642X
- 2012年04月03日23:19
- yamasitayu
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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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