2014年03月
「哲学入門」というと、ソクラテスやカントなどの大哲学者の思想を解説した本か、あるいは「私が死んだら世界は終わるのか?」、「なぜ人を殺してはいけないのか?」といった、多くの人が一度は感じたであろう疑問から、哲学的思考に誘う、といったスタイルが思い浮かびますが、この戸田山和久の「哲学入門」はそれらとはまったく違います。
今までの哲学的な問に対して、科学的世界観によって、それに答えたり、あるいはそれを解体したりしながら、「神は死んだ(ニーチェもね)」という言葉とともに世界の謎を解き明かそうとした本です。
主にとり上げられる哲学者はミリカン、ドレツキ、デネット。デネット以外はあまり知られていない哲学者でしょう。しかもこの本は400ページ超のボリュームがあります。というわけで「読みきれるのか?』と思う人もいるかもしれませんが、哲学じゃなくても認知科学や脳科学などに多少なりとも親しんでいれば心配ご無用。ぐいぐい引っ張られる内容になっています。
目次は以下の通り。
目次を見るとあんまり面白そうじゃないかもしれません。「自由」や「道徳」はともかく、「機能」や「情報」なんてものは哲学で扱うテーマではないと感じる人もいるでしょう。
ところが、これらの言葉には共通点があります。これらの言葉が表すものは物理的に存在はしませんが、よほどの唯物論者でない限りこれらのものがまったく存在しない、とも言い切れないでしょう。
著者は、これらのものを「存在もどき」と名付けていますが、これらの「存在もどき」を科学と調和する形で書き込むことがこの本のミッションです。「意味」、「自由」といったものが生物の進化の過程の中で生まれてきたことを示そうというのです。
で、まずは哲学でも非常に重要な概念となる「意味」から入っていくわけですが、この「意味」を取り扱った第1章と第2章の半ばくらいまでは、やや「のれない」部分もありました。
サールの「中国語の部屋」の議論を「カテゴリー錯誤」に陥っているとする議論は鋭いと思うのですが、その後はミリカンの「目的論的意味論」を持ち出してきます。
この「目的論的意味論」というのは、「意味」を「本来の機能」という概念を使って自然の中の因果関係に落としこもうとする議論なのですが(詳しくは本書を読んでください)、この「本来の機能」というのが個人的には非常に引っかかります。
人工物について著者は「人工物の場合は話は簡単である。本来の機能は製作者の意図によって特定されるからだ」(84ー85p)と述べていますが、本当に簡単なのでしょうか?
例えば、朝鮮人の無名の陶工がつくった茶碗が千利休に見出され茶道の名器になって日本の国宝になったとします(こんなような例はあったはず)。それでも、「飯を食べるための器」という「本来の機能」は生き続けるのでしょうか?
あるいは、ある人物の肖像画として知られている絵が実は別人の肖像画だった場合(源頼朝像がそうだと言われていますね)、そしてそれが未来永劫明らかにならなかった場合、「本来の機能」はどこにいくのでしょう?
ここでの議論は、クリプキの「固有名」についての議論を思い出させるもので、個人的には腑に落ちませんし、嫌な感じがします。
ところが、第3章の「情報」の後半あたりから非常に面白くなってきます。
「物理的世界は因果の網の目であると同時に、情報の流れとしても捉えることができる」(141p)という考えのもと、解釈者を前提としない情報というものを導入し、そこから「表象」、「意味」といったものを導き出そうとします。
第3章の「情報」についての分析はやや数学的で難しいかもしれませんが、第4章の「表象」、第5章の「目的」と読み進めると、著者が描こうとしている絵の形がだんだんとはっきりしてきて引き込まれると思います。
個人的には、ギブソンの「アフォーダンス」の概念をつかって、情報が「記述的」であると同時に「指令的」であることを示しつつ、進化の中で生物はだんだんとこの「記述的」部分と「指令的部分」を分けて考えられるようになり、それが最終的に人間に特有の「そもそもいかなる特定の用途ももたない」純粋な事実の表象(256p) に至る、という議論は特に面白かったです。
ギブソンについての本も昔読んだことがあるのですが、「こう使うのか!」と思いました(ここでの使い方はギブソンのものとは少しずれているとのことですが)。
そして第6章の「自由」、第7章の「道徳」では、「自由意志は存在するのか?」、「道徳をいかに取り扱うべきなのか?」といった、いわゆる「哲学的」な問題に突入します。
「ラプラスのデモン」に代表される「今の世界は先立つ世界を原因とするその結果なのだから、全知全能の存在は未来をすべて予測できる(だから、自由はない)」といった議論に対して、どう自由を擁護するのか?
デカルトのような心身二元論を取れば楽ですが、当然ながらこの本ではそんなことはしません。あくまでも科学的な世界観のなかに「自由」や「道徳」を書き込んでいこうとします。
著者は「自由」について、デネットの議論を紹介しながら、「自由」を「何事にもよらずに行為する力」のような神秘的な能力ではなく、「他のようにもすることができたという能力としての自由は、ようするに過去の間違いから学び、未来の行動を修正する能力に他ならない」(336p)とします。
これもなかなかおもしろい議論ですし、また、量子力学の不確定性原理が自由の擁護の役には立たないという議論もしっかりとなされていて、この本が「最新の科学に逃げる」ような本ではないこともわかります。
さらに第7章の、「自由と責任がなくなったら道徳はどうなる?」というペレブームの議論を紹介した部分も興味深いです。普通に考えると「道徳もなくなってしまうのでは?」という結論になったしまいそうなのですが、そうではないのです。
このように盛りだくさんの議論を詰め込んだ本で、自分も全部咀嚼したとはとても言えないのですが、面白いです。
この手の議論をまったく読んだことがない人には少し難しいかもしれませんが、最初に書いたように、認知科学や脳科学などの本を読んだことがあれば、哲学についての本をあまり読んだことがない人でも楽しめると思います(個人的には、読んでいる最中にダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』、ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』などを思い出しながら読んでいました)。
哲学入門 (ちくま新書)
戸田山 和久
448006768X
今までの哲学的な問に対して、科学的世界観によって、それに答えたり、あるいはそれを解体したりしながら、「神は死んだ(ニーチェもね)」という言葉とともに世界の謎を解き明かそうとした本です。
主にとり上げられる哲学者はミリカン、ドレツキ、デネット。デネット以外はあまり知られていない哲学者でしょう。しかもこの本は400ページ超のボリュームがあります。というわけで「読みきれるのか?』と思う人もいるかもしれませんが、哲学じゃなくても認知科学や脳科学などに多少なりとも親しんでいれば心配ご無用。ぐいぐい引っ張られる内容になっています。
目次は以下の通り。
序 これがホントの哲学だ
第1章 意味
第2章 機能
第3章 情報
第4章 表象
第5章 目的
第6章 自由
第7章 道徳
人生の意味―むすびにかえて
目次を見るとあんまり面白そうじゃないかもしれません。「自由」や「道徳」はともかく、「機能」や「情報」なんてものは哲学で扱うテーマではないと感じる人もいるでしょう。
ところが、これらの言葉には共通点があります。これらの言葉が表すものは物理的に存在はしませんが、よほどの唯物論者でない限りこれらのものがまったく存在しない、とも言い切れないでしょう。
著者は、これらのものを「存在もどき」と名付けていますが、これらの「存在もどき」を科学と調和する形で書き込むことがこの本のミッションです。「意味」、「自由」といったものが生物の進化の過程の中で生まれてきたことを示そうというのです。
で、まずは哲学でも非常に重要な概念となる「意味」から入っていくわけですが、この「意味」を取り扱った第1章と第2章の半ばくらいまでは、やや「のれない」部分もありました。
サールの「中国語の部屋」の議論を「カテゴリー錯誤」に陥っているとする議論は鋭いと思うのですが、その後はミリカンの「目的論的意味論」を持ち出してきます。
この「目的論的意味論」というのは、「意味」を「本来の機能」という概念を使って自然の中の因果関係に落としこもうとする議論なのですが(詳しくは本書を読んでください)、この「本来の機能」というのが個人的には非常に引っかかります。
人工物について著者は「人工物の場合は話は簡単である。本来の機能は製作者の意図によって特定されるからだ」(84ー85p)と述べていますが、本当に簡単なのでしょうか?
例えば、朝鮮人の無名の陶工がつくった茶碗が千利休に見出され茶道の名器になって日本の国宝になったとします(こんなような例はあったはず)。それでも、「飯を食べるための器」という「本来の機能」は生き続けるのでしょうか?
あるいは、ある人物の肖像画として知られている絵が実は別人の肖像画だった場合(源頼朝像がそうだと言われていますね)、そしてそれが未来永劫明らかにならなかった場合、「本来の機能」はどこにいくのでしょう?
ここでの議論は、クリプキの「固有名」についての議論を思い出させるもので、個人的には腑に落ちませんし、嫌な感じがします。
ところが、第3章の「情報」の後半あたりから非常に面白くなってきます。
「物理的世界は因果の網の目であると同時に、情報の流れとしても捉えることができる」(141p)という考えのもと、解釈者を前提としない情報というものを導入し、そこから「表象」、「意味」といったものを導き出そうとします。
第3章の「情報」についての分析はやや数学的で難しいかもしれませんが、第4章の「表象」、第5章の「目的」と読み進めると、著者が描こうとしている絵の形がだんだんとはっきりしてきて引き込まれると思います。
個人的には、ギブソンの「アフォーダンス」の概念をつかって、情報が「記述的」であると同時に「指令的」であることを示しつつ、進化の中で生物はだんだんとこの「記述的」部分と「指令的部分」を分けて考えられるようになり、それが最終的に人間に特有の「そもそもいかなる特定の用途ももたない」純粋な事実の表象(256p) に至る、という議論は特に面白かったです。
ギブソンについての本も昔読んだことがあるのですが、「こう使うのか!」と思いました(ここでの使い方はギブソンのものとは少しずれているとのことですが)。
そして第6章の「自由」、第7章の「道徳」では、「自由意志は存在するのか?」、「道徳をいかに取り扱うべきなのか?」といった、いわゆる「哲学的」な問題に突入します。
「ラプラスのデモン」に代表される「今の世界は先立つ世界を原因とするその結果なのだから、全知全能の存在は未来をすべて予測できる(だから、自由はない)」といった議論に対して、どう自由を擁護するのか?
デカルトのような心身二元論を取れば楽ですが、当然ながらこの本ではそんなことはしません。あくまでも科学的な世界観のなかに「自由」や「道徳」を書き込んでいこうとします。
著者は「自由」について、デネットの議論を紹介しながら、「自由」を「何事にもよらずに行為する力」のような神秘的な能力ではなく、「他のようにもすることができたという能力としての自由は、ようするに過去の間違いから学び、未来の行動を修正する能力に他ならない」(336p)とします。
これもなかなかおもしろい議論ですし、また、量子力学の不確定性原理が自由の擁護の役には立たないという議論もしっかりとなされていて、この本が「最新の科学に逃げる」ような本ではないこともわかります。
さらに第7章の、「自由と責任がなくなったら道徳はどうなる?」というペレブームの議論を紹介した部分も興味深いです。普通に考えると「道徳もなくなってしまうのでは?」という結論になったしまいそうなのですが、そうではないのです。
このように盛りだくさんの議論を詰め込んだ本で、自分も全部咀嚼したとはとても言えないのですが、面白いです。
この手の議論をまったく読んだことがない人には少し難しいかもしれませんが、最初に書いたように、認知科学や脳科学などの本を読んだことがあれば、哲学についての本をあまり読んだことがない人でも楽しめると思います(個人的には、読んでいる最中にダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』、ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』などを思い出しながら読んでいました)。
哲学入門 (ちくま新書)
戸田山 和久
448006768X
- 2014年03月27日23:13
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青木昌彦の仕事を追いかけていた人にとっては何も目新しいことはないかもしれませんが、彼の本をきちんと読んだことのなかった身としては非常に面白かったです。
「はしがき」に「青木昌彦の『経済学入門』ではなく、「『青木昌彦の経済学』の入門」という編集者の誘いでこの仕事を引き受けたと書いてある通り、「経済学入門」といった本ではないのですが、青木昌彦のアイディアとその理論の射程、さらにはその応用としての中国経済の分析が楽しめます。
本自体は既出の論文や、講演の抄録、対談、新聞への寄稿などをまとめたもので、その出来にはばらつきがあるのですが、それでも個人的には得るものが多かったです。
目次は以下のとおり。
第1章はイントロみたいなものでそれほど面白いものではありませんし、第3章の4、第4章の3はテーマこそ興味深いものの新聞への寄稿なので物足りないです。
けれども、そういったいまいちな部分があっても残りの部分がそれを補って余りある内容になっていると思います。
まずは第2章の1と2が制度分析、そして青木昌彦の理論の入門になります。
ここでは制度を「ゲームの内省的結果・均衡」(71p)として考えるアプローチが打ち出されています。ゲーム理論によれば、複数のプレイヤーが辿り着く答えは一つではありません。複数の均衡(安定状態)が存在し、それぞれの国や社会は歴史という「経路」をたどって、今ある「均衡」へと至っているわけです。
「制度が重要である(institutions matter)ということは、同時に歴史が重要である(history matters)ということでもあります」(64p)と、この本では述べられています。制度分析が想定するのは、経済学で想定される「合理的人間」ではなく、歴史、そして「社会関係の網の目のなかに埋め込まれている」(65p)人間なのです。
第2章の2「制度のシュンペーター的革新と革新の制度」では、こうしたことを踏まえながら、シリコンバレー現象と、「なぜ日本ではシリコンバレーが生まれないのか?」といったことが分析されています(ちなみ、この本を読む前に松尾匡のSynodosの論考「ゲーム理論による制度分析と「予想」」を読んでおくと、青木昌彦の研究の意義がよりわかりやすくなると思います)
第2章の3は山形浩生との対談なのですが、ここでは山形浩生が制度分析に対する根源的な疑問をいくつかぶつけてくれています。
「制度とは結局なんなのか?」、「制度分析とは後付けの説明ではないのか?」、「制度はどうやったら変わるのか?」、「変数を増やして社会学化しているのではないか?」、といった問です。
特に「制度分析とは後付けの説明ではないのか?」という、歴史を扱う学問にとってつきまとう問題について、青木昌彦は次のように答えています。
個人的に、「一回限りの事象である歴史を学問的にどう考えていくべきなのか?」ということを最近ずっと考えてきただけに、この部分をはじめとする青木昌彦の歴史に対するスタンスは非常に参考になりました。
また、これは第4章の1「制度論の拡がる地平」や参考文献などを見てもわかることですが、この山形浩生との対談でも、青木昌彦が最新の認知科学や脳科学などかなり広い分野に目を配っていることがうかがえます。
そして、第3章では中国経済の分析を中心に据えながら、日本や韓国との比較を行っています。
ここでの中国経済の分析は、例えば津上俊哉『中国台頭の終焉』(日経プレミア)で行われている中長期の分析を圧縮して示している感じで、中国経済の強みと問題点を簡潔に取り出していると思います。また、中国の歴史分析に関しては岡本隆司『近代中国史』(ちくま新書)の議論と重なります。
第4章の1「制度論の拡がる地平」では、まずアセモグル、ロビンソン『国家はなぜ衰退するか』を批判的に取り上げながら、制度分析のこれからの可能性を概観しています。
アセモグル、ロビンソンは政治制度を「内包的」、「収奪的」の2つに分け、それが経済的発展を決定づける(「内包的」体制が経済成長を生む)としているわけですが、これに対して青木昌彦は「政治制度と経済パフォーマンスという変数のあいだの「因果関係か、共相関か」という科学的推論の基本問題に対する答としては、あまりに粗略すぎる」(192p)とし、さらにもし彼らの推論が正しいなら「何が政体のあり方を決定づけるのか、という問いにも応えなければならないだろう」(192p)と述べています(「逆に青木昌彦のほうが経済決定論ではないか?」という疑問を山形浩生がここで示している)。
さらに第4章の2「資本主義はどうなるか──ミルトン・フリードマンとの対話」も面白い。ただ、それはお互いの議論が白熱しているのではなく、全く噛み合っていないところが逆に面白いというもの。
この対話は2000年に読売新聞の企画として行われたもので、当然、当時の日本の不況についての質問もふられているのですが、青木昌彦が日本が制度の変遷期にあることを述べるのに対して、フリードマンは日本の金融政策が不十分であることを指摘しています。
まあ、今から見るとフリードマンが正しいと思うのですが、同じ経済学者でも見ているものがこうも違うものか、と感じます(病人がいたとして、その患者の生育歴や生活習慣などを事細かに分析するのが青木昌彦で、「とりあえず、栄養取れ」というのがフリードマン)。
最初に書いたように、「本としての完成度」という面では問題もあるとは思いますが、個人的な興味・関心にズバリきた本です。参考文献であげられている本などを含めて非常に参考になりました。
青木昌彦の経済学入門: 制度論の地平を拡げる (ちくま新書)
青木 昌彦
4480067531
「はしがき」に「青木昌彦の『経済学入門』ではなく、「『青木昌彦の経済学』の入門」という編集者の誘いでこの仕事を引き受けたと書いてある通り、「経済学入門」といった本ではないのですが、青木昌彦のアイディアとその理論の射程、さらにはその応用としての中国経済の分析が楽しめます。
本自体は既出の論文や、講演の抄録、対談、新聞への寄稿などをまとめたもので、その出来にはばらつきがあるのですが、それでも個人的には得るものが多かったです。
目次は以下のとおり。
第1章 経済学をどう学ぶか
1 私自身、こう経済を学んできた(聞き手 岡崎哲二)
2 経済学を学ぶ心構え──京都大学経済学部の学生諸君に招かれて
第2章 制度分析の考え方
1 制度分析入門──そして日本の今をどうとらえるか
2 制度のシュンペーター的革新と革新の制度
3 青木先生、制度ってなんですか? (聞き手 山形浩生)
第3章 制度分析の応用──日本と中国の来し方・行く末
1 伝統的な経済成長モデルの限界をみつめよ──呉敬教授との対話
2 雁行形態パラダイム・バージョン2.0──日本、中国、韓国の人口・経済・制度の比較と連結
3 中国と日本における制度進化の源泉
4 福島原発事故から学ぶ──望まれる電力産業の改革と革新
第4章 制度論の拡がる地平
1 制度論の拡がる地平──政策、認知、法、文化的予想、歴史をめぐって
2 資本主義はどうなるか──ミルトン・フリードマンとの対話
3 先進都市化と卓越したチーム力を競おう──2020年東京オリンピックに向けて
第1章はイントロみたいなものでそれほど面白いものではありませんし、第3章の4、第4章の3はテーマこそ興味深いものの新聞への寄稿なので物足りないです。
けれども、そういったいまいちな部分があっても残りの部分がそれを補って余りある内容になっていると思います。
まずは第2章の1と2が制度分析、そして青木昌彦の理論の入門になります。
ここでは制度を「ゲームの内省的結果・均衡」(71p)として考えるアプローチが打ち出されています。ゲーム理論によれば、複数のプレイヤーが辿り着く答えは一つではありません。複数の均衡(安定状態)が存在し、それぞれの国や社会は歴史という「経路」をたどって、今ある「均衡」へと至っているわけです。
「制度が重要である(institutions matter)ということは、同時に歴史が重要である(history matters)ということでもあります」(64p)と、この本では述べられています。制度分析が想定するのは、経済学で想定される「合理的人間」ではなく、歴史、そして「社会関係の網の目のなかに埋め込まれている」(65p)人間なのです。
第2章の2「制度のシュンペーター的革新と革新の制度」では、こうしたことを踏まえながら、シリコンバレー現象と、「なぜ日本ではシリコンバレーが生まれないのか?」といったことが分析されています(ちなみ、この本を読む前に松尾匡のSynodosの論考「ゲーム理論による制度分析と「予想」」を読んでおくと、青木昌彦の研究の意義がよりわかりやすくなると思います)
第2章の3は山形浩生との対談なのですが、ここでは山形浩生が制度分析に対する根源的な疑問をいくつかぶつけてくれています。
「制度とは結局なんなのか?」、「制度分析とは後付けの説明ではないのか?」、「制度はどうやったら変わるのか?」、「変数を増やして社会学化しているのではないか?」、といった問です。
特に「制度分析とは後付けの説明ではないのか?」という、歴史を扱う学問にとってつきまとう問題について、青木昌彦は次のように答えています。
私のアプローチは、できるだけ単純なゲーム理論の構造を考えて、そのなかにいくつもの均衡がありえて、それぞれの均衡がお互いに対応性があるという形で多様性を説明していく方法をとっています。ただなぜ多数の均衡から特定の一つが選ばれるか、ということはゲームの理論の内部では説明することはできず、歴史を援用しなければならないのでそういう意味では後付けの説明といわれればそうとはいえます。ただ、日本型のシステムがアメリカ型のシステムに限りなく近くなるかというと、「NO」と確信を持っていえます。そこで制度分析の究極的な目的は何かといわれれば、制度の基本的理解や歴史を踏まえて、現状を分析し、可能な改革の理論づけを行っていく、ということだと思います。(102p)
個人的に、「一回限りの事象である歴史を学問的にどう考えていくべきなのか?」ということを最近ずっと考えてきただけに、この部分をはじめとする青木昌彦の歴史に対するスタンスは非常に参考になりました。
また、これは第4章の1「制度論の拡がる地平」や参考文献などを見てもわかることですが、この山形浩生との対談でも、青木昌彦が最新の認知科学や脳科学などかなり広い分野に目を配っていることがうかがえます。
そして、第3章では中国経済の分析を中心に据えながら、日本や韓国との比較を行っています。
ここでの中国経済の分析は、例えば津上俊哉『中国台頭の終焉』(日経プレミア)で行われている中長期の分析を圧縮して示している感じで、中国経済の強みと問題点を簡潔に取り出していると思います。また、中国の歴史分析に関しては岡本隆司『近代中国史』(ちくま新書)の議論と重なります。
第4章の1「制度論の拡がる地平」では、まずアセモグル、ロビンソン『国家はなぜ衰退するか』を批判的に取り上げながら、制度分析のこれからの可能性を概観しています。
アセモグル、ロビンソンは政治制度を「内包的」、「収奪的」の2つに分け、それが経済的発展を決定づける(「内包的」体制が経済成長を生む)としているわけですが、これに対して青木昌彦は「政治制度と経済パフォーマンスという変数のあいだの「因果関係か、共相関か」という科学的推論の基本問題に対する答としては、あまりに粗略すぎる」(192p)とし、さらにもし彼らの推論が正しいなら「何が政体のあり方を決定づけるのか、という問いにも応えなければならないだろう」(192p)と述べています(「逆に青木昌彦のほうが経済決定論ではないか?」という疑問を山形浩生がここで示している)。
さらに第4章の2「資本主義はどうなるか──ミルトン・フリードマンとの対話」も面白い。ただ、それはお互いの議論が白熱しているのではなく、全く噛み合っていないところが逆に面白いというもの。
この対話は2000年に読売新聞の企画として行われたもので、当然、当時の日本の不況についての質問もふられているのですが、青木昌彦が日本が制度の変遷期にあることを述べるのに対して、フリードマンは日本の金融政策が不十分であることを指摘しています。
まあ、今から見るとフリードマンが正しいと思うのですが、同じ経済学者でも見ているものがこうも違うものか、と感じます(病人がいたとして、その患者の生育歴や生活習慣などを事細かに分析するのが青木昌彦で、「とりあえず、栄養取れ」というのがフリードマン)。
最初に書いたように、「本としての完成度」という面では問題もあるとは思いますが、個人的な興味・関心にズバリきた本です。参考文献であげられている本などを含めて非常に参考になりました。
青木昌彦の経済学入門: 制度論の地平を拡げる (ちくま新書)
青木 昌彦
4480067531
- 2014年03月20日23:55
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『百年前の日本語』(岩波新書)が非常に面白かった今野真二の本。
今回は「かなづかい」という日本語の中でも狭い範囲を掘り下げた本で、読んでいてかなり専門的に感じます。ですから、『百年前の日本語』のように誰が読んでも面白いというものではないでしょうが、それでも個人的には前半を中心に非常に興味深く読めました。
まず、「かなづかい」ですが、例えば「かなづかい」という言葉は、普通「づ」を使い「かなずかい」と書くことは基本的にないと思います。作文などでかけば先生に直されるでしょう。
日本語の「かな」には、この「ず」と「づ」の他にも、「お」と「を」、「じ」と「ぢ」といった同音の言葉がありますし、「へ」は助詞として使われる場合「え」と同じ発音になり、「は」は「わ」同じ発音になります。
また、学校で古典の時間では、「ゐ」、「ゑ」といった今では使われていない文字があり、それぞれ「い」「え」と同じ発音をする。さらに「い」い関しては「ひ」もまた「言ひける」のようなときは「い」と発音することを知っているでしょう。
表音文字である「かな」において、なぜこのようにややこしいことが起こったのでしょうか?
著者は、まず『土佐日記』の一節にある「わらは」(童のこと)という表記に注意を向けます。現在では「ワラワ」と発音する言葉ですが、表記は「わらは」となっており、なぜ表記を変えているのか謎です。
この本によると、これには西暦1000年頃に起こった「ハ行転呼音現象」と呼ばれる、日本語の音韻に関わる大きな変化が関係しているそうです。
この現象についてこの本では次のように説明しています。
そして、日本語は「古典的かなづかい」のように発音するように仮名を使うのではなく、場合によっては同じ発音を違う文字で表すシステムに移行し、「かなづかい」というものが問題にされるようになったのです。
ここから、この本は12世紀以降のさまざまなテキストをとり上げながら、実際にどのような「かなづかい」がなされているかを見ていきます。
著者は、大まかに「A 古典かなづかいで書かれている」、「B 少し表音的な表記を交えながら古典かなづかいで書かれている」、「C 古典かなづかいを交えながら表音的に書かれている」、「D 完全に表音的に書かれている」という4段階を基準として設定し(37p)、それぞれの時代の様々な階層の人々によって書かれてテキストを分析します。
時代が下るほど「A」→「D」に近くなってき、また書いた人物の階層が低いほど、同じように「A」→「D」に近づきます。
また、それなりの知識人の書いた文章であっても表記の一定しないものは多く、かなづかいに関しては、かなり「ルーズ」に行われてきたことも見えてきます。そして、ここに「ルーズさ」を感じてしまうのは、実は一貫性を過剰に追求する現代人の「心性」ではないか?とも著者は指摘しています(131p)
こうした指摘を交えながら、著者は各時代のテキストを分析していくわけですが、比較的淡々と分析を進めているため、それほど面白く感じられないかもしれません。
ただ、日本史を勉強していた身としては、「東寺百合文書」や「阿弖河荘上村百姓文書」(「ミミヲキリハナヲソギ」で有名なやつ)をとり上げて分析してくれているのでそこは興味深かったです。文章の整い方やかなづかいから書いた人の文書への習熟度が見えてくることを教えてくれます。
あと、この本の中心的な主張として、藤原定家の「定家かなづかい」や契沖の『和字正濫鈔』は、かなづかいを示したものではない、という主張があります。
国語学者の人にとってはこここそがこの本の一番のポイントになるのかもしれませんが、自分はその前段となる知識がなかったため、とりあえずそういうものなのかと理解することくらいしか出来ませんでした。
というわけで、ずいぶんと細かいことを追っている本なのですが、そこから時々、言語をめぐる大きな変化や、「言語観」といったものが垣間みえて、個人的には面白く読めました。
かなづかいの歴史 - 日本語を書くということ (中公新書)
今野 真二
4121022548
今回は「かなづかい」という日本語の中でも狭い範囲を掘り下げた本で、読んでいてかなり専門的に感じます。ですから、『百年前の日本語』のように誰が読んでも面白いというものではないでしょうが、それでも個人的には前半を中心に非常に興味深く読めました。
まず、「かなづかい」ですが、例えば「かなづかい」という言葉は、普通「づ」を使い「かなずかい」と書くことは基本的にないと思います。作文などでかけば先生に直されるでしょう。
日本語の「かな」には、この「ず」と「づ」の他にも、「お」と「を」、「じ」と「ぢ」といった同音の言葉がありますし、「へ」は助詞として使われる場合「え」と同じ発音になり、「は」は「わ」同じ発音になります。
また、学校で古典の時間では、「ゐ」、「ゑ」といった今では使われていない文字があり、それぞれ「い」「え」と同じ発音をする。さらに「い」い関しては「ひ」もまた「言ひける」のようなときは「い」と発音することを知っているでしょう。
表音文字である「かな」において、なぜこのようにややこしいことが起こったのでしょうか?
著者は、まず『土佐日記』の一節にある「わらは」(童のこと)という表記に注意を向けます。現在では「ワラワ」と発音する言葉ですが、表記は「わらは」となっており、なぜ表記を変えているのか謎です。
この本によると、これには西暦1000年頃に起こった「ハ行転呼音現象」と呼ばれる、日本語の音韻に関わる大きな変化が関係しているそうです。
この現象についてこの本では次のように説明しています。
現代のハ行音は、侯音といって、喉の奥のあたりで音を作っているが、当時のハ行音は、現代の「フ」を発音するときのような唇の形で「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」すべてを発音していた。その当時の発音を少し無理に片仮名で書くとすれば、「ファ・フィ・フ・フェ・フォ」となる。その、例えば「ファ」の唇の合わさり具合をさらに緩めると「ワ」の発音にちかづいていく、ということである。(19ー20p)さらに
「ハ行転呼音現象」が起こったのと同じ西暦1000年頃、ア行の「オ」とワ行の「ヲ」とが一つになった。また、1100年頃にはア行の「イ」とワ行の「ヰ」とが一つになり、同じ頃、さらにア行の「エ」とワ行の「ヱ」とが一つになったと考えられている。こうして、日本語で使っている音は四十七から三つ減って、四十四になった。(23p)
そして、日本語は「古典的かなづかい」のように発音するように仮名を使うのではなく、場合によっては同じ発音を違う文字で表すシステムに移行し、「かなづかい」というものが問題にされるようになったのです。
ここから、この本は12世紀以降のさまざまなテキストをとり上げながら、実際にどのような「かなづかい」がなされているかを見ていきます。
著者は、大まかに「A 古典かなづかいで書かれている」、「B 少し表音的な表記を交えながら古典かなづかいで書かれている」、「C 古典かなづかいを交えながら表音的に書かれている」、「D 完全に表音的に書かれている」という4段階を基準として設定し(37p)、それぞれの時代の様々な階層の人々によって書かれてテキストを分析します。
時代が下るほど「A」→「D」に近くなってき、また書いた人物の階層が低いほど、同じように「A」→「D」に近づきます。
また、それなりの知識人の書いた文章であっても表記の一定しないものは多く、かなづかいに関しては、かなり「ルーズ」に行われてきたことも見えてきます。そして、ここに「ルーズさ」を感じてしまうのは、実は一貫性を過剰に追求する現代人の「心性」ではないか?とも著者は指摘しています(131p)
こうした指摘を交えながら、著者は各時代のテキストを分析していくわけですが、比較的淡々と分析を進めているため、それほど面白く感じられないかもしれません。
ただ、日本史を勉強していた身としては、「東寺百合文書」や「阿弖河荘上村百姓文書」(「ミミヲキリハナヲソギ」で有名なやつ)をとり上げて分析してくれているのでそこは興味深かったです。文章の整い方やかなづかいから書いた人の文書への習熟度が見えてくることを教えてくれます。
あと、この本の中心的な主張として、藤原定家の「定家かなづかい」や契沖の『和字正濫鈔』は、かなづかいを示したものではない、という主張があります。
国語学者の人にとってはこここそがこの本の一番のポイントになるのかもしれませんが、自分はその前段となる知識がなかったため、とりあえずそういうものなのかと理解することくらいしか出来ませんでした。
というわけで、ずいぶんと細かいことを追っている本なのですが、そこから時々、言語をめぐる大きな変化や、「言語観」といったものが垣間みえて、個人的には面白く読めました。
かなづかいの歴史 - 日本語を書くということ (中公新書)
今野 真二
4121022548
- 2014年03月17日22:42
- yamasitayu
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去年出版された『中国台頭の終焉』(日経プレミア)が非常に面白かった津上俊哉の新刊。
『中国台頭の終焉』は、「リーマン・ショック後に行われた4兆元投資の問題」、「「国進民退」という言葉に代表される経済制度の問題」、「出生率が1.18にまで落ち込んだ少子高齢化の問題」という3つの問題を指摘し、「中国が米国を追い抜く日はこない」と結論づけた本でした。
そして、前作から約1年後に出版されたこの本では、その予想の中間報告と、尖閣諸島を含む防空識別圏問題、安部首相の靖国神社参拝問題など、政治的にホットな話題についての分析が行われています。
目次は以下のとおり。
まず、はじめにあるのが、「リーマン・ショック後に行われた4兆元投資の問題」の後始末をめぐる問題。
著者は「4兆元投資」によって、「過剰投資」、「過剰債務」、「物価上昇」、「シャドーバンキング」といった問題が出てきており、一時的に低成長を受け入れない限り、中国経済の健全な発展は望めないと考えています。
李克強首相の行う経済運営「リコノミクス」では、当初は「成長率が7%と割ることもやむなし」といった見方をもっていたと思われていましたが、2013年7月の経済情勢座談会で事実上「7%の成長率が下限」との方針を打ち出しており(36p)、中国の「過剰投資」の問題は今しばらく続きそうな状況です。
しかし著者は、電力消費や貨物の荷動きなど、信頼性に乏しい中国の経済統計の中でも比較的信頼のおける数字をみる限り、現在の成長率は7%に達しておらず(42ー43p)、「足許の成長率は、7%はおろか5%にも達していないのではないか」(45p)と見ています。
このように「リーマン・ショック後に行われた4兆元投資の問題」についての著者の見方は厳しいのですが、一方で、中長期的な問題である「「国進民退」という言葉に代表される経済制度の問題」、「出生率が1.18にまで落ち込んだ少子高齢化の問題」に対しては、2013年11月に開催された三中全会でかなり前向きな対策が打ち出されたと見ています。
三中全会については、閉幕後すぐに出された「公報」については目新しい施策がほとんどなく、「失望」の色が強かったとのことですし、実際の報道もそうだったと記憶しています。
ところが、著者によれば、その後に発表された「結果前文」に盛り込まれたのは「「空前の改革」メニュー」(62p)だというのです。
改革メニューについては確かにてんこ盛りで、どのような内容なのかは実際にこの本を読んで欲しいのですが、例えば、「国進民退」(国営セクターが伸び私企業の伸びが抑えられる)の問題に対しては、「民営企業の経済財産権の不可侵」「民営企業差別の縮小」、さらには「国有セクターの選択と集中(非公有制で構わない分野は任せる)」、「競争を歪める優遇策を厳禁」、「国家安全、環境安全を除く他、重大な生産力の全国配置、戦略性資源及び重大な公共利益に関するもの以外は、一律に法規に則って企業に決定させ、政府の投資認可は行わない」、「中央政府のミクロ・コントロール手段を最大限減少させ、市場メカニズムで調整可能な経済活動に対する許認可は一律廃止する」など、思い切った改革案が並んでいます(64ー69p)。
さらには少子高齢化を招いている「一人っ子政策」に対しても、「両親いずれかが一人っ子なら、二人の子どもを生育してよい」とする緩和が盛り込まれました(82p)。
もちろん、これらの方針がどの程度実行されるかは、今後の展開とトップの習近平をはじめとする政治指導部のやる気と力が鍵になります。
また、著者は、第3章で「土地制度改革がバブル崩壊の引き金を引くのではないか?」、「「都市農村発展の一体化」という方針が都市化を阻むのではないか?」といった三中全会の改革案に対する懸念を表明し、さらに第4章では、中国経済が近々崩壊するといったことはないが、長期的に見ると中国の国家財政の持続可能性を心配しています。
「中国は急激な少子高齢化が目前に迫っているのに、おそろしいことに年金支払の原資の積立がほとんどない」(109p)そうで、今の財政状況は心配なくとも、長期的な国家財政の見通しは決して楽観視できるものではありません。
ここまでは本書の前半で、著者の専門である経済について取り扱った部分。第5章以降は中国の政治についての分析になります。
ここからは著者の専門から離れるということもありますし、また中国の政治というものがどのようなメカニズムで動いているのかが個人的によくわからないため、ここで評価するのは難しいです。
ただ、個人的に興味を引いたのは、「習近平は強い指導者だ」という点と、中国のここ最近の防空識別圏の設定などに見られるタカ派的姿勢を、中国の「心理的バブル」と「二期目のオバマ政権の内向きさ」に見ている点。
習近平というと、守旧派と改革派の妥協の結果リーダーに押し上げられた人物で、二世政治家である太子党の代表的存在、といったイメージが有りますが、著者は三中全会の決定などは習近平の強いリーダーシップによって行われたものであり、「習近平主席は、すでに久しく見なかった「強くて怖い指導者」にすでになっている」(163p)と見ています。
ただ、一方で第9章では防空識別圏の問題において、人民解放軍を抑えるほどには、「力は備わっていない」(217p)とも見ており、ややちぐはぐな印象も受けます。
一方、中国の「心理的バブル」と「二期目のオバマ政権の内向きさ」については、「なるほど」と思える分析がありますし、安部首相の靖国神社参拝問題についても、著者の見解には基本的に同意できます。
全体的に、経済面をあつかった前半のほうがやはり読み応えがあると思いますが、後半にもいくつか鋭い指摘があり、今の中国を知る上ではいい本だと思います。
ただ、やはり著者の問題意識を知るには『中国台頭の終焉』を読むことが必要だとも思いますので、未読の人はまず『中国台頭の終焉』から読んだほうがいいかもしれません。
中国停滞の核心 (文春新書)
津上 俊哉
4166609572
『中国台頭の終焉』は、「リーマン・ショック後に行われた4兆元投資の問題」、「「国進民退」という言葉に代表される経済制度の問題」、「出生率が1.18にまで落ち込んだ少子高齢化の問題」という3つの問題を指摘し、「中国が米国を追い抜く日はこない」と結論づけた本でした。
そして、前作から約1年後に出版されたこの本では、その予想の中間報告と、尖閣諸島を含む防空識別圏問題、安部首相の靖国神社参拝問題など、政治的にホットな話題についての分析が行われています。
目次は以下のとおり。
序章 瀬戸際の中国経済
第1章 「7%成長」のまやかし
第2章 「三中全会」への期待と現実
第3章 これが三中全会決定の盲点だ
第4章 「中国経済崩壊」は本当か
第5章 「経路依存性」との闘い
第6章 危機が押し上げた指導者・習近平
第7章 米中から見た新たな世界―二冊の本を読んで
第8章 「ポスト・中国バブル」期の米中日関係
第9章 中国「防空識別圏」問題の出来
第10章 安倍総理の靖国参拝
第11章 中国「大国アイデンティティ」の向かう先
第12章 当面の日中関係に関する提案―尖閣問題に関する私的な提言
まず、はじめにあるのが、「リーマン・ショック後に行われた4兆元投資の問題」の後始末をめぐる問題。
著者は「4兆元投資」によって、「過剰投資」、「過剰債務」、「物価上昇」、「シャドーバンキング」といった問題が出てきており、一時的に低成長を受け入れない限り、中国経済の健全な発展は望めないと考えています。
李克強首相の行う経済運営「リコノミクス」では、当初は「成長率が7%と割ることもやむなし」といった見方をもっていたと思われていましたが、2013年7月の経済情勢座談会で事実上「7%の成長率が下限」との方針を打ち出しており(36p)、中国の「過剰投資」の問題は今しばらく続きそうな状況です。
しかし著者は、電力消費や貨物の荷動きなど、信頼性に乏しい中国の経済統計の中でも比較的信頼のおける数字をみる限り、現在の成長率は7%に達しておらず(42ー43p)、「足許の成長率は、7%はおろか5%にも達していないのではないか」(45p)と見ています。
このように「リーマン・ショック後に行われた4兆元投資の問題」についての著者の見方は厳しいのですが、一方で、中長期的な問題である「「国進民退」という言葉に代表される経済制度の問題」、「出生率が1.18にまで落ち込んだ少子高齢化の問題」に対しては、2013年11月に開催された三中全会でかなり前向きな対策が打ち出されたと見ています。
三中全会については、閉幕後すぐに出された「公報」については目新しい施策がほとんどなく、「失望」の色が強かったとのことですし、実際の報道もそうだったと記憶しています。
ところが、著者によれば、その後に発表された「結果前文」に盛り込まれたのは「「空前の改革」メニュー」(62p)だというのです。
改革メニューについては確かにてんこ盛りで、どのような内容なのかは実際にこの本を読んで欲しいのですが、例えば、「国進民退」(国営セクターが伸び私企業の伸びが抑えられる)の問題に対しては、「民営企業の経済財産権の不可侵」「民営企業差別の縮小」、さらには「国有セクターの選択と集中(非公有制で構わない分野は任せる)」、「競争を歪める優遇策を厳禁」、「国家安全、環境安全を除く他、重大な生産力の全国配置、戦略性資源及び重大な公共利益に関するもの以外は、一律に法規に則って企業に決定させ、政府の投資認可は行わない」、「中央政府のミクロ・コントロール手段を最大限減少させ、市場メカニズムで調整可能な経済活動に対する許認可は一律廃止する」など、思い切った改革案が並んでいます(64ー69p)。
さらには少子高齢化を招いている「一人っ子政策」に対しても、「両親いずれかが一人っ子なら、二人の子どもを生育してよい」とする緩和が盛り込まれました(82p)。
もちろん、これらの方針がどの程度実行されるかは、今後の展開とトップの習近平をはじめとする政治指導部のやる気と力が鍵になります。
また、著者は、第3章で「土地制度改革がバブル崩壊の引き金を引くのではないか?」、「「都市農村発展の一体化」という方針が都市化を阻むのではないか?」といった三中全会の改革案に対する懸念を表明し、さらに第4章では、中国経済が近々崩壊するといったことはないが、長期的に見ると中国の国家財政の持続可能性を心配しています。
「中国は急激な少子高齢化が目前に迫っているのに、おそろしいことに年金支払の原資の積立がほとんどない」(109p)そうで、今の財政状況は心配なくとも、長期的な国家財政の見通しは決して楽観視できるものではありません。
ここまでは本書の前半で、著者の専門である経済について取り扱った部分。第5章以降は中国の政治についての分析になります。
ここからは著者の専門から離れるということもありますし、また中国の政治というものがどのようなメカニズムで動いているのかが個人的によくわからないため、ここで評価するのは難しいです。
ただ、個人的に興味を引いたのは、「習近平は強い指導者だ」という点と、中国のここ最近の防空識別圏の設定などに見られるタカ派的姿勢を、中国の「心理的バブル」と「二期目のオバマ政権の内向きさ」に見ている点。
習近平というと、守旧派と改革派の妥協の結果リーダーに押し上げられた人物で、二世政治家である太子党の代表的存在、といったイメージが有りますが、著者は三中全会の決定などは習近平の強いリーダーシップによって行われたものであり、「習近平主席は、すでに久しく見なかった「強くて怖い指導者」にすでになっている」(163p)と見ています。
ただ、一方で第9章では防空識別圏の問題において、人民解放軍を抑えるほどには、「力は備わっていない」(217p)とも見ており、ややちぐはぐな印象も受けます。
一方、中国の「心理的バブル」と「二期目のオバマ政権の内向きさ」については、「なるほど」と思える分析がありますし、安部首相の靖国神社参拝問題についても、著者の見解には基本的に同意できます。
全体的に、経済面をあつかった前半のほうがやはり読み応えがあると思いますが、後半にもいくつか鋭い指摘があり、今の中国を知る上ではいい本だと思います。
ただ、やはり著者の問題意識を知るには『中国台頭の終焉』を読むことが必要だとも思いますので、未読の人はまず『中国台頭の終焉』から読んだほうがいいかもしれません。
中国停滞の核心 (文春新書)
津上 俊哉
4166609572
- 2014年03月09日00:31
- yamasitayu
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忙しいはずの現役政治家が書いた本というのは、だいたいにおいてつまらないわけで、現東京都知事の著者の書いたこの本についても、そうした心配をする人はいるかもしれません。
しかし、その点は心配ありません。この本の原稿は東京都知事選挙の前に書かれており、中身はしっかりとしていますし、参議院議員を辞めたあとに書かれているのでかなり生々しい内容にも踏み込んでいます。
内容は、2005年の10月に発表された自民党の「新憲法草案」(第一次草案)の起草過程の舞台裏と、その自民党が2012年に発表した「日本国憲法改正草案」(第二次草案)への批判。
著者は第一次草案をつくったときの、自民党新憲法起草委員会の事務局次長としてこの草案の作成に深く携わっており、取りまとめの実働部隊として動いた中心人物でした。
舛添要一というと、先日の都知事選で自民党の支援を受けて当選したことから、第二次草案に見られる「復古的」な価値観をもつ人間では?と思う人もいるかもしれませんが、「憲法とは、国家権力から個人の基本的人権を守るために、主権者である国民が制定するものである」(3p)という、きわめてまっとうというか、常識的なところを押さえている人であり、その憲法についての味方については頷く部分も多いです。
例えば、自民党の第二次草案では、家族について定めた憲法第24条に関して、「家族は、互いに助け合わなければならない」という規定を追加しています。
これに対して著者は、「立憲主義の立場からは、「家族は国の保護を受ける」とすべきであって、家族構成員間の相互扶助などは憲法に書くべきではない。それは道徳の問題である」(4-5p)としています。
また、最近の「生活保護バッシング」についても、この条文に関連して、「この問題に取り組むという短期的観点から、憲法改正をして、憲法を武器にして迫るというのは、立憲主義的憲法を持つ国のなすべきことではない」(123p)と述べています。
この著者の「目先の問題解決策を憲法に求めてはならない」というのはその通りでしょう。この本には、他にも文教族で自らも学校法人の経営に携わるある議員が、教育に関する26条に「この第2項に、義務教育は小学校6年、中学校3年とする」という文言を追加してくれといってきたことに呆れたというエピソードが載っていて、それに対して著者は「そもそも、小中学校を何年制とするかは、時代の要請などで変わりうるし、法律で決めれば良いことで、憲法レベルで書くことではない」と批判しています(177ー178p)。
この議員の要請の背景には、義務教育への国庫負担金や私学助成を守りたいという思いがあるのでしょうけど、憲法というのはそういった個別的な事柄を書き込むものではないはずです。
ただ、第二次草案で問題になった、「公共の福祉」を「公益及び公共の秩序」と書きなおす点は、実は第一次草案ですでに登場しており、これについて著者は次のように述べています。
この本を読むと、第一次草案が国会で公明党や民主党の協力を得て3分の2の多数を得るために、「復古的」な表現や、賛否が割れる問題を慎重に取り扱ったのに対し、自民党が野党だった時代にとりまとめた第二次草案には、そういった配慮がまるで見られないということがわかると思います。
また、何といってもこの本で面白いのが自民党政治の舞台裏。
最後の郵政解散をめぐる駆け引き的な部分も面白いですし、個々の政治家についての描写もなかなか面白い。
例えば、森喜朗元首相に関して、著者は「偉大なる真空」と評し、「大所高所から日本の行く末を案じ、右から左まで、あらゆる意見を聞き取り、最適の落とし所を考える」(179p)人としています。一方、直後に森元首相が引退するときに「君は僕にいろんな借りがあるね」と言われたエピソードを紹介しており、いかにも自民党的な政治の姿がそこから垣間みえます。
そして、個人的に一番ウケたのが前文をめぐるエピソード。
中曽根元首相が「我ら日本国民はアジアの東、太平洋の波洗う美しい北東アジアの島々に歴代相承け」とはじまる前文の案を提出したところ、すかさず「日本海はどうした」と日本海側から選出された議員が文句をつけ、結局、「日本海」を入れることにしたという話(68ー70p)。
最終的にはその時の小泉首相の判断もあって、自然描写や歴史描写を含んだ中曽根私案は却下されるのですが、このあたりの議論もいかにも自民党的だな、と。
このように、タイトルに「オモテとウラ」とあるように、「オモテ」の議論だけでなく、「ウラ」の議論や駆け引きを知ることができるのも、この本の面白さの一つだと思います。
憲法改正のオモテとウラ (講談社現代新書)
舛添 要一
4062882515
しかし、その点は心配ありません。この本の原稿は東京都知事選挙の前に書かれており、中身はしっかりとしていますし、参議院議員を辞めたあとに書かれているのでかなり生々しい内容にも踏み込んでいます。
内容は、2005年の10月に発表された自民党の「新憲法草案」(第一次草案)の起草過程の舞台裏と、その自民党が2012年に発表した「日本国憲法改正草案」(第二次草案)への批判。
著者は第一次草案をつくったときの、自民党新憲法起草委員会の事務局次長としてこの草案の作成に深く携わっており、取りまとめの実働部隊として動いた中心人物でした。
舛添要一というと、先日の都知事選で自民党の支援を受けて当選したことから、第二次草案に見られる「復古的」な価値観をもつ人間では?と思う人もいるかもしれませんが、「憲法とは、国家権力から個人の基本的人権を守るために、主権者である国民が制定するものである」(3p)という、きわめてまっとうというか、常識的なところを押さえている人であり、その憲法についての味方については頷く部分も多いです。
例えば、自民党の第二次草案では、家族について定めた憲法第24条に関して、「家族は、互いに助け合わなければならない」という規定を追加しています。
これに対して著者は、「立憲主義の立場からは、「家族は国の保護を受ける」とすべきであって、家族構成員間の相互扶助などは憲法に書くべきではない。それは道徳の問題である」(4-5p)としています。
また、最近の「生活保護バッシング」についても、この条文に関連して、「この問題に取り組むという短期的観点から、憲法改正をして、憲法を武器にして迫るというのは、立憲主義的憲法を持つ国のなすべきことではない」(123p)と述べています。
この著者の「目先の問題解決策を憲法に求めてはならない」というのはその通りでしょう。この本には、他にも文教族で自らも学校法人の経営に携わるある議員が、教育に関する26条に「この第2項に、義務教育は小学校6年、中学校3年とする」という文言を追加してくれといってきたことに呆れたというエピソードが載っていて、それに対して著者は「そもそも、小中学校を何年制とするかは、時代の要請などで変わりうるし、法律で決めれば良いことで、憲法レベルで書くことではない」と批判しています(177ー178p)。
この議員の要請の背景には、義務教育への国庫負担金や私学助成を守りたいという思いがあるのでしょうけど、憲法というのはそういった個別的な事柄を書き込むものではないはずです。
ただ、第二次草案で問題になった、「公共の福祉」を「公益及び公共の秩序」と書きなおす点は、実は第一次草案ですでに登場しており、これについて著者は次のように述べています。
改正を国民に提案するときには、プレゼンテーションの仕方もまた大きく影響する。発議要件の緩和にしろ、「公共の福祉」を「公益及び公共の秩序」と言い換えることにしろ、「第一次草案」のときにすでに提案しているのであるが、何ら批判は受けなかった。
ところが、「第二次草案」は同じことを言っているのに、護憲派からは猛反発である。国会議員や有識者などが、「舛添さんのまとめた一次案はよかった。それと違って、発議要件緩和だの、『公共の福祉』の言い換えだの、二次案は、全くひどいものだ」と、私によく言ってくるが、静かに苦笑するのみである。(236p)
この本を読むと、第一次草案が国会で公明党や民主党の協力を得て3分の2の多数を得るために、「復古的」な表現や、賛否が割れる問題を慎重に取り扱ったのに対し、自民党が野党だった時代にとりまとめた第二次草案には、そういった配慮がまるで見られないということがわかると思います。
また、何といってもこの本で面白いのが自民党政治の舞台裏。
最後の郵政解散をめぐる駆け引き的な部分も面白いですし、個々の政治家についての描写もなかなか面白い。
例えば、森喜朗元首相に関して、著者は「偉大なる真空」と評し、「大所高所から日本の行く末を案じ、右から左まで、あらゆる意見を聞き取り、最適の落とし所を考える」(179p)人としています。一方、直後に森元首相が引退するときに「君は僕にいろんな借りがあるね」と言われたエピソードを紹介しており、いかにも自民党的な政治の姿がそこから垣間みえます。
そして、個人的に一番ウケたのが前文をめぐるエピソード。
中曽根元首相が「我ら日本国民はアジアの東、太平洋の波洗う美しい北東アジアの島々に歴代相承け」とはじまる前文の案を提出したところ、すかさず「日本海はどうした」と日本海側から選出された議員が文句をつけ、結局、「日本海」を入れることにしたという話(68ー70p)。
最終的にはその時の小泉首相の判断もあって、自然描写や歴史描写を含んだ中曽根私案は却下されるのですが、このあたりの議論もいかにも自民党的だな、と。
このように、タイトルに「オモテとウラ」とあるように、「オモテ」の議論だけでなく、「ウラ」の議論や駆け引きを知ることができるのも、この本の面白さの一つだと思います。
憲法改正のオモテとウラ (講談社現代新書)
舛添 要一
4062882515
- 2014年03月02日23:36
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
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