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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2010年08月

「格差」や「貧困」が問題となっている中で、クローズアップされてきている生活保護。その実態と生活保護をめぐる新たな取り組みについてレポートした本です。
著者は北海道新聞の記者ですが、『イワシはどこへ消えたのか』などの評判のいい著作もある人物で、この『ルポ 生活保護』もバランスのとれた非常によい本に仕上がっていると思います。

この本の冒頭は釧路市の生活保護の実態のレポートから始まっています。
釧路市の生活保護受給者はおよそ市民の20人に1人。
そして著者はこの状態を次のように書いています。
「基幹産業である水産業が釧路市で生み出した付加価値は71億円。酪農を中心とした農業、林業を加えた一次産業全体で111億3千万円で、ほぼ生活保護費に匹敵する金額になる。〜釧路市の生活保護は受給者の生活を支えるだけでなく、地域経済を支える「第四の基幹産業」になっている」(はしがきvi)


こんな風に始まるので、この本は北海道の釧路という衰退しつつある街での生活保護をめぐる悲惨な実態のルポなのかと身構えてしまいますが、そんなことはありません。
確かに厳しい実態も紹介していますが、それ以上に生活保護の問題点、そして生活保護をめぐる釧路市の新しい取り組みについてルポがメインと言っていいでしょう。

最近、ワーキングプアに比べて生活保護が「恵まれている」との指摘を目にすることがありますが、確かに支給額だけを見ると生活保護は恵まれています。
この本でとり上げられている洋子さんと女性は、一度生活保護を受けて、そこから仕事を見つけて保護から抜けた子持ちの女性なのですが、彼女は「生活保護を受けたら、離婚前、夫の給料でやりくりしていたときよりも、ぜんぜんリッチなんです」(49p)と言っています。
生活保護家庭では医療費などもタダですから、埼玉大の長友祐三氏の研究によると、働いている世帯が保護基準と同じ水準の生活をするために必要な所得は335万円(117p)。
ある意味で、保護世帯はかなり恵まれていると言っていいでしょう。

ところが、生活保護は貯金などをすべて吐き出した上で初めて受給が認められる制度で、いわば「丸裸になった人に着物を着せる」制度です。保護を受けるためのハードルは高く、ある意味でプライドを捨てないと受けることができません。
ですから、なかなか受給できないが一度受給してしまえばそこそこリッチという状況になっており、保護世帯はなかなか保護から抜け出さず、一方で財政負担を避けたい自治体は「水際作戦」で生活保護を申請する人を追い返すという非常に不幸な状況になっています。

この本ではそういう生活保護の抱える実態を丁寧に説明しつつ、さらに「自立」の問題をとりあげます。

生活保護において、受給者は無職であることが多く、また買物なども頻繁にはできないために、受給者は社会から孤立しているケースが多いです。
そして、この「孤立」が「経済的な自立」を阻んでいることもあります。
そこで釧路市では、生活保護者にボランティアへの参加などさまざまなプログラムを用意し、ボランティアでの社会参加から就労へという道筋をつくっています。
特に生活保護家庭の子どもの勉強会に、生活保護受給者がチューターとして参加しているケースは個人的に非常によいものだと感じました。

「もっと不正受給などの実態もとり上げるべきだ」との考えもあるかもしれませんが、生活保護の制度とこれからの姿を考える上で、この本は非常に参考になる本だと思います。

ルポ 生活保護―貧困をなくす新たな取り組み (中公新書)
本田 良一
4121020707

副題は「ピースボートと「承認の共同体」幻想」。社会学を専攻する院生である著者が自らピースボートの世界1周クルーズに乗り込んで参与・観察を行い、さらに理論面からの考察を行った本です。

ピースボートと言うと、辻元清美の朝ナマ出演時の肩書きとして、あるいは飲食店によく貼ってあるポスターで知っている人も多いと思います。
「辻元清美が代表だったしガチガチの左翼系団体なのか?」、「それにも関わらずなんであんなにたくさんポスターを見かけるのか?」、「世界1周クルーズと言うけどどんな活動をしているのか?」など、ピースボートについていろ色な疑問を持つ人は多いとおいますが、この本はまずそれらの疑問に答えてくれます。

例えば、ポスターに関してはボランティアとしてポスターを3枚貼るごとにクルーズ料金1000円分が割り引かれる仕組みがあり、中にはポスター貼りだけでクルーズの料金を全部払った猛者もいるそうです。
また、政治活動に関しては別に強制されるわけではないそうですが、「9条ダンス」や船内で他の国の国旗はういいのに日の丸を掲げてはいけないなどの左翼的な部分はあるそうです。

そういったピースボートに内幕についての部分もなかなか面白いのですが、この本のメインとなるのはそのピースボートの船に乗り込んだ若者たちの分析。
著者は若者たちを「セカイ型」、「文化祭型」、「自分探し型」、「観光型」の4つの類型に分けて分析していますが、共通するのは「自分探し」が一つのテーマになっていること。
「日常を抜け出したい」、「やりたいことを見つけたい」、「広い世界を見たい」など、若者たちの乗船動機は見事に「自分探し」的で、世界の問題に多少の興味は持ちつつも、具体的な知識はない。
彼らにとって「世界」はあくまでも抽象的な「世界」で、特に具体的な解決方法を模索したり、下船後に具体的なアクションを起こす人は少ないとのことです。
このあたりの口当たりのいい曖昧な意識みたいなものは次の引用箇所からもうかがえます。
ピースボートも「世界平和」という曖昧な集合目標が理念の核である。曖昧であるからこそ反対もできないし、分裂が起こることもない。実質的な共同性を支えるのは、「世界平和」という理念よりも、24時間同じ船上にいることが担保する濃密なコミュニケーションそのものである。(200-201p)

「想い」や「願い」によって平和を実現しようとする姿勢は、船内トラブルの時も同様だった。〜何度もピースボート側と対話を繰り返し待遇の改善を訴える年配者に対して、若者たちは署名で「夫婦げんかを見ているようでとても悲しい」と嘆き、レセプション前の事件でも泣き崩れることしかできなかった。(202-203p)


上の引用文に出てくるように、ピースボートには50代・60代の年配の客も乗っており、「お客様」的に振る舞う年配客と、「みんなで仲良く」的な感覚の共同体を作ろうとする若者たちの姿は対照的です。現在の若者のいい意味でも悪い意味でも特徴であるナイーブさがあますとこなく描かれている感じです。

さらに著者は、ピースボートが一種の「あきらめの共同体」として機能したのだと主張します。
つまりピースボートという「承認の共同体」は、社会運動や政治運動への接続性を担保するどころか、若者たちの希望や熱気を「共同性」によって放棄させる機能を持つと言える。それは〜ブルデューの提出した「社会的老化」という概念に近い。(244-245p)

ピースボートで知り合った若者たちは、その後も連絡を取り合い、人によってはルームシェアをしてつながりを維持します。
ところが、ピースボートをきっかけに社会運動などを始める人はほとんどいません。「世界平和」のために「共同性」が組織されたのではなく、「共同性」をつくりだすために「世界平和」の理念やピースボートという閉鎖的な非日常空間が利用されたというのが著者の見立てです。
本書で見てきたのは、「居場所」という「共同性」に回収されてしまうことで、当初の「目的性」が冷却されてしまう可能性だ。仲間がいて楽しければ、もう社会変革とかはどうでもよくなってしまうのではないか。(260p)

このように若者を「あきらめさせる」装置として働くピースボート。ところが、著者はこの「あきらめ」の装置を「それでもいい」と評価します。
このあたりは解説を書いた本田由紀と意見が衝突する所ですが、個人的には本田由紀の意見よりは著者の意見にやや賛成です。

ただ、この辺りの議論は著者のオリジナルではなく、宮台真司の「まったり革命」とかとほぼ同じです。最近の若い書き手には「宮台チルドレン」的な人物が多いですが、この著者もそういった一人と言っていいでしょう。
文体はやや面白さを狙おうとしてうるさい感じがあるので好みがわかれる所だと思いますが、ルポとしても社会が気的な分析としても面白い本だと思います。

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)
古市 憲寿 本田 由紀
4334035787


3カ月前に光文社新書から『日本の大問題が面白いほど解ける本』を出した高橋洋一ですが、今度はちくま新書から『日本経済のウソ』。タイトルからすると、両方とも同じような内容に思えますが、前著が「民主党の経済政策を斬る」といった本だったのに対して、今回の本は「日本銀行の政策を斬る」といった趣きで、主にマクロ経済と金融政策が話題の中心となっています。

デフレと日本の不況に関しては「ユニクロがデフレの元凶!」といった失笑ものの議論から、「中国をはじめとする新興国の台頭のものではデフレは仕方がない」、「日本銀行にできることはもうない」、「デフレよりも財政破綻を心配すべき」といった、それなりに根拠のありそうな議論までいろいろありますが、この本を読めばデフレ対策の重要性と」日銀にできることがまだまだ残っていることがわかるのではないでしょうか。

特に日銀の政策については、テイラー・ルールもちいた理論面から、大恐慌の経験をはじめとする歴史的側面から、そしてリーマン危機後の各国の対策の国際比較の面から批判を行っています。
「ゼロ金利のもとで中央銀行の行えることは限られている」という意見もそれなりに正しい面はあるとは思いますが(確かに人々のインフレ期待というものは確実に作り出せるものではないですから)、「少なくとも過去に行った量的緩和は復活させるべきだろう」という著者の意見は非常に説得力のあるものです。

また、著者は過去に政府に内部にいただけあって、制度面についての指摘も鋭いです。
現在、経済対策を話し合うために首相と日銀総裁が会談すると言うとニュースになったりしますが、これがニュースになるのは民主党が経済財政諮問会議を廃止してしまったせい。
経済財政諮問会議があれば、2週間に1度は首相と日銀総裁があってマクロ経済の問題を話し合うチャンスがあったはずなのですが、民主党政権は後継となる仕組みを整えないままに経済財政諮問会議を停止してしまったので、政府と日銀の意思疎通がますますできなくなっているのです。

高橋洋一もいろいろ本を出しているので、新鮮味に欠ける部分もなくはないですが、まだまだ引き出しのある書き手だと思います。

日本経済のウソ (ちくま新書)
高橋 洋一
4480065636


ここ最近バタバタしてまして、この本を読了したのも少し前。なので、うまくまとめられない部分もありますが、コンパクトながらなかなか興味深い本です。

著者は長年いじめを研究してきた人物ですが、教育学者ではなく社会学者。また、犯罪社会学なども専門にしている人物で、よくある教育学者のいじめ本に比べるとデータや国際比較が豊富であり、社会の構造変化にも目を配っている点が特徴と言えるでしょう。
日本社会ではいじめは大きな社会問題である。しかし、この場で出されたデータを見ると日本の子どもたちの被害経験者はオランダの半分にも満たない比率であった。オランダの数値は、いじめ問題のパイオニアであるノルウェーをもはるかに上回る。しかし、オランダでは大きな社会問題ではないという。むしろ、いじめが発展して非行や暴力とどうつながっていくのかに行政や社会の関心があるというのである。(6p)

このようにいじめは日本固有の問題ではなく、少なくとも先進国には共通してみられる問題です。
日本では80年代の早い時期からいじめ問題がさかんにとり上げられた結果、いじめは日本の「偏差値教育」や「受験戦争」などが生み出す日本固有の問題との見方が強かったですが、上記の引用部分にあるように、いじめは決して日本固有の問題ではないです。

では、なぜ日本でいじめはこれほどまでに深刻な社会問題として認識されているのか?
この本で示唆されている答えは三つほどあって、一つは上記の引用文にあるように、日本では「非行」の問題があまり深刻ではないため、いじめがクローズアップされるという点。
そしてあとの二つは、日本のいじめが「長期型」である点と、学年が上がるにつれいじめの「傍観者」が増えて行く点です。

日本、イギリス、オランダ、ノルウェーの4カ国の比較において、いじめの被害経験者は日本が最も低い割合ですが、「長期・頻回型」の被害者の占める割合では日本はトップクラスになります。
またいじめを見て見ぬふりする「傍観者」は、ヨーロッパの国々でも日本と同じように小学校の学年が上がるごとに増え続けますが、中1・中2あたりを境にして減りはじめ、いじめの仲裁しようとする「仲裁者」が増えはじめます。
ところが、日本では中学生になっても、一貫して「仲裁者」は減り続け、「傍観者」が増えつづけるのです。
これを著者は次のように書いています。
日本の子どもたちは、あたかも傍観者として育っていくことが成長であるかのような動きを示している。いつも机を並べているクラスメートがいじめられて悩んでいても、手を差しのべることもせず、見て見ぬふりをするのが大人になることであるかのような発達曲線にも見えてくる。(140p)


現代社会の分析については、比較的オーソドックスで斬新な視点はありませんし、いじめの解決方法についての具体的な提案は少ないですが、いじめの現状を考えるのにはいい本だと思います。

いじめとは何か―教室の問題、社会の問題 (中公新書)
森田 洋司
4121020669


タイトルの「芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったのか」という疑問を出発点に、夏目漱石から太宰治、そして再び村上春樹へと日本文学を論じた本。
村上春樹と「父」の関係、「夏目漱石の『坊ちゃん』のヒロインは誰なのか?」といったことを論じた部分は面白く、読ませます。
ただ、一方で全然ダメな部分もあり、なかなか評価が難しい本ですね。

「芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったのか」という問いで始まるこの本は、加藤典洋が『アメリカの影』でとり上げた江藤淳の村上龍『限りなく透明に近いブルー』への否定と田中康夫『なんとなく、クリスタル』への高評価を鍵に、日本の戦後文学と「父」、特にアメリカに負けた「恥ずかしい父」の関係を分析して行きます。
そして、そのフォーマットに村上春樹が合わない、つまり「父」を描こうとしない村上春樹の姿勢が芥川賞を遠ざけたと考えます。
やや不十分な部分もありますが、この分析はなかなか説得力のあるもので、読んでいても面白いです。

ただ、これにつづく太宰の『走れメロス』を論じた部分はなかったほうがいいと思う。
『走れメロス』の感動の理由を、エヴァンゲリオンや『ALWAYS 三丁目の夕日』を引用しながら「夕陽」の求めている訳ですが、それはどうかと。
確かに『走れメロス』の設定は無茶苦茶ですが、感動させる要因を一つ挙げるとするならば、あの切迫感のある文体でしょう。

つづく、「『坊ちゃん』のヒロインは誰なのか?」という問題を論じた部分は面白い。
『坊ちゃん』のヒロインは清であり、そこから『坊ちゃん』における「明治的なもの」と「江戸的なもの」の対立を取り出す分析は、この本の中で一番うまく行っている部分と言っていいでしょう。

最後にこの本はまた村上春樹に戻ってきます。
自らの父について語りたがらず、言葉少なに「父とはうまくいっていない」と言う村上春樹。そんな村上春樹は、近年、「蜂蜜パイ」や『1Q84』で、登場人物を「父親」にならせようとしており、著者はそこに村上春樹の変化を見ます。
これはその通りだと思うのですが、ここで著者は大事なことを取り逃がしていると思う。

第十一章にオランダ生まれのジャーナリスト、イアン・ブルマが村上春樹に行ったインタビューが次のように引用されています。
村上は自分の父親について話しはじめた。父親とは今では疎遠になっており、滅多に会うこともないということだった。(...)村上は子供の頃に一度、父親がドキッとするような中国での経験を語ってくれたのを覚えている。その話がどういうものだったのかは記憶にない。(...)「聞きたくなかった」と彼は言った。「父にとっても心の傷であるに違いない。だから僕にとっても心の傷なのだ。父とはうまくいっていない。子供を作らないのはそのせいかもしれない」(241p)

ここまでくれば、村上春樹にとっての「恥ずかしい父」というのは日本文学に登場する「恥ずかしい父」とは少し異質なものだということがわかるのではないでしょうか?
村上春樹にとっての「恥ずかしい父」は「アメリカに負けた父」ではなく、「中国を侵略した父」であり、だからこそ村上春樹は「アメリカの影」からは自由であった。けれども、「恥ずかしい父」の問題は「父」を描かないことで指し示し続けられた。
本書では、なぜか村上春樹と中国の関係がクローズアップされていませんが、個人的にはこういう図式だったのでは?と思います。

他にも余計な記述があって少し読みにくいのがこの本の欠点。また、ユーモアを狙っているのかもしれませんが、ユーモアの冴えもあまりないです。
ただ、いろいろなことを読み手に考えさせるという点ではいい本なのかも知れません。

芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか―擬態するニッポンの小説 (幻冬舎新書)
市川 真人
434498174X


「はじめに」にある、日本人は「無宗教」というが戦前までは国家神道の強い影響下にあったのでは?という問題意識は非常によいと思うのですが、残念ながら中身は面白いものではありませんでした。

まず、第1章、第2章では国家神道がどのようなものかということについて論じているのですが、重複部分も多く、やや論旨がわかりにいく。
また「皇室祭祀が国家神道に含まれるか?」というのは大事な問ではあるのですが、それについての議論が何回か蒸し返されていて、肝心の「国家神道そのもの内容」が明確に述べられていません。

著者は教育勅語を国家神道の一つのキーと見ているのですが、教育勅語の起草者はこの本でも指摘されているように、儒学者の元田永孚。この国家神道における、儒教的な価値観の位置づけみたいなものを個人的にはもっと知りたかったです。
国家神道は天皇崇敬を中心とする体系化された神道なのか?それとも、神道の装飾をまとった儒教道徳なのか?そこの分析が欲しいです。

全体的に、村上重良の『国家神道』などの参照しつつ、それを批判するような記述が多いのですが、このいかにも論文的な書き方も、新書としては読みづらいものとなっています。

国家神道と日本人 (岩波新書 新赤版 1259)
島薗 進
4004312590


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★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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「西東京日記 IN はてな」で。
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