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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2024年02月

インド社会の特徴としてあげられるのが「カースト制度」です。このカースト制度のもとで「ダリト(不可触民)」と呼ばれる被差別民がいるということも知られていると思います。
ただし、このカースト制度というのはかなり複雑です。学校などではバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラという4つのヴァルナ(種姓)があるということを習うかもしれませんが、実際はもっと複雑で外部からはそう簡単には理解できないものになっています。

本書はそうしたカースト制度の実態を教えてくれるだけではなく、差別されている不可触民(ダリト)へのインタビューなどを通じて、どのように差別され、どのような生活を送り、差別についてどのように感じてるのかというとを教えてくれます。
差別というのは非常にデリケートな事柄であり、なかなか外部からは見えにくいことですが、本書はその実態に迫っています。
カースト制度を通じて、インド社会の特殊性を教えてくれると同時に、どの世界でもみられる差別の普遍性にも気づかせてくれる読み応えのある本です。

目次は以下の通り。
序章 カーストとは何か
第1章 不可触民とされた人びと―被差別集団の軌跡
第2章 差別批判と解放の模索―迷走のインド政治
第3章 清掃カーストたちの現在―社会的最下層の実態
第4章 インド社会で垣間見られるとき
第5章 世界で姿が見えるとき
終章 カーストの未来、インド社会のゆくえ

本書では、まずカーストを次のように説明しています。

カーストとは、結婚、職業、食事などに関してさまざまな規制を持つ排他的な人口集団である。カースト間の分業によって保たれる相互依存の関係と、ヒンドゥー教的価値観によって上下に序列化された身分関係が結び合わさった制度をカースト制と呼ぶ。(5-6p)

もともと「カースト」は外来語で、ポルトガル語の「血筋、人種、種」などを意味する「カスタ」に由来します。
このカーストには、インド社会における「ヴァルナ」と「ジャーティ」という2つの概念が含まれています。
ヴァルナは北方からインドに侵入したアーリヤ人が持ち込んだものと言われ、紀元前8〜7世紀に成立したと言われます。バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラという4つの区分があり、さらに紀元後4〜7世紀にシュードラの下に不可触民=ダリトというカテゴリーが付け加えられたと言われます。
このカーストをイギリスが植民地支配に利用したことが、曖昧で体系だっていなかったカースト集団やカースト制の概念を実体化させたともいいます。
ただし、著者は「カーストはイギリスによってつくられた」という見方は誤りだといいます。
例えば、ガーンディーはイギリスの植民地支配に抵抗しましたが、職業の世襲を重視し、カーストを「健全な分業」とし、「優劣のないカースト」を求めていました。カーストはインド社会における巨大な分業の体系でもあるわけです。

現在では、ダリトに対する暴力や差別的行為はインドの憲法や法律で明確に禁止されています。
農村では差別的習慣が残っているものの、都市部ではそのような習慣が大っぴらになることはありませんし、清掃カーストを指す「バンギー」という呼称も差別用語として使われなくなっています。
それでも差別がなくなったとは言えず、さまざまな場面で顔をのぞかせるのです。

紀元前6世紀頃のインドにはさまざまな賤民集団がおり、仏典には「チャンダーラ」と呼ばれる身分が登場します。
チャンダーラは、シュードラの男とバラモンの女の混血に由来するとも言われますが、チャンダーラは上位のカーストのものが不浄なものとして忌み嫌う、死刑執行、動物の死体処理、清掃、土木作業などに従事していました。
紀元後になると隷属民とされていたシュードラと庶民であるヴァイシャの境界が曖昧になりますが、その一方で不可触民の数が増え、カテゴリーとして確立していったと考えられます。

この不可触民という身分は、イギリスの植民地支配の中で政治的に位置づけられていきます。
特に重要なのが1930年代にイギリスが導入した「指定カースト」という制度です。これは不可触民に優遇措置を講じるために不可触民という集団を公的に認知したものでした。
この集団に認定されると、国会下院、州議会下院での議席や公職の留保、教育・経済面での優遇措置などを受けられますが、集団が認定されるか否かは政治的な判断に任されています。
このようなアファーマティブ・アクションは他国では立法で行われていますが、インドでは憲法に書き込まれているのが特徴です。

不可触民=ダリトは細かい集団に分かれています。また、人口のどのくらいの割合を占めているかも州によって大きく違い、指定カーストの人口比が30%を超えるパンジャーブ州のような州もあれば、ミゾラム州では0.1%しかおらず、代わりに指定カーストと同じく政府の保護的措置を受ける「指定部族」が多いといいます(50−51p1−2参照)。
政府の保護的政策によって差はつまりつつありますが、識字率をみると、指定カーストはインドの平均に比べて低く、特に女性は低い水準にとどまっています(55p1−3参照)。
また、全体的に北部の州では指定カーストの識字率が低い傾向があります(56p1−4参照)。

同じくダリトへの差別を解消を訴えながら、そのアプローチが大きく違ったのがガーンディーとアンベードカルです。
ガーンディーが進めたのが「ハリジャン運動」です。ガーンディーらは、「不可触民を「友なく、無力で、弱い存在」として、神に保護されるべき人たちと評し、ハリジャンと表現していた」(70p)のです。
ガーンディーは不可触民の問題を差別する側の心の問題として捉え、差別する側の改心によって差別をなくそうとしました。
ガーンディーは先述のようにカーストを否定してはおらず、例えば、清掃の仕事をするバンギーを「社会全体の健康を衛生に維持により守り保障する。[中略]バンギーはすべての奉仕の基礎をなしている」(73p)と称揚することによって差別をなくそうとしました。

一方、アンベードカルは不可触民出身であり、ガーンディーのやり方を温情主義的だと考えて批判しました。
アンベードカルはダリトが今の境遇から抜け出すためには、憐憫に頼るのではなく、ダリト自身が教育を受け、従属的立場を自覚して自力で改革に取り組まなければならないと考えました。
そして、死の直前に彼と同じカーストの人々50万人とともに仏教への集団改宗を行っています。

1930年代にガーンディーとアンベードカルの間で論争が行われましたが、その争点の1つが選挙制度でした。
1919年のインド統治法で、インドでは宗教を基本とする分離選挙制度が徹底され、各教徒の人口比に応じて州立法参事会の議席が配分されることになりました。
ここで不可触民の宗教帰属が問題になります。不可触民の中からはキリスト教などへ改宗する動きがありましたが、これはヒンドゥー教の勢力衰退につながります。そこで、ヒンドゥー教徒も不可触民の問題を取り上げざるを得なくなります。

ガーンディーは不可触民は紛れもないヒンドゥー教徒という立場で、不可触民に固有の権利を認めることは分離主義につながってしまうという考えでした(実際にイスラーム教徒はパキスタンとして分離した)。
しかし、アンベードカルによれば、ガーンディーのやり方では不可触民運動から不可触民の当事者が排除されてしまうといいます。アンベードカルは分離選挙によって不可触民が議会に代表を送ることが重要だと考えました。
結局、ガーンディーが命がけの断食を行うことで、アンベードカルの妥協を引き出します。分離選挙は行われず、不可触民の留保議席を増やすことで決着がつきました。

独立後、しばらくは経済開発と民主化によって差別は解消されるだろうという楽観的な見通しがありましたが、うまくいきませんでした。
1967年に国民会議派が初めて国会での優位を失うと、貧困問題への取り組みが重要視されるようになり、60年代末から指定カースト向けの政策が拡充されていきます。
1980年代になると、留保政策の影響もあって指定カースト出身者の社会進出が進みます。ただし、1991年に経済の自由化が始まると、指定カーストの最大の受け皿であった公務員の採用数が減少していくことになります。

インド政府は特に不浄視されている屎尿処理人の境遇を改善するための政策を打ち出していきますが、その政策の柱の1つは水洗便所の設置や乾式便所の改善で、差別をなくすというよりは、その仕事をしなくてすむようにするものでした。
しかし、従来の乾式便所がどれくらい残っているのか、屎尿処理人の転職は進んだか、といったデータは不十分で、十分に効果をあげているかどうかはわからないといいます。

ダリトの中でも最下層と位置づけられているのが屎尿処理人を含む清掃カーストです。
その起源は意外に新しいとも言われ、イギリス植民地支配の中で都市が発展し乾式便所が普及してから集団が形成されたという研究もあるそうです。
ただし、デリーの場合だと、農村の掃除や動物の死骸の処理などを行っていた「チューラー」と呼ばれるカーストが都市の清掃を担うようになったと言われるように、以前から差別されていた階層の人々だったようです。そして、清掃カーストにも呼び名のちがったさまざまな集団があります。

ダリトの職業はヒンドゥー教の浄/不浄の概念と強く関わっています。死に関するもの、排出物、廃棄物、血液などに接触するものは不浄とされ、ダリトの仕事とされてきました。
2011年の国勢調査によれば、インドではトイレのない世帯が53.1%、農村部では69.3%だったそうですが、これはトイレを不浄とみなすヒンドゥー教の考えにより、家の中にトイレを作ることを敬遠することも背景にあるといいます。

カーストと職業の結びつきは産業構造の変化や村落共同体の衰退によって緩和されつつあるといいます。
ただし、清掃カーストについては他のダリトカーストに比べ職業との結びつきがむしろ強まっていると言われます。急速な都市化によって清掃の仕事が増えていること、清掃カースト出身者が他の仕事につける機会が十分でないことなどが原因だと考えられます。
一方、皮革カーストの「チャマール」は、多くの清掃カーストよりも識字率や高等教育への進学率が高く、他産業へと進出しています。

ここでは基本的に文献資料を通じてカーストのことが解説されてきましたが、第4章では実際の著者の体験やインタビューを通じてカーストの実態が語られています。

ヒンドゥー教では、浄/不浄の考えから、食事では菜食主義が良く、肉を食べるとしても豚は不浄であり、避けるべきものとされています。また飲酒も避けるべきものとされています。特にガーンディーは禁酒運動を推進しました。
一方、豚はダリトにとって貴重なタンパク源であり、飲酒をするダリトも多いです。ただ、これには屎尿処理人などは、酒でも飲まなければ強烈な匂いの中で作業はできないという面もあるようで、仕事前に飲まざるを得ないという人もいるといいます。
飲食に関して、インドでは「誰と食べるか?」というのはデリケートな問題で、上位カーストは自分よりも下位のカーストから不浄性が感染しないように注意を払っています。
その一方で、ダリトの従属性を示すための行為として、ダリトに残飯が与えられるという行為があります。
屎尿処理を行っている女性によると、残飯は「手渡しではなく。いったん床に投げられるか、置かれるのよ」(158p)とのことで、店などでもダリトには釣り銭を投げて渡すことも多いといいます。
こうしたことがあるせいか、ダリトの集会では集会後に食事が提供され、みんなで一緒に食べるといいます。

カーストが問題になるのが結婚です。近年ではカーストの壁を乗り越えてダリトカースト出身者が上位カースト出身者が結ばれるケースもありますが、それが相手方の家族や親族との軋轢を引き起こし、場合によっては暴力事件に発展するケースもあるといいます。
特にカーストの高い女性とカーストの低い男性の結婚は忌み嫌われ、家の「名誉を守る」ために殺人事件が起こることもあります。

本書では具体的なカーストを超えた結婚の例が2つ紹介されています。
一人はディーピカー(仮名)という女性で、バールミーキ出身ながら名門大学の助教という地位でカーストの異なる男性と恋愛結婚しています。
ディーピカーがこの地位につけた背景には、父親が大学の清掃職をしており、彼女が11歳のときに父親は亡くなってしまったものの、長女がその職を継ぐことができたからだといいます。政府系の清掃職では家族がその職を継ぐ慣行がみられるのです。
長女が結婚したあとは母親が清掃職を継ぎ、ディーピカーは家族のサポートを得て進学することができたといいます。

もう一人のレーカー(仮名)は、父親は国鉄の技士である公務員で、親族に清掃員は一人もいなかったといいます。
レーカーは博士号まで取得し、34歳で同じ大学出身でバールミーキ男性と結婚しました。代理出産で息子をもうけましたが、息子にはカーストのことは知らせていないといいます。
ただし、指定カーストとして優先枠を利用するためには自らのカーストを明かす必要があり、指定カーストの留保枠を使うかどうかは一つの決断になります。

留保制度などによってダリトの生活に一定の向上は見られますが、それへの反発もみられます。
インドでは2014年にインド人民党のモディー首相が就任して以来、ヒンドゥー・ナショナリズムの風潮が強まり、ムスリムへの暴力事件などが増えていますが、ダリトを標的とした暴力もあるといいます。
政府の公式統計においても、指定カースト、指定部族を標的とした犯罪は2015年から増加傾向にあります(203p5−2参照)。
特にダリトの女性への性犯罪は増えており、2016〜19年にかけてインド全体のレイプ事件は約17%減少しましたが、ダリトカースト女性の被害件数は約37%増加しています。
また、こうした事件が起きても警察の動きが鈍い、公共的な議論が盛り上がらないといった状況もあります。

2005年におきた「ゴーハーナー事件」は、地主のカーストであるジャートとバールミーキのカースト間の争いから、ジャート側の1500〜2000人の暴徒がバールミーキの居住区を襲ったという事件で、警察や行政が予兆を掴んでいたにもかかわらず起きています。
上位カーストの中には留保制度への不満もあり、また、農村部では旧来のカーストのパワーバランスが崩れてきたことが暴力の背景にあるといいます。
さらに近年では「牛保護団」なる団体のメンバーが牛皮を運んでいたダリトを集団でリンチする事件が起こるなど、ヒンドゥー・ナショナリズムの高まりを背景とした事件も起こっています。

高学歴を得たダリトにもさまざまな抑圧はあり、2016年にはハイデラバード大学でダリト出身の大学院生ローヒト・ヴェームラーが自殺する事件が起きています。
ヴェームラーはダリトの学生団体にも関わっていましたが、インド人民党に近い民族義勇団(RSS)傘下の学生団体からの圧力などが自殺につながったとも言われています。
この事件は高学歴のダリトの若者に大きな衝撃を与え、自らダリトであることをカミングアウトする運動なども起きました。
カーストによる差別は、海外のインド人コミュニティやインド人が多く働く企業の中にもあり、BLM運動などと共振しながら、差別の撤廃を求める動きが起こっているといいます。

この海外でのカーストの問題や、映画の中に出てくる差別の一端などはコラムにまとめられており、そこも本書の読みどころとなっています。

以上のように本書はカーストという外からはわかりにくいものに肉薄した内容になっています。
前半の文献資料から組み立てている部分だけではやや漠然としている部分が、後半の著者の現地での経験やインタビューなどを通じた部分を通じて一気にクリアーになっていきます。
最初にも述べたように、本書を読むことでインド社会の特殊性と差別の普遍的な側面(日本の部落差別を思い起こさせる部分もある)が同時にわかるようになっており、インドと差別を考えるうえで重要な1冊となっています。

なかなか大きなタイトルですが、本文は230ページほどであり、当然ながら「ヨーロッパの通史」を目指した本ではありません。
著者はビザンツ帝国の経済史などを専門にしており、前半はビザンツ帝国のユスティニアヌスやカール大帝、オットー大帝などの皇帝たちの行動から、彼らを突き動かしたものを探り、そこから「ヨーロッパ」というまとまりを考えようとしています。
後半は「オイコノミア」というキーワードなどから、ヨーロッパの近代社会がいかにして立ち上がってきたのかを探る構成になっています。

古代〜中世のヨーロッパやヨーロッパの思想史や歴史学にそんなに詳しくないせいもあると思いますが、前半はいろいろと興味深かったですけど、後半は前半とのつながりや、現在とのつながりがあんまりよくわからなかった感じですね。
前半はいろいろと意欲的に掘り起こしていながら、後半はかなり保守的なヨーロッパ像に落ち着いている感じもあり、後半に関してはそれほど面白さを感じませんでした。

目次は以下の通り。

第1章 大帝を動かす〈力〉――伏流水
第2章 終末と救済の時間意識――動力
第3章 ヨーロッパ世界の広がり――外延
第4章 近代的思考の誕生――視座
第5章 歴史から現代を見る――俯瞰
おわりに――統合の基層

4世紀のテオドシウスが死に際してローマを分割してしまったことで、「ローマは終わった」という印象を持つ人もいるかもしれませんが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は長く存続していきますし、ユスティニアヌスのようにローマ帝国の版図を復活させた皇帝もいました。
本書では、ユスティニアヌスだけではなく、カールやオットー1世、バシレイオス2世を「大帝」と位置づけ、彼らの事績を辿りながら「ローマ」というものを捉え直しています。

ユスティニアヌスはローマ世界を復活させようとした皇帝でしたが、同時に「キリスト教的な皇帝」でもありました。「「世界」を救済する使命を自らの当為とした皇帝」(4p)でもあったのです。
ユスティニアヌスはマケドニア地方の農民の子として生まれ、そこから皇帝まで上り詰めました。
彼は527年に即位するとその半年後にローマ法典の編纂を命じ、のちに『ローマ法大全』と呼ばれるものが完成しました。この『ローマ法大全』は近現代ヨーロッパ諸国、とくにフランスとドイツの法の基礎となっています。
また、対外戦争によって領土を広げ、各地にキリスト教の聖堂を建設しました。ユスティニアヌスによって整備されたキリスト教機構は、それまで都市の有力者が行っていた社会機能を肩代わりするようになり、その後のヨーロッパの特徴となる社会経済構造がつくられていくことになります。

カール大帝というと、西ヨーロッパ世界を立ち上げた人物として知られていますが、本書ではその背景にイスラームのヨーロッパへの進出をみています。
北アフリカを西進したイスラーム勢力は711年にトレドを占領して西ゴート王国を滅亡させます。さらにピレネー山脈を超えてガリアにも侵攻しますが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の宮宰であるカール・マルテルに敗れたことから、さらなるヨーロッパへの進出は食い止められました。

カール大帝の父のピピンはカール・マルテルの子であり、フランク王国の王となってカロリング朝を開くと、イタリアに遠征し教皇に土地を献上します。
カールはアルプスを越えて逃れてきた教皇レオ3世を奉じてイタリアに遠征し、800年にローマ皇帝の冠を教皇から授けられます。これがいわゆるカール戴冠です。
この戴冠は必ずしもカールが望んだものではなかったとも言われます。ローマ皇帝を名乗ることはビザンツ帝国との軋轢を生むからです。
そのため、この戴冠には聖像崇敬問題でコンスタンティノープルと対立していたローマ教会の思惑があったと考えられます。ローマ教会はビザンツの普遍性を認めず、カールを「新ダヴィデ」とすることで、カールの王国を「キリスト教の帝国」にしようとしたのです。

カールの死後、フランク王国は分裂しますが、東フランク王国から出て「大帝」と呼ばれるようになったのがオットー1世です。
オットーは955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人を撃退すると「キリスト教国を救った聖戦士」と称えられるようになり、962年にローマで戴冠され、皇帝になっています。
ただし、その後のオットーはイタリアの経営に腐心します。イタリア中南部と伝統的にビザンツ皇帝の支配下にあり、オットーはビザンツとの関係改善のため、ビザンツの皇女の降嫁を打診したりもしています。オットーは、その後、息子のオットー2世にビザンツ皇帝ヨハネス1世ツィミスケスの姪のテオファノを降嫁させることに成功します。
8世紀の終わりまでにローマとコンスタンティノープルの結びつきは崩壊していましたが、それでもビザンツの中で自分たちこそが正統なローマの支配者であるという意識は残っていました。
10世紀後半に即位したバシレイオス2世は、ブルガール人を制圧し、さらに南イタリアのランゴバルド人を服属させました。
バシレイオス2世の時代には、キエフ公国のウラディミル1世がキリスト教の信仰を受け入れていますが、こうしたことも世界に「平和」をもたらす出来事として認識されました。

このように10世紀前後は、西と東に「大帝」と呼ばれる人物が出現し、精力的に活動を行いました。
この背景に著者は「シュビラ」と呼ばれる預言書の存在があると指摘しています。
シュビラとは本来、神の御意志を解釈し、人びとに将来生ずることを伝える女預言者」(53p)であったそうですが、こうした預言が文書の形で残り、黙示的文学として広がっていたといいます。

第2章では、改めて大帝たちを駆り立てた〈力〉が分析されています。
ユスティニアヌスが活躍した6世紀は地中海世界で地震と旱魃が相次いでおこり、ペスト禍に襲われた時代でもありました。
こうした中で、コンスタンティノープルが海に沈むといった予言が現れ、「最後の日は近い」ということも言われるようになりました。

この時代に生まれたのが人類の歩みを記した世界年代記と呼ばれるものです。そして、世界年代記の作者たちの間には「第六番目の千年紀が過ぎ去った」という共通認識がありました(当時のビザンツの世界暦では西暦1年を5509年としていた)。
人間の千年は神の目には一日に映り、キリストはその6日目の半ばに生まれたといいます。この6日間は天地創造の6日間に対応しているとも言われ、ここから「世界の終わり」がやってくるという感覚が生まれていました。

こうした中でローマ帝国のあり方も捉え直されていったといいます。
キリスト教が生まれた頃、ローマはそれを弾圧する否定的な存在として描かれていましたが、4世紀にローマがキリスト教化の道を歩み始めたことでローマを積極的に位置づけるようになっていきます。
また、今使われている西暦もユスティニアヌスの時代に生まれたもので、人びとが新しい時間意識を持ち始めたことを示しています。
ユスティニアヌスも来たるべき「最後の時」に備えるべき行動したのではないか? とも考えられるのです。

第3章では、中世のヨーロッパについて、ビザンツを中心とした自己完結で普遍的な世界という視点からその歩みを辿っています。
本書が注目するのは10世紀なかばのコンスタンティノス7世という皇帝と、彼の残した著作です。

その著作の1つが『帝国の統治について』と呼ばれる、自分の息子に帝国のの周辺部に住む民族の歴史や地理的環境を教えようとした本です。コンスタンティノス7世は『テマについて』という帝国の属州についての本も記しており、これで帝国の内外の状況がわかるようになっています。
『帝国の統治について』では、ブルガール族やルーシなどの帝国周辺の民族から始まり、アラブとムハンマドの歴史、イベリア半島、イタリアの情勢、バルカン半島の民族などがとり上げられています。
当時ビザンツは各地にカタスコポンと呼ばれる諜報員を派遣しており、そういったカタスコポンからの情報などを取り入れて書かれたと考えられます。

また、コンスタンティノス7世には『儀礼について』という著作もありますが、これを併せてみると当時のビザンツの帝国の秩序が見えてきます。
『帝国の統治について』では〈ローマ人〉(ローマイオイ)、〈夷狄の民〉(エトネー)という用語が出てきますが、ビザンツではこうした認識のもとで、異民族を「子供」「兄弟」「友人」関係に擬えた外交が行われていました。
例えばブルガリア人王との関係では、ビザンツ皇帝は「霊的父」、ブルガリア人王は「皇帝の霊的息子」となります。この「子供」のカテゴリーには大アルメニアなど諸キリスト教国の支配者たちが入ります。
「兄弟」となるのは、ザクセン、バイエルン、イタリア、ドイツ、フランスの諸キリスト教国の王たちです。
最後の「友人」に入るのが、エジプトの「エミール」やインドの支配者です。
この他、地方の支配者や、ハザール族の可汗やアラブ人カリフなどの非キリスト教支配者たちには縁故関係を示す呼称はつきませんでした。
このあたりの疑似家族的な関係は中国の皇帝が周辺の国や民族と取り結んだ関係を思い起こさせます。

当時のビザンツは「キリスト教ローマ帝国」と言うべき存在であり、皇帝はキリスト教でもって世界を救済するという使命を帯びながら活動していたのです。

第4章では、時代は近代へと向かいますが、最初にとり上げられているのがレコンキスタです。
カールはイベリア半島に遠征を行いましたが、778年のロンスヴォーの戦いで敗れています。その後、10世紀なかばにコルドバのカリフ、アブド・アッラフマーン3世がイベリア半島の支配をほぼ完成させると、オットー1世はイベリア半島のキリスト教共同体保護のためにアッラフマーン3世とたびたび使節を交わしました。
その後、キリスト教勢力が盛り返し、1492年にレコンキスタが完成します。しかし、この過程の中で1391年には大規模な反ユダヤ暴動があり、1492年にはイベリア半島のユダヤ人に対してキリスト教に改宗するか、国外に退去するかという命令が出ました。これによって多くのユダヤ人(人数には諸説ある)が国外に逃れたといいます。

一方、東では1453年にコンスタンティノープルが陥落します。
14世紀末以降、オスマン帝国の攻勢の前に危機的な状況に陥っていたビザンツでしたが、ついにその命運が尽きます。ビザンツの共同皇帝だったヨハネス8世は1438〜39年に開かれたフェラーラ=フィレンツェ公会議に自ら赴いて十字軍の派遣を訴えますが、その努力も実りませんでした。
ただ、このヨハネス8世の来訪がイタリアに新プラトン主義を伝えたとも言われ、これがイタリア・ルネサンスの1つのきっかけになったともいいます。

地動説を唱えたコペルニクスは、ボローニャ大学で法学を修めています。そして、コペルニクスが初めて世に問うた本は、7世紀にコンスタンティノープルで活躍した文人テオフュラクトス・シモカテスの詩編集のラテン語訳でした。
天文学についてもコペルニクスはビザンツの影響を受けている可能性があります。

当時、知られていた世界歴において、1491−2年は世界暦7000年にあたるとされていました。
中世では、これを意識して終末論的な考えが広まっていたわけですが、世界は終わりませんでした。本書では、ヨーロッパはここから新たな「世界」に開かれたとみています。
次に、ヨーロッパの近代思想の1つの源流になったものとして「オイコノミア」に注目しています。
第3章の終わりでは「オイコノミア(神の摂理)」として登場していますが、もともとは「家」を意味するオイコスと、「法」や「摂理」を意味するノモスを結合した言葉で、家政と結びついていました。
家の家長には財産や使用人をマネジメントする能力が求められますが、こうしたことを教えてくれるのがオイコノミアだったわけです。

このオイコノミアはエコノミー(経済学)の語源でもありますが、同時に神学的な意味を与えられていた時期もありました。
パウロはオイコノミアを「信仰にもとづく神の恵みの分配」、「慈悲深いご計画」、「奥義の分配」といった意味で使っています(175p)。
さらにエウセビオスはオイコノミアをテオロギア(神性)に対する「受肉」の意味で使っており、「本質」に対置される地上における「実践」の意味を持つようになっています。
こうした使い方は17〜18世紀のフランスのキリスト教思想家ニコラ・ド・マルブランシュなどにも受け継がれているといいます。

フーコーもこうしたオイコノミアの概念を使って議論を展開しており、「霊魂の統治」が実際の政治統治のモデルになったとみています。
アダム・スミスが打ち立てた経済学についても、著者は「「見えざる手」(摂理)のもとにある《自由》な行為主体」(182p)ということで、キリスト教的世界観に規定されたものとみています。
第5章では近代ヨーロッパ社会が検討されています。
第4章では、オイコノミアの概念と絡めてフーコーやアガンベンの名前も出ていたのですが、ここでは《自由な個人》の誕生という、かなりオーソドックスな話になります。増田四郎の研究などを引きながら、日本の「近代化」についても批判的に検討されているわけですが、個人的には第4章までの議論とこの第5章の議論のつながりがよくわかりませんでした。
坂口ふみ『〈個〉の誕生』の議論も紹介されているので、そのあたりを読んでいれば見えてくるものもあるのかもしれませんが、本書を読んだだけでは、第4章→第5章の議論の運びは唐突に思えます。

というわけで、第1章〜第3章についてはいろいろ勉強になりましたし、面白い部分もあったけど、第4章〜第5章については議論の筋がよくわからなかったです。
ビザンツをヨーロッパの1つの軸に据える見方は面白いと思いますが、第5章になると比較手見覚えのある「ヨーロッパ論」になっていて、そのあたりも少し物足りなく感じました。
これは歴史好きにとっては惹かれるタイトルではないでしょうか?
平安時代といえば794年〜鎌倉幕府の成立(成立年は諸説あり)の約400年を指し、イメージとして強いのはちょうど「光る君へ」でもやっている藤原道長や紫式部の時代です。
ただし、藤原道長は966年に生まれ1027年に亡くなっているので、ちょうど平安時代中頃の人物になります。
「じゃあ、その前の時代はどうだったの?」と言われると意外とイメージがないのではないでしょうか?

もちろん、平安京をつくった桓武天皇や最澄や空海など平安時代初期についてはそれなりのイメージがあるでしょうが、その後となると、日本史の教科書では「藤原北家の台頭」というストーリーで語られることが多いでしょう。
調べてみれば結果としてそうなっただけであって、例えば薬子の変も応天門の変も藤原北家台頭のための事件というわけではないのですが、藤原道長の栄華などから逆算的に歴史が形作られている面が強いです。
そんな平安時代の前期について、改めて迫ったのが本書になります。
目次を見てもらえばわかるように、平安時代前期の通史ではなく、さまざまなトピックに沿って平安時代前期を読み解いていくという構成になっています。
女性の役割や紀貫之や紫式部といった文学者の位置づけについても述べられており、「光る君へ」の副読本としても面白いでしょう。

目次は以下の通り。
はじめに―平安時代は一つの時代なのか?
序章 平安時代前期二〇〇年に何が起こったのか
第1章 すべては桓武天皇の行き当たりばっかりから始まった
第2章 貴族と文人はライバルだった
第3章 宮廷女性は政治の中心にいた
第4章 男性天皇の継承の始まりと「護送船団」の誕生
第5章 内親王が結婚できなくなった
第6章 斎宮・斎院・斎女は政治と切り離せない
第7章 文徳天皇という「時代」を考えた
第8章 紀貫之という男から平安文学が面白い理由を考えた
第9章 『源氏物語』の時代がやってきた
第10章 平安前期二〇〇年の行きついたところ

平安時代は、その前の奈良時代と比較してもわかりにくさがあります。
奈良時代には律令制が導入され、戸籍や税のデータが集積されました。役人についてもきちんとしたデータが作られており、さまざまなものが可視化されました。ただし、データ通りの政治が行われていたかについては疑義もあります。
一方、平安時代は律令制が日本の身の丈にあった形で整理されていく中で過剰なまでのデータ化は行われなくなっていきます。
さらに9世紀後半(887年)以降になると、歴史書が作られなくなります。ますますわからないことが増えていくわけです。

本書ではまず、平安時代の前半200年について100年ごとに分けて年表を示していますが(1−8p)、前半100年(9世紀)には大きな改革や戦争などが目立ちますが、後半100年(10世紀)になると、大きな事件が少なくなってきます。
著者はこの9世紀〜10世紀にかけて「大きな政府から小さな政府へ」という変化があったといいます。
軍団が廃止されてコンパクトな健児制にあり、私有地開発を公認することで民間活力を使う方針になっていきます。さらに地方官の権限を強めて、彼らを使って地方の富を都に還元する仕組みをつくりました。仏教についても、最澄の天台宗と空海の真言宗が国家から戒壇を設置する権利を得たことで、国家だけが管理するものではなくなっていきます。

序章でこういた大きな流れが指摘されたあと、以下の章では章ごとのトピックに沿う形で議論がなされています。大まかに時代順に並んでいますが、気になったトピックから読み始めるのもありでしょう。

第1章は桓武天皇についてです。桓武天皇は平安京への遷都を行い、平安時代の幕開けを飾った天皇ですが、異色の天皇でもあります。
桓武の父は天智天皇の孫である白壁王(光仁天皇)であり、今までの皇統からは離れた存在でした。さらに母は渡来系の高野新笠であり、異母弟であった皇太子の他戸親王が廃された後に皇太子になっています。
他戸親王の母は聖武天皇の娘である井上内親王であり、瀧浪貞子『桓武天皇』(岩波新書)も指摘するように、この井上内親王と他戸親王の存在が光仁の即位の決め手だったと思われます。

こうした背景をもつ桓武は大和川水系の平城京を捨て、淀川水系の長岡京に都を遷そうとし、さらに同じく淀川水系の平安京に遷都します。
この大和川水系から淀川水系への遷都に関しては水運の利用という要因があると考えられますが、同時に聖武天皇の影響を断ち切る必要もあり、そのためにも遷都が行われたというのが本書の見立てになります(このあたりは瀧浪貞子『桓武天皇』と少し違うか)。
ちなみに長岡京は早良親王の怨霊によって棄てられたのではなく、「政治をする宮と経済である港の再分離」(53p)とみています。

第2章では、桓武天皇の治世の末期に行われた「徳政相論」から文人という存在に光を当てています。
徳政相論は「軍事(東北戦争)と造作(平安京の造営)」をめぐって藤原緒嗣と菅野真道が天皇の前でディベートを行い、中止を主張した藤原緒嗣の案が採用されました。
議論の勝敗に関しては出来レースだったと思われますが、注目すべきは菅野真道の菅野氏は15年ほど前に真道が賜姓されてできた氏族だということです。
菅野朝臣氏は、それ以前は津連(つのむらじ)、さらにその前は津史(つのふひと)で、姓からみても急速に出世していることがわかります。

この時代には菅野真道以外にも、讃岐の出身で元は秦公(はたのきみ)を名乗っていた惟宗直本、小野妹子の玄孫の小野岑守(小野篁の父でもある)など、名門ではない氏族から学問の力によって出世した人々がいました。
傍流となっていた天武天皇の子孫から右大臣に上った清原夏野や、阿衡の紛議にも登場する橘広相なども学識によって出世した人物と言えます。
他にも本書では、三重県の北部の員弁(いなべ)郡にいた猪名部造善縄(いなべのみやつこよしただ)が春澄(はるすみ)という姓を与えられ、ついには参議にまでなった春澄善縄のケースなどが紹介されています。

日本では中国のように本格的な科挙は導入されませんでしたが、9世紀には学問によって立身出世を遂げるケースがみられました。
官人登用試験の対象者は大学を修了した者に限られていましたが、8〜9世紀にかけては実際の政治に関わるような問題が出題されるなど、一定の機能を果たしていたのです。

このような学問によって出世を果たした筆頭が菅原道真なのですが、菅原氏は道真の頃にはすでに学問の家として知られている家でもありました。
その道真の失脚は、学者が政治の世界から消えていく主張的な事件にもなりました。さらに学問の世界にまで藤原氏の進出が進みます。紫式部の父の藤原為時もそのような人物ですが、為時は越前守までしか出世できませんでした。
第3章では女性の地位の変化が検討されています。
律令制下では女性も氏女や采女として天皇のプライベートである後宮を支えました。後宮というとハーレムのようなものを想像する人もいるかも知れませんが、奈良時代の天皇には女性が多く、女官は政治においても重要な役割を果たしていました。
特に「内侍司」を束ねる尚侍と、「蔵司」のトップの尚蔵は重要で、前者は天皇のメッセンジャーのはたらきをし、後者は神璽などの天皇の宝を管理していました。
美努王との間に橘諸兄、藤原不比等との間に光明子をもうけた橘(県犬養)美千代は天武〜聖武に仕え尚侍にもなった人物ですし、藤原仲麻呂の妻の袁比良(おひら・房前の娘)は尚蔵と尚侍を兼ねていたといいます。

奈良時代には天皇と皇后は別居していたとも言われ、光明子も藤原不比等の邸宅に住み、そこに聖武天皇が通っていたともいいます。
四位以上の女性貴族は独自の家政機関を置くことを許されていたようで、女官の地位はかなり高く、飯高諸高、吉備由利など名を残している女性も多いです。

ところが平安時代になると女性は政治に世界から退場し始めます。
薬子の変で有名な藤原薬子は平城天皇の尚侍となって権勢をほしいままにしたとされていますが、薬子の変のあとに設置されたのが蔵人であり、尚侍や尚蔵がもっていた天皇の側近としての地位を奪うものでした。
一方、貴族の娘の中には女官として出仕せずに「深窓の令嬢」として育てられるケースも見られるようになっていきます。
桓武天皇は20人以上の女性を相手に子をなしており、その中には宮人(一般の女官)も多くいます。この傾向は嵯峨天皇も同じですが、宇多天皇となると後宮にいた12人のうち、宮人は「伊勢」と呼ばれた女性だけです。
女官の採用年齢も高齢化したようで、天皇の相手はキサキを出す氏族に限定されていったのです。
一方、登場したのは「キサキの女房」で女御や更衣に仕える女性です。『伊勢物語』の作者ともされる伊勢もこのような女性だったと考えられており、紫式部や清少納言もこうした立場だった人物です。

平安時代の女流文学はこうした女性たちに担われていたのですが、彼女たちの本名は儀同三司母=高階貴子、大弐三位=藤原賢子を除けば明らかになっていません。
女性が公的な場所で活躍するとはなくなり、その才能は摂関家によって開かれた女御のサロンなどでしか発揮されなくなったのです。

第4章では皇位継承の問題がとり上げられています。
奈良時代は天武と持統の血を守るために、文武には持統が、元正には元明が、聖武には元正が、孝謙には聖武がといった具合に天皇を上皇がサポートする体制になっていました。
上皇という立場から皇位の継承をコントロールしたのが嵯峨です。嵯峨は弟の淳和に皇位を譲ったあとも影響力を持ち、承和の変を通じて、皇統と自らの子である仁明ー文徳ラインへと動かします。
嵯峨の死後は、このラインを守る「護送船団」のリーダーに藤原良房が就き、外祖父という立場から清和天皇の摂政になります。
また、淳和の正子内親王(嵯峨の娘)以降、皇族皇后がいなくなり、最高位の女性権力者は天皇を産んだ摂関家出身者ということになっていきます。皇族から天皇の母が出なくなることで、女性天皇も生まれなくなっていくのです。

さらに本書では、良房の後を受けた基経が陽成天皇の母である高子とうまくいかなかったことが陽成廃位の要因ではないかと指摘し、さらに陽成、高子とも近く、平城天皇の血を引く在原業平の存在も基経にとっては排除すべきものと写ったのではないかと指摘しています。

この後、基経の死もあって宇多が政治の主導権を握り、菅原道真を引き上げましたが、前にも述べたように菅原道真は失脚させられてしまい、権力争いは藤原北家内部の争いに移ってきます。
そうした中で、出世の道が絶たれた中下級の貴族たちは受領を目指すようになり、またその一部は軍事貴族となって武士となっていくのです。

第5章は「内親王が結婚できなくなった」と題されていますが、まさにこの通りのことが起きました。
先述のように、淳和の皇后であった正子内親王以降、皇族出身の皇后はいなくなります。律令の継嗣令では、内親王は天皇からみて四世以内の皇族男性と結婚できないと定められていました。このため、もともと内親王の結婚相手は限られており、嵯峨天皇には25人ほどの娘がいましたが、ほとんどが未婚のままだったと考えられています。

当時の貴族社会には社交の場はほぼなく、内親王を「見染める」男性貴族もほとんどいませんでした。
結果として内親王は伊勢斎宮、賀茂斎院といった職務を務めることになりますが、それについては第6章で詳しく述べられています。
このあたりは著者の専門の1つであり、本書の中でもかなり専門的な話が展開されているので詳しくは本書を御覧ください。
第7章は「文徳天皇という「時代」を考えた」。
文徳天皇の業績について挙げられる人は少ないかもしれませんが、『日本文徳天皇実録』という彼一代の歴史書が編纂されていることを知っている人はいるかもしれません。
政治については基本的に藤原良房が仕切っており、文徳天皇の個性というのはあまりうかがえないのですが、唐の皇帝の祭祀をまねした「郊祀」を行うなど、独自の動きも見せてます。
また、大仏の首が落ちるという事件に対処したのも文徳天皇で、著者はこのような凶事に対して、文人官僚とともに新しい政治を模索し、その道半ばで斃れた天皇としてその姿を捉え直しています。

第8章では紀貫之と『新古今和歌集』がとり上げられています。
紀貫之は『古今和歌集』の仮名書の序文において、柿本人麻呂と山部赤人を持ち上げているものの、在原業平や小野小町といった六歌仙を一長一短があるいって下げ、『古今和歌集』こそこれらかの和歌の基盤になると謳い上げています。
実際にその後の勅撰和歌集は『古今和歌集』の強い影響を受けて作られるようになるのですが、実は紀貫之の前半生はよくわかっていません。身分が低く、記録に残っていないのです。

紀貫之は『古今和歌集』の仮名序において自らを御書所預と名乗っており、翌年に越前国の少掾に任官しているらしいのですが、これは本来の律令制では従七位上という下級役人です。その後、紀貫之は土佐守になっていますが、従五位下で貴族の最下層です。
実は『古今和歌集』の他の選者、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の身分はみな低いです。和歌は出生にはつながらず、あくまでも趣味のものでした。
六歌仙を見ても、いわゆる文人は見当たらず、文人は漢詩をたしなみ、そうではないひとが趣味的にたしなむものが和歌だったのです。

9世紀の後半から「歌合」という和歌を詠み合うイベントが行われるようになりますが、歌を読む参加者の身分は比較的低いのが特徴です。
平安時代後期になると、和歌の選者の身分も上昇し、藤原定家などは正二位中納言だったわけですが、平安時代中期までは身分の低い歌人の歌を身分の高いものが楽しむという構図でした。
著者はこれをポケモンとトレーナーの関係になぞらえ、歌人=ポケモン説を唱えています。

第9章は『源氏物語』です。ここではこれまで語られてきたことが『源氏物語』と結び付けられるとともに、『枕草子』にみられる定子のサロン、そしてそれに対抗した彰子のサロンについて語られています。
定子は漢文の教養のあった高階貴子を母に持った教養のある女性だったと考えられています。その定子のサロンは一条天皇を惹きつけました。
こうしたサロンは彰子の女房たちによっても形成されます。紫式部、赤染衛門、和泉式部を抱えたサロンは、『源氏物語』や『栄花物語』を通して、女性からみた「歴史」というものを紡ぎ出していくことになります。
政治の場から退場させられた女性たちでしたが、「政治意識」については鋭敏に持っていたと言えるのかもしれません。

最後の第10章は本書のまとめのようなものになっています。

このようになかなか面白い視点の本だと思います。「平安時代の前半って何があったんだっけ?」という多くの人が感じる素朴な疑問について、ジェンダーや文学などを通じて迫っていくやり方は読み物としても面白いですし、歴史を見直す上でも新しい視点を提供してくれます。霞がかかった時代のガイドにもなる本です。
『仕事と家族』(中公新書)、『結婚と家族のこれから』(光文社新書)などで、日本の家族の問題を論じてきた社会学者が、少子化問題にフォーカスして現在の日本の抱える課題を整理した本。
今までの本でも少子化問題を論じてきましたが、本書では少子化に絞ってコンパクトに論じてます。

そして、本書の特徴の1つがタイトルに「未婚と」とあるように、少子化問題の大きな要因を未婚ん問題として議論を進めている点です。
「少子化問題への対策」→「育休の充実や保育園の整備といった子育て支援」となりやすいですが、多くの人が結婚してから出産する日本において、これはすでに結婚している人に効く政策です。ところが、現在の日本の少子化の一番の要因は未婚化・晩婚化です。
このあたりのズレを指摘しながら、既存の少子化対策を問い直していくような内容になっています(著者は子育て支援を否定しているわけではなく「少子化対策」としての有効性を問うています)。

当然のことながら少子化対策の「魔法の杖」が提示されているわけではありませんが、少子化問題を考える上でのさまざまなデータが充実しており、少子化問題を考える上での基本図書となるような1冊です。

目次は以下の通り。
第1章 少子化の何が問題か
第2章 何が出生率の低下をもたらしたのか
第3章 少子化問題と自治体
第4章 グローバルな問題としての少子化
第5章 少子化に関わる政策と数字の見方

第1章では少子化問題の整理が行われています。
少子化は大きな問題だと思われていますが、同時に今の日本の人口が少なすぎると考えている人はそんなにいないでしょう。
かつてのフランスではドイツに比べて人口が少ないことが安全保障の面で問題だと考えられており、そこから少子化対策(人口増加策)がスタートしましたが、「日本も中国に負けない人口を持たなければ」と考える人は少ないと思います。
つまり、日本で問題となっているのは、少子化による高齢化の進展であり、社会保障制度の持続可能性の問題であると、とりあえずは考えられます(本書でも指摘されているように、日本以上に少子化が進む台湾や韓国では少子化は安全保障上の問題だとも考えられていますが)。

日本では昭和40年代から過疎の問題が浮上していました。ただし、この時期の出生率は人口置換水準を上回る状況が続いており、都市部への人口流入が問題となっていました。
ところが、日本全体で少子化が進行していくるにつれ、過疎の問題は少子化の問題としても意識されるようになってきます。

1975年ころまでは、出生数は20〜34歳の女性人口と連動していました。出産適齢期の女性が増えれば出生も増えるといった具合です。ところが、1975年以降はこの関係が弱くなり、1990年代後半以降、団塊ジュニア世代では20〜34歳の女性人口が増えているにに出生数が増えない状況になりました(38p図表1−4参照)。
団塊ジュニア世代以降になると、そもそも20〜34歳の女性人口も減ってくるので、一人の女性が産む人数が増えても出生数の減少は避けられない状況です。
ですから、社会保障制度の維持を目的に掲げるのであれば、外国人労働者の受け入れに力を入れたほうがいいのかもしれないのです。

第2章では出生率低下の要因を探っています。
1947〜49年にかけてのベビーブーム時には出生率は4を超える水準でした。その後、低下していきますが、人口置換水準への低下であり、この低下の要因となったのは人工妊娠中絶の「合法化」でした。
ベビーブーム世代は団塊世代となり、彼らが結婚や出産の適齢期になった1971〜74年には再び子どもが増え、団塊ジュニア世代が生まれます。

その後、1970年代後半からは人口置換水準を割り込むような出生率の低下が進み、1989年の「1.57ショック」で少子化は大きな問題として認識されるようになります。
その後、出生率は2005年に1.26まで低下し、その後、2015年に1.45まで盛り返しますが、再び下がり始め、2022年には過去最低の1.25となっています。

以下の53p図表2−2「女性の出生コーホート別・年齢階級別出生率」を見ると、さまざまなことが見えてきます。




例えば、15〜19歳の欄を見ると、いつの時代も0.02〜0.03で、世代を問わず100人中2〜3人が出産したことがわかります。
ところが、25〜29歳の欄を見ると、1955〜59年生まれが0.92なのに対して、1975〜79年生まれでは0.45と半減しています。一方、30〜34歳、35〜39歳、40〜44歳では1975〜79年生まれが1955〜59年生まれを上回っています。ただし、累積の欄を見ると、1955〜59年生まれが1.92、1975〜79年生まれが1.47(1975〜79年生まれの45〜49歳の出生率はまだ観察されていないが、ほぼ0に近いことが予想できる)と大きな差がついています。
これを見ると、出産の時期が遅くなっており、若い時期の落ち込みをカバーしきれていないことがわかります。

ちなみに、この表からは1970〜74年生まれのいわゆる団塊ジュニア世代の出生率が後続の世代よりも低く、バブル崩壊後の景気低迷の爪痕を感じさせます。

この出生率の現象の背景にあるのが未婚化と晩婚化です。
未婚率を示すときに50歳時の未婚率が使われます。2020年の国勢調査によると、そのときの50歳(ほぼ1970年生まれ)では男性の27.5%、女性の17.3%が未婚でした。

62p図表2−5に1975〜2015年にかけての女性の世代別出生率と有配偶出生率が載っていますが、これを見ると有配偶出生率は1975〜2015年にかけて特に下がっていません。30代前半と後半についてはむしろ上がっています。結婚している女性の出産は減ってはいないのです。
ところが、出生率が20代前半と20代後半で大きく低下しています(30代は増えている)。つまり、未婚化や晩婚化が出生数は押し下げていることがわかります。

ただし、まだ未確定ながらも2020年の有配偶出生率は低下傾向を見せているそうで、さらなる出生数の減少が起こる可能性もあるといいます。

このように少子化の大きな要因は未婚化・晩婚化であるにもかかわらず、政府の対策は、育休の充実や保育所の整備といった有配偶者向けのメニューに偏っていました。
2023年に発足したこども家庭庁のスローガンは「こどもまんなか社会」で、これはこれで重要ではありますが、歴史的に見ればひとりひとりの子どもを大切にする社会では出生率が低くなります。

日本における少子化対策の鍵は結婚にあるのですが、結婚したくない人を無理に結婚させるわけには生きません。「結婚したくてもできない人を後押しできるか」がポイントになります。
ただし、「結婚したくない」と「結婚したいけどできない」ということを切り分けることは容易ではありません。「結婚するつもりはない」と言っていた人が思わぬ出会いからあっさり結婚するというのもよくある話でしょう。

過去の「いずれは結婚したい」という人の割合を見ると、1982年の初回調査から97年までは下降、2015年までは安定、2021年では下落という傾向がうかがえます(30代女性だけは82〜97年にかけて上昇している。76p図表2−6参照)。
ただ、21年の調査で顕著に下落したとはいえ、20代前半では85%以上の人が「いずれは結婚したい」と回答しており、結婚そのものに消極的になっているわけではないと考えられます。

それでも未婚が進んでいる要因としてはさまざまなものが考えられますが、研究者の間で有力とされている要因が経済的要因に起因するミスマッチです。
女性の選択を「未婚」「上位婚」「下位婚」の3つに分類すると(ここでの「上位婚」とは規模の大きな企業の正社員といった一般的に好条件の結婚で「下位婚」はそれ以外)、大卒女性の「下位婚」がずっと1〜2%しかないのがわかります(79p図表2−7参照)。
大卒女性が増え、それに応じて有利な結婚相手を探す人が増えたが、それを満たす男性が増えていないのです。

実際に、30代前半の男女のその後の結婚割合をみると(81p図表2−8参照)、男性の場合は年収が高ければ結婚する割合が高く、年収が低ければ結婚する割合も低いというきれいな関係になっています。
女性についてはそれはみられませんが、所得が200万円以下の女性の結婚割合は低くなっており、近年では女性にも稼ぐ力が求められる傾向があります。
ここからは、安定した所得が結婚を増やす鍵だということが見えてきます。

第3章では地域による違いが分析されています。
少子化対策においても、出生率の高い自治体が「先進事例」とされ、「それに学ぼう!」となることが多いですが、日本の自治体は規模も財政力も文化もバラバラです。
沖縄では41個ある市町村のうち36個が出生率1.8を超えており、「希望出生率」1.8の目標はほとんどの自治体で達成されています。
沖縄以外でも鹿児島と宮崎では半数以上の市町村が出生率1.8を超えていますが、北・東日本(北海道、東北、関東甲信越)には出生率1.8を超える自治体はありません。出生率に関してはかなりの「西高東低」なのです。

人口規模が2万を超え、出生率が1.8を超えている自治体は沖縄県内の自治体を除くと41個あります。これを人口増加率と昼間人口流出割合の2つの軸でプロットすると、2つのタイプがあることがわかります(89p図表3−1参照)。
1つは昼間人口流出割合が高く、人口増加率も高い自治体で名古屋や福岡の周辺自治体が多いです。もう1つは昼間人口流出割合が低く、人口増加率がマイナスの自治体で、九州・中国・近畿などの自治体がみられます。
さらに本書では自治体を4つのグループに分けて分析しています。
グループ1が人口規模下位・人口増加率下位・出生率下位。グループ2が人口規模下位・人口増加率下位・出生率上位、グループ3が人口規模上位・人口増加率上位・出生率下位、グループ4が人口規模上位・人口増加率上位・出生率上位です。
グループ1と2は第1次産業の割合が高く、若い女性が少ないことが共通していますが、グループ1は北海道や東北に多く、グループ2は九州・沖縄に多いです。若い女性の少ないのは共通ですが、グループ2では残った若い女性の出生率が高くなっています。
グループ3は東京23区などの大都市部で、人口増加率も若い女性の割合も高いのですが、女性が未婚にとどまる割合も高くなっています。

少子化問題を念頭に置くとグループ4が注目すべきグループになります。これらの自治体は沖縄を除けば、大都市近郊の市(福岡県大野城市など)、中心部から少し離れた政令指定都市の区(名古屋市緑区など)などのベッドタウンか、愛知県豊田市(出生率1.65)、愛知県刈谷市(出生率1.80)などの大規模な製造業の事業所を抱える自治体です。
人口規模・人口増加率・出生率の3つの数値が全て上位に入る自治体は、ほとんどが静岡県・愛知県、あるいは西日本の自治体で、例外は鹿島臨海工業地帯を抱える茨城県神栖市とコマツの本社がある石川県小松市だけです。
出生率の「西高東低」の大きな要因が、西日本における製造業の強さにあると考えられます。

出生率が高いのは「仕事があって、しかも住居費がそれほど高くない自治体になります。
ベッドタウンも製造業のある自治体もそうです。ベッドタウンにもなり、なおかつ大企業の工場を複数抱える滋賀県栗東市の出生率は2.02と非常に高いです。
メディアでは千葉県の流山市や兵庫県の明石市が注目されることが多いですが、両市とも出生率は1.58であり、人口増加率はともかくとして、必ずしも出生率が目立って高いわけではありません。

現在、多くの自治体が「子育て支援」を掲げて子育て世代の呼び込みを図っています。これについては日本の中で人口を奪い合っているだけという指摘もありますが、住みやすい環境に引っ越して子どもの予定数が増えるという可能性もあるでしょう。
逆に、都市部の自治体が子育て世代の転出を防ぐ政策をとることが、狭い住環境にとどまることによって子どもの予定数を減らす結果につながる可能性もあります。

第4章では国際比較などを通じた検討がなされています。
日本では結婚と出産が強く結びついているという話が出ましたが、こうした状況と欧米では婚外子が多いというデータから、「婚外子が当たり前になれば出生率も上がるのでは?」という意見があります。

しかし、例えばアメリカでは、婚外子というのは多くの場合が貧困と結びついており、婚外子を増やす政策というのは恵まれない子どもを増やす政策に直結してしまうと受け取られるでしょう。
一方、ヨーロッパでは、婚外子といっても比較的安定した事実婚のカップルのもとで生まれるケースが多く、第1子が生まれ、今後もやっていけそうだというカップルが第2子誕生を前に法律婚に移行するようなケースも多いそうです。
また、同じ「結婚」といってもその重みは国によって違います。フランスでは離婚に裁判所の許可が必要であり、法律婚のハードルは日本よりもずっと高いのです。

次に海外から移民を受け入れれば良いという議論が検討されています。
出生率の低下を移民で補うというのはわかりやすい議論ですが、かつて移民を受け入れた国のほとんどは出生率が下がったから受け入れたのではなく、出生率もそこそこ高かったにもかかわらず労働力が不足していたので受け入れたケースです。例えば、西ドイツがトルコから外国人労働者を受け入れた時代の西ドイツの出生率は人口置換水準を大きく割り込むようなものではありませんでした。
産油国やシンガポールなども外国人労働者を受け入れていますが、これは東京が地方から労働力を受け入れているのと同じだと考えるとよいです(2022年の出生率は東京が1.04でシンガポールが1.05)。

移民については、「移民は出生率が高く、アメリカやフランスの出生率の高いのはそのせいだ」だという見方もあります。
確かに2017年のフランスの出生率を見ると、フランス生まれの女性は1.77、移民女性は2.60と大きな差があります。ただし、全体の出生率は1.88で、移民が押し上げている面があるものの、フランス生まれの女性の出生率の高さがベースになっていることがわかります。
また、日本に関してはベトナム人を除くと外国人女性の出生率は日本人よりも低いというデータがあり、移民が労働力不足を補っても、少子化を解決するような存在にはならないことがわかります。

第5章では少子化に関する政策と数字についていくつかのことが述べられています。
最初に指摘してあるのが、少子化対策がすぐに財源論の話になってしまう問題です。
少子化問題にはさまざまな側面があるのですが、マスメディアでとり上げられると、すぐに少子化対策→子育て支援→財源論になってしまうといいます。
予算規模や財源論は確かにわかりやすいですが、例えば、高齢者向けの社会保障予算が増えているからといって高齢者の福祉が充実したとは言えないわけで、予算規模だけをみてもわからないことは多いです。
政策議論では、1つの政策を切り出してその効果を期待する向きが強いですが、フランスなどをみると、「この政策が有効」というよりは、総合的な仕組みが構築されてきたことが大きいです。
少子化対策には、子育て支援だけではなく、働き方や住宅問題など、総合的な取り組みが必要になるのです。

180ページ程度と、近年の新書にしては薄いほうかもしれませんが、豊富なデータを元に少子化問題が総合的に論じられており、この問題を考えていく上での出発点になる本だと思います。



年明けの総統選で民進党の賴清德が勝利した台湾。本書は昨年の11月に出た本であり、総統選を見据えて台湾の現在の状況について解説した本になります。
台湾の政治の構図というと「独立派」の民進党と「親中派」の国民党といった対立軸で紹介されることが多いですが、歴史的に見れば、中華人民共和国の共産党と対立していたのは何と言っても蔣介石の国民党だったはずです。
本書は、このような台湾の歴史にあるいくつものねじれを解きほぐしてくれます。

さらに本書の面白さは、台湾の歴史や台湾のアイデンティティのあり方をたどることで、日本の戦後史も見えてくるところです。
本書のあとがきに、「かつての日本社会の「左翼」的な台湾観を疑問に感じ、台湾のことを学び直したいと思っている人を主要な読者の一人に想定した」(251p)とありますが、イデオロギーのメガネを通して外国を見ることの問題点を鋭くえぐり出しています。
台湾のことを知りたい人はもちろん、日本の戦後の「アジア観」のようなものについて考えてみたい人にもお薦めです。

目次は以下の通り。
第1章 多様性を尊重する台湾
第2章 一党支配下の政治的抑圧
第3章 人権問題の争点化
第4章 大陸中国との交流拡大と民主化
第5章 アイデンティティをめぐる摩擦

「独立/親中」のように物事を二項対立で見てしまうと、そこからこぼれ落ちてしまうものが多くありますが、台湾では「本省人/外省人」というのも多くのものを見えなくさせてしまう二項対立と言えるでしょう。
台湾では台湾に住む人を、原住民、ホーロー(福佬人)、客家人、外省人という4つのエスニックグループで捉える見方があります。
これも現在は多様性を捉えられていない(原住民をひとまとめにしている)という批判もありますが、台湾社会を理解する上での最初の手がかりとなります。

原住民は台湾に中国から人がやってくる前に住んでいた人々で、2023年時点で人口の2.5%を占めています。なお、「原住民」よりも「先住民」という言葉が適切ではないかと感じる人もいるでしょうが、中国語の「先住民」は「すでに滅びた」という意味を帯びるため、このような表記になっています。

16世紀、ポルトガル人が台湾を「イル・フォルモサ」と呼び、17世紀になるとオランダ人が台南の安平に拠点を置きました。
オランダ人の統治は1624〜62年までの38年間続きましたが、この時期に台湾には漢人の移民が増えていきます。さらに明の再興を目指す鄭成功がオランダ人を駆逐し、台湾を統治したことで漢人の移入はさらに増加しました。
1668年に台湾は清朝に制圧されますが、その後も中国での人口増加の圧力などから台湾への漢人の移入は続きます。

この台湾に移入してきた漢人は使用言語によりホーロー人と客家人に大別されます。ホーロー人は福建省出身の人々で、こちらが多数を占めています。
さらに日本の植民地支配を経て、国民党政府が台湾の統治を開始し、さらに1949年に国民党政府が台湾に移ってくると、統治者集団、およびその随行者として多くの人々が移入しました。彼らが外省人になります。

台湾で中華民国を存続させた国民党政府は台湾に住む人々に対して「中国人」であることを求め、北京周辺で話されている中国語が「国語」とされました。
これは主に南方系のルーツを持っていた台湾の人々には不慣れな言語であり、また、植民地支配の中で教育された日本語の使用も大きく制限されました。
こうした中で、1970年代になると民主化のプロセスと並行して、ホーロー語を使って「台湾意識」を訴える運動も起こってきます。
さらに80年代になると、原住民の中から言語権の保障や土地の返還などを求める動きも起こり、90年代になると台湾の人々を4つのエスニックグループで捉える見方が広がっていきます。

1945年の日本による台湾統治の終焉は植民地の解放だったはずでしたが、中華民国政府が日本の統治を受けた台湾の人々を「奴隷化教育」を受けた人々とみなし、台湾のエリート層の政治参加も推進しなかったため、日本統治を経験した「本省人」の不満が募りました。
そうした中で、1947年にヤミ煙草の取り締まりを契機に二二八事件が起こります。蔣介石は中国本土から部隊を派遣しこれを鎮圧しますが、その過程で1万8000〜2万8000人の人々が殺されたともいいます。
この事件をきっかけに、本省人は自分たちを「台湾人」、外省人を「中国人」と考える意識が強まったとも言われます。ただし、台湾政治の対立を「本省人対外省人」に還元することで見えなくなってしまうものもあるといいます。

共産党の内線が激しくなった中国では、総統となった蔣介石に憲法の規定に拘束されない強大な権限が与えられますが、これが台湾にも持ち込まれます。
1949年5月に台湾全土に戒厳令が敷かれ、これが1987年まで続きました。この間に14万人が入獄したとされ、赤狩りが激しかった50年代前半には3000人が銃殺されたとの説もあります。
こうした台湾の状況でしたが、旧宗主国の日本は対日賠償を「以徳報怨」の精神で放棄した蔣介石への感謝の気持もあって、日本政府は国民党政権の台湾統治を批判するようなことはしませんでした。
このような状況下で起こったのが陳智雄事件です。
反国民党の知識人だった廖文毅は日本に逃れ、1956年に東京で台湾共和国臨時政府の樹立を宣言し、臨時大統領を名乗っていました。
こうした台湾独立運動に参加していた陳智雄は、日本統治下の台湾生まれで、インドネシアの華人女性と結婚しインドネシア国籍を取得していました。台湾独立の主張は中華人民共和国の共産党政権にとっても容認できないもので陳は共産党政権に融和的だったスカルの政権により逮捕・投獄され、その後、国外追放します。紆余曲折を経て、陳は廖を頼って1959年に日本に入国しますが、日本の入管は陳の身柄を拘束し、台北へ送還してしまいます。
日本の国内法では、中華民国籍を持たない陳を台湾に強制送還する根拠はありませんでしたが、日本政府は蒋介石政権への配慮から陳を台湾に送りました。最終的に陳は死刑判決を受け、銃殺されています。

50〜60年代にかけて、台湾では独立運動に対する激しい弾圧が続きました、前述の廖文毅も、台湾の私財を国民党に差し押さえられ、さらに甥の廖史豪らに死刑判決が下ったことから、国民党からの投降の求めに応じて帰国しています。

1968年には新進気鋭の作家だった陳映真が逮捕される「民主台湾聯盟事件」が発生します。
陳は小説家として活動しながら、日本から研修生として台湾に留学していた浅井基文の一軒家に集まって他の知識人と交流していました。
浅井は中華人民共和国に好感を持ち、蔣介石を嫌っていた青年でしたが、語学留学のためと割り切って台湾に来たといいます。そのとき、浅井は台湾では禁書であったマルクスや毛沢東の本を外交官特権で持ち込みました。
浅井の家では音楽による交流などとともに、台湾の若者が禁書である社会主義の文献を読み耽るといったこともあり、陳映真のその中の1人でした。
浅井は65年に台湾を離れますが、浅井は後任の加藤紘一(本書では特に指摘されていないが、経歴を見ると「加藤の乱」の加藤紘一)のために社会主義関係の本を残しておきました。
その後、陳らは何らかの形で読書会を続けていたようですが、1968年に「台湾民主聯盟」という組織を作って政府を転覆させようとした容疑で陳ら36人が逮捕され、14人が有罪判決を受けます。
彼らに下された判決の容疑は大部分が捏造であり、背景にはLT貿易などを皮切りに中国へ接近していた日本の外務省に対する圧力をかける意図などがあったという説もあります。
その後、陳は1975年の蔣介石の死去に伴う特赦で釈放されました。

本書の第2章の最後では、この「台湾民主聯盟事件」とゲームとしてヒットし、映画化までされた『返校』との関係について触れています。映画化にあたって『返校』では陳映真を思わせる小道具などが登場しており、それをどう見るか?という問題が検討されています。

台湾の政治的弾圧は徐々に人権問題としてもとり上げられていくことになります。また、日本では国民党と共産党の対立が、在日台湾出身者の社会に大きな影響を与えることになりました。
国民党政権への反発から在日台湾出身者の左傾化が進み、在日台湾出身者の法的地位の改善や台湾人元日本兵の補償問題などに参加する者も増えてきます。
特に台湾出身者の法的地位の問題は、台湾への強制送還と絡めて大きな問題になりました。

1967年の、台湾で国民党軍の兵器庫を爆破した過去を持つ呂伝信が、入管で台湾に強制送還されると告げられて自殺した事件をはじめ、台湾独立運動などに参加した運動家の強制送還をめぐって、講義する運動や、それを支援する日本人の輪が広がりました。
当時、日本と中華民国の間では、政治犯引き渡しに関する「密約」があったとも言われ、日本政府は中華民国側に引き渡した政治犯に非人道的なことをしないように要請しつつ、送還は続けていました。

こうした中で独特の展開をたどったのが劉彩品問題です。
劉彩品は、1936年に日本統治下の台湾に生まれ、1956年に私費留学生として中華民国のパスポートで来日しました。その後、65年に日本人の男性と結婚しています。
当時、在日台湾出身者の中華民国パスポートは5年に1度の再発行と1年に1度の更新が必要でしたが、劉は67年の更新を最後にそれを拒否し、日本の入管に対して、自分は国民党政権を否定し、現在の中国は中華人民共和国であるとの立場からビザの発給を求めたのです。
日本の入管は日本国籍の取得などを勧めましたが、劉はこれを拒否し、劉を支援する運動も広がっていきました。
そして、この運動は、当時に国交のなかった中華人民共和国を中国の正当な政府とみなすように求める運動とも重なっていったのです。

結局、劉は中華民国に「絶縁書」を書く代わりに3年のビザを得ますが、永住権の申請は却下されます。そうすると、劉は一家で中国大陸に移住してしまいます。この劉は、のちに台湾統一のための宣伝戦術にも関わることになります。
一方、同じ台湾出身者でありながら、自分は「日本人」であると主張したのが林景明です。
林は1929年に日本統治下の台湾に生まれ、戦時中は日本陸軍にも召集されていました。林は蔣介石政権への不満から62年に日本に渡り、拓殖大学に入学すると、ビザが切れたあとも自分は「日本人」であると主張して、送還を拒否しました。
日本人の中からも支援の動きは起こりましたが、劉に比べると特に左派からの支持は鈍かったといいます。劉の支持者には、法務省が劉に帰化を促したことに対して反応した者が多かったのですが、「日本人」になろうとした林については噛み合わない部分も多かったのです。

この劉の支持者と林の支持者については、本書ではさらに突っ込んだ分析が行われています。

1970年代になると、日本での強制送還などの危険性もあって台湾独立運動の中心は北米へと移っていきます。
一方、国民党政権は、国連での中華民国の議席喪失、アメリカの中華人民共和国への接近、そして、蔣介石から蔣経国への世代交代と難し時期を迎えていました。
国民党政権は内戦に敗れて台湾に脱出する際に、大陸で選出された中央民意代表に台湾への移住を求め、それに応じた終身任期を与えていましたが、議員の高齢化が進むと、欠員補充のための選挙も行われるようになります。
こうした中、72年にはホーロー語を用いて選挙運動を行った康寧祥が当選を果たすなど、国民党政権とは一線を画す政治運動も起こってきます。

1979年、アメリカは中華人民共和国と正式に国交を結び、議会では「台湾関係法」が成立します。これは台湾への武器売却を可能にするものでしたが、同時に「人権条項」も含まれており、台湾の人権状況はより厳しいチェックを受けることになります。
同年12月の美麗島事件(高雄事件)では、政治的弾圧に対して国内外で批判が高まり、8人が反乱罪で起訴されたものの死刑判決は出ませんでした。
このときに弁護団にいた陳水扁や謝長廷らが、この後の民進党の中心的なメンバーになっていきます。

一方、アメリカとの国交を樹立した共産党政権は、台湾に対して「平和的統一」を掲げるようになり、1981年には「一国二制度」の原型となる考えが打ち出されます。

1987年に蔣経国が亡くなると、後継の総統になったのが李登輝でした。李は農業経済学者でもあり、野心のない人物と見られていましたが、次第に大胆ない改革に踏み込んでいきます。
李は共産党政権を「反乱団体」とみなす「反乱鎮定動員時期臨時条項」を見直すことで大陸との関係の再定義を進め、民主化を進めていきます。
80年代になると、大陸側からも台湾に対するさまざまなアプローチが行われますが、ここで再登場するのが劉彩品です。劉は、台湾にジャイアントパンダを贈るアイディアを提案し、この話は進んでいきますが、最終的には国民党政権が断りました。
ちなみに劉彩品は、天安門事件に対して批判的であり、96年には再び日本に移住しています。

1995年の李登輝の訪米は共産党政権を刺激し、96年の台湾総統選の際には台湾海峡で人民解放軍の軍事演習が行われます。軍事演習はアメリカからの圧力によって縮小されますが、この一連の動きは李登輝への追い風ともなり、総統選では李登輝が圧勝しました。
李登輝は中国との対話を模索しつつ、国際法学者であった蔡英文を座長とする研究グループを立ち上げて、「主権国家としての地位強化」の手段を模索しました。

2000年の総統選は国民党の分裂もあって民進党の陳水扁が勝利します。陳水扁と言うと「独立派」のイメージが強いかもしれませんが、1期目は穏健な対中政策を進めています。
ところが、2期目を目指す総統選で劣勢に立たされる中、SARSをめぐる情報が中国から十分に提供されなかったことなどが共産党への不信を生み、陳は独立志向を強めて再選を果たします。
これに対して共産党は民進党を牽制するために国民党に接近し、2005年には国民党の連戦首席が北京で胡錦濤総書記と会見します。
こういった中で埋もれていったのが陳映真のような反国民党、親人民共和国的な立場の人々です。

2005年に民進党と国民党の合意によって憲法が改正され、小選挙区比例代表並立制が導入されます。これにより小政党の国政進出が難しくなり、民進党・国民党の二大政党制が定着していきます。
2008年の総統選挙では国民党の馬英九が選出され政権交代が行われます。馬には「親中派」のイメージがありますが、それは強まるのは2期目からで、当初は天安門事件に関心を持つなど、中国の民主化を促す人物しても期待されていました。
馬の対中融和的な政策は効果も上げ、中国からの団体観光客の解禁、大陸から台湾への投資の増加、「中華台北」名義でのWHOの年次総会へのオブザーバー参加などがもたらされました。パンダも08年に台北の動物園にやってきます。
馬は「台湾人」のアイデンティティにも一定の配慮を払う政策を行いましたが、対中依存は人々の警戒心も掻き立て、これが2014年の「ひまわり学生運動」につながっていきます。
2016年の総統選では民進党の蔡英文が当選します。蔡英文政権は過去の政治抑圧と向き合い、社会的亀裂の修復や和解を進める政策が行われ、「中国」ではなく「台湾」を重視した歴史教育が導入されました。
この国民党政権の過去に向き合うことは、日本の植民地支配をどう評価するかということにも連動した難しい問題で、例えば、李登輝は小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言スペシャル 台湾論』の中で八田與一の功績について熱弁を振っており、その背景には「中国」という問題を棚上げした日台関係を築こうとする意思があったと思われます。
この八田與一の銅像の頭部が切り落とされるという事件が2017年に起こります。犯人は中華統一促進党という中国と台湾の統一を訴える過激なグループのメンバーでした。
著者はこの事件の裏には、事件の前後に蔣介石の銅像が破壊される事件が相次いだことがあったとみています。
民進党政権は蔣介石像などの国民党一党支配の痕跡を公共の場から撤去する動きを進めており、八田與一像の破壊はそれへの反動とも考えられます。

台湾が「親日」かどうかというのは、台湾の歴史への評価、あるいは台湾の国際的プレゼンスの問題と密接に関わるものであり、そう単純なものではないといいます。
安倍晋三元首相が暗殺されると、台湾ではそれを悼むムードが広がり、高雄市には安倍晋三の銅像までつくられましたが、この背景には第2次安倍政権のもとで「交流協会」が「台湾交流協会」になったり、「台湾」を国際社会の主体として扱う姿勢があったからではないかと著者はみています。

ここでは日本との関係の部分をクローズアップする形で紹介しましたが、現在の台湾の状況を知る上でも十分な本だと思います。
ただし、類書との違いは、やはり日本との複雑な関係を読み解いているところでしょう。台湾の「親日」には台湾の歴史における屈折した経緯があり、台湾が過去の負の歴史と向き合おうとする中で、日本もまた台湾との間の過去の歴史と向き合うことが必要だということを教えてくれる本です。


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