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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2025年02月

近年、注目を集めているエコノミストが「失われた30年」の要因と、現在の日本の経済状況の問題点を診断した本。
副題は「収奪的システムを解き明かす」となっていますが、人によっては「収奪的」という言葉から2024年のノーベル経済学賞を受賞したアセモグル、ロビンソン、ジョンソンの議論を思い起こすかもしれませんが、本書では現在の日本を「収奪的システム」とみなして議論を進めています。
議論は多岐に及んでおり、そのすべてが正しいかどうかを判断する力は評者にありませんが、少なくとも人々の肌感覚には合った議論が展開されており、著者が注目を浴びている理由というのはよくわかりました。

目次は以下の通り。
第1章 生産性が上がっても実質賃金が上がらない理由
第2章 定期昇給の下での実質ゼロベアの罠
第3章 対外直接投資の落とし穴
第4章 労働市場の構造変化と日銀の二つの誤算
第5章 労働法制変更のマクロ経済への衝撃
第6章 コーポレートガバナンス改革の陥穽と長期雇用制の行方
第7章 イノベーションを社会はどう飼いならすか

本書がまず指摘するのは、生産性が上昇したにもかかわらず実質賃金が増えていない近年の日本の状況です。
1998年を100とした場合、2023年までに時間あたりの生産性は累計で30%程度上がっていますが、賃金はほぼ横ばいで、23年はインフレの影響もあって98年に比べて3%ほど減少しています(24p図1−1参照)。24年の春闘では賃金の上昇が見られましたが、今までの物価高に対して十分なものとは言えません。

一方、アメリカでは98年以来、生産性が50%程度上昇し、実質賃金は25%ほど上昇しています(26p図1−2参照)。
ドイツやフランスと比較すると、時間あたりの生産性は独仏を日本が上回っているのですが、実質賃金では25%上昇したドイツ、20%上昇したフランスに遠く及びません(27p図1−3、1−4参照)。
生産性は上昇したのに実質賃金は上昇しない。日本は労働の成果が「収奪」されている社会になってしまったのではないか? というのが著者の問題意識になります。

なぜ実質賃金は増えないのでしょうか? 著者はこれを企業、特に大企業の姿勢に求めています。
企業の利益剰余金は2000年代の半ばから増えており、特にアベノミクスが始まってからは大きく増加し、1990年代末に130兆円程度だったものが2023年度には600兆円の大台に乗っています。それにもかかわらず実質賃金は上がっていません(32p図1−5参照)。
つまり、企業があげた利益が従業員に還元されていないのです。

借入を行なって投資の主体となるべき企業が、日本では1998年以降、フローでは一貫して貯蓄主体になっています。
この背景には不良債権問題があったわけですが、この問題にある程度目処がついた後も企業は貯蓄を増やしています。
この企業の過剰貯蓄を吸収するため、著者は政府が拡張政策を進めることも外需を拡大するために金融緩和をすることも理にかなっていたと考えていますが、それは2013年以降ではなく、90年代後半の金融危機のときに行うべきだったと考えています。

企業は基本的に守りの経営に入り、アベノミクス以降の景気拡大局面においても国内ではなく海外で投資を増やす姿勢を見せました。
この背景には人口減少による国内市場の縮小もありますが、著者に言わせれば生産性が上がり実質賃金が上がるのであれば国内市場はまだ拡大するはずで、企業が賃金の伸びを抑え込んでいることが国内市場の停滞の要因だといいます。

青木昌彦はメインバンク制が日本の長期雇用を支えており、メインバンク制が崩壊すれば長期雇用も崩壊すると考えていましたが、実際にはそうなりませんでした。
メインバンク制が崩壊した後も、日本企業は長期雇用を維持しようとし、そのために危機に備えて利益剰余金を溜め込む経営をするようになりました。
この時期はコーポレートガバナンス改革が進んだ時期で、企業は配当を増やしましたが、日本の家計の貯蓄は銀行預金が中心であり、その配当が家計に恩恵を与えることは少なかったのです。

また、この時期に進んだのが非正規雇用の拡大です。企業は長期雇用を維持しつつ、その調整弁として非正規雇用を活用し、さらにその賃金も低く抑えることでコストカットを進めました。
小泉政権は、社会保障の財源として消費税の増税ではなく社会保険料の引き上げで賄う方針を立てましたが、これも企業の非正規への切り替えを進めるきっかけとなり、非正規から「収奪」するような仕組みが出来上がっていきました。

では、なぜ実質賃金が増えないのに労働者から強い不満が起こらなかったのか? この問題について著者は濱口桂一郎『賃金とは何か』(朝日新書)で示されたカラクリを使って説明します。
バブル崩壊以後、日本企業はベースアップ(ベア)を凍結し、人件費の上昇を抑え込みましたが、大企業に勤めるサラリーマン個人には定期昇給があります。
つまり、ベアがゼロでも1年経てば給料は定期昇給分、例えば2%程度上がっていくわけです。物価上昇率はほぼゼロとなっていましたから、個人の体感としては実質賃金は2%程度上がっている感覚を持てるのです。
最近になって名目賃金は上がっていますが、この伸びは物価の伸びを上回るものではなく、結果的に実質賃金の低迷は続いています(81p図2−4参照)。

この仕組みによって、大企業の正社員などは、一国全体で実質賃金が全く上がらずに社会全体が豊かになっていないことに無自覚になりました。
しかし、現在の課長や部長は四半世紀前の課長や部長と比べてその実質賃金は明らかに低くなっています。
こうした実質賃金の低迷がもたらしたものがインバウンドブームだとも言えます。実質賃金が停滞し続ける日本は、実質賃金が伸びている国に比べて明らかに「安く」なったのです。
近年の円安は第一次所得収支の黒字を押し上げており、貿易収支が赤字であっても高水準の経常収支の黒字が維持されています。
国内市場が伸びなくても、企業は海外投資からの収益で利益を計上し、株価も高い水準で推移しています。

しかし、著者はこの状況は必ずしも好ましいものではないとしています。
まず、企業の海外直接投資の収益率はそれほど高くないといいます。「海外直接投資収益率」は90年代末以降の平均で7%程度と高い数字になっていますが、損失(キャピタル・ロス)を含めると4%台まで低下します。
もともとM&Aでは、買い手側は売り手側よりも情報を持っていませんし、オークション的なメカニズムで価格が釣り上げられる傾向があります。しかも、日本企業が海外の企業を買収する場合、持っている情報の格差はより大きくなります。
実際、報道などを見ていても、海外投資の失敗で特別損失を計上するケースはしばしば目にします。

それでも、この間続いた円安傾向は海外投資の収益を押し上げました。
以前は、海外の資金を国内に韓流する動きが円高をもたらすこともありましたが、近年では過大なほどの自己資本が存在するためにこういった動きもなくなり、円安が定着しています。
この円安を支えたのが日銀の異次元緩和です。金融緩和は資本コストを低下させ、設備投資を促進することを目的としていますが、企業が貯蓄主体となっている今、金利の低下が設備投資を刺激する効果は低くなっています。

日銀の狙いには円高にさせないということもありましたが、著者はもはやその心配はないと考えています。
2022年に起きた資源高による交易条件の悪化を円安がさらに促進させる状況になっており、日銀は今までのような緩和策を続けるべきではないというのが著者の考えです。

本書は実質賃金の低迷を問題視していますが、「人口減少に伴う人手不足があるのだから実質賃金は上昇するはずでは?」と考える人もいると思います。
実際、06年以降を見てみると、2014年と19年の消費税増税による実質賃金の目減りはあるものの、10年代後半の実質賃金は上昇傾向にありました(132p図4−1参照)。
ただし、この時期は雇用延長による高齢者の労働参加率の向上、女性の労働参加率の向上によって人手不足の穴が埋められており、実質賃金の伸びは抑えられました。

この新たな労働力の供給が日銀にとっては誤算だったと著者は考えています。
日銀は団塊世代の退職とともに(2012〜14年にかけて)、深刻な労働力不足が発生し、賃金も物価も上がると考えていましたが、実際は高齢者や女性の労働参加率の上昇でそうはならなかったというのです。

工業化による経済成長が始まってもしばらくは農村から余剰労働力が供給され実質賃金は上がらないが、農村の余剰労働力がなくなると実質賃金が上昇し始めます。これを「ルイスの転換点」といいますが、この高齢者や女性の労働参加が頭打ちになる点を「第二のルイスの転換点」と呼ぶ議論もあります。
コロナ禍以降の人手不足については、この「第二のルイスの転換点」を迎えた可能性もあるのです。女性の労働参加率は上昇が続いていますが、短時間勤務が中心で一人当たりの労働時間は減少トレンドが続いています(142p図4−3参照)。
結果として、実質GDPを1単位生み出すための労働コスト(ユニットレーバーコスト)も上がっています。生産性の向上も足踏みしているようなのです。

一方、「企業利益÷実質GDP」で計算される実質GDP1単位あたりの利益であるユニットプロフィットは2020年ごろまでは交易条件の悪化とともに低下傾向にありましたが、2022年以降は交易条件が悪化しているにもかかわらずユニットプロフィットは向上しています(160p図4−8参照)。
これは22年以降、企業が商品の値上げを行うようになったためで、コストの増加以上の値上げも行われていると考えられます。
日銀は物価と賃金が手を取り合って上昇していくことを考えていますが、実際は物価の伸びに賃金は置いていかれる状況となっており、GDPは伸びても消費者にとっての消費者余剰は縮小しているような状況だというのです。

「失われた30年」の原因についてはさまざまな見方がありますが、著者が注目している要因が1990年前後に導入された週40時間労働への以降です(それまでは48時間)。
2002年に発表された林文夫、エドワード・プレスコットによる論文「失われた10年ーー1990年代の日本」、不況の原因は生産性の低下と労働投入量の減少で説明できるとして、不良債権問題こそが原因と見ていた多くの経済学者に衝撃を与えました。
林・プレスコット論文では生産性の低下に重きが置かれていましたが、著者は労働投入量の減少に注目します。

1980年代には4%台だった日本の潜在成長率は90年代に急速に低下し、90年代末には1%を下回ります。これを寄与度で分解すると90年代と00年代に労働投入がマイナスになっていることがわかります(180p図5−3、図5−4参照)。
90年代はまだ少子高齢化の影響は出てませんので、この労働投入の減少は週48時間労働から週40時間労働への移行が影響していると考えられます。完全実施までは6年間の期間があったとはいえ、労働時間の20%減少は日本経済に大きな影響を与えたはずで、賃金の低迷の一因にもなったと考えられます。

この「働き方改革」は残業規制ということで現在も進行中です。紹介の順番は前後しますが、第4章では2020年に中小企業にも広まった残業規制が、2023年にコロナ禍の終焉とともに影響を発揮し始め、日本経済の供給制約とコスト高につながっているというのが著者の見立てです。

日本経済の長期低迷の要因にはコーポレートガバナンスの問題もあるといいます。
日本ではバブル崩壊とともにメインバンク制も崩壊し、株主の利益をより重視する経営へと舵が切られましたが、これが問題含みのものだったというのです。

企業経営者は株主のために四半期ごとに利益をあげ、高い配当を支払う必要があります。
その時に、安易に人件費削減などのコストカットが優先され、また、一見して収益の高い海外での投資が選択されました。その結果、国内市場は冷え込んで、ますます人件費の抑制や海外投資が選択されるようになってしまったのです。

新しくできた企業に対する株式投資はその企業が投資をするための資金調達となりますが、既存の企業の株式については、著者は企業の利益を株主が抽出する役割が大きいといいます。
アメリカ流の株主の利益を最大化するのが良いことだという経営が日本でも広まったことにより、企業は長期的な投資や人的資源への投資ができにくくなっているというのです。

続いて、雇用制度についても触れ、「日本企業に現在の米国の典型的なジョブ型雇用を導入すると、恐らくは、一発屋やゴマスリ屋ばかりが社内に跋扈するようになって」(221p)とありますが、このあたりの理屈はよくわからなかったです。

最後に本書はイノベーションについて触れています。
イノベーションは経済成長に欠かせないものですが、イノベーションが必ずしも人々の生活を豊かにするとは限りません。アセモグル&ジョンソンがいうように、人々に負担や苦痛を強いる収奪的イノベーションもあります。
例えば、第一次産業革命も当初は実質賃金の低下をもたらし、その恩恵は一部の資本家のみが得ていました。この恩恵が多くの人に行き渡るようになったのは蒸気機関車によって大量輸送が可能になってからで、交通インフラの拡大とともにさまざまな仕事が生まれ、ようやく実質賃金も伸びていったといいます。

近年ではIT分野、現在は特にAIの分野でのイノベーションが注目を集めていますが、その果実が広く行き渡っているかというとそうとは言えません。
イノベーションが盛んなアメリカを見ても21世紀になって上位1%と下位50%の格差が拡大しており(246p図7−1参照)、産業革命時に労働者の実質賃金が切り下がったように、自動化とともに中間的な仕事がなくなり、実質賃金も低迷してるのです。
著者は収奪的になりやすいイノベーションを社会で飼い慣らし、コントロールしていくことが必要だと考えています。

このように本書は近年の経済情勢だけでなく、「失われた30年」、さらにはイノベーションをめぐる歴史にも触れており、読み応えのある内容になっています。
ただし、全体を通して見ると、前半の企業が従業員の賃金を上げてこなかったのが景気低迷の要因だという議論と、後半の働き方改革で供給制約がかかっており、それがコスト高と物価高につながっているという議論のつながりがややわかりにくく感じました。
労働供給の減少が物価高に影響を与えるほど大きいのであれば、いくら企業が賃金を抑え込もうと思っても賃金は物価上昇に負けないレベルで上がるのではないか?とも思うのですが、どうなのでしょうか(もちろん、最近の初任給の上がりぶりなどを見ると、すでにそういう力が働いているという見方もできると思う)。
最初にも述べたように、著者の分析が正しいのかどうかは判断できない部分はありますが、一般の人も受け入れやすい議論がなされており、著者に人気がある理由というのは十分にわかると思います。

市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』(岩波新書)、臼杵陽『イスラエル』(岩波新書)など、ユダヤ人やその歴史についてはそれなりに知っているつもりでしたが、本書はまた違った角度から、大きなスケールでユダヤ人の歴史を描き出しており、新たな驚きと発見がありました。
近世以降だと、金貸し→ドレフュス事件→ホロコースト→イスラエルの建国といったところが「ユダヤ人の歴史」として想起されるところかと思いますが、本書は東欧やソ連におけるユダヤ人とユダヤ人を取り巻く環境に注目し、そこからイスラエルの政治も読み解いていきます。

本書は、ユダヤ人の特徴、特質ではなく、ユダヤ人とそれを取り巻く環境の「組み合わせ」に注目しています。「ユダヤ人」というカテゴリーは大昔から現在まで存在していますが、その「ユダヤ人」はさまざまなものと組み合わさることで変容してきたのです。
この動きを本書はダイナミックな形で描き出しています。聖書の時代から現代まで、ユダヤ人の歴史をこんなに新しい見せ方で読ませるとは思いませんでした。非常に刺激的で面白い本です。

目次は以下の通り。

序 章 組み合わせから見る歴史
第1章 古代 王国とディアスポラ
第2章 古代末期・中世――異教国家のなかの「法治民族」
第3章 近世――スファラディームとアシュケナジーム
第4章 近代――改革・革命・暴力
第5章 現代――新たな組み合わせを求めて
むすび

ユダヤ人の歴史というと、まずは聖書の記述、モーセによる出エジプトなどを思い起こす人が多いでしょう。
ただし、近年の研究によれば、イスラエル人(ユダヤ人はそう自称していた。ヘブライ人は他称)が当時エジプトで暮らしていたという証拠はなく、どの程度実際の歴史を反映したものなのかはわからないそうです。

聖書にはアブラハムの契約とモーセのシナイ契約(十戒)がありますが、アブラハムの契約が血縁を基礎としたものであったのに対して、シナイ契約は律法の遵守を約束したものです。
この二重性は後世にも大きな影響を与えており、ユダヤ人は血縁集団として同定される一方、普遍的な律法の担い手ともされます。

その後、イスラエルの中のユダ部族のダビデが王となり、エルサレムを首都として王国を繁栄させました。このダビデの再来を願う心がメシア(救世主)信仰へとつながっていきます。
2つに分裂した王国は、北の王国はアッシリアによって征服され、南の王国もネブカドネザル2世のバビロニア王国に征服され、住民はバビロンに強制移住されます。いわゆる「バビロン捕囚」ですが、バビロンだけでなくバビロニア全体に移住させられたことから、近年では「バビロニア捕囚」とも呼ばれています。
強制移住させられた彼らでしたが、彼らには土地が割り当てられ集団で暮らしていたようです。この出来事は「ディアスポラ」と呼ばれますが、その後も一定のまとまりを持って暮らしていたと考えられています。

こうした中でユダヤ教の核心的部分である「ヤハウェ」と呼ばれる神への一神教信仰も始まっていきます。
この背景には、神が複数であれば戦いに敗れた自分たちの神も敗れたことになるが、一神教ならば実は敵の神も同じ神であり、自分たちの神が敗北したことにはならないという考えがあったといいます。ユダ王国の人々は偶像崇拝を持ち込んだがゆえに神の怒りを買って敗れたのです。

この後、アケメネス朝ペルシャがこの地域で勢力を広げると、ペルシャの宗教政策が寛容だったこともあり、ユダヤ人たちも帝国内で宗教共同体をつくり自治を行なっていきます。
ローマ帝国が勢力が広げるとローマの庇護を受けたハスモン王国がつくられますが、ヘレニズム化を進めるやり方に反発する声も強まり、聖書だけではなく有力なラビの口伝律法にも同等の価値を認めるファリサイ派が支持を集めるようになります。

ここで登場したのがイエスです。イエスはファリサイ派などの律法を厳格に守ろうとする形式主義を批判したとされていますが、これは後年のキリスト教の姿であり、イエス自身はエルサレム中心の権威主義批判に力点を置いていたようです。
しかし、これは領内の混乱を嫌うローマから睨まれる原因となり、イエスは処刑され、彼をメシアと見なす者たちがキリスト教をつくっていきます。
その後、ユダヤ人たちはローマに対して反乱を起こしますが失敗し、138年にはローマ帝国でユダヤ教への改宗は死刑とすることが決められます。これよりユダヤ教は血縁で結ばれる民族宗教となりました。

ユダヤ教の神殿が破壊されたことで、聖書の章句などの言葉を唱える礼拝が中心となり、日々の生活についてのラビの影響力が強まります。
ラビは司祭や牧師というよりは律法学者で、法曹的な存在です。ラビは日々の生活で直面する問題に従って立法を解釈し、ユダヤ人の生活を形作っていきました。例えば、出エジプト記に「あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない」という章句があることから、ラビたちはこれを肉と乳製品を一緒に食べること一般を禁止していると解釈し、そのためにイスラエルではチーズバーガーが売られていないといいます。

ユダヤ教で律法の学習が中心に据えられるようになると、ユダヤ人の識字率が向上します。ユダヤ人は他の人々と比べて読み書きの教育を熱心に行うようになり、ユダヤ人が商業や金融業へと進出していくことになります。
また、この背景には教育に投資することに馴染めなかったユダヤ人の農民が改宗してコミュニティを抜けた可能性もあるといいます(ユダヤ人の土地所有が禁止されたからという説もあるが、これは近世以降のこと)。

ユダヤ教のコミュニティはイスラームのもとで発展しました。もともと、イスラームはキリスト教よりもユダヤ教に近いところがあり(法学者の強さ、偶像崇拝の禁止、神の法に従った生活など)、また、カトリックに見られるようなヒエラルキー構造がないところも同じです。
ただし、この相似はイスラームとユダヤ教が共棲する中で互いに影響を与えあった結果でもあります。

ただし、10世紀以降にアッバース朝が衰退するとユダヤ人の拠点だったバビロニアは衰退し、さらに13世紀にモンゴルがやってくると、1170年にはメソポタミア、ペルシア、アラビア半島(特にイエメン)に80〜100万人いたとされるユダヤ人は、15世紀には25〜35万人に激減します。
この理由としては経済状況が悪化する中で、ムスリムに改宗するユダヤ人がいたためとも考えられています。
一方、中東に代わって発展したのがイベリア半島のユダヤ人社会でした。ユダヤ人たちは後ウマイヤ朝のもとで活躍し、「宮廷ユダヤ人」となり、外交や徴税を任される者も出てきました。
しかし、後ウマイヤ朝からベルベル人のムラービト朝に支配者が替わるとユダヤ人をはじめとする非ムスリムへの態度が厳しくなり、1066年には反ユダヤ暴動も起こっています。

こうした状況の中で登場した人物にマイモニデスがいます。12世紀にコルドバに生まれたマイモニデスはムラービト朝に変わったムワッヒド朝が「改宗か死か」を迫ってくると、当時のラビたちが殉教を選ぶことを進める中で、法を厳密に守ることが難しいのであれば、表向きは改宗して秘密裏にユダヤ教を守ることを示唆し、自らも公にはムスリムとして振る舞いながら学び続けました。
マイモニデスは聖書を字義通りに受け取るのではなく、比喩として捉え、そこに合理性を読み取ろうとしました。自然現象は神の法の現れであるとし、その法則の解明を目指したました。
マイモニデスは十字軍と戦ったとこでも有名なサラディンの医師も務めており、彼の聖書の解釈はヨーロッパにも影響を与えています。

キリスト教世界では、ユダヤ人はメシアの存在を認めているという点はキリスト教と同じだが、イエスを認めなかったことから間違っている(=だから抑圧されている)という形で捉えられ、金融業などに従事しつつ、差別的な視線も受けていました。
中世のヨーロッパの王や諸侯は領内の商工業をさかんにするためにユダヤ人を誘致したりもしましたが、これは庶民からすると権力者とユダヤ共同体の癒着のようにも見えました。

十字軍が始まり、キリスト教的な正義感が高揚するとユダヤ人への迫害も始まります。さらに14世紀にペストが流行するとユダヤ人が井戸に毒を入れたとのデマが飛び交い、ユダヤ人が次々と襲撃されることになります。この頃からキリスト教でも利子が解禁されるようになり、西ヨーロッパではユダヤ人の居場所はなくなっていきました。
スペインでは、レコンキスタのさなかにあってはユダヤ人はムスリムに対抗するための潜在的な同盟相手でしたが、キリスト教勢力が優位に立つとユダヤ人への迫害が強まります。
スペインでは25万のユダヤ人のうち15万人がキリスト教に改宗したといわれており、彼らは「コンベルソ」と呼ばれました。しかし、改宗しても彼らには疑念の目が向けられ、異端審問によって鞭打ちにあったり財産を没収される者もいました。こうした中で表向きはキリスト教徒として振る舞いながら意識の上でユダヤ教を守った者を「マラーノ」といいます。
レコンキスタの完成とともにユダヤ人は改宗か追放を迫られ、10万人前後がイベリア半島を脱出しました。

スペインを追われたユダヤ人はスファラディームと呼ばれるようになります。彼らはポルトガル、オランダ、オスマン帝国へと流れていきます。
まず、彼らが向かったのはポルトガルですが、ポルトガルでも1536年から異端審問が実施されるようになり、コンベルソ、特にマラーノたちはオランダに逃れ、そこでユダヤ教に再改宗します。オランダのユダヤ人として有名なのがスピノザです。

一方、オスマン帝国に渡ったユダヤ人は帝国を強化するための人材として受け入れられました。オスマン帝国は各宗教の共同体ごとの自治を認めており、ユダヤ人もこの自治を享受し、拡大した帝国で商業活動などに従事しました。
しかし、18世紀になってオスマン帝国が衰える中で、ユダヤ人は貿易ではギリシャ人に、金融ではアルメニア人に水をあけられるようになり、19世紀半ばのオスマン帝国内のユダヤ人は15万人ほどにまで減っていました。

スファラディームと並ぶユダヤ人の二大系統のもう1つがアシュケナージです。
アシュケナージとはドイツ系という意味で、ドイツではユダヤ人の追放がイギリスやフランスに比べて遅かったために高地ドイツ語を身につけたユダヤ人の集団がいました。この言葉がイディッシュ語に発展していきます。
このアシュケナージについてはハザール起源説もあります。ハザールとは7〜10世紀にコーカサスからウクライナ東部を支配したテュルク系民族による王国ですが、8世紀半ばから9世紀くらいにかけてユダヤ教を国教とし、国王などが改宗したとされています(本当に改宗したかについては否定的な研究もある)。
このハザールが滅亡した後に流れていった人々がアシュケナージの起源だというです。

15世紀までにドイツでもユダヤ人の追放が進みますが、彼らを受け入れたのがポーランドでした。
ポーランドは小貴族たちが支配する国でしたが、彼らはユダヤ人に土地の管理や徴税を任せました。ユダヤ人は酒造の権利も与えられ、農村で各種商店を開き、旅籠屋や居酒屋も営みました。
ポーランド内ではユダヤ人は全国的な自治も認められ、18世紀後半にはポーランドのユダヤ人は75万人にまで増え、世界のユダヤ人の1/3に及んだと推定されています。

ポーランドでのユダヤ人は「中間マイノリティ」と定義することができるといいます。これは経済階層としても中間であるだけでなく、貴族と農民や都市と農村をつなぐ仲介の役割を果たすマイノリティになります。
こうした存在は経済が順調にいっている時はいいのですが、不景気なると下層からの怨念を真っ先に浴びることになります。居酒屋の経営なども「善良な農民を酒に溺れさせている!」となるわけです。

こうした中でユダヤ教の神秘主義であるカバラーの影響を受けたハシディズムがウクライナ西部やその周辺で広まります。彼らは学習よりも祈りを重視し、日常生活の中で神を感じられることを目指しました。現在でもニューヨークやエルサレムで見られる黒服のユダヤ人は、このハシディズムの流れだといいます。

近代に入ると「ユダヤ人問題」が語られるようになります。
今まではユダヤ人は特殊な集団として位置付けられてきましたが、近代になって普遍主義的な考えが広まってくるとそのような個別的な捉え方は問題になります。そこでブルーノ・バウアーは1843年の「ユダヤ人問題」という論文の中でユダヤ人は棄教してのみ解放されると説きました。
社会的に見ても、それまではユダヤ人は集団内のでの自治を認められケースが多かったですが、近代国家になるとそのような自治は撤廃され、ユダヤ人は解放されるとともに、共同体という居場所を失うことになります。共同体が解体された後、多くのユダヤ人は大都市へと向かいました。

本書では近代のユダヤ人の動きについて、ドイツやドレフュス事件のあったフランスなどではなくロシアに注目しています。1900年の段階で世界のユダヤ人口の約半数の520万人がロシア帝国内に暮らしていたからです。
ロシアは南下政策でウクライナの頭部や南部を取り込み、さらにポーランドの東半分、ベラルーシ、リトアニア、モルドヴァなどを領土に組み込みました。この結果、ポーランドが取り込んだユダヤ人を今度はロシアが抱えることになったのです。

しかし、現在のロシア領域にユダヤ人が入ることを嫌い、ロシアの外に「ユダヤ人定住区域」を設定しています。
1855年にアレクサンドル2世が即位し改革を進めると、ユダヤ人についても選択的統合政策がとられ、政府が「有益」と判断したユダヤ人の移動制限がなくなります。この結果、モスクワやサンクトペテルブルクなどの大都市にユダヤ人が暮らすようになりました。
しかし、ユダヤ人多くはロシア語ではなくイディッシュ語を話し、必ずしも統合が進んだとは言えません。また、ベラルーシのミンスク県ではユダヤ人が全人口の59%を占めるなど、地域によってはユダヤ人はマイノリティではありませんでした。

ステレオタイプ通りにユダヤ人が金持ちであればこれらの地域は豊かなはずですが、実際はそんなこともなく、むしろロシア帝国内ではユダヤ人は貧困層に多くいました。
アレクサンドル2世による農奴解放はユダヤ人から安定的な「手数料」収入を奪い、また鉄道の発達はユダヤ人の営んでいた小規模な商業に打撃を与えました。そのためユダヤ人の多くが工場労働者になっていくことになります。社会主義者にユダヤ人が多かったのはそのためです。

アレクサンドル2世の暗殺をきっかけにユダヤ人に対するポグロムが始まります。ユダヤ人にとってはいわれのない暴力でしたが、政府はユダヤ人に責任を転嫁し、ユダヤ人の農村移住や不動産取得が禁止されます。
1887年には大学でもユダヤ人に対する「割当制」が始まり、ユダヤ人は西欧に留学せざるを得なくなります(この結果、社会主義者が増えたという面もある)。
ポグロムを契機にパレスチナに民族的な拠点をつくろうとするシオニズムの動きも起こります。西欧ではシオニズムは西洋社会との訣別を意味してしまいますが、ユダヤ人が集合的存在として捉えられていたロシアや東欧ではそうした恐れもなく、シオニズムがストレートに受容されました。

1917年のロシア革命はユダヤ人を抑圧していた体制が打破されたものでしたが、その後の混乱と内戦はユダヤ人に惨禍をもたらしました。
ボリシェビキの「土地に関する布告」によってユダヤ人の経済と密接に関わっていた農村経済は大転換を迫られ、零細商店もブルジョワ的だとして攻撃されました。一方、対抗する白軍においても右翼は反ユダヤ的であり、ボリシェビキはユダヤ人による陰謀だとしてユダヤ人を攻撃する者も現れます。

特に革命とともにポグロムの嵐が吹き荒れたのがウクライナです。
もともと「ユダヤ人=農民の搾取者」というイメージがあり、アレクサンドル2世の死後の1881〜82年、1903〜06年にウクライナでポグロムが起こっていましたが、1918年に始まるロシア内戦きのポグロムは桁違いの規模となりました。
ロシア、ユダヤ、ウクライナという3つの民族の関係の中で、ウクライナの民族主義者がロシア語を話すユダヤ人をロシアやボリシェビキの手先として攻撃したことで、5〜20万人のユダヤ人が死亡し、50万人のユダヤ人が難民化し、ロシアや西欧に逃れたといいます。

このポグロムは次なる悲劇を用意します。
ウクライナがソ連に入ると、ソ連の秘密警察のチェカーのユダヤ人がポグロムの復讐としてウクライナ人を処罰することがあったといいます。ウクライナ人が特に反ユダヤ的だったわけではありませんが、ロシア、ユダヤ、ウクライナの3者関係の中で「想像の民族対立」ともいうべき潜在的な緊張関係が続きました。

本書はホロコースト拡大の背景に、中東欧のこうした「想像の民族対立」を見ています。
もちろん、ホロコーストはナチ・ドイツの始めたことですが、ドイツ本国で犠牲になったユダヤ人は16万人、全体の犠牲者は600万人に上るとされています。
ユダヤ人が殺された地域の中心はアウシュビッツがつくられたポーランドや対ソ戦が行われたウクライナやベラルーシなどであり、これらの地域ではナチ的な人種主義はそれほど広がっているわけではありませんでした。

しかし、ポーランドではロシアへの対抗心を持ったナショナリズムが反ユダヤ主義と結びつき、第2次世界大戦前のドイツとソ連によるポーランド分割を通じて、ソ連とユダヤ人は結びついているというイメージが強化されていました。
ウクライナでもソ連に対する反発と反ユダヤ主義が結びついており、ドイツの進軍とともにソ連軍が後退するとユダヤ人への敵意が表面化します。1941年9月に起きたバビ・ヤールの虐殺では、ドイツ人部隊とウクライナ民兵によってユダヤ人や共産主義者など「ウクライナの解放者」の敵と見做された人々3万人以上が殺害されました。
人種という概念に取り憑かれた主犯としてのナチと、中東欧に潜在的に存在していた反ユダヤ感情が結びついたことがホロコーストの被害を拡大させました。

ホロコーストによって1939年に約1700万人いたユダヤ人のうち600万人が殺害され、ユダヤ人の人口の中心は約450万人が住んでいたアメリカに移りました。1948年にはユダヤ人人口は72万人ほどですがイスラエルも建国されています。
現代のユダヤ人の歴史について、本書ではあまり注目されてこなかったソ連のユダヤ人をとり上げています。
ソ連では宗教が否定されたこともあってシナゴークも閉鎖されますが、今まで宗教的な場面では排除されていた女性が活躍するきっかけともなりました。
ソ連では法的にユダヤ人差別が禁止され、ユダヤ人を「民族」として認定し、1934年には極東のハバロフスク近郊に「ユダヤ自治州」が発足しています(しかし、湿地帯で開拓はうまくいかずユダヤ人は自治州の人口の16%に過ぎなかった)。

しかし、1930年代になると共産党の推進していたイディッシュ政策は「ブルジョワ民族政策」とみなされるようになります。
第2次世界大戦中は、アメリカの支援を得るために国内のユダヤ人を懐柔する政策に転じますが、冷戦が始まると今度はユダヤ人はアメリカと繋がっているとみなされ民族的な動きは抑圧されます。第3次中東戦争では、ソ連が支援していたアラブ連合軍が敗れたことで、ソ連の半イスラエルの姿勢が強まりました。
1985年にペレストロイカが始まり、出国制限が弱まると120万人ものユダヤ人が旧ソ連地域からイスラエルに向かうことになります。

パレスチナへの入植が始まった頃、ユダヤ人の入植者はなかなか増えませんでした。農業初心者のユダヤ人にパレスチナでの農業は困難であり、それ以外にユダヤ移民がつける仕事があまりなかったからです。
アラブ系住民との摩擦も当初はそれほど目立ちませんでしたが、第一次世界大戦後のイギリスの三枚舌外交などもありこの地域の緊張が高まり、アラブ系の住民の反発をユダヤ人は「ポグロム」と捉えて、逆に土地を奪われたアラブ人の境遇には無頓着になっていきます。

シオニズムを率いたのは東欧出身のアシュケナージであり、スファラーディムは遅れてイスラエルにやってきました。北アフリカのフランスの植民地が独立する際に、フランスの手先としてユダヤ人が憎悪も対象となったこともあり、20世紀半ばから中東・北アフリカ地域からイスラエルへの流入が増えました。彼らは「東方系」を意味する「ミズラーヒム」と呼ばれ蔑視されるようになります。
この亀裂を埋める役割を果たしたのはホロコーストの記憶です。もともと自助的な考えを持つシオニストはホロコーストで殺されたユダヤ人に冷淡でしたが、アイヒマン裁判をきっかけにホロコーストの記憶が捉え直され、ユダヤ民族全体の記憶として位置付けられていきます。

イスラエルは国営企業のプレゼンスが大きく、労働組合も強い社会で、政治でも労働党が強かったのですが、70年代後半からリクードが伸び始め、ソ連からの大量移民(2000年代初頭にはイスラエルのユダヤ人の約2割が旧ソ連出身者となった)が右派政党を支持したこともあり、右派政党の優位となっていきます。
オスロ合意は92年にかろうじてリクードから政権を奪還した労働党によって進められましたが、その後右派政党の勢いに押されたこともあり、和平も停滞しました。

さらに本書はアメリカのユダヤ社会についても触れていますが、ユダヤ人がアメリカ国家に忠誠を誓う限り個々人が自由に生きることができる文化多元主義の考えなのに対して、アフリカ系はエスニシティの平等を求める多文化主義の考えを持つ傾向があり、そこにすれ違いが生じているよいう指摘は興味深かったです。
ここまで長すぎるまとめとなってしまいましたが、これでも落としたところはたくさんあり、それだけ読みどころの多い本です。
今までになかった形でユダヤ人の歴史を提示してみせた非常に刺激的な本です。


2019年の新書大賞を受賞した『日本軍兵士』の続編にあたる本です。
『日本軍兵士』はアジア太平洋戦争における、日本軍兵士の死因などをマクロ的に分析するとともに、戦場における歯科医、兵士の体格や服装の劣化、戦場における知的障害者などにも目配りした非常に読み応えのある本でした。
その続編ということで、さらなる細かな分析がなされているのかと思いましたが、そうではなく「なぜ、人命や兵站を軽視する軍隊ができあがってしまったのか?」ということを問う内容になっています。
いわば「プレ・日本軍兵士」、「日本軍兵士・beginning」ともいうべき本で、兵站にしろ医療にしろ、一時は大きく改善した日本軍が再びそれを失っていく過程が描かれています。

目次は以下の通り。
序章 近代日本の戦死者と戦病死者―日清戦争からアジア・太平洋戦争まで

第1章 明治から満州事変まで―兵士たちの「食」と体格

第2章 日中全面戦争下―拡大する兵力動員

第3章 アジア・太平洋戦争末期―飢える前線

第4章 人間軽視―日本軍の構造的問題

日清戦争で日本は24万人の陸軍兵力を動員しましたが、台湾征服戦争の時期も含めると戦闘による死者が1401名で戦病死者が1万1763名でした。戦没者の9割近くが病死でした。日清戦争は、赤痢、マラリア、コレラ、脚気などとの戦いでもあったのです。

日露戦争では、日本は110万人の兵力を動員し、戦死者は6万31名、戦病死者は2万1424名でした。全戦没者に占める戦病死者の割合は26.30%まで低下しています。
これは伝染病の死者が大きく減ったこと、軍靴の支給により凍傷が大きく減ったこと(ただし、その質は悪く戦争が長引くと破損するものも多かった)、軍夫ではなく専門の補給部隊が兵站を支えたことなどによるものです。
この後も基本的に戦争の中での戦病死者の割合は減っていきますが、シベリア出兵に関してはスペイン風邪の影響もあって戦病死者は増えました。
満州事変に関しては詳しい戦死者や戦病死者の割合はわからないものの、残された記録から戦没者に占める戦病死者の割合はさらに減っています。

しかし、この改善傾向が反転したが日中戦争です。日中戦争の戦没者における戦病死者の割合は37〜39年までは16.53%とかなり低い割合にとどまっていましたが、40年には46.22%、41年には50.21%と日露戦争よりもはるかに悪い状態にまで後退しています(17p表1参照)。
一時期、抑えられていた脚気の患者が増えるなど、栄養状態の悪化などの悪化がこの背景にあると考えられます。
こうした状況の中で日本はアジア・太平洋戦争へと突入していきます。敗戦直後に陸軍省がまとめた資料ではアジア・太平洋戦争開戦から敗戦までの陸軍の戦死者は49万6013名、戦病死者が30万7020名で戦没者に占める割合は38.2%です。ただし、実際の数字はもっと悪かったと考えられます。

明治になって日本では「国民皆兵」の考えのもとで徴兵制が行われますが、実際に現役兵として入営する若者はそれほど多くありませんでした。
日清戦争前の1891年では、現役徴集率は5.7%、日露戦争後には20%程度にまで上がりますが、その後に軍縮があって1929年の段階では15.4%まで下がっています(30p表2参照)。
また、徴兵を担当する軍医の中には高学歴者に対する同情や配慮をはたらかせる者もあり(高学歴者は甲種合格にしない)、結果として徴兵の格差が生まれたといいます。

このように選ばれたということあって兵士の体格は基本的に同世代を比べても大きなものでした。
1885年の生命保険会社への加入申込者(20歳)の平均身長は157.0センチ、平均体重は53.6キロとかなり小柄です。これに対し、1888年の時点で全陸軍の兵士の平均身長は165.15センチ、体重は60.41キロで、かなり体格の良い者が多かったことがわかります。
日清戦争後の1903年には現役徴集率がかなり上がったこともあり、平均身長163.92センチ、平均体重58.65キロとやや落ちますが、それでも一般の人に比べると上です。

この時期に問題となっていたのは脚気でした。脚気はビタミンB1の不足から起きるものですが、当時は原因がわからず、海軍では総人員の3〜4割が脚気に罹患したといいます。
海軍では研究の結果、白米中心の食事が良くないということになり、パンやビスケットの主食への採用、副食の充実が図られました(当時のパンは小麦粉の精白が十分でなかったためビタミンB1を豊富に含んでいた)。

一方、陸軍は白米のこだわり、1日6合の白米を兵士に支給し続けており、脚気を予防できませんでした。これは栄養学的な知見が十分になかったこともありますが、入営してきた兵士たちにとって白米は魅力的であり、だからこそ止めにくかったということもあります。
このような陸軍でも1920年からはパン食が導入されるなど、栄養面での改善が進み、副食も充実していきました。
ただし、陸軍の炊事は基本的には飯盒炊さんであり、水や薪の確保、そして調理の時間がかかりました。一時期は炊事専務兵がつくられたこともありましたが、やる気のない落ちこぼれが集まるということもあって廃止されています。

1920年代〜30年代半ばにかけては日本人全体の体格も向上しており、1935年には平均身長160.3センチ、平均体重52.95キロまで増えました。1935年の兵士は、平均身長164センチ、平均体重60.94キロで、平均的な男性を上回っています(52p表4、53p表6参照)。
このようにさまざまな問題を抱えていたとはいえ、基本的には向上していた日本軍兵士を取り巻く環境ですが、これが反転するのが日中戦争です。
1939年の教育総監部「秘 事変の教訓 第九号」では、戦場における陸軍幹部の死傷率の高さを指摘していますが、この背景には兵士の質が低く幹部が「露骨なる率先垂範」を行わざるを得ず、また兵士も幹部の危険に無関心な状況があると述べています(73p)。
この頃になると中国の戦場では戦争栄養失調症が多発していました。1938年の徐州作戦に参加した関東軍の2個旅団も作戦終了後にチチハルに帰還すると、極度の痩せ、食欲不振、頑固な下痢などを訴える患者が続出し、多くの死亡者が出たといいます。
この要因としては栄養状況の悪さとともに、ほとんど寝ずの行軍によって睡眠不足とそれに伴う過労状態に陥ったことがあります。昼間に40〜55キロといった行軍をし、さらにそれから翌日の分も飯盒炊さんしなければならないため、休養の時間がほとんどなかったのです。

日中戦争が始まると、動員も拡大しますが、ここで問題になったのが兵士の動員を増やすと国内が労働力不足になってしまうという問題です。労働集約的な産業が中心だった日本では特にこの問題が深刻でした。
陸軍では1936年に兵役法を改正し、甲種・乙種合格の基準を身長155センチ以上から150センチ以上に引き下げ、実際には165センチ以上から160センチ以上に基準を引き下げて現役徴集率を引き上げました。
また、現役を終えた後の予備役・後備役からの動員を進め、長期の軍隊生活を経験していない補充兵役からの動員も進めました。
陸軍は対ソ戦に備えて精鋭師団のかなりの部分を中国戦線には投入せずに満州に配備しており、中国には後備役を中心とした多数の特設師団が投入されました。
1938年8月の時点で、中国に派遣されていた兵士は現役兵11.3%、予備役兵22.6%、後備役兵45.2%、補充兵役が20.9%で、20代後半から30代後半の後備役兵が半数近くを占めていました(82p)。家庭を持つ「中年兵士」の士気は低く、これが戦場で起こる戦争犯罪の土壌ともなりました。

この年代の長期の従軍は出生率の低下をもたらし、陸軍も人口政策上の配慮から39〜40年にかけて彼らの復員に踏み切らざるを得なくなります。
そこで、検査では原液には適さないとみなされた丙種合格の動員も行われるようになります。
体格的に劣った者や知的障害を持つ者を入営するようになりました。1942年に行われた調査では知能検査で極めて不良な成績だったものが1割を超えていたといいます。
こうした中でも陸軍では突撃中心の作戦が続けられ、死傷者を増やしていくことになります。

日中戦争の長期化に伴って、兵士を取り巻く環境も悪化していきます。
輸出入に対する国家統制が強まると小麦の輸入も行われなくなり、パンが消えていきます。羊毛の輸入も削減されたことで冬用軍服も毛織物から綿製になり、防寒性能も耐久性も大きく後退しました。
兵士の体格も悪くなっていきます。陸軍は統計がないために38年以降の数値を知ることはできませんが、海軍では1936年に60.12キロだった平均体重は41年には59.51キロに落ち込んでいます。栄養状態の悪さから結核も広がりました。

1941年12月、日本は中国との戦争を継続させたまま、対米英戦に突入します。総兵力の2〜3割を中国に貼り付けたままでの戦争でした。
開戦の年の陸海軍の総兵力は約241万人でしたが、45年には約719万人にまで膨れ上がります。
そのために朝鮮や台湾からの動員が行われ、国内でも42年に陸軍防衛招集規則がつくられ、これが44年に改正されることで17〜45歳までの男子を防衛招集という形で大量に召集することが可能になりました。沖縄ではこれによって「根こそぎ動員」が行われています。
視覚障害者も航空兵のためのマッサージ要員として動員され、記録にはあまり出てきませんが身体障害者も動員されたといいます。

開戦後の年次別の死者はわかりませんが、岩手県の年次別の記録をそのまま全体に当てはめると約230万の死者のうち87.6%の約201万人が44年以降に死亡しています。そして、その6割が戦病死者です。
この時期の戦病死者の多くが栄養失調による餓死者と栄養失調からマラリアなどの感染症による死者です。
海軍には栄養失調という病名が存在していなかったこともあり、離島の防衛などで飢えに直面して亡くなった兵士の病名は脚気として処理されたそうです。

戦争が長引くにつれ精神的な病も増えていきます。ただし、詐病の可能性もあり、軍ではこれを厳しく追求していました。「「精神病の詐病診断法」として、「殴打、飢餓、首枷等」により「自白」を強いる、「威嚇法」が行われていた」(132p)とのことです。
軍医からはこうした手法を無意味だと批判する声もありましたが、「出たがりません勝つまでは」(135p)という入院患者の合言葉があったという話もあったそうです。

食糧事情も悪化していき、軍の内部でも今までのように食糧を支給することが難しくなってきました。
米軍に制空権や制海権を握られる中で離島の守備隊は自活を強いられましたが、パラオ地区集団司令部は「第一線部隊は訓練に徹底すべきで、農耕などに力を注ぐべからずとの強い方針」(142p)でしたが、そのために農耕開始の時期が遅れ、多数の栄養失調死亡者を出す結果になったと内部から批判されています。
さらに友軍同士で食糧を奪い合い、夜間に他部隊の食糧庫を襲撃するといった事件も起こっています。

当然、現地の人々からも強引に食糧を集めようとしています。沖縄でも農作物を荒らし鶏や豚を強奪するなどして住民の反感を買っていますし、千葉の九十九里でも本土決戦のための部隊が食糧を買い漁り、「匪賊化」しているとまで言われています。
食糧不足は兵士の体格にも影響を与えており、中国戦線の第68師団では「古年兵」の平均体重は56キロほどでしたが、45年3月に到着した現役初年兵の平均体重は約50キロに過ぎなかったといいます。

軍の機械化も遅れていました。輸送のためのトラックは十分に用意できず、ガソリン不足もあって木炭・薪炭を燃料とした「代用燃料車」が投入されました。平均時速は15〜18キロほどで、1キロ走るのに1キロの薪が必要だったといいます。
第一次世界大戦後は陸軍内部でも機械化を求める声はありました。しかし、予算や今まで軍馬の育成を行ってきた団体などからの反対もあり、自動車の導入はなかなか進みませんでした。

機械化の遅れによって兵士たちは徒歩による行軍を強いられ、しかも、体重の半分ほどの重さの装備を背負って行軍することになりました。
44年4月に中国で始まった大陸打通作戦では、100日間、2000キロを超える行軍を強いられた部隊もあり、多くの落伍者が出ました。
44年5月には豪雨の中で立ち往生した部隊が166名もの凍死者を出すという「長台関の悲劇」も起こっています。栄養不良や過労、粗悪な衣服や雨外套が引き起こした悲劇でした。

陸軍に比べて海軍は先進的だったと思われていますが、駆逐艦や巡洋艦では攻撃力を上げるために居住性が犠牲になっており、寝るためのベッドの導入も遅れていました。43年末からは大型船でも防火のために家具類が撤去され、居住性は大きく低下しました。

最後に「犠牲の不平等」の問題もとり上げられています。
高学歴者は徴兵されにくく戦没者も少なかったと言われていますが、実際にそれを示すデータはありません。ただし、日中戦争以降に動員された人の戦没率(12%)に比べると、京都帝国大学や立教大学の戦没率は一番高い42年4月入学でそれぞれ9.4%と10.8%でやや低い数字になっています。
また、前線では将校と兵士では支給される食糧に差があり、クサイ島の守備隊では44年1月から45年8月にかけて兵士の体重は4.2キロ減りましたが、将校の体重は減っていません(202p表11参照)。
ただし、尉官クラスの戦死率はかなり高くなっています。これは第一線の小隊長や中隊長として先頭に立つことを求められたからです。
このことから陸軍士官学校を出た正規の将校を見ると、戦死した者は多いが戦病死した者は少ないという形になっています(208p表12参照)。

終章では、陸軍の機械化や装備の充実が遅れた理由を改めて検討していますが、その大きな要因が日中戦争です。「日中戦争のために大兵力を中国戦線に展開したことが、軍備充実計画を挫折させる決定的要因となった」(220p)のです。

タイトルにあるように続編であり、また「あとがき」によると史料の収集には相当苦労したようで、前著のようなインパクトはないかもしれませんが、それでも今まで知らなかった興味深い知見をいろいろと教えてくれる本になっています。
特に輸入統制やアメリカなどからの経済制裁によって、石油や鉄といった軍需物資だけでなく、羊毛や小麦粉の輸入も制限され、それが兵士たちの食生活や装備にも影響を与えていたというのはあまり考えていなかったことでした。
読む人それぞれにさまざまな発見がある本だと思います。




『日本軍兵士』のレビューはこちら↓

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不動産不況もあって減速ムードが強まっている中国経済、もとから習近平政権による経済への締め付けが強まっていたこともあって、アセモグルらが言うように「やはり権威主義国家の中国では経済成長に限界があるのだ」という議論に説得力が出てきたようにも思えます。
一方、中国のEVは好調であり、世界のシェアを見てもBYDをはじめとする中国企業が名を連ねています。権威主義下の中国では自由な経済活動ができず、イノベーションが生まれないと言うわけではなさそうなのです。

こうした状況について、本書は不動産市場の低迷による需要の落ち込みと、EVをはじめとする新興産業の快進撃を表裏一体の出来事として読み解いていきます。
著者は『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書)のコンビですが、同じように中国の現在の状況の報告とその理論的な読み解きの両面があり、読み応えのある内容になっています。
どうしても楽観論と悲観論の両極に振れがちな中国論ですが、本書は「中国の経済政策に問題がある(だから政策が良くなれば経済も良くなる)」という運命論的ではない見方を打ち出しており、今後の中国を見ていく上でも非常に参考になるでしょう。

目次は以下の通り。
第1章 中国の不動産市場に何が起きているのか?

第2章 ポストコロナの不動産危機

第3章 新型都市化と不動産リスク

第4章 中国不動産市場と「合理的バブル」

第5章 中国社会を覆う悲観論

第6章 地方政府はなぜ財源不足に苦しむのか

第7章 「殺到する中華EV」は中国経済を救うのか

第8章 不動産バブルと過剰生産のゆくえ

まずは現在の中国の不動産危機の状況ですが、中国の商品住宅販売額は2021年の15兆元をピークに急落し、2023年には10兆元台まで縮小しています(20p図1−1参照)。
もともと中国の不動産価格はずっとバブル気味で、国際的に見て住宅価格は年収の4〜6倍が合理的と言われる中で、中国では97年の時点で8.7倍に達していました。それでも中国では可処分所得も伸び続けていたため、住宅価格はずっと年収の7〜8倍程度で推移してきました。
しかし、ここにきて、ついに住宅価格の大きな下落が起こったのです。

不動産は、内装、家電、引っ越しなどの関連産業も含めると中国のGDPの30%を占めるとも言われており、家計資産の70%を不動産が占めているといいます。さらに不動産価格の下落はマイナスの資産効果を通じて個人消費も大きく落ち込ませているのです。

中国ではマンションの建設中に販売契約が完了するのが普通で、業者はそうして得た資金を残りの工事や次の物件のために使います。ところが、不動産販売が思うようにいかなくなって建設が途中でストップしてしまったマンションも増えています。
こうなると購入者はローンを払っているのに住めないという状況になります。そこで中国政府は未完成物件を完成させるように大号令をかけました。
この効果はあったのですが、結果として中国では誰も住みたがらないようなマンションが続々と完成しているといいます。

著者の高口はその1つの貴州省貴陽市の物件を訪ねているのですが、さすが中国のスケール感で市中心から1時間バスに乗り、最寄りのバス停から徒歩20分のところに20階近い高層マンションが50棟もあるマンション群があるといいます。
埋まっている部屋は全体の1割くらいというありさまで、用意されたテナントも半分以上は空いているといいます。
中国では、とにかく不動産を持つことが豊かになる道でしたが(中国がアメリカから引き抜いたスター研究者よりも以前から中国にいて不動産を持っている老教授の方が結局は金持ちだということも多いらしい)、そんなチャイニーズ・ドリームは行き止まりを迎えているようなのです。

中国の不動産危機はなぜ起こったのでしょうか?
2020年から始まったコロナ禍に対して、中国は迅速な金融政策を行い流動性を供給するとともに影響の大きな産業や零細企業に対する低利融資を用意しました。
こうした金融緩和は日本をはじめとする先進国でも行われましたが、中国の特徴は財政出動をそれほど行わなかったことです。日本やアメリカでは個人に対する大規模な直接給付が行われましたが、財政赤字をGDP比3%以内に抑えてきた中国はこうした直接給付を行いませんでした。
代わって政府が行なった財政支出は、5G基地局整備、データセンター、都市間鉄道などの新インフラの整備であったり、新エネルギー車の購買補助金の延長でした。
社会保険料の免除・繰り延べも行われましたが、これは中央政府の支出ではなく、多くは積立金の取り崩しによって穴埋めされました。

こうした中でも不動産価格は上がっていたわけですが(金融緩和がそれを後押しした)、20年8月に不動産ディベロッパーに対して打ち出された「3つのレッドライン」が不動産バブル崩壊の引き金となりました。
「3つのレッドライン」とは「負債の対資産比率を70%以下に」「純負債の対資本比率を100%以下に」「手元資金の対短期負債比率を100%以上に」というもので、これによって借金を拡大させながら成長していた多くの不動産企業はハシゴを外されました。

中国の不動産に関しては、政府の意向もあって非効率な開発が行われていたという面もあります。
習近平政権は新型都市化という政策を打ち出し、北京・上海・深圳といった一線都市や各省の省都などの大都市ではなく、中小の都市を建設してそこに農村から人を集めようとしました。
この政策のもとで各地に新しい都市が作られたわけですが、こうした都市は低密度で非効率を産んでおり、また建設の過程で地方政府は大きな債務を負いました。
中国政府も一時は旧市街の再開発を認めることで不動産市場のテコ入れを図りましたが、地方政府主導の乱開発が見られるようになると、中央政府はこれも抑えにかかり、不動産市場の救世主とはなりませんでした。

それにしても中国の不動産バブルはなぜ今まで弾けなかったのでしょうか?
賃貸利回りで見ると、日本では5〜8%が一般的とされているのに対して、中国の一線都市では1%前後という低さであり、100年分の賃貸価格という有り様でした(当然、マンションに100年の耐久性はないと思われる)。
多くの人がマンションを欲しがったのは値上がりが期待できるからあり、ファンダメンタルズから乖離したこのような値上がりは「バブル」と言えそうです。

しかし、中国の不動産については一部の期間と地域を除けばバブルではなかったとする見方もあります。
ファンダメンタルズから価格が乖離しすぎると政府が介入して乖離の幅を一定に抑えていましたし、中国の不動産は「合理的バブル」だったとの見方もあります。
合理的バブルの詳しい説明は本書に譲りますが、成長率が金利を上回るような「動学的非効率」と呼ばれる状況では、資産バブルが長期間継続するというのです。中国では2008年のリーマンショック以降、一貫して成長率が平均貸出金利を上回る状態が続いていました。

また、こうした合理的バブルに拍車をかけたのが中国の社会保障制度の不備だといいます。
中国の公的年金制度には公務員などが加入する公務員基本年金、企業被雇用者が加入する都市職工基本年金、それ以外の人々を対象とする都市・農村住民基本年金がありますが、5億人以上が加入している都市・農村住民基本年金の給付は極めて不十分で平均給付額は都市職工基本年金の1/19しかありません。
公務員基本年金と都市職工基本年金は賦課方式と積み立て方式の二本立てになっていますが、積み立て方式は強制貯蓄と同じであり、しかも金利が成長率を下回っている動学的非効率の状況では有利なものとはなりません。
このような世代間移転の不十分さが、人々を不動産購入に走らせていたのです。

この合理的バブルに関しては、必ずしも悪いものではないという議論もあり、著者(梶谷)は利下げなどによって合理的バブルを持続させつつ、賦課方式の年金を拡充することで世代間移転を図るのが良いと考えていますが、中国政府がそのような大きな改革に踏み出すかどうかは不透明です。

この不動産不況は中国人のマインドにも大きな影響を与えているといいます。
今までは浮き沈みがあっても将来に対する楽観的な見方は消えなかったわけですが、現在は住宅ローンの繰上げ返済に人々が殺到し、消費のダウングレード(消費降級)が起きてスタバの客単価も下がり続け、日本の化粧品メーカーなども苦戦を強いられています。
就職では公務員に人気が集まり、24年の国家公務員試験は340万人が出願し倍率は87倍、地方公務員や公共機関職員にも志願者が殺到しているといいます。
スタートアップ投資も低調になってしまっており、今まであった中国経済のダイナミズムが失われてしまっている印象だといいます。

不動産不況は地方財政にも大きな影響を与えています。
中国の財政は実はかなり分権的であり、国家財政における中央政府の比重はロシアやインドといった新興国と比べ一貫して低くなっています(135p図6−3参照)。特に比重が低いのは歳出面
で、歳入面を上回っています。
もちろん、中央政府が地方に財源を一定程度分配する仕組みはあるのですが、基本的に「税収が少なく支出が多い地方政府」が中国の特徴です。

そこで地方政府が頼ったのが土地使用権の売却です。地方政府は農民に安価な補償金を払って土地を収用し、それを不動産デベロッパーなどに払い下げることで財政収入を得ました。
さらにリーマンショック後からは「融資プラットフォーム」と呼ばれる手法が用いられることになります。これは地方政府が融資プラットフォームと呼ばれるダミー会社を設立し、土地を担保として銀行から融資を受け、それを自主財源とするスキームです。
中央政府は銀行からこの融資プラットフォームへの融資を制限しますが、そうするとノンバンクなどから融資が流れ込むようになり、このスキームへ継続しました。
地方政府であれば最終的には債権は保障されるだろうという観測のもとで融資がながれこみ、地方政府の債務は拡大を続けました。

こうした債務の拡大は経済が成長し、不動産価格が上昇している中ではなんとかなりましたが、後退局面に入ると債務削減の強い圧力がかかります。
税源不足に苦しむ地方政府は倹約を進めるとともに、公共料金の大幅な引き上げを行なっています。さらに、複数の上場企業が過去の税金未納分を支払うように要求されたり、交通ルール違反や無許可営業の摘発を強化して罰金徴収を強める動きもあります。
景気の後退局面では政府が財政支出を拡大させるべきですが、中国の中央政府が財政を拡大させる一方で、地方政府は引き締めているというチグハグな状況にあるのです。

しかし、中央政府の財政出動は新産業の競争力強化といった供給サイドの改革に偏っています。
ここで竹中平蔵という意外な名前が出てきます。実は竹中は中国で高く評価されており、中国の経済誌は竹中へのロングインタビューを複数回行っています。
もともと社会主義国であった中国では、竹中の「小さな政府」の考えは改革を志向する人々に広く受け入れられるものであり、また、日本の長期停滞に対して根本治療を求めた竹中の考えは、日本の二の舞にならないためにも正しいものだと思われたのです。
こうしたこともあって中国政府でも新自由主義的な考えが内面化されているのです。

もちろん、供給サイドに偏った改革は格差を生み出しますが、これに対して、中国政府は「共同富裕」という考えを打ち出しています。
これは巨額の富を築いた個人や企業などに「自発的」な寄付や慈善事業を求めるものですが、同時に「IT企業規制」が行われたこともあり、多くの企業がこれに協力せざるを得ない状況になっています。
広州ではテンセントなどが資金を出して低所得者向けの医療保険を提供する慈善活動キャンペーンを行なったとのことですが、ここでは本来政府がやるべき仕事を民間企業が請け負う構図が見られます(かつての郷紳を思い起こさせる)。

中国では金利が成長率を下回る状況が続いています。こうした状況下ではブランシャールが主張するように財政赤字を拡大させる余裕があります。
中国でもリチャード・クーの議論が注目を集めるなど、積極財政を求める声もありますが、今までの中国は金融政策と財政政策がチグハグな形で行われていることが多く、中国に大規模な財政出動がある余地があるのは確かでも、それが効果的に行われるかどうかは不透明です。

ただし、そんな中国経済の中でも勢いのあるものはあり、その代表がEVです。
このEVだけではなく、太陽光パネルやリチウムイオン電池などでも中国メーカーは存在感を示しています。
ただし、その生産能力は明らかに過剰で、太陽光パネルは世界の需要の2.5倍の供給能力があるといわれますし、自動車メーカーの稼働率も2017年の62%から23年には48%まで低下しているといいます。

中国のEVを普及させたのは政府の補助金だといわれていますが、実は2021年ごろまでは補助金があっても売れない状態が続いていました。大都市部のでナンバープレートの取得優遇措置など(北京や上海ではマイカー規制のためにナンバープレートの取得が抽選だったりオークションだったりした)、かなりの優遇があったわけですが、売れなかったのです。
では、なぜ売れるようになったのか? それはEVにガソリン車を上回る価格競争力がついたからです。
中国のEVの製造コストは急速に下がっており、特に小型車では18年の時点では71%割高だったのに対して、22年の時点では37%割安になりました。基本的に「安い」から売れているのです。
テスラをはじめとしてEVはどちらかといえば「高い」ものから始まっていますが、中国には電動自転車→電動三輪車→低速EVという「安い」製品からの流れもありました。

中国の産業政策を見ると、補助金のトータルは対GDP比で1.73%もあり、日本の0.50%やアメリカの0.39%を大きく上回っています。
EV関連にも多くの補助金が投入されてきましたが、近年は減少傾向にあります。これはもはや補助金を必要としないくらいにEVの製造コストが下がってきたからです。
EVのような最終財の市場規模が拡大すると、それに応じて中間財を供給するサプライヤーも増え、分業が進むことで生産コストが低下します。
特に中国のような巨大市場となれば、量産によるコストダウンの効果も大きく、結果的に他国に比べて圧倒的な価格競争力を身につけることになります。BYDでは年15%近いペースで製造コストが下がっているという試算もあり(199p表7−3参照)、EVへの購入補助金がなくても十分に戦えるフェーズに移行しているのです。

90年代末から21世紀にかけてのチャイナ・ショックは中国の労働コストの安さを活かしての輸出攻勢で比較優位で説明できましたが、EVや太陽光パネルなどのチャイナ・ショック2.0は、クルーグマンやヘルプマンによって研究された新貿易理論に基づくものだと言えます。
そこでは、ある産業について大きな国内市場をもつ国はその需要を満たす以上の企業が集積するようになり結果として比較優位を持つようになると考えられています。そして、国内需要を超えた分は輸出に回るのです。
こうなると、もはや中国の補助金を批判しても意味がないということになります。

最後に本書は中国の不動産不況という「影の部分」とEVなどの新興産業という「光の部分」が表裏一体であることを指摘しています。
中国政府は不動産バブルへの警戒感もあって代わりとなる需要拡大策を探していきました。この1つが「一帯一路」であり、中国の影響力拡大とともに鉄鋼やセメントや積み上がった外貨準備の捌け口としても使われました。
しかし、元安とともに中国政府は資金をむしろ回収する方向に動いており、この傾向はコロナ禍とウクライナ戦争によって拍車がかかっています(中国の国有銀行の過去20年間の海外向け融資の20%近くがロシア、ウクライナ、ベラルーシ向けだという(218p))。

結局、中国の対外投資は中国の過剰供給能力を満たすような形では伸びておらず、その生産は輸出へと回り、各国と貿易摩擦を起こしています。
中国経済の不調については「権威主義の限界」といった声も上がりますが、投資依存型の経済成長モデルとそこから生じる家計部門における有効需要の低迷こそが元凶だという声もあり、本書もその見方に立っています。
そのためには短期的には需要を刺激する財政政策が、長期的には家計が安心して消費を拡大させるための社会保障の拡充などが求められますが、中国政府のはっきりとした方針はまだ見えていません。

このように本書は現在の中国経済の「影の部分」と「光の部分」の両方に目配りをし、それを表裏一体の現象として提示しています。
実際の中国経済のエピソードをマクロ経済学の理論が説明していく本書の筆運びは、非常にわかりやすく、また共著の強みが存分に生きています。
本書を読むと、中国経済にはまだまだ打つ手があり、その成長力を見限ることはできません。同時にそれには政府の政策の軌道修正が必要であり、習近平の長期政権の中でそれができるのか? という疑問もあります。
中国経済の今後の行方も見ていく上で、本書は傍に置いておきたい本ですね。

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