2018年02月
オスマン帝国の解体とともに生まれ、そして発展してきたイスラーム主義が何であり、どのように発展してきたかということを、政治と宗教の関係の中で捉えようとした本。
宗教としてのイスラームとイスラーム主義を区別しつつ、そのイスラーム主義がどのように展開してきたかということを、その誕生からイラン革命、アル=カイーダ、「アラブの春」、「イスラーム国」などに即して捉えていきます。
目次は以下の通り。
まず、この本ではイスラーム主義を「宗教としてのイスラームへの信仰を思想的基盤とし、公的領域におけるイスラーム的価値の実現を求める政治的イデオロギー」(2p)と定義しています。
「イスラームは共同体を志向するものであり、イスラームにおいて政治と宗教は不可分ではないか?」との声もあるでしょうが、この本ではイスラーム主義における「政治化」は、オスマン帝国解体とともにあらわれた「あるべき秩序」を目指すイデオロギーの一つだとしています(9-10p)。
では、その「イスラーム的価値」とは何なのか? 著者はイスラームのあり方が一様ではないためにずばり答えることは難しいといいます。イスラームはカトリック教会のような宗教的権威・権力のヒエラルキーを築いてこなかったため、他者を「非イスラーム的」「反イスラーム的」と断ずるのは難しいのです(13-15p)。
そのためイスラーム主義の内実も揺れ動くことになります。
19〜20世紀にかけてオスマン帝国が解体していくとともに、中東地域は人工的な国境線で分割され、やがてその国境線に基づいて国民国家が生まれていきます。
これらの国民国家の多くは西洋諸国を範とした政治制度を導入し、世俗主義を進め、イスラームは私的領域に押し込まれていきました。そうした国家を「イスラーム的」な「正しさ」に訴えて造り直そうとしたのがイスラーム主義なのです(29-30p)。
イスラーム主義の前身にはイスラーム改革と呼ばれる動きがあります。
18世紀のアラビは半島で起こったワッハーブ運動は、既存の法学や神学を否定し、クルアーンやハディースの字義通りの解釈にこだわり、スーフィズムやアニミズムを奉じる人々を「非イスラーム的」だとして指弾しました。
こうした中で、「イスラーム的」な「もう一つの近代」を提示しようとする動きが起こります。その先駆者がイラン出身のアフガーニーです。
アフガーニーは西洋近代化の波がウンマ(イスラームの共同体)に押し寄せる中で、西洋的な物質主義がイスラームの教えを損ねるとしてそれを批判し、ムスリムの団結とウンマの力の強化を訴えました。
アフガーニーはオスマン帝国から危険視され、1897年に亡くなりますが、その思想は弟子のアブドゥ、さらにその弟子のリダーへと受け継がれていきます。
特にリダーは、ウラマー自らが統治者になるべきだという法学者元首制と、イスラーム法を執行できなくなった国家は武力を持ってしても改編しなくてならないという革命権を主張し、のちのイスラーム主義の流れをつくります(51p)
こうしたイスラーム主義をもとにして1928年にエジプトで結成されたのがムスリム同胞団でした。創設者はハサン・バンナーですが、彼はムハンマド・アリーにの西洋化政策によって誕生した師範学校の卒業生でしたが、同時に反英独立闘争の支持者であり、自分の進むべき道を探してリダーに師事しました。
バンナーはムスリム同胞団を通じて、イスラーム主義を社会運動へと昇華させていきます。ムスリム同胞団はモスクの建設や運営だけでなく、医療奉仕活動や教育、スポーツクラブの運営・設立にまで関わり、個人、家族、社会、国家の段階を踏んで、イススラーム的価値の実現を目指していきます(62-63p)。
しかし、エジプト政府は西洋化を進めており、1948年にムスリム同胞団は非合法化され、49年にはバンナーが暗殺されます(秘密警察の仕業とも考えられている)。
その後、1952年のエジプト革命においては自由将校団率いる革命評議会と友好関係を築き、政党活動を認められますが、ナースィル大統領のもとでは再び非合法化されます。
また、シーア派においては1957年にイラクでイラク・イスラーム・ダアワ党がムハンマド・バーギル・サドルを中心に結成され、「法学者による統治」を訴えますが、サッダーム・フセイン政権のもと、1980年に解散命令を受け、弾圧されます。
基本的に中東では、独裁政権がイスラーム主義運動を弾圧するという構図が続きますが、これを打ち破ったのが1979年のイラン革命です。
イランでは1925年に成立したパフラヴィー朝が、アメリカの支援のもとに世俗化を基調とする国民国家の建設を進めていましたが、王権の腐敗と経済の低迷により国民の間では不満が高まっていました。
そんな中でホメイニーは西洋化と世俗化だけでなく、そもそも世襲君主政自体が「非イスラーム的」であるとし、高位のウラマーが国家を監督すべきだと主張しました。
M・フーコーはイラン革命の成功を「惑星規模の諸体系に対してなされたはじめての大蜂起であり、抵抗の最も近代的な、また最も狂った形式だろう」と評し、革命の背景には「「自分たちの主体性を根源的に変えるにあたっての約束や保証のようなもの」としてのイスラームの存在があった」と指摘してます(94p)。
イランでは民主的な選挙も行われており、必ずしも西洋的なものを否定した国家というわけではありませんでしたが、ホメイニーが強い反米姿勢を示したことや、イラン革命の「輸出」が警戒されたこともあって、「反西洋」的なイメージを植え付けることになります。
著者は、「ホメイニーは、確かに急進的であったが、過激ではなかった」(108p)といいます。著者がいう「過激」とは、手段としてはテロリズムなどの暴力を用いること、目的としては異教徒に改宗を迫ったり、他のムスリムに独善的な解釈を押し付けることです。
こうした「過激」なグループは、近年では「ジハード主義者」と呼ばれるようになっています。ジハードはもともと「神の道のためにおいて奮闘する」(109P)ことであり、必ずしも「過激」なものではありませんが、ジハード主義者は武器を取って戦うジハードに固執します。
もともとイスラーム法には内乱(フィトナ)の禁止が規定されており、ウンマの分裂を招きかねないムスリム同士の争いはタブーとされてきました(112p)。
しかし、ムスリム同胞団幹部のサイイド・クトゥブが、現代を「無知の時代」と捉え、イスラームの教えを無視する政権を「悪」と捉える善悪二元論を展開したことをきっかけに、他者を不信仰と断じる「タクフィール主義」が広がっていくことになります。
エジプトではサーダーと大統領を暗殺したジハード団や、外国人観光客を襲撃したイスラーム団など、ジハード主義者の「第一世代」が生まれたのです(115p)。
また。武器を取るイスラーム主義者は外国軍に対抗するイスラーム抵抗運動としても現れます。パレスチナのハマースやレバノンのヒズブッラーはその例で、特にヒズブッラーは自死が禁じられているイスラームの中で、イスラームの共同体を守るための戦いで命を落とすことは自死ではなく、神に報いる行為であるとして「殉教作戦」という名の自爆攻撃を正当化しました(120-121p)。
著者はジハード団やハマース、ヒズブッラーをジハード主義者の「第一世代」とし、アル=カイーダを「第二世代」としています。
「第一世代」は基本的にイスラームの共同体を守るためにイスラーム圏で行動を起こしましたが、「第二世代」となると敵は共同体の外へ、そして異教徒へと変わってきます。
アル=カイーダの首領はウマーマ・ビン・ラーディンですが、彼に影響を与えたパレスチナ出身のアブドゥッラー・アッザームはヨルダン・ムスリム同胞団の幹部であり、ビン・ラーディンの右腕となったアイマン・ザワーヒリーはエジプトのジハード団の幹部でした。
「第一世代」の組織は国内で弾圧されますが、そこから逃れた人々がソ連との戦いが行われていたアフガニスタンへと集まり、アル=カイーダのつくられていくのです。
アル=カイーダの名を全世界に知らしめたのが9.11テロでした。「第二世代」の特徴は、「脱領域性」と「越境性」、そしてジハードの自己目的化です。「祖国の解放」といった目的ではなく、「世界規模の反米闘争という壮大なシナリオを描き、そのなかで自己充足を求めるようになった」(135-136p)のです。
9.11テロはブッシュ大統領による「対テロ戦争」を呼び起こしましたが、皮肉にもイラク戦争をはじめとするアメリカのイスラーム世界への攻撃は、ビン・ラーディンの言葉を正当化してしまいました。
イスラーム主義がテロではない形で政治の表舞台に出てきたのが2011年の「アラブの春」でした(ちなみに2011年にはビン・ラーディンの殺害という事件も起こっている)。
「アラブの春」自体はイスラーム主義者が主導したものではありませんでしたが、独裁政権が倒れ、民主的な選挙が行われると、イスラーム政党が結成され議席を獲得していきました。特にエジプトではムスリム同胞団が自由公正党を結成して議会で第一党となり、ムルスィー大統領を誕生させました。
しかし、拙速なイスラーム化は世俗主義者の反発を呼び、また欧米諸国のある種の二重基準(民主主義は支持するがイスラーム主義の伸長は支持できない)によってイスラーム主義政権を歓迎しなかったことから、エジプトでは2013年のクーデタによってムルスィー政権は倒れます。
そして、「アラブの春」は「イスラーム国」というジハード主義の「第三世代」を拡大させることにもなりました。
「アラブの春」に始まるシリア内戦は、シリアを無秩序化し、そのシリアにおいて「イスラーム国」は武器・人員・資金を補充していったのです。
そして、2014年にイラク第二の都市のモースルを陥落させ、指導者のバグダーディーはカリフを名乗りました。
「イスラーム国」は外国から戦闘員を集め、既存の国境線を突き破った支配領域を作り出しました。国民国家の変革ではなく、既存の国民国家を否定するような運動だと言えます。
著者は、「イスラーム国」に代表される「第三世代」に対して、イスラーム国家の樹立という目標やイラクとシリアの領域にこだわった「古さ」と、思想的に陳腐でありながら映像や奴隷制復活などの極端なメッセージを発することによって注目を集める「新しさ」の双方を指摘しています(185ー186p)。
終章で著者は、「イスラームの過激化」と「過激主義のイスラーム化」という2つの見方を紹介し、後者に注目しています。つまり、現在はどこの世界にもある「ぐれ」がイスラーム主義という形式を持って現れているというのです。
そして、イスラームを「悪魔化」する危険性を指摘しています。
このようにこの本は歴史を辿りながら「イスラーム国」のような過激な主張が生まれてきたのかを解き明かしてくれます。
(宗教としての)イスラーム/イスラーム主義/ジハード主義の間に比較的明確に線が引くことができるという立場に関しては意見が別れるところでしょうが(『イスラーム国の衝撃』の池内恵は明確に線は引けないとの立場をとっているように思える)、この本は思想と政治にまたがった一つの見取り図を提供してくれています。
欲を言えば、独裁政権でありながら必ずしも世俗主義をとってこなかったサウジアラビアへの言及がもっと欲しかったところでもありますが、全体として読み応えのある内容になっていると思います。
イスラーム主義――もう一つの近代を構想する (岩波新書)
末近 浩太
4004316987
宗教としてのイスラームとイスラーム主義を区別しつつ、そのイスラーム主義がどのように展開してきたかということを、その誕生からイラン革命、アル=カイーダ、「アラブの春」、「イスラーム国」などに即して捉えていきます。
目次は以下の通り。
第1章 イスラーム主義とは何か
第2章 長い帝国崩壊の過程
第3章 イスラーム主義の誕生
第4章 イスラーム主義運動の登場
第5章 イラン・イスラーム革命の衝撃
第6章 ジハード主義者の系譜
第7章 イスラーム主義政権の盛衰
終章 もう一つの近代を構想する
まず、この本ではイスラーム主義を「宗教としてのイスラームへの信仰を思想的基盤とし、公的領域におけるイスラーム的価値の実現を求める政治的イデオロギー」(2p)と定義しています。
「イスラームは共同体を志向するものであり、イスラームにおいて政治と宗教は不可分ではないか?」との声もあるでしょうが、この本ではイスラーム主義における「政治化」は、オスマン帝国解体とともにあらわれた「あるべき秩序」を目指すイデオロギーの一つだとしています(9-10p)。
では、その「イスラーム的価値」とは何なのか? 著者はイスラームのあり方が一様ではないためにずばり答えることは難しいといいます。イスラームはカトリック教会のような宗教的権威・権力のヒエラルキーを築いてこなかったため、他者を「非イスラーム的」「反イスラーム的」と断ずるのは難しいのです(13-15p)。
そのためイスラーム主義の内実も揺れ動くことになります。
19〜20世紀にかけてオスマン帝国が解体していくとともに、中東地域は人工的な国境線で分割され、やがてその国境線に基づいて国民国家が生まれていきます。
これらの国民国家の多くは西洋諸国を範とした政治制度を導入し、世俗主義を進め、イスラームは私的領域に押し込まれていきました。そうした国家を「イスラーム的」な「正しさ」に訴えて造り直そうとしたのがイスラーム主義なのです(29-30p)。
イスラーム主義の前身にはイスラーム改革と呼ばれる動きがあります。
18世紀のアラビは半島で起こったワッハーブ運動は、既存の法学や神学を否定し、クルアーンやハディースの字義通りの解釈にこだわり、スーフィズムやアニミズムを奉じる人々を「非イスラーム的」だとして指弾しました。
こうした中で、「イスラーム的」な「もう一つの近代」を提示しようとする動きが起こります。その先駆者がイラン出身のアフガーニーです。
アフガーニーは西洋近代化の波がウンマ(イスラームの共同体)に押し寄せる中で、西洋的な物質主義がイスラームの教えを損ねるとしてそれを批判し、ムスリムの団結とウンマの力の強化を訴えました。
アフガーニーはオスマン帝国から危険視され、1897年に亡くなりますが、その思想は弟子のアブドゥ、さらにその弟子のリダーへと受け継がれていきます。
特にリダーは、ウラマー自らが統治者になるべきだという法学者元首制と、イスラーム法を執行できなくなった国家は武力を持ってしても改編しなくてならないという革命権を主張し、のちのイスラーム主義の流れをつくります(51p)
こうしたイスラーム主義をもとにして1928年にエジプトで結成されたのがムスリム同胞団でした。創設者はハサン・バンナーですが、彼はムハンマド・アリーにの西洋化政策によって誕生した師範学校の卒業生でしたが、同時に反英独立闘争の支持者であり、自分の進むべき道を探してリダーに師事しました。
バンナーはムスリム同胞団を通じて、イスラーム主義を社会運動へと昇華させていきます。ムスリム同胞団はモスクの建設や運営だけでなく、医療奉仕活動や教育、スポーツクラブの運営・設立にまで関わり、個人、家族、社会、国家の段階を踏んで、イススラーム的価値の実現を目指していきます(62-63p)。
しかし、エジプト政府は西洋化を進めており、1948年にムスリム同胞団は非合法化され、49年にはバンナーが暗殺されます(秘密警察の仕業とも考えられている)。
その後、1952年のエジプト革命においては自由将校団率いる革命評議会と友好関係を築き、政党活動を認められますが、ナースィル大統領のもとでは再び非合法化されます。
また、シーア派においては1957年にイラクでイラク・イスラーム・ダアワ党がムハンマド・バーギル・サドルを中心に結成され、「法学者による統治」を訴えますが、サッダーム・フセイン政権のもと、1980年に解散命令を受け、弾圧されます。
基本的に中東では、独裁政権がイスラーム主義運動を弾圧するという構図が続きますが、これを打ち破ったのが1979年のイラン革命です。
イランでは1925年に成立したパフラヴィー朝が、アメリカの支援のもとに世俗化を基調とする国民国家の建設を進めていましたが、王権の腐敗と経済の低迷により国民の間では不満が高まっていました。
そんな中でホメイニーは西洋化と世俗化だけでなく、そもそも世襲君主政自体が「非イスラーム的」であるとし、高位のウラマーが国家を監督すべきだと主張しました。
M・フーコーはイラン革命の成功を「惑星規模の諸体系に対してなされたはじめての大蜂起であり、抵抗の最も近代的な、また最も狂った形式だろう」と評し、革命の背景には「「自分たちの主体性を根源的に変えるにあたっての約束や保証のようなもの」としてのイスラームの存在があった」と指摘してます(94p)。
イランでは民主的な選挙も行われており、必ずしも西洋的なものを否定した国家というわけではありませんでしたが、ホメイニーが強い反米姿勢を示したことや、イラン革命の「輸出」が警戒されたこともあって、「反西洋」的なイメージを植え付けることになります。
著者は、「ホメイニーは、確かに急進的であったが、過激ではなかった」(108p)といいます。著者がいう「過激」とは、手段としてはテロリズムなどの暴力を用いること、目的としては異教徒に改宗を迫ったり、他のムスリムに独善的な解釈を押し付けることです。
こうした「過激」なグループは、近年では「ジハード主義者」と呼ばれるようになっています。ジハードはもともと「神の道のためにおいて奮闘する」(109P)ことであり、必ずしも「過激」なものではありませんが、ジハード主義者は武器を取って戦うジハードに固執します。
もともとイスラーム法には内乱(フィトナ)の禁止が規定されており、ウンマの分裂を招きかねないムスリム同士の争いはタブーとされてきました(112p)。
しかし、ムスリム同胞団幹部のサイイド・クトゥブが、現代を「無知の時代」と捉え、イスラームの教えを無視する政権を「悪」と捉える善悪二元論を展開したことをきっかけに、他者を不信仰と断じる「タクフィール主義」が広がっていくことになります。
エジプトではサーダーと大統領を暗殺したジハード団や、外国人観光客を襲撃したイスラーム団など、ジハード主義者の「第一世代」が生まれたのです(115p)。
また。武器を取るイスラーム主義者は外国軍に対抗するイスラーム抵抗運動としても現れます。パレスチナのハマースやレバノンのヒズブッラーはその例で、特にヒズブッラーは自死が禁じられているイスラームの中で、イスラームの共同体を守るための戦いで命を落とすことは自死ではなく、神に報いる行為であるとして「殉教作戦」という名の自爆攻撃を正当化しました(120-121p)。
著者はジハード団やハマース、ヒズブッラーをジハード主義者の「第一世代」とし、アル=カイーダを「第二世代」としています。
「第一世代」は基本的にイスラームの共同体を守るためにイスラーム圏で行動を起こしましたが、「第二世代」となると敵は共同体の外へ、そして異教徒へと変わってきます。
アル=カイーダの首領はウマーマ・ビン・ラーディンですが、彼に影響を与えたパレスチナ出身のアブドゥッラー・アッザームはヨルダン・ムスリム同胞団の幹部であり、ビン・ラーディンの右腕となったアイマン・ザワーヒリーはエジプトのジハード団の幹部でした。
「第一世代」の組織は国内で弾圧されますが、そこから逃れた人々がソ連との戦いが行われていたアフガニスタンへと集まり、アル=カイーダのつくられていくのです。
アル=カイーダの名を全世界に知らしめたのが9.11テロでした。「第二世代」の特徴は、「脱領域性」と「越境性」、そしてジハードの自己目的化です。「祖国の解放」といった目的ではなく、「世界規模の反米闘争という壮大なシナリオを描き、そのなかで自己充足を求めるようになった」(135-136p)のです。
9.11テロはブッシュ大統領による「対テロ戦争」を呼び起こしましたが、皮肉にもイラク戦争をはじめとするアメリカのイスラーム世界への攻撃は、ビン・ラーディンの言葉を正当化してしまいました。
イスラーム主義がテロではない形で政治の表舞台に出てきたのが2011年の「アラブの春」でした(ちなみに2011年にはビン・ラーディンの殺害という事件も起こっている)。
「アラブの春」自体はイスラーム主義者が主導したものではありませんでしたが、独裁政権が倒れ、民主的な選挙が行われると、イスラーム政党が結成され議席を獲得していきました。特にエジプトではムスリム同胞団が自由公正党を結成して議会で第一党となり、ムルスィー大統領を誕生させました。
しかし、拙速なイスラーム化は世俗主義者の反発を呼び、また欧米諸国のある種の二重基準(民主主義は支持するがイスラーム主義の伸長は支持できない)によってイスラーム主義政権を歓迎しなかったことから、エジプトでは2013年のクーデタによってムルスィー政権は倒れます。
そして、「アラブの春」は「イスラーム国」というジハード主義の「第三世代」を拡大させることにもなりました。
「アラブの春」に始まるシリア内戦は、シリアを無秩序化し、そのシリアにおいて「イスラーム国」は武器・人員・資金を補充していったのです。
そして、2014年にイラク第二の都市のモースルを陥落させ、指導者のバグダーディーはカリフを名乗りました。
「イスラーム国」は外国から戦闘員を集め、既存の国境線を突き破った支配領域を作り出しました。国民国家の変革ではなく、既存の国民国家を否定するような運動だと言えます。
著者は、「イスラーム国」に代表される「第三世代」に対して、イスラーム国家の樹立という目標やイラクとシリアの領域にこだわった「古さ」と、思想的に陳腐でありながら映像や奴隷制復活などの極端なメッセージを発することによって注目を集める「新しさ」の双方を指摘しています(185ー186p)。
終章で著者は、「イスラームの過激化」と「過激主義のイスラーム化」という2つの見方を紹介し、後者に注目しています。つまり、現在はどこの世界にもある「ぐれ」がイスラーム主義という形式を持って現れているというのです。
そして、イスラームを「悪魔化」する危険性を指摘しています。
このようにこの本は歴史を辿りながら「イスラーム国」のような過激な主張が生まれてきたのかを解き明かしてくれます。
(宗教としての)イスラーム/イスラーム主義/ジハード主義の間に比較的明確に線が引くことができるという立場に関しては意見が別れるところでしょうが(『イスラーム国の衝撃』の池内恵は明確に線は引けないとの立場をとっているように思える)、この本は思想と政治にまたがった一つの見取り図を提供してくれています。
欲を言えば、独裁政権でありながら必ずしも世俗主義をとってこなかったサウジアラビアへの言及がもっと欲しかったところでもありますが、全体として読み応えのある内容になっていると思います。
イスラーム主義――もう一つの近代を構想する (岩波新書)
末近 浩太
4004316987
- 2018年02月26日23:15
- yamasitayu
- コメント:0
副題は「変貌する英国モデル」、議院内閣制の一つのお手本とされるイギリスの議院内閣制に焦点をあて、そのメカニズムと近年になって噴出してきた問題点を分析しています。
イギリス政治の機能不全を分析した本としては、去年、近藤康史『分解するイギリス』(ちくま新書)という非常に面白い本が出ましたが、あちらの本が「なぜBrexitが起きたのか?」という問題を中心にイギリス政治全体の仕組みの変調を図式的に描き出したのに対して、こちらは議院内閣制という政治制度の分析にこだわって、日本を含めて各国が採用している議院内閣制のこれからのあり方を検討する内容になっています。
『分解するイギリス』に比べると、やや専門的で読者を選ぶかもしれませんが、こちらも読み応えのある内容となっています。
目次は以下の通り。
まず英国(この本ではイギリスを「英国」と表記している)は議会主権の国だと言われます。
名誉革命によって議会は国王から政治の実権を奪い、貴族院の権限が徐々に剥奪されていったことによって、庶民院(下院)に政治の権力が集中するようになっています。
また、英国には議会の立法活動を制約する高次の法(いわゆる憲法)が存在せず、議会は何者にも拘束されません。この点で、英国の議会は日本の国会と比べても強い権限を持っていると考えられます。
英国の議院内閣制の本質を鋭く分析したのが19世紀に活躍した銀行家にしてジャーナリスストのウォルター・バジョットでした。
バジョットは英国の国家構造が三権分立ではなく、「政府と議会の密接な結合、そのほとんど完全な融合」であるとし、その政府と議会の結節点が内閣だと捉えました(17p)。そして、このシステムを支えるのが政党組織と民衆のエリートに対する信頼なのです。
議院内閣制を採用している国は多いですが、その中でも英国の仕組みはウェストミンスター・モデルとして知られています。
オランダの政治学者レイプハルトは著書の『民主主義対民主主義』の中で、小選挙区制を採用し首相が大きな力を持つ多数代表型デモクラシーの典型が英国であるとして、それをウェストミンスター・モデルと名付け、比例代表制や権力の分立を特色とする合意型デモクラシー=コンセンサス・モデルと対比させました。
ウェストミンスター・モデルの長所は「安定した政府の創出と責任の所在の明確さ」(27p)にあります。権力を一つの勢力に一定期間任せることによって、一貫性のある政策を推進できますし、失敗した時に責任を取らせることも容易です。
一方、短所は、ルソーが「イギリスの人民は選挙のときだけ自由だ」と言ったことに代表されるように、総選挙と総選挙の間の期間に権力をうまくコントロールすることができないことです。総選挙と総選挙の間の期間は、政治エリートを信頼する他ないのです。
現在の英国において、政治の中心は議会なのか、内閣なのか、首相なのかという議論があります。
歴史的に見ると、決定の中心は議会→内閣へと移り、1960年代からは「首相主導型政治」論が登場してくるわけですが、単純に首相主導のスタイルが確立したかというと、そうも言えません。
英国政府は、閣議などの「集合的決定」、「各省の自律性」、「首相の主導」という3つの異なる原理に依拠して動いており(43ー44p)、どの原理が強まるかは時と場合によるのです。
1970年代まで、英国は「大きな政府」であり、財政などのマクロ的な問題は集権的に決定されていた一方で、それぞれの政策は業界や分野ごとのインサイダーによって決められていました。政策を主導したのは首相や内閣ではなく、むしろそれぞれの分野の関係者による政策ネットワークだったのです。
こうした政治に挑戦したのがサッチャー首相です。サッチャーは閣議や公式の会議よりも大臣との二者協議や非公式な会議を多用し、政策顧問を重視しました。また官僚機構では政策決定に関わる分野と政策執行の分野を分離し、後者のエージェンシー化を進めました(この辺りの改革については笠京子『官僚制改革の条件』が詳しい)。
このように首相主導型の政治を行ったサッチャーですが、組織上の変化は限定的だったといいます(66p)。組織を含めた大きな変化があったのは労働党のブレア政権です。
ブレアは「首相はますます大企業のCEOや会長に似てきている」(67p)と述べましたが、実際にブレアはCEOのように振る舞うために、内閣府への集権化を行い、有権者に対するコミュニケーション戦略を強化し、首相直属の政策室を拡充し、公共サービスに数値目標を設定し各省の自律性を低下させました。
しかし、ブレア政権にはブラウン財相というもう一人の中心人物がおり、その内実は二頭制というべきものでした。
ブレア政権の集権化によって首相の指導力は強まりましたが、ブレア政権はイラク戦争にのめり込んでいったことをきっかけに支持を失いますし、後継のブラウン政権は権力の集まるようになった首相府内をコントロールすることができず、「官邸崩壊」的な状態を引き起こしました。
ブレア政権で首席補佐官を務めたジョナサン・ポウウェルは「われわれは全てのレバーを引いたが、どれも機能しなかった......より重要なことは、大臣や官僚に指示することと、政策の結果を出すことは別物だということである」、「国家構造の理論家は議会における英国の首相の拘束されない権力について見解を述べているが、そこに辿り着くと、そうは感じられない」(87-88p)という言葉を残しています。ブレア政権はさまざまな課題に対処するために集権化を進めましたが、それは必ずしもうまく機能するわけではなかったのです。
官僚制への不信と大臣のリーダーシップへの期待はキャメロン政権にもみられましたが、キャメロン政権でも政策的な失敗は相次ぎました。
議院内閣制は議会が政府の生殺与奪を握るシステムであり、首相にとっては議会の支持、とくに政権党の支持が政権運営には欠かせません。
93pに「政権党からの造反がみられた採決の割合」というグラフが載っていますが、これを見ると70年代と00年代以降で造反が増えていることがわかります。英国の首相(党首)は必ずしも自党を完全に掌握しているわけではないのです。
第3章では、この問題に関して保守党、労働党のそれぞれの組織とその変遷をみていきます。
保守党は伝統的に党首中心の政党だと言われており、党の院内院外にいずれにも首相の政策に拒否権を行使できる組織はありませんでした。一方で選挙区協会が造反議員を支持した場合、98年まで選挙区協会や議員を服従させることもできませんでした。
しかし、EC・EUへの参加の問題やジェンダー問題や家族観などの社会問題が保守党の内部対立をもたらすようになると、98年の改革で候補者選定に関する中央の権限を強め、また党首に対する不信任制度を盛り込みました。
労働党は院外組織が議会に代表を送り込むかたちで誕生した政党で、伝統的に院外の労働組合が大きな影響力を握っていました。
そのため労働党の党首は党や労組から大きな制約を受ける存在であり、また党内の路線対立もあって、なかなか党をまとめることができませんでした。
83年の総選挙で大敗したあと、キノック党首による労働党の党内改革が始まります。キノックは労組幹部や左派活動家の影響力を削ぐために党内の決定に「一人一票制」を導入し、各組織における幹部支配を切り崩そうとします。
この改革の成果を活かして政権を奪取したのがブレアでしたが、「一人一票制」の導入はその後、「コービン党首選出時に議会労働党主流の悪夢となって立ち現れること」(129p)となりました。
英国といえば二大政党制の国で、この二大政党制と政権交代が英国政治の強いリーダーシップと責任政治をつくり上げているとされていましが、近年ではその二大政党制の基盤が揺らいでいます。
2010年の総選挙では保守党が第一党となったものの得票率は36.1%、過半数の議席をとれずに自民党との連立政権となりました。21世紀になって以降、保守・労働の二大政党の絶対得票率は2017年の総選挙を除き50%に達していないのです(150pの表4-2参照)。
ではそれまで二大政党に入っていた票はどこに行ったのかというと、一つは第三極の自民党であり、反既成政党の右派の英国独立党であり、スコットランドではスコットランド国民党(SNP)です。
小選挙区制を採用する英国では第三極の台頭は難しいのですが、SNPのような地域政党の場合、むしろ小選挙区が有利にはたらきます。2015年の総選挙でSNPは4.7%の得票率で56議席を獲得しており、労働党の伝統的な基盤を掘り崩しています。
また、スコットランドやウェールズに置かれた議会や欧州議会選挙が小選挙区制ではないことも多党化の要因となりました。
基本的に近年のイギリスの政治制度改革は首相に権力を集める形で展開されてきたのですが、必ずしも政府の中枢が全体をコントロール出来ていない状況で、「中心の不在」と言われる状況になっています。また、大臣が任期中に成果をあげようと積極的に動くことが政策の失敗をもたらしていると言われますし、首相に権限が集中することで熟議が足りない状態だといいます(187ー191p)。
そんな中で著者は英国で行われれた一連の改革を「マディソン主義的改革」と名付け、注目しています。
マディソン主義のマディソンとはアメリカ建国の父の1人のジェームズ・マディソンのことで、彼は民主主義において多数の支配よりも特定の勢力に権力を集中させないことを重視しました(待鳥聡史『代議制民主主義』(中公新書)で「マディソン的自由主義」として紹介された考え)。
今までずっと「首相への集権化」という話が続いていたので、「それは逆の方向性ではないか?」と思われる人もいるでしょうが、英国では集権化と同時に、貴族院の改革や司法の強化といった権力分立的な国家構造改革も進んでいたのです。
貴族院で世襲議員の排除が進んだ結果、貴族院がそれなりの民主的正当性を強め、影響力を強めているという指摘も面白いですが、やはり重要なのは司法の強化と「法典化された憲法」に近いものを導入しようという動きでしょう。
英国では司法のトップである大法官は閣僚と貴族院議長を兼ねる役職で、司法の独立性は強いとはいえませんでした。
ところが、ブレア政権の時に貴族院から独立した最高裁判所が設置され、大法官の役職が廃止されたことによって司法が独立し、その存在感を強めています。
また、欧州人権条約にもとづいた1998年人権法の制定は、議会の立法を司法の場で制約することとなりました。
このように英国は集権化を進める一方で、「マディソン主義的改革」を進めており、著者はこれを評価しています。
終章では日本の政治についても触れられています。ここでも基本的には集権化の問題点を指摘しているのですが、最後に参議院の存在をあげ、「日本はそもそも議院内閣制なのであろうか」と問うています。
比較的、否定的に捉えられがちな参議院について、マディソン主義的な観点からその存在を評価するスタンスです。
やや長いまとめになってしまいましたが、それだけの内容の濃さがあります。政治制度を中心に語り、その文脈(歴史的事件とか社会構造の変化)についてはあまり語っていないので、英国の歴史についてあまり知らないとわかりにくい面もあるかと思いますが、議院内閣制という制度とその運用について学ぶ所の多い本です。
また、議院内閣制だけではなく、民主主義そのものを改めて考えさせる内容にもなっていると思います。
議院内閣制―変貌する英国モデル (中公新書)
高安 健将
4121024699
イギリス政治の機能不全を分析した本としては、去年、近藤康史『分解するイギリス』(ちくま新書)という非常に面白い本が出ましたが、あちらの本が「なぜBrexitが起きたのか?」という問題を中心にイギリス政治全体の仕組みの変調を図式的に描き出したのに対して、こちらは議院内閣制という政治制度の分析にこだわって、日本を含めて各国が採用している議院内閣制のこれからのあり方を検討する内容になっています。
『分解するイギリス』に比べると、やや専門的で読者を選ぶかもしれませんが、こちらも読み応えのある内容となっています。
目次は以下の通り。
第1章 議院内閣制とは何か
第2章 政府と政策運営―集権化は何をもたらしたか
第3章 政権党と首相の権力
第4章 二大政党制の空洞化と信頼の喪失
第5章 国家構造改革とは何か―政治不信への英国の回答
終章 政治不信の時代の議院内閣制―日本政治への含意
まず英国(この本ではイギリスを「英国」と表記している)は議会主権の国だと言われます。
名誉革命によって議会は国王から政治の実権を奪い、貴族院の権限が徐々に剥奪されていったことによって、庶民院(下院)に政治の権力が集中するようになっています。
また、英国には議会の立法活動を制約する高次の法(いわゆる憲法)が存在せず、議会は何者にも拘束されません。この点で、英国の議会は日本の国会と比べても強い権限を持っていると考えられます。
英国の議院内閣制の本質を鋭く分析したのが19世紀に活躍した銀行家にしてジャーナリスストのウォルター・バジョットでした。
バジョットは英国の国家構造が三権分立ではなく、「政府と議会の密接な結合、そのほとんど完全な融合」であるとし、その政府と議会の結節点が内閣だと捉えました(17p)。そして、このシステムを支えるのが政党組織と民衆のエリートに対する信頼なのです。
議院内閣制を採用している国は多いですが、その中でも英国の仕組みはウェストミンスター・モデルとして知られています。
オランダの政治学者レイプハルトは著書の『民主主義対民主主義』の中で、小選挙区制を採用し首相が大きな力を持つ多数代表型デモクラシーの典型が英国であるとして、それをウェストミンスター・モデルと名付け、比例代表制や権力の分立を特色とする合意型デモクラシー=コンセンサス・モデルと対比させました。
ウェストミンスター・モデルの長所は「安定した政府の創出と責任の所在の明確さ」(27p)にあります。権力を一つの勢力に一定期間任せることによって、一貫性のある政策を推進できますし、失敗した時に責任を取らせることも容易です。
一方、短所は、ルソーが「イギリスの人民は選挙のときだけ自由だ」と言ったことに代表されるように、総選挙と総選挙の間の期間に権力をうまくコントロールすることができないことです。総選挙と総選挙の間の期間は、政治エリートを信頼する他ないのです。
現在の英国において、政治の中心は議会なのか、内閣なのか、首相なのかという議論があります。
歴史的に見ると、決定の中心は議会→内閣へと移り、1960年代からは「首相主導型政治」論が登場してくるわけですが、単純に首相主導のスタイルが確立したかというと、そうも言えません。
英国政府は、閣議などの「集合的決定」、「各省の自律性」、「首相の主導」という3つの異なる原理に依拠して動いており(43ー44p)、どの原理が強まるかは時と場合によるのです。
1970年代まで、英国は「大きな政府」であり、財政などのマクロ的な問題は集権的に決定されていた一方で、それぞれの政策は業界や分野ごとのインサイダーによって決められていました。政策を主導したのは首相や内閣ではなく、むしろそれぞれの分野の関係者による政策ネットワークだったのです。
こうした政治に挑戦したのがサッチャー首相です。サッチャーは閣議や公式の会議よりも大臣との二者協議や非公式な会議を多用し、政策顧問を重視しました。また官僚機構では政策決定に関わる分野と政策執行の分野を分離し、後者のエージェンシー化を進めました(この辺りの改革については笠京子『官僚制改革の条件』が詳しい)。
このように首相主導型の政治を行ったサッチャーですが、組織上の変化は限定的だったといいます(66p)。組織を含めた大きな変化があったのは労働党のブレア政権です。
ブレアは「首相はますます大企業のCEOや会長に似てきている」(67p)と述べましたが、実際にブレアはCEOのように振る舞うために、内閣府への集権化を行い、有権者に対するコミュニケーション戦略を強化し、首相直属の政策室を拡充し、公共サービスに数値目標を設定し各省の自律性を低下させました。
しかし、ブレア政権にはブラウン財相というもう一人の中心人物がおり、その内実は二頭制というべきものでした。
ブレア政権の集権化によって首相の指導力は強まりましたが、ブレア政権はイラク戦争にのめり込んでいったことをきっかけに支持を失いますし、後継のブラウン政権は権力の集まるようになった首相府内をコントロールすることができず、「官邸崩壊」的な状態を引き起こしました。
ブレア政権で首席補佐官を務めたジョナサン・ポウウェルは「われわれは全てのレバーを引いたが、どれも機能しなかった......より重要なことは、大臣や官僚に指示することと、政策の結果を出すことは別物だということである」、「国家構造の理論家は議会における英国の首相の拘束されない権力について見解を述べているが、そこに辿り着くと、そうは感じられない」(87-88p)という言葉を残しています。ブレア政権はさまざまな課題に対処するために集権化を進めましたが、それは必ずしもうまく機能するわけではなかったのです。
官僚制への不信と大臣のリーダーシップへの期待はキャメロン政権にもみられましたが、キャメロン政権でも政策的な失敗は相次ぎました。
議院内閣制は議会が政府の生殺与奪を握るシステムであり、首相にとっては議会の支持、とくに政権党の支持が政権運営には欠かせません。
93pに「政権党からの造反がみられた採決の割合」というグラフが載っていますが、これを見ると70年代と00年代以降で造反が増えていることがわかります。英国の首相(党首)は必ずしも自党を完全に掌握しているわけではないのです。
第3章では、この問題に関して保守党、労働党のそれぞれの組織とその変遷をみていきます。
保守党は伝統的に党首中心の政党だと言われており、党の院内院外にいずれにも首相の政策に拒否権を行使できる組織はありませんでした。一方で選挙区協会が造反議員を支持した場合、98年まで選挙区協会や議員を服従させることもできませんでした。
しかし、EC・EUへの参加の問題やジェンダー問題や家族観などの社会問題が保守党の内部対立をもたらすようになると、98年の改革で候補者選定に関する中央の権限を強め、また党首に対する不信任制度を盛り込みました。
労働党は院外組織が議会に代表を送り込むかたちで誕生した政党で、伝統的に院外の労働組合が大きな影響力を握っていました。
そのため労働党の党首は党や労組から大きな制約を受ける存在であり、また党内の路線対立もあって、なかなか党をまとめることができませんでした。
83年の総選挙で大敗したあと、キノック党首による労働党の党内改革が始まります。キノックは労組幹部や左派活動家の影響力を削ぐために党内の決定に「一人一票制」を導入し、各組織における幹部支配を切り崩そうとします。
この改革の成果を活かして政権を奪取したのがブレアでしたが、「一人一票制」の導入はその後、「コービン党首選出時に議会労働党主流の悪夢となって立ち現れること」(129p)となりました。
英国といえば二大政党制の国で、この二大政党制と政権交代が英国政治の強いリーダーシップと責任政治をつくり上げているとされていましが、近年ではその二大政党制の基盤が揺らいでいます。
2010年の総選挙では保守党が第一党となったものの得票率は36.1%、過半数の議席をとれずに自民党との連立政権となりました。21世紀になって以降、保守・労働の二大政党の絶対得票率は2017年の総選挙を除き50%に達していないのです(150pの表4-2参照)。
ではそれまで二大政党に入っていた票はどこに行ったのかというと、一つは第三極の自民党であり、反既成政党の右派の英国独立党であり、スコットランドではスコットランド国民党(SNP)です。
小選挙区制を採用する英国では第三極の台頭は難しいのですが、SNPのような地域政党の場合、むしろ小選挙区が有利にはたらきます。2015年の総選挙でSNPは4.7%の得票率で56議席を獲得しており、労働党の伝統的な基盤を掘り崩しています。
また、スコットランドやウェールズに置かれた議会や欧州議会選挙が小選挙区制ではないことも多党化の要因となりました。
基本的に近年のイギリスの政治制度改革は首相に権力を集める形で展開されてきたのですが、必ずしも政府の中枢が全体をコントロール出来ていない状況で、「中心の不在」と言われる状況になっています。また、大臣が任期中に成果をあげようと積極的に動くことが政策の失敗をもたらしていると言われますし、首相に権限が集中することで熟議が足りない状態だといいます(187ー191p)。
そんな中で著者は英国で行われれた一連の改革を「マディソン主義的改革」と名付け、注目しています。
マディソン主義のマディソンとはアメリカ建国の父の1人のジェームズ・マディソンのことで、彼は民主主義において多数の支配よりも特定の勢力に権力を集中させないことを重視しました(待鳥聡史『代議制民主主義』(中公新書)で「マディソン的自由主義」として紹介された考え)。
今までずっと「首相への集権化」という話が続いていたので、「それは逆の方向性ではないか?」と思われる人もいるでしょうが、英国では集権化と同時に、貴族院の改革や司法の強化といった権力分立的な国家構造改革も進んでいたのです。
貴族院で世襲議員の排除が進んだ結果、貴族院がそれなりの民主的正当性を強め、影響力を強めているという指摘も面白いですが、やはり重要なのは司法の強化と「法典化された憲法」に近いものを導入しようという動きでしょう。
英国では司法のトップである大法官は閣僚と貴族院議長を兼ねる役職で、司法の独立性は強いとはいえませんでした。
ところが、ブレア政権の時に貴族院から独立した最高裁判所が設置され、大法官の役職が廃止されたことによって司法が独立し、その存在感を強めています。
また、欧州人権条約にもとづいた1998年人権法の制定は、議会の立法を司法の場で制約することとなりました。
このように英国は集権化を進める一方で、「マディソン主義的改革」を進めており、著者はこれを評価しています。
終章では日本の政治についても触れられています。ここでも基本的には集権化の問題点を指摘しているのですが、最後に参議院の存在をあげ、「日本はそもそも議院内閣制なのであろうか」と問うています。
比較的、否定的に捉えられがちな参議院について、マディソン主義的な観点からその存在を評価するスタンスです。
やや長いまとめになってしまいましたが、それだけの内容の濃さがあります。政治制度を中心に語り、その文脈(歴史的事件とか社会構造の変化)についてはあまり語っていないので、英国の歴史についてあまり知らないとわかりにくい面もあるかと思いますが、議院内閣制という制度とその運用について学ぶ所の多い本です。
また、議院内閣制だけではなく、民主主義そのものを改めて考えさせる内容にもなっていると思います。
議院内閣制―変貌する英国モデル (中公新書)
高安 健将
4121024699
- 2018年02月19日22:27
- yamasitayu
- コメント:0
カプセルホテルからひとりカラオケ、ひとり焼肉など、ひとり向けの空間が増えつつある現代日本の都市空間。この本は、そうした「ひとり空間」に焦点をあて、その特性や都市との関係を探ったものになります。
著者は社会学者ですが、「あとがき」に「社会学に軸足を置きながら、建築学の領域にもはみ出して研究を続けている」(246p)と書いているように、「空間」にこだわって分析しているのがこの本の特徴と言えるでしょう。
分析が多岐にわたっているために、分析の深さに関してはやや物足りない面もありますが、そのぶん都市における「ひとり」という存在を多面的に捉えるために材料はいろいろと出ていると思います。
目次は以下の通り。
序章では、『孤独のグルメ』から現代日本における都市とひとりの特性を探っています。
ご存知のように『孤独のグルメ』は主人公の井の頭五郎がひとりで食事をするお話です。五郎が入る店は基本的に初めての店であり、店や周囲の客と会話することもなく、ひとりで料理を味わいます。物語の構成は、だいたい都市の描写→店の描写→食事という展開で進み、食事が終わると五郎はその街を去っていきます。
この五郎のような存在が、この本では分析する「ひとり」の典型です。
「ひとり」というと例えば近年増えている単身高齢者、あるいは「結婚できない」独身者なども想像されますが、この本が中心に据えるのは都市でひとりで生活をする人々と、必ずしも一人暮らしではなくても「ひとりで」さまざまな空間を利用する人々です。
この本の定義する「状態としてのひとり」とは、「一定の時間、集団・組織から離れて「ひとり」であること」(31p)を指します。
第1章では、こうした「ひとり」と都市の関係を過去の都市社会学の研究などから読み解いていこうとしています。
都市と「ひとり」は分かち難い関係にあります。都市には進学や就職を機に単身者が上京していきますし、都市に住む人々は通勤などの移動中に一時的に「ひとり」となります。
ジンメルは都市生活の特徴を「無関心」、「匿名」といった言葉で表しましたが、同時に「自由」であるとも考えました(50-51p)。
また、シカゴ学派の社会学者は都市生活における「移動性」に注目し、これが他人との接触の機会を増やすとともに、その関係を不安定にすると考えました(55-58p)。
第2章は、「ひとり」は住む住宅について。
1970年代ごろまで単身者が住む部屋の象徴だったのが四畳半です。この四畳半は、公団の団地における子ども部屋が四畳半であったこと、鴨長明の方丈庵以来の伝統もあって単身者向きアパートの一つの形式となります。
高度成長期において、上京してきた単身者はまずはこの四畳半や会社の寮などに住み、そこから公団の団地などを経由して庭付きの一戸建てにいたる「現代住宅双六」(84pに73年に朝日新聞に載ったものの引用がある)が想定されていました。
単身者は四畳半を降り出しに、いずれは家族を形成して、一戸建てを手に入れることが想定されていたのです。
ところが、70年代以降に登場したワンルームマンションとなると、その位置づけは少し変わってきます。
71年に登場した「赤坂レジデンシャルホテル」や72年の「中銀カプセルタワー」は、ワンルームマンションの走りですが、それは郊外に家を持つビジネスマンが平日に泊まることを想定してつくられたものでした。
その後、ワンルームマンションは都会における「個室」という形で定着していきます。
ワンルームマンションの狭さは「うさぎ小屋」などと揶揄されましたが、都築響一が『TOKYO STYLE』で「本屋、洋服屋、レストランや飲み屋のそばに小さな部屋を確保して、あとは街を自分の部屋の延長にしてしまえばいい」と指摘したように(101p)、空間よりも時間を優先する人びとにはうってつけの住まいだったのです。
このような住環境の変化に対応して、2007年に日本経済新聞で紹介された「新・現代住宅双六」は介護付老人ホーム、外国定住など、複数のあがりのあるものでした(114p)。
第3章では、いかにも日本的な「ひとり」向けの飲食店や宿泊施設を見ていきます。
駅前に並ぶ牛丼店、ハンバーガーショップ、ラーメン店、カフェ。いずれもひとり客の利用を想定してつくられています。
また宿泊施設としてカプセルホテルがありますし、その他、「個室ビデオ」などの日本の都市には「ひとり空間」が数多くあります。
この本では日本における「ひとり空間」の多さを、中根千枝、神島二郎、上田篤、李御寧、オギュスタン・ベルクなどの議論から探っていますが、興味深いのは神島二郎の議論ですね。
神島は、日本の都市が農村から出てきた次男・三男などの単身者からなる存在だとし、男性単身者の「浮浪性」や異性遍歴が都市を日本の都市を形作っていると考えました。飲み屋やバー、キャバレーなどはもちろん男性単身者向けのものですし、神島によるとデパートや映画館、遊園地なども、男性中心的な単身者主義が女性にも浸透、開放された結果だといいます(140ー142p)。
また、上田やベルクは日本の空間の特徴を空間の分割や仕切りに求め、流動的なウチとソトの仕切りに注目しています。
この第3章の巻末に置かれた「ケーススタディ」では、牛丼店やラーメン店一蘭の仕切り付きのカウンターなどを紹介しています。
さらには、日本の鉄道中心の交通体系と「ひとり空間」の親和性についても述べているのですが、ここでは車社会では車が「ひとり空間」になっている可能性を指摘すべきじゃないかな、と思いました。
第4章は空間がなくても「状態としてのひとり」をつくり出すモバイル・メディアについて。
まず、この本がとり上げるのがウォークマンです。ウォークマンで音楽を聞くことによってその人は周囲から切り離され、また他人に対して「話しかけないでほしい」という意思を表示することもできます。
この周囲から切り離される機能はケータイやスマホにも受け継がれますが、ケータイやスマホがウォークマンと違う点は、周囲から切り離されつつ、別の場所の誰かとつながっている点です。
特に近年はスマホを使ったSNSの利用が活発ですが、このスマホとSNSの利用においては「つながりたい」と「つながりを絶ちたい」という欲求がせめぎ合っているといいます。
人によってはさまざまなSNSやアカウントをスイッチングすることで、これらの欲求に対処しています。
第4章のケーススタディでは「ひとりカラオケ」がとり上げられています。今までのカラオケでは、仲間同士が拍手などをしつつも相手をじっと見ることもなく次々と歌っていくという儀礼的コミュニケーションが繰り広げられていましたが、そうしたコミュニケーションと仲間をバッサリと排除したのが「ひとりカラオケ」です。
ここでライブ配信などをする人もいますが、これなどはつながりを絶ちつつ、つながりを求めるという現代的なコミュニケーションの一つの形と言えるでしょう。
また、都市における「個室」である多機能トイレについても扱っています(ここでとり上げている多機能トイレはバリアフリーのために設けられた公共的なものではなく、デパート等が設置する商業的なもの)。
「ひとり空間」の提供をマーケティングに結びつけようとするやり方は興味深いです。
終章の「都市の「ひとり空間」の行方」では、P2PやIoTといった技術やシェアリングエコノミーと都市の「ひとり」の問題を考察しています。
ここは個人的にはあまり興味がわかなかったです。
全体としてみると、なかなかおもしろい材料が並べられている本だと思います。この本を読むと、普段見ている都市の風景を改めて捉え直すことができるのではないでしょうか。
ただ、全体的な分析の枠組みがはっきりしていない点がこの本の弱点だと思います。都市における「ひとり」の問題とは普遍的なものなのか、それとも日本に特有なものなのか、それが判然としないです。
もちろん、普遍的な問題であり、同時に日本的な問題でもあるということなのでしょうけど、第1章と終章で普遍的側面をクローズアップしつつ、第2〜4章では日本ならではの面を強調する構成にはわかりにくい面があります。
このあたりは、例えば前述の車の所有の問題や、シェアハウスや飲食店などの国際比較した分析などがあれば、もう少しクリアーになったのではないでしょうか。
ひとり空間の都市論 (ちくま新書)
南後 由和
4480071075
著者は社会学者ですが、「あとがき」に「社会学に軸足を置きながら、建築学の領域にもはみ出して研究を続けている」(246p)と書いているように、「空間」にこだわって分析しているのがこの本の特徴と言えるでしょう。
分析が多岐にわたっているために、分析の深さに関してはやや物足りない面もありますが、そのぶん都市における「ひとり」という存在を多面的に捉えるために材料はいろいろと出ていると思います。
目次は以下の通り。
序章 『孤独のグルメ』の都市論
第1章 ひとり・ひとり空間・都市
第2章 住まい―単身者とモビリティ
第3章 飲食店・宿泊施設―日本的都市風景
第4章 モバイル・メディア―ウォークマンからスマートフォンまで
終章 都市の「ひとり空間」の行方
序章では、『孤独のグルメ』から現代日本における都市とひとりの特性を探っています。
ご存知のように『孤独のグルメ』は主人公の井の頭五郎がひとりで食事をするお話です。五郎が入る店は基本的に初めての店であり、店や周囲の客と会話することもなく、ひとりで料理を味わいます。物語の構成は、だいたい都市の描写→店の描写→食事という展開で進み、食事が終わると五郎はその街を去っていきます。
この五郎のような存在が、この本では分析する「ひとり」の典型です。
「ひとり」というと例えば近年増えている単身高齢者、あるいは「結婚できない」独身者なども想像されますが、この本が中心に据えるのは都市でひとりで生活をする人々と、必ずしも一人暮らしではなくても「ひとりで」さまざまな空間を利用する人々です。
この本の定義する「状態としてのひとり」とは、「一定の時間、集団・組織から離れて「ひとり」であること」(31p)を指します。
第1章では、こうした「ひとり」と都市の関係を過去の都市社会学の研究などから読み解いていこうとしています。
都市と「ひとり」は分かち難い関係にあります。都市には進学や就職を機に単身者が上京していきますし、都市に住む人々は通勤などの移動中に一時的に「ひとり」となります。
ジンメルは都市生活の特徴を「無関心」、「匿名」といった言葉で表しましたが、同時に「自由」であるとも考えました(50-51p)。
また、シカゴ学派の社会学者は都市生活における「移動性」に注目し、これが他人との接触の機会を増やすとともに、その関係を不安定にすると考えました(55-58p)。
第2章は、「ひとり」は住む住宅について。
1970年代ごろまで単身者が住む部屋の象徴だったのが四畳半です。この四畳半は、公団の団地における子ども部屋が四畳半であったこと、鴨長明の方丈庵以来の伝統もあって単身者向きアパートの一つの形式となります。
高度成長期において、上京してきた単身者はまずはこの四畳半や会社の寮などに住み、そこから公団の団地などを経由して庭付きの一戸建てにいたる「現代住宅双六」(84pに73年に朝日新聞に載ったものの引用がある)が想定されていました。
単身者は四畳半を降り出しに、いずれは家族を形成して、一戸建てを手に入れることが想定されていたのです。
ところが、70年代以降に登場したワンルームマンションとなると、その位置づけは少し変わってきます。
71年に登場した「赤坂レジデンシャルホテル」や72年の「中銀カプセルタワー」は、ワンルームマンションの走りですが、それは郊外に家を持つビジネスマンが平日に泊まることを想定してつくられたものでした。
その後、ワンルームマンションは都会における「個室」という形で定着していきます。
ワンルームマンションの狭さは「うさぎ小屋」などと揶揄されましたが、都築響一が『TOKYO STYLE』で「本屋、洋服屋、レストランや飲み屋のそばに小さな部屋を確保して、あとは街を自分の部屋の延長にしてしまえばいい」と指摘したように(101p)、空間よりも時間を優先する人びとにはうってつけの住まいだったのです。
このような住環境の変化に対応して、2007年に日本経済新聞で紹介された「新・現代住宅双六」は介護付老人ホーム、外国定住など、複数のあがりのあるものでした(114p)。
第3章では、いかにも日本的な「ひとり」向けの飲食店や宿泊施設を見ていきます。
駅前に並ぶ牛丼店、ハンバーガーショップ、ラーメン店、カフェ。いずれもひとり客の利用を想定してつくられています。
また宿泊施設としてカプセルホテルがありますし、その他、「個室ビデオ」などの日本の都市には「ひとり空間」が数多くあります。
この本では日本における「ひとり空間」の多さを、中根千枝、神島二郎、上田篤、李御寧、オギュスタン・ベルクなどの議論から探っていますが、興味深いのは神島二郎の議論ですね。
神島は、日本の都市が農村から出てきた次男・三男などの単身者からなる存在だとし、男性単身者の「浮浪性」や異性遍歴が都市を日本の都市を形作っていると考えました。飲み屋やバー、キャバレーなどはもちろん男性単身者向けのものですし、神島によるとデパートや映画館、遊園地なども、男性中心的な単身者主義が女性にも浸透、開放された結果だといいます(140ー142p)。
また、上田やベルクは日本の空間の特徴を空間の分割や仕切りに求め、流動的なウチとソトの仕切りに注目しています。
この第3章の巻末に置かれた「ケーススタディ」では、牛丼店やラーメン店一蘭の仕切り付きのカウンターなどを紹介しています。
さらには、日本の鉄道中心の交通体系と「ひとり空間」の親和性についても述べているのですが、ここでは車社会では車が「ひとり空間」になっている可能性を指摘すべきじゃないかな、と思いました。
第4章は空間がなくても「状態としてのひとり」をつくり出すモバイル・メディアについて。
まず、この本がとり上げるのがウォークマンです。ウォークマンで音楽を聞くことによってその人は周囲から切り離され、また他人に対して「話しかけないでほしい」という意思を表示することもできます。
この周囲から切り離される機能はケータイやスマホにも受け継がれますが、ケータイやスマホがウォークマンと違う点は、周囲から切り離されつつ、別の場所の誰かとつながっている点です。
特に近年はスマホを使ったSNSの利用が活発ですが、このスマホとSNSの利用においては「つながりたい」と「つながりを絶ちたい」という欲求がせめぎ合っているといいます。
人によってはさまざまなSNSやアカウントをスイッチングすることで、これらの欲求に対処しています。
第4章のケーススタディでは「ひとりカラオケ」がとり上げられています。今までのカラオケでは、仲間同士が拍手などをしつつも相手をじっと見ることもなく次々と歌っていくという儀礼的コミュニケーションが繰り広げられていましたが、そうしたコミュニケーションと仲間をバッサリと排除したのが「ひとりカラオケ」です。
ここでライブ配信などをする人もいますが、これなどはつながりを絶ちつつ、つながりを求めるという現代的なコミュニケーションの一つの形と言えるでしょう。
また、都市における「個室」である多機能トイレについても扱っています(ここでとり上げている多機能トイレはバリアフリーのために設けられた公共的なものではなく、デパート等が設置する商業的なもの)。
「ひとり空間」の提供をマーケティングに結びつけようとするやり方は興味深いです。
終章の「都市の「ひとり空間」の行方」では、P2PやIoTといった技術やシェアリングエコノミーと都市の「ひとり」の問題を考察しています。
ここは個人的にはあまり興味がわかなかったです。
全体としてみると、なかなかおもしろい材料が並べられている本だと思います。この本を読むと、普段見ている都市の風景を改めて捉え直すことができるのではないでしょうか。
ただ、全体的な分析の枠組みがはっきりしていない点がこの本の弱点だと思います。都市における「ひとり」の問題とは普遍的なものなのか、それとも日本に特有なものなのか、それが判然としないです。
もちろん、普遍的な問題であり、同時に日本的な問題でもあるということなのでしょうけど、第1章と終章で普遍的側面をクローズアップしつつ、第2〜4章では日本ならではの面を強調する構成にはわかりにくい面があります。
このあたりは、例えば前述の車の所有の問題や、シェアハウスや飲食店などの国際比較した分析などがあれば、もう少しクリアーになったのではないでしょうか。
ひとり空間の都市論 (ちくま新書)
南後 由和
4480071075
- 2018年02月11日22:22
- yamasitayu
- コメント:0
『財務省と政治』(中公新書)などの著作をもつ日経新聞の記者によるここ30年の日本政治史。400ページ近い本文に、人名索引までついたボリューム満点の構成になっています。
新聞記者が書く政治史というと、大物政治家の人間関係などを中心とした政局が中心で、記者だからこそつかめたネタがいろいろと紹介されているのかと思う人もいるかもしれませんが、この本はそういった内容ではありません。
91年の宮沢内閣発足時に、三塚派が人事で冷遇されそうになってヤケ酒を飲みジャージー姿で咆哮する三塚博という番記者ならではなかなかすごい描写もありますが、それよりも近年の政治学の成果を取り入れながら、選挙制度改革や省庁再編といった政治制度の改革が現実の政治にいかなる影響を与えたのかを見ていこうという視点が強いです。
それは参考文献に、大山礼子『日本の国会』、砂原庸介『分裂と統合の日本政治』、中北浩爾『自民党-「一強」の実像』、牧原出『権力移行』、待鳥聡史『首相制度の政治分析』、レイプハルト『民主主義対民主主義』などがあがっていることからも窺えると思います。
目次は以下の通り。
まず「平成デモクラシー」ですが、これは政治学者で選挙制度改革などにも関わった佐々木毅の提唱した概念で、それまでの中選挙区制のもとでの与党と官僚が物事を決めていく仕組みを、「首相主導」、「内閣主導」の仕組みに転換させていく大きな流れになります。
このために衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入され、省庁再編によって首相の権力は増しました。
これらの制度を活かして長期政権を築いているのが現在の安倍政権です。
第1章では2017年の解散総選挙を中心に現在の安倍政権の姿を描き(なぜか最後に超党派による財政再建路線がプッシュされていますが)、第2章以降で過去から現在にいたるまでの日本政治の動きを描いています。
400ページ近い通史的な本を要約しても仕方がない思いますので、以降は個人的に印象に残ったポイントをあげていきたいと思います。
まずは人事権も解散権も封じられた首相の弱さです。91年、海部首相は小選挙区比例代表並立制の導入などを柱とする政治改革法案が否決されたことに対し、解散によって事態を打開しようとしましたが、小沢一郎に引導を渡され、退陣せざるを得ませんでした(57-59p)。
宮澤内閣でも人事は竹下派の主導で行われましたし、橋本首相も中曽根康弘の推す佐藤孝行の入閣を断りきれずに支持率を落とすこととなりました。
しかし、一連の改革で首相の権力が増大したことと、小泉純一郎が派閥無視の人事、2005年の郵政解散といった蛮勇をふるったことによって、首相は人事権と解散権をかなり自由に行使できるようになりました。
この2つの権力を積極的に活かしているのが現在の安倍政権と言えるでしょう。
次に印象的なのが、上に立つ者が権力基盤を構成する複数の勢力の中でバランスをとる難しさです。
国民的な人気を背景に船出した細川連立政権は、小沢一郎と武村正義の確執を押さえることができずに短期間で崩壊しましたし、同じように支持率の高かった橋本政権も加藤紘一幹事長らの「自社さ」路線と梶山静六官房長官の「保保連合」路線の対立が抜き差しならなくなり、梶山が官房長官を退いたことで政権が弱体化します。
その点、現在の安倍政権は、菅官房長官と麻生財務大臣の間で対立があると言われながらも、今のところ両者が続投しているという点が強みになっているのでしょう。
3点目は「小泉劇場」の面白さ。実際にリアルタイムで見てきましたし、小泉政権の内幕を語った本も何冊か読んで入るんですが、やはり小泉政権には独特の面白さがありますね。
派閥の意向をまったく無視した閣僚人事に(副大臣・政務官では配慮している)、与党が関与できない所信表明演説での政策のぶちあげ、小沢鋭仁に「あなたはドン・キホーテだ」と揶揄されると「ドン・キホーテは好きなんですよ。〜「夢みのりがたく、敵あまたなれども、我は勇みて進まん」」と切り返す(212p)反射神経、「人に郵政法案が否決された時には解散までの手続きを分単位で決めていた(217p)という周到さなど、喧嘩師としての抜群の冴えがあります。
そんな小泉純一郎の闘争において、著者が2005年の郵政解散以上に評価するのが03年の自民党総裁選です。
03年の秋には自民党の総裁選が予定されており、04年には衆議院の任期満了が迫っていました。小泉首相の盟友でもあった山崎拓幹事長は、総裁選の前に衆院を解散し、その勝利の勢いでもって再選を目指すことを進言しました。衆院選で勝った総裁をすぐさま下ろすわけにはいかないので、これは合理的な戦略です。
ところが、小泉首相はこれを拒否し、総裁選→内閣改造→解散総選挙というシナリオを描きました。しかも総裁選では郵政民営化を総選挙のマニフェストに書き込むことを明言したのです。総選挙に勝利するには「小泉人気」に頼らざるをえない、そんな自民党の状況を見きった上での戦略でした。
結果、「小泉人気」に頼るしかないと腹をくくった青木参院幹事長と徹底抗戦を唱える野中広務の間で橋本派は分裂。藤井孝男を支持した野中は政界を去ることになります。
そして、今までの自民党の意思決定の仕組みをぶっ壊しておきながら、それをほぼ郵政民営化のためにしか使わず、制度改革には無関心だったという点も小泉純一郎の特異な点といえるかもしれません。
日本の政治は長らく内閣と与党という二元的な権力のあり方を特徴としていましたが、与党の力を強化された首相の権力を使って粉砕してみせたのが小泉首相でした。しかし、与党の事前審査制度などを廃止したかというとそうではなく、郵政民営化法案さえ通れば、あとのことはどうでも良かったのです。
4点目はこの本の影の主役ともいえる松井孝治と民主党政権について。
人名索引を見ると松井孝治の名前は14回登場しています。これは野中広務の10回や鳩山由紀夫の12回を上回っています(最多は小沢一郎の28回)。
なぜ松井孝治なのか? それは松井が一貫して統治システムの改革に携わってきたからです。
松井が統治システムの改革に携わるのは通産省の官房補佐の法令審査員だった96年から。橋本内閣の行政改革のアイディアの立案に携わり、とくに予算や人事、行政管理などの権限を官邸に集め、官邸のリーダーシップを強化することを狙いました(121-123p)。
松井は行革会議の事務局に入り、橋本行革の推進役となりますが、野心的なプランの多くは族議員や官庁の抵抗によって後退させられました。
限界を感じた松井は2001年の参院選に民主党から出馬し、当選することになります。
松井は08年の福田内閣における国家公務員制度改革基本法案の与野党協議に民主党の代表として出席し、「内閣人事局」の設置を認めさせます。
そして、09年の衆院選で民主党が勝利し政権交代が実現すると、かつて描いた一元的な政策決定の仕組みの構築を目指すのです。
松井が構想したのが首相直轄のもとで予算編成の基本方針を決め、さらには外交や文化戦略まで取り扱おうとする「国家戦略局」の設置でした。
「「個人商店」色の強かった小泉流に対し、舞台装置の「閣僚委員会」やスタッフ組織の「国家戦略局」の整備を掲げる民主党には、首相主導を組織化・制度化する意欲が鮮明」(269p)であり、小沢一郎幹事長の進めた政調会の廃止と合わせて、政策決定の内閣一元化が実現するはずでした。
松井も官房副長官として官邸に入りますが、マニフェストに必要な巨額財源をどうするか、国家戦略局のスタッフをどうするか、菅直人国家戦略相と平野博文官房長官の調整をどうするか、などの問題で鳩山内閣は迷走し始めます。
結局、内閣のスタッフではない小沢一郎幹事長に調整が任される始末で、「「小沢一元化」でしか収めようがない」(284-285p)状態でした。
菅内閣のもとでの参院選敗北後、国家戦略室はセカンドオピニオンを具申するシンクタンク的存在に格下げとなり(295p)、野田内閣のもとでは政調会が復活。政策決定の仕組みは自民党のものに近づいていくことになります。
この後、民主党は政権の座から降りることになるのですが、松井の構想した内閣人事局をつかってうまく睨みを効かせているのが現在の安倍政権の官邸を言えるでしょう。
このように統治システムの改革が大きな課題となったのが平成の政治史であり、この本はそうした統治システムの改革と政局をうまく織り交ぜるかたちで叙述を進めています。
小選挙区制に反対した小泉純一郎が誰よりも小選挙区制の持つ政党党首の力をうまく使いこなしたように、この統治システム改革の成果をうまく利用できた政権が長持ちし、それができなかった政権が短命に終わったのがここ30年の政治と言えるでしょう。
経済政策や外交における対立などはあまり描かれていないので、そこは他の本で補う必要もあるかもしれませんが(外交なら宮城大蔵『現代日本外交史』(中公新書)が良い)、平成の政治の流れを面白く追える本に仕上がっていると思います。
平成デモクラシー史 (ちくま新書)
清水 真人
4480071199
新聞記者が書く政治史というと、大物政治家の人間関係などを中心とした政局が中心で、記者だからこそつかめたネタがいろいろと紹介されているのかと思う人もいるかもしれませんが、この本はそういった内容ではありません。
91年の宮沢内閣発足時に、三塚派が人事で冷遇されそうになってヤケ酒を飲みジャージー姿で咆哮する三塚博という番記者ならではなかなかすごい描写もありますが、それよりも近年の政治学の成果を取り入れながら、選挙制度改革や省庁再編といった政治制度の改革が現実の政治にいかなる影響を与えたのかを見ていこうという視点が強いです。
それは参考文献に、大山礼子『日本の国会』、砂原庸介『分裂と統合の日本政治』、中北浩爾『自民党-「一強」の実像』、牧原出『権力移行』、待鳥聡史『首相制度の政治分析』、レイプハルト『民主主義対民主主義』などがあがっていることからも窺えると思います。
目次は以下の通り。
序 「平成デモクラシー」とは
第1章 「強すぎる首相」の岐路
第2章 政治改革と小沢一郎
第3章 橋本行革の光と影
第4章 小泉純一郎の革命
第5章 ポスト小泉三代の迷走
第6章 民主党政権の実験と挫折
第7章 再登板・安倍晋三の執念
まず「平成デモクラシー」ですが、これは政治学者で選挙制度改革などにも関わった佐々木毅の提唱した概念で、それまでの中選挙区制のもとでの与党と官僚が物事を決めていく仕組みを、「首相主導」、「内閣主導」の仕組みに転換させていく大きな流れになります。
このために衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入され、省庁再編によって首相の権力は増しました。
これらの制度を活かして長期政権を築いているのが現在の安倍政権です。
第1章では2017年の解散総選挙を中心に現在の安倍政権の姿を描き(なぜか最後に超党派による財政再建路線がプッシュされていますが)、第2章以降で過去から現在にいたるまでの日本政治の動きを描いています。
400ページ近い通史的な本を要約しても仕方がない思いますので、以降は個人的に印象に残ったポイントをあげていきたいと思います。
まずは人事権も解散権も封じられた首相の弱さです。91年、海部首相は小選挙区比例代表並立制の導入などを柱とする政治改革法案が否決されたことに対し、解散によって事態を打開しようとしましたが、小沢一郎に引導を渡され、退陣せざるを得ませんでした(57-59p)。
宮澤内閣でも人事は竹下派の主導で行われましたし、橋本首相も中曽根康弘の推す佐藤孝行の入閣を断りきれずに支持率を落とすこととなりました。
しかし、一連の改革で首相の権力が増大したことと、小泉純一郎が派閥無視の人事、2005年の郵政解散といった蛮勇をふるったことによって、首相は人事権と解散権をかなり自由に行使できるようになりました。
この2つの権力を積極的に活かしているのが現在の安倍政権と言えるでしょう。
次に印象的なのが、上に立つ者が権力基盤を構成する複数の勢力の中でバランスをとる難しさです。
国民的な人気を背景に船出した細川連立政権は、小沢一郎と武村正義の確執を押さえることができずに短期間で崩壊しましたし、同じように支持率の高かった橋本政権も加藤紘一幹事長らの「自社さ」路線と梶山静六官房長官の「保保連合」路線の対立が抜き差しならなくなり、梶山が官房長官を退いたことで政権が弱体化します。
その点、現在の安倍政権は、菅官房長官と麻生財務大臣の間で対立があると言われながらも、今のところ両者が続投しているという点が強みになっているのでしょう。
3点目は「小泉劇場」の面白さ。実際にリアルタイムで見てきましたし、小泉政権の内幕を語った本も何冊か読んで入るんですが、やはり小泉政権には独特の面白さがありますね。
派閥の意向をまったく無視した閣僚人事に(副大臣・政務官では配慮している)、与党が関与できない所信表明演説での政策のぶちあげ、小沢鋭仁に「あなたはドン・キホーテだ」と揶揄されると「ドン・キホーテは好きなんですよ。〜「夢みのりがたく、敵あまたなれども、我は勇みて進まん」」と切り返す(212p)反射神経、「人に郵政法案が否決された時には解散までの手続きを分単位で決めていた(217p)という周到さなど、喧嘩師としての抜群の冴えがあります。
そんな小泉純一郎の闘争において、著者が2005年の郵政解散以上に評価するのが03年の自民党総裁選です。
03年の秋には自民党の総裁選が予定されており、04年には衆議院の任期満了が迫っていました。小泉首相の盟友でもあった山崎拓幹事長は、総裁選の前に衆院を解散し、その勝利の勢いでもって再選を目指すことを進言しました。衆院選で勝った総裁をすぐさま下ろすわけにはいかないので、これは合理的な戦略です。
ところが、小泉首相はこれを拒否し、総裁選→内閣改造→解散総選挙というシナリオを描きました。しかも総裁選では郵政民営化を総選挙のマニフェストに書き込むことを明言したのです。総選挙に勝利するには「小泉人気」に頼らざるをえない、そんな自民党の状況を見きった上での戦略でした。
結果、「小泉人気」に頼るしかないと腹をくくった青木参院幹事長と徹底抗戦を唱える野中広務の間で橋本派は分裂。藤井孝男を支持した野中は政界を去ることになります。
そして、今までの自民党の意思決定の仕組みをぶっ壊しておきながら、それをほぼ郵政民営化のためにしか使わず、制度改革には無関心だったという点も小泉純一郎の特異な点といえるかもしれません。
日本の政治は長らく内閣と与党という二元的な権力のあり方を特徴としていましたが、与党の力を強化された首相の権力を使って粉砕してみせたのが小泉首相でした。しかし、与党の事前審査制度などを廃止したかというとそうではなく、郵政民営化法案さえ通れば、あとのことはどうでも良かったのです。
4点目はこの本の影の主役ともいえる松井孝治と民主党政権について。
人名索引を見ると松井孝治の名前は14回登場しています。これは野中広務の10回や鳩山由紀夫の12回を上回っています(最多は小沢一郎の28回)。
なぜ松井孝治なのか? それは松井が一貫して統治システムの改革に携わってきたからです。
松井が統治システムの改革に携わるのは通産省の官房補佐の法令審査員だった96年から。橋本内閣の行政改革のアイディアの立案に携わり、とくに予算や人事、行政管理などの権限を官邸に集め、官邸のリーダーシップを強化することを狙いました(121-123p)。
松井は行革会議の事務局に入り、橋本行革の推進役となりますが、野心的なプランの多くは族議員や官庁の抵抗によって後退させられました。
限界を感じた松井は2001年の参院選に民主党から出馬し、当選することになります。
松井は08年の福田内閣における国家公務員制度改革基本法案の与野党協議に民主党の代表として出席し、「内閣人事局」の設置を認めさせます。
そして、09年の衆院選で民主党が勝利し政権交代が実現すると、かつて描いた一元的な政策決定の仕組みの構築を目指すのです。
松井が構想したのが首相直轄のもとで予算編成の基本方針を決め、さらには外交や文化戦略まで取り扱おうとする「国家戦略局」の設置でした。
「「個人商店」色の強かった小泉流に対し、舞台装置の「閣僚委員会」やスタッフ組織の「国家戦略局」の整備を掲げる民主党には、首相主導を組織化・制度化する意欲が鮮明」(269p)であり、小沢一郎幹事長の進めた政調会の廃止と合わせて、政策決定の内閣一元化が実現するはずでした。
松井も官房副長官として官邸に入りますが、マニフェストに必要な巨額財源をどうするか、国家戦略局のスタッフをどうするか、菅直人国家戦略相と平野博文官房長官の調整をどうするか、などの問題で鳩山内閣は迷走し始めます。
結局、内閣のスタッフではない小沢一郎幹事長に調整が任される始末で、「「小沢一元化」でしか収めようがない」(284-285p)状態でした。
菅内閣のもとでの参院選敗北後、国家戦略室はセカンドオピニオンを具申するシンクタンク的存在に格下げとなり(295p)、野田内閣のもとでは政調会が復活。政策決定の仕組みは自民党のものに近づいていくことになります。
この後、民主党は政権の座から降りることになるのですが、松井の構想した内閣人事局をつかってうまく睨みを効かせているのが現在の安倍政権の官邸を言えるでしょう。
このように統治システムの改革が大きな課題となったのが平成の政治史であり、この本はそうした統治システムの改革と政局をうまく織り交ぜるかたちで叙述を進めています。
小選挙区制に反対した小泉純一郎が誰よりも小選挙区制の持つ政党党首の力をうまく使いこなしたように、この統治システム改革の成果をうまく利用できた政権が長持ちし、それができなかった政権が短命に終わったのがここ30年の政治と言えるでしょう。
経済政策や外交における対立などはあまり描かれていないので、そこは他の本で補う必要もあるかもしれませんが(外交なら宮城大蔵『現代日本外交史』(中公新書)が良い)、平成の政治の流れを面白く追える本に仕上がっていると思います。
平成デモクラシー史 (ちくま新書)
清水 真人
4480071199
- 2018年02月05日22:47
- yamasitayu
- コメント:0
記事検索
最新記事
カテゴリ別アーカイブ
月別アーカイブ
★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
人気記事
タグクラウド