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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2019年12月

時間の謎について考えた哲学的エッセイで、時間というものをとことん考えるのではなく、〈自由〉、〈記憶〉、〈自殺〉、〈SF〉、〈不死〉といったテーマを変えながら時間の謎、特に移り行く「今」の謎に迫っています。
著者は『分析哲学講義』(ちくま新書)の著者であり、正直、自分とは「謎」だと感じるポイントが違うと感じるところもあります。ただ、とり上げられている例は興味深いですし、自殺の話などは著者の考えに賛成するかは別にしてもかなり面白い視点からの分析がなされています。

目次は以下の通り。

第一章 〈知覚〉――時間の流れは錯覚か
第二章 〈自由〉――私はいつ決めたのか
第三章 〈記憶〉――過去のデッサンを描くには
第四章 〈自殺〉――死ぬ権利は、権利なのか
第五章 〈SF〉――タイムトラベルは不可能か
第六章 〈責任〉――それは、だれかのせいなのか
第七章 〈因果〉――過去をどこかに繋ぐには
第八章 〈不死〉――死はいつまで続くのか

第1章では、「時間が流れる」という感覚について考察しています。「今」が流れ去って「過去」になる、といったイメージで人々は時間を捉えているわけですが、この「時間が流れる」ということをきちんと説明しようとするとなかなか難しくなります。
現在の心理学や神経科学では、人間はほんの少し過去の世界を「今」として生きている、と言われることがあります。例えば、画面のある場所に緑の点が表示され、次に少し離れた場所に赤の点が表示されると、タイミングがうまくいけば、点が移動し、色が緑から赤に変わったかのように見えますこのとき被験者は、赤の点が現れる前に点は赤へと変化していったと報告します。つまり、脳は感覚器官から送られてきた情報を遅延して体験するだけではなく、時間的な編集も行っているようなのです。
フッサールは、「今」はついさっき消え去った現象やこれから現れようとする現象を含んでいると考えました。これは最近の科学の知見と整合的かもしれません。
ただし、著者はこのフッサールの考えは、「今」の内部から「今」の移行を捉えようとしており、これは不可能ではないかと見ています。このあたりの著者の問題意識はややわかりにくいのですが、「今」に近未来や直前のことが含まれるというのは「今」が拡大しただけであって、「今」が移行することを説明していないのではないか? ということなのでしょう。

第2章では、ベンジャミン・リベットの実験がとり上げられています。リベットの実験については詳しくは以前『マインド・タイム』を紹介したときのエントリーを見てほしいのですが、人間の行動が実は人間が意識する前から始まっているということを明らかにしたもので、これを「自由意志が否定された」と考える人もいます。
著者はこの解釈に対して、そもそもリベットが実験で行わせた「任意のときに腕を上げる」ということは、普通の意味での「自由な行為」とは言えないのではないかと疑問を呈しています。
また、2つの顔写真を見せて好きな1枚を選択させて被験者に渡し選んだ理由を述べてもらう作業で、選択した写真を渡す瞬間に選ばなかったほうの写真をすり替えても被験者は気づかずに選んだ理由を滔々と語りだしてしまうという実験も紹介しています。著者はこの実験を面白いと評価しつつ、同時に「評価」と「選択」は違うのではないかとも述べています。

第3章では記憶についてです。ここで中心的にとり上げられているのが、ラッセルの「五分前世界創造仮説」です。これは、この世界は5分前にすべて創造された(それまでの歴史や記憶も含めて)としても私たちはそれに気づかないだろうというものです。
著者は、何かを疑うにはある種のデッサン画を維持しておく必要があり、それは少しずつ修正されることはあっても、一気に白紙にしてしまっては疑いようがない(間違いを修正しようがない)という考えのもと、この仮説に実践的な意味はないとしています。基本的にはウィトゲンシュタインの『確実性の問題』における考えと似ています。

第4章は自殺。この章はなかなかおもしろいと思います。
著者がまず問題にするのは、人間の「死ににくさ」です。もし、人間に「命のスイッチ」がついていてそのスイッチを自由に動かせるのであれば、私は時と場合によってはそのスイッチを切ってしまう、と著者は言います。
しかし、現実にはそうしたスイッチはなく、自殺の失敗や後遺症の可能性などを考えざるを得ません。もちろん、確実な死をもたらす薬物などはありますが、それを手に入れるためには何らかの社会的な承認を得る必要があります。
「死ぬ権利」という言い方もありますが、「権利」という言葉は社会的なものです。安楽死の場合で言えば、自らの苦しみを他者にも理解可能な形で語っていくことが要請されることになり、それが広く了解されるかどうかは不確定です。
他にも、ここでは「今の自分が未来の自分を殺すことができるか?」という問題もとり上げています。やや詭弁に感じる人もいるかもしれませんが、これに対して著者は「たとえば、失恋した小学生がそのことを理由にして自殺しようとしたなら、それが未来の当人から見てどれほど強い「他殺」性をもつかを、説明したくなるに違いない」(123p)と述べています。

第5章は〈SF〉という名前ですが、とり上げられるのはタイムマシンです。
例えば、『ドラゴンボール』の「精神と時の部屋」では中で1年過ごしても外では1日しか経っていません。もし、この逆の部屋があれば(1日過ごすと1年経っている)、それは未来へと向かうタイムマシンのように感じられるでしょう。「未来へ行く」という表現も使われるかもしれませんが、これは時の流れが誰にとっても同じだという感覚から導かれる表現です。実際、これに近いことは相対性理論では起こり得ることで、「ウラシマ効果」と呼ばれています。
このあと著者は、タイムトラベルを「今」が必要な「テンストラベル」と「今」が必要でない「テンスレストラベル」に分けて分析していますが、ここの議論はピンとこなかったです。

第6章では責任という問題がとり上げられています。
バスのドライバーが信号を無視し歩行者が怪我をしたケースで、その理由として次の4つのものがあげられたとします。(1)前日の芸能人結婚のニュースにショックを受け寝不足だった、(2)前日遅くまで隣の部屋の住人が騒いでおり寝不足だった、(3)医者が間違って駐車した薬のせいで突然の睡魔に襲われた、(4)実は映画『スピード』のように減速すると爆発する爆弾が仕掛けられておりブレーキを踏めなかった。
多くの人は(1)→(4)の順にドライバーの責任が軽くなると感じると思います((3)と(4)については同じと考える人もいるかも)。(1)と(2)は本人にとっては(1)の方が重大事ということはもちろんありえるでしょうが、(1)の理由は多くの人の支持を受けにくいでしょう。著者はこうしたことから「責任」は受け渡し可能なのか? 「責任」というものは「構成」されるものだと考えていいのか? といったことを考察しています。
さらに脳の障害によって犯罪を犯してしまうようなケースを紹介し(ある男性は急に児童ポルノにのめり込んだが脳の腫瘍を摘出すると治った、しかし、再び児童ポルノに手を出すようになり調べてみると同じ場所に腫瘍ができていた(171p))、神経学者のイーグルマンが犯罪に関して「非難に値する」から「修正可能である」という考えに変えていくべきであるという提言を検討しています。

第7章は因果。個々の出来事(トークン)でから一定の法則を導けるかというのはヒュームのころから考えられている問題です。
さらにこの章では記憶の問題も検討しており、「いつ」「どこで」「何が」起きたかという個人的記憶を意識的に思い出し、それを再体験できる「エピソード記憶」というものをとり上げています。動物も過去の経験を覚えていてそれを行動に反映させますが、それは「トークン」の記憶なのか、それともある種の「タイプ」(法則性)を覚えたのかははっきりしませんが、人間は出来事とともに、それを経験している「私」というものをより明確に保持していると著者は考えているようです(ここの議論のポイントは個人的にいまいちピンとこなかった)。

第8章は〈不死〉というタイトルで、まずはイーガンの『順列都市』がとり上げられています。『順列都市』では巨大な乱数の集合があれば、そこに何らかの整合性をもった諸パターンが含まれているはずであり、心もまたパターンであるなら、そこには心も含まれているかもしれない」(209p)で、そしてそれが心であるならば内部から秩序を作り上げるであろう、つまり真の「不死」が出現する、という話が登場します。
ただし、このようなパターンは時間的な流れのようなものを持つのかは疑問です。心のパターンのようなものがあれば、それは無時制的だと考えるのが自然でしょう。しかし、私の「心」は一定の先後関係の中にあると考えられるのが普通です。昨日と今日の間に大きな矛盾がないからこそ、私は安定した生活ができるのです。私の「心」は整合的な繋がりによって構成されているのです。

どこまで著者の思考を追うことができたかはわかりませんが、いくつか興味を引くような思考があったのではないかと思います。著者の思考にどれだけついていけるかは別にして、複数の面白い論点が提出されていると思います。個人的には、〈自由〉、〈自殺〉、〈責任〉といったことをとり上げた章を面白く読みました。
ただし、この本には少し欠点も感じていて、それは第3章においてラッセルの「五分前世界創造仮説」をウィトゲンシュタインが『確実性の問題』示したスタンスで棄却していることです。
それ自体は全然構わないのですが、ウィトゲンシュタイン的な立場を取れば、タイムトラベル(本書ではその中でもテンストラベル)のような現実にはありえないような設定で現在の状況を疑うことはできなくなってしまうのではないでしょうか? そうした疑問は端的に意味がないと棄却されてしまうからです。
そのため本書後半の哲学的な議論の一部がやや空転してしまっているようにも思えました。


12月25
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その他
去年の「2018年の新書」のエントリーからここまで51冊の新書を読んだようです。
今年の前半は中公の歴史ものレベルが非常に高く、上半期は2017年に引き続いて「中公一強か?」と思いましたが、下半期は岩波が巻き返した印象です。特に岩波の9月のラインナップは見事でした。ちくまは夏くらいまでは良かったけど秋以降のランナップは今ひとつピンとこずで(見返してみたら去年も同じようなことを書いていた)、他だとNHK出版新書の企画がなかなか面白かったと思います。

まずはベスト5とそれに続く5冊を紹介します。

小塚荘一郎『AIの時代と法』(岩波新書)



今年のベスト。「第4次産業革命」とか「ソサエティ5.0」などの言葉が飛び交い、AIや情報技術の発展によって世界の姿が一変するようにも言われますが、そう言われると「そんなことはないだろ」と言い返したくなる人も多いと思います。
自分も世界が一変するとは思いませんが、本書を読むと「法」とそれが想定する社会のあり方が変容を迫られていくことがわかります。「法」という固定された観点から見ることで、今起きている、そしてこれから起こる変化をかえってわかりやすく捉えることができるのです。
AIの時代の特徴を、「モノ(の取引)からサービス(の取引)へ」、「財物からデータへ」、「法/契約からコードへ」という3つの変化に見ながら、それが法と社会にもたらす変化を検討する本書はまさにタイムリーな本だと思います。


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曽我謙悟『日本の地方政府』(中公新書)



日本の地方政府(地方自治体)について、制度と国や地域社会の関係などから明らかにしようとした本になります。
このような政治制度やその実態を明らかにしようとする本だと、事例(地方自治をめぐるさまざまなトピック)や歴史(地方自治の起源、地方分権改革がもたらした変化など)を中心に論じるのがオーソドックスなやり方だと思いますが、この本ではデータと制度、さらにその制度から予想される帰結とそこからのズレを中心に論述を進めていきます。
やや議論の進め方に面食らう人もいるかもしれませんがその議論の密度は高く、今までの地方自治体に関するイメージを覆すものも多いです。また、積極的な改革を提言する本ではありませんが、分析の中で浮き上がってきた問題点の把握を通じて、今後の日本の地方制度を考えていく方向性を教えてくれる内容にもなっています。

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梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書)



キャッシュレス社会にシェアエコノミーに信用スコアと、猛烈な勢いでハイテクが普及しつつある中国。その姿はこれからのテクノロジー社会を予見させるようでありつつ、同時に多数の監視カメラや政府によるネット検閲などもあって近未来のディストピアを予見させるようでもあります。本書は、そんな中国社会をどのように考えればよいのか? という問いに向き合ったものです。
本書は現在の中国の状況を教えてくれるとともに、中国で進行していることが中国という特殊な政治体制にのみ当てはまるものではなく、日本をはじめとする他の国々でもあり得るものだということを明らかにしています。と同時に、終章でとり上げられている新疆ウイグル自治区はまさに情報技術が暴走してしまっているケースでもあり、中国の実情を知るためだけではなく、今後の情報化社会を考えていく上でも重要な本でしょう。

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石原俊『硫黄島』(中公新書)



沖縄に関して、よく「日本で唯一地上戦が行われた」と言われます。もちろん、少し考えてみればこの本の舞台となる硫黄島も内地なのでこの表現は誤りなのですが、硫黄島の場合はそこに住民がいなかった印象があるので、スルーされてしまうのでしょう。
しかし、硫黄島にも住民はいましたし、そこには社会がありました。硫黄島に住民がいなかったという印象は、戦後、住民が帰島を許されずに軍事基地化したことから、いつの間にか出来上がったものなのかもしれません。
この本は、戦前の硫黄島社会を再現しつつ、実は住民の一部も巻き込まれていた地上戦、戦後の「難民化」、そして硫黄島への帰島が政府によって封じられていくまでを、元島民の証言や史料から描き出しています。
今まで歴史の盲点となっていた部分に光を当てた貴重な仕事であり、非常に読み応えがあります。平岡昭利『アホウドリを追った日本人』(岩波新書)が面白かった人には前半部分を中心に面白く読めるでしょうし、戦後補償の問題などに興味がある人にとっては後半の内容は必読と言うべきものでしょう。

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大木毅『独ソ戦』(岩波新書) 9点



独ソ戦こそが第2次世界対戦の帰趨を決めたという考えは広く共有されつつありますが、同時に独ソ戦に関してはよく「歴史のif」が語られます。例えば、「ドイツが冬季の作戦にもっと慎重だったら...」とか「ヒトラーが作戦に介入しなければ...」といったような事が言われ、「第二次世界大戦においてドイツの勝った世界」という想像を刺激されるのです。
ところが、本書を読むと、ドイツにとって対ソ戦はヒトラーのきまぐれではなく必然であることがわかりますし、ドイツ敗北の理由も、ヒトラーの介入や冬の厳しさといった部分ではなく、もっと根本的なところにあることが見えてきます。
作戦次元の解説も行いながら、「通常戦争」「収奪戦争」「世界観戦争」という3つの性格の重なりとして独ソ戦全体の姿を描き出し、「質のドイツ軍」VS「量のソ連軍」といった形で理解されがちな独ソ戦のイメージを塗り替え、さらには独ソ戦で行われた蛮行の背景を説明することにも成功しています。

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次点は通史の傑作ともいうべき小笠原弘幸『オスマン帝国』(中公新書)、良質の経済学エッセイでもあり行動経済学の入門書としても機能する大竹文雄『行動経済学の使い方』(岩波新書)、移民受け入れにかじを切った日本の現状と問題点を明らかにしたまさにタイムリーな本である望月優大『ふたつの日本』(講談社現代新書)、新書とは思えない緻密な議論で日本の教育における格差の問題を示した松岡亮二『教育格差』(ちくま新書)、歴代最長政権となった安倍政権を支える自公連立を分析した中北浩爾『自公政権とは何か』(ちくま新書)といったところになります。


『応仁の乱』のヒット以降、どこも歴史ものには力を入れている印象ですが、やはりこの分野では中公の強さを感じます。坂井孝一『承久の乱』、元木泰雄『源頼朝』といった本も『応仁の乱』以前から企画は進行していたようで今までの積み重ねが為せる業でしょう。ちなみに個人的には内藤一成『三条実美』が企画としても内容としても面白かったと思います。
あと、もはや新書の範疇を超えたボリュームと読み応えだったのが小熊英二『日本社会のしくみ』。600ページ超えで、しかも中身が「日本的雇用の形成と展開」ともいうべきマニアックな内容でした。別のフォーマットで出すべきではないかという声もあるでしょうが新書だからこそこのような本が広く流通したという面もあるわけで、何でもありの新書の可能性を感じさせてくれた本だったと言えるかもしれません(これは松岡亮二『教育格差』にも言える)。

この他にも面白そうだと思いつつも手が回らなかったものもいくつかありますが、少なくとも来年も週1冊くらいのペースを守りつつ、新書を読んでいきたいと思っています。
似たタイトルの中公新書に岡本隆司『中国の論理』という本がありますが、あちらが中国の歴史と思想から中国の行動様式を読み解こうとした本であるのに対して、こちらは副題が「国内潮流が決める国際関係」とあるように、国内の社会のしくみとそれを反映した政治のしくみが、いかに外交に現れているかということ明らかにしようとした本になります。
著者は国際関係論や中国の対外政策の研究者ですが、本書ではエマニュエル・トッドの家族類型の分類の枠組みなどを用いながら、かなり思い切った議論を展開しています。そのため、第5章と第6章の事例分析はあるものの(第6章の国家海洋局に関する分析は面白い)、中国の外交を事細かに説明しているわけではありません。ただし、思い切った議論であるぶん、非常に刺激的な内容でもあり、少なくとも「独裁国家としてリアリズムに基づいた一枚岩の外交を行なう中国」のようなイメージは覆されるのではないでしょうか。

目次は以下の通り。
序章 国内力学が決める対外行動―中国共産党の統治
第1章 現代中国の世界観―強調され続ける脅威
第2章 中国人を規定する伝統的家族観
第3章 対外関係の波動―建国から毛沢東の死まで
第4章 政経分離というキメラ―トウ小平から習近平へ
第5章 先走る地方政府―広西チワン族自治区の21世紀
第6章 海洋問題はなぜ噴出したか―国家海洋局の盛衰
終章 習近平とその後の中国

日本から近年の中国の対外行動を見ていると、2010年の尖閣諸島沖での漁船衝突事件、暴力的な反日デモなどの影響もあって、かなり侵略的・膨張主義的に感じると思います。ところが、表向きは中国は「平和」を訴えていますし、中国国民の多くは「中国は平和的な国」だと主張します。本書ではこのギャップを読み解こうとしています。

まず、考えらるのが中国は徹底的なリアリズムで動いていて、平和を唱えるのは口先だけのポーズだという考えです。1970年代はじめの米中接近などは、この徹底的なリアリズムで読み解くことができるでしょう。
ただし、このリアリズムだけでは反日デモのような国民の対外政策への追随を説明できません。なぜ、中国社会では外交的な駆け引きが社会全体のうねりを引き起こすのでしょうか?

リアリズム以外で中国外交を説明するものとしては伝統的な中華思想があります。中国が世界一の大国を目指すのはそれが中国のあるべき姿だからだというのです。
ただし、中国の行動原理が単純な膨張主義だとは言えません、中国は陸上国境を接する14カ国中12カ国と話し合いで国境問題を解決していますが、係争地域の半分以上を相手国に譲っています(25p)。中国は近代主権国家体制を受け入れているのです。
ただし、中国の行動は近隣諸国に対して厳しいという傾向はあります。ダライ・ラマは世界中を外遊していますが、それが理由で厳しい制裁を課されたのはモンゴルだけでした(26p)。近隣諸国の主体性を認めないという点は中華思想の名残なのかもしれません。

またリアリズムは1つの柱なのですが、そのリアリズムは欧米諸国に比べると人間臭く、善悪の判断がつきまといます。そしてそれは被害者意識と陰謀論的な見方を伴っています。
野田政権の尖閣国有化は石原都知事の購入計画への対処でしたが、中国では最初から石原都知事と野田首相がグルになって行ったという見方が広まっていましたし、最近では香港デモの背後にアメリカがいるという見方が根強くあります。
これには清朝末期の列強による中国進出の記憶も影響しており、外国勢力は中国を陥れるために行動していると考えがちです。
また共産党の支配を維持するには、共産党がよりよい社会に導くというイメージが必要です。社会主義経済を捨てた今、何らかの問題を国外に想定せざるを得ないという面もあり、常に外からの脅威が強調されるのです。

第2章ではこうした中国の行動原理をエマニュエル・トッドの家族形態論か明らかにしようとしています。
トッドの分類によると、中国は親子関係が権威主義的で兄弟の関係が平等な「共同体家族」にあたります(日本は親子関係が権威主義的で兄弟の関係が不平等な「権威主義家族」)。さらに近親婚の許容度について中国は厳しく、「外婚制共同体家族」に分類されます。
この外婚制共同体家族は、他にロシアやスロバキア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランド、イタリア中部、ベトナム、キューバ、インド北部などに見られる形態で、これらの地域は共産主義革命が成功した地域、または共産党が大きな勢力を持った地域でもあります(64p)。

中国では長子相続原則が続いていましたが、漢王朝が前127年に長子相続原則を廃止すると、7〜9世紀に兄弟を平等に扱うやり方が確立されたと見られています。中国において兄弟は結婚しても父のもとで暮らすことが多く、父親のもとで兄弟が連帯を求められました。
しかし、それぞれの妻は外部からやって来ることもあり、兄弟の間には緊張関係もありました。しかも、遺産が平等に分け与えられることはよいことのように見えますが、多くの場合、分与された土地だけでは狭すぎて、父の死とともに家族の共同体は崩壊したのです。
日本では長子相続が原則で、長子が相続した本家を弟たちの分家が支えるような構造になりやすく、「家」という共同体が長続きしますが、中国では父の死とともに崩壊することが多いです。
また、日本ではボトムアップの形で物事が決められますが、中国ではトップダウンで決まります。組織におけるヨコの連携は弱く、下の者は基本的にトップが割り振った仕事のみを行います。
そして中国の組織ではトップの寿命や考え方の変化によって波が生じます。下の者はこの潮流を読み、先回りして行動することも求められるのです。
ですから、組織は属人的要素に支配されやすく、トップが強ければ下の者はイエスマンになり、トップが弱ければ下の者は面従腹背となります。

中国の国家を考える場合、1つのポイントは党・軍・国(行政)の3つの組織系統が並列していることです。そしてこれらをトップが束ねています。党・軍・国のヨコの連携は基本的に弱く、特に軍と国の連携はほぼないといいます。また地方政府の自律性も強く、相当大きな裁量権が与えられてます。

第3章ではこうした考えを下敷きにしながら、建国から改革開放に至るまでの中国の対外政策が分析されています。
この時期の中国外交については米中接近に見られるように、中国が国益を中心に外交を組み立てていたという説明が一般的でしたが、朝鮮戦争参戦に見られるよな国益を度外視したような行動も行っており、イデオロギー的要素も無視できないといいます。
外交が党と国家の二重外交になっていたのも特徴で、例えば、ビルマ政府との平和共存を謳いながら反政府闘争を行なうビルマ共産党を支援するというような一貫性の欠けた行動も見られました。
1950年代半ば、中国は周恩来総理兼外相が「第三世界」を中心とした外交を展開しますが、50年代後半に中ソ関係が悪化すると、毛沢東が外交においても実権を握りソ連に対する批判を強めます(このときにソ連に赴いてソ連を激しく批判したのがトウ小平)。
この中ソ論争は文革への導火線ともなり、外交面でも「極左外交」と呼ばれる極端な外交を展開します。ところが、66年にソ連とウスリー島で武力衝突を起こしてから徐々に軌道修正を始め、アメリカとの外交関係を樹立することになるのです。

改革開放を進めたトウ小平は、当初はかなり強硬な共産主義者でしたが、文革で失脚したことが経済改革の道を選ばせました。同時に政治関しては共産党の一党独裁を守り抜くことを優先しており、それが現れたのが89年の第二次天安門事件です。
中国は経済改革のモデルとして日本を参考にし、特に大来佐武郎の影響が大きく、大来からは「中国の中央政府は運輸、通信、そして一部の基幹産業を集中管理して全体を統括しつつ、地方分権を実施して国民経済の積極性を喚起すべき」(146p)というアドバイスがなされたといいます。
改革が進むと、各省の地方政府間の競争が激しくなりました。党指導部は各省の経済成長率を評価するようになり、各省はこぞってインフラ整備を行うとともに、外資の導入に務めました。その中で独自の対外活動も行われていくことになります。

トウ小平の後、最高指導者は江沢民、胡錦濤、習近平と受け継がれていきます。
江沢民はあまり人気のない指導者でしたが、現在では努力すれば報われた時代として江沢民時代を懐かしむ声もあるそうです。胡錦濤の頃になると格差の拡大など社会の矛盾が表面化します。胡錦濤は穏健な改革派でしたが。それが弱腰と取られることもあり、対外関係においては一枚岩的な行動が取れませんでした。一方、習近平は腐敗撲滅などによって国内凝集力を高めることに成功しており、現在のところ強いリーダーとして君臨しています。

第5章と第6章では本書の考えを補強する事例が紹介されています。まず第5章は「先走る地方政府」と題し、広西チワン族自治区の動きが紹介されています。
チワン族は中国東南部からベトナムにかけて暮らす農耕民族で中国最大の少数民族でもあります。1958年に少数民族優遇の動きから広西省は広西チワン族自治区になるのですが、もともと貧しい地域出会ったことに加え、ベトナム戦争と中越戦争の影響で発展は遅れていました。2002年の時点で沿岸の省級行政区の最下位、全国で見ても貴州省、甘粛省に次ぐワースト3の貧しさでした(182p)。

ところが、この広西チワン族自治区の首都南寧は急速な発展を見せています。2003年に中国−ASEAN博覧会の永久開催地に指名されて以降、中国の対ASEAN窓口として成長したのです。
2002年にASEAN−中国自由貿易圏(ACFTA)の設立が合意されますが、当初、中国側の窓口になると考えられていたのは雲南省の昆明でした。
この不利な状況の中、広西政府は博覧会の会場としての大型会議場を博覧会の誘致決定前に建ててしまうという思い切った手に出ます(ただ、会議場の建設計画は以前から進んでいたことらしい(187−188p)。そして、この思い切った手で博覧会の誘致に成功するのです。

その後も、中央政府が合意した昆明−ハノイの「両廊一圏」を出し抜く形で、南寧−ハノイの「南友公路」を進めるなど(197p5−1参照)で、中央政府の一歩先を行く形でASEANとの協力を推進していきます。
この「独走」に対して中央政府はこれを追認し、さらに広西政府の動きを国家戦略の中に組み込んでいきます。この結果、広西チワン族自治区は高い経済成長を示すことになり、2011年には域内総生産成長率で全国1位(25.3%)となります。そして、劉奇葆、郭声琨といった人物が中央政府の高級幹部となりました。

さらにこの広西政府の構想は「一帯一路」にも影響を与えたと見ています。中国では中央政府(最高指導者)の意向や潮流を読むことが重要ですが、同時に中央政府が地方政府の動きを取り込むことがあります。
習近平政権は地方政府の独自の動きをほとんど評価しておらず、広西チワン族自治区のような「独走」はなくなりましたが、広西チワン族自治区は見事に流れを作り出し、それに乗ったと言えるでしょう。

第6章でとり上げられている国家海洋局も流れを作り出し、それに乗った機関ですが、同時にそれが理由で解体されています。この第6章は非常に興味深いです。中国の海洋進出は国家的な野心の現れだと見られることが多いですが、国家海洋局の「独走」という面が強かったというのが著者の分析です。

国家海洋局は1964年に国務院の直属機関として設立され、一度海軍の直接領導のもとに入った後、80年に海軍から自立した機関となりました。
94年に国連海洋法条約が国際発効し、96年には中国もこれを批准します。これを受けて、国家海洋局は自国の陸地領土の自然延長部分をすべて大陸棚と規定し、300万平方kmもの管轄海域を主張します。そしてその50%が他国との係争地域でした。
一方、この壮大な目標が政府内で共有されていたとは言えず、国家海洋局の地位は低いままでした。国家海洋局は96〜98年にかけて尖閣諸島の領海への侵入を試みていますが、98年の江沢民来日を機に2008年まで領海への侵入は止まります。これは指導部から抑止されたためと考えられます(235p)。

ところが、2001年に日本が北朝鮮工作船を撃沈した事件をきっかけに、国家海洋局は日本が中国の海洋権益を侵害したとして(不審船が沈没したのは中国のEEZだった)、海洋権益の保護をアピールし始めます。
2002年に最高指導者となった胡錦濤が「弱腰」と見られたこともあって、国家海洋局は中国の海洋権益擁護を前面に出し、周辺国に対して強硬な政策をとっていくことになります。そして、それとともに国家海洋局の装備は強化されていきます。07年にはパラセル諸島をめぐってベトナムの漁船の大量拿捕を行い、08年には尖閣諸島の日本領海に侵入するなど、強硬な姿勢を強めていくのです。尖閣への侵入が第1回日中韓サミットの5日前だったことを考えると、これは党中央の承認なき行動だったと可能性が高いです。

2013年には国家海洋局の中に中国海警局が新設されます。中国の海上法執行組織が統合され、国家海洋局はさらに大きな権限を手に入れたのです。
しかし、この頃から国家海洋局に対する中央の統制も強まります。中国海警局は公安部の業務指導を受けることとなり、公安部の関与が強まりました。
国家海洋局は北極海航路の開発などによってその存在をアピールしようとしますが、2016年に中国海警局の局長であった孟宏偉が中国人として始めて国際刑事機構(インターポール)の総裁となると、その後任は空席のままでした。さらに17年の末に孟宏偉の退任が正式に発表されると、中国海警局は武警とともに中央軍事委員会の指揮下に入ります。その後、孟宏偉は18年に所在不明のまま総裁辞任の辞表が出され、19年には収賄容疑で公職追放処分を受けました。
国家海洋局は4つの組織に分割され徹底的に解体されました。2016年の仲裁裁判判決で中国の「九段線」の主張が根本的ん否定されたことなどがきっかけで、国家海洋局の動きが問題視され、強烈な引き締めにあったのです。

終章では習近平とポスト習近平について簡単に考察されていますが、第6章の国家海洋局の話からもわかるように、習近平の引き締めによって中国の対外行動がある意味でわかりやすくなりました。胡錦濤政権とは違い、「中国は彼の治世下で安定し、突発的な行動は減り、外部からも「予測しやすくなった」(276p)のです。
しかし、米中貿易摩擦などで欧米との溝は深まっており、このままでは「権威主義的で貧しい国々の「盟主」に」(283p)なっていくことも考えられます。また、習近平という重しを失ったときにどうなるかということは今後の大きな問題でしょう。

このように本書は中国外交に内在するメカニズムを大胆に描こうとしています。トッドの家族形態論の是非や、それがどの程度、現代の中国社会に息づいているのかということに関しては判断ができませんが、後半の事例分析には「なるほど」と思わせるものがあり、面白いと思います。
文明論的な仮説と、精緻な分析が同居するユニークで刺激的な本と言えるでしょう。

岩波新書から刊行が始まった<シリーズ中国の歴史>全5巻の第1巻。副題は「唐代まで」となっています。
この副題を聞いて、「ずいぶん駆け足なんだな?」と思った人も多いでしょう。最初の1巻は漢代くらいまでを想定する人が多いでしょうし、隋唐で1冊くらいではないかと考える人も多いはずです。
その訳は本シリーズの構成を示した以下の画像をご覧ください。

[画像:20191216221621]
























この画像を見ればわかりますが、江南は別立てなのです。例えば、項羽は1ページで退場しています。
いわゆる中原と呼ばれる黄河中流域の政治と社会の動きを中心に、古代中国を一気に概観するというのが本書の内容です。英雄の活躍や皇帝のエピソードはほぼ省かれており(本書は安史の乱の開始までを描いていますが楊貴妃は出てこない)、かなり硬い内容となっていますが、「均田制」や「租庸調制」といった高校の世界史でも出てくる用語の再検討を求めるなど、今までの中国史の見直しをはかる野心的な通史になっています。

目次は以下の通り。
第一章 「中原」の形成――夏殷周三代
第二章 中国の形成――春秋・戦国
第三章 帝国の形成――秦漢帝国
第四章 中国の古典国制――王莽の世紀
第五章 分裂と再統合――魏晋南北朝
第六章 古典国制の再建――隋唐帝国

通史であるこの本を最初からまとめていくというのはなかなか難しいので、以下、この本の個性が現れていると思える面をあげていきたいと思います。

まずは華北における民族の多様性です。
本書の第1章では現代中国人のミトコンドリアDNAを見ると南部ほど多様性が高く、北部に行くほど小さくあるそうですが、一方、Y染色体の解析では東ヨーロッパ系の遺伝子グループも見つかっており、西からの民族集団の流入も想定されます。山東省臨淄の遺跡から出土した約2500年前の古人骨を調べると、現代ヨーロッパ人類集団と現代トルコ人集団の中間に位置するとの結果が出たそうです。孔子はこのころ斉の隣国の魯国で生まれましたが。著者は「憶測をたくましくすれば、特異な風貌をもっていたといわれる孔子も茶色の眼、もっといえば青い目をもっていた可能性がある」(7p)と述べています(さすがにかなりの「憶測」ですが)。
さらに第5章では、五胡十六国時代における諸種族が華北に進出する様子も描かれています。
漢末の混乱以降、華北の住民は大挙して東北部の遼東や江南へと移住しました。一方、これとい入れ替わるように華北に進出してきたのが匈奴・鮮卑・羯・氐・羌といった五胡と呼ばれる種族です。
後漢末から匈奴・羯といった種族はすでに山西省に住み始めており、西晋期には長安周辺の住民100万の半ばが羌族だったといいます(165−166p)。かなりダイナミックな人々の移動があったのです。

次に農村社会の変容とそれに伴う政治・軍事の再編成について力点が置かれている点です。
周の時代、戦いの主役は戦車でした。馬4頭が引く戦車に3人が乗り込み、1人が戦車を操縦し、2人が弓矢や矛などで攻撃しました。この戦士は支配者集団の世族の成員で、この戦車に数十人の非戦闘員が付属していました。
ところが、前6世紀末〜前五世紀初になると呉・越で独立歩兵部隊が誕生し、これが広がっていきます。そして百姓小農がこれを軍役として負担しました。

もともと百姓は爵位・領土を持つ百官を示す言葉でしたが、前5世紀までに庶民を指す言葉に変化していきます。
もともと中国では4つ前後の小家族が複合世帯を編成し、消費と生産の基本単位となっていましたが、前五世紀くらいになると、この小家族が自立し、生産と消費を行なう家を形成するようになります。
この時代に華北では、木製農具の先に鉄をつけたものが普及し、畝を立てて種を条播きすることがなくなります。施肥も容易になり、耕作地を毎年取り替える必要も少なくなってきます。そこで、毎年同じ場所を小家族で耕作していくスタイルが一般化したのです。

これに対応したのが秦における商鞅の変法です。秦は後発の諸侯国で、夷狄同様の扱いを受けていましたが、商鞅の改革を通じて、戸籍によって小農民を把握し、彼らを等級制の爵位を持つ国家の成員へと編成し、軍役・徭役・租税を負担させました。そして、これが秦を強国へと押し上げたのです。
商鞅はまた、五家・一〇家ごとに相互に犯罪を監視する仕組みもつくりました。これについて著者は「この什伍制による相互監視のしくみは、血縁的系譜による社会統合からぬけでようとする小農社会にあって、小農世帯相互の分断をもたらした」(65p)と述べていますが、同じような五人組のしくみをもった江戸時代において、そのような効果がなかったことを考えると、経路依存的なものも見えてきて興味深く感じました。

この小農社会が危機にひんしていたのが紀元前後のころで、ちょうど王莽が登場した頃でした。
このころ「均田制」が崩壊し始めていました。後でも述べますが、ここでいう「均田制」とは世界史に教科書に載っている「均田制」ではなく、それぞれの爵位に応じた田畑の保有の仕組みです。
漢初の頃、すでに農民の階層分化は進行しており、大家、中家・中産、貧家の3つの階層に分かれていました(122p)。これが武帝期になると度重なる対外戦役などによって中産層が没落していきます。土地の売買がさかんになり、国王・列侯や高級官僚・富豪層による土地の集積が進むのです。
「均田」の「均」とはたんに平等というものではなく、位に応じた公正な配分であり、この公正さが紀元前後に崩れていくことになるのです。

2003年に河南省内黄県南部で発見された住居遺跡は、後11年の黄河決壊による水害で水没したものと考えられていますが、そこでは農家は密集しておらず25〜500メートルの距離をおく散村の形態でした(153p)。耕地のなかに小家族の住居が点在し、大農法経営が営まれていたと考えられるのです。
こうした中で中産層は、こうした大農法を行なう農家へと上昇するか、貧家へと没落していったと考えられます。
3世紀後半の西晋の時代になると、男女の夫婦に100畝=1項の田土を基準として設定し、九品九等級の官人身分に応じて土地保有限度を認める占田制が定められます。これは「均田制」の再建の試みと言えるでしょう。

いわゆる教科書に載っている「均田制」が行われるのは北魏の時代になります。このときの夫婦二人の基礎的給田は60畝で、西晋の時代よりも減っていますが、これは土壌の表層に堅く緊密な層をつくって水分の蒸発を防ぐ華北乾地農法が成立し、より高度な土地生産性を実現するようになったからだと考えられます(176−177p)。
北魏の「均田制」は農民たちに同じ広さの田畑が給付されたように考えがちですが、奴婢や丁牛にも給田が行われており(180p表10参照)、多くの奴婢と牛を所有する富豪層の家であれば、相当な広さの土地を経営していたはずです。
そして、この北魏の制度が隋や唐へと受け継がれていきました。

3つ目にあげたいのが王莽の再評価です。王莽というと儒教に傾倒するあまりに周の制度の復活を狙った時代錯誤な人間というイメージでしたが、本書では第四章の副題が「王莽の世紀」となっているように、中国の古典国制を形成した人物して重点的にとり上げられています。
王莽は法吏の家に生まれましたが礼楽に励む儒家へと転身し、平帝のもとで大司馬として政務を掌握しました。この平帝のもとで行政機構や地方制度が整備されるとともに、祭儀や礼楽制度も整えられました。
そして、民衆には自治能力がないから天から天子への政治の委任が行われたのだという政治イデオロギーが確立していきます。もし、天子が天からの委任を果たせないのであれば代わりの人間が天子の地位につくべきだという考えも生まれ、その考えを王莽が実践し、王莽は皇帝となり、新を建国しました。
王莽の経済政策は現実と合わず、社会は混乱して王莽は殺害されます。この後、劉秀が光武帝として即位し、後漢が始まるわけですが、この後漢は王莽が前漢末までに成し遂げた国制改革を受け継ぐ形で出来上がっており、儒家的な祭祀・礼楽・官僚制度も引き継がれました。この骨格は清朝まで引き継がれていきます(131p)。

4つ目は、皇帝号と可汗(カーン)号の併用についてです。
よく清朝の特徴として説明される皇帝号と可汗(カーン)号の併用ですが、これは北魏のころにすでに始まっていると考えられます。北魏をつくることになる鮮卑拓跋部の王権は当初から可汗を称しており、北魏成立後も天子号の他に鮮卑族をはじめとする諸種族には可汗号を使用していた可能性があります(169−170p)。
さらに唐の太宗は北方諸族から「天可汗」の称号を贈られており、中国では「皇帝(天子)」、北の遊牧民からは「可汗」として君臨したのです。

最後にあげるのが、最初にも少し述べましたが、今まで使われていた歴史用語の見直しです。
「均田制」については2つ目の特徴のところで述べたとおり、著者は「均田制」=「平等な給田」という考えを否定しています。唐の特徴とされる「均田制」、「租庸調制」、「府兵制」の言葉は北宋の司馬光や欧陽脩が用いた表現であり、唐の時代にはほとんど使われていませんでした(はじめにxi p)。
「租庸調制」について、著者は「賦役制」もしくは「租調役制」というべきだとしています(216p)。庸は正役20日の代替として絹を納めることですが、唐の時代に代納が基本だったとする史料はなく、多くの者は物資の輸送などの労役を負担していたと考えられるのです。
また、唐の軍制は府兵制のみだとされてきましたが、『大唐六典』を見れば府兵制による中央軍制の他に、防人制の地方軍制と二本立てになっており(211p)、節度使の設置は府兵制の崩壊からではなく、この防人制の変化から見るべきものだとしています。
府兵制に関しては、則天武后のころから庶民百姓の逃亡現象によって崩壊の兆しが見られるようになります。この結果、府兵制は募兵制へと変化していき、8世紀なかばに府兵制は終わります。
一方、防人制については当初は1年交替でしたが、8世紀前半に4年交替、さらに6年交替となります。こうなるともはや一般の農民に担える軍役ではありません。この防人制から逃れるためにも百姓の逃散は進み、防人制も募兵制化していきます。737年には兵士は召募による職業兵士・長征健児制に切り替えられ、律令制の軍役は解体されるのです。長期的に見ると、「ここに商鞅変法を淵源する「耕戦の士」は最終的に解体し、」宋代軍制にまで継承される兵農分業が成立した」(220p)でのです。

このようにシリーズの通史ものでありながら、かなり刺激的な議論がなされていることがわかると思います。最初に述べたように、本書は一般的な見方とはやや違った時代の切り取り方をしていますが、これも成功していると思います。周から唐までの農村の変貌と政治制度の変革を一気に見ることで、中国社会の変化のダイナミズムが見えてきました。
また、最後に述べた用語の見直しに代表される唐の制度の記述は、日本史を教えることが多い自分にも非常に勉強になりました。
というわけで個人的にはお薦めしたい本ですが、抽象化された歴史に対して興味を持てる人向きの本ではあると思います。制度を理解させるため以外のエピソードについてはほぼ削られており、英雄の活躍を読みたい人にとっては無味乾燥な本に映るかもしれません。
ただ、中国社会をより深く知りたい人、あるいはある程度抽象化された歴史をつかむ必要のある人(例えば、高校で世界史や日本史を教えている教員など)にはお薦めできる本です。

ちなみに、英雄の出てこない中国史の通史というと、岸本美緒『中国の歴史』(ちくま学芸文庫)があります。こちらのほうが手軽に読めます。

今年始まった「仮面ライダーゼロワン」のテーマがAIであることからもわかるように、「AIが世界を変える」というのは人口に膾炙する話となっていますが、では、実際に社会はどのように変わるのでしょうか?
AI以外にもさまざまな情報技術の発達と相まって、「第4次産業革命」とか「ソサエティ5.0」などの言葉が飛び交い、世界の姿が一変するようにも言われますが、同時に「出先からスマホでエアコンを動かすこと」や「スマートスピーカーに洗剤が切れたと話しかけると洗剤が届くこと」のどこに世界の変化があるのか? と思うこともあります。
本書は今後起こりうる世界の変化を「法」の観点から見ています。「法」と聞くと身構える人も多いでしょうが、「法」という固定された観点から見ることで、今起きている、そしてこれから起こる変化をかえってわかりやすく捉えることができています。
AIの時代の特徴を、「モノ(の取引)からサービス(の取引)へ」、「財物からデータへ」、「法/契約からコードへ」という3つの変化に見ながら、それが法と社会にどのような変化をもたらすのかを検討しています。
このように書くと少し難しい本に思えるかもしれませんが、さまざまな事例とその倫理的な問題がとり上げられているので、単純にAIや情報技術の発展が社会をどのように変えて、どんな問題をもたらすのかということを知りたい人にもお薦めできますし、当然ながら社会の変化が法をどのように変えていくのかに興味がある人にもお薦めできます。

目次は以下の通り。
第1章 デジタル技術に揺らぐ法
第2章 AIとシェアリング・エコノミー――利用者と消費者の間
第3章 情報法の時代――「新時代の石油」をめぐって
第4章 法と契約と技術――何が個人を守るのか
第5章 国家権力対プラットフォーム
第6章 法の前提と限界

テクノロジーは新たな可能性を生み出しますが、同時にその可能性の拡大は既存の法との間に問題を引き起こします。
例えば、自動運転技術が発展すれば運転手は必要なくなり、客だけを乗せたバスやタクシーが出現するかもしれません。これによってバスなどの運転手不足は解消されるかもしれませんが、現在の道路交通法では「車両の運転者」がいることが前提になっており、さらにこのことは国際条約(ジュネーブ道路交通条約)にも規定されています。

さらに自動運転は法的な責任問題をどう考えるかという問題ももたらします。「5人を犠牲にするか? 1人を犠牲にするか?」というトロッコ問題のような状況に陥ったとき、功利主義の考えでは「1人を犠牲にする」という選択肢を選べばいいかもしれませんが、現実にはそうはならないでしょう。
被害者の弁護士は、止まれなかった責任や、そのような状況に至ってしまった責任を問おうとするはずです。その責任追求はメーカーや管理者、あるいは警察や行政に向けられるかもしれません。このときに法は、技術の進歩がもたらす社会の変化に対応していく必要があります。例えば、鉄道や航空機が登場した際、事故においては過失の有無に関わらずに運用者が責任を負うという危険責任制度がドイツなどで導入されました。

第2章では、まずシェアリング・エコノミーを中心に扱っています。
音楽や本の世界では現物に代わって配信が大きく伸び、さらに音楽ではサブスクリプションという一定の金額を払えば聴き放題というサービスが急成長しています。いずれ車などもマイカーを所有するのではなく、必要なときに自動運転の車をレンタルするという形が主流になるのかもしれません。
しかし、こうした取引が主流になると法にとっては困ったことになるかもしれません。契約の代表例が売買契約であり、これは目的物を引き渡すことによって完了します。ところが、配信サービスの場合、配信者は著作物の利用を認めるだけであり、何か実体を引き渡しているわけではありません。そこで、配信サービスが終了すると買ったはずの本が読めなくなるという問題も実際に起っています。
さらにサブスクリプション型のサービスが広まると、取引がいつ行われたのかということも問題になります。例えば製造物責任の問題では、モノの場合、商品の引き渡し時点を基準時として、製造業者は欠陥のない製造物を引き渡さなければなりません。日本の法律ではソフトウェアは製造物ではないですが、それを組み込んだ製品は製造物にあたります。
しかし、製造物の引き渡し時に全くバグのないプログラムというものは想定しにくく、欠陥が見つかるたびにアップデートするのがソフトウェアの世界では主流となっています。ユーザーにとっては引き渡し時の欠陥の有無よりも、むしろ不具合に対する適切でタイムリーな対応が求められるのです。

この責任の問題はAIによる判断においても起こりえます。例えば、検査画像のデータから自動的に病名を判断するAIにおいて、病気を見逃す可能性、健康な人を病気と判断してしまう可能性の両方が考えられ、特に前者のミスは深刻です。
ここで人間がダブルチェックを行なうというのが1つの解決方法ですが。それではAIの持つ迅速性というメリットが失われてしまいます。

また、ネットを介した取引やシェアリング・エコノミーにおいてはプラットフォームを提供する事業者の役割が重要になります。
例えば、ヤフーオークションをめぐる裁判では、オークションサイトの運営者は個別の取引に当事者として関与しているわけではないが、」「利用者に対して、欠陥のないシステムを構築して本件サービスを提供する義務」は負っていると判断されました(62p)。具体的には詐欺犯に注意するように呼びかけることなどの義務が課され、現在の事業者はこれに従っています。しかし、場合によっては犯罪の可能性について注意喚起する程度では済まないかもしれません。
実際、クレジットカードについて定めている割賦販売法では加盟店審査についてかなり幅広い義務が課されています。例えば、自動運転車をサービス提供するプラットフォームが現れた場合、こうした特別な義務を課すことも考えられるでしょう。

第3章では、まずプライバシーの問題が扱われています。日本におけるプライバシーの権利は「宴のあと」事件に見られるように、「知られたくないものを公開されない」権利として確立されました。
しかし、このプライバシー概念では近年の問題を適切に捉えられなくなっています。例えば、2017年に警察が無断でGPS追跡装置を取り付けたことが違法とされた判決がありましたが、車が走行している様子はある意味で「公開」されているものであり、従来のプライバシー概念では適切に捉えられません。
また、AIの得意技にいくつかの断片的な情報からその人の欲しい物を探り当てることがありますが、これもプライバシーの侵害になるケースも考えられますが(隠していた妊娠を明るみしてしまったケースがアメリカであった(77−78p))、これも使われているのはあくまでも公開の情報です。

またITの発達によって集められた情報に関してはプライバシーの問題以外にも、「誰のものか」という問題があります。「新時代の石油」とも呼ばれるデータから生み出される利益は一体誰に帰属するのかということが問題になるのです。2013年に持ち上がったSuicaの乗降履歴の販売問題については、プライバシーの問題もさることながら、個人の行為によって蓄積された情報から得られる利益を企業が独占していいのかという問題もあったと著者は見ています。
そこでEUでは2018年に施行された一般データ保護規則(GDPR)において、個人を「データ主体」と位置づけ、個人データが収集されたことについて情報提供を受ける権利、自分の個人データにアクセスできる権利、不正確な個人データの訂正を求める権利などを認めました。さらには個人データを「一般的で読み出し可能なフォーマット」で受け取る権利も定めています。
これは現代の「資源ナショナリズム」とも言えそうな動きですが、問題は個人がデータから生み出された利益の分配を受けるとしても、個々人が受け取る経済的利益は微々たるものにしかならないという点です。将来的には個人情報の信託を受け、条件に合致する業者に提供する「情報銀行」のような仕組みが広がるかもしれません。

また、スマートスピーカーなどの普及は家族のプライバシーという問題も呼び起こします。買った本人が個人情報の提供に同意していたとしても、スマートスピーカーがリビングに置かれている場合、他の家族のプライバシーが筒抜けになる可能性があります。これはスマートテレビの視聴履歴などでも問題になりますが、現実問題として家族全員の同意を取ることは難しいでしょう。
このように大きなパワーを持つようになったデータですが、データベース自体は知的財産権で保護されるわけではありません。データベース自体は独創性がないために著作権法の保護対象にはなりませんし、発明というわけでものないので特許権も適用されないからです。
こうした状況の中、EUでは1996年にデータベース権という制度を導入し、データベース産業の育成をねらいました。ところが、現在のところこの政策はうまくいっていません。EU域内から世界的なプラットフォーム企業は育っていないのです。
これはデータに対して独占的支配権を与えるという知的財産権の枠組みが「強すぎて」産業がうまく育たなかったとも考えられます。強すぎる権利はデータの流通を阻害するというジレンマがあるのです。

第4章では「法/契約からコードへ」という問題がとり上げられています。
AIが現実社会で大きな役割を果たすようになる中で、日本では「AI利用活用原則」が、EUでは「信頼されるAIのための倫理ガイドライン」がつくられていますし、アメリカでは民間団体を中心に「アシマロ原則」が採択されています。
これらのものは法ではなく、原則やガイドラインという形をとっています。これはAIがまだまだ進化する分野だからということでしょうし、そして、法がなくても技術で禁止してしまえば問題ないという考えも背景にあるのでしょう。
ローレンス・レッシグは90年代の終りに「コードが法に代わる(Code is law.)」(129p)と言いましたが、まさにそうなりつつあります。例えば、DVDでは著作権法とは別にコピーワンスの技術が導入され、複製に制限がかけられました(のちに政府も介入し「ダビング10」の規格が採用された)。

「コードが法に代わる」という動きは、仮想通貨の世界でも観察できます。2016年にTha DAOがハッキングされ、イーサリアムというプラットフォームをベースにした「DAOトークン」という投資の対象物が流出してしまいました。これに対してイーサリアムはさかのぼってハードフォーク(新しいブロックチェーンの分岐をつくりだすこと)を行い、流出したトークンを使用不可能にしました。
The DAOの関係者はこの解決方法に関して、「われわれのコミュニティにはわれわれの裁判所がある」(144p)と叫んだと言いますが、これなどは法や司法を無視してコードが問題を「解決」してしまった一例と言えるでしょう。
このようにコード(アーキテクチャ)でが物事を決めていくようになると、個人を自律的な主体とみなす法のタテマエとの齟齬が生じるかもしれません。アメリカの法学者のサンスティーンは「タテマエはタテマエにすぎず、人間は、自律的な判断にもとづく選択などしてはいないという現実を直視すべきである」(151p)と主張するわけですが、この考えには抵抗もあるでしょう。

またAIによる選別がさかんになれば、AIの学習するデータからもたらされるバイアスが差別を生む可能性もあります。例えば、人種によって所得が違うような社会ではAIによるローンの審査で特定の人種がはねられてしまうかもしれません。もちろん、人種や性別を直接の指標とすることは避けるプログラムが組まれるでしょうが、例えば特定の人種が集住している地域では住所によってそうした差別が行われる可能性もあります。
さらに中国で行われているような信用スコアリングがさらに進化していけば、人々の行動がスコアリングの基準(コード)によって規定されていくかもしれません。

第5章では「国家権力対プラットフォーム」と題し、国家がうまく管理できない問題を取り扱っています。
まず思い浮かぶのが仮想通貨です。通貨の発行権は国家が独占していたものですが、仮想通貨はこれに風穴を開けました。ただし、現在のところ仮想通貨は投機の対象という面も強く、「通貨」というよりは「資産」として起立するほうが良いという見方が広がっています(170p)。
スマホの決済にしても基本的には銀行口座を利用したものが主流で、通貨がなくなるわけではないですが、政府の発行する紙幣や硬貨がスマホ上のプラットフォームの提供するアプリに置き換わるインパクトは大きいかもしれません。
EUは2019年4月に著作権法ディレクティブを制定していますが、そこには大規模なプラットフォームに、著作権を侵害するコンテンツを発見し削除する仕組みを導入するよう義務付けています。これについて著者は「プラットフォームが、国家をしのぐほどに大きい力を持ったのであれば、権利の保護についても責任を持つべきだと、EUは考えたのではないだろうか」と理由の一端を推測しています。
今まで、プラットフォームは著作権侵害について指摘を受ければ削除をするという「ノーティス・アンド・テイクダウン」ルールが基本となっていましたが、今後は権利保護のためにプラットフォームも責任を分担すべきだという議論が強まるかもしれません。

このように国家がプラットフォームを規制して個人の権利を守るというのは1つの方向性になりそうですが、もともとプライバシーは個人の私生活を国家の侵害から守るという立場であったはずです。
プラットフォームの規制は必要かもしれませんが、中国では政府が信用スコアの活用に乗り出しており(実態を見るとまだまだな面が強い、梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書)参照)、プラットフォームだけを規制していればプライバシーが守られるというものでもありません。プラットフォーム規制が、国家による個人の監視・抑圧に転化する可能性にも警戒していく必要があります。
この章では「法からコードへ」と変化したときの問題点も指摘しています。アメリカの大学ではコンピュータ・サイエンス専攻の学生にスピード違反を取り締まるプログラムを書かせる実験が行われました。第1グループは法の文言通りプログラムを書くように指示され、第2グループは法の趣旨を考えて書くように指示され、第3グループには詳細な指示が与えられました。
第1グループでは1キロでも制限を超えたら切符を切るプログラムを書いてくる学生が多かったですが、第2グループでは一定の超過(かなりバラツキはある)を許容するものがおおかったそうです。そして第3グループでは速度ごとに超過の範囲を調整するような指示が出されていたので、それに従ったプログラムが書かれました。
この結果を見ると、スピード違反という一見するとあまり裁量のない取締りでも、かなり現場の判断に依存した取締りが行われていることがうかがえます。制限速度に応じて超過しても良い速度が変化するというのは常識的な判断ですが、それが法律に書き込まれることはありません。
ロボットが取締りを行う場合、この現場の裁量がプログラマーの裁量となるわけですが、人々はプログラマーが大きな裁量を持つことには違和感を覚えるでしょう。しかし、どこかで裁量を認めなければ、法の運用は硬直化します。
第6章ではこれからの展望を述べていますが、まず、著者は「法」と「法律」を区別します。「法律」は国会が制定するルールであり、一定の制定手続きがあればそれは法律として成立しますが、「法」とは一般的な社会の仕組みを前提としたもので、現在の「法」体系はヨーロッパ社会の経験を前提にしているといいます。
日本は明治期にその法体系をヨーロッパから輸入したわけですが、だからこそ日本の社会とはフィットしない部分もあり、実務家にとって「サイズの合わない既製服のようなもの」(208p)と評されることもありました。
しかし、だからこそ今までの「法」の前提が崩れる中で、日本こそが新しい社会に適合した「法」の形を模索していく上で、好都合なポジションにいるかもしれないと著者は考えています。

このように本書には豊富なトピックを「法」の観点から切り取ることによって、AIと情報技術がもたらす社会の変化を鮮やかに取り出しています。この「法」という視点から、細かい技術的な規制から大きな倫理まで射程に入れた議論を行っている内容は非常に刺激的で、必ずしも法学に興味がない人でも面白く読めるでしょうし、AIと情報技術が社会にもたらす変化と問題を考える上での最初の1冊ともなりえます。
情報量、問題意識、読みやすさ、いずれの観点からも評価できる本で広くお薦めできる本です。




室町期に徳政令が望まれ、そして嫌われていくさまを描いた『徳政令』(講談社現代新書)の著者が、つづいて送り出したのは来年の大河ドラマの主人公でもある明智光秀の本。大河ドラマに合わせて主人公周辺の新書が出るのは毎度のことなのですが、この本に関しては著者とテーマの組み合わせは意外に思えました。
あとがきによると、著者は藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成』のもととなった研究で足利義昭・細川藤孝・明智光秀の3人を担当しており、光秀について研究していたことがあるとのことですが、いわゆる戦国大名を中心に研究している人とは少し違った史料に注目しており、それが本書のオリジナリティになっていると思います。
光秀といえば何といっても本能寺の変と裏切りの理由が注目されますが、本書ではいくつかの状況証拠を提出するだけで、謀反の直接の原因を探る内容にはなっていません。そこに不満を覚える人もいるかもしれませんが、この本で提出されている状況証拠はなかなか興味深いものです。

目次は以下の通り。
序章 新時代の子供たち
第1部 明智光秀の原点
第1章 足利義昭の足軽衆となる
第2章 称念寺門前の牢人医師
第3章 行政官として頭角を現す
第4章 延暦寺焼き討ちと阪本城
第2部 文官から武官へ
第5章 織田家中における活躍
第6章 信長の推挙で惟任日向守へ
第7章 丹波攻めでの挫折
第8章 興福寺僧が見た光秀
第3部 謀反人への道
第9章 丹波制圧で期待に応える
第10章 領国統治レースの実態
第11章 本能寺の変へ
終章 明智光秀と豊臣秀吉

まず、最初に本書に書かれているのは明智光秀は医者だったらしいということです。
著者は、光秀が京都代官を務めていた時期に施薬院(やくいん)全宗という医者の家で執務も行っていることに注目し二人はかねてからの知り合いだったのだろうと推測しています。さらに光秀が沼田清長に『針薬方』の口伝を与えたという史料から、光秀に医術の心得があったと見ています。
光秀の医術の心得は専門家と呼べるほどのものではなく、医師として活躍していたというほどのものではないと考えられますが、牢人時代の生計を支えるものだったのでしょう。

光秀は美濃土岐一家の牢人で、朝倉義景を頼り越前の長崎称念寺の門前で10年間暮らしていたといいます。このときに光秀の生計を支えたのが医術だったのでしょう。17世紀頃まで牢人あがりが村の医師となっており、光秀も牢人として近隣の村の医師代わりだったのかもしれません。
ちなみに光秀の生年に関しては、1528年説と1516年説がありますが、著者は織田軍の激務の中での活躍を考えると1528年説が妥当ではないかと見ています(そうすると享年は55歳)。

光秀はまず足利義昭に仕えますが、史料によると、永禄9(1566)年8月から10月の間に義昭方として対三好戦の高嶋田中城詰に参加し、永禄11(1568)年4月に一乗谷で義昭が元服した前後に行われた家臣団整備の際に足軽衆として正式に編入されています(42p)。
永禄11年の9月に義昭とともに信長が入京しますが、かなりばたばたした部分もあったようで、山城国賀茂郷の侍たちが差し出した「請状」=誓約書を紛失するという失態を犯しています。
この後始末を行ったのが信長配下の木下秀吉と義昭の配下の光秀でした。このころは両者とも地位は低く、面倒な仕事を押し付けられたというわけです。
なお、元亀元(1570)年に義昭から山城下久世荘(年貢高60石程度)の一職支配を認められていることが確認できます。

この後、信長は浅井長政の裏切りにあって苦境に陥ります。人材不足も深刻化し、その中で光秀は大津の宇佐山城の城主となっています。
さらに元亀2(1571)年に行われた比叡山焼き討ちにおいて光秀は活躍したようで、滋賀郡全体を与えられています。このとき光秀は抵抗する敵は「なてきり」にするという書状を出しており、実際にそのようなことを行ったのでしょう。
さらに光秀には比叡山の関係者が京都に持っていた所領も与えられたようで、廬山寺、青蓮院、妙法院、曼殊院門跡領が光秀から押領を受けていると朝廷に訴えています。このことについて光秀は義昭から叱責を受けていますが、義昭から与えられた所領に比べると、光秀が信長から与えられた所領は遥かに大きいものでした。元亀3年には光秀は坂本城を築城しています。

天正元(1573)年に義昭と信長が離間すると、光秀はいち早く信長方につきます。義昭の蜂起はあっけなく鎮圧され、義昭は蟄居を命じられます。光秀は名実ともに織田家の家臣となりました。
この年の12月には、光秀は村井貞勝とともに京都代官としての執務を行い始めます。それと同時に武田勝頼の美濃攻めの対応や石山本願寺都の戦いのために摂津・河内に出陣するなど、武官としての務めも果たしています。
京都代官の職務は村井貞勝と共同で行われており、この時期の署名は光秀と貞勝の連署となっています。
天正2年になると、信長は拡大した領国間を素早く移動するために大規模な道路工事を始めます。この道路整備は移動の安全性を高めると同時に、今までの荘園制のしくみを無視した人夫の動員が行われており、荘園領主の権限を弱体化させる効果も持ちました。
ちなみに室町幕府の官僚機構を支えたのが伊勢氏ですが、光秀は伊勢氏の家臣団を吸収し、京都の市政にあたりました。

天正3(1575)年5月、信長は長篠の戦いで武田勝頼の軍を破ります。光秀は島津家久の一行の接待を行った後、この戦いに加わったようです。
7月に光秀は惟任へ改姓し日向守に任官し、惟任日向守光秀となります。10月には光秀を大将とした丹波攻めが始まっており、光秀は信長のもとで一軍の将となりました。そして、京都代官は村井貞勝が単独で務めることになります。

ところが、この丹波攻めは天正4(1576)年の波多野秀治の裏切りによって挫折します。光秀は一時期体調を崩したようですが、その後、新たな拠点として亀山城を築城するとともに、本願寺攻めや雑賀攻め、さらには松永久秀の信貴山城攻めにも加わっています。
本書はここで天正5(1577)年に大和国で行われた1つの裁判に注目しています。
この裁判は戒和上という戒を授ける地位をめぐって興福寺と東大寺が争ったものでした。もともと戒和上の地位は東大寺が持っていたのですが、1446年の戒壇院の火災以降、この座を興福寺に譲り渡したのですが、興福寺でこの地位にあった人物の死を機に、東大寺はこの地位を取り戻そうとしたのです。
この裁判を裁いたのが光秀であり、重要な役割を果たしたのが光秀の妹であり信長の側室でもあった御妻木殿でした。興福寺は信長へのはたらきかけをしようとして当初はうまくいきませんでしたが、御乳人(おちのひと)と呼ばれる女性から御妻木殿へとつながり、そこから信長に訴訟を取り次いだのです。

基本的に信長は朝廷や寺社から持ち込まれる訴訟を扱うことに消極的でしたが、今回は女性ルートがうまくはたらいたこともあり(信長と親しい近衛家が関係したということもあった)、この訴訟は光秀に任されることとなります。
訴訟は興福寺側が提出した書類がおそまつであったために興福寺が窮地に陥りますが、興福寺は直接光秀にアプローチし、興福寺側勝訴の判決を勝ち取ります。光秀は東大寺の提出した官宣旨が132年前のものであり、近年の書類しか証拠として採用しない信長の裁判基準と合わないことを指摘したのでした。歴史を無視した乱暴な判決にも見えますが、それでも信長のお墨付きが絶大であり、人々はこれを受け入れました。

この判決の言い渡しに際し、光秀は、光秀の祖先は足利尊氏から直々に「御判御直書(ごはんおじきしょ)」を頂戴したが信長のもとでは役に立たないと言い、自らの判断を正当化しています。また、このことについて書いた史料からは、光秀は「是一(これひとつ)」と箇条書きのような形で整然と話し、また早口だったこともうかがえます。
この判決に関して、信長からの朱印状は発給されておらず朝廷から文書が出ています。つまり、信長の意向に沿って朝廷が判断を下している形になっているのです。
著者は「つまり信長の丸投げともいってよい部将への委任のもと、信長の方針は遵守しつつ、裁量を駆使して迅速に問題を解決することが、織田家の家臣団には求められていたのである」(145p)と述べています。信長のもとでは信長の意向を忖度して行動することが重要だったのです。

天正6(1578)年の後半になると、光秀は丹波攻めを本格的に再開しますが、10月に荒木村重の裏切りがあり、光秀もこの対応にあたります。ただし、二度目の丹波攻めでは敵方の城をしっかりと囲んで飢えさせるという作戦が徹底したようで、光秀が現地に赴かなくとも攻略は進んでいきました。このころになると夜の6時に丹波から出された書状が朝の8時には京に届くようになっており(154p)、道路整備とともに通信環境も整えられていたことがわかります。
こうして天正7(1579)年の10月には信長に丹波の平定を報告しています。

光秀は丹波の経営にあたるとともに、坂本城の修築、大和での指出(検地)などにも携わっています。両国経営において、秀吉は実際に現地で調査する検地を行いましたが、光秀はより迅速にすむ指出を行っています
また、光秀は軍法も定めていますが、そこで注目されるのが人夫についての規定です。夫役に対する対価を規定するなど配慮した規定もありますが、これは厳しい人夫調達の裏返しとも言えます。この時期の織田軍は築城や道路整備などを急速に進めており、その工事を行う人夫の確保が課題でした。光秀は領国の百姓も動員していて、最大で年間60日にも及ぶ夫役を課していたとのことです(179p)。

さて、いよいよ本能寺の変ですが、著者が注意を向けるのが天正9(1581)年の8月に光秀の妹で信長の側室の御妻木殿が亡くなったことです。
また、光秀は年末に家中に対する法度を作成していますが、そこには織田家の宿老や馬廻衆とすれ違うときは慇懃に接するように求めるなど、織田家中への配慮が見られます。御妻木殿が亡くなったことで光秀への風当たりが強まっていたのかもしれません。
この時期の光秀は丹波・山城・大和の経営などを任される一方、信長から長岡(細川)藤孝への書状の伝達や徳川家康の饗応など細々とした仕事も任されており、織田政権の人材不足の中で光秀には数多くの仕事が降りかかっていました。
しかし、信長はこのころになると一族を優遇する政策をとるようになります。前線で部将を酷使する一方で、整備の済んだ領地は一族に与えるということが行われていたのです。

本書ではこうした遠因が指摘される一方で、直接の原因については特に触れていません。また、陰謀論(秀吉黒幕説、家康黒幕説、朝廷黒幕説など)の否定も行っていません。あとは、淡々と本能寺の変とその後の山崎の戦いでの光秀の敗死を記述しています。
そして、本能寺の変については次のようにまとめています。
変質しつつあった織田政権の序列にあって、側室として御妻木殿が仕えていたことの意味は大きかっただろう。一門に準じた待遇が期待できたからである。しかし彼女が死去したことで、一族・一門を中心に再編されつつあった流れから、光秀は取り残されることになった。
御妻木殿没後に作成された家中軍法では、信長の「御宿老衆・御馬廻衆」に対する過剰なまでの配慮が読み取れるが、そこにはかつて部下に「信長」と呼ばせていた織田家中の自由な雰囲気は微塵も感じられない。ここでまた彼は身分の壁に直面していたのであり、本能寺の変とは、それを乗り越えるための大きな試みだったとも言えるのである。(198p)

このように本書は今まではと素押し違った角度から光秀の事績をたどった本になります。先程述べたように本能寺の変の直接のきっかけ(例えば四国攻めを外されたことなど)については全く触れられておらず、本能寺の変の「真相」を知りたい人などにとってはやや物足りないかもしれません。
ただ、もはや400年以上前の「真相」などを確定させることはできないわけで、明らかになっている史料からの推定にとどめている本書の書き方は誠実なものと言えるでしょう。
信長の動きが頭に入っていないとややわかりにくい面もあるかもしれませんが、その分、信長や光秀のことをある程度知っている人にも新しい発見がある本だと言えます。

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