2023年08月
帯には「日本の歴史上「最も有名な法」の知られざる実像」とあります。御成敗式目が「最も有名」かどうかはわかりませんが、中学校の歴史にも登場する有名な法であることは間違いないです。
一方、聖徳太子によるものとされる「憲法十七条」の内容を多くの人が知っているに対して、御成敗式目の内容を「知っている」と言える人は少ないかもしれません。高校の日本史でも御成敗式目を使った史料問題はあまり見たことがないです。
本書は、このように知名度の割に中身が知られていない御成敗式目について、その誕生の経緯、性格、内容、後世への影響や御成敗式目の語られ方をまとめたものになります。
ありそうでなかった本であり(御成敗式目の英訳はあるが、日本語の現代語訳はなく、内容に踏み込んで解説した一般書は山本七平『日本的革命の哲学』くらいしかないとのこと)、歴史の教員からすると非常にありがたい本ですね。
先行研究に対する批判という形で議論を進めている部分も多いので、慣れていない人には読みにくい面もあるかもしれませんが、御成敗式目を通じて、鎌倉時代や中世がいかなる時代だったのかということも見えてくる形になっており、面白く読めます。
目次は以下の通り。
1第1章 中世の「国のかたち」第2章 「有名な法」の誕生2第3章 「道理」の法第4章 五十一箇条のかたち第5章 式目は「分かりやすい」のか3第6章 女性と「もののもどり」第7章 庶民と撫民第8章 裁判のしくみ4第9章 天下一同の法へ第10章 「古典」になる第11章 現代に生きる式目
本書では、まず鎌倉時代の社会の仕組みから見ていきます。
鎌倉時代というと、政治の中心が貴族から武士へと移り変わった時代として捉えられてますが、日本の各地には荘園がつくられており、その領主は皇族や貴族や大寺社でした。
ここに鎌倉幕府は地頭を送り込み、荘園制を利用しながら武士たちの収益を確保していました。
鎌倉時代は気候変動とともに飢饉が頻発した時代でもありました。御成敗式目が制定されたのは1232(貞永元)年ですが、「寛喜の大飢饉」と呼ばれる、後世に「日本国の人口の三分の一が死に絶えた」(『立川寺年代記』)とも言われた歴史的な飢饉が起こってました。
中世の日本人口についてはよくわかっていませんが、御成敗式目が制定された当時で6、700万程度と推計されています。京都の人口が多くて十数万人で、京都以外の大都市は存在しませんでした(鎌倉が数万規模)。
地方の有力者は京都と結びついて地方社会に君臨するという選択肢をとり、一方で、京都の為政者たちは民を守っるという意識を欠いていたため、人々は自分たちの権利を自分たちの力で守るという「自力救済」が求められました。
こうした中で、荘園の管理人である荘官などのポストが。役職と利益をセットにした「識」として世襲されるようになり、これとともに「家」が成立します。この中世の「家」とは単なる家族ではなく、仕事(家業)とセットになっていることが特徴です。
治承・寿永の内乱を勝ち抜いたのは源頼朝でしたが、頼朝は「御家人」を率いて朝廷を守護する存在という自己規定を行いつつ、京都にはとどまらずに鎌倉を根拠地としました。また、御家人が自らの許可を得ないで官職を得ることを禁じ、朝廷と御家人の仲介者というポジションをとります。
また、武士はすべて御家人になるのではなく、非御家人にとどまるという選択肢もあったことも重要です。
頼朝は鎌倉に独自の権力を築きつつ、幕府が管轄する事柄とそうでないものを「線引き」し、その枠内で権力を行使しました。
幕府と朝廷の関係が大きく変わってくるのが承久の乱における幕府の勝利です。
今までは東国=幕府、西国=朝廷といった棲み分けがありましたが、幕府が朝廷方の荘園を没収し、幕府の権力は全国に広がります。
また、このときに任命された地頭(新補地頭)がさまざまなトラブルを起こすことになります。
例えば、犯罪者からの財産の没収は地頭の収益にもなったため(新補率法では地頭が1/3、荘園領主・国司が2/3を得る)、地頭が警察権を濫用することもありました。
このように全国的なトラブルが増えてきた中でつくられたのが御成敗式目だったのです。
御成敗式目を制定したのは当時の執権の北条泰時ですが、泰時は式目制定の事情を弟の重時に説明する書状を送っており、二通が伝わっています。
泰時は武士たちが律令を知らないためにさまざまなトラブルが起こってるとし、法をつくって武士たちに周知させたいと述べています。
鎌倉時代の後半まで、幕府が出した法を記録保存する仕組みがなく、ある法令が出されたかどうかが裁判の争いになることもありましたが、この御成敗式目は最初から周知徹底させることを念頭においてつくられてます。そして、だからこそ有名な法になりました。
御成敗式目の説明でよく出てくるのが「道理」という言葉です。
先述の重時宛の書状でも、「ただ「道理」の示すところを記したものです」(56p)との言葉があります。
ちなみに、この書状では「式目」のことを「式条」と呼んでいますが、朝廷では「式条」と言えば朝廷の法、特に権威のある延喜式を指していたために難色が示され、泰時は「式条」を「式目」に改めました。
つづいて朝廷からは「この式目は、何を『本説』として書き記しているのか」という非難があったといいます。
この「本説」や「本文」とは依拠すべき原典のことです。それまで日本の法律家たちは律令を「原典」として、そこからさまざまな解釈を生み出しながら法を運用してきました。
こうした中で、泰時らは「道理」に基づいて、「本文」とは異なる新たな法を書き記すとしたのです。
「道理」というと、慈円が『愚管抄』の中で示した概念でもあります。これについては石井進からの「ご都合主義」という厳しい批判もあるわけですが、著者は御成敗式目における「道理」も、ある意味でご都合主義的であり、訴訟における個別事情に配慮するバランスを示すようなものでもあったと考えています。
御成敗式目は全部で51条からなっています。これについては聖徳太子の憲法17条を3倍した数になっているとの説がありますが、これは後付とみられています。
佐藤進一は、前半の内容にまとまりがあるのに対して、36条以降は雑多な項目が並べられているとして、36条以降の部分はあとから付け加えられた、ただし制定時に51条あったこともわかっているので、前半が圧縮されたあとに後半が付け加えられたのではないか? という説を唱えました。
しかし、著者は後半の条文にもそれなりの関連性が見られるとして、この説には否定的です。
泰時は「仮名しか知らない」ような武士のためにこの法をつくったといいます。
と、言いながらも、式目は漢文で書かれており、この「仮名しか知らない」というのは朝廷向けの言い訳だとも考えられます。
では、式目がわかりやすいのかというと、現在からするとわかりにくいといいます。これは式目に「本文」がないことが1つの原因です。
当時の文章には古典の典拠があるために、そこから意味などが推測できるのに対して、式目ではそれができないのです。
また、後の幕府の法令などと比べても式目には主語の欠落などわかりにくい点が多く、当時の人にとってもわかり易い文章だったかどうかは微妙です。
一方で、式目が有名な法となったために、広く使われるようになった言葉もあります。
例えば、「悪口(あっこう)」という言葉は、それまでは「悪言」「放言」といった言葉があてられることが一般的でしたが、式目で「悪口」という言葉が使われたことで、「悪口」という言葉が広く流通していくことになります。
第3部からは式目の具体的な規定を見ていきます。まずは女性に関する規定です。
鎌倉時代は女性の地位が比較的高かった時代です。女子にも相続権があり、妻は夫とは別に財産を持ち、夫の死後は「後家」として家を切り盛りしました。
しかし、14世紀以降に、武士の「家」が確立し、「家」を継承する嫡男への単独相続が一般化すると、女性や長男以外の男子(庶子)の立場は低下していきます。
御成敗式目が成立したのは、武士の間でも「家」が成立しつつある時代でした。
式目の18条では、女子に対する「悔い返し」が定められています。悔い返しとは一度譲った財産を親が取り返すことで、男子に対しては広く認められていました。
ここでは、女子の相続権と男子に対する悔い返しを前提として、それが女子に対してもできるということが述べられています。
実は公家法では女子に対する悔い返しはできないと考えられていました。女子は結婚すると、他人である夫がその財産を管理するようになるので、女子への財産分与は他人への贈与と同じで取り消すことができないとされていたのです。
式目が親(父母)の悔い返しを認めている理由として、武士社会の親権の強さがあげらていますが、著者はそれだけではなく、一族同士の争いなどもあり、同時に婚姻関係が重要なネットワークとなっていた中で、女子への悔い返しを認めることで、親中心の「家」の凝集力を高める狙いがあったものと考えています。
24条では後家の再婚についてとり上げられていますが、「貞心を忘れて再婚するようなことがあれば、夫から譲り受けた所領は亡夫の子に与えなさい。もし子がいなければ、(幕府が没収して)別の者に与える」(135p)という規定も、後家に亡夫の「家」の維持管理を期待したためと思われます(「後家」という言い方自体が「家」の成立と結びついている)。
ちなみに、1239年には後家が家の管理に支障のない形で内々に再婚することに関しては幕府は関知しないとの「追加」が行われました。
この他、式目では従者への「宛がい」について主人の悔い返しを認めていて、さらに1247年と翌年の追加法では主人と従者が争った場合に従者の訴えを受理しないとの法を定めていますが、これも御家人の「家」を守るためのものであると考えられます。
武士の中で女性の権利が弱まるきっかけとなったのが蒙古襲来です。幕府は朝廷に代わって国家権力を担っていましたが、御家人にしか負担を課すことができず、結果として御家人に負担が集中していました。
1286年、幕府は「異国警固」が解決しない間は九州の御家人は女子に所領を譲ってはならないという命令を出しています。それまで女性の地頭や御家人は代官を出していましたが、国難にあたってそれでは不十分という判断がはたらいたのでしょう。
御成敗式目は御家人を対象とした法ですが、御家人以外が絡むような場面も想定されている部分があります。
例えば、人妻との密通を禁じた第34条は、後半で「辻捕(つじとり)」という行為を禁止しています。この辻捕とは道路において女性を捕まえる行為で、「物くさ太郎」に自社参詣をしている女性を強引に妻にしようとするシーンがあるように中世社会では珍しいものではありませんでした。
この辻捕の被害者には庶民の女性も含まれていると考えられます。つまり、ここでは対象は御家人だけにとどまらないのです。
ちなみに辻捕の罰は、御家人は百箇日の出仕の停止、郎従以下は片方の鬢髪を削ぎ落とす、法師ならそのときに斟酌する、となっています。
地頭が式目の規定を使って庶民を処罰することもあり、式目を持ち出して荘園での支配権を強める動きもあったようです。
一方で、幕府も地頭が犯罪者の縁坐(連帯責任)を拡大させようとする動きに対して、式目を持ち出してこれを戒めています。
結果として、式目の対象は御家人を越えて広がったとも言えます。
また、式目の第42条では、百姓が「逃散」したときに妻子や財産を奪い取ることを禁じ、年貢の未進が解消されたあとに百姓が領主のもとから立ち去ることを認めています。
これらは年貢未進を理由に領主が百姓やその妻子を奴隷化してしまうことを防ぐためのもので、幕府の百姓への保護政策だと考えられます。
鎌倉幕府の裁判のしくみとしてよく知られているのが「三問三答」です。原告と被告が幕府に対して相互に三回ずつ書面を提出するというしくみになっています。
ただし、このしくみが確立したのは引付方が設置された北条時頼のときで、式目が制定された泰時のころにはここまで制度化されてはいませんでした。
幕府の政治に関しては泰時の頃が理想的であり、得宗専制の時代をそこからの後退とみる味方が強かったために、「三問三答」のしくみも御成敗式目と重ねられてしまうことが多いですが、泰時の時代にはもう少し泰時個人のバランス感覚に基づいたものが多かったようです。
成立当初の式目は当時のニーズに沿って出されたものですが、それが次第に一般原則を示すものとして解釈されるようになったといいます。
例えば、式目の第8条は20年の実効支配で権利が認められる規定として知られています。一方、見出しは「知行せずに年月を経た所領について」となっています(192p)。
この規定は、幕府の下文を持ちながら実効支配しないまま一定期間を起こすことが問題となっていたために置かれたものと考えられています。つまり訴訟を抑制するための規定です。
ところが、のちの世になると、20年の実効支配で権利が生じるという一般原則を定めたものとして式目が引用されるようになっていったのです。
「私領」の売買を認めたと解釈されることもある第48条も、基本的には幕府から与えられた恩領を勝手に売ってはならないというもので、その前段として「相伝の私領を売却するのは、「定法」である」(198p)と書かれています。
これはあくまでも前振りの様なものなのですが、後世になると式目が私領の売買を認めたと理解されるようになります(のちに幕府は御家人の没落を防ぐために私領の売却を制限するようになる)。
このように式目の内容が一般原則として理解されるようになるにつれ、朝廷や寺社、さらには村掟などにも式目を意識したものが見られるようになりました。
そして、御成敗式目は古典になります。式目に対する注釈書もつくられるようになり、「本文」がなかったはずの式目を中国の古典や律令に引きつけて解釈する動きも出てきます。
近世になると、式目は寺子屋の教材として使われるようになります。そのために出版もされましたが、これによって式目追加やその後の注釈は切り離され、51箇条の式目だけが「古典」として流通していくことになりました。
イギリスでは1215年のマグナ・カルタが「法の支配」の原点として語られるようになりましたが、同時期の御成敗式目も近代以降にそういった文脈で見直されることになります。
日本にいたイギリスの外交官ジョン・ケアリー・ホールは1906年に式目の英訳して紹介し、その後も日本人研究者の中から御成敗式目を「法の支配」に重ね合わせる議論がなされました。さらに式目について日本の独自法として注目する議論も起こります。
一方で、式目自体(式目の本文)は式目への注目にも関わらず読まれなくなっていきました。
このように本書は御成敗式目の内容だけではなく、それが生まれてきた背景や後世における受容にまで目を配った分析が行われています。
最初にも述べたように第1部と第2部は先行研究を批判するような形で書かれているので、ややわかりにくさを感じる人もいるかも知れませんが、第3部以降はそういったこともなく、わかりやすいのではないでしょうか。
本書に「御成敗式目への注目は高いが本文が紹介されることはあまりない」と書かれていますが、日本史の教科書などを見てもそういう感じです。ですから、内容を含めた分析を行い、当時の文脈を紹介してくれる本書は非常に有益だと思います。
- 2023年08月30日22:29
- yamasitayu
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『新しい労働社会』や『ジョブ型雇用社会とは何か』(ともに岩波新書)などで、日本の雇用システムの歴史や問題点をえぐり出してきた著者ですが、今回は「家政婦の歴史」というかなり小さな話を扱った本になります。
ところが、「家政婦」という1つの職業の変転の中に、日本の労働政策の大きな転換とそこで隠されてしまった矛盾点が見えてくるのが本書の面白さでしょう。
女中と家政婦、似たようなことをしているように見えてその出自は違い、しかし、その出自の違いはGHQの占領政策によって見えなくなってしまう...、このように書くとミステリーのようですが、本書はそうしたミステリーとしても楽しめると思います。
目次は以下の通り。
序章 ある過労死裁判から第1章 派出婦会の誕生と法規制の試み第2章 女中とその職業紹介第3章 労務供給請負業第4章 労務供給事業規則による規制の時代第5章 労働者供給事業の全面禁止と有料職業紹介事業としてのサバイバル第6章 労働基準法再考第7章 家政婦紹介所という仮面を被って70年第8章 家政婦の労災保険特別加入という絆創膏第9章 家政婦の法的地位再考終章 「正義の刃」の犠牲者
本書の始まりは2022年9月に出た、ある過労死事件の判決になります。
家政婦のAさんは、訪問介護事業及び家政婦紹介所を営むB社に家政婦兼訪問介護ヘルパーとして登録され、重度の認知症で寝たきりのCさん宅に派遣されました。
Aさんは午前0時から午前5時までの休憩時間を除く19時間を家事業務及び介護業務の時間として指定されていましたが、このうち介護業務に充てられていたのは4時間30分でした。
こうした中、AさんはCさん宅での業務を終えたあとに倒れてしまい亡くなってしまいます。
Aさんの夫のXさんはAさんの死亡はB社の業務に起因するとして労災保険法にもとづく補償を請求しましたが、労働基準監督署はAさんは家事使用人であり、労働基準法116条により適用除外になるとして労災の適用を認めませんでした。
Xさんはこれを不服として、裁判に訴えるのですが、東京地方裁判所も訪問介護ヘルパーとして訪問介護サービスを提供した時間は過労死認定の算定基準となる労働時間になるが、家政婦として家事及び介護を行った時間はそうはならないとして、この訴えを退けました。
労働基準法116条第2項に「この法律は、同居の親族のみを使用する事業及び家事使用人については、適用しない」との条項があるのです。
これに対して原告側は、それはおかしいし憲法違反ではないか? と主張したのですが、東京地方裁判所の裁判官はこの主張をとり上げませんでした。
しかし、著者によれば、そもそも家政婦は家事使用人ではないのです。そして、そのことにほとんど誰も(裁判官や弁護士すら)気づかずに判決が下されたというのです。
労働基準法制定と同時に施行された労働基準法施行規則には労働基準法第8条において、労働基準法の適用を受ける事業又は事務所の例として「派出婦会」があげられています。
「派出婦会」と言っても多くの人はよくわからないものだと思いますが、実は家政婦を派遣する事業所なのです。
つまり、労働基準法制定当時、家政婦は労働基準法の適用対象であったはずなのに、いつの間にか適用除外の「家事使用人」になってしまったというのです。
本書の第1章では、まず、この派出婦会がいかなるものだったのかを説き起こしていきます。
派出婦会というのは、1918(大正7)年に東京の四谷区で大和俊子という女性が始めたビジネスです。
大和俊子は起業家精神の旺盛な女性で、派出婦会をつくる前は本所区で近所の主婦たちに内職の斡旋を行っていました。
本所区から四谷区に転居して内職斡旋のビジネスは中絶してしまいましたが、近所の人を見ていて、布団や着物の仕立て直し、大掃除、来客、外出などのときに、ツテを頼って主婦や婆やさんにお金を払って手伝ってもらっているのに気づきました。
そこで大和は4、5名の同志婦人とともに、既婚婦人が自分の暇な時間を利用して他の家庭の家事を手伝う仕事を思いつき、それを羽仁もと子が主宰する『婦人之友』に発表したところ、当時、中産家庭で女中難に陥っていたこともあって多数の申し込みが殺到したのです。
派出婦会のビジネスは、派出(派遣)できる多くの女性会員を擁し、家庭の申込みに応じて適当な会員を派出するというもので、多くの主婦や未亡人が食事付1日50銭くらいで派出されました。
当初の派出会の派出婦は「女中代わり」というよりは「主婦代わり」であり、相当の敬意をもって迎えられましたが、需要が増える中で新聞広告で派出婦を募集するようになり、大和俊子のビジネスを真似て他の人々も次々と派出婦会を設立するようになると、次第に、今まで女中になっていたような人も、比較的自由のある派出婦の方がいいということになり、次第に今の家政婦に近いイメージになっていきます。
派出婦は派出婦会に登録して働くわけですが、入会金として1円を徴収し、料金の15%を会費として納入させるやり方が一般的だったようです。
料金の15%というのはたんなる紹介と考えると高いですが、派出婦が派遣先で起こした事件に対して、派出婦会が責任を負うことになっていました。
派出婦会の多くは寄宿舎を持ち、田舎から出てきたばかりの女性に電気やガスや水道の使い方を教え、ちょっとした行儀作法まで仕込んだ上で派出婦として派遣していました。
この派出婦の流行には、スペイン風邪も関係しているといいます。女中が感染を恐れて田舎に帰ってしまう中で、夫や子どもが病に倒れればその看病役が必要でしたし、妻が倒れてしまえば代わりに家事を行う人間が必要でした。
その需要に派出婦会はタイムリーに応えたのです。
大和俊子は事業を始めた翌年の1919年に警視庁令紹介営業取締規則い基づいて営業許可を受けていますが、1921年にはこの届出を取り下げています。
大和は、最初はこの事業が規則の中の「僕婢」の「紹介又は周旋」に当たるかもしれないと思って許可をもらったが、自分たちの事業は「派出」なのだから許可は必要ないと考え直したそうです。
派出婦会は「紹介」ではなく「労務の供給請負」だと考えられていたのです。
その後、大和の働きかけもあり、1925(大正14)年に東京府で派出婦会取締規則が制定されます。ここで兼業禁止の中に紹介営業が含まれていることからも派出婦会が職業紹介とは違うビジネスだったことがわかります。
一方、女中は基本的に職業紹介という形でした。江戸時代から口入れ屋が女中を武家屋敷などに紹介していました。
明治以後になってもこうした民間の職業紹介を通して女中が供給されていきました。
ただし、時代を下るにつて女中という職業は不人気になり、1937年に横浜市社会課がまとめた『女中調査』によると、求人100人対して就職はわずか10人という状況で、女中難に陥っていました。
女中の労働時間は長く、朝5時から夜の10時まで拘束時間が17時間、しかも休憩時間がないケースも多かったのです。
先に見たように派出婦会は自分たちを職業紹介ではなく「労務供給請負業」だと規定したわけですが、この労務供給請負業は問題を孕んだ事業形態でもありました。
戦前には人夫供給請負業者という業者が存在し、彼らの行っていた酷い搾取はたびたび問題になっていたからです。
彼らは下宿を用意して人夫を募集し、彼らにさまざまな肉体労働をさせました。労賃は親方がすべて徴収し、1〜5割をピンハネします。賃金が高くなるに連れピンハネ率も上がりました。
人夫たちは仕事がないと下宿代や食費が払えませんので、親方から賃金を前借りすることになります。そうなると借金が増えて、ほとんどタダ働きを強いられることになります。
本書では、いくつかの実例も紹介されていますが、この時代は地方から出てきた若者が騙されるような形でタダ働きを強いられることも多かったのです。
こうした問題への対処は1920〜30年代に政策課題に上ることになりますが、これを取り締まる法律ができたのは1938年の職業紹介法の全面改正によってです。
日中戦争が始まり、軍需産業へ労働力を振り向ける必要が出てきた中で、政府は労働力の管理を強化する必要性を感じていました。そこで、今まで市町村営だった職業紹介所を国営とし、民営職業紹介事業を原則禁止するとともに、労務供給事業についても許可制を導入しました。
このとき、派出婦会も規制の対象となります。
1940年の労務供給事業の供給業者数と所属労務者数を見ると、人夫が業者数842、労務者数39717人、家政婦は業者数700、労務者数24643人と、派出婦会が大きな存在感をもっていたことがわかります(123p表3参照)。
戦争が進行していくと、男性向けの労務供給事業は禁止されていきます。一方で、派出婦会は合法なビジネスとして残りました。
日本は敗戦を迎え、GHQによる一大改革が始まります。もちろん、労働法制もその例外ではなく、労働基本権が憲法に書き込まれ、労働三法がつくられていきます。
こうした法の中で、日本側からのイニシアティブがほとんど見られず、GHQの一担当官であったスターリング・コレットの個人的見解によって作り出され、運用までもが左右されたのが職業安定法です。
職業安定法では、基本的に労働者供給事業は禁止され、労働組合が行うものなど、わずかな例外が認められるだけになりました。
コレットは1948年2月11日の「労働者供給事業禁止に関する声明書」の中で日本の労働者供給事業を、「苦力(クーリー)制度」であり、労働者は「囚人同様の扱」を受けていると厳しく批判しています(134−136p)。
コレットは人夫供給事業などを念頭に、こうした悪弊をなんとしても取り除かねばならぬと考えていました。
しかし、戦中の政策もあって労働者供給事業の中心は親分が人夫を支配するタイプから派出婦会の系譜を引くものに移っていました。
日本側の担当者も当然それはわかっており、当初は派出婦会の関係者が労働組合をつくることで事業を続けられると考えていました。
ところが労働組合法の生みの親である末弘厳太郎は、こんなものは労働組合ではないと突っぱねました。このあたりの具体的な発言などは本書を見て確かめてほしいのですが、「理想」と「現実」の対決でだいたい「現実」が押し通ることの多い日本の中で、このときは「理想」が「現実」を押し切っています。
このように派出婦会のビジネスモデルは否定されてしまったのですが、現実に派出婦の需要と供給は存在します。
では、この現実に対して政府はどのように対応したのか?
ここまでの紹介を読んで、「本書を読んでみよう!」と思った人は、ここでこのエントリーを読むのを止めたほうが面白く読めるかもしれません。
政府はあれこれと弥縫策を考えた上で(149p以下で紹介されている局長通達「労働者供給事業の禁止に伴う、看護婦、派出婦等の職業紹介に関する件」はなかなか支離滅裂なものになっている)、最終的には有料職業紹介に家政婦を潜り込ませるというやり方に落ち着きます。
ところが、有料職業紹介になると、家政婦(派出婦)と女中の違いがぼやけてきます。
今までは、家庭に長期に渡って直接雇用される女中と、派出婦会に登録され必要に応じて派遣される家政婦の間は、その働き方に大きな違いがあったのですが、派出婦会が有料職業紹介になったことで、両者とも家庭による直接雇用される存在になったからです。
1947年に労働基準法が制定されますが、この対象には家政婦も含まれていました。労働基準法施行規則第1条には「派出婦会」と明記されています(この条文は1999年まで残っていた)。
一方、労働基準法の適用除外とされたのが家事使用人、いわゆる女中でした。
1946年9月14日の公聴会で市川房枝が「女中は是非入れよ」(176p)と述べるなど、女性から家事使用人も対象に含めるべきだとの声が上がりますが、政府は適用は難しく国際的に見ても適用除外になっているとして、これを受け入れませんでした。
派出婦会は、有料職業紹介という仮面を被って営業を続けることになります。
『職業研究』1953年8月号に「有料職業紹介事業の実態を探る」という記事があり、そこで池袋公共職業安定所の民営事業課長が「家政婦は、家事使用人の範囲に入るために労働基準法の万全の保護を受け得られない面がある」(196p)と述べていますが、ここですでに家政婦は家事使用人として扱われています。
同誌1955年1月号に載った静岡県職業安定課長は「この営利紹介所は労働大臣の許可事業ではあるが仔細に検討すると今日の市中の家政婦紹介業の実態は決して単なる紹介事業ではなくむしろ労務供給事業であることだ」(197−198p)と述べていますが、政府が無理やり違ったカテゴリーに押し込めたことは忘れられているわけです。
1999年に職業安定法が改正され、それまでのやってよい業務だけを列記するポジティブリスト方式から、やってはいけない業務を列記するネガティブリスト方式に移行します。
これによって家政婦紹介所が家政婦派遣事業所になることは可能になりましたが、50年近く続いた仕組みを変えることはありませんでした。
家政婦紹介所は家政婦紹介所のままで、別途に介護保険法に基づく請負による訪問介護事業者としての二枚看板を掲げるというやり方が一般化していきます。
国勢調査を見ると、1995年まで女中と家政婦は分けて分類されていました。
1950年の調査を見ると、「女中/家事女中/家事手伝い」が23万3639人、「派出婦/家政婦」が1万3382人で、その後も女中の方が多い状況が続きます。ところが、1960年からは5年毎の調査のたびに女中の数は半減する形で、1995年には4617人まで落ち込んでいます(232p表9参照)。
そして、2000年の国勢調査では女中のカテゴリーがなくなり、「家政婦(夫)、家事手伝い」として計上されるようになります。住み込み女中というスタイルはほぼ消滅したと思われます。
つまり、当初、労働基準法が適用除外としていた家事使用人もほとんどいなくなっていると思われるのです。
家政婦も減少の一途を辿っていますが、これは一部がホームヘルパー、訪問介護事業者にカウントされるようになったからだと思います。本書の始まりとなった家政婦のAさんも家政婦兼介護ヘルパーでした。
このように、本書は違うものだった女中と家政婦(派出婦)がいつの間にか同じものにされていき、法の保護の狭間に落ち込んでしまった歴史的経緯を描き出しています。
終章のタイトルは「「正義の刃」の犠牲者」となっていますが、GHQのコレットは当然ながら派出婦を切った自覚はなく、日本の役人たちも10年も立たないうちに切り捨てたことを忘れてしまっているという事例です。
日本の戦後処理では、在サハリン朝鮮人など、法の狭間に落ち込んでしまい長年に渡って救済を受けられなかった事例がありましたが、実は身近な家政婦が法制度の狭間に落ち込んでいて、しかもほとんどの人がその理由に気づいていなかったというのは、なかなか考えさせられることです。
- 2023年08月25日22:11
- yamasitayu
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同じちくま新書の『ポスト社会主義の政治』で、ウクライナの政治も分析していた著者が、ウクライナの政治と、2014年以降にウクライナから切り離されたクリミアとドンバスの政治を解説し、さらに2022年に始まったロシアによるウクライナ全面侵攻を分析した本。
『ポスト社会主義の政治』も370ページを超える厚い新書でしたが、こちらは500ページを超えており、さらなるボリュームになっています。
ただし、なかなか癖のある本でもありまして、ウクライナから切り離されたあとのクリミアやドンバスの政治状況を解説した日本語の本という点では貴重なのですが、ウクライナ内部の対立を詳述するあまりに、結果的にロシアの介入が見えにくくなる構成になっています。
「今回の戦争の原因は約束違反のNATO拡大だ!」みたいなロシアのナラティブを採用しているわけではありませんが、ユーロマイダン革命以降の動きにおいてロシアを常に受け身的に描くことによって、結果的にロシアの責任が軽くなるような描き方がなされていると思います。
目次は以下の通り。
大部の本なので、以下はざっくりと紹介していきます。第1章 ソ連末期から継続する社会変動第2章 ユーロマイダン革命とその後第3章 「クリミアの春」とその後第4章 ドンバス戦争第5章 ドネツク人民共和国第6章 ミンスク合意から露ウ戦争へ終章 ウクライナ国家の統一と分裂
まず、著者は今回の戦争に至るまでの出来事を、ソ連崩壊からの流れとして捉えています。
ソ連の工業の中心地であったことからソ連時代後期のウクライナは景気が良かったといいます。著者は1989〜91年までレニングラードの大学にいたそうですが、都市の景観はロシアよりもウクライナのほうが良かったそうです。
しかし、1990年に2000億ドルを超えていた実質GDPは、99年には1000ドルを切り、その後上昇したものの、リーマン・ショック以降、1200〜1300億ドルあたりをうろうろしています(24p表1−1参照)。
ソ連時代のウクライナは原料をロシアから輸入し、機械などをロシアに輸出する形でしたが、ソ連崩壊後、ロシアへの輸出は伸びなくなり、かといって、ウクライナに西側に輸出できるような技術力はなかったのです。
こういた経済的困窮のもとで生まれるのはポピュリズムです。
著者はポスト・ソ連の三代ポピュリストとしてグルジア(ジョージア)のサアカシヴィリ、アルメニアのパシニャン、ウクライナのゼレンスキーを上げています(30p)。
ここからもわかるように著者のゼレンスキー大統領への評価は非常に低いです。
ソ連の連邦制は民族領域連邦制と呼ばれる特殊な連邦制で、当該連邦構成主体の主人公である民族が決まっていました。
新疆ウイグル自治区でウイグル人が第一書記になることは中国では考えられませんが、ソ連では基幹民族出身ではないとその自治体の第一書記にはなれないという慣行が定着し、また、その基幹民族の決定には先住主義が用いられたために、歴史的にどの民族が先に住んでいたかということが重要になりました。
こうした状況下でなし崩し的にソ連が崩壊していったことが、さまざまな民族紛争を生むことになります。
ウクライナの政治については、親欧と親露の対立で理解されがちです。ウクライナの東西の違いもあって、ウクライナ西部・親欧VSウクライナ東部・親露という図式です。
しかし、これは単純すぎる見方で、このようなわかりやすい対立になったのは1994年と2004年の大統領選挙だけだったといいます。
2010年のヤヌコヴィチとティモシェンコが争った大統領選においても、東部のヤヌコヴィチと西部のティモシェンコという図式はありましたが、それ以上に都市と農村や世代間の違いが顕著だったとのことです。
また、親欧・親露といっても欧米への経済統合はウクライナの共産党を除く政治家とオリガークの一致点であり、それゆえにヤヌコヴィチもEUとの交渉を進めました。
しかし、EUとアソシエーション条約を結び、ロシアのユーラシア関税同盟にも入ろうというヤヌコヴィチの都合のいい政策は破綻をきたし、EUとの条約調印を延期します。
ここからユーロマイダン革命が始まります。
ユーロマイダン革命は、独立広場(マイダン)での座り込みから始まりましたが、事態が急変したのは2013年11月30日未明の警察によるピケ参加者への暴行です。これがテレビで中継されたことで抗議の輪が大きく広がることになりました。
年が明けても抗議は収まらず、2014年2月20日にはマイダン派の隊列に警察が銃撃する事件が起こります。この事件についてはさまざまな説が流れており、著者も警察による一方的な銃撃という見方には疑問を呈しています。
21日夜、ヤヌコヴィチ大統領が逃亡したことでマイダン派の勝利となります。
ここからヤヌコヴィチの与党の地域党の地盤でもあった東部では、ウクライナから分離する動きが出てきます。
4月6日にはドネツクとルガンスクにおいて分離派が州議会・国家行政府建物を占拠し、翌日にドネツク人民共和国の成立を宣言しました。
7日はハルキウでも分離派が占拠を行いますが、これは内務省特殊部隊によって排除されました。こうした動きはマリウポリなどでも起こっています。
5月2日にはオデサでマイダン派と反マイダン派が衝突し、反マイダン派の40人以上が火災に巻きこれて死ぬ事件も起きています。
最終的に武力衝突と第一ミンスク合意、第二ミンスク合意を経て、ドネツク人民共和国はウクライナの中央政府の支配から離れていくことになるのですが、本書はロシアの介入についてほとんど触れていないので、この流れは非常にわかりにくいです。
ただ経緯はどうであれ、ユーロマイダン革命後に大統領になったポロシェンコ大統領は苦境に立たされます。
ポロシェンコは2019年の大統領選挙で、ライバルのティモシェンコに勝利するために、「軍、言語、信仰」運動を始めます。幅広い領域でウクライナ後の使用を義務付けるなど、ウクライナ・ナショナリズムを活性化させるような政策をとりました。著者はこれらの政策がウクライナの分断をさらに進めたと考えています。
2019年の大統領選挙で当選したのはポロシェンコでもティモシェンコでもなく、俳優出身のゼレンスキーでした。ゼレンスキーは大統領になると議会を解散し、議会選でも勝利しました。
第3章ではクリミアの情勢を追っています。
クリミアは1954年にロシアからウクライナへと移された地域で、多数派もロシア語話者でした。クリミアはクリミア自治共和国とセヴァストポリ市の2つの行政単位からなっていますが、本書がとり上げるのはクリミア自治共和国のほうです。
クリミアはロシアがオスマン帝国から奪った土地ですが、そのときにクリミアに残ったのがクリミア・タタールと呼ばれる人々です。
ウクライナ独立のとき、クリミアとウクライナでは権限などをめぐって揉めましたが、最終的にはウクライナ内の自治共和国として落ち着きました。
ただし、クリミアを分離させようとする運動は1995年に自滅する形で終わります。クリミアの大統領職は廃止され、ウクライナの影響力が強まることになります。
1998年に採択されたクリミア自治共和国の新しい憲法では、クリミア首相はウクライナの大統領がクリミア最高会議に首相候補を推薦し、最高会議が承認するという形で選ばれることになりました。
2004年のオレンジ革命の結果、政権に就いたユシチェンコ大統領はクリミアでのロシア語の使用を制限する政策を進め、クリミアの人々の反発を受けました。一方、クリミアではヤヌコヴィチ支持が強まりました。
2010年の大統領選挙でヤヌコヴィチが勝利すると、クリミアの首相にヤヌコヴィチ勝利に功績があったジャルティを送り込みます。ジャルティは腹心の部下をマケエフカ、ドネツクから連れて乗り込み、現地の幹部とすげ替えていきますが、彼らは「マケ」エフカ、「ドネ」ツク、そしてクリミアを見下す植民地的態度から外来幹部は「マケドニア人」と呼ばれました。
ジャルティは、中央から資金を引っ張ってきてクリミアの開発を進めますが、2011年8月に53歳の若さでガンで亡くなります。
クリミアでは、マケドニア人、クリミア・タタール、ロシア人の勢力が割拠する状態になりましたが、ロシア人勢力の中心となったのが後にクリミアのロシア編入を主導したアクショノフです。
マイダン革命後、クリミアはロシアに編入されますが、この過程についても本書では常にロシアは受け身的に描かれており、わかりにくいです。
編入後については、クリミア大橋の建設を始めとしてロシアがテコ入れを行ったこともあって経済が活性化しています。ただし、ロシア企業はクリミアに進出すると国際制裁を受ける可能性があるため、それほどロシア資本の進出は進まなかったといいます。結果的にクリミアの企業を保護することにも繋がり、それがクリミアの政治を安定させました。
第4章はドンバス戦争ですが、ここも細かく書いてある割にはロシアの介入についてはあまり触れていません。
ドンバスは炭鉱地域であり、そのためドンバス人には「炭鉱夫」「荒くれ者」といったイメージがあり、そのため、同じドネツク州でもクラマトルスクやマリウポリの市民などからは同一視されることを嫌がる声もあったとのことです。
ドンバスはソ連時代に工業化が進み、そのために人口も流入し、ソ連末期にはウクライナ人が約5割、ロシア人が約4割となりました(ただし、ウクライナ人も大半はロシア語話者)。
ソ連崩壊後のドンバスで中心になったのが「赤い企業長」と呼ばれる、地域の行政や社員への福祉の提供も代行するような新しい経営層でした。こうした「赤い企業長」が政治にも進出していきます。
1994年の地方選挙では、「赤い企業長」に代わって新興のビジネスマンが知事や市長になっていきますが、基本的には恩顧政治が展開されていくことになります。
ヤヌコヴィチはドネツク州の出身であり、そのために2004年のユシチェンコが勝った大統領選でも、ドネツクではヤヌコヴィチが圧倒的な得票率となっています(299p表4−2参照)。
ユーロマイダン革命以前において、ヤヌコヴィチの地域党はドネツク州の州議会の90%以上の議席を占めていました。
こうした中、ユーロマイダン革命によってヤヌコヴィチが逃亡したことはドネツクに政治的空白を生みました。
著者によれば、当時、ドネツクの政治に大きな影響力を持っていた富豪のアフメトフらが中央政府との交渉力を高めるために分離主義者を泳がせたことが問題を大きくしたといいます。
著者はマイダン革命後のドネツクで分離派の集会を実際に見たそうですが、分離に向けて確実に進んでいたクリミアに比べると、空疎なスローガンを叫んでいただけだったといいます。
先述のように、2014年4月7日にドネツク人民共和国の成立が宣言されますが、このときプーチンは、クリミアと違ってドネツクの分離を受け入れるつもりはなかったと著者はみています。
プーチンは独立を当住民投票の延期を求めますが、これにはウクライナの大統領選においてドネツクの票が失われれば、親欧的でNATOへの早期加盟を求めるような候補しか勝てなくなるといった読みがあったとされます。
それにもかかわらず5月11日の住民投票でドネツク人民共和国の「独立」が承認されます。
この時点でも東部は一定の平穏を保っていましたが、それを打ち壊したのが5月26日にポロシェンコ大統領が命じたウクライナ軍によるドネツク空港の空爆だといいます。
その後の内戦においても、ウクライナはマイダン革命で活躍した武装グループを内務大臣に従属する国民衛兵隊として編成し、それをドンバスに送られたが、訓練を受けたロシア義勇兵には叶わなかったと書いていますが(330p)、「義勇兵」でいいのかはやや留保したいところです。
第5章では、ドネツク人民共和国を他の旧ソ連の未承認国家と比べながら検討しています。
プーチンは、2014年7月17日のマレーシアMH17撃墜事件や8月17日にウクライナ軍がルガンスク市の中心部に突入し、ドネツクも包囲されたことで、人民共和国が滅びない程度に助けるという方針を固めたと本書では分析されてます。
8月28日には反抗に転じた人民共和国の部隊(ここでは著者はおそらくロシアの正規軍が含まれていたと書いている(359p)がマリウポリに迫りますが、著者は第一ミンスク合意をうまくいかせるための陽動的な作戦とみています。
著者は2014年8月後半と2017年8月にドネツクに入ったそうですが、荒廃していたドネツクの街は、2017年人あるとロシアの援助もあって街もきれいになり、活気があったといいます。
政治的にもロシアの影響力が強まり、「建国者」たちや共産党などがパージされていきます。
また、戦闘は落ち着いていたとはいえ、ウクライナ側からの砲撃は続いており、それに対する被害者意識がドネツク人民共和国の紐帯を強めたと著者はみています。
第5章では今回の戦争(本書では露ウ戦争と呼称)が分析されています。
まず、分離紛争解決の処方箋として、1連邦化、2land-for-peace(分離政体が実効支配地域の一部を献上することで独立を認めらもらう)、3パトロン国家による分離国家の承認、4親国家による再征服、5パトロン固化による親国家の破壊、の5つがあげられています。
1の解決方法については、ミンスク合意が基本的にはこの路線です。ただし、しばらく分離したあとに戻ってくることになると有権者のバランスが崩れます。沿ドニエストル共和国についてはもし戻ってきたらモルドヴァの政治家が困るとも言われており、ドンバスもそうかもしれないと著者は言います。
2はあまりない策で、3は南オセチアなどでとられました。また、2022年2月21日にロシアがドンバスの2共和国を承認したのもこれにあたります。
4について、著者はゼレンスキーがこれを目指していたとしています(第6章の第2節のタイトルは「ゼレンスキー政権の再征服政策)。
ゼレンスキーは大統領選挙で、「ミンスク合意のリセット」を訴え、人民共和国の指導者とは会わずにプーチンとの直接会談による事態の打開を目指しました。
2021年になるとゼレンスキー政権の人民共和国に対する態度は厳しくなりますが、これはアゼルバイジャンのカラバフ紛争での勝利を見て、強硬策を検討し始めたためだとみています。
前述のようにロシアは2共和国の承認に踏み切ります。3を志向したわけですが、3日後の2月24日にはウクライナへの全面侵攻、すなわち5に踏み切ります。
プーチンはこの戦争を「予防戦争」だとしましたが、著者もこの理由付けは苦しいとしています。
結局、プーチンはウクライナの体制変更を目指す戦いを始めますが、キエフ急襲作戦は失敗し、領土獲得に目的を変更して戦争が続きます。
著者は、今回の戦争をNATOの拡大とそれに対するロシアの反発といった図式で見ることには反対で、あくまでもウクライナの問題だとみています。
ロシアとウクライナは切っても切れない関係ですが、このような戦争を経験してしまった今、ウクライナから分離した地域の扱いを始めとして、露ウがどのように打開できるとかというと、なかなか難しいという結論になります。
このまとめでは詳しく書きませんでしたが、本書ではクリミア自治共和国やドネツク人民共和国の政治家の動きなども追っており、他では得ることのできない情報を知ることができます。
ただ、途中で何回か書きましたが、あまりにロシアの介入という要因が後景に退いてしまっているように思えます。もちろん、ウクライナはさまざまな問題を抱えた統一感のない国家だったのは事実でしょうが、やはり、ウクライナの分裂や今回の戦争に関してはロシアに一番の責任があると思うのです。
今回の戦争について知りたいと思って、本書をまず初めに手に取るのはお薦めできないので、2冊め、3冊目の本ということになるでしょうね。
- 2023年08月18日22:14
- yamasitayu
- コメント:3
ジョン・スチュアート・ミルは日本でもよく知られた思想家でしょう。彼が『自由論』で展開した「他者危害の原理」は未だに現役ですし、「太った豚より痩せたソクラテス」といった言葉や、彼が父親から英才教育を受けていたことなどを高校や大学で教わったという人も多いと思います。
本書はそんなミルの比較的オーソドックスな評伝です。何かミルについて新しい解釈を打ち出しているわけではありませんし、今までにはなかった切り口で論じたというものでもありません。
内容としては、ミルの人生を追いながら、『自由論』、『代議制統治論』、『功利主義』という3つの主著を解説したものになります。
ただし、それでも今に通じる興味深い考えが数多く出てくるというのがはミルの魅力でしょうし、そうしたミルの面白さを多面的に引き出しているのが著者の腕ということになるのでしょう。
主著の解説についてはもう少し網羅的なものを望む人もいるかも知れませんが、「J・S・ミル入門」としては手堅くまとまった1冊になっているのではないかと思います。
目次は以下の通り。
第1章 ミルの生誕から少年時代第2章 「精神の危機」とその後の模索第3章 思索の深まり第4章 『自由論』第5章 『代議制統治論』第6章 『功利主義』第7章 晩年のミル
J・S・ミルは1806年にロンドンで生まれていますが、ミルといえば有名なのが父親のジェイムズ・ミルによる英才教育です。
3歳からギリシア語の単語の学習を始め、12歳で父の『英領インド史』の校正を手伝ったというのですから、その早熟ぶりもわかります。
ミルの『自伝』を読むと圧倒的に父親の存在が強く、母親の存在は薄いのですが、これには『自伝』の意図が自らの思想形成を示すことにあったためでもあるといいます。
例えば、父のジェイムズは当時のイギリス人としては「非宗教的」な人間でしたが、こうした考えは子のミルにも受け継がれています。
ミルは15歳の頃に父からフランス語版のベンサムの『立法論』(デュモン編)を手渡され、大きな衝撃を受けたといいます。
ミルは『自伝』に「一つの(最善の)意味での宗教を持ったのである」(17p)と書いていますが、以降、ミルはベンサム主義者として生きていくことになりました。そして、世の中を変革しようという人間になったといいます。
また、ロンドン討論協会での活動なども始めますが、ここでの対等な立場での討論は『自由論』にも大きな影響を与えたと考えられています。
このようにベンサム主義者として順調に成長したミルでしたが、20歳のときに『自伝』で「精神の危機」と呼ばれている状況に陥ります。
書かれている様子などから見ると典型的なうつ症状に見えますが、ミルは子どものころから身につけてきた複雑な観念や感情を単純な快苦として分析するスタイルが、自己に向けれ自分の意欲や幸福感を損ねてしまったと考えていたようです。
また、父から受けた抑圧的な教育に関しても疑問を呈するようになっています。
ミルはこの危機を、マルモンテルの『回想録』に出てくる、父を失った息子がこれからは自分が父の代わりになろうと決意するシーンを読むことをきっかけに脱し、ワーズワースの詩に傾倒することによって、次第に単純なベンサム主義者ではなくなっていきます。
さらにミルにとっての永遠の女性となるハリエット・テイラーと出会うことで、自分の中の感情の陶冶を目指す方向性と、社会の改革者として熱意を持つ方向性の間でバランスを取ることができるようになり、自らとらわれてた宿命論も克服するようになりました。
また、理論的な面でも変化が見られるようになります。
ベンサム主義者は演繹的推論を重視し、ジェイムズ・ミルは『政府論』で次のような議論を展開していました。
大前提:すべての人間は、他人の利益よりも自分の利益を優先する。小前提:統治の担当者は人間である。結論:ゆえに統治の担当者は自己利益を優先する。(70p)
ベンサム主義者は、これによって当時のイギリス政治の弊害は十分に説明可能だと考え、選挙権の拡大によって多くの選挙民の利益に反する行動を政治家が取れば落選する仕組みをつくることが重要だと考えました。
この議論は大雑把に言えば正しいかもしれませんが、論証として穴があるものです。19世紀のイギリスを代表する歴史家となるマコーリーは、国民に歓迎された絶対君主という歴史上の例(デンマーク)を持ち出して、この議論の反証例をあげ、さらには君主の名誉欲といったものの存在も指摘しました。
ジェイムズ・ミルの推論には、数学の定理のような厳密性はなかったのです。
この問題に対して、J・S・ミルは、演繹には、幾何学的方法(抽象的方法)と物理学的方法(具体的方法)という2つの種類のものがあるという考えを打ち出しました。
幾何学的方法は数学の定理のようなものですが、物理理学的方法とは次のようなものです。空中に静止している水素の入った風船には重力と浮力という2つの力が働いており、それが均衡しています。この場合、普遍的な法則である重力ははたらいていますが、それとは別の力もはたらいているのです。
同じように、自由貿易は一般的にその国民を豊かにしますが、何か別の要員がはたらいて国府を増大させないケースもあるのです。
ミルは1836年に「経済学の定義と方法」という論考を発表していますが、ここでは「物質的安楽への欲望」という人間本性を前提にしつつ、それが国民性などによって影響を受けるという議論を展開しています。
また、実践的規則の体系をアートと呼び、科学とは「密接に関連しているとはいえ、本質的に異なる」(86p)と説明しています。アートは行為に関する規則や指示の集合体であり、目的とそれを実現するための手段を提示します。
この目的は複数あることもあり、同じ制度が2つの目的の達成に関わっているケースなども考えられるのです。
ミルはベンサムの政治に対する考え方を単純すぎるものとみなすようになり、教育や忠誠、構成員の結びつきといったものを重要だと考えるようになりました。
また、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』の第1巻を読むことで、民主政治に対する考えを深めました。
1836年に発表された「文明論」では、アメリカとイギリスの社会を比較しながら、民主化の趨勢と、多数者(大衆)の画一化という問題を考察しています。
方法論的にはミルはコントの実証主義を評価しつつも、コントの家族を社会安定の要因として重視する考えから主張されていた離婚禁止論や、女性を男性より劣る存在に位置づける考えなどは受け入れがたいものでした。
1848年のフランス二月革命を受け、ミルは「二月革命擁護論」を書きましたが、同時にフランスの新しい政治体制において行政府の長(大統領)に議会解散権がないことを懸念していました。議会と大統領が対立すれば、大統領にそれを打開するすべはなく、それを口実にクーデターに訴えかねないと考えたからです。そして、この懸念はナポレオン3世によって現実になります。
1851年、ミルは2年ほど前に夫をなくしていたハリエットと結婚します。ようやく一緒になれた二人でしたが、実は2人とも結核に罹患していました。
結局、ハリエットは1858年に転地療養に出かけようとした途中のアヴィニヨンで亡くなることになります。
第4章からは主著の解説に入っていきますが、まずは『自由論』です。
『自由論』で取り扱われているのは意志の自由の問題ではなく、社会生活における自由の問題です。若い頃に宿命論にとらわれていたミルにとっては意志の自由も重要な問題でしたが、本書では社会の中で自由を擁護することが目的になっています。
人々の自由を侵害するものとして支配者の干渉がありましたが、この時代になってくると民主政が広がることで、統治者と被治者が一致してきます。こうなると、統治者と被治者の利害も一致し、自然と自由も擁護されるようにも思えますが、ミルはそう考えませんでした。
トクヴィルが指摘したように多数者の専制によって少数者の自由が抑圧される可能性も生まれてきたのです。一方、その反動のエリート主義にも警戒する必要がありました。
本書で主張されている有名な原理が、他者に危害を加えない限り自由が尊重されるべきだという「他者危害の原理」です。本書ではこれを見るの言い方に従って「自由原理」と呼ばれていますが、この原理は「一つの非常に単純な原理」(145p)でありながら、そこにはいくつかの前提があり、実際にはかなり複雑なものとなっています。
まず、ミルは自由原理について文明社会のどの成人にも適用されると述べていますが、逆に未成年者や未開社会の人々には適用されません。自由原理では、社会のルールに従い自律できる人間を想定しています。
そして、人々が個性の自発性が固有の価値を持っているということを認識している必要もあります。
社会のために行動することを善しとする政治道徳のようなものが、その基盤として必要であり、それは既存の道徳から拡張されていくべきものなのです。
『自由論』の第2章のタイトルは「思想と討論の自由」になっています・これはミルが内面の自由だけではなく、社会的・公共的行為の自由を重視していた現れだと考えられます。
ミルは自由を擁護する根拠として「効用」をあげていましたが、この効用は個人にとってのものなのか? 社会全体にとってのものなのか? ということが1つの問題になります。
討論の自由を擁護する文脈であげられるのは主に後者になります。
意見の自由な表明が抑圧されることの弊害として、ミルは真理が抑圧されるケースだけではなく、誤っている意見が抑圧されるケースもあげています。誤っている意見ならば表に出てこなくても構わないだろうと考えてしまいますが、ミルは以下のように考えます。
正しい意見だったとしても、それを死んだドグマとして信奉するだけでは、「字面の上では真理を表している言葉にたまたま執着しているだけの、もう一つのたんなる迷信」(八二頁)になってしまう。こういう場合、信奉者は自分の信条を「理解という言葉の正しい意味で言えば、理解していない」(八六頁)(155−156p)
また、双方が部分的真理をもっており、それが激しく対立することもありますが、それでも「真理の半分がひっそりと抑圧されること」(158p)よりはましだと考えています。
さらに意見の表明は自由だとしても、ある程度は自制するモラルが必要であるという考えにも反対しています。「やりすぎだ」というのも1つの意見なのです。
ただし、「主張の仕方が不誠実であったり、悪意や排他性や不寛容が感情的に示されたりしている場合は、議論のどちらかの側に見方する主張であっても、そうした主張をする人を避難すべきである」(160p)とも述べています。
ミルは、こうした思想と討論の自由をそれ以外の分野にも拡張していきます。著者も指摘するように、自由原理と思想と討論の自由の擁護にはずれる部分もあるのですが(討論では他者に影響を与えることが想定されている)、ミルは論理よりも説得を重視して議論を進めています。
ここでは卓越した才能を持つ個人の効用が論じられており、ミルのエリート主義的な面もうかがえますが、同時にエリート以外の人が持つ個性の価値にも言及してバランスをとろうとしています。
また、自らを奴隷として売り渡すような契約は無効だと考えるなど、自由に限界があることも論じています。
第5章は『代議制統治論』です。この本は1861年に公刊されています。
ミルは統治形態を、社会を構成する人々の資質を向上させているか、機構それ自体の質という2つの基準で評価しています。
この2つの基準から評価されるのが代議制統治です。代議制のもとでは絶対的支配者の統治に比べて公正や正義が確保されやすく、また、政治参加は人々の資質を向上させます。
また、著者はこの『代議制統治論』における自由が他者に影響を与えるような能動的な自由も含んでいることに注目しています。
ミルは当時のイギリスは実質的に代議制統治になっていると考えており、『代議制統治論』では、今後の方向性についても多く論じられています。
ミルは行政の具体的な業務については行政部門に任せるべきだと考えており、政治家の思いつきが行政の妨げになると言いますが、官僚制のもとではルーティン化が進んで活力が失われてしまうとも考えています。
また、ベンサムや父のジェイムズ・ミルとは違い、代議制のもとでも権力は腐敗すると考え、それを防ぐための努力が重要だと考えました。
ミルは、投票資格の拡大を訴えるとともに(ただし識字能力と一定の納税は必要だと考えた、候補者に順位をつけて投票するヘア式投票制を推奨しています。
また、投票を私的な権利だと考えさせないために秘密投票制に反対しています。
行政職員の採用については、公開競争試験の徹底を求めました。
第6章は『功利主義』をとり上げています。この論考は1861年に雑誌に発表され、63年に1冊の本として刊行されました。
ここでミルは「公共道徳」と「私的倫理」を自由に行き来しながら、公共道徳の正義に関する部分を中心的に論じています。これは他者や社会全般に危害をもたらす行為を対象とした行為規範であり、『自由論』で論じられていたものとは違います。
功利主義といえば、幸福(快楽)を増やして不幸(苦痛)を減らすことですが、ミルは今までの功利主義が快楽の質の違いを軽視しがちだったことを認めています。高級な快楽と低級な快楽については両方を経験する人がどちらを選ぶかで判断できるといいます。
また、他者を幸福にして喜びを感じたり、自分が他者を幸福にできなくてつらいと感じることがあります。こういった経験を繰り返されていくと、他者の幸福に貢献する行為が習慣化し、有徳な人になっていきます。有徳な人は行為の目的が快楽や苦痛の感情から独立していくのです。
有徳な人は、ときに自己犠牲を払って社会のために尽くしますが、ミルはこうした自己犠牲を義務として要求することはありません。『自由論』でも論じられたように、こうしたことは社会が強制すべき事柄ではないからです。
ミルは人間の行為を正か不正かという基準で見ることに反対しており、義務を幅広く設定することは間違っていると考えているのです。
最後の第7章では晩年のミルの活動についてまとめられています。
ミルは男女の平等を主張して『女性の隷従』を刊行し、女性にも選挙資格を広げる運動をしています。また、1866年に庶民院の議員になったこともあり、属領であったジャマイカの統治問題やアイルランド問題についても積極的に発言しています。
ミルは著作以外のこうした活動にも携わり、1873年に亡くなりました。
このように本書はミルの生涯と主著をまとめてくれています。
ミル自身がバランスを重視する思想家であり、また多面的な活動をしていたために、ミルの考えがスパッとわかるといったものではありませんが、ミルの生涯や思想遍歴がわかることで、主著における主張の力点も随分わかりやすくなると思います。
ミルの思想を論じるには、実際に著作を読む必要があるでしょうが、本書は「ミル入門」としてまとまりのよいものになっています。
- 2023年08月08日23:26
- yamasitayu
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