2024年01月
先進国では1980年代に退治したと思われていたインフレが復活し、景気対策は金融政策中心で財政政策は最低限度で良いとされていたスタンスがゆるぎ財政出動が叫ばれるなど、近年のマクロ経済政策は大きく揺れました。
本書のはしがきに「常識はそれが「常識」になった時点から崩壊が始まる」(ii p)とありますが、まさにここ最近のマクロ経済学ではさまざまな常識が書き換えられてきたのです(例えば、ブランシャール『21世紀の財政政策』における、かなりの規模の財政赤字を問題なしとする立場など)。
本書は、まずは財政政策と金融政策の標準的な理解を押さえながら、財政政策と金融政策の融合、「高圧経済論」といった新しい潮流を探っています。
メディアなどで見かける著者のイメージからすると、中公新書ということもあって「やや硬め」かもしれませんが(もっとも光文社新書の『マクロ経済学の核心』などもなかなか歯ごたえのある本だった)、後半を中心に現在とこれからの経済を考えていく上で非常に興味深い議論がなされていると思います。
目次は以下の通り
第1章 財政をめぐる危機論と楽観論第2章 金融政策の可能性と不可能性第3章 一体化する財政・金融政策第4章 需要が供給を喚起する―求められる長期的総需要管理への転換
まず、とり上げられているのが「財政危機」の問題です。
日本の国債残高は1000兆円を超え、これにその他の中央政務債務と地方債を加えると1400兆円以上になります。「国民一人当たり1000万円の借金がある」といった言い方もよく耳にすると思います。
一方、日本の政府には大きな資産があり心配はいらないという議論もあります。
2021年度末の国のバランスシートを見ると、負債は1514兆円(公債1103兆、公的年金預り金127兆など)、資産は943兆円(有価証券358兆円、有形固定資産280兆円など)となっています(8p1−2参照、数字は四捨五入)。
資産を差し引いて考えると政府の純負債は572兆円まで圧縮されます。
これに対しては、政府資産の多くは売却できないのだから差し引きすべきでないとする考えと、日本銀行の連結すればもっと債務は小さくなるという考えがあります。
著者は、政府資産の一定程度の売却は可能であるし、日本銀行を連結することにはあまり意味がないとして、悲観論と楽観論の間で考えるべきだとしています。
政府の債務を問題視する議論の多くに登場するのが「将来世代への負担を許すな」というものです。借金をするのは現在であり、それは将来に返済されるので、将来世代の負担を考えるのは当然に思えます。
しかし、ラーナーによる新正統派の議論では、次の3つの要点にまとめられるといいます。
(1)公債を発行しても、次世代に実質的負担は先送りされない(2)民間による債券発行と同じ論理で公債発行を語るのは誤りである(3)内国債と外国債には重要で明確な違いが存在する(18p)
例えば、国が公債を発行して道路を作り、10年後に返済されるとします。国が公債を発行して工事を行った時点で、民間の資源が使われます。10年後の返済時において、これが外国債であれば資金が海外に流出しますが、内国債であれば国内の誰かにその資金が渡ります。つまり国内の経済主体の間で資源(資金)が移動しただけなのです。
しかし、ブキャナンが、国富の増減はなくても、例えば、公債を発行して減税をしてそれが将来世代の増税で賄われる場合、現役世代は消費を増やせるが、将来世代は消費を減らされることになり不公平であると論じたように、この考えには批判もあります。
著者はこうした議論を踏まえつつ、公債の発行が民間の投資を阻害するクラウディング・アウトを考え、失業や生産設備の有休の有無が公債発行が負担になるか否かの分水嶺になるとみています。
マクロ経済学では、供給能力がGDPを決めるという見方(セイの法則)と、総需要(有効需要)がGDPを決めるという見方(ケインズ)」がありますが、どちらの見方が有効になるかは供給能力と総需要の大小関係で決まるといいます(*「生産能力よりも総需要が大きい状況では総需要の量が、そうでない場合には生産能力が現実のGDPを決定する」(41p)とあるけど、これは逆では?)。
ここでいわゆるGDPギャップ(潜在GDPに対して現実のGDPが何%小さいかを示す数値)に注目することになるのですが、実際にこれを計測するのはなかなか難しいといいます。
例えば、45p1−5のグラフを見ると、GDPギャップはたびたびプラスになっていますが、これは供給能力を上回る生産が行われたということになってしまいます。GDPギャップに注目すれば適切な財政政策ができるというわけではないのです。
第2章では金融政策がとり上げられています。
大きく言うと、貨幣・マネーは現金と預金の和になります。現金の量は政府や中央銀行が発行した硬貨や紙幣の量で決まるため政府がコントロールできます。一方、預金に関しては信用創造がはたらくので金融機関の貸出行動によって決まります。
この貸出に影響を与えるのが準備預金制度であり、銀行間の貸借金利であるコールレートになります。
日銀は基本的にこのコールレートをコントロールすることで金融政策を行ってきました。また、このコールレートが銀行の貸出行動に影響を与え、マネーサプライにも影響を与えるので、日銀はマネーサプライにも強い影響力を持っています(実際にコントロールできるかできないかについては学説上の対立があるが、著者は両者の関連を押さえておけば良いという立場)。
ところがコールレートは一定水準以下には下げられません。2023年8月のコールレートは−0.06%で、ゼロ以下にできないということではないのですが、−3%といった形にはできないと考えられます。
このためデフレ下では実質金利が高止まりする可能性があります。そこでインフレ目標の設定などを求めたのがインタゲ派、のちのリフレ派になります。
では、金融政策はどのように実体経済に波及するのでしょうか?
一般的に国債は安全な資産とみなされており、国債の利回りを下回るような投資は行われないでしょう。逆に言えば、国債の利回りが低下すれば今まではリターンが小さいとして見送られていた投資を促進する可能性があります。
さらに金利の低下は株価などの資産価格を押し上げる効果があると言われています。さらにこの資産価格の押し上げが投資や消費を刺激します。
また、為替レートの低下を通じて輸出を促進するとも言われますが、近年の日本では所得収支の受け取りが増える効果が大きくなっています。
ゼロ金利になってからのいわゆる非伝統的金融政策は時間軸を用いたものになります。
現在だけではなく、長期に渡ってコールレートが低水準のままつづくということを市場の参加者に予想させることで、融資の拡大を狙うのです。
ただし、2000年に日銀が導入したゼロ金利政策では、「人々の期待形成に強力に働きかけて」(80p)と理由付けがなされていたものの、デフレ払拭のための政策にもかかわらず、物価上昇率がマイナスの状態で解除されてしまい、結果的に期待形成に失敗しました。
日本では2013年に黒田東彦日銀総裁が誕生し、インフレ率が2%を超えるまで金融緩和を続けると宣言し、人々の期待を書き換えようと動きました。
株価などは金融緩和を掲げて安倍晋三が自民党総裁になり、解散総選挙が決まった時点から上昇をし始めており、人々の期待に一定の変化があったとも考えられますが、物価については一定の効果はあったもののなかなか目標の2%をクリアーできませんでした。
そこで2016年には、マイナス金利やイールドカーブ・コントロールといった新たな政策が導入されています。
ちなみに本書では出口戦略についても言及されていますが、日本銀行の単独のバランスシートには何ら意味がなく、日銀が債務超過になってもまったく問題がないとしています(ちなみにオーストラリアや西ドイツなど過去中央銀行が債務超過になったケースは多い)。
近年、いくら金利を下げても潜在的な生産能力がフルに発揮されるような需要は発生しないのではないか? という長期停滞論も出てきました。
もとは1938年にハンセンが唱えたものでしたが、最近になってタイラー・コーエンやサマーズがとり上げたことで再び注目を集めました。
本書では潜在GDPにおける貯蓄と同じだけの投資が行われる実質金利水準を自然利子率と呼んでいますが、この自然利子率がマイナスであれば、たとえ中央銀行が金利をゼロにしても、需要不足は解消されないことになります。
そこで人々の予想インフレ率が重要になります。いつかインフレが起きるのであれば、予想インフレ率が上がり実質金利も低下していくと考えられるからです。
そこで、拙速な引き締めを行わないことも重要になります。少し物価が上昇したからといって中央銀行がすぐに金利を引き上げれば、予想インフレ率は上がってきません。
現在のコスト・プッシュ型インフレに対して日銀の動きが鈍いように思われる背景には、このような思惑もあると考えられます。
このように金融政策が「効かなくなる」局面も出てくる中で、再び財政政策に注目が集まっているわけですが。
これについて論じた第3章では、まず「国債と貨幣に違いはあるのか?」という問いがとり上げられています。
すぐに思いつくのは「国債は貨幣と違って利子がつく」ということですが、国債の利回りがゼロに近づけば、その違いは不鮮明になっていきます。
国債は政府の負債だというのはわかりやすいです。一方、貨幣も政府の負債であるという説明はわかりにくいかもしれません。
例えば、稲で徴税していた国家が、ある年、税収以上の稲が必要になって新たに銭を発行して稲を買い上げ、この銭で納税が可能だと宣言したとします(日本では大まかにこのような形で銭が導入された)。
このとき、政府にとって価値のない金属の塊が税として納入されることになります。つまり、現金な政府にとって負債とみなすことができるのです。ちなみに、「貨幣が価値を持つ理由として「政府が納税の手段としている」ことを重視するのがMMT」(119p)です。
また、日銀の当座預金も政府の負債だと考えられるといいます。日銀の当座預金については現金を発行すればいいだけなので負債ではないと考える人もいますが、著者はそれでは内国債も債務ではなくなってしまうとしてこの立場はとりません。
現金・日銀当座預金(マネタリーベース)が政府債務であるとすると、国債との違いはどこにあるのでしょうか?
その違いは金利になります。現金に金利はつきませんし、日銀当座預金につく金利はわずかです。そして、この金利の差がシニョリッジ(貨幣発行益)になります。
国債ではなく貨幣の発行によって資金を調達することによって金利の分が節約できるのです。
こうなると、国債ではなく、すべて貨幣の発行によって賄えばいいのではないか? との疑問も浮かびますが、そうなると国債の発行量が減り、金利のコントロールが難しくなります。
著者は「誤解を恐れず単純化すると、財政政策は政府債務の総規模を決定し、金融政策は政府債務の内訳を決めるものと整理すると理解しやすいだろう」(127−128p)と述べています。
財政政策と金融政策は適切に組み合わせて行う必要がありますが、日本ではこれがチグハグだったといいます。
特に90年代には需要刺激策が十分な効果を上げる前に財政が引き締められるストップ・アンド・ゴー政策が続けられ、結果的に財政は悪化しました。この財政引き締めのショックの緩和を担ったのが金融政策ですが、このチグハグな組み合わせによって、財政健全化、経済成長のいずれの目標も達成できませんでした。
本書ではこのあとにシムズが言及して話題になったFTPL(物価の財政理論)のモデルが紹介されています。数式なども使った解説がなされているので、ここは本書をご覧ください。
FTPLによると、物価=現在の統合政府債務/将来財政黒字の実質現在価値+将来マネタリーベース増加額の実質現在価値(139p)という式が導きだされ、ここから物価を上昇させるために分母である「将来財政黒字の実質現在価値」を縮小させるという方法が示唆されます。つまり、政府が財政収支に無責任になることが現時点の物価を上昇させることにつながるというわけです。
ただし、財政に無責任なることがデフレ脱却の方法と言っても、財政の維持可能性についても考えておく必要があります。
ただ、政府は一般の企業とは違います。企業は手元に現金や資産がない状況で負債の支払いを求められたら倒産してしまいますが、政府は100兆円の負債の支払いを求められても、現金や国債を発行することで支払うことが可能です。
ここから、いわゆる「財政破綻」になるというケースは国債や現金の価値がなくなる、つまりハイパーインフレになるような状況を指すことがわかります(経済学でのハイパーインフレの定義は月次のインフレ率が50%を超える状況(物価が1年間で130倍になる)という定義が用いられることが多い)。
本書では、財政維持の条件として、1「政府債務の増加率が金利よりも低い状態が維持される」、2「国債金利よりも経済成長率が高い(r-g<0)」(ドーマー条件)という2つのものをあげています。
r-g<0というと、「ピケティはr>gって言ってなかったっけ?」と反応する人もいるかもしれませんが、ピケティのrはリスク資産も含めたもので、ドーマー条件のrは安全資産である国債の金利です。ですから、「ドーマー条件のr<経済成長率<ピケティのr」というのは十分に成り立ちますし、実際に1870〜2015年の長期データを概観すると多くの時期でこの不等式が成り立っているそうです(155p)。
このドーマー条件のrと経済成長率gの関係は非常に重要で、r−gが1.0%であれば、プライマリ・バランス対GDP比が−6.07%でも国債残高対GDP比が250%で安定しますし、逆にr-gが−1.0%であれば、プライマリ・バランス対GDP比が6.19%でないと国債残高対GDP比を250%で安定させられません(158p3−3参照)。
この試算を見ると、プライマリ・バランスの黒字化よりも、r-g<0を維持できるような済の条件を維持していくことが重要だとわかります。
最後の第4章では「高圧経済論」が紹介されています。
需要については金融政策や財政政策でテコ入れすることができるが、供給能力の拡大については企業の競争や技術革新しかないないと考えられがちです。ところが、高圧経済論では需給をタイトにすることで生産性を上げることを狙います。
生産性の向上には、1「労働者の能力向上や設備の導入などによる純粋な向上」、2「労働者が労働生産性の高い職場に移動することによる向上(デニソン効果)」、3「労働生産性の高い産業のシェアが高まることでの向上(ボーモル効果)」の3つがあります。
もし、好景気になって人手不足になれば、失業者が職についてOJTを受けることになり(1の効果)、賃金上昇とともに生産性の高い職場に人が移動します(2の効果、生産性の低い職場は賃金を上げられない)。
このように高圧経済論では需要を高めることで供給能力の向上も狙うわけですが、これによってクラウディング・アウトが起こる可能性は十分にあります。
また労働力についても、今の日本で賃金の上昇に伴う農村から都市への労働力の移動は起きそうにないので、低生産性部門から高生産性部門への移動となるでしょう。かといって、政府が特定の産業に肩入れする産業政策はうまくいくとは限りません。
そこで、減税や現金給付などが考えられるわけでですが、一般的な家計ではそれらは貯蓄に回ってしまうことが多く、著者は若年層向けのものなどがいいのではないかと述べています。
また、国土保全や安全保障などの一見すると経済には結びつかない支出も重要だといいます。
高圧経済では需要を刺激する政策が行われますが、それは企業や産業の新陳代謝をスピードアップさせます。成長する企業とともに退場を余儀なくされる企業も出てくるでしょう。
このように本書は財政政策と金融政策の基礎的な部分を押さえつつ、近年になって変化してきた部分について解説しています。
冒頭でも触れたように、近年では財政政策をはじめ、マクロ経済学において今までの常識を問い直すような動きがあります。
そういったことをふまえた分析を行っている本書は、日本の今後の経済運営などを考えていく上でも非常に有益な本と言えるでしょう。
- 2024年01月23日22:20
- yamasitayu
- コメント:0
副題は「ウェーバーからルーマンへ」となっていますが、基本的にはマックス・ウェーバー、特に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(以下「プロ倫」)についての新解釈を打ち出した本と言っていいでしょう。
というわけで、本書の評価の中心はその新解釈が成功しているか否かによるのですが、個人的にはあまりうまくいっていないのではないかと思います。
もちろん、自分はウェーバーをきちんと読んできたわけではなく、「プロ倫」や『職業としての政治』など岩波文庫になっているいくつかの著作を読んだ程度で、専門家によるジャッジはまた違うのでしょうが、本書の議論にはいくつかの無理があるように感じました。
ただし、ウェーバー〜ルーマンへとつづく組織論としては面白い部分もあり、第3章に関しては面白く読めました。
目次は以下の通り。
序 章 現代社会学の生成と展開第一章 「資本主義の精神」再訪──始まりの物語から第二章 社会の比較分析──因果の緯糸と経糸第三章 組織と意味のシステム──二一世紀の社会科学へ終 章 百年の環
まずは、著者の「プロ倫」に対する新解釈を紹介していきますが、250〜257pに著者によってまとめられている部分がありますので、とりあえず、まずそこだけ読んで見るというのも手だと思います。
「プロ倫」については、「近代資本主義の成立においてプロテスタンティズムの倫理、特にカルヴァン派などの禁欲的なプロテスタンティズムが大きな役割を果たした」ことを主張した本として理解されていると思います。
資本主義というと「欲望のシステム」のようにイメージされることも多いですが、その基礎に禁欲的な倫理があったという逆説が興味を引くわけです。
ところが、著者によると「プロ倫」の中で肝心の「資本主義の精神」は十分に定義されていないといいます。
自分の過去の読書の記憶を掘り起こすと、「けっこう長々と紹介されていたフランクリンの話とかがそうなのでは?」とも思いますが、著者は違った部分に「資本主義の精神」を求めていきます。
実は「プロ倫」では「ウェーバー&商会」というウェーバーの伯父が立ち上げた企業が例として紹介されています。
ウェーバー&商会は、周辺の農村を回って優秀な織り手を組織して、高品質の製品を作らせてそれを販売するという手法で大きな成功を収めた企業でした。
このウェーバー&商会について述べる中で、ウェーバーは「「近代資本主義の精神」が侵入した」(53p)と述べています。
ポイントの1つがこのウェーバー&商会が成長した時期が19世紀半ばだったという点です。一般的に「資本主義の精神」が資本主義を用意したと考えられていますが、ここでの資本主義の精神の侵入は資本主義が成立したあとに起きています。
また、ウェーバー&商会は機械による大量生産を行った企業ではありません。ウェーバー&商会では、従業員が自らの判断で織り手を集め、それを組織して、市場のニーズに合う商品を作らせました。
本書によれば、ウェーバーの考える近代資本主義の決定的特徴は、このような「自由な労働の合理的組織」だというのです。
著者はウェーバーの考えを次のように整理しています。
プロテスタンティズムの倫理 → 「資本主義の精神」 → 「自由な労働の合理的組織」(95p)
そして「プロ倫」の中で意外とわからないのが「資本主義の精神」だといいます。
そこで、本書は改めて「禁欲倫理」から「資本主義の精神」を探っていきます。
「プロ倫」ではカルヴァン派の禁欲と預定説をポ重視して
いますが、「禁欲」ということに限れば、カトリックの修道院などにも存在しました。
いますが、「禁欲」ということに限れば、カトリックの修道院などにも存在しました。
ここで著者は、修道院の禁欲は修道院のルールとして決まっているが、プロテスタンティズムの禁欲は具体的な生活規制を個人で決めなければならないところがポイントだといいます。
著者は、これを現在の仮採用や非正規の社員と重ね合わせています。本採用になるためには自分で考えて会社に必要不可欠な人間だということをアピールしなければならないが、会社が正社員にしてくれるかどうかはわからないし、ひょっとしたらいくら頑張っても正社員にしてくれないかもしれません。そういった不安の中でも自分で考えて努力するしかないわけです。
会社という組織が成功した場合、誰の救済が示されたのか? という問題が出てきます。つまり、救済されるのは経営者なのか、従業員なのか、両方なのか、あるいは示されていないのか、という問題が出てきます。
このことからも、著者はプロテスタンティズムの倫理だけでは、近代資本主義の勃興は説明できないと考えています。
「「(資本主義の精神)=(禁欲倫理)−(信仰)」ではなく、「(資本主義の精神)=(禁欲倫理)−(信仰)+X」(120p)というのです。
また、会社組織については、ウェーバーが『商事会社』でもとり上げていたフィレンツェの「コンパニア」に注目しています。
「コンパニア」は「構成員がそれぞれ異なる業務にあたりながら、同じ一つの事業にともに関与している」(130p)スタイルで、私的企業をこえた法人化の始まりとも言うべきものだといいます。
「ウェーバーのいう「合理的組織」とは、特定の誰の人格にも帰属しない「人に拠らない」組織」(140p)であり、これは資本主義の成立にも官僚制の成立にも大きく関わってきます。
ここまでが第1章。第2章では「資本主義の精神」の問題をいったん置いておいて、ウェーバーの方法論や官僚制の問題が論じられ、そこからもう1度「資本主義の精神」に話に戻ってきます。
ウェーバーは「適合的因果」という方法論をとっていたといいます。
これは1つの変数X1以外のすべての変数が同じである2つの対象において結果Yが生じている/いないという差異が生まれたら、X1がYの原因だとみなすやり方です。
ウェーバーはこの方法を使って、中国で近代資本主義が生まれなかった理由を考察しています。
ウェーバーによれば、近世の中国にも西ヨーロッパにも、1強烈な営利欲、2個人個人の勤勉さと労働能力、3商業組織の強力さと自律性、4貴金属所有のいちじるしい増加と貨幣経済の進展、5人口の爆発的な増加、6移住や物資輸送の自由、7職業選択の自由度と営利規制の不在、8生産方式の自由といった要素はありました。
しかし、中国には、(1)形式合理的な法とそれにもとづく計算可能な行政と司法の運用、(2)法や行政の業務が官吏の個人的な収入源にならないこと、(3)プロテスタンティズムのような禁欲倫理が欠けていたといいます(149p)。
これら(1)〜(3)の要因はそれぞれ内在的に関連しており、これが「合理的組織」を成立させなかった要因になっているといいます。
個人的にはたとえ1〜7の要素が西ヨーロッパと中国で同じだったとしても、他に無数の違った要素があるので、こういった比較から「因果」を導き出すことはできないと思いますが、とりあえず、ここでは本書の主張を押さえて先に進んでいきます。
以上のような議論を見た上で、著者は「ある程度の規模の経済社会において近代資本主義の生理る/不成立の直接の原因になるのは、合理的な行政や司法の有無であり、それを社会的に支える重要な条件として、それと同型のしくみをもつ宗教倫理などがある」(160p)ということを、ウェーバーの「結論」と考えています。
その上で、近代資本主義を成立させた具体的な原因として、「1プロテスタンティズムの禁欲倫理」、「2会社の名の下で共同責任制をとり、会社固有の財産をもつ法人会社の制度」(161p)の2つがあったと考えています。
著者は、例えば、植民地の有無なども遡れば、2の法人会社の制度の有無から導き出せるとしています。
ここで先ほどの「結論」に戻ると、ここで説明し尽くされていないのが「合理的」の部分です。
中国では官職の業務が個人的な収入と結びついていた(賄賂などをとることが当たり前だった)ことが、「合理的」な行政や司法の成立を妨げていたとされますが、これだけでは説明が不十分です。
例えば、「合理的組織」として官僚機構があげられますが、資本主義は官僚機構が相対的に弱いイギリスでまず発展しました。
ウェーバーは「計算可能な司法」といった要因をあげていますが、やはり「合理的組織」の内実についてもっと詰めるべきだというのが著者の立場で、この問題が第3章に持ち越されます。
ここでルーマンが登場します。著者はウェーバーは「合理的組織」を明確に定義づけることに失敗しており、それを補完するのがルーマンだというのです。
ウェーバーが近代資本主義成立のキーとなる概念について明確化できていなかったというのは、少し苦しい気もするのですが、著者はウェーバーの時代はそうしたことについての研究の積み重ねが十分ではなかった、ウェーバーは組織人としてはだめだった、といったことをその要因としてあげています。
ウェーバーといえば官僚制の研究でも知られていますが、官僚制というのは必ずしも効率的な組織だとは言えません。上から降りてくる「決定」が下の柔軟な対応を奪うことがよくあります。
ここで思い出してほしいのがウェーバー&商会のスタイルです。そこでは従業員の自由な決定がポイントになっていましたが、官僚制ではそうした自由な決定は難しいのです。
第3章で登場するルーマンは実際に官僚として働いたことがあり、また、H・A・サイモンなどの組織研究の成果を取り入れることもできました。
ルーマンによれば上位者の決定がすべてを決めるわけではなく、決定が次の者に決定を委ねるような形で進行していきます。
決定はすべてを決めてしまうことではなく、適切な決定を委ねることであり、決定の連鎖をつくっていくことなのです(211p図3−2参照)
あとの決定は前の決定を前提としており、この決定の連鎖こそが組織の肝だといいます。「組織というのは複数の決定を連ねて外部の変化に対応していくしくみ」(216p)なのです。
こうしたことを踏まえて「合理的組織」を再定義すると「水平的な協働を実現できる形で・組織の業務それ自体を遂行していく組織」(216p)ということになります。
こうした組織のあり方をルーマンは「組織の自己産出系」という言葉で表現しました。さまざまな決定の積み重なりが組織をつくっていくのです。
決定は自動的に次の決定を生むわけではありません。ときには例外的な事態が起こることもあります。
ただし、その場合でも、以前に決定された原理・原則に従って処理されるのが通例です。また、上司はあとに続く決定ができるだけ適切に処理をできるように調整を行う必要があります。
決定は時間的に分業されており、これによって職務と人格の分離も進んでいきます。
この決定の連鎖を著者は再びプロテスタンティズムの禁欲倫理に重ね合わせます。
神の決定は不透明なわけですが、その不透明な決定を意識しながら人間は決定を行います。その過程で、自分の決めた生活規則や事業運営が本当に正しいかどうかを自問自答しながら、決定を重ねていくことになっているというわけです。
ここで最終的な結論が出てきます。
「ルーマンの組織システム理論をふまえていえば、「資本主義の精神」とは、決めなければならない自由を生きることであり、それが水平的な協働ができるような形に自分や他人の働き方を組織すること」(249−250p)なのです。
本書ではさらにルーマンの理論的な背景やウェーバーの研究史上における意義などについても述べています。
本書は今まで「マルクスへの対抗馬」的に解釈されることが多かったウェーバーの「プロ倫」論文について新しい解釈を打ち出し、同時にウェーバーのその他の著作やルーマンの考えを通じて、資本主義を成り立たせたものを考察する内容になっています。
確かに面白い部分もあるのですが、個人的には本書は本書でウェーバーに多くの役割を負わせすぎなのでは? と思いました。
本書には、岡本隆司『シリーズ中国の歴史5「中国」の形成』の中国における資本主義の成立/不成立についての文章を引用して次のように述べている部分があります。
ところが、この文章にはウェーバーは出てこない。引かれているのはJ・ヒックスの経済学だ。中国史の研究者にはウェーバーはあまり評判が良くないらしい。正直、気持はよくわかる。使っている史料の詳しさや信頼性は現在とは比較にならないし、近世中国の法制度や官僚制に関しても、その独自の合理性を西欧と対照できる形で類型化できていない(171−172p)
ここから著者はウェーバーの「儒教と道教」の成立過程などを述べて、ある種の言い訳をしているのですが、こうした部分を読むと、「そこまでウェーバーの可能性を掘り下げなければならないのか?」とも思ってしまうのですよね。本書で解説されているようにウェーバーの考えにわかりにくさが残っているならばヒックスでいいじゃないかと。
ただし、ウェーバーを深く読んできた人には面白い解釈かもしれませんし、また、ルーマンのアイディアについてはわかりやすい導入になっているのではないかと思います。
ただし、ウェーバーを深く読んできた人には面白い解釈かもしれませんし、また、ルーマンのアイディアについてはわかりやすい導入になっているのではないかと思います。
- 2024年01月16日21:43
- yamasitayu
- コメント:0
『日本の大陸政策 1895‐1914』、『政党内閣の崩壊と満州事変―1918~1932』で近代日本の政治と軍事に関して今までとは違った視点を提供し、『児玉源太郎』で軍人だけではなく政治家としても独自のビジョンをもっていた児玉源太郎の姿を描いた著者による山県有朋の評伝。
山県の評伝といえば、何と言っても岩波新書(現在は岩波文庫)の岡義武の評伝があり、文春新書からは伊藤之雄の評伝もあります。特に岡の評伝は山県という政治家の性格を簡潔にえぐり出しており、高い壁となっていますが、本書は、山県を取り巻く政治的文脈を描き直すことで、新たな山県像を提示することに成功しています。
明治〜大正期については、伊藤博文→西園寺公望→原敬と山県有朋→桂太郎→寺内正毅のラインの対立というわかりやすい図式がありますが、著者の今までの研究はその見方に対する見直しをはかるものであり、その見方から山県に新たな光が当てられています。
評伝としても面白いですし、明治〜大正期の歴史の見方が一段と深まるような内容にもなっています。
目次は以下の通り。
第1章 政治的自我の形成―長州藩での台頭第2章 近代的国民軍の建設―一八六八〜七八年第3章 明治国家揺籃の時代―一八七八〜八七年第4章 総理大臣、枢密院議長第5章 権力の老練な操り師―一八九五〜一九〇〇年第6章 懸崖に臨む―日露戦争第7章 明治の終焉―一九〇五年〜一二年第8章 世界政策、デモクラシーとの対峙―一九一二〜一八年第9章 君主制の動揺とその死終章 二一世紀に召喚される山県
本書は山県の評伝なので、その生い立ちから始まっていますが、ここでは気になったポイントだけを簡単に紹介したいと思います。
まずは槍術です。山県は槍術の使い手で、年をとってもその稽古を欠かさなかったといいますが、この槍術という武芸に秀でていたことは山県のキャリアを考える上で重要なポイントになります。
のちに山県は奇兵隊の軍監となりますが、アウトロー的な隊士たちを取りまとめる上で、山県の武芸は力を発揮したと考えられます(奇兵隊をつくった高杉晋作も柳生新陰流の免許皆伝の腕前)。
山県というと山県閥を築いたあとの陰気なイメージがあるかもしれませんが、酒も強く、今で言う体育会系の資質を持つ人間でもありました。
高杉と山県は切っても切れない関係でしたが、同時に奇兵隊をはじめとする諸隊の存在感が増すことは、高杉にとってもやりにくいことでした。
このままいけば、高杉と奇兵隊を預かる山県との間で軋轢が生まれる可能性もありましたが、これは高杉の出奔と、早すぎる死によって回避されます。
しかし、やはり奇兵隊への警戒は残っていたようで、王政復古の大号令のときに奇兵隊は藩内での待機を命じられています。
戊辰戦争で山県は長岡での戦いに参加していますが、ここで山県は寄せ集めの藩兵の軍の問題点を認識しました。
1869年、山県が西郷従道とともに1年以上にもおよぶ外遊に出ています。この間に国内では大村益次郎の暗殺事件、奇兵隊の脱退騒動が起きています。もし、このとき山県が国内にいれば、なかなか難しい立場に立たされていたかもしれません。
薩土の藩兵も帰国しており、事実上、瓦解していた兵部省の立て直しが課題となりますが、山県は木戸孝允の期待を受けて兵部少輔に就任します。
山県は薩摩にはたらきかけて御親兵を創設し、ついで廃藩置県へ動きます。廃藩置県は多くの者が必要だと感じていながら実行には躊躇するものでしたが、山県が西郷から廃藩やむなしとの発言を引き出したことから一気に進んでいきます。
1871年7月、山県は大久保の後押しもあって兵部大輔に就任しました。ここで元奇兵隊隊士が公金を使い込む山城屋事件というスキャンダルが起きますが、山県はなんとか徴兵制を導入し、国民皆兵の道筋をつけます。
代人料270円納付による兵役免除など、国民皆兵とは言えない部分も残りましたが、山県は徴兵制の迅速な導入のために妥協しています。
西南戦争では、徴兵の軍隊が薩軍を相手に善戦しましたが、同時に田原坂では薩軍の抜刀突撃に対抗するために巡査部隊が投入され、黒田清隆開拓使長官や山田顕義司法大輔が野戦部隊の指揮官に加わるなど、近代的な軍隊としても体裁や指揮系統は完成されていませんでした。
西郷という人間のあり方も含めて、西南戦争は山県に官僚的な軍隊の建設の必要性を強く思わせた出来事だと考えられます。
西南戦争の前後に木戸と大久保が亡くなったことによって、伊藤博文や山県有朋などの各省の卿の発言力は強まっていきます。
陸軍ではドイツで軍事行政を学んだ桂太郎の帰国もあって、組織的整備が進み、山県は国務に専念できるようになりましたが、1878年の竹橋事件のように軍の統制を揺るがすような問題も起こりました。
山県はさらに指揮系統の一本化のために参謀本部を設立します。ただし、桂は陸軍省の強化こそが急務であり、参謀本部の必要性を必ずしも認めていなかったといいます。
山県は、参謀本部長に就任するとともに陸軍卿の地位を西郷従道に譲っているように、藩閥の融和のためにも参謀本部が必要だと考えたいた可能性もありますが、のちにさまざまな問題を生み出すことにもなります。
自由民権運動が高揚すると、陸軍内でも政治的発言を強める谷干城、鳥尾小弥太、三浦梧楼、曾我祐準の四将軍派が形成され、政府内部では憲法制定をめぐって伊藤と大隈重信が対立します。
山県は軍人が政治に関与することを問題視し、1882年の軍人勅諭で改めて軍人の政治への不関与を定めます。
その一方で山県は国務の中枢に関わるようになっていきます。山県は参謀本部長と参議を兼任し、伊藤が憲法調査のために渡欧すると伊藤に留守を任される形で、参事院の議長も兼職しています。
1884年頃から、陸軍では「ドイツ派」とも言われるドイツ陸軍に傾倒した山県・大山巌−桂・川上操六−児玉源太郎・寺内正毅らの主流派が形成され、師団制度の導入へと動いていました。
これに対抗したのが先述の四将軍派です。井上馨の後押しなどもあり。義勇兵制度の創設による常備兵力の削減を主張していた三浦梧楼が中央の要職につく動きもありましたが、山県は薩派と協力してこれを退けています。
この時期、内務卿の地位にあった山県の取り組んだ課題は地方自治でした。山県は自治制度を、徴兵制度にとして、また、国家の基盤としても重視しており、市町村−郡ー府県の三層構造を構想しました。
一方、井上毅は人工的な自治の仕組みはうまくいかないと考えており、自治を導入するにしても市町村レベルに留めるべきだと考えていました。
1888年12月、山県は外遊に出ます。狙いの1つはドイツとオーストリアで地方自治について学ぶことでした。
帰国後の1889年12月、第一次山県内閣が成立します。山県というと藩閥のイメージが強いかもしれませんが、この内閣では非藩閥の陸奥宗光を農商務相に、芳川顕正を文相に抜擢しています。特に陸奥の抜擢は政党操縦のための布石でした。
第一次山県内閣は府県制・郡制を公布します。町村会と市会には納税額の多寡にしたがった等級選挙が導入され、府県会議員は市会議員や郡会議員の中から互選されることになり、郡会議員は超村会議員と大地主の中から互選されることになりました。
山県は直接選挙にこだわっていましたが、府県会は間接選挙になりました。一方、町村長の公選制については山県の考えが通り、地方自治と徴兵制の接合のために郡役所の強化が図られました。
山県は地方の名望家層に一定の信頼感を持っており、彼らへの期待から上意下達の官治主義ではない地方自治が構想されました。山県は「逆説的な民主主義者」(97p)であったとも言えます。
第一議会に臨んだのも第一次山県内閣ですが、ここでは「主権線と利益線」の演説が有名です。
「利益線」とは朝鮮半島のことで日本の大陸進出を予告したものとして捉えられていますが、山県の当時の考えは朝鮮を恒久中立国とすることで、これを日清英独の4カ国によって保障する枠組みの構築を考えていました。山県は大陸に進出する陸軍を準備するにはあと20年かかると見ており、日本独力での勢力圏の拡大は難しいと見ていたのです。
山県は自由党の切り崩しによって第一議会を乗り切り、松方正義にバトンタッチします。
選挙干渉などで混乱した第一次松方内閣のあとを引き受けたのは第2次伊藤内閣でした。この内閣に山県は司法相として入閣します。
1894年に日清戦争が勃発すると山県は第一軍の司令官となり朝鮮へと渡ります。基本的に万事慎重な山県ですが、朝鮮に渡ると長線縦貫鉄道の建設や平壌以北への日本人の移民などを考えるようになります。著者は以後も見られる山県のパターンとして「日本近隣で帝国的秩序の動揺に直面すると、山県の議論は突如として「大風呂敷」めいたものになり、リアリティーを失っていく」(114p)と述べています。
しかし、山県は朝鮮で胃腸病にかかり、第一軍司令官を解任されて内地に戻ります。三国干渉への対応も山県不在のうちに決まってしまい、山県は失意の日々を過ごすことになりました。
陸軍でも第2次松方内閣では薩派の高島鞆之助が陸相に就任し、桂が東京湾防御総督に左遷されます。
ただ、その後の第3次伊藤内閣のときに桂が陸相に復帰し、以後、桂−児玉−寺内正毅−石本新六と陸相を山県系が独占することになりました。
1898年11月、第2次山県内閣が成立します。薩長の藩閥勢を中心に、清浦奎吾(司法相)、芳川顕正(逓信相)、安広伴一郎(内閣書記官長)、平田東助(内閣法制局長官)といった山県系官僚が入り、実務能力が高い内閣となりました。
山県は星亨とのトップ会談で憲政党との連携を実現させ、地租増徴に成功します。さらに間接選挙がかえって市町村会の政党化をもたらしているとして、郡会、府県会に直接選挙を導入し、衆議院議員選挙の納税資格を15円以上から10円以上に引き下げました。
一方で文官任用令を改正して各省への政党の侵入を防ぎ、治安警察法を制定しています。1900年には軍部大臣現役武官制も制定されていますが、これには薩派が強かった軍令部を陸軍省(軍政)が抑える意図もあったといいます。
1901年に第4次伊藤内閣が倒れると、伊藤や山県よりは一世代下の桂が首相になります。第一次桂内閣は「小山県内閣」と呼ばれ、山県の傀儡政権というイメージが強かったですが、この内閣は4年6ヶ月も続き、桂は徐々に山県から自立していきます。
1903年、山県は伊藤の枢密院議長就任を持ちかけ、同時に山県と松方も枢府に入ります。
桂は児玉を台湾総督在任のまま内相兼文相に据え、府県半減、郡制・文部省の廃止を軸とした国制改革を行おうとしました。
桂と児玉の進めようとした府県半減は、工業化時代に見合った広域行政実現のためのもので、山口県は広島・福岡両県に分割され、鹿児島県は宮崎県を併合することになるという長州閥による長州の自己否定ともいうべきものでした。
山県はこれらの改革には反対で、参謀次長の田村怡与造が急逝すると児玉の就任を桂にはたらきかけ、児玉が参謀次長になったことで、この改革は頓挫します。
日露戦争に関して、桂は児玉、寺内らと話を進め、山県を祭り上げるような一面も見られましたが、最終的には山県や伊藤などの元老とともに開戦を決定しています。
この戦争の中で桂は宮中でも存在感を見せるようになっていきます。山県は伊藤らとともにできるだけ早い講話を望み、それがポーツマス条約の調印へとつながっていきます。
日露戦争後は、いわゆる「桂園時代」となりますが、本書では山県と桂のズレ、そして桂の山県からの自立を指摘しています。
桂の後継に児玉を推す動きもありましたが、山県は桂の推した西園寺公望にすぐ同意します。この背景には桂や児玉の改革姿勢を山県が嫌ったためと著者はみています。
陸軍内においても、日露戦争後、山県はロシアの復讐に備えるために6個師団増設、平時25個、戦時50個師団を唱えますが、新たに参謀総長に就任した児玉は平時19〜20、戦時40個師団もあれば十分だと考えていました。しかし、1906年7月に児玉は脳溢血で世を去ります。
1907年の「帝国国防方針」では山県の意見が通りますが、財政状況などをみてとりあえずは平時19個師団を当面の目標としました。
山県は国際社会を権力外交の視点から見ており、しかも最悪の事態を想定するために、必然的に軍拡を志向したのです。
1909年、伊藤博文が暗殺されます。山県は伊藤の死を悼むとともに「死所をえた点においては自分は武人として羨ましく思う」(202p)と述べたと言います。
山県は自らを明治国家を重ね合わせるようになっており、また、「尊王」への回帰の念の強くなりました。第2時桂内閣において持ち上がった南北朝正閏問題でも、桂は学者の議論に任せつつもりでしたが、山県が激怒して南朝正統論を確定させます。
1912年、明治天皇が崩御し明治が終わります。ここでも山県は大きな衝撃を受けますが、自らの手を離れつつあった桂を内大臣として宮中に押し込めるという手も打っています。
ここで浮上したのが2個師団増設問題です。師団増設は山県の意向でしたが、自身はそれほど急いでいたわけではありませんでした。しかし、田中義一と薩派に背中を押された(さらに自らの復活を画策していた桂の後押しもあったという)上原勇作陸相が単独辞職したことで、政変への発展します。
これを受けて第3次桂内閣が発足しますが、世間は実際は対立があったにも関わらず、山県と桂が結託して西園寺を引きずり降ろしたと考えました。結局、世論が沸騰する中で桂は退陣し、世を去ることになります。
山県もしばらくは大人しくせざるを得ませんでしたが、シーメンス事件で山本権兵衛が退陣すると、大隈重信を後継に推すことで政友会に対して巻き返しを図ります。
山県の狙い通りに政友会に打撃を与えることには成功しますが、第一次大戦への参戦も二十一箇条の要求も袁世凱の引きずり下ろしを図る反袁政策も、山県の臨んだものではありませんでした。大隈内閣の外交に危機感を覚えた山県は大隈包囲網をつくって退陣へ追い込みます。
山県は旧来の権力外交にとらわれており、ウィルソンの提唱する国際連盟の創設などにも否定的でした。そのためにさらなる軍備拡張が必要だと考えていました。そうした影響もあって1917念の「帝国国防方針」では、平時20個・戦時41個軍団(旧来の師団だと平時33個・戦時61.5個師団)という巨大陸軍の建設が目指されることになります。
当時の首相は山県系の寺内正毅ですが、寺内はこれを過大と見ていました。米騒動への対処での対立もあり、寺内は山県に相談することなく辞職します。
後継として山県はやむなく原敬を認めることになりますが、晩年の山県は原を非常に評価するようになります。
このころには大正天皇の状態も悪化しており、ロシアやドイツで君主制が倒れるなど、世界的に見ても君主制は危機にありました。こうした中で、山県は原と協力して対処しようと考えるようになっていました。原の漸進主義は過激な思想を嫌う山県にとっても受け入れられるものだったのです。
ただし、山県が宮中某重大事件で足元をすくわれます。皇太子の婚約者であった久邇宮良子女王に色覚異常の遺伝が判明し、山県は婚約解消へと動きますが、婚約解消は人倫に反するとする杉浦重剛の主張などもあり、山県は民間右翼などから「不忠者」と攻撃されました。
山県は田中義一宛の書簡の中で「自分は勤王に出で勤王に討ち死にした」(263p)と書いていますが、晩年にこのような批判を受けるとは山県には心外だったでしょう。
1922年の2月に山県は世を去っています。
最後に著者は山県を「軍国主義の象徴」として扱うことの是非について論じています。
確かに山県は徴兵制の陸軍をつくり、それを育てました。ただし、同時に軍人の政治介入を嫌い、またポピュリズム的な外交とも無縁でした。また、山県の目指した「天皇の軍隊」というスタイルは総動員体制とは違ったものでした。
このように、本書は「保守」「反動」「軍国主義」といったイメージを持たれがちな山県についてそのイメージの修正を図っています。
特に、これまで著者の本を読んだことのない人にとっては、山県と桂・児玉の違いというのは新鮮に映るものではないでしょうか?
「人間像」を描くものとしてはやはり岡義武の評伝が優れてるかもしれませんが、新しい研究に基づいた山県を取り巻く文脈の記述には岡の評伝はない面白さがあります。
- 2024年01月06日22:40
- yamasitayu
- コメント:0
記事検索
最新記事
カテゴリ別アーカイブ
月別アーカイブ
★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
人気記事
タグクラウド