2023年12月
去年の「2022年の新書」のエントリーからここまで50冊の新書を読んできたようです。
というわけで、恒例の「2023年の新書」といきたいと思います。
まず、全体としては、去年に引き続き今年の前半もやや低調に思えたちくま新書が後半になって良い本を出してきたと思います。「毎月6冊出す体制が無理になってきたのでは?」とも思いましたが、立て直してきた感じです。
あとは岩波新書が価格を上げてきました。講談社現代新書と同じく、基本、1000円超えという価格設定になってきました。さまざまな費用の値上がりとかを考えると仕方のないことかもしれませんが、こうなると岩波では少ないとはいえ、厚めの新書を出すのは難しくなるのでは? とも思います。税込みで15000円近くになってくると「高い」と感じる人も多いのではないでしょうか。
あとは、角川新書が過去の単行本などを新書化しているのに対して、光文社が「知恵の森文庫・未来ライブラリー」で過去の新書(山口仲美『犬は「びよ」と鳴いていた』、安田浩一『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』)を文庫化しており、このあたりの流れはどうなっていくんですかね?
ガンディーというと非暴力を貫いた聖人のようなイメージがあるかもしれませんが、ガンディーの思想の核は「真実にしがみつくこと(サッティヤーグラハ)」だとした上で、そこから生まれるガンディーの偉大さや強さと、同時に現れてくる一種の異常さまでを指摘した評伝の傑作です。
おそらく今度の新書大賞はこの本ではないでしょうか?
それくらい話題にもなりましたし、中身も充実している1冊です。
前半のオノマトペの役割や、世界のオノマトペとその共通点といった話題でも十分に1冊の新書として成り立つ面白さがありますが、さらにそこから子どもがいかにして言語を学ぶのかという問題、そして言語の本質へと肉薄していきます。
というわけで、恒例の「2023年の新書」といきたいと思います。
まず、全体としては、去年に引き続き今年の前半もやや低調に思えたちくま新書が後半になって良い本を出してきたと思います。「毎月6冊出す体制が無理になってきたのでは?」とも思いましたが、立て直してきた感じです。
あとは岩波新書が価格を上げてきました。講談社現代新書と同じく、基本、1000円超えという価格設定になってきました。さまざまな費用の値上がりとかを考えると仕方のないことかもしれませんが、こうなると岩波では少ないとはいえ、厚めの新書を出すのは難しくなるのでは? とも思います。税込みで15000円近くになってくると「高い」と感じる人も多いのではないでしょうか。
あとは、角川新書が過去の単行本などを新書化しているのに対して、光文社が「知恵の森文庫・未来ライブラリー」で過去の新書(山口仲美『犬は「びよ」と鳴いていた』、安田浩一『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』)を文庫化しており、このあたりの流れはどうなっていくんですかね?
他だと、手堅く売れる歴史系の新書が増えている気がします。
では、まずはベスト5を紹介してから追加で何冊かをあげたいとおもいます。
間永次郎『ガンディーの真実』(ちくま新書)
では、まずはベスト5を紹介してから追加で何冊かをあげたいとおもいます。
間永次郎『ガンディーの真実』(ちくま新書)
ガンディーというと非暴力を貫いた聖人のようなイメージがあるかもしれませんが、ガンディーの思想の核は「真実にしがみつくこと(サッティヤーグラハ)」だとした上で、そこから生まれるガンディーの偉大さや強さと、同時に現れてくる一種の異常さまでを指摘した評伝の傑作です。
ガンディーの生涯をめぐる一貫した問いとは、人間はどこまで真実を直視し、それに忠実に従うことができるのか、換言すれば、どこまで人間は真実にしがみついていられるものなのか、ということだった。そして、ガンディーの生涯は、その「極限」を模索するものだったと言える。(24p)
おそらく今度の新書大賞はこの本ではないでしょうか?
それくらい話題にもなりましたし、中身も充実している1冊です。
前半のオノマトペの役割や、世界のオノマトペとその共通点といった話題でも十分に1冊の新書として成り立つ面白さがありますが、さらにそこから子どもがいかにして言語を学ぶのかという問題、そして言語の本質へと肉薄していきます。
言語哲学をかじった人にも面白い内容だと思いますし、AIに興味がある人にも、さらには子どもを育てたことのある人など、さまざまな人にとって興味深く、面白い内容がつまっています。
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八鍬友広『読み書きの日本史』(岩波新書)
江戸時代の日本において庶民の識字率が比較的高かったことはよく知られていますが、では、彼らは自由に文章が書けたのでしょうか?
話し言葉と書き言葉が分離していた当時の状況では、字を知っていても必ずしも文を書けるようにならなかったというのは本書の指摘の1つになります。
本書は、日本における書き言葉の特徴を指摘し、さらに読み書きの教材として使われた「往来物」に注目することで、庶民がいかなる読み書きの能力を欲し、それを学んだかということを検討しています。
「言われてみればその通り」ということも多いのですが、意外に知らなかった日本語の歴史を教えてくれる本になります。
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森部豊『唐―東ユーラシアの大帝国』(中公新書)
唐と言えば中国の歴史を代表する王朝ですが、基本的には「隋唐」でセットになることが多く、唐のみを扱った本というのは少ないかもしれません。
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八鍬友広『読み書きの日本史』(岩波新書)
江戸時代の日本において庶民の識字率が比較的高かったことはよく知られていますが、では、彼らは自由に文章が書けたのでしょうか?
話し言葉と書き言葉が分離していた当時の状況では、字を知っていても必ずしも文を書けるようにならなかったというのは本書の指摘の1つになります。
本書は、日本における書き言葉の特徴を指摘し、さらに読み書きの教材として使われた「往来物」に注目することで、庶民がいかなる読み書きの能力を欲し、それを学んだかということを検討しています。
「言われてみればその通り」ということも多いのですが、意外に知らなかった日本語の歴史を教えてくれる本になります。
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森部豊『唐―東ユーラシアの大帝国』(中公新書)
唐と言えば中国の歴史を代表する王朝ですが、基本的には「隋唐」でセットになることが多く、唐のみを扱った本というのは少ないかもしれません。
隋唐でまとめると、いわゆる「律令国家」の歴史という感じになり、安史の乱以降は軽く扱われることが多いですが、本書は、大まかに安史の乱以前の唐を「東ユーラシア」の帝国、安史の乱以降の唐を黄河と長江流域を中心に統治する「中国」の王朝と捉え、その興亡を描き出しています。
中国の歴史だけではなく、ユーラシアや東アジアの広域の歴史も見えてくる、非常にダイナミックで面白い本ですね。
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児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』(ちくま新書)
最後の1冊は迷いましたが、このブログでも記録となる1000を超えるはてなブックマークを集めたこの本をあげておきます。
21世紀になって安楽死や医師幇助自殺を認める国が広まっていますが、そういった国でどのような事が起こっているのか? ということを報告した本です。
著者には障害を持つ子どもがおり、安楽死に反対の立場から書かれているのですが、本書で紹介されているさまざまな事例は安楽死に賛成の人でもぜひ知っておくべきことなのではないかと思います。
安楽死を認めると、高齢者や障害者の命が軽んじられるのではないかという「すべり坂」論がありますが、本書を読むと、すでにすべり坂をゆっくりとすべっているように思えます。
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次点として、古色蒼然としたイメージのあるアリストテレスの哲学を現役の哲学として紹介した中畑正志『アリストテレスの哲学』(岩波新書)、ウクライナ戦争について的確な解説と見通しを提供してくれた(絶対的な兵力の差からウクライナが苦戦する可能性も指摘してあった)小泉悠『ウクライナ戦争』(ちくま新書)、日本の戦後政治史をたどりながら「ネオ55年体制」という現在のあり方を指摘した境家史郎『戦後日本政治史』(中公新書)、実証経済学で行われてきたさまざまな研究を紹介することによって、このジェンダー格差の問題に迫った牧野百恵『ジェンダー格差』(中公新書)、本当にさまざまな紛争の現場を訪ねながら紛争解決と和解のあり方を探った上杉勇司『紛争地の歩き方』(ちくま新書)をあげておきます。
そして、ここまでで10冊ですが、さらに追加で思ったよりもヘヴィーな内容ですが、非常に勉強になる筒井淳也『数字のセンスを磨く』(光文社新書)をあげておきましょう。
こう振り返ると、さまざまなジャンルの新書を読んできたなと思いますが、そういったさまざまなジャンルに手を出せるのが新書の良さですね。
中国の歴史だけではなく、ユーラシアや東アジアの広域の歴史も見えてくる、非常にダイナミックで面白い本ですね。
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児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』(ちくま新書)
最後の1冊は迷いましたが、このブログでも記録となる1000を超えるはてなブックマークを集めたこの本をあげておきます。
21世紀になって安楽死や医師幇助自殺を認める国が広まっていますが、そういった国でどのような事が起こっているのか? ということを報告した本です。
著者には障害を持つ子どもがおり、安楽死に反対の立場から書かれているのですが、本書で紹介されているさまざまな事例は安楽死に賛成の人でもぜひ知っておくべきことなのではないかと思います。
安楽死を認めると、高齢者や障害者の命が軽んじられるのではないかという「すべり坂」論がありますが、本書を読むと、すでにすべり坂をゆっくりとすべっているように思えます。
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次点として、古色蒼然としたイメージのあるアリストテレスの哲学を現役の哲学として紹介した中畑正志『アリストテレスの哲学』(岩波新書)、ウクライナ戦争について的確な解説と見通しを提供してくれた(絶対的な兵力の差からウクライナが苦戦する可能性も指摘してあった)小泉悠『ウクライナ戦争』(ちくま新書)、日本の戦後政治史をたどりながら「ネオ55年体制」という現在のあり方を指摘した境家史郎『戦後日本政治史』(中公新書)、実証経済学で行われてきたさまざまな研究を紹介することによって、このジェンダー格差の問題に迫った牧野百恵『ジェンダー格差』(中公新書)、本当にさまざまな紛争の現場を訪ねながら紛争解決と和解のあり方を探った上杉勇司『紛争地の歩き方』(ちくま新書)をあげておきます。
そして、ここまでで10冊ですが、さらに追加で思ったよりもヘヴィーな内容ですが、非常に勉強になる筒井淳也『数字のセンスを磨く』(光文社新書)をあげておきましょう。
こう振り返ると、さまざまなジャンルの新書を読んできたなと思いますが、そういったさまざまなジャンルに手を出せるのが新書の良さですね。
- 2023年12月25日23:30
- yamasitayu
- コメント:0
相模原障害者施設殺傷事件、京都ALS嘱託殺人事件、そして映画『PLAN 75』など、日本でもたびたび安楽死が話題になることがあります。
安楽死については当然ながら賛成派と反対派がいますが、賛成派の1つの論拠としてあるのは「海外ではすでに行われている」ということでしょう。
著者は以前からこの安楽死問題について情報を発信してきた人物ですが、著者が情報発信を始めた2007年頃において、安楽死が合法化されていたのは、米オレゴン州、ベルギー、オランダの3か所、それとスイスが自殺幇助を認めていました。
それが、ルクセンブルク、コロンビア、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア(一部を除く)、スペイン、ポルトガルに広がり、米国でもさまざまな州に広がっています。
では、そういった国で実際に何が起こっているのか? というのが本書に書かれていることになります。
その内容は結構衝撃的で、例えば、カナダのような「人権先進国」的なイメージのある国でも、かなり功利主義的な運用がなされていることがわかります。
後半は、障害者の子を持つ親の立場からの安楽死反対論といった色彩が強くなるので、やや好みが分かれるところだとは思いますが、安楽死にはっきりと賛成だという人であっても本書の前半は読む価値があると思います。
安楽死について、今一度再考を求める本と言っていいでしょう。
目次は以下の通り。
序章 「安楽死」について第1部 安楽死が合法化された国で起こっていること第1章 安楽死「先進国」の実状第2章 気がかりな「すべり坂」第2部 「無益な治療」論により起こっていること第3章 「無益な治療」論第4章 コロナ禍で拡散した「無益な患者」論第3部 苦しみ揺らぐ人と家族に医療が寄り添うということ第5章 重い障害のある人の親の体験から医療職との「溝」を考える第6章 安楽死の議論のおける家族を考える終章 「大きな絵」を見据えつつ「小さな物語」を分かち合う
まず、日本ではまとめて「安楽死」と呼ばれることが多いですが、「積極的安楽死」と「医師幇助自殺」という区別があります。医師が死なせる意図をもって毒物などを注射するのが前者であり、医師が処方した薬物を患者が飲んだり、医師が入れた点滴のストッパーを患者が外したりするのが後者です。
ただし、カナダが両者を「医療的臨死介助(MAID)」と呼ぶようになってから、区別されずに議論されるようになっています。
なお、2019年にNスペでとり上げられた難病女性がスイスに行って死を選んだケースは「医師幇助自殺」になります。
また、「尊厳死」という言葉もあります。これは日本では治療を差し控えるときなどに使われますが、海外では「医師幇助自殺」などに「尊厳死」という名前がつけられていることもあり、注意が必要です。
最初にも述べたように、安楽死は世界で急速に広がりつつありますが、注目すべきは安楽死そのものの広がりとともに要件の緩和が進んでいることです。
例えば、カナダでは2016年に合法化された当時は、「死が合理的に予見可能」で耐え難い苦痛なる人を対象にしていましたが、2021年に「死が合理的に予見可能」の要件を撤廃しています。
スイスは安楽死を合法化しているわけではありませんが、個人的な利益が目的でなければ自殺幇助が違法とみなされないために、医師幇助自殺機関が合法的に活動しています。
外国人を受け入れる医師幇助自殺機関も増えており、いわゆる自殺ツーリズムが行われています。厳しい要件があるわけではないので、例えば、安楽死が合法化されているオランダからスイスに赴いて自殺する人もいるそうです。
オランダは最も早い時期から積極的安楽死が行われていた国で、2022年には総死者数の5.1%にあたる8720人が安楽死しています(大半はがん患者だが、認知症患者も288人いる)。
オランダでは2016年末に、75歳以上の高齢者が冷静に熟慮した上で死にたいを望む場合は安楽死を認める法案が議会に提出されました。成立はしませんでしたが、まさに『PLAN 75』のような世界の一歩手前という感じです。
オランダでは「コーヒー事件」というものがありました。これは認知症で重症化して家族のことがわからなくなったり、施設で暮らすことになったら安楽死を望むという意思をあらかじめ書面で示していた女性が4年後に施設に入所し、意思確認にはどちらともはっきりしなかったものの、医師がコーヒーに鎮静剤を入れて安楽死させたという事件です。
この一連の手続きは問題視されましたが、2019年に出た判決は医師を無罪としています。
また、お隣のベルギーでも安楽死は合法化されていますが、「耐え難い苦痛」は精神的なものにも拡張されつつあり、生まれつき耳の聞こえない40代の男性の双子が近く失明することがわかって2人揃って安楽死したケースもあるそうです。
ベルギーでは年齢要件も撤廃され、終末期で耐え難い身体的苦痛を条件に子どもにも安楽死を認めています。
カナダで安楽死が合法化されたのは2016年ですが、安楽死の割合は急増しており、ケベック州ではオランダに近い数字になっているといいます。
カナダの先述のMAIDは「ケア」として位置づけられているのが特徴で、ケベック州の高齢者問題大臣は「MAIDは人々が最後の瞬間まで自分が望むように生きることを可能にするケアなのです」(47p)と語ったそうです。
カナダでは、医療や福祉を十分に受けられない人の安楽死の申請が医師らによって承認されるケースが報道されており、化学物質過敏症で住む場所がなくなっていた50代の女性や、難病に加えて家賃の高騰で住む場所がなくなった女性などが安楽死しています。
安楽死の反対意見として良く用いられるのが「すべり坂」論です。これは「死が間近」「耐え難い苦痛」などの要件が徐々に緩和されていき、気がついたら安楽死の対象が広がってしまうことを危惧するものですが、本書によるとこの危惧にはリアリティがあるといいます。
まずは安楽死が「緩和ケア」の一環のように扱われているケースです。
先述のカナダ以外でも、緩和ケアの研修を十分に受けていないと、身体的・精神的な苦痛がケアで取り除けないと判断すると、安楽死を唯一の解決策と考えてしまう医師も多いそうです。
また、安楽死の存在が自殺を防ぐという議論もありますが、オランダでは2007年に1353人だった自殺者は2019年には1811人にまで増えているといいます。
また、安楽死が「死ぬ権利」として定義されると、「なぜそれを認めないのか?」という動きが起こってきます。
アメリカのオレゴン州では当初、医師自殺幇助の対象を州民に限っていましたが、となりのワシントン州の州境近くの医師が、わずかな距離で認められないとは権利の侵害であるとの訴訟を起こし、結果として州民の要件は撤廃されることになりました。
オーストラリアの安楽死合法化の運動でも、「スイスにいけばできるのに」ということが論拠として使われたそうです。
アメリカでは自発的に飲食を断って死に至る自発的飲食停止(VSED)というものがあるそうです。もちろん、これはかなり苦しいものなのですが、緩和ケアを受けながらVSEDで衰弱して医師自殺幇助の条件を満たして投薬などを受けるというケースもあるそうですし、「VSEDのような酷い死に方が行われているのは安楽死が認められないからだ」という議論もあるそうです。
安楽死が合法化されているベルギーでは、法律で禁止されているにもかかわらず、医療職が安楽死を提案するケースも絶えないそうです。さらに緩和ケアの流れの中で必要以上のモルヒネが投与されて死に至るようなケースもあるといいます。
安楽死の前提として「自己決定」がありますが、安楽死の対象者が認知症患者、子どもなどに拡大されていくにつて、この前提は揺らいでいます。
オランダでは2004年の「フローニンゲン・プロトコル」によって0〜1歳の安楽死が認められており、親の意思決定による安楽死が行われています。
安楽死は社会保障費の削減とリンクされて論じられてもいます。
カナダではカルガリー大の医師らはMAIDで毎年1万人死ぬと予測した上で1億3000万ドルの医療費が削減できるとの試算を発表し、カナダ予算局も2016年の合法化によって8690万ドル、さらに要件緩和を行うと1億4900万ドルの削減が見込まれるとのデータを出しています。
海外では安楽死と臓器提供も結び付けられています。
安楽死と臓器提供に同意した人に関しては、安楽死を行って心肺停止になってから数分後に臓器を取り出すということが、ベルギー、オランダ、カナダ、スペインなどで行われています。
ケベック州では臓器ドナー全体における安楽死後臓器ドナーの割合は15%に達しており、そのほとんどがALSなどの進行性神経疾患の患者だといいます。
臓器ドナーは常に不足しており、この面から安楽死の合法化、対象拡大、あるいは心肺停止から摘出までの時間の短縮などに圧力がかかっているのです。
安楽死とともに、医療サイドに一方的に治療の差し控えや中止の決定権を認める「無益な治療」論も世界では広がっているといいます。
もともとは末期のがん患者などに心肺蘇生などを行うことへの批判などから起こってきたものですが、1999年に米テキサス州で成立した「無益な治療」法(TADA)では、病院の倫理委員会で終末期や不可逆な患者のケースで「無益」と判断した治療は、患者に転院先を探す10日間の猶予を与えた上で、中止できるとしています。
こうした中で2007年に起きたのがゴンザレス事件です。エミリオ・ゴンザレス(1歳)はリー脳症という難病にかかっており、病院側は治療の中止を決めました。これに対して母親は治療の続行を求めましたが、病院側は書面で治療の中止を通告します。与えられた10日間のうちに転院先を見つけられなかった母親は期限の延期を求めて訴訟を起こし、裁判官も裁判の決着まで治療を続けるように命じますが、その間にエミリオは亡くなりました。
このように「無益な治療」論によって、トラブルも生じているのです。
TADAが治療中止の要件としている「不可逆性」の定義の中には、たとえば四肢麻痺で人工呼吸器に依存している人や、経管栄養に当てはまりかねないものもあり、米国の障害者からは「QOL」を理由に重度障害者の治療を差し控えることになりかねないとの懸念も出ています。
実際、ゴンザレス事件に関して、生命倫理学者でもあるノーマン・フォストは「エミリオはあまりにもQOLが低すぎて、救命にも治療コストにも値しない」(107p)と述べています。
イギリスでは2018年に、それまで裁判所の判断が必要だった遷延性意識障害のある人への生命維持の中止について家族と医師だけで決めることが出来るようになりましたが、これも「自己決定」が掘り崩されている事例を言えるのかもしれません。
QOLを数値化しようという動きもあり、ゲイツ財団の支援によって誕生したIHMEでは、医療経済学者で所長のクリストファ・マレイが薬や治療法の費用対効果を図る新基準であるDALYを提唱していますが、そこでは目の見えない人の生存年数はそうでない人の6掛け、移動機能に障害がある人は8.5掛けなどの「割り引き」が行われています。
WHOなどで採用されているQALYでも、自分の健康状態を自己申告させた上で、その人のQOLを値を割り出すということがなされており、こうした動きと「無益な治療」論が結びつく可能性もあります。
特にQOLにおいて「人間らしい生活」といったものが重視されるようになれば、意識がなかったり、周囲とのコミュニケーションが難しかったりする患者のQOLは著しく低いと判断されかねません。
アメリカの障害学者のジェイムズ・ワースは「「無益な治療」論によって「医師の権限が最大になり、逆に障害のある人々とそのアドボケイトが最小化される」(122p)と危惧しています。
イギリスでは一方的なDNR(蘇生不用)指示も問題になっています。患者も家族も知らないうちにカルテにDNR指示が書き込まれていることがあるとして、2011年には高齢者の入院時にDNR指示がルーティン化していることが明らかになりました。
日本でも医師が1人でDNR指示を決めてしまうことがあるといい、また看護師へのアンケートでは「経済的な問題がある場合」にDNR指示が出されていることもあるといいます。
英語圏では"bed blocker"という言葉もあるそうです。これはベッドをふさいでいる人という意味で、医療現場からは「その人が治療をあきらめれば他の生命が救えるのに」といった形で使われます。
費用面でも「そのお金があれば」「その医療資源があれば」という形で使われ、安楽死を後押しする考えにもなりかねません。
さらに先述のように、臓器移植と「無益な治療」論が結びつくと、「QOLが著しく低い人はドナーになるべきである」ともなりかねないのです。
ここまでが第3章までの内容で、安楽死に賛成でも反対でも、ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思います。
一方、第4章以降は障害のある子どもを持つ親としての著者の個人的な思いが強く出ている内容で、切実ではありますが、医療関係者などには反発される内容も含まれていると思います。
以下、第4章以降の内容を簡単にまとめておきます。
第4章ではコロナ禍において「無益な治療」論が語られるようになったきたことへ警鐘を鳴らしています。
コロナ禍においては、集中治療室などが埋まってしまい、救急搬送できないといった状況が各地で見られましたが、そうなるとできるだけ先のある人、経済的に責任を負っている人などを優先しようとする動きが出てきます。
また、知的障害者などに対する家族の付き添いが感染防止のために禁止されることも各地で起き、それが障害者の生活を脅かしました。知的障害のある人がコロナに感染して亡くなる確率は一般人の3〜4倍とも言われており(168p)、障害者の権利が果たして守られていたのか? という問題があります。
第5章では障害のある子どもの親としての経験から、家族と医療職のギャップの問題をとり上げています。
「医療」を重視する医療職と、「生活」を重視する家族、障害を持つ子どものQOLに対する考え方の違いなどがとり上げられています。
また、透析の中止を一旦は決めた患者が痛みに耐えかねて透析の再開を求めたものの、病院側が意識が清明であったときの意思を尊重するとして、透析の再開に応じなかった福生病院事件についてもとり上げられています。
第6章は安楽死と家族の問題です。
安楽死合法化が広がるとともに家族ケアラーが相手を死に至らしめる行為について司法や社会が寛容になっているのではないかと著者は疑っています。
イギリスではモルヒネ入りのスムージーを飲ませて85歳の父を死なせた59歳の男性に、「自殺幇助」が認められ、執行猶予がついた事件もあるそうで、これが一種の「思いやり」のように扱われるようになることを著者は危惧しています。
日本は家族に介護の負担を負わせる社会になっていますが、この負担が安楽死を後押ししてしまうかもしれません。
また、本人の自己決定がポイントだといっても、人間の意思は変わりゆくもので、安楽死の基盤にある意思決定を絶対視していいものか? とも著者は考えています。
後半はかなり駆け足で紹介しましたが、前半を中心に非常に重要な問題を扱っている本だと思います。
日本だと人権の中心に「いのち」があって、その反面、刑務所などでの「尊厳」に対する感度の低さがあると思うのですが、本書では紹介されている安楽死を合法化した国々では、ある種の「尊厳」を守るために「いのち」が軽んじられているような印象も受けました。
著者のスタンスについては当然ながら賛否もあるでしょうが、とにかく考えさせられる本であることは間違いないです。
- 2023年12月21日23:16
- yamasitayu
- コメント:13
『オスマン帝国』(中公新書)で、オスマン帝国600年以上の歴史を新書に収めめてみせた著者によるトルコ建国の父・ケマル・アタテュルクの評伝。ケマルという人間とその周囲の人間に焦点を当てた比較的オーソドックスな評伝になります。
本書を読むと、オスマン帝国という巨大な帝国が欧米列強によって食い荒らされていく中で、「トルコ」というアイデンティティによって国家を作り上げたケマルの手腕は卓越していますし、激動に満ちた時代を追体験することができます。
一方、ケマルという人間に関しては本書を読んでも良くわからないところも残りました。このあたりはトルコ国内においてケマル・アタテュルクに対する批判が法律で禁じられているという影響もあるのかもしれません。
それでも、終章ではケマルの死後から現在のエルドアン政権を見通すような内容にもなっており、現在のトルコを理解する上でも有益な本だと思いました。
目次は以下の通り。
序章 黄昏の帝国第1章 ケマルと呼ばれる少年―一八八一〜一九〇四年第2章 ガリポリの英雄―一九〇五〜一九一八年第3章 国民闘争の聖戦士―一九一九〜一九二二年第4章 父なるトルコ人―一九二三〜一九三八年終章 アタテュルクの遺産
オスマン帝国は18世紀後半からロシアとの戦争によってその領土を失っていき、近代化を図らざるを得なくなります。
そうした中で、西洋列強の圧力もあって帝国内の非ムスリムに対してムスリムとの平等化が進んでいきます。しかし、これは経済的に劣位に置かれていたムスリムの不満を高めました。
また、19世紀にはナショナリズムが高まりますが、これは帝国の解体を促すものともなり得ました。
1876年、オスマン帝国憲法が発布され、翌年には議会も解説されますが、この動きはロシアとの戦争で頓挫し、アブデュルハミト2世は憲法を停止し、専制政治のもとで帝国の立て直しを図ります。
アブデュルハミト2世はインフラの整備などを積極的に行うとともに、イスラム主義によって国民の統合を図ろうとしました、
このような時代にオスマン帝国の領土であったテッサロニキ(現在はギリシア領)に生まれたのがムスタファ、のちのケマル・アタテュルクです。
ムスタファの正確な誕生日はわかっていませんが、1881年だという説が有力です。父のアリは税関の下級官吏でしたが材木の商売でひと財産を設けた人物で、ムスタファに西洋式の学問をさせようとしました。
ところが、父のアリはムスタファが10歳ころのときに亡くなってしまいます。父を失ったムスタファは軍人になることを考え、テッサロニキの幼年学校に入ります。
ここで「完璧な」という意味を持つ「ケマル」というニックネームで呼ばれるようになります。幼年学校は40人中4番目の成績で卒業しており、優秀だったことは確かなようです。
ケマルは1898年に予科士官学校を次席で卒業すると、イスタンブルの陸軍士官学校に進みます。
ここでケマルはアリ・フアト、キャーズム・カラキベルといった、のちのケマルい深く関わってくる人物にも出会います。
1902年、ケマルは成績優秀者上位40名のみが進める参謀科に進みました。エリートコースに進んだケマルでしたが、任地に行く直前に皇帝暗殺未遂事件への関与を疑われ、希望したバルカン半島ではなくシリアに配属されています。
ケマルは赴任したダマスカスでトルコ人とアラブ人の対立を知り、また、休暇で故郷のサロニカに戻り、政治活動もしたようです。
1907年にケマルはマケドニア第3軍への転属を申し出て、バルカンの地へと帰りました。ここでケマルは統一進歩協会という立憲制の復活をめざす秘密団体に参加します。
ただし、のちに英雄とあるエンヴェルなどの中心メンバーに比べると、シリアにいたケマルは周辺的な存在にとどまっていました。
1908年7月、若手将校たちが立憲制の復活を求めて立ち上がり、追い詰められたアブデュルハミト2世は憲法と議会の再開を約束します。いわゆる青年トルコ革命です。
ここで中心となったのはエンヴェルで、ケマルは大きな役割を果たしておらず、革命後はリビア、さらにはボスニア・ヘルツェゴヴィナへと派遣されます。
1909年になると、アブデュルハミト2世は退位に追い込まれ、立憲政に好意的なレシャトが即位しました。
1911年、リビアを狙ったイタリアがオスマン帝国に宣戦布告し、リビア戦争が起きます、ケマルは陸相から制止されたにもかかわらずリビアに駆けつけ、現地の司令官となっていたエンヴェルとともにイタリア軍と戦いました。
ケマルらはイタリア軍を何度も撃退しましたが、1912年にモンテネグロがオスマン帝国に宣戦布告をしたことでオスマン帝国はリビアを放棄せざるを得なくなります。そして、モンテネグロの動きはバルカン戦争へと発展し、オスマン帝国はバルカン半島の領土のほとんどを失いました。
1913年1月、エンヴェルら統一進歩協会がクーデターを起こして実権を掌握します。オスマン帝国の苦戦は続きましたが、その後、バルカン諸国の内紛から戦争になり(第2次バルカン戦争)、オスマン帝国はエディルネとその周辺の奪還に成功しました。
この後、エンヴェルは陸相となり、ケマルはブルガリアの駐箚大使となりました。
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、エンヴェルはドイツ側に立って参戦することをのぞみ、ロシアと戦うためにコーカサス方面に8万の軍を率いて進軍しますが、十分な装備もないままに3000m級の山地に進軍したこともあり、壊滅的な損害を受けました。
海相ジェマルが率いたスエズ運河攻撃作戦も失敗し、オスマン帝国は初戦で大きな打撃を受けました。
こうした中、帰国したケマルはイギリスのダーダネルス海峡突破を阻止するためにガリポリ半島の守備へと向かいます。
このガリポリ半島を死守したことがケマルの名を一躍高めることになりますが、当初はケマルの名はそれほど目立たなかったといいます。
その後、ケマルはアナトリア東部の戦線へと転戦しますが、ここでケマルは自らを支える存在になるイスメト知り合っています。
ケマルは退勢がつづくアラブ戦線の立て直しを図ろうとしましたが、軍集団司令官だったドイツのファルケンハインと意見が合わず、ケマルは辞任しています。
その後、レシャトの異母弟で皇太子だったヴァフデッテンがベルリンに行くことが決まると、ケマルはお付きの武官に任命されています。
その後、ケマルは再びシリア方面で指揮を取りますが、1918年10月30日、オスマン帝国は連合国に降伏しました。
しかし、このときの休戦協定は、連合国がオスマン帝国の領土を占領することを可能にするものであり、実際、オスマン帝国の分割が始まります。
これに対してケマルはできるけ武器を集め、来るべき事態に備えようとしました。
第1次世界大戦での敗北を機に、それまで政府を動かしていたエンヴェルやジェマルは海外へと亡命し、ガリポリの英雄でもあったケマルに注目が集まります。ケマルと皇女の縁談まで持ち上がりましたが、周囲は同じく皇女を娶ったエンヴェルのことを持ち出して止めたといいます。
1919年1月には統一進歩協会の関係者が一斉に検挙されましたが、ケマルはこれを逃れました。
一方、外国によるオスマン帝国の領土侵食は続き、それがアナトリアにまで及んでくると、各地で「権利擁護協会」が設立され、抵抗運動が起こります。
小規模な武装集団を中心とするこれらの抵抗運動に対して、イギリスはこれを鎮圧するすべを持たずオスマン政府にこの鎮圧を依頼します。そして、ここで白羽の矢が立ったのがケマルでした。
ケマルは第9軍の監察官という軍司令官よりも上の地位に就任し、アナトリアへと向かいました。
ちなみにヴァフディッテンがケマルに密かに抵抗運動の組織化を命じたという説もありますが、著者は否定的です。
1919年5月15日、ギリシア軍がイズミルに上陸し占領します。イズミル地域は人口の約6割がギリシア系で、そのうちムスリムが半数という地域でしたが、ギリシアはこの地域と、さらにイスタンブールを含めてビザンツ帝国の再興させるという理想を持っていました。
5月16日、ケマルらは黒海南岸の町サムスンに到着します。現在のトルコ共和国の公式見解ではこの日が抵抗運動が始まった日になります。
抵抗運動は以前からあったわけですが、イズミル占領を受けて抵抗運動は各地で盛り上がっており、それとケマルの第一歩が重ねられているわけです。
ケマルのもとに人々が集まるのを見て、イスタンブルの政府はケマルに帰還命令を出しますが、ケマルはこれに従わずにアナトリアで抵抗運動を続ける道を選びました。
7月9日、ケマルはついに皇帝から罷免され、軍人ではなくなります。政治家となったケマルは7月23日から開かれたエルズルム会議で議長に選出され、その後つくられた抵抗運動の「暫定政府」ともいえる組織でも代表委員の一人となります。
その後に開かれたスィヴァス会議でもケマルは議長に選出され、各地の権利擁護協会が全国的な組織へとまとまりました。
ちなみにスィヴァス会議ではアメリカの委任統治を求めるという案も一定の賛同を集めましたが、ケマルらはこれに反対し、退けられていまし。
イスタンブルで内閣を率いていたフェリトはイギリス軍によってケマルらを排除することを狙いますが、イギリスはこれを拒否し、フェリトは退陣します。
つづく内閣は議会選挙を行うことにし、ケマルたちにも融和的になります。ケマルらは根拠地をアンカラに移しました。
新たな議会選挙の結果、抵抗運動に理解を示す議員が多数選出されます。ケマルも当選しましたが、イギリス軍の駐留するイスタンブルに乗り込むことには危険も予想され、ケマルはアンカラにとどまることになります。
1920年1月に開催された帝国議会では国土の一体性などを盛り込んだ「国民誓約」は採択されます。国土の分割に抗議した抵抗運動の成果はここに結実しました。
しかし、3月にイギリスがイスタンブルの完全占領という強硬策に出たことで事態は再び動き出します。
抵抗運動を率いてきた議員らも逮捕され、フェリトが再び首相になります。フェリトは抵抗運動を鎮圧するために動き、5月にはケマルらに死刑判決が下されました。
ケマルは帝国議会に変わる議会をアンカラで開くこととし、4月22日には大国民会議が開かれています。ここでケマルは議長に選出され、イスタンブルに対抗するアンカラ政府を率いる存在になりました。
1920年の時点で、アンカラ政府は、アナトリア西部のギリシア軍、イスタンブルに近いアナトリア北西部にはオスマン帝国政府の「カリフ軍」とも称される治安軍、アナトリア南東部にはフランス軍、さらにはアナトリア北東部をうかがうアルメニア軍などに囲まれていました。
フランスに対してはこれを退けることができたものの、ギリシア軍が最大の問題で、7月上旬にはかつての首都でもあったブルサが陥落しています。
1920年8月にはオスマン帝国の「死亡宣告書」とも言われるセーヴル条約が調印されます。オスマン帝国に残されたのはアナトリア中央部と共同管理され非武装化されたイスタンブルだけであり、不平等条約も再び押し付けられるという内容でした。
これに調印したイスタンブルの政府に対して、ケマルははっきりと決別の意思を示し、2つの政府は決定的に対立します。
アルメニア軍に対してはカラベキル率いる軍団がこれを打ち破り、セーヴル条約に記されていたアルメニアの領土拡大を実力で阻みます。
それでもケマルはアンカラ政府内部での共産主義の拡大に悩まされていました。そこでケマルは「官製」のトルコ共産党をつくってその勢いを削ぎ、対ギリシア戦で活躍していたものの共産主義に近かったエトヘムを切り捨てます。
最大の敵はやはりギリシアでした。1921年1月、イスメトがイノニュでギリシア軍を撃退します。これは小さな勝利でしたが、ケマルはこれを大々的に宣伝し、イスメトはイノニュの姓を名乗ることになります。
同じ月には「1921年憲法」と称される「基本組織法」が採択され、この国を「トルコ国家」だと規定しました。
7月、ついにギリシア軍の総攻撃が始まります。8月のサカリヤ川の戦いが決戦となり、アンカラ軍は苦戦しますが、限界に達したギリシア軍が後退を始めるとこれを追撃して勝利を収めます。
このサカリヤ川の戦いの結果、フランスはアンカラ政府と条約を結んでアナトリア南東部から撤退します。
1922年8月にはギリシア軍を打ち破り、9月にはイズミルを奪還します。イギリスも最終的に撤退し、ついに外交勢力が追い払われました。
11月1日にはアンカラ政府が正当な政府であり、君主制は廃止されるとの宣言が出され、オスマン帝国はついに滅亡しました。
この後、ケマルは列強との交渉、国内での権力闘争という2つの戦いを強いられますが、この中で、ケマルはイズミルの裕福な商人の娘であったラティフェと結婚しています。
ラティフェは非常に積極的な女性で、新しいトルコの象徴としてケマルの遊説に同行し、外国メディアの取材を受け、女性運動にも協力しました。また、ケマルの私設秘書としての役割も果たし、ケマルが心臓発作を起こすと、「ミセス・ケマル」が新しい指導者になるのでは? といった憶測者流れています。
1923年7月、ローザンヌ条約が調印されます。北アラブ地域を放棄するという犠牲は払ったものの国土のほとんどを確保し、不平等条約の撤廃もさせるという輝かしい勝利でした。
そして、10月にはアンカラを首都にトルコ共和国が建国されます。ケマルが新しい大統領となり、この流れの中でケマルはカリフ制は廃止にとりかかり、イスタンブルにいた抵抗勢力を抑え込んでいきます。
この後、トルコは脱イスラム化を進めていきます。マドラサが廃止され、トルコの学校は近代的な教育機関に一本化されました。アザーンの呼びかけもアラビア語からトルコ語に変えられています。
週休日もイスラムの集団礼拝がある金曜から西洋と同じ日曜にし、ヒジュラ暦に代わって西暦を採用しました。トルコ帽も禁止しています。
女性の公式の場におけるヴェールの着用も推奨されないものになり、一夫多妻制が廃止され、離婚権や財産権の平等も定められました。
このように進歩的な政策を次々と打ち出したケマルですが、お互いに気位が高く、強情だったラティフェとは2年半で離婚してしまっています。
ケマルの力が強まっていくのに対して、カラベキルやラウフ、フアトなどのかつての同志は進歩主義者共和党を立ち上げて対抗します。
しかし、クルド人の反乱やケマルの暗殺未遂事件などを機に、ケマルは進歩主義者共和党を解散させ、関係者を逮捕します。ケマルは絶対的な権力を手にしました。
ケマルは日々の政治を首相のイスメトに任せると、「国民の創生」に乗り出します。
トルコ語を表記する文字をアラビア語からアルファベットに切り替え、「国民学校」を各地に作ります。
さらにトルコ人こそがすべての文明の始まりだという「公定歴史学」や、トルコ語からアラビア語やペルシア語由来の言葉をトルコ語由来の言葉に置き換える運動が行われ、さらにトルコ語こそが世界の諸言語の祖であるとする「太陽言語理論」なども打ち出されます。
また、姓を持っていなかったトルコの人々に姓をもたせることとし、このときケマルは議会から「アタテュルク」(父なるトルコ人)の姓を贈られることになります。
政治においては、世界恐慌後、不況に陥る中で国民の不満を和らげるには野党が必要だと考えて自由共和党を設立させますが、予想以上の人気が出るとこれを解党させました。
一党独裁となった共和人民党は「共和主義」「国民主義(民族主義)」「人民主義」「国家主義(国家資本主義)」「世俗主義」「革命主義」という6つの矢を打ち出し、これが「ケマリズム」
あるいは「アタテュルク主義」と呼ばれるようになっていきます。
野党をつくったりもしたケマルですが、基本的には国家による統制を志向していたと言えます。
このように文化政策などについては危うい面も感じさせるケマルでしたが、外交面では領土拡張に禁欲的であり(シリアからハタイを併合したことは除く)、ヨーロッパでファシズムが台頭する中でも、トルコは中立を守っていくことになります。
そして、1938年の11月にケマルは亡くなっています。
その後、トルコでは1951年にアタテュルクへの批判を禁じたアタテュルク擁護法がつくられるなど、ケマルの神格化が進みますが、現在のエルドアンはオスマン帝国を再評価する姿勢を示しており、アタテュルクの評価は少し代わってくることも予想されます。
このように本書はケマルの波乱の人生を追いながら、トルコが置かれていた状況も活写しています。救国の英雄で、さらに日本で言えば明治維新の担い手のような存在でもあるケマルの存在の大きさがわかります。
ただ、本書によってケマルという人間がわかったかというと、もう少し何かあるような気もします。
- 2023年12月15日23:17
- yamasitayu
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同じ岩波新書に伊東光晴『ケインズ』があるにもかかわらず、同タイトルで重ねてくるというチャレンジングな企画。
内容としては、対独賠償問題、イギリスの金本位制復帰、大恐慌といった問題と、それに対してケインズがどのように考え、提言を行ったのかということをたどるものになっています。
個人的には勉強になる部分も多かったですが、タイトルはズバリ『ケインズ』ではなく、『時代と闘うケインズ』みたいなものがよかったかもしれません。なぜなら、本書は必ずしもケインズの考えをわかりやすく解説するものではないからです。
本書には「合成の誤謬」という概念を軸にしており、その叙述がわかりにくいということはないのですが、例えば、本書を読むと、「乗数効果」をケインズがいつ頃からとり入れたのかはわかりますが、「乗数効果」がどのようなものかはよくわかりません。あくまでも「乗数効果」の内容を知っているという前提で書かれています。
というわけで、本書はケインズの入門書ではなく、ケインズについてある程度知っている人が、改めてケインズの思想のエッセンスや、ケインズの社会との関わりを学ぶという本になっています。
目次は以下の通り。
第一章 初期のケインズ第二章 第一次世界大戦と対独賠償問題第三章 イギリスの金本位制復帰問題とケインズ第四章 大恐慌とケインズ第五章 『一般理論』とその後
ケインズははじめから経済学に関心を持っていたわけではありません。ケンブリッジ大での専攻は数学であり、高等文官試験のためにマーシャルの講義を数習慣受講した程度だったといいます。
マーシャルはケインズの才能を見抜いて経済学の道を進めましたが、ケインズは大蔵省の入省を目指し、それができないとインド省に入ります。
インド省を2年で退職すると、マーシャルやA・C・ピグーの好意でケンブリッジの講師になりますが、ケインズが本格的に経済学の勉強を始めるのはこの頃からです。
ただし、ケインズの関心は基本的に貨幣と金融の分野に偏っており、他の部分に関してはマーシャルの『経済学原理』の内容をわざわざ改訂するまでもないと考えていたようです。
本書の9pに「ケンブリッジ大学での講義一覧」という表が載っていますが、基本的にケインズがそのとき関心を持ったテーマについて講義しています(ケインズは収入を得るためにかなり多くの講義を担当していた)。
第一章の後半ではケインズが初期に強い関心を持った貨幣論がとり上げられています。
ケインズは貨幣数量説について、貨幣数量の増加がどのような経路で物価上昇をもたらすのがはっきりしないという考えを持っていました。
この貨幣量と物価の関係については、フィッシャーが流通速度概念を使って説明し、マーシャルは「マーシャルのk」と呼ばれる貨幣需要を用いた考えで説明していました。
ケインズは当初、フィッシャーの考えを使って講義を行っており、マーシャル流の考えを持つようになるのはのちのことになります。
また、ケインズは1880〜90年代にかけて金の産出量が大きく増えたにもかかわらず、物価の上昇がそれほどでもなかったことを示し、貨幣数量説を実証的に否定しました。
第二章では第一次世界大戦後の対独賠償問題がとり上げられています。
このことについて書かれた『平和の社会的帰結』はケインズの名を世に知らしめることになり、さらに続編の『条約の改正』も書かれています。
ケインズは第一次世界大戦が始まる直前に大蔵省に呼ばれ、大蔵大臣となったロイド・ジョージの教育係を務めることになります。
1915年5月に自由党のアスキスが保守党と連立内閣を組むと、大蔵大臣はロイド・ジョージからレジナルド・マッケナに代わりますが、ケインズは金融問題を扱う第一課の職員となりマッケナを支えました。
戦争が長期化すると、対米依存が強まっていきます。イギリスはアメリカから大量のドルを借り入れ、それを連合国に回しているという状況でした。
ケインズはポンド・ドル相場を維持してロンドンの国際金融センターとしての地位を守ろうとしますが、次第にそのアメリカから資金を借り入れ、それをどう連合国に配分するかという仕事に専念していくことになります。アメリカはリスクを避けるために、フランスやイタリアに貸すのではなく、イギリスに貸すことを求めたからです。
1918年11月、連合国とドイツの間で休戦協定が成立します。戦争に勝ったものの、イギリスの国債残高は14年の6億2000万ポンドから20年には80億ポンド近くまで増加し、10億ポンドを超える対米債務もありました。
こうした負担をドイツからの賠償によって賄うべきだという声もありましたが、ケインズの試算によるとドイツの賠償支払い能力は楽観的に見て30億ポンド、慎重に見れば20億ポンドでした。
ドイツは輸出した外貨で支払う他なく、あまりに重い賠償金はドイツの生産力を破壊するだけだったからです。
アメリカは第一次世界大戦の帰趨を決定づける役割を果たし、ヨーロッパにも巨額の貸付を行っていました。そのアメリカ大統領のウィルソンは無併合・無賠償を唱えていましたが、その理想はあえなく潰えました。
1919年6月、ケインズはヴェルサイユ条約の締結を待たずに大蔵省を辞め、『平和の社会的帰結』を一気に書き上げます。
会議で主導権を握ったフランスのクレマンソーは、ドイツが普仏戦争以来手にしたものすべてを放棄させるような「カルタゴの平和」を考えており、14か条を掲げていたアメリカはヨーロッパ各国の争いの中で次第に仲裁の意欲を失っていきます。
ロイド・ジョージも選挙の中でドイツに賠償を支払わせることを約束してしまっており、のちに修正されるとはいえ、結局はドイツに対する過酷な賠償が通ってしまいました。
ケインズはこれを「ドイツを一世代にわたって奴隷状態におとしいれ、何百万という人間の水準を低下させ、一国民全体から幸福を剥奪するような政策は、おぞましく、また憎むべきものである」(56p)と述べています。
ドイツに対する最終的な賠償額が決定したのは1921年のことで、1320億マルクとなりました。ケインズが支払い可能と考えた20億ポンドはおよそ400億マルクだったので、その3倍以上でした。
1921年、ケインズは『条約の改正』を書き上げます。ケインズは賠償から恩給と諸手当を差し引くことで360億マルクまで請求額を引き下げるべきだと考えており、イギリス、できればアメリカがヨーロッパ諸国への債権を帳消しにし、ドイツの賠償の分け前に対する請求権を放棄するべきだと考えていましたが、これは実現しませんでした。
これらのケインズの主張の背景には、学生時代にムーアから学んだ「合成の誤謬」の考えがあると著者は見てます。
各国は自国の利益を考えて合理的に行動しているわけですが、それが世界を、特にヨーロッパをより悪い方向に進ませるとケインズは考えたのです。
過酷な賠償はドイツにハイパーインフをもたらしました。この要因は紙幣が大量に刷られたからだと理解されることが多いですが、賠償は金マルク建てであり、ライヒスマルク紙幣をいくら刷っても返済の役には立ちません。
「問題は、通貨の発行量よりも、その通貨に対する信任の著しい低下」(71p)なのです。
その後、ドイツの賠償に関してはドーズ案、ヤング案という2つの案で減額が図られますが、最終的にはナチス政権が支払いを停止することになります。
ちなみに、ドイツでは貿易赤字が続いており、賠償金の支払いに当てられた外貨は、アメリカから流れてきた資金でした。
第3章ではイギリスの金本位制復帰問題がとり上げられています。
1920年代のイギリスではデフレが景気の足を引っ張っていましたが、このデフレは旧平価で金本位制に復帰するために人為的に作り出されたものでした。イギリスは国内の景気対策と、国際金融センターとしてのロンドン地位の二択の中で後者を選んだのです。
1910年代のケインズは国際金融センターとしてのロンドンの地位を重視し、均衡財政の立場をとっていましたが、20年代になると態度を翻します。
イギリスでは1919年3月29日に金貨および金塊の輸出が禁止され、ポンドは4.57ドルまで下落します。さらに19年8月には4.11ドルまで下落します。
これに対してイギリスは利上げによって為替相場を維持しようとし、1920年4月には公定歩合は7%にまで上がりました。
この利上げはいわゆる戦後ブームを沈静化させ、インフレからデフレへと転じました。失業者も20年12月から21年6月までの間に100万人から200万人へと倍増しました。
1923年になると為替相場は安定し、金本位制復帰の道が見えてきますが、そのために不況のさなかにあっても公定歩合の引き上げが行われています。
しかし、ケインズによれば金融引き締めは国内の物価の下落をもたらす政策であり、支持できないものでした。
ケインズは23年7月には「失業が一般的な政治的重要性を持つ問題であるとすれば、これまでのように、公定歩合をシティの法王と枢機卿たちの秘密の私有財産であるとみなすことは不可能である」(95p)と書いています。
23年11月の『貨幣改革論』では、1オンスにつき3ポンド17シリング10ペンス半という金とポンドの交換比率を絶対視する考えを批判し、物価と信用および雇用の安定を第一に考えるべきだと主張しました。
インフレとデフレを比較し、「貧困化した社会では、金利生活者を失望させるよりも、失業をそうずるほうが悪い」(97p)と述べ、デフレを避けるべきだとしています。
一方、同時期のイギリスを代表する経済学者のホートレーは、アメリカへの金輸出がアメリカの景気を刺激することで、旧平価での復帰が可能と見ていましたが、これはアメリカの金不胎化政策によって打ち砕かれます。
1925年3月、イギリスは旧平価で金本位制に復帰します。ケインズは金本位制への復帰によってイギリスがアメリカの金融政策に従属することになるとして、これに批判的でしたが、多くの人にとっては金本位制はあるべき姿であったのです。
金本位制には正貨の自動流出メカニズムがあり、それが国際収支のバランスをとるはずですが、ケインズはそれが理論通りにはたらかないことも見越していました。
結局、金本位制復帰後のイギリスはデフレと失業に苦しむことになります。
この後、大恐慌が起こり、1931年5月にオーストリアで始まった金融危機をきっかけにイギリスは31年7月に金兌換停止に追い込まれます。ポンドは1ポンド=4.86ドルから1ポンド=3.25ドルまで下落しますが、ポンドの下落によってイギリスの景気は回復に向かいました。
第4章は大恐慌に対するケインズの分析と提言です。
アメリカでの株の暴落の影響が世界へと波及していた頃、ケインズは『貨幣論』の最終的な加筆修正作業を行っていました。この『貨幣論』はケインズの本の中では純学術的性質が強いといいます。
『貨幣論』の中で、ケインズは投資と貯蓄を一致させるような利子率を「自然利子率」と呼び、この自然利子率と市場利子率を一致させることが重要だと主張しました。
つまり、金融当局の果たすべき役割は、市場利子率をコントロールして投資と貯蓄を一致させることです。不況期の対策は投資を増やし貯蓄を減らす利下げということになります。このころのケインズの理論からは大規模な公共事業の必要性などは出てきていません。
1929年10月のウォール街での株の大暴落に対しても、ケインズはこれで各国の中央銀行は金利の引き下げに動くことができ、景気は徐々に回復していくと考えていました。
しかし、景気は一向に回復しませんでした。ケインズはここにも「合成の誤謬」を見ています。
各国が経済の立て直しとして打ち出している政策、例えば、賃金の切り下げや関税の強化や節約運動は、それ自体は合理的であっても、各国が同時にそれを行った場合、全員が貧しくなっていく共倒れの政策だったのです。
1933年3月、アメリカでフランクリン・ローズベルト大統領が就任します。ローズベルト=ニューディール政策=ケインズ思想と考えられがちですが、ローズベルト本人は緊縮財政主義者でしたし、ニューディールの規模はケインズの想定ほどのものにはなりませんでした。
ケインズは当初ローズベルトに大きな期待を寄せて働きかけていたものの、そのほとんどは無視されたといいます。
ケインズによれば、ローズベルトは回復よりも改革を優先しているが、ケインズに言わせれば今は回復を優先すべきなのです。
第5章ではケインズの主著の『雇用・利子および貨幣の一般理論』がとり上げられています。
本書によれば、『一般理論』の意義は、失業問題の原因を労働市場ではなく、金融市場の投機にあること、失業の原因は賃金の高さではなく有効需要の不足にあることを指摘し、市場が不完全雇用均衡状態に陥ってしまう可能性があることを論証したことにあり、それによって財政政策の理論的な裏付けを行ったことにあるといいます。
ただし、『一般理論』の解説は非常に簡潔であっさりと終わっています。ヒックスのIS-LMモデルがケインズの考えを上手く表していたのか? といった問題もとり上げていますが、ここでも白黒をつけるようなことはしていません。
この後、マルクス主義やファシズムに対する見方なども紹介されていますが(両方ともケインズは否定していた)、第2次世界大戦中の活動も含めてあっさりと書かれています。
ブレトン・ウッズ体制についても、ケインズの提案したバンコールの考えを簡単に解説しているくらいです。
このように本書は、ケインズの経済問題への関わりを「合成の誤謬」というキーワードを中心に読み解いた本で、「ケインズの評伝」、あるいは「ケインズ思想の解説書」とはちょっと違った形に仕上がっています。
興味深い部分も多いですが、あくまでもある程度ケインズを知っている人が楽しめる内容になっていると思います。
ですから、本書を『ケインズ』というタイトルにしたのはやや疑問です。ケインズの考えを知りたくて「岩波新書の『ケインズ』を読めばよい」と言われた初学者がこちらを読んでしまったら、良くわからない部分も多いと思うのです。
というわけで、面白い部分もあったけど、新書の企画としてはやや評価が下がる形です。
- 2023年12月08日23:15
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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