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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2019年09月

帯には「存在意義はあるのか?」の文字。近年、厳しい評価にさらされている地方議会を今一度問い直す内容の本です。
とは言っても、著者は日本の地方政治を専門に研究を重ねてきた人物ですので、地方議会の不祥事を並べ立てるような内容ではなく、日本の地方議会や地方議員がおかれている状況を分析しながら、今後の改革を展望する内容となっています。
副題に「都市のジレンマ、消滅危機の町村」とあるように、大規模自治体と小規模自治体で地方議会がおかれている状況が違うことを踏まえた上で丁寧な分析を行っています。

目次は以下の通り。
第1章 強い首長、弱い議会
第2章 議員の仕事
第3章 議員の選挙―なり手と制度
第4章 議員とお金
第5章 議会改革の行方
おわりに―何を代表する地方議会なのか

国会議員の不祥事もたびたび報道されますが、さすがに「国会はいらない」と考える人は少ないでしょう。一方、地方議員の不祥事のニュースを見て「地方議会なんていらないんじゃないか?」と考える人は多いと思います。
これは地方自治体が二元代表制をとっており、知事や市町村長も選挙で選ばれており、なおかつこれらの首長の権限が強いことにその一因があるでしょう。首相を直接選挙で選ぶことはできませんが、首長は選ぶことができるのでそれで十分だという感覚を持つ人もいるでしょう。

実際、国会議員には憲法において不逮捕特権や免責特権という特権が付与されていますが、地方議員にはそういった特権はありません。また、国会議員は採否を受け取ることが憲法で定められていますが、地方議員に関しては2008年の自治法改正前まで他の非常勤職員と同じく「報酬」という位置づけでした。
これは戦前の地方議員が無給の名誉職であったことが影響しています。1947年の自治法制定時に地方議員に報酬を支給することが決まりましたが、自治省は1960年代まで地方議員を専門職というよりは名誉職に近い位置づけでみており、報酬も首長の3割程度でよいと考えていました(第4章150−155p参照)。

このように地方議員の位置づけが弱い一方で首長は強大な権限を持っています。アメリカの大統領にはない法律案や予算案の提出権を持っていますし、日本の首相にはない再議を求める権利(拒否権)も持っています。また、議会に代わって議案を処理する専決処分の権限も持っています。
この専決処分に関しては阿久根市の竹原市長の暴走などの影響もあって、2012年の自治法改正で歯止めがかけられることとなりました。さらにこのときの改正では通年議会がひらけるようになりました。この2012年の改正だけではなく、近年地方議会の権限は拡大を続けています。議員定数は柔軟になり、議員の議案提出の要件が緩和され、条例制定の範囲も広がり、議会における公聴会の実施や参考人の招致も法制化されました。まだ十分ではない点のあるとはいえ、基本的にその権限は大きくなっており、本来ならば地方議会の重要性が再認識されてもおかしくはない状況なのです。

第2章では地方議員の仕事についてとり上げられています。
地方議員の仕事と一口に言いますが、都道府県と市、さらに町村ではずいぶん違います。議案の数が違うのはもちろんですが、都道府県や市では政党を中心とした会派が結成されている事が多い一方で、定数の少ない町村議会では政党化が進んでいないケースが多いです。
もともと二元代表制の地方では、国政のように与野党の立場がはっきりすることはありませんが、町村では特に誰が与党的立場で誰が野党的立場かというのは実際の議事などを確認しないとはっきりしません。

本会議の花形となるのは各会派による代表質問や、議員による一般質問で、この質問によって首長の方針や政策を問いただしていくわけですが、近年では市の職員が市議会議員から依頼されて質問を作成した件などが表面化しており、議会での質問の形骸化も指摘されています。この状況について鳥取県知事だった片山善博は、かつてのインタビューの中で「議会が始まる前に、根回しが済んでいて、本番では与党は突っ込んだ質問をせず、執行部も答弁書を読むだけの『学芸会』になっていた」(63p)と述べています。
このような状況はもちろん問題ですが、現在の地方自治では首長が予算提案権を独占し、条例提案権も持っている状況で、議員にできることはせいぜい議会質問くらいしかないという制度的な要因もあります。議会が積極的に政策を提案することは難しく、首長の政策に「NO」を突きつけることができる程度なのです。

さらにこの章では、公明党の市議会議員のインタビューから地方議員の仕事を明らかにしています。
「なぜ公明党?」という声もあるかもしれませんが、実は政党に所属する市議会議員のなかでは最も数が多く(「保守系無所属」が多いため自民党所属はそれほどでもない)、また「出たい人より出したい人」という考えのもと周囲の推薦によって議員になっているため仕事熱心であり、さらに政党というものの役割を考えさせる立場だからです。
毎日のように朝8時に市役所に出向き、市民から寄せられた相談をもとに担当部署に行ったり、国の予算などについての問い合わせをし、休日はさまざまなイベントを回るなど忙しい毎日を送っています。
さらに市民からの相談で国レベルの問題は国会議員に、県レベルの問題は県議会議員にすぐにつなぐようにしており、「公明党」という政党の一員として組織的に活動いている様子がうかがえます。地方議員であっても政党に所属している強みが見えてくるような内容です。

第3章は議員について。地方議員というと「高い金をもらってないながら何もしていない」という印象を持ている人もいるかと思いますが、小規模な町村では議員のなり手不足が大きな問題となっています。
2019年の統一地方選挙では町村議会議員の定数の約1/4にあたる1000人近くが無投票で当選しており、8町村では定員割れとなりました(86−87p)。町村議会議員の多くが議員の他に職を持っている兼職型であり、名誉職に近い位置づけなのですが、その担い手が減ってきているのです。
さらに女性議員が少ないのも問題です。都道府県議会の女性議員の割合は10.0%、市議会では14.7%、町村議会では10.1%と、近年、都市部を中心に女性議員が増えているとはいえ、まだまだ少ないのが現状なのです。
名誉職に近い報酬で女性も少ないとなると、担い手となるのは男性の高齢者です。町村議員の9割以上が50歳以上であり、市議会でも8割が50歳以上です(94p図表3−5参照)。町村議会では議員の平均年齢も上がってきており、現職議員の在職年数が増えていっています。
政党ごとにみると、都道府県議会はともかくとして市議会や町村議会では政党化が進んでいない状況が見て取れます(97p図表3−6参照)。市町村レベルでは公明党と共産党が強く、この2つの政党だけが組織化が進んでいる様子がわかります。

選挙制度に関しては、地方の選挙制度は国政に比べるとわかりやすいように思えます。とりあえず個人名を書いて投票すればいいからです。
ところが、政治学的に見ると都道府県議会議員選挙は小選挙区制と大選挙区制の混合であり、異なる性格を持つ選挙制度が同居したものとなっています。選挙区の約4割が定数1の小選挙区である一方、鹿児島県の鹿児島市・鹿児島島郡選挙区の定数は17。このような選挙区ではかなり低い得票率でも当選できます。また、この小選挙区では自民系の議員が強く、都市部のみで政党間競争が行われている状況となっています。
政令市以外の市町村議会議員選挙は選挙区が1つの大選挙区制であり、制度としてはわかりやすく思えます。ただし、議員定数が50を超えるような選挙区もあり、そうなると有権者にとって候補者を比較検討することが難しくなります。
地方政治は二元代表制をとっており、首長を支持する会派が議会で多数派であれば「統一政府」、首長を支持しない会派が多数派であれば「分割政府」と言えます。首長が無所属であっても選挙では国政の与野党が相乗りで推薦していることも多く、そのような首長と議会の会派に大きな違いがない場合は、首長の提案がほぼ議会で承認されることとなり、議会は首長の「追認」機関のように見えるようになります。
一方、首長と議会が対立する分割政府となった場合、議会は「抵抗勢力」のように扱われることも多いです。近年では、大阪のように分割政府状態から脱却するために首長が政党を結成し、自らの与党を形成しようという動きもあります。

第4章は議員とお金の問題について。最初にも述べたように「地方議会不要論」が出てくる背景にあるのが地方議員によるお金に関する不祥事です。
そのせいもあって地方議会には定数削減の圧力がかかっています。「平成の大合弁」とともにかなりの数の町村が姿を消したこともあって町村議会議員は大きくその数を減らし、かといって市区議会議員が増えたわけでもありません。
2011年の自治法改正によって各議会は自由に定数を設定できるようになりましたが、地方財政の厳しさ、地方議員に注がれる有権者の厳しさもあって基本的には減る一方です。ただし、この定数削減に関して著者は次のように述べています。

有権者であれ議員であれ、議員定数削減に強く同意する人には、より厳しくなる選挙で勝てる人ほど議会人として有能であるとする考え方があるように、筆者には思われる。しかし、選挙に強いことと議会人として有能であることとは別問題であろう。(149p)

はじめの方でも述べたように、地方議員については名誉職なのか専門職なのかという問題があり、都道府県議会の議員と大都市の市議会議員は専門職、小さな市や町村では名誉職に近い報酬となっています。
同じ市でも横浜市が年収約1650万円であるのに対して、夕張市は約260万円です。さらに町村議会では報酬は平均で月額21万5000円ほどで、福島県矢祭町議会では日当制となっています(日額3万円で議会や行事に出席する日数を30日とすると年額90万円(160−161p))。
また政務活動費についても市町村の規模によって大きな違いがあります。政令市では月額30万円以上が70%、人口50万以上の市でも10万以上20万未満が46.7%と一番のボリュームゾーンになっているに対して、人口5万人未満の市では1万未満と1万以上2万未満で65%以上を占めています(172−173p図表4−10参照)。さらに人口5万未満の市では不交付、あるいは交付が凍結されている市もあります。そして、町村で見ると政務活動費を交付している町村は全体の約2割に過ぎません。
もともと政務活動費は、多くの自治体で支給されていた会派に対する調査研究費が2000年の自治法改正によって政務調査費として法制化されたものです。交付の方法や使える範囲などは条例で定めることとされたので、政務調査費が支出可能な範囲は一律に定められているわけではありません。

そのせいもあって政務活動費が不正に使われる事例は跡を絶ちませんし、東京都議会議員の支出内訳でも広報・広聴活動費が支出の46.4%を占めている状況で(176p図表4−11参照)、政策調査のためというよりは議員本人の選挙活動のために使われていることが多いのです。
一方、小規模な自治体では研修や他の自治体の視察のために使われていることも多く、それなりの意義があるとも言えます。
著者は日本の地方政府の機能は国際的に見ても大きく(GDPに対する政府支出の割合は国が約4%なのに対して地方は約11%で連邦制のアメリカやドイツと差がない(181−182p))、近年の地方分権によって自治体の裁量が増大していることを考えると、議員活動を十分に保障する報酬や政務活動費が必要ではないかと述べています。

第5章では地方議会をどのように改革していくべきかということを論じています。
地方議会に関しては、総務省や有識者などによる「外からの改革」と当事者である議会からの「内からの改革」の動きがあり、その力点はずれています。
「内からの改革」で行われていること、目指されていることとしては、議会の方針について定めた議会基本条例の制定、住民参加の推進、議会における政策討議の充実、情報公開の推進、議会がより自治体の政策に関われるようにすること、議会改革推進組織の常設などがあげられます。
基本的に首長にしっかりと対峙できる議会を住民参加を背景にして進めていこうという動きです。

一方、「外からの改革」では地方議会の意思決定機能と主張に対する監視機能を強めるために、地方議会そのもののあり方や選挙制度が議論されています。
特に選挙制度に関しては大きな問題として認識されており、比例代表制の導入、制限連記式の導入、複数の選挙区の設置などが提案されています。政治学者の間では大選挙区制の欠点や国政との選挙制度の違いによって政党間競争が起こりにくくなることなどが指摘されており(前者の問題については砂原庸介『民主主義の条件』、後者の問題については同じ著者の『分裂と統合の日本政治』が詳しい)、地方議会の選挙制度は大きな問題として認識されているのです。
ただし、政治学者の中にも地方議会の政党化に反対する意見、定数が多い選挙区はそれほど多くないことをあげて、こうした選挙制度改革に慎重な見方をする者もいます。
また、総務省の「町村議会のあり方に関する研究会」では、少数の専業的議員によって構成される「集中専門型」モデルと議員をすべて非専業とし夜間や休日に議会を開催する「多数参画型」モデルが提案されましたが、町村議会議長会は主張に対する監視機能が弱まるなどとして反対してます。
こうした状況に対して、諸外国の地方自治制度が多様であることを指摘し(例えば、アメリカでは「議会ー支配人型」と「市長ー議会型」、さらに「住民総会」を採用している自治体、「理事会型」などいくつかのスタイルがある)、自治体の規模などに大きな差がある日本でも多様な地方自治制度があるべきではないかと述べています。
この提言自体はそれなりに納得できるものではありますが、多様な制度から選ぶとなると地方議会側からのアクションが必要になります。そうなったときに今の地方議会が議員の専門性を強化するために報酬やサポートを強化するような改革を打ち出せるのかが個人的には疑問に思えます。
今の地方議会や地方議員の威信では自らの存在意義を有権者に認めさせることは難しく、結局は地方議会の機能を削ぎ落とすような改革が行われてしまう可能性も高いのではないでしょうか?

このように著者の最後の低減に関しては少し疑問も残りましたが、何よりも現在の地方議会を見るときにその多様性を見る必要があるという点はよく理解できました。また、公明党議員へのインタビューを入れることで地方議会と政党の関係についても改めて考えさせられますし、地方議会自体を多面的に見ることができる内容になっていると思います。
地方議会のあり方に不満を持つ人がこの本を読んでもスッキリするわけではないと思いますが、少なくとも不満の原因が個々の議員だけにあるのではないことは見えてくるでしょう。


言語哲学を専門とする著者が、日本語による論理学の可能性、あるいは自然言語の論理性について探った本というのがとりあえずの紹介になりますが、この本のやろうとしていることを説明するのはなかなか難しいです。
例えば、同じ言語哲学を専門とする野矢茂樹『論理トレーニング』のような本を想像する人もいるかもしれませんが、まったく違います。本書を読んでも論理的な作文力や読解力が鍛えられるということはあまりないでしょう。
本書は現代の記号論理学を日本語という自然言語でいかに展開できるのか、具体的に言うとタルスキの理論を用いて日常言語の言葉遣いを分析使用したドナルド・デイヴィッドソンのプログラムを日本語で展開するとどうなるかということを探った本になります。
こう書いてもわからない人にはまったくわからないでしょうし、以下にあげる目次を見ても本書の内容はさっぱり見えてこないと思いますが、次の引用した部分に興味を持った人は、以下の記事をもうちょっと読んでみてください。

そもそも日本語に論理学が適用できるというのが、第一の謎である。話題になっているのが特定の人や物なのか、それとも、不特定の人や物なのかを示す定冠詞のような表現がなく、単数と複数の区別もないのが日本語だとしたら、こうした区別が重要な論理学が、日本語に適用できるわけがないとおもわれるからである。第二の謎は、日本語に限ったことではないが、論理学の言葉では同じになってしまうのに、日本語としては異なる表現法がふんだんにあることである。たとえば、「こども全員が笑った」と「どのこどもも笑った」は、論理学からみれば、区別がつかないようにみえるのに、なぜ、二種類の言い方があるのか。(4p)

評価は7点で、7点は「期待通り。この分野に興味がある人は読むといいです」くらいのイメージで付けているのですが、この本に関しては「この分野に「特に」興味がある人は読むといいです」くらいの感じで。ただし、第5章の総称文の話は非常に重要で、広く読まれるべき内容を含んでいると思います。
目次は以下の通り。
第1章 「こどもが笑った」
第2章 「三人のこどもが笑った」
第3章 「大部分のこどもが笑った」
第4章 「どのこどもも笑った」
第5章 「こどもはよく笑う」
付録 様相的文脈の中の「三人のこども」

改めてこの本がやろうとしていることを述べると、アメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソンのプログラムを日本語において展開することです。
フレーゲは、ある文を理解しているということはその文の真理条件を知っていることだと考えました。デイヴィッドソンはタルスキの真理条件などの考えを用いながら、文の意味をこの真理条件を使って考えようとしました。
そして、著者は『言語哲学大全』の第4巻において、このデイヴィッドソンのプログラムを日本語で展開しようとして1999〜2000年にかけて原稿を書いてそれを私家出版したことを「まえがき」で述べていますが、本書はおそらくその原稿のつづきのようなものなのでしょう。

まず、第1章の冒頭に置かれているのが「こどもが笑った。」という文です。これは英語にすると、「A child laughed.」、「Chirdren laughed.」、「The Child laughed.」、「The children laughed.」という4つの訳が考えられます。日本語の「こども」は一人にも複数にも使われますし、日本語には定冠詞がないからです。
「だから日本語は非論理的なのだ」と結論づけたくなるかもしれませんが、著者によればいくつかの手がかりを使えば、そのこどもに「The」がつくのかつないのか、そのこどもが特定の誰かを指す確定的な使われ方なのか、特定の子どもを指すわけではない不確定な使われ方をしているのかは推定可能だといいます。
もし「こどもが笑った」を「笑ったこどもがいる」に言い換え可能であれば、そのこどもは不確定な形で使われていると言えるのです。

単数/複数の区別に関しては、日本語では体系的な区別を行っていないのですが、日本語でも「可算名詞/不可算名詞」の区別は可能です。一般的に「人」「頭」「冊」「枚」などの分類辞をとるものは可算名詞になります。

第2章の「三人のこどもが笑った」では量化の問題が扱われています。「三人のこどもが笑った」という文が真理になるには、はたして何人のこどもが笑えばいいのでしょうか?
二人のこどもが笑った場合、「三人のこどもが笑った」と言えないのは明らかですが、4人のこどもが笑った場合、「三人のこどもが笑った」と言えるのでしょうか? 言えないのでしょうか?
意見の分かれるところですが、著者は基本的に「三人のこどもが笑った」のは笑ったこどもがちょうど三人であるときのみ成り立つといいます。
ただし、「三個のケーキを食べてよい」と言う表現はおそらく「三個以下」を指しますし、三個のケーキを食べなければならない」と言われれば、「三個以上」、つまり四つ食べてもOKなのかもしれません。
第3章は「大部分のこどもが笑った」という表現を取り上げています。これは一見すると「三人のこどもが笑った」とほぼ同じものに思えますが、「大部分」であることを確かめるためには全体のこどもの数を知ることが必要です。たとえ10人のこどもが笑っても、1000人中の10人であれば、それは「大部分」とは言えないでしょう。著者はこのような「比例的な数量名詞」だとしています。
さらにこの章で著者は日本語の「の」の問題が、ラッセルが「the」について考えたのと同じくらい考える価値のある問題ではないかとして(125−126p)、「の」にまつわるさまざまな問題を研究しています。
例えば、「まあちゃんの本を読んだ」という表現の「の」は何らかの関係性を示唆しているわけでしが、それは「まあちゃんが持っている本」、「まあちゃんが書いた本」、「まあちゃんについて書かれた本」、「まあちゃんが面白いと言っていた本」といった具合に、いろいろと考えることができるのです。

第4章は「どのこどもも笑った」。この表現は「すべてのこどもが笑った」に言い換えれば、記号論理学の「∀」の記号を使うことができ、簡単に解釈できるように思えます。
ただし、「どの」とは「これ」「それ」「あれ」「どれ」などの「こそあど」と呼ばれる言葉であり、不定詞によって量化をおこなうしくみになっています。
本章では、この「こそあど」を使った文の真理条件、さまざまな量化の解釈などがなされており、興味深い問題も含んでいますが議論を噛み砕いて紹介できるだけの力がないので、この部分は割愛します。

第5章は「こどもはよく笑う」という文章から総称文の問題を扱っています。第2〜第4章は相当専門的な議論で、多くの人にとって何をやっているのかわからなかったかもしれませんが、この第5章の議論は言語哲学や記号論理学に興味のない人にとっても重要なことを教えてくれるものだと思います。
第5章の冒頭には「こどもはよく笑う」と「こどもは全員くる」という2つの文があげられています。後者の特定の集団のこども全員という意味ですが、前者はこども一般の性質を表しています。このあるものの性質などを表す文が総称文です。
しばしば総称分は全称文と同じだと考えられています。「カラスは黒い」は「すべてのカラスは黒い」に言い換えられると考えられるのです。
しかし、アルビノのことを考えれば白いカラスも存在します。しかし、だからといって「カラスは黒い」という文が偽だとは言えないでしょう。一般的にカラスは黒いからです。さらに「ペンギンは卵を生む」も「すべてのペンギンが卵を生む」とは言い換えられません。卵を生むペンギンは少なくともメスに限られるからです。
この総称文と全称文の区別のつきにくさは悪用されます。「日本人は気が小さい」「金持ちはけちだ」といった表現にはそれぞれ賛否があるでしょうが、これが真か偽かを決めることは容易ではありません。そこでこうした文の真偽はとりあえず放っておかれるわけですが、これらの文はしばしば偏見や差別を生み出します。
しかも、こどもはこの総称文からさまざまなことを学んでいきます。こどもは「どのカラスも黒い」という全称文よりも「カラスは黒い」という総称文を先に聞くはずなのです。

また、論理学において「金持ちはけちだ」、「田中さんは金持ちだ」から「田中さんはけちだ」が導かれることがありますが、「金持ちはけちだ」が総称文だと考えると、この推論は100%のものではありません。
さらに「水は100°Cで沸騰する」といった科学的な真理を示すような文も総称文です。実際には沸騰する温度には気圧などのさまざまな条件が付きますが、科学ではこうした総称文で表されるような真理が、しばしばその本質を示すものとして求められます。
その上で、著者は次のように述べています。

「日本人」、「金持ち」、「女性」といった社会種についての総称文が社会的に問題だと考えられる最大の理由は、そうした文が総称文として、これらの社会種に「本質」があると想定させるところにある。そうした「本質」は、ないかもしれないし、あるかもしれないが、少なくとも、物質や自然種の「本質」の探求のために歴史を通じて払われてきたような努力がなされていないことは確かである。「日本人」や「金持ち」や「女性」について、個人的印象や偏見から、たまたまもった自分の考えに安住している人の方が圧倒的に多いというのが、実情だろう。(242−243p)

そして、著者は現在の論理学ではこの総称文と全称文の違いがうまく扱えていないことも認めています。論理学の教科書でよく取り上げられる「すべての人間はいつか死ぬ」という文は、「人間はいつか死ぬ」という例外を持たない珍しいタイプの総称文であり、そこでは全称文と総称文の違いが曖昧になっているのです。
なんとなく、論理学の言葉こそ完全なものであり、日本語のような自然言語は不完全だと思われがちですが、必ずしもそうではありません。このことについて著者は次のように述べています。

もともとそれは数学のなかでの推論を研究するために作られたので、そこで必要でないことはいっさい無視された。それゆえ、日本語やその他の自然言語にくらべると、その表現力はきわめて弱い。そこでは、過去、現在、未来の区別も、また必然か可能かといった区別も表現できない。論理的に区別されるべきことが区別できない言語を挙げろと言えば、論理学の言語がまっさきに挙がっても不思議ではない。(271p)

ここ最近、言語哲学からずいぶんと遠ざかっており、この本の面白さをどこまで読み込めているかは自信のないところではありますが、第1章の議論は言語に興味のある人なら面白いと思いますし、第5章の話は非常に重要で、最初にも述べたように広く読まれるべき内容を含んでいると思います。
また、紹介しきれなかった細部にも「なるほど」と思わせる解釈は数多くあり、難しいなりに読み応えがあります。最初に「デイヴィッドソンのプログラムがいかなるものなのか?」という部分があった方が親切だとは思いますが、いろいろと触発される本です。

サブタイトルは「アフラシアの時代」。「アフラシア」とはアフリカとアジアを合わせた造語で(この言葉自体はトインビーが用いている)、2100年にアジアとアフリカに住む人々がそれぞれ全世界の約4割となり合わせて8割になることを見据えながら、2100年の世界を展望した本になります。
大まかに分けると、前半は2100年の未来予測にあてられており、後半は「アフラシアの時代」にふさわしい理念を探る試みとなっています。
冒頭のカラー口絵をはじめとして前半の予測の部分は興味深いと思います。ただし、後半の理念の部分では「反西洋」が核となってしまっていて、「「アフラシア」といっても「アジア主義」の変形に過ぎないのでは?」という感想を持ってしまいました。

目次は以下の通り。
第1部 2100年の世界地図
第1章 22世紀に向かう人口変化
第2章 定常状態への軟着陸
第3章 新たな経済圏と水平移民
第2部 後にいる者が先になる
第4章 ユーラシアの接続性
第5章 大陸と海のフロンティア
第6章 二つのシナリオ
第3部 アフラシアの時代
第7章 汎地域主義の萌芽
第8章 イスラーム
第9章 「南」のコミュニケーション
終章 共同体を想像する

21世紀の終わりの2100年、世界人口は112億人程度になると予想されています。
そして、驚くべきはアフリカにおける人口増加です。ヨーロッパの人口が減少し、アジアでも2050年あたりをピークに人口は減少しますが、アフリカは21世紀を増え続け、2001年の約8億4千万人から2100年には約46億7千万人となり、約47億8千万人のアジアに肉薄します(9p図1−1、表1−1参照)。
国別で見ても、ナイジェリア、コンゴ民主共和国、タンザニアといった国々で人口が大きく増加し、特にナイジェリアは2100年には人口は約8億人に達し、インドネシアやアメリカを上回り世界第3位の人口になると予測されています。
また、2100年には世界で高齢化が進み世界の高齢者人口の割合は35.5%になると予測されていますが、アフリカの高齢者人口の割合は14.6%であり(19p)、深刻な高齢化に直面しない唯一の地域となります。
他の予測と違って人口予測はある程度長期の状態を予測できます。これは急に出生率が急上昇したり急降下したりしないこと、例えば20年後において20歳以上の人は現時点ですでに存在していることなどから導かれます。もちろん、地球規模の天災やパンデミックなどによって人口が大きく減る可能性はありますが、現在の人口やトレンドからある程度の予測が可能です。
基本的に世界の出生率は低下傾向にあります。アフリカは高い出生率を誇っていますが。、それでも1960年代の6.72をピークに2010−15年には4.72まで低下しており(34p)、今後もこのトレンドは継続すると考えられます。
アフリカの出生率も22世紀はじめには2.0代に落ち着くと見られており、世界人口も落ち着いてくると予想されているのです。

22世紀はじめに世界人口が落ち着くとしても、心配なのはそれだけの人口をまかなえる食糧があるのかということです。ご存知のようにマルサスは悲観的な見方をしていましたが、実際には食糧生産は人口以上の伸びを見せており、現在のところ破局とはなっていません。
ただし、温暖化が進めば熱帯地域で農業生産が打撃を受けると考えられており(口絵14参照)、問題になる可能性があります。

人口動態に大きな影響を与える可能性があるのが移民です。移民というとアフリカやアジア、ラテンアメリカからヨーロッパやアメリカを目指す移民が思い浮かびますが、実際に多いのは地域内の移民であり、特にアジア内の移民が多くなっています(58p図3−2参照)。
また、近年では中国からアフリカへと向かい人の動きも目立ちますが、将来的には出生率の高いアフリカから少子高齢化の進むアジアへの移民が進むかもしれません。

ここまでが第1部、以降の第2部と第3部が「理念編」というべき部分になります。
第4章では、フランクの『リオリエント』、ポメランツの『大分岐』、アリギの『北京のアダム・スミス』を用いながら、18世紀までは必ずしも西洋の優位が確立していたわけではないことを示し、ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の決定論的な見方を批判してます。
ただし、例えば著者は「ダイアモンドの議論には、近年の西洋中心主義の自己批判、あるいは「アジアの再興」といった議論の流れに対して、周到に挑戦する側面があり、その意味で溜飲を下げた読者も世界には多かったのではないだろうか」(83p)と書きますが、本当にそうなのでしょうか?
著者の議論には「反西洋主義」のバイアスがかかっているようにも思えます。

第5章ではルソーの『社会契約論』における野生人の話から、移動する人と多文化共生を構想しています。
多文化主義は9.11テロ以降やや旗色が悪い状況ですが、著者は東京の下町などに見られるさまざまな国籍の人の「よそよそしい共存」という状態に期待を寄せています。EUとは違い、ASEANやAUでは加盟国の内政にそれほど干渉しません。そういった形の共存が可能ではないかというのです。
第6章では今後のアフリカとアジアについて分裂と収斂という2つのシナリオを提示しています。
まず、分裂のシナリオですが、これはアジアが経済成長する一方で、そのアジアがアフリカの資源を収奪するようなシナリオです。アフリカに対する投機的な投資は地下資源だけではなく、農産物などにも及んでおり、状況をますます悪化させる可能性があります。
一方、アフリカで人口が増加し人口密度もアジア並みに高まってくる中で、労働成約型の製造業が発展するシナリオも考えられます。これにはアジア諸国がアフリカの人的資源の育成などに力を貸すことが必要です。

第7章は「汎地域主義の萌芽」として、バンドン会議や汎アジア主義、汎アフリカ主義の思想を振り返っています。
汎アジア主義としてはタゴール、岡倉覚三(天心)、孫文らが、汎アフリカ主義としてはフランス領マルチニックの詩人エメ・セゼール、タンザニアのニエレレ大統領、アパルトヘイトに反対し30歳で獄死した南アフリカのスティーヴ・ビコの言葉が紹介されています。
いずれにも西洋流の考えや資本主義に対する道徳的な批判があります。もちろん、植民地支配の歴史などを考えるとこれらの批判は正当なのですが、こうした西洋批判の上に新しい何かが生まれるのかといえば、個人的には疑問です。

第8章はイスラームについて。もしもアフリカとアジアが結びつく要素があるとすればこれでしょう。北アフリカから中央アジアに広がる一帯はもちろんのこと、イスラームはサブサハラ地域にも東南アジアにも広がっています。特に2050年のムスリム人口の予測を見ると(155p図8−2参照)、サブサハラ地域のムスリム人口は大きく伸び、その存在感も大きくなっています。
イスラームは「不寛容」だというイメージがあるかもしれませんが、イスラームはアフリカの土着の教えも容認しながら勢力を広げています。そうしたこともあって「アフリカでは宗教を軸とする紛争がまれ」(162p)です。
第9章では「「南」のコミュニケーション」と題して、アジアとアフリカのコミュニケーションを言語面から考察しています。
著者は「交通の言語」、「理知の言語」、「情愛の言語」という3つの言語を想定しています。他者同士の意思疎通を行う「交通の言語」や学術研究などに使う「理知の言語」においては英語が強く、またいくつかの言語にその可能性がありますが、母語は「情愛の言語」として残るだろうとしています。

こうした考察を経た上で、著者は終章で次のように述べています。

アフラシアは、外にも内にも敵をつくらない温和な共同体になれるだろうか。アフリカとアジアに生きる人々を情念によって結びつける根拠があるとしたら、それは歴史的な他者との関係、すなわち西ヨーロッパという異空間の政治権力によって植民地支配を受けた歴史的経験だけである。この広大な空間を束ねる共通の属性は、他には存在しない。エチオピアやリベリア、タイや日本のように、植民地支配を免れた国々もあったが、面として地域を見ると、これらの国々も列強が支配を狙う対象だった。歴史的に日本は、列強の侵略に対する一種の過剰反応として、自ら帝国に化けてしまった。植民地的な関係が繰り返されてはならない。大国が中小国の自由を奪うことがあってはならいない。アフラシアは、「義」による想像の共同体である。(187p)

個人的にはこの「反西洋」を軸とした連帯は健全なものとは思えませんし、植民地支配の経験をキーにするのであれば、やはり日本はアフラシアから外れるのではないでしょうか。
いくら地理的なくくりは同じだとはいえ、日本にとって西アジアは遠い存在ですし、アフリカはなおさらです。まさに彼らは「他者」になります。もちろん、「他者」同士の連帯は可能ですが、そこで下手に「反西洋」の理念を持ち出しても、戦前のアジア主義がうまくいかなかったように、アフラシアもうまくいかないのではないでしょうか。
個人的にアフラシアをまとめる可能性がある理念はイスラームしかないように思えますが、そうなれば、そのアフラシアからおそらく日本や中国などは外れることになるでしょう。

最初に述べたように、前半の将来予測の部分は面白いと思いますが、後半の理念編の部分には大きな問題があるように思えます。20世紀半ばまでつづいた植民地支配はアフリカやアジアに大きな傷をもたらしたことは確かですが、その傷をテコにした共同体に未来があるとは思えないのです。


アフリカから1000万人以上の人が連れ去られたとされる奴隷貿易。その奴隷貿易について主に奴隷船にスポットを当てながらその全体像を明らかにしようとした本になります。
わざわざタイトルに「奴隷船」と付けているので、奴隷船をめぐる細かい情報が紹介されているのかと思いますが、奴隷船がメインにとり上げられているのは第2章のみで、奴隷貿易の始まりから奴隷貿易と奴隷制の廃止に至る過程をバランスよく記述しています。特に奴隷貿易の廃止運動については、その運動をになった人々や運動の過程をかなり詳しくとり上げています。
目次は以下の通り。
第1章 近代世界と奴隷貿易
第2章 奴隷船を動かした者たち
第3章 奴隷貿易廃止への道
第4章 長き道のり―奴隷制廃止から現代へ

近代以前にも奴隷貿易は存在しました。中世の地中海貿易においてヴェネツィアやジェノヴァの商人はレコンキスタの過程で獲得されたムスリム奴隷を扱っていました。さらにヴェネツィアがコンスタンティノープルを占領すると黒海沿岸からも奴隷が調達され、イスラームのマムルーク軍(イスラーム世界における奴隷身分出身の者で構成された軍)へと送られたりしました。
大航海時代が始まると、ポルトガルがアフリカで奴隷を獲得し、奴隷貿易に乗り出します。狙いは黄金海岸の金で、金を得るために黄金海岸に奴隷が運ばれました。また、多くの奴隷がポルトガルやスペインにも運ばれています。

この後、いよいよ大西洋の奴隷貿易が始まるのですが、以前からいったいどれくらいの奴隷が新大陸に運ばれていったのかということは大きな問題でした。
この問題に挑戦したのがフィリップ・D・カーティンです。彼はさまざまな史料を使い、新大陸に生きて上陸した奴隷(途中で死んだ者は含まない)を、およそ950万人ほどと推計しました(22p表2参照)。
その後、D・エルティスとD・リチャードソンによる研究で約1070万人という数値が出されました。さらに、大西洋奴隷貿易データベース(TSTD1とTSTD2)が作成され、奴隷貿易1回ごとのデータが集積されました。
それによるとアフリカから送り出された奴隷は1250万人ほどで(32−33p表6参照)、先程の上陸した奴隷の推計数1070万人と比較すると、航海途中での死亡率は14.5%ほどになります。また奴隷を送り出した数が最も多いのは西中央アフリカで、受け入れ先として最も多かったのはブラジルでした(34p図1−3参照)。

新大陸で奴隷を必要としたのはスペイン人です。彼らは新大陸の農園や鉱山の労働力として先住民を使っていましたが、ヨーロッパ人が持ち込んださまざまな伝染病と過酷な労働によって先住民な激減します。
そこでアフリカから奴隷が輸入されることとなったのですが、スペイン人は奴隷貿易自体にはあまりありませんでした。大西洋の奴隷貿易はスペイン王室から「アシエント」という請負契約を交わした外国人商人によって行われることになります。
当初、このアシエントを獲得したのはポルトガル商人でしたが、17世紀後半以降は、ジェノヴァ商人、オランダ商人、フランスのギニア会社などが獲得し、1713年にアシエント権はユトレヒト条約によってイギリスの手に渡ります。そして、イギリスが大西洋奴隷貿易の中心となっていくのです。

第2章は奴隷船とその関係者に焦点を合わせています。
奴隷がびっしりと描かれている奴隷船の図を世界史の教科書や資料集などで見たことがある人もいるでしょう。それは奴隷船ブルックス号の構造図であり、奴隷廃止運動のときに奴隷貿易の非人道性をアピールするものとしてさかんに用いられました。この船は1781年にリヴァプールで建造された船で、この図がつくられるまで実際に4回の奴隷貿易に従事していました。
奴隷船の大きさは多くは100〜200トンで、それほど大きなものではなく、「移動する監獄」「浮かぶ牢獄」と言われました(64p)。大西洋横断の2ヶ月ほどの間、奴隷たちは1日16時間ほど身動きできずに寝かされて、1日に1回、病気にならないように甲板上でダンスを踊らされました。
奴隷船には他の船には見られないバリカド(バリケード)と呼ばれる仕切りがあり、これによって男性奴隷と女性奴隷を分け、奴隷叛乱が起きたときにも使われました。また、奴隷船には手枷、足枷、首輪、鞭などの拘束具なども詰め込まれていました。

奴隷として船に乗せられたアフリカ人はどこから来たのかというと、その多くはアフリカ人の手によってヨーロッパの奴隷商人に引き渡されています。18世紀にベニン湾岸で勢力をもっていたダホメ王国では、奴隷狩りが毎年の王の恒例の行事となっており、そこで得た奴隷がヨーロッパの奴隷商人に売却されました。その過程では、当然殺された者もいると考えられ、奴隷船の船長だったジョン・ニュートンは「売却されるために留保された捕虜は殺された者よりは少ない、と私は思う」(72p)との言葉を残しています。
奴隷船では奴隷叛乱もたびたび起きましたが(特にガンビア人は奴隷になるのを嫌う危険な存在だったとのこと(79p))、手枷足枷を外して自由になり、乗組員との戦闘に勝って、なおかつ船を自分たちの思う通りに動かすという3つのハードルをクリアーすることは難しく、多くの叛乱は失敗し首謀者が見せしめのために責め苦を負わされました。

奴隷船には船長と水夫たちがいました。先程紹介したジョン・ニュートンは奴隷船の船長でもあり、また「アメージング・グレース」の作詞者としても知られています(奴隷貿易から足を洗って牧師になった)。このジョン・ニュートンの残した記録を見ると、水夫たちの質の低さ、奴隷の調達の難しさ、そして奴隷叛乱の計画や嵐などのトラブルが合ったことがわかります。
水夫たちの多くは無知な若者がほとんどで、多くは借金の返済のために奴隷船に乗り込まざる得なくなった者たちでした。また、ベンガル人やアフリカ人の水夫たちもいました。
水夫たちは排泄物の処理や夜間の奴隷の監視など、大変な仕事を押し付けられていましたが、さらに悲惨なのは船長たちが帰国する船に水夫を乗せたがらなかったことでした。船長たちは目的地が近づくとわざと水夫に対して罰を加えたりして現地で船を降りるように仕向けることもあったそうです。1786−87年にリヴァプールから出航した奴隷船の乗組員3170人のうち、帰還したのはたった45%でした(95p)。
一方、奴隷商人たちは奴隷貿易によって大きな富を得ました。本書には18世紀に奴隷貿易を行ったウィリアム・ダベンポートという人物の取引が紹介されていますが(98p表9参照)、ビーズや真鍮、鉄器などを載せて出航したホーク号は、ビアフラ湾で奴隷を獲得しジャマイカで売りさばくことで、同時に行われた象牙の取引を含めて100%を超える利潤を生み出しています。
また、当時の船はフランス船を拿捕する権利を与えられており、これも利益をもたらしましたが、逆にフランス船に拿捕されて大きな損失を被ることもありました。そのせいもあって多くの船は何人かの商人の共同出資によって運行されました。
このようにして富を得た商人たちは土地を買い集め地主となり、子弟をケンブリッジやオックスフォードなどに送り出しました。

第3章は奴隷貿易の廃止運動を詳しくとり上げています。
奴隷貿易と奴隷制に対する反対運動は1769年に起きたサマーセット事件から始まります。北米で奴隷として購入されたサマーセットがロンドンで逃亡したことをきっかけに、イングランドで奴隷は認められるか? という問題が沸き起こりました。裁判で奴隷制の禁止は明言されなかったものの、サマーセットが釈放されたこともあって、奴隷制は認められないとする風潮が高まりました。
さらに1781年にゾング号事件が起こります。これは奴隷船ゾング号で伝染病が発生し、さらなる感染を恐れた船長が奴隷たちを海に投げ込んだというもので(病死ならば船主の損失だが事故死なら保険会社の損失になる)、この事件の裁判をきっかけに奴隷貿易の残酷さが世に知られるようになりました。

こうした事件を受けてイギリスではアボリショニズム(奴隷制廃止運動)が起こります。1787年にロンドン・アボリション・コミュニティー(ロンドン委員会)がつくられ、まずは奴隷貿易の廃止を目指すことが決まりました。
この運動を担ったのがクウェイカー教徒です。クウェイカーが17世紀にイギリスで生まれたプロテスタントの一派で、「他人が我々にしてくれることを期待するのと同じことを、他人にしてあげなさい」(121p)という人道主義のもと、奴隷貿易廃止運動を担っていくことになるのです。

その中で特に大きな役割を果たしたのはウィリアム・ウィルバーフォースです。若くして下院議員となった彼には宗教家として身を立てたいという想いもあったとのことですが、先程名前をあげたジョン・ニュートンの説得もあって奴隷貿易廃止運動の先頭に立ちます。
ロンドン委員会を中心に奴隷貿易反対の制限キャンペーンが展開されます。この活動にはウェッジウッド社の創設者でもあるジョサイア・ウェッジウッドも関わっており、彼は奴隷貿易廃止のためのメダリオンなどを作成し、運動の大衆化に尽力しました。
1791年、ウィルバーフォースは奴隷貿易廃止法案を動議にかけ、4時間を超える演説を行いますが、法案は否決されました。

一度は挫折した奴隷貿易廃止運動ですが、フランスの「黒人友の会」(コンドルセが会長で会員にシエイエスやラファイエットがいた)と連携し、国内では砂糖不買運動をはじめます。この運動では「毎週五ポンド[重量]の砂糖を使う家庭は、21ヶ月その使用をやめれば、アフリカ人奴隷1人の「殺人」を防ぐことができる」(136p)と訴えましたが、この訴えは大きな反響を呼び、ロンドンでは2万5000人がこの運動に参加したといいます。また、この運動をきっかけに奴隷貿易廃止運動が女性の間にも広がりました。
1792年、ウィルバーフォースは再び奴隷貿易廃止法案を下院に提出します。これに対してヘンリー・ダンダスが奴隷貿易の漸進的廃止を求める法案を出し、下院ではこの法案が可決されます。しかし、上院がこの法案を退け、奴隷貿易廃止運動はしばらく停滞します。

再び奴隷制廃止運動に火をつけたのが1791年のハイチの奴隷叛乱でした。フランスの植民地のハイチでは3万人ほどの白人に対して43万人以上の奴隷がいる状況でしたが、フランス革命と呼応するように奴隷の蜂起が起こったのです。紆余曲折を経て、1804年に黒人共和国であるハイチが誕生します。
このハイチ革命をきっかけに再びイギリスの奴隷貿易廃止運動も活性化し、1805年にはウィルバーフォースらによって旧オランダ領ギアナ向けの奴隷輸出が禁止され、1807年に、上院では首相のウィリアム・グレンヴィル、そして下院ではウィルバーフォースの活躍もあって、ついに奴隷貿易廃止法案が可決されたのです。
しかし、奴隷貿易の廃止がイギリスの植民地拡大につながった面もあります。イギリスは奴隷船を拿捕して奴隷を解放しましたが、この解放の地であったシエラ・レオネはイギリスの植民地となっていきます。さらに在英黒人をシエラ・レオネに入植させる計画や、ジャマイカの逃亡奴隷であるマルーンがシエラ・レオネに連れてこられたりします。
また、イギリス政府の圧力もあって、オランダ、フランス、ポルトガルといった国々も奴隷貿易の廃止に踏み切っていきます。ブラジルでは奴隷に対する需要が強く、なかなか奴隷貿易がなくなりませんでしたが、イギリス海軍のブラジルの領海内でも奴隷船を拿捕するという強硬策もあって、1850年に奴隷貿易は終焉します。
また、アメリカではアミスタッド号事件の裁判が行われ(奴隷船での奴隷叛乱ををめぐる事件、スピルバーグが映画化した)、弁護団に加わったジョン・クインシー・アダムズの活躍もあって奴隷たちは解放されると同時に、奴隷制反対の世論が強まりました。

こうして奴隷貿易は19世紀中頃までに廃止されたものの、奴隷制そのものの廃止に関してはさらに時間がかかりました。第4章ではその長き道のりをたどっています。
1823年にイギリスの植民地のガイアナで奴隷叛乱が起きましたが、植民地当局によって鎮圧され首謀者は死刑や鞭打ち刑に処せられました。さらに、このときに牧師のジョン・スミスも牧師補が首謀者だったことから死刑に処せられたのですが、これがイギリス本国に伝わると奴隷制廃止の機運が高まります。特にこの運動には女性が多く参加し、漸進的な奴隷制廃止ではなく即時の奴隷廃止を訴えました。
さらに1831年にジャマイカで奴隷叛乱が起こり、その背景にプランターの奴隷に対する残虐な行為があったことが明らかになると、議会改革の流れにも乗って、1833年に奴隷制廃止法が成立します。さらに奴隷と境遇の近い年季奉公人についても廃止が進んでいきます。

この流れの中、カリブ海地域では1848年までに奴隷制がほぼ廃止されますが、アメリカでは綿花の栽培の拡大に伴って奴隷が必要とされたことから、奴隷制の廃止は南北戦争まで持ち越されましたし、ブラジルでもコーヒー生産のために奴隷が用いられ、奴隷制の廃止は1888年まで持ち越されました。
奴隷廃止後、その代わりにプランテーションなどで働いたのがインドや中国から連れてこられた年季契約労働者です。彼らは奴隷ではありませんでしたが、その扱いは奴隷に近く、中国からキューバへの移民船の1847〜60年の死亡率は約15%で、奴隷船の死亡率よりも高いものでした(218p)。
さらに本書は「奴隷制は終わっていない」と書きます。ケビン・ベイルズの2016年の著作『環境破壊と現代奴隷制』によると、世界に存在する奴隷の数は4580万人であり、南アジア地域の債務奴隷を中心に数多くの奴隷的な人々がいるといいます。タイの売春宿やブラジルの炭焼き場、アフリカの児童労働など、現在も奴隷的境遇で働く人は多く、この問題は終わったわけではないのです。

以上のように、本書は奴隷船だけではなく奴隷制度全般について扱った本となっています。「奴隷船」に期待した人にとっては物足りない面もあるかもしれませんが、奴隷貿易を考える上で入門書的な位置づけとなる本に仕上がっていると思います。特に奴隷貿易や奴隷制の廃止運動に関しては勉強になりました。
特にイギリスの奴隷貿易廃止運動、奴隷制廃止運動で世論が重要な役割を果たしたことと、現代でもまだ奴隷的境遇の人がいるという事実は重要なことではないでしょうか。


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