2021年06月
単行本で出た時に「読みたいな」と思いつつ読めずにいた本ですが、今回、香港デモついての新章を加えて新書化されたの機に読んでみました。単行本がすでに、第50回大宅壮一ノンフィクション賞と第5回城山三郎賞を受賞しているだけあって面白さは折り紙付きなわけですが、やはり面白い本だと思います。
中心となるのは天安門事件の関係者へのインタビューですが、事件について聞くだけではなく、現在(取材は2015年前後に行われている)の状況と照らし合わせるような形で質問を重ねており、事件から四半世紀の関係者と中国の変化を浮き彫りにしています。
さらに、天安門事件に参加しながら中国の現状を肯定する人、現在でも、中国に民主化が必要だと考える市井の人、香港のデモに参加する人の声なども聞くことで、「天安門事件とは結局なんだったのか?」「今後、中国で民主化運動は成功するのか?」といった問にも答えるような内容になっています。
目次は以下の通り。
序章 君は八九六四を知っているか?第一章 ふたつの北京第二章 僕らの反抗と挫折第三章 持たざる者たち第四章 生真面目な抵抗者第五章 「天安門の都」の変質第六章 馬上、少年過ぐ終章 未来への夢が終わった先にあとがき新章 〇七二一 香港動乱
香港デモに関するインタビューも含めれば25人以上に話しを聞いており、一人ひとりのインタビューを詳しく紹介していくことはなかなか難しいので、ここではいくつかのタイプにまとめながら、その声を拾っていきたいと思います。
ちなみに本書でインタビューされている人物の名前はほとんどが仮名になっています。
一番、最初に出てくるのは郭定京という人物です。事件当時19歳の浪人生で、2011年に酒の席で彼が「六四」について語り始めたことが、本書の誕生の1つのきっかけとなっています。
彼は、1989年に運動に参加して軍に投石したりしたものの、現在、もしデモがあっても「行かない」と言います。「現代の中国には社会問題が山積みだけれど、国民が体制を変えるために立ち上がるほどひどい国でもないんだ」(27p)という認識です。
こうした感覚は在日中国人の民主化活動家の葉子明にもあって、活動家の看板をおろしたわけではありませんが、天安門事件は過去のものとなっています。
第1章の後半に出てくる魏陽樹もそうした人物の1人です。魏は当時、警察系大学の学生で、デモに参加しながら、同時にデモを抑え込む側でもありました。この魏のインタビューからは当時の天安門の様子もよくわかり、警察の中にもデモ隊にシンパシーを持つものが多く、5月20日の戒厳令の発令までは牧歌的であったこともわかります。
しかし、それは軍の実力行使によって一変し、魏もとにかく脱出せねばと列車に乗り込みましたが、そこには北京から避難する人びとでごった返していたといいます。
そんな体験を持つ魏は、「天安門事件のときにみんなが本当に欲しかったものは、当時の想像をずっと上回るレベルで実現されてしまった。他にどの国のどの政権が、たった25年でこれだけの発展を導けると思う? だから、いまの中国では決して学生運動なんて起きない」(85p)と言います。当時憧れた生活は、少なくとも物質面に関しては十二分に実現されたのです。
ただし、やはり天安門事件での弾圧は関係者に大きな傷を残しました。そのことを教えてくれるのが第2章の、当時、在中日本人留学生だった佐伯加奈子へのインタビューです。
彼女は当時、北京師範大学に留学しており、家族ぐるみで仲良くしていた恋人の徐尚文もいました。また、彼女はアルバイトでNHKのリサーチャーもしており、天安門事件広場の数々の写真も残しています(本書のカラー口絵の写真の多くは彼女が撮ったもの)。
彼女も恋人の徐も軍による鎮圧には巻き込まれずにすみましたが、恋人の徐の性格は事件によってすっかり変わってしまったといいます。日本人の恋人がいることを周囲に自慢するようなひねた人間になってしまい、結局は別れることになりました。事件は多くの若者の運命を変えたのです。
同じく第2章の、当時北京大学の教員だった余明のインタビューからはも当時の雰囲気、そして、中国における知識人のあり方なども見えてきます。
北京大学の教員や職員の中にもデモにシンパシーを持つものは多く、「五四運動の生き残り」である90歳を超えた老人も学生を支援するデモに加わっていたといいます。
中国では、昔から「士庶の別」と呼ばれる、知識人こそが政治を担うべきだという考えがあり、余明も「知識人こそモノを言うべき存在だ、中国を救う存在だと考えていた」(106p)と言います。
そして、「士大夫」の予備軍である自分たちが殺されるはずはないという思いもあったのでしょう。前にとり上げた魏は「あのデモは結局、子どもが親に文句を言った行動だったと思うんだよ」(119p)と述べています。
また、その後の出来事によって運動への評価が変わった人もいます。第2章に出てくる呉凱は事件当時、日本に留学しており、事件後しばらくは民主化を熱心に叫んでいましたが、ソ連の崩壊と、短期留学したドイツで東ドイツ人が見下されている様子を見て、天安門事件での鎮圧は正しいことだと思うようになったといいます。
一方、いまだに民主化運動を行ったり、強いシンパシーを抱いている者は、知識人でない人々だったりします。第1章に出てくる張宝成や第3章に出てくる姜野飛、マー運転手がそんな人びとです。
張宝成は、2013年に北京の繁華街で党官僚の財産公開を求める横断幕を掲げる運動を行ったことから逮捕され、1年弱投獄されていました。
張は、中国共産党の支配を認めた上でその改革を目指す新公民運動を進める団体である「公盟」(公民)のメンバーでした。中国では集会を開くことが難しいため、毎月末の土曜日に賛同者が集まる「食事会」を開き、胡錦濤政権末期の最盛期には10万人近い参加者がいたといいます。
張は、1976年の第一次天安門事件にも参加したという筋金入りの人物で、89年の第二次天安門事件には29歳の時に参加しています。当時、張は小さな家具会社を開いていましたが、学生に差し入れをしたりして運動を応援していました。そして、軍が発泡を始めた6月3日の夜にも北京の街中にいて、銃弾の中を逃げ回ったといいます。
その後、妻が起こした殺人事件などに巻き込まれて会社も潰れるなか、張は民主化運動に身を投じる決意をしました。ただ、運動はほぼ抑え込まれており、張自身も現在の中国で民主化運動が成功する可能性が薄いことは認めています。
張がある意味で筋金入りの運動家であるのに対して、なんとなく運動家になってしまい、タイに流れ着いたのが姜野飛です。
姜は、父が会社を経営していたこともあって文革で批判され、幼い頃は貧しい生活を強いられたといいます。89年の天安門事件当時は児童修理工として成都にいて、成都でのデモに参加したりしていました。当時、情報は流通しておらず、デモは成都だけで起きているものだと考えていたといいます。また、ほとんど報道はされていませんが、成都のデモ隊に対しても武力鎮圧が行われたと姜は証言しています。
そんな姜が再び運動に足を突っ込むきっかけとなったのがインターネットでした。ネットのチャットルームで党批判を行ったところ多くの人から称賛を浴び、ネットでちょっとした有名人となります。
2012年頃まで、ネットでの言論は比較的見逃されていましたが、姜は、法輪功系の北京五輪の聖火リレー反対運動に賛意を示したことから公安に目をつけられ、さらに2008年の四川大地震のときに現地の情報を海外に発信したことから逮捕され、殴られたりスタンガンを押し付けられる拷問を受けたといいます。
この後、姜はタイへと逃れ、難民申請も行いましたが門前払いされています。姜は、天安門事件の日に行われる中国大使館前の抗議運動にも加わったりしていますが、経済的には困窮した生活を送っており、取材後にはついに中国に強制送還となり、「罪」を告白させられていました。
マー運転手は、深センのタクシーの運転手で著者とたまたま知り合った人物ですが、タクシーの運転手には柄の悪い人物が多い中で日本のエプソンの現地法人の運転手をしていたこともあって非常に物腰の丁寧な人物でした。
マー運転手は遼寧省生まれで、中学を中退してアイスキャンディーを売る露天商の仕事をしていました。この仕事をしていた24歳のときに買付で北京に立ち寄り、デモの現場に遭遇したといいます。デモの学生の言っていることは理解できなかったといいますし、そもそも天安門でデモが行わていたことも知らなかったといいますが、その後、ダンプカーの運転手をしているときに利権にむらがるマフィアの抗争に巻き込まれそうになり、ここで天安門で叫ばれていた「反腐敗」の意味を知ったそうです。
その後、エプソンで働いて日本人の礼儀正しさを知ったマー運転手は、「日本は民主主義の国だから、日本人はみんな優しくてちゃんとしているのだ」(166p)という認識にたどりつきました。
その後は、ネットでさまざまな情報を知り、「むかしの自分はなぜデモに参加しなかったんだと悔しくて仕方なかったよ」(168p)との考えを持つようになりました。今デモが起きたら「参加する」と言い切ります。
本書に登場する人びとの中で、今でもが起きたら「参加する」と言い切ったのは、マー運転手と第4章に出てくる凌静思です。
凌は天安門事件当時、夜間部ながらも大学生の立場で、デモの初期から毎日のように天安門広場にいました。現在では資料室の司書として働いており、インテリと言っていいでしょう。
凌は、政治家に広場の衛生環境が悪いと言われたのに反発し、ホウキをもって掃除を始めました。そして、このときの様子がロイターのカメラマンに撮影されています(199pに毎日新聞に載ったこの写真が掲載されている)。
凌は、5月30日にたまたま母親が大怪我をして入院したことから命拾いをすることになります。弾圧の夜、凌は病院で負傷者の搬送の手伝いなどをしました。戦車に轢かれて左足を失った学生もいたといいます。
凌は50歳を超えた今でも民主化運動を支持していますが、同時に「秀才造反、三年不成(文弱の徒の反乱は、いつまでたっても成就し得ない)」(207p)といったことも言います。中国においてインテリが主導する革命は失敗するものだとわかっているのです。
最後に、凌の口から妻を出産の時に亡くし、今は家族がいないことが語られますが、張宝成にしろ、マー運転手にしろ、凌にしろ、「持たざる者」がいまだに民主化の夢を追っていると言えるのかもしれません。
このように中国での締め付けが厳しい中では民主化運動は海外で行わざるを得ません。
しかし、第4章の王戴へのインタビューを読むと、ただでさえ運動が低調になる中で、民主化運動組織である「民主中国陣線」(民陣)の日本支部は内ゲバと銭ゲバによってグループが分裂を続けていることがわかります。
著者は、王丹、ウアルカイシといった天安門事件のリーダー的存在にもインタビューを行っていますが、彼らの話の中身はあまり面白いものではなかったとのことです。
特に王丹の応答に関しては、大学受験の小論文の模範解答のようであり、正しくはあるものの、没個性的で面白みはないのです。
著者は途中で「あなたは毎回同じことを訊かれているのではないか?」と問いかけますが、王丹はそれは自分の役目であるとし、「やりたいことをやって、ずっと放棄(やめ)なかった。私はうまくやってきたと言えるのか、それはわかりません。しかし、今まで放棄なかった点だけは、自己評価としては満足しています」(283p)と答えています。
ウアルカイシは人懐っこい感じで非常に魅力的な人柄ですが、喋っている内容は王丹とそれほど変わらず、ステレオタイプの民主化論です。
でも、やはり王丹と同じように天安門事件について語り続けなければならないという覚悟のようなものは感じさせます。
また、王丹もウアルカイシも台湾のひまわり運動の学生たちと接触があり、激励なども行っています。
ある意味で、天安門事件の記憶がひまわり運動における学生たちの実力排除を躊躇させた面もあるわけで、王丹は「しばしば『天安門事件は中国を変えなかった』という批判がなされますが、しかし『たとえ中国を変えなくても世界を変えた』とは言えるはずですよ」(303p)と語っています。
この他、在米民主派の中国人団体を主宰しながらスティーブ・バノンに仕えていた李建陽(仮名)や、日本の右翼論壇でも活躍する石平などにもインタビューをしています。
そして、さらにこの本を立体的なものにしているのは、香港でのデモと天安門事件を重ね合わせながら取材している点です。
香港といえば、長年に渡って天安門事件の追悼行事が行われてきた場所であり、中国民主化運動の大きな拠点だったイメージがありますが、著者は取材した2015年の天安門事件追悼デモは、親中派とともに、「本土派」と呼ばれる集団からも罵声を浴びせられていました。
本土派は香港の中国からの離脱や独立を求める一派で、「私は中国人ではない」と考えるからレにとって、天安門事件は関係のない出来事なのです。
ときに中国人を汚い言葉で罵倒する彼らは、2019年の大規模デモでも暴走し、さまざまな破壊行為も行いました。
最終的に、香港のデモは中国政府の国家安全法によって窒息させられてしまったので、彼らの暴走が香港の民主化を失敗させたとは言えないでしょうが、香港に分断を作り出してしまった面はあるでしょう。
本書はルポなのですが、過去の真相を掘り起こすというよりは、天安門事件の現在における意味をつねに問い続けるようになっています。
天安門事件と香港デモの関係者へのインタビュー通じて、巨大に成長した中国と、同時に政治からある意味で切り離された中国の人びとと、今後どのような関係を築いていくべきかということを考えさせてくれる内容と言えるでしょう。
- 2021年06月29日22:37
- yamasitayu
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あとがきに「筆者は長らく研究者というよりも「職業的オタク」という自己認識を強く持ってロシア軍事研究を進めてきた」(298p)との一文がありますが、まさに「ロシア軍事オタク」とも言うべき著者が、そのオタクぶりを発揮しながら現代のロシアの軍事力や軍事戦略を読み解いた本になります。
先日紹介した、廣瀬陽子『ハイブリッド戦争』(講談社現代新書)と重なる部分があるのですが、『ハイブリッド戦争』がロシアの近年の近隣への介入の中に純粋な軍事力以外のさまざまな要素を見出しているのに対し、本書は同じように近隣への軍事介入にさまざまな要素を見出しながら、最終的には軍事力をその核心として分析しています。
特に、ウクライナ紛争、シリア内戦、ナゴルノ・カラバフ紛争についての具体的な分析は面白く、ロシアの軍事力の強みと弱みがわかる内容になっています。
目次は以下の通り。
はじめに―不確実性の時代におけるロシアの軍事戦略第1章 ウクライナ危機と「ハイブリッド戦争」第2章 現代ロシアの軍事思想―「ハイブリッド戦争」論を再検討する第3章 ロシアの介入と軍事力の役割第4章 ロシアが備える未来の戦争第5章 「弱い」ロシアの大規模戦争戦略おわりに―2020年代を見通す
特殊部隊やさまざまな工作を駆使したクリミア併合、アメリカ大統領選へのサーバー空間を使っての干渉など、近年のロシアは複合的な軍事力を持った大国として復活しつつある印象ですが、本書では「小さな軍事大国」(33p)という表現が使われています。
ロシアのGDPは世界第11位で、国防予算も概ね世界第4位程度です。かつてはソ連+ワルシャワ条約機構で欧州に展開するNATO軍を上回っていましたが、NATOが東方に拡大していく中で、ロシアの兵力はNATOの欧州加盟国に対して半分程度になっています。
このためNATOの拡大はロシアにとって直接的な脅威となります。2004年にはバルト三国がNATOに加盟し、ロシアの目と鼻の先が敵国の陣地となったようなものです。
ですから、原油価格の高騰とともに経済を建て直したロシアは、NATOのこれ以上の拡大阻止を至上命題としており、旧ソ連欧州部でまだNATOに加盟していないアルメニア、アゼルバイジャン、ベラルーシ、グルジア(ジョージア)、モルドヴァ、ウクライナを勢力圏にとどめるためには武力行使もためらいません。
ウクライナではユーロマイダンによってヤヌコーヴィチが失脚し、親欧州が勢いを増すと、クリミア併合へと動き、さらにウクライナ東部に親ロが支配する地域を作り出しました。
ロシアはクリミアに特殊部隊を派遣するだけでなく、情報戦で優位に立ち、サイバー攻撃も駆使してウクライナを混乱させました。さらにウクライナ軍の通信をダウンさせたりもしています(これは『ハイブリッド戦争』でも紹介されている)。
クリミア併合では、ロシアは軍事力を展開させたものの、ほとんど発泡などはしておらず、今までの「戦争」のイメージとは違ったものでした。そこで「ハイブリッド戦争」という用語が登場することになります。
この「ハイブリッド戦争」という言葉自体は、ウクライナ紛争以前からあった言葉でしたが、それがロシアのやり方を表すものとしてピッタリのものだと思われたのです。
こうした中で注目されたのが2013年にロシアの軍事専門誌に掲載されたロシア軍のゲラシモフ参謀総長の演説です。この中でゲラシモフは「アラブの春」に見られる、急激な変革や混沌状況に対して、「これらの出来事こそが21世紀の典型的な戦争なのではないでしょうか?」(74p)と問いかけています。
2014年のウクライナ紛争を予言するかのようなこの演説は、「ゲラシモフ・ドクトリン」と呼ばれて広まっていくことになります。
ただし、この戦時と平時を連続して見るような見方はゲラシモフの独創ではなく、ロシアの軍事思想の中では繰り返し登場してきたものだといいます。メッスネルは心理戦を主な手段とする闘争を「非線形戦争」と名付けました。
そして、ソ連の崩壊は西側が非線形戦争に勝利した結果であり、「アラブの春」やその後に起きたカラー革命も、西側により非線形戦争の一環だと解釈されたのです。
ロシアからすると、2003年のグルジアでの「バラ革命」、04年のウクライナの「オレンジ革命」、05年のキルギスタンの「チューリップ革命」、そして14年のウクライナ政変は、西側が仕掛けてきた非線形戦争であり、これへの対処がロシアの防衛にとって死活的に重要なのです。
西側から見ると、ロシアがハイブリッド戦争を仕掛けているように見えますが、ロシア側からはすると、ロシアは西側からさまざまな非線形戦争を仕掛けられており、「永続戦争」の戦時下にあると認識されているのです。
このため、ロシアは国内でもネットを統制して、有力ブロガーに実名制を義務付けたり、外国から資金援助を得ているNGOを「外国のエージェント」と規定する法律をつくったり、若者の愛国心を高める教育を行っています。
2016年には「国家親衛隊」なる組織が設立されていますが、この大統領直轄の組織はロシア版の「カラー革命」を阻止することを目的にしているともいいます。2020年のベラルーシの大統領選の際に起こったような抗議運動をロシアもまた警戒しているのです。
ただし、それでも著者は戦争の主役は軍事力であり続けるだろうと予測しています。
ゲラシモフの演説でも、非軍事的手段はあくまでも軍事力とともに使用されるものであり、非軍事的手段の探求も怠ってはならないということが言われています。ロシアの戦略の中核は今なお軍事力にあると考えられるのです。
第3章では、近年のロシアの関わった紛争に即して、具体的にロシアの軍事力を見ていきます。
まずはウクライナ紛争ですが、クリミア併合において実際の武力行使はほぼなかったものの、ロシア軍はクリミアに特殊部隊をはじめとする部隊を迅速に送り込み、クリミアの港や軍事基地などを占領し、クリミアの支配という既成事実をつくり上げていきました。
一方、ドンパス紛争とも呼ばれるその後のウクライナ東部での内戦では、当初、親露派武装勢力は統制もとれておらずウクライナの正規軍に対して劣勢でした。
そこで、ロシアは親露派武装勢力に地対空ミサイルを供与し、2014年8月には4000人規模のロシア正規軍を投入してウクライナ軍に打撃を与え、ウクライナ政府が奪還していた土地を奪い返しました。
確かにウクライナ紛争は「ハイブリッド戦争」の性格も持っていましたが、クリミア併合や東部地域のウクライナからの分離を成し遂げることができたのは、ロシアの軍事力の裏付けがあってこそなのです。
シリア内戦では、ロシアの介入によって一気に局面が変わりました。
シリアのアサド政権は、自由シリア軍やIS、アル・ヌスラ戦線、イスラム戦線などの反政府勢力の前に風前の灯とも言うべき状況に陥っていましたが、ロシアの介入によってアサド政権は息を吹き返し、反政府勢力を逆に追い詰めていきました。
まずはロシアの空軍力です。ロシアにはアメリカのような精密な誘導兵器はありませんが、生活インフラをあえて狙うような爆撃で、敵に占領地域を放棄させるような戦略もとられたと見られています。
次に地上部隊ですが、ロシアにはシリアのような遠隔地に大規模な部隊を展開する力はありません。そこで現地の部隊にロシアが装備や訓練を提供し、ロシア人将校が指揮するという形が用いられました。ロシアが訓練した第5義勇団はシリア軍の中でも桁違いの強さを見せましたが、この部隊の戦いの中でロシア人で実質的な最高司令官と目されていたヴァレリー・アサポフ中将が戦死しています。
シリア紛争には民間軍事会社のワグネルも参加したといいます。このワグネルに関しては『ハイブリッド戦争』にも詳しく書いてありましたが、プーチンに近い外食産業の経営者のプリゴジンが出資し、ロシア軍によって訓練されているとも言われています。
ワグネルはシリア紛争にも参加しアサド側の勝利に貢献したとも言われます。ただし、2018年2月にアサド政権側の部隊がクルド人支配下に侵入し、米軍の爆撃を受けて撤退した事件にもワグネルが関わっているとの噂があり、ロシア政府の許可を受けずに石油精製施設を占領するつもりだったともいいます。
2020年に起きたナゴルノ・カラバフ戦争ではロシア軍は動きませんでした。
オイルマネーを背景にイスラエルやトルコからドローンを導入したアゼルバイジャンが、ナゴルノ・カラバフ全域で大規模な攻勢を仕掛け、戦いを有利に進めました。
アルメニアは旧ソ連の軍事同盟CSTOのメンバーであり、アルメニアにはロシア軍も駐屯しています。アルメニアはロシアにとって南カフカスにおける唯一の同盟国でしたが、プーチンは戦闘はアルメニア領に含まれないナゴルノ・カラバフで起きているとして、介入の義務を否定しました。
一見すると、ロシアの対応は弱気に見えますが、この地域をロシアの「勢力圏」としておくには悪い手ではなかったことがわかります。アルメニアには西側に接近する動きも見られましたが、これでますますロシアを頼らざるを得なくなりました。一方、介入しなかったことで同じく「勢力圏」であるアゼルバイジャンとの関係も保てます。
停戦が合意されると、ロシアは一気に停戦のための大部隊を送り込みました。これによって紛争は凍結されることになり、この地域でのロシアのプレゼンスは強まりました。
第4章では、ロシアの軍事演習を分析しながら、ロシア軍がどのような戦争や紛争を想定しているのかを探っています。
ロシア軍はさまざまな地域で軍事的な行動を行っていますが、アメリカなどの大国との衝突は起こしていません。それでも、究極的にはロシアはアメリカやNATO軍との全面対決といった事態も想定しているはずで、そのときにどんな戦略がとられるのかを軍事演習から探ろうというわけです。
2008年にセルジュコフ国防相によって大規模な軍改革が実施され、大規模戦争に対応できる力を削減する一方で、小規模紛争に対処するためのコンパクトで機動的な軍事力への転換が目指されました。
それまでのロシア軍は多くの部隊が士官や下士官と少数の兵士だけで構成されており、有事には予備役を動員することでこの部隊が実際に行動できるようになる仕組みとなっていました。しかし、セルジュコフは部隊数を1890個部隊から172個部隊に大幅に削減する一方で、常時即応の態勢をとらせました。さらに従来の1万人規模の師団をほとんど解体し、4000人程度の旅団に再編しています。大規模戦争を想定しないのであれば師団のようなものは不要だからです。
この時期の軍事演習の仮想敵はテロ集団や非合法軍事組織であり、具体的にはイスラームの武装グループなどが想定されていました。
一方、1999年のユーゴスラビア空爆や2003年のイラク戦争も受けて、防空システムの構築を目指した演習も行われています。
2009年の「ザーパド2009」と呼ばれる演習では、ベラルーシ国内のポーランド系住民が蜂起を起こしたとの想定のもとでの訓練も行われたとされ、いわゆる「カラー革命」に対する警戒感もうかがえます。
しかし、2010年代半ばになると、演習にも今までと違った傾向が見られるようになります。
2014年の「ヴォストーク2014」では、国防省以外の省庁や地方政府までは動員された大規模な演習で、16万2000人が動員される、第二次世界大戦さながらの巨大戦争が想定された演習でした。そのシナリオは、日本と北方領土をめぐって軍事衝突が起こり、そこにアメリカが介入してくるものだったとも言われています。
この背景には2012年にセルジュコフ国防相がスキャンダルで失脚したことも関係していると言われます。セルジュコフの改革には軍の反発も強く、一種の巻き戻しが起きたと見られます。
10年代半ば以降にも、非国家主体を対象とした演習は継続してい行われていますが、これらは国家に支援されており、非国家主体との戦いが国家との戦争に連続的にエスカレートする想定がとられるようになってきています。
さらに「ヴォストーク2014」よりも大規模な「ヴォストーク2018」(ただし発表された動員規模は水増しされているとの指摘もある(236p)、核戦争を想定した演習なども行われており、総力戦も想定したような訓練が行われているのです。
ただし、ロシアは相手がNATOであろうと中国であろうと、国境を接する形になっており、その防衛には難しいものがあります。特に米軍が相手となれば、軍事施設やインフラは空爆によって大きな損傷を受けるでしょう。
そこでロシアが力を入れているのが短距離弾道ミサイル(SRBM)や地上発射型巡航ミサイル(GLCM)です。また、宇宙空間でも予算や技術の制約がある中で、宇宙における優勢な状況をつくるさまざまな手段を模索しているといいます。
最後の「おわりに」では軍事面だけにとどまらず、今後のロシア政治についても展望しています。
2000年以降、プーチン大統領を中心とした「プーチン・システム」とも言うべき統治体制ができあがりました。このシステムは00年代の原油価格の高騰とともに堅固なものとなりましたが、10年代に入って原油価格が低迷し経済成長が鈍化すると、以前のような堅固さを持つものではなくなりつつあります。2021年1月のナヴァリヌイの釈放を求める大規模デモなどはその現れでしょう。
プーチンが大統領を続けるのか「院政」を行うのかはわかりませんが、このままいけばロシアは徐々に米中に遅れをとっていくことになるわけで、プーチン・システムを維持しながらの「体制内変革」のようなものがあるかが今後のポイントだと著者は見ています。
また、こうしたロシアに対する日本の態度ですが、ロシアが「永続戦争」の認識を持つ限り、例えば、対中警戒心を媒介にした日露の連携といったことは考えにくく、日本は「西側の一員」としての立場を固めるべきだとしています。
このように本書はロシアに関して、「軍事力」という観点から深く掘り下げたものですが、1つの部分を冷静に掘り下げていくことによって、例えば、地政学的な日露による対中包囲網が成り立たないことを指摘するなど、日本の外交の問題点なども見えてきます。
軍事演習の紹介などは、細かすぎると感じる人もいるかも知れませんが、軍事を通して国際政治の主要なプレーヤーであるロシアの行動が見えてくる本と言えるでしょう。
- 2021年06月21日22:37
- yamasitayu
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戦前に外務大臣として「幣原外交」を展開し、戦後は首相として「憲法9条の発案者」ともなったと言われる幣原喜重郎の評伝(実は本書では「幣原外交」も「憲法9条の発案者」としての幣原も否定されているのですが)。
「幣原外交」と「憲法9条の発案者」を並べると、そこから想像するのは高邁の理想を掲げて難局を切り拓こうとする人物ですが、本書では、幣原をそうした人物ではなく、「組織人」として描き出します。堅実ながら、今までのイメージを覆す刺激的な評伝と言えるでしょう。
目次は以下の通り。
序章 生い立ち―幣原家の次男第1章 秀才から能吏に―組織人としての自覚第2章 外務次官までの道程―一九〇八〜一九年第3章 対英米協調路線の模索―「新外交」時代へ第4章 幣原外交の始動―一九二〇年代の日中関係第5章 満洲事変と第二次幣原外交第6章 帝国日本の崩壊―失意の元外相第7章 老政治家の再起―米占領下と制度改革終章 挫折を超えて―幣原の遺訓
幣原は、1872年に大阪で代々庄屋を務めてきた旧家の次男として生まれています。幣原家は勉強に熱心で、兄の坦(たいら)は朝鮮史を修め、帝国大学教授や台北帝国大学総長などを歴任し、一番下の妹の節は大阪府初の女医となっています。
幣原は小さな頃は腕白であったとのことですが、大阪中学校から第三高等中学校、帝国大学へと進みます。
幣原は法律学科から外交官を目指しますが、重い脚気になり外交官試験を受験できず、やむなく農商務省に入ります。しかし、24歳で外交官試験に合格し、1896年に外務省に入りました。
幣原の最初の仕事は朝鮮の仁川の領事館補でした。ここで領事の石井菊次郎と出会います。石井は幣原を高く評価し、のちに石井が外相になった時に幣原を次官に据えるほどでした。
ここで2年4ヶ月を過ごすと、1899年にはロンドンに向かいます。ここで幣原は英語を徹底的に勉強しました。家庭教師から今まで習ってきた英語を忘れるようにアドバイスされ、暗唱を発音の矯正を繰り返したといいます。
ロンドンで1年4ヶ月を過ごした後、アントワープ、釜山と任地を変え、釜山時代に岩崎弥太郎の四女の雅子と結婚しました。実はイギリス人女性との結婚を望んでいた幣原でしたが、周囲の反対もあって雅子と結婚しています。この結婚によって加藤高明が義兄となりました。
1904年に幣原は本省の電信課長となります。電信課長は受信した電信の内容に応じて、それを当該部署に回付することでしたが、これは外務省が抱えているすべての案件の内容を理解していなければできない仕事でした。幣原は8年にも渡ってこの職責をこなしていきます。
この時期に外務省の顧問だったアメリカ人のヘンリー・デニソンと散歩をすることが日課となり、幣原はデニソンから外交文書の書き方など、さまざまなことを教えられました。
また、当時の外相であった小村寿太郎も電信の一言一句にこだわる人間で、ここからも幣原は外交における言葉の重要性を学びました。
1908年に第2次桂内閣が成立して小村寿太郎が外相に返り咲くと、小村は関税自主権の回復のための条約改正公称に備えるために条約改正準備委員会を設け、幣原に取調課長の兼任を命じます。さらに1911年には新たに設けられた取調局の初代局長となりました。
このように小村に評価された幣原でしたが、一方で外務省の花形というべき政務局の勤務は一度もありませんでした。この政務局は、のちに亜細亜局と欧米局に分かれますが、外務省の中枢とも言うべき意思決定ラインに関わることはなかったのです。
1914年、幣原はオランダ公使兼デンマーク公使となります。折しも第一次世界大戦が勃発したときで、幣原は中立国のオランダから敵国であるドイツの情報収集を行います。
また、日本政府は「対華二十一ヵ条要求」を出しますが、幣原は当時の外相で義兄でもあった加藤高明にこれを批判する私信を送っています。
加藤が外相を去ると後任は石井菊次郎になります。幣原を信頼していた石井は次官として幣原を呼び寄せ、1915年10月に幣原は外務次官に就任します。
この時期は、ロシア革命で誕生したソ連が密約をことごとく暴露する「革命外交」を展開し、アメリカのウィルソンが「平和のための一四ヵ条」を打ち出すという、外交の転換点でしたが、幣原は小村寿太郎の息子で政策局第一課長でもあった小村欣一の助けなども借りて、これに対応していきます。
小村が「一四ヵ条」の信奉者であったのに対して、幣原は国際連盟に関しても「円卓会議」と呼んで距離を置きましたし、パリ講和会議でも山東半島問題をめぐる中国の宣伝に対して後手に回る面がありましたが(これが1920年の亜細亜局の設置にもつながっていく)、徐々に「新外交」への対応を見せ始めます。
また、この時期の日本には外交調査会という首相、外相、内相、陸海相、枢密顧問官、政党の党首が参加する天皇直属の機関がありました。外交を政争の具としないためにつくられたものですが、外務省としては厄介な存在で、特に枢密顧問官の伊東巳代治は難物でしたが、幣原は外交調査会に回す情報をコントロールし、これに対応します。
こうした中で、加藤高明の義弟として幣原を警戒していた原敬の信頼も得るようになり、1919年に駐米大使に任命されました。
1921年からはワシントン会議には、加藤友三郎らとともに首席全権として参加します。
この会議では、中国側が山東権益の返還を強硬に求めてきますが、幣原は病躯をおして粘り強く交渉を重ね、アメリカにも日本の立場を認めさせました。
また、このワシントン会議では四カ国条約の締結とともに日英同盟が廃棄されました。日本側ではこれを惜しむ声も強くありましたが、幣原は英国との同盟よりも米国との協調関係の確立を重要だと考えて、日英同盟の廃棄を受け入れます。
このように粘り強い交渉によって会議を妥結に導いた幣原でしたが、加藤友三郎から「君はお人好しで、自惚れているからいかん」(92p)と言われたこともあったそうです。幣原には性善説的な人間観があり、それが加藤には弱点に見えたのでしょう。
1924年、護憲三派内閣で加藤高明が首相になると、幣原が外相となります。
当時、外務省はそれまでの秘密的な姿勢を改めて、国民に外交についての理解をもとめる公表外交を展開しようとしていましたが、幣原はその流れに乗り、正直、かつ正攻法の外交を目指しました。
この時期、日本が直面していたのが中国情勢の流動化でした。軍閥による分裂状態に陥っていた中国において、日本の満蒙権益をどのように維持していくかが課題となっていたのです。
幣原は「無数の心臓」(105p)をもつ中国を一撃で叩き潰すようなことはできず、不干渉主義をとりながら、日本の権益を確保する道を探るべきだと考えていました。
幣原が重視したのが中国との経済関係の発展です。当時、日本の輸出品の中心だった綿製品は中国市場に販路を拡大させていましたし、中国で生産を行う在華紡も事業を拡大させていました。
ここに中国の関税自主権の回復の動きが重なります。1925年からこの問題を話し合う北京関税特別会議が開かれることとなったのです。
幣原は、中国の関税自主権回復に理解を示しており、中国を国際経済秩序に組み込むことで、中国が統一された近代国家として成長するだろうという見立てもありました。
ただし、日本国内の紡績業からは関税の増徴税率を2.5%以内に抑えてほしいという要望も出ており、交渉の場では細かい駆け引きが行われることとなりました。しかも、日本国内でも交渉のスタンスをめぐって通商局と亜細亜局で対立があり、イギリスとの強調を重視する全権と亜細亜局の間でも対立がありました。
この対立にたいして幣原はリーダーシップを発揮できず、対中政策をめぐってイギリスとのズレが顕在化していくことになります(イギリスは北京政府を見捨て広東政権(国民党)に期待するようになっていた)。
さらに1926年の北伐に伴って起きた、南京事件と漢口事件への対処は「幣原外交」への不満も生み出し、これもあって金融恐慌を機に若槻礼次郎内閣が倒れ、幣原も外相を退くことになります。
幣原の退任後は、田中義一が首相と外相を兼任し、外務政務次官に森恪が就任します。田中外交は、東方会議で満蒙権益の追求拡大を決め、張作霖爆殺事件も起きたために、幣原外交と対極にあるものと捉えられがちですが、本書では、幣原も満蒙権益の維持にこだわっていたこと、田中も対英米協調の立場を堅持したことなどから、この2つを実は近似したものであったと評価しています。
1929年に田中内閣が退陣して浜口雄幸が首相になると、幣原は外相に再登板します。浜口とは大阪中学校時代からの仲でした。
浜口内閣の重要政策の1つが「対中国外交の刷新」で、幣原はそのために自らの右腕でもある佐分利貞男を註中国公使に起用します。外務次官には更迭かと思われた吉田茂が留任しました。
1930年から始まったロンドン海軍軍縮会議では、幣原は駐日米国大使のウィリアム・R・キャッスルと綿密な打ち合わせを行い、全権団をサポートしながら会議を妥結へと導きます。まずは大きな外交的成果でした。
しかし、対中国外交はなかなか上手くいきませんでした。国民政府は列国との間に締結された不平等条約の一方的な破棄を宣言する「革命外交」を展開しており、「正攻法」の外交を重んじる幣原はその対応に苦慮します。
さらに1929年11月には日本に帰国していた佐分利公使が謎の死を遂げる事件が起こり、幣原の対中外交は大きくつまずきます。石射猪太郎が「結局佐分利という者があの人[幣原]の機構の総べて」(141p)という言葉を残しているように、佐分利の死は幣原にとって大きな打撃となりました。
後任の公使は重光葵となりますが、重光は谷正之亜細亜局長と連絡を取りながら、幣原を外す形で対中交渉を行おうとします。国際間の秩序とルールを重んじようとする幣原に対して、重光と谷は現実に応じたよりプラグマティックな交渉を行おうとしたのです。
重光は、革命外交の勢いは止まらず、いずれ旅順・大連の租借地や満鉄の回収にまで及ぶと考え、そのために比較的重要でない蘇州・杭州などの居留地を中国に返還しつつ、衝突が起きた際に国際社会からの支持が得られるように「堅実に行き詰まる」(156p)という策を述べています。
1930年11月浜口が襲われ、幣原は臨時首相代理となります。浜口内閣に代わって成立した第2次若槻内閣でも幣原は外相に留任しましたが、そこで起こったのが31年9月に始まった満州事変です。
陸軍三長官は不拡大で一致しており、また国際社会も局地的紛争だと見ていました。ヘンリー・L・スチムソン米国国務長官の幣原への信頼も厚く、国際社会は中国に対して冷淡でした。
ところが、10月に錦州爆撃が行われるとムードが変わってきます。日本に対する不戦条約違反の声もあがりますが、一方で外務省は撤兵条件をつり上げるなど、ちぐはぐな対応となります。
こうした対応を主導したのは亜細亜局長の谷でした。谷は重光とともに「堅実に行き詰まる」方針を共有しており、必ずしも日中間の交渉の妥結を優先しておらず、幣原もこれに引きずられました。
外務省の内部からもこれを批判する声はあがりますが、幣原も中国の革命外交によって日本はいわれなき不利益を被っているとの認識を持っていたため、思い切った政策転換はできませんでした。
31年11月29日はスチムソンが錦州攻撃中止の確約を幣原から得たとの談話が新聞に載り、機密を漏洩したとして幣原は批判を浴びました。
幣原は、国際連盟から大国中心の調査団を受け入れることで、中国に権益を持つ他国が日本の行動に理解を示すことに期待をかけましたが、12月には若槻内閣が退陣し、幣原も外相の座を退きました。
ここからしばらく幣原は隠遁生活を送ることになります。外務省では内田康哉外相のもとで連盟脱退などの強硬な姿勢がとられましたが、満州の権益維持を重視していた幣原であってもこの流れを止められなかったと著者はみています。
普通の状況であれば外相退任後が「余生」ということになるのでしょうが、幣原には首相への就任というまさかの舞台が待っていました。
東久邇宮内閣がGHQの方針についていけなくなると、幣原に白羽の矢が立ったのです。当初の本命は吉田茂でしたが、吉田が受ける意向を見せず、代わりに推薦したのが幣原でした。
幣原は就任直後にマッカーサーからの5大改革指令を受け入れ、さらに天皇制護持のために「人間宣言」を英文で起草し、これによって日本の民主化を示そうとしました。
一方で、幣原は憲法改正の必要性を感じていませんでした。大日本帝国憲法でも解釈によって運用可能だと考えていたのです。
しかし、これは憲法改正を目指すマッカーサーの考えとは違いましたし、憲法改正に積極的だった昭和天皇との考えとも違いました。これを受け幣原は憲法改正へと動き出します。
46年1月24日に幣原とマッカーサーが会談しますが、ここで天皇制の護持と平和主義や戦争放棄の考えで一致しました。
ここから、憲法改正作業は2月1日の『毎日新聞』による松本案のスクープ、2月3日のマッカーサーからの草案作成指示、2月13日のマッカーサー草案の日本側への手交と急展開で進みます。これはマッカーサーが極東委員会に口出しされる前に憲法改正を急いだからでした。
幣原もこのマッカーサー草案を見て驚きます。その証拠に次の閣議が開かれたのは6日後でした。幣原はこの草案の修正や不受理の可能性があるのではないかと、GHQとコンタクトを図りますが、逆にGHQに最後通牒を突きつけられ、幣原内閣はマッカーサー草案の受け入れを決断するのです。
ここで本書では、憲法9条の「幣原発案説」と「マッカーサー発案説」を検討しています。
マッカーサーの回想録では幣原が発案したことになっていますが、著者は、1・『芦田日記』に2月19日の閣議で幣原がこの草案に反対の意向を示していたこと、2・幣原がマッカーサーに「どのような軍隊なら保持できるのですか」と問い合わせていたこと、3・戦力不保持の規定と関わりをもつ象徴天皇制について幣原が考えていなかったこと、などをあげて「幣原発案説」を否定しています(3の説明は本書だけだとややわかりにくい)。
しかし、この憲法を受け入れるのが最善の道だと判断し、9条の発案者として振る舞うことを決意したというのが著者の見立てになります。
その後、幣原は自らが率いる進歩党が46年4月の総選挙で第2党になったことから総辞職し、第一次吉田内閣が発足します。幣原はこの内閣に無任所大臣として入閣し、進歩党の後継の民主党に参加しますが、民主党が社会党と連立を組むと幣原は離党し、49年には衆議院議長になりました。そして、51年の3月に急逝しています。
本書は、史料を積み重ねた堅実な評伝でありながら、「幣原外交」と「憲法9条の発案者」という2つのことについて、それは「なかった」という議論を展開しています。後者については昔から論じられていることではありますが、前者についてはどうしても第一次世界大戦中の外交や田中外交などと対比で語られることが多い中で、説得力をもってその連続性を示していると思います。
満州事変におけるスチムソンへの機密の暴露問題については、小林道彦が『政党内閣の崩壊と満州事変―1918~1932』などで満州事変の決定的分岐点と評価しているだけに、もう少し詳しい評価をしてほしいところでしたが、刺激的な評伝であることは間違いないです。
- 2021年06月14日23:03
- yamasitayu
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時代劇に出てくる「大岡越前」や「水戸黄門」、私たちは「大岡越前の本名は大岡忠相であり、水戸黄門の本名は徳川光圀である」と言いたくなります。越前は越前守、黄門は中納言の唐名で、いずれも官名を表すものだからです。
ただ、「織田上総介信長の「上総介」も官名で本名ではないのか?」と言われると、迷いが生じてくるでしょう。戦国時代から江戸時代にかけて〜右衛門や〜左衛門といった官名風の名前が溢れているからです。
一方、明治期の政治家を見ると、「大久保利通」と「後藤象二郎」のような2つの系統の名前が見受けられます。なぜこのようなことが起こったのでしょうか?
本書は、まず江戸時代の名前の常識を解説した上で、融通無碍だった江戸時代の名前が、いかにして基本的に生涯変わらない(もちろん結婚すれば苗字が変わることはありますが)「氏名」というものにたどり着いたのかを教えてくれます。
そしてそれは、決して明確な設計図に基づいて進められたものではなく、武士や庶民の常識と公家の常識の衝突の結果として生まれたものなのです。
目次は以下の通り。
第一章 「名前」の一般常識第二章 「名前」にあらざる「姓名」第三章 古代を夢みる常識第四章 揺らぐ常識第五章 王政復古のはじまり第六章 名を正した結末第七章 「氏名」と国民管理
江戸時代の「通称」とも呼ばれるいわゆる「下の名前」には、「大和守」のような正式な官名、「主膳」のような疑似官名、「平八郎」「新右衛門」のような一般通称の3つのタイプがありました。
一般通称は、武士から庶民まで広く用いられており、だいたい〜右衛門、〜蔵、〜助のようにお尻は決まっていて、それに「名頭」と呼ばれる文字がくっついて、源右衛門、源蔵といった名前になります。
〜郎もそうしたお尻で、甚八、弥七などはそれが省略されたものです。一般的には太郎、次郎といった形で順番を表しますが、無頓着に付けた例も多いです(甚五郎の弟が兵次郎など)。
また、代々同じ通称を使用するケースもあります。『鬼平犯科帳』で有名な長谷川平蔵の父は平蔵であり、子もまた平蔵を名乗っています。名前が襲名されていくのです。
商人でも、鴻池善右衛門や加島屋久右衛門のように代々襲名するケースが目に付きますが、これは名前そのものが商号のようなものになっていたと考えられます。
他にも僧侶、医者、隠居などは、法体名と呼ばれる宗春、洪庵といった名前を名乗りました。これは名前がその人の社会的地位をある程度表していたからです。
一方、正式な官名は将軍の許可がなければ名乗れませんでした。旗本は諸大夫役と呼ばれる一定以上の官職につくことで初めて官名を名乗ることができ、官職に任じられた旗本は自ら名乗りたい官名を選んで将軍に申請しました。鬼平こと2代目長谷川平蔵の父は京都町奉行になった時に長谷川備中守に、3代目は西丸御小納戸頭取になったときに長谷川山城守に改名しています(二代目は出世できずに平蔵のまま)。
大名は、必ず諸大夫、あるいは一段階上の「四品(しほん)」と呼ばれる格式を許されていたので、正式な官名を名前にしました。ただし、生まれながらに諸大夫ではないので、例えば盛岡城主の子南部三郎は、嗣子として将軍にお目見えを済ませた後に、南部信濃守と改名しています。
この「信濃守」は官名なのですが、南部氏と信濃につながりはありません。井伊掃部頭は宮中行事のための設営や殿中の清掃を取り仕切るわけではありません。つまり、実際の役目とはまったく関係がなかったゆえに、これらの官名は「名前」だったのです。
ただし、一応、正式な「官名」であることから、これらの名前は幕府を通して朝廷から位階に除された上で名乗ることを許されました。
このように正式な官名は許可がなければ名乗れないために、それに代わって増えたのが擬似官名です。弾正、図書、玄蕃、主税などの京百官、左内、数馬、頼母などの東百官と呼ばれるものがそれです。
例えば玄蕃頭は正式な官名なので「頭」の部分をとって「玄蕃」という形にします。これならば許可なく名乗っても問題ないというわけです。
東百官は平将門がつくったとも言われていますが、実際には中世以降に生まれた「百官っぽい」名前で、基本的に語感を真似ただけです。語感重視なので、頼母から九十九、数馬から覚馬などが生まれています。
江戸時代の、特に武士の名前に関してはさらに名乗、あるいは諱、名、実名(じつみょう)と呼ばれるものがあります。大岡越前守忠相の「忠相」に当たる部分です。
例えば、先程もあげた初代の長谷川平蔵は平蔵から備中守になりましたが、名乗は宣雄(のぶお)で変わりません。こうなると、この「名乗」こそが「本名」のように思えてきますが、本書によればそうではありません。
そもそも、名乗は名前としての機能を有さず、名乗で呼ばれることもありません。書状の文末に入る「名乗書判」と呼ばれるサインにのみ使われました。そのため、自分の名乗はわかっても読み方はわからない、父や祖父の名乗がわからないというようなことも度々ありました。
私たちは、松平「定信」、田沼「意次」といった名乗で歴史上の人物を覚えているわけですが、実際にはほぼ使われていなかったのです。
さらに大名や旗本などを中心に「本姓」なるものが設定されいました。例えば、島津氏であれば「源」が本姓になります。島津氏は由緒のある家柄ですが、成り上がりの家であれば、源や平や藤原などを適当に設定していたわけです。
苗字は名前と、本姓は名乗に接続します。島津斉興であれば、松平大隅守(島津は幕府から松平の苗字を許されていた)、または源斉興であり、松平(島津)斉興という組み合わせはまずないのです。
基本的に苗字が公称できたのは武士などの一部の身分で、庶民は村の名前や、百姓や大工といった身分などを付けて、○しろまる○しろまる村百姓武右衛門、大工次郎作といった形で名乗りました。商人であれば山崎屋忠兵衛のように屋号をつけて名乗りました。
庶民が特別な許可を受けて苗字の公称を許されることもありましたが、特定の「御用」のときのみに許されたケースもあり、例えば、江戸佐柄木町の名主弥太郎は幕府の御細工頭を務めており、このときだけ「佐柄木弥太郎」と苗字付きの名前の公称を許されており、町名主としての活動は、ただの「弥太郎」を名乗っています。
庶民にとって、苗字と名前は必ずしもセットというわけではないです。
しかし、江戸時代にはこうした武士や庶民の常識とは違った名前に関する常識を持つ集団がいました。それが公家です。
公家にも当然ながら官名があり、一条左大臣、久我大納言、入江駿河守といった形で呼ばれていました。ここは武士と同じです。
ところが、その官名のあり方は武士のそれとは違います。まず、公家には家柄によって到達できる位階が決まっており、この位階が「三室戸三位(みむろどさんみ)」といった具合に名前のように使われることもありました。
さらに、武家との一番の違いは京官の官名の定員が設定されていたという点です。武家の官位は「員外の官」として、例えば本来1人の玄蕃頭が複数いても構わなかったのですが、公家の中では名乗れるのはあくまで1人でした(一方、地方官はこの制限がなく、「大和守」が何人いても問題視されなかった)。
公家の任官は武家に比べてはるかに頻繁で、羽林家と呼ばれる武関係の堂上(摂家に次ぐ格式の家)なら、権守や権介や侍従などを降り出しに、少将→中将→参議→中納言→大納言(大将を兼ねる)といった具合に任官していきます。
例えば、「飛鳥井侍従」は「飛鳥井右少将」→「飛鳥井右中将」と名前を変えていくわけです。
こうしたことあって、朝廷では武家ではほぼ使われなかった「本性+実名」こそが人の名前であるという認識が常識となっていました。
例えば、「平信堅」(称号は西洞院(にしのとういん))は左兵衛督(さひょうえのかみ)に任官すれば、「西洞院左兵衛督」が日常使われる名前となるわけですが、あくまでも人名は「平信堅」だと認識されていました。
また、江戸時代には「姓」「本姓」と呼ばれていたものは古代の「氏」にあたるものですが、これ以外にも姓(かばね)が存在しました。有名なのは天武天皇が制定した八色の姓で、朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置がありました。例えば、藤原氏は朝臣の姓が付きました。この姓は略されるのが普通になり、江戸時代には「尸(し、かばね)」と呼ばれるようになります。
公家でも特に高位の人物に関しては実名を忌避する文化があり、「日野中納言」のように居所+官名でその人を指し示すようになりますが、相手を実名で呼び合う文化は残りました。朝廷では「名前」ではなく「姓名」こそが人の名であるという考えだったのです。
この武家や庶民の常識と朝廷の常識が明治維新で衝突します。明治維新は「復古」の意味合いも強く、「名を正すべきだ」という議論も生まれてくるのです。また、官名に対する厳密な取り扱いが求められるようになってきます。
朝廷の官位には「解官」という措置がありました。罪を犯したものの官職を解くというもので、例えば、1774年に発生した御所口向役人の不正事件では100人以上が処罰されていますが、高屋遠江守は「高屋遠江」という名で処罰されています。官名を全部削除すると名前がなくなってしまうのでのその一部が削除されたのです。
一方、武家ではこうした慣行はありませんでしたが、禁門の変の処罰に置いて長州藩の毛利氏に解官が行われました。長門宰相(松平大膳大夫、姓名は大江慶親)は、幕府から松平姓と将軍家慶から偏諱である「慶」の字を剥奪され、さらに朝廷から官位を剥奪されます。その結果、長門宰相(宰相は参議の唐名)は「毛利大膳」になりました(高位の人は苗字を呼ぶのも遠慮するので「長門」だったが、官位がなくなって「毛利」となった)。
王政復古がなると、いよいよ官名を古代の理想の形に戻そうという動きが出てきます。
新政府がつくられると、議定や参与といった職が登場しますが、これはあくまでも職名で官名ではありません。「細川右京大夫」が「議定職・刑法事務局輔」に任命されても、名前は相変わらず「細川右京大夫」です。
また、新たに「官等」というものが設けられ、位階とは別にその職のランクを示すことになりました。
しかし、位階と官等が関連していなかったため、長官が無位無官の徴士で部下が官位を持っているというケースも起こるようになってきます。新政府には西郷隆盛や後藤象二郎といった藩士が多数参加しており、多くの場合、彼らは官位を持たなかったのです。
今まで、「広沢兵助」と「浅井伊予介」がいれば名前だけで正式な官名を持つ後者が偉いとわかりました。ところが、新政府では前者は2等官、後者は8等官ということが起こり得ました(広沢兵助とは広沢真臣のこと)。
そこで徴士にそれなりの官位を授けることが考えられます。このとき官名には任ぜずに叙位だけが行われ、例えば、「三岡八郎」は「三岡四位」となりました。これで名実の不一致を解消しようとしたのです。
ところが、この叙位を辞退する者が数多くいたのです。徴士は元来藩士であり、主君と同格の位階になってしまうのは恐れ多いことでした。例えば、「後藤象二郎」は当時「三岡四位」と同職でしたが、後藤は叙位を辞退したために、名前ではそのランクがわかりません。
さらに政府に採用された朝廷の地下の公家たちは、官職のランクは低いものの、「大和介」などの大層な官名を名乗っていました。そこで明治元年の11月に5等官以下は在勤中は官名以外の名前を名乗るように命令が出ました。
明治2年7月、今までの官制・官名が全廃され、新しい官制が「職員令」として発せられます。「百官廃止」とも言われるこの措置によって旧官名は一層され、新たな職名が名前のようにもちいられることになりました。例えば、民部官知事松平中納言は松平民部卿に、軍務官副知事大村四位は大村兵部大輔となりました。
これで名と実は一致しました。しかし、今度は職が変わると名前も変わってしまう問題が起きます。
こうした中で、一種の身分を示すために実名を通称のように使用する者も現れます。実名(名乗)は庶民は必要がないので設定していないことが多いです。つまり、実名がある=それなりの身分の出であることを示せるのです。
同じ頃、地方では、同姓の同職の者をどう呼ぶのかという問題にも直面していました。例えば、篠山藩では大参事の職に吉原前右衛門と吉原三郎右衛門がおり、「吉原大参事」では区別できなかったのです。結局、吉原の苗字に東を加えて「東吉原」などとして対応するしかありませんでした。
新政府は職員令とともに「官位記」の書式を制定します。ここでは姓尸名が用いられ、例えば、大隈重信は「従四位菅原朝臣重信」と表記されました。
しかし、姓尸を持たない者もいましたし、実名を持たない者は、名称を実名に流用したりしました。山尾庸三は「藤原朝臣庸三」と記しています。
結局、混乱もここに極まる形になり、明治3年末には、「苗字+官名」という記載方法が取り下げられ、「官名+苗字+実名」という形に落ち着きます。官名を名前として利用する形があきらめられたのです。
さらに明治4年には姓尸名の公文書での使用が廃止され、官員の名簿は「苗字+実名」になります。さらに明治5年には通称と実名を持つ者はどちらか1つにせよとの布告が出されます。ここで初めて、今まで意味合いの違った「西郷隆盛」と「後藤象二郎」というものは同じ「名前」となったのです。
庶民に関しては、明治4年まで作成されていた宗門人別帳や戸籍には、ただ「名前」のみが登録されていました。
明治3年には苗字公称の自由化が行われます。ただし、これは江戸時代の身分格式を整理する一環として行われたもので、特に深い理由はなかったと考えられます。そのため、地方によってその受け止め方はさまざまでした。
こうした中、庶民に苗字を強制するきっかけとなったのが、明治6年に施行された徴兵令です。徴兵逃れが横行する中で、政府は庶民に苗字がない問題点に気が付きました。
明治8年、陸軍卿の山県有朋は、庶民に苗字がないのは兵役事務の上で不都合だとして、苗字強制を主張し、これが政府に容れられます。そして同年に苗字を強制する太政官布告が出されるのです。
この庶民への苗字強制は、事務手続きの必要性から生じたもののため、苗字の中身については特に問われませんでした。村人全員がほぼ同じ名字を名乗っても、加賀屋という屋号を持つものが加賀谷を名乗っても政府としてみれば特に問題はなかったのです。
また、改名を制限されていきます。江戸時代には改名は当たり前でしたし、1人が複数の名前を持つこともありましたが、明治になると、個人は変わらない「本名」を持つという形になっていきます。
明治5年、政府は華族から庶民にいたるまでの改名を禁止します。ただし、この禁止令はのちにやや緩和され、営業の都合などで解明することは許されています。実名系の名前を持つ氏族が商売をするので通称系の名前に変えたい、〜右衛門が医師になるので名前を変えたいといった願いは許されています。ただし、改名の禁止によって幼名や隠居名は姿を消していきます。
最後に、エピローグで女性の名前についても少し触れています。江戸時代は「〜女房 〇〇」といった形で呼ばれていましたが、明治なって女性にも「氏+名」の組み合わせが必要になります。
そこでこの「氏」(苗字)をどうするかという問題が起こります。明治8年の石川県からの問い合わせに対して、政府は結婚しても実家の苗字を使用するように回答しています。夫婦同姓のケースもあったようですが、すべて夫婦同姓となるのは明治31年の民法施行以後でした。
このように、本書は私たちが持っている名前に関する常識を大きく揺さぶってくれます。「大岡越前守忠相」という名前を聞いた場合、私たちは「大岡忠相」が「本名」で「越前守」が「肩書」のように思ってしまいますが、江戸時代の常識はまったく違い、そしてそれがさまざまな混乱を経て今の「氏名」に至っているのです。
とにかく読んで面白い、刺激的な1冊だと言えるでしょう。
- 2021年06月07日23:13
- yamasitayu
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