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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2024年07月

副題は「気候変動の国際政治」、パリ協定以降の各国の温暖化対策とその駆け引き、アメリカやEUが打ち出した政策の国際的な影響などを分析した本で、近年の温暖化対策をめぐる駆け引きが分かる本です。
また、第1章が「米国のパリ協定脱退と復帰」となっているのですが、トランプの返り咲きが現実味を帯びる中で、今後の米国の動きなどを考えるうえでも参考になりますし、EUの「規制力」の国際的な影響なども感じさせる内容です。
さらに、「グリーン」であることが企業にとっても一種のブランドとなる中で、それに待ったをかけたアメリカの「反ESG」の動きなどからは、グローバルな経済主体と主権国家の角逐も感じさせますし、先進国VS新興国の図式なども含めて、新しい時代の国際政治が浮かび上がってくる内容になっています。

目次は以下の通り。
第1章 米国のパリ協定脱退と復帰
第2章 削減目標外交の攻防
第3章 グリーン貿易戦争
第4章 金融と気候変動のグローバルガバナンス
第5章 エネルギーの脱炭素化と世界の分断
終章 日本と世界が進むべき道

2015年12月、パリ協定が採択され、強制力こそないものの195の参加国が温室効果ガスの削減に取り組むという歴史的な取り決めが決まりました。
しかし、2017年6月、アメリカのトランプ大統領はパリ協定からの脱退を宣言します。21年にバイデン大統領がパリ協定への復帰を宣言しましたが、トランプが再び大統領に就任すれば、アメリカが再びパリ協定から脱退する公算が高くなっています。

ただし、2017年のアメリカの脱退宣言によっても他国が次々と脱退する負の連鎖は起きませんでした。
この背景には、まず、トランプ大統領が脱退を表明しても締結国が国連へ脱退を通告できるのは協定発効から3年目以降で脱退通告が効力を持つのは通告から1年後という取り決めがありました。つまり、協定発効が2016年11月4日だったために最短で脱退できるのはその4年後の2020年11月4日であり、それは次の大統領選の翌日だったのです。ここでバイデンが勝利したためにアメリカはすぐに復帰することになります。

また、パリ協定は各国が独自に目標を設定するもので、アメリカが脱退したからといって自分たちの目標を低くしよう、あるいは脱退しようとはなりにくい仕組みでした。
さらに、パリ協定以降、温暖化対策を成長への足かせではなく脱炭素という新たな成長産業への投資という見方が強まっており、負の連鎖は抑制されたのです。

バイデン大統領は就任日の2021年1月20日にパリ協定への復帰を国連に通告します。さらに4月の気候首脳サミットに合わせて「2030年に、2005年比で50〜52%の排出削減」という目標を打ち出します。
アメリカの2021年の温室効果ガス排出量は2005年比で16%減、およそ1年で1ポイント減になります。2050年で半減となると、年平均で3.8ポイントの削減が必要であり、対策の加速が必要です。

では、これをどのように実行していくのでしょうか?
オバマ政権では温暖化対策の立法に失敗し、さらに大気浄化法を用いた火力発電所からの温室効果ガスの排出を規制するやり方は連邦最高裁によって止められてしまいました。
そこで、バイデン政権は連邦政府の収入や支出に限定した法案であれば上院の単純過半数で可決できるという「財政調整」と呼ばれる手続きに注目し、脱炭素を進めようとします。
石炭を産出するウェストバージニア州選出の民主党のマンチン上院議員の反対もあり、法案は紆余曲折の末、法人税の最低税率の設定なども盛り込んだ「インフレ抑制法(IRA)」として成立しますが、この法案は巨額の脱炭素投資を推進するものでした。

もし、今年の大統領選挙で民主党の候補が勝てば(本書ではバイデンが勝てばとなっているが撤退が決まった)、2035年に向けてさらに踏み込んだ目標が立てられるでしょう。
IRAの脱炭素投資は2030年以降も続く予定になっており、2005年比で60〜70%の削減目標が立てられるのではないかと考えられます。ただし、さまざまな措置が保守化した連邦最高裁でひっくり返される可能性もあります。

一方、トランプ大統領が返り咲けばパリ協定から脱退するのはほぼ確実であり、就任後すぐに脱退を宣言すれば、今度は1年後の2026年1月に脱退が確定します。
IRAが存続するかは上下両院で共和党が過半数を取れるか否かがポイントです。ただし、IRAの投資は共和党が強い地域でも行われており、すべての共和党議員がIRAの撤廃に賛成するかは不透明です。オバマケアに関しても共和党は撤廃を主張していましたが、結局は党内のコンセンサスを得ることができずに上下両院で多数を握りながら撤廃できなかった過去もあります。

バイデン大統領が主宰した気候首脳サミットに合わせて日本の菅首相は2030年に2013年比で46%の削減を打ち出しました。
パリ協定では削減目標は「国が決定する貢献(nationally determined contribution=NDC)」という形になっており、各国が独自に設定できる用意なっています。これは京都議定書の失敗や、アメリカの上院で採択された「途上国にも削減を義務付けない限り、米国は先進国に削減目標を義務付ける議定書に加わるべきではない」という「バード・ヘーゲル決議」を受けてのものです。NDCの方式であれば、「バード・ヘーゲル決議」をすり抜けることができます。

パリ協定が決まったCOP21では、こうしたアメリカの置かれた状況に配慮しつつ、最大の排出国である中国を参加させ、温暖化対策を止めるという困難なミッションが課されました。
目標とする温度についても、2°Cか1.5°Cかという対立がありましたが、「世界全体の平均気温の上昇を産業革命以前に比べて、2°Cよりも十分に低い水準に抑え、1.5°C以内に抑える努力を追求する」という文言での妥協がはかられています。
COP21では議長国のフランスのファビウス外相がうまく交渉をリードし、さらに米中が協調姿勢を示したことで妥結へと導かれました。2010年代半ばはまだ米中が協調できる時代でもあったのです。
2010年代後半になると、1.5°C目標を目指す動きも活発化します。当時高校生だったグレタ・トゥーンベリ氏が国連で演説したのが2019年であり、カーボンニュートラルという排出量の差し引きゼロを目指す動きも出てきます。
こうした中で、ネットゼロの目標の年次を決め、それに沿って中期の目標を立てるスタイルが広がります。
EUは2019年に2050年にネットゼロの目標を立て、アメリカもバイデンが大統領選で2050年にネットゼロの目標を掲げます。中国も「2060年までにカーボンニュートラルの達成を目指す」と表明しました。
日本も2020年に菅首相が2050年のカーボンニュートラル実現を打ち出します。従来は80%削減だったので目標は大幅に強化されました。
バイデン政権が発足するまで、日本は2030年に2013年比で26%減を掲げていました。しかし、このペースで2050年にカーボンニュートラルを実現するのには無理があります。そこでさまざまな積み上げを行って「46%減」という数字が出てくることになります。

しかし、気候首脳サミットに合わせて先進国は削減目標の強化を行いましたが、中国、インド、ロシアはオンラインで参加しながらも削減目標の強化は打ち出しませんでした。
トランプ政権を経て強まった米中対立はバイデン政権にも持ち越されており、米中協調の機運は失われていたのです。

2021年にグラスゴーで開かれたCOP26では、インドなどいくつかの国がNDCを強化しましたが、それでも今のままだと2030年の排出量は2010年比で14%程度の増加になる見通しであり、1.5°C目標どころか2°C目標にも届かないような状況です。
会議では「1.5°Cの気候変動影響は2°Cの場合よりずっと小さく、1.5°Cに抑える努力の追求を決意」という内容が合意されましたが、1.5°C目標については玉虫色の状況であることに変わりはありません。
ただし、2023年のCOP28では今まで1.5°C目標に反対してきた中国が、次期NDCについて「1.5度との整合を奨励」することに反対せず、これが合意文書に盛り込まれました。中国が温室効果ガスの削減でイニシアチブを取ろうとすることも十分に考えられます。

バイデン政権によるインフレ抑制法(IRA)は、温室効果ガスの削減を進めるものですが、同時に保護貿易的なものでもあります。
IRAはクリーン電力、EV、炭素回収貯留(CCS)、水素といった脱炭素に必須となる技術を税額控除による減税のインセンティブによって進めようとする法律です。
ただし、減税措置を受けるためには製品が米国で生産されていることなどが条件になっている場合があります。例えば、EVでは一般消費者は最大7500ドルの税額控除を受けることができますが、この減税を受けるには完成車の最終組立が「北米」(米国、カナダ、メキシコ)であり、さらにバッテリーに関してもその一定割合が金額ベースで「米国」または「米国と自由貿易協定を締結している国」で抽出・処理されたか、北米で再利用されたものであることが必要です。
さらに2024年以降は、懸念国の事業体(中国やロシア政府の管轄・指導下にある企業)がバッテリーの部品を一部でも製造していると購入者は減税を受けられないなど、「経済安全保障」の色彩も強くなっています。

このためIRAには日本やEUからの懸念も出ています。日本もEUも「米国と自由貿易協定を締結している国」ではないからです。
このあたりはマンチン上院議員との修正協議の際に盛り込まれたものですが、十分に練られていたものではありませんでした。
結局、IRAでは「自由貿易協定」をきちんと定義していないことから、日本は2023年3月に「日米重要鉱物サプライチェーン強化協定」をアメリカとの間で締結し、EV減税上の自由貿易協定締結国になっています。

ただし、抜け穴もあり、EV減税に付された原産国要件は消費者が購入するEVのみに適用され、事業者が商用車として購入するEVには適用されません。
何が「商用車」なのかはIRAでは定義していませんでしたが、財務省がリース車も「商用車」として認める決定をしたことから、EU、韓国、日本からのEV輸入が増加し、同時にEV新車のリース比率も高まっています。

IRAのような原産国要件はWTOの「内外無差別」や「最恵国待遇」に違反する可能性が高いですが、アメリカがWTOの上級委員の選任の手続きを止めていることもあって、WTOの機能の一部が麻痺した状態になっています。
一方、アメリカがIRAのような政策に踏み切った背景には、EVなどの分野で中国が産業補助金を使って急速に存在感を高めているということもあり、これについてはEUも相殺関税を予定しています。

このEUが進めようとしているのが国境炭素調整です。
近年では排出量取引や炭素税などの「カーボンプライシング」という政策を採用する国が増えていますが、その分コストがかかるのでカーボンプライシングを行っている国の企業は行っていない国の企業との競争で不利になります。
これを防ぐためのものが国境炭素調整です。輸入品に自国と同等の炭素コストを課すことで、カーボンプライシング政策を他国の動向を気にせずに進めることができるようになります。

2022年12月、EUはこの国境炭素調整を「炭素国境調整メカニズム(CBAM)」という形で導入することを決定しました。
CBAMはEUの排出量取引が2026年に強化されるのに合わせて導入される予定で、輸入者は輸入品の製造時に出た排出量に応じて「CBAM証書」をEUの加盟国政府から購入し、一定期日までに納付します。このときCBAM証書をEUの排出権取引での価格と同じ価格で販売します。これによってカーボンプライシングを行っていない国で生産されたものも同条件になるわけです。

ただし、ある製品がどのくらいの炭素を排出しているかを計測することには困難が伴います。工場の炭素の排出量を計測できたとしても、その工場では他の製品をつくっているかもしれませんし、自動車のように多くの部品で構成される製品については部品を製造する際の炭素の排出量を逐一記録する必要が出てくるからです。
EUの排出権取引では、基本的に企業単位のデータがわかっていればいいわけですが、CBAMでは製品ごとのデータが必要になるのです。

そのため、対象となる製品は当面の間、鉄鋼、アルミニウム、セメント、肥料、水素などに限定されます。まずは製品排出量の計算が比較的容易だと考えられる一部の素材やエネルギーに限定したのです。
化学製品も製造時の排出量は大きいのですが、化学産業では石油などを原料に多数の製品が製造されており、製品ごとの割り付けが困難なために対象になっていません。
また、鉄鋼は対象ですが、鉄鋼を原材料に使った自動車は対象ではありません。鉄鋼ではなく自動車の形で輸入したほうが有利になります。
この問題についてはEUも認識しており、2024年末までに川下の製品についても適用の拡大を検討することになっています。
さらに輸出還付がないのも問題ですが、こちらはWTOのルールに抵触する可能性が高く、今後の議論に持ち越されています。

このように近年では気候変動対策と貿易が密接に関わるようになっていますが、そこでは「底辺への競争」と「頂上への収斂」という2つの動きが考えられるといいます。
まず、輸出入の国際競争力を高めるために各国が気候変動対策を緩めるのが「底辺への競争」です。
一方、ある国が規制を強化するとその国に輸出している国も規制を強化する「頂上への収斂」が起きる可能性もあります。実際、EUのCBAM導入により、EUへの輸出が大きいトルコやウクライナは排出権取引の導入を検討しています。
また、アメリカのIRAに見られるように気候変動対策が保護主義を招く可能性もあります。同時に各国のグリーン産業への補助金が市場を歪める可能性もあります。

第4章では気候変動対策と金融の問題がとり上げられていますが、すでに長々と書いているのでここは気になった点だけを簡単に紹介します。
金融の世界でも温暖化はリスクとして認識されるようになっており、投資にあたっても脱炭素という要素が重視されるようになっています。
2021年にはイングランド銀行の総裁も務めたカーニーを中心に「グラスゴー金融同盟(GFANZ)」が創設され、「投融資排出量」(投融資先の企業等の排出量)もネットをゼロを目指す金融機関を増やすことが目指されました。このGFANZのもとにネットゼロ銀行同盟(NZBA)やネットゼロ保険同盟(NZIA)などがつくられました。

ところが、2023年5月にGFANZに衝撃が走ります。米国の23州の司法長官がNZIAに加盟する保険会社に対して排出量の大きな事業に対して保険をつけないようなやり方は違法である可能性があると警告したのです。この結果、NZIAから脱退する保険会社が相次ぎました。
23州の司法長官はいずれも共和党に属しており、共和党では「反ESG」の動きが強まっています。ESGは特定のイデオロギーを推進するもので経済的利益を損なっているというのです。フロリダ州やテキサス州では「反ESG」の法律が成立しています。

一方、EUではグリーンな経済活動とそうではない経済活動を分ける基準である「EUタクソノミー」が制定され、他国でもこのEUタクソノミーを参照しながらタクソノミーを制定する動きが起きています。
このあたりはEUの規制がグローバルに展開される「ブリュッセル効果」が効いていると言えます。

第5章では脱炭素化を巡るさまざまな対立がとり上げられています。
2021年のバイデン政権の成立以来、G7ではかなり前のめりに脱炭素が推進されており、石炭火力発電の扱いを巡って日本が孤立するような事態も起きました。
しかし、2022年にロシアによるウクライナ侵攻が起きると、ヨーロッパでもエネルギー危機が起き、ドイツが化石燃料への投資の中でも天然ガスへの投資を例外扱いするように求めるなど、各国の事情に応じた駆け引きも盛んになされています。
また、クリーンエネルギー関連の分野では、太陽光パネル、風力タービン、蓄電池などで中国企業がサプライチェーンで重要な地位を占めているという問題もあります。クリーンエネルギーへの移行を急ぐと中国への依存を一層深めることにもなりかねないのです。
一方、IRAのように自国産業への過度な優遇は保護主義にもつながるわけで、ここでも難しい舵取りを迫られることになります。

もちろん、先進国と途上国の対立もあり、石炭火力の廃止などをめぐって対立が続いているわけですが、COP26では石炭火力の段階的な削減が盛り込まれました。
一方、COPは交渉の場から各国が取り組みをアピールする場へと変質しており、「万博化」が進んでいるともいいます。

最後に日本についての言及もありますが、ここでは世界の他の国と違って若い世代ほど気候変動が引き起こす問題への関心が薄いという調査結果が興味深いです(288p6−1参照)。

このように本書は近年の気候変動をめぐる国際的な政治や経済の動きを幅広く分析しています。
TVや新聞だと、どうしても「先進国VS途上国」、「孤立する日本」といった単純なフレームで報道されることが多いので、このように複雑な状況を複雑さを捨象せずに伝えてくれる本書は貴重だと思います。
また、アメリカのトランプ再選のリスクなどの脱炭素を阻む問題、一方でEUによる規制などの脱炭素を進める要因の双方について指摘してあり、今後の日本や日本企業の対策を考えるうえでも有益な本だと言えるでしょう。
副題は「人道と国益の交差点」。タイトルからすると単純に「難民を受け入れるべきだ」という規範的な主張をする本をイメージするかもしれませんが、副題にもあるように各国の国益をシビアに検討しつつ「難民の受け入れを進めるべきだ」という本になっています。
著者は研究者であるとともに、国際移住機関(IOM)やUNHCRの職員、法務省の入国者収容所等視察委員会の委員、法務省の難民審査参与員などを務めてきた実務家であり、本書は理想と実務のバランスを意識しながら論じられています。
理想を掲げて終わるでもなく、現実の問題を数え上げて終わるのでもなく、「難民問題」という難しい問題が適切なやり方で論じられた本です。

目次は以下の通り。
はじめに
第一章 難民はどう定義されてきたか――受け入れの歴史と論理
第二章 世界はいかに難民を受け入れているか――その1「待ち受け方式」
第三章 世界はいかに難民を受け入れているか――その2「連れて来る方式」
第四章 日本は難民にどう向き合ってきたか
第五章 難民は社会にとって「問題」なのか
第六章 なぜ「特に脆弱な難民」を積極的に受け入れるのか――北欧諸国の第三国定住政策
おわりに

以前から国境を超えた人の移動はありましたが、これが「難民」という形で国際政治の場でとり上げられるようになったのは20世紀の戦間期からです。
特定の出身国から逃れた特定の民族集団が「グループ難民」として指定され、国際的な保護が与えられることになりました。
しかし、第2次世界大戦中にユダヤ人の虐殺を許してしまったことが、この問題へのさらなる対応を求めることになります。

これを受けて1951年に国際連合で「難民の地位に関する条約」(難民条約)が採択されます。
この条約では、対象を「1951年1月1日前に生じた事件の結果」としていましたが、これは67年に採択された「難民の地位についての議定書」(議定書)でこの成約は取り払われています。
また、難民に当てはまる者は「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するため」となっています。
この「特定の社会集団」については当初は定義がありませんでしたが、現在では社会的因習に従わない者やLGBTQの人なども含むと考えられるようになっています。

一方、「差別に基づく迫害」という要件があるために、戦争や内戦の暴力から逃れてきた者、極度の貧困から逃れてきた者は難民条約の難民にはあたらないことになります。
また、「迫害のおそれ」というのも、何が「迫害」でどこまでの「おそれ」があればいいのかという議論を生む表現になっています。
さらに難民は「国籍国の外にいる」ことが条件で、迫害を受けている人が国外に逃れて初めて難民となります。

ただし、アフリカや中南米では難民の定義をやや広く取っています。
アフリカのOAU難民条約では「外部からの侵略、占領、外国の支配」が原因で国を出た人も難民として認めていますし、中南米の「難民に関するカルタヘナ宣言」では、「暴力が一般化・状態化した状況」「内戦」「重大な人権侵害」といったものも難民発生の事由に含めています。
また、ヨーロッパではユーゴ紛争などを受けて、「欧州共通庇護制度」が策定・改定されてきました。ここでは死刑や拷問の恐れがあること、無差別暴力を受ける可能性などを保護の対象者に含めています。

このように各地域ごとの取り組みがありますが、東アジアと東南アジアは難民受け入れ制度の空白地帯になっています。難民条約を締結している国は、フィリピン、日本、中国、韓国、カンボジア、東ティモールの6カ国にすぎず、地域的な取り組みもありません。
一方で、インドシナやミャンマーなどからは多くの難民が発生しており、しっかりとした法的な枠組みなしに周辺国が受け入れてきた形になっています。

第1章の最後では移民と難民の違いが論じられています。日本では自発性の有無がこの2つを分ける基準とされることが多いですが、国際的にはそのような区別をしているところはあまりなく、移民の定義の中に難民が含まれている場合がほとんどだといいます。
ただし、移民を受け入れるか受け入れないかはその国の判断ですが、難民については難民条約締結国はこれを保護し、迫害の危険性のある国に追い返してはならないという「ノン・ルフールマンの原則」があります。

第2章と第3章では難民の「受け入れ方」について論じています。第2章は「待ち受け方式」、第3章は「連れて来る方式」です。
私たちがイメージしやすい難民は迫害などによって隣国に逃げてきた集団で、こうした中で受け入れられた難民が「待ち受け方式」となります。
ただし、他国に庇護を求めるためにはまず出国せねばならず、これが大きなハードルとなります。他国に庇護を求めそうな人間はそもそもビザを得ることも難しく、途上国ではビザがなければ他国に行けない状況だからです。
しかも、近年では渡航先の先の入館職員が出発地の航空に常駐し、渡航者が正式な証明書や滞在許可証を持っているかをチェックし、それらがない場合は現地で登場を阻止するという制度を設けるケースも増えています。
「難民になるために自国を出る」こと自体が難しくなっているのですが、この裏には1度入国した難民は送り返せないというノン・ルフールマンの原則があります。

このため不法入国を試みる難民も跡を絶ちません。難民条約では不法入国や不法滞在の難民であっても庇護申請ができるようになっています。
この仕組みは問題のような気もしますが、例えば、タリバン政権の復活後に迫害されそうになっていたアフガニスタン人のことを考えると、彼らがタリバン政権から出国を認められるカヌ性は低いですし、そもそもタリバン政権を認めていない国も多いです。差し迫った危険のある難民ほど正式なルートでは出国しにくいのです。

難民として認められれば、大まかに言って自国民と同等か一般の外国人と同等の権利が保障されます。
そのため、審査に時間がかかることも多く、2015年に89万人の新規庇護申請を受け付けたドイツでは未だに審査が終わっていないといいます。
そのため、「一応の難民認定」、「集団認定」と呼ばれる簡単な手続きがとられることもあります。このような認定が行われるのは途上国が多いです。
途上国が難民の受け入れに寛容な理由としては、受入国の政策決定者に難民と同じ民族的・部族的・宗教的つながりがあることが大きな要因としてあるといいます。また、中東では多民族の伝統や、中南米では軍事独裁によって各国から難民が発生し互いにそれを受け入れてきた伝統から難民の受け入れに寛容だとも言われます。

次に「連れて来る方式」です。この方式の代表的なものが「第三国定住」です。
第三国定住はA国からB国に逃れた難民を、C国(多くは先進国)が受け入れる方式です。難民には庇護を受けているB国にいる限りC国に入国する権利はなく、C国も受け入れ義務はないのですが、近年では日本を含めた多くの先進国が行っています。

第三国定住の長所は連れて来る難民を選べるところです。日本などは難民の「社会統合の見込み」を重視して難民を選別しています。一方、北欧などでは母子家庭、障害者、重病者などの「脆弱性」を選抜のポイントにしている国もあります。
日本をはじめとしていくつかの国では第一次庇護国にいる難民に対して語学研修や文化オリエンテーションなどの事前研修を行っている国もあり、かなり念入りに準備した上で受け入れることも可能です。

なぜ、わざわざ難民を連れてきて保護しようとする国が増えているのか?
「待ち受け方式」だとその人が難民かどうかを審査する必要があり、審査中は出身国に送り返すことはできません。一方、連れて来る方式、特に第三国定住の場合はその人が難民であることはUNHCRなどが保障してくれます。
また、計画的に秩序だって受け入れることができますし、難民の発生国との摩擦も避けられます(「そいつは難民ではない」と言われてもUNHCRが決めたことだと逃げられる)。
そして、問題のなさそうな難民を選んで受け入れることができるという面も大きいです。

近年では、「待ち受け方式」の代わりに第三国定住を拡大するといった動きもあります。
EUは2016年にトルコとの間で、トルコからギリシアに非正規に漂着した庇護申請者のうち、庇護申請の内容が不十分な者やギリシアで庇護を求めない者をトルコに送還する代わりに、トルコ内でUNHCRによって難民と認められた者を第三国定住の形でEU圏内で受け入れるという協定を結びました。
これは無謀な渡航をやめさせるという目的もありましたが、庇護申請者と第三国定住者が「人身交換」された形になっています。

第三国定住以外にも、近年では留学生や技能労働者などの難民以外の立場で受け入れるケースもあります。
また、「民間スポンサーシップ」と呼ばれる民間主体の受け入れも増えています。例えば、カナダは第三国定住をさかんに受け入れている国ですが、その中の多くは民間スポンサーや官民ハイブリッドの組織が受け入れています(101p図3−4参照)。民間スポンサーは、難民の受け入れや行政手続き、語学の習得、職探しなどまでサポートし、難民の自立を助けます。かなり大変な仕事ですが、正義感から、あるいは元難民などがこうした活動に熱心に取り組んでいるといいます(ただし、ケベック州では労働搾取の疑惑が持ち上がり中断されたこともあった)。

第4章では、日本の難民受け入れが検討されています。
日本は、難民への財政的支援は大きいものの難民の受け入れ数が極端に少ない国となっています。
しかし、日本にも難民受け入れの歴史があります。その大きな転機となったのが1975年からのインドシナ難民の受け入れです。

日本政府は船などで救助されたインドシナ難民が日本に留まることを許さずに第三国へ出国させていました。
しかし、米国などからの外交圧力により1978年より一定の条件下で日本での定住が許可されるようになり、2005年までに1万1319人のベトナム、カンボジア、ラオス出身者がインドシナ難民として定住を許可されています。日本に船などでたどり着いた人々だけではなく、第三国定住、あるいは家族の呼び寄せも行われ、特に家族の呼び寄せは2005年まで続きました。

インドシナ難民の受け入れが始まった当初、難民という概念はアジアには関係ない、日本周辺で大規模な難民危機が発生する可能性は低いなどの理由で日本は難民条約に加入していませんでしたが、この前提が覆ったこともあり、1981年に日本は難民条約の締結国となります。
その後、10万5487人が日本国内で庇護申請を行い、うち1420人が難民条約上の難民として認定されています。また、累計で6054人に「人道配慮による在留許可」が出されています(121p表4−1参照)。2022年と23年にこの在留許可が急増していますが、これはアフガニスタンやミャンマー情勢を受けてのものです。

日本においては難民認定率の低さが問題になることがあります。
法務省は、そもそも就労目的などが多く制度の濫用・誤用のケースが多く、また、いわゆる「難民発生国」の出身者が少ないのでこのような数字になると主張しています。
一方、支援団体などからは、「迫害」の解釈が狭すぎる、難民であるとの主張の信憑性の評価や迫害のおそれのハードルが高すぎる、難民審査参与制度が機能していない、といった批判があります。
こうした主張に対し著者は、そもそも難民認定は個別のケースに即して行われるので認定率のみで判断するのは意味が薄いという立場を取っています。
このようにやや消極的にも見える日本の難民受け入れですが、2010年からは第三国定住の制度もスタートしています。
タイにいるミャンマー難民の受け入れから始まり、2019年から対象が「アジアに滞在している難民を年間60人」という形に広がり、現在は年に30〜60人程度の受け入れを行っています。
受け入れにおいて重視されるのは「日本社会への適応能力があって、生活を営むに足りる職に就くことが見込まれる者」で、語学や日本文化の研修プログラムもあり、受け入れた難民のその後の生活状況はよいといいます。

さらにシリア危機に際しては留学生として受け入れる方式も取られました。彼らは最低でも学士号以上を取得しており英語が話せるというエリートですが、彼らを日本の大学院などで受け入れることにしたのです。
その後、アフガニスタンやミャンマーの危機を受けて、シリア出身者以外にもこの方式が開かれています。

アフガニスタンの危機の際には現地職員の退避も問題になりました。タリバンのカブール侵攻を受けて、日本政府は現地の職員や留学予定者などを自衛隊機で退避させようとしましたが、これはうまくいかず、その後、カタール経由、あるいは隣国へ陸路で逃れ、日本にやってきた人々がいました。
しかし、日本政府が認めた職員の範囲は非常に狭く、また、自力で脱出した人に対しても、日本人の身元引受人や有効なパスポート、日本における雇用主か受け入れ機関の確保を要請するなど非常に厳しいものでした。特にパスポートに関してはタリバンに迫害される恐れがあるのにタリバン政府にパスポートを発行してもらえという要求です。
さらに来日後も難民申請をしないように要求する行為もあったといいます。

一方、アフガニスタンのケースと違って大盤振る舞いだったのがウクライナのケースです。
2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻後、日本政府は身元保証人なし、場合によってはパスポートがなくてもウクライナからの避難民を受け入れました。
来日後もすぐに就労可能な「特定活動」の在留資格に迅速かつ柔軟に変更され、さまざまな支援のサービスも用意されました。こうしたことは悪いことではないですが、今までの他のケースとあまりにも違います。ただし、逆に言うと本気になればここまでできるということも示しています。

第5章は、「難民は社会にとって「問題」なのか」と題されています。
難民が増加すると治安が悪化するのではないかという懸念があります。もっとも難民にはノン・ルフールマンの原則があるとはいえ、難民が出身国で重大な犯罪を犯していれば庇護しないことは可能ですし、安全保障上の理由で追放や送還を認める規定もあります。また、ここから重大犯罪を犯した難民を強制退去処分にすることも可能です。
日本でも2023年の改正入管法でこの規定が盛り込まれました。著者は当初、審議されていた条文ではほとんどすべての難民の送還停止効が解除される可能性があると考え、議員にはたらきかけて一部を修正しますが、この修正案はより大きな修正を求めるグループによって葬られてしまい、当初の案が通ってしまっています。

こうしたことを踏まえた上で、各国での研究を紹介し、難民の受け入れによって治安が悪化するのか?という問題を検討しています。
アメリカでは移民のほうが地元民よりも犯罪を行う可能性が低いという研究結果がいくつも出されています。
ドイツでは2014〜15年に(避)難民や庇護申請者を受け入れた行政管区を見ると、犯罪率全体は継続的かつ大幅に下がり続けたが、薬物犯については微増という傾向が出ています。より詳しく見るとより多数の庇護申請者を受け入れた行政管区ではドイツ国籍を有しない者による暴力犯罪が増えましたが、犯罪被害者も外国籍であった可能性もあるといいます。窃盗についてもそうした傾向が見られます。
スウェーデンでは、2017年の時点で人口に占める移民の割合は33%だが、58%の犯罪被疑者が移民(本人が外国出身または親の少なくとも片方が外国出身)だったという研究があります。移民が犯罪を犯すリスクは地元民に比べ1.8〜2.1倍で、特に移民2世の犯罪リスクが増加傾向にあるといいます。

日本では、観光客などの短期の滞在者と長期の滞在者を区別しているデータがないために、移民や難民が犯罪に走りやすいかどうかはよくわかりません。検挙者数に占める凶悪事件の割合が日本人比べて外国人のほうが高いのは懸念材料ですが、そもそも観光客などの軽犯罪は摘発されにくいといったこともあるかもしれません。

難民の受け入れが財政的な負担になるという議論もありますが、日本が年間30人のペースで受け入れてた頃の第三国定住の費用は一人当たり450万円です。この金額はある程度までは人数が増えれば低下していく可能性が高いです。
難民の定住支援プログラムの予算も2023年で3億2700万円で、こうしたプログラムによって就労ができるようなるのであれば、それほど高額なものではありません。
また、外国籍者の生活保護自給率がやや高いのは事実ですが、その多くは福祉制度なの恩恵が十分に受けられなかった韓国。朝鮮籍の人となっています。

第6章では北欧諸国の状況、特になぜ「脆弱な人々」を受け入れるのか?という問題を検討しています。
日本の第三国定住では「日本社会に適用し就労できそう」という点が重視されており、経済的な国益が重視されています。一方、わざわざ負担になりそうな人を受け入れる北欧諸国の狙いは何なのでしょうか? 北欧諸国の近くには大きな難民発生国がないにもかかわらずです。

年により増減はありますが、ノルウェイは2000〜3000人程度、スウェーデンはピーク時には5000人近くを受け入れています。そのうちスウェーデンは900人を障碍を持つ者やシングルマザーなど特に脆弱な者の枠としています。
デンマークも以前は定着の見込みを重視していましたが、2010年代中盤以降は「デンマークに第三国定住すると本人の人生の継続的な改善が見込まれる者」(211p)へと変わってきています。この背景には教育レベルやスキルレベルが高い者が必ずしもデンマーク社会に適応できるわけではないという教訓もあるそうです。ただし、デンマークでは永住権を得るためにデンマーク語の試験などのハードルがあります。

このような脆弱な者たちを受け入れる背景には人道主義や、あるいは「人道主義の国」としてのイメージを保ちたいという考えもあります。また、脆弱な難民は「可哀そう」なイメージと合致し、さらにルールの遵守なども期待できるという面があります。
また、優秀な男性の難民ほど現地に溶け込みにくく、女性や子どもが溶け込みやすいということも脆弱な難民の受け入れを後押ししています。

しかし、これらの北欧諸国では右派ポピュリスト政党の勢力が伸長し、難民政策への変更もみられるようになりました。
デンマークではデンマーク国民党が勢力を伸ばす中で、社民党も移民や難民を制限する方向にかじを切り、2016年には庇護申請者から貴金属を没収できる法律が、17年からはしばらくの間の第三国定住の停止、18年には公共の場でのブルカ・ニカブの禁止、19年には難民認定された者にも時限付きの暫定残留資格しか認めないなど政策が打ち出され、21年にはデンマークでの庇護申請者のうち転送可能な者はデンマーク域外の審査書に送られ、その域外で難民に認定された者はルワンダに移送されるという法律までできました(2023年度末の時点では未実施)。

スウェーデンでもスウェーデン民主党が伸長しており、2016年には外国人法が改訂され、難民認定された者にもすぐには永住権を与えない、家族の呼び寄せの条件を厳しくする、難民不認定者や送還対象者への社会保障アクセスへの制限などが決まっています。
2022年の総選挙後のティトー合意では第三国定住の人数が900人にまで絞られ、「社会統合」が重視されるようになるなど、スウェーデンの難民受け入れ政策も曲がり角に立っています。
このような第三国定住の人数削減はフィンランドでも行われています。

一方、ノルウェイは難民政策を維持しています。もともと、社会への統合性を重視したり、自治体が受け入れるかどうかを判断できるなどの仕組みがあったということもありますが、右派ポピュリスト政党の進歩党も2013〜20年に連立政権入りしたにもかかわらず、今のところ自力でたどり着いた庇護申請者に対する扱いが厳しくなった程度です。
この背景には、ノルウェイでは受け入れ後の定住・統合政策に力を入れており、移民や第2世代の犯罪率が減少傾向にあること、ブレイビク事件のあとに進歩党が反移民政策をトーンダウンさせたこと、世論や王室が難民の保護に前向きであることなどがあげられます。

「おわりに」では、著者の提言が書かれています。
まずは第三国定住を質量とも拡充すべきだといいます。ウクライナからの避難民の受け入れで特にトラブルが起きなかったように、日本にも難民を受け入れる一定のキャパシティはあるはずです。また、ベトちゃんドクちゃんの例をあげていますが、少数でも脆弱な難民を受け入れてはどうかとしています。
さらに南庭認定基準の改善、行政から完全に独立した第三者機関の難民認定制度の導入を訴えています。
「日本がいい国だと思うならば、それをたまたま「悪い国」に生まれた人々をと分け合ってもらえないだろうか」というのが著者の訴えです。

長大なまとめになってしまったのは、それだけ本書の記述の密度が濃いからです。最初にも書いたようにタイトルからは規範的な主張を述べた本に思えますが、そうではなく、難民受け入れについて知っておくべきさまざまな事実や見方が書かれています。
アフガニスタン、ミャンマー、ウクライナと日本にも関わる難民問題が次々と発生した今、まさに読まれるべき本と言えるでしょう。


多くの人が知っているものでありながら、「NPOって何なの?」と正面から聞かれるとなかなか答えるのが難しい。NPOとはそんな存在かもしれません。
「非営利組織」というように、名前からは「営利組織ではない」といったくらいの情報しか引き出せず、「なんだかよくわからないもの」として認識している人も多いのではないかと思います。

本書は、そんなNPOについて、NPOが登場してきた背景、NPOの特徴、NPO法の内容、活動実態、歴史的な位置づけ、その必要性などを多面的に論じたものになります。
定義から始めるでもなく、その歴史から始めるでもなく、社会の変化と「NPOとは何か」という問題をともに明らかにしていくような構成になっていますが、これがなかなかうまくいっていると思います。
本書を読み終えると、掴み難いNPOという存在がここまで増え、さかんに活動をしている理由といったものが見えてくる内容になっています。

目次は以下の通り。
序章 社会に浸透するNPO
第1章 求められる時代背景
第2章 複雑な顔を持つ組織
第3章 NPO法とはどのようなものか
第4章 参加意識と活動実態
第5章 市民による公益活動の長い歴史
第6章 なぜ社会に必要か―非営利組織の存在意義
第7章 「分かちあう組織」を創る

本書は、序章で日本や世界のさまざまなNPOを簡単に紹介した後、第1章で阪神淡路大震災とそこでの「ボランティア元年」とも言われたボランティアの活躍ぶりを見ていきます。
1995年1月17日におきた阪神淡路大震災は6000人以上の犠牲者を出した大災害でしたが、同時に多くの若者が「ボランティア」として活動したことでも画期となりました。
それまで、「ボランティア」というと特別に献身的な人が行うものといったイメージがありましたが、阪神淡路大震災では、多くの普通の人々が駆けつけ、さまざまな活動を行いました。
その後も1997年のタンカー・ナホトカ号の重油流出事故では当初の3ヶ月間で延べ27万5000人が重油の回収にあたり、2011年の東日本大震災ではその後7年で延べ154万人以上のボランティアが活動したといいます(この数はボランティアセンターを通じて活動した人で、それ以外にももっといたはず)。
このように日本のボランティアに関しては、阪神淡路大震災以前/以後という見方ができるかもしれません。

ただし、ボランティアやNPOに注目が集まった要因は阪神淡路大震災だけではありません。
海外でもNPOへの注目が集まっており、ピーター・ドラッガーなども非営利組織に関心を寄せていました。
こうした潮流の中で日本でもボランティアに注目が集まることになったのです。

著者は阪神淡路大震災をきっかけとして見出されたボランティアの長所として、「活動の柔軟性
」、「ニーズに立脚した新しい活動」、「現場に身を置くことでわかる問題の発見」の3つをあげています。
一方で、課題となったのが「活動の継続性」と「需給のミスマッチ」です。
震災の発生から日が経つにつれて参加するボランティアは減っていきましたし、ボランティアからしても活動を続けようと思っても食料も宿泊場所も自弁では限界があります。また、一部の避難所のボランティアが押し寄せ、他の場所ではボランティアが不足するといった事態も起こりました。
ここから継続的な組織や全体を調整する存在が必要だということになり、NPOという存在が注目されていくことになります。

このような形でNPOという言葉も知られるようになりましたが、NPOというのもかなり幅のある概念です。
NPO法人や認定NPO法人のように法で認められたもののみを指すケースもありますし、NGO、市民団体、学校法人や社会福祉法人までを含むような形で使われることもあります。
「非営利組織」の「非営利」とは収入を得てはならないという意味ではなく、収益をメンバーで分配できないという分配面に関わることであり、ここからすると学校法人や社会福祉法人も含まれます。
宗教団体が福祉などの活動を行うこともありますが、海外の定義でも宗教団体を除くが一般的です。
また、協同組合や社会的企業などもNPOと似た活動をしていることがあります。

本書の第2章では、NPOには「事業者と社会運動の2つの顔」があるといいます。
子育て支援、障害者支援などNPOはさまざまな事業を行っており、政府や企業から補助を受けているケースも多いです。この場合は政府や企業とは協力関係にあります。
一方、NPOの活動には社会運動としての側面もあり、このときには政府や企業と対抗関係になることもあります。
そして、この2つはきれいに分離できるものではありません。例えば、障害者支援を行っているNPOがあるとして、その団体はときに政府の支援を受け、ときに政府の政策に反対の声をあげているかもしれません。
事業活動と社会運動の両面は基本的にはつながっていることが多いですが、どのようにバランスをとるのかが難しいこともあります。

人との関わりにおいてもNPOには二面性があります。企業だと従業員と顧客という形で整理できるものの、例えば、ボランティアに支えられて事業活動を行っているNPOの場合、サービスの利用者でなく、ボランティアにまた参加してもらえるように気を配る必要もあります。ドラッガーはNPOにはボランティアという第二の顧客がいると指摘しました。
ボランティアもまた、もっぱらサービスを提供するだけではなく、自身のやりがいや成長を求めて参加していることも多いです。単純に支えるー支えられるの関係にあるわけでもないのです。
さらに活動への参加ではなく、寄付という形での参加もあります。

NPOは組織であり、掲げられた目的を達成するために活動しているわけですが、同時にメンバーにとっての居場所でもあり、コミュニティとしての側面も大きいです。
NPOの活動への参加は口コミを介するものが最も多いといいます。つまり既存の人間関係がある程度組織の中に持ち込まれているわけです。
ここは企業との大きな違いですが、同時に閉鎖性を生む可能性もあります。また、居場所としての側面が重視されすぎると活動が非効率になる可能性もあるでしょう。
また、NPOには金子郁容が指摘した「自発性のパラドックス」と呼ばれる問題もあります。ボランティアを行う人は他人の問題を自分に引き付けて考え、引き受けようとするわけですが、問題への取り組みを始めると「自分たちに何ができるだろう」と自問自答のループにハマることがありますし、あるいは「自己満足だ」と批判されることもあるでしょう。自発的に行動することでさまざまな問題を背負ってしまうのです。
ただし、これこそが行政や企業とは違った、ボランティアの特徴であるとも言えるでしょう。

第3章ではNPO法がとり上げられています。
1998年、特定非営利活動促進法(NPO法)が施行され、「特定非営利活動」を置こうなう団体に法人格を与える仕組みができました。
法人格を得るには公益法人を目指すという道がありましたが、そのハードルは高く、主務官庁の指導や監督が強く出る形になっていたために、そうではない形が必要とされたのです。
なお、この法案は当初は「市民活動促進法」と称されていましたが、参議院自民党の中に「市民」に難色を示す声があり、「特定非営利活動促進法」になったといいます。

NPO法では一定の要件を満たせば誰でも法人設立が認証されるようになりましたが、税制の優遇などの課題は残りました。
そこで2001年に「認定NPO法人制度」がスタートしています。これはNPO法人のうち一定の基準を満たす寄り公益性の高い法人に税制の優遇を与えるものです。
ただし、当初はなかなか認定されず、2012年に改正NPO法が施行され、認定事務が国税庁から地方自治体へと移りました。

NPO設立のための要件は88〜89pに載っていますが、具体性の強い部分として「役員のうち報酬を受ける者の数が役員総数の三分の一以下であること」、「10人以上の社員を有するものであること」の2つかもしれません。
営利を目的としないのは当然ですが、それを担保するために役員の報酬についての規定があり、10人程度はメンバーを集められない団体は活動の継続が困難ということなのでしょう。
また、「宗教活動や政治活動を主たる目的とするものではないこと」という規定もありますが、「主たる目的」となっているように、NPOが宗教活動や政治活動をすることは可能です。

第4章ではNPOへの意識と参加について分析されています。
まず、世界価値観調査をみると、日本は他国に比べて慈善団体への信頼が低いです(116−117p4−1参照)。日本で慈善団体を「信頼する」(「非常に」、「信頼できる」、「やや」の合計)は31.3%で、これはアメリカ61.8%、イギリス72.5%、韓国61.5%などと比べても明らかに低い数字です。
政府への信頼が、日本39.9%、アメリカ33.4%、イギリス24.1%、大企業への信頼が、日本47.4%、アメリカ31.2%、イギリス37.0%なので、他の組織と比べても慈善団体への信頼は低いと言えそうです。
「わからない」という回答が多いのも日本の特徴で、22,2%とかなり高い数字になっています。
2018年度に行われた内閣府の世論調査でも、NPOについて「知っている」とした人は全体の89.2%ですが、内訳は「よく知っている」(21.7%)、「言葉だけは知っている」(67.5%)で、
「NPO」という言葉は知っていても、その実態はよくわからないということが信頼度の低さにもつながっているのかもしれません。

ただし、日本人の社会貢献に対する意識が低いというわけではありません。
「何か社会の役に立ちたいと思っていますか」という質問に対して、64.3%の人が「思っている」と答えており、これは増加傾向にあります(121p4−2参照)。
では、実際にどれくらい行動しているかというと、「ボランティア活動」の1年間の参加経験を見ると、1996〜2016年までは20%台の後半(2016年で26.0%)、21年は17.8%と下がっていますが、これはコロナの影響だと考えられます。
また、属性で見ると女性の方が高いですが、近年は差が詰まっており、21年は男性が僅かに上回りました。
年代では20代の参加率が低く、30代後半が高くなっています。これはPTAの活動などが含まれているためだと思われます。

個人寄付の規模は2021年の『寄付白書』の推計で1兆2126億円、ただし、ここにはふるさと納税6725億円、共同募金会や赤十字社、町内会・自治会、政治献金、宗教関係の2773億円も含まれ、これを除くと2628億円です。この他、企業からの寄付を合わせると個人と企業で1兆円近い寄付があるといいます、

現在、NPO法人の数はおよそ5万程度、認定NPO法人の法人は2024年3月で1284あるといいます。
NPOの数は2018年をピークにやや減少傾向にありますが、これは社団法人などの別の形態をとるようになったからだとも考えられます。なお、不認証となることが少ないNPO法人ですが東京都だけは突出して不認証の数が多くなっています(135p4−6参照)。
活動分野としては、「保健・医療・福祉」、「子育て」、「まちづくり」などが多くなっています(138p4−7参照)。
規模や収入に関しては分散が大きくて特徴を抽出することが難しいですが、認定NPOのほうが規模も収入も大きくなる傾向があります。
有給のスタッフの中央値を見るとNPOは1人、認定NPOで2人。年間給料手当総額の中央値はNPOが210万円、認定NPOが613.4万円です。

兵庫県の任意団体を含めた調査を見ると、活動者が20人以下の団体が全体のやう7割を占め、活動の中心が「ほとんど女性」とする団体が約6割、「65歳以上」とする団体が7割近くになっています。
ただし、NPO法人は任意団体と比べて49歳以下の割合が高く、専従で働く人がいることなどに特徴があります。会社員や自営業者のメンバーも多く、任意団体よりも幅広い参加を集めていると言えるでしょう。
近年ではこうした団体では世代交代が大きな問題となっており、多くが担い手不足の問題を抱えています。

第5章では一転して日本の公益活動の歴史をたどっています。
それこそ行基のころから仏教は救貧活動を行ってきましたし、鎌倉時代の叡尊や忍性なども積極的に社会活動を行っています。江戸時代になると、講などの相互扶助組織もできました。
明治になると、民法で財団法人や社団法人が規定されますが、主務官庁の力が強く行政が統制する形でした。1930年代になると「ボランティア」という言葉も紹介され、貧困地域に移り住んで住民の生活向上をはかるセツルメント活動もさかんに行われるようになりました。

戦後になると、アメリカなどから学生が子どもの兄・姉代わりになって厚生を図る「BBS運動」(Big Brothers and Sisters)など活動が輸入されます。また、ボランティアのための組織もつくられていくことになります。
1960〜70年代にかけては環境保護運動や消費者運動などもさかんになり、「コミュニティ」という言葉も紹介されるようになります。80〜90年代になると地球環境問題への関心の高まりからNGOの活動が紹介されるようになっていきます。
そして、1995年の「ボランティア元年」を迎えることになるのです。

その後、1998年のNPO法だけでなく、2000年の介護保険制度、03年の指定管理者制度、06年の障害者自立支援法と、NPOと関連の深い制度がスタートし、行政からNPOへの委託も増えていきました。また、2000年代になると社会的起業が注目を集めるようになります。
2010年代になるとSNSの発達やクラウドファンディングの広がりなどが、NPOの活動の幅を広げていくことになります。

本書の第6章は「なぜ社会に必要か」となっています。冒頭に置かれてもよい章がここに置かれているというのが本書の1つの特徴です。
まず、近年になってNPOが必要とされてきた理由について、「変容する社会での新しいニーズ」、「人と接する社会参加の場として」という2つのことがあげられています。
共同体や家族が変容する中で、今までは家族や共同体内で解決していた問題が処理できなくなっています。また、今までは企業がその従業員の人生を抱え込むような形になっていることもありましたが、そのような企業の力は弱まっていますし、長寿化とともに老後の活動も考える必要があります。

次にNPOの強みですが、一般的に言われるのが私的財と公共財の中間にあるような「準公共財」の提供です。公共財の定義は非排除性と非競合性ですが、例えば、同時に複数のが利用できる非競合性は満たさないが公共的な財というは想像できるでしょう。
また、特殊な難病患者の抱える問題などはどうしても政治の場ではとり上げられにくいですが、何らかの手当が必要というケースもあります。こうした多様なニーズに対応するためにNPOが必要だというのです。

ただし、多様なニーズに応えるのは企業ではいけないのか? これに答えるのが「契約の失敗」理論です。
医療や福祉に関しては情報の非対称性があり、これを利用してサービス利用者を犠牲にして利益を得ることが可能です。しかし、NPOはこうした得た利益の分配に制約があり、それが信頼を生むことになります。
一方、NPOが多様なニーズに応えられるとはいえ、すべてのニーズに応えられるわけではありません。また、活動分野は人々の関心が集まりやすいところに集中することになりますし、ボランティアに頼っているために彼らの好みや意向を無視できません。さらに誰でも参加できるがゆえに専門性が求められる分野では十分に活動できない可能性があります。
ただし、これらの弱みは強みの裏返しでもあり、一概に否定されるべきものでもありません。

最後の第7章では今後のNPOについて展望していますが、ソーシャルセクターの「ソーシャル」には社会的門だという意味と社交という意味の2つが含まれているのではないかという指摘は興味深いです。
NPOが参加者の自己満足のように批判されることもありますが、人々が所属する中間団体としてNPOが重要だとも言えるわけです。

このように本書は「NPOとは何か」という多くの人が持つ疑問に答える内容になっています。
NPOという明確に定義しにくいものを説明することは難しいと思うのですが、本書は構成を工夫することで平板にならずにそれを伝えることに成功しています。
「NPOという名前は知っているけど...」という人には、まさにぴったりな内容なのではないでしょうか。
脱退をめぐってトラブルが起きたり、存続が危ぶまれたりすることが報じられる町内会。この町内会を歴史社会学に読み解いた本人なります。
著者は、『創価学会の研究』(講談社現代新書)などの著作がありますが、そこでも近代日本の都市化と都市下層の集団が1つのポイントになっていましたが、本書でも都市化の中で誕生した自営業の担い手が同時に町内会の担い手になっていったこと、自営業の衰退が町内会の衰退につながっていったことを示しています。

基本的には町内会の来歴を探る本なので、現在の町内会の問題に興味がある人からすると少しずれる部分もあるかもしれませんが、町内会の歴史をたどることで、その特徴や限界といったものも見えてくると思います。
目次は以下の通り。
第1章 危機にある町内会
第2章 町内会のふしぎな性質
第3章 文化的特質か、統治の技術か
第4章 近代の大衆民主化―労働者と労働組合、都市自営業者と町内会
第5章 町内会と市民団体―新しい共助のかたち

自分はちょうどコロナ禍のさなかに自治会の班長をやったことがあるのですが、そのときは行事が軒並み中止になり、町内会の会費集めと、町内会の運営のための資源回収を月に1回やるくらいしか仕事がありませんでした。
「町内会は何のためにあるのだ?」と疑問に思う人も増えていると思います。
実際、本書14pの図1を見ると、八王子、町田、日野といった東京の多摩地域の市でも、2010年頃〜2020年頃にかけて加入率が10ポイントほど落ちて、多くの市で加入率が50%を割り込んでいます。

こうした加入率の低下は町内会長の負担の増加にもつながっており、さらに町内会長になると連合会などの上部会やPTA、警察・消防関係のあて職がついてきてあっという間に予定が埋まってしまうといいます。
そうした中で、町内会を解散したい、上部組織から抜けたいという声も上がっています。
一方で、町内会を抜けるとゴミの集積所を使わなせないなどの、さまざまなトラブルも起こっています。
このように問題を抱えながらも、阪神淡路大震災、東日本大震災以降は地域の防災や助け合いのキーとして町内会への期待が高まっています。

町内会は、「自治会」「部落会」「町会」など、さまざまな名称で呼ばれています。名称に揺れがあるのと同じように定義にも揺れがあるのですが、著者は次のような定義を掲げています。

町内会・自治会は、「共同防衛」を目的とする「全戸加入原則」をもった地域住民組織である。(28p)

「共同防衛」と「全戸加入原則」というやや硬い用語が用いられていますが、「共同防衛」についてはあとで説明されるとして、「全戸加入原則」は町内会の1つのポイントです。
国家組織などではないために加入を強制することはできませんが、全戸加入が1つの目標になります。著者はできればすべての労働者の加入を目指す労働組合と似たところがあると指摘しています。

著者は中村八朗の議論をもとに、町内会の特徴として以下の6つをあげています。
1 加入単位は個人ではなく世帯であること
2 一定地区居住者の全戸加入を原則とすること
3 機能的に未文化であること
4 一定地区にはひとつの町内会しかないこと
5 地方行政における末端事務の補完作用をなしていること
6 旧中間層の支配する保守的伝統の温存基盤になっていること(37〜38p)

ただし、5と6は歴史的特質で、5はまだ維持されているが、6についてはもはや一般的なものではなくなっているといいます。

町内会については、中田実が入会地などを念頭に地域共同管理をその機能の中心だと捉えました。
しかし、著者によると、村落の部落会や自治会であれば、この議論は当てはまるものの、都市化とともに誕生した町内会には当てはまりにくといいます。

そこで著者が提唱するのは鈴木栄太郎が提起した「共同防衛」という概念です。災害や外敵の侵入、内的な秩序の破壊としての犯罪の発生に対処することが町内会の核となる機能だというのです。
共同防衛が担うべき機能だからこそ、空間的な領域が確定され、全戸の参加が求まられます。さらに共同防衛のためにはありとあらゆることをする必要が出てきます(安田三郎は町内会を地方自治体だと考えたが、著者はやはり違いがあると考えている)。
著者は、町内会は明治国家が生み出した統治の技術だと考えており、もともと日本にあった文化ではなく、上からつくられたものだと考えています。

町内会が行政の末端として存在しているというのは行政学者の高木鉦作も指摘していたことですし、村松岐夫の言う「最大動員システム」の一端を担ったものの1つに町内会はあげられます。
そこで、本書ではまず明治の地方自治制度に注目します。そこに現在の町内会へと至る原型があるというのです。
江戸時代の後半になると村の中での階層分化も進み、村方三役などの役職は有力な地主が務めることになります。このような地主には小作人が連なっていました。
本書では、この村の階層を、1大地主層(50町歩以上)、2中小地主層(約3町歩以上)、3自作上層(約2町歩)、4自作下層(約1町歩)、5小作層(上記以下)の5つに分けて分析しています。
この階層は制限選挙とも対応しており、小作層はいずれにも参加できず、自作下層は府県会選挙権だけを持ち、自作上層は加えて府県会の被選挙権を、中小地主層は加えて衆議院の選挙権を、大地主層は加えて軍歌大地主議員になることができます。
自由民権運動では担い手が旧武士層から豪農層へと移ってきますが、この豪農層は在村の手作地主でした。さきほどの階層では2の中小地主層から3の自作上層に分布する形ですが、彼らの役割は明治になってからの大区小区制などで大幅に削られており、その不満が彼らを自由民権運動に向かわせたと考えられます。

これに対して、政府は1878年の地方三新法で大区小区制を廃止するなど豪農層への歩み寄りを見せますが、税に関しては国が吸い上げ、地方自治体は国の補助金に依存せざるを得ない状態となりました。
一方、1880年代に松方デフレが進むと、農民は大きな打撃を受け、自作農から小作農に転落する者が相次ぎます。自作上層と自作下層が土地を失い、大地主層と中小地主層に土地が集まっていくことになりました。

こうした中で山県有朋による地方行政の再編が進みます。山県は「明治の合併」を進め、幕藩体制以来の自然村をいくつかまとめて行政村をつくっていきます。
衆議院選挙の選挙権は15円以上の国税を納める者に限定され、自然村の範囲内だけで土地を所有する豪農下層は選挙に参加することは難しくなりました。
旧自然村に置かれた区長や区長代理には豪農層が選ばれましたが、区長や区長代理は町村長に従属する末端機関の役目しか与えられておらず、豪農層は政治の舞台から遠ざけられ、行政の下請けに甘んじることになります。

この地域のリーダーの影響力を政治舞台では発揮させず、行政の過程にのみ発揮させるという「成功体験」が、のちの町内会にもつながっていると著者はみています。

地方支配についてはある程度の成功を収めた明治政府ですが、日露戦争後になると産業化と都市化が進む中で都市の中の下層民をどう治めていくかという問題が浮上します。
日比谷焼打事件に見られるように都市騒擾事件が相次ぐようになり、労働争議なども頻発していくことになります。

労働者をはじめとした都市下層の人々は、自分たちの生活のため、あるいは社会的地位向上のためにさまざまな動きを起こしていきます。
労働運動はその代表的なものになりますが、明治政府は1900年に治安警察法を制定し、ストライキだけではなく使用者に労働条件の交渉を求めることすら禁じます。このため、日本では欧米と違って労働運動や労働組合が徐々に体制内化していくこととにはならず、社会主義の影響を受けながら反政府的なものとして存在してくことになります。

このように労働運動が政府によって抑えられる中で、経営者たちは「経営家族主義」によって従業員の定着を図ろうとしました。
一方、労働者の中からは社会的地位向上のために、小さな工場主や商店主として独立しようとする動きが起こります。
この動きに著者は町内会誕生の鍵をみています。

都市における住民組織としては土地所有者だけが加入できる地主会が一般的で、町内会は後からできたといいます。
町内会のでき方はさまざまだといいますが、都市部の住宅地では町内会に対する反応は鈍く、唯一退役軍人だけがこれに反応したといいます。一方、住宅地の高台から下った場所には零細な商店が集まり、町の会をつくっていきました。
こうした町の会のなかには「全戸加入」を謳うところも出てきました。これには同業者が移住してくることへの警戒もあったと思われます。

階級的な面からいうと、労働運動の弾圧によって労働組合や労働運動による社会的上昇の道を絶たれた人々が自営という道で身を立て、その不安定な地位を守るためにつくったのが町の会だと言えます。

この町の会に注目したのが戦時体制を構築しようとしていた行政でした。防空などをはじめとして「共同防衛」の必要性が高まる中で、町の会を町内会として組織し、広めていこうとする動きが起こります。
1940年には内務省訓令として「部落会町内会等整備要項」が出され、町内会は戦時体制の末端を担うものとして整備されていきます。

この行政側の動きに対して、商店主たちも呼応します。彼らの多くは地方の小作などの貧しい階級の出身で、労働者としては弾圧される対象でした。しかし、そんな彼らのつくった町の会が行政の目に止まり、ひとかどの人物として、天皇の臣民として認められることになります。
町内会が戦時中に戦争へ積極的に協力したのも、こういった背景から分析できると著者は考えます。また、欧米において大衆民主化を担ったのが労働組合であるとすれば、日本ではそれは町内会だったというのです。

戦時中は、この町内会はだいたい10世帯くらいの班組織をもつようになり、これが隣組となります。この隣組と、その「常会」と呼ばれる会合を通じて、配給や金属類の回収、出征兵士の見送り、防空訓練などが行われました。
ある町内会長の話によると、出征のときに金持ちの息子は盛大に見送られるのにそうでない子は誰も見送らないのは不憫だということで、町内会で楽団を組織して誰であっても盛大に見送るようにしたといったケースもあったそうです。
こうした中で、町内会の中心メンバーが幅を利かせるようになり、知識人や俸給生活者らがそれを苦々しく思うということもありました。

戦後、GHQによる染料が始まると戦時中の活動が咎められ、町内会。部落会は「封建遺制」であるとされ((著者はもちろんこの解釈に反対)、政令で禁止されます。
しかし、戦後も配給は続いたために町内会・隣組のルートを使うしかありませんでした。
1952年、GHQによる占領が終わり、GHQの政令の効力が執行すると、町内会は公然と復活することになります。ただし、行政としてはそれまでの判断もあり、町内会・自治会を公然と特別扱いすることはできませんでした。

高度成長期になると、自営業者たちは地主から土地を買い取り、ますます旺盛な活動意欲を見せるようになります。
東京などでは、自分たちの地位を行政に認めさせるために、町内会連合会を組織して行政に自分たちの要求を突きつけるようになっていきました。
町内会に特別な地位が与えられることはありませんでしたが、行政にとっても町内会は都合のいいものであり、地域開発や施設誘致などの際にも、まずは町内会の有力者だけに説明がなされ、合意の形成が図られるといったことも増えてきます。

こうした行政と結びついた町内会には批判も向けられるようになり。70年代に革新自治体が登場すると、町内会・自治会とは異なる住民運動や市民運動が注目されるようになります。
一方、自治省からは「コミュニティ施策」と呼ばれるものが打ち出されますが、結局、その担い手は町内会や自治会に求められていくことになります。
革新自治体でも、市民参加による意思決定の難しさが顕在化し、町内会・自治会との協力を尊重するようになっていきました。
著者はこの70年代に「町内会体制」が確立したとみています。

しかし、この町内会体制は確立とともに解体していきます。
昭和のはじめに20代で町の会を設立した世代は、戦後間もなくに40代で土地を取得して土地付きの自営業者となり、1970年代に60代で町内会長などの役職を務めてとして、80年代になると70代になってそろそろ引退ということになっていきます。
彼らの子どもは必ずしも店を継ぐ存在ではなく、大学に進学して一般企業へと就職していくことになります。町内会体制を受け継いでいく継承者は必ずしもいるわけではなかったのです。

この町内会は自民党議員の個人後援会を支える存在でもありましたし、町内会長などから地方議員へと転身するケースもありました。町内会の有力者が行政をバイパスして議員経由で政策に影響力を持つようなケースもあったといいます。著者はこうした動きが80年代の「保守回帰」の背景にあったと考えています。

こうした構造も、大規模小売店舗法の改正や小選挙区比例代表並立制の導入などによって掘り崩されていきます。
大規模店の進出によって商店主たちは経済的な打撃を受け、自民党の国会議員も個人後援会だけで選挙戦を戦っていくことは難しくなります。
もちろん、後援会組織は重要ですが、衰退した商店主たちに代わってそれを担ったのが創価学会であり、そのための自公連立だというのが著者の見立てです。

最後に著者は今後の町内会についても簡単に展望しています。
まずは市民団体との関係です。以前は水と油と言われた関係ですが、町内会が衰退し、福祉の一端を市民団体が担うようになってきた中で、町内会も市民団体と協力していかざるをない状況になっています。
また、行政としては町内会に下請け的な仕事をさせてきたわけですが、今後は難しくなっていくと思われます。
それでも全戸加入原則を持つ町内会の存在は貴重です。すでに行政の下請けを行う資源は残っていないものの、行政への窓口、行政と協議する場所としての町内会は残せるのではないかというのが著者の考えです。
一方、活動の方は分野ごとに市民団体に任せるべきだといいます。町内会を議会を補完する(というよりも議会が町内会を補完する)ような政治についての協議の場としていくのが著者の描く青写真です。

全体としてはやや繰り返しになってしまっているところがあったり、農村の自治会はどう考えればよいのか? といった疑問も残りますが、町内会が階級的な承認を得るための手段として立ち上がり、上からの組織化もあって公共的なものを担ったという議論は興味深いです。都市部の政治については、このロジックは比較的使えそうな気がします。
現在の町内会というよりも、日本の近代の都市の歴史に興味がある人にお薦めできる本です。


今年の総統選も大きな盛り上がりをみせた台湾のデモクラシーについての本ですが、著者の名前を見て「?」となった人もいるかもしれません。著者はアメリカ政治の専門家で、『見えないアメリカ』(講談社現代新書)などのアメリカ政治の著作で知られている人物だからです。
このように書くと、「米中対立をメインにして台湾の政治を分析した本?」と思う人もいるかもしれませんが、そういうありがちな本でもありません。
アメリカという台湾からみて「特別な国」から台湾の政治と歴史を見るとともに、著者の専門でもあるメディアと選挙から台湾政治の独自性を見ていくという非常に面白い試みになっています。

台湾というと、日本では日台関係、あるいは大陸との関係で分析されることが多かったですが、アメリカとの関係をみていくことで新しい台湾像が立ち上がってきますし、親日か?親中か?といった単純な姿ではない台湾の社会が見えてくると思います。
また、「アメリカの中のアジア系」という存在を考えるうえでも興味深い材料をいろいろと提供してくれる本です。

目次は以下の通り。
序章 危機のデモクラシー
第1章 激変した台湾イメージ
第2章 民主化の動力と白熱する選挙
第3章 ジャーナリズムと権力批判
第4章 政治広報と「世論」戦
第5章 言語と文化、多様性の政治学
第6章 在米タイワニーズとアイデンティティ
第7章 デジタル民主主義の光と影
終章 デモクラシーの未来図

台湾で初めて直接選挙で総統を選ぶようになったのは1996年であり、台湾の民主主義の歴史は新しいです。1987年までは戒厳令が敷かれており、市民の自由は制限されていました。
しかし、現在では国民党(藍色・ブルー)と民進党(緑・グリーン)という二大政党が激しく争っており、政権交代も起こっています。
この民主化を進めたのは台湾の市民ですが、同時に外せない要因が「アメリカ」だといいます。アメリカに渡った台湾の人々は、選挙のスタイルやジャーナリズムなど、さまざまなものをアメリカから台湾に持ち込んだのです。
アメリカ人の台湾に対する関心というものは決して高いものではなく、2022年のナンシー・ペロシの訪台は注目を集めたものの、アメリカ人の台湾社会についての知識は薄いといいます。
一方、台湾からは多くの人がアメリカに留学しています。1950年代を通して台湾からアメリカへは年間5000人近くの留学生がおり、これはカナダに続く第2位の数字でした。その後、1974年には1万人を突破し、1982年には2万2千人超でついに1位に躍り出ます。その後、1990年代に一時的に日本が、2000年代にはインドが1位になり、2009年からは中国が10万人超えで首位となり、2位以下を引き離しますが、台湾は現在も年間2万人程度を維持しています。
台湾の研究者が言うには「アメリカ留学帰りが一番偉く、次がヨーロッパか日本の学位」(33p)という状況なのです。

アメリカ留学をはじめとする高学歴は政治家に求められる条件でもあります。
李登輝はコーネル大学博士、馬英九はハーバート大学博士、蔡英文はロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの博士、頼清徳は医師でハーバードで修士を取得しています。
ポピュリズム路線で旋風を巻き起こした韓国瑜も、学歴的には国立政治大学修士で、「庶民総統」としては過剰だけど他に比べれば見劣りするという難しいポジションだったといいます。

頼清徳のもとで副総統に就任したのは蕭美琴です。彼女は蔡英文政権で駐米台北経済文化代表処の代表を務めましたが、バイデン政権の大統領側近に食い込み、ペローシ訪台騒動ではTV中継を梯子して質問に答えました。
彼女は台湾人の父とアメリカ人の母の間に生まれたハーフで、父は長老派教会の牧師であり、この長老派教会を通じたアメリカ社会とのつながりは、彼女だけでなく、民進党の隠れた強みだといいます。
また、台湾の民主化を進めた多くの人々にもアメリカとのつながりがあり、安全保障面だけではなく、その他の面でもアメリカは特別な存在になっています。

こうしたアメリカとのつながりもあって、台湾の選挙キャンペーンはアメリカ式です。
大規模動員型の集会がキャンペーンのメインであり、ここでは明るいうちから歌手などが登場して会場を盛り上げ、クライマックスで候補者が登場します。
参加者は顔にペイントを入れ、旗を振り、プラカードを掲げます。まさにアメリカ流ですが、屋内が多いアメリカに対して台湾ではドローンでの空撮ができる屋外が好まれるといいます。
こうした集会は台湾の夜市の文化ともつながっており、夜市でさまざまな選挙の応援グッズが売られています。

邱義仁は民進党で「ミスター選挙」とも言われ、2000年の総統選で選対本部長として陳水扁を当選させた人物ですが、アメリカ通でもあり、1970年代末にシカゴ大学で政治学修士号を取得しています。
邱に言わせれば、以前の台湾では国民党がメディアやさまざまな団体のほぼすべてを支配しており、地域の集会をゲリラ的に繰り返すしかなかったといいます。そうした中で民進党のさまざまな選挙戦術が磨かれました。

一方、組織を使っていくらでも人々を動員することができた国民党は、それが故に選挙キャンペーンの技術で出遅れました。
アメリカでも経験的に証明されていることですが、効果的なのは一般的市民の支持者であり、彼らが作り出す熱狂です。
国民党はこうした演出が苦手でしたが2020年の総統選では韓国瑜を押し立てて、人々の感情を奮い立たせるような選挙キャンペーンが行われました。

台湾にアメリカ流の選挙キャンペーンを持ち込んだ人物の1人に許信良がいます。
1973年に渡米し、アメリカの選挙を知った許は、1977年の桃園県長選に無所属で出馬し、大荒れの選挙戦を勝ち抜いて当選します。しかし、1979年の美麗島事件が起きた際にアメリカにいた許はそのまま台湾に帰れなくなり、10年に渡る亡命生活を過ごすことになります。
許はアメリカで台湾民主化のための活動をするとともに、アメリカ流の選挙キャンペーンを学びました。

帰国後、許はアメリカ式の予備選挙を導入しようとしますがうまくいかず、代わりに導入されたのが世論調査により候補者を決定するスタイルでした。
民進党では、当初、党員票50%・世論調査50%から始まり、2000年には党員票30%、世論調査70%となり、2011年以降は小選挙区の候補者を100%世論調査で決めています。
もちろん、敵対陣営の支持者が弱い候補を推す可能性もあるわけですし、国民党ではさまざまな事情から世論調査を採用するかしないかで揉めたりしているわけですが、このスタイルは政治に対する開放性を高めています。

台湾の選挙にはある意味で本家のアメリカを超えているようなものもあります。1つは演説中の効果音で、台湾の選挙に慣れすぎるとアメリカの選挙演説が静かで退屈にすら感じるそうです。
また、候補者の巨大な屋外広告やラッピングバスやラッピングタクシーなども台湾の選挙の名物です(アメリカ人は公共の空間が党派化するのを嫌うという)。
さらに「掃街(サオジェ)」と呼ばれる街宣車によるパレードも台湾では盛んです。広いアメリカと違って、台湾では候補者が直接有権者と触れ合うことが可能で、この「掃街」でどれだけ人を集められるかが選挙の勝敗にもつながってくるといいます。

台湾では民主化とともにマスメディアも大きく発展します。1993年にケーブルテレビ法案が可決されるとテレビのチャンネルは3から200近くにまで増えました。
こうした中でアメリカCNNの『ラリー・キング・ライブ』をモデルにして生まれたのが『2100全民開講』でした。この番組のキャスターを務めた李濤は、アメリカでジャーナリズム学を学び、アメリカ流の演出などを徹底的に研究して台湾に持ち込みました。

ジャーナリズム全体もアメリカ式で、大学の新聞学科卒でないと記者として採用しないといいます。新聞学科は女性率が高く、そのため記者も女性が多くなっています。
また、アメリカ式のジャーナリズムで譲れない一線がニュースを伝える人物はジャーナリストであるべきだというもので、台湾でもアンカーは記者出身です(日本は取材はしない「声のプロ」のアナウンサーがニュースを読むことが多い)。
ただし、台湾のジャーナリズムにも問題はあり、それは過当競争と市場化です。
爆発的にチャンネルが増えた影響で個々の番組の視聴率は低下する中、視聴率獲得のための競争は熾烈になりました。フリップやチャート、スタジオの模型などは日本から取り入れられ、香港からはアンカーの全身を映すスタイルが取り入れられました。女性アンカーのスカートは短くなりタレント化が促進されました。
また、日本でも同じですが国際報道は視聴率が取れず、国際報道の体制は不十分なままだといいます。
視聴率競争の中で、それぞれのテレビ局は党派色を強めるようになり、チャンネルごとに「緑」寄り、「藍」寄りというカラーが強まっています。

台湾には「政論」と呼ばれる独特の政治討論番組があります。ゴールデンタイムに放送されますが、基本は生ではなく収録で、夕方に90分程度で収録したものを45分に編集して放送しています。
以前は『2100全民開講』のように生放送へのこだわりがありましたが、編集したほうがテロップなどの演出を凝ることができる、人気コメンテイターを確保しやすいなどの理由で収録になっています。
各国の各TV局には、旗艦番組というものがありますが(日本だと主に21時以降のニュース番組)、台湾では政論番組がこの位置にあります。

この政論番組は偏っているのが普通で、緑よりの局なら4人のコメンテイターのうち3人は緑で1人は藍といった具合です。
討論番組であっても視聴者は理知的な結論を求めているわけではなく、自分の党派に沿った意見や主張を聞きたいと思っています。コメンテイターの間でも役割が決まっており、そこには予定調和があります。
政党側もそれはわかっており、コメンテイターたちに自分たちの主張の要点や言い回しなどを提供しています。さらに場合によっては政治家が金を払って番組に出演するケースもあります。

このようにテレビ局が市場原理で動くとなると、心配になるのは大陸からの介入です。2020年には「中天テレビ」の免許更新が認めない決定がくだされました。特定の候補を支持し続けるニュースを流したことが問題とされましたが、オーナーが大陸にも進出している食品企業だったことも取り沙汰されました(なお、中天はネットに活動の場を移して番組を流し続けている)。
一方、緑寄りとされるTVBSもドラマを大陸に売っており、そのために中国に対する遠慮が生まれるとも言われています。

このように「緑VS藍」の二項対立の色が強い台湾の政治ですが、台湾人のアイデンティティはそう簡単に2つに色分けできるものではありません。
台湾の地下鉄では、中国語(北京語)、台湾語、客家語の3つの言語でアナウンスが流れます。一部の高齢者を除いて中国語がわからない人はいないにもかかわらず、このようなことが行われています。
選挙の年になると台湾語が目立つようになります。台湾語は17世紀に福建省から台湾にやってきた人が話していた閩南語で、これを「台湾語」と呼ぶか「閩南語」と呼ぶにも党派性が現れます。
台湾では日本の統治時代は日本語が国語となり、国民党の支配になってからは中国語が国語となりました。母語ではない国語を学ばされてきたのが台湾の歴史であり、どの言葉を重視するかも政治的な選択になります。

民進党政権は台湾語支援政策を行っており、いわゆる台湾アイデンティティを強化する姿勢を示していますが、台湾語は「中国語化」の深刻な影響を受けており、すべてを台湾語にすると若い世代にはわからないということも出てきます。
政治家がどのタイミングでどういった台湾語を話すのかというのも非常に戦略的なものになります。

台湾にはさらに原住民のテレビ局もあります。経営的に自立できないために既存の放送局の中に間借りしているような形ですが、ここでも民進党と国民党の綱引きがあります。
原住民は国民党指示が強いと言われますが、同時に党派色を嫌う面がありますし、また原住民と言っても多様です。

他にも客家というカテゴリーがありますが、この客家も「客家語」という言葉を話すということがアイデンティティになります(台湾ではかなり親しくならないと客家というルーツは出てこないという)。
この客家に関しても2003年に客家テレビという独自のメディアが誕生しました。
このように言語においてもむき出しの多様性が存在するところが、台湾社会の1つの特徴になっています。

台湾とアメリカは特別な関係とのことですが、アメリカにおける「台湾系」というものはなかなか見えにくいものになっています。
大きく中華系と言っても、伝統的な広東系の他に、台湾からの移民でも外省人と本省人が、それ以外の大陸系といった違いがあり、言語においても北京語と広東語の言語対立もあります。
著者は、民主党陣営の一員としてアメリカでこういった中華系を始めたアジア系のコミュニティにアプローチする仕事をしていたこともあるそうですが、中華系のややこしさには苦労したといいます。

それでも、従来の広東系だけではなく、台湾系にアプローチしなければならないということで著者は台湾政治について学んでいきました。
ただし、「台湾系」といっても古い世代にはあてはまりにくく、例えば、TSMC創立者のモリス・チャンは1931年に浙江省で生まれた中華民国人で、テキサス・インスツルメンツで半導体開発に従事していたところ、請われて台湾への技術移転に協力した人物で、それまでに台湾の在住歴はありません。
また、二世以降の若い世代も「台湾」にアイデンティティを感じるかどうかは人次第で複雑ですし、「チャイナ」が何を表しているかも一義的には決まらないといいます。

本書にはアメリカに渡る中国人留学生についても面白い指摘もあって、以前は中国からアメリカに留学すると自由や民主主義を支持するようになりやすかったが、今はSNSの発展で祖国と切り離される「リセット感」が消滅しており、「携帯電話とWeChatがある限り、中国にいるのと同じ」(217p)で、母国肯定感が揺らがないとのことです。
この他、中華系の政治家のアメリカでの身の処しかたを分析した部分もやや本筋から外れますが興味深いです。

最後は台湾のデジタル民主主義について触れています。ネットを駆使したキャンペーンにおいては台湾はすでにアメリカを凌駕しつつあり、近年ではインフルエンサーを使った政治的なマーケティングも盛んに行われています。
ただし、こうなると少し怖くなるのが大陸からのネット工作です。インフルエンサーなどは金銭で動かしやすいと考えられますし、フェイクニュースを流すのも容易です。
フェイクニュースに対しては、「みんなで議論して検証する」というスタンスの「コファクトCofacts」などがつくられており、市民からも対抗しようという動きが起きています。

最後に2024年総統選挙についても触れていますが、選挙は「台湾においては対外的な「ソフトパワー」としての意味合いも持っている」(298p)にはなるほどと思いました。
台湾の民主主義は日本に比べて大きく盛り上がっていますが、その裏には民主主義が活性化することが自分たちの存在意義を高めるという台湾ならではの理由もあるのです。

このようにかなり盛りだくさんで面白い本ですね。台湾関係の本では日台関係を深堀りしてみせた『台湾のアイデンティティ』(文春新書)も面白かったですが、こちらはまたガラッと変わった視点から、日本からは見えにくい台湾の姿を見せてくれています。
また、選挙とメディアの本としても十分に楽しめる内容です。


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