2018年07月
丸山眞男に「17世紀に身を置きながら18世紀を支配した」思想家と言われたジョン・ロック(ii p)。社会契約説、『統治二論(市民政府二論)』の著者、抵抗権・革命権の提唱者、アメリカ独立革命への影響、所有権を理論付けた人物など、いくつかのことが思い浮かぶでしょうし、また、議会政治、寛容、所有権などを考える上で、今なおその出発点となる思想家です。
そんなロックについての新書ですが、この本は評伝というわけではありません。ロックの生涯に関しては第一章で30ページほどにまとめられているのみです。また、彼の思想を噛み砕いて説明した本でもありません。よく知られている抵抗権や革命権、ロックの所有権の理論などを概観するような部分はほとんどないです。
では、どんな本なのかというと、「ロックの思想を位置づけた本」という表現があっているかと思います。政治だけでなく認識論や宗教の問題にも多くの思索をめぐらしたロックですが、この本では、そのロックの思考にはいかなる一貫性があり、どのような時代背景と対応しているのかを論じています。
ここ最近の新書の中では難解な部類で、第2章までは「ロックの思想は難解だ」ということを言おうとしている本にも思えますが、第3章、4章と読み進めるに連れ、その難解さの理由もわかってきます。
難しい本ですが、格闘する価値のある本だと言えるでしょう。
目次は以下の通り。
第1章ではロックの生涯が語られています。
ジョン・ロックは1632年に生まれました。父は治安判事の訴訟代理人兼書記をつとめていた人物で、多少の土地を所有するジェントリーでもありました。父・母はともに敬虔なピューリタンで、ロックもピューリタンとして育ちます。
1642年にいわゆるピューリタン革命が起こると、ロックの父は議会派の騎兵隊の一将校としてこれに参加し、そこでポファムという人物と知り合い、そのポファムの支援もあって、ロックはウェスタミンスター・スクールからオックスフォード大学へと進みました。
1660年頃になるとロックは思想家として生きる覚悟を決め、『世俗権力二論』、『自然法論』といった著作を完成させます。
1666年、ロックはアシュリー卿と出会い、侍医としてロンドンのアシュリー卿の屋敷で暮らすようになります。ロックはアシュリー邸で行われていた知識人の集まりに参加するとともに、のちに議会派の大物政治家となるアシュリー卿の政治活動を支えました。
アシュリーは1672年に国王のチャールズ2世からシャフツべリ伯に叙せられますが、国王の親フランスの姿勢に危機感を覚えたシャフツベリは反国王に転じ、1682年にオランダに亡命し、翌年に亡くなります。そして、シャフツベリの腹心であったロックも1683年にオランダに亡命するのです。
1688年に名誉革命が起こるとロックもイギリスに帰国します。そして、『寛容についての手紙』、『統治二論』、『人間知性論』を発表し(『人間知性論』以外は批判を恐れて匿名で出版された(26p))、1704年に亡くなっています。
第2章ではロックの思想が概観されています。
ロックは内部にさまざまな矛盾を抱えた思想家で、わかりやすい意図や枠組みに沿ってその思想を理解することは困難です。
例えば、『人間知性論』では経験に先立つ生得性や実在性を否定していますが、『統治二論』では「神の意志」としての自然法が先験的に人間に内在しているとしています(40p)。
著者は、ロックの著作には『世俗権力二論』、『寛容論』、『統治二論』、『寛容についての手紙』の政治=寛容論の系譜と、『自然法論』、『人間知性論』、『キリスト教の合理性』の認識=道徳論の系譜があるとし(49-50p)、その系譜の中での理論変化と、2つの系譜の関係を頭に入れる必要があるとします。
その上で、著者はロックの不動の信条として「神を人間に服すべき規範をあたえてくれる存在として信仰し、生きるに値する人間の善き生の条件をその規範にしたがって生きることにみいだす」(60p)ということをあげています。
第3章では、『統治二論』や『寛容についての手紙』に見られるロックの政治論が検討されています。
「政治的なもの」を全面に押し出したホッブズに比べると、ロックの著作では「政治的なもの」が制限されているように見えます。これがロックが現在の「リベラル」な政治と親和的な理由ですが、ロックがこのような考えに至ったのにはいくつかの理由があります。
まずは内乱から王政復古、そして名誉革命という動乱の時代を生きた経験です。ロックは政治について「われわれは、それとともに泳ぐか沈むかしなければならない」(69p)と述べていますが、これはそのような時代背景があってこその言葉でしょう。
また、ロックは、「「政治的なもの」について、「武装」して守るべき自分に固有の領域の外の「世界」から侵入して来る「悪」という印象」(74p)をもっていたといいます。
ロックにとって政治は人間において不可避なものであり、同時に宗教上の「魂への配慮」といったものから分離されるべき領域なのです。
ロックの『統治二論』は、フィルマーの王権神授説を批判したものですが、ここでの批判のポイントは、フィルマーが君主の絶対性を強調することで、「神への義務をつらぬく人間の自発性や主体性を否定することになる」(86p)ということでした。
ロックは神による抑圧を嫌ったのではなく、君主を神格化することが神への義務をおろそかにすることにつながると考えたのです。
ロックの「プロパティ」論も、ブルジョワ的な自由主義というよりは、この神との関わりの文脈の中で位置づけられます。
ロックの「プロパティ」は、「「資産」のほかに、人間の身体や人格にかかわる「生命、健康、自由」までをふくむものとされて」(87p)いますが、これらは「それなしに人間が神への義務をはたすことができないもの」(88p)と考えられます。
ロックにとって「プロパティ」は、神に対する義務を果たすために必要不可欠なものであり、自己保存や再生産を可能にする「資産」もこれに含まれるのです。
ロックは神は政治的統治の目的に関しては「沈黙して」いると考えました。そこで、次善の目的として想定されるのが「プロパティ」の保全です(94p)。
つまり、ロックは「「プロパティ」を非政治的な領域として聖域化するために政治的統治が要請されるという逆説的な」(95p)議論を行っているのです。
ロックの想定する「人間は、自らの「プロパティ」を聖域として他者の侵害から守るためいに、まず、社会契約を結んで自然状態から政治社会に移行し、ついで、政治的統治者を選出した上で「プロパティ」の保全のために彼らに立法能力を頂点とする政治権力を「信託」する」(97p)のです。
これが有名な抵抗権にもつながります。「プロパティ」を侵害する統治者は、「「プロパティ」の保全を欲する「神の意志」への「叛逆者」」(99p)であり、抵抗は「神の意志」に仕える人間の義務でもあるのです。
ロックの寛容論の枠組みも「「政治的統治の任務と宗教の任務とを明確に区別」する政教分離論」(107p)でした。
政治の目的を「プロパティ」の保全だとしたロックは政治権力の「魂の救済」への介入を否定しました。「永遠の生命」を目的とするキリスト教と「現世的利益」にかかわる政治とは、その目指すところに違いがあるとロックは考えていたのです。
また、ロックは「いかなる人間も生まれながらにある教会の一員であるわけではない」(118p)と考えており、信仰に対して個人主義的な考えを持っていました。
ここからも自分と異なる宗派や協会に対する寛容が求められたのです。
ただし、寛容に扱われてはならない者として、ロックは、「「政治社会の維持に不可欠な道徳的規則」を否定する意見の持ち主」、「「統治権力を奪い取り、仲間である臣民の資産や財産を手に入れる」ことを意図して「寛容の義務」を否定する者」、「カトリック教徒のように、「自国のなかに外国の支配権が確立されること」を容認する教会の構成員」、「「人間の社会の絆である約束、契約、誓約」の拘束をうけない「無神論者」」は寛容の対象とならないとしています(123-124p)。
第4章は『人間知性論』と『キリスト教の合理性』に代表されるロックの認識=道徳論について。
『人間知性論』は認識論を中心とした本ですが、著者がロックが一番知りたかったことは道徳規範であろうと述べています。
ロックは、「神は、私たちの関心事の大部分について、人間がこの世で置かれた凡庸と試練との状態にふさわしく、蓋然知という薄明だけを私たちにあたえた」(151p)との言葉を残していますが、神が与えた道徳規範も明示的に示されたものではなかったのです。
1689年に『人間知性論』は出版されましたが、その後も改訂を続け、第5版まで出しています。これは『人間知性論』がなお未完成の作品であったことを示しています(158p)。
著者は『人間知性論』が、「神の存在相目」、「神があたえた規範の論証」、「その認識根拠の証明」について問題を抱えていたと考えます(160ー161p)。
そこで、ロックは「啓示」から人間の生の規範を引き出す方向へと向かいます(167p)。これが『キリスト教の合理性』です。
ロックは、イエスによって「啓示」された「だから、あなたたちが人々からして欲しいと思うことはすべて、そのようにあなたたちも彼らにせよ」(186p)という一般黄金律を聖書から引き出しますが、それは政治=寛容論で打ち立てた規範を包摂するものでした。
著者は、この解答を「挫折」であり「後退」でもあるとしますが、同時にロックの知的誠実さを証明するものだとも考えています(188p)。
エピローグではロックの思想の今日的な意味も考察していますが、簡単に触れられている程度で、ロックの思想が現代にいかなる影響を及ぼしているかといったことに関する言及はそれほどありません。
このように最初から最後まで面白いという本ではないのですが、第3章と4章、特に第3章は非常に面白いと思います。
ロックの『統治二論』はかなり昔に読んだのですが、そのときは現代の政治制度に通じる部分だけに注目して、この本で描かれるようなキリスト教思想家としての部分にはあまり気付けていなかったと思います。今回、この本を読んでとても勉強になりました。
思想家の全体像を提示した本というよりは、狭く深く、その本質を探ろうとした本です。
ジョン・ロック――神と人間との間 (岩波新書)
加藤 節
4004317207
そんなロックについての新書ですが、この本は評伝というわけではありません。ロックの生涯に関しては第一章で30ページほどにまとめられているのみです。また、彼の思想を噛み砕いて説明した本でもありません。よく知られている抵抗権や革命権、ロックの所有権の理論などを概観するような部分はほとんどないです。
では、どんな本なのかというと、「ロックの思想を位置づけた本」という表現があっているかと思います。政治だけでなく認識論や宗教の問題にも多くの思索をめぐらしたロックですが、この本では、そのロックの思考にはいかなる一貫性があり、どのような時代背景と対応しているのかを論じています。
ここ最近の新書の中では難解な部類で、第2章までは「ロックの思想は難解だ」ということを言おうとしている本にも思えますが、第3章、4章と読み進めるに連れ、その難解さの理由もわかってきます。
難しい本ですが、格闘する価値のある本だと言えるでしょう。
目次は以下の通り。
プロローグ―実像をもとめて
第1章 生涯
第2章 思想世界の解読―方法の問題
第3章 政治と宗教―「神の作品」の政治=寛容論
第4章 生と知―「神の作品」の認識=道徳論
エピローグ―ロックからの問い
第1章ではロックの生涯が語られています。
ジョン・ロックは1632年に生まれました。父は治安判事の訴訟代理人兼書記をつとめていた人物で、多少の土地を所有するジェントリーでもありました。父・母はともに敬虔なピューリタンで、ロックもピューリタンとして育ちます。
1642年にいわゆるピューリタン革命が起こると、ロックの父は議会派の騎兵隊の一将校としてこれに参加し、そこでポファムという人物と知り合い、そのポファムの支援もあって、ロックはウェスタミンスター・スクールからオックスフォード大学へと進みました。
1660年頃になるとロックは思想家として生きる覚悟を決め、『世俗権力二論』、『自然法論』といった著作を完成させます。
1666年、ロックはアシュリー卿と出会い、侍医としてロンドンのアシュリー卿の屋敷で暮らすようになります。ロックはアシュリー邸で行われていた知識人の集まりに参加するとともに、のちに議会派の大物政治家となるアシュリー卿の政治活動を支えました。
アシュリーは1672年に国王のチャールズ2世からシャフツべリ伯に叙せられますが、国王の親フランスの姿勢に危機感を覚えたシャフツベリは反国王に転じ、1682年にオランダに亡命し、翌年に亡くなります。そして、シャフツベリの腹心であったロックも1683年にオランダに亡命するのです。
1688年に名誉革命が起こるとロックもイギリスに帰国します。そして、『寛容についての手紙』、『統治二論』、『人間知性論』を発表し(『人間知性論』以外は批判を恐れて匿名で出版された(26p))、1704年に亡くなっています。
第2章ではロックの思想が概観されています。
ロックは内部にさまざまな矛盾を抱えた思想家で、わかりやすい意図や枠組みに沿ってその思想を理解することは困難です。
例えば、『人間知性論』では経験に先立つ生得性や実在性を否定していますが、『統治二論』では「神の意志」としての自然法が先験的に人間に内在しているとしています(40p)。
著者は、ロックの著作には『世俗権力二論』、『寛容論』、『統治二論』、『寛容についての手紙』の政治=寛容論の系譜と、『自然法論』、『人間知性論』、『キリスト教の合理性』の認識=道徳論の系譜があるとし(49-50p)、その系譜の中での理論変化と、2つの系譜の関係を頭に入れる必要があるとします。
その上で、著者はロックの不動の信条として「神を人間に服すべき規範をあたえてくれる存在として信仰し、生きるに値する人間の善き生の条件をその規範にしたがって生きることにみいだす」(60p)ということをあげています。
第3章では、『統治二論』や『寛容についての手紙』に見られるロックの政治論が検討されています。
「政治的なもの」を全面に押し出したホッブズに比べると、ロックの著作では「政治的なもの」が制限されているように見えます。これがロックが現在の「リベラル」な政治と親和的な理由ですが、ロックがこのような考えに至ったのにはいくつかの理由があります。
まずは内乱から王政復古、そして名誉革命という動乱の時代を生きた経験です。ロックは政治について「われわれは、それとともに泳ぐか沈むかしなければならない」(69p)と述べていますが、これはそのような時代背景があってこその言葉でしょう。
また、ロックは、「「政治的なもの」について、「武装」して守るべき自分に固有の領域の外の「世界」から侵入して来る「悪」という印象」(74p)をもっていたといいます。
ロックにとって政治は人間において不可避なものであり、同時に宗教上の「魂への配慮」といったものから分離されるべき領域なのです。
ロックの『統治二論』は、フィルマーの王権神授説を批判したものですが、ここでの批判のポイントは、フィルマーが君主の絶対性を強調することで、「神への義務をつらぬく人間の自発性や主体性を否定することになる」(86p)ということでした。
ロックは神による抑圧を嫌ったのではなく、君主を神格化することが神への義務をおろそかにすることにつながると考えたのです。
ロックの「プロパティ」論も、ブルジョワ的な自由主義というよりは、この神との関わりの文脈の中で位置づけられます。
ロックの「プロパティ」は、「「資産」のほかに、人間の身体や人格にかかわる「生命、健康、自由」までをふくむものとされて」(87p)いますが、これらは「それなしに人間が神への義務をはたすことができないもの」(88p)と考えられます。
ロックにとって「プロパティ」は、神に対する義務を果たすために必要不可欠なものであり、自己保存や再生産を可能にする「資産」もこれに含まれるのです。
ロックは神は政治的統治の目的に関しては「沈黙して」いると考えました。そこで、次善の目的として想定されるのが「プロパティ」の保全です(94p)。
つまり、ロックは「「プロパティ」を非政治的な領域として聖域化するために政治的統治が要請されるという逆説的な」(95p)議論を行っているのです。
ロックの想定する「人間は、自らの「プロパティ」を聖域として他者の侵害から守るためいに、まず、社会契約を結んで自然状態から政治社会に移行し、ついで、政治的統治者を選出した上で「プロパティ」の保全のために彼らに立法能力を頂点とする政治権力を「信託」する」(97p)のです。
これが有名な抵抗権にもつながります。「プロパティ」を侵害する統治者は、「「プロパティ」の保全を欲する「神の意志」への「叛逆者」」(99p)であり、抵抗は「神の意志」に仕える人間の義務でもあるのです。
ロックの寛容論の枠組みも「「政治的統治の任務と宗教の任務とを明確に区別」する政教分離論」(107p)でした。
政治の目的を「プロパティ」の保全だとしたロックは政治権力の「魂の救済」への介入を否定しました。「永遠の生命」を目的とするキリスト教と「現世的利益」にかかわる政治とは、その目指すところに違いがあるとロックは考えていたのです。
また、ロックは「いかなる人間も生まれながらにある教会の一員であるわけではない」(118p)と考えており、信仰に対して個人主義的な考えを持っていました。
ここからも自分と異なる宗派や協会に対する寛容が求められたのです。
ただし、寛容に扱われてはならない者として、ロックは、「「政治社会の維持に不可欠な道徳的規則」を否定する意見の持ち主」、「「統治権力を奪い取り、仲間である臣民の資産や財産を手に入れる」ことを意図して「寛容の義務」を否定する者」、「カトリック教徒のように、「自国のなかに外国の支配権が確立されること」を容認する教会の構成員」、「「人間の社会の絆である約束、契約、誓約」の拘束をうけない「無神論者」」は寛容の対象とならないとしています(123-124p)。
第4章は『人間知性論』と『キリスト教の合理性』に代表されるロックの認識=道徳論について。
『人間知性論』は認識論を中心とした本ですが、著者がロックが一番知りたかったことは道徳規範であろうと述べています。
ロックは、「神は、私たちの関心事の大部分について、人間がこの世で置かれた凡庸と試練との状態にふさわしく、蓋然知という薄明だけを私たちにあたえた」(151p)との言葉を残していますが、神が与えた道徳規範も明示的に示されたものではなかったのです。
1689年に『人間知性論』は出版されましたが、その後も改訂を続け、第5版まで出しています。これは『人間知性論』がなお未完成の作品であったことを示しています(158p)。
著者は『人間知性論』が、「神の存在相目」、「神があたえた規範の論証」、「その認識根拠の証明」について問題を抱えていたと考えます(160ー161p)。
そこで、ロックは「啓示」から人間の生の規範を引き出す方向へと向かいます(167p)。これが『キリスト教の合理性』です。
ロックは、イエスによって「啓示」された「だから、あなたたちが人々からして欲しいと思うことはすべて、そのようにあなたたちも彼らにせよ」(186p)という一般黄金律を聖書から引き出しますが、それは政治=寛容論で打ち立てた規範を包摂するものでした。
著者は、この解答を「挫折」であり「後退」でもあるとしますが、同時にロックの知的誠実さを証明するものだとも考えています(188p)。
エピローグではロックの思想の今日的な意味も考察していますが、簡単に触れられている程度で、ロックの思想が現代にいかなる影響を及ぼしているかといったことに関する言及はそれほどありません。
このように最初から最後まで面白いという本ではないのですが、第3章と4章、特に第3章は非常に面白いと思います。
ロックの『統治二論』はかなり昔に読んだのですが、そのときは現代の政治制度に通じる部分だけに注目して、この本で描かれるようなキリスト教思想家としての部分にはあまり気付けていなかったと思います。今回、この本を読んでとても勉強になりました。
思想家の全体像を提示した本というよりは、狭く深く、その本質を探ろうとした本です。
ジョン・ロック――神と人間との間 (岩波新書)
加藤 節
4004317207
- 2018年07月26日23:21
- yamasitayu
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町ではいたるところに警備員を見かけますし、セコムやALSOK(綜合警備保障)という企業名もCMなどで多くの人が耳にしたことがあると思います。
そんな警備ビジネスですが、日本に警備会社が約9000社あり、警備員が約54万人いると聞くと(17p)、改めてその規模に驚く人も多いのではないでしょうか。
この本は、そんな警備ビジネスを、社会学者で過去に警備員として働いていたこともある著者が包括的に分析したものになります。
警備ビジネスの発展の歴史から、仕事の内容、従業員確保の問題、他業種との格差、警備ビジネスの未来まで、多角的な視点から論じており、面白く読めます。
目次は以下の通り。
全国に9000社もありますし、求人誌などを見ると「誰でもなれる」イメージが強い警備員ですが、その事業は警備業法によって規定されており、会社の設立はもちろん、着用する制服についても都道府県の公安委員会への届け出が必要となります。
また、警備員になるには、禁錮以上の刑を受けてから5年以上経っている、破産者でない、暴力団関係者でないなどのいくつかの要件があり、30時間(4日間)の研修を受ける必要があります。しかも、現職の警備員も半年ごとに8時間の「現任教育」を受けなくてはなりません。
警備業をよく「警備保障」と言いますが、これは多くの警備会社が警備を行うだけでなく、被害が発生した場合に補償を提供するサービスを行っているからです。多くの警備会社は損害保険会社と提携し、保険の役割も果たしています。
第2章では、1号警備、2号警備、3号警備、4号警備という4つの警備のタイプが紹介されています。
まず1号警備ですが、これは施設警備になります。警備員がビルや商業施設などを警備するといったものです。ビルなどに関しては、そのビルに警備員が常駐する常駐警備と、いくつかのビルを巡回する巡回警備があります。当然、前者のほうがより厳重な警備が可能ですが、コストは当然かかります。このあたりは警備業のジレンマと言えるでしょう。
2号警備は不特定多数の車や人を誘導する警備です。工事現場の交通誘導やイベントでの雑踏警備などがこれに入ります。
3号警備は貴重品や危険物を運ぶ業務です。ATMへの現金の輸送と障害対応などが代表的なものですが、核燃料の運搬などもこれに入ります。
4号警備については、去年(2017年)にNHKで『4号警備』というドラマが放送されたので、4号警備が身辺警護だということを知っている人も多いと思います。ただし、いわゆる身辺警護だけではなく緊急通報サービスなどもこの4号警備に入ります。
これ以外にも、警備員が行うことが多い関連業務として、駐車違反を取り締まる駐車監視員や鉄道の工事現場などに立つ列車見張員などがあります。
第3章では日本の警備業の発展をたどっています。
1962年に日本船貨保全株式会社(現:大日警)と日本警備保障株式会社(現:セコム)が創業したことで日本の警備ビジネスは始まります。
60年代前半は、第一次産業の就業人口を第三次産業や第二次産業が抜いていくころで、雇用者が急速に増えていった時代でした。また、それに伴って都市部では昼間人口と夜間人口の差が目立つようになってきます。これは雇用者が郊外に住み都市部に通勤するようになったからですが、こうなると夜間の都市部を誰が守るのかという問題が出てきます。
このために「守衛」や「宿直」が配置されましたが、彼らは警備のプロではなく、防犯という観点からは大きな問題を抱えていました。
こうした状況を見て、セコムの創業者である飯田亮や戸田寿一はここにビジネスチャンスがあると考えたわけですが、当初は外部の人間を施設に入れるということに対する抵抗感は強く苦戦を強いられました。
しかし、64年の東京オリンピックでの選手村の警備を請け負ったことで、ビジネスは軌道に乗っていきます。
1965年、テレビドラマ『ザ・ガードマン』の放送が開始されます。このドラマは人気シリーズとなり6年以上続きますが、この「ガードマン」とは和製英語で外国では通用しません。
実は当初、『東京用心棒』というタイトルが用意されていたのですが、このタイトルを嫌って改題を提案したのが、モデルとなったセコムの飯田です(125p)。
当時の日本では「警備=用心棒=ヤクザ」のイメージが強く、飯田がセコムの創業を思いついたとき、父親から「幡随院長兵衛みたいなまねはやめろ」と反対されたそうです(129p)。
「ガードマン」という言葉によってマイナスイメージを払拭した警備業が、さらに伸びていくきっかけとなったのが永山事件です。
永山は4件の射殺事件を起こし逃亡を続けますが、その逮捕のきっけかは永山が東京の専門学校に侵入を試みたのをセコムの機械警備が捉えたからでした。この事件によって機械警備の有用性が世間に知られるようになり、のちのホームセキュリティなどにもつながっていきます。
しかし、警備業の急激な拡大は悪質な業者や警備員の増加も招きました。1972年に警備法が制定されるまで、警備業はほぼ自由に展開できたので、拾得物のネコババや、警察官を装っての交通違反の取り締まり、警備中に商品を盗むなどの犯罪に手を染める警備員も少なくはなかったのです。
また、警備員が労働争議や株主総会などに動員され、反対勢力で暴力で排除するようなことも行っていました。
70年代になると、警備業の問題が国会やマスコミでもとり上げられ警備法が成立します。この警備法は、第15条に「警備業者及び警備員は、警備業務を行うに当たつては、この法律により特別な権限を与えられたものではないことに留意するとともに、他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない」とあるように、警備業と警察の違いを強調し、警備業に規制をはめたものでした(150p)。
ただし、このとき監督官庁が警察庁・公安委員会となったことから警備業に警察OBなどが天下っていくことになります。
第4章では、高齢者と警備員の問題がとり上げられています。
近年、街中で目立つのが高齢の警備員です。実際、2016年の統計によると警備員の42.2%が60歳以上で、65歳以上も26.4%を占めています(160pの表4-1参照)。
そして、「高齢者が多い」=「ベテランが揃っている」というわけではありません。在職10年以上の警備員は23.1%である一方、在職3年未満の警備員が全体の38%を占めています(168p表4-2参照)。
つまり高齢の警備員であっても、多くは在職年数の短い者なのです。
この背景には年金受給年齢の引き上げと、年金支給額の少なさがあります。退職後も生活を支えるために働かねばならず、警備業がその受け皿となっているのです。
一方、高齢者の犯罪も増加しており、少年の犯罪と考えられていた万引きは、いまや高齢者の犯罪です(2012年に高齢者の割合が少年を抜いた(182-183pの図4-3参照))。
老人が老人から施設や商品を守る「老老警備」の時代になってきたとも言えるのです。
第5章は警備業をめぐるさまざまな格差について分析しています。
まず、警備会社大手の売上高を見ると、1位のセコムが3824億、2位の綜合警備保障(ALSOK)が2295億、3位のアサヒセキュリティが421億と、大手2社とその下の間では売上高の桁が一つ違います。しかもアサヒセキュリティは2015年にセコムの完全子会社となっており大手2社の存在感は圧倒的です(197p)。
しかし、一方では警備員が100人未満の会社が8419社、全体の89.2%を占め、警備員20人未満の会社で52.8%を占めます(200p)。
ちなみに警備員0人の警備会社も存在します。これはイベント会社や広告代理店がイベント運営のために警備業の認定を取得しているケースで、電通も警備業の認定を受けています(203p)。
次に給与ですが、所定内給与額を比べると全職種が30万4000円であるのに対して警備員は19万9200円(208p)、この所定内給与額にはボーナスが入っていませんので、ボーナスを入れるとさらに差が広がると考えられます。
また、警備員にはさまざまな資格があるものの、それに伴って給与が上がっていかいのも特徴です。施設警備業務検定1級または実務6年以上の警備員でも実務3年未満の警備員に比べて労務単価(日給)は2000円ちょっとしか変わりません(212-213p)。
さらに交通誘導員の労務単価は96年に10206円だったのが2005年には7833円にまで下がっています。いくらデフレだたとは言え、これは尋常ではない下がりかたです。
2005年に警備業法が改正され、検定合格警備員の配置が義務化されました。専門性を高めることによって給与の下落を抑えようとしたのです。
2012年からは交通誘導員の労務単価は急回復しますが、これは警備業法改正の影響ではなく、国土交通省が社会保険未加入の企業を入札に参加させない方針を打ち出したことが主原因と考えられます。
もともと警備業(特に交通警備)は寄せ場で人を集めるような形で行われていたこともあり、社会保険への加入率は低くとどまっていました、しかし、それでは仕事が取れないということで社会保険へ加入するようになり、その分労務単価が上がったのです。
しかし、給料の手取りが減るために社会保険への加入を嫌がる労働者もいます。
この章では最後に健康格差についても簡単に触れられています。
労働時間は2016年のデータで月平均の労働時間が全職種が177時間なのに対して、警備業は196時間。1ヶ月に50時間以上残業した人の割合もシステム・エンジニアを上回って第一です(234ー235p)。また、昼夜逆転の勤務スタイルも多く、それも健康に悪影響があると考えられます。
第6章では、人手不足の問題や警備員の「責任」をどう考えるのか? といった問題がとり上げられています。
特に2020年の東京オリンピックでは1万4000人の警備員が必要だとされていますが、これはコンパクト五輪をうたっていた時の数字で、実際にはさらに増えると考えられます。人手不足の中、これだけの人員を確保することは容易ではないのです。
このように警備ビジネスの過去・現在・未来を多角的に考察したのがこの本です。やった人でもない限り警備業の実態というのはあまり知らないと思うので、勉強になりますし、面白く読めます。
また、高齢警備員の問題など、現在の日本の社会問題をうまく切り取った部分もあり、高齢化の問題を考えたい人なども読んで得るものがあると思います。
警備ビジネスで読み解く日本 (光文社新書)
田中智仁
4334043607
そんな警備ビジネスですが、日本に警備会社が約9000社あり、警備員が約54万人いると聞くと(17p)、改めてその規模に驚く人も多いのではないでしょうか。
この本は、そんな警備ビジネスを、社会学者で過去に警備員として働いていたこともある著者が包括的に分析したものになります。
警備ビジネスの発展の歴史から、仕事の内容、従業員確保の問題、他業種との格差、警備ビジネスの未来まで、多角的な視点から論じており、面白く読めます。
目次は以下の通り。
第1章 警備業の基礎知識
第2章 守る・誘導する・運ぶ
第3章 高度経済成長期の申し子
第4章 高齢者が支える警備業
第5章 「規模」「給与」「健康」格差
第6章 警備員は絶滅する?
全国に9000社もありますし、求人誌などを見ると「誰でもなれる」イメージが強い警備員ですが、その事業は警備業法によって規定されており、会社の設立はもちろん、着用する制服についても都道府県の公安委員会への届け出が必要となります。
また、警備員になるには、禁錮以上の刑を受けてから5年以上経っている、破産者でない、暴力団関係者でないなどのいくつかの要件があり、30時間(4日間)の研修を受ける必要があります。しかも、現職の警備員も半年ごとに8時間の「現任教育」を受けなくてはなりません。
警備業をよく「警備保障」と言いますが、これは多くの警備会社が警備を行うだけでなく、被害が発生した場合に補償を提供するサービスを行っているからです。多くの警備会社は損害保険会社と提携し、保険の役割も果たしています。
第2章では、1号警備、2号警備、3号警備、4号警備という4つの警備のタイプが紹介されています。
まず1号警備ですが、これは施設警備になります。警備員がビルや商業施設などを警備するといったものです。ビルなどに関しては、そのビルに警備員が常駐する常駐警備と、いくつかのビルを巡回する巡回警備があります。当然、前者のほうがより厳重な警備が可能ですが、コストは当然かかります。このあたりは警備業のジレンマと言えるでしょう。
2号警備は不特定多数の車や人を誘導する警備です。工事現場の交通誘導やイベントでの雑踏警備などがこれに入ります。
3号警備は貴重品や危険物を運ぶ業務です。ATMへの現金の輸送と障害対応などが代表的なものですが、核燃料の運搬などもこれに入ります。
4号警備については、去年(2017年)にNHKで『4号警備』というドラマが放送されたので、4号警備が身辺警護だということを知っている人も多いと思います。ただし、いわゆる身辺警護だけではなく緊急通報サービスなどもこの4号警備に入ります。
これ以外にも、警備員が行うことが多い関連業務として、駐車違反を取り締まる駐車監視員や鉄道の工事現場などに立つ列車見張員などがあります。
第3章では日本の警備業の発展をたどっています。
1962年に日本船貨保全株式会社(現:大日警)と日本警備保障株式会社(現:セコム)が創業したことで日本の警備ビジネスは始まります。
60年代前半は、第一次産業の就業人口を第三次産業や第二次産業が抜いていくころで、雇用者が急速に増えていった時代でした。また、それに伴って都市部では昼間人口と夜間人口の差が目立つようになってきます。これは雇用者が郊外に住み都市部に通勤するようになったからですが、こうなると夜間の都市部を誰が守るのかという問題が出てきます。
このために「守衛」や「宿直」が配置されましたが、彼らは警備のプロではなく、防犯という観点からは大きな問題を抱えていました。
こうした状況を見て、セコムの創業者である飯田亮や戸田寿一はここにビジネスチャンスがあると考えたわけですが、当初は外部の人間を施設に入れるということに対する抵抗感は強く苦戦を強いられました。
しかし、64年の東京オリンピックでの選手村の警備を請け負ったことで、ビジネスは軌道に乗っていきます。
1965年、テレビドラマ『ザ・ガードマン』の放送が開始されます。このドラマは人気シリーズとなり6年以上続きますが、この「ガードマン」とは和製英語で外国では通用しません。
実は当初、『東京用心棒』というタイトルが用意されていたのですが、このタイトルを嫌って改題を提案したのが、モデルとなったセコムの飯田です(125p)。
当時の日本では「警備=用心棒=ヤクザ」のイメージが強く、飯田がセコムの創業を思いついたとき、父親から「幡随院長兵衛みたいなまねはやめろ」と反対されたそうです(129p)。
「ガードマン」という言葉によってマイナスイメージを払拭した警備業が、さらに伸びていくきっかけとなったのが永山事件です。
永山は4件の射殺事件を起こし逃亡を続けますが、その逮捕のきっけかは永山が東京の専門学校に侵入を試みたのをセコムの機械警備が捉えたからでした。この事件によって機械警備の有用性が世間に知られるようになり、のちのホームセキュリティなどにもつながっていきます。
しかし、警備業の急激な拡大は悪質な業者や警備員の増加も招きました。1972年に警備法が制定されるまで、警備業はほぼ自由に展開できたので、拾得物のネコババや、警察官を装っての交通違反の取り締まり、警備中に商品を盗むなどの犯罪に手を染める警備員も少なくはなかったのです。
また、警備員が労働争議や株主総会などに動員され、反対勢力で暴力で排除するようなことも行っていました。
70年代になると、警備業の問題が国会やマスコミでもとり上げられ警備法が成立します。この警備法は、第15条に「警備業者及び警備員は、警備業務を行うに当たつては、この法律により特別な権限を与えられたものではないことに留意するとともに、他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない」とあるように、警備業と警察の違いを強調し、警備業に規制をはめたものでした(150p)。
ただし、このとき監督官庁が警察庁・公安委員会となったことから警備業に警察OBなどが天下っていくことになります。
第4章では、高齢者と警備員の問題がとり上げられています。
近年、街中で目立つのが高齢の警備員です。実際、2016年の統計によると警備員の42.2%が60歳以上で、65歳以上も26.4%を占めています(160pの表4-1参照)。
そして、「高齢者が多い」=「ベテランが揃っている」というわけではありません。在職10年以上の警備員は23.1%である一方、在職3年未満の警備員が全体の38%を占めています(168p表4-2参照)。
つまり高齢の警備員であっても、多くは在職年数の短い者なのです。
この背景には年金受給年齢の引き上げと、年金支給額の少なさがあります。退職後も生活を支えるために働かねばならず、警備業がその受け皿となっているのです。
一方、高齢者の犯罪も増加しており、少年の犯罪と考えられていた万引きは、いまや高齢者の犯罪です(2012年に高齢者の割合が少年を抜いた(182-183pの図4-3参照))。
老人が老人から施設や商品を守る「老老警備」の時代になってきたとも言えるのです。
第5章は警備業をめぐるさまざまな格差について分析しています。
まず、警備会社大手の売上高を見ると、1位のセコムが3824億、2位の綜合警備保障(ALSOK)が2295億、3位のアサヒセキュリティが421億と、大手2社とその下の間では売上高の桁が一つ違います。しかもアサヒセキュリティは2015年にセコムの完全子会社となっており大手2社の存在感は圧倒的です(197p)。
しかし、一方では警備員が100人未満の会社が8419社、全体の89.2%を占め、警備員20人未満の会社で52.8%を占めます(200p)。
ちなみに警備員0人の警備会社も存在します。これはイベント会社や広告代理店がイベント運営のために警備業の認定を取得しているケースで、電通も警備業の認定を受けています(203p)。
次に給与ですが、所定内給与額を比べると全職種が30万4000円であるのに対して警備員は19万9200円(208p)、この所定内給与額にはボーナスが入っていませんので、ボーナスを入れるとさらに差が広がると考えられます。
また、警備員にはさまざまな資格があるものの、それに伴って給与が上がっていかいのも特徴です。施設警備業務検定1級または実務6年以上の警備員でも実務3年未満の警備員に比べて労務単価(日給)は2000円ちょっとしか変わりません(212-213p)。
さらに交通誘導員の労務単価は96年に10206円だったのが2005年には7833円にまで下がっています。いくらデフレだたとは言え、これは尋常ではない下がりかたです。
2005年に警備業法が改正され、検定合格警備員の配置が義務化されました。専門性を高めることによって給与の下落を抑えようとしたのです。
2012年からは交通誘導員の労務単価は急回復しますが、これは警備業法改正の影響ではなく、国土交通省が社会保険未加入の企業を入札に参加させない方針を打ち出したことが主原因と考えられます。
もともと警備業(特に交通警備)は寄せ場で人を集めるような形で行われていたこともあり、社会保険への加入率は低くとどまっていました、しかし、それでは仕事が取れないということで社会保険へ加入するようになり、その分労務単価が上がったのです。
しかし、給料の手取りが減るために社会保険への加入を嫌がる労働者もいます。
この章では最後に健康格差についても簡単に触れられています。
労働時間は2016年のデータで月平均の労働時間が全職種が177時間なのに対して、警備業は196時間。1ヶ月に50時間以上残業した人の割合もシステム・エンジニアを上回って第一です(234ー235p)。また、昼夜逆転の勤務スタイルも多く、それも健康に悪影響があると考えられます。
第6章では、人手不足の問題や警備員の「責任」をどう考えるのか? といった問題がとり上げられています。
特に2020年の東京オリンピックでは1万4000人の警備員が必要だとされていますが、これはコンパクト五輪をうたっていた時の数字で、実際にはさらに増えると考えられます。人手不足の中、これだけの人員を確保することは容易ではないのです。
このように警備ビジネスの過去・現在・未来を多角的に考察したのがこの本です。やった人でもない限り警備業の実態というのはあまり知らないと思うので、勉強になりますし、面白く読めます。
また、高齢警備員の問題など、現在の日本の社会問題をうまく切り取った部分もあり、高齢化の問題を考えたい人なども読んで得るものがあると思います。
警備ビジネスで読み解く日本 (光文社新書)
田中智仁
4334043607
- 2018年07月20日22:44
- yamasitayu
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岩波新書から『現代社会の理論』、『社会学入門』という名著を出している見田宗介によって、この2冊の続編的なかたちで書かれた本。
『現代社会の理論』は、その着眼点の鋭さやスケールの大きさなど、今まで読んできた新書の中でも屈指の本だと思います。そして、この『現代社会はどこに向かうか』はスケール感という点ではこれまた十二分なのですが、個人的には『現代社会の理論』でとり上げられてきた「情報化」の部分が後景に退いてしまって、少し残念な気がしました。
目次は以下の通り。
この本の書き出しは「現代社会は、人間の歴史の中の、巨大な曲がり角にある」(ip)という文章で始まっています。
多くの人は、いわゆる「近代」の終焉を語るのだろうと想像するかもしれませんが、著者が語るのはもっと大きなスケールの話です。ギリシャ哲学、仏教や儒教、古代ユダヤ教の誕生などから始まる時代(著者はこれをヤスパースにならって「軸の時代」と呼ぶ)が大きく変化しようとしているというのです。
二千数百年前に人類に大きな変化をもたらしたのは<貨幣>と<都市>でした。この貨幣経済と都市化が全面的に展開したのが「近代」です。
この「近代」が地球という有限性にぶち当たり、変革を迫られているというのが、著者の基本的な認識です。
著者がこのような認識を持つ根拠は、人々の意識の変容や人口増加の急ブレーキです。
NHK放送文化研究所の行っている「日本人の意識」調査を見ていくと、近年になるに連れて世代ごとの差はなくなってきています。70年代や80年代までは親子の世代間には大きな意識の差があったのですが、21世紀以降になってからは、その意識の差がほぼ消滅しています(5pの表2参照)。
また、60年代後半をピークに世界の人口増加率には急ブレーキがかかっています(9pの図4参照)。
この動きは生物学者の用いるロジスティック曲線の動きに似ています。例えば、孤立した森にその環境の適応する動物種を放すとはじめは少しずつ、途中からは急速に増殖していきます。そして、その森の環境容量の限界に達すると、増殖をやめ、安定平衡期に入ります。
人類は、地球環境という有限性にぶち当たったことで、「近代」という一回限りの爆発的な増殖期を終え、安定平衡期に入ったとも考えられるのです。
一章では、この変化を日本人の意識の変化に着目して示そうとしています。先ほどもあげたNHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査を詳しく見ることによってその変化の内実を明らかにしようとするのです。
具体的には2013年調査における20-29歳の青年層(80年代生まれが中心)と1973年調査いおける20-29歳の青年層(50年代生まれが中心)の間で、答えの変化が大きかった問に注目していきます。
まず変化が大きいのが家族に関する問です。73年の調査で40%が理想の家族としてあげていた父が働き母が家庭を守るという性別役割分担スタイルが、13年の調査では7%にまで減少しています(25pの表4参照)。他にも子どもが生まれても女性ははたらいたほうがよい、女の子も大学まで行かせたい、婚前交渉をしても構わない、といった項目が顕著に増えており、「近代家父長制家族」が解体してきたことがうかがえます。
一方、生活満足度は上昇し、政治活動への参加は減少、地域の問題についても波風を立てずに静観しようとする人が増えるなど、「保守化」の傾向も見て取れます。
また、あの世や来世、奇跡、お守りやお札などを信じる人は増えています。マックス・ウェーバーは近代を<合理化>の貫徹、<魔術からの解放>と捉えましたが、ここでは脱・脱魔術化というべき方向性が見えるのです(31p)。
著者は、これらの変化の背景に「経済成長課題の完了、これによる合理化圧力の解除、あるいは減圧」(37p)という背景を考えています。
さらにこの章の補論では、若者生活スタイルやファッションにおける変化をとり上げています。著者が大学で観測していた印象では、2004年か05年ころから最新のモードを追い求めることが流行らなくなっており、常に新しいものを求め続ける「近代」の脅迫が薄れてきたといいます。
二章では、日本だけではなくヨーロッパやアメリカにおける青年層の意識の変化を見ていきます。
ここで使われているのは1981年に始まった「ヨーロッパ価値調査」と、それをもとに拡大展開された「世界価値調査」です。その中の20〜24歳の青年層の変化に着目しています。
まず、ヨーロッパ諸国で共通するのが、「非常に幸福」と答える若者の割合の増大です。例えば、フランスでは81年に19%だったその割合が、86年29%、96年39%、08年49%と増加しています。また、「あまり幸福ではない」「全く幸福ではない」という答えも減少しており、両極分解が起こっているわけでもありません(57-59p)。
一方、アメリカに関しては、「非常に幸福」の割合が82年28%から99年には44%と増えたものの、06年36%、11年33%と減少しています。著者はこれを9.11テロの「テロ効果」と見ていますが、どうなんでしょう?
また、「脱物質主義」かも進んでおり、大切な価値観でも「寛容と他者の尊重」がほとんどの国で伸びています。
三章では、アマゾンの小さな部族ピーダハーン(ピダハン)の人たちと30年近く暮らした宣教師/言語学者のダニエル・エヴェレットの話が紹介されています。
エヴェレットは長年、ピーダハーンの人々と暮らした末にキリスト教を捨ててしまうのですが、著者はここに生きることの「意味」を「未来」に求める、ここ二千数百年の考えの転換を見ています。
ダニエル書は迫害の中で「未来」の救済を約束したものですが、今、人々はこれを乗り越えようとしているというのです。
四章は2008年の秋葉原連続殺傷事件の話から始まります。著者は1968年の永山則夫の事件と重ねて、永山の事件は「まなざしの地獄」であったが、08年の事件は「まなざしの不在の地獄」だったといいます。
秋葉原の事件の犯人は、誰からも必要とされない、注目されないことに耐えきれなくなったと考えられるからです。
そこから著者は話を進め、現代の問題は「現在の生のリアリティの直接の充実を手放したままで、このリアリティを補充する未来の<目的>を失ってしまう」(111p)ことだといいます。
五章は、序章でもとり上げられていたロジスティック曲線について。著者は人類が直面する環境の限界を指摘した上で、他の惑星への移住や資源採取、遺伝子組み換えや核エネルギーの使用という環境の成約を突破するための2つの方向性を検討し、いずれも難しいと結論づけています(ここでの検討は非常にあっさりしたもの)。
ただし、人類には価値観を変容させることによって、環境の成約とうまく折り合いをつけることもできるのです。
六章で著者はまず次のような見方を披露しています。
その上で、新しい幸福を次のように描写しています。
見田宗介(真木悠介))の本を読んできた者にとっては、ある程度予想できる結論ではあるのですが、『現代社会の理論』に見られた「情報化」によって持続可能な「消費社会」を構想するというアイディアは消えてしまって、「原子共同体への回帰」のような部分だけが残ってしまった感じです。
『現代社会の理論』は、地球環境の物質的な限界を、「消費社会」の否定ではなく、「情報の消費」という形で突破しようとしたところに著者ならでは思考のポイントがあったように思うのですが、この本では「消費」が否定的に捉えられてしまっています。
また、『社会学入門』において魅力的だった現代社会に対するミクロ的な分析もやや交代してしまった感じで、二章では若者の幸福感の変容がアンケートの抜粋という形で語られているのみです。
著者のスケールの大きな視野というものは健在で、最初にこの本を読めば面白く感じる人も多いとは思いますが、個人的には22年前の本であっても『現代社会の理論』のほうをお薦めしたいですね(このブログの前身のホームページでは10点をつけてました)。
現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと (岩波新書)
見田 宗介
4004317223
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)
見田 宗介
4004304652
『現代社会の理論』は、その着眼点の鋭さやスケールの大きさなど、今まで読んできた新書の中でも屈指の本だと思います。そして、この『現代社会はどこに向かうか』はスケール感という点ではこれまた十二分なのですが、個人的には『現代社会の理論』でとり上げられてきた「情報化」の部分が後景に退いてしまって、少し残念な気がしました。
目次は以下の通り。
序章 現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと
一章 脱高度成長期の精神変容――近代の矛盾の「解凍」
二章 ヨーロッパとアメリカの青年の変化
三章 ダニエルの問いの円環――歴史の二つの曲がり角
四章 生きるリアリティの解体と再生
五章 ロジスティック曲線について
六章 高原の見晴らしを切り開くこと
補章 世界を変える二つの方法
この本の書き出しは「現代社会は、人間の歴史の中の、巨大な曲がり角にある」(ip)という文章で始まっています。
多くの人は、いわゆる「近代」の終焉を語るのだろうと想像するかもしれませんが、著者が語るのはもっと大きなスケールの話です。ギリシャ哲学、仏教や儒教、古代ユダヤ教の誕生などから始まる時代(著者はこれをヤスパースにならって「軸の時代」と呼ぶ)が大きく変化しようとしているというのです。
二千数百年前に人類に大きな変化をもたらしたのは<貨幣>と<都市>でした。この貨幣経済と都市化が全面的に展開したのが「近代」です。
この「近代」が地球という有限性にぶち当たり、変革を迫られているというのが、著者の基本的な認識です。
著者がこのような認識を持つ根拠は、人々の意識の変容や人口増加の急ブレーキです。
NHK放送文化研究所の行っている「日本人の意識」調査を見ていくと、近年になるに連れて世代ごとの差はなくなってきています。70年代や80年代までは親子の世代間には大きな意識の差があったのですが、21世紀以降になってからは、その意識の差がほぼ消滅しています(5pの表2参照)。
また、60年代後半をピークに世界の人口増加率には急ブレーキがかかっています(9pの図4参照)。
この動きは生物学者の用いるロジスティック曲線の動きに似ています。例えば、孤立した森にその環境の適応する動物種を放すとはじめは少しずつ、途中からは急速に増殖していきます。そして、その森の環境容量の限界に達すると、増殖をやめ、安定平衡期に入ります。
人類は、地球環境という有限性にぶち当たったことで、「近代」という一回限りの爆発的な増殖期を終え、安定平衡期に入ったとも考えられるのです。
一章では、この変化を日本人の意識の変化に着目して示そうとしています。先ほどもあげたNHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査を詳しく見ることによってその変化の内実を明らかにしようとするのです。
具体的には2013年調査における20-29歳の青年層(80年代生まれが中心)と1973年調査いおける20-29歳の青年層(50年代生まれが中心)の間で、答えの変化が大きかった問に注目していきます。
まず変化が大きいのが家族に関する問です。73年の調査で40%が理想の家族としてあげていた父が働き母が家庭を守るという性別役割分担スタイルが、13年の調査では7%にまで減少しています(25pの表4参照)。他にも子どもが生まれても女性ははたらいたほうがよい、女の子も大学まで行かせたい、婚前交渉をしても構わない、といった項目が顕著に増えており、「近代家父長制家族」が解体してきたことがうかがえます。
一方、生活満足度は上昇し、政治活動への参加は減少、地域の問題についても波風を立てずに静観しようとする人が増えるなど、「保守化」の傾向も見て取れます。
また、あの世や来世、奇跡、お守りやお札などを信じる人は増えています。マックス・ウェーバーは近代を<合理化>の貫徹、<魔術からの解放>と捉えましたが、ここでは脱・脱魔術化というべき方向性が見えるのです(31p)。
著者は、これらの変化の背景に「経済成長課題の完了、これによる合理化圧力の解除、あるいは減圧」(37p)という背景を考えています。
さらにこの章の補論では、若者生活スタイルやファッションにおける変化をとり上げています。著者が大学で観測していた印象では、2004年か05年ころから最新のモードを追い求めることが流行らなくなっており、常に新しいものを求め続ける「近代」の脅迫が薄れてきたといいます。
二章では、日本だけではなくヨーロッパやアメリカにおける青年層の意識の変化を見ていきます。
ここで使われているのは1981年に始まった「ヨーロッパ価値調査」と、それをもとに拡大展開された「世界価値調査」です。その中の20〜24歳の青年層の変化に着目しています。
まず、ヨーロッパ諸国で共通するのが、「非常に幸福」と答える若者の割合の増大です。例えば、フランスでは81年に19%だったその割合が、86年29%、96年39%、08年49%と増加しています。また、「あまり幸福ではない」「全く幸福ではない」という答えも減少しており、両極分解が起こっているわけでもありません(57-59p)。
一方、アメリカに関しては、「非常に幸福」の割合が82年28%から99年には44%と増えたものの、06年36%、11年33%と減少しています。著者はこれを9.11テロの「テロ効果」と見ていますが、どうなんでしょう?
また、「脱物質主義」かも進んでおり、大切な価値観でも「寛容と他者の尊重」がほとんどの国で伸びています。
三章では、アマゾンの小さな部族ピーダハーン(ピダハン)の人たちと30年近く暮らした宣教師/言語学者のダニエル・エヴェレットの話が紹介されています。
エヴェレットは長年、ピーダハーンの人々と暮らした末にキリスト教を捨ててしまうのですが、著者はここに生きることの「意味」を「未来」に求める、ここ二千数百年の考えの転換を見ています。
ダニエル書は迫害の中で「未来」の救済を約束したものですが、今、人々はこれを乗り越えようとしているというのです。
四章は2008年の秋葉原連続殺傷事件の話から始まります。著者は1968年の永山則夫の事件と重ねて、永山の事件は「まなざしの地獄」であったが、08年の事件は「まなざしの不在の地獄」だったといいます。
秋葉原の事件の犯人は、誰からも必要とされない、注目されないことに耐えきれなくなったと考えられるからです。
そこから著者は話を進め、現代の問題は「現在の生のリアリティの直接の充実を手放したままで、このリアリティを補充する未来の<目的>を失ってしまう」(111p)ことだといいます。
五章は、序章でもとり上げられていたロジスティック曲線について。著者は人類が直面する環境の限界を指摘した上で、他の惑星への移住や資源採取、遺伝子組み換えや核エネルギーの使用という環境の成約を突破するための2つの方向性を検討し、いずれも難しいと結論づけています(ここでの検討は非常にあっさりしたもの)。
ただし、人類には価値観を変容させることによって、環境の成約とうまく折り合いをつけることもできるのです。
六章で著者はまず次のような見方を披露しています。
計算してみればわかることだが、日本を含む先進産業諸社会においては、まずすべての人びとに、幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分しても、なお多大な富の余裕は存在している。(129p)
その上で、新しい幸福を次のように描写しています。
経済競争の強迫から解放された人間は、アートと文学と学術の限りなく自由な展開を楽しむだろう。歌とデザインとスポーツと冒険とゲームを楽しむだろう。知らない世界やよく知っている世界の旅を楽しむだろう。友情を楽しむだろう。恋愛と再生産の日々新鮮な感動を享受するだろう。子どもたちとの交歓を楽しむだろう。動物たちや植物たちとの交感を楽しむだろう。太陽や風や海との交感を楽しむだろう。
ここに展望した多彩で豊穣な幸福はすべて、、どんな大規模な資源の搾取も、どんな大規模な地球環境の汚染も破壊も必要としないものである。つまり、永続する幸福である。(135p)
見田宗介(真木悠介))の本を読んできた者にとっては、ある程度予想できる結論ではあるのですが、『現代社会の理論』に見られた「情報化」によって持続可能な「消費社会」を構想するというアイディアは消えてしまって、「原子共同体への回帰」のような部分だけが残ってしまった感じです。
『現代社会の理論』は、地球環境の物質的な限界を、「消費社会」の否定ではなく、「情報の消費」という形で突破しようとしたところに著者ならでは思考のポイントがあったように思うのですが、この本では「消費」が否定的に捉えられてしまっています。
また、『社会学入門』において魅力的だった現代社会に対するミクロ的な分析もやや交代してしまった感じで、二章では若者の幸福感の変容がアンケートの抜粋という形で語られているのみです。
著者のスケールの大きな視野というものは健在で、最初にこの本を読めば面白く感じる人も多いとは思いますが、個人的には22年前の本であっても『現代社会の理論』のほうをお薦めしたいですね(このブログの前身のホームページでは10点をつけてました)。
現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと (岩波新書)
見田 宗介
4004317223
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)
見田 宗介
4004304652
- 2018年07月13日22:41
- yamasitayu
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17世紀のスペインで王付きの画家となり、後にゴヤに大きな影響を与え、マネに「画家たちの画家」と讃えられたベラスケスの評伝。ベラスケスの生涯を新しい史料などを使って当時の時代背景とともに再現しつつ、ベラスケスの作品の革新性を解説する構成になっています。
カラー口絵も充実していますし、ベラスケスの画業のほぼすべてをたどることができる内容です。
目次は以下の通り。
ベラスケスは1599年、スペインのセビーリャに生まれています。父も母も裕福な家の出身でしたが、平民の家柄で、だからこそ父はベラスケスに当時は職人とおなじような「卑しい」職業と考えられていた画家の道を歩ませたと考えられます。
ベラスケスは画家であり、また美術理論に関する本も著していたパチェーコのもとに弟子入りし、その才能が認められパチェーコの娘と結婚しています。
ベラスケスはパチェーコのもとで6年間修行し、1617年に職業画家の資格試験に合格しています。
ベラスケスは初期に《東方三博士の礼拝》、《パトモス島の福音書記者聖ヨハネ》、《無原罪のお宿り》といった宗教画を描いていますが、いずれも宗教画にしては世俗的に描かれています。
また、ボデゴンと呼ばれる厨房風俗画も描いていますが、いずれも人物が入っているのが特徴で、純粋な静物画はありません。
ベラスケスは「あいつは顔しか描けない」という批判に、「これまで本当に顔を描けた者がいるだろうか」と応じたといいますが(30p)、人物の顔へのこだわりはベラスケスの生涯を貫くものと言っていいでしょう。
1623年、24歳で国王フェリペ4世の肖像画を描くチャンスを得たベラスケスは、その絵が気に入られフェリペ4世に王付きの画家として召し抱えられることになります。
ベラスケスが召し抱えられる前は数名の画家がフェリペ4世の肖像画を描いていましたが、ベラスケスが召し抱えられて以降、ベラスケス以外でフェリペ4世の肖像画を描いたのはルーベンスのみであり、ベラスケスが肖像画家としていかに信頼されたかがわかります(39p)。
そして、王付き画家となる直前に、名作《セビーリャの水売り》が生まれています。素焼きの大きな瓶の存在感と滴り落ちそうな水滴、「卑俗」な光景ではありますが、著者は「この「卑俗さ」という言葉にこそベラスケス絵画の本質が宿るだろう」(46p)と述べています。
フェリペ4世は15歳でスペイン王となった人物で、機転が利き、聡明で教養がありましたが、意志薄弱という父のフェリペ3世譲りの欠点がありました。このため、政治には向いておらず、政治は寵臣のオリバーレスに任せることとなりましたが、学芸の保護者としては大きな役割を果たしました。
そのフェリペ4世のもとでベラスケスは私室取次係にも任じられ、宮廷官僚としての道も歩み始めます。ベラスケスは順調に出生していき、ついにはサンティアゴ騎士団の称号も手にするのですが、この宮廷官僚としての職務はベラスケスから画家としての時間を奪ったのも事実で、そのため今に伝わるベラスケスの作品は真作で120点ほどにとどまっています。
画家としての仕事もすべてが順風満帆というわけではなく、ベラスケスの描いたフェリペ4世の騎馬像がルーベンスの描いたものに差し替えられるという屈辱も味わっています。
著者が言うようにこれを「ルーベンスとの確執」(63p)と表現すべきなのかどうかはわかりませんが、この後、ベラスケスはルーベンスの神話画を意識した《バッコスの勝利》を仕上げています。
神話を題材にしながら、ボデゴンでもあり、庶民の群像画でもあるこの作品は、ジャンル間の壁を壊していったベラスケスならでは作品といえるでしょう。
1629年から1631年までの1年半ほど、ベラスケスはイタリアへと遊学します。ベラスケスはパルマの大使に「情報収集者で、その職務は本当はスパイである」(75p)と書かれたように、一種の外交使節のような扱いを受けていましたし、また、絵画の買い付けの職務も任されていました。
ベラスケスは1年近くローマに滞在し、イタリアの画家の作品を学ぶとともに、メディチ家の別荘にも滞在し、さまざまな人と交流したと考えられています(著者は同時期にメディチ家の別荘に滞在していたガリレオとの出会いを想像している(85ー87p)。
帰国してからベラスケスは、離宮ブエン・レティーロの新造営、トーレ・デ・ラ・パラーダ(狩猟休憩塔)の装飾事業に取り組みます。1630年代は「スペイン王家にとっては最後の、かろうじて幸福と思える一時代」(106p)でした。
ブエン・レティーロには800点の絵画が国内外からかき集められ、もちろん、ベラスケスの作品も飾られました。
そのレティーロの「諸王国のサロン」を飾った一枚がベラスケスの《ブレダ開城》でした。三十年戦争におけるフェリペ4世の輝かしい勝利を描いたこの作品は、和解の精神を示したものであり、また、背景にはイタリア留学を経て風景画家としても腕を上げたベラスケスの技術が見られます。
さらにこのレティーロにおいて注目すべきなのが「道化の間」と、そこに飾られたと思われるベラスケスの道化たちの肖像画です。
当時、王族たちの娯楽や慰めのために宮殿に道化や矮人が仕えていましたは、ベラスケスは彼らの肖像画を描きました。無背景に黒服で立ち、のちのマネの《笛吹き》などに大きな影響を与えた、《パブロ・デ・バリャドリード》を筆頭に、これらの肖像画は彼らの存在感や尊厳を描き出しており、既存の秩序に左右されることなく人物や事物を描いたベラスケスの一つの到達点と言えるでしょう。
1640年代になると、スペインの栄光は次第に失われていきます。1643年、フェリペ4世は寵臣オリバーレスを追放することを決断しますが、これはオリバーレスの大スペイン王国構想が破綻したからでした。
1640年にはカタルーニャとポルトガルで反乱が起き、43年にはフランスに大きな敗北を喫します。1648年に三十年戦争が集結するものの、オランダの独立が決まり、さらに王室内でも44年に王妃イザベルが亡くなり、46年には王太子バルタサール・カルロスが亡くなるのです。
オリバーレスが失脚した後も、ベラスケスは王の信任を得て、宮廷官僚として出世していきましたが、その職務と王室経済の窮状は、ベラスケスの創作活動を妨げたと考えられます。
そんな中、1648年にベラスケスはフェリペ4世の再婚相手マリアナ・デ・アウストリアを迎えに行く使節とともにスペインを出発し、2度目のイタリア遊学へ向かいます。
この遊学でベラスケスはフェリペ4世から美術品蒐集の任務を托されており、忙しく働いたと考えられています。
この中で描かれたのが、肖像画の傑作とされる《教皇インノケンティウス10世》でした。著者はこの作品について「画面は醜男で知られたこの猊下の容貌を一瞬にしてとらえており、激しい猜疑心と嫉妬、強い現世欲、また聖務への不撓不屈の情熱など、およそ教皇らしからぬ複雑で屈折したモデルの全人格が余すところなく暴かれている」(181p)と評しています。
ベラスケスはフェリペ4世からの再三の帰国命令を無視する形で一年以上滞在を引き伸ばすのですが、近年、イタリア女性との間に庶子をもうけていたことが明らかになりました。著者はベラスケスが子供の誕生をもってイタリアを立ったのではないかと想像をはたらかせています。
イタリアから帰国したベラスケスは王宮配室係、同配室長へと出世しいきます。創作のペースは鈍りますが、そんな中で描かれたのが代表作の《ラス・メニーナス》です。
「フェリペ4世の家族」と記録されたこの作品は、ベラスケスの建築家的な素養が十分に生かされた空間構成、人物の視線や鏡を使った物語的な深みなど、さまざまな魅力に溢れた作品で、著者は「いわゆる表象芸術の頂点」にして「この作品を分水嶺に、古典的絵画の解体が始まろうとしている」と評しています(221p)。
また、この時期には《織女たち》(《アラクネの寓意》)という傑作も描かれています。
晩年、ベラスケスはサンティアゴ騎士団への入団が認められ貴族に列せられます。本来、入団には軍人で貴族であること、正統なカトリックであること、父母などの家が商人や両替商、卑しい手仕事をしていないことが必要でした。しかし、前述のように、ベラスケスの家系は平民の出で、商業に関わる仕事をしていました。こうしたハードルをベラスケスは国王の後押しもあってクリアーしたと考えられます。
さらに著者はベラスケスの父の家系がポルトガル系の改宗ユダヤ教徒ではなかったか?と推理しています。
この改宗ユダヤ教徒をコンベルソといいますが、この時期のヨーロッパでは、コンベルソの血を汲むスピノザ、モンテーニュといった知識人が活躍しています。著者はベラスケスいもその可能性があり、それがベラスケスの出自への沈黙や、私的な書簡や芸術論を残さなかったことにつながっているんではないかというのです。
この本に書かれている手がかりだけでは、そう断じることはできないと思いますが、興味深い見方だと思います。
1660年、ベラスケスは亡くなります。フェリペ4世の娘マリア・テレサとルイ14世の結婚のために忙しく働いたことによる過労による突然死と考えられます。
先程も述べたようにベラスケスは自らの芸術論などを一切残さなかったのですが、この本は作品と時代背景の読み解いていくことで、ベラスケスの芸術について迫ろうとしています。ベラスケスの人物に関しては、まだ謎も残った感じがありますが、彼の作品とその背景に関しては詳細な読み解きがなされていると思います。
カラー口絵も8pにわたっており、主要作品がカラーで見ることができますし、ベラスケス作品の魅力が楽しめる本になっていると言えるのではないでしょうか。
ベラスケス 宮廷のなかの革命者 (岩波新書)
大高 保二郎
4004317215
カラー口絵も充実していますし、ベラスケスの画業のほぼすべてをたどることができる内容です。
目次は以下の通り。
1 画家の誕生―聖・俗の大都市セビーリャとボデゴン
2 「絵筆をもって王に仕える」―フェリペ四世の肖像から"バッコスの勝利"へ
3 ローマでの出会い―ヴィラ・メディチと古代への感興
4 絵画装飾の総監督―"ブレダ開城"をピークに
5 ふたたびイタリアへ―"教皇インノケンティウス一〇世"から"鏡のヴィーナス"へ
6 封印された野望―晩年の日々と"ラス・メニーナス"
終章 晩年の活動と近現代への遺産
ベラスケスは1599年、スペインのセビーリャに生まれています。父も母も裕福な家の出身でしたが、平民の家柄で、だからこそ父はベラスケスに当時は職人とおなじような「卑しい」職業と考えられていた画家の道を歩ませたと考えられます。
ベラスケスは画家であり、また美術理論に関する本も著していたパチェーコのもとに弟子入りし、その才能が認められパチェーコの娘と結婚しています。
ベラスケスはパチェーコのもとで6年間修行し、1617年に職業画家の資格試験に合格しています。
ベラスケスは初期に《東方三博士の礼拝》、《パトモス島の福音書記者聖ヨハネ》、《無原罪のお宿り》といった宗教画を描いていますが、いずれも宗教画にしては世俗的に描かれています。
また、ボデゴンと呼ばれる厨房風俗画も描いていますが、いずれも人物が入っているのが特徴で、純粋な静物画はありません。
ベラスケスは「あいつは顔しか描けない」という批判に、「これまで本当に顔を描けた者がいるだろうか」と応じたといいますが(30p)、人物の顔へのこだわりはベラスケスの生涯を貫くものと言っていいでしょう。
1623年、24歳で国王フェリペ4世の肖像画を描くチャンスを得たベラスケスは、その絵が気に入られフェリペ4世に王付きの画家として召し抱えられることになります。
ベラスケスが召し抱えられる前は数名の画家がフェリペ4世の肖像画を描いていましたが、ベラスケスが召し抱えられて以降、ベラスケス以外でフェリペ4世の肖像画を描いたのはルーベンスのみであり、ベラスケスが肖像画家としていかに信頼されたかがわかります(39p)。
そして、王付き画家となる直前に、名作《セビーリャの水売り》が生まれています。素焼きの大きな瓶の存在感と滴り落ちそうな水滴、「卑俗」な光景ではありますが、著者は「この「卑俗さ」という言葉にこそベラスケス絵画の本質が宿るだろう」(46p)と述べています。
フェリペ4世は15歳でスペイン王となった人物で、機転が利き、聡明で教養がありましたが、意志薄弱という父のフェリペ3世譲りの欠点がありました。このため、政治には向いておらず、政治は寵臣のオリバーレスに任せることとなりましたが、学芸の保護者としては大きな役割を果たしました。
そのフェリペ4世のもとでベラスケスは私室取次係にも任じられ、宮廷官僚としての道も歩み始めます。ベラスケスは順調に出生していき、ついにはサンティアゴ騎士団の称号も手にするのですが、この宮廷官僚としての職務はベラスケスから画家としての時間を奪ったのも事実で、そのため今に伝わるベラスケスの作品は真作で120点ほどにとどまっています。
画家としての仕事もすべてが順風満帆というわけではなく、ベラスケスの描いたフェリペ4世の騎馬像がルーベンスの描いたものに差し替えられるという屈辱も味わっています。
著者が言うようにこれを「ルーベンスとの確執」(63p)と表現すべきなのかどうかはわかりませんが、この後、ベラスケスはルーベンスの神話画を意識した《バッコスの勝利》を仕上げています。
神話を題材にしながら、ボデゴンでもあり、庶民の群像画でもあるこの作品は、ジャンル間の壁を壊していったベラスケスならでは作品といえるでしょう。
1629年から1631年までの1年半ほど、ベラスケスはイタリアへと遊学します。ベラスケスはパルマの大使に「情報収集者で、その職務は本当はスパイである」(75p)と書かれたように、一種の外交使節のような扱いを受けていましたし、また、絵画の買い付けの職務も任されていました。
ベラスケスは1年近くローマに滞在し、イタリアの画家の作品を学ぶとともに、メディチ家の別荘にも滞在し、さまざまな人と交流したと考えられています(著者は同時期にメディチ家の別荘に滞在していたガリレオとの出会いを想像している(85ー87p)。
帰国してからベラスケスは、離宮ブエン・レティーロの新造営、トーレ・デ・ラ・パラーダ(狩猟休憩塔)の装飾事業に取り組みます。1630年代は「スペイン王家にとっては最後の、かろうじて幸福と思える一時代」(106p)でした。
ブエン・レティーロには800点の絵画が国内外からかき集められ、もちろん、ベラスケスの作品も飾られました。
そのレティーロの「諸王国のサロン」を飾った一枚がベラスケスの《ブレダ開城》でした。三十年戦争におけるフェリペ4世の輝かしい勝利を描いたこの作品は、和解の精神を示したものであり、また、背景にはイタリア留学を経て風景画家としても腕を上げたベラスケスの技術が見られます。
さらにこのレティーロにおいて注目すべきなのが「道化の間」と、そこに飾られたと思われるベラスケスの道化たちの肖像画です。
当時、王族たちの娯楽や慰めのために宮殿に道化や矮人が仕えていましたは、ベラスケスは彼らの肖像画を描きました。無背景に黒服で立ち、のちのマネの《笛吹き》などに大きな影響を与えた、《パブロ・デ・バリャドリード》を筆頭に、これらの肖像画は彼らの存在感や尊厳を描き出しており、既存の秩序に左右されることなく人物や事物を描いたベラスケスの一つの到達点と言えるでしょう。
1640年代になると、スペインの栄光は次第に失われていきます。1643年、フェリペ4世は寵臣オリバーレスを追放することを決断しますが、これはオリバーレスの大スペイン王国構想が破綻したからでした。
1640年にはカタルーニャとポルトガルで反乱が起き、43年にはフランスに大きな敗北を喫します。1648年に三十年戦争が集結するものの、オランダの独立が決まり、さらに王室内でも44年に王妃イザベルが亡くなり、46年には王太子バルタサール・カルロスが亡くなるのです。
オリバーレスが失脚した後も、ベラスケスは王の信任を得て、宮廷官僚として出世していきましたが、その職務と王室経済の窮状は、ベラスケスの創作活動を妨げたと考えられます。
そんな中、1648年にベラスケスはフェリペ4世の再婚相手マリアナ・デ・アウストリアを迎えに行く使節とともにスペインを出発し、2度目のイタリア遊学へ向かいます。
この遊学でベラスケスはフェリペ4世から美術品蒐集の任務を托されており、忙しく働いたと考えられています。
この中で描かれたのが、肖像画の傑作とされる《教皇インノケンティウス10世》でした。著者はこの作品について「画面は醜男で知られたこの猊下の容貌を一瞬にしてとらえており、激しい猜疑心と嫉妬、強い現世欲、また聖務への不撓不屈の情熱など、およそ教皇らしからぬ複雑で屈折したモデルの全人格が余すところなく暴かれている」(181p)と評しています。
ベラスケスはフェリペ4世からの再三の帰国命令を無視する形で一年以上滞在を引き伸ばすのですが、近年、イタリア女性との間に庶子をもうけていたことが明らかになりました。著者はベラスケスが子供の誕生をもってイタリアを立ったのではないかと想像をはたらかせています。
イタリアから帰国したベラスケスは王宮配室係、同配室長へと出世しいきます。創作のペースは鈍りますが、そんな中で描かれたのが代表作の《ラス・メニーナス》です。
「フェリペ4世の家族」と記録されたこの作品は、ベラスケスの建築家的な素養が十分に生かされた空間構成、人物の視線や鏡を使った物語的な深みなど、さまざまな魅力に溢れた作品で、著者は「いわゆる表象芸術の頂点」にして「この作品を分水嶺に、古典的絵画の解体が始まろうとしている」と評しています(221p)。
また、この時期には《織女たち》(《アラクネの寓意》)という傑作も描かれています。
晩年、ベラスケスはサンティアゴ騎士団への入団が認められ貴族に列せられます。本来、入団には軍人で貴族であること、正統なカトリックであること、父母などの家が商人や両替商、卑しい手仕事をしていないことが必要でした。しかし、前述のように、ベラスケスの家系は平民の出で、商業に関わる仕事をしていました。こうしたハードルをベラスケスは国王の後押しもあってクリアーしたと考えられます。
さらに著者はベラスケスの父の家系がポルトガル系の改宗ユダヤ教徒ではなかったか?と推理しています。
この改宗ユダヤ教徒をコンベルソといいますが、この時期のヨーロッパでは、コンベルソの血を汲むスピノザ、モンテーニュといった知識人が活躍しています。著者はベラスケスいもその可能性があり、それがベラスケスの出自への沈黙や、私的な書簡や芸術論を残さなかったことにつながっているんではないかというのです。
この本に書かれている手がかりだけでは、そう断じることはできないと思いますが、興味深い見方だと思います。
1660年、ベラスケスは亡くなります。フェリペ4世の娘マリア・テレサとルイ14世の結婚のために忙しく働いたことによる過労による突然死と考えられます。
先程も述べたようにベラスケスは自らの芸術論などを一切残さなかったのですが、この本は作品と時代背景の読み解いていくことで、ベラスケスの芸術について迫ろうとしています。ベラスケスの人物に関しては、まだ謎も残った感じがありますが、彼の作品とその背景に関しては詳細な読み解きがなされていると思います。
カラー口絵も8pにわたっており、主要作品がカラーで見ることができますし、ベラスケス作品の魅力が楽しめる本になっていると言えるのではないでしょうか。
ベラスケス 宮廷のなかの革命者 (岩波新書)
大高 保二郎
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- 2018年07月08日22:34
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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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