2024年11月
日本の長期停滞の犠牲となったとされる就職氷河期世代、この世代の苦境については新聞や書籍、Webメディアなどでもたびたびとり上げられてきました。また、少子化やニート、ひきこもりなどの問題もこの世代と重ね合わされながら論じられてきたこととも多かったと思います。
では、データで見るとどうなのか? というのを明らかにしたのが本書です。
就職氷河期世代が前のバブル世代(87〜92年卒)に比べると経済的に恵まれていないという想定通りのデータもありますが、就職氷河期前期世代(93〜98年卒)よりも就職氷河期後期世代(99〜04年卒)の状況が悪く、さらにそこから回復したとされるポスト氷河期世代(05〜09年卒)、リーマン震災世代(10〜13年卒)も実は就職氷河期前期世代よりも悪いくらいだったと追うことが見えてきます。
また、就職氷河期後期世代の女性が、実はその前の世代よりも多くの子どもを産んでいたというのも意外なデータかもしれません。
印象とは違った就職氷河期世代の実態が見えてくる本でもあります。
目次は以下の通り。
序章 就職氷河期世代とは第1章 労働市場における立ち位置第2章 氷河期世代の家族形成第3章 女性の働き方はどう変わったか第4章 世代内格差や無業者は増加したのか第5章 地域による影響の違いと地域間移動終章 セーフティネット拡充と雇用政策の必要性
まず、「就職氷河期」という名前がついているように、この世代は新卒での就職が難しかった世代です。バブル世代の「超売り手市場」から一変して、大学卒業者の就職率は低下していき00年代前半は特に厳しい状況になります。その後、05年ごろから回復しますが、リーマンショックでもう一度低下します。(7p図序−1参照)。
本書では、就職氷河期世代を前期(93〜98年卒)とより後期(99〜04年卒)に分けていますが、これは前期が急激な就職率の悪化を経験したとしても、全体的な就職率はポスト氷河期世代とそれほど変わらないからでもあります。
大卒で初職が正規だった割合はバブル世代91.5%、氷河期前期89.1%。氷河期後期84.2%、ポスト氷河期87.2%、リーマン震災世代83.7%で、氷河期前期よりもポスト氷河期が悪く、さらにリーマン震災世代がもっとも悪い数字となっています(26p表1−1参照)。
ただし、最初の勤め先が従業員300人以上の大企業だった割合は、大卒で見ると、バブル世代60.6%に対して氷河期前期が49.8%、氷河期後期が40.6%。氷河期に入ると大企業の門がぐっと狭くなったことがわかります(30p表1−3参照)。
年収の推移を見ると、バブル世代は他の世代に比べて明らかに高いわけですが、他の世代は団子といった形になっています。氷河期世代前期の高卒では勤続15年くらいになるとバブル世代に接近しているのですが、他の世代や大卒に関しては勤続年数が増えてもバブル世代との差は縮まりません。また、新卒市場が好転したとされるポスト氷河期でも、年収は低いままで、氷河期前期を下回る形で推移しています(38p図1−3参照)。
労働経済学では若いときに何らかのショックを受けたことの影響がその後の雇用や賃金にも長く影響する「瑕疵効果(Scarring efect)と呼ばれる現象が知られています。
これを聞くと、「新卒時に不景気だった氷河期世代がまさにそれだ!」と言いたくなります。実際、90年代後半から日本では卒業前年に景気が悪いとその世代は長期的に賃金が低く、卒業後数年間の離職率が高くなるという現象が知られてきました。
ただし、就職氷河期以降のデータではこの瑕疵効果は確認できなくなってきているといいます。ポスト氷河期世代のとき日本の失業率は下がっていましたが、その後の賃金には氷河期後期との差が確認できないのです。労働市場の流動性の高まりなどもあって瑕疵効果は弱まっていると考えられます。
第2章では氷河期世代の家族形成について分析されています。一般的に若年雇用の悪化が未婚化や少子化の原因になっていると言われますが、実際はどうなのかというわけです。
もちろん、個々のケースを見れば「非正規だっから、収入が少なかったから結婚に踏み切れなかった、二人目を産めなかった」というケースはあるのでしょうが、本書の分析によれば、世代全体では若年期の雇用状況が悪かった世代ほど未婚率が高いわけでも、子どもの数が少ないわけでもないといいます。
女性が35歳、40歳までに生んだ子どもの数を見ていくと、40歳時点の出生数は70年代前半が底でそこから緩やかに回復してますし、35歳時点の出生数は70年代後半が底で底から緩やかに回復しています。また、そもそも出生数の低下はバブル世代のときに著しく進行しています(55p図2−1参照)。
著者は推測だとしながらも、育児休暇の普及や育児休業給付金の拡充、社会規範の変化によって出産後も女性が仕事を続けられるようになった効果が働いているのではないかと考えています。
この問題は男性側からも検証する必要があるのですが、実は既婚率の推移については自己申告の「国勢調査」では下げ止まっているものの、婚姻届に基づく「人口動態調査」では下がり続けています(59p図2−2参照)。これは国勢調査には事実婚が含まれていると考えられ、その違いではないかと著者は推測しています。
夫婦の平均子供数について妻の生年別に見ると、36〜40歳の時点では65〜69年生まれの世代に対して後続の世代が少ないのですが、41〜45歳を見ると、65〜69年生まれが1.89に対し、70〜74年生まれは1.78と減少するものの、75〜79年生まれは1.92と増えています(60p表2−1参照)。ここからも不景気の中で出生数はやや増えたことがわかります。
ただし、特に男性では初職が非正規だと将来結婚する確率が下がり、子供の数も少なくなります。一方、女性は若い頃は初職が非正規のほうが子どもの数が多いのですが、30代後半になると初職が正規に逆転されます(64p図2−3参照)。
また、有配偶率についても、以前は大卒の女性の方が高卒の女性よりも結婚や出産をしない傾向がありましたが、氷河期世代後期あたりでこの傾向は逆転しているといいます。
雇用状況と出生率の関係について都道府県別のデータを見ると、2000年代以降、雇用上場が悪くなると翌年の出生数が低くなるという関係が見られるようになっています。
これは世帯所得の減少という負の効果が、女性の雇用機会が減ることで子育ての時間的なコストが下がり出生率が上がる代替効果を上回るようになったからだと考えられます。
本章の最後では、2010年代後半になって再び出生率が低下していることに注意を向けています。この時期の景気は回復傾向にあり、大卒の雇用状況もかなり良くなっていましたが、それにもかかわらず出生数は減っているわけです(コロナ前からこの傾向はあった)。
第3章は女性の働き方についてです。
まず、初職が正規だった割合はどの世代を見ても男性よりも低いのですが、特に氷河期前期、後期は男女の差が大きくなっており、女性の就職に大きな影響があったことがうかがえます。一方、ポスト氷河期以降になると、女性の回復のほうが大きいです(83p図3−1参照)。
この時期は女性の高学歴化が進んだ時期でもあります。70年生まれでは4年生大学・大学院卒の割合は男性36%に対して女性は17%でしたが、85年生まれになると男性44%、女性33%とその差が縮まっています。
本来ならば女性の高学歴化は女性の正規雇用率を押し上げるはずですが、そうはならなかったくらい就職氷河期のマイナスの影響は大きかったのです。
その後の就業率を見ると、どの世代も右肩下がりなのですが、バブル世代に比べると後続世代になればなるほどその下がり方は緩やかになります(87p図3−2参照)。ただし、正規雇用率の下がり方は、ポスト氷河期とリーマン震災世代の大卒を除けば、どの世代も同じよう割合に収斂しています(88p図3−3参照)。
年収の推移と見るとどの年代も卒業後5年位でピークとなり下がっていく傾向にあります。これは結婚や出産を機に仕事をやめたりパートタイムに移行する人が多いからですが、それもあって男性のような年収の世代差は見られません(90p図3−4参照)。
ところが、フルタイム雇用者だけを取り出すと、男性と同じようにバブル世代に比べて後続世代の収入が低い状態が続いており、ポスト氷河期世代の収入も氷河期前期以下となっています(92p図3−5参照)。
男女間の格差をると、フルタイム雇用で卒業7〜9年で見た場合、高卒の男女格差はここ25年近くほとんど変わっておらず、女性の賃金は男性よりも25〜30%ほど低い状況です。一方、大卒を見ると、縮小していた格差が氷河期後期で拡大し、その後やや縮まり、大体男性よりも20%前後低い状態となっています(94p図3−6参照)。
就業率、正規雇用率の男女格差は縮小傾向にありますが、これには晩婚化・晩産化の影響が働いているとも考えられます、著者の分析によれば、バブル世代〜氷河期前期の男女格差の縮小には晩婚化・晩産化の影響があるとみられますが、その後の世代については、結婚・出産後も正規で働き人が増えた影響も大きいとみられます。
「出生動向調査」によると、第一子誕生後も働き続ける女性は、85〜09年までは40%前後でしたが、10〜14年には53%と急上昇しています。出産後も働きやすい環境ができたことで働き続けられるようになり、また第2章の指摘にあるように子供の数が増加した可能性があります。
第4章は世代内格差やニートやひきこもりの問題が分析されています。
まず、大卒男性の5年目、10年目の年収を見ると、バブル世代に比べて500万円以上、400−499万円の割合は後続する氷河期前期・後期世代で減っています。10年目を見るとポスト氷河期では400万円以上の層が増えてくるのですが、299万円以下の層が減っていないのも特徴で(氷河期前期よりも多い)、世代内格差の拡大を示しています。また、この傾向は高卒でも似たような傾向となっています(110p図4−1参照)。
男性フルタイム雇用者の上位10%と下位10%の推移を見ると、上位層が横ばいなのに対して下位層が増加傾向であり、ここからも年収の低い人の年収がさらに低迷することで格差が拡大したことがわかります(116p図4−3参照)。
バブル世代に比べると氷河期世代など以降の世代は無業者や非正規雇用が多いわけですが、卒業後15年くらいになると差がなくなってきます。
ニートの割合を見ると、基本的に若い世代のほうが高く(ただし高いと言っても大卒男性では高くても1%台前半で、高卒男性ではポスト氷河期世代の1〜5年目の7%台)、だんだん減っていっていますが、同じ人がニートであり続けているのか入れ替わっているのかはわかりません(120p図4−4参照)。また、女性のニートの割合は低いですが、これにはいわゆる「家事手伝い」に含まれているからと考えられます。
ひきこもりや孤立無業者についても若い世代ほど増えています。就職氷河期以降も増え続けているために一概に就職状況とは結びつけられませんが、氷河期以降、「下」が拡大する価値で格差が拡大しているのは憂慮すべきことです。
第5章では地域ごとの違いについて分析しています。
地域ごとに違いを見ていくと対照的なのが近畿地方と東海地方です。87年頃から近畿地方の失業率は東海地方よりも1%ポイントたかい程度で推移していましたが、00年代初頭には2%ポイント程度まで開きます(135p図5−1参照)。
この結果、バブル世代と氷河期世代の間の格差も近畿地方では他の地域よりも大きく、東海地方は小さくなっています。ただ、女性だと男性ほどはっきりはしないそうです。
また、フルタイム雇用者における首都圏、近畿圏、東海とそれ以外の地域の差を見ると、氷河期世代でその格差が広がっています。特に首都圏とその他の地域では差が目立ちますが、これは大企業の給与が硬直的で下がりにくなったと考えられます。
雇用状況に差が出るとなると雇用状況の良い地域への移動も起きそうですが、特に就職氷河期になって移動が増えたという傾向は見られないそうです。
それでは大学入学時の移動はどうかというと、他都道府県進学率は高まっていますが、これは大学進学率が上昇したためで、それほど地域間の移動が活発になったわけではありません(143p図5−3参照)。
そこで大学進学者に占める他地域進学者の割合を見ると、男子も女子も低下傾向にあります。また、男子を見ると90年代後半にガクッと下がっているところがあり、これは親の経済状況の悪化と考えられます。また、2000年代半ばの景気回復期になっても他地域進学者の割合は回復していません(145p図5−4参照)。親の懐はそれほど回復しなかったかもしれません。
終章では、これからの展望が述べられています。
氷河期世代に向けた対策はいくつか行われてきており、職業訓練なども行われてきました。ただし、氷河期世代は50代に差し掛かっており、必要な対策は職業訓練ではなく低年金などに備えた政策も必要ではないかと著者は述べています。
また、生活保護という最後のセーフティネットはありますが、その手前で困窮者を支えるような仕組みも必要だと指摘しています。
このように本書はデータを使って就職氷河期世代と後続の世代の実態を明らかにしています。
だいたい思っていた通りのことがデータで裏付けられている部分もありますし、意外なデータもあります。個人的には、ポスト氷河期世代の所得の低迷ぶりはやや意外で、一度下がった給与水準の回復しにくさというものを感じました。
他にも、さまざまな部分で発見のある本で、人によって「そうだったのか!」と思う部分が色々とあると思います。また、データの見方なども非常に参考になり、データや統計の見方を教えてくれる内容にもなっています。
- 2024年11月24日23:12
- yamasitayu
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副題は「三度の戦争からEUの中核へ」。この副題の通り19世紀後半以降に三度も戦火を交えたドイツとフランスの両国がいかにして欧州統合を引っ張るタッグにまでなったかを辿った本になります。
本書を読むと、それぞれの国の思惑と政治家の個性が独仏関係の改善とヨーロッパの統合を車の両輪のような形で進めていったことがわかります。
ただし、本書の企画が立ち上がったのが2014年ということなので、直後に書き上がっていれば一種のサクセスストーリーとして完結したのでしょうが、今だとそうはいきません。当然、EUの危機やロシアのウクライナ侵攻を踏まえたものにならざるを得ないわけで(クリミアの独立やドンバスでの戦いは2014年にすでに始まっていましたが)、本書の後半にはそうした苦みも混じっています。そして、その苦みも本書の読みどころだと思います。
目次は以下の通り。
序章 憎しみ合う双子―敵対関係の成立第1章 先祖代々の宿敵へ―二つの大戦にかけての対立第2章 第二次世界大戦からの再出発とその限界―冷戦からドイツ分断へ第3章 関係改善と安定化へ向かって―シューマン・プランとヨーロッパへの埋め込み第4章 エリゼ条約の成立―ド・ゴール、アデナウアーと友好の制度化第5章 独仏コンビの時代―七〇年代から八〇年代にかけての「枢軸」化第6章 新しいヨーロッパを求めて―統一ドイツの登場と冷戦後の模索第7章 メルケルの時代と変わる「ヨーロッパ」―ユーロ危機からウクライナ戦争へ終章 ウクライナ戦争勃発後の独仏関係と未来への展望
独仏の対立はいつからあったのか?
この問題を、それこそブルボン家とハプスブルク家の対立から語る事もできるのかもしれませんが、本書ではナポレオンの登場から論じています。
ナポレオンの侵攻は神聖ローマ帝国を解体し、ドイツのナショナリズムに火をつけました。そして、独仏戦争(普仏戦争を近年では南西ドイツ諸邦も参加していたためにこのように呼ぶことが多い)を機に統一ドイツが誕生します。この戦いでフランスを破ったプロイセンはヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、フランスからアルザス=ロレーヌ(エルザス=ロートリンゲン)を奪いました。
ここからフランスはアルザス=ロレーヌの奪還を誓い、それをさせじとビスマルクがフランスを孤立させる外交を繰り広げたというのが教科書的な理解になるかと思います。
本書では、この成立したドイツとフランスの人口と経済規模に注目しています。ドイツ成立時、ドイツの人口は約3920万人、フランスの人口が約3840万人でしたが、これが1914年になると、ドイツ約6610万人、フランス約4150万人と、ドイツの経済発展により両国の人口、経済力の格差は大きくなります、ドイツ優位の時代が始まるのです。
それもあってフランスの対独復讐心はある種のポーズであり、ビスマルクの外交もイギリスを意識してのものでした、第1次世界大戦での再戦は必ずしも必然ではありませんでした。
しかし、第1次世界大戦は起こってしまい、フランスでは1914年に20歳だった男性の33%が命を落とす(まえがき i p)という状況になりました。もちろん、ドイツの被害状況も甚大で、独仏関係に大きな傷を残すこととなりました。
パリ講和会議においても、ドイツはウィルソンの14ヵ条の考えに基づいた講和を期待しましたが、フランスはなんとしても払った犠牲の対価を回収しなければならないと考え、同時にフランスの安全を確保しなければあらないとも考えました。
ドイツは敗戦国でしたが、フランスのように国土に深く攻め込まれたわけではなく、潜在的な力は秘めたままでした。
フランスは過大な賠償を請求するとともに、賠償金の支払いが滞るとルール占領に出ます。フランスはルール占領前から、ライン川左岸を中心とするラインラントを占領しており、このラインラントをドイツから切り離すという狙いもあったといいます。
フランスにとってドイツという国家は危険であり、ドイツを解体し連邦化すべきだという考えもありました。
戦間期、1923年にドイツでシュトレーゼマン内閣が成立すると独仏関係が好転し、1925年にロカルノ条約が結ばれますが、1929年にシュトレーゼマンが急死し、アメリカで大恐慌が発生すると暗転します。
結局、1933年にヒトラーを首班とする内閣が成立し、国際協調の道は閉ざされていきます。
1935年、フランスがドイツからの分離を目論んでいたザールラントが住民投票でドイツへの復帰が決まり、さらにヒトラーは再軍備へと動き出します。翌年にはドイツはラインラントへ進駐し、ロカルノ条約を破棄しました。
これに対して集団安全保障にこだわっていたフランスは強く対処できず、結局は第2次世界大戦へと進んでいくことになります。
第2次大戦ではドイツはフランス軍をあっさりと降伏させました。休戦協定によってフランス北部はドイツに占領され、南部は「自由地区」として自治が許されました。アルザス=ロレーヌはドイツに引き渡されています。
フランスでは、ド・ゴールが亡命政府を立ち上げ、国内のレジスタンスもこれに呼応しました。戦後、このド・ゴールが厳しい対独政策を打ち出したことから、第2次大戦後の独仏関係は最悪の状態から再出発することになります。
第2次大戦後の独仏関係の最大の変化は、ドイツが分裂したことによってフランスを国境を接する西ドイツは人口でフランスの1.2倍程度、軍事力はフランスが上という形でフランスが優位な体制となったことです。
このようにフランスからするとドイツからの圧迫は薄まったはずですが、前述のようにド・ゴールは対独強硬姿勢を取りました。ただし、ド・ゴールはドイツ文化に敬意を抱いており、ドイツ語もできました。
ド・ゴールはライン川左岸をドイツから分離させることを考えており、それをスターリンに持ちかけたりもしていました。
ド・ゴールは戦勝3カ国で行われる予定だったドイツ占領にフランスを参加させることに成功し、さらにライン川左岸の分離独立を狙いますが、これは米英ソに一蹴されます。
一方、ドイツは伝統的に東・中欧との結びつきを強める志向を持っていましたが、戦後はこの道を封じられ、西独の首相となったアデナウアーは明確に西側との結合を目指すことになります。
冷戦の成立はフランスの対独強硬政策を不可能にしました。1950年にNATOが成立します。これは西ヨーロッパの安全保障にアメリカが深くコミットするとともに、適用が「締結国がヨーロッパに駐留している占領軍に対する武力攻撃」(第6条)とされたため、西独地域も含む形のもので、フランスとドイツが同じ安全保障秩序の中に置かれることを意味しました。
しかし、独仏関係の棘として残っていたのがザール問題です。フランスは隣接したドイツのザールラント州を分離独立させようとしており、1947年に11月にはフランを流通させ、12月には「ザールラント憲法」を採択し、独立を宣言していました。
防衛や外交についてはフランスが行うということで、今のロシアの周辺につくられた未承認国家のような印象ですが、とにかくフランスはザールだけでも切り離すことによりドイツの弱体化を狙ったのです。
ザールは1952年のヘルシンキ五輪や54年のスイスW杯のヨーロッパ予選にも参加しています。54年のスイスW杯は西独が戦後初めて参加を許されたW杯であり、ここで西独は歴史的な初優勝を遂げますが、これがザールの帰趨にも影響を与えることになります。
こうした中でフランスが対独協調へと大きく一歩を踏み出したのが1950年にフランスの外相ロベルト・シューマンによって発表されたシューマン・プランです。独仏の石炭鉄鋼資源を共同管理し、その官吏を行う超国家的機関の設立を呼びかけるもので、欧州統合の第一歩ともなるものでした。
この超国家的機関の設立のアイディアを形にしたのが当時フランス計画庁長官だったジャン・モネで、シューマンは極少数で練り上げたアイディアをいきなりアデナウアーにぶつけるというやり方でザール問題などでこじれていた独仏関係を一気に前に進めました。
シューマンは「ドイツ人」としてルクセンブルクに生まれ(シューマンの父は独仏戦争におけるロレーヌの割譲でドイツ国籍となった)、ヴェルサイユ条約によるアルザス=ロレーヌの返還とともにフランス人になることを選択しました。
シューマンはこのような境界人でしたが、当時にイタリアの首相のガスペリもオーストリア=ハンガリー帝国南チロル地方出身であり、こうした境界人が欧州統合を推進していくことになります。
シューマン・プランを受けて、独仏伊とベネルクス3国でECSCが成立します。これは当時フランスが陥っていた三重の問題、対独安全の確保、ドイツの資源へのアクセス、安定的な国際秩序の再建を一気に解決する方法でした。そして、抱えていた問題の解決するものという点では西独にとっても同じでした。
ザールの問題は依然として残りましたが、FCザールブリュッケンがフランスの1部リーグから加盟を断られたこと、54年W杯での西独の優勝、さらにはフランス語教育への不満などからザール住民は西独への編入を望むようになり、55年の住民投票での「ヨーロッパ化」の否決を受けて西独に編入されることになります。
1957年にはEECとユーラトムが成立し、ヨーロッパの統合はさらに深化していきました。
こうした独仏関係の進展には民間レベルの交流があってこそのものでした。ここでは詳しくは紹介しませんが、本書では独仏関係の改善に力を尽くした団体や個人についても書いています。
印象的なのはカトリックやプロテスタントの宗教的知識人とともに、ドイツの強制収容所に入れられたことがある人々が活躍していることです。強制収容所には反ナチのドイツ人も収容されており、トランスナショナルな空間でもあったのです。
1958年、フランスで第四共和政が崩壊し、ド・ゴールが復権します。以前のド・ゴールは対独強硬を示しており、アデナウアーもド・ゴールの復権を警戒しましたが、このときのド・ゴールは新しいヨーロッパをドイツとともにつくるという姿勢を示しました。
この後、ド・ゴールとアデナウアーは6年間で17回もの会談を重ね、独仏関係を緊密化させていくことになります。
1960年、フランスは核実験に成功しますが、ド・ゴールはこの核を背景にNATOを変革し、西欧の安全保障をアメリカではなく西欧が担う体制の構築を目指します。しかし、これはアメリカとの緊密な関係を望むアデナウアーには飲み難い話でした。
2国間の同盟を結ぼうとするド・ゴールに対してアデナウアーはアメリカを含めた多国間の安全保障を模索しますが、ついにアデナウアーは折れます。この背景にはフランスがソ連と結びつく恐怖もあったといいます。
この構想は1963年のエリゼ条約として結実しますが、アデナウアーの政権基盤の動揺、モネの工作などもあり、前文で「ヨーロッパとアメリカの緊密なパートナーシップの維持と強化」が宣言されます。条約は批准されますが、ド・ゴールは「条約は死んだ」と嘆いたといいます(131p)。
1963年10月にアデナウアーが退任し、エアハルトが首相になると独仏関係は冷え込みました。エアハルトはアメリカとの協調を重視しており、ド・ゴールの構想を拒否したからです。エアハルトのあとに首相となったキージンガーともド・ゴールはうまくいかず、独仏関係が進展するのは1969年にド・ゴールが退陣して以降になります。
ド・ゴール退陣後、独仏の首脳がそれぞれ同じような時期に政権に就き、関係を深めることになります。70年代前半のポンピドゥーとブランと、70年代中盤から80年代初頭のジスカール=デスタンとシュミット、80年代のミッテランとコールといった具合です。
まず、ポンピドゥーとブラントの時代、ブラントは新東方外交を進め、東ドイツを対話の相手として認め、東側との関係改善を進めていきました。
これは西側諸国からの警戒を呼び起こしましたが、そのためにブラントは西側・EC諸国との協調も重視しました。一方、ポンピドゥーはドイツを警戒したがゆえにヨーロッパ統合に積極的になります。また、ポンピドゥーは銀行家出身でもあり、エアバスやアリアンロケットといったプロジェクトに積極的でした。
ポンピドゥー政権のゴーリズム的な外交姿勢は他国から警戒され、70年代半ばになってくるとポンピドゥーとブラントの関係も悪化しますが、74年に2人が相次いで退陣することでリセットされます。
つづくジスカールとシュミットの時代は独仏関係がもっとも接近した時期で、この時期にヨーロッパにおける「独仏協調」、「独仏枢軸」のイメージがつくり上げられました。
ジスカールは貴族の家系に生まれたエリートであり、シュミットは労働者の家に生まれた苦労人でしたが、理知的でプラグマティストという面で共通しており、人間としてもウマが合いました。
彼らは欧州通貨統合の道筋をつけ、サミットの開催においても協力しました。さらに安全保障でも踏み込んだ関係を目指しています。
ミッテランとコールに関しては、左派と右派という違いに加え、人間的にも共通点が少なく、それほどいいスタートを切ったわけではありません。ミッテラン政権は欧州統合に懐疑的な勢力を含む左派の集まりであり、独仏による欧州統合に必ずしも前向きではありませんでした。
しかし、ミッテランがEMS(欧州通貨システム)維持のために一国社会主義路線を放棄せざるを得なくなってことで風向きが変わってきます。
さらに1984年にミッテラン政権で財政相を務めていたジャック・ドロールが欧州委員会委員長に就任したことで欧州統合も加速していきます。
しかし、こうした独仏関係を揺るがしたのがドイツ統一です。1989年11月のベルリンの壁崩壊は、遠い将来の話のはずだったドイツ統一を一気に切迫した問題にしました。
統一ドイツは人口でも経済力でもフランスを圧倒的な存在になるためミッテランも簡単には認められないものでした。ここに独仏の蜜月関係に大きなブレーキが掛かります。
しかし、ドイツ統一が避けられないと見るや、フランスも統一ドイツをヨーロッパ統合の中に埋め込もうと考えるようになります。統合をどう進めるかに関しては独仏の違いもありましたが、ドイツもドイツの統一とヨーロッパ統合はコインの裏表だと考えており、1992年のマーストリヒト条約へと進んでいくことになります。
1998年のドイツ総選挙ではSPDが勝利し、シュレーダーが首相になります。この時期のフランスの大統領はシラクでした。この時期もヨーロッパ統合は深化していきますが、左派のシュレーダーと右派のシラクということもあり、独仏関係はギクシャクしたものとなります。
それでもそれを乗り越えて欧州統合は進み、また、イラク戦争に対しては独仏でアメリカに反対する姿勢を示しました。こうした中でドイツのシュレーダー政権はガスパイプランなどを通じてロシアとの関係を深めていくことになります。
2003年には両国共通の歴史教科書の作成が始まり、8年かけて『独仏共通歴史教科書』が刊行されました。さらのライン川沿いのドイツ、フランス、スイスの間で国境を超えた自治体協力の枠組みもできるなど、欧州統合は前進し続けるかに思えました。
2005年は、フランスとオランダで欧州憲法条約の批准が国民投票によって否決され、ドイツでメルケルが首相に就任した年でもありました。
こののち欧州統合は苦難にさらされるとともに、経済的にフランスがドイツに引き離され、次第にドイツがヨーロッパの中心になっていきます。
こうした中でドイツの首相を務めたメルケルは、自分からアクションを起こすのではなく状況を見極めるタイプでしたが、2007年にフランスの大統領になったサルコジとのコンビで、漂流していた欧州憲法をリスボン条約という形で成立させます。
サルコジはメルケルとは対象的なタイプでしたが、この両首脳の関係はうまくいきました。
しかし、EUはユーロ危機、2014年のロシアによるクリミア併合、難民危機、パリでの同時多発テロと数々の危機に直面することになります。フランスの大統領はオランドに替わながらも独仏の連携は維持されましたが、それでも独仏が中心となって行ったウクライナ内戦の調停はうまくいきませんでしたし、メルケルの難民受け入れに対しても、EU内から反発が出ました。
2017年にはマクロンがフランス大統領となり、「ヨーロッパ」を全面に押し出しながら、同時に独自の外交を展開していきますが、ロシアを含めたヨーロッパを構想していたマクロンにとってウクライナの問題は大きな障害となりました。そして、この構想は2022年のウクライナ戦争で完全に吹き飛びます。
この新しい局面について著者は終章で次のように述べています。
独仏が包摂されたヨーロッパは、冷戦期ではアメリカに大きく左右されたからこそ、独仏関係およびヨーロッパ国際政治を理解するための補助線はアメリカにあった。しかし冷戦後には、グローバル化する世界の中でアメリカのヨーロッパでの存在感は薄らぎ、ロシアという補助線がより色濃いものになった。(241−242p)
また、終章では独仏が「ヨーロッパ」というシンボルを捨て去るとは思えないとしながら、同時に両国で既存のEUのあり方に懐疑的なポピュリスト勢力が台頭していることにも注意を向けています。
最初にも書いたように、本書が2015年ごろに書き上がっていれば、長年のライバル国が対立を乗り越えた歴史としてきれいにまとまったかもしれません。ただし、EUの危機があり、ウクライナ戦争が始まってしまったことで、本書は「歴史」だけではなく「現在」についても書かなければならなくなりました。著者にとっては大変だったと思いますが、ここが本書の魅力の1つだと思います。
また、本書を読んで、例えば日韓関係との違いなどを考えてみるのも面白いかもしれません。
- 2024年11月19日22:40
- yamasitayu
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「歴史学とは何か?」という問題を扱った本。
ただし、類書では「歴史学の歴史」や「歴史学の目的」、あるいは「歴史学がどのように役に立つのか」といったことでこの問いに答えようとしていたのに対して、本書は「歴史家は何をしているのか」ということを通じてこの問いに答えようとしています。
しかも、それを「スター歴史家」(そんな人がいるのかは不明ですが)の仕事を通して明らかにするのではなく、自分の論文や、過去の日本の近代史を対象とした論文(いずれも重要な論文ではありますが)を通じて明らかにしようとしています。
本書の背景には、エスノメソドロジーという人々が無意識的に遂行している日常行為を改めて記述することで日常の中で人々の実践の内容を明らかにしようという社会学の一分野の考え方があるのですが、本書は歴史家が無意識的に行っているさまざまな分析や記述を改めて記述することで歴史家の実践を明らかにしようとしています。
目次は以下の通り。
はじめに――歴史家は何をしているのか第一章 歴史家にとって「史料」とは何か第二章 史料はどのように読めているか第三章 論文はどのように組み立てられているか(1)―― 政治史の論文の例第四章 論文はどのように組み立てられているか(2)――経済史の論文の例第五章 論文はどのように組み立てられているか(3) ―― 社会史の論文の例第六章 上からの近代・下からの近代 ―― 「歴史についての考え方」の一例
本書の第1章は「根拠としての史料」という節から始まっています。
普通は、ここで信頼できる史料と信頼できない史料の違いなどから入っていきそうなものですが、本書ではそもそもなぜ史料を使おうとするのかというところから入っていきます。
ある発言に対してその根拠を問うことは、そんなによくあることではないのかもしれません。例えば、ある人が「自分たちの結婚式の日はとっても暑かった」と言ったとして、「証拠はあるの?」と聞き返す人は普通はいないでしょう。また、その人がわざわざ結婚式が暑い日だったことを証明するために当日の新聞を保存していたり、温度計を写真に撮っているということもまずないでしょう(暑さに新記録だったとかなら別ですが)。
一方、証拠を残す必要のある行為もあります。例えば、結婚をするときには婚姻届を役所に提出しますし、土地取引のときにも売買契約書を作ります。権利を主張したりするために記録を残すことが必要だからです。
歴史家はこうした書類などを史料として使いながら、例えば、「1900年に、A村で1ヘクタール以上の土地を持っていた地主は山田一郎を含め5人しかいなかった」といった記述をしていくわけです。
そして、それが事実であることの根拠を提示するために、売買契約書などを史料としてあげます。
もちろん、世の中には史料に基づかない歴史の叙述というのもあります。本書では写真家の杉本博司の書いたエッセイの一部がとり上げられています。
日本を無謀な戦争へと向かわせたのは軍部の横暴と専制であると思われているが、私はその陰には幕末から続く日本人の内なる屈辱感がアメリカによる最後通牒であるハル・ノートを突きつけられたことによって国家的規模で頂点に達したのではないかと思っている。(23p)
比較的よくあるタイプの文章だと思いますが、この記述には特に裏付けとなる根拠があるわけではありません。日本人が屈辱感を抱えていた根拠や、その屈辱感がハル・ノートによって決定的に高まった根拠はあげられていないわけです。
根拠がないから間違いだとは言えませんが、歴史家はこのように歴史を叙述しません。
史料は基本的に将来の歴史家のために誰かが残したものではありません。何らかの理由で記録を残す必要があり、その記録が歴史家に利用されているのです。
中世の荘園領主は自らの権利を主張するために文書を残しましたし、公家たちは子孫のために先例を記録した日記を残しました。
ただし、記録を残した者にはそれなりの意図があり、歴史家はそれを頭に入れて史料を使う必要があります。
スペインがラテンアメリカを植民地化した際、航海者や征服者は自らの功績を強調した報告書を王室に送りました。これに対して王室は公式記録官を任命し、王室のもとで事実を確定させようとしました。
一方、ラス・カサスは先住民の悲惨な状況を繰り返し本国に訴え、さまざま報告書をもとに『インディアス史』の執筆を続けました。報告書はもともとは征服者の功績を訴えるためのものでしたが、ラス・カサスはそれを「目的外利用」することで別の形の歴史を書こうとしたのです。
現在のような歴史学の創始者として19世紀のドイツの歴史学者ランケの名前があげられます。
ランケは過去を裁いたり、将来を教え導くようなものではなく、単にそれがどのようなものであったのかを示すような歴史の記述を目指しました。
ただし、ランケがきわめて中立的な立場で歴史を書いていたかというとそうではなく、ランケはキリスト教ルター派の信者として、そしてヨーロッパ中心的な立場で歴史を書いています。
また、ランケはフランス革命の普遍性を否定し、民族の歴史的な個性を重視しようとしました。これは当時の政治状況からするとドイツの愛国心を鼓舞するものでもありました。
著者はランケについて、「できるだけ信頼できる記録を使って歴史を書く。目的はなくてもよい」(54p)という歴史学が後退できるギリギリのラインを引いた人を位置づけています。
第2章は「史料はどのように読めているか」というやや奇妙なタイトルです。普通に想定されるのは「史料はどのように読むか」でしょう。
ここでは、その史料がどのくらい信用できるのか? という史料批判の前に、そもそも史料を使って書くとはどのようなことなのかということが、著者自身の論文を腑分けするような形で明らかにされています。
歴史学の論文では、まず根拠となる史料を原文に近い形で引用して提示し、それを論文の書き手が敷衍する形がとられます。この敷衍の部分を読むことによって、読み手は書き手がその史料から何を読み取り、どのように理解したかがわかります。
本書では著者が書いた論文である「逓信省における女性の雇員と判任官 ― 貯金部局を中心に一九〇〇年〜一九一八年」をとり上げて、具体的に著者がどのような引用、敷衍をしているかを紹介しています。
戦前の日本の官吏は基本的に男性しかなれなかったのですが、逓信省では1900年から女性として雇員(非正規の行政職員)が現れ、1906年には雇員の中から判任官(今で言うノンキャリア)に抜擢される者が現れます。これがなぜ可能で、どのような勤務状況だったのかを明らかにしようとした論文になります。
ここで著者が行っている手続きを紹介しようとすると、本書の内容をそのまま書き写すことになってしまうのでやめておきますが、ここでは著者が「なぜそのように史料を読んでいるのか」あるいは「なぜその史料からその事実が読み取れるのか」といったことを具体的な記述に沿って明らかにしています。
例えば、後半では下村宏郵便貯金局長の新聞の談話を引用しながら議論を進める部分がとり上げられています。
そこでは、新聞記事だけでは下村が本当に述べたのかどうかはわからないために「談話を残している」という表現を使ってること、下村が女性の勤続年数が短い理由として結婚をあげていることについて、それを「原因」として断定しないで「言及している」という表現を使っていることなどが紹介されています。後者に関して言えば、下村が結婚が原因で女性が辞めると考えているのは彼のジェンダーバイアスのせいかもしれないからです。
著者の専門である近代の史料については、ある程度、現代人の考える言葉の意味を当てはめることで読むことができます。
しかし、これが離れた時代の史料になるとそうはいかなくなります。例えば、「御成敗式目」については昔からその解釈が問題になってきました。
御成敗式目は、もともと北条泰時が、朝廷の法は難しいので「文盲」の者にもわかるように定めたとされていますが、朝廷の法は漢文の知識や律令などの知識があれば読み解けるのに対して、御成敗式目は当時の人々の「常識」を基盤としているために、その「常識」がわからなければ読み解けないのです。
さらに近年になると、そもそも当時の人にとっても御成敗式目はわかりにくかったのではないかという議論も出てきています。そしてその受容のされ方も必ずしも泰時たちが意図したようなものではなかったというのです(佐藤雄基『御成敗式目』(中公新書)参照)。
第3〜第5章では日本近代史における、政治史、経済史、社会史の論文を1つずつとり上げ、その論文がどのように史料を扱って何をしようとしているのか、そして政治史、経済史、社会史のそれぞれの特徴を明らかにしようとしています。
また、歴史学も「なぜ?」を明らかにしようとすることが多いですが、厳密な因果推論のような議論をするとは限りません。そのあたりも含めて、歴史家がどのように史料を用いて何を明らかにしようとしているのかを実際に見ていくのがこの部分になります。
第3章でとり上げられているのは高橋秀直「征韓論政変の政治過程」です。征韓論政変の実態とその歴史的意味を明らかにすることを目的とした政治史の論文になります。
ここも事細かに紹介することは避けますが、先行研究との違い、論文の構成、史料の扱い方などを見ていき、その内容を検討しています。
また、この征韓論争は他の歴史家もたびたび論じている問題であり、高橋論文のあとにもそれに反論するような論文が出てきているのですが、本書ではその1つの勝田政治「征韓政変と国家目標」をとり上げながら、どこで解釈が違ってくるのかというポイントも見ていきます。同時に高橋と勝田の明らかにしたかったことの違いについても指摘しています。
さらに、征韓政変という1回しか起きなかった出来事について、どのようにしてその因果的なつながりを考えることができるのか? という問題も検討しています。
これが可能になるのは、西郷隆盛や大久保利通といった人物の影響力が非常に大きく、それが日本政府の方針に大きな影響を与えており、そして問題を日本政府というまとまりの中で検討できると考えられるからです。もちろん、征韓論は朝鮮の立場から論じることもできますが、ここではランケ的な一国史という形で語られているわけです。
第4章では経済史から石井寛治「座繰製糸業の発展過程 ― 日本産業革命の一断面」がとり上げられています。石井はマルクス主義経済学をベースに日本近代の経済史を研究した研究者ですが、この論文は日本の産業革命を論じるにあたって今なお多くの人が目を通すだろうという論文です。
マルクス主義では、職人が自分の作業場でコツコツとものを作る段階と、資本家が工場を作ってそこで多くの労働者を雇って生産する段階を区別しています。石井の論文は座繰製糸業はどちらの段階かといいことを検討したものです。
マルクス主義の立場にたてば経済の発展の法則はすでに明らかなので、本論文も何かの因果関係を明らかにしようとするものではなく、明治期の座繰製糸がマルクス主義的にどの段階にあたるのかを探ったものになります。
石井は、群馬県の天原社という組織について調べ、統計表では一見して大工場に見える座繰製糸の工場が実は工場の形態をとっているわけではなく、多くの賃挽人を雇っていたに過ぎないことを明らかにしています。
天原社は各地で繭を買い集めると、それを賃挽人に渡して糸にしてもらい、それを販売するという事業を行っていたのです。この生産スタイルでは大規模化しても効率性は上がりません。そのため座繰製糸は徐々に器械製糸に取って代わられていくことになります。
これは今までの座繰製糸の大工場が存在したという先行研究を否定するものですが、石井はさまざまな統計や天原社の収支などを分析しながら、これらのことを明らかにしています。
天原社は1906年に閉鎖されますが、石井はその理由を経営者の意思ではなく、経営環境の変化に求めます。このあたりも政治史とは違うところで、個人よりも経済的な構造が重視されています。
第5章では社会史の論文である鶴巻孝雄「民衆運動の社会的願望」という論文をとり上げています。この論文は1880年代に起きた「負債農民騒擾」と呼ばれる事件の1つである「武相困民党事件」をとり上げたものです。
1881年の明治14年の政変以降、日本はいわゆる松方デフレと呼ばれる時期に入っていきます。このデフレの中で生糸や米の価格が値下がりし、多くの農民が負債を抱え、土地を失いました。
こうした農民が借金の返済猶予などを求めて起こしたのが負債農民騒擾ですが、1884〜85年にかけて起きた武相困民党事件はその中でも規模の大きなものでした。
鶴巻の論文には「社会的願望」という言葉が入っていますが、これは鶴巻が事件の起きた政治的・経済的な原因を明らかにするのではなく、当時の農民たちの「規範」や「意識」を明らかにしようとしているからです。
マルクス主義的な立場では、こうした対立は階級的な対立として理解されます。実際、色川大吉「困民党と自由党」はこの図式を使っています。
しかし、鶴巻はこのような図式を当てはめるのではなく、当時の農民の行動によりそって彼らの行動を理解しようとします。
こうしたスタンスのもと、鶴巻は江戸時代以来、農村には質地請戻しの慣行(借金の方でとられた土地も一定期間内に借金を返せば取り戻せる)があり、こうした慣行が明治以降の近代的な契約関係によってなくなっていったことが農民の不満の原因となったというのです。
農民たちが土地を失った背景には松方デフレという経済的な要因があるのですが、その不満が政府にではなく債権者に向かったことに鶴巻は注目し、そのような行動に至る農民たちの考え方を理解しようとしています。
ここに経済史の石井論文との違いが明瞭に現れています。石井は個人の意志ではなく経済的な構造を見出そうとしましたが、鶴巻は当時の人々の意識に注目することで違った形の「なぜ」に答えようとしています。
さらに鶴巻はこの分析を通じて、近世から近代へという時代の転換についても示そうとしているのです。
第6章では「近代」について考えています。
本書でとり上げた3つの論文はいずれも近代史のものであり、特に近代のはじまりに注目しています。
「近代」という時代についてはさまざまな捉え方があり、それが良かったのか?悪かったのか?という議論もあります。また、日本について言えば、明治維新以降、日本は近代化したのか?近代化しなかったのか?という議論もあります。
こうした議論を行ってきたのも歴史家です。そして、こうした議論は「どのような社会が望ましいのか」という議論と密接に関わっています。この意味では歴史家もまた社会のあり方に関わっており、同時に社会から影響を受けています。
歴史家はただ史料に書いてあることをそのまま書くだけでもなく、一方で、イデオロギー的な立場から都合の良いストーリーを書いているわけでもないのです。
このまとめでどれだけ伝わったかはわかりませんが、本書はかなり独特な歴史学の入門書になります。
サッカーについて語るときに、サッカーの歴史や、サッカーの名選手、あるいはサッカーの面白さを語るのではなく、サッカー選手が実際にピッチでどのようなことに気をつけ、どのような判断をし、どんなキックをするのかということを詳述したような感じです。
歴史に関する本は山のようにありますが、本書はその中でもユニークかつ面白い本です。
- 2024年11月10日22:52
- yamasitayu
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2002年にダニエル・カーネマンが、2017年にリチャード・セイラーがノーベル経済学賞を受賞したこともあり、経済学の一分野として確固たる地位を築き始めた行動経済学ですが、一方で、「その理論に再現性がないのではないか?」「都合の良いデータだけが使われているのではないか?」といった批判も起こるようになりました。実際、ダン・アリエリーの研究にデータ捏造が指摘されたこともあって、「行動経済学は死んだ」といった声も上がるようになっています。
本書は、こうした状況に対してプロスペクト理論を中心にその理論が本当なのか? あるいは、科学的に意味があるのか? といった問題を論じています。
新書にしては、かなり突っ込んだ議論をしており、理論→反証→その反証への反証といった形で研究を紹介しているため、必ずしもわかりやすいものではないかもしれません。
ただし、だからこそプロスペクト理論がどんなもので、経済学者はどんな部分を問題にしているのかということがわかるような構成になっています。
行動経学の理論を得意げに語る前にも、「行動経済学は死んだ!」という前にも読むべき本と言えるでしょう。
目次は以下の通り。
第1章 行動経済学は科学的か?第2章 何が利益と損失の違いを決めるのか?――参照点依存性第3章 一度手にしたものは手放すのが惜しくなる?――保有効果第4章 損失は利益よりも重要視される?――損失回避性第5章 ものは言いよう?――フレーミング効果
著者は以前にある教授から、「プロスペクト理論は、参照点次第でどんなことでも説明できるから、実は何も説明できない理論だ」(19p)と言われたそうです。
これはカール・ポパーの反証可能性の考えにもとづき、「プロスペクト理論は科学ではない」と言いたいわけです。
プロスペクト理論はカーネマンとトヴェルスキーが提唱した理論で、不確実な状況下の意思決定において、人間には損失回避性や、参照点からの変化額に左右されるというもので、利得局面ではリスク回避的となり、損失局面ではリスク愛好的となると言われています。
よく知られている実験は次のようなものです。
問題1選択肢A:50%の確率で2万円受け取り、50%の確率で何も受け取らない選択肢B:100%の確率で1万円を受け取る問題2選択肢C:50%の確率で2万円を失い、50%の確率で何も失わない選択肢D:100%の確率で1万円を失う
このとき、問題1の期待値は1万円、問題2の期待値は−1万円と変わらないのに、問題1では選択肢Bを問題2では選択肢Cを選ぶ人が多いというのが謎であり、これを説明するのがプロスペクト理論です。
プロスペクト理論では、報酬がプラスの場合でも、マイナスの場合でも感応度逓減が起こるとし、ちょうど参照点を中心としてS字のような価値関数が書けると考えます(26p図2参照)。
先程の問題において、考えられる回答は、「問題1でA、問題2でC」、「問題1でA、問題2でD」、「問題1でB、問題2でC」、「問題1でB、問題2でD」という4つの組み合わせです。
冒頭の教授の言葉によれば、参照点をずらして平行移動すれば、回答1〜4のすべてがプロスペクト理論的に正しい選択肢になってしまうことになり、ここに問題が発生します。
このうち、プロスペクト理論で最も多いと予測するのが「問題1でB、問題2でC」の選択肢です。
ですが、参照点を2万円にすれば、「問題1でA、問題2でC」でも同じような価値関数が書けるといいます。
参照点とはその人の判断の基準となる点で、もしその人がボーナスを毎回20万円もらっていたら20万円が参照点になります。
今までボーナスがなかった人が10万円のボーナスを貰えればうれしいでしょうが、毎回20万円もらっていた人に10万円のボーナスを渡せば不満を覚えるでしょう。20万円が基準として参照点になっているからです。
先程の問題でも参照点が2万円であれば、1万円確実にもらえる問題1の選択肢Bはそれほど魅力がないものかもしれないのです。
この考えでいくと、「問題1でB、問題2でD」も実は成り立ちます。参照点を−2万円と考えるとやはり同じような価値関数が書けるのです。
これで残るは「問題1でA、問題2でD」だけが残るのですが、これだけは同じような価値関数は書けないといいます。基本となるグラフをどのように平行移動しても、「問題1でA、問題2でD」となるようなグラフにはならないといいます。
したがって、プロスペクト理論は「問題1でA、問題2でD」を選ぶ人が一定数出てくれば反証可能ということになります。つまり、ポパーのいう科学の条件を満たすことになるのです。
第2章では参照点の問題をさらに掘り下げています。クーセギとレイビンは、「期待に基づく参照点」という概念を打ち出し、期待される参照点がその人の行動に大きな影響を与えると考えました。
まず、はじめに紹介されているアベラーらによる実験は次のようなものです。
被験者は0と1がランダムに並んだ150字分の数列から0の数を数えるという課題を与えられます。正しい回答をすれば10セントもらえ、3回間違うと10セント差し引かれます。
次に被験者は同じ課題に最大60分間チャレンジ可能でいつでも止められ、報酬は「1問あたり20セント」か「固定報酬」が50%の確率で与えられると告げます。このときに固定報酬はある被験者には3ユーロと告げられ、ある被験者には7ユーロと告げられます。
このとき、参照点への依存性があるのであれば、固定報酬7ユーロを提示された被験者のほうが、より長い時間課題に取り組むのではないかと考えられます。
結果は固定報酬が7ユーロのグループのほうが3ユーロのグループよりも労働者が得ることになった変動報酬が1.85ユーロも高く、統計的に有意な差がありました。
伝統的な経済学の理論では固定報酬の額にかかわらず取り組む課題の数は変わらないはずですが、この実験ではプロスペクト理論の参照点の考え方が支持されたのです。
ところが、これで「プロスペクト理論が証明された!」とはなりませんでした。
実はこの実験の再現実験では、統計的に有意な差は出ませんでした。どうやらアベラーの実験では、実験者の実験はこうなってほしいという「実験者効果」がはたらいてしまった可能性があるのです。
また、実験では被験者に固定報酬の額がランダムに割り当てられていることが知らされていなかったために、被験者が固定報酬の額から適切な労働時間を推測していた可能性もあります(3ユーロなら、変動報酬でも3ユーロを稼げばいいのかと考える)。
この実験についてはニーズィらの改良版もあるのですが、これも再現実験では有意な結果が出ていないということで、この手の実験ではクーセギとレイビンの考えはうまく証明されていないようです。
この参照点の考えはタクシーの運転手の行動の説明にも使われています。
タクシーは晴れの日はつかまりやすく、雨の日はつかまりにくいです。これは雨の日にタクシーの需要が増えるからですが、運転手の行動を見ると、需要の高い雨の日に目一杯働くのではなく、雨の日は早めに仕事を切り上げているといいます(だからますますつかまらない)。
より多く稼げる日に頑張らないのはなぜなのでしょう?
これを説明するのが、運転手がある売り上げ高を参照点として持っていると考えるプロスペクト理論です。
例えば、運転手は1日20万円などの売り上げの目安を持っており、雨の日は短時間でそれに達するために早めに仕事を切り上げるというのです。
これについての研究では、運転手は1日の売り上げについて不変の参照点を持っているわけではなく、参照点が1日の間にゆっくりと変化するのではないか? という考えが出されています。
その他、野球場の売り子、漁師などを対象にした実験でも、プロスペクト理論を支持するはっきりとした結果は得られていないのが現状です(伝統的な経済学の考え方を支持するような結果も出ている)。
クーセギとレイビンの考えはまだまだ検討が必要な考えだと言えます。
第3章では保有効果が検討されています。これは1度手に入れたものは高く評価しがちになるというものです。
クネッチの実験はこれを研究した初期の研究で、マグカップを与えられるグループ、チョコレートを与えられるグループ、何も与えられないグループに分けられた被験者は、マグカップを与えられればマグカップを保持し続ける傾向があり、チョコレートを与えられればチョコレートを保持し続ける傾向があることをということを示しました。最初に何も与えられなかった人たちの好みはマグカップとチョコレートでだいたい半々に分かれたので、この固執は保有効果によるものと思われます。
リチャード・セイラーはこの保有効果をプロスペクト理論で説明できるとしました。
マグカップをもらったひとはマグカップ1が参照点となり、マグカップを手放すことに大きな損失を感じるようになり、チョコレートをもらった人はチョコレートを手放すことに大きな損失を感じるようになるというわけです。
ただし、リストによるフィールド実験では、この保有効果は取引経験が豊富な人には当てはまらないとの結果が出ました。
スポーツ・カードのイベント時に野球に関する歴史的記念品AまたはBを配って実験したところ、スポーツ・カードのディーラーについてはディーラー以外よりも明らかに交換をする比率が高く、保有効果は見られなかったのです。
リストは、のちにマグカップとチョコレートでも試していますが、ここでもやはりディーラーには保有効果が見られませんでした。
この背景には取引上の不確実性があると考えられます。取引には、相手を探し、交渉するといった取引費用が発生しますが、取引経験の経験が少ないとこうしたコストを正確に見積もることができず、結果的に所有物を手放すことを躊躇するというものです。
さらに本書ではこの保有効果についての研究がいくつか紹介されています。チンパンジーやオマキザルでも保有効果が確認されたとの研究がある一方で、タンザニアの市場から隔絶された狩猟採集民の部族では保有効果が確認されなかったとの研究もあり、保有効果が発生する条件についてはいまだに議論が続いています。
第4章は損失回避性です。これは人間には利得を得ようとするよりも損失を避けようという傾向があるというものです。
例えば、ポープとシュバイツァーはアメリカのPGAツアーのデータを分析し、プロゴルファーもボギーを避けるためにバーディーを狙わずにパーを取りに行く傾向があることを示しましたし、サッカーでも勝ち点3を取りに行くよりも勝ち点0を恐れて勝ち点1(引き分け)を狙いに行く傾向があるといいます。
この損失回避性についてはさまざまな実験も行われています。
例えば、コインを投げて、1「表-2ユーロ、裏+6ユーロ」、2「表-3ユーロ、裏+6ユーロ」、3「表-4ユーロ、裏+6ユーロ」、4「表-5ユーロ、裏+6ユーロ」、5「表-6ユーロ、裏+6ユーロ」、6「表-7ユーロ、裏+6ユーロ」というくじを用意して、それぞれ引くか引かないかを問うというものです。
期待値の考えからして6のくじを引く人はほとんどいないはずです。一方、期待値の考えからすると4まではくじを引くべきだと言えるかもしれません。
ムルクヴァらの実験では52%が4でくじを引くのをやめているそうです。また、年齢層を見ると年齢が高くなるほど損失回避の傾向が強まっています(135p図7参照)。
ただし、上記のくじでは被験者がまったくランダムに引くか引かないかを選んでも損失回避の傾向が出てしまいます(期待値が大きい高いくじが多いので)。
そこでザイフとイェキアムは、1「表-4ドル、裏+6ドル」、2「表-5ドル、裏+6ドル」、3「表-6ドル、裏+6ドル」、4「表-7ドル、裏+6ドル」、5「表-8ドル、裏+6ドル」というくじを用意して実験しました。そうすると損失回避性は消えてしまいました。
しかし、このザイフとイェキアムの実験については、価値関数を線形(直線)だと仮定しているとの批判もあります。また、少額だと損失回避性が消えてしまうという問題についても議論があります。さらに、「損失回避性は現状維持バイアスではないか?」という声もあり、損失回避性については今も議論が続いています。
第5章ではフレーミング効果がとり上げられており、冒頭に「朝三暮四」の話が紹介されています。朝三暮四は猿が言い方の違いに左右される話ですが、人間も同じだというのです。
トヴェルスキーとカーネマンは「アジアの疾病問題」というものをつくりました。
これは「アジア疾病」なるものが流行し600人死亡することが予想されている。その対策として次のAとBのどちらを選ぶか?というものです。
[問題1]A:この対策が採用されれば200人が救われるB:この対策が採用されれば、1/3の確率で600人が救われるが、2/3の確率で誰も救われない。[問題2]C:この対策が採用されれば400人死ぬことになるD:この対策が採用されれば、1/3の確率で誰も死なずにすむが、2/3の確率で600人が死ぬことになる
実験では問題1では72%が対策Aを好ましいと考え、問題2では78%が対策Dを好ましいと考えたそうです。
少し考えればわかりますが、対策AとCは同じであり、BとDも同じです。また、期待値として考えればすべての選択肢は200人が救われという点で同じです。
それにもかかわらず選択が変わってくるのは人々がその表現の仕方に左右されているからです。これをフレーミング効果といいます。
このように表現の仕方によって選択が変わるのは不合理に思えますが、実はプロスペクト理論によって説明できるといいます。
問題1では生存者0人を参照点に、問題2は生存者600人を参照点とすると、プロスペクト理論のグラフでうまく説明できるといいます(162−163p図3,図4参照)。
×ばつ5問の利益フレームと、最初に1.5ドルを与えて間違えたら25セント差し引くという形の損失フレームで、どのくらいの時間問題に取り組むかを調べたところ、損失フレームのほうがより長い時間課題に取り組んだそうです。
稼げる金額は同じなのですが、どのように提示されるかで行動が変わることがうかがえます。
では、常に損失フレームを使えばいいかというとそうでもなく、新型コロナのワクチン接種に関しては、利益フレームのもとで「あなたがワクチンを接種すれば、あなたの周りの人々のワクチン接種を促すことになります」というメッセージを読んだ場合と、損失フレームのもとで「あなたがワクチン接種をしなければ、あなたの周りの人々もワクチン接種をしないでしょう」というメッセージを読んだ場合では、利益フレームのほうが高齢者において新規にワクチン接種をしようとする人が増えたといいます。損失フレームでも接種意欲は増加しましたが、同時に高齢者に不安などのネガティブな感情も引き起こしたといいます。
「おわりに」で、著者は「残念ながら、プロスペクト理論は検証されたとか、あるいは逆に反証されたといった決定的な証拠は得られなかった」(197−198p)と述べています。
一方、保有効果やフレーミング効果は損失回避性で説明されることが多かったですが、本書ではそれがプロスペクト理論の参照点の違いから説明できる場合が多いことも示されました。ですから、損失回避性が否定されるような研究があっても、本丸ともいうべきプロスペクト理論が否定されなければ、行動経済学の根幹となる理論は残るわけです。
新書にしてはかなり専門的な部分に足を踏み入れている本で、読むのが少し大変かもしれませんが、非常に「わかりやすい」行動経済学の本と、一方で「行動経済学は死んだ!」といった全否定の声がある中で、行動経済学の現在地を示した貴重な仕事と言えます。
- 2024年11月02日22:03
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