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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2022年04月

数ある職場の中でも自衛隊は「男社会」のイメージが強いと思いますが、そんな中で活躍する女性の幹部自衛官にスポットライトを当て、その働き方やキャリア形成を分析した本になります。
著者の1人の上野友子は自衛隊の事務官で大学院に社会人学生として入学しこのテーマに取り組んでいます、もう1人の著者の武石恵美子はその指導教官でキャリアデザインなどを専門としている人物になります。

本書の面白さは何といっても現場で実際に活躍している女性自衛官の声を集めているところで、男性中心社会の中での働き心地や、男性の部下への接し方、子育てとの両立など、女性自衛官が直面するさまざまな問題と、それをどう乗り越えているのかが見えてきます。
また、そうした女性自衛官の働き方を通じて、自衛隊という組織の特殊性が見えてくるととこも本書の興味深いあところだと思います。
ただ、女性自衛官の「声」は集まっているのだけど、それが誰のものなのかはまったくわからないように書いてあるので、そこにいる「人」の姿は見えにくいです。
個人的に、Aさん、Bさんといった仮名や、30代、40代といった大まかな年齢が書いてあるともっと見えてくるものがあったようにも思えます。

目次は以下の通り。
プロローグ
第1章 自衛隊、自衛官とは
第2章 なぜ自衛官の道を選んだのか
第3章 アイデンティティの源泉
第4章 自衛隊組織の特徴と女性自衛官のキャリア
第5章 幹部自衛官のキャリア
第6章 女性自衛官の壁
第7章 女性自衛官の仕事と子育て
第8章 自分らしいキャリア

本書でインタビューしている自衛官はすべて「幹部候補生課程」を経て幹部になった女性自衛官であり、30代が6名、40代以上が14名です。パートナーも自衛官である割合は8割と高くなっています。
防衛省には自衛官である「制服組」と事務官である「背広組」がいますが、本書でとり上げているのはすべて「制服組」になります。

著者は自衛隊の特徴として次の4つをあげています。まずは武器を使用する戦闘組織である点、次に明確なヒエラルキーのある階級組織だという点、3つ目は常に出動できるようにしている即応態勢組織である点、4つ目が基本的な活動が自衛隊の中のみで完結する自己完結型組織であるという点です。

自衛官の入口には「士」として活躍し「曹」を目指すコースとリーダーとして組織を率いる「幹部」を目指すコースがあります。
幹部候補生は、防衛大学校、防衛大学校、航空学生、または一般大学から目指すコースがあり、本書がとり上げる女性自衛官もこうしたルートで幹部候補生になっています。

幹部候補生になると陸・海・空自衛隊の各幹部候補生学校の教育課程で技能形成が行われ、ここを卒業すると3尉として任官します。
その後、自身の職種や職域に応じた任務に就くために全国で勤務し、必要に応じて自身の職種や職域に応じた課程で学びながら、幹部としての資質を向上させていきます。
こうした組織のため、中途で人材を獲得することは難しく幹部は基本的に生え抜き中心になります。また、2〜3年毎に異動があるのも特徴と言えます。

こうした中で女性自衛官の数は2021年3月末時点で1万8529人で全自衛官に占める割合は約7.9%となっています。防衛省・自衛隊でも女性活躍に動き出しており、2030年までに全自衛官に占める女性の割合を12%以上にするという目標のもと毎年度の採用者の女性の割合を17%以上にすることを掲げています(41-42p)。

第2章からは実際に女性自衛官の声を紹介しながら議論を進めていますが、まず、最初にとり上げられているんがその志望動機です。
幹部自衛官の場合、防衛大学校から上がってくるケースが多いわけですが、その場合、防衛大学校に進学した時点でほぼ進路を決めていると言えます。
国際関係論を学びたかったから、好奇心からといったケースもありますし、父が自衛官だったなど、身近に自衛官がいたというケースもあります。
また、女性であっても「自立」したいので自衛官を選んだ、人に役立つ仕事をしたかった。実際に災害に見舞われたときに助けに来てくれた自衛隊を見て、などさまざまなものがあります。

自衛隊が「男社会」であることをどう思っていたかということも聞いていますが、これについては本書のインタビュー対象が現役自衛官であり、辞めた人には聞いていないこともあって、多くの人が「気にならなかった」と答えています。
ただし、女性自衛官の中途退職率は約3.3%と低く(64p)、合わない人の多くが辞めているというわけではなさそうです。

第3章は「アイデンティティの源泉」と題されていますが、ここではキャリアの「自律」の問題が中心にとり上げられています。
自衛隊は基本的に上の命令を遂行する組織であり、そこに「自律」が入る余地はないようにも思えますが、まず前提としてあるのが「国を守る」という任務への誇りです。
また、「女性自衛官」ということで周囲からは「かっこいい」という印象を持たれることも多く、それが自らを律するという形での自律につながっています。

ただし、「重要なことは、集団行動がとれることですね。集団行動が苦手な人には、厳しい仕事だと思います」(77p)、「みんな本心は恥ずかしく言わない部分はあると思うのですが、愛国心という部分があって、少なくとも何かあったら自分のことよりも任務を優先してやろうという気持ちがないと続かないと思います」(79p)といった言葉があるように、滅私奉公的な部分も必要だと言えるでしょう。

一口に自衛隊と言っても、その自衛隊の名で担う任務はさまざまです。91pの図表7に詳しく載っていますが、陸上自衛隊でも、「普通科」「機甲科」「高射特科」といった戦闘を担うような職種の他にも、「通信科」「輸送科」「会計科」「化学科」「音楽科」などのさまざまな職種があります。
そうした組織の特徴を見ながら、女性自衛官のキャリアについて見ているのが第4章です。

以前の自衛隊では女性が入れる職種は限られていました。
1952年の保安庁の時代から女性の採用は始まりましたが、看護師の資格を持った女性のみの採用でした。看護職以外の職域での採用が始まったのが陸上自衛隊が67年、海上自衛隊と航空自衛隊は74年です。
それでも、1直接戦闘をする職域、2戦闘部隊を直接支援する職域、3肉体的負荷の大きい職域、の3つには女性自衛官を配置しないことになっており、女性の自衛隊の中でのキャリアは非常に限定されたものでした。

しかし、93年以降、多くの職域が開放されるようになり、2018年に海自の潜水艦への配置が開放されたことで、特殊武器(化学)といった防護隊と坑道中隊という特殊な職域を除いて、すべての職域が開放されました(98p図表8参照)。

ただ、多くの職域が開放されたということは異動や転勤が増えるということでもあります。
これについて「多すぎる」と感じている人もいるようですが、「自衛隊の素晴らしいところは、世の中に存在する仕事の全てがこの組織にあるのではないかと思える点です」(103p)と述べる人がいるように、頻繁な異動をポジティブにとらえている人もいます。

キャリア形成についても、男女の差はないと言う人がいる一方で、「男性に比べて上から叱られない」といった男性上司の「遠慮」を問題視する声もあります。
また、「ロールモデル」という考え方も広まっていますが、女性自衛官が今まで少なかった、職域が非常に多いということもあって、女性自衛官の中では「ロールモデル」という考え方はあまり響いていないようです。

第5章では幹部自衛官としてのキャリアの問題が語られています。
まず、任務において基本的に男女の差はつけるできではないと考えている人が多いようです。男女ともクリアーすべき一定の基準はあるとの考えです。

そして、自衛隊において女性が活躍しやすい面があるとしたら、その理由の1つは、以下で指摘されているように、自衛隊が階級社会である点です。

階級があるから指示や命令をしやすい面もあるし、上から言われたら、基本的にはそれに従わなければいけないというのが体に染み付いています。そういうものですよね。自衛隊は指揮命令で動いている組織なので(126p)

幹部自衛官としての仕事のやりがいについて考えてみると、女性だから男性だからということではなく、階級に応じて仕事が与えられると思います。例えば「1佐」としてあなたに命じているのです、というのが通じる社会なのです。だからやりやすいところもあるだろうなと思ってます(129p)

このように自衛隊には、男性/女性以前に階級というものがあり、それが彼女たちを活躍しやすくしている面があります。
ただし、男性指揮官が大声を出したり、部下を叱ったりすることは日常的でも、女性指揮官がそれをやると「心配されたりヒステリックって言われることもあるので、そういうことがしづらいのですよね」(140p)と漏らす人もいます。

また、指揮官というものは最終的には1人で決断しなければならない孤独なものであり、そこにやりがいと辛さの両面を感じているようです。

第6章は「女性自衛官の壁」となっています。
「真に戦うだけであれば、戦闘というものは男性という性の方が向いているのかなと思うのです」「女性隊員の割合が増えた場合、女性一人では重さ、速さといった面でクリアできない部分もあり」(153p)といった声があるように、体力的な面などである程度は男性中心で仕方がないという意見がありますし、育児などで時間に制約のある女性隊員が増えると問題も出てくるという認識もあります。

また、女性が少ない職場なので、どうしても一人の女性が女性全体を代表する「トークン」として見られがちな面もあり、そこに問題を感じている人もいます。
また、「あなたのお子さんは小学生で、あなたはお母さんなんだから、我々男性陣と違って、ご家庭を優先してください。でも仕事もちゃんとやってもらいます」(159p)という上司からすると配慮した言葉であっても、言われた女性には違和感が残ったという話もあります。

一方、自衛隊の中に基地対策や基地広報、管制官などの「女性向き」の仕事があると感じている人もいますし、統率という点でも女性の方がうまくできるのではないかと感じている人もいます。
災害派遣でも被災者の恐怖心を和らげるという点では女性であることが利点になるともいいますし、災害派遣にしろ海外派遣でも非支援者の半分は女性であり、女性でなければつかめないニーズというものもあるのです。

体力の壁というものに関しては、徐々に体力をつければ大丈夫、行軍訓練では脱落者も出ていたけど男性も同じように脱落していた、といった声もありますし、実際に任務についてみるとそれほど体力が必要な局面はないとの声もありました。

第7章は子育てとの両立の問題がとり上げられています。
自衛隊の特徴の1つが即応性で、不測の事態に24時間対応する必要があります。「私は、子どもに『何かあったらママもパパもいなくなるから』と言っています」(191p)とあるように、いざとなったら子どもを置いて駆けつけねばならないこともあるのです。
子どもが小さいときには離職が頭をよぎったという人もいますし、子どもが不登校になっていたのにしばらく気づかなかったという人もいますが、上司などのサポートや仕事への使命感や責任感で乗り切っている人が多いようです。
また、引っ越したらとりあえず子どもを預かってくれそうな人を探す、泊まりができる保育園を探すなど、いざというときのためにさまざまな手配をしている人もいます。

ただし、自衛隊は異動が多く、最初に述べたように本書がとり上げる女性の幹部自衛官のパートナーの8割が自衛官ということで、夫が単身赴任というケースは多いそうです。
子どものいる女性に関してはそれほど無理な異動は組まれないとのことですが、ワンオペ育児になることも多く、親などを頼ったり、職場で積極的に事情を話すことなどで乗り切っているそうです。
「仕事と育児の両立については、とにかく一生懸命すること、だけかな」(220p)といった声もあり、「さすが自衛官」と思わせるものもありますが、仕事と子育ての両立に関しては大変な面も多いようです。

このように本書は、女性自衛官のキャリアに焦点を合わせながら、同時に自衛隊という組織の特殊性もわかるような内容になっています。
特に「階級社会」だからそこ女性が働きやすいという指摘や、自衛隊内の職種の多様性が女性自衛官の活躍の場を生み出している状況は興味深いものでした。
ただ、最初にも書いたように、誰のものかまったく情報がないままに発言が紹介されるので、どうしても「都合よく編集しているのではないか?」という疑問も浮かびます。
「Aさん」「Bさん」などの仮名をつけたり、おおよその年齢を示したほうが、例えば、自衛隊への志望動機とその後の働き方の関係性とか、年代による仕事のやりやすさ/やりにくさの違いなどが見えてきてより興味深いものになったのではないかと思われます。


2021年8月、アフガニスタンの首都・カーブルがターリバーンによってあっという間に陥落させられた出来事は、そこから逃げ出そうとする人々の映像と相まって衝撃的なものでした。
2001年の9.11テロ後にアメリカの攻撃によって政権を追われたターリバーンが、まさか20年後にこのような形で政権に復帰しようとは、当時からは想像できなかったことです。

本書は、90年代半ばに「世直し運動」として活動を始めたターリバーンが政権を掌握し、その後アメリカの攻撃によって政権を失ってからいかにして復活してきたかを追っていますが、そこで明らかになるのはターリバーンの「すごさ」というよりも、それまでのアフガニスタンの状況の「ひどさ」です。
そして、「イスラーム原理主義」の組織として扱われがちなターリバーンの内実について、アフガニスタンの風土に根ざした部分も取り出し、ターリバーンの多面的な特徴を描き出しています。
ターリバーンについては断片的に知っていることも多かったですが、それをコンパクトにまとめた上で、アフガニスタンの近現代史の中に位置づけていることが本書の特徴です。
「去年の出来事は何だったのか?」と疑問を感じている人にとっては、その疑問に応えてくれる本であり、秩序が一度崩壊した世界でもう一度秩序を打ち立てることの難しさを教えてくれる本でもあります。
なお、タイトルの表記は「タリバン」ですが、本文中はできるだけ言語の発音に近づけるために「ターリバーン」表記になっています。

目次は以下の通り。
序章 政権崩壊
第一章 「失われた二〇年」(二〇〇一〜二〇二一年)
第二章 ターリバーン出現の背景(一九九四〜二〇〇一年)
第三章 伝統的な部族社会アフガニスタン(一七四七〜一九九四年)
第四章 ターリバーン支配下の統治
第五章 周辺国に与える影響
第六章 「テロの温床」化への懸念
終章 内発的な国の発展とは

ターリバーンの劇的な復活は、国際社会が主導したアフガニスタンの国造りの劇的な失敗の裏返しでもあります。
9.11後の2001年10月7日にアメリカはターリバーン政権に対する空爆を開始し、12月には戦後復興のロードマップを定めたボン合意でハーミド・カルザイが暫定政権の首班に選出されました。
カルザイはアフガニスタンで最大の民族であるパシュトゥーン人の有力部族の御曹司でした。アフガニスタン人による内輪の投票では王制時代に法相を務めたウズベク人のサッタール・スィーラト博士が多くの支持を得ていましたが、アメリカとパキスタンがパシュトゥーン人のカルザイを推したと言われています。


アフガニスタンでは国民の多くが王制の復活を求めていましたが(元国王のザーヒル国王は存命だった)、これはアメリカのハリールザード大統領特使の動きもあって阻止されます(ハリールザードはアフガニスタン国籍も持つ人物でアメリカの対アフガン政策に深く関わり、2009年の大統領選挙では出馬も噂された)。
王制を復活させていれば、ここまで急速なターリバーンの台頭を許さなかった気もしますが、当時の国際社会のムードとしても王制の復活は難しかったかもしれません。

政治家としては軽量級だったカルザイは、ムジャーヒディーン勢力に利権を分配することによって国内の統治を進めることにします。タジク人のイスマーイール・ハーン野戦指揮官を水・エネルギー相に、ウズベク人のアブドゥルラシード・ドゥーストム将軍を国防次官というように各軍閥のリーダーにポストを配分しました。
しかし、これは汚職を生みます。アフガニスタンには復興のために巨額の援助金が流れ込みましたが、政府高官から援助団体に至るまで汚職がはびこり、警察なども予算は出ているが実際の警察官はいないといった状態でした。

民主主義に関しても、2014年の大統領選では、第一回の投票でマスード司令官の側近だったアブドゥッラー元外相が45%の票を獲得して第1位になるも、決選投票では世界銀行でエコノミストも務めたガニー元財相が1回目の得票率31.56%から逆転するといった不透明な結果となり、最終投票結果も発表されないなど、不十分な状態が続きます。
2019年の大統領選では投票率が18.8%にすぎず、ターリバーンのテロの脅威もあったとはいえ、もはや国民の声が反映されているとは言い難い状況でした。

アメリカの対アフガン政策も、オバマ政権下ではアフガニスタンの治安回復に重点が置かれましたが、トランプ政権になるとターリバーンとディールする方向に舵を切り、ハリールザードを特使に任命して2020年2月にドーハ合意に署名しますが、アメリカ軍の撤退が決まったことがターリバーンを勢いづけ、共和国政府にとどめを刺すことになります。

一方、ターリバーンは1外国軍の放逐、2イスラーム的統治の実現という2つの目標を掲げ、民衆の支持を集めていきます。外国軍による誤爆や外国人とアフガニスタン人の文化的な摩擦、政府の腐敗などがターリバーンを後押ししました。
2021年4月になるとターリバーンは農村部から大攻勢をかけ、占領地域を広げます。このころになると元軍閥と治安部隊の間で投降や逃亡が相次ぎ、ついにはカーブルの陥落となるのです。

ここまでが現状を説明した第一章で、第ニ章以降ではターリバーンが生まれ台頭した背景を見てきます。
1973年、それなりに安定を保っていたザーヒル国王の治世はザーヒル国王の従兄弟のダーウードによる無血クーデタによって終わります。
このダーウードがイスラーム主義者の宗教集団を弾圧し、さらに共産主義者の粛清も始めます。これに対して78年に共産主義者の人民民主党の青年将校らが軍事クーデタを起こしてダーウードの一族を皆殺しにし、共産主義者のタラキーを首班とするアフガニスタン民主共和国が成立します。
79年にはソ連がアフガニスタンに侵攻。ソ連と共産主義政府対これに抵抗するムジャーヒディーン勢力の戦闘が始まるのです。

このあたりの歴史的経緯を知ってい人は多いかと思いますが、本書を読んで驚くのはこの時期に行われていたことの残虐さで、共産主義政府の秘密警察は高貴な女性たちを夫の目の前で拷問にかけ、政治犯らを生き埋めにし、一方、ムジャーヒディーン勢力も暴行や略奪や誘拐を繰り返し、男色が盛んなカンダハール州では道行く少年を誘拐して強姦することもあったそうです。
92年にペシャワール合意に基づいて、ムジャーヒディーン各派の連立政権が誕生しますが、治安は回復しないままでした。

こうした中で起こった1994年春の武装蜂起がターリバーンの起源だと言われています。カンダハールの軍閥司令官が10代の少女2人を誘拐したとの噂が流れ、ムッラー・ウマルに率いられたターリブ(神学生)が野営地を襲撃して、軍閥司令官を処刑しました。
その後も、ターリバーンは悪事をはたらく軍閥司令官の成敗を行うようになり、しだいに「世直し運動」のような形で広がっていくことになります。

1995年になるとターリバーンは勢力を急速に拡大させてカーブルに迫り、96年9月にカーブルに入城しています。
98年にはドゥーストム将軍の支配するマザーリシャリーフを陥落させ、マスード司令官が支配するパンジシール渓谷以外の領土を支配することになりました。

ターリバーンの思想の源流はデーオバンド派というイスラームの改革運動にあるといいます。テーオバンド派はパキスタンにネットワークを持っており、パキスタン軍部もそれまで支持していたへクマティヤール首相派が劣勢になると、ターリバーンを支援するようになりました。
パキスタンでは1977年に軍事クーデタによってズィア・ウル・ハック政権が誕生すると、ハッド刑と呼ばれる身体刑が復活するなど急進的なイスラーム政策が進みますが、ターリバーンもこうしたパキスタンの動きの影響を受けていると考えられます。
パキスタンはインドに対抗するために隣国に兵站供給地を確保する「戦略的縦深」の観点からアフガニスタンを重視しており、ターリバーンを支援することによってこれを成し遂げようとしたのです。

第三章ではターリバーンを生んだアフガニスタンの文化的な特徴を見ていきます。
アフガニスタンは多民族国家であり、最大民族はアーリア系のパシュトゥーン人で人口のおよそ40%、ついでイラン系のハザラ人、モンゴル系のハザーラ人、テュルク系のウズベク人、トルクメン人などがいます。
遊牧を営む農畜産業を営む人々が多く、よそ者への警戒心を強く持つ一方で、客人に対しては丁重にもてなすという文化をはぐくんできました。
農村社会では伝統的な自己統治機構が重要な役割を果たしており、その統治は成文化されない慣習に基づく部分が大きいものでした。
パシュトゥーン人の農村社会では、「パシュトゥーン・ワリー」と呼ばれる成文化されていない行動規範があり、勇気や、客人に対する歓待、復讐などがあります。
また、「女性の尊厳(ナームース)」というものもありますが、パシュトゥーン人の社会では他人の妻や娘に関心を示すのは女性のナームースを傷つける行為とされています。例えば、「奥さんのご機嫌はいかがですか?」と尋ねることもナームースを侵害し、その男性の名誉を傷つけるものとなるのです。
このようにターリバーンの統治は、パシュトゥーン人の農村社会にあってはけっして突飛なものではなく、慣習に基づいたものでもあるのです。

そのため、1919年にイギリスからの独立を果たしたアヌーマッラー国王の近代化政策や、共産主義政権の社会改革も大きな抵抗にあいました。結果として、カーブルなどの都市では近代化が進んだものの、農村部の慣習は変わりませんでした。

第4章ではターリバーンの統治について分析していますが、ターリバーンの特徴はその複合性にあるといいます。
ターリバーンは民族を超越した宗教的要素を持ちつつも、パシュトゥーン民族の社会に根ざしたものも色濃く持っています。

カーブル陥落後にターリバーンの政治方針が示されましたが、筆頭に来ているのが「イスラーム的統治の実現」です。これが何を指すのかはっきりしない面もありますが、ハッド刑の導入などが含まれています。
また、恩赦も掲げていますが、ターリバーンの戦闘員がイスラーム共和国の治安部隊要員や少数民族など処刑しているとの報道もあり、この方針を末端でが守っている様子はうかがえません。少数民族に関しては強制移住が行われているとの話もあります。

注目を集めているのは女性政策ですが、女子教育の制限はシャリーアに基づいたものではありません。しかし、戦い続けてきた長年の男性社会の中で女性を排除したり軽視することが共有されており、内部からの反発と国際社会という外部からの圧力のなかで、とりあえずは前者が優先されている状況です。

第5章では周辺国に与える影響が分析されています。
まず、今回のカーブル陥落を引き起こしたのはアメリカ軍の撤退の決定ですが、これはトランプ大統領の個性といったもので説明できるものではなく、ここしばらく続いているアメリカの中東からの撤退の流れの中に位置づけられます。ですから、アメリカで政権交代が起きてもアフガニスタンに派兵するようなことは考えにくいでしょう(実際、バイデンになっても撤退は遂行された)。
アメリカに代わって影響力を持つことが指摘されているのが中国です。中国はアフガニスタンと国境を接しており、国内のウイグル族の独立運動を抑え込むためにもアフガニスタンは重要です。
資源開発などについても投資を行っていますが、アフガニスタンの「難しさ」については中国も承知していることであり、慎重に動くことも予想されます。
また、ロシアもこの地域のイスラーム過激派には神経を尖らせており、またケシの流通を防ぐ目的でもターリバーンと協力関係を続けると考えられます。

パキスタンにとってはターリバーンの復活は「勝利」と言っていいものです。ただし、パキスタンは国内のパキスタン・ターリバーン運動(TTP)とは対立関係にあります。
イランはターリバーンと複雑な関係で、イラン人外交官殺害事件などもあって関係は悪化しましたが、この地域からのアメリカ軍の駆逐という目標は共有しています。また、イスラーム的統治についても宗派は違えど共通しています。
また、ウズベキスタンはターリバーンと関係を続ける方針ですが、タジキスタンはアフガニスタン国内のタジク人の問題もあってやや敵対的です。
さらに、カタールやトルコなどもターリバーンに一定の影響力とチャンネルを持とうとしています。

懸念されているのがターリバーン支配下のアフガニスタンが「テロの温床」になることです。第6章ではこの問題を検討しています。
ターリバーンはアル=カーイダ(AQ)のビン・ラーディンらを匿っていたとの理由でアメリカから攻撃されたわけですが、ターリバーンが追放された後、AQとの間で関係の再構築が行われたとされています。
例えば、それまでアフガニスタンでは行われなかった自爆攻撃が用いられるようになったのは、これはイラクからの影響で、AQも関わっていると見られます。
AQは現在もアフガニスタンで活動していますが、ただし、AQの勢い自体はかつてに比べて低下しています。

一方、ISの流れをくむイスラーム国ホラーサーン州(ISKP)とターリバーンは敵対関係にあります。
「ホラーサーン」とはイランとアフガニスタやトルクメニスタンの一部を地域一帯を示す呼称ですが、もとはパキスタンにいた部隊がパキスタン軍に追い出される形でアフガニスタンに進出したのです。
ターリバーンとISKPの間で戦闘員が行き来しているとの話もありますが、指導者レベルでは対立しており、ISKPはターリバーンに対する攻撃を続けています。
2021年8月26日にカーブル国際空港付近で起きた自爆攻撃はISKPによるもので、ISKPという共通の敵に対してターリバーンとアメリカが協調するということも考えられます。実際、アメリカがISKPを叩こうと思えばターリバーンの協力は不可欠です。
こうしたテロ対策の必要性から、各国がアフガニスタンでの大使館再開などに動く可能性は十分にあります。

終章では、中村哲や緒方貞子の取り組みなどを紹介しながら、アフガニスタンの「発展」というものを考えています。
ターリバーンの成功は、国際社会が取り組んできたアフガン復興の失敗でもあります。今後はアフガニスタンの「内発的な発展」をより重視しなければならないというのが著者の考えです。
そこでヒントとなるのがアフガニスタンの農村を復興させるために現地の人々と用水路をつくった中村哲医師や、人間の安全保障を目指した緒方貞子の取り組みです。一足飛びの近代化ではなく、地道な支援が求められていると言えるでしょう。

このように本書はコンパクトな構成ながら、ターリバーンの実態や、諸外国の立ち位置、ターリバーンとその他のテロ組織の関係などがわかる内容になっており、今後の国際社会の動きを理解するうえでも役立つものになっています。
そして何よりも、日本に住んでいると理解し難い「ターリバーンの復活」という現象を、アフガニスタンの社会のあり方から説き起こして理解させてくれる本です。




なぜ経済的な成功が手放しで賞賛されるようになったのか?
本書はこの問いから始まります。アリストテレスは「貨殖」を批判しましたし、キリスト教でも富は警戒されていました。多くの宗教において貧者への施しが求められ、必要以上の蓄財は悪いものでした。
ところが、現代の社会では大金持ちは尊敬を集め、生き方の手本にもなったりしています。

著者はこの背景に人間観の転換があったと考えています。経済学が生み出した自己の利益を最大化することを目的としている「ホモ・エコノミクス」なるモデルが、いつの間にか実際の人間に重ね合わされ、そして一種の規範性を持つようになったというのです。
本書は、この「ホモ・エコノミクス」がいかに誕生し、それが経済学と共にいかに広まっていったかを思想史的に辿った本になります。
経済学がいかに生まれ、いかに数学を取り入れていったかということを、それぞれの思想家や経済学者のプロフィールなども交えながら語っていくさまは面白いです。
ただ、後半の議論の運び方にはやや一面的な部分もあると感じました。

目次は以下の通り。
第1部 富と徳
第2部 ホモ・エコノミクスの経済学
第3部 ホモ・エコノミクスの席捲

基本的には清貧をよしとしたキリスト教ですが、中世になると利子や商売をどのように位置づけるかが問題となります。
13世紀末以降、徴利禁止令の徹底によって姿を消したキリスト教徒の金貸しに代わってユダヤ人の金貸しが連れてこられ、のちには強欲の権化として差別されるようになります。
しかし、15世紀になると「モンテ・ディ・ピエタ」と呼ばれる公的な金貸し(質屋)が登場し、教会も積極的にその設立を呼びかけるようになります。建前としては貧民の救済のためなのですが、喜捨や施しではなくあくまでも貸付でした。

こうした中で、だんだんと貧者を問題視するような言説も生まれてくるわけですが、著者はここでメルヴィン・ラーナーの「公正世界仮説」というものを紹介しています。
これは人は窮地に立たされた人や一方的な暴力の犠牲者に対して、その人にも何か落ち度があったのではないかと考えて自分を安心させるというものです。世の中の理不尽さから目を逸らすために被害者にその責任の一部を転嫁するというのです。
こうした考えをもとに「悪い貧民」というカテゴリーが生まれてきたとも考えられます。
ヨーロッパにおいて「富と徳」をめぐる問題を投じたのがマンデヴィルです。『蜂の寓話』(1714年)で有名ですが、マンデヴィルは人々の私益の追求が全体の利益になるということを、かなりエグい形で示しました。
スコットランドのハチスンはこれに反論していますが、それは商売などにも一定の節度を求めるもので、徳と富の両立が目指されています。
このハチスンの後継者がヒュームやスミスですが、ヒュームになると徳と富が必ずしも対立的には捉えられなくなります。

ヒュームは、快楽を与えてくれる心の性質を「有徳」、苦痛を生み出すものを「悪徳」とし、有用性、あるいは効用、有利さ、利益といったものを徳の基準としました。
ただし、それは自分の主観的快苦だけではありません。「共感」という働きによって他者の快苦もその判断に含まれ、それが道徳やルールの源泉になるのです。
また、ヒュームは古代スパルタを持ち出して商業を抑圧する社会を批判し、商業の発展や都市化が「洗練」をもたらし、人々を穏和で冷静な存在にしてほどほどの平和な社会を生み出すとしました。
ただし、この「洗練」と、例えばゾンバルトの指摘する「奢侈」や「見せびらかし消費」を分ける線をひくのは難しいもので、ある意味で奢侈に向けた欲求の道を開いたとも言えます。

こうしたヒュームの考えに対して、意外にもアダム・スミスは少し違った考えを持っていたと言います。
アダム・スミスは人々が富を目指す理由として、金持ちや権力者は見ているだけで快をもたらす存在だからだと言います。一瞬、よくわからないような考えに見えますが、セレブやストロングマンを好む人々のことを考えれば納得いくでしょう。
スミスはこうした傾向が人々が権力者や金持ちに擦り寄る傾向をもたらし、道徳の退廃を招くと考えます。
スミスは下層階級や中産層にとっては富の追求のための行為が堅実さや節度といった徳をもたらすと考えましたが、富裕層の段階では財産の追及と徳の追求は両立し難いと考えていたのです。

富と徳を結びつけた有名な人物としてアメリカの100ドル札にもなっているベンジャミン・フランクリンがいます。
フランクリンは「節制・沈黙・規律・決断・節約・勤勉・誠実・正義・中庸・清潔・平静・純潔・謙譲」という13の徳を掲げ、チェックシートをつくってそれを守れたかどうかを毎日書き留めたといいます。そして、フランクリンの中ではこれらの徳と富(成功)が分かち難く結びついているのです。
ちなみに勤勉の権化のようなフランクリンですが、『自伝』の中の「時間表」を見ると、仕事は午前3時間、午後3時間の計6時間で(97p)、現代から見るとのんびりした日課です。

このように18世紀になると「徳」と「富」の一体化が進むわけですが、「ホモ・エコノミクス」の誕生は、経済学の発展と経済学への数学の導入が大きなきっかけとなったといいます。第2部ではこの動きを追っています。

経済学の歴史においては、「理論派」と「歴史学派」の対立がありました。イギリスではリカードウに対して歴史学派が反発する形で論争が起こりましたが、ドイツでは逆に歴史学派の重鎮シュモラーに対する理論派のメンガーの挑戦という形で論争が行われています。
理論派は演繹的な理論によって経済学を科学として確立することを重視しましたが、歴史学派は帰納的な方法論を重視ししました。

こうした中で、J・S・ミルは、人間の多面性を認める一方で、演繹的な方法論を支持し、富を所有しようと欲して合理的に行動する人間のある側面を分析する学問として「政治経済学」という分野を打ち立てようとしました。「ホモ・エコノミクス」の原型になります。
オーストリア出身のメンガーも『社会科学、とりわけ政治経済学の方法に関する研究』の中で、「ホモ・エコノミクス」に対する歴史学派の批判に応えています。
メンガーによれば、完全に合理的で経済的な利得動機だけで行動する人間があり得ないのは当然だが、それは化学における「純物質」や物理学における摩擦のない世界と同じで、ある種の理念系だというのです。

メンガーは主著の『国民経済学原理』の改訂に力を注ぎますが、生前に完成させることはできませんでした。メンガーは現実の複雑さを理論に取り入れようと悪戦苦闘しましたが、同じオーストリアのハイエクらが受け継いだのは『国民経済学原理』の第一版でした。
著者はこのあたりの流れについて「理論の前提として人間がホモ・エコノミクスであると仮定しよう→人間は事実としてホモ・エコノミクスだ→人間はホモ・エコノミクスとしてふるまうべきだ」(133p)という「仮定」→「事実」→「規範」という拡張があったと批判しています(ちなみにハイエクに関しては、自由市場経済を擁護するために自身の理論が新自由主義の風潮の中で雑に利用されることを黙認してきたとみている)。

メンガーは限界効用逓減の法則という、財から得る効用はだんだんと減っていくという考え(本書では、りんごは一口目はおいしいが、だんだん飽きてきてこってりとした家系ラーメンが食べたくなると説明されているが、普通の人にとっては家系ラーメンとりんごが逆では?)を経済学に導入し、「限界革命」を担った人物の1人としても知られています。
この「限界革命」の立役者としては他にジェヴォンズとワルラスがいます。

ジェヴォンズは、当初は自然科学を専攻し、一度職についてから経済学に目覚めたといいます。
人々の行動を効用から捉えようとする考えはベンサムにもありましたが、それぞれの個人の間の効用をどう比較するかが課題となっていました。
この効用に対して、ジェヴォンズはだんだんと効用が減っていくという性質に注目し、この動きを曲線として描き、それを微分して得られる接戦の傾きを効用として捉えようとしました。
複数に人間の間の効用は直接比較できませんが、市場では交換が行われており、この効用をもとにして、これ以上の交換が行われない均衡点が求められます。この均衡点が「てこの原理」における釣り合いに重ねられるのです。

レオン・ワルラスの父のオーギュスト・ワルラスも経済学者であり、オーギュストは数学者のクールノーと出会って経済現象を数学で記述するというアイディアに賛意を示しています。
息子もこの考えを受け継ぐわけですが、レオン・ワルラスは父から土地国有化論というアイディアも受け継いでおり、それが原因でフランスの学会でポストを得られなかったとも言われています。
ワルラスはローザンヌの力学教授であったアントワーヌ・ピカールの助けなども得ながら、経済学に数学を導入し、一般均衡の考えにたどり着きました。
ワルラスもジェヴォンズと同じように、二者にとって最も効用が大きくなり受給がバランスする点というものが方程式によって示されますが、これは効率的であるだけでなく、誰も他者に比べて損していないという点で公平でもあります。

このように経済学に力学の考えが取り入れられたことによって、「富と徳は両立するのか?」「商業の発展が新しい道徳をもたらすか?」といった問いは背後に退きました。
また、市場の均衡と財の配分が重視され、その背後にあるはずの人間の欲望といったものは分析の対象から外れていきます。そして、市場の「外部」に関しても忘れられていくことになったのです。

第3部ではこうして「科学」の装いをまとった経済学がどのようにその範囲を広げ、さまざまな影響を与えたかが批判的に検討されています。
前半では「シカゴ学派第二世代」と呼ばれる人々がとり上げられていますが、本書で「シカゴ学派第二世代」の代表とされているのはゲイリー・ベッカーとセオドア・シュルツになります。

まずベッカーですが、ベッカーは差別や犯罪といった分野に経済学の考えを持ち込んだことで知られています。
ベッカーは、差別は経済的な損失を発生させるが、差別をする人間はそれをわかっていやっている。つまり、差別に対する好み(taste)を有していると考え、差別にまつわる非合理さをコストに換算して分析しようとしました。

バッカーは犯罪に関しても、犯罪によって社会が被る損失と犯罪を取り締まるために社会が必要とする負担の均衡という形で考え、犯罪に対する対策を考えました。
ベッカーは「ある人が「犯罪者」になるのは、他の人と基本的な動機が異なるからではなく、犯罪の費用と便益が異なるからである」(215p)と述べていますが、まさにさまざまな社会現象を「ホモ・エコノミクス」の観点から分析していると言えるでしょう。

ベッカーの広めた概念として重要なのが「人的資本」です(シカゴ学派に人的資本論を導入したのはミンサーだと言われる)。
これは今まで時間単位で測られるのみだった労働力の内実を説明しようとするもので、投資によって増えると考えられています。人は消費をするか、自らの人的資本の価値を上げるために投資するかという、企業と同じような選択を行っているというのです。
人的資本は教育への投資などを考える場合には便利な考えですが、これによって教育もその「収益」が問われることになります。著者は日本の近年の大学改革の背景にもこうした流れの中にあると見ています。

さらに著者はシュルツの農業経済学と「緑の革命」も批判的にとり上げます。
シュルツは途上国の農民が貧しいのは無気力や新しい方法への無関心などではなく、これ以上の追加投資や労働を行っても精算がさほど増えない「慣習的農業」における均衡状態にいるからです。
ここから抜け出すには「近代的農業」への脱皮が必要だとシュルツは言いますが、こうしたシュルツの考えを歓迎したのが、「緑の革命」を推進しようとしていた人々です。
「緑の革命」では高収量品種の導入や化学肥料の投入によって農業の生産性を引き上げる試みがなされましたが、シュルツの考えがその理論的背景となりました。
「緑の革命」は世界の食糧事情を改善したとして評価されていますが、種子や肥料を買う必要があるといった問題点もあります。著者はさらに遺伝子組み換え作物なども一連の流れと捉えてこれを批判するわけですが、ここはやや勇み足のような気もします。

第3部の後半では、政治学への経済学の進出がとり上げられています。ゲーム理論、アローの社会的選択理論、「行動主義革命」などに簡単に触れた上で、ダウンズとブキャナンについて重点的に検討しています。

ダウンズは『民主制の経済理論』で政治のおける投票行動に市場の考えを持ち込みました。
有権者は投票において、投票所に足を運ぶコストや候補者を選ぶ情報コストを負担します。このコストと実現される政策からもたらされる便益によって投票行動は決まってくるというのです。
政党も有権者と同じく、選挙の勝利を目指して「合理的」に行動します。二大政党の場合であれば、有権者が一番多くいるボリュームゾーンを狙って両党の政策は似通ってくると、ホテリングの店舗立地の理論を使って分析しました(もっともダウンズはイデオロギー的な分裂によって項はならないケースも想定している)。

ブキャナンはタロックとともに『公共選択の理論』を書いていますが、政治社会のすべての争いを個人の選択の問題に還元して読み解こうとしたことが特徴になります。
さまざまな問題に対して、それぞれの個人はまずは自発的な調整を試みますが、市場への参加が多くの人に利益をもたらすように、政治への参加も利益をもたらします。公共心や他者を思いやる心などがなくても政治は機能するのです。
ブキャナンは『公共選択の理論』の「日本語版序文」で自分たちの考えをロールズになぞらえていますが、自らの利益を考える個人が憲法のような基本的なルールを生み出すさまをブキャナンらは描き出しています。

著者は、こうした「ホモ・エコノミクス」を下敷きにした政治理論が「政治嫌い」を増やしているのではないかと、コリン・ヘイの議論を援用しながら述べています。
政治アクターも自己の利益のために動いているわけであり、エリートたちも公共心などのためではなく自己利益のために政治を利用していると考えられるからです。
そして、エリートも自己利益のことしか考えていないのならば、わざわざ税金を集めて甘い汁を吸わせるよりも市場に任せたほうがよいでしょう。こうして新自由主義による「脱政治化」の動きが支持されるのです。

このように著者は「ホモ・エコノミクス」という人間像と、それを使った経済学の政治などの他分野への侵略を問題にしているわけですが、これはやや一面的にも思えます。
経済学が他分野に手を伸ばしてきたという面もありますが、同時に社会問題を解決しようとした政治が経済学的な知を求めた面もあるでしょう。アーレントのように「政治に社会問題の解決を求めてはいけない」という考え方もできますが、経済成長や年金の支給などが政治の重要問題となっている現代において、あまり現実的とはいえないでしょう。
ジェイン・ジェイコブズは『市場の倫理 統治の倫理』で、「道徳体型には市場の倫理と統治の倫理という2つのものがあって、それが混ぜ合わせると腐敗が起きる」といったことを主張しましたが、本書もこうした二面性に着目したほうが説得力が出るではないかと思いました。


「哲学」というと、どうしても西洋のものということになり、中国や日本のものは「思想」という形で括られることが多いですが、本書は、あえて「哲学」という言葉を使い、西洋哲学や仏教との比較や対話も試みながら、中国哲学の歴史を描きだしてます。
中国の思想を紹介する本は数多くありますが、基本的には諸子百家を中心にそれぞれの違いなどを論じたものが多いです。そうした中で、本書は、中国内の関係(例えば孔子と老子)だけではなく、中国の外から来た思想との関係(例えば儒教と仏教、キリスト教)を見ていくことで、より立体的な中国哲学の姿を構築しています。
索引なども入れれば360pを超える本で、内容的にも難しい部分を含んでいるのですが、今までにないスケールで中国の思想を語ってくれている本であり、中国社会を理解していく上でも興味深い論点を含んだ本だと思います。

目次は以下の通り。
はじめに――中国哲学史を書くとはどういうことか
第1章 中国哲学史の起源
第2章 孔子――異様な異邦人
第3章 正しさとは何か
第4章 孟子、荀子、荘子――変化の哲学
第5章 礼とは何か
第6章 『老子』『韓非子』『淮南子』――政治哲学とユートピア
第7章 董仲舒、王充――帝国の哲学
第8章 王弼、郭象――無の形而上学
第9章 仏教との対決――パラダイムシフト1
第10章 『詩経』から『文心雕龍』へ――文の哲学
第11章 韓愈――ミメーシスと歴史性
第12章 朱熹と朱子学――新儒教の挑戦
第13章 陽明学――誰もが聖人になる
第14章 キリスト教との対決――パラダイムシフト2
第15章 西洋は中国をどう見たのか1――一七〜一九世紀
第16章 戴震――考証学の時代
第17章 西洋近代との対決――パラダイムシフト3
第18章 胡適と近代中国哲学の成立――啓蒙と宗教
第19章 現代新儒家の挑戦――儒教と西洋哲学の融合へ
第20章 西洋は中国をどう見たのか2――二〇世紀
第21章 普遍論争――二一世紀
おわりに

目次を見てもらえばわかるように、論点は多岐に渡っていますので、ここでは個人的に気になった部分を中心に紹介していきます。

本書の記述は孔子から始まりますが、その思想の核心は「仁」だといいます。
フランスの中国学者のアンヌ・チャンは仁について「孔子の斬新で大いなる概念であって、人間に賭けるという思いが結晶化したものだ」(51p)と述べています。
日本では「仁」というと「仁政」と結びつきやすいですが、孔子は「広く民に恩恵を施して、万人に必要なものを与えること」は「もはや仁とは言えず、きっと聖であろう」と述べています(51p)。仁とは人間的な関係に基づくものなのです。

ただし、孔子をヒューマニズムと結びつけることに著者は慎重です。孔子の教えには宗教的な超越性への志向もありますし、仁も「礼」という形式に沿って示されます。
その礼についてですが、孔子は形骸化した礼であっても守るべきだとしている一方で、時代の変化の中で礼が形骸化することも認めています。

孔子は政治を司るとしたら「名を正す」(「正名」)と言っています。「政は正である」(60p)と言うように、政治の目的は正しい秩序の実現として捉えられています。
これは守旧的な考えにも見えますが、一方で力が正義だいう考えを認めないことでもあります。
この「正名」の考えを哲学的に突き詰めたのが荀子で、「名には固有の意味がない。約束をして命名し、その約束が定着し慣習となったらそれをその名の意味という」(67p)と述べ、名が流動的であることを示唆しています。
そして、王は旧名にそって新しい名前をつけることで、民を統率できるとしています。

この荀子が性悪説をとったのに対して性善説をとったのが孟子です。
『孟子』の中に、王が犠牲に捧げられる牛を見て憐れに思い、羊に替えさせたという話が出てきます。人々は牛がもったいないから羊に替えた、つまり王はケチだと考えましたが、孟子はこの王の判断を誉めました。犠牲になる牛を見て、憐れだと思った心(惻隠の心)こそが仁の始まりだからです。私たちの心にはこうした憐れみの心が備わっており、それを伸ばすことで正しい存在になっていくのです。
それとともに孟子は礼を失った王を討伐することも認めています。一種の正戦を認める考えで、著者は「礼を民主主義やその他のイデオロギーに置き換えてみれば、今日の世界でも十分に通用してしまう」(93p)と述べています。

孟子にしろ荀子にしろ人々を「教化」(啓蒙)することについては共通していましたが、荘子にはこうした考えはなく、すべての変化を受け入れるという徹底的に受動的な姿勢となります。
荘子は「死者も、はじめに生を求めたことを後悔しているのではないだろうか」(83p)と言いますが、著者はこれを単なる運命論とはとらずに、この世界の可能性を想像するラディカルさを秘めていると考えます。

一般的には老子→荘子という流れで認識されていますが、テキストの成立では『老子』は『荘子』よりも後のものだと言います。
『老子』のポイントとしては生成論がとり上げられることが多いですが、著者は『老子』のポイントを「水の政治哲学」と見ています。老子は「天下で水より柔弱なものはない。しかし、堅く強いものを攻めるのに水に勝るものはない」(106p)とし、王のあり方にも水の動きを投影しました。
『老子』において理想とされる国は「小国寡民」であり、他の共同体との交わりがない世界です。これはユートピアですが、同時に他者が消されたディストピアとも言えます。

一般的に道家と法家は対照的な思想と考えられていますが、『韓非子』の中には『老子』を解釈したテキストがあります。アンヌ・チャンによれば「自然の秩序と人間の秩序の連続性」という点では『老子』と韓非の考えは共通しており、その上で韓非は「人間の秩序の求めに応じて、天の秩序を裁断した」(111p)のです。

漢帝国は武帝期の途中から「天」を持ち出して、その正統性を打ち立てようとしますが、このときに活躍したのが董仲舒でした。
董仲舒は「人を作るのは天である」とし、「人が人であるのは天に本づく」としました(123p)。そして、「天が民のために王を立てる」と考えます。天によって皇帝の権力を基礎づけているわけですが、これは同時に天によって皇帝権に制約がかけられることでもあるのです。董仲舒は天は天災などによってその意思を示すと考えました。
一方で王充は天災は自然現象であり、天は自然であり、無為であるという道家の考えを引き継ぎつつ、天と人を媒介する聖賢という特別な人間を想定しました。

後漢崩壊後になると、玄学という道家・道教的な思想が生まれます。後漢末の桓帝の治世において、宦官に反対する士人たちがだなつされる事件が起こります。この後、士人たちは政治から身をひいて「清談」に耽るようになるのですが、そこで生まれてきたのが玄学です。

その代表的な人物の一人である王弼は、無を万物の根源とする形而上学を唱え、無為の中でそれぞれがあるべき場所にある一へと集約された世界を理想としました。「自然」を理想とする本質主義とも言えます。
西晋の時代の郭象は、無が何かを生じさせることを否定した上で、「では、何かを生じさせるのは誰なのか。独りでに、自ずから生じただけである」(145p)と述べ、自然のままにすべてが自足するような世界を理想としました。

こうした中国の思想状況の中で外来思想としてやってきたのが仏教です。
六朝期には儒学者の范縝と仏教徒の間で「神滅不滅論争」が行われています。これは仏教徒が「形(身体)」が滅んでも「神(精神)」は滅びないと身体と精神の二元論を主張したのに対して、范縝が形が滅べば神も滅ぶと一元論を主張したものです。
范縝によれば、刀がないのに鋭さだけが残っていることがないように、形と神は不可分だというものでした。

しかし、この議論だと形と神が一対一で対応している必要があります。沈約は范縝に議論に従うならば、死体も物質である以上、そこに何らかの「死神」を想定する必要が出てくるのではないかと述べています。
また、仏教は仏になるという形で救済を示しましたが、范縝はあくまでも現世にこだわり、そこですべてのものがあるべき姿になることで救われるという本質主義を主張しています。

南北朝から隋・唐の時代、儒教は仏教に押され気味でしたが、その儒教を独自性を回復させようとしたのが唐の韓愈です。
韓愈はブッダを夷狄とし、先王の道を説きました。悪に溢れた人間の世界に、聖人が秩序を与え道を教えました。これが先王の道です。しかし、この聖人の道は堯から舜、そして代々の王〜孔子と伝えられましたが、孟子のところで断たれている状況です。
この道が失われた状況において、韓愈は天と鬼神に頼み、さらに「古」を参照しながら、それを模倣するのではなく自己発出する「古文」を生み出そうとします。新しい言葉によって古き伝統を取り戻そうという試みです。

この韓愈の挑戦を引き継ぐ形で、仏教に匹敵する内面の形而上学を確立したのが朱熹になります。
朱熹は、身体的、仏式的な気と、天の理を共有する性からあらゆるものは説明できると考えました。性は本来、性善的なものですが、気としての身体や、欲望が偏った私から悪が生じます。
この悪を制する道として、朱熹は礼の他に、その悪を自己欺瞞として定義し、誠意によって乗り越える道を示しました。自分の内面に向き合って悪を乗り越えるという禅に似たやり方を朱熹は採用したのです。
この自己啓蒙は困難なものですが、朱熹は「物の地に至り、地を極めたること」である「格物致知」がこれを助けると考えました。また、君主が自己啓蒙を行うことによって民もまた自発的に自己啓蒙を行うと考えました。ただし、これは君主は慎むべきだという朱熹の別の主張とは矛盾します。
一方、明末清初の王船山は、君子の閉ざされた自意識こそが自己欺瞞を可能にし、巨悪をなすという理論を展開しています。

朱熹の打ち立てた朱子学は元の時代に科挙の中心となり、明の科挙においては朱子学の解釈のみが採用されるようになりました。そうした中で登場したのが王陽明であり、陽明学になります。
朱子学と陽明学は対立的に論じられますが、著者はむしろその徹底と見ています。王陽明は朱熹が格物致知においてこだわった外部性を消去し、内部性に徹したのです。

陽明学は独我論とも思われていますが、他者の心を想定していることから著者は「弱い独我論」だと考えています。王陽明によれば「天地万物と人はもともと一体」(204p)であり、この一体を支えるのが「良知」という知です。
良知には「自ら知る」という自己反省的な構造があり、善であれ悪であれ意において作動したその時に、人は良知によってそれを知ります。つまり小人も善悪を自ら知ることとなります。
ここから「満街これ聖人」(207p)という、すべての人が君子であり成人であるという考えが生まれてきます。

この陽明学は、「独りよがりの信」に陥ることをどのように避けるかで、王学左派と王学右派に分裂しますが、王学右派の流れを汲む東林派は公共空間についての思考を深めました。繆昌期(びゅうしょうき)は是非の判断について民衆に求めました。民衆は「天下のことに携わっていないからこそ、その態度は衡平であり、見方は明晰であって、まっすぐに胸の中に満ち、喉に迫り、口を衝いて出て、天下の是非を確定するに至る」(212p)というのです。
ただし、同時に繆昌期はその公論はあくまでも士大夫によって代理される必要があると考えていました。

明末になるとキリスト教が中国にやってきます。イエズス会のマテオ・リッチは仏教の殺生戒や輪廻転生をめぐって仏教徒と論争を行なっています。このとき、仏教側が孟子の牛を見た王の憐れみの心を持ち出しているのは興味深いところです。

一方、中国についての情報はヨーロッパの思想にも影響を与えました。ライプニッツは朱子学に神に基づかない世界観を見ようとしましたし、中国は聖書よりも古い「古代」として注目を浴びました。
ディドロは中国が神なしで秩序ある世界を構築したと読める議論をした一方、「東洋の精神は、静かで、怠惰で、本質的な必要に閉じこもっていて、自分たちが打ち立てたいと思うものにとどまっていて、新しさに欠けている」(241p)とも述べています。
これは19〜20世紀の中国イメージに通じるものであり、ヘーゲルも中国は変化がなく「世界史の外にある」(244p)と書いています。
清の乾隆帝は『四庫全書』の編纂を命じました。こうした中で考証学が発展しますが、考証学の泰斗が戴震です。
耐震は宋儒は「理に固執して権がない」(252p)と言いましたが、これは朱子学のような大きな理にこだわるのではなく、判断力である「権」を重視するということです。著者はこうした戴震の議論をヒュームと重ねています。

19世紀、中国の前に再び西洋が登場しますが、中国の思想にもインパクトを与えたのがダーウィンの進化論です。
厳復は、西洋のさまざまな思想書を翻訳するとともにスペンサーの社会進化論を紹介しましたが、「進化」を「天演」と訳し、中国の天の考えに引きつけて考えようとしました。

日清戦争に敗北すると、康有為や梁啓超などが近代化を進めようとします。康有為は自らの考えるユートピアと孔子の理想を重ねましたが、梁啓超になると儒教的な伝統を批判して、民衆が「国民」になることを訴えています。
ナショナリズムが盛んになる中で、プラグマティズムをもとにして新たな中国哲学を確立しようとしたのが胡適です。
胡適はジョン・デューイに学びましたが、デューイが歴史的な因果関係を否定しそのプロセスに注目しましたのに対して、胡適はむしろ祖先とその子孫のつながりを重視します。
そのせいもあるのか、最初は儒教に否定的だった胡適ですが、のちに孔子をメシアと捉え儒教を新宗教として描き出そうとします。胡適は自分の思想の「短所は浅くてわかりやすいことだ」と述べていますが、儒教をキリスト教に読み替えるような形も「浅い」啓蒙の一つのスタイルと言えるかもしれません。

20世紀後半になると「新儒家」と呼ばれる運動が起こります。
新儒家のスローガンとして「内聖外王」というものがあります。これはまず自らの内において「成聖」を目指すというもので、仏教の考えも取り入れながら聖人の道を目指すものです。そして、同時に経世済民のための「外王」の道をそこにいかに接続するかということが課題になります。

こうした中で牟宋三(ぼうそうさん)は、外王を「新外王」としての民主主義に置き換えるという道を示しました。牟宋三は共産党の弾圧から逃れるため、1949年に台湾に渡っていますが、昔からの「内聖」と「外王」を直接結びつけるのではなく、自己否定を通じて新たな「外王」に至ろうとしました。
一方、唐君毅は普遍的な理によって、「内聖」と民主主義をつなげようとしました。

1980年代になると、大陸でも儒学の復興の動きが顕著になります。
共産党を儒化して「儒士共同体」とし、マルクス・レーニン主義を「孔孟の道」に代える儒教国教化を唱えた康暁光のような人物もいますし、現在の中国社会を支えるものとして儒教に注目が集まっています。
また、「天下」や「王道」といった中国的な普遍を語る言説も活発になっています。ただし、ここで持ち出される「天下」はどうしても復古的な響きのある言葉で、「中華の復興」に過ぎないのではないかという声もあります。
第21章での議論を見ると、「「アジア」の共通点として「西洋ではない」こと以外の普遍的な何かがあるのか?」という問いが中国でもあるようです。

このように非常に内容に詰まった本ですが、これでも言語や詩に関わる部分などはばっさりと落とした紹介です。
なんとなく、諸子百家+朱子学+陽明学で終わってしまいがちな中国思想に関する知識ですが、本書ではこれを「哲学」として捉え、そのダイナミックな動きを歴史の中に追っています。「歴史の外」にあった中国哲学を「歴史」に取り込もうとした野心作だと言えるでしょう。


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