2020年02月
副題は「雇用、経済成長から治安まで、日本は変わるか」。文末が「か」という疑問で終わっているのがこの本の性格を示していて、「移民が来ると社会はこうなる」と断言するのではなく、さまざまな研究を紹介しながらその影響を検討するような形になっています。
移民がもたらす経済的な影響を分析した本としてはジョージ・ボージャス『移民の政治経済学』がありますが、本書はそのボージャスの研究も紹介しつつ、それとは違った結論を導き出している研究も紹介し、より慎重な検討を行っています。
もっと白黒をつけてほしいという感想を持つ人もいるかもしれませんが、個人的にはこれくらい慎重であったほうがこういった大きな問題を考える上では役に立つと思いますし、原理から演繹するのではなく実証を重視するという近年の経済学の流れにも沿っていると感じました。
目次は以下の通り。
序章 移民と日本の現在第1章 雇用環境が悪化するのか第2章 経済成長の救世主なのか第3章 人手不足を救い、女性活躍を促進するのか第4章 住宅・税・社会保障が崩壊するのか第5章 イノベーションの起爆剤になるのか第6章 治安が悪化し、社会不安を招くのか終章 どんな社会を望むのか
まず、本書では移民を「海外から来て、長期的に住んでいる人」(vi p)程度に緩やかに捉えています。
日本における移民の数は国連の統計によると約250万人。かなりの数に見えますが、人口に占める割合でいうと2%でドイツの15.7%やイギリスの14.1%に比べるとずいぶん低いです。またお隣の韓国は2.3%です(1−2p)。
厚生労働省の「外国人雇用状況」によると、2018年の外国人労働者の数は146万人。08年の48.6万人から約3倍になっています(2p)。そして、2018年の出入国管理法の改正により、外国人労働者はさらに増えると考えられています。
こうした移民の増加が何をもたらすのか? 第1章ではまず雇用環境への影響を分析しています。
経済学では移民を市民に対して代替的な存在と見るか、補完的な存在と見るかで考えが分かれます。移民が市民と同じ仕事をするならば市民の雇用環境は悪化するでしょうし、家事サービスや介護などの市民があまりやらない仕事をしてくれれば、市民の生産性が伸びて、市民の給与が上る可能性があります。
では、実際のところどうなのか? 1979〜85年にかけてキューバ移民について分析した研究では移民の流入は影響がないとしています。しかし、ボージャスは労働者の分類に基づいた分析を行い、学歴や職歴が移民と似た労働者で比較すると、移民は同じ区分の市民の給与を引き下げると主張しました。
しかし、これには反論もあります。オッタビアーノとピエリの研究によれば、移民は元からいた移民の賃金を引き下げるものの、市民の賃金に関しては引き上げると言います。移民と市民は別の仕事につくのです(つまり補完的な関係)。
ただし、難しいのが移民の格下げ問題と呼ばれるものです。移民は言葉の問題などもあって本来の学歴よりも賃金の低い仕事につくことが多く、移民の技能労働者が市民の単純労働者と競合するケースもあるのです(30p図表1-4参照)。
移民が市民の雇用状況に与える影響はこのようにはっきりしない部分も多いのですが、「移民によって雇用環境が悪化する市民層がいそうなことは確かだ」(43p)と著者は述べています。
第2章は移民によって経済成長が起こるのかということが検討されています。
まず、労働者が国境を超えて移動するようになると経済は1.7〜2.5倍に成長すると考えられています。これは途上国の労働者が設備の整った先進国で働くようになれば生産性が上がるからです。しかし、この試算は途上国から数十億人が移動するような仮定のもとでのものであり、現実的ではないですし、ここまで人口構成が変われば途上国の非効率なしくみが先進国に持ち込まれる可能性もあります。
間接的な効果としてな、移民が増えると貿易が増えるというものがあります。これは移民のネットワークが取引を円滑にし、貿易を促進するからです。
データでもアメリカにいる移民と彼らの出身国との貿易には正の関係があるといいます(54p)。ただし、影響は輸出よりも輸入のほうが大きいそうです。また、移民と知的財産貿易にも関係があると考えられ、アメリカにいる移民が増えるとアメリカの知的財産収入が増えるとの研究があり、この傾向は日本に関する研究でも確認されています(59-61p)。
さらに海外から直接投資に関しても移民の数と関係があると言われています。日本においても移民が増えると移民のネットワーク効果で海外からの直接投資が増えるという研究があります。ただし、短期的には移民が増えると直接投資が減るという傾向もあります。これは移民が増えればお金(投資)が必要なくなるからだと考えられます。
しかし、長期的には直接投資を増やす効果があると考えられ、技能労働者を受け入れると直接投資が増える傾向があります(逆に非技能労働者は直接投資を減らす(64-68p))。また、海外からの観光客にも直接投資を増やす効果があると言われています。
第3章では具体的な職種(看護師と建設労働者)に絞って移民の影響を分析しています。
看護師は多くの先進国で不足気味で、日本でもインドネシア、フィリピン、ベトナムから看護師候補者を受け入れています(ただし試験の合格率は2018年で17.7%と低い(82p))。
アメリカの研究によれば、移民の看護師を受け入れると市民の看護師は減る傾向にあります。長期的データを用いた研究によると、移民の看護師が増えると、特に45〜54歳の市民看護師が辞める傾向があり、移民看護師への依存が高い州ほど看護師資格試験を受験する市民の数を減少させています(80-81p)。賃金が下がったわけではないのですが、コミュニケーションがとりずらいなど、職場環境が悪化したと考える人が増えたのかもしれません。
建設労働者も日本では不足が叫ばれています。ノルウェーでの研究では、移民の建設労働者を受け入れた場合、配管や電気設備などの免許などが必要な職種では賃金は低下しませんが、塗装や大工などの免許などが必要のない分野では賃金の伸びを抑制するはたらきがあります(86p図表3-2参照)。また、建設業から退出してしまう人も多く、辞めた人の36%は生活保護などの公的福祉給付金を受けていました(87p)。一方、消費者にとっては建設サービスの価格が低下するという恩恵があります。
日本でも建設業で働く外国人は急速に増えており、影響が出ることも考えられます。
移民は女性の社会進出を後押しする可能性もあります。アメリカの研究では1980〜2000年までに流入した単純労働者の移民は賃金の高い女性が働く時間を週あたり20分増やしたといいます(92p)。移民が家事労働などをしてくれるからです。
ただし、だからといって仕事をしていなかった女性が働くようになるわけではなく、あくまでも恩恵を受けるのは賃金水準の高い一部の女性です(ちなみにここでは働く女性が増えると高卒男子の賃金が低下し、大卒男子との格差が拡大するというアセモグルの研究も紹介している(95-96p))。
第4章では、移民が生活や住宅、税、社会保障にどのような影響を与えるかが分析されています。
移民が来ると安く買い物ができるようになって購買力が上がるという研究があります。しかし、その内実を見てみると得する人と損する人がいて、損する人は「高校を卒業していない市民」となっています(104p)。高学歴の技能労働者は家事代行サービスの価格低下などによって恩恵を受けますが、低学歴の単純労働者は移民による賃金低下がサービス価格の低下以上に響いてきます。「国全体では恩恵があっても、そのために社会的弱者が犠牲になる」(107p)のです。
住宅に関しては、移民が増えればその分需要が増えるので住宅価格は上がるのではないかと考えられます。80〜90年代のアメリカでは都市人口の1%に相当する移民が流入すると家賃や住宅価格がだいたい1%押し上げられるという研究がありますし(113p)、外国人観光客が増えた倶知安町などは地価が上昇しています。
一方、移民の流入が住宅価格を下げるとの研究もあります。イギリスの2003〜10年までのデータによると、地域人口の1%に相当する移民が流入すると住宅価格が1.7%下がるそうです(117p)。これは、移民が増えると所得の高い市民がその地域から出ていくからだと考えられます。高所得の市民と低所得の移民が入れ替わるわけです。
一見矛盾する現象ですが、答えとしては「狭い範囲では下がり、広範囲では上がる」ということになります。このため、所得による住み分けが加速する可能性もあります。
税と社会保障に関しては、移民は税をあまり払わず福祉の給付を受けることも多いためにマイナス要因だと考えられることもあります。しかし、イギリスの分析では、移民は社会保障を受けない傾向にあり財政的に貢献するとの結果が出ています。ただし移民によっても違いがあり、中東欧地域以外のEUからきた移民の財政的な貢献は大きいですが、EU以外から来た移民の貢献の度合いは低いです(125p図表4−4参照)。一方、アメリカでは移民の財政的貢献が低いとの分析も出ています。この背景にはやってくる移民の能力が影響を与えている可能性もあります(アメリカにやってくるメキシコからの移民はイギリスにやってくるポーランドからの移民よりも学歴や技能が劣っているのかもしれない)。
日本に関する研究では、日本が日本人並みの生産性を持つ移民を毎年20万人ずつ受け入れれば、2070年に必要な消費税を36.41%から32.37%に抑えられるというものがありますが(132p図表4−5参照)、これはかなり多くの仮定を置いたものです。
第5章がイノベーションとの関係について。これにも2つの影響が考えられています。
1つは単純労働者が流入することで技術革新が停滞するという考えです。これは賃金の低い労働者が増えることで機械の導入などが遅れるからです。実際、アメリカの88〜93年にかけての分析では低技能労働者が増えると、工場で追加される技術が減るそうです(139p)。
日本でも外国人の単純労働者の増加は技術革新を遅らせるかもしれません。ただし、それがそうした産業で働く日本人の雇用を守る可能性もあります(移民が来なければ海外に移転してしまうかもしれない)。
一方、高技能労働者は技術革新を促進すると考えられています。アメリカでは工学博士に占める移民の割合は47%であり、特許出願者の25%が移民です(143p)。
しかし、移民が市民の研究ポストを奪っているとの指摘もあります。また、留学生を分析すると自費で来た留学生よりも、奨学金などを得て来た留学生のほうが知識の生産に寄与しているといいます。またSTEM(科学、技術、工学、数学)の分野に関しては移民によって市民の雇用にしわ寄せが来ているということをうかがわせる研究もあります(147−149p)。
高技能の移民は短期的には発明などを増加させると考えられます。ただし、長期的に見ると当該分野から市民を締め出しているのかもしれません。大まかに言うと移民と市民は補完的なのですが、細かい分野でいうとそうとは言えないケースもあります。ソ連が崩壊すると、ソ連の数学者の多くがアメリカに渡りましたが、それによってアメリカの数学者(微分方程式の分野)の生産性が引き下げられたという研究もあります(154−155p)。
移民については出身国を選別するべきだという議論もあります。外交官には外交特権があり、駐車違反をしても罰金を支払わなくて済むのですが、基本的に低腐敗国出身の外交官は駐車違反をあまりせず(日本はゼロ)、高腐敗国出身の外交官ほど駐車違反をする研究があります(レイモンド・フィスマン+エドワード・ミゲル『悪い奴ほど合理的』第4章参照)。これをみると腐敗度の高い国からの移民が増えれば、さまざまな問題が起こるような気もします。ただし、これは外交官という短期的に滞在する人の振る舞いで、長期的に暮せば変わってくるのかもしれません。
また、どのような移民を求めるかでおのずから移民の出身国は決まってくるとも考えられます。例えば、サービス業の人手不足を解消したいのであれば、やってくるのは所得格差が大きく単純労働者の賃金が低い途上国からの移民ということになるでしょう。なお、同じ学歴ならば貧しい国出身より豊かな国出身の移民が成功するという傾向があるそうです(163p)。
第6章では移民が治安や社会にどのような影響を与えるのかが検討されています。
パットナムは民族的に多様性が高い地域に住む人ほど人を信じない傾向があるとの研究を発表し、衝撃を与えました。民族的な多様性は短期的には「社会的孤立」を生み、社会関係資本を損なう可能性があるのです(パットナムは長期的には変わる可能性も指摘している)。
ただし、この研究に対しては、ヒスパニックや黒人が白人よりも他人への信頼が薄いことから起こっている現象に過ぎないというアバスカルとバルタサーリの反論もあります。また、経済的な満足度が他人への信頼に結びついている面もあり、民族多様性がそのまま他人への信頼の有無に直結しているわけではないというのです。
移民が犯罪を増やすとの議論もありますが、イギリスでの研究では凶悪犯罪を増やすことはないとされています。イギリスでは90年代後半から00年代前半にかけてアフガニスタン、イラク、ソマリアなどからの難民が増えました(第一波)。さらに04年から東欧からの移民が増えました(第二波)。分析では第一波は窃盗犯罪を少し増やしましたが、第二波では逆に減りました。これは就業機会の差が影響したのではないかと考えられています。
アメリカでの研究においても移民と犯罪の増加は関係ないという研究がほとんどですし、外国人が増えると犯罪が増えるという確たる証拠はありません。また、不法移民を追い出すか(ムチ)、不法移民に法的地位を与えるか(アメ)という2つの政策では、アメのほうが犯罪率を引き下げる効果があります。
また、移民が伝染病を持ち込むことに関しては、あまり心配する必要はないようです。
移民政策への賛否に関しては、高技能労働者は移民に賛成し、低技能労働者は移民に反対する傾向があります(本書で示された損得と一致する)。また、高技能労働者が多い国ほど移民に賛成する傾向が強く、多文化共同体が好ましいと考える人ほど移民に賛成します。
ただし、日本では「日本社会の一員になるために、日本語の支援などを積極的に支援すべき」と考える同化主義的な考えを持つ人が移民の受け入れに積極的です(200−201p)。日本では移民の日本語能力や文化の受け入れが世論に大きな影響を与えるかもしれません。
終章では、現在の日本の状況を踏まえて、変化を望まない「現状維持」、移民を受け入れる「多文化共生」、AI・ロボット社会を推進する「技術革新」という3つのシナリオを提示しています。優劣はつけていませんが、著者自身は自らのアメリカでの経験から移民の受け入れにある程度楽観的な考えを示しつつ、次のように述べています。
言葉は良くないが、誰が受益者となり、誰が被害者となるのか。こういった陰鬱で繊細な問題にも目を背けることなく、しっかりと考えていく必要が出てくる。もし、率先して変化を推進するのであれば、私たちはこうした可能性を受け入れる覚悟が必要なのだ。政治家がよく口にするWin-Win(ウィン・ウィン)となることはあまりない。(214p)
比較的短い本にも関わらず長々と書いてしまいましたが、それだけ問題は複雑だということです(実際、ここで紹介した研究には言及できなかったいろいろな但し書きがある)。そして、本書はその白黒つけにくさを誠実に紹介している本と言えるでしょう。
エビデンスが出ればおのずから取るべき政策は決まってくるという風潮もありますが、移民問題くらい大きな問題になると簡単に答えは出ません。それでも、やはりエビデンスの積み重ねは有用であり、それを踏まえた議論が必要だということを教えてくれる本ですね。
- 2020年02月23日22:27
- yamasitayu
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『武士の起源を解きあかす』(ちくま新書)という野心的な著作を出した著者が、室町幕府の三代将軍・足利義満について書いた本。
とは言っても、幕府の成立から6代将軍義教の死までを扱っており、一種の室町幕府論とも言えるような内容です。ただし、記述の中心は幕府のそのものよりも朝廷と幕府の間の関係にあり、鎌倉幕府や江戸幕府とは違って、京都に本拠を置いた足利将軍がいかに朝廷との関係を結んだか、そして義満が日本史史上類例がないような立場に立って朝廷を掌握したのかということが語られています。
足利義満というと、今谷明の『室町の王権』(中公新書)では天皇の位を簒奪しようとした人物として描かれていました。近年この説は否定されつつありますが、本書はこの議論を少し違った形で復活させようとした本と言えるかもしれません。文体は『武士の起源を解きあかす』と同じくやや饒舌気味ですが、読みやすさはあります。
目次は以下の通り。
プロローグ――日本史上に孤立する特異点・足利義満第一章 室町幕府を創った男の誤算──足利直義と観応の擾乱第二章 足利義満の右大将拝賀──新時代の告知イベント第三章 室町第(花御所)と右大将拝賀──恐怖の廷臣総動員第四章 〈力は正義〉の廷臣支配──昇進と所領を与奪する力第五章 皇位を決める義満と壊れる後円融天皇第六章 「室町殿」称号の独占と定義──「公方様」という解答第七章 「北山殿」というゴール─―「室町殿」さえ超越する権力第八章 虚構世界「北山」と狂言──仮想現実で造る並行世界第九章 「太上天皇」義満と義嗣「親王」──北山殿と皇位継承第十章 義持の「室町殿」再構成──調整役に徹する最高権威第十一章 凶暴化する絶対正義・義教──形は義持、心は義満第十二章 育成する義教と学ぶ後花園─室町殿と天皇の朝廷再建エピローグ――室町殿から卒業する天皇、転落する室町殿
室町幕府というと守護大名たちの力が強く、将軍もそれをコントロールできなかったというイメージがありますが、著者はその理由を足利尊氏の弟である直義の行動に求めています。
尊氏は鎌倉幕府を滅ぼす引き金を引きましたが、尊氏や行動をともにした御家人にとって幕府を滅ぼすという意識はなく、あくまでも北条高時を中心とする得宗家を倒したという意識だったといいます。
後醍醐天皇はもちろん幕府の復活を許す考えはなかったのですが、直義が相模守として鎌倉に赴任すると、直義は雑訴決断所の地方分局を設置して、「次の執権」のように振る舞い始めます(相模守は鎌倉幕府の執権が就く役職)。
この後、中先代の乱が起きて直義が窮地に陥ると、尊氏が後醍醐天皇の許可を得ずに出兵し、結果的に尊氏は建武の新政を崩壊させて、幕府を開きます。この幕府を実際に動かしていたのは直義でしたが、直義はあくまでも兄を将軍、自分を執権と位置づけていました。
著者は、直義が将軍、高師直が執権になっていればすべてはうまく収まったのではないかと考えていますが、直義があくまでも執権的な地位に固執したことで、観応の擾乱が起こります。
この観応の擾乱は尊氏の勝利に終わるわけですが、幕府はあくまでも直義が中心につくったものであり、尊氏に鎌倉幕府を裏切るように進めた上杉憲房なども直義派でした。足利一門(足利市の庶子や庶流)が直義派となり、尊氏には佐々木道誉や赤松則祐といった非一門の大名がついたのが観応の擾乱の特徴で、これが南北朝の対立と相まって戦乱を長引かせました。
しかし、南朝方についた直義派の大名は南朝に対して忠誠心を持っていたわけではありません、それなりの処遇が約束されると幕府に帰順していきました。特に1356年に斯波高経が帰順したことが大きなターニングポイントになります。
高経は足利家の執事になるには家格が高すぎたので、息子を執事にしてそれを後見するという立場に収まります。この立場が管領と呼ばれるようになりますが、それは「「管領」するとは、制度に由来する権限を、制度的地位にない人が行使することをいう」(44p)ということから来ているといいます。
この高経の帰順は尊氏の跡を継いだ義詮の勝利ではなく、直義派の勝利だというのが著者の見方です。「高経の幕府帰参は、政治力学上、将軍義詮が高経を許してやったのではない。話は逆で、高経が義詮に許されてやったのだ」(45p)というわけです。
斯波高経の後、大内弘世、上杉憲顕、山名時氏なども帰参し、幕府の力は強まりますが、それは直義派が幕府の中枢を乗っ取ったことでもあります。1367年には佐々木道誉らが細川頼之と組んで高経を失脚させますが、義詮が死んで義満があとを継いだときの幕府の力というものは相変わらず不安定なものでした。
ここで将軍となった義満は、まずは北朝の掌握に動き出します。幕府の不安定さを大名の自立性と、その大名と南朝の結合に見た義満は、まずは南北朝の統一を考えます。しかし、幕府と南朝の和平では幕府は下手に出ざるを得ません。そこで北朝と南朝の和平という形を取る必要があり、そのためには義満が北朝を掌握することが必要だったのです。
そのために義満が最大限利用したのが右大将拝賀の儀式です。右大将は源頼朝の代名詞でもあり武家にとって重要な役職でした。義満は前摂政の二条良基をブレーンに迎えて摂家の家格に並ぶような形で儀式を行おうとします。
また、義満は京都の室町に室町第(花御所)を造営します。尊氏や直義はできれば本拠地を鎌倉に置きたい考えていましたが、北朝を守るために京都にい続ける必要がありました。これに対し、義満は京都を幕府の本拠地に定めたのです。
右大将拝賀は何度か延期されますが、1379年の7月に拝賀は行われました。義満は21人の公卿を扈従(こしょう)させました。その中には摂家に次ぐ清華家の公卿たちも含まれており、義満が朝廷を従えたことを満天下に印象づけました。
義満は廷臣たちの遅刻や欠席を厳しく咎め、公卿たちを力で従わせました。義満は直接命令するよりも、「〜してくてたら本望だ」というような形で従わざるを得ない雰囲気を作り出しました。さらに「武家執奏」という幕府が持つ人事権を使い公卿たちを奉仕させ、気に入らない人物の所領を差し押さえさせ、没落させました。子の義持の代になるとこれによって餓死する人物(今出川実富)も出てきます。
この義満の力の行使は後円融天皇にも及びました。義満の人事案に対して後円融が返事を渋ると右大将辞任をちらつかせて不満を示しました。後円融は不満をつのらせますが、皇位をめぐる争いを抱えていた後円融は義満を頼るほかなく、皇位について義満に決めてほしいとまで口にしています(119p)。
皇位の面でも経済面でも義満に依存せざるを得なかった後円融は精神的にも変調をきたしていき、息子の後小松の即位の儀式を欠席し、義満との密通が疑われた妃の三条厳子を刀の峰で滅多打ちにするという事件を起こしています。さらに切腹未遂事件も起こし、34歳で亡くなりました。
このような権力を持った義満は室町殿と呼ばれるようになります。建物の名前で建物の主を呼ぶ習慣は昔からあるもので、鎌倉幕府の将軍は鎌倉殿と呼ばれました。この鎌倉殿という名を尊氏も使っていましたが、義満は新しい権力を示す称号として室町殿を選びました。
室町殿は朝廷と幕府双方を支配するポジションでしたが、朝廷の支配に関しては院(上皇)に近いポジションだったと考えられます、そして、その特異なポジションを表すために「公方(様)」という呼び名も使い始めます。公方はもともと「しかるべき公権力」といった意味でしたが、義満はそれを自分一人を指す言葉につくり変えたのです。
朝廷を掌握した義満が次に目指したのが諸大名の自立性を削ぐことです。1389年の土岐康行の乱で土岐氏の勢力を削減すると、1391年の明徳の乱では強大な勢力を誇っていた山名氏清を討ち、かつての直義派の主力であった山名氏の勢力を削減することに成功します。
1392年には南朝が帰順し、義満の日本統一は完成します。1394年には征夷大将軍を息子の義持に譲り、太政大臣となりました。このときの太政大臣拝賀では義満は数々の慣例を打ち破り、院(上皇)と同じような待遇で儀式に臨みました。
この後、義満は出家し、義満の立場は「"武士の長であると同時に廷臣の長である者"から、"武士の長と廷臣の長を従える何者か"に変貌」(179p)します。義満は幕府と朝廷の外部からそれらを支配する者となったのです。
この新しい立場にふさわしい場としてつくられたのが北山殿です。この造営のさなかに大内義弘による応永の乱も起こりますが、これを鎮圧すると北山に定住し始めます。
北山が京都から外れていることも1つのポイントになります。義満というと明と外交関係を結んで「日本国王」に冊封されたことが知られており、これが天皇の地位を奪おうとした証拠だとみなされた時もありましたが、近年の研究では義満がこの「日本国王」の地位を国内でアピールしなかったことが注目されています。義満にとって明との関係はあくまでも貿易による実利が目的で、義満個人が明との関係を結んだという形式になっています。
当時の日本の朝廷では外国人を警戒・蔑視する風潮が強く、後白河法皇と宋人を引き合わせた平清盛は九条兼実から「天魔の所為か」と言われています(200p)。そこで京都から離れた北山という場所で、義満は明と個人的な関係を結んだのです。著者はこの北山を「虚構世界」と名付け、明との交渉に使った源道義という名前をハンドルネームだと表現しています。また義満の中華趣味も「虚構世界」での楽しみと考えることができるといいます。
さらに義満は大きな野望をいだいていたと考えられます。その息子。義嗣の「親王」化です。義嗣は他の義満の庶子と同様に仏門に入る予定で梶井門跡に入室しますが、成長した義嗣に会った義満は義嗣をいたく気に入り、ここから義嗣は常軌を逸した昇進を遂げます。
彼は元服前に童殿上(わらわてんじょう)と呼ばれる元服前に内裏の清涼殿に登るという特別待遇を受けると、15歳のときには元服して参議となります。また、義嗣の元服は後小松天皇の猶子となり「若宮」と呼ばれる形で行われました。さらに義嗣は親王宣下を受ける予定だったのです。
この親王宣下は義満の急死によって実現しませんでした。しかし、義満は正室・日野康子を後小松天皇の准母にし、自らに太上天皇尊号宣下を行わせようとしたことなどから(この宣下は年齢が若すぎるとして通らなかった)、著者は義満はもうひとりの天皇である太上天皇になろうとしたと考えています。
そして、義満は義嗣のことを親王将軍にしようとしていたのではないかと推測しています。鎌倉幕府における宗尊親王の将軍就任は1つの安定した形態であり、義満は義嗣を使って足利氏の血を引く親王将軍を実現させようとしたのではないかというのです。
しかし、この計画はあくまで義満個人の計画として進められており、義満の死とともにそれは破綻しました。義満の死後、朝廷は太上天皇の尊号を追贈しようとしましたが、幕府はこれを拒否します。諸大名たちは朝廷にはかかわっておらず(ここが豊臣政権との違い)、義持は北山殿という地位を捨て、室町殿として幕府の長として行動していくことになります。
一方、梯子を外された義嗣は最終的に上杉禅秀の乱のときに出奔し、最終的には殺されています。
義持は室町殿と呼ばれましたが、実は室町には住んでおらず三条坊門殿に住み続けました。これは義持に朝廷との距離を取る意図があったからだと考えられます。
義持は義満のような派手好きではなく、また後小松院を立て、朝廷のことに関しては基本的に院に任せました。廷臣たちにも朝廷での仕事を優先させました。
1423年義持は息子の義量に将軍を譲り出家しますが、義量が将軍としての権限を行使した形跡はなく、義持が政務をとり続けました。2年後に義量が病死すると、将軍は空位となり、将軍不在のまま義持が室町殿として政務を行いました。
義持は、ときに後小松院の政治に介入し、院の命令をチェックさえしましたが、義満のようにすべてをチェックしようとはせず、院の後見、つまり天皇の後見の後見のような形で君臨しようとしました。
義持が死ぬとくじ引きによって義満の子の中から義教が6代将軍に選ばれます。ちょうどこの時期、朝廷では称光天皇が亡くなり、皇位は崇光流に移り、10歳の後花園天皇が即位します。
義教というと気に入らない者を次々と粛清して、それが仇となって暗殺されたことが知られていますが、本読を読むと後花園の後見に関しては相当真面目に取り組んでいたことがわかります。義教は義持と違って朝廷の政治に深入りし、重要事項を決定するとともに、後花園に儒学を学ばせました。後花園は儒学と歴史を熱心に学び、典籍の収集を行いました。政治は義教の領域でしたが、後花園は学問の領域で君主としての資質を示そうとしたのです。
永享の乱における持氏討伐の綸旨は美文調で後花園の学問の成果が生かされています。ところが、1441年の嘉吉の変で義教は暗殺されます。このとき出された赤松満祐討伐の綸旨もまた美文調で、著者はこれを「卒業論文」と評しています(336p)。
このように足利義満の評伝というよりは室町時代前半の幕府と朝廷の関係を描いた本と言えるでしょう。幕府を京都に置いたことから、将軍と天皇の関係を新たに構築し直さなければならなくなり、そこに義満が「北山殿」という幕府と朝廷を外部から支配する地位を築き上げたというストーリーは説得的です。幕府の不安定さを直義に求める説明に関しては、そこまで割り切っていいものかという感想はありますが、あえて図式化することでわかりやすくなっている部分もあると思います。
著者は最後に応仁の乱に関して「乱を招いた決定的な理由と乱の本質は、まだ学界で分析中で、応仁の乱についての本が最近空前の大ヒットを飛ばしたにもかかわらず、実は解明が済んでいない」(338p)と述べているので、著者の描く「応仁の乱」も読んでみたいですね。
- 2020年02月16日22:48
- yamasitayu
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先日とり上げた多湖淳『戦争とは何か』にも書かれていたように国家間の戦争は減少傾向にあります。しかし、その代わりに大きな犠牲者を生み出しているのが内戦です。現代の戦争の95%以上が内戦だと言われています(i p)。
そんな内戦の実態と和平調停のポイント、国連の働きなどについて書かれているのがこの本です。著者はNHKのディレクターからカナダの大学院に進み、国連のアフガニスタン支援ミッションで働いた後に日本の大学の教員になったという異色の経歴の持ち主で、現場に足を運び、紛争の当事者にインタビューを重ねるなどジャーナリスト的な手法が生きてきます。
一方、明解な理論を押し立てていた『戦争とは何か』を読んだあとということもあって、理論的な面からの整理はやや弱いようにも思えました。
目次は以下の通り。
第1章 凄惨な内戦の実態第2章 内戦とは何か―データと理論第3章 交渉のテーブルにつくべきは誰か第4章 周辺国の責任、グローバル国家の役割第5章 国連に紛争解決の力はあるか第6章 日本だからできること
第1章では内戦の実態を伝えるために南スーダンの事例が紹介されています。
2011年にスーダンから独立を果たした南スーダンでしたが、13年にキール大統領とマチャール副大統領の対立が内戦に発展、15年に和平合意が結ばれたものの、16年には再びキール派とマチャール派が武力衝突を起こし内戦へと発展しました。その後、18年に再び和平合意がなされ、19年に著者は南スーダンに足を運んでいます。
南スーダンの内戦は市民を巻き込んだ形で行われ、多くの人が家を終われ避難生活を余儀なくされました。この章では現地の人の声、政府の要人へのインタビュー、ジュバ大学の様子、日本企業が中心に行っているナイル川の架橋工事などが紹介されています。
第2章では内戦をデータと理論から分析しようとしています。
ウプサラ戦争データでは、戦争を、(1)国家間の戦争、(2)純粋な内戦、(3)国際化した内戦(内戦をきっかけに始まり外国が軍事介入)、(4)植民地からの独立戦争の4つに分類しています。
21世紀に入ってから、(4)は姿を消しており、(1)も減少しています。しかし、(2)と(3)は減っておらず、2014〜16年には3年連続で戦争による死者数が10万人を超えました(30p図2−1参照)。これは(3)であるシリア内戦の影響が大きいです。
本書では内戦に対する和平調停に関して、「紛争予防」、「和平交渉」、「平和構築」の3つの局面に分けて考えようとしています。現在国連ではこれらの3つの局面に対して切れ目なく支援をしていこうと考えていますが、紛争予防の取り組みはやはりなかなか難しいようです。
2011年のアラブの春に端を発するイエメン紛争では、30年以上独裁者として君臨してきたサーレハ大統領の後継体制をめぐって、国連特使が間に入る形で国民対話が行われました。しかし、ハーディ大統領が強引に6つの地域による連邦制を導入しようとしたことでホーシー派(フーシ派)が反発、軍事衝突に発展します。ホーシー派をイランの代理勢力と見たサウジアラビアが紛争に介入すると、イエメンは国際化した内戦の舞台となってしまいました。紛争予防は失敗したのです。
内戦の和平調停というのは難しいもので、ステファン・ステッドマンの研究によると、1900〜89年の間に起きた軍事紛争のうち、和平交渉によって終わった内戦は15%で、残りの85%は一方的な軍事勝利で終わっているそうです(53p)。これにはコミットメントの問題などが関わっています(和平に応じて武装解除したら、そのあと殲滅されるのではないか? と考えて和平に応じない、など)。
国際社会としては、武器の禁輸などを行って双方に一方的勝利が難しいと思わせること、和平後に当事者の安全確保や選挙の監視などを行うことで、和平を促すことはできますが、効果は状況によりけりです。
著者はステッドマンの考えを受け入れながら、和平交渉のおける「包摂性」を重要なポイントとしてあげています。一方、表向きは国連に和平交渉を期待しつつ、裏では特定のグループに軍事援助を与えたりする大国や周辺国もあるとして、これを「国連の濫用」として批判しています。
第3章では誰が和平交渉のテーブルにつくべきかという問題を検討しています。一般的に和平交渉の参加者が少ないほうが交渉自体はスピーディーに進むはずですが、当然、参加できなかった勢力は不満を持ち、出来上がった和平案は反発を受ける可能性が高くなります。
南スーダンではマチャール派以外にも反政府勢力はいましたが、東アフリカの地域以降であるIGADはキール大統領とマチャール副大統領に当事者を絞り込む形で和平交渉を仲介しました。
しかし、先述したように2015年にまとまった和平は短期間で崩壊し、多くの難民が発生しました。そこで、17年に再開された和平交渉ではその他の勢力や、市民団体や女性団体の代表なども招き、新たな枠組みづくりが目指されました。最終的にはマチャール派を支援するスーダン、キール派を支援するウガンダが強調して和平交渉に介入することで和平が進展しますが、著者はさまざまな団体が和平交渉に携わったことを評価しています。
次のアフガニスタンの事例がとり上げられていますが、これはタリバンという最大勢力を国家建設の過程から除外したことがその後の混乱を生んだということで、失敗事例として位置づけられています。
2001年のアメリカによるアフガニスタン攻撃後、03年に新憲法が採択され、04年にカルザイ大統領が選出された頃までは、アフガニスタンの国家建設はうまくいくと思われていましたが、05年頃からタリバンが巻き返し、08年には国土の7割をタリバンが支配するに状況になってしまいました。
タリバン兵の復帰を手助けするプログラムはあったのですが、米軍や多国籍軍が参加しなかったこと、生活困難からタリバンに戻る兵士が相次いだこと、タリバン幹部に対する国連の制裁が解除されなかったことなどから、なかなかうまくいきませんでした(104−105p)。
こうした状況に対して著者は新たな和解プログラムを提案するなど動きます。あくまでもタリバンの兵士や中堅幹部までの対話を想定するアメリカと、タリバン指導部との対話も必要だと考える国連の間で考えに違いがありましたが、アメリカもタリバン指導部との対話の必要性を認識するようになり、交渉が始まります。
しかし、タリバン側の自爆テロなどにより和平交渉は暗転し、ようやくアメリカとタリバンの直接交渉にゴーサインを出したトランプ大統領により交渉は大きく進展しますが、それでもいまだに交渉はまとまっていません。誰がどのような形で和平交渉に参加し、それを進めていくのかというのはやはり難しい問題です。
第4章ではグローバルな大国や周辺国の責任について考えています。
最初にとり上げられているのがシリア内戦です。シリア内戦は、アラブの春の流れで始まった平和的な反政府デモ→アサド政権の弾圧→反政府側の武力抵抗→各国の介入という形でエスカレートしてしまいました。
2012年にはアナン前国連事務総長が特使に任命され、停戦交渉を続けましたが、アサド大統領が暫定政権のメンバーに入るかどうかで折り合えず、交渉は失敗します。シリアの反体制武装勢力の背後にはシリアからイランの影響を排除したいサウジアラビアなどがおり、折り合うことが難しかったのです。
14年からは新たな特使となったデミツラ氏がシリア政府や反体制武装グループだけでなく、市民団体などとも会合を行って和平の機運を醸成しようとしますが、今度はイスラム国(ISIS)が台頭し、15年からはロシアがアサド政権側に立って本格的な介入を始めます。
結局、ロシアとイランの支援を受けたアサド政権が息を吹き返し、トルコがロシアやイランとの対話に応じたことで16年12月に停戦合意がなされます。その後も国連の介入はあまりうまくいっておらず、アサド政権が完全な勝利を目指す形で攻勢を強める中、和平の道は見えていません。
次にイラクのケースがとり上げられていますが、ここでもアメリカが戦争終結後にバース党の解体を行ったことが治安の不安定化につながったと考えられます。フセイン大統領を支えていたバース党の追放は、イラクにおいて少数派だったスンニ派の追放につながり、シーア派主導の政権に対してスンニ派が不満を溜め込むこととなったのです。
しかも、アメリカは当初国連の力を借りない形で国家建設を行おうとしたことで、アメリカと国連の関係は悪化しました。結局、イラクでの反米武装勢力による攻撃と、アナン事務総長の「もし仮に米国が、憲法の制定や選挙の実施まで占領を続けるのならば、二年も三年も四年も占領を続けなければならないかもしれません。本当に米国はそんなに長く占領を続ける気があるのですか」(160p)との指摘もあり、アメリカは暫定政権の樹立に動き出しますが、暫定政府が樹立され、新しい憲法や選挙が実施されてもイラクの情勢は安定しませんでした。
その後、オバマ政権が増派を行い、さらにスンニ派との大規模な和解プログラムを実施すると、イラクの治安は劇的に回復しますが、その後再び、シーア派とスンニ派の対立が再燃し、イスラム国の台頭を許すことになります。
著者はシリアとイラクの事例を通じて、グローバルな大国や周辺国が国連に政治的な役割を与えずに、その正統性だけを利用とする姿勢を「国連の濫用」だと批判しています。ただし、同時にグローバルな大国や周辺国の助けがなければ国連の調停がいかに無力であるかも指摘しています。
第5章では、紛争解決に関する国連の果たしてきた役割を改めて振り返っています。
トーマス・ウェスによれば、国連には、国家の集合体、事務総長をトップとする組織、国連の活動に協力するNGOや専門家など、という3つの部分があるといいます。国連の役割やその失敗を考える場合には、1つ目の部分と2つ目3つ目の部分を分けて考えることも必要です。
紛争に有効に対処できていないケースもありますが、冷戦終結後のPKO活動の増加を見ると、やはり国連の役割は大きいと言えます。
この章では、カンボジア、東ティモール、シエラレオネ、コロンビアという国連が和平交渉や国家建設に携わった事例をとり上げています。ここではシエラレオネのケースが興味深いです。
シエラレオネの反政府組織のRUF(革命統一戦線)は「タリバンよりも残虐」(200p)と呼ばれた組織ですが(映画『ブラッド・ダイヤモンド』を見た人はよく分かると思います)、和平交渉はこのRUFを交えて行われました。そして兵士のDDR(武装解除)が進んだ結果、RUFの指導者サンコーが再び反乱を起こそうとしたとき、サンコーと行動をともにしようとした兵士はほとんどいませんでした。平和構築の成功例と言えるでしょう。
また、近年のPKOでは文民保護がミッションの1つとなっています。当然、一般市民の命は守られるべきですが、本来は調停などを行うはずのPKOが武力行使を強いられることになるという問題点もあります。著者はこの文民保護のミッションにやや疑問を感じているようです。
第6章では日本の役割が論じられています。日本の活動というと、どうしても自衛隊と9条の絡みで論じられることが多いですが、JICAの活動など、国際的に評価されている活動は他にもあります。特に知名度はないですが、フィリピンのミンダナオ和平に関しては、JICAの理事長だった緒方貞子のリーダーシップもあり、日本は大きな役割を果たしています。
著者は、日本は紛争にかかわる政治勢力間の対話を促進する「グローバル・ファシリテーター」の役割を果たしていくべきだと考えています。
このように盛りだくさんの本ですが、もう少し理論に基づいて整理してあったほうが読みやすかったのではないかと思います。和平交渉における包摂性というのが本書の1つのキーワードだと思うのですが、それならば第3章と第4章に分割して紹介されているアフガニスタンとイラクの例を、ともに和平交渉と国家建設から主要な敵対勢力を排除したことが(アフガニスタンではタリバン、イラクではバース党)その後の混乱につながったケースとしてまとめても良かったのではないでしょうか。
その上で、どこまで包摂するのか? ということを検討しても良かったでしょう。今から振り返ればタリバンは包摂すべきでしたが、では、シリア紛争におけるイスラム国はどうでしょうか? そのあたりを議論しても面白かったと思います。
ただ、近年の国連の和平活動に関してかなり網羅的に紹介しており、それをまとめて知ることができるという点は便利ですし、和平交渉の一線で活躍してきた国連の特使などへのインタビューも豊富で、実際の和平交渉の現場を感じ取ることのできる本になっています。
- 2020年02月10日21:28
- yamasitayu
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タイトルだけを見れば、「このような大胆なタイトルの本を書くのは哲学者か、よほど大御所の学者か?」と思いますが、著者は40代前半の気鋭の国際政治学者で、戦争を「科学的」に解明しようという野心作です。
序章で「戦争は数えられるが、平和は数えられない」という話が出てきますが、本書は戦争を数えられるデータとして扱い、「なぜ戦争が起きるのか?(終わらないのか?)」ということをデータの分析やゲーム理論を通じて明らかにしようとしています(おそらく本書の内容を的確に表すタイトルは「戦争とは何か」ではなく「なぜ戦争が起きるのか」だと思う)。
とにかく明解であり、かつ自信に溢れた本でもあります。「エビデンスを備えた科学的な研究は、戦争と平和をめぐる一般的な傾向の把握を可能にし、ひいては戦争の予測さえも現実的なものにしていく」(20p)などという言葉はなかなか言えないものではないかと思うのですが、それを言い切る点にこの本のかっこよさがあります。
ただ、そうはいっても個人的には疑問も残るので、それは最後に書いておきます。
目次は以下の通り。
序章 戦争と平和をどのように論じるべきか第1章 科学的説明の作法第2章 戦争の条件第3章 平和の条件第4章 内戦という難問第5章 日本への示唆第6章 国際政治学にできること
本書では、戦争を「1当事者同士が一致できない問題が存在し、しかも2その対立を解決する交渉に失敗して組織的、継続的に暴力で訴えるという共通項」(26p)で捉えています。特に「国家間」という条件はないので内戦も含まれます。「紛争」はもう少し広い概念で「暴力の仕様の程度がそこまで達しない緊張・対立状態も含まれ」(13p)、尖閣諸島をめぐる日中の対立も国際紛争として認識されています。
戦争には大きなコストがかかります。戦費がかかり、戦死者が出て、国土が破壊されるかもしれませんし、負ければ為政者は政権を失うかもしれません。。ですから、基本的には交渉が優先されるはずです。また、第2次世界対戦における日本のように敗色が濃厚になってから戦い続けるケースがあります。「なぜ戦争は(もっと早く)おわらないのか?」というのも本書がとり上げる問になります。
ただし、すべての戦争を数え上げるのは難しく、組織的暴力の継続期間をどう取るかといったことはデータを構築する観察者によってブレも生じますし、漏れも生じるでしょう。
スウェーデンのウプサラ大学とノルウェーのオスロ平和研究所が構築しているデータセットでは、1400年から現在まで起こった戦争がまとめられていますが(43p図1参照)、これを見ると、三十年戦争と、第一次・二次の両大戦が突出して大きな戦争だったことがわかりますし、戦争と戦死者は1950年以降確実に減っていることがわかります。
47p図4のグラフでは、1500年以降の大国間の戦争の数が示していありますが、この数は減少傾向にあり、2000年以降は発生していません。大国同士の戦争は確実に減っています。
では、なぜ大国同士の戦争は減ったのか? もし、戦争の勝敗が国力によって決まり、勝敗が確率的に計算できるのであれば、そもそも戦争は起こらずに交渉が選択されると「合理的」には考えられます。
ジェームズ・フィアロンは合理的な意思決定者でも次の3つのケースでは戦争が選択されることもあると考えました。
1つは情報の不確実性(非対称性)です。交渉において相手の国力や意志の強さをを正確に見積もっているおは限りませんし、交渉ではこの情報の不確実性を利用したブラフ(はったり)も使われます。1990年の湾岸戦争、2003年のイラク戦争はいずれもイラクが相手側の戦争への決意を低く見積もったために起こったとも説明できます(イラク戦争のケースではたとえイラク側が正しい情報を出しているのにアメリカ側がそれを信じようとはしなかったという要因もある)。
2つ目は、コミットメントの問題から起こってしまうケースです。国際社会では「世界政府」が不在のため、国家同士の約束が守られるとは限りません。そうした状況においてA国の国力が低下しつつありB国の国力が伸びているような状況では、A国から見ると、今妥協したとしても将来B国が約束を破って武力行使に訴えてくる可能性を考えざるを得ません。そこで、力が拮抗している現時点でのイチかバチかの戦争にかける選択肢が浮上するのです。日本の真珠湾攻撃もこのロジックで説明する事が可能です。石油を止められた日本と軍需品の生産に力を入れ始めたアメリカの国力は将来的に開く一方だと考えられ、日本としてはイチかバチかの武力行使が魅力的に見えることとなるのです。
3つ目は「宗教的聖地」「固有の領土」など価値不可分な対象をめぐる争いです。これらのものは交渉による妥協が難しいです。エルサレムの帰属問題などがそうなります。
戦争の終結に関しては、「圧倒的な勝利による終戦」と「交渉による終戦」の2つがあります。情報の不確実性が開戦理由だった場合、戦闘の推移とともに国力の差が明確となり、終戦の可能性は高まります。一方、コミットメントの問題や価値不可分の対象をめぐって起きた戦争は長引く可能性が高いです。第二次大戦の日本の場合、国力の差は1945年はじめの時点で明確で情報の不確実性の問題は消えていましたが、天皇制維持についてのコミットメントが確認できなかったことが戦争を長引かせたとも言えます。
どうすれば戦争を防げるのか? どのような状況ならば戦争が起こりにくいのか? そのことを論じたのが第3章です。
まず、「民主主義国同士は戦争をしにくい」という考えがあります。ブルーノ・ブエノ・デ・メスキータの定義によると、1816〜2013年の127件の戦争のうち、民主主義国同士の戦争は1974年のトルコ対キプロス、1993年のインド対パキスタンの2例のみです(72p)。
これは、民主主義国では議会があり、軍備についても国民に説明する必要があるため、情報の不確実性の問題が少ないこと、威嚇や約束を実行しなかった場合に、国内の有権者からの支持がなくなってしまうコスト(観衆費用)などがあるため、戦争が起こりにくい(起こしにくい)と考えられています。
一方、独裁国家についての研究も進んでいて、ジェシカ・ウィークスは独裁国を、軍/文民主導、カリスマ的個人/集団指導体制の2つの軸を使って4つに分類し、それぞれの武力紛争の生起確率を調べました。その結果、軍人・カリスマ>文民・カリスマ>軍人・集団指導>文民・集団指導の並びでその確率が大きかったとのことです。ちなみに、北朝鮮は文民・カリスマ、中国は文民・集団指導となります。
また、民主化は平和をもたらすと考えられていますが、エドワード・マンスフィールドとジャック・スナイダーの研究によれば、民主化したばかりの体制移行国ほど対外冒険的な政策に訴え、戦争をしやすいとのことです。
この他、民主主義よりも報道の自由が重要という説や、経済的相互依存が平和をもたらすという議論もあります。経済的相互依存に関しては、貿易よりも直接投資が戦争の防止に影響を与えているガーツキーの研究がありますが、これには批判もありはっきりとした結論は出ていないようです。
国際連合の介入、特にPKOの効果についてもさまざまな研究がなされていますが、停戦合意が存在する場合は、紛争の再起確率を引き下げるという研究もあります。これは紛争当事者間の情報の非対称の問題を緩和するからだと考えられています。
第4章では内戦がとり上げられています。現代の戦争の多くはこの内戦です。
内戦には、唯一の政府としての存在を争う「首都をめぐるもの」と。ある国の中の一部地域の「自治権確立、または分離独立をめぐるもの」がありますが(90p)、後者のケースはチェコスロヴァキアの分離などのように交渉で解決することも可能です(ユーゴスラビアのように泥沼化する場合もある)。
内戦を終結させる難しさはコミットメントの問題にあります。政府側と反政府勢力が一部地域の自治で合意したとしても、その約束を信じて武装解除に応じれば、約束を反故にされる可能性もあります。ですから武装解除をめぐって駆け引きが続くのです。
原因として資源の原因があげられることがありますが(ポール・コリアーなどがこの議論をしている)、著者はサウジアラビアやイランなどの例をあげ、この議論に懐疑的な姿勢をとっています。
著者がより重視するのは不平等、特に集団間の「水平的不平等」からの説明です。ラース・エリック・シダーマンらは集団間の水平的不平等に関するデータを構築し、政治体制に組み込まれていない集団がいると内戦が起こる確率が上がり、さらに経済的な面で水平的不平等があると、さらにその確率が上がることを示しました(ちなみにこの部分に関しては、マイケル・L・ロス『石油の呪い』の産油国では民主主義が後退するとの研究もあり、内戦に限らず対外戦争も含めれば資源は戦争の原因になり得るのではないか? と思いました)。
内戦に対する介入の効果に関しては議論が分かれている状況のようですが、ここで紹介されていうるルワンダの虐殺事件をめぐるアラン・クーパーマンの議論は興味深いです。クーパーマンは国際社会の問題を認める一方で、ルワンダには大量の兵員や装甲車などを短時間で送り込めるインフラがなく、介入を決断できたとしても効果的な介入を行うことは難しかったと結論づけています(104−106p)。
先述のフィアロンは、内戦の期間についても研究を行っていますが、それによると「首都をめぐる内戦」が平均3年ほどであるのに対して、「分離独立型の内戦」で、かつ「資源が絡む内戦」だと7〜30年とかなり長期化しています。これは首都をめぐる内戦ではお互いの能力差が早期に明らかになり、情報の非対称性が解消されますが、分離独立型ではそうはならないからだと考えられます(108−111p)。
第5章は「日本への示唆」へというタイトルで、実際に今まで紹介してきた理論を使って日本の安全保障について論じています。
まず、日本の国力はCINCスコアによれば2002年、2012年とも世界第5位ですが、中国との差は02年が約3倍だったのに対して12年には約6倍に開いています(116−117p表5参照)。予防戦争論からすると、国力が衰えている国ほどイチかバチかの戦争にかける可能性が高く、日本の意思はともかくとして、外からはその可能性があると見られているかもしれません。
日本は、北方領土問題、竹島・独島問題、尖閣諸島問題という3つの領土問題を抱えています。民主的平和論からすると、戦争のリスクが低いのはお互いが民主主義国家である竹島・独島問題です。また、経済的依存度が戦争のリスクを下げるとの考えからすると、リスクがあるのは経済的依存関係の薄いロシアとの間の北方領土問題です。ただし、日本の貿易依存度は低く、韓国や中国との経済的依存関係が強いと言っても、紛争発生の確率が下がるレベルまでにはいかないとのことです。
著者らは、領土問題についてさまざまな想定をランダムに割り当てて行うサーベイ実験を行っていますが、紛争中の領土について他国と共同で主権を保持するような形には抵抗が強く、たとえ相手の国力が強くても、かえって自国の主権を主張する態度が強くなる傾向があります。
全体の16%ほどいた妥協を許さないハードコアな価値不可分主義者は、8割近くが限定された武力行使を、6割が全面的な武力行使を示しています。ただし、ハードコアな価値不可分主義者でも国際機関の仲介に関しては支持を示しています。
竹島・独島問題について行われた実験でも、二国間交渉で竹島を失うよりも、国際司法裁判所の判決で竹島を失う方が、内閣への不支持が高まらないという結果が出ていますし(136p図13参照)、この国際機関の仲介は日本だけでなく、他国でも一定の支持を得ています。
自国の平和を維持するには抑止力が重要だと考えられてますが、防衛力を高めることは相手にとって驚異となってしまい、いわゆる囚人のジレンマになってしまうことが多いです。お互いに軍縮をしたほうが利得は高いのですが、相手の軍拡の可能性を考えると双方が軍拡を選択してしまうのです。
ただし、繰り返しゲームの場合、この均衡は変化する可能性があります。お互いに将来の利得を重視すれば双方が軍縮を選ぶ可能性もあるのです。
憲法9条についても一種の安全供与戦略だと考えることもできます。憲法9条に問題があったり、時代の変化にそぐわない面があったとしても、憲法改正が周辺国に軍拡のシグナルとして機能してしまうことは考えておく必要があります。
また、現在のようにSNSが発達し、国境を超えて除法が飛び交うような社会では、軽率な発言が領土的野心などのシグナルとして伝わってしまうこともあります。
最後の第6章では、マオツの平和愛好国(スウェーデン、スイス、ベネズエラなど)と戦争中毒国(イスラエル、パキスタン、インドなど)のデータを紹介した上で(159p表8参照)、戦争やクーデターの予測に関する研究を紹介しています。著者はさまざまな研究方法を紹介した上で次のように述べています。
大事なのはどの方法であれ、透明性が高く、科学としての国際政治学の蓄積が増えれば、戦争の原因・平和の条件をさらに明らかにし、そして将来のより正確な予測も可能になると考える姿勢である。過去50年での達成度を考えれば、そして加速度的に進化するデータ社会科学のスピードを思えば、戦争と平和の科学が、信頼できる予測を行う日の到来を楽観的に期待してもよいのではないかと思う。(172p)
このように本書は一貫して「科学」的に戦争と平和を分析しており、その論旨も明解です。個々の詳しい事例を知っている人だと、「そのロジックは実際に起ったことと違うのではないか」と言いたくなる部分もあると思いますが、「こういうロジックがある」、「このように説明できる」というが重要であり、そのようなロジックや説明が、現実の政治を見る上での一種のガイドの役割を果たすことになるはずです。
ただし、最後の引用した部分については個人的にやや異議があります。確かに、戦争やクーデターの確率をさまざまなデータから推測することには意味があると思います。国際政治や経済活動の参考になるでしょう。
しかし、人間の行動を扱うという社会科学の性質からいって正確な予測は不可能ではないでしょうか?
例えば、クーデターの発生がかなりの精度で予測できるようになれば、その国の指導者はそれを見て行動を変えるでしょう。それは少数民族の権利を認めるような政策なのか、部下に金品を配るような政策なのかはわかりませんが、クーデターの発生確率を下げるような行動をとるはずです。社会科学の難しさとは観察する者と観察される者が同じ世界に住んでいることであり、途上国の独裁者も研究者の研究を見て行動を変えることができるのです。
このように少し「言い過ぎ」ではないかと思われる部分もありますが、面白く刺激的な本であることは間違いないと思います。
- 2020年02月03日22:14
- yamasitayu
- コメント:1
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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