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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2025年09月

著者の浦出美緒氏と編集部よりご恵投いただきました。どうもありがとうございます。

著者は死恐怖症(タナトフォビア)をもった人物であり、そのために日本タナトフォビア協会まで設立してしまった人物です。
多くの人にとって死は「怖い」ものであると同時に「仕方のない」ものであり、手塚治虫の『火の鳥』や高橋留美子の『人魚の森』などの影響もあって、「死は怖いけど、不老不死はもっと怖い」くらいに考えている人が多いと思います。

そうした中で、著者は本気で「死にたくない」と思っている人です。本書において著者と対話している渡辺正峰も「死にたくない」と思っている人物ですが、著者のほうがより「怖がっている」と言えます。
そんな著者がこの恐怖と、そこから抜け出せる可能性について5人と対話したのがこの本になります。
対話の相手は、医者、宗教社会学者、神経科学者、哲学者、小説家ですが、それぞれのスタイルの違いが出ていて面白いと思います。
個人的には哲学者の森岡正博との対話における「死」という問題の扱い方についての部分が興味深かったですね。

目次は以下の通り。
序章 怖がる人
第1章 予習する人 中山祐次郎 外科医、作家
第2章 共に怖がる人 橋爪大三郎 宗教社会学者
第3章 希望の人 渡辺正峰 神経科学者
第4章 対峙する人 森岡正博 哲学者
第5章 超越する人 貴志祐介 作家
終章 生きる人
第1章の中山祐次郎との対話では、一般的な人の死の怖がり方と著者の怖がり方の違いが明らかになります。
著者の「死をすごく怖がり、拒絶するのはどういう人ですか・」という質問に、中山は「中小企業の社長さんですね」と答えていますが(27p)、多くの人の死への恐怖は、自分が死ぬことで家族がやっていけなくなるのではないか? 会社が終わってしまうのではないか? やりたいことが十分にできずに終わってしまうのでは? といったことではないかと思います。
また、ガンなどでは死の直前の「痛み」に対する恐怖もあるかもしれません。

こういった不安は保険や事業継承の仕組み、あるいは痛みを取るセデーションなどである程度解消できるのかもしれませんが、著者の感じている怖さは「自分が存在しなくなること」の怖さであり、なかなか取り除けるようなものではありません。
中山は死の恐怖を和らげる方法として「死を分解する」ことを提唱し、「来年、目が見えなくなったらどうしますか」「来月、足が動かなくなったらどうしますか?」、「明日、食べられなくなったら今夜何を食べますか?」といったことを考えることを勧めていますが(47p)、常に死を考えてきた著者はとっくにそれらの問の答えを用意しているわけです。

ただ、中山が言うには、ガンなどで亡くなる多くの人は死の2週間前くらいから意識がぼんやりとしてくることが多く、自分の「死」をはっきりと捉えているわけではないだろうとのことです。
そこから中山は「死は実はあなたのものではない」(61p)とも言います。自分の死を見るのは自分ではなく周囲の人だというのです。
最初の対話は、医師から見える「死」についての考えとしても面白いですし、著者の「死への恐怖」とのズレもわかって本書の導入としてよく機能していると思います。

次は橋爪大三郎との対話。ある程度現代思想をかじっている者ならば、橋爪の言うことはオーソドックスだと思います。
独我論、否定神学的な議論、既存の宗教の仕組みやからくり、「社会の本質は言語だ」(109p)という言明など、橋爪の著作をある程度読んだ人であれば、なんとなく想像のつく話がなされています。
この対話はかなり説諭調でして、全体的に意外性はないですが、こういう議論が初めての人には面白いかもしれません。

つづく渡辺正峰は、著者と同じく自分がいなくなってしまうことへの恐怖を抱いている人間で、自分の意識をコンピューター上にアップするマインド・アップロードの研究をしています(信原幸弘・渡辺正峰『意識はどこからやってくるのか』(ハヤカワ新書)参照)。
本書の対話の中でまず興味を引くのが、渡辺が瞑想をして「無」になる時間があったとしても、そこには何かが残っている気がするとして、聴覚や視覚といったアプリが閉じられている状況でもOSのようなものが走っているのではないか? という疑問を口にするところです。
また、後半での「死は怖くない」と考える人にどうアプローチすべきか考えている部分も面白いですね。
著者の感覚だと、自分の意識がなくなることを怖がっている人は10%くらいだといいます。渡辺はこうした状況は宗教などによって死への恐怖が抑え込まれているからだと考えており、こうした人が変わってくればマインド・アップロードへの研究資金も集まるではないかと考えています。
そして、マインド・アップロードができるようになれば、人びとは意識の断絶ということにもっと恐怖心を抱くようになるのではないかと想像しています。
渡辺によれば、マインド・アップロードは「不老不死」というよりは「避死(死を避けること)」であり、著者もこの技術に大きな期待を寄せています。

本書の中で一番面白く読んだのは次の森岡正博との対話です。
森岡も著者も死への恐怖を抱きながら、信仰を持てないという点で共通しており、同じ思想系でも橋爪大三郎との対話よりも噛み合っている感があります。

森岡は自分が小学校高学年のときに感じた死の恐怖は、「一つは私が死んで私が無になる恐怖と、もう一つは私のいない世界が続いていくっていうことの恐怖」(182p)だと言います。
そのうえで眠っているときはこれと同じではないかと言います。眠っているときは自分がいないにもかかわらず世界は続いているわけです。
もちろん、次の朝に起きる睡眠とは違って、死は目覚めないわけですが、眠りについたあとに絶対に目覚めるという保証はありません。
森岡はここから普段の生活にも「信じる」という要素が入っており、「信仰の世界」と「信仰のない世界」の二分法は間違っているではないかと述べています。

また、「私がいない世界」という点から考えると、私が生まれる前の世界も「私がいない世界」です。ただし、これを怖いと感じる人が少ないでしょう。
そこから、森岡は死の恐怖は「有→無」への移行の恐怖ではないかと考えます。有の世界から無の世界を想像するからこそ怖いわけです。

最後の方では、人生は死へと一歩一歩進んでいくようなものであり生きること自体がネガティブなことだと言える一方で、死にゆくなかにもポジティブな面があるのではないかと述べています。
同時に「死の恐怖」よりも「生きることは無意味だ」という言明のほうが支持を得られやすい問題にも触れ、その流れの中で体験した感覚は無になっていくけれども記憶のような形で残っていくのではないかという話もしています。
対話なのできちんと整理されているわけではありませんが、本章ではこのようにいくつかの面白い切り口が提示されています。

最後はホラー小説などで有名な貴志祐介との対話です。貴志には『天使の囀り』というタナトフォビアの登場人物が登場する小説もありますが、小説家らしく人間の心理に興味を持っている感じがうかがえますね。

貴志は自分もタナトフォビアの傾向があったとともに自分の親が死んでしまうことが恐怖だったと述べています。そして、それは親子関係があまりよくない子ども特徴ではないかと言っています。親に認めてもらう機会が失われてしまうことが怖かったのではないかという分析です。
ただし、それもあって現在の貴志は死への恐怖をほぼ失っているといいます。親との関係にある程度折り合いがついたこともあって、自分の死も親の死も恐れる必要がなくなったというのです。

また、ホラー小説を書くという恐怖に対する「曝露療法」をしていることも死の恐怖を感じなくなった理由かもしれないとしています。
ただし、阪神・淡路大震災ではリアルな死の恐怖を感じてパニックになったと語っており、タナトフォビアとは別の死の恐怖は存在するようです。
あと、貴志が自分の世界観に影響を与えたものとしてユングとドーキンスをあげていたのは、いかにもという感じがしました。

森岡との対話などでも言われていますが、この「私の死」に対する恐怖というのは他人にはなかなか伝わらないもので、本書を読み終えたあとでもタナトフォビアについてはわかったようなわからないような気もします。
ただ、特に「私の死」の恐怖を感じない人でも、例えば、中山祐次郎の語る死との向き合い方などは広く参考になると思いますし、渡辺正峰の神経科学、脳科学的な話、森岡正博の哲学的な話は死への恐怖を抜きにしても面白いのではないでしょうか?
そしてもちろん、死が怖い人にとってもその苦しみを軽くしてくれるようなヒントが散りばめられている本だと思います。

去年、『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史』という面白い本を出した著者が、自らの専門である社会運動論について語った本になります。
著者は「社会運動」をかなり広く捉えている研究者であり、雑誌の「ビックリハウス」の投稿欄に着目したりするのもその現れだと思うのですが、本書は社会運動論の学説史になっており、一見すると「お勉強」のための本にも見えます。

けれども、本書を読み進めていくと、社会運動を論じるための学説が取り逃がした部分が、次の学説を生み出し、さらにはそれが取り逃がした部分が次の学説を生むといった具合に社会運動の幅の広さやバリエーションが新しい学説を要請してきたという歴史がわかります。
そしてその結果として、社会運動というものが私たちが思っている以上にさまざまなものを含んでおり、実は自分も知らず知らずのうちにやっていたかもしれないと思うようになるでしょう。
また、古い学説が単純に否定されるわけではなく、現在でも使える枠組みであるということを書いてくれているのも良いところかと思います。
最後の第10章のタイトルは「社会は社会運動であふれている」ですが、まさにそういった感想を抱くのではないかと思います。

目次は以下の通り。
第一章 社会運動とはなにか

第二章 集合行動論

第三章 フリーライダー問題から資源動員論へ

第四章 政治過程論/動員構造論

第五章 政治的機会構造論

第六章 フレーム分析

第七章 新しい社会運動論

第八章 社会運動と文化論

第九章 2000年代の社会運動論

第十章 社会は社会運動であふれている

社会運動とは何なのでしょうか? マリオ・ディアーニの定義は以下のようなものです。
1 明確に特定された敵との対立関係にある
2 緊密で非公式なネットワークに紐づけられている
3 集合的なアイデンティティを共有している(24p)

「「敵」は政府?」、「集合的なアイデンティティとは?」など、いくつかの疑問が浮かぶと同時に、この定義にあてはまらない運動も思い浮かぶかもしれません。例えば、エコロジー運動などは必ずしも明確な敵を想定していないケースもあるでしょうし、ネット上のハッシュタグ・デモなどでは、緊密なネットワークや集合的なアイデンティティの要素は薄いかもしれまえん。
他にもいろいろな定義がありますが、そうしたものと共通するポイントは右/左、保守/革新といった政治的立場を限定しないことです。

ただし、やはり曖昧な部分もあり、例えば経団連が選択的夫婦別姓の導入を求めたことは社会運動と言えるのか? と問われれば難しい問題で、利益集団的な部分と社会運動的な部分が混じっていると言えるかもしれません。
このようにさまざまな活動に社会運動的な部分が混じっているというケースは数多くあります。

では、こうした社会運動は理論的にどう捉えられてきたのでしょうか?
まず、1960年代に登場したのが集合行動論です。この理論において社会運動は社会が不安定になったときに現れるパニックや暴動などの集合行動として捉えられます。
こうした集合行動が起こる要因として、既存の共同体が弱体化して大衆が放り出されたとする考えるのが大衆社会論であり、また、高学歴なのにそれに見合った地位や仕事が与えられないという「地位の非一貫性」といったものがあります。
集合行動論ではシステムのひずみが社会運動をもたらすと考えられており、また、人びとのフラストレーションにうまく対処することで社会運動は減ると考えられます。
これはあまりに単純すぎる見方のような気もしますが、フィクションなどで社会運動をする人がヒステリックに描かれがちなことを考えると、この集合行動論は一般的な人の見方に近いのかもしれません。
また、近年では「怒り」をキーワードにした運動などもありますし、「炎上」もこういった集合行動として捉えられるのかもしれません。
そういった意味では狭すぎる理論かもしれませんが、死んではいない理論と言えるかもしれません。

次に紹介されるのがマンサー・オルソンの「フリーライダー問題」をきっかけにして生まれてきた「資源動員論」です。
フリーライダー問題とは、自分が参加しないで運動の成果が手に入るならばそれに越したことはないので「タダ乗り」の誘因があるというものです。例えば、労働組合ががんばって非組合員の賃上げも実現してくれるならば、組合に入らないほうが得でしょう。

こう考えると、社会運動も誰かがやってくれたほうがラクだということになります。実際、ある問題を解決したいと思っていても、そのために立ち上がる人は少ないわけです。
そこで研究者たちは、社会運動を可能にする組織や資源に注目することになりました。同時に、孤立やストレスが社会運動を生むとする集合行動論を批判していくことになります。
資源動員論では運動を支える「外部からの支援」などに注目しています。外部からの支援は運動を継続させる一方、支援者に気に入られるように運動が変質してしまう可能性も持ちます。
また、資源動員論における「資源」は必ずしもお金や人員だけではなく、個人の持つ知識だったり時間だったりさまざまなものが考えられます。

ただし、資源動員論には心理的な側面を軽視しすぎている、社会運動と利益集団の行動の差が見えにくくなってしまうといった批判もありました。
そこで出てきたのが、政治過程論や動員構造論です。

資源動員論で社会運動を見ていくと、どうしても持つ者と持たざる者の差が出てしまいます。弱い立場のものは資源を持たないために運動を成功させるのが難しいのです。
それに対して、マルクス主義の影響を受けながら「本当にそうなのか?」と問い直したのが政治過程論です。労働者が団結すれば経営者に言うこときかせられますし、そもそも「弱者」というのはそう思い込まされているだけかもしれません。
政治過程論によれば、社会運動を発生に影響を与える「政治的機会」があり、しかもこの機会とは客観的なものと言うよりは主観的なものです。
人びとが「社会を変えられる」という認識を持つ(認知的解放」ことが、社会運動の生起や成功に大きな影響を持つのです。

動員構造論では、そういった機会をいかすための組織やネットワークに注目します。
例えば、公民権運動にはそれに先行する「教会」や「大学」といった動員構造があったことが重要だったとマックアダムは指摘しています。近年ではファンダムなども動員構造として注目できるかもしれません。
社会運動が成功するには、政治家などが要求に応えることが必要です。この要求を受け入れる側に注目したのが政治的機会構造論になります。
要求が受け入れられるきっかけの1つは政治的状況が不安定になることです。「不安定」という言葉はネガティブに捉えられますが社会運動によってはチャンスです。
エリートは今までの支持基盤が揺らぐ中で、新しい支持基盤を築くためにマイノリティなどの要求に応えるかもしれないからです。

またどのようなルートならばうまくいきそうかということもポイントで、例えば、同性婚や同性愛者のパートナーシップについては、日本の国政では保守政党の自民党が力を持っているために難しいですが、地方自治レベルのパートナーシップは各地で実現しています。
そのため、地方分権的な国家ほど、社会運動が成功する可能性は高いと言えるかもしれません。

このように社会運動のポイントとして認知と構造の2つがあることが意識されるようになってきたのですが、この2つを統合的に考えようというのが「フレーム分析」です。
社会運動を行う人は自分たちの運動が目指しているものや意味や周囲に伝える必要があるのですが、その切り取り方をフレーミングといいます。
例えば、「カスタマー・ハラスメント(カスハラ)」という言葉はUAゼンセン同盟が広めた言葉ですが、2016年に悪質なクレームについて組合員にアンケートを取ったところ予想の倍以上の回答が寄せられたそうです。
今まで困っていた問題が「カスハラ」という言葉を与えられたことで、多くの人が共通して抱えている問題だということがわかり、世論へのアピール力もついたのです。

バラバラの問題意識を統一する「マスター・フレーム」という概念もあります。例えば、「反グローバリズム」は、先進国と途上国の格差、環境問題、児童労働など、さまざまな問題を包摂することができます。
一方、2011年以降の脱原発運動において、運動側が脱原発以外のメッセージを掲げることを控えてと呼びかけたように、フレームが拡大するのを嫌うケースもあります。
また、運動にはさまざまな「レパートリー」があります。デモでも、プラカードを掲げるのか、音楽を流すのか、歌を歌うのかなど、さまざまなやり方があり、これによっても運動のスタイルが決まってきます。

今まで紹介してきた理論は主にアメリカで発展してきたものですが、「新しい社会運動論」はヨーロッパで生まれた理論です。
分析の対象として組織だけではなく個人にも目を向け、自分自身や文化、人びとの意識を変える運動も社会運動とみなしました。フェミニズムが代表的ですが、私的な領域と思われていた部分も運動の対象として考えるのです。
こうした考えはハーバーマスの「生活世界の植民地化」にも通じます。ハーバーマスは国家や企業による合理化・効率化によってそれまでの生活や文化が壊されてしまうことを生活世界の植民地化と呼びました。本書では『美味しんぼ』のサクンタラさんのタイ米のエピソードを使って紹介しています(著者は『美味しんぼ』マニアでもある)。
『美味しんぼ』のタイ米のエピソードでは、電気炊飯器の普及によってタイ米の伝統的な炊き方が失われつつあることが指摘されていましたが、このように考えれば便利な電気炊飯器をあえて使わないことも社会運動足り得るのです。

新しい社会運動の理論家の1人であるアルベルト・メルッチは「集合的アイデンティティ」を重視しましたが、これは人びとが自分たちの利害や関心、悩みや課題を理解して共有していくことが社会運動に必要だと考えたからです。
また、メルッチはハーバーマスの生活世界の植民地化について、社会変動をマイナスに捉えすぎてしまうとの批判も行っています。
この「新しい社会運動」に対しては、「新しい」ことを強調することが今までの運動との連続性を見にくくしてしまうとの批判もあります。

新しい社会運動論のインパクトを受けて、アメリカでも文化を重視する動きが生まれてきます。
1つは資源動員論に認知的要素や文化的要素を取り入れるもので、人びとは本当にフリーライダー問題が想定するように損得ばかりを考える合理的な存在なのか? 組織やネットワークの前に存在するコミュニケーションが大事ではないのか? といった問い直しを行いました。
また、運動における歌やポスターといった文化的要素にも注目しています。

さらに1990年代末になると、ジェイムズ・ジャスパーとジェフ・グッドウィンの二人(二人合わせて「ジャスウィン」という)がより根本的な批判を行いました。
ジャスウィンは、政治過程論や政治的機械構造論、動員構造論があまりに政治に偏重しており、それが社会運動の幅を狭くしていることを批判しました。また、動員構造論のいう組織やネットワークを過度に重視することも問題だと考えました。
ジャスウィンは運動における人びとの主観や心理、感情といったものを重視し、こうしたことを読み解くために文化的要素に着目しました。

今までの社会運動の理論では、どうしても運動が政治的に成功するか/失敗するかということが重視されてきましたが、文化という面にも目を向ければ、政治的にはうまくいかなくても、運動の一要素が文化として定着するといったことも考えられます。
例えば、DIYは釈迦運動として捉えた場合に成功したかどうかはわかりませんが、文化としては確実に定着し、一定の影響力を持っていると言えます。

00年代になると、ダグ・マックアダム、チャールズ・ティリー、シドニー・タローの3人(頭文字をとってMTTと言う)が、「Dynamics of Contention」と呼ばれる理論を提唱しました。
彼らは今までの研究が個別の運動の、特に発生に偏って分析してきたことを批判し、より広い範囲で運動を捉えることを求めました。
彼らは機会だけでなく、ときに運動が「脅威」となる側面にも注意をはらい、そうした機会や脅威はエリートではなく広く人びとに「帰属」するものだと考えました。
MMTは社会運動を、より広い「対立の政治」として捉えようとしましたが、これに対しては社会運動を幅広く捉えつつも対国家の運動に限定する側面もあり、さまざまな批判が寄せられています。

さらに近年では運動に参加する運動家についての研究も行われています。意外と自らを「アクティビスト」だと考えている人間は少なく、「自分は沢山活動しているけど、アクティビストではない」(229p)という人が多いそうです。こうしたある種の謙虚さが活動に駆り立てる原動力になっている可能性もあるそうです(日本だと「アクティビスト」のイメージの過激さを嫌う人もいそうですが)。

このように本書は社会運動論の歴史を追いながら、社会運動の幅広さや遍在を教えてくれる内容となっています。
ここではあまり紹介できませんでしたが、各理論の説明として近年のさまざまな日本の社会運動が紹介されていてわかりやすいですし、同時にそれらの社会運動に違和感を感じた人に対してもその背景を説明するような内容になっています。
その意味で、本書は社会運動の理論と実践の双方を説明してくれる充実した入門書になっていると言えるでしょう。


副題は「「国際協力」のディストピア」。副題からは国際援助批判の本のように見えますし、実際にそういうところもあります。「緑の革命」批判など、昔からある批判を反復しているように思える部分もあります。
ただし、本書には現在の西アフリカの若い世代の様子を活写しているという類書にはない面白い部分があります。特に先進国の人びとを相手としたロマンス詐欺に勤しむガーナの若者の様子は、まさに「グローバル」と「格差」の双方を強烈に感じさせるエピソードとなっています。
他にも近年の開発のお題目ともなっている「女性のエンパワーメント」が、かえって現地の女性に過重な負担を押し付けているのではないかという指摘も興味深いです。
著者はJICAの協力隊員から研究者となり、アフリカとの行き来を続けている人で、現地を知る人ならではの面白さがあります。

目次は以下の通り。
はじめに
序 章 グローバル格差の感情
第1章 請い、与えられる者の日常
第2章 農村の国際詐欺師たち
第3章 ゴリアテに立ち向かうダビデ
第4章 陰謀論に共感する
第5章 「俺たちは腹が減っている」
第6章 自分たちの農法を忘れた人びと
第7章 過重労働をこなす女性たち
終 章 国際協力の再構築

著者はJICAの協力隊員として2003年にブルキナファソへ赴任し、その後は研究者としてアフリカに足を運んでいます。本書でとり上げられるのは、ガーナやコートジボワールといった西アフリカの国が中心で、前半はガーナの話になります。

ガーナはアフリカの中でも特に貧しいというわけでもありませんし、内戦が起こっているわけでもありません。
しかし、一昔前と違う点は多くの人々がスマートフォンを持つようになったことです。アメリカやヨーロッパなどの「白人の国」の情報がリアルタイムで流れてくるようになったことで、人びとはさまざまな不満を抱くようになったのです。

それは豊かな暮らしだけではなく、例えば、「アラブの春」後に起こったヨーロッパを目指す難民・移民へのひどい取り扱いだったり、アメリカのBLM運動といったものもあります。
こうした中で、人びとは自分たちが「白人」によってひどい扱いを受けているという思いを強く持つようになっているといいます。


ガーナ北部はサバンナ地域に属し、海からも離れているため、以前は多くの若者がより経済的な条件のいい南部に出稼ぎをしていました。
しかし、ガーナ南部の農家の収入源だったカカオの価格の低迷や(本書の調査は2023年になされている。現在はカカオ価格は高騰)、インフレーションなどによって出稼ぎの仕事も以前のようには見つからないといいます。
また、一定の学歴をもった若者に見合った仕事がないのも大きな特徴です。学歴を生かせる仕事というと公務員くらいしかなく、非常に狭き門になっています。
公務員になるためには一定のお金を積む必要があり、その金額は年々上がっているといいます。さらに有力者のツテも重要で、そのためには二大政党のどちらを応援するかといったことも考えなければなりません。
こうした中で、多くの若者は日雇いの仕事や物売りなどに従事しており、物売りの競争も激しいためになかなか生活が安定しない状況です。

そこで若者たちが手を出しているのが国際ロマンス詐欺です。これを紹介した第2章は本書の読みどころと言えるでしょう。
ネットでの詐欺は産業化しており、東南アジアでは国際詐欺の拠点が摘発されたりしてますが、本書で紹介されているのはもっとローカルなネットワークです。

本書では、ガーナ北部の農村で「ビッグマン」と呼ばれる若い詐欺師の自分の子どもの命名式の様子が紹介されています。
DJが音楽を流す中で詐欺師の妻の友人の女性がダンスを披露し、その後に詐欺師が登場すると札束をといて紙幣をばらまきます。それを詐欺師の親族の女性や子どもが拾います。
式の途中には詐欺師仲間のビッグマンたちがピカピカの車で登場し、同じように札束をばらまきます。ちなみに紙幣は誰が拾ってもいいわけではなく、拾おうとする子どもを制止する監視役もいるそうです。
このようにガーナ北部の農村では詐欺師が地域のスターのようになっているのです。

もともと詐欺がさかんだったのはナイジェリアだったといいますが、いまやオンライン詐欺は西アフリカ一帯に広がっています。ガーナ北部でも2010年代の後半から農村で大金を稼ぐ若者が現れ始め、もはや「通過儀礼」のようになっているといいます。
国際ロマンス詐欺を成功させるには、知識や技術が必要になります。フェイスブックやワッツアップの偽アカウントを複数管理し、自分がなりすます白人の写真を手に入れます。ネットでのやり取りを考えると自撮り風の写真や動画も必要で、これらは友人などのネットワークから手に入れます。
また、台本も用意されており、さらにはなりすましの動画をうまく流す技術、通話を求められたときにそれっぽく話す人、贈られてくるギフトカードを換金する仕組みなど、様々なものが必要ですが、こういったものも友人のネットワークの中にあったり、ビッグマンが持っていたりします。

詐欺の相手はアメリカ人が中心です。日本人や中国人は「賢い」からうまくいかないという声もありますが、これは言語の壁だと思われます。以前はインド人に対しても仕掛けていましたが、呪術による仕返しで詐欺師が死んだという噂が広がったこともあり、みなが避けるようになったといいます。
アメリカ人の中でもターゲットにするのは中高年で訳アリだったり、容姿に自身がなさそうな男性で、こういった男性に白人女性のプロフィールを使ってアプローチします。

先程見たようにこうした国際ロマンス詐欺で成功したビッグマンたちは若者たちのロールモデルになっています。
著者の知るガーナ北部の高校では高3の生徒約900人のうち200人近くが頻繁に欠席しているといいます。以前は経済的な問題での欠席が中心でしたが、最近は国際ロマンス詐欺をやりために学校を欠席する生徒が多いそうです。
アメリカとの時差もあり、ガーナの高校生は夜遅くまでチャットなどにいそしみます。教員はもちろん注意しますが、教員の給料よりもビッグマンたちが稼ぐ額は遥かに大きく、学校を出ても安定して稼げる仕事につくことが難しい状況の中で若者たちは詐欺行為に引き寄せられています。

こういった詐欺行為に若者が走ってしまう理由として、貧しさや職のなさに加えて「白人」を悪いものだと見る考えが広がっていることもあります。ちなみに、中国人などのアジア系も「白人」と見なさることがあるそうです。

もちろん、植民地化の歴史などを考えれば現地の人が「白人」を悪いものだとみなすのにも十分な理由があるわけですが、アフリカの政治家がこうした「反白人感情」を利用することでも増幅されています。
また、さまざまな陰謀論も流れており、その中にはナイジェリアで反西洋主義を掲げ、女子学生を誘拐したボコ・ハラムが実は裏でフランスの支援を受けているといったものもあります。
アフリカではなかなか政情が安定せずに内戦などが続いているケースが多いのですが、その裏には「白人」がいるというのです。

「アラブの春」以後、サヘル地域に武装組織が流れ込んで地域が不安定化し、フランスが現地の政府に対して軍事支援を行いましたが、ここでも実はフランスが武装組織を支援しているという噂が流れ、こうしたことがマリでのクーデタにも影響しています。
一方、「白人」の国でありながら人気があるのがロシアで、フランスへの反発が親ロシア的なムードを生んでいます。
ロシアはワグネルを派遣するだけではなく、ウクライナ戦争後に高騰した食糧をアフリカ諸国に供給し、現地の人々の半西側の感情を利用して影響力を強めています。

アフリカでは現地のメディアの力は弱く、欧米のメディアがニュースを提供してきましたが、そこでは飢餓や紛争などの、欧米からみた「アフリカ」のイメージに合致する映像や写真が流されます。
しかし、現地で暮らしている人びとからするとこうした一面的なイメージは苛立ちがもたらすこともあるといいます。

そこで近年、勢力を伸ばしているのがソーシャルメディア上に流れるニュースです。こうしたニュースは既存勢力(西側諸国)の影響を受けておらず、かえって信頼できると考える人もいます。
SNS上のインフルエンサーが流す情報には親ロシア的なものもあったりするのですが、受け手は既存のメディアもインフルエンサーも同じように真実と嘘が混じっていると考えており、既存のメディアでは流れないニュースを求めています。

これは陰謀論の温床にもなっています。西アフリカの旧フランス植民地の国々では2010年代からCFA(セーファー)フランに対する批判が強ましたました。
CFAフランには2種類ありますが、いずれも通貨価値を安定させるためにユーロと紐づけられており、CFAフランの使用国は外貨準備の50%をフランスの財務省の運用口座に預けることになっています。
西アフリカではナイジェリアを巻き込んで「エコ」という新しい共通通貨を発行する動きがありますが、こうした中でCFAフランについて、フランスが不当に搾取しているとの批判が持ち上がりました。

この問題を指摘した知識人がAUの職から追われると、西側諸国がアフリカの政治家たちを動かし、場合によっては都合の悪い政権をクーデタで転覆させているといった陰謀論的な発言をネット上でするようになり、これが人気を得ています。
もちろん、植民地時代からの宗主国側に有利な取り決めというのはいろいろとあるのでしょうが、現在ではそこへの反発にロシアや中国がつけ込むような構図になっているといいます。

第5章と第6章は、この手の本で多い「緑の革命」批判です。
緑の革命によって収穫量は増えたが、同時に化学肥料を買わなくてはならなくなり、また、従来の農法が失われてしまったことによって農民の生活はかえって脆弱になったというのが基本的なストーリーです。

このストーリーは確かに一面の事実を表していますが、アフリカ諸国がウクライナ戦争後の国際的な穀物価格の上昇によって厳しい状況に置かれているということはアフリカの食糧生産が足りていない証拠であり、また、人口も増えているということは従来の農法だけでは難しいというのも事実でしょう。
平野克己『人口革命 アフリカ化する人類』によれば、エチオピアでは政府が化学肥料の供給に責任を持つ形で収穫量を上げているとのことで、こういった方法しかないのではないかと思います。

逆に、第7章はこれまでほとんどとり上げられてこなった女性のエンパワーメントに対する批判にもなっていて興味深いです。
女性が家事・育児だけではなく、農作業や賃労働をする、あるいは起業をするといったことは、近年の国際協力においては無条件に進めるべきだとされてきましたが、「本当にそうなのか?」というのです。

著者が調査してきたガーナ北部の女性は1日中働いています。水汲みから始まり、食事の用意、そのための燃料の調達、粉挽きなど休む暇がありません。また、若い頃は妊娠出産を繰り返しており、それも大きな負担です。
一方、農作業は基本的に男の仕事とされてきました。しかし、トウモロコシの収穫が伸びなくなったことなどもあって、1980年代から女性も農作業をするようになり、女性も自分の畑をもつようになりました。

ガーナ北部では必要に迫られて女性が農作業に加わるようになった形ですが、国際協力の分野では「女性のエンパワーメント」と結びつき、女性の農業への参加を促進する政策が進められました。
農業に取り組む女性はさまざまな援助が受けられるようになりましたが、同時に女性がしなければならない仕事はますます増えました。また、こうした手法は男性の無力感を高めているともいいます。

終章には本書のまとめと今後の国際協力のあるべき姿が書かれていますが、後者についてはまだまだ煮詰めていく必要があるでしょう。
ただし、本書は今までの開発協力に関する本が見落としていた部分を拾ってくれています。高校レベルの教育まで受けながら国際ロマンス詐欺に流れてしまう若者、SNSとともに広がる陰謀論、女性への期待がもたらす過重な負担など、日本にいるとなかなか見えてこない問題だと思います。
「答え」が示されているわけではありませんが、本書は開発協力を「問い直す」1冊となっています。
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★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
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