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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2023年09月

桓武天皇といえば平安京への遷都を行った天皇として知られています。さらに日本史について詳しい人であれば、平安京への遷都の前にあった長岡京への遷都、坂上田村麻呂に命じた蝦夷征討などの事蹟を思い浮かべることができるでしょうし、さらに母が渡来系の血筋であったことや。父の光仁天皇が天智系だったこともあり、天武系の奈良時代から天智系の平安時代へと、新たな王朝の伝統を作り上げた人物といった印象があるでしょう。

本書の副題も「決断する君主」となっており、新たな時代を切り拓いたエネルギッシュな人物というイメージは本書も踏襲していますが、本書が批判的に再検討するのが天武系→天智系という皇統の移動です。
詳しくは以下のまとめで紹介していきますが、本書では桓武と天武・聖武とのつながりを発掘していくことで、従来の見解への再考を迫ります。
また、藤原種継暗殺事件とそれに伴う早良親王の死についても再検討を行っており、ここも読み応えの1つと言えるでしょう。

目次は以下の通り。
第一章 ルーツ――白壁王の長男
第二章 皇位への道――「奇計」によって誕生した皇太子
第三章 桓武天皇の登場――「聖武系」の皇統意識
第四章 平安朝の"壬申の乱"――早良親王との確執
第五章 神になった光仁天皇――長岡京から平安京へ
第六章 帝王の都――平安新京の誕生
第七章 政治に励み、文華を好まず――計算された治政
終 章 桓武天皇の原点――聖武天皇への回帰
桓武天皇は天平9(737)年に白壁王(光仁天皇)の第一皇子として生まれています。母は渡来系の血を引く高野新笠です。桓武は山部王と呼ばれていました。
白壁王の父は、天智天皇の子の施基(しき)皇子であり、天智天皇から見て桓武は天智天皇の曾孫ということになります。

ここから桓武は天智系ということになるのですが、本書によるとそう単純なものではないといいます。
『日本書紀』には天武天皇が天武8(679)年に、吉野に行幸した際に、草壁、大津、高市、川島、忍壁(刑部)、施基の6人の皇子たちと互いに協力し合うように盟約を結ばせ、天武も同母兄弟のように慈しもうと言ったといいます。
このうち、川島と施基は天武の子どもではなく天智の子になります。しかし、このときに天武から自分の子どものように扱うと言われているのです。

その後の施基についてはわからないことも多いのですが、持統天皇から文学的才能を見出され、撰善言司(よきことえらぶつかさ)に任じられています。
『万葉集』にも施基の歌が選ばれており、文化人として活躍したと思われます。

この施基皇子のもとに生まれたのが白壁王です。施基には天武天皇の娘である託基(たき)皇女を母とする兄の春日王がおり、後継者としてはこちらが有力でしたが、兄たちが早逝してしまったこともあり、結果的に白壁王が施基の唯一の息子になりました。

天宝宝字元(757)年以降、白壁王は矢継ぎ早の出世を遂げますが、これは当時の政界の権力者であった藤原仲麻呂の引き立てだと思われます。
そして、この仲麻呂の引き立ての背景には、白壁王が聖武天皇の娘である井上内親王をキサキに迎えていたことがあったと思われます。井上内親王は孝謙太上天皇の異母姉にあたる存在で、白壁王は孝謙の義兄となったのです。
吉野の盟約から、白壁王は天武の「孫」でもあったわけですが、ここで聖武とのつながりもできたことで草壁からつづく皇統の正当な流れの近くに位置づけられることになったのです。

恵美押勝の乱において、白壁王は仲麻呂追討に功があったようで、勲二等を授けられています。この直後に山部王も従五位下に任じられており、山部王にも何らかの功があった可能性があります。

仲麻呂が討たれた後、白壁王は大納言のまま留め置かれます。順調だった出世が停滞するわけですが、著者は白壁王を立太子する構想があったと考えています。
律令制下において一般的に皇太子に対する叙品・任官はなく、白壁王のケースもこれにあたるのではないかというのです。
称徳天皇から白壁王(光仁天皇)の即位に関しては、称徳天皇の預かり知らぬところで決められたという説もありますが、そうではないというのです。

光仁天皇が即位すると、井上内親王が皇后となり、その子の他戸親王が立太子されています。
一方、山部王は従四位上になり、侍従に任じられ、さらに中務卿となりました。この時点での山部王は光仁・他戸を支える事務官僚としてのキャリアを積んでいました。

宝亀3(772)年に突如として井上皇后が光明皇太后を呪詛したとして皇后の地位を剥奪されます。さらに他戸親王も皇太子の地位を追われました。
罪はあくまでも井上皇后にあったとのことですが(これも本当かどうかはわからない)、結果として他戸親王も巻き添えになっています。
これで山部が皇太子になるわけですが、その前後に式家の藤原良継と百川の兄弟の娘が山部のもとに輿入れしており、一連の出来事はこの兄弟による策謀とも考えられます。
また、著者は井上皇后が光仁天皇の廃位と自らの即位を狙った可能性も指摘しています。

山部の立太子ですが、やはりネックになったのが母の出自で、藤原浜成はそれを問題視して、山部ではなく母が尾張女王(施基皇子の孫)の稗田親王を推しています。
こうした反対を押し切ったのが藤原百川だったと考えられます。百川は山部の即位を見ずにして亡くなりますが、桓武天皇の誕生に大きな役割を果たしました。

天応元(781)年、光仁が譲位し、桓武が即位します。それとともに光仁は桓武の同母弟だった早良親王が皇太子に立てられています。早良は出家しており、東大寺で親王禅師と呼ばれていましたが、光仁はわざわざ彼を還俗させて皇太子に据えています。
これは桓武の母の出自の低さから、行為争いが起こることを危惧しても物と考えられます。これより前には桓武の母の新笠に高野朝臣が賜姓されていますが(それまでは和氏)、これは高野天皇とも呼ばれた孝謙天皇と母を関連付けるためのものだったと考えられます。

しかし、早くも皇位を狙う動きが起きます。即位した翌年に氷上川継の謀反が発覚したのです。氷上川継の父は塩焼王、母は聖武の娘の不破内親王で、桓武よりも天武〜聖武にいたる血脈を濃厚に持っていました。
さらに三方王(舎人親王の孫ではないかと推測されている)による呪詛事件も起き、桓武の即位に対して納得をしていない勢力が存在することが明らかになりました。

こうした難局を突破するために桓武は遷都に踏み切ります。三方王が配流されるとすぐに桓武は藤原種継を参議に抜擢しますが、これも遷都を見据えてのものだと考えられます。
遷都に関しては「仏教政治に弊害を改めるため」という説明がされることも多いですが、桓武は仏教そのものを問題視しているわけではなく(桓武が否定したのはあくまでも奈良仏教)、やはり、自身の権威を強化する必要があったという理由が一番であると著者は考えています。

桓武が遷都先に決めたのが長岡京でした。桓武が少年時代を過ごしていたという説もありますが、本書はそれを否定し、長岡京に決まった理由を交通の便の良さに求めています。
延暦3(784)年、長岡京への遷都が行われますが、翌年、長岡京の造営事業の責任者である藤原種継が暗殺される事件が起きます。
ただちに容疑者数十人が捕らえられ処罰されるとともに、さらにその追求は皇太子の早良親王にも及びました。

早良がこの事件にかかわった証拠はありませんが、著者は早良の周囲に桓武や種継に反発する一派がいた可能性は高いとして、桓武が事件を機に早良の排除に乗り出したと推測しています。
事件への関わりを否定した早良は餓死したと言われていますが(自ら食を絶ったという説と経たれて餓死したという説があるが、著者は前者をとっている)、桓武も早良を自死させるつもりだったと著者は考えています。
この事件は天智の弟の大海人皇子が天智の子の大友皇子を倒した壬申の乱に重なるもので、桓武はこの事件に関する記事を『日本後紀』から削除させています。

桓武は早良の廃太子を、天智天皇陵、光仁天皇陵、聖武天皇陵に報告しています。
この天智天皇陵への報告については、自らが天智系であるという自覚を示したものだと解釈されることもありますが、著者は天智が弟ではなく直系の大友皇子に天皇の位を継がせようとしたこと、そこで天智が示したとされる「不改常典」との関係を指摘しています。
早良の廃太子の2ヶ月後に桓武の子の安殿親王が皇太子に立てられました。

長岡京の造営は種継暗殺後も続きましたが、延暦5(786)年に種継に代わって長岡京造営の中心だった佐伯今毛人が太宰帥に任じられて造営事業から外されます。これは左遷ではなく、今毛人が高齢だったためと本書では解釈されていますが、これを機に長岡京の造営は行き詰まっていくことになります。
延暦10(791)年には平城京の諸門が長岡京に移築されるなど、長岡京を整備する意思はあったと思われますが、最終的にこの都は棄てられることになります。

これについては早良親王の怨霊の影響が指摘されていますが、著者はその要因を認めつつも、それよりも種継を失ってからうまく回らなくなってしまった事業の立て直しという面が強かったと推測しています。
この再遷都のきっかけの1つが和気清麻呂の進言であり、新しい都の造営は、和気清麻呂の部下でもあった菅野真道や清麻呂の子の和気広世らを中心に行われました。また、桓武自らも積極的にかかわったといいます。

こうして延暦13(794)年に再遷都が行われました。人々が「平安京」と呼んでいることを理由に名前を平安京とし、さらに山背国を山城国に、古津を大津に改称しています。
延暦15(796)年の正月には、桓武は大極殿で朝賀を受けており、前年までには大極殿も完成していたようです。

この後も平安京の造営事業は続きますが、延暦24(805)年のいわゆる「徳政相論」によって打ち切りとなります。
藤原緒嗣と菅野真道の議論によって平安京の造営と蝦夷征討の中止が決まった出来事ですが、桓武のすでに事業の限界を感じていたようで、最初から結論は出ていたと思われます。

桓武には知られているだけで28人の后妃がおり、そのために後宮の制度も整備されました。
奈良時代は女帝も多く、後宮があまり必要ではありませんでしたが、桓武の子である嵯峨にも29人の后妃がいたように、奈良時代とは状況が違ってきたのです。
令では天皇のキサキは皇后(1人)、妃(2人)、夫人(3人)、嬪(4人)と定められていましたが、桓武の時代には「令外のキサキ」ともいうべき存在が登場します。
百済王氏をはじめとして渡来系の一族からキサキを迎えていたことも特徴で、歴代の天皇でも例外的です。

平安京の造営とともに桓武の事蹟としてあげられるのが蝦夷征討です。
発端は伊治呰麻呂の反乱で、これは桓武の即位の1年前に起こっています。朝廷は藤原継縄を征東大使に任命して討伐に向かわせますが、一向に戦果が上がらず、大使を藤原小黒麻呂に変更しましたが、光仁天皇の在位中に事態が好転することはありませんでした。
延暦3(784)年に、桓武は大伴家持を持節征東将軍に任命して討伐に向かわせますが、すでに家持は68歳(57歳説もある)で、任地で没してしまいます。
延暦7(788)年には紀古佐美が征討大使に任命され、今までにない軍勢と兵糧が集められますが、蝦夷の阿弖流為に大敗します。
延暦10(790)年、桓武は大伴弟麻呂を征東大使に、副使に坂上田村麻呂らを任命して、再び軍を派遣します。延暦13(793)年、この征東大使は征夷大将軍と改められます。征夷大将軍というと坂上田村麻呂が初代のように言われますが、大伴弟麻呂が初代になります。
この弟麻呂のもとで、副使の坂上田村麻呂が蝦夷を打ち破り、大きな戦果を上げました。
この後も蝦夷征討はつづき、延暦16(796)年には、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられ、延暦20(801)年にはその田村麻呂が再び蝦夷を破り、延暦21年には阿弖流為が投降しました。
田村麻呂は胆沢城と志波城を築き、朝廷の東北支配を盤石なものとしました。

延暦20年、桓武は遣唐使を派遣していますが、このときに唐に渡ったのが最長と空海です。空海の帰国は桓武の死後でしたが、後世の日本に大きな影響を与えた遣唐使と言えるでしょう。
また、『養老律令』の文章や語句を書いてした『刪定(さんてい)律令』の施行を命じ、のちに『弘仁格式』になる格式の編纂も命じています。国司の交替時の引き継ぎをチェックするために勘解由使を設置するなど、律令制度の強化にも務めました。
本書では終章で、再び桓武と聖武の関係をとり上げています。延暦23(804)年に桓武は紀伊に行幸しますが、このときの日程やルートは聖武の紀伊への行幸を意識したものであり、桓武には生涯、聖武に倣うという意識があったと著者はみています。
世の中の混乱に対して仏教にすがった聖武と、その聖武が大仏を建てた平城京を棄てて新しい都の造営や蝦夷征討に力を注いだ桓武は対照的にも思えますが、桓武にとって聖武は大きな存在だったのです。

延暦25(806)年に桓武は70歳で亡くなります。『日本後紀』は桓武について「当年の費といえども、後世の頼とす」と評していますが、著者はこれを「言い得て妙」だとしています(262p)。

このように本書は桓武天皇の生涯を追っていますが、個人的に一番面白く感じたのは桓武が即位するまでのいきさつでした。
草壁皇子からくる血が孝謙(称徳)のところで行き詰まり、仕方なくダークホースの光仁天皇が出てくるといったイメージで理解していましたが、本書を読んで、光仁も天武に認められた施基皇子からの流れがあり、しかも井上内親王をキサキとしていたことから天皇になってもおかしくない存在だったというのはなるほどと思いました。

一方で、桓武が取り組んだ律令制の立て直しに関してはもうちょっと触れてほしかった面もあります。軍団を廃止して健児に変えた話や班田制の改革などは本書ではほぼ触れられていませんが、このあたりのことも知りたかったですね。


このところずっと話題になっているジェンダー格差の問題ですが、では、その解決方法は? というと一筋縄ではいきません。
別に男女問わずの競争をしているはずなのに、東大には男子学生が多いですし、政治家は男性ばかりです。
もちろん、東大に入ったり政治家になるのが「良いこと」なのかという根本的な問題はありますが、とりあえず、そこには女性にとって何らかな不利な状況があると考えられます。

本書は、実証経済学で行われてきたさまざまな研究を紹介することによって、このジェンダー格差の問題に迫っていきます。
「女性の労働参加が何をもたらすか」「学歴と結婚や出産の関係」「出産などについて女性が決める権利を持つことが何をもたらすか」など興味深いトピックについてのさまざまな研究が紹介されています。
中には、意外な結果となっているものもあるのですが、そうしたものを含めてみていくことで、エビデンスの重要性や、エビデンスを得るための手法の大切さを理解できるような構成になっています。
「実証経済学」というと難しい印象を持つ人もいるかもしれませんが、本書の記述は非常にわかりやすく、実証経済学に馴染みのない人でも面白く読めるのではないでしょうか。

目次は以下の通り
序章 ジェンダー格差の実証とは
第1章 経済発展と女性の労働参加
第2章 女性の労働参加は何をもたらすか
第3章 歴史に根づいた格差―風土という地域差
第4章 助長する「思い込み」―典型的な女性像
第5章 女性を家庭に縛る規範とは
第6章 高学歴女性ほど結婚し出産するか
第7章 性・出産を決める権利をもつ意味
第8章 母親の育児負担―制度はトップランナーの日本
終章 なぜ男女の所得格差が続くのか

ジェンダー格差を表すものとして有名なのが「ジェンダーギャップ指数」です。日本の2023年で146カ国中125位という低い順位はよくとり上げられています。
「健康」「教育」「政治」「経済」のそれぞれの分野について男女の平等を測ろうとしたもので、日本は政治と経済が低い点数になっています。
ただし、国連開発計画(UNDP)の「ジェンダー不平等指数」では日本は170カ国中22位です。こちらは妊産婦の死亡率と20歳未満の女性の出産率が重視されており、いずれも低い日本は高い点数になるわけです。この指数では日本はアメリカ、イギリス、ニュージーランドよりも上位に来ます。
このように「何を測るのか?」という問題は大きいです。

経済学では、、因果関係をより厳密に測定するためのRCTや自然実験などの手法が開発され、特定の政策の影響なども分析できるようになっています(序章でこうした手法がわかりやすく紹介されています)。

女性の労働参加と経済成長には一般的に正の関係あると言われています。ただし、これは相関関係で必ずしも女性の労働参加→経済成長という因果推論ではありません。
複数の国を見ていくと中所得国で女性の労働参加率が下がるというU字の関係が見られます。
例えば、インドでは経済成長が続いていますが、女性の労働参加率は2005年頃から低下に転じ、30%以上あったものが20%程度まで落ち込んでいます(38p1−4参照)。
また、学歴別に見ていくと初等教育未満の女性の労働参加率が最も高く、中等教育レベルが最も低く、高等教育レベルになると少し上がります(39p1−5参照)。

この背景には女性が親族以外の男性との接触を嫌がる慣習もあると言われますが、経済学的には「所得効果」が「代替効果」を上回っていると説明できます。
この場合の所得効果とは男性働き手の所得の向上で、代替効果とは女性の賃金が上昇することで女性の労働参加を促すことです、つまり、経済成長で男性の賃金が伸び女性を養えるようなった割には女性の賃金の伸びはまだ不十分なので、家庭にとどまるインセンティブが働くというわけです。
これは日本の高度経済成長期にも見られたもので、かなり普遍的なものと見られます。
一方、産業構造の変化が女性の就労を促す可能性もあります。
一般的に男性は肉体労働に、女性は頭脳労働に比較優位を持っていると考えられます(比較優位なので女性のほうが頭がいいというわけではない)。
経済が発展すると、頭脳を使う仕事の収益率が上がる傾向があり、そのために女性の男性に比べた相対的な賃金が上がってきます。インドではBPOビジネス(オペレーターやデータ入力のアウトソーシング)の発展により、女性への教育投資が増えているという状況もあります。

では、女性の労働参加が進むとどうなるのでしょうか?
基本的に女性の労働参加率と女性のエンパワーメントは正の関係にあるとされています。
このエンパワーメントを測るためのものはいくつか考えられますが、本書がまずとり上げているのが家庭内交渉力です。例えば、女性が自らの稼ぎを得るようになれば離婚の決断も容易になり、それを背景にして夫に対する交渉力が上がります。

世界では男児に比べて女児が少ない地域が見られます。特に中国とインドではそれが著しいです。
中国では一人っ子政策の影響が大きいとされていますが、ほぼ同時期に始まった農業改革によって農民が余剰生産物を自由に販売できるようになったことが男子を選別して産むことを可能にしたとの研究もあります。
インドでは花嫁の持参金であるダウリーが大きな問題では、「500ルピーをいま(中絶の費用として)払うのか、5万ルピーをのちほど(ダウリーとして)払うのか」という産婦人科の広告さえあるそうです(50p)。

この現象をアマルティア・センは「ミッシング・ウーマン現象」と名付けましたが、女性の労働参加が進むと性比が下がる、つまり女性の生存確率が上がるとの研究もあります。
また、中国の茶の栽培が盛んになった地域では、女性が茶摘みの仕事に向いているために性比が改善したという研究もあり、インドの深耕に向いた土壌の地域ではそうでない地域に比べてより力仕事が必要になるために性比が高くなったことを示した研究もあります。
さらに女性の就業機会の増加が児童婚を減らすというバングラデシュを対象にした研究もあります。

家庭内暴力については、アメリカで女性の賃金上昇が家庭内暴力を減らしたという研究がある一方、バングラデシュの教育水準が低く、年齢が低いなど、もともと家庭内交渉力が低そうな女性に関しては労働参加が家庭内暴力を増やしたとの研究もあります。
インドでも似たような研究がありますが、離婚という選択肢が考えられるかどうかがこうした違いを生み出している可能性があります。

では、こうしたジェンダーの格差はいつからあるのでしょうか? 現時点では、女性が男性に依存するようになったのは農耕文化が発達し、定住するようになってからという説が主流だそうです。

地域差に関しては農業のスタイルにその起源を求める研究もあります。
焼き畑中心の農業では土をそれほど掘り返す必要がなく鍬で十分ですが、定住するタイプの農業は土をより深く掘り起こす必要があるために鋤が必要になります。
鋤を使うにはより大きな力が必要なために男性中心の農業になって女性の地位が下がりますが、鍬ならば女性も十分に使えるために女性の地位が下がらず、それが今にまで続いているというのです。ちなみに日本も含めた東アジアは鋤の地域で、アフリカや南米などに鍬の地域が広がっています(74p3−2参照)。

男女の格差に対する説明の1つとして「男性の方が競争を好む」というものがあります。逆に女性は競争心が弱いために企業のトップなどになりにくいというのです。
この競争心と、父系社会、母系社会の関係を調べた研究があります。父系社会のタンザニアのマサイ族は男性がより競争を好みましたが、母系社会のインド北東部のカーシ族は女性がより競争を好みました。
ただし、カーシ族でも政治家や民間防衛、裁判官、司法など伝統的に権力を持ちそうな職業は男性中心です。

女性の社会進出を抑えるものとしてステレオタイプがあります。
内閣府が日本で行った調査では、例えば、たとえ共働きであっても男性の25%、女性の20%が子どもの看病は女性がすべきと考えており、男性の50%近くと女性の45%ほどが男性は仕事をして家計を支えるべきと答えています。
こうした考えが、例えば、採用時に男性の方が熱心に働くだろうと考えて能力が同じなら男性を採用する統計的差別を生んでいるかもしれません。

また、アメリカのSATの数学の点数において、トップ層では男性が多くなっています。ほとんどのスコアでは男女が重なっているのに、一部の優秀層だけをみて「男性が数学が得意」という思い込みが形成される可能性もあります。
さらに、こうした言説が実際の成績に影響するという研究もあります。女性は相手が男性である場合、男性が得意とされる分野における自己評価が下がる傾向があるのです。
これに関連して、日本では進学校の女子校の生徒は数学の成績は男子と変わらないという研究もあります。

こうした状況を打破するのに有効なのがロールモデルの存在です。そして、ロールモデルをつくるための1つの方法がクォータ制です。
特に政治家についてはクォータ制の導入が各国で進んでいます。このクォータ制にへの反論の1つとして「実力もない女性が選ばれてしまう」というものがありますが、クォータ制がむしろ有能でない男性の排除する結果に繋がったとの研究もあります(ただし、ここでの「有能」が何を意味するのかは気になる)

「男性が外で働き、女性は家で家事・育児をすべきだ」という考えは、先進国では古い考えだとみなされるようになりましたが、アメリカでも19世紀末〜1920年代にかけては、一部の専門職を除く働く女性の多くは貧しい未婚の女性でした。
アメリカでもかつては結婚退職制度がありました。ただし、この制度は事務職や教員などのホワイトカラーが中心でブルーカラーにはなかったといいます。人手不足の際には緩和されたりしながら1950年代まで運用されていました。
このように「男性は外、女性は家」という規範はアメリカにもありましたが、アメリカでは比較的短期間でこの規範が弱まり、1970年代には「革命的」とも言える変化が起こっています。

一方、南アジアなどでは「男性は外、女性は家」という規範が強いのですが、実際に女性が働こうとした時の妨げになるのは夫や父の反対だといいます。
南アジア、中東、北アフリカでは、女性の親族以外の男性との接触を良しとしないパルダという慣習があり、これが女性の就労を妨げていますが、やや例外となっているのが教師です。
これは教師が尊敬される職業だからという理由がありますが、一方で教師は名誉職のようでもあり、給与は低い状況です。パキスタンの2014年のデータでは工場勤務の半分にも達していません(115p5−4参照)。
この背景には南アジアには寺子屋のような私立学校が多いことがあります。女性の進学率が上がる中で、「教師だったら働いてもいい」と考える父親が多いため、女性教師が供給超過になっていることが考えられます。
また、パルダのような慣習は、他人の目を気にすることで強化しています。サウジアラビアを舞台にした研究では、男性たちは自分の妻が働くことに賛成していても、周囲の男性は反対するだろうと考えています。このケースでは間違った認識を是正することで妻が働いても良いと考える男性が増えました。
一方で、家族の意識改革を狙った介入が失敗したことを報告する実験もあります。

かつては高学歴女性ほど、結婚・出産をしないと考えられていました。学歴やスキルを身に着けた女性が家庭に入ることの逸失利益は大きいと考えられたからです。
しかし、先進国に限ると大卒女性の方が出産をしているという傾向が見られるようになっています(128p6−1参照)。離婚したとしてもすぐに以前と同じ様な条件で働ける環境があれば、女性はためらわずに産むというのです。
ただし、働けるとしても非正規の職にしかつけないようであれば、そうは言えないかもしれません。日本ではこれがひとり親家庭の貧困の大きな要因になっています。

女性の高学歴化、社会進出が進んだアメリカでも、男性よりも稼ぎそうな女性は結婚市場ではモテないという現実もあるそうです。高学歴の人も内心では「妻は夫よりも稼ぐべきではない」といった規範を持ち続けている可能性があるのです。

結婚において花婿側から花嫁側に婚資が贈られたり、花嫁側が結婚持参金(ダウリー)を持っていくケースがあります。
サハラ以南のアフリカでは女性が労働参加して家計の所得に貢献していることが多いため、その補填として花嫁側に婚資が贈られることが多く、一方、南アジアでは女性の労働参加率が低いために一人分の食い扶持が花嫁側から花婿側に移ることになり、その補償としてダウリーがあると説明されています。

ダウリーに関しては児童婚を招いているとの指摘もあり(花嫁の年齢が低いほどダウリーが安く住む傾向がある)、一方の婚資も離婚しにくくなるといった弊害があります。
ただし、ダウリーに関しては親からの生前贈与という性格もあり、女性に相続権がない場合はダウリーの額が多いほど、花嫁の家庭内での発言権が強まるとの研究もあります。また、婚資があるほうが女性の教育水準が上がるとの研究もあります(教育投資を婚資で回収できるため)。
ダウリーも婚資も一概に悪いとは言えない側面があります。
性や出産について女性が決める権利を持っていることも重要です。
アメリカではピルの合法化が女性の労働参加率を高めたと言われています。また、ピルは女性が産む子どもの数を減らしたわけではなかったが、第一子を産む年齢を遅くしたそうです。女性がより計画的にキャリアを築けるようになったからだと考えられます。
また、1973年の「ロー対ウェイド判決」での中絶の合法化も大きな影響を与えました。この中絶合法化については『ヤバい経済学』でスティーヴン・レヴィットらが、中絶の合法化が犯罪を照らしたと主張し物議を醸しましたが、2020年発表の論文でもその主張は変わっていないとのことです。

世界には一夫多妻制を認めている地域もありますが、一夫多妻制は子どもを増やすのでしょうか? 減らすのでしょうか?
なんとなく子どもが増えそうな気もしますが、子どもの数を決めるのが夫であれば減るかもしれません(妻が1人でも5人の子ども、2人でも5人の子どもならば女性一人あたりの出生数は減る)。
実証では、増える傾向が確認されています。これは妻同士の競争がはたらき、子どもが増えるからです。

また、一夫多妻制において教育水準が高く、リプロダクティブヘルス、妊娠出産についての意思決定ができる女性の方が出生率が上昇する可能性もあるといいます。
インドや中国では教育水準の高い女性の子どものほうが性比が高い(男子が多い)傾向があり、女性が知識や権利を持つことが手放しでいい結果を生むわけではないこともわかります。

他にもアフリカのHIVについて、女性の財産保障が強い大陸法を採用している国よりも財産保障の弱い英米法を採用している国のほうがHIV感染率が25%高いといった研究も興味深いです。

子どもを持つと賃金は下がるのか? この直截的な問いに答えようとしているのが第8章です。
ただし、この問いに答えることは非常に難しく、本書ではさまざまな自然実験が紹介されていますが決定打はないとのことです。
「子どもを持つことの賃金ペナルティ」も確認されていますが、厳密な因果関係を証明することは難しいといいます。
また、ジェンダー格差の小さい北欧などでは賃金ペナルティが小さいのですが、南欧でも小さいといいます。これは女性の社会参加が低い地域では、子どもがいても労働に参加する女性は特別にキャリア志向の強い女性だからです。
男性の育児休暇は基本的に女性を助けるものですが、逆に女性の昇進に不利になる可能性を示唆する研究もあります。研究者を対象とした研究では、育児休暇を取得した男性研究者はその間も研究を進め、テニュア取得に有利になったというのです。

終章では男女の賃金格差について改めてとり上げています。
OECD諸国のフルタイム勤労所得の男女格差を見ると1位が韓国で35%近く、2位が日本で24%となっていますが、ジャンダ‐格差が小さいと思われるスウェーデンやノルウェーでも5〜8%くらいの格差が残っています(191p9−1参照)。
これはなぜなのでしょうか?

今まで、学歴、キャリアの中断、差別といった要因があげられてきました、学歴に関しては先進国では女性が男性を上回る国が主流になっています(日本は別)。
他にも男女の職種の違い(この職種の分断の原因にセクハラがあるとの研究もある)、女性の方が柔軟な働き方を好む、競争や交渉を好まないなどの原因があげられています。
その根本には社会規範やステレオタイプがあるわけですが、同時に社会規範やステレオタイプといった概念のさらなる検討も必要なように思いました。
例えば、誰でも柔軟な働き方を好むはずなので、これを女性に比べて選ばない男性を取り巻く状況が歪んでいるという可能性もあるでしょう。

このように本書はさまざまな興味深い知見を紹介していくれています。このまとめでは書けませんでしたが、個々の実験デザインについても説明があり、そのアイディアも1つの読みどころだと思います。
また、先進国だけではなく途上国の事例を数多く紹介することで、男女差別の問題の深刻さを端的に示すことができていると思います。




COVID-19の流行は社会にさまざまな対立を生み出しました。行動制限をめぐ対立、マスクをめぐる対立、ワクチンをめぐる対立、これらは日本でもありましたし、一部はいまだに続いています。
しかし、アメリカにおける対立は日本よりも一段と強烈だったと思います。バイデン支持者はマスクをするが、トランプ支持者はマスクをしないといった状況を見て、「いったい何がこの人たちを動かしているのか?」と感じた人も多いでしょう。

本書は、そんなアメリカの分断を、公衆衛生史の専門家である著者が読み解いたものになります。
本書を読むと、アメリカの歴史の中で培われてきた「自分たちのことは自分たちで決める」(それが自由)という考えと、公衆衛生の相性の悪さがわかりますし、また、黒人を中心としたマイノリティが置かれてきた状況もわかります。
前半は、新書だということで細かい事項に踏み込まないで論じようとするスタイルがややフワッとして漠然とした印象を与えてしまっていますが、後半(第3章以降)は、興味深いトピックも多く、面白く読めると思います。

目次は以下の通り。
第1章 そもそも公衆衛生とは何か
第2章 「自由の国」アメリカ―個人の選択と公衆衛生管理の相克
第3章 ワクチンと治療薬―科学と自然と選択肢
第4章 病の社会格差―貧困層を直撃する社会制度
第5章 社会の分断―「マスク着用」が象徴するもの

本書がとり上げているのは公衆衛生です。そのためアメリカの医療問題としてはおなじみの医療保険の問題などはとり上げられてません。医療全体ではなく、あくまでも公衆衛生の分野に絞って書かれています。
公衆衛生というものは説明しにくい概念ですが、とりあえずは「地域やコミュニティを病から防衛し、住民の健康を維持するための、公共的取り組みである」(16p)と大まかに定義されます。
その上で、著者は公衆衛生の特徴として、「数を数え分析すること」、「健康教育を行うこと」、「行動制限を行うこと」の3つをあげています。
ただし、これら3つのことには困難も伴います。
まず、「数を数える」といっても、例えば、COVID-19による死者数を数えることにも難しさがあります。COVID-19陽性者が別の病気によって亡くなることもあり得るからです。また、アメリカでは人種ごとの死亡率なども出ていますが、ミックス・レイスの人をどう捉えるかなどの問題があります。

「健康教育」にも難しさが伴います。健康を考えれば、「太りすぎ」だけではなく「痩せすぎ」もなくしていく必要がありますが、これは若い女性の痩せ願望と衝突するかもしれません。
また、現代では「健康のため」と称してさまざまな器具やサプリメントなどが売られていますが、公衆衛生はこういった情報の洪水の中で人々を啓蒙することが求められています。

そして、最後の「行動制限」についての難しさは明らかでしょう。行動制限は人々にストレスを与えるだけではなく、経済にも大きな打撃を与えます。
当然ながら、公衆衛生の一環として行動制限が受け入れられるまでにもさまざまな問題がありました。

アメリカは「自由の国」であるとされていますが、著者はその中心は「自分たちのことは自分たちで決める」という自治の感覚だといいます。
アメリカでは基本的に州政府が人々の身近な公共政策を担うようになっており、戦争、通商、外交など、共通して行わなければならないことを連邦政府の役割としました。
この「自分たちのことは自分たちで決める」ということを公衆衛生の相性は残念ながらあまり良くないです。
パンデミックにおいて、医療や公衆衛生の専門家が意思決定で重要な役割を果たすことになり、アメリカには世界から優秀な専門家が集まっています。
ただし、アメリカでは同時に「それは誰が決めたのか」という反応が出てきます。「自分たちのことは自分たちで決める」という原則から逸脱していると感じられるからです。
アメリカにおいて、基本的に公衆衛生の分野も州政府の管轄でしたが、交通インフラやテクノロジーの発達によって州政府だけでは対処できない問題も出てきます。
1898年の米西戦争において、アメリカ軍兵士のために提供された肉の缶詰に防腐剤としてホウ酸が添加されており、それを食べた兵士が中毒症状になり、死者まででました。こうした中で連邦レベルでの規制を求める声もあがります。

しかし、連邦政府に公衆衛生の管轄権はありません。そこで連邦政府の持っている通商権限を用いて食品衛生管理などを行う動きが出てきます。
1906年の食肉検査法は食肉工場の衛生管理を定めた法律ですが、これも通商規制という形で指定されており、州内での販売に対しては規制しないものでした。

州政府はワクチンの接種の義務化などを行うことができますが、別の州がワクチンを義務化していなければ感染は抑えられません。実際、複数の鉄道路線が乗り入れるシカゴなどでは、鉄道から感染が始まったケースがありました(このあたりは時期とか規模の具体例が書いてあると良かったと思う)。

今回のCOVID-19の流行においては、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)が入国制限や入国時の検査や隔離を行いましたが、CDCが制限したのは外国との往来に限られ、州間移動については鉄道と長距離バスでのマスクの義務化を指示するにとどまりました。基本的に州政府に任せる姿勢をとったのです。
そこで例えば、ニューヨーク州のクオモ知事はCDCの国内旅行自粛の勧告よりも前に州非常事態宣言を出し、多人数での集会や高齢者施設への訪問の自粛を呼びかけました。その後も学校閉鎖、マスクの義務化などの対策を打ち出しています。
ただし、これでも感染者が爆発的に増加していたニューヨーク市からすると弱いもので、クオモ知事とニューヨーク市のデブラシオ市長が批判合戦を繰り広げるといったことも起こりました。
基本的な権限は州政府にあるのですが、ここでも「自分たちのことは自分たちで決める」という考えが根底にあったと言えるでしょう。

こうした公衆衛生とアメリカという国の特徴を踏まえて、第3章ではワクチンの問題がとり上げられています。
ワクチンによる伝染病の予防は1796年のジェンナーによる天然痘に対する牛痘の接種から始まりました。
ヨーロッパでは19世紀になって大規模な種痘勧奨に踏み切りましたが、アメリカでは連邦政府による種痘勧奨や義務化は行われませんでした。公衆衛生は州政府の管轄だったからです。

州レベルで種痘義務化を実施したのは1855年のマサチューセッツ州が最初です。マサチューセッツ州では1827年に公立学校児童に対して種痘証明書の提出も求めています。ただし、当時の公立学校は義務教育ではなかったため、全児童の5割は対象外でした。
労働者階級や貧困層、公務員、移民などに対しては集団接種なども行われましたが、ミドルクラスや上流階級への接種の強要は行われませんでした。他の州においても、義務化はなされた場合でも緩やかなものにとどまったといいます。
また、天然痘は「移民が持ち込むもの」という先入観もあり、移民の少ない地域などでは広がりませんでした。

当時の天然痘ワクチンは品質も安定しておらず、効果が十分でなかったり、逆に他の病気をもたらすケースもありました。1901年にニュージャージー州での学童の破傷風の集団発生は、天然痘ワクチンに破傷風菌が混入していたためではないかと疑われています。
これを受けて、連邦政府は1902年に生物薬品管理法を制定し、ワクチンの品質管理をはかりますが、ワクチン接種をどうするかについては州政府に任されていたために、南部ではワクチンの接種は広がりませんでした。

また、「反ワクチン」の動きも起こってきます。
1901年、マサチューセッツ州ケンブリッジ市は過去5年以内に天然痘のワクチンを接種したことを証明できない住民にワクチン接種を命令します。これに対してヘニング・ジェイコブソン牧師は、スウェーデンで暮らしていた少年時代に天然痘ワクチンの接種を受けていましたが、その際に体調不良になったことから自分と息子へのワクチン接種を拒否しました。
これに対してケンブリッジ市はジェイコブソンを起訴し、罰金5ドルの支払いを命じますが、ジェイコブソンがこれを拒否し、連邦最高裁まで争われました。

ジェイコブソンは裁判で憲法修正第14条の「何人たりとも法の適正手続きなしに生命、自由、財産を奪われない」を持ち出して、ワクチン義務化は憲法違反であると訴えます。
ジェイコブソン側には自信もありましたが、最高裁はこの訴えを退けます。州政府は州民の健康と安全を守るために「合理的な手段」を取る権限をもつとしたのです。

しかし、反ワクチンの動きが収まることはありませんでした。ジェイコブソン判決で個人の選択の自由が否定されると、反ワクチン派は、ワクチンの危険性を訴える方向と、免除規定を拡大させる方向で運動を進めます。
ジェイコブソン判決には一部の子どもや虚弱な人には免除が認められると示唆するところがあり(ジェイコブソンがもっと虚弱に見えていたら裁判に勝っていたとの声もあるそう(106p))、また、宗教上の理由からワクチン免除を求める動きも起こります(もっともワクチン接種を否定する宗派はクリスチャン・サイエンスなどわずか)。2022年現在で44州とワシントンDCで宗教上の理由によるワクチン免除規定があるそうです。
ただし、公立学校入学にワクチンの接種証明書かワクチン免除の証明書が必要になるなど、日本のようになんとなく不安だから受けさせないといったことは認められません。
COVID-19において、アメリカはワクチン開発に力を注ぎ、イギリスに次ぐ2020年12月14日にワクチン接種を開始しました。
しかし、アメリカの接種率は成人人口の半数が接種した2021年4月半ばから緩やかなり、5月には急ブレーキがかかりました。9月上旬には接種の開始が3ヶ月遅れた日本にも追いつかれ、抜かれています(114pのグラフ参照)。
この背景にはワクチンの危険を煽るような情報がSNSを中心に流れたことがありました。
また、マイノリティの接種率が低いのも1つの問題でした。CDCによると、2021年4月26日の時点で、白人成人の接種率が38%に対して、黒人成人24%、ヒスパニック成人25%で、ワクチン接種においてマイノリティが出遅れる状態でした。
この後、ヒスパニックの接種率は伸びて白人を上回るのですが、黒人が人種別に見ると最下位にとどまっています(120pのグラフ参照)。

黒人やヒスパニックはかかりつけ医を持っていないことも多く、そういった医療へのアクセスが原因の1つと思われますが、黒人の接種率が低いままにとどまったのは過去の経験もあったと考えられます。
1932〜72年にかけてアメリカ合衆国公衆衛生局によって行われたタスキギー梅毒実験は、患者の病状変化を観察・記録するために、治療と称して黒人患者を集めて行われたものでしたが、黒人はこうした「実験」に使われることが多かったのです。こうした過去が黒人の医療不信へとつながっています。

第4章は「病の社会格差」となっています。ただし、本書はアメリカの医療保険制度については扱っていません。
一般的に経済的に豊かになると健康になります。カロリーも十分に摂取できるようになり、衛生状態も向上するからです。
しかし、アメリカは世界で最も豊かな国の1つにもかかわらず、2020年の平均寿命は日本84.62歳、カナダ81.75歳、中国77.1歳に対して、アメリカは77.28歳とあまり長くはなく、COVID-19においても、死亡者数で世界一となりました。

この背景には貧困と格差の問題があり、近年、社会経済地位(SES)と健康の関係が注目されています。特にアメリカではSESと人種が関係しており、大都市スラムに住む黒人に注意が払われてきました。

しかし、本書では大都市の黒人が注目される一方で、非都市部の健康問題が見過ごされてきたことが指摘されています。
現代のアメリカでは少なくとも140万人が水道設備を持たずに暮らしていると推定されていますが、その多くは非都市部の住民です。
2005-09年の非都市部の平均寿命は76.8歳と都市部より2歳短く、しかも2010−19年では都市部は平均寿命が伸びたのに対して非都市部でへ男女とも短くなっています。自殺率も非都市部は都市部の2倍となっています。

非都市部は医療のアクセスも悪く、また、車中心のライフスタイル、伝統的ではあるが脂肪分過多な食事、飲酒率や喫煙率の高さは、いずれも健康にとって良いものでありません。
アメリカでは貧困を都市の人種とエスニシティと結びつける傾向が強く、それ自体は間違っていないとしても、その裏で非都市部の問題が見過ごされる傾向があるのです。

今回のCOVID-19においても、都市部のエッセンシャルワーカーが感染のリスクに晒されていたことはよく報道されていましたが、非都市部の年齢調整致死率は大都市貧困地域に次いでおり、女性に限ればそれを上回っていました。

最後の第5章ではマスクの問題がとり上げられています。アメリカでは、なぜあそこまでマスクを拒否する人がいたのでしょうか?

アメリカで広くマスク着用が要請されたのは「スペイン風邪」のときです。1910年代までは医療現場でもマスクをせずに治療に当たることが一般的であり、マスクの効果がまだ信じられていない時代でした。
スペイン風邪は世界でおよそ5億人が感染し、少なくとも500万人が亡くなったというパンデミックで、アメリカでも感染が広がる中で集会の禁止などの行動制限が始まりました。
1918年10月、一旦落ち着いた感染者が再び増え始めるとサンフランシスコ市は市内で働く市民を対象にマスク義務化令を出し、労働者以外の市民にもマスク着用を強く要請しました。
その他の地域でもマスク着用を義務化するところが出てきましたが、反発も起こります。市が税金代わりに罰金を徴収しているのではないか? ガーゼ製造会社を設けさせるためではないか? といった声も上がり、1919年1月にはサンフランシスコ市で反マスク連盟が結成されます。
当時のマスクの質が悪く、効果が十分にあがらなかったころもあり、サンフランシスコ市も19年の2月にマスク義務化令を撤廃します。
その後はクー・クラックス・クランの活動活発化に対応して一部の州でマスク禁止令が出たことなどによって(いまだに18州で有効とのこと)、マスクは次第に反体制・反政府・反既存秩序的な色彩を帯びていくことになります。

COVID-19においてCDCは2020年の4月に自宅以外の場所におけるマスク着用を勧告します。勧告にとどまったのはCDCには複数の州にまたがる交通機関等しか規制することができず、州内のことについては管轄権を持たないからです。
2021年1月にCDCは複数の州にまたがる飛行機や鉄道の利用者にマスクを義務付け、違反者には罰金を科すことにしますが、22年4月にフロリダの連邦地方裁判所によってこの政策は否定されます。CDCは連邦最高裁に控訴せずに、この命令を引っ込めました。
マスク着用の義務化は州政府の判断に任されることになりましたが、先述のように反マスク法が生きている州もあり、そうした州では反マスク法が廃止、または一時停止されました。

感染が広がるにつれ、マスクの着用は次第に政治的分極化の象徴のようになってしまいます。
トランプ大統領は意思決定から意図的に専門家を遠ざけ、アメリカ人の中にある専門家への不信に同調し、マスクもなかなかつけようとしませんでした。
こうした中で、トランプを嫌う人はマスクを付け、トランプ支持者はマスクを付けないという状況になって言ってしまいます。
国立アレルギー感染症研究所のファウチ所長は2021年2月のインタビューで「政治的分極化の中で、マスク着用は公衆衛生対策ではなく政治的意思表明の手段となってしまった」(197p)と嘆いています。
このように本書はアメリカの公衆衛生の歴史をたどることで、公衆衛生とアメリカの双方に対する理解が深まるような内容になっています。
最初にも述べたように、前半はやや漠然としたところがあるのですが、後半(第3章以降)になると面白いので、最後まで読んでみてください。
アメリカの自主独立の気風と公衆衛生は相性が悪いのですが、だからこそ両者の特徴が引き立つところが面白いですね。


副題は「笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲」。2023年度下半期の朝ドラが笠置シヅ子をモデルにした『ブギウギ』なので、その副読本の1つとして捉えられそうですが、著者の『創られた「日本の心」神話』(光文社新書)や『踊る昭和歌謡』(NHK出版新書)を読んだ人は、単純な副読本ではないと想像がつくはずです。

本書は、笠置シヅ子と「東京ブギウギ」などの笠置の代表曲をつくった作曲家の服部良一の人生をたどりつつ、同時にレコード中心、洋楽の受容中心の従来の日本の歌謡曲史に対する異議申し立てを行うという野望を秘めています。
また、それは東京中心ではなく、「大阪発」というもう1つの価値観を提示する試みでもあります。

というわけで、純粋に笠置シヅ子の伝記を求めているような人にはお薦めできませんが、逆に「別に朝ドラを見る予定はないし...」という人が読んでも面白いかもしれません。
また、戦前の文化や、戦前と戦後の連続性といったものに興味がある人には非常に興味深い内容になっていると思います。

目次は以下の通り。
前口上 「近代音曲史」の野望
第1章 「歌う女優」誕生―大阪時代の笠置シヅ子
第2章 服部良一と「道頓堀ジャズ」
第3章 レコード・ラジオと「国民歌謡」
第4章 スウィングのクイーン&キング―松竹楽劇団時代
第5章 関西興行資本の東京進出―松竹・東宝・吉本
第6章 時代のアイコン「ブギの女王」
第7章 服部は「ブギウギ」をどう捉えていたか
第8章 リズム音曲の画期としての「買い物ブギー」

本書の「前口上」では次のように述べられています。

本書を端緒として、音楽学者としての私が挑戦したい暗黙の前提とは、以下の四つである。

一、1945年の敗戦を決定的な文化的断絶とする歴史観への挑戦
二、東京中心の文化史観に対する挑戦
三、「洋楽」(≒西洋芸術音楽)受容史として近代日本音楽史を捉えることへの挑戦
四、大衆音楽史をレコード(とりわけ「流行歌」)中心に捉えることへの挑戦

このうち四は、『踊る昭和歌謡』でも打ち出されていた考えですが、本書はさらに広範な分野で既存の考えに挑戦しようとしており、そのための格好の素材が笠置シヅ子&服部良一というわけなのです。

笠置シヅ子(本名・亀井静子)は1914年に香川県で非嫡出子として生まれ、亀井うめという女性に引き取られて大阪に移り住んでいます。
亀井うめの家は銭湯を営むようになり、笠置はそこで客たちの歌う歌を覚え、自分でも歌ったり踊ったりしていたといいます。

宝塚歌劇団を受験したものの体格ではねられたという笠置は、1927年に松竹楽劇部に入団しています。
松竹楽劇部は宝塚歌劇団の模倣でしたが、音楽学校の「卒業生」で構成され学校的なシステムをとっていた宝塚に対して、松竹は給料をもらう「プロ」という意識もあったといいます。
宝塚というと「男装の麗人」というイメージがあるかもしれませんが、そのイメージを確立したのは東京松竹歌劇団の水の江瀧子(ターキー)であり、宝塚より「なんでもあり」の姿勢が強かったといいます。

笠置は、最初は「三笠静子」という芸名で舞踊専科に所属しますが、体が小さいという理由で歌に転向します。そうしたことあって、笠置は正統な西洋式の発声などを身に着けないままで舞台に立つことになりました。

1934年、大阪松竹楽劇部は本拠地を道頓堀の松竹座から千日前の大阪劇場に移し、OSSKと改称します。このころになると三笠静子は主題歌を歌うようになり、ソロを含むレコードも発売されるようになっています。
この後「笠置シヅ子」と改名し、1938年4月に上京します。
本書のもう一人の主人公である服部良一は、1907年に大阪で生まれています。父親が好きだった浪花節、近所の教会で歌った賛美歌などの影響を受け、紆余曲折の末、鰻屋だった出雲屋の少年音楽隊に入ります。
服部はサクソフォン・セクションのリーダーを務め、船場の料亭「灘万」で演奏されていたジャズバンドを手本にして演奏していたといいます。

出雲屋音楽隊は2年足らずで解散となりますが、服部はラジオの社団法人大阪放送局(JOBK)のオーケストラ(JOBKオーケストラ)に引き抜かれ、サックスを吹くことになります。
ここで服部はBKオーケストラに常任指揮者として招聘されたウクライナ人のエマヌエル・メッテルと出会います。
服部は毎週神戸のメッテルの自宅に通い和声学、管弦楽法、指揮法などを学びました。
さらに服部は「道頓堀ジャズ」とも言われる大阪のジャズも影響を受け、ダンスホールでフィリピン人んプレイヤーと共演するなどして腕を磨きました。

1923年9月1日に関東大震災が起こりますが、その影響は音楽界にもありました。1924年の復興税制によってレコードと蓄音機に100%の関税がかけられます。
これに対してポリドール、コロンムビア、ビクターといった外資系のレコード会社は日本の企業と組んで、日本でレコードをプレスすることで関税の回避を狙いました。
こうした外資家のレコード会社が大衆向けの歌謡をレコードとして囲い込むようになり、流行歌のスター作曲家となったのが古賀政男でした。

こうした状況の中、1933年に服部は上京します。1935年にコロムビアの専属だった古賀政男がテイチクに引き抜かれると、服部はコロムビアに招聘されます。
コロムビアで服部が作曲した最初のレコードは淡谷のり子の「おしゃれ娘」でした。さらに服部は37年の淡谷のり子「別れのブルース」で、これによって服部の流行歌作家としての地位を確立しました。
なお、淡谷は東洋音楽学校卒業で、いわゆる「正統な」歌唱技術を身につけた存在であり、笠置とは対照的でした。

ただし、「別れのブルース」の前の時期にも、服部は国民歌謡や民謡の編曲などで力を発揮しており、「山寺の和尚さん」を発表しています。これは日本民謡をジャズ調に仕立て上げたような曲で、本人曰く「日本のジャズを目ざした」(93p)ものでした。

1938年、男女混成のレヴュー団である松竹楽劇団(SGD)がつくられます。
SGDがつくられた背景には洋画(アメリカ映画)の輸入禁止もありました。総動員体制のもとで輸出入の不均衡を是正するための措置でしたが、当時は帝国劇場も松竹の洋画封切館として営業しており、洋画の代わりになるコンテンツが必要だったのです。

ここで服部と笠置が出会います。稽古場であったときは服部は小柄な笠置をとてもスターだとは思えなかったそうですが、その後の舞台稽古で印象が一変したそうです。
旗揚げからしばらくはパッとしなかったSGDですが、音楽を服部が仕切るようになってから徐々に存在感を発揮し始めます。
服部は、笠置に対しては「地声」で歌うように指導しています。1939年の公演『カレッジ・スウィング』における笠置は評論家筋からも絶賛され、笠置は「スウィングの女王」としての地位を固めていきました。

そして39年7月の公演では、著者が「超絶的な歌と演奏は、同時代の日本のどんな録音や映像をも凌駕する爆発的な躍動感に満ちていると感じる」(100p)と評する服部良一作詞作曲の「ラッパと娘」が笠置によって歌われます。
この曲は笠置の個性を念頭にしてつくられたもので、西洋流の歌唱法にとらわれていた他の歌手にはまったくない魅力をもったものでした。著者はこの曲を激推しており、142p以下では音楽的な分析も行われています。

しかし、一方で帝劇の経営権が東宝に移ったことでSGDは本拠地を失い、1941年初頭にSGDは解散します。
1941年末の日米開戦以降はスウィングなどは「敵性音楽」として演奏できなくなっていきました。

さて、いよいよ戦後の笠置&服部の活躍と行きたいところですが、本書では、その前に「第5章 関西興行資本の東京進出―松竹・東宝・吉本」が挟まっています。
笠置と服部の評伝のように読んでいくと、やや余計に感じるかもしれませんが、個人的には面白く感じた部分でした。

1923年の関東大震災は興行界にも大きな影響を与えました。東京の主要な劇場は軒並み壊滅し、興行的な中心だった根岸興行部は主要な劇場を松竹に買われました。松竹はすでに東京に進出しており、震災の被害も受けましたが、東京の主要な劇場を傘下に収めた松竹は興行界の中心になります。
この松竹と争うことになるのが東宝です。1932年に小林一三が株式会社東京宝塚劇場を設立し、日比谷・有楽町付近を「劇場街」として開発する動きを見せました。
さらに吉本興行も東京に進出してきます。吉本の林弘高は1934年11月にアメリカのレヴュー団「マーカス・ショー」の日劇での公演を成功させ、お笑いだけでなく「吉本ショウ」というレヴューにも進出していきます(この吉本ショウから漫才も生まれてくる)。

こうした中で、笠置は吉本の御曹司であった吉本頴右(えいすけ)と1943年に出会い、交際を始めます。
敗戦後、笠置と服部のコンビが活躍の場としたのは東宝系の劇場でした。戦争末期の文化産業の統合とシャッフルによって既存の契約関係はかなり緩んでいたことが背景にあったと考えられます。
1947年1月末、妊娠中の笠置が主演し、服部が音楽を担当したのが『ジャズ・カルメン』でした。ただ、笠置がジャズとクラシックを歌い分けることができず、あまり好評は得られませんでした。
さらに笠置の妊娠中に吉本頴右は亡くなってしまい、笠置は忘れ形見のエイ子を一人で育てる決意をし、カムバックのための歌を服部に頼みました。これが「東京ブギウギ」です。

服部が「東京ブギウギ」の着想を得たのは電車の中だったといいます。メロディと一緒に「リズム浮き浮き心ずきずきわくわく」という歌詞も浮かび、この語呂合わせに合うような詞を鈴木大拙の子である鈴木勝に依頼しました。
「東京ブギウギ」は1947年に9月にレコーディングされ、発売前に大阪の梅田劇場で披露されたといいます。「東京」というタイトルはついていますが、「海を渡り」「世界は一つ」「世紀のうた」といった気宇壮大な言葉の中に「東京」が投げ込まれているだけで、大阪の観客からも好評を得ました。

さらに「東京ブギウギ」は、レコード発売に合わせて東宝の正月映画の『春の饗宴』にも用いられます。
服部は必ずしも「東京ブギウギ」を笠置専用の歌とは考えておらず、さまざまな歌手によって歌われることを考えていたようですが、「東京ブギウギ」は笠置の歌として大ヒットし、黒澤明の『醉いどれ天使』のための「ジャングル・ブギー」、「さくらブギウギ」、「ヘイヘイブギー」といった曲がつくられていきます。

笠置シヅ子もさまざまに論じられるようになっていきますが、著者は1951年の鶴見俊輔のものを「決定的なもの」として引用しています。

太宰治とか、田中英光とか、無用意の反逆を旧日本に対して試みては敗北し自殺する日本知識人の系譜をふりかえるとき、かぎりなく自己更新の力を持ち、決して自殺しないかまえを持つ近代文化を代表するものとして大阪の生んだ天才、笠置シヅ子や横山エンタツの意味が理解される。これらの人々が幾分なりとも大阪の土地がらに根ざすとするならば、ぼくたちは大阪型の近代に学ぶことがあってもよいと思う。(208p)

鶴見は笠置とエンタツを並べていますが、笠置は1949年からエノケン(榎本健一)と共演しています。
笠置とエノケンの舞台では服部が関わった和洋折衷の音楽も使われ、吉川英治もこの舞台を賞賛しています。
1949年になると、「ブギウギ」が笠置以外の歌い手によっても歌われるようになります。特に京マチ子は笠置と同じ大阪松竹少女歌劇団出身ということで注目されています。
服部も高峰秀子のために「銀座カンカン娘」をつくるなど、笠置以外の歌手にもブギウギのリズムを用いた楽曲を提供しました。

第7章ではブギウギの音楽的な分析がなされています。評者は音楽的な素養はないので詳しくはぜひ本書をお読みください。
音楽史的に言うと、ブギウギは20世紀初頭に形成されたピアノで演奏されたダンス音楽になります。これが1938年のカーネギーホールで行われた「スピリチュアルからスウィングへ」という伝説的なコンサートをきっかけに再び見出され、広がりました。服部は1942年頃にこうした楽譜を手に入れていました。

服部はブギウギを「エイト・ビート・ミュージック」と言っていますが、これは和製英語で服部独自の用法です。
服部はリズムは二拍→三拍→四拍という形で進化してきたといい、そのあとに出てきたのが八拍(エイト・ビート)というわけです。
さらに服部は「私自身は笠置シヅ子が適当なブギ歌手とは思って居ないのである」(234p)という衝撃的な発言も残しています。ブギは踊らせる音楽ではありますが、自ら踊って歌う必要はないというのです。
また、服部は八拍の次は十二拍、十六拍といった具合にリズムが複雑化し発展していくことを予想する一方、「調和のあるリズムを破壊する、破壊主義にほかならない演奏」(240p)としてビ・バップを批判しています。
作曲者編曲者としての立場を脅かすものと見たのかもしれませんし、いたずらに大衆から遊離してしまうものと考えていたのかもしれません。

ところが、著者は「リズム音曲」のひとつの究極的な形と絶賛する「買物ブギー」の最初の草稿には「買物BOP」という仮タイトルがつけられていたのです。
本書の第8章は、この「買物ブギー」を中心に論じられています。

各奏者が即興を競い合うビ・バップを譜面にするというのはなかなか困難なことですが、服部は早いテンポや短い音での切れ目のないメロディなどをビ・バップの特徴と捉えて、これに上方落語の「ないもん買い」からきた詞をつけています。
そして、1950年の6月に発売された「買物ブギー」はブギウギの最後の大ヒットとなりました。
「メロディーも何もない。音楽やら何やらわからない」(260p)などと評されながらも、そのリズムと調子と歌詞は人々の心を捉えました。
発売と同時期に笠置と服部はハワイとアメリカ本土へ演奏旅行に出ますが、ハワイでも「買物ブギー」は大人気でした。

その後も笠置は舞台や映画で活躍しますが、流行歌手としてピークは「買物ブギー」だったという評価が一般的です。
笠置の物真似で登場した美空ひばりをはじめ、江利チエミ、雪村いづみといった少女歌手に人気の中心は移っていきました。
50年代後半に入ると、笠置の活動は落ち着いていきます。一般的に1957年初頭に歌手を引退したと言われていますが、その後も何度かステージに出ています。

笠置と服部によってつくられた「リズム音曲」は一旦終りを迎えますが、著者は、それは例えば、小林旭やクレイジー・キャッツやドリフターズ、さらには宮川左近ショーや横山ホットブラザーズあるいは藤井隆などの「芸人」にも受け継がれているといいます。そして、「芸人」と「音楽家」の区別を撤廃したいと著者は考えており、そのためにひねり出した概念が「リズム音曲」だというのです。
このように本書は笠置と服部のコンビを描くことで日本の音楽史を書き換えようという野心的な本になります。
音楽的な部分とその社会的な文脈の双方が書かれており、音楽にそれほど詳しくない人でも面白く読めるはずです。

一方、これを笠置と服部の評伝のように読もうとすると、例えば、服部の「青い山脈」が完全にスルーされているなど、少し引っかかる部分もあります(「青い山脈」は、1989年にNHKが放映した『昭和の歌・心に残る歌200』の第1位ですし、服部が国民栄誉賞を贈られるまでになったのは「青い山脈」があってこそでしょう)。
かなり著者のテイストが前面に出ている本であり、そのあたりで好き嫌いが分かれるところはあるかもしれません。


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★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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