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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2012年05月

著者は何件もの冤罪事件を手がけている弁護士で、その著者が自らの経験と過去の事例を引きながら冤罪の生まれるメカニズムについて丁寧に解説した本。
虚偽の自白、目撃証言、偽証、科学鑑定などさまざまな点から冤罪が生み出される可能性が指摘してありますし、何よりも無実の罪の人を嵌めていくいく警察や検察の手口には改めて衝撃を受けます。

「嵌めていく」などと書くと表現が悪い気がしますが、この本で紹介されている事件はまさに「嵌める」としか表現できないもの。
嘘発見器を使って「嘘を付いている」と決めつける、言わないと釈放しないと脅す、家族を取り調べるといって脅すなどする、問題のある警察の自白誘導については以前から知っていましたが、この本の第1部「冤罪はこうして生まれる」ではそれをさらに上回るような例も紹介されています。

この本でとり上げらている「神奈川県の死体なき「殺人」事件」では、殺された女性の不倫相手だったM氏が「社会的抹殺」を受ける様子が紹介されています。
任意の取り調べを受けたMが、3日目以降の取り調べを拒否すると、警察は断続的に1年近くも朝Mの玄関先で出頭を求め、M宅を張り込み。酒屋、クリーニング屋、銀行、友人、親戚などM宅に尋ねてきた人物を片っ端から呼び止めて聞き込みを行い、酒屋意外の誰もM宅に近づかないようにしてしまいました。
さらに家宅捜索で電話帳を押収し、その連絡先のほぼ全てに「Mは被害者と不倫関係にあり、状況証拠は完全にクロ」と説明しながら聞き込みを行い、その結果、Mは仕事を失い外出もできなくなってしまい、まさに「社会的抹殺」を受けたのです(この事件自体は最終的に失踪事件として警察で処理された)。

また、代用監獄制度を使って警察が同房者に被疑者をスパイさせていたケースもあります。
この「引野口事件」と呼ばれる事件では、姉を殺害、そして放火したと疑われた被疑者のKが、まず窃盗で逮捕され、同房の覚醒剤事件で逮捕されたMからスパイ行為を受けます。Mは心理テストなどと称してKから様々なことを聞き出そうとし、それを逐一警察官に報告していました。この心理テストというのも心理学科を卒業した警察官から手ほどきを受けたもので、その見返りなのかMは余罪の8件の窃盗のうち起訴されたのは1件だけで、そのおかげもあって執行猶予になっています。

こうした事例から、当然のように自白、証言重視の捜査から物証・科学的捜査の重視へということになるのですが、物証や科学的な鑑定があれば真実が明らかになるわけではありません。
「弘前大教授夫人殺し事件」のように証拠となる血痕の付着したシャツがでっちあげられたのではないか?という事件もありますし、科学鑑定にも誤ったものがあります。
この本では著者の関わった「下高井戸放火事件」の鑑定をめぐる攻防が詳しくとり上げられていますが、この事例のように警察のシナリオに沿うように捻じ曲げられた科学鑑定もあります。
著者が174pで指摘しているように、日本の公的な法科学の研究・鑑定機関は科捜研や科警研など捜査側のものしかなく、必ずしも中立的な鑑定がなされているとはいえない状況です。

この本の第2部では、「裁判員制度で冤罪は減らせるか」として裁判員制度の検討も行なっています。
著者の裁判員制度に対する評価は両義的で、「立川の少年詐欺事件」と「鹿児島老夫婦殺害事件」の無罪判決の判決文を検討しながら裁判員の一般的な常識を評価する一方で、「裁判員の負担軽減」というスローガンが新たな冤罪を生み出すことを懸念しています。

そして著者による裁判員制度の改善案も出しています。
この中には被疑者や参考人の取り調べの全過程の録音・録画化のようなよく言われているものもありますし、「公判前整理手続」担当裁判官と「公判」担当裁判官との分離といった、裁判の実務者ならではの提言もあります。
さらに対象事件を否認事件にかぎり、被告人に選択権をもたせるべきだともしています。この提案の可否については僕自身は判断がつきかねますが、全体的に非常に内容の濃い提言といえるでしょう。

この本の紹介している冤罪事件の事例を見ると、日本の捜査や司法の体制に絶望したくなりますが、もしもこの本が広く読まれ、裁判員制度が活用されるならば、ひょっとすると無実の人を「嵌める」ような手法は減ってくるかもしれません。
そういった意味でも広く読まれて欲しい本です。

冤罪と裁判 (講談社現代新書)
今村 核
4062881578
商店街というのが20世紀になって「発明」されたものであり、その担い手が「近代家族」であったためにその存続は必然的に厳しいものだった。
そんな商店街の形成と衰退を社会学的視点から描いたのがこの本。マクロ経済についての分析にやや問題があるのですが、その着眼点と商店街の位置づけ方は非常に面白いです。

京都の錦小路、東京の浅草寺仲見世など、商店街というと長い伝統の上に形成されたきた印象がありますが、全国の商店街のほとんどは20世紀になってつくられたもので、その背景には日本の労働事情がありました。
この本ではそれを次のように述べています。
二〇世紀前半に生じた最大の社会的変動は、農民層の減少と都市人口の急増だった。都市流入者の多くは、雇用層ではなく、「生業」と称される零細自営業に移り変わった。そのなかで多かったのが、資本をそれほど必要としない小売業であった。
当時の零細小売商は、貧相な店舗、屋台での商い、あるいは店舗がなく行商をする者が多かった。そのため、当時の日本社会は、零細規模の商売を営む人々を増 やさないこと、そして、零細小売の人々を貧困化させないことが課題となった。こうした課題を克服するなかで生まれたのが「商店街」という理念であった。 (25ー26p)

第一次世界大戦後の日本の不況は農村に大きな打撃を与え、農村からは数多くの離農者が出ました。
ところが、こうした離農者はなかなか製造業などには就職できなくなっていました。企業が親方請負制を辞めたことにより、農民が同郷のよしみなどを頼って製造業の現場に潜りこむことが難しくなったのです。
また、当時の日本では工場労働者最低年齢法等によって、尋常小学校卒業後すぐに生産現場では働けないことになっていました(55ー56p)。

こういった理由により、離農した人々の選択肢として都市での商売というというものがクローズアップされてきます。特に小売業は供給超過になり、1930年代初頭で東京には菓子屋が16世帯に1軒、米屋は23世帯に1軒あったそうです(56p)。

この零細小売業者の「救済策」として打ち出されたのが「商店街」の理念。
百貨店に対抗する「横の百貨店」の理念、戦争の長期化に伴う小売業の統制、酒税確保のための酒屋の距離制限など、さまざまな要因によって戦中〜戦後の時期にかけて「商店街」という制度が出来上がっていきます。

こうした商店街は戦後、価格を釣り上げる存在としての消費者側からの批判、前近代的な経営スタイルへの批判などを受けながらも、雇用を吸収する場として矛盾を抱えつつも商店街は成長します。
同時に中小企業団体法、小売商業調整特別措置法、商店街振興組合法などが成立し、商店街は政治から保護を受けつつ、保守政党を支える強固な地盤となって行きました。
さらにスーパーが登場すると、商店街は大規模小売店舗法を武器に自らの利益を守ろうとしていきます。

そして90年代以降の商店街の崩壊家庭について、著者はその要因として、大規模小売店舗法の緩和などの規制緩和、日米構造協議などに影響された財政投融資の拡大とそれによる道路網の整備、コンビニの登場による「内部崩壊」といったものをあげています。
第4章でこういった要因の一つ一つを歴史的文脈に基づいて分析しているのですが、「日米構造協議などに影響された財政投融資の拡大」といった部分はマクロ経済的にやや疑問に感じるところです(財政投融資の拡大はアメリカの要請と言うよりはバブル崩壊後の景気対策の側面が強いのでは?)。

けれども、実はこの本の第1章に商店街の崩壊についての非常に重要な次のような指摘があります。

近世おける「商家」は、典型的な「イエ」であった。すなわち、それは家長と親族、そして住み込みの奉公人たちで成り立っていた。もし経営体の存続の危機になれば「非親族的家成員」(中野卓)である奉公人が経営を引き継ぐことも決して珍しいことではなかった。
だが、近代の小売商は、「イエ」の規範ではなく、「近代家族」によって担われていた。つまり、二〇世紀以降の小売商は、近代家族の規範のもとで事業を行ったために、近世の商家に比べてハルカに柔軟性のない組織となった。
わたしたちはこのことを「跡継ぎ問題」としてよく知っている。現代の小売商は、子どもが跡を継がないと、そのまま店をたたむケースがある。商店街は、地域に開かれている存在であるはずなのに、それぞれの店舗は「家族」」という枠に閉じていたわけである。(28ー29p)

実はあとがきを読むとわかるのですが、著者も九州の酒屋の子どもです。
著者は自らの過去を振り返りながら、子どものころのサラリーマン家庭への憧れや実家の様子を書いています。結局、著者は「跡継ぎ」にはならず東京で社会学を勉強し、この様な本を書いているのですが、「社会学を10年以上学んでいるわたしでさえ、将来どのような社会になるのかをまるで想像できないのだから、若者たちが、結婚や子育てを現実的な選択肢と考えることができないのも致し方がない」(216p)とつぶやいています。

この「近代家族」と「跡継ぎ問題」については第4章のコンビニについての分析で触れられているのですが、できればこの部分に関してもう少し突っ込んだ分析が欲しかったと思います。
第1章の問題提起の部分があまりにも素晴らしいのに対して、第2章以降の部分はやや歴史の流れを追うだけになってしまった感もあります。

ただ、引用した部分を中心とした商店街の起源と問題点をえぐりだした部分は「目からウロコ」的な面白さがあり、得るものの多い本です。
例えば、「近代家族」と「跡継ぎ問題」は政治家とその地盤にも当てはまりそうですし、商店街に興味がある人だけでなく、ひろく日本社会に興味がある人にお薦めできる本です。

商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道 (光文社新書)
新 雅史
4334036856
天皇に強大な権力が集中する明治憲法のもとで、天皇を補佐する立場から政治に影響力を持った「宮中グループ」。
内大臣、宮内大臣、侍従長などを中心とするこの勢力は日本の近代史において独特の役割を果たすことになりますが、その実態を丁寧に論じたのがこの本。特に昭和の戦前、戦中、戦後まもなくの時期を「宮中」という視点から切り取っています。

もともと内大臣という職自体が、三条実美を処遇するためにつくられたもので、明治憲法の内閣制度のもとでは誰が就任するかによってその重みがちがってくる存在でした。
また、宮中に入るというのは現実の政治から外されるという側面もあり、桂太郎は山県有朋の推薦を固辞しようとしました(結局、外堀を埋められる形で就任)。
その後も大山巌、松方正義といった大物内大臣に就任します。しかし、彼らのような元老は高齢化していき、ついに内大臣になるにふさわしい元老が払底してしまいます。

そんな中で1921年に宮内大臣、1925年に内大臣になり、当時摂政だった昭和天皇を支えたのが牧野伸顕。
当時の内大臣としてはまだ若く、政治的能力もあった牧野は、一木喜徳郎宮相や鈴木貫太郎侍従長らとともに、いわゆる「牧野グループ」を形成し、若き昭和天皇とともに「立憲政治」や「協調外交」を目指します。

このあたりはそれなりに歴史をかじっている人ならば知っていることかもしれませんが、この本で注目すべきなのは牧野と「最後の元老」・西園寺公望の間のズレについて詳しく書いてあること。
基本的に、西園寺も牧野も英米との協調外交を指向し、軍部の台頭を憂いていました。
しかし、牧野が天皇の権威を使ってでも軍部の台頭を抑えようとしたのに対して、西園寺はあくまでも天皇が政治的な決断をし責任を追うことに慎重でした。
田中義一への叱責、満州事変の拡大、国際連盟脱退など、節目節目で天皇の発言や御前会議などで軍部を抑えようとした牧野に対して、西園寺はブレーキをかけ続けます。あくまでも後付になりますが、この両者の不一致が軍部の独走を抑えられなかった一つの要因といえるのかもしれません。

そして、五・一五事件が起こり政党内閣が終わると、宮中でも近衛文麿、木戸幸一、原田熊雄といった「宮中革新派」が台頭していきます。
彼らは宮中を支配する西園寺、牧野の情報収集役、媒介役として力を持つようになり、思想的にも軍部の主張するアジア・モンロー主義に親和的な姿勢を持っていました。

その中で内大臣となり、宮中の権力を行って握ったのが木戸幸一。
彼の政治スタイルについての分析もこの本の読みどころの一つになります。宮相や侍従長との協力のもとで物事に当たろうとした牧野に対して、木戸は宮相や侍従長に天皇の世話役以上の役割は求めず、政治的な事柄に関しては内大臣である自分が一手に引き受けようとしました。
木戸は第2次近衛内閣誕生時の近衛の奏請や三国同盟の締結において、西園寺の意向を「無視」し、元老なき次代を見据えて自らが中心となって天皇の輔弼を行う姿勢を見せました。

結局、日本は木戸の輔弼のもとで太平洋戦争へと突入し敗北するわけですが、御前会議による「聖断」のシナリオの中心となったのも木戸。このあたりは先行研究も多いところですが、この本を読むと改めて木戸の役割というものがわかります。

「宮中からみた近代史」というのはあくまでも日本近代史を見る上での一つの視点にすぎませんが、「天皇が大きな権力を持ちつつ自ら権力の行使は(ほとんど)しない」という明治憲法下の政治を見る上では欠かせない視点の一つ。
誰でもが楽しめる本かどうかはわかりませんが、日本の近代史、特に昭和戦前・戦中期に興味がある人は目を通しておくといい本だと思います。

宮中からみる日本近代史 (ちくま新書)
茶谷 誠一
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内容や主張は今年の1月に出た安達誠司『円高の正体』(光文社新書)とよく似ています。
『円高の正体』と同じように外国為替市場のメカニズムと現在の円高の状況、そしてこの円高の弊害を述べ、円高を脱出するためにはデフレからの脱却とそのための日銀による強力な金融緩和が必要であると説いています。

では、両著の違いはどこにあるかというと、『円高の正体』のほうが単純明快で読みやすいのに対して、こちらの『円のゆくえを問いなおす』はやや読みにくいがより精密な分析がしているというところ。
金本位制から固定相場制を経て変動相場制に至る為替制度の歴史や、プラザ合意後の円高と90年代半ば以降の円高の日本経済に与えた影響の違いの分析、欧州財政危機の分析、日本の為替介入の問題点、各国の「インフレ目標政策」の比較など、さまざまな問題に対して丁寧な分析がなされています。

『円高の正体』が出版された後に、欧州財政危機はさらに進み、今年2月には日銀が「中長期的な物価安定の目途」を発表しています。
そういった最新のトピックを含めて論じているのがこの本の強みでしょう。

特に「日銀の金融緩和策がなぜ効かないのか?」ということに関しては、日銀が買い入れを行った長期国債の残存期間などをデータとして出しながら、それが不十分であることを論じ、そういった小出しでインパクトのない金融緩和が結果的に「レジーム転換」を起こせなかったというのが著者の見立てです。
デフレや円高を止めるためには人びとの予想インフレ率が重要であり、それを動かすためには政府や中央銀行が明確なスタンスを示して人びとの「予想」や「認識」の枠組である「レジーム」を変える必要があるのです。

このように精緻な分析がしてある本なのですが、欠点はやや読みにくいところ。
この本では最初に為替についての6つのポイントが挙げられていて、基本的にそれにそって説明化されていくのですが、第3章、第4章ではそれらのポイントに沿いながらも歴史の流れを追う形で叙述がなされています。そしてその中にも数字で番号を振った同じようなポイントがいくつか挙げられており、どれが大きなポイントなのかということが見失いやすいです。
また、歴史的な流れに沿いながらも固定相場制から変動相場制並行した70年代の分析の中に、同じく固定相場制の問題点が現れたアジア通貨危機の分析が挟み込まれているんですが、このあたりももうちょっと整理できなかったのかと思います。

あと最後に、これは『円高の正体』のエントリーでも書いたのですが、「なぜ日銀が思い切った金融緩和をしたがらないのか?」という説明がほしいです。
個人的にはインフレ率の上昇が国債価格の下落を招き、それが金融機関の経営に影響をあたえることを、日銀はマイルドなデフレ以上に心配しているからではないかと考えているのですが、やはりこの本で著者の正しいと主張する政策を日銀が採用しない理由について、著者なりの視点で触れて欲しかったと思います。

円のゆくえを問いなおす: 実証的・歴史的にみた日本経済 (ちくま新書)
片岡 剛士
4480066632
これは読む人によって楽しめるか・楽しめないかがはっきり分かれそうな本。
タイトルは「神道とは何か」となっていますが、漠然と神道について知りたい人にはお薦めできません。記述はかなり専門的で、それなりの予備知識がないと読むのは大変だと思います。
また、神道についての概説書を求めている人にとってもこの本はちょっと違うと思います。とり上げられている時代は古代から近世にかけてで、教派神道や国家神道といったものはとり上げられていません。

おそらく、この本の内容にふさわしいタイトルは「神仏習合と「神道」概念の成立」といったところでしょう。
けれども、そういった内容に興味がある人にとっては非常に刺激的な論考が展開されています。
古代から中世における神道と仏教の相互影響の歴史、いつの間にか歴史に登場した八幡神信仰の起源、神道と密教・陰陽道の関係、怨霊と人神信仰、応仁の乱が神道に与えた影響、東照大権現の成立過程など、マニアックながらも面白いトピックがとり上げられています。

この本では、古代の「カミ信仰」と中世以降に成立した「神道」を区別し、仏教との混淆によって「神道」が成立する様子を詳述しています。
8世紀になると神宮寺が誕生し、仏教の興隆とともに神社もまた仏教色を強めていきます。さらに山岳修行者の登場は仏教を山岳信仰の場に持ち込み、のちに密教と結びつき「カミ信仰」に大きな影響を与えていきます。
時代が進むにつれて神仏習合はさらに進み、日本の「神」は仏をめざす存在、あるいは仏になることが約束された菩薩として認識されるようになり、今までは不可視なものとされ存在しなかった「神像」も出現するようになります。
さらに平安期には陰陽道や修験道の発展によって、従来の神祇祭祀が侵食されていきます。

この本を読むと、この頃の神社(「カミ信仰」)には次のような大きな弱点がありました。
そもそも神官・神職とは、僧尼と同じ意味での宗教者ではない。神官は神事においてのみ祭祀者なのであって、それを離れれば、現当二世での仏菩薩の利益を願う俗衆に過ぎないのである。その際、救済を自ら仕える神に願えばよいではないかとの疑問が浮かぶかもしれないが、神(特に伊勢神宮)は個人祈願を受けつけない。神官個人の来世に頼むべきはやはり仏法しかないのだ。(77p)
つまり、古代の神には個人を救済する力はなかったのです。この証拠として著者は伊勢神宮の神官たちが出家している様子を表にして示しています(79ー81p)。

こうした中、中世になると両部神道、伊勢神道といった「神道」が誕生しますが、著者が画期と考えるのが近世における吉田神道の出現です。
15世紀、吉田兼倶によって構想された吉田神道は、先行する神道説に仏教・儒教・道教などのさまざまな言説と儀礼を盛り込んだものですが、森羅万象すべてを神道の顕現と見るところにその特徴があります。そしてこれを著者は吉田兼倶の『神道大意』を引きながら次のように説明しています。
これは一般的にイメージされる多神教的世界を表現したものではない。天上と地上と人体の内部に神(霊・心)がそれぞれ存在して宇宙全体に遍満しているとする一種の汎神論である。(238p)
吉田神道はたんなる「神」への信仰の寄せ集めではなく、仏教から切り離された独自の体系をつくりあげたのです。

この吉田神道が起こったのはちょうど応仁の乱の混乱期。乱によって京都の街が焼かれ多くの書物が失われる中で、吉田神道は数々の経典や由緒を偽作し、古代の人びとや神とのつながりをつくり上げました。
著者はこの吉田神道とその後に発展した様々な「神道」をまとめながら、この本の末尾で次のように述べています。
現代の神道の信仰の姿が、一見素朴に見えたとしても、それは古代のプリミティブな自然崇拝の残存ではない。それは、中世・近世・近代における神道の形成・展開過程において、再解釈・再布置された結果として装われた「古代」なのである。なぜなら、仮構された<固有>性への志向こそが、神道の基本的性格なのだから。(284p)

といった具合にまとめてみましたが、この本は情報量が多すぎてまとめにくい、そして読みにくい本でもあります。
ということで、個人的にはもう少し中身を削ってまとめて欲しかった気もしますが、専門的な興味をもつ人にとってはこの情報量こそが貴重でしょう。

神道とは何か - 神と仏の日本史 (中公新書)
伊藤 聡
4121021584
副題は「「我田引鉄」の近現代史」。
中央線の「大八周り」や大船渡線の「ナベヅル路線」、新幹線の岐阜羽島駅、上越新幹線など、「我田引鉄」の有名エピソードの再検討を行うと同時に、政治と鉄道の関わりについてもう少し掘り下げて書いてみせた本です。

御存知の通り、日本の鉄道の多くは世界の標準軌よりも狭い、いわゆる狭軌で線路が敷かれています。
これは当時の大蔵大輔の大隈重信がよくわからないままに決めたとも、「日本の鉄道の父」とも言われる井上勝が日本の地形などを考慮した上で決めたとも言われています(この本では検討の結果、前者を有力と見ています)。

こうして日本の鉄道は狭軌で建設されていくわけですが、これに異を唱えたのが後藤新平。
彼は第2次桂内閣に逓信大臣として入閣すると、日本の鉄道を欧米レベルに引き上げるために広軌への改築を画策します。
しかし、この方針は帝国議会で立憲政友会の猛反対にあいます。地方に鉄道を持ってくることを重要な利益誘導と考えた政友会のスタンスはあくまでも建設が主体の「建主改従」、既存の主要路線の広軌への改築を優先する後藤の「改主建従」とは真っ向から対立する考えだったのです。
結局、第2次桂内閣の退陣とともに広軌への改築計画は立ち消えになります。後藤はさらに寺内正毅内閣の鉄道員総裁時に再び広軌への改築計画を進めますが、これも米騒動による寺内内閣の退陣と、原敬率いる政友会内閣の誕生でアウト。鉄道網の完成が優先されることになります。

この後藤の「苦い経験」をいかして新幹線建設に道を開いたのが佐藤栄作。
新幹線建設の予算を求めた十河総裁ひきいる国鉄に対して、大蔵大臣であった佐藤栄作は世界銀行の融資を受けることを勧めました。
これは世界銀行の融資を受ければ、内閣が変わっても計画を中止することが難しくなるからです。
著者はこの佐藤のアイディアを高く評価し、「世界銀行を巻き込んで新幹線計画を国内政争から切り離そうとした佐藤栄作の発想こそ、計画実現に最も不可欠な存在だったと言えるのではないだろうか」(76p)と述べています。

これ以外にも田中角栄と鉄道の関わり、東日本大震災の被災路線に復興について書かれた部分は興味深いです。
一方、最後の第6章の「海外への日本鉄道進出」は全体の内容からもやや浮いている気がしますし、政治的分析に関してもやや物足りなく思えます。

紹介されているエピソードにはよく知られているものも多いですが、単純に紹介するだけではなく掘り下げて紹介されていますし、よく言われる明治期の「鉄道反対」は実際にはほとんどなかったなど、よく聞かれる俗説を否定していて勉強になる面もあります。
もっと濃い内容を期待する人もいるでしょうが、たんなるトリビアの集まりにはならずに、鉄道と政治の関係がよくまとまっている本だと思います。

鉄道と国家─「我田引鉄」の近現代史 (講談社現代新書)
小牟田 哲彦
4062881527
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
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