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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2018年11月

タイトルの通り、武士の起源を解き明かそうとした本。
ご存知の通り、10世紀ごろに地方で力を持つようになった武士は、やがて日本を支配する存在になるのですが、そもそも武士がどこからどう生まれてきたかということについて実ははっきりとした定説がありません。

現在、高校でもっとも広く使われている山川出版の日本史Bの教科書『詳説 日本史 改訂版』(2018年発行のもの)でも武士の起源に関しては、次の2つの記述があります。



9世紀末から10世紀にかけて地方政治が大きく変化していく中で、土着した国司の子孫や地方豪族は、勢力を維持・拡大するために武装するようになり、各地で紛争が発生した。その鎮圧のために政府から押領使・追捕使に任じられた中・下級貴族の中には、そのまま在庁官人などになって現地に残り、有力な武士(兵)となるものが現れた。(81-82p)



11世紀になると、開発領主たちは私領の拡大と保護を求めて、土着した貴族に従属してその郎党となったり、在庁官人になったりしてみずからの勢力をのばし、地方の武士団として成長していった。彼らはやがて中央貴族の血筋を引く清和源氏や桓武平氏を棟梁と仰ぐようになり、その結果、源平両氏は地方武士団を広く組織した武家(軍事貴族)を形成して、大きな勢力を築くようになった。(83-84p)
 

上の記述を読むと、武士は押領使・追捕使に任じられた中・下級貴族の中から出現したように思えますし、下の記述を読むと地方の成長していったように開発領主が武装して武士へと成長していったように思えます。

この曖昧な状況に対して、『平安京はいらなかった』(吉川弘文館)という刺激的なタイトルの本を出している著者がはっきりとした答えを出そうとチャレンジしたのがこの本で、武士の起源だけでなく、平安時代の地方政治のイメージを書き換えるような刺激的な議論されています。


 実は山川の『詳説 日本史 改訂版』の平安時代の記述にはもう1つ曖昧なところあって、それが地方の土地所有をめぐる次の2つの文章です。1つ目は9世紀の記述で、2つ目は11世紀の記述になります。



天皇と親近な関係にある少数の皇族や貴族は院宮王臣家と呼ばれて、私的に多くの土地を集積し、国家財政を圧迫しつつ勢いをふるうようになった(注1:下級官人たちは進んで院宮王臣家の従者(家人)になろうとし、地方の有力農民たちも国司に対抗して保護を求めてやはり院宮王臣家の勢力下に入っていった)。(63-64p)



開発領主の中には、所領にかかる税の負担を逃れるために所領を中央の権力者に寄進し、権力者を領主と仰ぐ荘園として、みずからは預所や下司などの荘官となるものも現れた。寄進を受けた荘園の領主は領家と呼ばれ、この荘園がさらに上級の貴族や有力な皇族に重ねて寄進された時、上級の貴族は本家と呼ばれた。こうしてできた荘園を寄進地系荘園と呼ぶ。(80-81p)


上の文章を読みますと、院宮王臣家という上流階級の人びとが土地を集積し、それが荘園につながっていったように思えますが、下の記述を見ると荘園の形成は開発領主らによる下からの動きになります。もちろん、2つの文章の間には200年ほどの月日が流れているので、8世紀の土地集積の主体は院宮王臣家だったけど、11世紀になると彼らは受動的な存在だったという読みも可能ですが、なにかすっきりしません。
この本を読み進めると、この問題についてもいろいろと見えてくるようになっており、「受領の収奪に対抗する開発領主」という従来の図式の書き換えを迫るものとなっています。

目次は以下の通り。
序章 武士の素性がわからない
第1章 武士成立論の手詰まり
第2章 武士と古代日本の弓馬の使い手
第3章 墾田永年私財法と地方の収奪競争
第4章 王臣家の爆発的増加と収奪競争の加速
第5章 群盗問題と天皇権威の転落
第6章 国司と郡司の下剋上
第7章 極大点を迎える地方社会の無政府状態―宇多・醍醐朝
第8章 王臣子孫を武士化する古代地方豪族―婚姻関係の底力と桎梏
第9章 王臣子孫を武士化する武人輩出氏族―「将種」への品種改良
第10章 武士は統合する権力、仲裁する権力
第11章 武士の誕生と滝口武士―群盗問題が促した「武士」概念の創出
終章 武士はどこから生まれてきたか―父としての京、母としての地方

長々と前置きを書いてしまいましたし、この本自体が300ページを超えるボリュームなので、以下は要点だけを書いていきます。

著者は武士が朝廷の衛府から生まれたとする高橋昌明の説に疑問を呈した上で、今のところ明確になっている初期の武士の特徴として、1・領主階級であること、2・貴種であること、3・弓馬術の使い手であることの3つをあげています(31p)。


 まず、「武士」という名称ですが、ここには「士」という文字が使われています。「士」は古代〜中世の日本では六位以下の廷臣を指す言葉です。
また、弓馬の術、特に弓術は習得に時間のかかるもので(著者は弓道部出身でその大変さを実感したとのこと)、馬の飼育にも多額の費用がかかります。
これらのことを考えると、農民が自衛のために武装して武士になったとする説は成り立たないであろうといいます。



 古代、朝廷は優れた弓馬術をもった蝦夷の軍事力に悩まされており、聖武天皇の頃には富豪の子弟や、郡司の子弟などから弓馬の術に優れたものが選ばれ、彼らが衛府の舎人として採用されたりしたこともありました。

 著者はこうした弓馬の術に通じた富豪や郡司の子弟らを「有閑弓騎」と名付けています(49p)。彼らはやがて、あまり使い物にならなかった農民から徴兵されて兵に代わって軍事力の中心として位置づけられ、徴兵制は桓武朝において廃止されます。



 次に武士の登場の背景として、奈良時代末期から平安時代にかけて進んだ王臣家による私領の拡大と農民からの収奪があります。

743年に墾田永年私財法がつくられると、皇族や上級の貴族である王臣家は墾田の集積をはかります。この動きに対して、朝廷が規制をかけることもありましたが、当時の律令制のもとでは官位の高い者の刑は減刑されることになっており、身分の高いものは実質的に罰せられることがないような状態でした。


地方での収奪というと国司によるものが思い出されますが(例えば、藤原元命を告発した尾張国郡司百姓等解)、この本では王臣家こそ収奪の中心だったといいます。

 律令制のもとでは官職につかない限り安定した俸給はもらえません。官職の数は律令で決まっていますから、王臣家の子孫が増えた場合、彼らの一定の部分は失業者となります。王臣家の人びとは失業しても安定した生活が営めるように私領を求めたのです。



一般的に桓武天皇は律令政治の立て直しをはかった人物として知られていますが、この本によれば律令制の破壊の種をまいた人物でもあります。
桓武には32人もの子どもがおり、その子の嵯峨には47人もの子がいました。大量の親王が登場したのです。朝廷は臣籍降下を行って皇族を維持する費用を削減しようとしますが、彼らが向かったのが地方でした。

彼らは地方において私領を拡大しようとして国司と対立することもありましたが、国司の中には彼らと協調して自らの利益を確保しようとする者も現れました。


ちょうどこのころ、蝦夷に対する三十八年戦争が終結します。大量の有閑弓騎が帰国しますが、彼らは地方において収奪を強化する王臣家の私兵となっていきました。


 さらに9世紀中頃の仁明朝になると「群盗」が問題となります。この頃になると、王臣家や国司の収奪により、郡司や富豪層の没落が起こっており、著者は「群盗」の正体はこの没落した郡司富豪層だと考えています。

 彼らは有閑弓騎を抱える階層であり、武力を持っていました。彼らの一部は群盗となり、他の一部は王臣家の家人となっていったというのが著者の見立てです。

 この仁明朝の段階で「すでに地方では自力救済の社会が成立して」(140p)おり、つづく文徳朝では対馬の国司が射殺される事件も起きています。朝廷は地方に対するコントロールを失っていたのです。



宇多天皇の時代には、王臣家の「牒」(通達書)によって国司からの年貢差し押さえを逃れる行為や、五位以上の前国司が元の任国にとどまる行為を禁止する命令が出されていますが、その中でも注目すべきは896年に出された王臣家が地方社会で裁判を担うことを禁止した命令です(186p)。
このような命令が出たということは王臣家が紛争の裁定を行っていたということです。もちろん公正な裁判を行ったわけではないでしょうが、王臣家は地方社会において自立的な権力として機能し始めていたのです。
醍醐天皇の治世の905年には王臣家が刑事裁判を行うことや、犯罪人の逮捕を行うことを禁止する命令も出されおり、王臣家がほぼ地方政府に近い権力をもっていたことが窺えます。

889年から東国では物部氏永の乱が起こっています。それほど記録が残っておらず知名度もない乱ですが、鎮圧されたのは901年であり、実に鎮圧まで12年かかっています。上野・信濃・甲斐・武蔵といった地域をあらしまわった強盗の集団で、没落した郡司富豪層などが関わっているとみられます。

この物部氏永は武士とはみなされてませんが、30年ほど後に坂東で反乱を起こした平将門は武士です。このあたりの時期に武士の成立があるのです。



 ここから著者は藤原秀郷や平将門といった初期の武士が、どのようにして武人的な資質を持つようになったかを解き明かそうとします。藤原秀郷は藤原北家の藤原魚名の孫の孫で、魚名の失脚とともに没落したとはいえ貴族の家系です。一方、平将門は桓武天皇から5代目の子孫です。両者とも父系が代々武人の家系というわけではありません。

 将門に関しては、彼の祖父にあたる高望王が臣籍降下し、そこから平氏は坂東で勢力を広げるのですが、著者はこの平氏の勢力拡大の要因を現地の豪族との姻戚関係にみてます。

 当時の婚姻は妻問婚であり、王臣家の子孫は現地有力者との縁談がまとまると妻の実家で暮らし妻の実家の経済力に頼って暮らしました。一方、現地の有力者は王臣家の婿を迎えることによって孫を貴姓にすることができ、京とのパイプもできます。こうした両者の利害が一致したことによって、王臣家の子孫は地方に勢力を拡大させていったのです。



 さらに著者は源経基の母系に坂上田村麻呂で有名な坂上氏、平氏には多治比氏という将軍を出す家の血が入っていることに注目し、ここから武士の棟梁たる資質が育まれたのではと推測しています。


×ばつ準貴姓の伝統的武人輩出氏族(か蝦夷)】の融合が、主に婚姻関係に媒介されて果たされた成果だ。武士は複合的存在なのである」(269p)と述べています(藤原秀郷の一族は蝦夷との関係で弓馬術を会得したと考えられる)。

将門はまさにこうした存在でしたが、そんな将門は王臣家が裁判機能を果たしている地方において、さまざまな争いごとを仲裁しようとし、複雑な姻戚関係の中でついには反乱の当事者となっていくのです。

 そして、将門のような武士には郎党がいましたが、彼らは準貴姓の武人輩出氏族出身者と卑姓の郡司富豪層出身の有閑弓騎で構成されていました。



 最後に「武士」という呼び名ですが、この「武士」という言葉が後の武士につながる形で最初に使われたのが「滝口の武士」です。滝口の武士は内裏の警護をした存在として知られていますが、宇多天皇のときに設置されたと言われています。

 物部氏永の乱や群盗対策などのために設置された滝口の武士は、王臣子孫の弓馬の達者を集め、そこから将門をはじめとした武士が生まれていきました。そして、彼らに「武士」というラベルを用意したのは菅原道真ではないかと著者はみています。


そして著者は以下のように結論を述べています。
武士の内実は地方で、制度を蹂躙しながら成立・成長したが、京・天皇が群島に脅かされた時、それを「武士」と名づけて制度の中に回収し、形を与えたのが今日の宇多朝であり、その背後には「文人」と「武士」を両立させる宇多朝特有の《礼》思想的な構想があった。武士は、王臣家の無法や群盗の横行という形で分裂を極めた中央と地方に、再び結合する回路を与えた。滝口経験者として坂東の覇者となった将門は、まさにその体現者だ。(318p)
以上、駆け足でこの本をたどってみましたが、これ以外にも平安時代の実情を教えてくれる様々な情報が詰まっています。いくつか推測に頼っている部分もありますが、武士の成立についての野心的な探求は非常に刺激的なものです。
また、最初にも述べたように、もし平安時代の地方がこの本の描く通りだとすると荘園の成立に関する記述も見直しを迫られるのではないかと思います(この本には荘園形成の主体となった「開発領主」の居場所がない)。
そういった部分でもこの本は興味深いですし、今後の著者の研究にも期待したいです。


1951年に日米安全保障条約が締結されてから67年が経ちましたが、その間に日米安保体制は大きく変わってきています。その変化の中には1960年の安保改定や1997年の新ガイドラインの策定のように目につきやすい大きな変化もありますが、一方で徐々に変化してきた部分もあります。また、在日米軍基地も歴史の中で縮小と再編が行われてきました。そして、その在日米軍基地縮小の歴史の中で置き去りにされた感があるのが沖縄です。

この本はそんな日米安保体制の変化を、基地問題などにも目配りしながらたどったものになります。本書の特徴は以下の章立てをみてもらえばわかると思いますが、60年の安保改定までを1章に圧縮し、一方で1960〜72年、72〜89年の歴史にそれぞれ1章を割いている点です。特に72〜89年に関する詳しい記述は類書にはあまりみられないもので、ここに注目することで、日米安保体制の「同盟」への変質と、沖縄への基地の固定化のポイントが見えるようになっています。
また、日米安保体制の「影の守護者」としての昭和天皇の役割に注目していることもこの本の特徴と言えるでしょう。

目次は以下の通り。
第1章 講和の代償―日米安保体制の形成 一九四五〜六〇
第2章 米国の「イコール・パートナー」として 一九六〇〜七二
第3章 日米「同盟」への道 一九七二〜八九
第4章 冷戦後の課題 一九九〇〜二〇〇〇
第5章 安保体制の「グローバル化」 二〇〇一〜一八

日米安全保障条約は1951年、サンフランシスコ講和条約と同時に結ばれています。講話の道を探っていた日本ですが、1948年頃から冷戦の構図が明確になると全面講和の道は難しくなり、片面講和+米軍駐留の受け入れという形で独立を回復しようとしたのです。
しかし、アメリカ側の要求は多岐にわたっており、国内の反発を恐れた日本側は国会の批准が必要な条約とともに批准の必要がない行政協定を締結することで国内の批判をかわそうとしました。また、吉田首相はアメリカに日本防衛の「義務」があることを明記させたかったのですが、「日本が自らの義務を引き受けるようになるまでは、米国は「義務ではなく権利」を求めるというのが」(11p)、アメリカのダレスの立場でした。

こうして出来上がった日米安全保障条約は、第1条の内乱条項(在日米軍を内乱鎮圧に利用できる)や第2条の第三国条項(米国の同意なしに第三国の駐兵を認めてはならない)など、主権を侵害しかねない内容を含んでいましたし、また、日本有事の際の指揮権に関しては密約で処理するなど、不透明性の高いものでした。

吉田内閣が退陣し、鳩山内閣が成立すると外相の重光葵が安保改正へと動きます。この重光のはたらきかけはダレスに一蹴されてしまうのですが、重光が訪米前に昭和天皇から「「日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」(23p)と言われたという話は興味深いところです。

安保の改定を成し遂げたのは岸信介でした。1960年1月、新安保条約と日米地位協定が締結されます。旧安保の内乱条項と第三国条項は削除され、アメリカの日本防衛義務が書き込まれ、地位協定では民事裁判権・請求権がNATOなみになるなど、不平等性はある程度是正されましたが、核兵器の持ち込みや朝鮮半島有事に関しては密約が設けられ、不透明感の残るものとなりました。

日米安保に対する国民の反応としては60年の安保闘争が有名ですが、それ以外にも各地で反基地運動が起きていました。52年から始まった石川の内灘闘争、55年に始まった東京の砂川闘争などが有名ですが、頻発する米兵の事件などにより各地で反基地運動が起きていたのです。
刑事事件を犯した米兵の裁判をどうするかも問題となり、日本が裁判権を行使したとしても甘い判決が多く、「米兵の間では日本の刑が軽いことは常識となり、日本での裁判を希望する米兵も出る始末」(45p)でした。
58年、米軍の地上部隊は日本本土から撤退しますが、第三海兵師団司令部がキャンプ岐阜から沖縄に移るなど、沖縄には地上部隊が残り、また核兵器も搬入されました。

池田内閣は「寛容と忍耐」を掲げて岸信介のタカ派的な路線を封印しましたが、キューバ危機ではアメリカを支持し、南ベトナムを支援しました。この時期に新安保体制が軌道に乗ったとも言えます。
池田のあとを継いだ佐藤栄作は「非核三原則」を打ち出したことでも知られていますが、これはアメリカに「核の傘」の存在を確かめた上での行動でした。佐藤は側近に「いっそ、核武装をすべきだと言って辞めてしまおうか」と漏らし、駐日大使との会談で非核三原則を「ナンセンス」と述べたように(58p)、本来的に核武装論者でしたが、国民の反核感情やアメリカの意向からこのような路線を打ち出したのです。

佐藤はアメリカのベトナム戦争を支持し、67年に南ベトナムも訪問しましたが、これは沖縄返還への布石でもありました。
国内では、在日米軍がベトナム戦争へ出撃することへの批判も起きましたが、政府は米軍はベトナムに「移動」したに過ぎないと押し切っています。
一方、佐藤は65年1月のジョンソン大統領との会談で沖縄返還について切り出すと、8月には首相として戦後初めて沖縄を訪問しました。自民党の有力者や外務省は沖縄返還に消極的で、沖縄返還への着手は「政治的「焼身自殺」」(65p)とまで言われましたが、佐藤は沖縄返還は可能だと踏んだのです。

69年に発足したニクソン政権は、沖縄の反米感情の高まりへの対応と、日本に負担を分担させる梃子になるという理由で沖縄返還に前向きでした。佐藤政権は「核抜き・本土並み」を方針としてアメリカと交渉しますが、沖縄の基地を自由に使用したいアメリカの軍部を説得するために、核持ち込みに関しては密約を結び処理しました。
69年11月に沖縄返還が合意されると、70年の総選挙で社会党は大敗。佐藤政権は70年安保も自動延長で乗り切りました。
一方、67年のエンタープライズの佐世保寄港、68年の九州大学ファントム墜落事件などによって反基地・反米軍の運動も盛り上がります。これに対して、政府は都市部から米軍基地を撤去する政策を進めて、国民の反発を抑えようとしていきます。

70年代の日米安保体制というと、ニクソン訪中と田中内閣による日中国交正常化で日米関係がギクシャクしたことや、76年に三木内閣が防衛費のGNP1%枠を打ち出したことなどから、それほど深化しなかった印象がありますが、78年には日米防衛協力のための指針(78ガイドライン)が策定されるなど、日本の安全保障に大きな影響を与える出来事もありました。
これによって日米合同の演習や訓練が可能になり、日本有事やシーレーン防衛に関する共同研究なども始まったのです。
また、78年からは「思いやり予算」も始まっています。ベトナム戦争後のアメリカの「アジア離れ」に歯止めをかけるための措置でしたが、「この頃、米軍は財政的観点から在沖米軍の削減を検討していたが、思いやり予算を受けて、それを見送った」(106p)といいます。

80年代では、なんといっても中曽根内閣における日米「同盟」路線、「不沈空母」発言などが知られていますが、実は77年に福田が「同盟」という言葉を使うと、ハト派とみられた大平も79年に「同盟国」との言葉を使っていますし、さらにカーター大統領との会談では「日本列島が米国にとってのいわば不ちん航空母艦としての機能を、より少い経費で果たすようにする」(109p)と発言しています。ここから、中曽根内閣が今までの方針を転換したのではなく、表立って打ち出しただけであることがわかります。
こうした動きに対して、ソ連のアフガニスタン侵攻を恐怖に感じていた昭和天皇は、対米関係を改善させた中曽根をほめたといいます(116p)。

また、この時期は本土の米軍基地の縮小が進んだ時期でした。73年には立川、府中、水戸、朝霞などの基地を返還して、その機能を横田に集約する関東計画が合意されます。
厚木基地での騒音問題や、逗子の池子弾薬庫跡地への米軍住宅建設問題など、米軍施設をめぐる反対運動は各地で行われましたが、本土での米軍基地の存在感は薄れたと言えます。一方、沖縄では本土復帰後の74年に返還が決まったのは沖縄の米軍基地の10%にすぎず、日本政府が在沖の海兵隊を日本に対するコミットメントの証として重視したこともあって、基地の固定化が進んでいくのです。

90年代は日本の安全保障にとって大きな動きがあった時代だと言えます。
まずは90年に始まった湾岸戦争です。ご存知の通り、憲法上の制約から資金のみを拠出した日本は、クウェート政府の感謝広告に名前を載せてもらえず「湾岸のトラウマ」と呼ばれる大きなショックを受けました。
ただし、この広告に関しては在米クウェート大使館が多国籍軍に感謝するために企画したものであり、米軍が示した多国籍軍のリストに基づいたものでした。また、日本の拠出した資金の多くはアメリカに回っており、クウェート政府に渡った部分はごく僅かだったという背景もあります(137p)。
しかし、日本政府のショックの影響は大きく、これを受けて掃海艇がペルシャ湾に派遣され、さらに92年にはPKO協力法が成立し、自衛隊がカンボジアに派遣されました。

冷戦の崩壊は日米安保の意義を揺るがすとも考えられましたが、結果として、70年代末から始まった日米安保の「同盟」化はこの時期に完成したと言えます。97年の新ガイドラインはまさに「同盟」化を押し進めたものであり、周辺事態法の制定などにより日米の協力関係は深まりました。

しかし、この時期にその日米安保体制に刺さった刺としてクローズアップされてきたのが沖縄の基地問題です。1995年に起きた少女暴行事件をきっかけとして沖縄の反基地感情が溢れだし、太田知事は代理署名の拒否という強行手段に出ました。
事態を重く見た日米両政府は地位協定の運用改善などに合意、さらに橋本首相は普天間基地の返還を提案します。この橋本の決断によって普天間返還が決まりますが、問題となったのはその移設先でした。この問題はその後20年以上、日本政府と沖縄を悩ますことになります。

21世紀は2001年9月11日の同時多発テロで幕を開け、その後アフガニスタン、イラクでのアメリカによる対テロ戦争が続きました。
このアメリカの動きを一貫して支援したのが小泉内閣です。テロ特措法、イラク特措法を成立させ、自衛隊を現地に派遣してアメリカの対テロ戦争を側面から支援しました。また、03年、04年と有事関連法を成立させています。
一方で普天間基地の移設問題は進展せず、小泉首相の関心が薄かったこともあり、沖縄の問題は置き去りにされました。

09年に政権交代が起こり民主党政権が成立しますが、鳩山内閣は「東アジア共同体構想」でアメリカとの摩擦を生み、何よりも普天間の「県外移設」発言で迷走します。岡田外相による密約の解明などの成果もありましたが、結局は民主党政権も日米同盟重視の姿勢に落ち着いていくことになります。

そして、第二次安倍内閣です。御存知の通り、安倍内閣は集団的自衛権の行使を限定的に容認し、ガイドラインを改定し(15ガイドライン)、安保関連法を成立させました。これによって、自衛隊は地球規模で米軍の後方支援を行うことが可能になり、安保体制の「対称性」は増しました。
しかし、ここでも刺として残っているのが沖縄の基地問題です。14年の県知事選で普天間の県内移設を受け入れた仲井眞知事が「オール沖縄」を掲げた翁長氏に敗れたことによって、沖縄と本土が「分断」されるような状況が出現したのです。

このようにこの本では日本の講和から現在に至る日米安保体制の歴史をたどっています。最初にも述べたように、今まであまり注目されてこなかった70〜80年代の流れを丁寧に追ったことで、日米安保体制の進化と沖縄の基地の固定化の歴史が見えてくるような内容になっています。
巻末に年表や米軍の事故の一覧などもあって便利ですし、記述に関しては大まかにはバランスがとれていると思いますが、篠田英朗氏から集団的自衛権の政府見解の部分に関しては誤りがあると指摘されている(吉次公介『日米安保体制史』の誤りと岩波新書)ことを書き添えておきます(このエントリーによると著者も誤りを認めている)。

幕末、坂本龍馬の片腕として海援隊で活躍し、外務大臣として条約改正を成し遂げ、日清戦争をめぐる外交でイニシアティブをとった陸奥宗光。彼は、星亨や原敬といった人材を引き立てた人物としても知られており、非藩閥の開明派として根強い人気がありますが、近年では条約改正と日清戦争期の外交に関して、最終的にはうまく収まったが失敗を含む場当たり的なものだったという評価もあります(同じ中公新書の大谷正『日清戦争』での評価は低い)。
そんな波乱万丈であり、なおかつ毀誉褒貶もある陸奥の人生を、1987年生まれという若手の著者が改めてたどったのがこの評伝です。
この本の「おわりに」に「大学院の博士課程に進んだ頃からは、博士論文を書き上げたら学術書として刊行し、続いて中公新書で陸奥の評伝を書くというのが、思い描いていた道のりだった」(288p)ということがさらっと書いてあるのですが、これを実現しているのはすごいですし、それだけの能力を感じさせる内容です。

前半は若手の本らしく非常に丹念に史料にあたり、陸奥の人生を緻密に再構成しようとしているのですが、後半になると陸奥の雄飛とともに筆致も大胆になっていく感じで、このシンクロ具合が面白いです。
また、陸奥の周囲にいた人物に言及することで、当時の情勢や陸奥以後の日本の外交や政党政治などについても理解が深まるようになっており、読み応えがあります。

第1章 幕末―紀州出身の志士
第2章 維新官僚―能吏の自負と焦燥
第3章 獄中生活とヨーロッパ遊学
第4章 議会開設前後―再び政府のなかで
第5章 条約改正
第6章 日清戦争
第7章 日清戦後の内外政―知られざるもう一つの活動期
終章 近代日本と陸奥宗光―陸奥をめぐる人々

陸奥宗光は1844年に和歌山藩士伊達宗広を父として生まれました。伊達宗広は藩主徳川治宝の小姓から勘定奉行へと出世した人物でした。また、学問にも通じており本居大平(本居宣長の養子)に国学や歌学を学んでいます。
しかし、この宗広が1852年に失脚します。跡目争いに絡んで治宝が亡くなると治宝の側近が一掃されるのですが、この中に治宝に引き立てられた宗広も入っていたのです。さらに義兄で伊達家を継いでいた宗興も翌年には改易され、伊達家は苦難の道を歩むことになります。

陸奥は15歳のときに江戸に出ますが、このときは中村小次郎という名を用いていました。この後、桜田門外の変が起こり、その影響で伊達家が許されることになりますが、宗興は程なくして脱藩、陸奥も和歌山藩士としてではなく志士として活動するようになります。
そこで陸奥は坂本龍馬と出会います。出会いについては諸説があるそうですが1863年(文久3年)には面識があったようで、陸奥は勝海舟の塾に入っています。
さらに陸奥はさまざまな活動をしていたようで、三井の情報収集役を務めたりしていたこともあるようです。1865年ごろには薩摩の小松帯刀に抱えられ、錦戸広樹という名前で、長崎で英語を教えていた何礼之(がのりゆき)の塾の門徒となっています。

1866年、坂本らは薩摩藩から給金をもらうようになりますが、そこに陸奥の名前があり、これ以降は一貫して陸奥姓を名乗るようになります。坂本の周囲にいた土佐出身者との関係も近くなったようで、創設された海援隊にも加わっています。
大政奉還が行われ直後、坂本は書状の中で「商法の事は陸奥に任し在之候得ば」(35p)と述べていますが、これをみても坂本が陸奥のことを頼りにしていたことがわかります。
しかし、この書状の半月ほど後、坂本は暗殺されます。陸奥が坂本と過ごした期間はそれほど長いものではありませんでしたが、晩年、陸奥は坂本について「坂本は近世史上の一大傑物にして、其融通変化の才に富める、其識見議論の高き、其他人を誘説感得するの能に富める、同時の人、能く彼の右に出るものあらざりき」(266p)と絶賛しています。藩から離れて理想を掲げて活動する坂本は陸奥のモデルとなるものでした。

しかし、陸奥には坂本ほどの「他人を誘説感得するの能」はなく、その鋭すぎる舌鋒はしばしば軋轢を生みました。
王政復古の大号令の後、新政府が発足すると外国事務御用掛に任じられましたが、同じくこの職に任じられた伊藤博文、井上馨、寺島宗則、五代友厚らとは役職に差があり、その差が許せなかった陸奥は半年後には辞職願兼意見書を提出しています。
その後、陸奥は新政府の資金集めなどに取り組み、さらに大阪府に勤務し、地租改正のアイディアを提議したりしています。このころに伊藤博文との関係が深くなっています。

ただし、陸奥が思うほど新政府の改革は進まず、陸奥はその失望から和歌山藩の藩政に関わっていくことになります。ここで陸奥は津田出とともに藩政改革を行っていくのです。
和歌山藩では津田の主導のもと徴兵制が施行され、そのための人材をヨーロッパから招聘することになり陸奥が渡欧しました。陸奥はヨーロッパからアメリカをまわり帰国しています。

和歌山藩で改革をリードしようとした陸奥でしたが、その計画は廃藩置県によって挫折します。これによって諸藩の軍隊は解散となってしまったのです。
陸奥は、再び新政府に戻って神奈川県知事→大蔵省と転身し、マリア・ルス号事件の対応や芸娼妓解放令、地租改正、生糸の品質管理などに関わります。比較的順調に出世したようにも思えますが、陸奥自身は自らの待遇に不満を覚えており、1874年に官職を辞しています(その後、元老院議官として復帰)。

1877年、西南戦争が勃発すると、陸奥は現状を変革する好機到来と見て活発に動き始めます。陸奥は和歌山で募兵する計画を立て動き出しますが、同時に土佐の立志社系の人びとの政府転覆計画に加担してしまいます。陸奥は要人暗殺や挙兵、武器調達の計画を聞くのですが、それを政府に報告しようとはしなかったのです。おそらく西郷が勝った時の保険を掛けたかったのでしょうが、陸奥は逮捕・投獄されます。35歳の時でした。

陸奥は1878年の9月から1882年の末まで囚人として、最初は山形、つづいて仙台の監獄で過ごします。ここで陸奥はひたすら勉学に励み、ベンサムの主著である『道徳および立法の諸原理序説』を『利学生宗』というタイトルで訳しました。
明治14年の政変の後、恩赦によって陸奥は出獄し、帰京します。このとき陸奥は40歳。しかし、出獄したばかりの陸奥に、相応の役職を与えることは難しく、伊藤博文の勧めもあって陸奥は外遊することになります。これには陸奥が自由民権運動に取り込まれないようにとの配慮もあったようです。

イギリスへと渡った陸奥は、下院書記官長(事務総長)のアースキン・メイから議会政治について教えを受けています。陸奥は議会、政党、選挙についてメイから講義を受け、それを来るべき日本の立憲政治に活かそうとしました。
さらにトマス・ワラカーからイギリスの国制と国際法に関する講義を受け、ウィーンでシュタインの講義を受けています。

1886年2月に陸奥は帰国。10月には時の外務大臣の井上馨により弁理公使に任じられます。また、同時に陸奥は和歌山で児玉仲児らと来るべき選挙に向けて勢力の拡大をはかっています。
1888年、陸奥は駐米公使に任じられます。ここでの陸奥の功績はメキシコとの間に初の対等条約である日墨修好通商条約を結んだことです。本国との連絡がうまくいかずに手間取った部分もありましたが、陸奥は「対等」ということを重視して交渉を成功させました。
また、この本ではアメリカの社交界で活躍した妻の亮子についても写真付きで紹介しています。127pに2枚の写真が載っていますがたしかに美人ですね。

このようにアメリカで外交活動を行う一方で、陸奥は国内の動向にも気を配っていました。陸奥は井上馨宛の書簡の中で「抑も政治なる者は術(アート)なり、学(サイアンス)にあらず」(130p)と書いていますが、陸奥は理論よりも実際の対応が重要だと考えていました。
陸奥はその考えのもと、和歌山で選挙の準備を進め、和歌山選出の議員を使って一定の勢力をつくろうと画策しています。

1890年に帰国した陸奥は、翌年、山県内閣のもとで農商務大臣に就任します。そして、ここで原敬と出会います。
陸奥の原の才能を見抜いて秘書官として留任させ、省内の改革を行いました。また、この大臣在任中に行われた第一回総選挙で陸奥は和歌山1区から当選しています。第一回の議会では、政府が土佐派を切り崩して予算を成立させますが、この間を取り持ったのが陸奥だと言われています。
山県内閣に続く松方内閣でも、陸奥は引き続き農商務大臣を務めますが、途中から松方内閣に見切りをつけ、伊藤の再組閣に期待するようになります。陸奥は松方内閣の選挙干渉を批判し、1892年の月に農商務大臣を辞職しています。

松方内閣が倒れた後、陸奥が期待した伊藤が内閣を組織すると、陸奥は外務大臣に就任します。
ご存じのようにここで陸奥は条約改正を成し遂げるわけですが、著者は実際に領事裁判権のない条約が発効したのは5年後であったことに注意を向けています。ちょうどこのころに日本は民法や商法の制定を終えており、近代国家としての法制度を整えたのでした。
諸外国は日本の法制度が整えば領事裁判権の撤廃に応じる構えであり、領事裁判権の撤廃は自然の流れでもありました。むしろ、難しかったのは国内の説得と言えます。井上馨も大隈の交渉も国内からの批判で失敗しており、国内世論を抑えることが交渉の成功には必要不可欠だったのです。

陸奥はここでも「対等」という言葉をキーワードにして交渉を進めました。陸奥の前任者たちは段階を踏んで不平等条約を解消しようとするものでしたが、陸奥は条約の実施時期や関税の問題などを後回しにしつつも、「対等」条約だということを前面に押し出して国内の世論を突破しようとしたのです。
陸奥は「対等」という理念でコンセンサスを取りつつ、具体的な条約案をなるべく漏らさないように情報管理を行って条約改正交渉を進めました。議会内の対外強硬派に対しては、それを「鎖国攘夷」だと批判し、1894年の7月に日英通商航海条約の調印にこぎつけました。
著者は、対英交渉の場での陸奥の存在感は大きくないが、国内対応の場で陸奥が手腕を発揮したと評価しています(194-197p)。

条約改正交渉とともに陸奥の外交の山場となったのが日清戦争です。
日清戦争に関しては、陸奥が最初から開戦を想定して陸軍の川上操六らと周到な用意をしていたとされてきましたが、近年ではむしろ陸奥の外交は、条約改正の行き詰まりを糊塗するもの、あるいは場当たり的なものだったという見方も広がっています。これに対して、著者は確かに誤算や失敗もあったが基本的に陸奥の対処は的確であったという見方を打ち出しています(201-203p)。

日清戦争は東学党の乱に対して清と日本が派兵したことから始まります。ところが、日本が混成旅団約8000人を派遣した頃には乱は下火になっていました。ここで伊藤や陸奥は派兵の見返りに何らかの実績を得ようと考えます。
伊藤に関しては戦争を意図してはいなかったようですが、この動きが戦争への流れを作り出します。そして、陸奥は開戦必至と見て、その口実やタイミングを探りだすのです。
結局、駐朝鮮公使の大鳥圭介が主導する形で開戦へとなだれこんでいきますが、宣戦布告をいつするのか、対清だけなのか朝鮮も含めるのかということは決まっておらず、陸奥も伊藤も状況についていくという感じでした。

戦局は日本有利に進み、講和の動きが出てきます。その案に関して陸奥は検討を行い、朝鮮の独立を担保する目的で遼東半島の割譲を要求することが決まりました。
講和会議の直前に清国全権の李鴻章が狙撃される事件が起き、日本の当初の予定は狂いますが、陸奥は強硬な国内世論を沈静化させるチャンスと見て、一気に調印までもっていきます。
しかし、ここで三国干渉が起こります。遼東半島の割譲にロシアが反発するのは織り込み済みでしたが、ドイツが干渉を推進したのは予想外でした。結局、日本側は三国干渉を受け入れました。

こうしためまぐるしい情勢の展開は陸奥の健康にも悪影響を与えたようで、1895年の6月から療養生活に入ります。そして、この療養生活の中で作成されたのが『蹇蹇録』です。
また、日清戦争後の朝鮮に関しては駐露公使の西徳二郎とともに非同盟・日露協商の路線を模索していたようです。
しかし、病には勝てず、1896年の5月に辞職。この後も健康を取り戻すことはありませんでした。それでも、自らが発刊に関わった『世界之日本』を使って後任の大隈外相を批判したり、自由党総理就任の話が出るなど、政治に関わり続けました。
そして、1897年の8月に54歳で亡くなっています。

終章では陸奥の後世に与えた影響について触れられています。陸奥は外務省において小村寿太郎、林董、西徳二郎、内田康哉といった人物を引き立て、彼らがその後の日本の外交を担いました。また外交官・領事館試験制度を導入し、外務省の人材登用の仕組みがつくられたのも陸奥の外相時代です。
また、国内政治においても陸奥の世話を受けた星亨が立憲政友会の設立に大きな役割を果たし、農商務省時代に陸奥が引き立てた原敬が日本初の本格的な政党内閣を組織しました。
陸奥は自らの才能を駆使するだけでなく、様々な才能を見出したのです。

最初にも述べたように、最初は緻密に史料を積み上げていく評伝かとおもいきや、後半になるに従って、通説にもチャレンジしながら大胆に陸奥外交を論じているのがこの本の面白さだと思います。
陸奥の生涯は、波乱に富んでおりそれだけで面白いのですが、この本はそれに加えて、著者の外交や政治を見る眼の面白さもあります。


『自由民権運動』(岩波新書)や『町村合併から生まれた日本近代』(講談社選書メチエ)などで明治期の社会変動を分析してきた著者が、ジュニア新書という媒体で明治期の社会変動がもたらした「生きづらさ」を現代社会に重ねる形で書いた本。
歴史学者の手によるものながら「文学的」な印象を受ける本で、ちょうど司馬遼太郎の描く「明るい」明治と好対照をなすものとなっています。
能力による立身出世の道がひらけた明治。しかし、それは「立身出世できない人間=怠け者」という図式が立ち上がってきた社会でもあったのです。

目次は以下の通り。
第1章 突然景気が悪くなる―松方デフレと負債農民騒擾
第2章 その日暮らしの人びと―都市下層社会
第3章 貧困者への冷たい視線―恤救規則
第4章 小さな政府と努力する人びと―通俗道徳
第5章 競争する人びと―立身出世
第6章 「家」に働かされる―娼妓・女工・農家の女性
第7章 暴れる若い男性たち―日露戦争後の都市民衆騒擾
おわりに―現代と明治のあいだ

第1章では、松方デフレによって土地を失った農民たちの起こした負債農民騒擾を通じて江戸時代と明治時代の違いを描いています。
1881から始まった大蔵卿松方正義による超緊縮政策で日本はデフレーションに陥ります。特に繭の価格の下落は著しく、養蚕農家の多くが借金で首が回らなくなりました。
この借金の返済の猶予や減額を求めたのが負債農民騒擾で、14pの表1を見ると、群馬、埼玉、神奈川、静岡といった養蚕の盛んだった県で多く起こっていることがわかります。

この中でも大規模でよく知られているものが「武相困民党事件」です。武蔵と相模にまたがる地域(現在の東京多摩地域+神奈川、当時多摩地域は神奈川県だった)の農民たちが、当時、金の貸し手が多くいた八王子の周辺で運動を繰り広げました。
彼らの主張は、借金の返済を5年待ってもらうこと、その後50年での分割払いを認めること、担保となった土地も50年かけて買い戻す権利を認めること、でした。
現在の感覚からすると、返済の猶予はともかくとして、50年の分割払い、ましてや土地の買い戻しについては過大な要求に思えます。
しかし、江戸時代の村請制のもとでは村のなかの助け合いとしてこうした事が行われていたのです。江戸時代の税は村全体で支払ったので、メンバーの誰かが借金で首が回らなくなったとき、見捨てるのではなくそれを支えることで税の担い手を確保しようとしていました(詳しくは『町村合併から生まれた日本近代』を)。
ところが、地租改正により納税者は地主個人となります。もはや江戸時代のような助け合いの必要は存在せず、要求を果たせないまま運動は壊滅するのです。

第2章は明治時代の貧民窟の話です。明治時代の東京にはその日暮らしをする貧民窟が出現し、その様子は横山源之助『日本の下層社会』、松原岩五郎『最暗黒の東京』などにまとめられています。
ただし、筆者が注意をうながすように、これらのルポは「見知らぬ世界をのぞき込むエンターテイメントの要素」(34p)もありました。
そうした部分を注意しつつこれらのルポを読むと、家族の形が安定せず必ずしも血縁関係や婚姻関係でない者が同居していたこと、日稼人足・人力車夫・くずひろい・芸人など日銭を稼ぐ仕事に就いていた者が多かったこと、さらに、そうした人びとに布団をレンタルしたり、一日単位で金を貸したり、残飯を買い集めてきてこれらの人びとに販売する残飯屋などの、現代風にいうと貧困ビジネスが成立していたことがわかります。
まとまったお金を持たないがゆえに日々の出費を強いられるという現代にも通じる貧困の姿があったのです。

第3章では、そうした貧民に政府がどう対処しようとしたかが書かれています。
1874年に恤救規則という今の生活保護法に通じるような法令が出されています。この法令の対象者は、障がい者、70歳以上の高齢者、病気の者、13歳以下の児童で、なおかつ、貧しく働くことができない一人暮らしの者で、こうした人びとに食費を支給するというものでした(この場合の一人暮らしとは戸籍上も家族がいない者で家族の助け合いが前提とされた)。

1889年に大日本帝国憲法が発布され、1890年に第一回の帝国議会が開かれると、政府は恤救規則に代わる窮民救助法案を提出します。この法案は恤救規則の「一人暮らし」という要件をなくし、貧民救済の義務を市町村に負わせるもので、恤救規則よりも踏み込んだ内容でした。
ところが、この法案は選挙で選ばれた議員たちによって否決されてしまうのです。市町村に義務を負わせると貧民が「権利」を持つことになってしまう、現在の恤救規則で十分対応できている、そもそも日本人全体が貧しいといった理由で、議員たちは貧民の救済に反対したのです。
この背景には当時の議員が制限選挙で選ばれており、貧しい人の利害を無視しても問題がないという状況があったのですが、著者はそれだけではないといいます。

この理由として第4章で著者が持ち出すのが「通俗道徳」というものです。通俗道徳とは勤勉、倹約、親孝行など、特に深い根拠に支えられているわけでもないが人びとに「良い」と考えられている価値観で、「人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ」(71-72p)という考えも含まれます。
この通俗道徳は市場化が進んだ江戸時代後期から人びとの間に浸透したと考えられていますが、江戸時代の頃は社会が集団を基本としてつくられており、ある人が怠けても他の人がカバーするしくみがありました。
ところが、明治時代になるとそうした集団は解体されていき、むき出しの通俗道徳が社会を支配するようになります。
発足当初から明治政府は歳入不足に悩まされていましたが、そうしたカネのない状況の中で怠け者を助ける余裕などないというのが当時の議員たちとその背後にいる人びとの感覚だったのです。

日清戦争の勝利によって日本は莫大な賠償金を手に入れましたが、それが貧民の救済に回ることはありませんでした。その辺の事情を描いたのが第5章です。
日清戦争の賠償金の多くは軍備やそれを支える産業へと回されます。また、地租増徴も決まりますが、その予算は軍事予算や議員たちの地元へ鉄道や道路、学校を建設することなどに回されました。利益誘導の政治が始まったのです。
ここでもやはり貧民は無視されています。一部のジャーナリストは貧困者を助けるのは社会の義務であると主張しましたが、『東京横浜毎日新聞』の主宰者で東京府の府会議員でもあった沼間守一は、東京府が貧民が無料で医療を受けられるように配っていた「施療券」を、貧困な患者は自己管理がなっていなからだとして批判しています。そしてその後、施療券は廃止されています。

この社会で成功した事業化の大倉喜八郎は、その回顧録の中で「富まざるは働かないためである。貧苦に苦しむは遊惰の民である」、「私は病気には決して敗けぬのである。必ず打ち勝つという覚悟を有っているのである」(91-92p)と言い放っています。
大倉は軍との取り引きなどで成功した人物で、その成功にはコネや偶然もあるはずなのですが、大倉に言わせれば貧困者は単純に努力や精神力が足りないのです。

このように個人が競争社会に放り込まれたイメージもある明治社会ですが、基本的な単位は「家」であり、その「家」のために弱い立場に置かれていた女性が犠牲になっていました。この問題を扱うのが第6章です。
江戸時代には吉原などの幕府公認の遊廓があり、そこでは女性たちが遊女としてモノのように取引されていました。明治になると芸娼妓解放令が出され、人身売買乗っ結果として遊女となっていたものは解放されます。
ところが、女性たちが自由になったかというでそうではありません。遊廓を離れ「家」に戻った女性たちは、「家」の事情によって再び娼妓として働かされることもあったのです(このあたりの事情については横山百合子『江戸東京の明治維新』(岩波新書)が詳しい)。

もちろん、娼妓となったのは一部の女性ですが、明治の産業を支えた女工も、工場主と「家」の戸主の間の契約によって厳しい労働に従事させられました。
また、「家」の中でも女性は長時間の労働に従事していました。大正時代に入った1918年の鳥取のある農家の記録を見ると、男性戸主(44歳)、戸主の妻(40歳)、長女(18歳)、次女(15歳)、長男(9歳)、次男(2歳)、戸主の父(71歳)、戸主の母(67歳)の8人家族の家で、もっとも働いていたのは67歳の戸主の母で年間3921時間、ついで長女3399時間、妻3278時間、戸主3156時間でした(117p)。
戸主と戸主の妻は農作業や養蚕、畳表を作る仕事をし、家事を担ったのは戸主の母と長女と次女。育児は戸主の母と次女が行いました。母親が家にいるといっても、今の専業主婦世帯のイメージとはずいぶん違うことがわかるでしょう。
このように競争社会のツケは、「家」の中では女性にまわっていたのです。

最後の第7章は日比谷焼打事件に代表される都市民衆騒擾について。1905年の日比谷焼打事件以降、1906年の電車賃値上げ反対運動、1908年の増税反対運動、1913年の桂内閣打倒運動(第一次護憲運動)、1914年の海軍汚職事件の追求、1918年の米騒動と都市で民衆が集まり、暴力的な事件を起こすことが頻発します。
これらの運動の特徴は、何らかの政治集会などがきっかけで起こり、しばしば警察署や交番が襲撃され、暴動が継続する日数は短く数日で終わることが特徴です。
そして、参加者の大部分は若い男性であり、15歳から25歳の人が6〜7割を占めました。そして、彼らの職業は職人や工場労働者、人力車夫、日雇い労働者などでした(133-135p)。

なぜ、都市の若い男性は暴動に参加したのか? 著者はこの背後に通俗道徳への反発をみています。
「努力すれば成功する」と言われますが、現実に貧しい境遇から抜け出すことは難しく、多くの人は努力しても貧しさからは抜け出せません。そこで、彼らは既存の道徳にあえて逆らってみせ、それが「かっこいい」「男らしい」と考えられるような対抗文化が育っていったと考えられるのです。
ところが、この「あえて」逆らってみせるというスタイルが既存の道徳を解体することはありません。「あえて」貯蓄をせずに派手にお金を使って見せても、それは将来の自分が困るだけです。
実際、暴動に参加したのは若い層がほとんどで、例えば、日比谷焼打事件で暴れた若者は暴れ続けたのではなく、どこかで社会と折り合いをつけ暴動には参加しなくなったと考えられます。そして、暴れた結果、豊かな人びとが貧困層を見る目は一層厳しくなっていくのです。

「おわりに」で、著者は明治と現代の共通点として、資本主義社会であることと政府があまりカネを使わないようにしていることをあげ、通俗道徳の「わな」から逃れるにはどうしたらいいかという問いを投げかけています。

ジュニア新書ということで、各エピソードの掘り下げ方に関してはそれほどでもないですが、明治社会の一面をわかりやすく、しかも鮮烈に示すことができていますし、社会の変化についての説明もうまいです。高校生が読んでも面白いと思いますし、大人が読んでも十分な読み応えがあると思います。
冒頭に司馬遼太郎のことをあげましたが、司馬遼太郎との比較という点でも興味深いです。司馬遼太郎は身分制度の息苦しさと閉塞感を突破する人間(坂本龍馬とか土方歳三とか松本良順とか)を中心に幕末〜維新を描き、明治の「明るさ」を印象づけました。
一方で、この本で描かれるのは共同体の保護を失って競争にさらされる人びとの「つらさ」です。もちろん、司馬遼太郎が一部の有名人しか見ていないというのもあるのでしょうけど、司馬遼太郎が活躍した時代と著者がこの本を書いた現在との時代の差異のようなものも感じました。

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