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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2024年10月

タイトルは「アメリカ大統領とは何か」ですが、大統領を軸にしたアメリカ政治の入門書になっています。
目次を見ればわかりますが、大統領だけではなく、議会、州と連邦政府の関係、裁判所、選挙や政党といったアメリカ政治の基本的な仕組みや実態が一通り学べます。
2016年のアメリカ大統領選挙でトランプが当選し、TPPやパリ協定から脱退するなど今までの外交の積み重ねをあっさりとひっくり返しましたが、同時にメキシコ国境の壁の建設は未完のままで終わりましたし、内政に関しては思い通りにできたわけではありません。
今度の大統領選挙でトランプが返り咲けば、前回できなかったことをすると考えられますが、では、どこまでのことができるのか? ということが本書を読めば見えてくると思います。
大統領選挙についての解説もありますし、来たるべき大統領選挙とその影響を見極めるために便利な本になります。

目次は以下の通り。
第1章 大統領の権限とその発展
第2章 連邦議会と行政部門との関わり
第3章 50州が決定権を持つ連邦制
第4章 政治的に大きな役割を果たす裁判所
第5章 選挙・世論・メディア
第6章 政党と利益集団
第7章 国民や国家を守るための対外政策
第8章 偉大な大統領とは?

アメリカ大統領の特殊性として、本書ではまず連邦議会の議員と比べて代表性が異なることを指摘しています。議員は地域の代表ですが、大統領はアメリカ全土を代表する唯一の公職者です。
また、議員がそれぞれ委員会に所属し、一部の争点にのみかかわるのに対して大統領はすべての争点に対して判断を示す必要があります。
日本の首相は内閣というチームのリーダーで、行政権は内閣に属していますが、アメリカでは大統領一人に属しています。

日本では内閣はプライム・ミニスターとその他のミニスターで構成されていますが、アメリカの閣僚はセクレタリー(秘書)であり、名前からしても大統領とは格が違います。行政権については大統領が握っていると言えます。
一方、この行政権を三権分立の仕組みによって抑制しています。また、連邦政府と州政府の分権も大統領の権力を抑制する仕組みになっています。

初期の大統領はかなり抑制的に振る舞いました。例えば、ワシントンが2期で退いたことによって大統領は2期までという慣例がつくられていきます(この慣例に従わなかったのがF・ローズヴェルトでその後憲法が改正されて2期までとなった)。
しかし、次第に大統領の権限を広く使おうとする大統領も出てきます。リンカンは大統領は奴隷を廃止する権限は持っていないと考えていましたが、南北戦争という危機の中でそれに踏み切っています。
T・ローズヴェルトも積極的に大統領の権限を広げようとした大統領で、自然保護、消費者保護、トラスト征伐などを積極的に行い、パナマ運河の建設も連邦議会の許可を得ることなく行っています。
大統領の権限を大きく拡大させたのがF・ローズヴェルトで、社会保障政策などを積極的に進めました。当初、連邦最高裁は連邦政府が州際通商条項を理由にこうした政策を行うことはできないとの判断を下しましたが、のちに支出条項を根拠にするならば連邦政府の権限を拡大できるとの判断を示すようになります。

第2章では大統領と連邦議会の関係が分析されています。
アメリカは三権分立の政治機構を持つ国として有名ですが、政治学者のリチャード・ニュースタットは、「アメリカの統治機構は権力を分有する異なる機構から成り立っていることが最大の特徴」(48p)だと言います。権力というよりも機構が分立しているのです。
ですから、大統領がいくら望んでも議会にしか法律は作れませんし、議会で賛成多数となった法案も大統領に拒否権を行使されるかもしれません。

議院内閣制のもとでは多数党の党首が首相になるのが一般的なので、多数党は行政部門を支える責任が生じますが、アメリカではそうではありません。大統領と同じ政党に属していても、大統領が失敗した場合にはそれを批判することが期待されます。
また大統領の所属政党と議会の多数派が異なるという分割政府になることもしばしばです。
しかも、アメリカいは上院と下院があるので、大統領、上院多数派、下院多数派がすべて同じ党派になるのは珍しいくらいです(大統領の1期目から中間選挙までの2年間だけそうなるケースが近年は多い(55pの表参照))。
アメリカには党議拘束が基本的にはないため、分割政府になっても法案が成立しなくなるわけではないですが、近年は分極化が進み、分割政府になると立法活動が停滞する傾向が強くなっています。

このため大統領は大統領令に頼りますし、対外的な取り決めでも上院の承認が必要な条約ではなく行政協定の形で結ぼうとします。NAFTA(北米自由貿易協定)がその例です。
ただし、行政協定は大統領が替わればひっくり返ります。ブッシュ(子)は京都議定書から離脱し、国際刑事裁判所設立に向けた署名も撤回しました。トランプもTPPやパリ議定書から脱退し、NAFTAを米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)に変えました。

第3章では連邦政府と州政府の関係が紹介されていますが、79pに各州の経済規模と同じくらいのGDPの国を示した面白い地図が載っています。それによると、カリフォルニアはイギリス、テキサスはカナダ、ニューヨークはカナダに匹敵します(一方、モンタナはガーナワイオミングはヨルダン)。
ですから、たとえ同じ共和党、民主党の代議士でも、どの州から選ばれているかによって、その代表すべき利益はずいぶんと違います。
また、州で実験的に行われた政策が連邦レベルで実施されることもあります。ニューディール政策はローズヴェルトが知事としてニューヨーク州で行ったものが元になっています。
一方で、死刑制度が州によってあったりなかったり、銃規制が都市部では厳しくても農村部では厳しくないので(警察官が近くにひないので自衛が必要)、なかなか効果をあげないといった問題点もあります。
大統領選挙でも州ごとに大統領選挙人が選出されています。州での勝者がその州の選挙人を総取りする制度は不合理にも思えますが、接戦州からすると、もし比例配分にしてしまえば選挙人を半々で取り合うだけで大統領はその州での選挙戦に力を入れないでしょう。総取り方式だからこそ州という枠組みの重要性が浮かび上がる面もあります。

近年、保守派は連邦政府の権限を縮小し、州政府に任せるべきだという主張をしています。本来、保守派の強い農村州の方が連邦政府の援助が必要なはずなのに、連邦政府の福祉を充実させるべきだということにはなかなかならないのです。
こうした農村州から選出される保守派の議員にとって、連邦の権限を削減することは歳出の削減に繋がり、州政府への権限委譲につながります。実際、その州の貧しい人々の生活がどうなるかはともかくとして、保守派としては仕事をした感じになるのです。

この州への権限委譲という流れは、例えば、人工妊娠中絶の連邦レベルでの権利を否定した2022年のドブス判決にも見られます。保守的な州では中絶を規制する方向へと動いています。
一方、リベラルな州では独自の環境規制を行うなど、州ごとによる政策の違いは強まる傾向にあります。

第4章は裁判所についてです。トランプは従来の保守派からすると必ずしも好ましい人物ではありませんでしたが、ゴーサッチ、カバノー、バレットという3名の保守派判事を連邦最高裁に送り込んだことで十分にその期待に応えたと言えます。これによって連邦最高裁での保守派の優位はしばらく続くことになります
アメリカの連邦最高裁の裁判官の任期は終身であり、在任期間は平均15年、30年以上務めた人物もおり、大統領よりも遥かに長い期間影響力を行使できるのです。
現在の構成は保守派6人、リベラル派3人となっており、この保守派優位の構成はしばらく変わりそうにはありません。

ただし、公民権に関するブラウン判決を書いたのがアイゼンハワーが任命したアール・ウォーレンであり、人工妊娠中絶を認めたロー判決を書いたのがニクソンの任命したブラックマンであり、同性婚の権利を認めたオバーゲフェル判決を書いたのがレーガンの任命したケネディであったように、保守的な大統領が指名した判事が保守的な信条を貫くとは限りません。
判事たちも国民からの支持を重視しており、国民世論を見ながら判断を変えていると考えられます。
また判事個人も戦略的に動くことがあり、今までは保守寄りの中道だったケネディがキャスティングボードを握っていましたが、ケネディ引退後は首席判事の保守派のロバーツが穏健な判断を示すようになったといいます。
ただし、ギンズバーグが引退し、バレットが後任になると、ロバーツがどのような判断をしても保守派が勝つことになり、ロバーツの判断も保守寄りに戻ったとも言われます。

第5章は「選挙・世論・メディア」ですが、まずは中間選挙の話から始まっています。
中間選挙は「大統領に対する中間評価」などと言われますが、ここ最近は大統領側の政党が負けることが多いです。これは大統領選と同時に行われる選挙では、大統領の人気が投票率を押し上げますが、大統領のいない選挙ではこうした押し上げがなくなるからです。
アメリカ建国の父たちは政治家が世論に動かされすぎないようにさまざまな工夫をしましたが、やはり大統領にとっても世論の支持は重要です。
アメリカの大統領は日本の首相に比べて世論についての慎重な考慮を行うことが可能だといいます。日本の首相は国会での答弁を求められますし、ぶら下がりと呼ばれる取材にも応じなければなりません。
一方、アメリカの大統領は議会で答弁することはないですし、日常的な記者会見は報道官がこなします。スピーチライターなどもついており、日本の首相よりも戦略的に発言できるのです。

以前はテレビの以下に利用するかが世論対策の大きなポイントでしたが、アメリカのテレビは多チャンネル化が進み、それとともにオピニオン番組と呼ばれる党派的な番組が増えています。また、SNSの普及によって支持者にしかメッセージが届きにくくなっています。
今までの大統領は全国民に向けてメッセージを送っていましたが、トランプは基本的には自らの支持者のみを対象とするようなメッセージ(フェイクニュースの拡散なども含む)を送っています。

第6章は政党と利益集団です。
アメリカの政党はやや特殊で、党首もいませんし、党議拘束もありません(岡山裕『アメリカの政党政治』(中公新書)に詳しい)。大統領候補も各議員の候補も予備選挙によって選ばれており、そのため共和党主流派が嫌っていたトランプが2016年の大統領選の候補者になり得たのです。
しかし、だからといって大統領が政党を無視して行動するのも難しいです。三権分立のアメリカにおいて政党こそがそれぞれの機関(特に大統領と議会)を繋ぐ役割をするからです。
また、近年では分極化の影響もあるのか、所属議員が党の方針に従って投票する傾向は上院・下院とも強まっています(164pのグラフ参照)。

共和党が「保守」、民主党が「リベラル」という性格は変わっていませんが、トランプ以降にやや変化が見られるのが共和党=「金持ちの政党」、民主党=「労働者の政党」というイメージです。白人労働者層がトランプ支持者として共和党に流れ込んだため、バイデンは民主党こそが「労働者の政党」だというアピールを行っています。

アメリカの政治に大きな影響力を持つのがロビイストです。あまり良くないイメージのあるロビイストですが、ロビイストは各業界の専門家であり、ここから有益な情報を得ることもできます。
ロビイストは政治家に情報を提供するだけでなく、場合によっては法案づくりに携わり、議会対策にも奔走します。オバマ政権でCIA長官、国防長官を務めたレオン・パネッタももとはロビイストでした。
ロビーといえばイスラエル・ロビーの存在が有名です。米国イスラエル公共問題委員会(AIPAC)という団体があり、全米トップ25の団体の中で外交政策にはたらきかけている唯一の団体です。
このAIPACの力を知らしめたのが長年乗員の外交委員長を務めていたチャールズ・パーシーを落選させたことです。パーシーは基本的にAIPACと協調していましたが、いくつかの争点でAIPACの意向に従わなかったために、パーシーはAIPACから追い落としキャンペーンを仕掛けられました。
イスラエル・ロビーはキリスト教の福音派とも協調しており、また、他の議員が自分の再選に役立ちそうな委員会に所属したがるのに対してユダヤ系の議員は外交委員会を希望するということもあり、イスラエル・ロビーはアメリカ外交において大きな影響力を持っています。

大統領が大きな権限をもっている外交・安全保障政策についてとり上げているのが第7章です。
これらの分野については、議員の多くが強い関心を示さない一方で、大きな成果を上げればそれが大統領のレガシーになります。一方で、失敗した場合は大統領一人がその責任をかぶることにもなりかねません。

近年ではトランプだけでなく、左派も国内政策を重視し、全体的に「内向き」になっています。バイデン政権が掲げたのが「中間層外交」でしたが、基本的にはアメリカ国民の利益にならないことはしないというものです。
自由貿易に対しても、共和党、民主党双方から疑問を呈する声が上がっており、アメリカが自由貿易の旗振り役となる状況ではありません。
また、国連をはじめとする国際機関の多くは第2次大戦後にアメリカのリーダーシップでつくられましたが、現在はアメリカ自身がそれに背を向けるようになっています。今後の大統領の政策によっては国際機関が空洞化していくおそれもあります。

最後の第8章は「偉大な大統領とは?」と題されています。
1948年以来、さまざまなメディアで歴代の大統領のランキングがつくられてきました。上位に並ぶのは、リンカン、ワシントン、F・ローズヴェルトといった不動の面々ですが、時代とともに順位を変えてきた大統領もいます。
アイゼンハワーは近年になって順位を上げていますし、ジャクソンやウィルソンは下がっています。ジャクソンは先住民に対する政策が、ウィルソンは黒人への人種差別的態度が問題視されるようになりました。
アメリカの統治機構に対する国民の信頼度は、9.11テロ後に上昇したのを除くと、基本的には低下傾向です。そんな中で大統領と連邦議会の支持率を見ると、大統領が議会を一貫して上回っています(232pのグラフ参照)。
特に連邦議会への支持率は10〜20%台と著しく低いのですが、それでも多くの議員は再選されています。これにはゲリマンダリングなどの現職が有利になる仕組みが働いているのですが、だからこそ大統領に期待が集まるという現状もあります。
ただし、現在の分極化が進んだ状況では、多くの国民の期待に答える大統領というのもまた難しいのです。

このように本書はアメリカの大統領がいかなる存在なのかを説明しながら、同時にアメリカの政治についてもわかり易く解説しています。
著者には同じようにアメリカ政治を解説したものとして西山隆行『アメリカ政治講義』(ちくま新書)がありますが、「大統領」という切り口がある分、こちらのほうが頭に入りやすいかもしれません。
目前に迫った大統領選挙を楽しむため、あるいは新大統領が何をどこまでできるのか? という問題を考える上で手元においておくと便利な本です。


共著の『言語の本質』(中公新書)が話題になった著者による、現代の初等・中等教育の抱える問題に切り込んだ本。
「なぜ子どもたちは分数の問題が苦手なのか?」、「なぜ時間の単位がわからないのか?」といった問題に対し認知科学の視点から迫っていきます。『言語の本質』にも出てきた記号接地問題も登場し、後半ではAIについての考察も行われています。
また、「学力喪失」というセンセーショナルなタイトルになっていますが、現状を嘆くのではなく、「どうやったらできるようになるのか?」という問題にも取り組んでおり、危機を煽るだけの本とは一味違います。
教育関係者だけではなく、親が読んでも「なるほど」と思え、なおかつ子どもを学習の躓きから助けるヒントを得られるような内容です。

目次は以下の通り。
はじめに
第I部 算数ができない、読解ができないという現状から
第1章 小学生と中学生は算数文章題をどう解いているか
第2章 大人たちの誤った認識
第3章 学びの躓きの原因を診断するためのテスト
第II部 学力困難の原因を解明する
第4章 数につまずく
第5章 読解につまずく
第6章思考につまずく
第III部 学ぶ力と意欲の回復への道筋
第7章学校で育てなければならない力――記号接地と学ぶ意欲
第8章 記号接地を助けるプレイフル・ラーニング
終章 生成AIの時代の子どもの学びと教育

小中学生が苦手な問題として算数の文章題があります。本書の3‐4pには、小中学生が間違えるいくつかの文章題が紹介されています。
例えば次のようなものです。

子どもが14人、1れつにならんでいます。ことねさんの前に7人います。ことねさんの後ろには、何人いますか。

この問題、3年生の正答率が28.1%、4年生が53.4%、5年生が72.3%です。
どう間違うかというと、「14−7=7、答えは7人」というもので、ことねさんの存在が忘れられています。文章に14人、7人という数字が出てきたので、それを使って計算するものだと思い込んでいるのです。

次の5年生用の問題も正答率は37.6%です。

250g入りのお菓子が、30%増量して売られているそうです。お菓子の量は、何gになりますか?

×ばつ0.3をしたものの、増量となっているに量が減るのはおかしいから10倍にして750g×ばつ1.3だということはわからないのです。
この他、1時間は60分だとわかっているはずなのに、いざ計算するとなると1時間を100分で計算したりしています。

こうした問題ができないという現象は、ある程度は学年が進むにつれて解消されているのですが、中学生なっても「3割引」の意味や、単位の揃え方などがわからないままでいる生徒もかなりの割合でいます。
彼らは文章題で登場する数字を、その意味を考えずに、適当に当てはめて式をつくっているのです。

計算力が足りないならばドリルなどをやればいいのかもしれませんが、この「意味の不理解」という問題は、ドリルをいくら解いても解消できるものではありません。
学力については文科省が「全国学力テスト」をやっていますが、これは本当に「学力」というものを測っているのか? というのが著者の疑問です。
学力テストではさまざまな工夫もされていますが、結局は「正しい解き方」を教えればなんとかなるという結論になります。しかし、著者はそれ以前の部分で子どもたちは躓いており、そのそれ以前の部分、「学び手が創り上げていく」「生きた知識」をあるかどうかが重要だと考えます。

テストというと記憶力勝負のようなイメージがあるかもしれませんが、記憶力選手権で求められるのは、短期間に大量の情報を詰め込む力と、次の備えて速やかにそれを忘れる力だといいます。つまり、ここでは情報が知識になる前に消してしまうことがポイントになります。
一方、生きるうえで必要なのは、情報を覚えるだけではなく、それを他の場面でも生かせる知識にしていくことです。

一流のプロ棋士は盤面を見ただけですぐにその盤面を覚えて再現できるといいます。これは1つ1つの駒の位置を覚えているのではなく、その盤面の「意味」がわかっているからできると考えられます。
こうした学習者が暗黙のうちに持っている知識をスキーマといいます。私たちが少しイレギュラーであっても母国語の文章を簡単に理解できるのは、このスキーマがあるからです。
ただし、このスキーマはいつも正しいわけではなく、間違っていることもあります。また、日本語についてのスキーマが英語を学習するときの妨げになることも考えられます。

著者は算数の文章題ができない子どもは誤ったスキーマをもっており、それが修正できていないのではないかと考えています。分数や単位に関するスキーマが間違っている、あるいはあやふやなために、ちょっと訊き方を変えると間違ってしまうのです。

こうした学習の躓きを明らかにするために著者たちが開発したのが「たつじんテスト」というものです。
たつじんテストは知能テストともPISAテストとも違ったものとして設計されています。
知能テストは情報の短期の記憶やその操作能力などの認知能力を測るもので、「純粋な思考力」を取り出そうとしたものですが、既存の知識を活用して新しい知識を習得する学校の学習とは違います。
一方、PISAテストはかなり複雑で小学生低学年には困難ですし、さまざまな分野のスキーマを求められるためにどこで躓いているのかを割り出すことも難しいです。

たつじんテストの問題として両端に0と100の数字が振ってある直線に指定された数の位置を書き込めというものがあります。例えば、「23」ならその位置を推定して書き込むというものです。
たつじんテストではこの位置を厳密に測って採点するようなことはせず、子どもたちの考え方を見ていきます。
すると、0から目盛りを23個書いて23を示そうとする子どももいますし(23個も目盛りを書くので右にずれる)、まずは半分あたりに50と書き込んで、さらにその半分といったように既存の知識をうまく使っていく子どももいます。
こうして見えてくるのが「数」というもののの抽象的な難しさです。
先ほどの問題で、23を示すのに定規で23ミリ測ったという子どももいたといいます。そうした子どもにとって、ある直線を0〜100とした場合の23というような抽象的なものはなかなか捉えがたいわけです。

特に子どもにとって難しいのが分数です。
例えば、1/2という数は一体どんな大きさなのか? 10mの1/2とは何なのか? といったことが理解できていない子どもは多いといいます。
例えば、2/5+2/5という計算はできても、2/5が0〜1の数直線のどのあたりに位置するのかわからないといった具合です。
そして、学力が低位の層では分数を数直線上で表す問題の正答率は低いです。

中学生になっても実は分数の意味を分かっていないという生徒は多いようで、1/2+1/3の答えとして「0」「1」「2」「5」のどれが近いか?という問題の正答率は47.2%しかなく、誤答では「5」が目立っています。おそらく「計算せよ」という問題であれば5/6という答えを出せる生徒はもっと多かったのではないかと思われますが、5/6がどんな数なのかということがわかってないのです。

×ばつ2をした「60」を選んだ生徒もぞれぞれ10%以上います。ちなみにこの問題は学力高位層では正答率は58.7%でした。

数字の問題の次に本書がとり上げるのが読解力の問題です。本書では読解の複雑なプロセスについても解説されていますが、ここでは子どもたちの躓きの部分に絞って紹介します。
子どもたちが算数の文章題を間違う理由として、そもそも「言葉がわかっていない」という要因があります。
例えば、「ひとしい」という言葉の意味を、「同じ」、「大きい」、「近い」という3つから選ばせたところ、2年生、3年生では正答率は30%台で、同じくらいの割合の子どもが「近い」を選んでいます。4年生になると正答率は90%台まで上がってくるので、「少し難しい言葉だった」とも言えるのですが、分数の概念は2年生から導入されています。そこでの「ひとしく分ける」という説明は理解されていない可能性が高いのです。

時間についての言葉についての理解もかなりあやふやな面があり、例えば、「1時間はなん分ですか?」という問いに現在の時刻と思われる「8:40」といった答えを書いている子どももいます。
また、正答率が低いのが「今日は3月14日です。5日前は何月何日ですか? カレンダーに◯をつけてください」という問題です。2年生で正答率は66.9%、4年生で88.7%です。
これは「前」という言葉が1つの罠になっていると考えられます。空間的には「前」は進行方向を指しますが、時間では「前」は過ぎ去った過去になります。このあたりの言葉のややこしさが正答率を押し下げているのです。
また、「時間」という言葉も曲者で、大人はよく「今何時?時間を教えて」とか「時間を見て行動するように」などといいますが、本当はこうしたケースでは「時刻」が適当です。「1時間はなん分ですか?」という問いを間違えた子どもは時刻を訊かれたのかと思ったのかもしれません。

また地図を読み解く問題では、自分と同じ視点から見ている場合と逆の視点から見ている場合で正答率が大きく違います。著者は、この視点を柔軟に切り替えられるかどうかが「読解力」にも関わっていると考えています。
例えば、「割る」という言葉は、「あるラインを下回る」という意味でも使われますし、「割り算をする」といった意味でも使われます。文章を適切に理解するには、複数の言葉の意味を柔軟にスイッチさせることができる能力が必要なのです。

こういった基礎的な力を踏まえたうえで、著者は思考力として以下の3つの力を仮説として設定しています。

1知識を拡張し、創造するアブダクション推論能力
2推論過程を制御するための認知・情報処理機能
3思考を振り返り、知識の誤りを修正するためのメタ認知能力(146p)

本書では、まず2から論じられています。
例えば、「図形を回転させるとどうなるか?」といった問題では、頭の中でシミュレーションをする必要があります。こうした能力は生まれつきのもののようにも感じますが、学力高位層の回答を見ると、目印を付けて認知的負荷を軽減したりしています(152p図6−3参照)。
複数のものの重さを比較する問題でも学力の高位層と低位層で正答率にかなりの差があり、低位層は一定以上の認知的負荷がかかると厳しくなってしまう状況がうかがえます。

また、同じ関係を取り出す問題では、例えば「りんご→くだもの」と同じ関係を取り出す必要があるわけですが、「うさぎ→どうぶつ」だけでなく、「にんじん→うさぎ」も結びつけてしまうなど、日常的な連想に引っ張られて間違っているケースもあります。
パッと思いついた連想をコントロールする能力も必要なわけです。

ここで出てくるのがカーネマンのシステム1とシステム2の考えです。
システム1は直観的な思考であり、システム2はものごとを吟味する思考ですが、人間は基本的にはシステム1で思考しており、システム2を使うには意識的になる必要があります。
たつじんテストの問題で命題Aから命題Bが言えるか? という問題があります。ここで誤答が多いのが「A:20歳まではビールを飲んではいけない」「B:20歳まではお酒を飲んではいけない」というものです。
ビールはお酒の一種であり、ビールの禁止がお酒全部を禁止することにはなりませんが、一般的な常識から「AからBも成り立つ」と判断してしまうのです。
学力高位層はこういったところでうまくシステム2が使えていると考えているから。

第7章ではアブダクション推論が紹介されていますが、最初にとり上げられているのが生成AIが実は算数の問題が苦手だというものです。
ChatGPTは「2分の1と3分の1のうち、どちらが大きいですか?」という問題を間違えています。答えの説明として「分母が小さいと分数の値は大きくなる」ということを出してくるにもかかわらず、肝心の答えは間違えています。
もっとも、これがChatGPT4になるときちんと通分して正解を導き出しています。
ただし、このChatGPT4でも「12/13-11/12の答えとして、A:0、B:-1、C:1、D:2から最も近いものを選べ」という問題を間違えています。きちんと通分して1/156という数字を出しているにもかかわらずBの-1を選んでいるのです(204-205p図7-6参照)。
これは分数という概念の意味がわかっていないからだと考えられます。

ChatGPTについては東大入試問題でも英語で8割をとりながら、数学では1点しか取れなかったといいます。生成AIは膨大な学習から次に来る文字列の予想では非常に優秀な成績を収めますが、数学的な概念の意味をわかっているわけではないのです。

一方、人間は五感を活かして知識を習得し、そこから比喩や類推を用いてさまざまな知識を生み出していきます。これがアブダクション推論です。
人間の子どもは「これはリンゴだよ」と教えられれば、「リンゴをとってきて」と言われてリンゴをとってきます。これは当たり前に思えますが、ここでも「赤くて丸い物体→リンゴ」という前提から、「リンゴ→赤くて丸い物体」という推論が行われています。
この推論は論理学的にはいつも正しいとは限らないのですが、人間はこうした不確実な推論を繰り返しながら知識を広げていくのです。

「リンゴ」、「ウサギ」といった概念は子どもの経験と地続きであり、いわゆる記号接地が容易です。一方、「果物」や「動物」になると難しくなりますし、さらに難しいのが数字の「イチ(1)」であったり、分数です。1個のリンゴや1羽のウサギを示すことはできますが、「イチ(1)」だけを取り出して示すことはできないからです。

それでも子どもは過剰な一般化など試行錯誤しながら、自分で手がかりを見つけ、洞察を得て、学習を加速させていきます。これを発達心理学ではブートストラッピングといいます。
こうした中で、子どもたちは次第にスキーマを獲得し、抽象的な思考ができるようになり、メタ認知能力も育てていきます。
子どもたちは間違いながら成長します。ただし、その間違いを大人が訂正すれば正しいスキーマを身につけるわけではありません。子どもが自分の力でスキーマを構築できるかどうかが重要なのです。

では、どうしたら「いきた知識」や正しいスキーマ、あるいは間違ったスキーマを修正する能力を獲得するのができるのでしょうか?
著者が提案するのが遊びの中でそういった能力を身につけようとするプレイフル・ラーニングです。
詳しくは本書の第8章を読んでほしいのですが、時間の単位の習得、分数を含めた数の大小などを遊びの中で実感できるようなゲームが紹介されています、こうやって子どもの現実と接地した知識を身につけようというのです。

終章では生成AIの問題についても論じています。
ここまでの議論からもわかるように著者は生成AIが人間と同じような思考力を身につけるようになることに対しては懐疑的です。
認知科学者のアリソン・ゴプニックは人間の乳幼児が行うことについて「世界を自分の身体で探索すること」(292p)だと述べています。人間の子どもは自らの身体を使って物事の仕組みを発見していきますが、身体のない生成AIにこれはできません。

しかし、知識の注入だけを目的とした教育では、「生きた知識」は身につきませんし、こうした分野では人間は生成AIには勝てません。その上で著者は次のように述べています。

AIを使いこなす人間と使えない人間の分断を心配する人は多い。しかし、筆者は、AIの時代に、自らを世界に接地させ、概念を抽象化して、記号設置できる人と、それをAIに任せてしまう人との間の分断のほうがもっと心配だ。(301p)

このように本書は子どもの「学力」について、その中身を探り、それを向上させる道を探り、さらには生成AIの問題までとり上げるという読み応え十分の構成になっています。
しかも、それでいて難解になりすぎることもなく、例えば、「我が子の勉強のできない理由が知りたい」といった保護者が読んでもいろいろと思い当たることが出てきそうな内容になっています。
大きな理論から小さなヒントまで教えてくれる本です。
同じちくま新書から出た『氏名の誕生』が非常に面白かった著者による女性の氏名の歴史を辿った本。読む前は『氏名の誕生』の補遺、B面のようなものかと思っていましたけど、予想以上に盛りだくさんの内容で読み応え十分です。
まず、女性の氏名で議論になっているのが夫婦別姓で、「夫婦同姓は昔からの伝統」と「北条政子に見られるように昔は別姓」という意見が戦わされてきたわけですが、本書によればそもそも女性に名字はないというのです。
これだけでも読みたくなりますが、さらに本書は江戸時代の「お〇〇」(おきく)から明治以降の「〇〇子」(菊子)への変化、識字率の向上する前の名前に対する認識、戦後の国語改革やワープロ、パソコンの普及によって一つの文字にさまざまな字形が存在するという常識が失われ、字形にまで一種のアイデンティティを求める人が出てきた状況など、さまざまなトピックがとり上げられています。
『氏名の誕生』につづき、私たちの名前に関する常識を大きく揺さぶってくれる刺激的な本です。

目次は以下の通り。
プロローグ―愛着の始まりを探して
第1章 江戸時代の女性名
第2章 識字と文字の迷宮
第3章 名付け・改名・通り名
第4章 人名の構造と修飾
第5章 明治の「氏」をどう扱うか?
第6章 「お」と「子」の盛衰
第7章 字形への執着
第8章 氏名の現代史
エピローグ―去る者は日に以て疎く...

「りん、れん、みく、みゆ、りさ、りな、りの、ちの、さな、もえ」、本書の第1章はこのような名前の羅列から始まっていますが、これはすべて江戸時代の女性の名前です。ただし、実際に呼ばれるときは「おりん」「おれん」のように「お」がつきます。
江戸時代の女性の名前のスタンダードは平仮名2字、あるいは3字で表記される二音節で(3字で二音節はりやう(リョウ)、じゆん(ジュン)など)、江戸後期になると、ほぼ100%がこの二音節の名前です。そして、この二音節の名前の頭に「お」をつけて呼ぶのです。

この「お」は自らの妻や娘などに対しても付きますが、たまに外れることもあります。
手紙や証文などで女性が差出人になる場合、「おりん」が「りん」となるなど、「お」が外れるときがあります。一方、宛名の女性には「おせい殿」など「殿」がつきます。自ら名乗るときも「お」が外れるときがあります。
また、主人が自らの家の下女を呼ぶときは「お」がとれます(例外もあり)。ただし、他家の下女には「お」が付きます。
他にも公儀が裁判の判決を申し渡すとき、どんな身分の女性でも「お」がつきません。ただし、宗門人別帳だと「おいし」などの「お」付きの表記も見られます。

女性の頭につく「お」は丁寧さを表す「接頭語」という性格もありますが、「おやつ」や「おかず」のようにほぼ一体の語としても受け取られていたのです。
この「お」の来歴についてはわからないことが多いのですが、「金さん」なら男、「お金さん」なら女というように性別を知らせる役割も果たしていました。

この「お」に二音節の名前がつくわけですが、この二音節がかなり自由で、「ゑろ、のよ、もゆ、ゆわ」などまったく意味が想像できないものも多いといいます。
この名前には地域ごとの特色もあり、越前では「ちの」が多く見られるが、他に国ではそうでもないといった具合です。

また、三音節の名前も全国的には珍しいものの地域によってはかなり多いところもみられます。三音節になると、冒頭に「小」がつくか(小いそ)、最後に「の」(あさの)「へ」(きくへ)がつくものがよく見られる形です。
ちなみに三音節になると「お」はつきません。「きくへ」は「おきくへ」にはならないわけです。

ただし、江戸時代の女性の名前には今とは違った不確定性もあります。それは当時の農村の女性のかなりの割合が字が書けなかったことです。
5明治10年に滋賀県で行われた自署率の調査によると、男性は旧近江の国ではすべての郡で80%を超えていますが、女性は14〜64%とかなりばらつきがあります(58p図表2−1参照)。
当時は村請制に見られるように、領主と百姓の間には村が入っており、個人が自署しなければならないようなケースは稀でした。さらに個人は家を通じて把握されていたため、女性が自署する機会はかなり少なかったと考えられます。

ですから、宗門人別帳に記載された名前は本人が書いたものではなく、村役人が音声を聞き取って書き取ったものです。そのため、同一人物でも「ない」「なひ」「なゐ」などの表記揺れが見られます。
そもそも江戸時代は公儀の触れ書きですら表記揺れには無頓着で、「故」を「ゆゑ」とも「ゆへ」とも書いていたような状況でした。
ある地域では「きへ、すへ」など「へ」で書かれるが、別の地域では「きゑ、すゑ」と書かれるといったこともあります。

江戸時代の男性の場合、幼名があり、さらに当主の身分を継承して名前も継ぐ名跡の襲名慣行もあり、生涯のうちに改名を経験するのが普通でした。
これに対して女性には幼名が基本的にはなく(地域によってはそれらしきものがある)、生涯名前の変わらない人も多くいました。
それでも結婚に際して名前の相性占いなどを理由に改名したり、高齢女性が家業から引退する際に法名(「妙」の字がつくケースが多い)を名乗るケースもありました。
また、奉公に出る際に改名するケースもあります。なかには代々下女に「りん」という名で奉公させている商家もありました。本名が「ゆき」でも「りん」と改名させているわけです。しかも、この名は公的な名でもあり、宗門人別帳にも「りん」で登録されています。
現代の感覚からするとなんだかひどい話にも思えますが、江戸時代は身分の移動とともに名前が変わるには当然でした。天保4年、備後屋安治郎の下女「けん」は安治郎の女房となって「ゑん」と改名しました。翌年、新たな下女が雇わましたがこの名前も「けん」なのです。自分の昔の名前で下女が呼ばれることに今だったら違和感を感じそうですが、江戸時代はそうではないのです。

遊女屋、あるいは朝廷、公家、武家の奥向きに奉公する場合、いわゆる源氏名が与えられます。源氏名とは、桐壷、帚木、空蝉、夕顔、若紫といった源氏物語の巻名にちなむものですが、江戸時代には千歳、真砂など語感や字面が類似した語なども源氏名として使われていました。
現在でも水商売をするときに付ける名前を源氏名といいますが、江戸時代は本名も源氏名に改名される形になります(公式の書類でも源氏名が使われる)。

吉原の遊女屋や大奥には名跡というべき名前があり、代々名前が受け継がれていました。
大奥では最高位の上臈御年寄は堂上公家の娘で、常磐井、飛鳥井、姉小路、花園などを通り名としましたが、これは生まれの家とは関係なく、公家の橋本家出身の女性が姉小路と名乗ったりしていました。
滝山なども大奥の「役人」と呼ばれる奥女中が代々使ってきた名前になります。

江戸時代の男性名はかなり複雑です。「鬼平」こと長谷川平蔵は、長谷川という苗字、平蔵という通称の他に藤原という氏、朝臣という姓、宣以という名乗(なのり)を持っていました。
長谷川・平蔵・藤原・朝臣・宣以という名前の構成要素があるわけですが、長谷川宣以、藤原平蔵という形では使用されないのもポイントです。

藤原などの氏は天皇の勅許・賜与する形で行われ、そう簡単には変わらないものでしたが、10〜12世紀頃になると所領や居住地などを称するケースが出てきます。
さらに12〜16世紀になると財産と仕事が一体となった「家」と呼ばれる経営体が、社会的な基礎単位となり、「三条大納言」や「大庭三郎」における「三条」や「大庭」が「家」の名称、家名として継承されるようになります。公家ではこれを称号、武家では名字(苗字)と呼びました。
中世武士の名字は「家」経営体の名前であって、父系血統を表す「姓」ではありません。住む場所が変われば名字は変わり、本家と分家で名字が異なるということも普通でした。
ただし、14世紀になると「足利」が本拠地の足利を離れても「足利」と名乗ったように、血統でつながる一族を示す「姓」としての役割も持つようになります。

庶民の苗字は14世紀頃から出現し、基本的には家の名ですが、百姓の場合は擬制を含む血縁関係、地縁により連帯した同族としての機能が大きかったといいます。
18世紀以降になると、公儀に許されて苗字を公称するケースもあらわれ、身分を示すものとしても機能しました。

では、女性はどうなのか?
まず、下の名前ですが、8世紀の戸籍を見ると圧倒的に多いのが「売(め)」がつくもので、広虫売(ひろむしめ)、和子売(なごこめ)、刀良売(とらめ)などが見られます。
9世紀初頭、嵯峨天皇が娘に正子、芳子、業子などの「子」を付く名前をつけます。この名前は男の諱と同じく漢字自体の意味を意識されて選定された名で、「子」は女性名を示す符号になります。
これが貴族にも広がり、次第に漢字一字で訓読みの二音節(貞子(さだこ)、香子(たかこ))に落ち着きます。後世、訓読みがわからなくなったために定子(ていし)、威子(いし)などの音読みで読ませる慣例ができましたが、実際はすべて訓読みです。

嵯峨朝以降、女性にも童名(わらわな)がつけられるようになります。一方、「何子」という名前は、貴族社会では裳着や女官として出仕するとき、位階を得るときなどん初めて設定しました。「何子」は男性の諱のような役割を果たしたのです。そして諱はほとんど使われなかったように、「何子」という名前も形式的なものになります。

11〜13世紀にかけて、庶民の間では貴族の影響を受け、生まれ順+子という形の名前が登場します。太子(おおいこ)、姉子(あねこ)、三子(さんのこ)などです。また、童名+女の鶴若女、愛寿女といった名前も用いられ、これは女を省略した形でも使われました。
また、鶴御前、福王前(ふくおうのまえ)、徳寿殿のように、女性名の接尾語として御前、前、殿などを用いた名前も登場します。
15世紀になると、二音節+女の簡単な名前、鶴女、亀女などが多くなり、16世紀になると平仮名二音節が多くなります。そして、「お」+二音節の全盛となっていくのです。

武家の娘でも公家に嫁いだ場合などには「何子」という名前を設定しており、公家の大徳寺家(本姓藤原)に嫁いだ高松城主松平讃岐守(本姓源)の娘の墓石には、「繁姫源郁子之墓」とあります。ここでポイントになるのは、結婚しても「何子」を修飾する本姓は変わらず、繁姫という名前には苗字がつかないことです。
女性名には苗字がつかないことが常識だったのです。

公儀の書類でも、「渡辺儀助倅 渡辺定助」のように男性には必ず苗字をつけますが、女性の場合は「佐竹丸亀家家来 徒士 諏訪宇右衛門娘 きた」のように苗字はつきません。
江戸時代は、武兵衛、おみつ、などの個人名単独がフルネームであり、苗字という修飾要素をつける人間のほうが少なくなります。
苗字には「家名」と「姓」(出自・血統の表示)という要素がありますが、圧倒的に強かったのは前者で、山田何太郎が田中何右衛門の養子になれば田中何太郎になりますし、一代限りで苗字の公称を許された場合、その子には苗字がつきません。

女性については「佐藤のおせん」など家の名をつけることもありますし、手紙の最後に「赤林/幸」のように署名しているケースもありますが、その人が所属している「家」を示す目的で使われています。
越前国の宗門人別帳には、既婚女性が「妻」「後家」「母」などだけ記載されるケースも多いといいます(「りん」を「妻」と改名した貼紙がつけられているというケースもあるという)。現在の感覚からするとひどい話い思えますが、当時は「家」という経営体が大前提にあったのです。

『近世畸人伝』という伝記では、「甲斐栗子」などど記しているものもありますが、「甲斐」は居住地であって苗字ではなく、本名は「くり」であり、修辞を尊ぶ文雅の世界ではあえて「子」をつけているのです。
また、文雅人の名簿では名前をいろは順に配列するために女性にも苗字をつけています。ただ、男性の諱の部分に普段の名前を入れるなどやや苦しい体裁になっています(「松井梅子」の諱に「名梅(なはうめ)」と普通の名前が入っている)。

しかし、こうした江戸時代までの名前は明治になって大きく揺さぶられます
明治3年9月19日、新政府は「自今平民苗氏被差許候事」という平民の苗字の公称を許可する布告を出します、これによって身分の標識としての苗字の役割が消えました。
戸籍の作成も始まり、女性に関しても「女房」「後家」といった記述が消え、それぞれの名前を記すようになります。

この戸籍における苗字の表記についてはだいたい3つのパターンがあります。
1は全員に苗字をつけない書式です。しかし、これは次第に消えていきます。2は戸主のみに苗字をつけ、他はつけない書式です。3は男だけにいちいち苗字をつけ、女にはつけない書式です。
3もかなり一般的な書式であり、やはり女の名には苗字をつけないという感覚があったことがわかります。
女であっても戸主になるケースもありましたが、女戸主には「高倉惣右エ門亡 後家 しほ」といった書き方もあります。「高倉しほ」という書き方には違和感があったようです。

新政府の「復古」政策は、「大久保一蔵」のような「名前」ではなく、「藤原朝臣利通」のような「姓名」を正式な名前として復活させようとしました。しかし、このような現実を無視した考えはうまくいかず、「大久保利通」という「苗字+実名(名乗)」という新たな人名方式を生み出しました。
しかし、私用では「一蔵」、公用では「利通」と使い分けるようなケースも出たため、新政府はどちらか1つに選択するように布告を出します。こうして近代の「氏名」が誕生するのです。
ここで問題となったのが女性の苗字の扱いです。とりあえず女性にも苗字をつけるとして、それをどのように扱うが問題になりました。
明治7年に内務卿だった伊藤博文は女性の苗字について、太政大臣の三条実美に対して次のようなお伺いを提出しています。
まず、養女は生まれではなく養家の姓氏を名乗る、妻は婚姻後も実家の姓氏を名乗る、女戸主、つまり後家が当主となった場合は亡父の姓氏を名乗る、というものです。つまり、「里見花」という女性が大内家に嫁いだ場合、結婚しても「里見花」だが、もし家の当主となれば「大内花」となるというものです。
伊藤によれば中国の「姓」の理屈ではこうなるが、日本でもこれでよいのか? というものでした。

これに対して、政府は結婚後に実家の姓を名乗る慣習は日本にもあったが、現在は「家」が基礎単位となるので妻も夫の姓氏を名乗るべきだと命ずる案がつくられます。
ところが、この案は横槍が入って廃案になりました。古代の姓氏は生まれを重視していたとして、「復古派」は夫婦別姓があるべき姿だと主張しました。
この議論は明治8年2月の苗字強制令のあとも蒸し返されますが(徴兵事務などで苗字のない者が問題になった)、「復古派」の抵抗があり、最終的には民法の施行まで持ち越しとなります。

一方、現場ではさまざまな記載が混在していました。種痘名簿をみると、男だけに苗字をつけたもの、男女に苗字をつけたもの、戸主のみにつけたものがあり、「藤田嘉蔵妻 太田はる」といったものも見られます。おそらく太田は生まれの苗字です。
民法の施行が民法典論争の影響で遅れたこともあって、妻は夫の苗字を名乗るという方針が確立するのは実はけっこうな時間がかかりました。

第5章では明治以降の女性の名前の変遷が述べられていますが、「お」が消えて「子」が広がった部分だけを紹介します。
江戸時代の主流は「お〇〇」ですが、明治中期になると上流家庭の間で、接頭辞の「お」を省略して接尾辞の「子」をつけて名前を呼ぶ動きが起こります。「とみ」という女性がいたとして、「おとみ」ではなく「とみ子」と呼ぶのです。庶民女性と区別するために出てきたものだと考えられます。

これが庶民にも広がっていくわけですが、ここで問題になるのは「子」は本名の一部なのか、接尾辞なのかという問題です。
明治31年に戸籍法が改正されると、司法省の戸籍担任の中野重春らは現場の戸籍吏のために『実地問題 戸籍法問答集成』を刊行していますが、そこでは「お」や「子」は名前の一部とは言えないから登録する必要ないと述べています。
つまり、「おきく」や「きく子」という名前の届け出があっても「きく」で登録すべきだという考えです。

しかし、この注意喚起は遅かったようで、現場では続々と「子」の付く名前が登録されていました。
文学作品を見ても、明治までは「お」と「子」は入り混じっており、泉鏡花の『婦系図』では、地の文でも「妙子」「お妙」が混在していますが、大正時代になるとこうした地の文での混在はなくなってきます(ただし、真砂子が台詞では「真砂」と自称し、家族からも「真砂」と呼ばれたりしている(柳川春葉『生さぬなか』)。

また、ややこしいことに他人が符号や敬称としてつける「子」も残り続け、「ハル」や「千代」といった二音節の名前に一律に「子」をつける名簿なども昭和初期頃まで見られます。
この「子」は「静枝」「菊栄」などの三音節の名前にはつけられておらず、まさに「お」の代わりとして用いられていました。

第7章と第8章でクローズアップされるのは名前と「字」の問題です。
江戸時代は識字率も低く、名前は音で認識されており、表記揺れも当たり前でした。「たへ」でも「たゑ」でも「妙」でも本人が字を認識していなければ気にならないわけです。
また、字を習った人も最初に習うのはくずし字でした。

ところが、明治になると新政府は楷書体とカタカナを使ったスタイルで布告を出すようになります。そして、活字も使われるようになりました。
義務教育の普及とともに識字率も上がり、女性の名前も明治17〜21年頃に生まれた女性の9割が仮名表記でしたが、大正3〜7年頃に仮名と漢字が半々になり、昭和4〜7年頃には漢字表記が7割弱になります。

仮名の表記や漢字の字体にも「正しい」とされるものが決められていきます。「蝶」は「ちやふ」ではなく「てふ」が正しいとされ、仮名の字形も統一されます。
役所でも書類を書く際に「署名一定主義」を求めるようになりました。例えば、今まで「山田きく」という人物は、「菊」と書いても「キク」と書いてもいいという形で運用されていたのですが、戸籍名と同じ「きく」で書くことが求められるようになったのです。
さらに明治末期から大正にかけて姓名判断が流行すると、字画が意識されるようになり、自分の名前をどのように書くかということへのこだわりが強くなります。
名前は「音」重視から「字」重視へと変化していったのです。

終戦後、国語についての改革が行われ、公用文には平仮名を主とした口語体が用いられることになり、1946年11月には「当用漢字表」が公布されます。この当用漢字表以外の漢字のことは「表外字」と呼ばれるようになりました。
この漢字の制限は名前にも及びました。新たな戸籍法では「子の何は、常用平易な文字を用いなければならない」と定めらます。
ただし、当用漢字表には「藤、綾、乃、吾、彦、輔、寅、稔」などが入っておらず、国民から不満が出ます。このころには「だいすけ」なら「大助」でも「大輔」でもよいとはならず、「大輔」でなくてはという感覚が国民の間に定着したのです。
そこで昭和26年には右の漢字を含む「人名用漢字別表」が公布され、人名に限って使用できる漢字が当用漢字とは別枠で追加されました。
一方、苗字に使われる漢字については制限は行われず、「渡辺」の「邉」「邊」は残ります。平成になって戸籍のコンピュータ化を見据えて「夛田」の「夛」などの俗字を改め「多田」とするなどの整理が行われようとしますが、これも国民の反発で挫折しました。
活字ができ、戸籍名通りの正しい名前を書かなければならないという規則ができ、ワープロやパソコンが難しい漢字も表示するようになると、国民は自分の氏名の漢字にこだわり、その「正しさ」を主張するようになるのです。
明治の頃は「島田」でも「嶋田」でも「嶌田」でもよかったはずなのですが、これらは違う文字として認識されるようになります。
「遙」「遥」といった字形の異なる同一の字種も、それぞれ別の人名用漢字としてカウントされるようになり、人々はその違いにこだわるようになったのです。

子どもの名前に関しても個性を求める動きが強まります。
明治安田生命の調べによると令和4年の女子の名前ランキングの2位は「つむぎ」だそうですが、表記としては「紬」だけではなく「紬葵」「紬希」「紬生」「紡衣」などいろいろな表記があります。逆に「心愛」という名前もココア、ココミ、ココナ、ミア、ココロなどさまざまな呼ばせ方があり、子どもの名前に個性を持たせたいという親の思いが現れているとも言えます。
しかし、「読めない」名前の増加もあり、令和7年から戸籍にふりがなをつけることとし、あまりにかけ離れた読みに関しては規制をする意向を打ち出しています。
長々とまとめを書いてきましたが、本書には他にももっと細かい女性の名前のトレンドの話や、実印をめぐる話など興味深い話がたくさん載っています。本書の内容を2冊に分けて刊行してもいけたのではないかと思われる充実ぶりです(「女性の氏名」の話と「名前と漢字」の話に分けてもそれぞれが1冊になったと思う)。
冒頭にも書きましたが、いわゆる夫婦別姓をめぐる議論の前提をひっくり返してくれますし、また、最後の置かれた漢字の字形の問題なども含めて全体を通して非常に刺激的な議論が行われています。
西郷隆盛の弟として知られている西郷従道、明治政府をつくって支えた元老の一人ですが、彼が具体的に何をしたのかというとよくわからないという人も多いと思います。受験の日本史でもそれほど覚えなくてもいいという扱いになっているでしょう。
本書は、そんな西郷従道が何をしたのかということを教えてくれる本です。「なぜ明治6年の政変で隆盛といっしょに下野しなかったのか?」「薩閥の中心人物でありながらなぜ首相にならなかったのか?」といった疑問にも答えてくれます。
もともと史料が少なく、兄の隆盛同様捉えどころが難しい人物でもあるのですが、本書を読むことで従道の人物像と、彼に何が期待されていたのかが見えてくると思います。

目次は以下の通り。
第1章 幼少期から陸軍官僚への道程
第2章 西南戦争と兄・隆盛の死
第3章 日本海軍建設と日清戦争
第4章 政治家としての軌跡―宰相待望論と兄の「罪」
第5章 晩年と私生活
終章 「道」に従って

西郷従道は西郷家の長男・隆盛、次男・吉次郎につづく三男として1843年に生まれています。
幼名は竜助、本名を隆興といい、すぐに出家して竜庵となりますが、還俗して信吾と名乗っています。「従道」という名に関しては1871年に太政官に名前を届けるときに薩摩訛で「りゅうこう」といったところ、「じゅうどう」と聞き間違えられたからだと言われています。
なお、公文書では「つぐみち」を名乗っていますが、自らは「じゅうどう」と名乗っており、子どもも「従理(じゅうり)」、「従徳(じゅうとく)」と名付けられています。

両親は信吾が9歳のときに亡くなっており、隆盛が父代わりとなっています。家は貧しく、見かねた有村俊斎が茶坊主に推薦してくれ、藩主のもとで茶を点てながら薙刀や剣術を学びました。出家したのはこのためです。
幕末の動乱の中で、信吾は不在の隆盛に代わって大久保利通に師事し、薩英戦争にも参加しています。禁門の変では足を負傷しており、鳥羽・伏見の戦いでも右耳に貫通銃創を負って一時危篤となっています。

1869年、信吾は山県有朋とともに欧州情勢、特に軍事情勢の視察を命じられます。
山県は主にプロシアに、信吾は主にフランスに滞在して軍事を中心に視察しました。70年7月に2人はアメリカを経由して帰国しましたが、ちょうど普仏戦争が勃発し、山県と信吾はどちらが勝つかを議論したといいます。それぞれの滞在地に勝利を主張しましたが、結果は山県が滞在したプロシアの勝利でした。兄の問題もありますが、ここでこの後の陸軍の主流になるチャンスを逃していると言えるのかもしれません。

帰国すると、信吾は兄の隆盛を政府に復帰させるために薩摩へと帰り、そこで兄が用意してくれた縁談を受けています。相手は薩摩藩祐筆得能良介の長女の清子でした。
信吾はフランスで警察制度についても学んできており、隆盛が推薦した川路利良を大警視として警察制度が発足されることになります。また、鉄道については外国に依存するのではなく、国内の事業としてこれを敷設すべきだと主張しました。
この頃から大久保や木戸の日記には「信吾」に代わって「小西郷」が用いられるようになっており、本書でもここからは「従道」表記に切り替えています。

1872年に兵部省が改組され陸軍省と海軍省に分離すると、山県が陸軍大輔、従道が陸軍少輔、川村純義が海軍少輔に就任します。
この後、山県は汚職事件に絡んで職を辞しますが、隆盛が従道に補佐させるからと山県を説得し、山県が陸軍卿として陸軍に復帰し、従道は陸軍大輔となりました。

1873年、いわゆる征韓論争が持ち上がり、隆盛を朝鮮への使節として差し向けるかどうかで政府が割れ、隆盛、板垣退助、副島種臣、江藤新平、後藤象二郎らが政府を去ります。さらに軍の内部でも薩摩・土佐出身者が続々と辞表を出しました。
このとき従道は兄に従いませんでした。この理由として、後に山本権兵衛に対して、自分は洋行して内政を固めなければいけないと理解しており、隆盛が朝鮮に行くことを阻止することは正しいことだと思っていたこと、なんとか隆盛を単独で下野させようとしたこと、「自分自身が下野しなかったのは、隆盛と最も縁の深い者まで去っては、「陛下」に対する「忠誠」を欠く恐れがることを痛感したため」(24p)と述べています。
この従道の行動については隆盛も理解しており、妻には兄に残れと言われたと言っています。

1874年、従道は兵を率いて台湾に出兵します。もともとは琉球の船員が台湾の現地住民に殺害されたことに端を発する問題です。台湾は清国にとって「化外の民」であり、清国の統治が及ばないとの理解のもとで出兵が計画されました。
従道は「台湾生蕃処置取調」を委任さて、出兵に向けた計画を練り始めます。この計画には隆盛も噛んでおり、私学校の生徒が部隊に組み入れられることになります。
しかし、米国と英国が反発したことによって計画は急遽中止の方向に動き、大久保が長崎にいた従道を止めるために派遣されます。それにもかかわらず従道は出兵を強行し、台湾に上陸して敵を潰走させました。
この件は、大久保が清に赴いて交渉し、清国が台湾出兵を日本の「義挙」として認め、清国が賠償金を払うという形で妥結します。大久保は台湾に向かい従道を説得しようとしますが、従道は撤退をあっさりと受け入れました。マラリアの蔓延で4600名余の将兵は、ほぼ「全滅」状態だったからです。
このように犠牲も出た台湾出兵ですが、帰ってきた従道を人々は祝賀しました。

1877年、西南戦争が勃発します。第一報を聞いた従道は「何とも沈痛」な様子だったといいますが、英国行使パークスに対しては兄が自ら死を選んでくれることを望んでいると述べています。
兄の死を電報で聞いた(実の後に誤報だったことがわかる)従道は「残念な事をしました。私の兄も、一度、欧羅巴に行って、世界の大勢を見ていたら、こんな奇怪な事をすることはなかったでしょうに」(56p)と言って泣いたといいます。
また、すべての官職を辞めると言って引きこもってしまいますが、大久保が説得にあたりイタリア公使に赴任することで落ち着きました。従道はこのときにもう日本には帰らないといったことも言っています。

ただし、従道は西南戦争の間、陸軍卿代理としての務めを果たしています。
従道が取り組んだのは弾薬や銃器の確保と、そのための金の工面でした。従道は清国、外国人商人、海軍(西郷軍には海軍がなかったため)などから弾薬や銃器を集めて、これを前線に送りました。
また、板垣退助の立志社をはじめとして不平士族がこれを機に立ち上がらにように監視の目を光らせました。
兄の蜂起はショックでしたが、同時に従道には今まで欧州で学んできた「兵法」が本当に役立つのかを確かめなければならないという思いもあったのです。

終戦後のイタリア行きは大久保の暗殺で取りやめとなります。大久保の死にも大きなショックを受けた従道でしたが、1878年5月に参議兼文部卿に就任、その後も陸軍卿を務めています。陸軍卿としては参謀本部の設置に向けても動きました。
明治14年の政変(1881年)では、開拓使官有物払下げ事件を三菱や大隈や福沢の陰謀だとする見方に賛成し、伊藤に同調して大隈に辞職を迫りました。

1885年の第一次伊藤内閣で従道は海軍大臣に就任します。陸軍中将としての異例の就任でしたが、これには陸軍将官から海軍拡張案を提案することで賛成を得たいとする川村純義の推薦があったといいます。伊藤もまた、従道を信頼しており陸軍と海軍を架橋する存在として期待を寄せていました。
従道は1886年7月から翌年の6月にかけて欧米を歴訪して、軍艦や軍港、士官・下士官の訓練などを視察して回りました。
そして、帰国後に海軍の拡張が進んでいくことになります。

従道は1890年に内相に転じますが、93〜98年にかけて再度海相に就きます。
海相として従道が抜擢したのが山本権兵衛でした。山本は93年に従道が海相に復帰すると薩摩閥の将官を含めた人事整理を提案してこれを実施させ、日清戦争では海軍軍務局長として活躍し、日清戦争後には山本が海相になりました。山本の後を継いで海相になる斎藤実を見出したのも従道でした。

日清戦争では山県が第1軍の司令官として、陸相だった大山巌が第2軍の司令官として出征します。その間、海相だった従道が陸相も兼任します。陸相については高島鞆之助が復帰するという案もあったそうですが、陸海軍の連携を重視し従道になったと思われます。
従道は通常の業務の他にも、大本営の置かれた広島や朝鮮での治安維持に力を入れ、占領地に憲兵を送り、また、国内の議会・世論対策にも気を配っています。天皇と軍の橋渡し役を務めたのも従道でした。

第4章では少し時間を戻して政治家としての従道のあとを追っています。
大日本帝国憲法発布のころ、いわゆる藩閥政府の中心は、伊藤博文、井上馨、山県有朋、山田顕義(以上長州)、大山巌、黒田清隆、西郷従道、松方正義(以上薩摩)の8人でした。これらの人物の間で、政治・軍事の重要ポジションが回されていくことになります。

第1次山県内閣では、それまで海相だった従道が内相に移りました。軍人だった従道が内相になったのは当時の人からも意外と受け止められましたが、内務次官に白根専一(長州)が起用され、白根が実務を担っていくことになります。薩長のバランスをとった人事でもありました。

山県内閣が退陣すると、伊藤が後継に推されることになりますが、伊藤はこれを固辞し、従道と松方を後継に推します。
しかし、従道は兄のこともあげてこれを固辞しました。明治天皇は山県内閣において西南戦争に乗じて挙兵しようとして投獄された経歴を持つ陸奥宗光の閣僚起用に難色を示したと言われ、従道もこうしたことを配慮したと思われます。

結局、松方が首相に就任し、従道は内相に留任しますが、そこで起きたのが大津事件でした。
大津事件はロシアの皇太子ニコライ2世が巡査の津田三蔵に襲撃された事件ですが、実は西郷隆盛がロシアに逃げ延びニコライ2世とともに日本に返ってくるという噂があり、西南戦争で勲章をもらっていた津田は隆盛の帰国によってそれを剥奪されることを恐れていたとの話もありました。
大津事件の処理に対して、政府が大逆罪の適用を迫ったのに対して児島惟謙が司法の独立を守ったことが知られていますが、児島に対して従道は、これで戦争が避けられなくなったと苦言を呈し、「最早裁判官の顔を見るのも忌やです」(144p)と言ったといいます。
この事件を受けて、従道は外相の青木周蔵とともに引責辞任しています。

従道の後任となった品川弥二郎内相は大規模な選挙鑑賞を行いますが、民党の勢いを止めることはできず、政府は自由党との連携を模索し始めます。
しかし、これは議会で今まで政府寄りの姿勢を見せていた大成会や中央交渉会といった温和派の反発を呼びました。
そこで中央交渉会は新たな温和派を組織すべく、職を追われた品川弥二郎や内務次官の白根専一らと新たなグループの結成へと動きます。そして、このリーダーとして期待されたのが従道でした。
従道はこうした組織の「大将」と「行政官」を兼ねることには難色を示しますが、親政府政党の必要性は感じており、これを受ける方向で動きます。

品川は社交クラブと政党の二本立てで組織をつくり、超然主義との親和性を保ちつつ、温和派の議員を網羅しようとしましたが、井上馨の反対もあり、まずは社交クラブとして国民協会を発足させました。従道と品川は枢密顧問官を辞し、これに加わります。
ただし、井上や伊藤はこれを了解せず、松方も消極的だったため、参加者は想定よりも少なくなります。中央交渉会の議員95名のうち国民協会に参加したのは70名にとどまりました。
国民協会は白根、井上毅、渡辺洪基の入閣を求めて運動しますが、河野敏鎌が内相になると、河野は白根の更迭、白根・国民協会系の知事の処分を求め、これが容れられます。入閣どころか、国民協会が政府から排除される恐れも出てきたのです。

この後、河野内相と他の閣僚の対立などもあって松方内閣は崩壊し、伊藤が再び組閣します。伊藤は国民協会を含めた全党派を排除する方針で、これによって国民協会を離脱するメンバーも現れました。
これに対して、従道と品川は全国遊説に出て支持を訴え、1892年11月には国民政社という政治結社をつくります。
全国遊説では、品川が国民協会の趣旨を述べ、従道は「宜しく頼む」くらいの挨拶をして酒席に移るのが常だったといいます(きちんと演説したこともあったにはあったとのこと)。

第四議会の閉会後の1893年3月、第2次伊藤内閣は大規模な入れ替えを行い、従道が海相に復帰します。
第四議会では政府と民党が予算を巡って対立し、天皇の「和協の詔勅」によってなんとか海軍の予算を確保した状況でした。自由党は海軍の改革を要求しており、この改革のために従道に白羽の矢が立ったのでした。
さらに明治天皇は従道の国民協会への関与を嫌がっていました。天皇の意を受けた侍従長の徳大寺実則は伊藤に対して、従道が党員に制せられて政府に抵抗しているとし、「「維新の元勲をして、兄弟倶に罪に陥らしむるが如きあらば、遺憾これに過ぐるものなし」と「思召」されている。機会を見て「脱会」させることはできないか。いまのままでは「要路に登庸するも亦難からん」というのが「叡慮」である」(161p)と。
明治天皇にこう言われては従道は国民協会を脱して政府に復帰せざるを得ませんでした。国民協会はその後も存続しますが、1899年に品川が枢密院顧問官に就任するに合わせて解散し、帝国党に改組します。

1899年、第2次山県内閣のもとで従道は内相に就任します。ここで取り組んだのが条約改正に伴う内地雑居とキリスト教の問題です。
政府は宗教法案によって仏教、キリスト教、教派神道を総合的に取り締まる事を狙いますが、仏教界の反発もあって廃案となり、治安警察法によって取り締まることになります。
この山県内閣での内相を最後に従道は閣僚から退くことになりました。

話が前後していますが、従道は第2次伊藤内閣の退陣後、隈板内閣の崩壊後に後継首相として取り沙汰されています。特に隈板内閣は従道が大隈に引導を渡す形にもなっており、憲政党が従道を首班にして組閣するという話が盛り上がりました。
晩年の従道が板垣とともに取り組んだのが社会改良運動でした。板垣と従道は全国遊説にも乗り出しますが、ここでも演説するのは板垣で、従道は挨拶程度しかしなかったといいます。
板垣はストライキの実践や家屋や衣服の改善、贈答品の廃止など封建的習慣の改革、西洋風の大衆音楽の普及、貧民の救済など、多岐にわたる主張をしています。そして、従道もこのような問題に取り組むようになったのです。
しかし、1901年の秋頃から体調を崩しがちになり、1902年の7月に59歳で亡くなっています。胃がんでした。

従道の死後にさまざまな評価がなされましたが、共通するのが薩長の調整役、あるいは陸海軍や政府の上下での調和役としての従道の存在感です。
「従道が何をしたのか?」と問われれば答えにくいかもしれませんが、本書を読むと従道が明治政府の中に果たした役割が見えてくると思います。
後半が時系列に沿っておらず、やや読んでていて話を追いにくい部分もあるのですが、史料が少なく、今まであまり論じられてこなかった人物の実態に迫った興味深い本になっています。

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