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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2025年06月

副題は「悪さ加減をどう選ぶか」。タイトルの「政治哲学講義」はやや漠然としていますが、副題からはその内容がうかがえると思います。
政治哲学といえば少し前にマイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』やその講義のTV番組がブームとなりましたが、本書もさまざまな正義の議論の限界をしてきていく流れは似ています。ただし、本書は「悪さ加減」とあるように、ある種の「悪」が避けられないという前提に立ったうえで、よりましな選択肢を探ろうとしているところに大きな特徴があります。

著者の前著『平和主義とは何か』(中公新書)に関しては、やや「平和」という理想のために無理な議論をしている部分が感じられて、個人的には物足りない部分もあったのですが、本書は理想ではなく実際にありそうな状況に寄り添い続けながら思考が展開されており面白かったです。
また、さまざまな文学作品や映画などのエピソードから議論が展開されており、このあたりも読み手を惹きつける要因となっています。
サンデルの本を面白く読んだ人にも十分に楽しめる内容になっているのではないでしょうか。また、最後の読書案内も充実しており、ここからさらに学んでいけるようになっています。

目次は以下の通り。

はじめに
正義論に残された問い 作品で読み解く
第1章 「悪さ加減の選択」――ビリー・バッドの運命
第2章 国家と個人――アンティゴネーとクレオーンの対立
第3章 多数と少数――邸宅の火事でフェヌロンを救う理由
第4章 無危害と善行――ハイジャック機を違法に撃墜する
第5章 目的と手段――サルトルと「汚れた手」の問題
第6章 自国と世界――ジェリビー夫人の望遠鏡的博愛
第7章 戦争と犠牲――ローン・サバイバーの葛藤
第8章 選択と責任――カミュが描く「正義の人びと」
終 章 政治哲学の行方
あとがき
読書・作品案内
引用・参考文献

本書の冒頭では、ドイツの暗号エニグマを解読し、工業都市コヴェントリーが爆撃されるのを知っていながらも、暗号解読をさとられないために住民に避難指示などを出さなかったウィンストン・チャーチルの話が紹介されています。
本書で指摘されているように、この話は実際にあったものではないらしいのですが、政治における「悪」の問題を考えさせる上でしばしば引き合いに出されてきました。
本書でとり上げていくエピソードも、基本的には「より大きな悪を避けるために、小さな悪を行う(見逃す)ことは許されるか?」というものです。

第1章ではメルヴィルの『ビリー・バッド』が、第2章ではソフォクレスの『アンティゴネー』がとり上げられていますが、どちらも身内または好ましい人物と社会の規範を秤にかける話です。
『ビリー・バッド』のヴィア艦長と、『アンティゴネー』のクレオーンは、どちらにも問題がある(悪い影響がある)が、どちらかを選択しなければならないというジレンマの状況に置かれ、社会秩序の維持のために近しい人を犠牲にするという決断を下します。
ヴィア艦長もクレオーンも「個人としては」ビリーやアンティゴネーを救いたい気持ちがあるものの、規範を傷つけてはならないと彼らを犠牲にする選択をします。このあたりは「政治的」な決断だとも言えます。

ヴィア艦長はビリーを処刑する決断を正しいと思って下しますが、その死については最後まで割り切れるものではなかったことが小説の中で描かれています。
クレオーンに至っては、アンティゴネーを幽閉しますが、結果としてすべてを失います。このギリシア悲劇では、共同体を守るための政治的な決断を超える神々の法のようなものが想定されており、「政治」はその前に敗れ去るのです。一方、ヘーゲルはクレオーンを擁護しており、近代的な政治の観点から言えばクレオーンは決して間違っていません。

第3章では、今は初期フェミニストであるメアリー・ウルストンクラフトの夫で『フランケンシュタイン』を書いたメアリー・シェリーの父親として有名なウィリアム・ゴドウィンの議論がとり上げられています。
彼の議論は、ルイ14世時代のフランスに実在したフェヌロン大司教を引き合いに出し、もしフェヌロン大司教の邸宅で火事が発生したら女中などよりも大司教を助けるべきで、それはたとえ女中が自分の妻や母親であってもそうすべきだというものです。
フェヌロンは社会に大きな善をもたらす存在であり、そういった命は優先的に救われるべきだというのです。

ゴドウィンは功利主義者であり、功利主義は自分を含めた特定の誰かではなく「最大多数の最大幸福」を追求します。全体の利益を考えれば、明らかにフェヌロンのような人物には他の人間とは違った価値があるということになります。

しかし、全体の利益のために個人を犠牲にしてもよいのかと言われれば立ち止まる人も多いでしょう。
そこで登場するのが権利論です。人にはそれぞれ固有の「尊厳」があるとし、その尊厳を守るというラインを設定することで、全体のために個人を犠牲にすることを防ごうというのです。
ベンサムは基本的に権利という考えに否定的でしたが、ゴドウィンはメアリー・ウルストンクラフトと出会ってから、徐々に「権利」という考えを認めるようになっていったといいます。

第4章では「全体のために少数を犠牲にしていいのか?」という問題を考えるために、フェルディナンド・フォン・シーラッハの劇作品『テロ』がとり上げられています。
これは自爆テロリストが乗客乗員164名を乗せた飛行機をハイジャックし、7万人がいるサッカースタジアムに墜落させようとしたのに対して、これを撃墜したコッホ大佐の架空の裁判を題材にしたものです。
これは架空の出来事ですが、この問題についてはドイツで2005年に撃墜を可能にした航空安全法が制定されましたが、2006年に違憲判決が出ています。

こうした問題を考える上で思考実験として用いられるのが「トロリー問題(トロッコ問題)」です。いくつかパターンがありますが、本書で出てくるのは運転士がハンドルを切って分岐を選べるタイプと、太った男を突き落とすタイプです。
いずれもそのまま何もせずに5人が亡くなるのを受け入れるか、行動して犠牲を1人にするかというものですが、運転手として進路変更して1人を犠牲にするのは正しいと考えても、太った男を突き落として電車を止めるのは正しくないと感じる人も多いかと思います。

本書ではこの問題を「積極的義務」と「消極的義務」の違いを使って論じています。
積極的義務は「〜しなさい」、消極的義務は「〜するな」という形を取ります。「殺すな」「傷つけるな」は消極的義務で、「困っている人を救え」は積極的義務です。
トロリー問題において、運転手は消極的義務の衝突に直面していますが(どちらに行っても人が死ぬ)、太った男を突き落とすケースでは消極的義務と積極的義務の衝突になっています。
そして、多くの場合では積極的義務よりも消極的義務が優先されるので(「優先テーゼ」)、太った男を突き落とすのは問題だと考えられるのです。

しかし、線路脇の転轍機を操作するケースでは、優先テーゼがあるにもかかわらず多くの人が転轍機を操作して5人ではなく1人を犠牲にすることを選びます。
これは太った男のケースでは、人間が良い結果を得るための手段となっているのに対し、転轍機のケースではそうなっていないからだと考えられます。カント的な考えが顔をのぞかせているわけです。
最後に再びハイジャックされた飛行機の問題に戻ってきて、これが太った男のケースと同じ消極的義務と積極的義務の衝突だと論じていますが、個人的には、ハイジャックされた飛行機の乗客は撃墜されなくてもいずれ全員死ぬので、突き落とされなければ生きていた太った男のケースとは少し違うのではないかと思いました。

第5章ではサルトルの戯曲『汚れた手』がとり上げられています。この作品は第2次世界大戦中の東欧の架空の国を舞台に、主人公のユゴーがプロレタリア政党の労働党に入党し、そこでファシスト政権に接近した幹部のエドレルを殺害するという話です。
エドレルは内戦回避という大きな目的のためであれば、仲間を騙し、ファシスト政権に接近することも厭わない人物で、典型的なマキャベリストと言えます。

普段の生活において嘘を付くのは基本的に悪いことですが、外交の駆け引きなどではバカ正直さが自国を窮地に追いやる可能性もあります。政治家はあえて道徳を無視して行動する必要があるかもしれません。
一方、政治的な目的のためならあらゆる手段が許されると考える生粋のマキャベリズムに抵抗を覚える人も多いでしょう。9.11テロ後のグアンタナモ収容所などを考えると、テロ防止のためであっても為政者が取れる手段には一定の歯止めがあるべきだという考えもあると思います。

ここでも基本的な対立の構図は、功利主義とカントの義務論の対立ですが、どちらの考えも現実の政治に完全に適用できるかと言うと疑問もあります。
本書では、功利主義と義務論の間にある議論を紹介しながら、政治家が手を汚す必要があるとして、手を汚した感覚(後悔の感覚)をどうもたせるかということも重要ではないかと指摘しています。

第6章に登場するのはディケンズ『荒涼館』のジェリビー夫人。彼女は実子を放っておいてアフリカの慈善事業に没頭しています。ディケンズはこの状況に「望遠鏡的博愛」という名前をつけています。遠くの不幸は見えていても周りの不幸は見えていないわけです。
一方、自分の子どもには愛情を注ぐが、地球の裏側の不幸は気にもとめないというのは、ある意味で普通の態度とも言えます。

こうした自分の周囲の人々は気にするが地球の裏側のことは気にしないという態度を批判する思想家にピーター・シンガーがいます。彼は功利主義の立場から、遠くで飢えや貧困に苦しんでいる人を救わないのは間違っていると批判しました。
一方、コミュタリアンであるサンデルは自分の子と他人の子が池で溺れていたら自分の子を助けるのは当然であるとしています。我が子には特別な責任があり、さらにそれは自分の所属する共同体に拡張されます。

ここから本書は、自国民を優先すべきか、すべきでないのか、自国民を優先するとしたらその根拠は何か、といった問題を見ていきます。
「自国ファースト」は自然な考えではありますが、歴史を振り返ってみれば、国内の困窮者への援助といったものは決して自明のものではなく、配慮すべき範囲は歴史とともに拡大してきたとも言えます。
また、実際にどの程度の負担で世界の人々を救えるのかといったことも考えていく必要があるでしょう。

第7章では戦争の問題がとり上げられています。
まず、最初は映画『ローン・サバイバー』の題材にもなったアフガニスタンで米軍の特殊部隊が山羊飼いと出会ってしまったケースです。
ネイヴィーシールズのマーカス・ラトレルたちは、山羊飼いを殺すか解放するかで悩みます。作戦を考えれば自分たちの存在を知られないように山羊飼いを殺すべきですが、ラトレルらは無抵抗の民間人を殺すことに抵抗を覚え、結局山羊飼いを解放します。
しかし、その後、ラトレルらは山羊飼いを解放したあとにタリバン兵に囲まれます。仲間を失ったラトレルは山羊飼いを解放したことを後悔することになるのです。

戦争において、戦闘員は互いに殺し合いますが、民間人については殺すべきではないとされています。
ただし、現実の戦争では、戦闘員と民間人を厳密に区別して、戦闘員だけを攻撃するということは難しいケースがあります。空爆などは典型的ですが、軍事目標を狙って空爆したとしても、周囲にいる民間人に被害が出るケースがあります。
こうした被害はある程度仕方がないと考えることもできますが、本書でも触れられているように現在のガザの状況のように、明らかに巻き込まれる民間人の数が多すぎるような場合は不正義だと言えるでしょう。

ウォルツァーは、「最高度緊急事態」であれば、民間人への意図的な攻撃も許されると論じます。この背景にあるのは、共同体の防衛のために共同体の指導者はそのメンバーに対して特別な責任を負っているという考えです(ウォルツァー自身は「極限状態の功利主義」と言っているが、著者によれば功利主義とは少しズレている)。
ウォルツァーは、優れた指導者は自分がしたことは許されないことだと認識しつつもそれを行う「道徳的な犯罪者」(182p)だと考えています。

第8章ではカミュの戯曲『正義の人々』がとり上げられています。
主人公のカリャーエフは皇帝の叔父の大公を暗殺しようと試みますが、大公の馬車に爆弾を投げ入れようとしたところ、大公妃とその甥と姪がいることを発見し、実行を思いとどまってしまいます。
ここでも「革命の正義のために無実の人々を巻き込むことが許されるのか?」という、第7章の民間人の巻き込みに似た問題があります。
その後、カリャーエフは大公を単独で暗殺することに成功しますが、監獄に大公妃が会いに来て恩赦を申し出ます。しかし、カリャーエフは自らの罪を背負い、処刑台に向かっていくことを選びます。

功利主義的に言えば、子どもを巻き込んでも暗殺を実行するべきだったかもしれませんし、義務論的に言えば、革命のためとはいえ暗殺は許されません。
子どもを巻き込むことを拒否し、それでいて大公を暗殺して責任を取ろうとするカリャーエフのあり方は徳倫理学的だといいます。結果や手段よりもその人の信念の一貫性やインテグリティ(誠実さ、高潔さ)を重視するスタイルです。

この信念の一貫性やインテグリティを求める生き方は、ときに自分本位であり、自己耽溺につながるかもしれません。特に政治の世界では、こうした自己耽溺的なものを排除して決断を下すことが、政治家の責任だと考えられることが多いです。

暴力の使用に対する責任をめぐって、メルロ=ポンティは歴史に委ねる姿勢を示し、サルトルはアルジェリア戦争において反植民地闘争の中ではあらゆる手段が許されるとの立場を示しました。
一方、カミュはときに暴力の必要性を認めつつも、暴力を暴力として殺人を殺人として受け止めることを求めました。
カミュは「目的が手段を正当化するのだろうか? そうかもしれない。だが誰が目的を正当化するのだろうか? この問いに対して、......反抗は「それは手段だ」と答える」(209−210p)との言葉を残しています。

この紹介では、政治哲学的な用語や理論の紹介をせずに、どんなエピソードがとり上げられているかを中心に書いてきました。そのため、かなり「文学的」な内容に見えるかもしれませんが、政治哲学を論じながら、「文学的」とも言えるところが本書の魅力でもあると思います。
「正義の理論」を求める人にはすっきりしないかもしれませんが、政治や人間が抱える特有の困難について考えたい人にとっては非常に面白い読書体験になるはずです。


黒人の生み出した文化を「ブラック・カルチャー」と言いますが、そのブラック・カルチャーとは一体何なのか? という問いに応えようとした本です。
本書の冒頭で「ブラック・カルチャーとはアフリカに由来する文化だと言えます」(はじめに i p)と書いているように、ブラック・カルチャーを米国の中の文化という枠組みで捉えるのではなく、環大西洋の枠組みで捉えようとしているのが本書の特徴です。
本書では音楽を中心に、アフリカから奴隷船で連れ去られた黒人たちが、アメリカ大陸でいかに自分たちのルーツを見出していのかということを語っています。

「音楽を語る」という根源的な難しさはあるわけですが、本書を読めば、ブラック・ミュージックを中心とするブラック・カルチャーの流れや、そこで目指されていたものというものはわかると思います。
また、アフロ・フューチャリズムなどの近年の動きも押さえており、勉強になります。
一方で、ヒップホップに見られるような女性嫌悪の問題など、もう少し踏み込んでほしい問題もありました。

目次は以下の通り。
はじめに ブラック・カルチャーをめぐる旅へ
第一章 アフリカの口頭伝承
第二章 奴隷船の経験
第三章 アメリカスに渡ったアフリカの声と音
第四章 自由を希求する共同体の歌
第五章 合衆国のブラック・ミュージック
第六章 アメリカスからアフリカへ
第七章 文字のなかの声
第八章 奴隷貿易・奴隷制の記憶の光と影
第九章 ブラック・ミュージックの魂
第一〇章 ブラック・スタディーズとは何か
第一一章 ブラック・カルチャーは誰のものか
第一二章 未来に向けて再構築されるルーツ

冒頭にも書いたように本書はブラック・カルチャーの基盤をアフリカに求めています。
アフリカでは西アフリカを中心にイスラームが広がり、それとともにアラビア語やアラビア文字を使う文字体系がつくられました。ですから、アフリカは決して無文字社会ではないのですが、アフリカ文化の重要の要素として口頭伝承があります。
アフリカでは神話や知恵を伝える語り部が重要視され、その語り部は音楽とともに伝承を伝えることもありました。このため音楽もアフリカ文化の重要な要素になります。

このアフリカで生まれた口頭伝承と音の文化が奴隷船を通じてアメリカ大陸へと運ばれることになります。
奴隷船の悲惨な状況については本書でも触れられていますが、奴隷制のような絶望的な状況の中で奴隷とされた人々は歌を歌っていたといいます。特に歌の中心にいたのは女性でした。

「アメリカ」という言い方以外にも、中南米を含む全地域を含む用語として「アメリカス」という複数形を用いた言葉があります。本書でも、米国だけではなくカリブ地域、ブラジルなども含むものとして、この「アメリカス」という言葉が使われています。
アフリカから伝えられた文化は、このアメリカスでそれぞれ発展を遂げ、ネオ・アフリカ文化とも言えるものが展開されていきました。

当然ながら、奴隷としての生活の中で文化を維持することは難しかったわけですが、そうした中でも、かぶり物、釣り、ドラミングといったものが伝承されました。
かぶり物はブラック・アメリカスに広範に見られるもので、釣りに関しては、そのルーツは良くわからない面があるもの、奴隷労働の間の束の間の自由が得られるものとして、奴隷の間で伝えられていきました。
ドラミングについては、たとえ太鼓がなくても、何かを叩けばそれが楽器となります。ドラミングは持たざる奴隷が伝承していけるものだったのです。

歌うこともまた、何もなくてもできるものです。奴隷たちの歌からは「コール&レスポンス」、「シャウト」といった技法が生み出され、内容的には失われた家(ホーム)を求める、宗教性を持った「スピリチュアル」と呼ばれるジャンルが生まれてきます。
ブルースを「世俗的スピリチュアル」と捉える見方もあり、個人の苦悩を通してブラックの共同体の苦悩を描き出しているといいます。

第5章では「アメリカ合衆国のブラック・ミュージック」と題し、ジャズを中心とした音楽の流れを追っています。
ジャズの歴史はニューオーリンズで始まったと言われます。この街で生まれた元奴隷たちのブラスバンドから「サッチモ」ことルイ・アームストロングが登場します。サッチモはその演奏技術に加えて、集団の演奏の中にソロ・パートを導入したこと、スキャットと呼ばれる唱法を導入したことなどによってジャズを始めた人物とも言われます。

サッチモから始まったジャズは大人数編成のビッグバンドで演奏されるようになり、「白人」からも受け入れられるようになっていきます。1920〜30年代にかけて「スウィング」と呼ばれるジャズが流行しました。
このスウィングはレコードやラジオの普及とともに広まっていきますが、第2次世界大戦が終わる頃には流行が終わり、また経費もかかることから、ジャズの中心は「ビバップ」と呼ばれる少人数編成のバンドが行うものに移っていきます。
このビバップについては過去の音楽との違いが強調されることが多いですが、本書ではむしろ奴隷時代の創意と即興をよみがえらせたものだと考えています。

合衆国以外でもブラック・ミュージックの展開がありました。サンバ、ルンバ、レゲエなどもアフリカの音楽との連続性を持つといいます。
サンバは即興とシンコペーションを特徴とする黒人音楽のショーロ、ポルカやマズルカと言ったヨーロッパの音楽を取り入れながら発展したもので、ブラジルの「混血性」を示すものともされています。
アメリカスのプランテーション文化圏の中では。奴隷たちの活動は抑圧され、イギリスは19世紀後半に暴動禁止を目的として太鼓とスティックの使用を禁じました。これに対して人々が生み出したものがスティールパンです。
レゲエも、その思想的背景としては宗教運動ラスタファリアニズムを持っていますが、これは既成社会を白人が支配するバビロンと捉え、救世主ジャーの加護のもと、アフリカに帰還することを目指すものです。
第7章では文字の世界がとり上げられています。
黒人奴隷たちは生まれた土地から引き離され、読み書きに関しては英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語などの農園主の言語を使わざるを得ませんでした。
奴隷が文字を学べば奴隷に向かなくなってしまうという考えもあり、奴隷が文字を学ぶことが抑圧されることも多かったですが、奴隷制から抜け出すために文字を学ぼうとする者も現れます。
また、奴隷の体験を世に問い、さまざまな形で黒人たちの声を記録しようとする動きも出てきます。

カリブ海地域では、フランス語とさまざまな言語が入り混じり「クレオール語」と呼ばれる言語が形成されました。
フランス語の複雑な文法を単純化し、アフリカの諸言語に由来するさまざまな語彙や話し方、さらに先住民の語彙も取り入れて独自の言語世界を形成していくことになります。
著者は合衆国の黒人英語も「クレオール化」したものと捉えています。

近年では負の文化遺産をめぐるダーク・ツーリズムと呼ばれるものが登場しています。また、負の記憶を保存しようとする動きもあり、奴隷制をめぐる場所などを整備する動きがあります。
ただし、遺跡などがそのまま残っているわけではなく、例えば、ベナンのウイダにある「帰らずの門」は1995年につくられた現代的なモニュメントです。

現代では奴隷貿易は人類の負の遺産としての評価が定着しているわけですが、そうなってくると問題として浮上するのが奴隷貿易に協力したアフリカ人の問題です。
長年、アフリカは「帰るべき故郷(ホーム)」と位置づけられてきたわけですが、奴隷は「アフリカから見捨てられた孤児」(135p、サイディヤ・ハートマンの表現)でもあるわけです。

第9章では再びブラック・ミュージックに戻ってきます。
1960年代後半〜70代前半にかけて「ブラック・パワー」運動が盛り上がりますが、「ブラック」であることを前面に打ち出すスタイルは、ときにナショナリズム的であり、内部には家父長制的で男性中心的な考えを抱えていました。
これに対し、著者はナショナリズム的な側面については、「ネーション」を特定の国や集団を指すものではなく、未来に向けた共同体を指す言葉として捉えることで乗り越えることが可能ではないかと考えています。

家父長制的な部分や女性嫌悪の問題については、本章の最後のヒップホップをとり上げた部分でローリン・ヒルをあげて少し言及していますが、基本的にはそれほど深められずに終わっています。
一方、ここでは「ブラック・スピリチュアル」というブラック・ミュージックの魂を自覚的に求める姿勢について重点的に書かれており、ブラック・アーツ運動との関係やラップの中にある精神性や宗教性などが指摘されています。

「ブラック・パワー」の動きは学問の世界にも影響を与えていますが、その流れの1つが「アフリカ中心主義」です。
ここではエジプト文明をオリエントではなくアフリカの文明と捉えることで、アフリカこそが人類と文明の誕生の地であることが強調されます。
実証的には怪しい部分もありますが、今までの西洋中心主義イデオロギーに対する対抗イデオロギー的な位置づけとして一定の存在感を持っています。

2018年に公開された映画『ブラックパンサー』もエジプト文明をアフリカに取り込んでおり、その上でアフリカの超文明を描きました。こうしたSF的な想像力をアフロフューチャリズムとも言います。
この古代エジプト的な想像力は音楽の世界でも使われており、エジプト的なジャケットなどが見られます。
一方で、黒人は奴隷という社会的な死から未だに開放されていないとするアフロペシミズムと言われる考えもあります。

近年では、反植民地主義の流れの中で欧米の博物館が所蔵するアフリカの文化遺産の返還を求める動きもあり、また、「文化の盗用」も問題になっています。
文化の盗用の概念を広げていけば、当然ながら日本人が黒人音楽を真似たり、そのファッションを取り入れたりすることも問題になりますが、著者は「文化は混交する」という特徴からこれを乗り越えていけると考えています。

このように本書はブラック・カルチャーを広く概観できる本です。米国だけに限らず、カリブ海、ブラジル、そしてアフリカを含んだ環大西洋世界に目配せがされており、近年のブラック・カルチャーを取り巻く学問的な潮流もわかるようになっています。
一方、ブラック・ミュージックの中ではヒップホップを一番よく聴く自分からすると、もうちょっとヒップホップについての言及も欲しかったところで、特に音楽面における自由さと、いつまでも変わらない女性嫌悪の問題などに興味があったのですが、そういった部分についての扱いは弱かったですね。あと一歩、ブラック・カルチャーが抱える問題についても踏み込んでいい気がしました。


学校内でのいじめからナチスによるホロコーストまで、人間が集団になったときの残酷性はよく知られています。一方、災害現場などでは見ず知らずの他人同士が助け合う行動も見られます。本書はこうした集団の二面性に迫った本です。

内容的には、前半はかなり紙幅を割いてミルグラムの行った服従実験と著者が日本で行った追実験の様子を紹介しています。ここでは心理学の実験における倫理的問題なども検討されており、かなり専門的に感じるかもしれません。
一方、後半では1996年6月に福岡空港で起きたガルーダ航空機離陸失敗事件をとり上げています。ここではNHKの取材を元に著者が分析を行ったとのことで、ジャーナリスティックな内容になっています。前半をやや堅苦しく感じた人もここは面白く読めると思います。
この他にもさまざまな実験や実際の事故における人々の行動が紹介されており、面白く、そしてためになる内容になっています。

目次は以下の通り。
序章 集団とは何か
第1章 わが国で行われた服従実験で明らかになったことは何か
第2章 服従の理由は? 第三者の感想は? 実験の問題点は?
第3章 同調行動はなぜ起きるのか
第4章 現代日本人の同調の特色は何か
第5章 同調行動はどのように拡散するのか
第6章 緊急事態では人は理性的に振る舞うのか
第7章 航空機事故発生時の機内で人々はどのように行動したのか
終章 集団の光と影に何が影響するか

最初に大きくとり上げられているのがミルグラムが行った服従実験です。
これは「ユダヤ人の大量虐殺を担ったアイヒマンが裁判において「自分は命令に従っただけだ」と言ったが、それは本当だろうか?」ということを確かめるために行われた実験で(本書でも指摘されているように近年の研究ではアイヒマンを「凡庸な役人」と考えることには否定的)、生徒役が試験に間違うたびに電流を流すように言われた被験者の多くが、教師役の指示によって生徒役からの懇願にも関わらず強力な電流を流した(実際には電流は流れず生徒役が演技をする)ということで知られています。オリジナルの研究では6割近い被験者が指示に服従しています。

ミルグラムの実験の後も同じような実験が行われており、アメリカ国内での研究では服従率は30〜91%、国外ではオーストラリアの28%〜南アフリカの88%とさまざまな数字が出ています(17p表1−3参照)。
また、時代によっても数値は変わると考えられます。学生運動などがさかんだった時代の若者は教師の指示に服従する確率が低いかもしれません。

このようにこの実験の結果は実験する国や時代によって変化すると考えられ、そうしたことも踏まえて著者は2013年にこの実験を行っています。
この実験は、嫌がっている相手に電流を流すことを強要するという心理的な負担を強いる実験であり、また、被験者を騙して行う実験でもあります。
そのため、倫理的な問題も大きく、著者はオリジナルの実験に比べて電流を弱め、精神面で問題のありそうな人を慎重に除外するなど、かなり配慮したものになっています。

結果としては15人中13人が150ボルトを超えて電流を流しており、服従率は92.9%というかなり高い結果が出ました。
また、興味深いのは実験後のインタビューで誰に責任があるかと聞いた部分で、「服従の責任は誰のせいだと考えているか」との問いに対して、実験者33.9%、教師役36.2%とともに生徒役が30.0%もいます(39p表1−5参照)。このあたりは「公正世界信念」という、善人は報われ悪人は罰せられるはずだから被害にあった人には何らかの落ち度があったのでは? という考えの現れだとも考えられます。
また、この他にもルールや役割を与えられること、攻撃レベルが徐々に上がること、責任の分散、罰することによって学習を助けているなどの意味付けが、人々に電流ボタンを押させる理由として考えられます。

しかし、一方でこの実験に対しては倫理的な批判もあり、著者が行った実験の延長申請は大学の倫理委員会によって拒否されています。
この倫理委員会とのやり取りについては、かなり詳細に紹介されており、研究倫理などを考える上でも参考になる部分だと思います。

第3章〜第5章では同調行動が分析されています。
私たちは自分の属する集団の価値観などに影響を受け、ときには周りに合わせて振る舞いを変えたりします。
また、無意識的に自分に同調した人に好意を持つということもわかっています。例えば、集団お見合いの場で、サクラとなった女性が相手の行動(顔を撫でる、腕を組む、耳をかく)を3〜4秒後に真似するようにしたところ、同調した相手のほうがより連絡先が提供されたそうです(98−99p)。

113p以下で紹介されているエスカレーターの片側空けの同調実験では、大阪を舞台に実験が行われていますが、「東京国際大学」と書かれたTシャツなど明らかに外集団だとわかる格好をしていると同調行動が起こりにくいというのも予想通りではありますが、面白いですね。

第4章では、同じ長さの線を選んでもらう実験の際にサクラがわざと間違った線を選んだ場合に被験者がどう反応するかというアッシュの実験がとり上げられています。
間違っていると思っているに周囲に押されて同調してしまう行動を調べる実験ですが、「同調しやすいとされる日本人では、この結果は高くなるのか?」ということを明らかにするために著者は2015年に日本で同じ実験を行っています(もとの実験はアメリカで1950年代に行われた)。

実験はサクラの数を1〜7人で増やしていく形で行われ、最初は被験者1、サクラ1、その後はサクラが増えていく形で行い、どれくらいの同調行動が出るかを見ていきます。
その結果、当然ながらサクラが多いほど間違った回答に誘導されやすくなります。また、男性よりも女性の方が同調する傾向が強く(40%と48%)、集団サイズが大きくなるほど女性は同調しやすくなります。さらに高齢の女性は同調しやすいが、高齢の男性は同調しにくいという違いも見られました(131−132p)。高齢の女性が空気を読む一方、高齢の男性には天邪鬼タイプが一定数いるとも考えられます。

この同調行動はパニックなどを引き起こすと言われていますが、人が集団や社会に適応していくために必要なものであり、また、実際の事故の際も同調者と非同調者が混在していたほうがスムーズな避難ができるといいます。
第6章以降では、実際の事故の記録などをもとにしながら、緊急事態のときに集団はどのように振る舞うのかということが検討されています。

船の沈没も緊急事態の1つです。特に多くの乗客を乗せた船の沈没では人々は極限的な状態に置かれることになります。
有名な沈没事故といえば1912年のタイタニック号の沈没事故があります。本書では1915年にドイツの潜水艦によって撃沈されたルシタニア号の沈没と比較しながら検討しています。
全体の生存者は、タイタニック号32.0%、ルシタニア号32.6%とほぼ同じですが、女性を見るとタイタニック号72.4%、ルシタニア号28.0%と大きな差があります。また、1等船室の乗客でタイタニック号61.7%、ルシタニア号19.3%と大きな違いが見られます(163p表6−1参照)。

これにはアクシデントが起きてから沈没するまでの時間の長さが関わっているといいます。タイタニック号は氷山に衝突してから沈没まで2時間40分ありましたが、ルシタニア号は攻撃後わずか18分で沈没しています。
生死を分けるような場面でもある程度の時間があれば、通常の社会規範を優先して理性的に行動するが、時間的余裕がなければ自分が生き残ることに精一杯になると考えられるのです。
ただし、タイタニック号における女性の生存率の高さについてはやや特殊な事例で、一般的な海難事故では女性の生存率は男性の半分ほどだとも言われます(166p)。タイタニック号については、当時の時代や乗客の階層が影響している可能性もあります。また、船長から明確に女性や子供を優先する指示が出ていたのも大きいです。

タイタニック号のような集団成員の誇りといったものが影響したと考えられる事例に、第2次世界大戦中のドイツ軍のパイロットについての研究があります。それによれば戦友が表彰され勲章を受けると、敵機撃墜率、戦死率がともに上昇するとのことで、集団間での名誉獲得競争がパイロットの行動に大きな影響を与えていたことがわかっています。

アメリカのクラブ火災などをみても、集団でクラブに訪れていたグループはお互いに助け合ってパニックならなかったが、一方でメンバーを探していて逃げ遅れたケースもあり、集団間の絆がプラスにもマイナスにも作用していたことがうかがえます。
同時に逃げ出した人は、その後室外で、あるいはもう1度建物の中に入って人助けを試みていたケースも多く、緊急時には見知らぬ人の間でも助け合いが行われていたことがわかります。

第7章では、1996年に福岡空港で起きたガルーダ・インドネシア航空機の事故がとり上げられています。
この事故では、離陸滑走の最中に1つのエンジンの故障に驚いた機長がすでに離陸決定速度を超えていたにもかかわらず離陸を中止しようとしたために滑走路を逸脱し、大破炎上しました。
機体の後方で機体が折れるような形になり、乗客3名が死亡しています。

この事故についてはNHKが乗り合わせた乗客260人のうち219人にアンケートや電話によるインタビューを行っており、著者はそのデータ分析を任されました。
本書には乗客のインタビューがかなり詳しく紹介されており、学術的なものに興味がなくても面白く読めると思います。
機内の荷物が落ちてきたり、火が出たりと緊迫した様子も伝わってきますが、意外といるのが、手荷物や靴を探してしまったという人です。大変な状況だということはわかっているのですが、一度、手荷物を探す、靴を探すというモードに入ってしまうと、なかなかそこから抜け出せなくなってしまうようです。
そうした人々を我に返らせたのが周りの人の声掛けです。本書でも注目している点ですが、誰かの声で落ち着けた、あるいは手荷物などあきらめて逃げねばと思った人がけっこういます。
また、この事故の乗客は団体旅行の客が多く、家族や同じ会社の社員など、顔見知りの集団がいるケースが数多くありました。
こうした顔見知りの集団だと、声を掛け合って避難することができたようですし、また、会社の経営者など普段上に立つことが多い人が周囲に声を掛けるケースも多くありました。
こうした見知らぬ人からの指示、あるいは見知らぬ乗客同士の助け合いも数多く観察されており、飛行機が爆発するかもしれないという極限状態にあっても、他人を押しのけ合うようなパニックにはならず、一定の冷静さをもって行動できていたことがわかります。
逆に、事故が起きたときにフリーズしてしまった乗客も多く、他者からの声掛けでフリーズ状態から脱出することができたという人もいました。

このように本書は集団の中におけるさまざまな心理を教えてくれる内容になっています。
最初にも述べたように、前半はアカデミック、後半はジャーナリスティックという感じではあるので、前半に読みにくさを感じた人(実際、実験の説明の部分はややわかりにくい部分もある)は第6章以降の後半を読んで、そこから前半に戻ってくるのもありだと思います。
ただし、前半の服従実験の再実験の部分などは、こういった心理学の実験の手続きや、実験のはらむ問題などもわかるようになっていて、これもまた興味深いです。


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