2014年07月
元イェール大学政治学科助教授にして元衆議院議員で、現在は子ども向けの英語塾の経営をしている斉藤淳氏による、子どもと子どもをもつ親のための教育論。
目次は以下の通りです。
まず、著者のプロフィールを見て「何この人?」と感じた人もいるでしょう。特に日本の国会議員で「熱心に教育を語る人」には残念な人も多いので、塾を経営している元国会議員というと何かよからぬものを感じる人もいるかもしれません。
あるいは目次を見て、いわゆる「欧米礼賛」の教育論かと思う人もいるかもしれません。
けれども、著者の斉藤氏がまず優秀な政治学者であることは保証します。
以前、著者の『自民党長期政権の政治経済学』をブログで紹介したことがありますが、この本は「自民党の長期政権がなぜ続いたのか?自民党の長期政権が続いたにもかかわらず日本での政治への満足度が低いのはなぜか?」という問題に迫った文句なしに面白い本でした。
今回、紹介するこの新書は、まずそうした優秀な社会科学の研究者が書いた教育論です。
また、山形県酒田市出身で高校まで公立校に通い、日本の普通の教育と、イェール大学というアメリカのエリート教育の双方を経験しており、単純な「欧米礼賛」にはなっていません。
「読み書き、そろばん」に代表される日本の教育の長所を認めつつ、本のタイトルにある「 問い、考え、表現する力」の充実を訴える内容になっています。
問題にはつねに正解があるわけではありません。事後的にしか正解がわからない問題もありますし、個人の価値判断などが関わる問題に関しては、そもそも「正解」といえるような明解な答えがないケースが多いです。
そこで、重要になるのが「問う力」です。問題そのものを見つけ出し「問う力」こそが、新しい価値を発見したり、つくり出したりすることができるのです。
もっとも、こういったお題目は今までもさんざん唱えられており、特に目新しいものではありません。一種の「キレイ事」として消費されているのが現状でしょう。
しかし、一応教員をやっている身として、「キレイ事」の中には含まれないけれども「その通り!」だと感じたのが第2章にある「質問と間違いは、みんなへの貢献」という次の部分。
「問う力とは新しい価値をつくる力だ!」といったようなことをたんに言われても、「そうですね」という感じですが、このように書かれると、「間違った問い」、「どうでもいいような問い」もまた重要であり、「問い」というものが教育に欠かせないパーツであるということが実感できるのではないでしょうか(特に実際に教壇に立ったことのある人には)?
この本を読めば、アメリカの大学、特にイェール大学がこのような「問う力」をどのよう育てているか、引き出しているのか、ということが分かる内容になっています。
また読書術や、英語の学習法などのハウツー的なものも紹介されており、今から何かを勉強したい大人にとっても得るものがある内容になっています。
著者はそれほど詳しくはない、理系の研究については最後にイェール大学で活躍している地球科学者の是永淳氏、医学を研究する富田進氏へのインタビューがあり、幅広い意味での「研究という道」への手引にもなるでしょう。
ただ、全体的に親向けなのか子ども向けなのかはっきりしていないところはあります。
もちろん、狙いとしては両方なのでしょうけど、例えば、親がこの本を読んで内容に感心し、自分の子どもに読書ノートの取り方を懇切丁寧に指導したりしたら、それはこの本の趣旨と少しずれると思うんですよね。
「「主体的に行動しなさい」と言われて主体的に行動したら、それはもはや主体的とはいえない」という主体性をめぐるパラドックスがありますが、少しそういったことを感じました(この手の本を買うのは圧倒的に親だと思いますし、中学校くらいまでは教育における親の影響力は圧倒的に強いので、子どもだけをターゲットに据えるのも難しいでしょうけど)。
けれども、逆に言えば幅広い人にとって得るものがある本です。教育関係者、小学校高学年から中学生くらいの子どもをもつ親、そして進路に悩む高校生あたりにお薦めしたいですね。
10歳から身につく 問い、考え、表現する力―僕がイェール大で学び、教えたいこと (NHK出版新書 439)
斉藤 淳
4140884398
目次は以下の通りです。
序章 「グローバル時代」に必要な知力とは
第1章 日本の子どもが得意なことと苦手なこと
第2章 「問う」ための環境づくり
第3章 「考える」ための学問の作法
第4章 「表現する」ための読書法
第5章 「学問」として各教科を点検する
第6章 英語を学ぶときに覚えておいてほしいこと
まず、著者のプロフィールを見て「何この人?」と感じた人もいるでしょう。特に日本の国会議員で「熱心に教育を語る人」には残念な人も多いので、塾を経営している元国会議員というと何かよからぬものを感じる人もいるかもしれません。
あるいは目次を見て、いわゆる「欧米礼賛」の教育論かと思う人もいるかもしれません。
けれども、著者の斉藤氏がまず優秀な政治学者であることは保証します。
以前、著者の『自民党長期政権の政治経済学』をブログで紹介したことがありますが、この本は「自民党の長期政権がなぜ続いたのか?自民党の長期政権が続いたにもかかわらず日本での政治への満足度が低いのはなぜか?」という問題に迫った文句なしに面白い本でした。
今回、紹介するこの新書は、まずそうした優秀な社会科学の研究者が書いた教育論です。
また、山形県酒田市出身で高校まで公立校に通い、日本の普通の教育と、イェール大学というアメリカのエリート教育の双方を経験しており、単純な「欧米礼賛」にはなっていません。
「読み書き、そろばん」に代表される日本の教育の長所を認めつつ、本のタイトルにある「 問い、考え、表現する力」の充実を訴える内容になっています。
問題にはつねに正解があるわけではありません。事後的にしか正解がわからない問題もありますし、個人の価値判断などが関わる問題に関しては、そもそも「正解」といえるような明解な答えがないケースが多いです。
そこで、重要になるのが「問う力」です。問題そのものを見つけ出し「問う力」こそが、新しい価値を発見したり、つくり出したりすることができるのです。
もっとも、こういったお題目は今までもさんざん唱えられており、特に目新しいものではありません。一種の「キレイ事」として消費されているのが現状でしょう。
しかし、一応教員をやっている身として、「キレイ事」の中には含まれないけれども「その通り!」だと感じたのが第2章にある「質問と間違いは、みんなへの貢献」という次の部分。
問いかけや間違いは、その数だけ、そこに居合わせた人に新しい視点を与えます。誰かが先生に質問をすれば、同じようなところでつまづいていた同級生が助かりますし、先生にとってみれば、教え方を改善するトレーニングにもなります。
(中略)
ペーパーテストに最適化してきた日本の学生はこの逆の環境にいるといえます。誤答して減点されることを恐れ、間違いは一元的に悪いことだと捉えます。問われたことに対して答えることは得意ですが、その能力は紙のうえで、それも自分と試験官・採点者との閉じられた関係のなかだけで発揮されます。その人が持っている知識も、アイデアも、すべては第三者に共有されることなく、その成果は本人ただひとりのものにしかなりません。(89ー90p)
「問う力とは新しい価値をつくる力だ!」といったようなことをたんに言われても、「そうですね」という感じですが、このように書かれると、「間違った問い」、「どうでもいいような問い」もまた重要であり、「問い」というものが教育に欠かせないパーツであるということが実感できるのではないでしょうか(特に実際に教壇に立ったことのある人には)?
この本を読めば、アメリカの大学、特にイェール大学がこのような「問う力」をどのよう育てているか、引き出しているのか、ということが分かる内容になっています。
また読書術や、英語の学習法などのハウツー的なものも紹介されており、今から何かを勉強したい大人にとっても得るものがある内容になっています。
著者はそれほど詳しくはない、理系の研究については最後にイェール大学で活躍している地球科学者の是永淳氏、医学を研究する富田進氏へのインタビューがあり、幅広い意味での「研究という道」への手引にもなるでしょう。
ただ、全体的に親向けなのか子ども向けなのかはっきりしていないところはあります。
もちろん、狙いとしては両方なのでしょうけど、例えば、親がこの本を読んで内容に感心し、自分の子どもに読書ノートの取り方を懇切丁寧に指導したりしたら、それはこの本の趣旨と少しずれると思うんですよね。
「「主体的に行動しなさい」と言われて主体的に行動したら、それはもはや主体的とはいえない」という主体性をめぐるパラドックスがありますが、少しそういったことを感じました(この手の本を買うのは圧倒的に親だと思いますし、中学校くらいまでは教育における親の影響力は圧倒的に強いので、子どもだけをターゲットに据えるのも難しいでしょうけど)。
けれども、逆に言えば幅広い人にとって得るものがある本です。教育関係者、小学校高学年から中学生くらいの子どもをもつ親、そして進路に悩む高校生あたりにお薦めしたいですね。
10歳から身につく 問い、考え、表現する力―僕がイェール大で学び、教えたいこと (NHK出版新書 439)
斉藤 淳
4140884398
- 2014年07月25日00:27
- yamasitayu
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サブタイトルは「林羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い」。幕府のお抱えの儒者となった林家三代の人物を伝記的に描いた本です。
著者は「あとがき」で、伊藤仁斎や荻生徂徠が時に過剰に評価されるのに比べて、林家朱子学の凡庸さや蒙昧さは自明の前提とされていてそこに疑問を持ったということが執筆動機としてあげられています(239p)。
読み終わった感想としては、林家の朱子学の思想的な側面に特に見るべき面は見出だせなかったというものなのですが、こういう仕事を一般読者にも分かる形で行ってくれたことは貴重だと思います。
また、家康に気に入られた林羅山が幕府のお抱えの儒者となり、林家が中心となって江戸幕府のイデオロギーである朱子学を広めていったと考えがちですが、この本で取り上げられている3代の人生の中にもそれぞれ浮き沈みがあり、林家が幕府の思想的側面の中枢を担ったとは言い切れない状況が見えてきます。
まずは羅山ですが、羅山に関しては有名な方広寺鐘銘事件から書き起こしています。
豊臣秀頼のつくった方広寺の鐘銘にたいして羅山が漢文の文法を無視した難癖をつけたことが、大阪冬の陣と夏の陣、そして豊臣氏の滅亡につながりました。
ここから羅山は「曲学阿世」の批判を受けることになります。これに対して、著者は鐘銘を批判したのは羅山だけではなく、圧力を受けた五山僧も同じく問題視したこと、羅山には王道正実現の目標があったことなどをあげ、「曲学」ではあっても「阿世」ではないとの議論をしようとしていますが、あまり説得力はないですね。
それよりも羅山に関して興味深かったのは、羅山が、古代中国の周公の父文王の伯父にあたる太伯が呉を建国した後、さらに日本に渡来して天皇家の祖になったという「太伯皇祖論」という歴史論を信じていた点。
羅山はここから神道を儒教が同じ源を持つものであるという神儒一致の理論を生み出しています。
つづく鵞峰については、『本朝通鑑』の編纂の話がメインになります。
ここでは朱子学の立場から名分論によって歴史を記述したかったが、政治的にも難しい面があり、それを断念し、そのことを名分論に基づいた『大日本史』を編纂することになる水戸光圀に伝えたエピソードなどが興味深かったです(123ー126p)。
そして一番面白かったのが鳳岡の話。
林鳳岡と言えば、5代将軍綱吉に重用されて大学頭に任命され、湯島聖堂を建てたことで有名です。ここで林家朱子学の「官学」としての立場が盤石になったと思いがちですが、実際はそうでもありませんでした。
6代将軍家宣とは就任前から確執があり、家宣が徳川家の家督を継ぐと鳳岡は引退勧告を受けます。さらにことあるごとに鳳岡の意見が退けられ、新井白石の意見が採用されることが続き、鳳岡の面目は潰され続けます。
ところが、吉宗が8代将軍に就任し、新井白石が失脚すると、再び鳳岡は日の目を見ることになります。白石のやり方が否定されると同時に、林家朱子学の復活の機運が出てきたのです。
しかし、林家が中心となった聖堂講釈には聴衆が集まらず、また古書の真偽鑑定に失敗し吉宗から叱責されます。林家の権威は綱吉時代のように回復することはなく、この後も徐々に低下していくことになるのです。
鳳岡については89歳(!)まで生きたということもあって、さまざまな人間ドラマを見せてくれる内容になっています。
はじめに書いたように、誰が読んでも面白いというわけではないでしょうし、もう少し他の儒学者たちとの思想面での違いを紹介して欲しいところもあります。ただ、歴史好きならばいくつかの発見と面白さを感じる本でしょう。
江戸幕府と儒学者 - 林羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い (中公新書)
揖斐 高
4121022734
著者は「あとがき」で、伊藤仁斎や荻生徂徠が時に過剰に評価されるのに比べて、林家朱子学の凡庸さや蒙昧さは自明の前提とされていてそこに疑問を持ったということが執筆動機としてあげられています(239p)。
読み終わった感想としては、林家の朱子学の思想的な側面に特に見るべき面は見出だせなかったというものなのですが、こういう仕事を一般読者にも分かる形で行ってくれたことは貴重だと思います。
また、家康に気に入られた林羅山が幕府のお抱えの儒者となり、林家が中心となって江戸幕府のイデオロギーである朱子学を広めていったと考えがちですが、この本で取り上げられている3代の人生の中にもそれぞれ浮き沈みがあり、林家が幕府の思想的側面の中枢を担ったとは言い切れない状況が見えてきます。
まずは羅山ですが、羅山に関しては有名な方広寺鐘銘事件から書き起こしています。
豊臣秀頼のつくった方広寺の鐘銘にたいして羅山が漢文の文法を無視した難癖をつけたことが、大阪冬の陣と夏の陣、そして豊臣氏の滅亡につながりました。
ここから羅山は「曲学阿世」の批判を受けることになります。これに対して、著者は鐘銘を批判したのは羅山だけではなく、圧力を受けた五山僧も同じく問題視したこと、羅山には王道正実現の目標があったことなどをあげ、「曲学」ではあっても「阿世」ではないとの議論をしようとしていますが、あまり説得力はないですね。
それよりも羅山に関して興味深かったのは、羅山が、古代中国の周公の父文王の伯父にあたる太伯が呉を建国した後、さらに日本に渡来して天皇家の祖になったという「太伯皇祖論」という歴史論を信じていた点。
羅山はここから神道を儒教が同じ源を持つものであるという神儒一致の理論を生み出しています。
つづく鵞峰については、『本朝通鑑』の編纂の話がメインになります。
ここでは朱子学の立場から名分論によって歴史を記述したかったが、政治的にも難しい面があり、それを断念し、そのことを名分論に基づいた『大日本史』を編纂することになる水戸光圀に伝えたエピソードなどが興味深かったです(123ー126p)。
そして一番面白かったのが鳳岡の話。
林鳳岡と言えば、5代将軍綱吉に重用されて大学頭に任命され、湯島聖堂を建てたことで有名です。ここで林家朱子学の「官学」としての立場が盤石になったと思いがちですが、実際はそうでもありませんでした。
6代将軍家宣とは就任前から確執があり、家宣が徳川家の家督を継ぐと鳳岡は引退勧告を受けます。さらにことあるごとに鳳岡の意見が退けられ、新井白石の意見が採用されることが続き、鳳岡の面目は潰され続けます。
ところが、吉宗が8代将軍に就任し、新井白石が失脚すると、再び鳳岡は日の目を見ることになります。白石のやり方が否定されると同時に、林家朱子学の復活の機運が出てきたのです。
しかし、林家が中心となった聖堂講釈には聴衆が集まらず、また古書の真偽鑑定に失敗し吉宗から叱責されます。林家の権威は綱吉時代のように回復することはなく、この後も徐々に低下していくことになるのです。
鳳岡については89歳(!)まで生きたということもあって、さまざまな人間ドラマを見せてくれる内容になっています。
はじめに書いたように、誰が読んでも面白いというわけではないでしょうし、もう少し他の儒学者たちとの思想面での違いを紹介して欲しいところもあります。ただ、歴史好きならばいくつかの発見と面白さを感じる本でしょう。
江戸幕府と儒学者 - 林羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い (中公新書)
揖斐 高
4121022734
- 2014年07月21日23:39
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生活保護は、時に「福祉のゴミ箱」と言われます。
他の制度では救えない人たちのための最後の砦といえば聞こえがいいのですが、実際には「対応が難しい、やっかいな人を引き受けてくる」、言葉を選ばず言うと、「面倒ごとは生活保護に任せておけばいい」というニュアンスで使われます。(236p)
これは、この本の「あとがき」に書いてある言葉です。
この本を読むと、この「福祉のゴミ箱」という言葉が非常によくわかると思います。さまざまな福祉制度の網からこぼれ落ちてしまう人々。そうした人々が生活保護に頼らざるをえない状況があるのです。
この本でとり上げているのは「児童養護施設出身者」、「高齢犯罪者」、「薬物依存者」、「外国人貧困者」、「ホームレス・孤立高齢者」で、それぞれに1章が割り当てられ、章の内容は当事者へのインタビューと、制度の説明、データを使った分析などからなっています。
著者は、去年出た『生活保護 VS 子どもの貧困』(PHP新書)が非常に面白かった大山典宏。長年行政の現場で生活保護受給者の自立支援に携わってきた人で、この本でも現場での経験をベースにバランスのとれた議論がなされています。
最初に「福祉のゴミ箱」という言葉を紹介しましたが、福祉の網の目からこぼれ落ちてしまう人が行くつくのが生活保護です。
例えば、第一章でとり上げられる「児童養護施設出身者」。いろいろな問題を抱えているものの、児童養護施設はそれなりに整備されています。しかし、児童養護施設が支援の対象とするのは原則18歳まで。20歳の成人の前に支援は打ち切られてしまいます。ですから、大学進学が難しいなどの問題があるのですが、この本でとり上げられているのはまさに「法律の穴」ともいうべきケース。
この本でインタビューを受けている児童養護施設出身の女性は、10人兄弟の家庭に生まれ4歳から施設に預けられましたが無事に高校を卒業し正社員となりました。ところが、本人は一人暮らしをするつもりだったのですが、実の親が娘が正社員になったと知ると親権を盾に同居を迫ってきたのです。
帰った実家では姉などから暴力を振るわれ、給料のほとんどを取られ、結局、自立援助ホームに逃げこむしかありませんでした。ここで彼女は生活保護を受給し、生活を立て直すことに成功するのですが、この児童福祉法の対象者は18歳までなのに、実際の成人年齢は20歳という法律と福祉の穴が生活保護に頼らざるをえない状況をつくり出しているのです。
第二章でとり上げられている「高齢犯罪者」もそうです。貧しさから万引きなどを重ねた老人は刑務所に行くことになります。以前の刑務所は若い受刑者に職業訓練などを施していましたが、受刑者が老人では職業訓練をしても出所後の再就職は難しいです。おまけに刑務所に入った時点で家族との縁も切れることが多いです。ここでもやはり生活保護に頼らざるをえないわけです。
また、薬物依存者も薬物の所持や使用は犯罪ですから、逮捕され、だいたい2度目からは刑務所に入ることになります。しかし、薬物中毒は刑務所に入ったからといって治るわけではありません。
この本の第三章では、薬物依存症者の民間回復施設である「ダルク」の職員で自らも薬物中毒者だった男性のインタビューを通じて、薬物中毒から抜けることの難しさと、公的なサポートだけではどうにもならない状況が描き出されています。
薬物から抜けようとする初期は何もやる気が起きなくなります。もちろん就労なども難しく、ここでも生活保護が必要になります。これを「甘え」だと感じる人も当然いるでしょうが、薬物中毒は「甘え」を叩きなおしたら治るというようなものでもないのです。
ここまでを読んだ人の中には、著者が福祉の充実をひたすら訴える、いわゆる社民党的・共産党的な人に思えたかもしれません。
けれども、著者は生活保護費の増額を訴えたりはしていませんし、外国人の生活保護受給に関しては、外国人が日本人と結婚し子どもをもうけて離婚し、さらに別の外国人を呼び寄せて結婚するケースをとり上げて問題視しています。
著者はあくまでも自らが福祉の現場で働くなかで生活保護でなければ救われない人がいるということを強く認識しているだけなのです。
もちろん生活保護を支給すれば人々が救われるわけではありませんが、生活保護には「「苗代」としての役割」(233p)があります。人々に最低限度の生活を保障することで、その人が立ち直るきっかけを提供することができるのです。
近年、批判の声が強い生活保護制度ですが、そんな生活保護制度の存在意義を改めて教えてくれる本だと思います。
隠された貧困 (扶桑社新書)
大山 典宏
4594070701
- 2014年07月15日22:51
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日清戦争の存在自体を知らない人はほとんどいないと思いますが、実際にどんな形で始まってどんな戦闘が行われたのかを詳しく知っている人は意外と少ないのではないでしょうか?
実際、高校の日本史の教科書でも日清戦争へ至るまでの朝鮮をめぐる日本と清の争いや、講和条約である下関条約で日本が得たものなどは詳しく載っているものの、「近代化された日本軍」があっさりと勝ったことになっています。これは一応、旅順の攻防や奉天会戦、日本海海戦などが紹介されたりする日露戦争とは対照的です。
そんな日清戦争の全体像を教えてくれるのがこの本。先行研究をうまく整理しながら、開戦に至る経緯から、日本の朝鮮での軍事行動、台湾の抗日闘争まで、日清戦争そのものとその周辺で起きたことを描き出しています。
まず、この本の良い点は日本と清の対立の要因であり、日清戦争の戦場ともなり朝鮮の情勢について詳しく書いてある点です。
日本史の教科書ですと、日清戦争に至るまでの朝鮮では日本と清が、それぞれ親日派と親清派(守旧派)を後押しし、その2つのグループが対立していたように説明されることが多いですが、それだけでは説明しきれない朝鮮の事情というものもあります。ややこしいところもありますが、この本ではそのあたりのことがきちんと説明してあります。
また、日清戦争は日本の「完勝」とも見える戦争ですが、実は最大の焦点であった朝鮮については日本は朝鮮の政治の主導権を握る事に失敗し、ロシアの介入を許すことになります。
この本では、日清戦争の開戦の直前に起きた日本の朝鮮王宮の武力占領(著者はこの武力占領をもって日清戦争のはじまりと考えている)、そして戦争下で日本の後押しのもとで行われた朝鮮の甲午改革、第2次甲午農民戦争、戦後に起きた閔妃殺害事件といった事柄にも触れており、戦闘で勝った日本が、対朝鮮のまずい政策が原因で朝鮮政府と朝鮮の人民を敵に回してしまった経緯がわかります。
戦争自体の部分に関しては、この本を読むと「近代化された日本軍」VS「近代化が不十分だった清国軍」という図式が必ずしも成り立たないことがわかります。
例えば、武器に関しては日本が青銅砲が主力だったのに対して、清にはドイツ・クルップ社製の鋳造鋼鉄砲を使用していましたし、小銃に関してもドイツ製の新型連発銃を持っているものもいました(86ー87p)。
そして何よりも「近代化」されていなかったのが現場の指揮官たち。
大島義昌にしろ野津道貫にしろ立見尚文にしろ、さらには山県有朋や桂太郎も中央の指揮を無視して独断専行を繰り返します。野津道貫や立見尚文が戦上手だったことや清国軍の士気の低さからいずれも大事には至りませんでしたが、戦国時代の武士に見られるような個人の功名心がかなり色濃く残っていたことがうかがえます。
さらに地方では義勇兵運動も起こっていましたし、そこから戦場への軍夫の送り出しが行われたりもしていました(180ー187p)。この本では主に東北の事例がとり上げられているのですが、つづいて戦後の招魂社の問題(祭神として戊辰戦争の官軍の死者を祀ってもいいのか?)にも触れられており(195ー200p)興味深いです。
しかし、一方で兵士の動員システムなどはある程度「近代化」されていました。
日本の町村は、日清戦争の時にはまだ生まれて5年ほどしか立っていませんでしたが、それなりに平時事務を遂行することができました。
著者も、清にはなかったこの動員システムを日清戦争の勝因の一つにあげています(201p)。
このようにこの本は日清戦争の姿を総合的に見せてくれます。
ただ、終章で出てくる陸奥宗光と川上操六への批判はやや唐突で説得力がない気がしました。
陸奥と川上は日清戦争の立役者とも言える人物です。もちろん、両者、特に陸奥に関しては朝鮮の保護国化に失敗、三国干渉を招いたなど、今までも批判があったと思います。
ですから、著者が両者を批判的に捉えるのも不思議ではないのですが、その行動の是非についての十分な検討がされているとは思えません。
例えば、川上に対しては次のように批判しています。
清国軍の日本本土への攻撃が考えにくいなかで、本土防衛をないがしろにしたなどと批判するのはどうなんでしょう?
さらにこの直前に朝鮮の東学農民軍に「ジェノサイド的殺戮」を命じたとありますが、この表現も強すぎると思います。Amazonのレビューにもありますが、この本に書かれている農民軍の犠牲者数についてはやや疑問も残ります。
けれども、全体としては今まであまり知られていなかった日清戦争の全体像を教えてくるいい本だと思います。
日清戦争 (中公新書)
大谷 正
412102270X
実際、高校の日本史の教科書でも日清戦争へ至るまでの朝鮮をめぐる日本と清の争いや、講和条約である下関条約で日本が得たものなどは詳しく載っているものの、「近代化された日本軍」があっさりと勝ったことになっています。これは一応、旅順の攻防や奉天会戦、日本海海戦などが紹介されたりする日露戦争とは対照的です。
そんな日清戦争の全体像を教えてくれるのがこの本。先行研究をうまく整理しながら、開戦に至る経緯から、日本の朝鮮での軍事行動、台湾の抗日闘争まで、日清戦争そのものとその周辺で起きたことを描き出しています。
まず、この本の良い点は日本と清の対立の要因であり、日清戦争の戦場ともなり朝鮮の情勢について詳しく書いてある点です。
日本史の教科書ですと、日清戦争に至るまでの朝鮮では日本と清が、それぞれ親日派と親清派(守旧派)を後押しし、その2つのグループが対立していたように説明されることが多いですが、それだけでは説明しきれない朝鮮の事情というものもあります。ややこしいところもありますが、この本ではそのあたりのことがきちんと説明してあります。
また、日清戦争は日本の「完勝」とも見える戦争ですが、実は最大の焦点であった朝鮮については日本は朝鮮の政治の主導権を握る事に失敗し、ロシアの介入を許すことになります。
この本では、日清戦争の開戦の直前に起きた日本の朝鮮王宮の武力占領(著者はこの武力占領をもって日清戦争のはじまりと考えている)、そして戦争下で日本の後押しのもとで行われた朝鮮の甲午改革、第2次甲午農民戦争、戦後に起きた閔妃殺害事件といった事柄にも触れており、戦闘で勝った日本が、対朝鮮のまずい政策が原因で朝鮮政府と朝鮮の人民を敵に回してしまった経緯がわかります。
戦争自体の部分に関しては、この本を読むと「近代化された日本軍」VS「近代化が不十分だった清国軍」という図式が必ずしも成り立たないことがわかります。
例えば、武器に関しては日本が青銅砲が主力だったのに対して、清にはドイツ・クルップ社製の鋳造鋼鉄砲を使用していましたし、小銃に関してもドイツ製の新型連発銃を持っているものもいました(86ー87p)。
そして何よりも「近代化」されていなかったのが現場の指揮官たち。
大島義昌にしろ野津道貫にしろ立見尚文にしろ、さらには山県有朋や桂太郎も中央の指揮を無視して独断専行を繰り返します。野津道貫や立見尚文が戦上手だったことや清国軍の士気の低さからいずれも大事には至りませんでしたが、戦国時代の武士に見られるような個人の功名心がかなり色濃く残っていたことがうかがえます。
さらに地方では義勇兵運動も起こっていましたし、そこから戦場への軍夫の送り出しが行われたりもしていました(180ー187p)。この本では主に東北の事例がとり上げられているのですが、つづいて戦後の招魂社の問題(祭神として戊辰戦争の官軍の死者を祀ってもいいのか?)にも触れられており(195ー200p)興味深いです。
しかし、一方で兵士の動員システムなどはある程度「近代化」されていました。
日本の町村は、日清戦争の時にはまだ生まれて5年ほどしか立っていませんでしたが、それなりに平時事務を遂行することができました。
著者も、清にはなかったこの動員システムを日清戦争の勝因の一つにあげています(201p)。
このようにこの本は日清戦争の姿を総合的に見せてくれます。
ただ、終章で出てくる陸奥宗光と川上操六への批判はやや唐突で説得力がない気がしました。
陸奥と川上は日清戦争の立役者とも言える人物です。もちろん、両者、特に陸奥に関しては朝鮮の保護国化に失敗、三国干渉を招いたなど、今までも批判があったと思います。
ですから、著者が両者を批判的に捉えるのも不思議ではないのですが、その行動の是非についての十分な検討がされているとは思えません。
例えば、川上に対しては次のように批判しています。
また、川上は遼東半島の割譲と直隷決戦に固執した。これが三国干渉の誘因となり、さらに列強の干渉が予想される複雑な国際情勢のなかで、極端に攻勢に偏重した直隷決戦計画を実施し、本土防衛をないがしろにする危険性を生むことになった。これらは川上の戦争指導の問題点である(251ー252p)
清国軍の日本本土への攻撃が考えにくいなかで、本土防衛をないがしろにしたなどと批判するのはどうなんでしょう?
さらにこの直前に朝鮮の東学農民軍に「ジェノサイド的殺戮」を命じたとありますが、この表現も強すぎると思います。Amazonのレビューにもありますが、この本に書かれている農民軍の犠牲者数についてはやや疑問も残ります。
けれども、全体としては今まであまり知られていなかった日清戦争の全体像を教えてくるいい本だと思います。
日清戦争 (中公新書)
大谷 正
412102270X
- 2014年07月12日23:14
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著者は近現代のドイツ語史を専攻とする言語学よりの人で、帯には「25年間150万語の演説データから扇動政治家の実像に迫る」との文句。
ヒトラーの代表的な演説をとり上げてそのレトリックに迫るような本かと思いましたが、演説家、そして政治家としてのヒトラーを時代ごとに追う内容で、思ったよりも伝記的な色彩の強い本でした。
ですから、ヒトラーのことをある程度知っている人には少しまだるっこしい部分もあるかもしれません。ただ、最後まで読むとヒトラーの演説の一番のキーポイントが浮かび上がるちょっと凝った構成になっています。
目次は以下の通りです。
このようにこの本では第一次世界大戦でのドイツ敗戦からヒトラーの政治家としての活動と演説を追っていきます。
ヒトラーに演説に関する天賦の才能があったのは事実のようで、帰還兵に愛国・反共産主義教育を行う「啓発教育部隊」にいた時からその弁舌は目立っていたようです。
また、「もし〜ならば」という「仮定表現」や、「AではなくB」という「対比法」といった、この後のヒトラーの演説に頻出するテクニックもこのころから使っていました。さらに俗語の使用やスローガンの巧みさなども演説を盛り上げました。
このあとヒトラーは1923年にミュンヘン一揆に失敗し、しばらく獄中生活を送ることになるのですが、その間にヒトラーの演説に対する理論はほぼ完成していたようで、政治活動を再開する1925年にはほぼ完成された演説を行っています。
この時期に口述筆記された『わが闘争』にはヒトラーの演説理論が書かれています。
この本では、「書かれたことばよりも語られたことば」、「論理よりも感情」、「ポイントを絞り、繰り返す」、「聴衆の反応から演説内容を絶えず修正」、「演説をするなら朝よりも晩」、「大げさで刺激的な言い回し」など、ヒトラーの演説に対する考えのポイントがまとめられています。
さらにこの本の第2章の78ー95pにかけて、ヒトラーの1925年12月のディンゴルフィングにおけるナチ党集会での演説が詳細に分析されています。
「敵と味方の対比」、「繰り返し」、「平行法と交差法」、「生物学的メタファー」、「誇張法」、「法助動詞」など、言語学的な観点も交えて分析してあるので、ヒトラーの演説の技術(弁論術)が、かなりの域に達していることがわかるでしょう。
しかし、このようにヒトラーの演説は冴えていたものの1928年5月の選挙では得票率2.6%で第9党にとどまるなど、ナチ党の党勢は退潮気味でした。
ヒトラーの演説がドイツ国民の心をつかむには、1929年から始める世界恐慌を待たなければならなかったのです。
世界恐慌によってドイツ経済が大きな打撃を受けると再びナチ党の勢いは復活します。1930年には「全国宣伝指導者」にゲッベルスが就任。ラウドスピーカーや飛行機を使ったヒトラーの遊説活動によって、19320年7月の選挙でナチ党はついに第1党となります。
150万語の演説データの分析によると、この時期の演説では「ユダヤ人」という言葉の登場回数が顕著に減っています。これはヒトラーが広く国民に受け入れられるために反ユダヤ主義を控えたためです。
また、1932年の4月から11月にかけてヒトラーはオペラ歌手のデヴリエントによって発声法や感情の込め方、ジェスチャーなどについての訓練を受けています。これによってヒトラーのパフォーマンスは完成するのです。
このヒトラーのジェスチャーに関しては141ー150pにかけて写真を使って詳細な分析がしてあり、著者は「まさにジェスチャーについてヒトラーは巧みであると言うほかない」と評価しています。
しかし、一方でヒトラーが最初苦戦したのはラジオを使った演説でした。当時、新しく登場したメディアであったラジオについて、ナチ党はそれを最大限に利用したという評価がありますが、最初の施政方針演説でヒトラーは失敗しています。
つねに聴衆の反応から演説をつくり上げるヒトラーにとって聴衆のいないラジオは自らの能力を発揮できないものだったのです。
そこでゲッベルスは演説会場から中継を行うこととし、さらに安価な「国民受信機」を作らせてヒトラーの演説を流すこととしました。しかし、「ラジオで演説ばかり流すと、国民が演説に飽きてしまうことが判明し、遅くとも1935年以降、ラジオ放送では娯楽番組が多く流されるようになった」(154p)そうです。
このラジオというのは実は諸刃の剣であって、ヒトラーの演説を国民に幅広く伝えると同時に、戦争が始まると国民は海外からのラジオ放送を聞くことで本当の戦況を知ろうとします。そのため、ナチス政府は海外放送の聴取を禁止し、「海外放送の聴取は犯罪である」というステッカーをラジオに貼るキャンペーンまで行うことになります(236p)。
戦局が悪化するにつれ、ヒトラーの演説会数は少なくなり、ほぼラジオを通してのもののみになっていきます。
しかし、ラジオを通じた演説というのは過去にヒトラーが失敗したものであり、聴衆からの信頼感と聴衆との一体感を失った演説にもはや国民を鼓舞する力はありませんでした。
そして、ヒトラーの演説とは、実は聴衆があってこそのものなのです。このことについて、著者は最後に次のようにまとめています。
演説は演説であり魔法ではありません。確かにヒトラーの演説はナチ党を押し上げましたが、いくらラジオなどのメディアを総動員しても、国民全体を洗脳することはできませんでした。
この本は、ヒトラーの演説に隠されたテクニックを分析することでプロパガンダの手口を教えてくれると同時に、その限界も教えてくれる本です。
ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)
高田 博行
4121022726
ヒトラーの代表的な演説をとり上げてそのレトリックに迫るような本かと思いましたが、演説家、そして政治家としてのヒトラーを時代ごとに追う内容で、思ったよりも伝記的な色彩の強い本でした。
ですから、ヒトラーのことをある程度知っている人には少しまだるっこしい部分もあるかもしれません。ただ、最後まで読むとヒトラーの演説の一番のキーポイントが浮かび上がるちょっと凝った構成になっています。
目次は以下の通りです。
序章 遅れた国家統一
第1章 ビアホールに響く演説―一九一九~二四
第2章 待機する演説―一九二五~二八
第3章 集票する演説―一九二八~三二
第4章 国民を管理する演説―一九三三~三四
第5章 外交する演説―一九三五~三九
第6章 聴衆を失った演説―一九三九~四五
このようにこの本では第一次世界大戦でのドイツ敗戦からヒトラーの政治家としての活動と演説を追っていきます。
ヒトラーに演説に関する天賦の才能があったのは事実のようで、帰還兵に愛国・反共産主義教育を行う「啓発教育部隊」にいた時からその弁舌は目立っていたようです。
また、「もし〜ならば」という「仮定表現」や、「AではなくB」という「対比法」といった、この後のヒトラーの演説に頻出するテクニックもこのころから使っていました。さらに俗語の使用やスローガンの巧みさなども演説を盛り上げました。
このあとヒトラーは1923年にミュンヘン一揆に失敗し、しばらく獄中生活を送ることになるのですが、その間にヒトラーの演説に対する理論はほぼ完成していたようで、政治活動を再開する1925年にはほぼ完成された演説を行っています。
この時期に口述筆記された『わが闘争』にはヒトラーの演説理論が書かれています。
この本では、「書かれたことばよりも語られたことば」、「論理よりも感情」、「ポイントを絞り、繰り返す」、「聴衆の反応から演説内容を絶えず修正」、「演説をするなら朝よりも晩」、「大げさで刺激的な言い回し」など、ヒトラーの演説に対する考えのポイントがまとめられています。
さらにこの本の第2章の78ー95pにかけて、ヒトラーの1925年12月のディンゴルフィングにおけるナチ党集会での演説が詳細に分析されています。
「敵と味方の対比」、「繰り返し」、「平行法と交差法」、「生物学的メタファー」、「誇張法」、「法助動詞」など、言語学的な観点も交えて分析してあるので、ヒトラーの演説の技術(弁論術)が、かなりの域に達していることがわかるでしょう。
しかし、このようにヒトラーの演説は冴えていたものの1928年5月の選挙では得票率2.6%で第9党にとどまるなど、ナチ党の党勢は退潮気味でした。
ヒトラーの演説がドイツ国民の心をつかむには、1929年から始める世界恐慌を待たなければならなかったのです。
世界恐慌によってドイツ経済が大きな打撃を受けると再びナチ党の勢いは復活します。1930年には「全国宣伝指導者」にゲッベルスが就任。ラウドスピーカーや飛行機を使ったヒトラーの遊説活動によって、19320年7月の選挙でナチ党はついに第1党となります。
150万語の演説データの分析によると、この時期の演説では「ユダヤ人」という言葉の登場回数が顕著に減っています。これはヒトラーが広く国民に受け入れられるために反ユダヤ主義を控えたためです。
また、1932年の4月から11月にかけてヒトラーはオペラ歌手のデヴリエントによって発声法や感情の込め方、ジェスチャーなどについての訓練を受けています。これによってヒトラーのパフォーマンスは完成するのです。
このヒトラーのジェスチャーに関しては141ー150pにかけて写真を使って詳細な分析がしてあり、著者は「まさにジェスチャーについてヒトラーは巧みであると言うほかない」と評価しています。
しかし、一方でヒトラーが最初苦戦したのはラジオを使った演説でした。当時、新しく登場したメディアであったラジオについて、ナチ党はそれを最大限に利用したという評価がありますが、最初の施政方針演説でヒトラーは失敗しています。
つねに聴衆の反応から演説をつくり上げるヒトラーにとって聴衆のいないラジオは自らの能力を発揮できないものだったのです。
そこでゲッベルスは演説会場から中継を行うこととし、さらに安価な「国民受信機」を作らせてヒトラーの演説を流すこととしました。しかし、「ラジオで演説ばかり流すと、国民が演説に飽きてしまうことが判明し、遅くとも1935年以降、ラジオ放送では娯楽番組が多く流されるようになった」(154p)そうです。
このラジオというのは実は諸刃の剣であって、ヒトラーの演説を国民に幅広く伝えると同時に、戦争が始まると国民は海外からのラジオ放送を聞くことで本当の戦況を知ろうとします。そのため、ナチス政府は海外放送の聴取を禁止し、「海外放送の聴取は犯罪である」というステッカーをラジオに貼るキャンペーンまで行うことになります(236p)。
戦局が悪化するにつれ、ヒトラーの演説会数は少なくなり、ほぼラジオを通してのもののみになっていきます。
しかし、ラジオを通じた演説というのは過去にヒトラーが失敗したものであり、聴衆からの信頼感と聴衆との一体感を失った演説にもはや国民を鼓舞する力はありませんでした。
そして、ヒトラーの演説とは、実は聴衆があってこそのものなのです。このことについて、著者は最後に次のようにまとめています。
演説の構成と表現法に受け手の心を動かす潜在力がいくらあっても、またその演説の声とジェスチャーを多くの受け手に伝播させるメディアがあっても、受け手側に聞きたいという強い気持ちがなければ、その潜在力は顕在化しえず、受け手を熱くできなかった。政権掌握後にラジオを通じて強制的に聞かされた「総統演説」は、本来持っていたはずの波及力を失い、魅力を急激に落とし、開戦後はヒトラーがいかに巧みな表現をしたとしても、修辞学は現実の悲惨さを隠しきれなかった。(262p)
演説は演説であり魔法ではありません。確かにヒトラーの演説はナチ党を押し上げましたが、いくらラジオなどのメディアを総動員しても、国民全体を洗脳することはできませんでした。
この本は、ヒトラーの演説に隠されたテクニックを分析することでプロパガンダの手口を教えてくれると同時に、その限界も教えてくれる本です。
ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)
高田 博行
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- 2014年07月05日23:46
- yamasitayu
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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