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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2016年07月

去年刊行された『仕事と家族』(中公新書)で、少子化をもたらしている日本の仕事と家族の問題点を幅広く分析した著者が、「家族の現在」についてまとめた本。
前半はややぼやけている部分もあるのですが、後半では非常に鋭い問題提起がなされていると思います。

第一章は「家族はどこからきたか」。
「男女がともに相手を好きになり、合意の上で親密な仲になる。関係がうまくいかなければ、別れる。好きな相手ができたら、女性でも積極的に男性に求愛する」、「男女ともに財産の所有権を持つ」と聞けば、戦後以降の「新しい家族」のことだなと思う人が多いでしょうし、「男性は外で働き、女性は家庭で家事や育児をする」と聞けば、昭和までよく見られた「古い家族」だと思う人が多いでしょう。

しかし、古代の日本では男女の関係は比較的「緩く」、いわゆる「家」制度的なものは確立していませんでした。そこには、現代の北欧社会に通じるような、「結婚」を重視しない関係性があったのです。
ところが、次第に「家」や「血のつながり」を重視する考えが浸透してくるようになり、「姦通」なども厳しく罰せられるようになります。そして明治になると、家長が財産を独占し、家族のメンバーに大きな権力を振るうようになります。男性優位の家族が出来上がっていくのです。

このように、この第一章では「古い家族」というのがもっと長いスパンで見れば「古くない」というように家族の形が相対化されているのですが、やや疑問が残りました。古代のようなはるか昔の社会の「現代性」のようなものを指摘することは、あまり意味がないと思うのです(例えば縄文時代の「平等」と現代の「平等」は比べられないと思う)。
35p以下に、近世社会における農村の「夜這い」や商家の婿取りに触れている部分があるので、そうしたエピソードで十分だったのではないでしょうか。

第二章の「家族はいまどこにいるのか」では、第二次世界大戦後に進んだ家族の変化を追っています。
産業革命後、工場などで働き賃金をもらう労働者が増えてきます。当初は、工場で働く女性も大勢いましたが、男性労働者の賃金が上がってくると、家庭と「仕事の場」が切り離されたこともあって、「男は仕事、女は家庭」という規範が強まってきました。
この動きは欧米では1950〜60年代、日本では1970年代にピークを迎えます。日本では、戦後も農家や自営業の家庭が多かったので、専業主婦家庭の浸透はやや遅れたのです(61-63p)。

また、戦後の日本の特徴として「見合い婚から恋愛婚へ」という流れがあります。
67pのグラフを見ると、60年代後半を境にきれいに恋愛婚が見合い婚を逆転していますが、著者はそう単純には分析できないといいます。見合い婚の中には、出会いは親がセッティングするけど決定するのは当人というパターンもありますし、逆に恋愛婚の中にも出会いは自分たちでしたけど、結婚には親の同意が必要だったというパターンもあるからです。
そして、著者は、現在の日本において娘の結婚の方により親の同意が必要とされる現象に注目し、そこに男女の経済格差の問題を見ています。

第三章は、「「家事分担」はもう古い?」。
共稼ぎ世帯が増えるに連れて、「家事分担」が叫ばれるようになっていますが、実証研究によると日本では一日の平均の妻の労働時間が夫のそれと比べて1時間長くなると、一週間あたりの家事の頻度が0.05〜0.08回ほど縮まるそうです(102p)。これを見る限り、いまだに夫婦間の家事負担には圧倒的な不公平があるといえるでしょう。

ただし、同じ程度に家事負担が妻に偏っている夫婦でも、家事分担がより平等な国とそうでない国を比べてみると、平等な国のほうが妻の不満が出やすいという研究もあり(107p)、日本のように女性に家事分担が偏っている国では不満が出にくいという現状もあります。
こうした「不公平」に対して、フェミニズム政治学者のスーザン・オーキンなどは「正義の不徹底」だと批判していますが(109p)、「私的領域」と考えられている家事の世界に政府が介入すべきかどうかということはなかなか難しい問題です。

第四章は、「「男女平等家族」がもたらすもの」。ここからがこの本の面白いところといえるでしょう。
近年、先進国では夫婦共働きの家族が増えており、先進国に限れば共働きカップルのほうが出生率も高いという傾向も出ています(147ー149p)。
ここから共働きのカップルを支援する正当性といったものも出てくるのですが、著者はここにいくつかの「落とし穴」があるといいます。

1つ目は育児などのケア労働がより貧しい人に振りかかるという問題です。育児への公的支援が貧弱なアメリカなどでは、育児に「ナニー」と呼ばれるベビーシッターが当たることが多いのですが、多くのナニーは貧しい階層の人間であり、自分の子どもの世話をせずに金持ちの子どもの世話をしているという現実があります。階層社会が共働きを可能にしている面もあるわけです。

2つ目はアメリカの社会学者ホックシールドが唱える「過程と仕事の世界の逆転」とも言うべき現象(161p)。
共働きカップルは家事や育児を二人で行っていくことが必要で、家庭のマネジメントが重要になってきますが、それが「安らげる家庭」というものを壊しているというのです。

3つ目は共働きが格差をもたらすという問題。これは橘木俊詔・迫田さやか『夫婦格差社会』(中公新書)でもとり上げられていた問題で、以前は「夫の収入が高ければ専業主婦が多くなり、夫の収入が低ければ妻の有業率が高まる」という「ダグラス・有沢の法則」がはたらいていたが、今は豊かな男女が共働きによってさらに豊かになるという現象が起きています。
豊かな人と貧しい人がランダムに結婚するような社会ならば問題は少ないかもしれませんが、現実の社会は豊かな人は豊かな人と結婚するという同類婚の傾向が強いです。
また、課税に関しても共働き世帯が増えてくると、個人単位で課税するか世帯単位で課税するかという問題も出てきます。著者はいくつかの課税スタイルを分析し、共働きを促進し、出生率を上げ、世帯格差を縮めるという3つの目標を実現する方式はなかなかないということです(191p)。

第五章は「「家族」のみらいのかたち」。
家族にはセーフティネットとしての機能がありますが、あまりにそれが重視されるようになると、今度は家族が「リスク」になりかねません。そして、それが「家族からの逃避」を生み出す可能性もあります。
著者は「家族がなくても生活できる社会」を目指すことで、逆に家族が形成しやすくなるとしています。

また、最後にカップルにおける親密性と不倫などを許さない排他性の問題、さらに第三章でも触れられていた「私的領域における公正さ」の問題を分析しています。
ややまとまりを欠いた分析になっていると思うのですが、特定の人を「特別扱い」しないリベラリズムと「特別扱い」が基本となる家族の緊張関係というものは、今後ますますクローズアップされてくるのではないでしょうか。

このように多面的なアプローチから「現代の家族」に迫っています。前作の『仕事と家族』が少子化問題へのアプローチということで一貫していたのに比べると、いろんなアプローチが混在していて、やや議論をつかみにくいところもあるかもしれません。
ただ、それは現在の家族が直面している「難しさ」の反映でもあり、この本はその「難しさ」について教えてくれる本です。

結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 (光文社新書)
筒井 淳也
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先日のイギリスのEU離脱の国民投票においても「移民問題」が焦点となりましたし、移民や難民の問題はヨーロッパを大きく揺さぶっています。そして、「移民の国」であるはずのアメリカでも、メキシコとの国境に「万里の長城」を築いて不法移民を一掃すると主張するドナルド・トランプが下馬評を覆して共和党の大統領候補となってしまいました。
こうした現象を「ポピュリズム」と切って捨ててしまうのは簡単ですが、やはりこの「トランプ現象」というのは立ち止まって考えるべきものでしょう。

そんな「トランプ現象」を考える上で、非常に有益な知見を与えてくれるのがこの本。
アメリカの移民をめぐる政策の変遷や、アメリカの教育制度や社会保障制度、そして犯罪と移民の関わりを読み解くことで、「トランプ現象」の背景が見えてくる構成になっています。
さらに、2007年6月に連邦議会下院で決議された「従軍慰安婦問題についての対日謝罪要求決議」で注目された、「エスニック・ロビイング」などもとり上げ、アメリカ政治に対して移民が与える影響についても分析しています。
「トランプ現象」だけでなく、アメリア社会を読み解く上でも役に立つ本と言えるでしょう。

目次は以下の通り。
第1章 アメリカ移民略史
第2章 移民政策
第3章 移民の社会統合―教育・福祉・犯罪
第4章 エスニック・ロビイング
第5章 移民大国アメリカが示唆する日本の未来

第1章では、アメリカの移民の歴史が語られています。
アメリカは「移民の国」ですが、移民のめぐる問題は常にくすぶり続けていました。
1790年台には、フランスやアイルランドからの移民へはフランス革命の急進的な思想の影響を受けているとの不信感が表明されましたし(27p)、1850年代にはアイルランド系移民への反発から反カトリックの「ノウ・ナッシング」と呼ばれる秘密結社が勢力を増大させました(30p)。

その後、中国系移民への反発などから、1890年の国勢調査による外国生まれの人を基準として母国籍を同じくする人に移民枠を割り当てる1924年移民法が成立(34p)。さらに、1965年移民法ではこの割当が撤廃され、移民に関して高技能者とすでにアメリカに居住している人の近親者を優先することとしました(40p)。
この結果、増大したのが中南米系の移民です。彼らは近親者の呼び寄せや、アメリカ生まれの子どもにアメリカ国籍を与えるという制度を利用して、その数を増やしていきました。

ここから中南米系の移民が政治的な問題となってくるのですが、中南米系の移民に対する民主・共和両党の態度は複雑でした。
中南米系の票がほしい民主党の政治家は移民に友好的ですが、労働組合に支持されている民主党の政治家は、賃金下落の恐れなどから移民に敵対的な立場を取ります。一方の共和党も企業経営者に近い政治家は移民を歓迎しますが、移民に対する不安を持つ地域から選出された政治家は移民の増加に反対します(43p)。
このような中で、受け入れるにしろ規制するにしろなかなか思い切った対策を打ち出しにくいのが、今のアメリカの政治の状況なのです。

この中南米系の移民の増加はアメリカの政治にも大きな影響を与えています。この移民の増加と最近のアメリカの政治情勢を読み解いたのが第2章です。
1960年に総人口の85%を占めていた白人(中南米系を除く)の割合は2011年には63%にまで低下しています。一方、中南米系は17%にまで増加しました(50-51p)。
こうした中、中南米系を含むマイノリティは民主党を支持し、白人は共和党を支持するという傾向が強まっています。
しかし、一方で中南米系はつねに民主党を支持するわけではなく、レーガンやブッシュ(子)は大統領選挙で中南米系の3〜4割の票を獲得しており、中南米系を攻略できるかが共和党の候補の勝利への鍵となります(52-53p)。

そこで、今回の大統領選挙でもマルコ・ルビオとテッド・クルーズが注目されたわけです。両名ともキューバ系の移民の子で、その政治的な立ち位置は随分と違いますが、中南米系の支持が期待できる人物です。
特にルビオは、2013年に提出された不法移民への合法的地位付与と国境管理強化の両立を図る法案の上院通過に尽力した人物でもあり、中南米系の支持を得られる可能性の高い候補でした(69-70p)。

ところが、共和党の予備選挙は「白人のバックラッシュ」とも呼ばれる現象によってドナルド・トランプの勝利に終わります。
80年代以降、黒人の福祉受給者への反発などからブルーカラーの白人が支持政党を民主党から共和党にシフトさせつつあるのですが、そうした支持層がトランプの移民批判を支持したのです。
移民問題を取り上げればとり上げるほどし支持を増やすトランプに対して、他の候補もトランプに乗っかる形で移民問題をとり上げるようになり、いつの間にか移民対策が最重要課題となっていたのです。
これは中南米系の票を獲得して大統領選挙に勝利しようと考えていた共和党主流派にとっては痛い展開ですが、結局、トランプが押し切ってしまいました。

ここまででも薄めの新書1冊分くらいの内容はあると思いますが、さらに第3章では、教育・福祉・犯罪と移民の関係を探っていきます。著者の専攻は社会福祉政策や犯罪政策であり、この第3章が本書の肝といえるかもしれません。

まず、連邦制を取るアメリカでは、移民政策を決めるのは連邦政府である一方、移民に対する教育や福祉など社会統合に関しては州政府が担うことになります。
州政府から見ると、連邦政府が移民を規制しないせいで自分たちに負担が押し付けられていると感じることになります。このため、州レベルでは「移民に対して厳しい政策」が打ち出されるケースが出てきます。

教育の分野では、アメリカは中央の統制が緩く、教科書検定制度はありませんし、「国語」の授業もありません。その教育内容は学校区のレベルで決まることが多いのです(101p)。このため、中南米系の移民が多い地区では2か国語教育やスペイン語による教育が行われるケースもあります。
この状況を憂慮したのがサミュエル・ハンチントンで、彼は中南米系の移民がアメリカ的価値観やアメリカへの忠誠を持とうとしないとして、それがアメリカの国家としての基盤を掘り崩すと考えました(99ー100p)。
また、こうした状況への反発として、アリゾナ州では2010年に「特定のエスニック集団のために設計された、あるいは、エスニック的一体感を重視する可能性のある授業を、州内の公立学校で実施してはならないと定めた法律」が制定されました(89p)。

福祉については、「アメリカの寛大な社会福祉政策が貧困な移民を引き寄せている」(109p)との指摘があります。
著者は年金、公的扶助、医療保険の各分野について、アメリカの制度を説明しつつ、いずれも移民を引き寄せる要因にはなり難いと結論づけています(そもそも、アメリカ合衆国憲法には生存権の規定がない(115p))。
しかし、「アメリカの公的扶助政策の縮減は、公的扶助受給者は身体的にも精神的にも労働可能であるにもかかわらず怠惰で労働していない人が多い、しかも、その大半は黒人に違いないという、二重の誤解に基づいて進行した」(114p)とも言われており、この「福祉へのタダ乗り批判」には根強い支持があります。実際、オバマ大統領の打ち出した「オバマケア」も不法移民に提供されるとして批判されました。

次に犯罪ですが、中南米系の男性の収監者数の割合は白人男性を大きく上回っています(126p)。このデータを見ると、「移民は危険」となりますし、それを利用する保守派の政治家も多いのですが、このデータにはからくりがあります。
中南米系の収監者の半分近くは移民法関連で収監されており、移民が犯罪を起こしているというよりは、不法移民が厳しく取り締まられるようになった影響で収監者数が増えているのです。
また、アメリカでは民間の刑務所も増えており、移民法関連の収監に特化した民間刑務所も登場しています。そのような民間刑務所が移民取り締まりの強化を求める動きもあるそうです(133p)。

第4章はエスニック・ロビイングについて。
多くの人はユダヤ・ロビーという言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。ユダヤ人が豊富な資金力を持って政府にロビイングするために、イスラエルを批判するような政策が通らないという話です。
アメリカにはさまざまな国からの移民がいて、またアメリカという国の影響力も大きいです。そこで、特定のエスニック集団が自分たちの民族や母国のためにロビイング活動をするのです。

例えば、アルメニア系はこのロビイングを積極的に行っており、2007年にはトルコによりアルメニア人の虐殺をジェノサイドと認めるように求める決議が下院の外交委員会で採択されました。
この決議はトルコの反発を呼びましたが、アメリカでは時の国益と反するようなこのような決議がしばしば行われます。アメリカではエリートが外交を独占する伝統がなく、選挙区の事情などから国益とはまた違ったロジックで議会が動くことが多いのです。
この本では従軍慰安婦についての決議に関してもアルメニア系のロビイングとの絡みが指摘されています(142-147p)。

また、ユダヤ系、キューバ系、メキシコ系のロビイングについても分析しており、これらが一種のトランスナショナル・ポリティクスの様相を示していることも指摘しています。
さらに、アジア系のロビイングについても近年の日系から中国系へのパワーの変遷を紹介しています。予算の縮小にともなって日系の存在感は薄れており、その一方で中国系は潤沢な予算で存在感を示しています。ただ、中国は中国系のアメリカ人のコミュニティの動員には成功していない面もあります。

第5章は、今後の日本への示唆などについて。技能実習生の問題や社会統合の問題などが簡単に触れられています。

このように非常に内容が盛りだくさんの本です。トランプ現象の背景が読み解けるとともに、アメリカの教育・福祉・犯罪と移民の問題の関わりを知ることができ、さらにエスニック・ロビイングを通じて、国境を超えた政治活動についての知見を得ることができる。これだけの内容をコンパクトにまとめた新書というのはなかなかないと思います。
今年の秋の大統領選挙を前に、多くの人に薦めたい本ですね。

移民大国アメリカ (ちくま新書)
西山 隆行
4480068996
民衆が自由と民主主義を求めた運動、政変に敗れた板垣退助、後藤象二郎、大隈重信といった人物が再び政治的影響力を取り戻すために始めた運動、のちの大陸進出につながるナショナリズムをつくり上げていった運動など、自由民権運動についてはさまざまな見方、評価があります。
そうした中で、この本は自由民権運動を近世社会から近代社会の移行期に、その新しい社会を自らで創りだそうとした運動として捉えています。
このように書くとかなり格調高く聞こえますが、実際、この本で紹介されるいくつかのビジョンは時代錯誤であり、ご都合主義なものです。そうした、駄目な部分も含めてとり上げることで、自由民権運動に新しい光を当てた本と言えるでしょう。

著者は『町村合併から生まれた日本近代』(非常に面白い本で、おすすめです)で、町村の再編によって、いかに近世社会から近代社会への移行が行われたかということを明らかにした松沢裕作。
今作でも、近世から近代への移行期に生きた人々の姿を、さまざまなエピソードや史料から明らかにしようとしています。

目次は以下の通り。
第1章 戊辰戦後デモクラシー
第2章 建白と結社
第3章 「私立国会」への道
第4章 与えられた舞台
第5章 暴力のゆくえ
終章 自由民権運動の終焉

まず、著者は日本における「デモクラシー」が戦争の後に盛り上がったことに注目します。
大正デモクラシーは日露戦争の後に起こりましたし、戦後民主主義も十五年戦争の後に起こりました。そして、戊辰戦争の後に起こったのが、この自由民権運動だというのです。

自由民権運動の指導者というと、板垣にしろ大隈にしろ薩長の藩閥に敗れた「敗者」というイメージが強いですが、著者が光を当てるのはむしろ戊辰戦争の「勝者」としての立場です。
この本では板垣退助と河野広中という二人の自由民権運動家を詳しくとり上げていますが、この二人は戊辰戦争の「勝者」になります。河野広中については福島出身ということで旧幕府側の人間と思う人もいるかもしれませんが、河野は奥羽越列藩同盟に参加していた三春藩を新政府側に恭順させるために努力した人物です(4ー8p)。
しかし、板垣。そして特に河野は戊辰戦争に対する自らの貢献(というか貢献の自負)に見合った処遇を受けることは出来ませんでした。それが彼らを自由民権運動に結びつけることになります。

河野広中は三春の魚問屋に生まれた人物で、近世社会であれば彼が政治的な発言権を持つことはありえません。
著者は、近世の身分制を上下のヒエラルキーというよりは、人間がいくつかの「袋」にまとめられ、その積み重ねによって社会が出来上がっているようなものだといいます。
武士は藩に所属し、百姓は村に所属しており、それぞれが袋のような形で中にいる人々を保護し、統制しているのが近世社会なのです(24ー26p)。
しかし、明治維新によってこの「袋」は破れます。また、江戸時代の末期になると博徒や日用と呼ばれる日雇い労働者など、「袋」からはみ出すような存在も生まれていました。
幕末の洋式軍隊では、このような博徒や日用が歩兵として集められました。西洋式の軍隊とそれまでの武士のやり方では、軍隊編成の根本が違い、こうした人々を集めざるを得なかったのです(17ー23p)。

1874年、民撰議院設立建白書が提出されたことによって自由民権運動はスタートを切りますが、この建白書に対して二つの批判が寄せられました。
一つは「有司専制」を批判していながら、主要な提出メンバーも少し前まで「有司」ではなかったのか? という批判、もう一つは民撰議院の設立は長期的な目標であって、今の日本では時期尚早であるという加藤弘之の批判です。
ここで注目すべきなのは民撰議院設立そのものには誰も反対していない点です。民撰議院は誰もが同意する「錦の御旗」であり、それは「権力から追われたものが、ふたたび権力に「わりこむ」ための道具という側面をもっていた」(46p)のです。

この後、自由民権運動推進のために各地で結社がつくられます。この結社は自由民権運動を進めるとともに、近世社会の「袋」を補完するようなものでもありました。
板垣らが立ち上げた土佐の立志舎はよく知られた結社ですが、活動の大きな柱として困窮した士族への援助があり、県庁と癒着しながら「袋」を失った士族を保護しようとしました。
立志社に関しては、西安戦争の際、西郷と呼応して武力蜂起をしようとしたと言われてますが、西南戦争で西郷は敗北。立志社の権力に「わりこむ」動きは挫折することになります。

権力に「わりこむ」運動に挫折した人々は、今度は愛国社を中心に自分たちの力で身分社会にかわる新しい秩序を創ろうとします。
このように書くと非常に立派なビジョンですが、この愛国社に集まった各地の結社はその性格も様々で、まさに「同床異夢」という言葉がピッタリとくるようなものでした(この結社がシーダ・スコッチポルが『失われた民主主義』で描いたようなアメリカの会員に保険を提供するようなものに育っていけば日本の社会も少し違うものになっていたのかもしれません)。

頭山満らがいた福岡の向陽社(後の玄洋社)は、筑前国すべての人々を組織しようとした結社で、町村→郡→筑前国の積み上げによってつくられた一種の民会組織を目指していました(77ー79p)。
越前の天真社は、地租改正不服運動を背景にして、村単位の参加を求めて結社をつくろうとしました一方、福沢諭吉が中心となった交詢社では、知識の交換や交流に主眼が置かれていました(80ー86p)。

愛知県の愛国交親社は、戊辰戦争に参加した博徒など中心とした結社で、「撃剣会」の興行を行い、さらに「愛国交親社に加入されば二人扶持の俸禄が支給され、さらに腕力のあるものには帯刀が許される」「入社すれば兵役を免れる」「税金が免除される」といった文句で勧誘活動を行っていたそうです(92ー96p)。
これは「自由民権」でもなんでもなく、要するに「愛国交親社に入れば武士になれますよ」ということです。
著者はこれを「参加=解放」型の幻想と名付けています(96p)。結社に参加することで、社会的な上昇を果たすことできるという幻想が共有され、その時のイメージとして、誰もが知っている「武士」という身分が利用されたのです。

このような人々の雑多な夢を取り込みながら、自由民権運動は展開していくことになります。
1881年の明治十四年の政変によって国会の開設が決まったあとも、立憲改進党がすでにあった府県会での活動に熱心であったのに対して、自由党は既存の秩序である府県会には否定的でした。
この本では1882年に起きた福島事件がそのような観点から分析されています。この事件で逮捕された河野広中は、県令・三島通庸の暴政に苦しめられている農民と連帯して戦ったわけではなく、県会でひたすら三島と対立し続け、その反政府的な動きがもとで逮捕されたのでした(146ー163p)。

この福島事件を皮切りに、激化事件と呼ばれる自由党の関係した暴力事件が起きていくのですが、その背景には「暴力に訴えてでも新しい秩序を自分たちの手で創出する」(190p)という自由党の思想の中核にあるものがありました。
その新しい秩序というものは現状否定以外の共通点を持つものとは言いがたいものでした。
この本でとり上げられている秋田事件(秋田立志会のメンバーが資金調達のために強盗を行った事件)を起こした秋田立志会は、先ほど出てきた愛国交親社と同じように「参加すれば永世禄が支給される」「徴兵制を廃止し、立志会のメンバーが軍事力の担い手となる」といった謳い文句で勧誘を行っていましたし(172ー177p)、愛国交親社のメンバーも強盗事件を起こして逮捕されています(186p)。

この現状否定路線は、自由党が解散し、激化事件の中でももっとも大規模なものとなった秩父事件が軍隊によって鎮圧されたことによって終りを迎えます。そして、著者はこの2つの出来事が起こった1884年をもって自由民権運動は終わったとしています(204p)。
自分たちの手で新しい社会を創り上げる運動は挫折し、政府によってつくられた憲法や帝国議会という舞台の上で新しい政治がスタートすることになるのです。

大隈重信の動きや松方デフレの影響などについては、この本ではあまり触れられていません。ですから、自由民権運動のすべてを描いた本だとは言えないと思います。
しかし、近世社会から近代社会の移行という点に注目しながら、自由民権運動を語り直してみせたこの本は、歴史の理解に新しい視点を提供してくれるものですし、何よりも面白いです。また、コンパクトにまとまった本でありながら、「文献解題」もついており、今後、自由民権運動を考えていく上での「最初の一冊」となっていくのではないでしょうか。

自由民権運動――〈デモクラシー〉の夢と挫折 (岩波新書)
松沢 裕作
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自分は現在、東京で社会科の教員をしているのですが、教えるときにいつも難しさを感じるのが部落差別の問題です。
今の東京の中学生や高校生だと部落差別についてまず知らないですし、「結婚や就職などで差別があったりする」と言ってもなかなかピンとこない様子です。結局、「江戸時代には「えた」、「ひにん」と呼ばれていて」といった歴史的な経緯を中心に話すのですが、いつも部落差別を知らない生徒に部落差別の存在を教えることに引っ掛かりを感じていました。

そうした部落差別を語ることの難しさを、部落出身のライターである著者が解きほぐしてくれたのがこの本。
部落差別をなくすための取り組みの相反する方向性を明らかにしつつ、橋下市長の出自をめぐる『週刊朝日』の問題や、映画「にくのひと」の上映をめぐる問題、さらに部落での新しい動きなどをとり上げることによって、今なお続く差別や、解消のための方向性を探ろうとしています。

目次は以下の通り。
第1章 被差別部落一五〇年史
第2章 メディアと出自―『週刊朝日』問題から見えてきたもの
第3章 映画「にくのひと」は、なぜ上映されなかったのか
第4章 被差別部落の未来

著者は「はじめに」の部分で、基本的に、あらゆる反差別運動は非差別当事者を残したまま、差別をなくすことを目指している、と言っています。障害者差別に反対する障害者は「障害者でなくなること」を目指しているわけではなく、「障害者のままで暮らせること」を目指しているわけです。
しかし、部落解放運動に関しては「部落民のままで暮らすこと」と「部落民でなくなること」の間を揺れ動いてきました。
このことについて著者は次のように述べています。
部落解放運動は、部落民としての開放を志向しながら、「どこ」と「だれ」を暴く差別に対して抗議運動を続けてきた。しかしそれは出自を隠蔽することにもつながる営為であった。部落民としての解放を目指しながら、部落民からの解放の道を歩まざるを得なかった。
差別をなくす過程で、部落を残すのか、それともなくすのかという課題を、私たちは整理できていないのである。現在起きているさまざまな問題は、この部落解放運動が抱える根本的矛盾から派生している、と私は考える。(9p)

第1章では、全国水平社から始まる部落解放運動の歴史が振り返られています。
水平社宣言のなかでは、「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」(26p)と、「部落民のままでの解放」が宣言されていますが、実際、すべての部落民が「部落民のままでの解放」を望んだわけではありませんでした。

また、全国水平社の創立大会の参加者から「(宣言では)自らは、特殊部落民、エタといっていて、自分たち以外の人がこう呼ぶことはけしからん、というのは、どうも納得がいかない」との声も出たそうで(31p)、呼称の問題はこの後もずっと付きまとうことになります。
著者は「あってはならない存在を固定化するという矛盾を、部落解放運動は当初から内包していたのである」(32p)と言います。

その後も部落の暮らしは改善されず、1960年に発足した同和対策審議会の答申を受け、1969年に同和対策事業特別措置法が施行されることになります。
しかし、この同和対策事業は、「どこ」と「だれ」を明らかにしなければしなければ前に進まないものでした。そして、33年間で15兆円が投じられた事業によって部落の環境は大きく改善されましたが、結果的に部落(同和地区)を残存させることにもなりました(44ー45p)。

このように書いていくと、やはり「部落民でなくなること」(部落を解消していく)を目指していけばよかったのではないかと感じる人もいるかもしれませんが、差別というものはそう簡単なものではありません。

この本の第4章には、大阪の箕面市の北芝という場所で、新しい部落の形を模索する人達の姿が紹介されてます。
同和対策事業特別措置法の功罪や、それを乗りこえて新しい街づくりを進める人々の姿は非常に興味深いのですが、その個々人のエピソードの中に部落問題の根強さが顔を出しています。

例えば、1950年代半ば生まれで新しい街づくりを始めた世代の人々は、部落出身でありながら、部落差別の話を聞いて、「この世の中に、そんな差別なんかあるかい」と答えたそうです(188p)。
しかし、交際だ結婚だとなると差別にぶち当たります。当事者が「部落民でなくなっても」、周囲がそれにこだわるのです。21世紀になった今でも、こうした差別に直面する若者は少なくありません。

そして、部落に対する「外からのこだわり」を露呈させたのが、この本の第2章で取り上げられている橋下市長をめぐる『週刊朝日』の記事の問題でした。
ノンフィクション作家の佐野眞一によるこの記事では、橋下氏の父親が部落出身者であることが指摘した上で、その出自と橋下氏の性格や本性を結びつけるような記述がなされていました。
この連載は橋下氏からの抗議もあり、すぐに打ち切られることになりましたが、この記事自体も部落に対する差別意識があってこそ成り立つような記事でした。

著者は、こうした橋下氏の出自を「暴く」記事が『週刊朝日』以前にもいくつかあったことを指摘し、その誤りについても書いています(橋下氏は大阪市の同和地区に引っ越して暮らしていたと報じられているが、そこは同和地区の隣接地区であって同和地区ではない、など)。
橋下氏の主張や政策への批判があるのは当然ですし、人間的に好きになれないといった感情を持つ人もいるかもしれませんが、それが今なお「出自」や「血脈」と重ねられてしまう。そういった社会意識が、少なくともマスコミには生きているのです。

また、部落問題がこじれているのは、部落解放運動を進める側の閉鎖性や定まらないスタンスにも原因があります。それを明らかにしているのが第3章の映画「にくのひと」の上映中止をめぐる問題です。
2007年、ある大学生が食肉センターを取材したドキュメンタリー映画を撮影し、部落解放運動の研修会やアムネスティ映画祭で好評を博し、田原総一朗ノンフィクション賞の佳作を受賞しましたが、結局、一般上映されることはありませんでした。
食肉センターのある地元の部落解放同盟の支部から「待った」がかかったからです。

支部が問題にしたのは、「エッタ」という言葉が使われているシーンと、地名や食肉センターの住所が明記されているシーン。
食肉センターの住所を表示するのは、どこが部落であるのか知らせているのと同じだという主張なのですが(143p)、これに対し、食肉センターの責任者で撮影を許可した中尾氏は「"寝た子を起こすな"という考え方と一緒や」(145p)と批判しています。
解放同盟の中でも、「部落民のままで暮らすこと」と「部落民でなくなること」の両立し得ない二兎を追うような態度が見られるのです。
こうした状況で、「触らぬ神にはたたりなし」と遠ざけられているのが現在の部落問題ではないでしょうか。

この状況に風穴を開けるものとして紹介されているのが、先ほどの部分でも少し触れた、第4章の北芝という地区を紹介した部分です。
部落であること隠すのではなく、また一方的に援助を受けるわけではなく地域として自立していこうとする姿は非常に興味深いものです。

橋下市長は「いわゆる被差別部落の問題をひとつひとつ解決していこうと思えば、役割を終えたものはできる限りなくし、普通の地域にしていくのが僕の手法」と述べたそうですが(276p)、著者は「そう簡単に歴史が風化するわけではない」(277p)と言います。また、ネットの普及は「風化」を許さなくなっています。
「出自」や「血」といった全近代的な感覚ではなく、「歴史を背負った地域」という見方で部落問題を考えていくことが必要なのでしょう。

なお、この本の持つ問題意識については、梶谷懐氏のブログでより広い視野からとり上げられています。一読をおすすめします。

ふしぎな部落問題 (ちくま新書)
角岡 伸彦
4480068961
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