2020年01月
中国を筆頭に目覚ましい経済成長がつづくアジア地域。この地域はグローバル・バリューチェーンという国境を超えた生産工程が発展している地域であり、EUのような組織はなくとも経済は緊密に結びついています。そして、以前のように日本を先頭にした他の国々が追随しているといった形では説明できなくなっています。
そんなアジア経済の変化について分析したのがこの本。内容的には去年読んで面白かった猪俣哲史『グローバル・バリューチェーン』と被る部分がありますが、『グローバル・バリューチェーン』がマクロ的な分析に重きをおいていたのに対して、本書は、著者が伊藤忠でアパレル部門の仕事をしていたということもあり、よりミクロの動きがわかるようになっています。ビジネス関係の人には本書のほうがとっつきやすいと思います。
なお、「アジア経済」と銘打っていますが、分析対象は、日本・中国・韓国・台湾・ASEANになっており、インドや中東地域などは含まれていません。
目次は以下の通り。
第1章 「日本一極」の20世紀第2章 アジアの21世紀はいかに形成されたか第3章 グローバル・バリューチェーンの時代第4章 なぜ日本は後退し、アジア諸国は躍進したか第5章 もう一つのアジア経済終章 アジアの時代を生き抜くために
第1章では20世紀のアジア経済がデータを中心に語られていますが、そこから見えてくるのはタイトル通りの「日本一極」の姿です。
11pの図表1-1a「主要国GDP推移の比較」、14pの図表1-2a「1人あたりGDP(名目)」をみると世界の中でも日本の経済成長は際立っています(ただし、名目では主要国トップとなった1人あたりGDPもPPP(購買力平価)ベースでみるとアメリカやドイツを下回っている(16p図表1-2b参照)。
こうした日本一極の時代に唱えられたのが「雁行形態論」です。これは途上国における国内産業の盛衰を輸入ー国産ー輸出ー再輸入というプロセスで論じたもので、例えば、50年代の日本では労働集約的な繊維産業が主要な輸出品でした。それが人件費の上昇とともに、主要な輸出品は繊維から60年代には鉄鋼。そして70年代にはテレビへと変化していきます。一方、アジアNIEs諸国の主要輸出品は60年代が繊維、70年代は鉄鋼、それにつづく先進ASEANでは70年代になると繊維産業が輸出産業として発展してきます(27p図表1−5参照)。
こうした発展はキャッチアップ型工業とも言われます。特にアジアでは1985年のプラザ合意によって円高が進んだことが、日本企業によるアジアへの海外直接投資(FDI)に拍車をかけ、労働集約的な産業はアジアの他の国々へと移っていきました。
そして、90年代以降、アジアで、そして世界で大きな存在感を見せ始めたのが中国です。中国は人口や軍事力からいって大国でしたが、経済的には1990年の時点でGDPが日本の1/9しかなく、今からは考えられないほど小さな存在でした。
しかし、1978年の改革開放政策の採用、そして92年の南巡講話などをきっかけとして、中国は巨大な工業国に成長していきます。
こうしたアジア経済の発展は、1993年の世界銀行の『東アジアの奇跡』という報告書でもとり上げられました。このレポートの作成と刊行には日本が資金援助をしたそうですが、政府の輸出振興策を評価し、輸出志向型工業化の重要性を訴えている点が特徴でした。
この「東アジアの奇跡」はクルーグマンによって否定され、97年にはアジア経済危機が起きますが、そこでアジアの経済成長は終わったわけではなく、21世紀に入ると中国を筆頭にアジア経済はますますその存在感を増しています。
21世紀になると、アジアは他地域よりも高い経済成長を示すようになり(55p図表2−1参照)、1980年に14%だった地域別GDP比率は2017年には27%になりました(56p図表2−2参照、なおここでは冒頭にあげたアジアの範囲から台湾が抜けている)。
ただし、その経済発展の水準が一様でないのもアジアの特徴で、一人あたりのGDP(名目)で見ても、5万7000ドルを超えるシンガポールから1257ドルと「低所得」のカテゴリーを少しだけ上回るミャンマーまでまちまちです(58p図表2−3参照)。
アジア経済のポイントの1つは輸出をベースとした「外向き」である点で、全世界の輸出に占めるアジアの割合は1990年の約18%から2017年には約31%にまで拡大しています。輸出先に関しては90年の段階では北米向けがトップでしたが、17年にはアジア向けがトップとなっています。日本のアジア向け輸出も90年の21.8%から17年には40.1%にまで拡大しています(68−69p図表2−6参照)。
品目では電子機器・機械類が増えているのが特徴で、中国の輸出品のトップは92年には衣類・靴製品約23%でしたが、16年には電子機器・機械類43%となっていますし、ベトナムでも00年に26%でトップだった原油は、16年には電子機器・機械類38%となっています(72p)。
FDIに関しても、以前はコスト削減のための「垂直型直接投資」がさかんでしたが、ホンダのスーパーカブなどはバイク需要の高い東南アジアのニーズに対応するために、企画などに関してもタイで行われています。
こうしたアジアの貿易と投資の活性化を支えたのがWTOとFTAやEPAです。
WTOに関しては、01年に中国が、92年に台湾が、04年にカンボジアが。07年にベトナムが、13年にラオスが加盟し、本書が設定するアジアのすべてが加盟しました。
FTAも急増していますが、FTAに関しては、その製品の一定程度がその国で生産されなければならないという原産地規則という実務上やっかいな問題も存在します。このための書類を揃えるコストもばかにならないわけですが、日本の企業に関する分析ではそのコスト以上の便益を得ているそうです(90p)。
著者は、欧州などとは違って制度が先行するのではなく、民間企業が先行し、それを制度的な枠組みが後押ししたのがアジアの特徴だと考えています。
この民間企業が主導し、アジアの新しい潮流となっているのが第3章で取り上げられているグローバル・バリューチェーンです。
現在、商品の生産工程は分割され、その分割された工程は国境を超えて展開しつつあります。例えば、衣服でいえば、A「製品企画・デザイン」→B「生地などの生産・調達」→C「縫製・組み立て」→D「マーケティング・流通」という4つの工程があります。一時はこのすべてが日本国内で行われていましたが、現在ではA,Dは日本、Bは中国、Cはベトナムといった具合かたちでグローバル・バリューチェーンが構成されています。
こうした国際分業は以前から見られましたが、ネットが普及していない90年代前半までは細かい部分は実際に出張を繰り返して打ち合わせをするしかなく、時間とお金の両面でのコストがかかっていました。ところがICTの発達はそうした壁を取り払ったのです。
こうした生産工程の分割(フラグメンテーション)が進むと、特定の工程が同じ場所に集積するアグロメレーションと呼ばれる現象も起きます。例えば、21世紀になると労働集約的な縫製の工程はベトナムに集積するようになりました。
ある国に関して、特定の産業が強いといった見方は意味を成さないようになってきており、どの工程や機能が集積しているかがポイントになってきます。例えばベトナムではスマートフォンやプリンターなどの電子機器の輸出が大きく伸びていますが、ベトナムにあるのは基本的には労働集約的な組み立ての工程です。
このためアジアでは欧州、北米に比べて中間財の貿易がさかんになっています(112p図表3−2参照)。
以前は統合型だった生産形態も市場型に変化する産業も出てきました。例えば、自転車産業は、以前は各部品のすり合わせが重要でしたが、部品のインターフェイスが共通化されることで、変速機のシマノのような基幹サプライヤーの部品を組み合わせて生産が可能になりました。
こうした中で、アジアでは各工程の高度化も進んでいます。縫製というと比較的熟練を必要としない工程のように思われますが、経験が物を言う暗黙知の領域の部分も多く、生産スピードに労働者の能力が大きく関わってきます。ベトナムでは00年代初頭、1人あたり1日4枚程度だったアウトプットは10年頃には20枚を超えるレベルに上がったといいます。
ただし、そうは言っても縫製の付加価値は低く、工程の中で高い付加価値を上げるのは「製品企画・デザイン」、「マーケティング・流通」の部分です。生産フローの最初と最後の付加価値が高く、途中の付加価値が低いことをグラフから「スマイル・カーブ」と呼びます(128p図表3−6参照)。
「中所得国の罠」という言葉がありますが、これはアジアの後発諸国がなかなか最初と最後の工程に進出できていないことから説明できるかもしれません。
日本に関しては、アジアにおいて最初と最後の工程を握っていたので安泰と言いたいところなのですが、そうも言えなくなってきたというのが第4章の分析になります。
その理由の1つが産業が「擦り合わせ(インテグラル)」型から「組み合わせ(モジュラー)」型へと変化してきたことです。例えば、80年代に登場したノートパソコンは当初インテグラル型の製品でした。限られたスペースに多くの部品を互いに干渉することなく詰め込むには高い技術が必要だったのです。ところがインテルのCPUが登場し、そのインターフェイスが標準化されると、ノートパソコンはモジュラー型の製品となり、台湾企業が市場を席巻していきます。
これはブラウン管テレビから液晶テレビの変化の中でも起きたことですし、自動車に関しても電気自動車に関してはモジュラー型の要素がかなり強くなります(中国の電気自動車メーカーBYDはもともと電池メーカー)。
この変化によって日本企業の立ち位置も変わりつつあります。以前はiPhoneなどでも日本製の基幹部品を中心に中国で組み立てるといった性格が強かったのですが、近年では有機ELディスプレイなどの基幹部品も中国製となりつつあります。
R&D支出のGDP比や知識集約的なサービスに従事する労働者比率、海外からの知的財産権等の使用料の支払いなどから算出されるグローバル・イノベーション指数では、日本はアジアにおいてシンガポール、韓国、香港、中国につぐ第5位であり(07年の時点では日本はアジアの1位(150−151p)、日本を追い越すような動きが見られます。日本一極の時代は終わり、アジアは多極化の時代を迎えたと言えるでしょう。
対外FDIを見ても、日本、韓国、台湾などに加え、タイ、中国がネット(差し引き)の投資国となっており、20世紀とは状況が一変しました。ちなみにこの本では日本の対内投資の極端な少なさ(対外投資に比べて対内投資が少ない)も指摘されています(161−162p)。
最後の第5章ではインフォーマル経済についてとり上げています。インフォーマル経済というのは、例えば、東南アジアの都市で見られる露天商などの経済活動です。この正規に登録されていない事業所以外で働くインフォーマル雇用の割合(農業従事者を除く)は、日本では12.0%ですが、韓国では23.3%、中国で47.7%、インドネシアで62.7%、カンボジアで67.3%といった具合になっています(168p図表5−1参照)。
インフォーマル経済というと露天商、行商、ゴミ拾いなどだけを思い浮かべるかもしれませんが、例えばベトナムではインフォーマルに操業するアパレル企業というのもあり、フォーマルな企業は輸出、インフォーマル企業は国内向けと行った具合の棲み分けが行われていることもあり、海外向けの製品の縫製のみを行うフォーマル企業に対して、インフォーマル企業はデザインや企画(コピー製品も多いですが)なども行っているケースもあります。
一方、タイでは人件費の高騰で競争力を失ったアパレル産業がミャンマーとの国境沿いのメーソートという地域に集積し、国境を超えて働きにくるミャンマー人(多くは許可証なし)を雇用しているケースもあり、こちらも多くはインフォーマルな存在です。
このようにインフォーマル経済には、ベトナムのようにそこからステップアップできるかもしれない可能性と、タイのメーソートに見られるような、いわゆる「底辺への競争」的な側面もあります。
また、本章の最後では米中貿易摩擦の影響に関しても、簡単にではありますがとり上げられています。
終章では日本の今後についての提言がなされています。「選ぶ日本」から「選ばれる日本」へ、ということや、多様性の確保といったことはその通りでしょう。そして、その中で興味深いのは一国の持つ生産的知識の多様性とその能力の遍在性(あるいは希少性)に注目した経済複雑性指標で、日本は現在でも世界のトップだということです。日本には多様性がないとされる中で、生産的知識は世界トップの多様性があるというのは興味深いです。
このように本書は世紀をまたいだアジアのダイナミックな変化がよく分かる1冊となっています。40代以上だと、日本企業がコスト削減のために移転した先としてのアジアの印象が強い人もいるかも知れませんが、本書を読むと21世紀になってからそのアジアが大きく変貌していることがわかると思います。
また、冒頭でも述べたように著者に商社勤務の経験があることもプラスに働いていて、ビジネスの人にもわかりやすい語り口になっていると思いますし、読みやすい1冊に仕上がっています。
- 2020年01月27日21:54
- yamasitayu
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岩波新書から刊行されている〈シリーズ アメリカ合衆国史〉の第3巻。20世紀の幕開けから1970年代までを取り扱っています。
実は、岩波新書からは中国史も刊行中で、このアメリカ合衆国史のほうはスルーするつもりだったのですが、この第3巻に関してはネットなどでの評判も非常に良いので読んでみました。
読んだら評判通りに面白かったです! 1900〜70年代というと、大統領を見ても、セオドア・ローズヴェルトがいて、ウィルソンがいて、フランクリン・ローズヴェルトがいて、ケネディがいて、といった具合に豪華絢爛であり、これを250ページ以内の新書に収めることは不可能では? と思ってしましますが、それを社会思想やそれに基づいた社会政策などの面から鮮やかに読み解いていきます。
特にフランクリン・ローズヴェルト以降の民主党を支え、民主党の時代をつくり上げた「ニューディール連合」がいかに形成され、いかに解体したかということがわかりやすく描かれており、トランプ大統領を生み出したアメリカの政治風土なども理解できるようになっています。
シリーズものの1巻ではありますが、もちろん本書だけ読んでも何の問題もないですし、アメリカの政治と社会を考える上で重要なことを教えてくる本だと思います。
目次は以下の通り。
第1章 革新主義の時代第2章 第一次世界大戦とアメリカの変容第3章 新しい時代―一九二〇年代のアメリカ第4章 ニューディールと第二次世界大戦第5章 冷戦から「偉大な社会」へ第6章 過度期としてのニクソン時代
1901年9月、マッキンリー大統領が暗殺され、副大統領だったセオドア・ローズヴェルトが42歳という若さで大統領に就任します。
このセオドア・ローズヴェルトの初めての年次教書には、無政府主義者への断固たる態度、独占企業のもたらす問題やそれに対する連邦政府の介入の必要性、移民の選別、フィリピンをはじめとする植民地経営などが書き込まれており、いわゆる「大きな政府」へ向けての萌芽が見られます。
セオドア・ローズヴェルトの時代は革新主義の時代でもありました。「改革」を求める人びとは反独占、貧困の撲滅、選挙制度改革、禁酒など、さまざまな分野に登場しましたが、そこで重要なのは彼らが「社会的な」問題領域を発見したことです。そして、その解決のために彼らは匿名的な連帯を追い求めました。
この連帯において消費者という1つの共通の立場が見いだされ、指標として生活水準が語られるようになっていきます。
しかし、こうした「社会」への注目は、異なる生活文化を持つ「他の人々」の存在を炙りだすことにもなりました。生活困窮者を人種・民族的(エスノ・レイシャル)な出自と結びつけて理解する考えが広がっていきます。
1907年移民法の成立とともに議会に移民に関する特別委員会が設置されますが、ここでは識字率などによって移民を選別しようという議論がなされ、1917年に成立した新しい移民法では、「入国時に識字テストと人頭税を課し、またアジアからの移民を禁止するもの」(17p)となりました。自分たちのアイデンティティに同化できるかどうかを人種・民族で区別しようという動きも生まれてきたのです。
対外政策としては相変わらずモンロー・ドクトリンが受け継がれたようにも見えますが、もともとはアメリカ大陸におけるヨーロッパの干渉を排除するものだったのに対して、この時代になるとそれは「中米カリブ海を念頭において、特定地域の政治・経済安定のためにはアメリカ合衆国が敢えて内政干渉を行う必要を説い」(27p)たものへと変質していきます。
キューバやフィリピンといった地域は「さながら革新主義者の実験室の様相を呈し」(31p)ました。これらの地域では公衆衛生、環境保護、刑務所の民主化、薬物の取締りなどが行われ、それがアメリカ本国に還流していきます。
1912年の大統領選挙ではウッドロー・ウィルソンが勝利します。彼は学者出身の理想主義者のイメージがありますが、同時に南部民主党が選出した人物でもあり、「人種隔離を支持し、クー・クラックス・クラン(KKK)の騎士道を信じる南部人」(38p)でもありました。
このウィルソンが第一次世界大戦の勃発に直面することになるわけですが、当初、ウィルソンは大戦へのコミットメントに消極的でした。
このウィルソンとアメリカ国民の態度を変えたのが1915年に起きたルシタニア号事件だと言われています。ドイツの潜水艦によってルシタニア号が撃沈され多くのアメリカ人が犠牲となったのです。
しかし、現在ではルシタニア号事件とアメリカの参戦は直接には結びつかないと考えられています。ウィルソンはカリブ海の国々などへの軍事介入を続けており、1916年にはメキシコとの間で軍事衝突を起こします。こうした中で、ウィルソンは中南米で模索していた集団安全保障の構想を全世界に拡大させるような考えを表明します。
1917年にウィルソンが「勝利なき平和」演説を行うと国内の革新主義者は参戦へと傾き、さらにドイツによるメキシコ尾の軍事同盟締結の動きが発覚すると、アメリカは参戦を決断するのです。
第一次世界大戦への参戦はアメリカ国内に大きな変化をもたらしました。全国規模の徴兵制が導入され、政府・産業界・労働界が結びついた動員体制が築かれます。労働組合はストライキを放棄し、「明白かつ現存する危機」があれば憲法上の市民権は制限可能だとする判決が出ます(シェンク対合衆国裁判)。
また女性の職場進出も進みますが、徴兵免除の条件に「扶養家族のある既婚男性」があったように家父長主義的な価値観が変わったわけではありませんでした。
黒人の間にも戦争をきっかけに地位の向上をはかるべきだとの声がありましたが、軍需工場で働くために南部の黒人が北部に移動したことは北部での人種的緊張を高め、1917年7月にはイリノイ州のイースト・セントルイスで大規模な人種暴動が起こっています。
軍隊においても黒人兵は鉄道建設や港湾労働などの軍事訓練を必要としない部門に回され、軍隊内でも人種的な隔離が行われました。
第一次世界大戦が終わると、戦中に行われた改革に対するバックラッシュともいうべき動きが起こります。高関税が復活するとともに、法人税や累進所得税が引き下げられ、連邦の児童労働規制法に違憲判決が出され、ワシントンDCの女性最低賃金法も無効とされました。
第2次KKKの動きも活発化し、1924年移民制限法では1890年のアメリカ国民の出身国という基準によってイタリアやポーランドからの移民を制限するとともに、アジア人全般の入国を基本的に禁止しました。
ウィルソンのあとにつづいた共和党政権は、トーマス・ラモントなどの民間外交に頼りましたが、完全に孤立主義に回帰したわけではなく、ドイツの賠償問題に関与し、ワシントン会議を主催してワシントン体制を構築しました。
1920年代、アメリカは未曾有の繁栄を迎え、「平均的アメリカ人」という考えが普及します。さらにこれは国境を超え、「非人格化された「平均的アメリカ人」は、世界を「同化」するモジュールとなりえ」(107p)ました。アメリカの大衆文化は世界中に広がっていったのです。
しかし、この繁栄は1929年10月に始まった大恐慌によって終わります。ときの大統領フーバーはこの大不況に無策だったと見られていますが、公共事業や所得税の最高税率の引き上げは行われましたし、また、ブロック経済を阻止し、貿易を活性化するための国際協調を目指しました。
ところが、庶民を見殺しにしているとの印象は払拭できず、1932年の大統領選挙ではフランクリン・ローズヴェルトが圧勝し、民主党が上下両院で多数を占めました。
1933年の3月に始まった臨時議会(百日議会)でローズヴェルトは次々と法案を通過させていきます。それは「フーバーの産業自治論を引き継ぐものから、巨額の国家資金を市場に投入するもの、さらには革新主義者の救貧、コミュニティ運動を彷彿とさせる「社会的な」政策など、実に多様な理念とアプローチが存在して」(134p)いましたが、政府が立案し、独立した行政機関の設置を求めていた点では共通していました。行政主導が際立つようになります。
ローズヴェルトはしばしば「恐怖」という言葉を使いましたが、これを梃子にして行政機関と大統領権限の拡大がなされたのです。
1935年のシェクター鶏肉会社対合衆国裁判で、最高裁が全国産業復興法(NIRA)に違憲判決を出すなど、ニューディールは抵抗にもあいましたが、ローズヴェルトは全国労働関係法(ワグナー法)を成立させ、労働者保護の姿勢を強めます。この過程の中で、産業別労働組合会議(CIO)が誕生し、労組は民主党の最も有力な集票組織となりました。
こうした中で、(1)民主党・都市政治マシーン、(2)労働組合、(3)中西部・南部農民、(4)都市部の左派知識人、(5)北部黒人労働者、(6)南部民主党(人種隔離主義者)からなるニューディール連合が形成されていきます(146p)。
これはどう考えても矛盾のある組み合わせなのですが、南部は南北戦争以来民主党の牙城であり、当選回数の多い民主党議員は南部出身者に集中していました。当選回数の多い議員が委員会の議長を務めることが多い連邦議会では、この南部民主党の力を借りることは必要不可欠だったのです。
ローズヴェルトは反リンチ法に冷淡な態度を取るなど、黒人を失望させることもありましたが、「経済的セキュリティ」の要請がこうした矛盾を覆い隠しました。
1939年、第二次世界大戦が勃発しますが、アメリカは中立政策をとり、ローズヴェルトも1940年の三選時は参戦に慎重な姿勢を示していました。しかし、41年になると参戦への姿勢を示し、12月の真珠湾攻撃をきっかけとして参戦します。
参戦は巨額の政府支出を伴い、巨大企業の収益にもつながりました。労働組合はストを放棄する代わりにその組織を拡大させます。景気は回復していきましたが、この景気回復は「経済的セキュリティ」の要請を弱め、社会を保守化させます。1942年の中間選挙では共和党が大きく巻き返しています。
これを受けて44年の大統領選挙でローズヴェルトは副大統領候補をニューディールを推進してきたウォーレスから保守派のトルーマンに差し替えます。そして45年4月にローズヴェルトが急死したことによって、このトルーマンが大統領となるのです。
トルーマンは外交経験があまりない人物でしたが、彼が直面したのは核兵器という新しい兵器の登場と冷戦でした。
トルーマンは共産主義の脅威に対して、国家安全保養会議(NSC)をつくり、その下部組織としてCIAをつくるなど、安全保障を強化します。一方、ソ連との対抗上、国務省などから南部の人種隔離政策に厳しい目が注がれていきます。「アジア・アフリカの新興国をめぐるソ連との攻防において、人種問題はアメリカニズムの「アキレス腱」だという認識」(183−184p)が生まれてきたのです。
48年の大統領選において、トルーマンは黒人市民権の擁護を掲げ、南部民主党の離反を招きつつも、黒人票の大部分を獲得し、再選に成功しました。
しかし、朝鮮戦争の泥沼化、国内でのマッカーシズムによってトルーマンの人気は凋落し、1952年の大統領選挙では共和党のアイゼンハワーが勝利します。これは33〜69年まで続いた民主党政権の小休止とも言える時期でした。
アイゼンハワーは国内では民主党の政策を継続しつつ、対外政策では民主党の理念外交や軍事費の増大に警鐘を鳴らし、安上がりな核兵器による抑止力に頼る姿勢を示しました。また、この時代は54年のブラウン判決により教育における人種隔離の慣行が否定され、55年にはローザ・パークスに始まるバス・ボイコット運動が起こるなど、黒人の市民権を求める動きが盛り上がりました。
1960年の大統領選に勝利したのは民主党のケネディですが、本書では「元来、ケネディは対外政策、特に軍拡と対ソ強硬路線に執着した政治家であった」(200p)と評されています。そのケネディはこの黒人公民権運動に接近し、南部政治の変革を視野に入れた動きを見せます。
しかし、ケネディは63年に暗殺され副大統領のリンドン・ジョンソンが大統領となります。ジョンソンはかつてニューディールの全国青年局の最年少幹部に抜擢されたこともあるリベラルであり、市民権法を成立させ、64年の大統領選に勝利しました。
ジョンソンは貧困問題にも取り組みましたが、ここで注目されたのが「貧困の文化」で、「人種」を文化的なものとして定義していく動きが見られました。対貧困戦争は冷戦の文脈のもとで進められ、「アメリカの大都市の一角にアジアや中米と同様の貧しい「村」を発見し」(209p)ていきました。この動きは目的こそ違いますが、ニクソンの対犯罪戦争やレーガンの対麻薬戦争に引き継がれていきます。
しかし、ベトナム戦争の泥沼化はジョンソンに大統領選への出馬を断念させることとなり、68年の大統領選挙では共和党のニクソンが勝利します。
ニクソンは「忘れ去られたアメリカ人」という言葉を使い、南部の守旧派や北部の労働者の一部の票を得ていきます。68年の大統領選ではジョージ・ウォーレスが獲得した低南部の州は、72年の大統領選では共和党の票田となります。
外交面では、ニクソンはベトナムからの撤退を進め、中国と国交を結び、ソ連とも軍縮を進めます。イデオロギーから離れたいわゆるリアリズム外交が展開されました。
保守色の印象が強いニクソン政権ですが、憲法の男女平等権修正条項(ERA)ではこの時期に両院を通過しています。郊外の住宅と専業主婦というニューディールの理想像は否定され、マイノリティの権利を求める運動が活発化したのです。
こうした動きに対してニクソン政権はアファーマティブ・アクションの全国的な実施を進めていきます。しかし、個人の権利を求めるフェミニストなどの運動とアファーマティブ・アクションの間にはズレもありました。アファーマティブ・アクションはあくまでも資源配分の政治なのです。
このアファーマティブ・アクションの導入について本書では次のように分析されています。
このアファーマティブ・アクションの反ニューディール的性格は、なぜこの制度が保守的なニクソン政権期に全国化し、定着していくのかを説明しよう。すなわち、ニクソンが推進した雇用に関する優遇措置は、白人が多数を占める労働組合と黒人労働者を離間させ、かつての一枚岩と言われた南部の民主党支持者の間にも複雑な分断を持ち込んだ。ニクソンの真意が奈辺にあったかは別にして、アファーマティブ・アクションの導入が民主党ニューディール連合を効果的に破壊し、共和党の党勢拡大を図るうえで合理的な選択であったことは確かであろう。(226−227p)
このような戦略でニクソンは72年の大統領選に圧勝しますが、ウォーターゲート事件の発覚によって退陣することになります。そして、「社会的なもの」への関心は薄れていき、反中絶など「文化的な」問題がもっぱら語られる時代へとアメリカは転換していくのです。
以上のように、本書はアメリカの20世紀を非常に高い密度で描き出しています。もちろん、書かれていない部分もありますし(当然、本書では触れているのにこのまとめでは触れていない部分もあります)、アメリカの対外政策にもっと触れてほしいという人もいるでしょう。
それでも、アメリカの社会と政治の変化をこれだけコンパクトかつダイナミックに描き出すということは並大抵のことではないです。トランプ時代を考える上でも示唆に富んでいますし、通史でありながらタイムリーな本でもあると思います。
- 2020年01月20日22:09
- yamasitayu
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安倍政権が長期化することで、同じ長期政権を築いた人物として比較の対象となったりすることも佐藤栄作の評伝になります。
生前の姿を知らない者からすると、佐藤栄作というのはイメージの湧きにくい人物です。吉田茂、岸信介、田中角栄、中曽根康弘といった政治家についてはその特徴をいくつかパッとあげることができそうですが、佐藤に関してはいまいちとらえどころがないです。
そんな佐藤に対して、本書は佐藤の特徴をいくつか打ち出してそれに沿った叙述をするのではなく、淡々と佐藤の事績を追っていきます。沖縄返還に関してはかなり力を入れて書いていますが、それ以外は比較的フラットな印象を受けます。「あとがき」に「現時点の研究状況と資料状況から政治家佐藤栄作について「私たちはいま、何がわかっているのか」を読者に届けることに務めた」(390p)とあるように、著者なりの大胆な見解のようなものも特にはありません。
ただし、淡々と事績を追った先に見えてくるものがあり、本書を読み進めながら徐々に佐藤の政治家としての特徴や優れていた点、そして退屈さが浮かび上がってきます。同時に佐藤政権誕生までの戦後史を丁寧に記述している点も1つの特徴です。
目次は以下の通り。
第1章 政界を志すまで―三つの時代の官僚として第2章 吉田茂の薫陶―憲政の再建と二つの日米安保条約第3章 政権獲得への道程―政党政治家としての成長第4章 佐藤政権の発足―戦後二〇年目の日本政治第5章 沖縄返還の模索―つきまとう七〇年安保の影第6章 一九七〇年を越えて―戦後の次の日本像第7章 総理退任後―晩年と残された人々
まずは佐藤という人間の「つまらなさ」を感じさせるエピソードから紹介します。
「1963(昭和38)年12月24日のクリスマス・イブ、佐藤は自宅で一人テレビをつけて趣味のトランプ占いをしていた」(122p)、ここに当時産経新聞の政治部デスクだった楠田實が訪ねてきて「Sオペ」が始まるわけですが、クリスマス・イブに1人トランプ占いをする63歳の佐藤。「つまらない」です。
その「つまらない」人間がいかにして総理になり長期政権を維持できたのか? この本を読むといくつかの偶然が見えてきます。
佐藤には身近に兄岸信介、伯父松岡洋右という政治家がいますが、東京帝国大学卒業時は官界ではなく日本郵船を受けようとしていました。ところが、その年の採用がなかったことから鉄道省に入ることになります。
1934年に在外研究を命じられアメリカを中心にイギリス、ドイツ、イタリア、フランスなどに滞在し、特に米国体験は強い印象を残したようです。
その後も鉄道省の官僚として活躍しますが1944年に大坂鉄道局長へ転出します。本人はこれを左遷ととりましたが、このときに大阪に行っていなければ戦後追放されていたかもしれません。また、この大阪時代に労働界にいた西尾末広と親しくなりました。
戦後、佐藤は吉田茂内閣において運輸大臣を打診されますが、この話は戦犯・岸信介の実弟であることをGHQが問題視し流れ、運輸事務次官となります。その後、片山内閣のもとで官房長官に就任した西尾末広から官房副長官の打診を受けますが、これを断っています。このときに佐藤は社会党から政界に入る道も考えたようですが、結局は48年に吉田茂の民主自由党に入湯しました。
この年に成立した第2次吉田内閣で佐藤は官房長官に抜擢されます。当時の官房長官は国務大臣ではなかったとはいえ、よほど実務能力を買われていたのでしょう。49年には衆議院議員に当選し、民自党の政務調査会長となります。さらに50年には自由党の幹事長になっています。
このように吉田の引き立てで自由党の役職を歴任した佐藤でしたが、日本が独立を回復し、鳩山一郎らの公職追放組が復帰すると、党内対立が激しくなり、吉田とともに佐藤の地位も不安定になります。
55年に自民党が誕生しますが、当初佐藤はこれに参加せず無所属となりました。57年、佐藤は自民党に入党します。同じ頃、兄の岸信介が首相となり、佐藤は再び要職を歴任していいくことになります。
岸内閣は安保闘争で倒れますが、続く池田内閣でも重要閣僚を歴任し、64年7月の自民党総裁選で池田にチャレンジしますが敗れます。ところが9月に池田の病気が発覚し、11月には佐藤内閣が誕生しました。首相になるまでの佐藤には運があったと見るべきでしょう。
次に注目したいのが実兄の岸信介との関係です。本書を読むと岸と佐藤の関係は良かったように見えますが、実際の仲は別として岸という特徴的な政治家の弟であったことは佐藤のイメージを大きく規定したことと思います。
佐藤がどのくらい「右寄り」だったかはわかりませんが(著者は、佐藤がライシャワーに対して核兵器保有の意向をもらしたと言われる問題に関してはライシャワーの誤解だと解釈しています(159p))、岸という非常に「右寄り」の政治家の弟ということで、佐藤を直接知らない人はおそらく「右寄り」のイメージを抱いたことでしょう。
ところが、佐藤が自民党総裁選にチャレンジするにあたって、楠田を中心としたSオペで決定された路線は、「右フック、左パンチ」(132p)という合言葉のもと、「真ん中より左」の政治家として佐藤を押し出すことでした。
総理になってからも、住宅政策などの「社会開発」を重要政策に掲げ、非核三原則を打ち出し、公害国会では公害に対して積極的な取り組みを見せました。兄のイメージとは違い、佐藤はまさに「真ん中より左」とも言える路線を歩んだのです(もちろん、革新官僚だった岸も「社会開発」には興味を示したかもしれませんが)。
本書で指摘されているわけではありませんが、「岸の弟」という佐藤のイメージは佐藤にとってプラスだった面もあるのでしょう。
佐藤の「真ん中より左」という路線は、自民党内の右派から批判されても仕方のないものです。ところが、佐藤には「右寄り」のイメージもあるため、右派の批判の矛先も鈍ります。ちょうど現在の安倍政権が安倍首相の「右寄り」のイメージによって、女性の活用や中国との緊張緩和などの政策について批判を受けずに進めることができているのと似ています。
また、佐藤が岸の弟でなかったら、福田赳夫あたりがもっと早くに佐藤に対してチャレンジしていたかもしれません。
さらに岸が経験した安保闘争が佐藤を沖縄返還へ駆り立てたとも言えます。
沖縄返還は佐藤の最大の業績であり、本書でもかなり紙幅を割いて書かれています。この沖縄返還の背景にあるのが、日米安保条約が自動継続となる1970年をどう迎えるのかという問題です。佐藤内閣発足時に官房長官の橋本登美三郎は「日米安保条約が自動継続となる[昭和]45年6月まではやりたい」(145p)と述べていますし、またSオペでも1970年が強く意識されています。
そして、本書を読むと、1970年を乗り越えるために沖縄返還に取り組んだことが、佐藤政権が長期化した大きな理由であることも見えてきます。
あとがきにおいて著者は、「沖縄返還交渉の随所で佐藤のリーダーシップには跳躍がみられ、その勝負に勝っている」(392p)と述べていますが、基本的に慎重な政治姿勢の佐藤ですが、沖縄返還交渉については前のめりです。
65年に首相となってから初めて訪米すると、ジョンソン大統領との会談で沖縄と小笠原の返還問題を提起し、同年8月には日本の首相として初めて沖縄を訪れています。このとき「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって「戦後」が終わっていないことをよく承知しております」(179-180p)と述べ、沖縄返還を日本の大きな課題として位置づけます。
当時、日本国内では沖縄返還は困難で、小笠原返還のほうが70年までに結果が出しやすいとみられていましたが、実はアメリカ側でも「1970年までにアメリカが沖縄の本土復帰を確約していなかったら、日米関係は重大な危機を迎えるだろう」(215p)という認識がありました。佐藤はこうした動きを知らなかったわけですが、結果的には前のめりともいえる沖縄返還への佐藤の姿勢は機を捉えたものでした。佐藤は国際政治学者の若泉敬を非公式な交渉者として渡米させ、沖縄返還への道を探っていきます。
67年11月の2回目の訪米で、佐藤はアジア開発銀行への出資額引き上げ、インドネシアへの援助増額などのカードを切る形で、ジョンソン大統領との間で「沖縄の施政権を日本に返還する」方針を確認し、「ここ両3年内」に返還時期に合意すべきことを共同声明に盛り込むことに成功します。
68年1月、佐藤内閣は「非核三原則」を表明します。野党は国会決議を求めましたが、佐藤は以降の内閣を拘束すべきではないと考え、これに否定的でした。4月には小笠原返還協定が調印され、6月には返還が実施されます。
いよいよ沖縄の番となるわけですが、ここで問題になったのが沖縄の核の問題でした。佐藤にとってもこれは難しい問題でしたが、69年には「核抜き本土並み」を明言します。ただし、アメリカ側は有事の核再持ち込みを求めており、このアメリカの意向は非核三原則と衝突しました。佐藤は「非核三原則の持ち込ませずは、誤りであったと反省している」(269p)ともらしています。
69年に佐藤は訪米しニクソンと会談します。ここで「核抜き」の復帰が決まるのですが、そのために佐藤は基地移転の財政問題や沖縄返還とは関係のない繊維問題で譲歩し、さらに核再持ち込みについての「密約」を結びます。「核抜き、本土並み、72年返還」が実現しますが、そのために佐藤はかなりの無理を重ねています。
この無理はアメリカとの力関係で強いられたものにも見えますが、この無理はニクソン・ショックによる円・ドルレートの急変によってドルを使用していた沖縄の人々の財産が目減りしてしまう問題にも発揮されました。佐藤は沖縄県民に対して1ドル=360円のレートを保証し、日本銀行の赤字を受け入れました。
このように佐藤は沖縄返還実現のためにかなり強引なこともしているわけですが、「沖縄返還を実現するまでは」という執念が政権の求心力を保ったことも事実でしょう。
沖縄返還においては強引さもあった佐藤でしたが、それ以外の面については柔軟でした。本書で何度か指摘されているように、佐藤は情報を集めることに長けており、その情報をもとにして政治的な判断を下していました。
学生運動に対しては大学臨時措置法をつくって強硬にこれを抑え込み、公害に対しては70年の公害国会でこれに集中的に取り組み、公害対策基本法にあった経済調和条項を削除し、一歩踏み込んだ姿勢を示す。それぞれ当時は賛否があったと思いますが、時が過ぎてみれば佐藤のとった方針が時代に適合的であったと言えるでしょう。
このように本書を読むと、佐藤政権が長期化した理由が見えていきます。ただし、「あとがき」でも触れられている「党内の凝集性」(390p)の部分については、やや記述が弱いかもしれません。佐藤の下の世代がいう佐藤の「怖さ」についてもあまり触れられていません。また、佐藤政権が国政選挙で勝ち続けることができた理由についても、それほど詳しい分析がなされているわけではありません(特に政権的には危機だったと思われる67年の黒い霧解散でなぜ勝てたのかについてもう少し言及があっても良かったかも)。
一方、本書において充実しているのは戦後史について一般的な記述です。特に佐藤が首相になる前の動きを丁寧に追っており、佐藤引退までの戦後政治史といった趣きもあります。
本書を読むと、1960年代半ばまで存在した、対米強調・軽武装の吉田路線と、自主独立・憲法改正の鳩山・岸路線が、佐藤によって統合され(ここでは「統合」と書いたけど、著者は「吉田路線とは佐藤政治のことではないか」(392p)と述べている)、「戦後」の日本の路線を定着させた過程が浮かび上がってきます。
- 2020年01月11日21:56
- yamasitayu
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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