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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2015年02月

アベノミクスに賛成の立場をとる著者が、ここまでのアベノミクスの総括とこれからのとるべき道を語り、さらにアベノミクスを過去の経済論争と重ねあわせた本。
目次は以下の通りです。
序章 ネオアベノミクスが始まる
第1章 第一次アベノミクスは成果を上げたのか
第2章 金融緩和批判をいま一度問い直す
第3章 ネオアベノミクスの核心・オープンレジーム
第4章 歴史が教える、あるべき経済政策のビジョン
終章 可能性の探求へ

基本的な内容としては、第1章と第2章がアベノミクス批判に対する反論、第3章がアベノミクスがこれから目指す方向性、第4章が高度経済成長時の「成長と格差」論争についての分析となっています。

第1章は、今までのアベノミクスの簡単なまとめと、消費税増税の影響についての部分。ただ、この第1章はアベノミクスについての説明とアベノミクス批判への反論がごちゃまぜになっていてやや読みにくいです。

第2章はアベノミクスの第一の矢である「大胆な金融緩和」に対する批判について集中的に論じています。
アベノミクスについて、賛成派がもっとも効果があると論じ、反対派が最も弊害が大きいとするのがこの「大胆な金融緩和」。
反対派は「円安になって日本経済に打撃が起きる」、「円安になっても輸出は伸びない」、「バブルになる」、「実質賃金が下がった」、「財政ファイナンスはハイパーインフレを引き起こす」などといった批判を繰り広げていますが、それらの批判に対してこの相では丁寧に反論しています。

例えば、「円安になっても輸出は伸びない」のは、輸出品の数量は事前の契約によって決められているため通貨安になってもすぐに輸出量は増えない一方で外貨建ての原材料の輸入価格は上がり、その後しばらくたってから輸出量が増え始める「Jカーブ効果」がはたらいているためですし(79-80p)、「実質賃金が下がった」のは、消費税増税の影響が大きく、それがなければ2014年11月頃からプラスに転じていたはずだと指摘しています(93p)。

また、「財政ファイナンスはハイパーインフレを引き起こす」という批判に対しては、金融政策によってインフレに誘導することが一種の「インフレ税」(インフレになれば国民の預貯金は目減りする)であることを認め、「財政政策と金融政策は同じようなものとも言える」(95p)として次のように述べています。
ですから財政ファイナンス=悪という議論は、元からおかしな面があります。そもそも財政政策と金融政策には関連があるし、デフレからの脱却には、財政ファイナンス的な政策がじつはもっとも効果的なのです。「財政ファイナンスだから悪い」という意見は、デフレのときに「一番効く薬は避けるべき」と言っているのと同じなのです。(95-96p)

個人的には、ここまで「財政ファイナンスでも問題ない」と言い切ってしまうのには躊躇がありますが(事実上の財政ファイナンスを行うとしても、財政ファイナンスが主な目的であるかのように言うのはよくないように思える)、「家計、企業、政府のいずれかがお金を使わないと経済が停滞するのは確かで、家計と企業が資金超過主体化した状況で経済が回っていくためには、政府が赤字主体ならざるをえません」(98p)という指摘はその通りでしょう。

第3章では、これからのアベノミクスが目指すべき方向として「3つのR」と「オープンレジーム」という考えを打ち出しています。
「3つのR」は、金融緩和によるリフレーション、政策のリフォーム、リディストリビューション(再分配)であり、「オープンレジーム」とは、政府の裁量を排しルールや枠組みを明確化して新規参入を歓迎するような経済政策の枠組みになります。

政府が有望な産業に肩入れする産業政策を否定し、新規参入を中心とする民間の活力を利用するために政府はそのための環境づくりを行うべきであるというスタンスや、再分配は高齢者農家といった特定のカテゴリーを対象にしたものではなく、もっと普遍的なものであるべきだという主張は正しいと思います。
ただ、それらに「政策イノベーション」という言葉をつけるのは個人的にはややわかりにくいと思いました。中身の多くは他の国で行われていることのキャッチアップなのですから、素直に「キャッチアップ政策」としたほうが、「イノベーション幻想」のようなものを払拭できたのではないでしょうか。

このように第3章までは著者に主張に大部分賛同しつつも引っかかる面があったのですが、第4章の高度経済成長期の経済論争を紹介した部分は非常に面白く、また興味深く読めました。

御存知の通り、池田勇人首相は所得倍増計画を掲げ日本を高度成長へと導きましたが、池田首相の考えこそ、著者の言う「オープンレジーム」に近いものだといいます。
池田は「まず金の卵を多く生み出し、それを公正に、より多くの金の卵を生みうるように、配分する工夫が必要」だと述べたといいます(173p)。これはまず経済を成長させ、その果実を再分配しようという本書の立場と重なります。

しかし、当時も池田首相とそのブレーンであった下村治が進めた政策には批判者も数多くいました。その中の大物が経済学者の都留重人です。都留は、公害問題や格差の問題、そして「インフレになって円の価値が落ちるのは問題だ」といった批判を浴びせているのですが、この理由付けは今のアベノミクスへの批判者にも受け継がれています。この知識人の「反成長」「反インフレ」のスタンスには根深いものがあると感じました。

というわけで、経済史や金融政策を扱った部分は面白く、それ以外の政策を扱った部分などは少し整理されていないと思います。ただ、巻末の参考文献リストは非常に充実しており、個々の政策に関してはこのリストにあたって考えていくこともできそうです。

ネオアベノミクスの論点 (PHP新書)
若田部 昌澄
4569824226
演歌の成り立ちについて分析した『創られた「日本の心」神話』(光文社新書)が非常に面白かった輪島裕介の新刊。
今作では、昭和期の歌謡曲を「踊り」の面から分析しつつ、歌謡曲に重要な要素を提供しながら、その影響が常に一過性のものとして忘却されがちな「ラテン」の影響を歴史の中から取り出そうとしています。
音楽についてのマニアックな知識を散りばめながら、隠蔽、忘却された歴史を発掘し、そこから日本の風土にせまるスタイルは、前作『創られた「日本の心」神話』に引き続き非常に面白いです。また、記述の前作よりも整理されていて読みやすいと思います。

音楽と踊りは切っても切れない関係にありますが、そこを切断して成立したのがクラシックであり、クラシック中心の音楽観には、「聴く音楽」こそ高級であり、「踊る音楽」は低級であるというヒエラルキーがあります。
この「聴く音楽」と「踊る音楽」の切断と対立というのは根深いものでクラシックと他の音楽の関係にとどまるものではありません。
アメリカのイライジャ・ウォルドは『ビートルズはいかにしてロックンロールを破壊したか』という本を書き、「後期ビートルズ以降、ロック音楽においてはレコードを鑑賞の対象としての「作品」とみなすようになり、それによって19世紀以来続いてきたアメリカの大衆音楽と公共的なダンスの不可分な関係が失われた」(12p)と主張しています。

「作品」には批評がつきものであり、その批評が「歴史」をつくりあげます。ところが、「踊り」はその場で消費されるものであり、時が経てば忘却されていきます。
例えば、古賀政男と美空ひばりといえば、「悲しい酒」に代表される「演歌の王道」としてイメージされますが、古賀政男は当初そのラテン的な要素が注目されていましたし(33-34p)、美空ひばりは「お祭りマンボ」、「ロカビリー剣法」、「ひばりのドトンパ」など、流行のリズムをいち早く歌いこなす歌手でした(71p)。
けれども、こうした要素は忘却され、「演歌」という怪しげな「伝統」が物語として残っていくことになります。

この本では、マンボ、カリプソ、ドトンパ、ツイスト、ボサノヴァといった「踊る音楽」の「流行」がとり上げられ分析されていますが、いずれも「流行」で終わり、徐々に周縁化されていきました。
しかし、これらの「流行」は天から降ってきたものではなく、そこにはそうした「流行」を仕掛ける人々や文化状況、そして日本の風土や政治といった文脈があります。

こうした音楽は「ニューリズム」などとも呼ばれたわけですが、初期はダンス教師(だいたい中川三郎)が「正しい踊り方」を制定・発表し普及させるという方法が用いられていました(79p)。
また、マンボはそれまでのダンスホールのダンスと違い男女で組む必要がなかった(社交ダンスの文化のない日本では男女で組む事が必要なダンスは必然的にお金を払って女性と踊るスタイルになってしまう)との指摘(83p)など、「流行」と日本の「風土」の噛みあい具合を分析している部分も興味深いです(これ以外にも、ディスコの深夜営業の禁止や未成年の入場禁止を定めた1984年の風俗営業取締法の改正がストリートへの踊りの拡散をもたらした(250-251p)などの指摘がある)。

日本において「踊り」と「ラテン」は常に「エロティック」なイメージのもとに受容されました。
マンボを紹介する記事では「オシリをふる」ことが強調されましたし(80-81p)、カリプソの受容においては新人の浜村美智子がレコードジャケットでセミヌードを披露しヒットを飛ばしました。

深読みをすれば、アメリカではフォーク・リヴァイヴァル文脈に組み込まれた「素朴な黒人の労働歌」というカリプソのプリミティヴィズム的なイメージが、日本では、性的に奔放で傍若無人な「天然」の少女に投影された、と考えることができそうだ。(103p)

著者は浜村美智子についてこのようにまとめていますが、この「原始的」、「自然」といったイメージが、女性、特に少女に投影されるのは日本の文化の特徴のような気もします。

ただ、「ラテン」が「エロティック」というイメージと結び付けられて消費されるのは日本だけではありません。
1930年代のブラジルの大スターでその後アメリカに進出したカルメン・ミランダに代表されるように、アメリカでも誇張された「ラテン女」を演じて人気を得ました。アメリカでも「ラテン」は、「周縁」からやってくるエキゾチック、エロティックなものとして消費されたのです(60-64p)。

しかし、1950・60年代の日本は欧米から見ると明らかに「周縁」でした。そこで、「ラテン」の音楽は常にアメリカやフランスといった「中心」を経由して日本に持ち込まれることになります。
「本場」アメリカと「周縁」の日本をつなぐ存在としてのフィリピンや、日本人とフィリピン人のハーフのアイ・ジョージについて着目した部分は非常に面白いですし(117-126p)、タムレがやたらに「パリ発」という宣伝文句で売りだされたこと、いまだにボサノヴァにつきまとう「おフランス」なイメージをみると、この「中心」-「周縁」の図式のしぶとさを感じずにはいられません。

「周縁」で生まれ、「本場」のアメリカやフランスを経由して輸入され、瞬く間に消費されて音楽シーンの「周縁」へと追いやられていく、「ニューリズム」の音楽。
著者は団塊世代を揶揄する「自称ビートルズ世代は実は橋幸夫世代だ」という言葉をとり上げて、次のように問いかけています。

問題は、ある特定の世代の特定の年齢時における音楽的嗜好が、実際にビートルズだったのか、橋幸夫だったのか、ということではない。実際に10代当時は聴いていなかったかもしれないビートルズが、事後的に世代の象徴のように(あるいは自分たちは「リアルタイム」だ」と後続世代を威圧するためのツールとして)意味づけられるに至る過程が重要なのであり、それはつまり「橋幸夫世代」や「後期ニューリズム世代(という言い方は実際には人工的に過ぎるにせよ)」であることを胸を張って自称することが出来ないような価値観が、いつどのように形成されたのか、ということである。(216ー217p)

このようにしっかりとした問題意識をもって書かれている本ですが、単純にこの本に書かれているマンボやドドンパのブームを追うだけでも面白いですし、音楽や映画にまつわる小ネタ、ピンクレディーや志村けんや氣志團への言及なども楽しいです(他にもディスコにおけるゲイ・カルチャーとそれを脱色して輸入した日本についての部分も興味深い)。
日本の歌謡曲の歴史の一面を描いた本としても楽しめますし、もっと大きなサブカルチャー史としても楽しめる素晴らしい本だと思います。

踊る昭和歌謡―リズムからみる大衆音楽 (NHK出版新書 454)
輪島 裕介
4140884541
ドイツ統一を成し遂げ、ヨーロッパに「ビスマルク体制」と呼ばれる同盟網をつくり上げた政治家・ビスマルクの評伝。ビスマルクは、一時期はドイツをつくった「英雄」として「神話」になり、また一時期は「ヒトラーの先駆者」といった形で批判されましたが、この本ではそうした両極端な見方を廃し、当時の複雑な政治情勢の中でのビスマルクの振る舞いを冷静に検討しようとしています。

ビスマルクについては世界史などで学んだ人が多いと思いますが、教科書に書かれている記述はだいたい次のようなものでしょうか。
プロイセンの宰相に就任したビスマルクは「鉄血政策」を掲げて武力によりドイツ統一を訴え、準備万端整えた普墺戦争ではオーストリアをわずか7週間で撃破。さらにドイツ統一に反対するナポレオン3世のフランスをエムス電報事件で挑発し普仏戦争に持ち込むと、これまた圧勝しドイツ統一を実現。戦後はフランスの復讐を封じるためにフランスの孤立化政策を進め、ロシア・オーストリアと三帝同盟、オーストリア・イタリアと三国同盟を結びつつ、露土戦争の後始末をめぐるベルリン会議では最強国・イギリスを立て、イギリスとも良好な関係を築く。国内ではカトリックに対して「文化闘争」を仕掛けるとともに、労働者に対しては社会主義者鎮圧法と社会保険制度の導入という、いわゆる「アメとムチ政策」を行う。

こうした記述を読むと、ビスマルクは先を読みながら常に綿密な準備をし自らの有利な状況をつくり上げたうえで、一気に片を付けるという策謀に長けた政治家という印象を持ちますが、この本を読むとその印象はずいぶんと塗り替えられます。

「鉄血政策」のネーミングのもととなった「鉄血演説」は明らかに失言でしたし(98p)、普墺戦争も開戦を求める軍部に対してビスマルクの姿勢は慎重でした(116-122p)。
さらに、その後の普仏戦争を経てのドイツ統一も決してビスマルクの描いていたシナリオではありませんでした。
プロイセンの政治家として、プロイセンを大国にすることを狙っていたビスマルクは、結局、ドイツ・ナショナリズムの力を頼ることで難局を乗り切り、ここに「大プロイセン」ではなく「小ドイツ」(オーストリアを除いた統一体としてのドイツ)が誕生したというのが本書の分析になります(152p)。

また、ドイツ統一後の外交に関しても、必ずしも当初からビスマルクが構想していたものではありませんでした。
1878年のベルリン会議によってロシアとの関係が悪化するとドイツ・オーストリア・ロシアの三帝同盟は崩壊し、ドイツはフランスとロシアに挟撃される恐れに直面します。すると、ビスマルクはオーストリアとの間に秘密の軍事同盟(独墺同盟)を結び露西亜にプレッシャーを掛けることで1881年に三帝同盟(著者は「三帝協定」という名がふさわしいとしている(194p))を復活させ、さらに1882年にオーストリア・イタリアとの間に三国同盟を締結します。
危機に対する「急場しのぎ」の結果として、「ビスマルク体制」は出現したのです。

この危機に対する対応能力こそが、ビスマルクの大政治家たらしめた要因の一つであったと著者は述べています(237-238p)。
この対応能力、「術」(クンスト)においてビスマルクは傑出しており、結果的に最初から完璧な青写真を描いていたかのように見えるのです(もちろん、危機に至るまでビスマルクがオルタナティブな政策の可能性を保持しようとした点も見逃せない)。

著者が、ビスマルクを大政治家たらしめたもう一つの要因としてあげるのが、保守的思想を持ちながら、議会、新聞、ナショナリズム、帝国主義といった「革新的」な手段を積極的に利用した彼の政治スタイルです。

プロイセンのユンカー出身で強硬保守派の立場から出発したビスマルクでしたが、外交官時代は保守派の嫌うナポレオン3世に接近し、自由主義に「染まっていない」農民層に支持を求めて普通選挙制度を実現させ、当時吹き荒れていたドイツ・ナショナリズムの波に乗り、ドイツ帝国成立後はヨーロッパ各国の利害を調整するために帝国主義を利用しました。
この目的のためには手段を選ばないマキャベリズム的な政治スタイルがビスマルクの真骨頂でした。

ただ、この何でも利用する政治スタイルと、「急場しのぎ」の政策の数々が後のドイツの問題となったことも確かです。
ビスマルクが獲得に動いた南西アフリカ(現在のナミビア)、カメルーン、トーゴ、ニューギニアといった植民地は財政的な負担となりましたし、オーストリアとロシアの間に結ばれた複雑な関係はビスマルクの「術」(クンスト)なくしては成り立たないものでした。

このように、ビスマルクの長所を指摘しつつも、それが残した「負の遺産」もしっかりと指摘しているのがこの本の良い所。
また、ここでは政治家としてのビスマルクを描いた部分だけを紹介しましたが、政治家になる前のビスマルク、そして政治家を引退したあとの描写もあり、特に引退後の「ビスマルク・フィーバー」とも呼べる状況についての部分は興味深いです。

あと、これだけの業績を残したビスマルクの評伝であるにもかかわらず、250ページほどで収まっているのも長所といえるのではないでしょうか。

ビスマルク - ドイツ帝国を築いた政治外交術 (中公新書)
飯田 洋介
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『広田弘毅』(中公新書)、『日中国交正常化』(中公新書)など、近年精力的に本を書いている著者が日中・日韓関係の大きな刺となっている「歴史認識」の問題について書いた本。
「ドキュメント」とタイトルについているように、「歴史認識」について問題となったさまざまな出来事を関係者の証言などを交えて検証しようとしたものです。そのため、「太平洋戦争は侵略戦争だったのか?」といった歴史そのものの検討や、歴史認識問題についての著者なりの解決策が提示されているわけではありません。
日本のこの問題についての外交的な対応を丁寧にたどり直すことによって、この問題の経緯と政治家や官僚などの動き、そして問題の現在の位置を明らかにしようとした本といえるでしょう。

目次は以下の通り。
序章 東京裁判から日韓・日中国交正常化まで
第1章 歴史教科書問題と「相互信頼」
第2章 靖国神社公式参拝
第3章 従軍慰安婦問題
第4章 村山談話
第5章 戦争の世紀を越えて
終章 歴史問題に出口はあるか

まず、この本を読んで改めて感じるのは、お詫びの言葉ひとつとってもその裏で綿密な調整がされているということ。
よく、従軍慰安婦問題についての「河野談話」や戦後50年の節目に出された「村山談話」に対して、それを河野洋平や村山富市といった政治家の主義や信条と結びつけて論じられることがありますが、こういった談話は個人の心情の発露ではありません。

「村山談話」では、「植民地支配と侵略」に対する「痛切な反省」と「心からのお詫び」という踏み込んだ表現がなされていますが、これも政府内部で綿密に検討した上でのものです。
この本によると、谷野作太郎内閣外政審議室長が文案を作り、それを五十嵐官房長官などが修正し村山総理と協議。その文面を自民党の河野総裁、さきがけの武村代表に示し、さらには自民党の「タカ派」とみられる、橋本龍太郎通産大臣、島村宜伸文部大臣、平沼赳夫運輸大臣、江藤隆美総務庁長官などにも示したうえで閣議決定をしています(147-150p)。
「村山談話」は、まさに当時の日本政府の意思として決定されているのです。そして、この談話があることで、その後の総理は歴史認識を問われた時に「村山談話を踏襲する」と言えばすむという状況になっています。

一方、「河野談話」において綿密な打ち合わせがなされたのは韓国政府との間です。
「一部に強制性があったことは否定できないだろう」とする日本側と、「慰安婦になったことが自分の意志でないことが認められることが重要」と考える韓国側の主張があり(125p)、その折り合いが「甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」という表現でした。
ちなみに本書では、櫻井よしこなどが主張する「強制性を認めるならば韓国は補償を求めない」という「密約」に関しては、関係者の証言からその存在は確認できないとしています(112-114p)。

ただ、「河野談話」は「村山談話」と比べると、国内での根回しは不十分に見えます。談話発表当時、時の宮澤内閣は総選挙で敗北し退陣が確定しており、「河野談話」を発表した翌日に総辞職しています。
宮澤首相は「韓国との約束でしたからね。在任中にやらなければならないことだと思っていました」と語っていますが(112p)、やや拙速な印象を受けます。
このことと、韓国政府の外交における「連続性のなさ」(大統領が代わると前政権が全否定され、また、大統領自身も支持が低迷すると態度を変えてしまう)が、従軍慰安婦問題が現在のような袋小路に入ってしまった要因ではないかと感じました。

ここまで「河野談話」や「村山談話」などに代表される「歴史認識」はたんなる政治家個人の心情の発露ではないと述べてきましたが、そうは言っても政治家の信条や、政治家同士の関係性といったものもこの問題に関しては重要です。
「河野談話」や「村山談話」も、関係する政治家の熱意や取り組みがなければ実現しなかったでしょうし、80年代の中曽根首相と中国の胡耀邦総書記のやりとりをみると、政治家同士の信頼関係も「歴史認識問題」に大きく影響することがわかります。
ただ、そんな中曽根と胡耀邦の関係を持ってしても靖国神社参拝に対する中国の反発は抑えられなかったわけで、靖国神社参拝に対する中国の抵抗は相当強いと見るべきでしょうね(たんに日本を抑えこむために使うカードというものではない)。

この「歴史認識」の問題は現在進行形の問題であり、この本でもその流れを追っているだけで答えは出していません。
この本の最後のほうで著者は次のように述べています。

外交とは、関係各国の利害を調整する行為である。相手国がある以上、外交に完全な勝利を求めることは難しいし、危険でもある。一国が完勝しようとすれば、相手国に鬱積とした感情を残すことになり、長期的に和解を遠ざけかねない。(225p)

歴史問題について相手を「論破」することは不毛であり、今までの経緯を踏まえて落とし所を探っていくしかない。過去の交渉を振り返ることで、そんな「歴史認識問題」の解決のために必要なスタンスを教えてくれる本です。

外交ドキュメント 歴史認識 (岩波新書)
服部 龍二
4004315271
満州事変から太平洋戦争における過程において、日本を勝ち目のない戦争へと引き込んだのは精神論ばかりを唱えて現実を見なかった陸軍である。あるいは陸軍の政治介入によって戦前のデモクラシーは窒息させられたとの考える人は多いです。
一方、海軍は、陸軍に比べて「合理的」であり、「穏健派」であり、「政治的でなかった」とみられることが多く、陸軍が「悪玉」であり、海軍は「善玉」であるというようなイメージが何となく共有されています。
この本は、そんなイメージに対して「本当に海軍は政治的でなかったはなかったのか?」という切り口で書かれた本になります。

目次は以下の通り。
序章 海軍と政治
第1章 創建時の海軍
第2章 政党と海軍
第3章 軍部の政治的台頭と海軍
第4章 アジア・太平洋戦争と海軍
終章 近代日本における海軍の政治的役割

目次にあるように、海軍の創建からアジア/太平洋戦争までの海軍を対象としているのですが、日露戦争までの期間については、薩摩閥が強かったがその薩摩閥を薩摩出身の山本権兵衛が整理した、プロイセンの影響を受けた陸軍では参謀本部の独立性が強かったがイギリスの影響を受けた海軍は軍令部に比べて海軍省の力が強かったなど、基本的な特徴を抑えるのにとどまり、この本ならではの特徴といった部分はあまり感じられません。

けれども、第2章の「政党と海軍」以降の話はなかなか面白いです。
海軍の「力」の大きな部分を占めるのが保有する軍艦の量と質であり、それは基本的に予算に比例します。ですから、海軍が自らの考える戦略を実行できる力を持つには、まず何よりも海軍予算が必要になります。
明治憲法下で予算のカギを握るのは議会であり、議会を動かす政党でした。統帥権の独立などがあろうとも、議会で予算が通らなければ海軍は戦うことが出来ないのです。

明治期の海軍を実質的につくり上げたとも言われる山本権兵衛は、政友会と提携し、自ら首相にもなって海軍予算の獲得を目指しますが、第一次山本内閣がシーメンス事件で倒れたことにより、政友会との積極的な提携による予算獲得の道は難しくなりました。

こうした山本権兵衛の積極的な政界進出に対して、あくまでも政治介入を手控えながら海軍強化の実現を目指したのが加藤友三郎でした。
加藤友三郎といえば、ワシントン海軍軍縮条約に首席全権として調印したことでも有名ですが、彼は対米6割という海軍からすると不満もでる数字を受け入れる一方で、補助艦を建造するための予算を獲得することにも成功しており、「艦隊派」と言われる軍令部の加藤寛治もこれには満足したといいます(91p)。

いわゆる「統帥権干犯問題」が持ち上がった、ロンドン海軍軍縮条約についても、加藤寛治をはじめとする軍令部は戦略的見地からその内容に反対したものの、それはあくまで海軍内部の手続きや、幣原外相が「国防ノ安固ハ十分ニ保障セラレテ居ルモノト信ジマス」と軍令部の見解を覆すような発言をしたことに対する反発であって(107p)、「軍人は政治に関わらず」の理念は生きていたといいます。
彼らの主張はあくまでの海軍の「専門性」の尊重を求めるものであったが、その「専門性」の主張が結果的に政局にも係るようになったというのが著者の見立てです。

こうした海軍の「専門性」へのこだわり、あるいは海軍の利益のみを重視する姿勢は、政党内閣王介護にも受け継がれ、結果的に広田弘毅内閣を総辞職に追い込む一端を担いました。
また、日中戦争においては、駐中ドイツ大使のトラウトマンによる和平交渉において、陸軍参謀本部が和平交渉の継続を訴えたのに対して、米内光政海相は外相の広田弘毅が打ち切りを主張すると、外交分野の主管大臣である広田の考えを尊重し、「統帥部が外務大臣を信用せぬは同時に政府不信なり。政府は辞職の外なし」と言い、交渉打ち切りを後押ししました(162p)。
それぞれの管掌領域を考えれば、米内の意見は正しいのですが、結果的に日本は和平の一つの機会をみすみす潰すことになりました。

日独伊三国同盟の締結や対米開戦についても、海軍内部では「難しい」という認識で一致していましたが、「戦争の出来ない海軍に物資はいらない」となっては海軍の戦略自体が実行不能となるため(169p)、海軍は表立って強く反対できず、政策決定のイニシアティブをとろうとはしなかったのです。

このように面白い分析のある本なのですが、全体的な構成にもう少しメリハリがあると、この本の主張の説得力ももっと増す気がします。
特にロンドン海軍軍縮条約から、平沼騏一郎の艦隊派との連携による倒閣運動と、その倒閣運動の挫折による艦隊派の失墜について書かれた部分が、大事な割にはいまいちその流れをつかみにくい。
この部分を含めて、海軍を一つの行動原理をもった「まとまり」として描こうとしたために、その内部の対立や変遷がやや見えにくくなっている面があります。
もう少し紙幅を使って丁寧に論じるともっと面白くなったかもしれません。

日本海軍と政治 (講談社現代新書)
手嶋 泰伸
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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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