2023年05月
アルメニアという国はコーカサスの国として知られており、近年でも隣国のアゼルバイジャンとの紛争で話題になったりしていましたが、著者は『マラッカ海峡物語』(集英社新書)、『マドラス物語』(中公新書)などの東南アジアやインドの商業や文化などについての本を書いてきた人物で、多くの人にとって著者とテーマが結びつかないかもしれません。
実はアルメニア人は商人として、インドから東南アジア、さらには日本にまで進出しており、アルメニア人同士でネットワークをつくりながら、商業やホテル経営などに従事していたのです。
本書は、そんなアジアにおけるアルメニア人の実態を明らかにしようとした本になります。
おそらく一般書でこのテーマをメインに扱ったものはないと思いますし、自分もほとんどこの実態について知りませんでした。そういった面でこの本は貴重なものだと思います。
内容的にもアルメニア人のコミュニティやアルメニア商人とイギリス東インド会社の関係、アルメニア人によるホテル経営など興味深いものがあります。
ただし、書かれている材料については、まだ「点」という感じで、「線」としてのつながりまでには至ってない感じです。
貴重な研究ではありますが、1冊の本としてはもう少し材料が揃って煮詰めてからのほうが面白かったとは思います。
目次は以下の通り。
第1章 アルメニアン・シルクロード第2章 陸と海のインド交易回廊第3章 アルメニア商人とイギリス東インド会社第4章 アルメニアン・コミュニティの家族史第5章 アジア海域のアルメニア海運第6章 アルメニア商船の日本就航第7章 アルメニア商人の居留地交易第8章 アルメニア通り・教会・ホテル
アルメニアという国家はカスピ海と黒海に挟まれたコーカサス(カフカス)にある小国で、現在の人口は300万人ほどです。しかし、海外に住むアルメニア人は2010年の推計で800万人ほどおり、多くのアルメニア人が海外で暮らしています。
この背景にある要因の1つが「ジェノサイド」です。19世紀以降、少なくとも3度、1895〜1896、1909、1915〜22年にかけて、アルメニア人に対する虐殺が行われました。
この虐殺から逃れるために多くのアルメニア人が海外に渡ったわけですが、それ以前からアルメニア人は商人として海外に進出していました。
カントは「実用的見地における人間学」でアルメニア人についてその「非凡な商人気質」(23p)を指摘していますが、もともとはアルメニア人は農業の民だったといいます。
しかし、アルメニア人の住んでいた地域が山がちで痩せていたことなどから交易に乗り出していったと考えられます。
16世紀から17世紀にかけて、アルメニア人が住んでいた地域はサファヴィー朝とオスマン帝国で争奪戦が繰り広げられ、1604年にアルメニア人たちが住んでいたユーラシア交易の拠点のジュルファはサファヴィー朝のアッバース1世によって支配されることになります。
アッバース1世は、アルメニア人を強制移住させ、ジュルファの町は焼き払われて廃墟になりました。
強制移住の末にイスファハン近郊にたどり着いたアルメニア人は、イスファハンの南で人頭税の支払いを条件に居住を認められ、この地は「ノルジュガ(新ジュルファ)と呼ばれるようになりました。
そして、この地を中心として交易のルートを広げていくことになるのです。
この交易ルートには、トルコのアナトリア地方から地中海東部、さらに西ヨーロッパや南ヨーロッパに展開する西方ルート、カスピ海からロシア・北ヨーロッパへの向かう北方ルート、イランからアフガニスタンを抜けてインドへと至る東方ルートがありました。
西方ルートでは銀を交換媒体として、絹、香辛料、貴金属などが取引され、オスマン帝国がこの地域を支配するようになったあとも、アルメニア人商人はオスマン帝国の臣民に準じる庇護を受けながら活動しました。
北方ルートでは、絹と毛皮や銀、あるいは絹・魚介類と銀の交換を行い、この地域の交易はアルメニア人商人の独擅場となっていました。
東方では、アルメニア人は交易だけではなくムガル帝国の宮廷にも食い込んでいました。
宰相となったムバーラク・シャーをはじめ、帝国の通訳や外交使節になる者、子女をアクバル帝の王妃にする者も現れました。
アルメニア商人はインドだけではなく、チベットのラサにまで定住していたといいます。
16〜17世紀のユーラシアは専制的な支配者が割拠していましたが、彼らは自国の経済力を高めようとする経世家でもありました。彼らによってアルメニア人は自分たちを脅かす存在ではなく、便利な人材でした。
アルメニア人をハプスブルク家における「宮廷ユダヤ人」になぞらえている研究者いますが、アルメニア人たちは独自のネットワークを活かし生き残っていったのです。
ただし、その後、これらの帝国は衰えていき、貿易の中心も船によるものに移っていきます。
それでもインドへと至る東方ルートは18世紀はじめまでは活発であり、アルメニア商人は「鞘取り交易(アービトレイジ)」と呼ばれる移動先で商品を購入して、それを高く売れる場所まで運んで利益を得るという交易を行っていました。
そして、こうした中でインドの都市にアルメニア人の居住区がつくられるようになります。
例えば、タージマハル廟で知られるアーグラには1611年建設の北インド最古のキリスト教の大聖廟があり、ここに1611〜1927年に葬られたアルメニア人の墓碑は112基を数えます。このうち7基はアルメニア人司祭のものであり、専属司祭が常駐するほどのアルメニア人がいたと想定されています。
アルメニア人商人が本格的に外洋に進出したのは1622年でした。この年にそれまでポルトガルが支配していたホルムズをサファヴィー朝が奪還し、アルメニア人商人もアラビア海からインド洋を渡ってのインド貿易に乗り出しました。
やがてインドの港町に定住するアルメニア人も現れ、スーラトやマドラスなどにもアルメニア人が住みはじめます。
さらにインドからマニラに進出し、イランやインドの絹やマラッカや広東で入手した中国製品、セイロンのシナモンなどをメキシコからもたらされたスペイン銀と交換していました。
第3章では、1688年にイスファハン出身のアルメニア人の有力商人ホージャ・パノス・カラーンタルという人物とイギリス東インド会社の間で結ばれた協約が紹介されています。
内容は、イギリスの東インド会社の商人やイギリスの私貿易商人と対等な権利をアルメニア人商人に認めること、イギリス東インド会社の船舶によってインドとの航行を行う自由、イギリス東インド会社の勢力下にあるインドの都市でのアルメニア人の居住や信仰の自由、さらにイギリス東インド会社の船舶によるインド。中国。マニラなどへの寄港・交易の自由の保障などを定めたものです。
このようにアルメニア人商人の活動を認めると同時に、アルメニア人商人が扱える商品を細かく定め、イギリス東インド会社への関税の支払いや船載料10%の支払いを求めていました。
イギリス東インド会社の狙いとしては、アルメニア人のもつ内陸ルートに食い込むことは難しいために、アルメニア人商人自体を海上貿易に引き込み、さらにアルメニア人商人の持つ信用を利用することでアジア貿易に食い込もうとしました。
また、イギリスは利益の大きかった敵対するスペインが支配していたマニラ交易に対して、アルメニア人商人を利用して入り込もうとしたようです。
こうしたこともあって、アルメニア人商人の活動の中心は、内陸ルートから海洋へと移っていきます。
第4章ではシンガポールのアルメニアン・コミュニティと、そこにいたホヴァキム家が紹介されています。
アルメニアン・コミュニティといっても、その人口は19〜20世紀前半を通じて30〜60人代であり、三世代まで定住したのは12家族にすぎなかったといいます。
そうした定住した家族の中でも有名な一家がホヴァキム家になります。ここでは墓碑銘や新聞記事などを参考にホヴァキム家の状況を明らかにしています。
最初にシンガポールにやってきたのがパルシク・ホヴァキムです。彼はマドラス生まれでシンガポールにやってきて1840年ごろに貿易・代理商会を設立して実業家としてのスタートを切りました。
彼には11人の子どもがいて、男子はビジネスマンになったり弁護士いなったりしていますが、特徴的なのは多くの男子がイギリスで教育を受けている点です。
また、長女のアグネスはシンガポールの国花となっている「ヴァンダ・ミス・ジョアキム」を発見した人物としても知られています(ただしDNA解析の末、正式名称は「パピリオナンテ・ミス・ジョアキム」となった)。
第5章ではアジアにおけるアルメニア海運がとり上げられています。
19世紀、インドのベンガル湾周辺の航路を抑えていたのが英領インド汽船(BI)とアプガー商船でした。20世紀の前半に日本郵船などの日本企業がこの地域に進出しようとしたときの報告書にもアプガー商船のことが書かれています。
そのアプガー商船の実態についてはよくわからないことも多いのですが、本書ではジャパン1号をはじめとするアプガー商船の船舶をリストアップしています。
第6章では、日本就航に就航したアプガー商船についてとり上げられています。
横浜外国人居留地の記録にアプガー商船の記録が初めて現れるのが1888年です。さらに神戸や長崎にも入港しており、本書では特に神戸におけるアルメニア商船について検討しています。
1897〜1914年にかけて4隻のアプガー商船が神戸に入港しており、これらの船は主に外国人が経営する商会の傭船として使われていたと考えられます。
例えば、アイルランド人のヘンリー・セント・ジョン・ブラウンが経営していたブラウン商会は、アプガー商船の船を少なくとも50回以上傭船しており、神戸‐カルカッタ間航路ではもっぱらアプガー商船を利用していました。
ブラウン商会は海上保険業務などを行いつつ、織物、毛布、鋼鉄、砂糖、綿糸、綿花などの輸入も行っており、洗浄ソーダや石炭の輸出なども手掛けていたと言います。
他にもさまざまな商会とアプガー商船の関係が記述されていますが、アプガー商船の特徴として、明治政府が米や麦、石炭、硫黄などの品に限って輸出を認めていた門司などの港にも出入りしていたことを指摘しています。
アルメニア商人は「ニッチ交易」をその戦略の1つとしていましたが、アプガー商船にもその傾向が見られるというわけです。
また、日本にいたアルメニア商人もいます。このことをとり上げているのが第7章です。
横浜の山手外国人墓地にはA・M・アプガーなる人物の墓があるそうですが、彼はイスファハンの生まれのロシア国籍で1906年に神戸で亡くなっており、アプガー商船の経営者一族に連なる人物だったということです。
彼は商会を営むとともに、神戸のグレイト・イースタン・ホテルを開業し、さらに塩屋のビーチハウス・ホテルの経営も行っていました。
アプガー商会が日本で活動をはじめたのは1890年代で、のちに日本人との合名会社という形で活動しています。
1893年の史料にはアプガー紹介が扱う商品として、輸入品としては羊皮、漆、帽子、アラビア護謨(ゴム)、輸出品としては陶器、漆器、紙細工などがあげられています。
グレイト・イースタン・ホテルの経営では失敗したようですが、その後は貿易によって商会の経営を立て直しました。1923年に関東大震災が起こると横浜から神戸へ避難しています。
このころになるとラジオやオートバイなどの輸入も行っており、輸出品では羽二重なども扱うようになっています。
第8章ではインドや東南アジアのアルメニア人街やアルメニア人のホテル経営について触れられています。
東南アジアや南アジアには「アルメニア通り」と名付けられている場所が存在します。
例えば、インドのカルカッタには東西100メートルほどのアルメニア通りがあります。路地の中ほどにはアルメニア教会もあり、そこにはアルメニア人墓地も存在します。
1824〜34年の『カルカッタ・ディレクトリー』にはアルメニア人131家族が記載されており、アルメニア人通りには24家族が居住していたようです。
アルメニア人教会が各地に建設されましたが、常任の司祭がいないところも多く、その教会を保護していた有力商人が去ると、教会も寂れてしまうケースが多かったようです。
アジア各地には1860〜1910年代にアルメニア人が創業したホテルがあります。
この背景には、アルメニア人への虐殺が生んだアルメニア人の離散と、ヨーロッパ富裕層の世界周遊ブームがありました。
1880年代以降、シンガポールでは「ホテル」という名ではあるが、家族経営のこじんまりとして「ボーディング・ハウス」が数多くつくられます。有名なラッフルズホテルも前身はラッフルズ学院の男子生徒用宿舎で、ボーディング・ハウスだったといいます。
こうしたボーディング・ハウスはカルカッタにもつくられましたし、神戸のエッソヤン・ホテルもそうしたもので、長期滞在者向けの簡易宿泊所といった感じのものでした。
アルメニア人商人は、こうしたボーディング・ハウスに身を寄せて情報の交換などを行ったと思われます。
こうした中で「東南アジアのホテル王」と呼ばれたのが、イスファハン出身のサーキーズ四兄弟です。
彼らはシンガポール、ペナン、ラングーン、スラバヤなどに次々とホテルを建設しました。前述のラッフルズホテルも彼らの経営です。
ただし、アルメニア人のホテル経営の期間は比較的短く、数年〜20年ほどで華商やヨーロッパ人経営者に経営を譲渡することが多かったようです。
このように本書は主にアジアにおけるアルメニア人商人の動きを追っています。
先行研究も史料も少ない分野と思われる中で、各地に残るアルメニア人の痕跡をたどりながら、彼らのビジネスや生き方を明らかにしようとしています。
ただ、最初にも述べたように、本書に書かれていることはまだ「点」という感じで、面白く読める「線」にはなっていない感じです。貴重な研究ですが、この話題に興味がある人向けの本ではあると思います。
- 2023年05月30日22:01
- yamasitayu
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2002年に刊行された『入門 環境経済学』の新板。前半の第1部で環境経済学の基礎的な理論を解説し、後半の第2部では現在日本が直面している環境問題をとり上げて、その問題点とその望ましい解決策を探っていますが、この第2部が大幅に書き換えられているとのことです。
例えば、旧版刊行時はまだそれほど大きくとり上げられていなかったマイクロプラスチックの問題や、2018年のIPCCの「1.5度特別報告書」(今までの気温上昇を2度に抑えるだけでは気候変動のリスクを抑えることは不可能であり、さらに踏み込んだ対策を求めたもの)以来、さらい加速した感がある温暖化対策の問題がとり上げられています。
前半は経済学の理論を主にグラフを使って解説し、そこで得た知見を元にして実際の環境問題を分析していくやり方はわかりやすいですし、理論の切れ味と机上の理論を実地に適用する難しさの両方がわかるようになっています。
まさに「入門 環境経済学」というタイトルにぴったりな内容になっているのではないでしょうか。
目次は以下の通り。
第1部 環境経済学の基礎理論第1章 環境問題と市場の失敗第2章 政策手段の選択―環境税か、規制か、補助金か第3章 環境問題は交渉によって解決できるか第4章 ごみ処理有料制とその有効性第2部 日本の環境問題と環境政策第5章 廃棄物問題の現状と廃棄物政策第6章 日本の大気汚染政策と世界の現状第7章 気候変動とカーボンプライシング第8章 反グローバリズム時代の気候変動政策と日本
市場メカニズムが優れているのは、消費者余剰と生産者余剰の和である社会的総余剰が最大になるように価格と取引量が決まるからです。
しかし、いくつかのうまくいかないケースがあり、その代表的なものが外部性の問題です。
例えば、ガソリンの消費者はガソリンに対して対価を払っていますが、副産物である二酸化炭素の排出に対しては何の支払いもしていません。このような市場の外部で発生する費用を外部費用といいます。
生産に要する企業の費用を私的費用といいますが、社会的に見ると、財を生産するための費用には環境問題によって発生する外部費用も含まれるべきです。つまり、私的費用と外部費用を足し合わせた社会的費用を考える必要があります。
詳しくは21p図1−5を見てほしいのですが、外部費用がある場合には、最適な生産量以上の生産がなされてしまうことになります。
そこでこれを抑えなければならないわけですが、これには規制的手段と経済的手段の2つがあります。
規制的手段とは、政府が生産者や消費者の行動を直接規制するやり方で、ガソリンの販売量に上限を課すやり方などがこれにあたります。
経済的手段には課税と補助金がありますが、一般的なものは課税です。ガソリンに課税することでガソリンの販売料を抑えるのです。
規制的手段でも経済的手段でも社会的に望ましい生産量を実現することは可能ですが、課税の場合は政府が税収を得ることになり、それをどのように配分するかで生産者と消費者の利益は変わってきます。
ただし、規制的手段でも経済的手段でも制作担当者が外部費用を的確に把握していることが前提になります。
第2章では環境問題に対処するための手段である、環境税、規制、補助金について、それぞれの特徴を分析しています。
ここもグラフを使った説明がなされているので、詳しくは本書を見てもらいたいのですが、環境税の利点は、各企業が自発的に決定する生産量が、市場全体の生産費用を最小にするところで決まる点です。全体の生産が減るとしても、非効率な生産を行っている企業の生産から減るような形になるのです。
一方、難しいのは政策当局が市場全体の需要曲線や供給曲線を把握した上で、政策目標を達成するための環境剤の水準を定めることです。実際に正確な把握は難しいので、限られたデータを元に環境税の水準を推計せざるを得なくなります。
次に規制です。例えば、政府が生産の上限を設定し、生産量を各企業に割り当てる方法が考えられます。
この手段の良い点は、各企業が割当を守る限り、政府が当初予定した目標を必ず達成できる点です。
一方、社会的利益を最大化するには各企業の限界費用を政府が把握し、それに応じた生産量の割当を行う必要がありますが、限界費用の把握は困難ですし、割当をめぐって企業や産業界が政府に働きかけたりすることで限界費用に応じた割当は歪められるかもしれません。
補助金も短期的には環境税を同じようなはたらきをしますが、長期的な影響は違うといいます。
環境税の場合、導入されれば企業の利潤を引き下げることになるため、有害物質を多く排出する企業や非効率な企業は長期的には退出していきます(その過程で失業などが増える恐れもある)。
一方、補助金は利潤の水準を引き上げるために、参入する企業を増やす可能性があります。環境低負荷型産業への移行が遅れる可能性があるのです。
第3章では「コースの定理」が紹介されています。これは環境の利用権を設定すれば、環境税などの政府の介入がなくても環境問題は解決できる可能性があるというものです。
例えば、ある町で工場に大気汚染が問題になっていたとしましょう。このとき、環境の利用権が住民側に設定されていれば、工場に補償を要求することができます。工場側はその補償のコストを考えざるを得なくなるので生産量を減らすことになり、結果的に外部費用を考慮したレベルまで生産が減ります。
そして、やや直観に反するかもしれませんが、工場側に利用権を設定しても生産は減るといいます。住民側は自分たちの被害の分だけ、工場側の利益を補償し、結果的に外部費用を考慮したレベルまで生産量が減るのです。
ただし、コースの定理にも問題点はあります。
1つ目は取引費用の問題で、上記の例では住民と工場が交渉を行う必要がありますが、その交渉のコストは無視できません。特に住民側にとってはばかにならないもので、泣き寝入りを強いられる可能性もあるでしょう(実際、コースはこの問題点を重視していた)。
また、交渉対象を特定する難しさもあります。例えば、大気汚染の原因が自動車の場合、どの人の車がどのくらいの汚染をもたらしたかを特定するのは困難です。地球温暖化問題では被害者が将来世代になりますが、将来世代を交渉のテーブルに着かせることもできません。
このコースの定理を応用したのが排出量取引です。地球温暖化対策のための京都議定書でも排出量取引制度は1つの手段として採用されました。
まず、政府が許容できる温室効果ガスの排出量を決定し、この排出枠を企業に与えます。排出枠を得た企業はその量に見合いだけの温室効果ガスを排出でき、余ったらそれを売却することもできます、一方、排出量が排出枠よりも多い企業は排出枠を買う必要が出てくるのです。
これを世界全体で行うと削減コストの低い国で削減が進み、削減コストの高い国はそこでできた排出枠を買うという形になります。これは世界全体の削減を考えた場合に極めて合理的なやり方になります。
なお、コースの定理からすると、世界のどの国にどれだけ排出枠を割り当てても世界全体での温室効果ガスの削減費用は変わらないことになります。
ただし、実際の交渉の場では排出枠の割当によってどの国が得するかが決まるので、調整は容易ではありません。
第4章では、今までの知見をごみ問題の分析に応用しています。
「ごみを減らそう」とよく言われますが、ごみがゼロというのは考えにくく、もしそれを強制されたら私たちの消費は大きく減少しそうです。そこで、「ごみ排出による家計の効用−ごみ処理費用」が最大になるような排出量が社会的に見て最適なごみの量と言えます。
もし、ごみ処理無料制であれば(実際には住民税などで負担するわけですが)、家計はごみ処理費用を考えずに自分たちの効用を最大化しようとするでしょう。
次に、ごみ処理手数料定額制のケースだと、ごみを削減するインセンティブははたらきません。結局、ごみ処理無料制と同じになります。
一方、ごみ処理手数料従量制だと家庭に削減のインセンティブがはたらき、社会的利益が最大になります。
さらに本書では、ごみ処分場のキャパシティも考え、将来世代の利益にも配慮した解決方法を考えています。
この将来世代のことも考えれば、ごみ処理事業が黒字になるほど手数料を引き上げることが必要になるのですが、2020年度の全国のごみ処理事業経費2兆1290億円を賄うには40リットルのゴミ袋を1枚408円に設定する必要があるといいます(100p)。
現在のほとんどの自治体は100円以下であり、社会的利益を最大化するといっても、この水準への引き上げはなかなか困難だと言えるでしょう。
第2部では日本の直面している環境問題が実際に分析されています。
第5章は廃棄物問題で、まずは容器包装、家電、自動車、建設、食品などのさまざまなリサイクル法が紹介されていますが、ここはまとめとして便利ですね。
ついでマイクロプラスチックの問題もとり上げられています。
このように近年ではさまざまなものにリサイクルが義務付けられていますが、同時に問題になるのがリサイクルの手間を省くために不法投棄が増えることです。
これを防ぐための1つの対策がデポジット制です。空き瓶などで行われていますが、販売価格に一定の金額を上乗せし、販売店などに持っていけばその金額を返金するようにするのです。
このやり方は幅広く行うことも可能で、韓国では電池やタイヤやテレビやエアコンなどにもデポジット制が取られているといいます。
ただし、デポジット制が取られていない地域から取られている地域に持ち込まれた場合の難しさがありますし、家庭ごみのように製品の分別が容易ではないケースではデポジット制は難しくなります。
そのために不法投棄に対する罰金制度も同時に整備する必要があります。経済学的に最適な罰金は「外部費用÷逮捕確率」だそうで、外部費用(不法投棄による環境汚染などの費用)が1億円で逮捕確率が50%だった場合の罰金は2億円と、かなりの高額になります。
ちなみに、この章のコラムを見ると、日本のごみ総排出量は2000年をピークにして、2020年度はそこから24%ほど減っており、各リサイクル法などの影響がうかがえます(139p図5−3参照)。
第6章では大気汚染政策がとり上げられています。
日本では四日市ぜんそくに代表されるように、高度成長期になって大気汚染が大きな問題となりました。
二酸化硫黄に対しては脱硫装置の設置が1つの対策となりますが、当初は費用が高く、設置が進みませんでした。
そうした中で脱硫装置の普及を後押ししたのが二酸化硫黄への賦課金制度です。1973年に成立した公害健康被害補償法によって大気汚染の原因者は二酸化硫黄の排出量に応じて賦課金を払うようになりました。国は工場などの固定発生源が80%、自動車などの移動発生源が20%の責任を持つと定め、賦課金の徴収を行ったのです(自動車からは自動車重量税を通して徴収)。
これによって脱硫装置が普及し、それとともに二酸化硫黄の1m3あたりの賦課金も上がったことから、さらに脱硫装置の普及が進みました。
また、本章では途上国の大気汚染(中国のPM2.5など)に触れるとともに、日本ではあまり馴染みのない調理で薪などを使うことによって起こる室内空気汚染とその対策についても触れています。
第7章は地球温暖化とカーボンプライシングを扱っています。
地球温暖化は1990年代から問題となってきましたが、2018年にはじめの方で述べたIPCCの「1.5度特別報告書」が出たことで、各国がカーボンニュートラルを目指すことを宣言するなど、その取組は一段と加速しています。日本も2021年のCOP26で2030年までに2013年度比で温室効果ガスの46%削減、そして2050年のカーボンニュートラルを達成すると発表しました。
では、温室効果ガスはどのように削減できるのでしょうか?
京都議定書以来、いくつかの方法が行われてきましたが、その1つがクリーン開発メカニズム(CDM]です。
CDMは先進国が途上国に対して資金及び技術面での協力を行い、温室効果ガスの削減・吸収のプロジェクトを途上国で実施するというものです。投資した国は排出削減分だけ、自国の温室効果ガスを削減したものとみなされます。
しかし、プロジェクトの審査・登録と削減クレジットには多くの時間と労力を要します。
また、認定されたプロジェクトは風力発電(25%)と水力発電(24%)でほぼ半分を占めており、日本の得意とする省エネルギープロジェクトは登録されにくいものとなっています。
さらにCDMのホスト国をみると2021年時点で中国が49%、インドが21%と両国で70%を占めています(187p図7−2参照)。
そこで日本では二国間クレジット制度(JCM)に力を入れており、日本と二国間協定を結んだ国で日本の技術を使って二酸化炭素の排出を減らすことを行っています。
現在、インドネシア、モンゴル、エチオピア、サウジアラビアなど、さまざまな国で実施されています。
温室効果ガス削減のもう1つのやり方が排出量取引です。排出枠が定められている先進国の間で排出枠の取引を認める制度です。
日本は京都議定書で6%の削減目標を約束したものの、2008〜12年の第一約束期間の排出量は基準年から平均で1.4%増加してしまいました。そこで森林等の吸収源3.9%と排出量取引を利用して目標を達成しています(政府が取得した削減量が1.5%、民間が取得した削減量が4.3%で年間8.4%の削減目標を達成(189p)。ちなみに2013〜2020年の第二約束期間については日本は不参加となっている)。
しかし、カーボンニュートラルを実現するためにはより強力な削減手段が必要であり、そこで注目を集めているのがカーボンプライシングです。これは二酸化炭素の排出に値段をつける制度で、効率的に二酸化炭素の削減が進むことが期待できます。
まず、二酸化炭素の発生源はさまざまであるため、規制的手段は難しく、効率的な削減を行うには経済的手段が有効になります。
カーボンプライシングはピグー税に着想を得てますが、二酸化炭素の社会的費用を完全に計測することは難しく、現実的には外部不経済の一部を内部化する手段になると思われます。
カーボンプライシングはエネルギー価格を引き上げますので、人々に省エネへと向かわせ、省エネ製品への買い替えを促すでしょう。
さらにエネルギーあたりの炭素含有量の多い石炭の価格が相対的に上昇し、炭素含有量の少ない天然ガスなどへの転換が進むでしょう。さらに太陽光などの再生可能エネルギーが割安になるので再生可能エネルギーの普及も加速するでしょう。住宅についても断熱性の高いものへの建て替えが進むかもしれません。
日本でも地球温暖化対策税という炭素税が導入されています。2012年から導入され、2021年度現在、二酸化炭素1トンあたり289円の税がかけられています。これはガソリン1リットルあたり0.7円程度に過ぎず、価格上昇→削減という効果はあまり期待できません。
ただし、税収は令和3年度予算で約2340億円となっており、これが省エネ技術や再生可能エネルギーへの補助金に使われています。
排出量取引は国レベルでは行われていませんが、自治体レベルでは2010年に東京都が、2011年からは埼玉県が導入しています。
東京都のものは主にオフィスビルやホテルを対象にしていますが、2010〜2014年の第一計画期間で目標を上回る25%の削減を実現できました(これには東日本大震災以降の電力価格上昇の影響もある)。
埼玉県のものは排出枠を調達できなくても罰則がないというものですが、それでも4年間で22%の削減が実現したとのことです。
このようにカーボンプライシング+排出量取引には温室効果ガスの削減効果が期待できるわけですが、いくつかの問題もあります。
まずはカーボンプライシングが逆進性を含むという点です。ガソリン価格の上昇は低所得者に大きな影響がありますし、低所得者は省エネ製品への買い替えも困難です。2019年にフランスで起こった黄色いベスト運動の背景にも炭素税への低所得者からの不満がありました。
税収を何らかの形で低所得者へと還元することが必要になります。
もう1つがカーボンプライシングが進んでも、そうした制度のない国外で二酸化炭素の排出量が増えたり、国内の産業の競争力が失われることです。
全世界でカーボンプライシングが導入されれば問題ないですが、そうでない場合に考えられるのが国境炭素調整です。これは輸入品にカーボンプライシングを課すものです。
2021年、EUはこの国境炭素調整メカニズムを提案しました。セメント、鉄鋼、アルミニウム、肥料、電力などが対象として想定されており、実現すれば世界に大きな影響があります。
自由貿易という点からは逆行する面もありますが、著者らはトランプ大統領以降の反グローバリズムの流れがこれを可能にしたとみています。
この制度では輸出国がカーボンプライシングを導入していれば、その分、負担がなくなります。こうなると国レベルでカーボンプライシングが導入されていない日本は不利になります。
カーボンプライシングの導入という点では日本は韓国や中国にも遅れを取っており、排出量取引の制度も含めて、立ち遅れている状況です。
このように本書は、環境経済学の基本的な考えと、現在日本が直面している問題をバランスよく紹介しています。
経済学をある程度知っている人にとっては、本書を通して環境問題の実態が見えてきますし、環境問題に興味を持っている人にとっては、本書を通して環境問題を解決するための1つのツールとして経済学が使えるということがわかってくると思います。
理論と現実の双方に目配りができているいい本だと思います。
- 2023年05月24日22:59
- yamasitayu
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ローマ帝国を支えたローマ軍を見ていくことで、ローマ帝国の特徴や変質を明らかにしようとした本。
序章やあとがきで述べられているように、本書は狭い意味での「軍事史」の本ではなく、著名な戦いの解説などをした本ではありません。軍を通して見たローマ史という形になります。
また、ローマ史の後半について比較的手厚く叙述しているのも特徴で、軍の変質を通じて、ローマの帝国としての変質とその衰退の理由がわかるようになっています。
岩波新書には南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』という面白い本もありますが、本書も「軍から見たローマ帝国衰亡史」として読める本ですね。
目次は以下の通り。
序 章 凱旋門とサトクリフとイエス――ローマ帝国と軍隊第一章 市民軍から職業軍人の常備軍へ――ローマ帝国軍の形成第二章 「ローマの平和」を支える――前期ローマ帝国の軍隊第三章 軍制改革と権力闘争の狭間――変容するローマ軍第四章 イメージと実態のギャップ――後期ローマ帝国の軍隊第五章 異民族化の果て――崩壊する西ローマ帝国の軍隊終章 ローマ軍再論――ユーラシア史のなかで
ローマ帝国の特徴は職業軍人からなる大規模な常備軍を抱えていたことです。その数は2世紀なかばにおいておよそ36万人だったといいます。
例えば、漢帝国にも常備軍はありましたが、基本的には農民を徴兵したものでしたし、アルサケス朝パルティアやササン朝ペルシアは大貴族の持つ軍事力に頼っていたといいます。
ただし、もともとのローマの軍は古代ギリシアのポリスと同じように市民が武装していたもので職業軍人からなる軍隊ではありませんでした。
前1世紀のリウィウス『ローマ建国以来の歴史』によると、前6世紀に活躍したとされるローマの王のセルウィウスは、市民の財産を調査した上で財産に応じて第一階級から第五階級に分け、それぞれの階級に武装を定めたといいます。古代ギリシアと同じく、武器は自弁であり、用意できないものは階級外として従軍を免除されていました。
ただし、近年の研究ではセルウィウスの時代にここまで細かい区分はなかったと考えられています。
前2世紀のポリュビオス『歴史』によると、当時のローマでは毎年、4個の軍団(レギオ)が編成されていたといいます。
通常は歩兵4200名と騎兵300騎で、指揮権は2名のコンスルにあり、それぞれに2個軍団が割り振られていました。
対象となったのは400ドラクマ以上の財産を持つ17〜46歳の市民で、兵役の期間は騎兵が10年、歩兵が16年で、非常時には20年に延長されたといいます。
このころになると、山地での戦闘も増え、ファランクスの密集隊形で戦うことは難しくなったため、60名、ないし30名の中隊を編成して戦いました。
第2次ポエニ戦争を戦ったのはこのような軍隊でした。
ところが、ポエニ戦争での勝利と領土の拡大は軍の変質をもたらすことになります。
ローマの領土は西はスペインから、東はマケドニアやギリシア、南は北アフリカに広がり、戦争が慢性化すると、長年農地を離れたことで没落してしまう有産市民も出てきたのです。
この危機を中小農民の再建によって乗り切ろうとしたのがグラックス兄弟でしたが、この改革は挫折しました。
これに対してマリウスは従来兵役を免除されていたプロレタリイと呼ばれる無産市民を兵士として募集し、従軍に必要な財産資格を取り払いました。武具も国家から支給されるようになり、兵士の大部分はプロレタリイとなり、募集した政治家の私兵のような存在になっていきます。
かつての軍団は3月に編成されて10月には解散していましたが、属州の増加と戦争の長期化によって軍団は次第に常備軍化していきます。
カエサルはガリアで当初4個軍団を率いていましたが、カエサルはこの軍団を「古強者」と呼んでいます。その後、カエサル傘下の軍団は12個軍団まで増えますが、カエサルのガリア遠征は足掛け9年にも及んだので、カエサルの率いた軍団の中には10年以上のキャリアをもった兵士もいたと考えられます。
このキャリアを活かしてカエサルの軍はたびたび自分たちよりも大きな兵力を打ち破りました。また、カエサルの軍は土木技術にも優れており、野営陣をつくられるとガリア人には手も足も出ませんでした。
この常備軍化が決定的になったのがアウグストゥスのときだったといいます。
アウグストゥスは内乱終結時に60ほどあった軍団を28に整理するとともに、軍団の勤務期間を現役16年と定め、退役時には退職金の支払うこととしました。勤務期間はのちに20年、予備役5年の計25年にまで延長されますが、これによって職業軍人からなる常備軍というローマ軍の基本的なスタイルが定まりました。
アウグストゥスは在職中の兵士の結婚を禁止し、劇場や闘技場などでも兵士と市民の席を分けたことで市民と兵士の分離が進みました。市民の武器を取り上げることこそしませんでしたが、市民の実質的な武装解除が進んだとも言えます。
アウグストゥスから五賢帝の時代にかけて、ローマには25〜28個の軍団があり、1つの軍団の定員は5240人、歩兵5120人、騎兵120騎でした。個々の軍を指揮したのは属州エジプト駐屯の軍団を除き元老議員の軍団司令官であり、多くは30代で、3年ほどの任期を務めたと考えられてます。
軍司令官に次ぐ地位にあったのが6名の軍団将校で、多くは騎士身分の者から選ばれていました。騎士は馬を自弁できるほどの財力を持つ富裕層で、元老院の席に空きが出た場合には、この身分から補充されました。
軍団将校に次ぐのが軍営長で兵卒上がりの叩き上げの人間がつきました。
軍団以外にも、主に属州の非ローマ市民から徴募された補助軍があり、この補助軍の兵士には除隊後にローマ市民権が付与されました。軍には新たにローマ市民を生み出す機能もあったのです。
軍団は基本的に帝国の辺境に配置されました。ライン川沿い、ドナウ川沿い、シリアなどです。
軍の駐屯地は東西で大きく異なり、ローマ領になる前から都市が発展していた東側の地域では、軍団や補助軍は都市内やその近郊に駐屯していました。一方、西には軍を収容しうる都市がほとんど存在しなかったために軍の駐屯地が核となって都市が発展していくことになります。
軍団が属州に配置される一方、イタリアには皇帝の身辺を守る近衛隊が配置されました。
これらの軍の最高司令官は皇帝であり、皇帝への忠誠が誓われましたが、第3代の皇帝カリグラが近衛兵に暗殺されるなど、帝位の行方に軍がかかわるようになっていきます。
五賢帝の時代においても、帝位の継承には掌握している軍事力が物を言ったこともあったようです。
そのため、アウグストゥスが遺言としてこれ以上の領土拡張をしないように言い渡したにもかかわらず、歴代の皇帝は領土の拡張を図り、ダキアとメソポタミアを征服したトラヤヌス帝のときにローマの領土は最大になりました。
五賢帝の時代にも戦争はありましたが、「ローマの平和」と言われるように複数の軍団を投入した長期間の戦争は減っていきます。そのため、配属地域によってはまったく戦闘を経験しないままに軍務期間を終えるような兵士も出てきました。
この時代の一般の兵士は堡塁や塹壕の建設の他、穀物の輸送や街頭のパトルールや浴場の清掃までさまざまな任務にあたっており、さらにインムネスとプリンキパレスと呼ばれる上級の兵士は総督の補助業務などにもついており、官僚制度が未整備だったローマの中で官僚に代わるような役割も果たしていたのです。
百人隊長は外国への使節、従属部族の支配、犯罪人の逮捕や裁判、関税の徴収にもあたっており、ローマの支配の末端を担う存在でした。
著者はこうしたローマ軍の変化のきっかけとしてマルコマンニ戦争とマルクス・アウレリウス帝の時代をあげています。
マルコマンニ戦争は166の末か167年に6000人に及ぶランゴバルド人とオビイ人ドナウ川を越えてパンノニア(現在のオーストリア、クロアチア、ハンガリー、セルビア、スロベニア、スロバキア、およびボスニア・ヘルツェゴビナの各国にまたがる領域)に侵入したことから始まっています。この動きは属州の駐留軍によって撃退されましたが、170年にはマルコマンニ人とクアディ人にイタリア半島まで侵入され、コストボキイ人はバルカン半島からギリシアにまで進みました。
マルクス帝はこれを撃退しますが、戦いの中で病没し、その子のコンモドゥス帝が180年にマルコマンニ人と和議を結んだことで終結しました。
10年以上にわたるこの戦いの中で、マルクス帝は騎士身分の人間を軍団司令職や属州総督職に抜擢してます。マルクス帝は彼らを元老院議員にした上で任務に就かせていましたが、マルクス帝が軍に能力主義を持ち込んだことで、やがて元老院議員は軍からほぼ排除されることになります。
さらに2代後のセプティミウス・セウェルス帝は、後継争いの戦いを制して皇帝になったこともあり、近衛隊を強化するとともに、兵士の給与を倍増させ、さらに在職中の結婚も認めるなど、兵士の支持を得るための政策を行いました。
この結果、兵士のローカル化が進み、やがて家族を口実に移動を拒み、反乱を起こすようになります。
セウェルス帝は軍の支持を得ることで帝位を維持しようとしましたが、これは軍を増長させ、後継の皇帝たちが次々と軍に暗殺される事態を招きました。
さらにローマはササン朝ペルシアの攻勢やゲルマン人の侵入に苦しめられることになります。
ウァレリアヌス帝といえば、260年にササン朝ペルシアのシャープール1世との戦いで捕虜になってしまったことで有名ですが、本書によるとアウグストゥスに並ぶローマ軍の改革者だったといいます。
ウァレリアヌス帝は即位すると、直ちに息子のガリエヌスを同僚皇帝として帝国西部の統治を任せます。ディオクレティアヌス帝の四帝統治を先取りするような形でしたが、これには皇帝不在の戦いで功をあげた属州総督が簒奪者になることを防ぐ目的もあったといいます。
さらにウァレリアヌス帝は皇帝とともに移動する常設の機動軍をつくったと考えられています。
息子のガリエヌス帝は大規模な騎兵部隊を含んだ機動軍をつくり、帝国に侵入して略奪をはたらくゲルマン人を迅速に撃退できる体制を整えました。
ウァレリアヌス帝は属州総督やドゥクスと呼ばれる複数属州にまたがる広域で軍を率いる司令官に騎士身分の者を登用し、実力主義を一層強めましたが、つづくガリエヌス帝の単独統治の時代になると、元老議員が軍務につくことを禁じ、軍の司令官クラスにバルカン半島出身の兵卒上がりがつくようになります。
皮肉なことにガリエヌス帝は抜擢した者に暗殺されますが、この後はバルカン半島出身の軍人が次々と皇帝になっていきます。
こうした軍人皇帝の権力基盤となったのは皇帝の持つ機動軍でしたが、この機動軍によって284年に皇帝に擁立されたのがディオクレティアヌス帝です。
ディオクレティアヌス帝は四帝統治を始めるとともに、機動軍を強化し、さらに軍用道路とその道路に沿って要塞を築くことで辺境の防衛線を強化しました。兵力も強化され、40万ほどの兵力が60万ほどまで増強されたと考えられています。
ディオクレティアヌス帝の後に権力闘争を勝ち抜いたコンスタンティヌス帝は、近衛隊を解体して近衛長官を文官にするなど、軍政と民政の分離を進め、新たにスコエラ・パラティナとよばれる皇帝の護衛部隊をつくりました。
軍は機動軍と辺境防衛軍に整理され、ローマ後期の軍制が確立することになります。
この時期になると、ローマ軍の戦略の主眼は攻撃から防衛へと移っており、354〜378年にライン・ドナウ川流域で行われたゲルマン民族との26回の戦争のうち、ローマが攻勢を仕掛けたのは6回、そのうち4回は敵の攻撃の予防であり、純然たる攻撃は2回のみだったといいます(162p)。
375年に体格の良い者は機動軍に、劣る者は辺境防衛軍に入るように定めた法がつくられたことからもわかるように、辺境防衛軍は次第にその質を低下させ、機動軍が戦力の中心となりました。
辺境防衛軍を突破して内地に侵入してきた敵を機動軍が撃退するような形になっています(ルトワックはこれを「深層防御」体制と呼んだ)。
また機動軍は皇帝の選出、承認の機関ともなっており、ある意味で「主権者」のような役割も果たすようになりました。
一方、皇帝の地位を争う戦いでは機動軍同士の戦いになることも多く、双方に大きな損害が出ました。
ディオクレティアヌス帝のときに軍は大きく拡大しましたが、それもあって兵員の補充に苦しむことになります。
ディオクレティアヌス帝以後は退役兵の子は兵士になるように義務付けられ、地主に対して税として徴兵が課され、土地の面積に応じて一定数の兵士を供出する義務を負いました。しかし、徴兵は不人気であり、親指を切り落として徴兵を逃れようとする者もいたそうです。また、逃亡防止のために兵士には刺青が入れられるようになり、逃亡兵を匿う行為も厳しく罰せられました。
税の免除など、さまざまな特典もつけられましたが、それでもローマ市民から十分な兵を確保することは困難で、ゲルマン民族などの異民族が兵士として用いられるようになります。
こうした中で、文官的な業務はなくなっていき、兵士たちは専業の戦士となっていきます。
376年にゲルマン民族大移動がはじまり、ローマ軍はその対応に忙殺されます。378年にはローマ軍はアドリアノープルでゴート人のテルウィンギ族相手に大敗北を喫し、軍を率いていたウァレンヌ帝も戦死しました。
ローマ軍の立て直しのために抜擢されたのが将軍だったテオドシウスでした。テオドシウスはゴート人と条約を結んで自治を認める代わりに軍役を課し、部族の指導者の指揮のもとで戦うことも許しました。
テオドシウスはゴート人を含めた異民族の同盟部族の軍を使って戦いを重ね、闘争を勝ち抜いていきます。この作戦には異民族の力を弱める効果もあったので一石二鳥でした。
テオドシウスの死後、東は長男のアルカディウスが、西は次男のホノリウスが治めることになりました、ホノリウスはまだ11歳であり、後見役を託されたのがスティリコです。
スティリコは皇帝のもとで総軍司令官を称し、以降、この立場についたものが西ローマ帝国の事実上の支配者となります。
しかし、権力争いの中でスティリコの指揮する機動軍は兵力を失っていき、ゲルマン人の侵入に対応できなくなりました。
433〜454年まで西ローマの総軍司令官として軍の立て直しに務めたのがアエティウスです。アエティウスは「最後のローマ人」とも呼ばれましたが、彼が依拠した戦力はフン人とゲルマン人の同盟部族の軍隊でした。
もはや西ローマでは機動軍を維持する財政基盤も失われており、一時的な金銭の提供と引き換えに軍を提供するフン人や土地の提供と引き換えに兵力を提供する同盟部族に頼らざるを得なかったのです。
アエティウスの死後、最終的に西ローマは同盟部族によって皇帝が廃位されることで滅亡してしまったのです。
さらに本書は終章で、アウグストゥス以降のローマがなぜ巨大な常備軍を持てたのかという問題を考察しています
著者は、常備軍を支えた財政的裏付けとしてシルクロード交易からの関税収入を考えています。シルクロード→インド→ローマという形でさまざまな商品が取引されましたが、このインドとローマを結んだ商船からの関税が巨額のものだったと考えられるのです。
しかし、この交易の衰退と2世紀後半からの寒冷化と乾燥化という気候変動によって異民族の侵入が始まり、ローマは衰退の道を辿っていったのです。
一方、東ローマは異民族の侵入が限定的であり、コンスタンティノープルという堅固な都市を持っていたこと、そして4世紀からシルクロード交易が回復したことがその命運を永らえさせたと分析されています。
このように本書は軍を通してローマ帝国の興亡と変質を知ることができます。軍事オタク的な人には物足りない面もあるかもしれませんが、ローマの1つの通史としては面白いと思いました。
ローマと他の同時代の帝国との軍の比較や、ローマでは官僚制が発達せずにその代わりを軍が担ったという指摘などは非常に興味深かったです。
シルクロード交易の話は最後の最後になって登場しましたが、ここはまだ歴史学者の中でコンセンサスができているわけではないということなんですかね?
- 2023年05月16日22:09
- yamasitayu
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安倍元首相は憲法改正について「最終的に決めるのは、主権者たる国民の皆様であります」(23p)と言いました。
このときの「主権者」とは一体何者で、いかなるときに国民は「主権者」としてたち現れるのか? そもそも「主権」とは何なのか? 現代の政治においてこの「主権」をどのように考えればよいのか? といったことを探っているのが本書です。
著者は憲法学者ですが、政治と法の対立関係を意識した上で、東浩紀や鈴木健や成田悠輔の議論なども引用しながら、法と政治の問題を探っていきます。
主権についての議論には昔からピンとこない点もあり、本書についても疑問に思う点もあるのですが、憲法学者でありながらかなり越境して政治を論じており、憲法学者からの現代政治論とも言うべき本で多くの興味深い点を持っています。
目次は以下の通り。
序章 見取り図―日本国憲法に登場する「国民」たち第1章 主権者Part1―ロゴスと意思第2章 主権者Part2―忘れられた巨人第3章 民主主義第4章 市民社会
本書の冒頭では、まず日本国憲法の国民には3つの役割があてられていると述べています。
1つは前文にある「主権者」としての役割であり、2つ目が15条の「公務員の選定罷免権」などに見られる「有権者」として役割であり、3つ目が12条における人権を「不断の努力」で守るような「市民」としての役割です。
さらに13条では「すべて国民は、個人として尊重される」と、「個人」としての国民を尊重するとも書かれています。
本書では基本的に、第1章と2章で「主権者」としての側面を、第3章で「有権者」としての側面を、第4章で「市民」としての側面を扱うような構成になっています。
西洋における主権という言葉には、もともと「より上位のもの、最上位のもの」といった意味があり、「主権」というよりも「至高性」といったほうが理解しやすい面もあるといいます。
そして、「至高性」を持つものと言えば、当然ながら「至高なる神」に行き着きます。
ヨハネの福音書に「始めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった」との一節があり、この言葉は「ロゴス」を指すと言われています。
ここから神はロゴスであり、ロゴスこそが至高性であり、主権であるという議論をすることも可能です。
ところが中世のスコラ学において、この神の至高性はしだいにロゴスの問題から神の意思の問題へと変わっていきます。
そして、この意思を誰が担うのかという問題が浮上してくるのです。
中世においてこの意思の担い手として対立したのが教皇と皇帝です。当初は、カノッサの屈辱に見られるように教皇が優勢でしたが、やがて「アヴィニョン捕囚」に見られるように俗権が優位に立つようになります。
主権論を最初に定式化したのはジャン・ボダンですが、かれは暴君や無政府状態における混乱を回避するために競合対立する団体から「主権」概念によって国家を区別しようとしました。
ボダンは立法権をその中心に据えましたが、これは今までの慣習法に代わって、主権者の意思こそが重要だということを宣言したものでもありました。
ボダンは君主は臣下と財産や公益を共有することが前提になっていましたが、ボダンの考えからは王権神授説も生まれてきます。王こそが至高のものとされ、その王の意思こそが主権であるということになったのです。
中世以降、主権はロゴスではなく、意思として解釈されるようになっていきましたが、意思には担い手としての主体が必要になります。そして、この意思の担い手とされたのが君主でした。
新しい政治秩序を創造する憲法制定権力というものがありますが、これを打ち出したのがシィエスの『第三身分とは何か』です。
シィエスは第一身分の聖職者、第二身分の貴族に次ぐ第三身分として「国民」を置き、この「国民」こそが憲法制定権力だとしました。
シィエスは国民はいかなる形式にも拘束されず、国民の意思が表明されれば、いかなる実定法もその効力を失うとしています。
シィエスの描き出す国民は、既存の秩序を破壊する者であり、同時に新しい秩序を創る者でもあるのです。
君主主権から国民主権への変化は民主主義にとって大きな前進にも思えますが、そこから生じる問題もあると言います。
まず、君主という特定の意思主体がいるときは、被治者はその主体と意思疎通が可能ですが、これが国民主権となると統治者と被治者の意思疎通は内省というスタイルを取らざるを得ません。しかし、国民が果たして主権の行使について内省するのか? という疑問もあります。そうなると主権者にふさわしい「国民」は本当にいるのか? という問題も出てくるのです。
アメリカでは主権論はヨーロッパのようには盛り上がりませんでしたが、「州権」、「州主権」と「人民主権」の対立が問題となりました。
1793年のチザム対ジョージア事件連邦最高裁判決では、他州民の財産の戦時没収について、人民を州に優先させ、州主権を排除して合衆国憲法の基底に軍配を上げましたが、1795年に成立した修正11条では再び州主権の優位が打ち立てられました。
この州主権の問題は奴隷解放問題や南北戦争にも引き継がれていくことになります。
また、20世紀になってアメリカで主権の行使の問題が扱われたのが1951年にヤングスタウンで発生した事件です。
ヤングスタウンはアメリカの鉄鋼業の中心地であり、当時は激しい労働争議が行われていた場所でもありました。朝鮮戦争の末期にあってストライキで生産が停滞するのは問題だと考えたトルーマン大統領は同地域の最大の鉄鋼所を接収する大統領令を出し、同時に連邦議会に必要な立法措置を講ずるのであれば協力を惜しまないというメッセージを送りましたが、議会は反応しませんでした。
52年の連邦最高裁の判決によって大統領令による接収を差し止める判決が確定しますが、このときにロバート・ジャクソン判事の出した補足意見は有名です。
ジャクソン判事は大統領の権限について立法府の明示的・黙示的な権限付与があるケースとそうではないケースで大統領のできることは変わってくるとしましたが、同時に「ひとつの政府」が求められるような緊急事態などでは大統領という個人に主権が人格化するというアプローチをとりました。
この他、第2章では天皇機関説事件や戦後の尾高朝雄と宮沢俊義との論争について、主権のあり方といった視点から分析されています。
国民主権は民主主義とイコールで語られることが多いですが、主権論が登場するずっと前から民主主義(デモクラシー)は語られてきました。第3章ではそのあたりから話を始めています。
アリストテレスは「民主制」を「共和制」の堕落した形態として描き出しましたし(ただし、アリストテレスは堕落した政治形態の中では民主制はマシだと考えている)、プラトンははっきりと民主制を危険なものとして扱ってます。
プラトンやアリストテレスの考えが必ずしも古代ギリシアの民主制に対する評価を反映したものではないのですが(このあたりは橋場弦『古代ギリシアの民主政』(岩波新書)を参照)、民主制は衆愚政治という悪いイメージと重ねられることも多かったのです。
衆愚政治を動かすものとして、プラトンは雄蜂族というものを想定しました。彼らは演説を行い、その他のものはその周囲でブンブンと同調します。こうした中から「デマゴーグ」が現れるのです。
20世紀になってアレントは全体主義国家形成の過程で幅を利かせる者として「モッブ」をあげました。モッブはあらゆる階級から締め出された「階級脱落者」であり、大衆を扇動します。
プラトンやアレントの描く世界では雄蜂族やモッブによって大衆が扇動されていきますが、オルテガの考える大衆は「みんなと同じであること」に満足している人たちであり、常に誰かに扇動されるわけではなく、ときに制御不能です。
そして、この大衆は主権者でもあります。この主権者の声をいかにして聞くかが大きな問題になります。
こうしたときに近年になって浮上してきたのがネットの存在です。
SNSを中心としたネットの議論は、まさにデマゴーグとモッブの顕現という感じもしますし、ネットの分極化は議論の場を失わさせるものにも思えますが、ネットを使った民主主義の再構築という提案もいくつか出されています。
東浩紀は『一般意志2.0』で国民の無意識的な選好を可視化したデータを熟議の組み合わせによって新しい民主主義を構想する試みでしたし、成田悠輔の「無意識民主主義」は熟議を抜きにしてアルゴリズムのみで政策決定までを行うといいます。
こうした構想が出てくる背景には、現在の選挙を基盤にして代議制民主主義に対する不満があります。
さまざまな問題について「最後は選挙で決めればいい」とも言われますが、選挙は個々の問題に対する意見の表明と考えるにはす荒っぽい手段ですし、そもそも何か問題が浮上するたびに選挙が行われるわけでもありません。
選挙では、さまざまな考えが最終的には議席という単純な数字に変換されてしまいますし、そこで選ばれた「代表」は個別利害でがんじがらめになった存在かもしれません。
こうした状況を打破するために、ネットの活用以外にもくじ引きや国民投票の活用といったことが提案されていますが、国民投票の活用は「衆愚」の力を解き放つものになりかねません。
本書では2004年にスイスの憲法改正発議の国民投票で、更生不可能な性犯罪者等の永久拘禁を可能とする憲法改正が通ったケースが紹介されていますが、このように国民投票によって基本的人権や刑事法の原則を乗り越えてしまうような変更も可能になるのです。
一方、このようなダイナミズムが必要になるような局面もあるのかもしれません。
民主主義が安定するには、政治と法を区別し、民主主義の外部に法による審級をつくることも重要です。いわゆる「法の支配」になりますが、そのためには司法の活性化が必要になります。
著者は国の公金支出について違法性があると疑われる場合にこれを訴えることのできる「国民訴訟」の制度を提案しています(地方自治体に対する住民訴訟はあるが国レベルでの制度はない)。
第4章は「市民」についてです。本書では「社会を支え、政治と私的世界の媒介に腐心し、公共的負担を引き受ける国民が「市民」のなのである」(209p)と述べられています。
ここで最初にとり上げられているのが砂川事件です。砂川事件について知っている人はこのセレクトに違和感をおぼえるかもしれません。砂川事件と言えば日米安保条約が違憲であるかどうかが争われた裁判で、判決の中でいわゆる統治行為論が示されたことで有名だからです。
砂川事件の最高裁判決では、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの」(212p)として、日米安保条約について憲法判断を避けました。
同時に「憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではないのである」(215p)とした上で、「終局的には、主権を有する国民の政治的判断に委ねられるべきものであると解するを相当とする」(217p)と述べています。
ただし、この判決を主導したと考えられる田中耕太郎最高裁長官は、日米安保を違憲とした伊達判決を支持する声を「社会の雑音」とし、その一方でアメリカの駐日大使と接触するという国民を軽視するような振る舞いもしていました。
このように砂川訴訟の最高裁の判決が「市民」について何かを語っているとも思えないのですが、著者が注目するのは差戻審の第1審の岸盛一裁判官による判決です(岸はのちに最高裁の判事にもなっている)。
岸は被告人らを有罪だとしつつ、量刑についての考慮の中で、政治は国民のものであるとした上で、「国民各自が平和に対する意欲を燃やし、時の政策を批判し、進んでこれがための諸種の行動にでることは、民主主義国家において国民に保障されている自由に属し、その論議や批判が純粋であり、真摯であり、建設的であればあるほどまた有益である」(222p)と述べました。
「市民」の行動を評価し、期待するような判決は、1968年に呉市で在日米軍用の弾薬を積載した貨物列車の輸送を市民が妨害した事件に対する、富川秀秋裁判官の判決にも見られます。
富川裁判官は新安保条約の合憲性は未だに確定していないとして、国民がこれに抗議することは当然であり、「むしろその義務であるとも言える」(226p)と述べました。
富川裁判官は憲法を守るための一種の「抵抗権」のようなものを想定していたのです。
市民運動が熱を帯びていた時代は去りましたが、現在はネットを使った新たな運動が模索されています。実際に、アラブの春や台湾のひまわり学生運動、香港の雨傘運動など、SNSを通じた動員が大きく注目されました。
しかし、日本においてSNSを通じた動員がうまくいっているとは思えません。本書では宇野常寛の議論を引きながら、ネットも結局は「大衆」を動員するためにしか使われていないとしています。
この後、著者は小田実の「市民運動のデモ行進の特徴は、名刺交換しないことですね」(247p)という帰属を問われることのない人の集団というものを肯定的に紹介しつつ、マーク・リラのアイデンティティ・リベラリズム批判をとり上げています。
小田実からマーク・リラというのはなかなかない流れですが、リラがアイデンティティとは別に全員が共有している「市民という身分」に訴えることが重要だということを主張していること(260p)を考えると、納得がいきます。
個人の特性から切り離された部分による連帯こそが市民運動の鍵であるという理解です。
さらに、著者は個人を分割する鈴木健の分人主義を紹介し、個人データの集積が新たな主権者になるかもしれないと本文を結んでいます。
このように本書はさまざまな要素が詰め込まれた刺激的な本です。中世の神学の話しから現代のネット社会の民主主義まで、まさに縦横無尽に語られていると言えます。
ただ、著者とは違って「政治」と「法」の対立関係の中で「政治」から眺めている人間からすると、主権という大きな話と個人データというミクロな話の間で、政党をはじめとする組織の問題が語られていないのではないかという感想も持ちました。
これはないものねだりでもありますが、個人的には健全な民主主義を支えるのはさまざまな組織や団体ではないかと思うのです。
- 2023年05月09日22:54
- yamasitayu
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唐と言えば中国の歴史を代表する王朝ですが、基本的には「隋唐」でセットになることが多く、唐のみを扱った本というのは少ないかもしれません。
隋唐でまとめるといわゆる「律令国家」の歴史という感じになり、それが崩れていく安史の乱以降は軽く扱われるようになってしまいますが(安史の乱以降が軽いというのは世界史の教科書でもそう)、唐はその後も100年以上続いています。
また、日本から見ると、唐は文化の面などで「中国を代表する王朝」といったイメージもありますが、同時に古くから漢人が支配していた地域を大きく超えて領土を広げ、さまざまな民族が入り乱れた王朝でもありました。
こうしたことを受けて、本書では大まかに安史の乱以前の唐を「東ユーラシア」の帝国、安史の乱以降の唐を黄河と長江流域を中心に統治する「中国」の王朝と捉え、その興亡を描き出しています。
岩波新書の〈シリーズ中国の歴史〉では、ちょうど唐は第1巻と第2巻と第3巻に分割されてしまっていましたが、本書はその唐を集中的に描くことで、唐という帝国のダイナミズムとその変質を知ることが出きます。
全体的に刺激的な内容になっており、380ページほどのボリュームでありながらグイグイと読ませます。
目次は以下の通り。
序 章 唐の歴史をどう見るか第1章 東ユーラシア帝国への飛翔——七世紀第2章 武周革命——七世紀後半〜八世紀初め第3章 転換期——八世紀前半〜中葉第4章 帝国の変容——八世紀後半〜九世紀前半第5章 中国型王朝への転換——九世紀前半〜中葉第6章 次なる時代へ——九世紀後半〜一〇世紀初め終 章 世界史の中の「唐宋変革」
唐については、「貴族」制の時代とする見方もありますが(これが「唐宋変革」で変わる)、北魏以来の「拓跋国家」だとする見方もあります(鮮卑の中の拓跋氏を中心とする部族連合体が建てた一連の王朝の1つとして捉える)。
唐の時代の初期には門閥貴族が強い権威を持っていたことは確かですし、同時に唐の官職などには遊牧的な色彩も強く見られます。唐は多様な要素を併せ持った帝国なのです。
唐を建国した李淵は北周や隋の建国に関わった「八柱国家」の一人だった李虎の孫にあたります。昔から李淵は鮮卑族か否かということが問題となってきましたが、著者は確かなことは言えないものの、李淵は鮮卑語を理解し、文化的には鮮卑族の出自といっていいと考えています。
隋の煬帝の治世が混乱する中、優柔不断であった李淵は次男の李世民や部下に押される形で挙兵し、煬帝の孫を新しい皇帝として擁立します。
その後、煬帝が混乱の中で暗殺されると、李淵は618年に唐を建国します。
唐の建国が成功した理由はいくつかありますが、近年注目されているのがソグド人の協力です。
ソグド人は中央アジアのオアシス国家の住民で、もともとは現在のウズベキスタンあたりにいましたが、絹を求めて東方に進出し、この時代には黄河流域まで進出していました。
商業を営んでいたソグド人は独自のネットワークを持っており、そのソグド人グループが李淵についたことが唐がライバルに勝ち抜いていくことを助けました。
唐は基本的に隋の統治制度を引き継いでおり、根本となるのは律令になります。
秦漢以来、漢人王朝でさまざまな律令がつくられましたが、それを遊牧民の目で見直し、整理し体系化したのが隋の律令であり、唐もそれを引き継ぎました。
この律令には遊牧的価値観と漢人の価値観を包括する普遍的なものがあったために、日本をはじめとした東アジアに広がったと考えられます。
官制についても隋のものを引き継いでいます。唐では皇帝のもとに複数の宰相がおり、その宰相の合議によって政策が決まりました。
唐を安定した帝国に押し上げたのが李世民(太宗)です。李淵(高祖)の次男であった李世民ですが、戦で次々と武功をあげた李世民と皇太子として都にとどまった兄の李健成の仲が次第に悪くなり、「玄武門の変」で李世民が兄を殺すことで決着がつきます。
太宗の治世は「貞観の治」とも呼ばれ、臣下の諫言を受け入れ、政治問答を重ねた太宗の政治のあり方は『貞観政要』にまとめられました。
さらに東突厥が内紛と冷害で大きなダメージを受けると、すかさず遠征軍を送り頡利(けつり)大カガンを捕らえました。太宗はテングリ=カガンと呼ばれる遊牧民族の頂点にも立ったのです。
最初にも述べたように唐ができたころの中国は貴族制の社会でもあり、門閥が強い力を持っていました。
これを改めるために隋は科挙を導入しましたが、あまり機能せず、特に山東門閥と知られる崔氏、李氏、盧氏、鄭氏の四姓が家格の高さを誇っていました。太宗は『氏族志』を編纂して、この序列を崩そうとします(それでも最初の『氏族志』では崔氏の崔民幹がトップに格付けされていた)。
また、東突厥の滅亡を機に、太宗は唐の版図を西域へと大きく広げました。唐の領土は現在の新疆ウイグル自治区にまで広げます。
東でもモンゴリア北部の薛延陀(せつえんだ)を滅ぼし、ついで高句麗にも遠征します。しかし、2度にわたる遠征は失敗に終わり、高句麗の征服は次の高宗の時代に持ち越されます。
宮崎市定は「王朝が栄えるか衰えるかはだいたい三代目ごろにさだまる」(81p)と言いました。唐の三代目の高宗は、34年半という玄宗の44年に次ぐ治世の長さを誇りながら、病弱でその存在感は大きいとは言えません。
しかし、高宗の皇后となり、さらには皇帝となって政治を動かした武則天をあえてセットで「三代目」と考えれば、この時代に唐のあり方が定まった時代とも言えます。
のちに武則天となる武氏はもとは太宗の後宮にいた人物ですが、高宗に気に入られて高宗の後宮に入ります。父の妻を娶ったという行為は史書では道徳にもとると非難されましたが、遊牧民の風習ではあり得ることでした。
その後、武氏はさまざまな手管を使って皇后になり、病弱な高宗に代わって政務を代行するようになります。
さらに宰相たちの力を削ぐために自分の周りに文学に秀でたものを集めてアカデミーを形成しました。彼らは北門学士と呼ばれ、彼らに詔勅の起草などをさせることで、宰相たちの権限に横槍を入れました。
高宗が亡くなり、息子の中宗が即位しますが、軽率な発言がもとで武皇太后に廃位され、つづく睿宗のもとでは武皇太后が政治の実権を完全に把握しました。
そして、武皇太后は洛陽を神都とし、儒教や仏教の考えを用いてを690年、ついに皇帝に即位します。国号は「周」となり、中国史上唯一の女性皇帝が誕生しました。
武則天は即位のときにすでに60歳であり、即位後の行いは即位前ほど目立ちませんが、武則天を支えた集団には中央アジア出身の胡人がいて、その中には仏教徒だけではなく、キリスト教徒もいた可能性があるといいます。
最終的に後継者の問題から、廃位されていた中宗を呼び戻したことをきっかけに武則天は退位に追い込まれています。
この高宗から武則天の時代にかけて、唐を取り巻く情勢も大きく変わっていきました。
唐の支配下にあった突厥が独立運動を起こし、691年には阿史那默啜(あしなもくてつ)がカプガン・カガンとなり武則天の「周」に侵攻しました。多くの漢人の農民たちが捕虜として連れされら、働かされたといいます。
さらに唐の東北辺では契丹が独立します。。さらにこの地域では高句麗遺民集団も放棄し、彼らは渤海国をつくりました。
こうした情勢の中、対契丹では現地の農民を徴兵して備えました。これを「団練兵」と言います。さらに武則天の時代には官職を売買する傾向も強まり、定員外の官僚が増えました。こうして律令制度も徐々に崩れていくことになります。
中宗が復位すると国号は「唐」に戻ります。しかし、今度は中宗の皇后の韋后が政治に介入し、中宗は毒殺されます。
唐の政治が安定するのは、712年に玄宗が即位してからです。宮中の闘争がようやく落ち着き、唐建国以来の支配者集団が没落したことで、安定した親政が可能になったのです。
玄宗は定員外の官僚を廃止し、勝手に僧や尼になったものを還俗させ、寺院の建立を制限しました。また、皇帝一族や外戚の活動を制限し、政治を引き締めました。
さらに、カプガン・カガンの死をきっかけに突厥との関係も改善し、「天下泰平」の世となったのです。
ただし、農民が税負担に耐えかねて逃亡することは依然として大きな問題でした。
唐の土地制度は「均田制」が有名ですが、『唐六典』や唐令には「均田」という語句は見えず「給田」という語句が使われています。「均田」の「均」とは「等しい」という意味ではなく、「分、相応」という意味で、身分に応じて土地の保有する広さを規定するというものです。
ただし、この給田のシステムは規定通りには機能していなかったようで、北中国の一部でしか行われていなかったとも言われています。
給田は規定通り行われないのに税負担は規定通りにかかってくるということで、農民たちはさまざまな手段で税を逃れようとしました。
玄宗は逃亡した逃戸に対して100日を限って自首することを許し、新たに把握した農民から軽い税をとることとしました。これを括戸政策といいます。
農民の逃亡は軍制にも影響しました。農民を徴兵する「府兵制」は機能しなくなり、龍武軍という常備軍が置かれるようになります。
さらに唐の境界域を守るために軍鎮が置かれましたが、ここも徴兵した農民では維持できなくなり、「長征健児」という現地に居住する職業軍人に置き換えました。そして、この軍鎮を指揮するために置かれたのが節度使です。
玄宗も治世に後半になると政治への情熱を失い、宰相の李林甫や宦官の高力士といった者が政治を動かすようになります。
さらに玄宗が楊貴妃を寵愛し、その一族の楊国忠が宰相となりました。この時期に玄宗が政治から離れてしまった理由としては、楊貴妃以外にも道教への傾倒があると本書は指摘しています。
そして、いよいよ「安史の乱」となります。安禄山がソグド人の血を引いていたことはよく知られていますが、著者はそれとともに母が突厥の名族の阿史徳氏族の出身でシャーマンであったことにも注意を向けています。
阿史徳氏は突厥第二帝国の中心となった一族でもあり、安禄山は母から「俗」の権力と「聖」の権威を受け継いだ存在だったのです。
安禄山は玄宗の信頼を得るために楊貴妃の養子になることを願い出るなど如才のないところを発揮しましたが、楊国忠には嫌われており、それが「反乱」につながったとされています。
それに対して、著者は「安史の乱」を安禄山とそのまわり集まったさまざまな集団が唐からの独立を目指したものとみています。
安禄山が拠点とした幽州を含む河北地域は北周・隋・唐という関中から興った勢力に支配されてう付けた地域であり、反関中の感情がありました。さらにここに突厥第二帝国の滅亡以降、幽州に流れ着いたさまざまなエスニック集団が加わりました。こうして唐からの独立を願う集団が安禄山のもとに集まったのです。
755年に挙兵した安禄山は河北平原を一気に南下して洛陽を落とし、大燕帝国を成立させます。玄宗は長安から逃げ出し、その中で楊国忠、楊貴妃が殺されました。
一方、皇太子の李紹は霊武(霊州)に向かい、そこで粛宗として帝位につきます。粛宗はウイグル帝国に救援を頼み、その他の「南蛮」や「大食(タージー)」(アラブを意味する。イラン北東部からアフガニスタン北西部にいたアラブ兵らしい)、さらには東方シリア教会のキリスト教徒なども加え(粛宗は大秦寺(キリスト教教会)を建てた)、反撃を開始しました。
一方の大燕帝国では安禄山が息子の安慶緒らに暗殺され、史思明が安慶緒から離れて独立するなど内部が動揺します。唐はこの機を逃さずに安慶緒の軍を破って長安、洛陽を回復しました。
史思明も一時は唐に帰順しますが、その後、再び反旗を翻し、大燕帝国を引き継いで洛陽を再占領します。ただし、後継者争いから史思明の軍も崩壊し、「安史の乱」は終息しました。
こうして危機を脱した唐でしたが、その後も宦官の暗躍やチベット帝国の侵攻によって混乱します。また、「安史の乱」のときに帰順した有力武将が節度使となって唐から半独立するような形になり、河北や河南の藩鎮に唐のコントロールが及ばないようになります。
この藩鎮は唐の国庫に納めるべき税も奪っていきました。そこで財政の立て直しが喫緊の課題となります。
このときに第五琦(だいごき)が検索したのが塩の専売です。もともとは「安史の乱」のときに書家としても有名な顔真卿が行っていたのを見て思いついた策とのことですが、中国は広大な領土に比べて海岸線が短く、塩の生産地も限られていたために、生産と流通を管理することは比較的容易でした。
この塩の専売の収入は600余万貫にも達し、中央財政の半分を賄ったといいます。
さらに塩を運ぶために運河に溜まった泥さらいなどをする必要がありましたが、このための労働者を塩の専売で得た収入で雇いました。農民を挑発する労役から賃労働へと切り替わったのです。
さらに第9代の徳宗のときに導入されたのが両税法です。当時は租調役制が崩壊し、さまざまな税目が乱立していましたが、これに対して税目を1つにまとめて1年に2回、税を納めさせるようにしたのが両税法です。
課税の対象は個人から「戸」となり、その資産ごとに等級を定めて税を貨幣で納めさせました。同時に農耕地を所有する者にはその面積に応じて穀物で税を納めさせています。
これにより中国の歴代王朝が行っていた大土地所有の制限がなくなり、人々は本籍地を離れて自由に移動できるようになりました。ここから社会の流動化も進んでいきます。
このように財政改革を行った徳宗は、その勢いで藩鎮の勢力削減を図りますが、さまざまな不手際もあって徳宗は長安から逃げざるを得なくなり、藩鎮を抑えることはできませんでした。
さらに唐はチベット帝国とウイグル帝国に西域の地を奪われることになります。ただし、アッバース朝と結んでチベット帝国を抑えることを画策したり、南詔を唐に帰属させてチベット帝国を牽制するなど、さまざまな外交が行われた時代でもありました。
その後、第10代の順宗と第11代の憲宗は唐を立て直そうとします。
特に憲宗は自立しようとする藩鎮を抑えることに成功し、さらに中央に税を送っていなかった河北の藩鎮に狙いを定め、これを服属させます。憲宗は節度使のもつ軍事力を削減し、皇帝の威光を回復させました。その治世は「元和の中興」と呼ばれています。
しかし、その後は穆宗、敬宗と政治に熱心とは言えない皇帝が続きました。
穆宗のときの821年に長慶の会盟と呼ばれるチベット帝国との間で講和条約が結ばれ、さらにチベット帝国とウイグル帝国間の講和条約も結ばれ、三国の関係は安定しました。
国内では官僚たちの派閥争いが激化します。牛僧孺・李宗閔を領袖とする派閥(牛党)と李徳裕を領袖とする派閥の対立です。両派閥は藩鎮などに対する平和主義と強硬策で対立したと言われていますが、片方が政権の中枢につくと相手方を根こそぎ左遷するといった激しい対立になりました。
この派閥対立は科挙が定着し、科挙を通じたネットワークが強まったことを示すものでもあります。
840年に即位した武宗は廃仏で有名です。この背景には宦官が仏教と結びついていたこともあるといいます。
武宗の廃仏は「会昌の廃仏」と言われますが、その規模と徹底さから北周の武帝の廃仏とならび、その後の中国仏教の性格と命運を決定づけたとも言われています。なお、弾圧されたのは仏教だけではなく、道教をのぞいたすべての宗教でした。
全国で廃業された寺院は4600余、還俗を強いられた僧尼は26万500人だったと言われています。寺院のもつ土地や奴婢も没収されました。
その他の宗教も弾圧されたことを考えると、これは排外思想の現れだったとも考えられます。
武宗のあとに即位した宣宗は、牛李の党争を終わらせ、仏教を再び保護するなど政治を立て直し、「小太宗」とも呼ばれました。
しかし、宣宗の治世の後半になると、重い負担に耐えかねた江淮の藩鎮で続々と反乱が起こり、四散した反乱軍が群盗になるなど、治安も悪化していきます。
874年には闇の塩商人であった王仙芝が蜂起し、翌年には同じく塩商人出身で当時は塩賊と呼ばれていた(専売に従わず私塩を扱っていた)黄巣が蜂起します。
王仙芝と黄巣は官軍と戦いながら、その勢力を拡大させます。王仙芝と黄巣は途中で喧嘩別れし、王仙芝は討たれますが、黄巣は南に進んで広州を落としました。
このとき12万あるいは20万におよぶイスラーム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒、マズダク教徒が殺されたとも言われます。これによってイスラームとの海上貿易は大きく阻害されたと思われます。
その後、黄巣は北上して長安に入城します。唐朝側は、黄巣軍の朱温(朱全忠)を降伏させ、さらに沙陀族の李克用を用いて黄巣軍に反撃しました。
黄巣軍はこの李克用に打ち破られ、逃れた黄巣も亡くなりますが、長安は荒れ果て、唐の支配地域は大きく縮小しました。
この後も混乱はつづき、最終的には朱全忠が昭宣帝から攘夷される形で梁(後梁)を建国、唐はその歴史を終えることになるのです。
本書はさらに五代十国時代についても触れ、唐の時代にのちのモンゴル帝国で完成する遊牧民族が文書行政のノウハウを吸収して農耕民を安定的に支配する「中央ユーラシア型国家」(これには金や清、セルジューク朝なども含まれるという)を準備したことなども述べられています。
このように、本書は唐の通史を描き出すとともに、さらにはその中で起きた中国本土の変化と東ユーラシアの変化が見えてくるような内容になっています。
「隋唐」「唐宋変革」という形で引き裂かれやすい唐という時代をダイナミックな変化の時代として描き出した非常に面白い本です。
- 2023年05月03日22:01
- yamasitayu
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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