2015年01月
先日読んだ池内恵『イスラーム国の衝撃』は非常にためになる面白い本でしたが、改めて池内恵はイスラムへの「思い入れ」のようなものがないことを感じたので(物事を分析する上で基本的にそれはいいことだと思いますが)、イスラムへの「思い入れ」がある人のイスラム国への考えも知りたいと思って、本書を読んでみました。
著者の内藤正典はムスリムではないですが、長年、現代イスラムの地域研究を行っている人物で、イスラムの視点からいろいろな問題を考えようとしてきた人物です。
目次は以下の通り。
目次を見ればわかる通り、イスラム国について書かれた本というよりは、イスラム国やその他の過激派の影響もあって、イスラムにテロや野蛮なイメージがついてしまっている現状を憂いて書かれた本と言えるでしょう。
「はじめに」や第一章は、安倍政権の集団的自衛権行使容認を批判したり、日本のメディアのイスラムに関する報道の問題を指摘したりと、正直、まとまっていない感じで、著者の考えがきちんと打ち出されて面白くなってくるのは第2章以降になります。
著者のスタンスがよく現れているのが、イスラム国がイラク北部などに住むクルド人の一部において信じられている民族宗教のヤズィーディを信じる人々を虐殺し、女性たちを奴隷にしたという出来事に対する次の見解。ちなみにヤズィーディへの迫害はイスラム国に対してアメリカが空爆するきっかけとなりました。
著者はこの後、ハサン中田考の「彼らを準啓典の民であるゾロアスターの系統とみなせばイスラム国家でも庇護される集団となる」という説を紹介し、三つめの考え方の可能性を示唆しています。
このようにイスラム国の「蛮行」に対して、「あれは真のイスラムではない」と切り離すのではなく、イスラムの教えの中にそうした「蛮行」を肯定しかねない部分があることを認めつつ、何とか現代の社会の価値観に調和させようというのが著者のスタンスになります(『イスラーム国の衝撃』の著者の池内恵も、イスラムの教えの中にそうした「蛮行」を肯定しかねない部分があることを認めているのですが、彼なら一つめの選択肢を選ぶでしょう)。
著者はイスラム国の「蛮行」を批判しつつ、イスラム国の登場の背景には、アメリカの間違ったイラク攻撃や、シリアのアサド政権による弾圧、サウジアラビアなどの独裁政権、ヨーロッパで差別されるムスリムの存在、サイクス・ピコ協定によって恣意的に引かれた国境線などさまざまな問題があるといいます。
さらに、イスラムの考えと西洋流の「領域国家」の考えは相容れないと言います。
これらの問題は確かに存在し、それがイスラム国登場の背景になっているということは否定出来ないでしょう。
けれども、サイクス・ピコ協定を白紙に戻して「領域国家」を解体すれば平和が訪れるとは思えません。そこで待っているのはさらなる争いと混乱でしょう。
アメリカに「NO」と言ったからといってトルコを持ち上げるなど、著者の国際政治に対する認識はやや単純です。
ただ、こうしたスタンスに全く意味がないかというとそうとは言い切れない部分もあって、2012年にはアフガニスタンから政府とタリバンのそれぞれの関係者を著者の勤務する同志社大学に招いて対話の機会をもうけたりしています。
「イスラム」でも「欧米」でもない日本人が、イスラムの考えにぎりぎりまで寄り添うことによってできることというのもやはりあるのでしょう(それは非常にささやかなことかもしれませんが)。
イスラム国の分析としては文句なしに『イスラーム国の衝撃』のほうが優れていると思いますが、イスラムに寄り添って考えるとどうなるかということをこの本で知るのも悪く無いと思います。
また、この本はシャルリー・エブド襲撃事件の前に書かれているため、事件には触れていませんがヨーロッパにおけるイスラムへの差別についていろいろと紹介しており、事件の背景の一部を垣間見ることもできます。
イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北 (集英社新書)
内藤 正典
4087207706
著者の内藤正典はムスリムではないですが、長年、現代イスラムの地域研究を行っている人物で、イスラムの視点からいろいろな問題を考えようとしてきた人物です。
目次は以下の通り。
はじめに 日本は決してこの戦争に参加してはならない
序 章 中東で起きていること
第一章 16億人のムスリムを味方にするか、敵に回すか
第二章 まちがいだらけのイスラム報道
第三章 イスラム世界の堕落とイスラム国の衝撃
第四章 日本人にとってのイスラム
おわりに 戦争は人の心の中で生まれる
目次を見ればわかる通り、イスラム国について書かれた本というよりは、イスラム国やその他の過激派の影響もあって、イスラムにテロや野蛮なイメージがついてしまっている現状を憂いて書かれた本と言えるでしょう。
「はじめに」や第一章は、安倍政権の集団的自衛権行使容認を批判したり、日本のメディアのイスラムに関する報道の問題を指摘したりと、正直、まとまっていない感じで、著者の考えがきちんと打ち出されて面白くなってくるのは第2章以降になります。
著者のスタンスがよく現れているのが、イスラム国がイラク北部などに住むクルド人の一部において信じられている民族宗教のヤズィーディを信じる人々を虐殺し、女性たちを奴隷にしたという出来事に対する次の見解。ちなみにヤズィーディへの迫害はイスラム国に対してアメリカが空爆するきっかけとなりました。
イスラムでは、キリスト教徒やユダヤ教徒のような一神教徒には「啓典の民」として宗教コミニティを維持する権利が与えられますが、ヤズィーディを多神教徒とみなせば抹殺することもできます。
私はこのような行為が非道であり、人道の罪であるとも考えますし、断じて容認できません。
このケースを世界のムスリムはどう見るかを考えたとき三つの立場が考えられます。
一つは、いくら『クルアーン』に出ているとはいえ、今の世の中で「奴隷」などというおぞましい身分を持ち出すのは誤りであり、かつ非常識として全否定する立場です。
二つめは、イスラムの規範を時代の変化に応じて変えることはできないとする立場です。つまり女奴隷の所有を可とする立場です。
(中略)
さらに三つめは、奴隷対象者を奴隷対象者でなくすような説を、典拠となる『クルアーン』『ハーディス』それに過去の法学者の見解などから導出する立場です。
(中略)
私は三つめを支持します。奴隷を持てるかどうかには触れず、対象となる女性を奴隷身分から解放するという考え方です。(155-156p)
著者はこの後、ハサン中田考の「彼らを準啓典の民であるゾロアスターの系統とみなせばイスラム国家でも庇護される集団となる」という説を紹介し、三つめの考え方の可能性を示唆しています。
このようにイスラム国の「蛮行」に対して、「あれは真のイスラムではない」と切り離すのではなく、イスラムの教えの中にそうした「蛮行」を肯定しかねない部分があることを認めつつ、何とか現代の社会の価値観に調和させようというのが著者のスタンスになります(『イスラーム国の衝撃』の著者の池内恵も、イスラムの教えの中にそうした「蛮行」を肯定しかねない部分があることを認めているのですが、彼なら一つめの選択肢を選ぶでしょう)。
著者はイスラム国の「蛮行」を批判しつつ、イスラム国の登場の背景には、アメリカの間違ったイラク攻撃や、シリアのアサド政権による弾圧、サウジアラビアなどの独裁政権、ヨーロッパで差別されるムスリムの存在、サイクス・ピコ協定によって恣意的に引かれた国境線などさまざまな問題があるといいます。
さらに、イスラムの考えと西洋流の「領域国家」の考えは相容れないと言います。
これらの問題は確かに存在し、それがイスラム国登場の背景になっているということは否定出来ないでしょう。
けれども、サイクス・ピコ協定を白紙に戻して「領域国家」を解体すれば平和が訪れるとは思えません。そこで待っているのはさらなる争いと混乱でしょう。
アメリカに「NO」と言ったからといってトルコを持ち上げるなど、著者の国際政治に対する認識はやや単純です。
ただ、こうしたスタンスに全く意味がないかというとそうとは言い切れない部分もあって、2012年にはアフガニスタンから政府とタリバンのそれぞれの関係者を著者の勤務する同志社大学に招いて対話の機会をもうけたりしています。
「イスラム」でも「欧米」でもない日本人が、イスラムの考えにぎりぎりまで寄り添うことによってできることというのもやはりあるのでしょう(それは非常にささやかなことかもしれませんが)。
イスラム国の分析としては文句なしに『イスラーム国の衝撃』のほうが優れていると思いますが、イスラムに寄り添って考えるとどうなるかということをこの本で知るのも悪く無いと思います。
また、この本はシャルリー・エブド襲撃事件の前に書かれているため、事件には触れていませんがヨーロッパにおけるイスラムへの差別についていろいろと紹介しており、事件の背景の一部を垣間見ることもできます。
イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北 (集英社新書)
内藤 正典
4087207706
- 2015年01月28日23:23
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2014年6月に突如としてイラク第2の都市のモスルを制圧し、その存在を世界に知らしめたイスラーム国。その後も、異教徒に対する過酷な取り扱いや欧米人の人質の処刑、カリフ制の宣言などイスラーム国の行動はまさに「衝撃」を与えるものでした。
そのイスラーム国の来歴と台頭の要因を、近年の中東の政治情勢と政治思想の面から読み解いたのがこの本。著者は、早くからブログやさまざまなメデイアでイスラーム国に対する論考を精力的に発表しており、現在進行形の事態を鮮やかな手つきで分析しています。
日本人の人質事件が発生している現在、まず「イスラーム国という現象」を知る上での基本図書となるでしょう。
2001年の9.11テロで未曾有の大規模テロを引き起こしたアル=カイーダ。ビン・ラーディンを中心とする世界的なテロのネットワークはその力と広がりを見せつけましたが、同時に9.11テロに対する措置としてアメリカが対テロ戦争を始めると、その根拠地は破壊され、2011年の5月にはビン・ラーディンがアメリカ軍の特殊部隊によって殺害されました。
しかし、アル=カイーダの影響力はビン・ラーディンの死によっても完全になくなったわけではありませんでした。「アル=カイーダ」の名や、そのイメージを受け継ぐ組織が中東やアフリカに生まれ、アル=カイーダの「フランチャイズ化」が進行したのです。
また、欧米諸国の過激的な指導者の影響を受け、単独でテロを起こす「ローン・ウルフ」型のテロリストも現れました。
このような確固たる中枢を持たない闘争運動を著者は「グローバル・ジハード運動」と名付けています。そして、その中から誕生したのがイスラーム国なのです。
イスラーム国の組織の期限となったのが「イラクのアル=カイーダ」です。
2003年から始まったイラク戦争によってイラク国内は混乱し、アフガニスタンを追われたジハード戦士たちの居場所がイラクに生まれることになりました。
この「イラクのアル=カイーダ」の中心となったのがヨルダン人のザルカーウィーで、彼らは何度も名前を変えながらイラクでテロを続けました。また、2004年頃から彼らはインターネットで人質の処刑映像を公開することもしており、今のイスラーム国に受け継がれる一つのスタイルを確立させました。
ザルカーウィーは2006年6月のアメリカ軍による空爆で死に、またイラクの治安が安定したこともあって彼らの活動は下火になりますが、そんな彼らが勢力を伸長させる条件をつくったのが2011年に始まった「アラブの春」です。
チュニジアで始まった「アラブの春」は、エジプトなどの各国で独裁政権を転覆させましたが、同時に権力の空白を生みました。
著者は「アラブの春」の当面の帰結として、「(1)中央政府の揺らぎ」、「(2)辺境地域における「統治されない空間」の拡大」、「(3)イスラーム主義穏健派の退潮と過激派の台頭」、「(4)紛争の宗派主義化、地域への波及、代理戦争化」をあげています。
チュニジアを除く国では、権力の移行が上手く行われず、リビアやシリアでは内戦も起き、その内戦が周辺地域を不安定にさせています。
この状況をうまく利用したのがイスラーム国です。
イスラーム国は、イラク戦争後のアメリカの制度設計のまずさと、宗派対立を招いたイラクのマリキ政権の失策を利用して、イラクで勢力を広げました。この時、フセイン政権の残党などを受け入れつつ、組織の土着化が進んだと言われています。
さらに、「アラブの春」の波がシリアにも及び内戦が始まると、イスラーム国はシリア領内に拠点を確保し、そこを避難場所、資金や武器調達のための場所として利用し始めます。
そして、イラクとシリアにまたがる領域を支配するようになるのです。
この、フセイン政権やアサド政権と板独裁政権の動揺と、イスラーム国のような過激派の台頭について、著者は次のように述べています。
イスラーム国を語るときに欠かせないのが海外からの義勇兵の参加とネット使った残虐性を含めた様々なアピールです。
義勇兵に関しては、日本からも2014年10月にイスラーム国に渡ろうとしていた大学を休学中の学生の存在が発覚し話題になりましたし、欧米諸国からイスラーム国に参加する若者の存在は大きくクローズアップされています。
ただ、人数でいくチュニジア、サウジアラビア、ヨルダン、モロッコといったアラブ諸国出身者が多く、欧米出身者は少数派であり、彼らが帰国してテロを起こす可能性はあるものの、過剰な警戒はかえって彼らをテロへと方向づけることにもなりかねないと著者は危惧しています。
また、著者は「「イスラーム国」の宣伝の洗練度は、他の組織を凌駕しており、映像と文字媒体のいずれでも最高水準にあると言っていい」(175p)と評価しています。
彼らは人質にオレンジの囚人服を着させて処刑を行いますが、これはキューバのグアンタナモ基地やイラクのアブー・グレイブ刑務所でアメリカ軍がイスラーム教徒の囚人たちに着せた囚人服を模倣したもので、「イスラーム国」の行為が正当な復讐であることのアピールになっています。
斬首殺害映像についても、残酷さをアピールするだけではなく、殺害の瞬間を外して編集してあり、ネットなどで「共有」されやすくしています。
他にも、90年代以降にイスラーム世界で流行した終末論のイメージを使って、ジハードを呼びかけるのも「イスラーム国」の特徴だといいます。
著者の文章からは、良くも悪くもイスラームやアラブに対する「思い入れ」が感じられず、イスラームについての見方もドライで、「イスラーム世界にも、宗教テキストの人間主義的な立場からの批判的検討を許し、諸宗教間の平等や、宗教規範の相対化といった観念を採り入れた、宗教改革が求められる時期ではないだろうか」(203p)など、イスラームの問題点をためらいなく指摘しています。
このため、「イスラーム世界に寄り添っていない」、「欧米中心主義的である」と言った批判もあるとは思います。
ただ、現在の「イスラーム国」に関しては、現地で彼らと行動を共にしながら取材が出いるような状態ではなく、「内在的な理解」を求める時期ではないでしょうし、彼らの行動を見ればその必要性があるかどうかは疑問です。
とりあえず、今の時点で「イスラーム国」について知り考えていく上でまず目を通すべき本と言えるのではないでしょうか。
イスラーム国の衝撃 (文春新書)
池内 恵
4166610139
そのイスラーム国の来歴と台頭の要因を、近年の中東の政治情勢と政治思想の面から読み解いたのがこの本。著者は、早くからブログやさまざまなメデイアでイスラーム国に対する論考を精力的に発表しており、現在進行形の事態を鮮やかな手つきで分析しています。
日本人の人質事件が発生している現在、まず「イスラーム国という現象」を知る上での基本図書となるでしょう。
2001年の9.11テロで未曾有の大規模テロを引き起こしたアル=カイーダ。ビン・ラーディンを中心とする世界的なテロのネットワークはその力と広がりを見せつけましたが、同時に9.11テロに対する措置としてアメリカが対テロ戦争を始めると、その根拠地は破壊され、2011年の5月にはビン・ラーディンがアメリカ軍の特殊部隊によって殺害されました。
しかし、アル=カイーダの影響力はビン・ラーディンの死によっても完全になくなったわけではありませんでした。「アル=カイーダ」の名や、そのイメージを受け継ぐ組織が中東やアフリカに生まれ、アル=カイーダの「フランチャイズ化」が進行したのです。
また、欧米諸国の過激的な指導者の影響を受け、単独でテロを起こす「ローン・ウルフ」型のテロリストも現れました。
このような確固たる中枢を持たない闘争運動を著者は「グローバル・ジハード運動」と名付けています。そして、その中から誕生したのがイスラーム国なのです。
イスラーム国の組織の期限となったのが「イラクのアル=カイーダ」です。
2003年から始まったイラク戦争によってイラク国内は混乱し、アフガニスタンを追われたジハード戦士たちの居場所がイラクに生まれることになりました。
この「イラクのアル=カイーダ」の中心となったのがヨルダン人のザルカーウィーで、彼らは何度も名前を変えながらイラクでテロを続けました。また、2004年頃から彼らはインターネットで人質の処刑映像を公開することもしており、今のイスラーム国に受け継がれる一つのスタイルを確立させました。
ザルカーウィーは2006年6月のアメリカ軍による空爆で死に、またイラクの治安が安定したこともあって彼らの活動は下火になりますが、そんな彼らが勢力を伸長させる条件をつくったのが2011年に始まった「アラブの春」です。
チュニジアで始まった「アラブの春」は、エジプトなどの各国で独裁政権を転覆させましたが、同時に権力の空白を生みました。
著者は「アラブの春」の当面の帰結として、「(1)中央政府の揺らぎ」、「(2)辺境地域における「統治されない空間」の拡大」、「(3)イスラーム主義穏健派の退潮と過激派の台頭」、「(4)紛争の宗派主義化、地域への波及、代理戦争化」をあげています。
チュニジアを除く国では、権力の移行が上手く行われず、リビアやシリアでは内戦も起き、その内戦が周辺地域を不安定にさせています。
この状況をうまく利用したのがイスラーム国です。
イスラーム国は、イラク戦争後のアメリカの制度設計のまずさと、宗派対立を招いたイラクのマリキ政権の失策を利用して、イラクで勢力を広げました。この時、フセイン政権の残党などを受け入れつつ、組織の土着化が進んだと言われています。
さらに、「アラブの春」の波がシリアにも及び内戦が始まると、イスラーム国はシリア領内に拠点を確保し、そこを避難場所、資金や武器調達のための場所として利用し始めます。
そして、イラクとシリアにまたがる領域を支配するようになるのです。
この、フセイン政権やアサド政権と板独裁政権の動揺と、イスラーム国のような過激派の台頭について、著者は次のように述べています。
過激派の行動を実力で阻止してきたのは、各国の独裁政権であり、その統治の不正義や暴虐こそが、過激派を生み出す根本原因ともなっている。独裁政権の暴力に頼っている限りは、過激派の発生は止まず、かといって過激派の抑制には、独裁政権を必要とする。このジレンマにアラブ世界は、疲れ切っている。さらに、「アラブの春」によって、そのような独裁政権は意外な脆さを露呈し、暴力による抑制すら不可能になった。(171p)
イスラーム国を語るときに欠かせないのが海外からの義勇兵の参加とネット使った残虐性を含めた様々なアピールです。
義勇兵に関しては、日本からも2014年10月にイスラーム国に渡ろうとしていた大学を休学中の学生の存在が発覚し話題になりましたし、欧米諸国からイスラーム国に参加する若者の存在は大きくクローズアップされています。
ただ、人数でいくチュニジア、サウジアラビア、ヨルダン、モロッコといったアラブ諸国出身者が多く、欧米出身者は少数派であり、彼らが帰国してテロを起こす可能性はあるものの、過剰な警戒はかえって彼らをテロへと方向づけることにもなりかねないと著者は危惧しています。
また、著者は「「イスラーム国」の宣伝の洗練度は、他の組織を凌駕しており、映像と文字媒体のいずれでも最高水準にあると言っていい」(175p)と評価しています。
彼らは人質にオレンジの囚人服を着させて処刑を行いますが、これはキューバのグアンタナモ基地やイラクのアブー・グレイブ刑務所でアメリカ軍がイスラーム教徒の囚人たちに着せた囚人服を模倣したもので、「イスラーム国」の行為が正当な復讐であることのアピールになっています。
斬首殺害映像についても、残酷さをアピールするだけではなく、殺害の瞬間を外して編集してあり、ネットなどで「共有」されやすくしています。
他にも、90年代以降にイスラーム世界で流行した終末論のイメージを使って、ジハードを呼びかけるのも「イスラーム国」の特徴だといいます。
著者の文章からは、良くも悪くもイスラームやアラブに対する「思い入れ」が感じられず、イスラームについての見方もドライで、「イスラーム世界にも、宗教テキストの人間主義的な立場からの批判的検討を許し、諸宗教間の平等や、宗教規範の相対化といった観念を採り入れた、宗教改革が求められる時期ではないだろうか」(203p)など、イスラームの問題点をためらいなく指摘しています。
このため、「イスラーム世界に寄り添っていない」、「欧米中心主義的である」と言った批判もあるとは思います。
ただ、現在の「イスラーム国」に関しては、現地で彼らと行動を共にしながら取材が出いるような状態ではなく、「内在的な理解」を求める時期ではないでしょうし、彼らの行動を見ればその必要性があるかどうかは疑問です。
とりあえず、今の時点で「イスラーム国」について知り考えていく上でまず目を通すべき本と言えるのではないでしょうか。
イスラーム国の衝撃 (文春新書)
池内 恵
4166610139
- 2015年01月22日23:46
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幕末に起こったロシア軍艦ポサドニック号による対馬の占拠事件、この事件の解決に自らが関わったという『氷川清話』の勝海舟の談話を手がかりに、この事件の真相と、そこに至るまでの勝海舟の活躍と幕府の外交について書かれた本。
著者は、日本と朝鮮半島の関係史などを中心に研究を行っている比較文学・文化学の専門家で、歴史学者ではありません。
そのため、その叙述のスタイルも厳密に史料に基づいたものではなく、かなり想像や推測が入っています。
まず、ポサドニック号による対馬の占拠事件ですが、これは司馬遼太郎の作品などにも出てくるので聞いたことのある人も多いと思います。1861年にロシア軍艦ポサドニック号が対馬に来航し浅茅湾に投錨、対馬藩の反対をよそにそのまま居座り続け一部地域の租借を求めた事件です。
対馬藩は幕府に相談したものの、幕府とロシアの交渉でもロシア側はなかなか退去せず、結局、幕府はイギリスの力を頼ってロシアの軍艦を退去させることに成功します。
この本では、このイギリスの力を借りてロシアを退去させるという外交を成功させた立役者が勝海舟だとしています。
『氷川清話』には以下のように書かれています。
「さすが勝海舟!」と思わせる回想ですが、勝海舟のこの回想は事件から35年以上たった1897年あたりに行われたものであり(かなり前のことを話しているため本書の中でも回想における年代の間違いなどは複数指摘されている)、しかも『氷川清話』には談話を取りまとめた吉本襄が歪曲、改竄した部分をあると言われていますし、勝海舟自体「法螺ふき」と批判されることもありました。
そうしたこともあって、例えば、Wikipediaの「ロシア軍艦対馬占領事件」でも、勝海舟の関わりについては何も触れられていません。
Wikipediaの「ロシア軍艦対馬占領事件」では、最初、外国奉行の小栗忠順が交渉にあたり、対馬を直轄領にすること、国際世論に訴えることなどを主張したが幕府内部で受け入れられず、小栗は外国奉行を辞任。困った幕府に対して、イギリス公使オールコックとイギリス海軍中将ホープがイギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案したということになっています。
この記述を見ると、イギリス(外国)を頼ることを最初に提案したのが小栗忠順ということになりますが、この本では小栗は「親露派」であり、対馬を直轄地にした上でロシアに租借を認め、ロシアと組んでイギリスの脅威に対向する考えをもっていたとされています。
そんな幕府の中での「親英派」が事件のさなかに外国奉行に再任された水野忠徳であり、勝海舟でした。「イギリスの脅威」を恐れるあまりにロシアに頼ろうとした小栗に対して、列強の間で上手くバランスを取って交渉をまとめあげたのが勝だというのです。
なかなか面白い見立てなのですが、やはり強引さも感じます。
確かに、幕府の中にはイギリスよりもロシアのほうが信頼できると考えた人もいたと思いますし、場合によっては対馬の港をロシアに使わせることをやむなしと考えた人間もいたかもしれません。
ただ、この本の中で提示されている史料などを見ても、さすがに小栗忠順が対イギリスのために対馬をロシアに租借させることを考えていて、そのために対馬を幕府の直轄地にしようとしていたとまでは言えないのでは。
対馬を直轄地にしようとしたのは、ラクスマンやレザノフの来航に伴って蝦夷地を直轄地にしたのと同じ考えで、対馬藩では対馬を防衛できないと判断したと考えるのが自然な気がします。
事件の解決に勝の人脈などが生きた場面もあったのかもしれませんが、イギリスを頼ることについては幕府の中にそれなりのコンセンサスがあったのではないでしょうか?
このようにメインとなるポサドニック号事件に関してはかなり強引な推測が含まれている本だと思います。
ただ、日露和親条約を結んだプチャーチンが、シーボルトの助言もあって日本に対して紳士的に接し幕府の中ではアメリカよりもロシアの評判が高かったという話や、プチャーチンの旗艦であったディアナ号が安政東海大地震で損害を受け、その代わりに日本でヘダ号が建造された話(ヘダ号のヘダは建造が行われた戸田の地名から)、アロー戦争の日本の外交交渉への影響など、ポサドニック号事件にいたるまでは興味深いエピソードも多く、幕末の外交を違った視点から見ることができる本ではあります。
勝海舟と幕末外交 - イギリス・ロシアの脅威に抗して (中公新書)
上垣外 憲一
4121022971
著者は、日本と朝鮮半島の関係史などを中心に研究を行っている比較文学・文化学の専門家で、歴史学者ではありません。
そのため、その叙述のスタイルも厳密に史料に基づいたものではなく、かなり想像や推測が入っています。
まず、ポサドニック号による対馬の占拠事件ですが、これは司馬遼太郎の作品などにも出てくるので聞いたことのある人も多いと思います。1861年にロシア軍艦ポサドニック号が対馬に来航し浅茅湾に投錨、対馬藩の反対をよそにそのまま居座り続け一部地域の租借を求めた事件です。
対馬藩は幕府に相談したものの、幕府とロシアの交渉でもロシア側はなかなか退去せず、結局、幕府はイギリスの力を頼ってロシアの軍艦を退去させることに成功します。
この本では、このイギリスの力を借りてロシアを退去させるという外交を成功させた立役者が勝海舟だとしています。
『氷川清話』には以下のように書かれています。
さあこゝだ。対馬は、この時、事実上すでに露西亜のために占領せられたも同様であつたのだ。つまりかういふ場合こそ、外交家の手腕を要するといふものだ。ところでおれは、この場合い処する一策を案じた。それは当時長崎に居つた英国公使といふのは、至極おれが懇意にして居つた男だから、内密にこの話をして頼み込み、また長崎奉行からも頼み込ました。さうすると公使は、直に北京駐在英国公使に掛合ひ、その公使は、また露国公使に掛合つて、堂々と露国の不条理を詰責して、わけもなく露西亜をしてたうとう対馬を引き払はせてしまつたことがあつた。これがいはゆる彼に由りて彼を制するといふものだ。(201p)
「さすが勝海舟!」と思わせる回想ですが、勝海舟のこの回想は事件から35年以上たった1897年あたりに行われたものであり(かなり前のことを話しているため本書の中でも回想における年代の間違いなどは複数指摘されている)、しかも『氷川清話』には談話を取りまとめた吉本襄が歪曲、改竄した部分をあると言われていますし、勝海舟自体「法螺ふき」と批判されることもありました。
そうしたこともあって、例えば、Wikipediaの「ロシア軍艦対馬占領事件」でも、勝海舟の関わりについては何も触れられていません。
Wikipediaの「ロシア軍艦対馬占領事件」では、最初、外国奉行の小栗忠順が交渉にあたり、対馬を直轄領にすること、国際世論に訴えることなどを主張したが幕府内部で受け入れられず、小栗は外国奉行を辞任。困った幕府に対して、イギリス公使オールコックとイギリス海軍中将ホープがイギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案したということになっています。
この記述を見ると、イギリス(外国)を頼ることを最初に提案したのが小栗忠順ということになりますが、この本では小栗は「親露派」であり、対馬を直轄地にした上でロシアに租借を認め、ロシアと組んでイギリスの脅威に対向する考えをもっていたとされています。
そんな幕府の中での「親英派」が事件のさなかに外国奉行に再任された水野忠徳であり、勝海舟でした。「イギリスの脅威」を恐れるあまりにロシアに頼ろうとした小栗に対して、列強の間で上手くバランスを取って交渉をまとめあげたのが勝だというのです。
なかなか面白い見立てなのですが、やはり強引さも感じます。
確かに、幕府の中にはイギリスよりもロシアのほうが信頼できると考えた人もいたと思いますし、場合によっては対馬の港をロシアに使わせることをやむなしと考えた人間もいたかもしれません。
ただ、この本の中で提示されている史料などを見ても、さすがに小栗忠順が対イギリスのために対馬をロシアに租借させることを考えていて、そのために対馬を幕府の直轄地にしようとしていたとまでは言えないのでは。
対馬を直轄地にしようとしたのは、ラクスマンやレザノフの来航に伴って蝦夷地を直轄地にしたのと同じ考えで、対馬藩では対馬を防衛できないと判断したと考えるのが自然な気がします。
事件の解決に勝の人脈などが生きた場面もあったのかもしれませんが、イギリスを頼ることについては幕府の中にそれなりのコンセンサスがあったのではないでしょうか?
このようにメインとなるポサドニック号事件に関してはかなり強引な推測が含まれている本だと思います。
ただ、日露和親条約を結んだプチャーチンが、シーボルトの助言もあって日本に対して紳士的に接し幕府の中ではアメリカよりもロシアの評判が高かったという話や、プチャーチンの旗艦であったディアナ号が安政東海大地震で損害を受け、その代わりに日本でヘダ号が建造された話(ヘダ号のヘダは建造が行われた戸田の地名から)、アロー戦争の日本の外交交渉への影響など、ポサドニック号事件にいたるまでは興味深いエピソードも多く、幕末の外交を違った視点から見ることができる本ではあります。
勝海舟と幕末外交 - イギリス・ロシアの脅威に抗して (中公新書)
上垣外 憲一
4121022971
- 2015年01月16日23:02
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日本が占領されていた1945年8月から1952年4月までの6年8ヶ月の期間を政治の動きを中心にして描いた本。
副題が、「東京・ワシントン・沖縄」となっており、この中の「ワシントン・沖縄」がこの本の大きな特徴となっていると言えるでしょう。
まず、「ワシントン」の部分について。
従来、1948年〜49年の日本の占領方針の路線転換について、GHQ内部の民政局(GS)のホイットニーやケーディスと参謀2部(G2)のウィロビーの対立に焦点が当てられていました(特に松本清張の『日本の黒い霧』では、占領期に起きた数々の事件がG2の「陰謀」とされていた)。
しかし、この本では随所で「GHQ対ワシントン」という構図を浮かび上がらせることで、そうした「陰謀」を排除しながら日本の占領政策の転換を説明しています。
特にこの本でクローズアップされているのがウィリアム・ドレーパージョージ・ケナンの役割。
ケナンはソ連に対する「封じ込め」政策の立案者として知られるる人物。一方のドレーパーは陸軍次官ですが、元はウォール街の金融家で戦後のドイツで軍政長官代理のルシアス・クレイ将軍の経済顧問として辣腕を振るった人物。この二人が中心となりワシントンからマッカーサーらGHQによる占領政策の修正を図っていくことになります。
外交局長のシーボルトが吉田茂の民自党を「極右」とみなしたこともあるように(232p)、GHQでは民政局を中心に戦前の支配者層への警戒感は強く、社会党こそが日本の健全な民主主義の担い手であるという見方がありました。
ですから、民政局は旧政党勢力の人間を追放し、吉田を嫌って、片山内閣、芦田内閣の中道政権に期待をかけました。
そんな民政局主導の対日政策に待ったをかけたのがドレーパーとケナンです。
ドレーパーは1947年9月、さらに1948年3月にジヨンストン調査団の一員として来日し、ワシントンから占領政策の方向を徐々に変えていきます。ドレーパーは「ビジネスの視点から見ることで占領の性格を変え」(184p)、経済力集中排除法を強く批判するなど、GHQの進める「経済の民主化」に待ったをかけました。
また、ケナンは1948年3月に来日し、1948年10月に出された新たな占領政策の方針「NSC13/2」の策定に影響を与えます。この「NSC13/2」によって、共産主義の拡大への懸念から日本との早期の平和条約の締結は見送られ、対日政策の重点は改革から経済復興へと移ります。
このようにこの本では日本の占領政策の転換を「GHQ対ワシントン」という構図で説明しています。そして、吉田茂がこの「GHQ対ワシントン」という構図をうまく使っていた様子もよくわかります。
次に「沖縄」の部分について。
この本では、沖縄の「占領」についても紙幅が割かれています。もちろん、日本本土の記述に比べれば分量も少ないですし、表面的なものではあるのですが、それでも沖縄の「占領」の悲惨さというのはわかります。
沖縄では、沖縄戦の中で民間人たちはアメリカ軍の収容所に入れられ、1945年10月にようやく収容所から開放された後も、自由な移動は禁止され、多くの土地が米軍基地の用地として接収されました(しかも、日本が独立するまでは戦争状態が継続しているとして土地の使用料も払わなかった(76p))。
また、陸軍と国務省の対立から沖縄の処遇についてのアメリカ政府の方針は定まらず、1949年5月に沖縄の基地を長期保有のうえ開発していくという方針が決まるまで、場当たり的な政策が行われました。
ここでは本土の占領と区別するために、沖縄の「占領」を括弧でくくりましたが、本来、沖縄で行われたようなものが占領であって、日本政府の存在が許され、間接統治が行われた本土のそれをカッコで括るべきなのかもしれません(実は本土でも降伏調印式の直後にアメリカ側が直接軍政を要求したことはあったが、日本側の抵抗で回避された(34ー36p)。
沖縄の「占領」の実態を知ることで、本土の占領がある意味で「恵まれたもの」であったことがわかると思います。
この「ワシントン」、「沖縄」以外にも行き届いた記述がしてあり、特に日本の占領期における片山内閣、芦田内閣の重要性、日米安全保障条約に至る過程などがよくわかるようになっています。
個人的には沖縄の指導者の考えなども知りたいとは思いましたが、新書というボリュームを考えるとそこまで入れるのは難しいかもしれません。
政治中心の記述なので占領期の日本のすべてが語られているわけではありませんが、逆に占領期の政治に関しては重要な事がきちんと書かれているいい本だと思います。
日本占領史1945-1952 - 東京・ワシントン・沖縄 (中公新書)
福永 文夫
4121022963
副題が、「東京・ワシントン・沖縄」となっており、この中の「ワシントン・沖縄」がこの本の大きな特徴となっていると言えるでしょう。
まず、「ワシントン」の部分について。
従来、1948年〜49年の日本の占領方針の路線転換について、GHQ内部の民政局(GS)のホイットニーやケーディスと参謀2部(G2)のウィロビーの対立に焦点が当てられていました(特に松本清張の『日本の黒い霧』では、占領期に起きた数々の事件がG2の「陰謀」とされていた)。
しかし、この本では随所で「GHQ対ワシントン」という構図を浮かび上がらせることで、そうした「陰謀」を排除しながら日本の占領政策の転換を説明しています。
特にこの本でクローズアップされているのがウィリアム・ドレーパージョージ・ケナンの役割。
ケナンはソ連に対する「封じ込め」政策の立案者として知られるる人物。一方のドレーパーは陸軍次官ですが、元はウォール街の金融家で戦後のドイツで軍政長官代理のルシアス・クレイ将軍の経済顧問として辣腕を振るった人物。この二人が中心となりワシントンからマッカーサーらGHQによる占領政策の修正を図っていくことになります。
外交局長のシーボルトが吉田茂の民自党を「極右」とみなしたこともあるように(232p)、GHQでは民政局を中心に戦前の支配者層への警戒感は強く、社会党こそが日本の健全な民主主義の担い手であるという見方がありました。
ですから、民政局は旧政党勢力の人間を追放し、吉田を嫌って、片山内閣、芦田内閣の中道政権に期待をかけました。
そんな民政局主導の対日政策に待ったをかけたのがドレーパーとケナンです。
ドレーパーは1947年9月、さらに1948年3月にジヨンストン調査団の一員として来日し、ワシントンから占領政策の方向を徐々に変えていきます。ドレーパーは「ビジネスの視点から見ることで占領の性格を変え」(184p)、経済力集中排除法を強く批判するなど、GHQの進める「経済の民主化」に待ったをかけました。
また、ケナンは1948年3月に来日し、1948年10月に出された新たな占領政策の方針「NSC13/2」の策定に影響を与えます。この「NSC13/2」によって、共産主義の拡大への懸念から日本との早期の平和条約の締結は見送られ、対日政策の重点は改革から経済復興へと移ります。
このようにこの本では日本の占領政策の転換を「GHQ対ワシントン」という構図で説明しています。そして、吉田茂がこの「GHQ対ワシントン」という構図をうまく使っていた様子もよくわかります。
次に「沖縄」の部分について。
この本では、沖縄の「占領」についても紙幅が割かれています。もちろん、日本本土の記述に比べれば分量も少ないですし、表面的なものではあるのですが、それでも沖縄の「占領」の悲惨さというのはわかります。
沖縄では、沖縄戦の中で民間人たちはアメリカ軍の収容所に入れられ、1945年10月にようやく収容所から開放された後も、自由な移動は禁止され、多くの土地が米軍基地の用地として接収されました(しかも、日本が独立するまでは戦争状態が継続しているとして土地の使用料も払わなかった(76p))。
また、陸軍と国務省の対立から沖縄の処遇についてのアメリカ政府の方針は定まらず、1949年5月に沖縄の基地を長期保有のうえ開発していくという方針が決まるまで、場当たり的な政策が行われました。
ここでは本土の占領と区別するために、沖縄の「占領」を括弧でくくりましたが、本来、沖縄で行われたようなものが占領であって、日本政府の存在が許され、間接統治が行われた本土のそれをカッコで括るべきなのかもしれません(実は本土でも降伏調印式の直後にアメリカ側が直接軍政を要求したことはあったが、日本側の抵抗で回避された(34ー36p)。
沖縄の「占領」の実態を知ることで、本土の占領がある意味で「恵まれたもの」であったことがわかると思います。
この「ワシントン」、「沖縄」以外にも行き届いた記述がしてあり、特に日本の占領期における片山内閣、芦田内閣の重要性、日米安全保障条約に至る過程などがよくわかるようになっています。
個人的には沖縄の指導者の考えなども知りたいとは思いましたが、新書というボリュームを考えるとそこまで入れるのは難しいかもしれません。
政治中心の記述なので占領期の日本のすべてが語られているわけではありませんが、逆に占領期の政治に関しては重要な事がきちんと書かれているいい本だと思います。
日本占領史1945-1952 - 東京・ワシントン・沖縄 (中公新書)
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- 2015年01月10日23:40
- yamasitayu
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★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
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