2012年06月
近年、よく耳にする「グローバルヒストリー」という言葉。その「グローバルヒストリー」の研究成果と面白さを18〜20世紀のイギリス帝国を題材にして味わわせてくれる本。
サブタイトルは「アジアから考える」となっていて、一応、イギリスとアジア(特にインド)との関わりが分析の中心にはなっていますが、それ以外の地域への目配りもかなりのもので、18〜20世紀のイギリス帝国、そして世界の歴史をダイナミックに描き出しています。
ご存知のように、イギリスは18世紀の植民地戦争でフランスに勝利し、19世紀には世界のヘゲモニーを握るわけですが、当然ながらイギリスが過去から一貫して世界帝国を目指してその版図を広げていったわけではありません。
イギリスの海外進出の背景にはグローバルな貿易がありますし、またイギリスの力の中には軍事力だけではなく、金融、通信といったさまざまな制度があります。さらにイギリスの軍事力を支えたのはインドをはじめとした植民地でしたし、イギリスの富を支えたのも植民地でした。
例えば、悪名高い奴隷貿易を含む大西洋の三角貿易。
イギリスから織物や武器をアフリカに輸出、アフリカから奴隷を新大陸に輸出、新大陸から砂糖などイギリスに輸出というのがよく知られた形です。
ただ、実はこの貿易は大西洋だけでは完結していません。奴隷の供給は現地のアフリカ人にかかっていたため、イギリス商人はアフリカ人の欲しがる綿織物を調達する必要がありました。
そこで、求められたのがインド製の綿織物です。イギリス商人は競ってインドの綿織物を手にしようとしました。
さらにこの綿製品の需要が産業革命を生んだという説もあります。この本の81ページ以下ではトリニダード・トバゴの黒人の歴史家E・ウィリアムズの唱えたその説が検討されていて、単純にはそうとはいえないとのことですが、奴隷貿易、インドの綿織物、産業革命が密接に関わりあっていたことが指摘されています。
また、そうした黒人奴隷を使ってサトウキビのプランテーションを経営した白人は、子弟を教育のためにイギリス本国に送り、やがて不在時地主となった彼らはイギリスで「擬似ジェントルマン」を生み出します。
一方で、北米大陸に渡ったイギリス人には多くの年季奉公人がいました。貧しい階級の出身者が多かった彼らは、新大陸では労働者として受け入れられると同時に、イギリスから見ると社会問題の種である貧民を輸出することでもありました。「本国イギリスは、社会問題をできるかぎり植民地に「輸出」することで解決しようと試みた」(56p)のです。
彼らは西インド諸島の地主たちと違ってイギリスとの密接な関係が断ち切られていました。
北米でも西インド諸島と同じように黒人奴隷を使ったタバコのプランテーションがさかんになりますが、主にイギリスに輸出され保護関税に守られていた砂糖とは違い、タバコはイギリスから他国へと再輸出されるものが多くを占めていました。
このような植民していった人びとの違い、生産していた作物の違いが、かたやアメリカ独立革命を、かたやイギリス帝国にとどまる道を選ばせたといいます。
19世紀になると、イギリスは「ジェントルマン資本主義」の帝国としての性格を強めます。
この「ジェントルマン資本主義」によると、イギリスの発展を担ったのは産業革命とそれ以降の工業の発展だけにあるのではなく、地主などの農業資本家や金融業の発展にあります。
特にロンドンのシティに集まった金融業は、イギリスの発展のキーになったものでした。19世紀になるとイギリスの工業製品はアメリカやドイツの製品に対して競争力を失い、両国に対して貿易赤字をつづけます。しかし、それをインドの1次産品のアメリカやヨーロッパへの輸出がカバーしていました。イギリス製品はインドへと売られていき、アメリカやヨーロッパに流出したポンドがまた戻ってくる、そんなシステムになっていたのです。
イギリスは「世界の工場」から「世界の銀行家」、「世界の手形交換所」へと姿を変え、その地位を維持し続けたのです(139p)。
20世紀の部分では、日英同盟の意味、第1次大戦におけるインドの重要性、第2次大戦後のインドの独立をめぐる駆け引きの部分あたりが面白いですし、1930年台の日本とインドの貿易摩擦の問題(214ー216p)も非常に興味深いです。日本史の研究でもあまりなかった視点だと思います。
さらに、第2次大戦後のイギリス帝国=コモンウェルスの解体についても、この本を読むと少なくとも1950年代半ばまでは、イギリスがまだまだ「帝国」としての顔を残していたことがわかります。
と、最後の方は駆け足での紹介になってしまいましたが、とにかく興味深いところがたくさんある本。経済や社会についてのさまざまなデータや研究から、まさにグローバルヒストリーを立体的に浮かび上がらせてくれます。
イギリスの歴史の本としてもオススメですし、新しい「世界史」の本としてもオススメですね。
* 川北稔『イギリス近代史講義』を読むと、この本を更に深くイギリス社会の変化を関連付けて楽しめると思います。
イギリス帝国の歴史 (中公新書 2167)
秋田 茂
4121021673
サブタイトルは「アジアから考える」となっていて、一応、イギリスとアジア(特にインド)との関わりが分析の中心にはなっていますが、それ以外の地域への目配りもかなりのもので、18〜20世紀のイギリス帝国、そして世界の歴史をダイナミックに描き出しています。
ご存知のように、イギリスは18世紀の植民地戦争でフランスに勝利し、19世紀には世界のヘゲモニーを握るわけですが、当然ながらイギリスが過去から一貫して世界帝国を目指してその版図を広げていったわけではありません。
イギリスの海外進出の背景にはグローバルな貿易がありますし、またイギリスの力の中には軍事力だけではなく、金融、通信といったさまざまな制度があります。さらにイギリスの軍事力を支えたのはインドをはじめとした植民地でしたし、イギリスの富を支えたのも植民地でした。
例えば、悪名高い奴隷貿易を含む大西洋の三角貿易。
イギリスから織物や武器をアフリカに輸出、アフリカから奴隷を新大陸に輸出、新大陸から砂糖などイギリスに輸出というのがよく知られた形です。
ただ、実はこの貿易は大西洋だけでは完結していません。奴隷の供給は現地のアフリカ人にかかっていたため、イギリス商人はアフリカ人の欲しがる綿織物を調達する必要がありました。
そこで、求められたのがインド製の綿織物です。イギリス商人は競ってインドの綿織物を手にしようとしました。
さらにこの綿製品の需要が産業革命を生んだという説もあります。この本の81ページ以下ではトリニダード・トバゴの黒人の歴史家E・ウィリアムズの唱えたその説が検討されていて、単純にはそうとはいえないとのことですが、奴隷貿易、インドの綿織物、産業革命が密接に関わりあっていたことが指摘されています。
また、そうした黒人奴隷を使ってサトウキビのプランテーションを経営した白人は、子弟を教育のためにイギリス本国に送り、やがて不在時地主となった彼らはイギリスで「擬似ジェントルマン」を生み出します。
一方で、北米大陸に渡ったイギリス人には多くの年季奉公人がいました。貧しい階級の出身者が多かった彼らは、新大陸では労働者として受け入れられると同時に、イギリスから見ると社会問題の種である貧民を輸出することでもありました。「本国イギリスは、社会問題をできるかぎり植民地に「輸出」することで解決しようと試みた」(56p)のです。
彼らは西インド諸島の地主たちと違ってイギリスとの密接な関係が断ち切られていました。
北米でも西インド諸島と同じように黒人奴隷を使ったタバコのプランテーションがさかんになりますが、主にイギリスに輸出され保護関税に守られていた砂糖とは違い、タバコはイギリスから他国へと再輸出されるものが多くを占めていました。
このような植民していった人びとの違い、生産していた作物の違いが、かたやアメリカ独立革命を、かたやイギリス帝国にとどまる道を選ばせたといいます。
19世紀になると、イギリスは「ジェントルマン資本主義」の帝国としての性格を強めます。
この「ジェントルマン資本主義」によると、イギリスの発展を担ったのは産業革命とそれ以降の工業の発展だけにあるのではなく、地主などの農業資本家や金融業の発展にあります。
特にロンドンのシティに集まった金融業は、イギリスの発展のキーになったものでした。19世紀になるとイギリスの工業製品はアメリカやドイツの製品に対して競争力を失い、両国に対して貿易赤字をつづけます。しかし、それをインドの1次産品のアメリカやヨーロッパへの輸出がカバーしていました。イギリス製品はインドへと売られていき、アメリカやヨーロッパに流出したポンドがまた戻ってくる、そんなシステムになっていたのです。
イギリスは「世界の工場」から「世界の銀行家」、「世界の手形交換所」へと姿を変え、その地位を維持し続けたのです(139p)。
20世紀の部分では、日英同盟の意味、第1次大戦におけるインドの重要性、第2次大戦後のインドの独立をめぐる駆け引きの部分あたりが面白いですし、1930年台の日本とインドの貿易摩擦の問題(214ー216p)も非常に興味深いです。日本史の研究でもあまりなかった視点だと思います。
さらに、第2次大戦後のイギリス帝国=コモンウェルスの解体についても、この本を読むと少なくとも1950年代半ばまでは、イギリスがまだまだ「帝国」としての顔を残していたことがわかります。
と、最後の方は駆け足での紹介になってしまいましたが、とにかく興味深いところがたくさんある本。経済や社会についてのさまざまなデータや研究から、まさにグローバルヒストリーを立体的に浮かび上がらせてくれます。
イギリスの歴史の本としてもオススメですし、新しい「世界史」の本としてもオススメですね。
* 川北稔『イギリス近代史講義』を読むと、この本を更に深くイギリス社会の変化を関連付けて楽しめると思います。
イギリス帝国の歴史 (中公新書 2167)
秋田 茂
4121021673
- 2012年06月28日23:50
- yamasitayu
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2006年から2010年にかけて在シリア大使も務めた人物による、現在のシリア情勢と親子2代に渡るアサド政権について分析した本。
海外に比べると日本におけるシリア情勢の扱いはずいぶん小さいですが、それでも基本的にはアサド政権の非道ぶりを報じるものが多いです。それに対して、この本は「アサド政権寄り」とも言えるスタンスを取っており、そこに大きな特徴があります。
シリアではハーフェズ・アサドの政権が30年続き、その跡を次男のバシャール・アサドがついで10年になります。
バシャール・アサドは若いころは眼科医になるためにイギリスに留学していたという人物で、長男のバーシルが交通事故で亡くならなければ、そのまま医者になっていたかもしれません。
著者のバシャール・アサドに対する評価は比較的高く、シリアの改革の必要性を認識しており、経済改革も一定の成果をあげていると見ています。また、今回の民主化運動に対しても中東諸国の中では民主的な新憲法の制定を行うなどそれなりの対応をしているとしています。
では、なぜシリアはここまで国際社会から批判されているのか?
著者によれば、それは欧米諸国のシリア敵視政策と、武装勢力を支援するトルコ、シリア国内のムスリム同胞団を支援するサウジアラビア、そしてシリア政府による弾圧行為をセンセーショナルに報道するアルジャジーラの存在があります。
アルジャジーラはシリア政府からシリア国内の特派員の退去を求められたあと、シリア国内の「現場証人」に音声出演をさせて政府の弾圧を伝えるという方法をとっていますが、著者はそのいくつかは武装集団による捏造だと捉えています。
また、アルジャジーラの記者の中に辞職が相次いでいることに触れ、ベイルート支局長の「アルジャジーラは扇動と動員の指揮所になってしまった」という言葉を引用し(137ー138p)、アルジャジーラの偏向ぶりを指摘しています。
また、トルコに関しては2002年にエルドアン政権が成立して以来、緊張関係もとけ有効も深まったのですが、2011年3月に民衆蜂起が始まると親シリア政策を大きく転換し、反政府の自由シリア軍もトルコの庇護下になるとしています。
このように、現在のシリアの周囲にはアサド政権を崩壊させるための「陰謀」が張り巡らされており、アサド政権を一方的な「悪」と捉える見方は偏向しているし、シリア国民のアサド支持は根強く、エジプトやリビアのようにそう簡単にアサド正観は崩壊しないというのが著者の読みです。
おそらく著者の指摘するこのようなことは正しいのでしょう。アルジャジーラの報道には偏向があるのでしょうし、欧米やトルコ政府のシリアへの見方もとても公平なものだとはいえないのでしょう。
また、エジプトを見れば分かるように、ムスリム同胞団の力というのも見逃していはいけない要素だと思います。
ただ、アルジャジーラやトルコ政府の背後には、中東の民衆の意志なり不満なりがあることをこの本はスルーしてしまっていると思います。
「アラブの春」のはじまりとなったのはチュニジアですが、チュニジアのベンアリ政権も中東の長期政権の中ではその改革姿勢が評価されていたにもかかわらず、あっさりと倒されてしまいました。
その結果がどうなるにせよ、やはり中東の若者たちの「自由」や「民主主義」を求める大きなうねりというものは無視できないもので、それを欧米や周辺諸国の「陰謀」に解消してしまうというのには無理があるのではないでしょうか。
ただ、日本で耳にするニュースは「反アサド政権」的なものがほとんどなので、こういった違った視点を教えてくれる本の存在価値というのはあると思います。
シリア アサド政権の40年史 (平凡社新書)
国枝 昌樹
4582856446
海外に比べると日本におけるシリア情勢の扱いはずいぶん小さいですが、それでも基本的にはアサド政権の非道ぶりを報じるものが多いです。それに対して、この本は「アサド政権寄り」とも言えるスタンスを取っており、そこに大きな特徴があります。
シリアではハーフェズ・アサドの政権が30年続き、その跡を次男のバシャール・アサドがついで10年になります。
バシャール・アサドは若いころは眼科医になるためにイギリスに留学していたという人物で、長男のバーシルが交通事故で亡くならなければ、そのまま医者になっていたかもしれません。
著者のバシャール・アサドに対する評価は比較的高く、シリアの改革の必要性を認識しており、経済改革も一定の成果をあげていると見ています。また、今回の民主化運動に対しても中東諸国の中では民主的な新憲法の制定を行うなどそれなりの対応をしているとしています。
では、なぜシリアはここまで国際社会から批判されているのか?
著者によれば、それは欧米諸国のシリア敵視政策と、武装勢力を支援するトルコ、シリア国内のムスリム同胞団を支援するサウジアラビア、そしてシリア政府による弾圧行為をセンセーショナルに報道するアルジャジーラの存在があります。
アルジャジーラはシリア政府からシリア国内の特派員の退去を求められたあと、シリア国内の「現場証人」に音声出演をさせて政府の弾圧を伝えるという方法をとっていますが、著者はそのいくつかは武装集団による捏造だと捉えています。
また、アルジャジーラの記者の中に辞職が相次いでいることに触れ、ベイルート支局長の「アルジャジーラは扇動と動員の指揮所になってしまった」という言葉を引用し(137ー138p)、アルジャジーラの偏向ぶりを指摘しています。
また、トルコに関しては2002年にエルドアン政権が成立して以来、緊張関係もとけ有効も深まったのですが、2011年3月に民衆蜂起が始まると親シリア政策を大きく転換し、反政府の自由シリア軍もトルコの庇護下になるとしています。
このように、現在のシリアの周囲にはアサド政権を崩壊させるための「陰謀」が張り巡らされており、アサド政権を一方的な「悪」と捉える見方は偏向しているし、シリア国民のアサド支持は根強く、エジプトやリビアのようにそう簡単にアサド正観は崩壊しないというのが著者の読みです。
おそらく著者の指摘するこのようなことは正しいのでしょう。アルジャジーラの報道には偏向があるのでしょうし、欧米やトルコ政府のシリアへの見方もとても公平なものだとはいえないのでしょう。
また、エジプトを見れば分かるように、ムスリム同胞団の力というのも見逃していはいけない要素だと思います。
ただ、アルジャジーラやトルコ政府の背後には、中東の民衆の意志なり不満なりがあることをこの本はスルーしてしまっていると思います。
「アラブの春」のはじまりとなったのはチュニジアですが、チュニジアのベンアリ政権も中東の長期政権の中ではその改革姿勢が評価されていたにもかかわらず、あっさりと倒されてしまいました。
その結果がどうなるにせよ、やはり中東の若者たちの「自由」や「民主主義」を求める大きなうねりというものは無視できないもので、それを欧米や周辺諸国の「陰謀」に解消してしまうというのには無理があるのではないでしょうか。
ただ、日本で耳にするニュースは「反アサド政権」的なものがほとんどなので、こういった違った視点を教えてくれる本の存在価値というのはあると思います。
シリア アサド政権の40年史 (平凡社新書)
国枝 昌樹
4582856446
- 2012年06月23日15:07
- yamasitayu
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ここ最近、「科学とは何か?」、「科学と非科学の違いはどこにあるのか?」といったことについて書いた本が増えていますが、この本もそんな1冊。
ただ、「科学を擁護する」といったスタンスよりも「科学を懐疑する」といったスタンスが強いのが特徴でしょうか。
同じようなテーマを扱った本に戸田山和久『「科学的思考」のレッスン』がありますが、戸田山和久の本が科学の限界を指摘しつつ、科学と科学リテラシーを語ろうとしていたのに対して、こちらは科学の曖昧な部分をなぞりながら、「科学とは何か?」という問題を考えていくようなかたちです。
ヒュームの因果概念批判から始まって、原子のような見えないものは存在するのか?といった問題、量子力学の問題など、とり上げられている問題は興味深いですし、観察の理論不可性や全体論まで視野にいれながら、「科学の正しさ」を証明することの難しさを説いているところも面白いと思います。
また、そういった問題を科学の題材と比較的身近な例をまじえて説明しているので、読みやすくはあると思います。
ただ、「哲学」と銘打っている割には、そういった身近な例の使いかたが引っかかる。
例えば、第2章で因果関係について説明している際に、「花子が石を投げる」という行為と、「花子が石を投げようとする」意図を、ともに「出来事」として記述しているのですが、意図とか意志は「出来事」なのでしょうか?
哲学的にも「ちょっとどうなの?」と思う議論ですし、ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』の議論などを読むと、「意志→行為」という因果は絶対ではなく、「行為→意志」という逆転した因果もあり得ることがわかります(リベットの議論についてはリンク先のブログを参照してください)。
他にも、122p以下で、花子さんがずっと付き合っていた太郎さんと結婚したという情報よりも、ほとんど口の聞いたことのない次郎さんと結婚したという情報のほうが、「情報としての価値が高い」(123p)という記述があるのですが、これもよくわからない。
この話は、反証可能性について述べている文脈で、反証可能性が高い命題はそれだけ価値が高いということを主張する例として出てくるのですが、「意外」であるのと「情報としての価値が高い」というのは違うことではないでしょうか(「花子が次郎と結婚した」という情報が、「花子は次郎と結婚したかしないかだ」という情報に比べて価値が高いというのはわかりますが、それが「太郎と結婚した」よりも価値が高いという論理は正直良くわからないです)。
というわけで、おおまかな内容は悪くなかったのですが、個人的には著者の出してくる例でいちいち引っかかってしまいました。
まあ、科学を説明するための単なる例だといえばそれまでなのですが、「科学哲学講義」と銘打つからには、もう少し「哲学的」な部分にも気を配って欲しかった気がします。
科学哲学講義 (ちくま新書)
森田 邦久
4480066705
ただ、「科学を擁護する」といったスタンスよりも「科学を懐疑する」といったスタンスが強いのが特徴でしょうか。
同じようなテーマを扱った本に戸田山和久『「科学的思考」のレッスン』がありますが、戸田山和久の本が科学の限界を指摘しつつ、科学と科学リテラシーを語ろうとしていたのに対して、こちらは科学の曖昧な部分をなぞりながら、「科学とは何か?」という問題を考えていくようなかたちです。
ヒュームの因果概念批判から始まって、原子のような見えないものは存在するのか?といった問題、量子力学の問題など、とり上げられている問題は興味深いですし、観察の理論不可性や全体論まで視野にいれながら、「科学の正しさ」を証明することの難しさを説いているところも面白いと思います。
また、そういった問題を科学の題材と比較的身近な例をまじえて説明しているので、読みやすくはあると思います。
ただ、「哲学」と銘打っている割には、そういった身近な例の使いかたが引っかかる。
例えば、第2章で因果関係について説明している際に、「花子が石を投げる」という行為と、「花子が石を投げようとする」意図を、ともに「出来事」として記述しているのですが、意図とか意志は「出来事」なのでしょうか?
哲学的にも「ちょっとどうなの?」と思う議論ですし、ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』の議論などを読むと、「意志→行為」という因果は絶対ではなく、「行為→意志」という逆転した因果もあり得ることがわかります(リベットの議論についてはリンク先のブログを参照してください)。
他にも、122p以下で、花子さんがずっと付き合っていた太郎さんと結婚したという情報よりも、ほとんど口の聞いたことのない次郎さんと結婚したという情報のほうが、「情報としての価値が高い」(123p)という記述があるのですが、これもよくわからない。
この話は、反証可能性について述べている文脈で、反証可能性が高い命題はそれだけ価値が高いということを主張する例として出てくるのですが、「意外」であるのと「情報としての価値が高い」というのは違うことではないでしょうか(「花子が次郎と結婚した」という情報が、「花子は次郎と結婚したかしないかだ」という情報に比べて価値が高いというのはわかりますが、それが「太郎と結婚した」よりも価値が高いという論理は正直良くわからないです)。
というわけで、おおまかな内容は悪くなかったのですが、個人的には著者の出してくる例でいちいち引っかかってしまいました。
まあ、科学を説明するための単なる例だといえばそれまでなのですが、「科学哲学講義」と銘打つからには、もう少し「哲学的」な部分にも気を配って欲しかった気がします。
科学哲学講義 (ちくま新書)
森田 邦久
4480066705
- 2012年06月18日23:18
- yamasitayu
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サブタイトルは「黒人は本当に「速く」「強い」のか」。
オリンピックの実況やサッカーのアフリカ勢を形容するときに必ずといっていいほど使われる「身体能力」なる言葉。本当に「黒人」の「身体能力」は卓越しているのか?それはいつから言われるようになって広まっていったのか?そういった疑問をアメリカのスポーツ史をたどることで掘り下げたのがこの本です。
南北戦争から20世紀初頭にかけて黒人はスポーツの中では「不可視」の存在でした。
スポーツの世界で活躍する黒人は圧倒的に少なく、数少ない例外である黒人アスリートも偏見などから不幸な結末をたどるケースが多かったとのことです。
また、当時流行した社会進化論なども影響もあり、黒人は「滅び行く人種」(22p)とみなされたりもしていました。
そして20世紀初頭から1920年代にかけては人種の分離が進み、例外的に白人選手の中で活躍した黒人のフットボール選手には「いかなる白人よりも白人らしい」、「黒人じゃない。やつは白人だ。」といった言葉がかけられる状況でした。
ところが、20世紀に始まったオリンピックや体育教育の普及が黒人アスリートの地位をすこしずつ変え始めます。
1930年代になると黒人アスリートの活躍が目立ち始め、「黒人優越」の神話が生まれ始めるのですが、例えば、30年代に優れた黒人アスリートが出現したバスケットボール、フットボール、ベースボール、陸上、ボクシングのうちボクシング以外はすべて義務教育で導入された競技です(82p)。
また、オリンピックの盛り上がりとそこで戦う黒人アスリートの姿は、黒人であっても国籍を共有する同胞として意識されるようになっていきます(90p)。
そして1930年代になると、今まで「劣っている」とされた黒人たちは一転して「優れている」と見なされるようになっていきます。
ベルリン・オリンピックでドイツ人の記者はアメリカの黒人選手を「黒人補助部隊」と評したそうですが(110p)、この時代は差別的な視線の中で黒人の「原始的」な能力が評価されていった時代でした。
また、黒人は奴隷船という厳しい環境を生き延びてきたから遺伝的に強いものを持っている、といった説明も登場するようになり、黒人の身体能力についてのステレオタイプが広がって行きました。
1946年には「初の黒人メジャーリーガー」のジャッキー・ロビンソンが登場し(2リーグ時代以前を考慮に入れると初の黒人メジャーリーガーはこの本にもとり上げられているM・F・ウォーカー)、スポーツの世界における人種分離の壁は崩れていくことになります。
以降、バスケットボールや陸上の世界では黒人の「優越」がつづき、フットボールでも確固たる地位を占めるようになります。
最初は差別的な意識の中で育っていった「黒人の身体的優越」の考えは、だんだんと素直に信じられるようになっていったのです。
では、本当に黒人には特別な能力はないのでしょうか?著者は終章で面白い思考実験を披露しています。
もし日本代表の野球チームがジャマイカに、日本の陸上チームがドミニカに行ったら日本チームはどちらにおいても連戦連勝するでしょう。しかし、もしこれが逆だったら、ジャマイカに行った陸上の日本チームは敗北し「やっぱり黒人はすごい、身体能力がちがう」と納得するのではないかと(240p)。
ドミニカとジャマイカはほんの少ししか離れておらず、いずれも国民の9割近くが黒人の血を受け継いでいるとされています。
けれでもその「身体能力」はまったく別のスポーツで発揮されており、やはり子どもの頃からどのようんスポーツに親しんでいるのかということが決定的に重要なのです。
陸上の長距離に関しても、無類の強さを誇るケニア勢が、実はリフトバレーという高地に住むナンディと呼ばれるエスニック集団がその圧倒的多数を占めているといいます。
ここでも、「黒人」というよりはナンディという集団の生活や環境、そしてメンタリティが決め手になっているようなのです。
さらにアメリカの事情についてはプロテニスプレーヤーであり研究者でもあったアーサー・アッシュの次のような言葉を引いています。
これでもう少し、実際の黒人の運動能力のテストの結果(人種間や同じ黒人でも年令や男女による違い等)のデータなどがあるとこの言葉やこの本の主張により説得力が加わると思いますが、この本は「人種」という「神話」についての本としても、アメリカの黒人のスポーツの歴史の本としても楽しめるものになっています。
人種とスポーツ - 黒人は本当に「速く」「強い」のか (中公新書)
川島 浩平
4121021630
オリンピックの実況やサッカーのアフリカ勢を形容するときに必ずといっていいほど使われる「身体能力」なる言葉。本当に「黒人」の「身体能力」は卓越しているのか?それはいつから言われるようになって広まっていったのか?そういった疑問をアメリカのスポーツ史をたどることで掘り下げたのがこの本です。
南北戦争から20世紀初頭にかけて黒人はスポーツの中では「不可視」の存在でした。
スポーツの世界で活躍する黒人は圧倒的に少なく、数少ない例外である黒人アスリートも偏見などから不幸な結末をたどるケースが多かったとのことです。
また、当時流行した社会進化論なども影響もあり、黒人は「滅び行く人種」(22p)とみなされたりもしていました。
そして20世紀初頭から1920年代にかけては人種の分離が進み、例外的に白人選手の中で活躍した黒人のフットボール選手には「いかなる白人よりも白人らしい」、「黒人じゃない。やつは白人だ。」といった言葉がかけられる状況でした。
ところが、20世紀に始まったオリンピックや体育教育の普及が黒人アスリートの地位をすこしずつ変え始めます。
1930年代になると黒人アスリートの活躍が目立ち始め、「黒人優越」の神話が生まれ始めるのですが、例えば、30年代に優れた黒人アスリートが出現したバスケットボール、フットボール、ベースボール、陸上、ボクシングのうちボクシング以外はすべて義務教育で導入された競技です(82p)。
また、オリンピックの盛り上がりとそこで戦う黒人アスリートの姿は、黒人であっても国籍を共有する同胞として意識されるようになっていきます(90p)。
そして1930年代になると、今まで「劣っている」とされた黒人たちは一転して「優れている」と見なされるようになっていきます。
ベルリン・オリンピックでドイツ人の記者はアメリカの黒人選手を「黒人補助部隊」と評したそうですが(110p)、この時代は差別的な視線の中で黒人の「原始的」な能力が評価されていった時代でした。
また、黒人は奴隷船という厳しい環境を生き延びてきたから遺伝的に強いものを持っている、といった説明も登場するようになり、黒人の身体能力についてのステレオタイプが広がって行きました。
1946年には「初の黒人メジャーリーガー」のジャッキー・ロビンソンが登場し(2リーグ時代以前を考慮に入れると初の黒人メジャーリーガーはこの本にもとり上げられているM・F・ウォーカー)、スポーツの世界における人種分離の壁は崩れていくことになります。
以降、バスケットボールや陸上の世界では黒人の「優越」がつづき、フットボールでも確固たる地位を占めるようになります。
最初は差別的な意識の中で育っていった「黒人の身体的優越」の考えは、だんだんと素直に信じられるようになっていったのです。
では、本当に黒人には特別な能力はないのでしょうか?著者は終章で面白い思考実験を披露しています。
もし日本代表の野球チームがジャマイカに、日本の陸上チームがドミニカに行ったら日本チームはどちらにおいても連戦連勝するでしょう。しかし、もしこれが逆だったら、ジャマイカに行った陸上の日本チームは敗北し「やっぱり黒人はすごい、身体能力がちがう」と納得するのではないかと(240p)。
ドミニカとジャマイカはほんの少ししか離れておらず、いずれも国民の9割近くが黒人の血を受け継いでいるとされています。
けれでもその「身体能力」はまったく別のスポーツで発揮されており、やはり子どもの頃からどのようんスポーツに親しんでいるのかということが決定的に重要なのです。
陸上の長距離に関しても、無類の強さを誇るケニア勢が、実はリフトバレーという高地に住むナンディと呼ばれるエスニック集団がその圧倒的多数を占めているといいます。
ここでも、「黒人」というよりはナンディという集団の生活や環境、そしてメンタリティが決め手になっているようなのです。
さらにアメリカの事情についてはプロテニスプレーヤーであり研究者でもあったアーサー・アッシュの次のような言葉を引いています。
アメリカの黒人は走行や跳躍などの身体運動で、遺伝的に有利に作られているのか?この問いに対して、私はこう答えたい。自然、アメリカにおける私たちの特有な歴史、そして他の職業からの排斥が、スポーツと芸能で成功するために必要な心理的状況に私たちを追い込んできたのであると。(236p)
これでもう少し、実際の黒人の運動能力のテストの結果(人種間や同じ黒人でも年令や男女による違い等)のデータなどがあるとこの言葉やこの本の主張により説得力が加わると思いますが、この本は「人種」という「神話」についての本としても、アメリカの黒人のスポーツの歴史の本としても楽しめるものになっています。
人種とスポーツ - 黒人は本当に「速く」「強い」のか (中公新書)
川島 浩平
4121021630
- 2012年06月13日23:37
- yamasitayu
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戦前から戦中にかけて、国民の思想を厳しく取り締まった特高警察。その名前はよく知られていますが、実際に「どんな組織だったのか?」という問にきちんと答えられる人は少ないでしょう。
そんな特高警察の歴史と組織、そして生態について迫ったのがこの本です。
目次は以下の通り。
このように内容は盛りだくさんで、要約して紹介するのは容易では無いです。また、特高警察の組織の説明など、要約しようがない部分もあるので、ここではこの本で印象に残った特高警察のいくつかの特徴を紹介したいと思います。
まず、これは現在の警察にも当てはまることかもしれませんが、キャリアとノンキャリアの二重構造という点です。
内務省の高等試験合格組は入省5年ほどで、小規模県の特高課長となり、入省10年ほどで本省保安課の事務官級となります。
一方、特高の捜査、スパイ活動、拷問を含む取り調べを支えたのは、現場からの"たたき上げ組"です。「特高警察の至宝」と呼ばれた毛利基もたたき上げ組で、彼は最終的に佐賀県や埼玉県の警察部長にまで出世しています。
彼は特高警察向けの講演の中で「特高警察官は御承知の通り多くの場合、超法律的なことをしなけらばならない」と言ったそうですが(84p)、この言葉にあ るような「超法律的」なことをしてでも成果を上げれば出世できるというシステムが、たたき上げ組の無理な捜査や拷問を生んだ背景にあるのでしょう。
さらに、神奈川県警の特高の警視庁への対抗意識が横浜事件での無理な捜査や凄惨な取り調べを生んだという指摘なんかも現在に通じるものがあるように思えます。
また、ゲシュタポとの比較という部分で出てくる、「前提としての「日本人」意識」というのも興味深いです。
この記述を読むかぎり、「同じ日本人」という意識は、確かに処刑などに関してブレーキをかけているのですが、同時に「同じ日本人」なら「日本精神」に立ち返るはずだという思い込みは、立ち返らせるための凄惨な拷問を生みました。
この精神構造というものはやはり気味が悪いですね。
全体的には固い記述も多くて、読んでて楽しい本というわけではないのですが、このようにいろいろな部分から日本のファシズム、あるいは日本社会の特徴というものがかいま見えるのがこの本の魅力。
特高警察を知りたいという人にとどまらず、日本のファシズムについて知りたいという人にもお薦めの本です。
特高警察 (岩波新書)
荻野 富士夫
4004313686
そんな特高警察の歴史と組織、そして生態について迫ったのがこの本です。
目次は以下の通り。
はじめに
I 特高警察の創設
1 特高警察の前史、2 大逆事件・「冬の時代」へ
3 特高警察体制の確立
II いかなる組織か
1 「特別」な高等警察、2 特高の二層構造
3 一般警察官の「特高」化、4 思想検事・思想憲兵との競合
III その生態に迫る
1 国家国体の衛護、2 特高の職務の流れ
3 治安法令の駆使、4 「拷問」の黙認
5 弾圧のための技術、6 特高の職務に駆り立てるもの
IV 総力戦体制の遂行のために
1 非常時下の特高警察、2 「共産主義運動」のえぐり出し
3 「民心」の監視と抑圧、4 敗戦に向けての治安維持
V 植民地・「満州国」における特高警察
1 朝鮮の「高等警察」、2 台湾の「高等警察」
3 「満州国」の「特務警察」、4 外務省警察
5 「東亜警察」の志向
VI 特高警察は日本に特殊か
1 ゲシュタポの概観、2 ゲシュタポとの比較
VII 特高警察の「解体」から「継承」へ
1 敗戦後の治安維持 、2 GHQの「人権指令」―しぶしぶの履行
3 「公安警察」としての復活
結びに代えて
このように内容は盛りだくさんで、要約して紹介するのは容易では無いです。また、特高警察の組織の説明など、要約しようがない部分もあるので、ここではこの本で印象に残った特高警察のいくつかの特徴を紹介したいと思います。
まず、これは現在の警察にも当てはまることかもしれませんが、キャリアとノンキャリアの二重構造という点です。
内務省の高等試験合格組は入省5年ほどで、小規模県の特高課長となり、入省10年ほどで本省保安課の事務官級となります。
一方、特高の捜査、スパイ活動、拷問を含む取り調べを支えたのは、現場からの"たたき上げ組"です。「特高警察の至宝」と呼ばれた毛利基もたたき上げ組で、彼は最終的に佐賀県や埼玉県の警察部長にまで出世しています。
彼は特高警察向けの講演の中で「特高警察官は御承知の通り多くの場合、超法律的なことをしなけらばならない」と言ったそうですが(84p)、この言葉にあ るような「超法律的」なことをしてでも成果を上げれば出世できるというシステムが、たたき上げ組の無理な捜査や拷問を生んだ背景にあるのでしょう。
さらに、神奈川県警の特高の警視庁への対抗意識が横浜事件での無理な捜査や凄惨な取り調べを生んだという指摘なんかも現在に通じるものがあるように思えます。
また、ゲシュタポとの比較という部分で出てくる、「前提としての「日本人」意識」というのも興味深いです。
特高警察は思想検察の主導した「転向」施策には消極的で、拷問を含む厳重な取調べと処罰こそ運動からの離脱や思想の放棄をうながすという立場にたっていたが、その大前提には思想犯罪者といえども「日本人」であるがゆえに「日本精神」に立ち返るはずだという見通しがあった。治安維持法改正で最高刑を死刑に引き上げながら、日本国内の実際の裁判においてその宣告がなされなかったことも、また予防拘禁に「精神の入れ替え」という期待を込めたことも、「日本人」である限り最終的には「日本精神」に回帰し、「転向」するはずだと考えたからである。思想的矯正は可能とする日本とは異なり、ドイツの場合にはそうした発送がない。もちろん、日本もドイツも歪んでいるわけですが、日本の特高には独特の歪みがあります。
(中略)
前述の田中省吾は、「日本の共産党員は刑務所という学校に入れて教育を与えたり、自ら反省せしめると。大半転向してその非を悟るに至る」と述べた際、ヒムラーは「それは吾らにとっては考え得られないことだ」と驚いたエピソードを紹介する。田中は「日本の国体観念が彼らの内心に蘇って来るからだ」と説明したという。(188ー189p)
この記述を読むかぎり、「同じ日本人」という意識は、確かに処刑などに関してブレーキをかけているのですが、同時に「同じ日本人」なら「日本精神」に立ち返るはずだという思い込みは、立ち返らせるための凄惨な拷問を生みました。
この精神構造というものはやはり気味が悪いですね。
全体的には固い記述も多くて、読んでて楽しい本というわけではないのですが、このようにいろいろな部分から日本のファシズム、あるいは日本社会の特徴というものがかいま見えるのがこの本の魅力。
特高警察を知りたいという人にとどまらず、日本のファシズムについて知りたいという人にもお薦めの本です。
特高警察 (岩波新書)
荻野 富士夫
4004313686
- 2012年06月08日23:15
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日本の国運をかけた日露戦争を首相として乗り切り、歴代の日本の首相として最長の任期(約7.9年)を誇る桂太郎。ただ、おおかたのイメージは山県有朋の傀儡、あるいは代理人といったところかもしれません。
けれども、そうなるとここ最近、政友会にくらべて評価の高い民政党(坂野潤治『日本近代史』などでは露骨に政友会を低く、民政党を高く評価している)の源流を桂がつくったこと、また、この本で触れられている桂の緊縮財政への取り組みといっものがうまく説明できません。
小村寿太郎、児玉源太郎、後藤新平といった「リアリスト」として評価の高い人々を見出し、抜擢したのも桂ですし、やはり桂を一人の独立した政治家として見る必要が出てきます。
そんな、「山県有朋の傀儡」にとどまらない政治家・桂太郎の軌跡と政治的な思想を丁寧に描いてみせたのがこの本です。
1848年生まれで戊辰戦争にぎりぎりで「間に合った」桂は、同郷の山県とのつながりやドイツ留学の経験などをいかして陸軍官僚として順調にその足場を固めていきます。一方で、政治的な面での出世は遅れ、1898年に第3次伊藤博文内閣でようやく陸相に就任。その後は隈板内閣、第2次山県内閣とつづけて陸相を務め、特に山県内閣の時に政党との地租増徴を巡る交渉役にもなります。
こうして政治的な実力も周囲から認められてきた桂は1901年に首相に就任。日英同盟締結、そして日露戦争へと時代は動いていくことになります。
この日英同盟締結に関して、司馬遼太郎『坂の上の雲』などでは、日英同盟よりも日露同盟を模索する伊藤博文らの元老たちを若い桂と小村寿太郎が押し切るような形で描かれることが多いですが、これは自らの功績を独占したい桂の自伝での描き方が問題であり、実際は桂も英露とのダブル・ディーリング(二股外交)を指向していたと著者は指摘しています。
また、日露戦争時の増税やポーツマス条約の締結に関して、政友会の総裁の西園寺、そして幹部の原敬と密接に連携していました。
特にポーツマス条約の賛成と引換に、桂は原に西園寺公望への政権移譲を約束。ここに桂園時代がスタートすることになります。
しかし、桂は西園寺の政権運営の、放漫財政と消極外交には常に不満を抱いていました。
そこで1908年に第2次桂内閣がスタートすると、桂は自ら蔵相を兼任して緊縮財政進めます。財政状況に関わらず陸軍の拡張を主張した山県とは違って、桂は日露戦争などの経験から、健全財政というものが国家全体の利益になるという考えがありました。
外交では韓国併合を決断。ロシアやイギリスの支持を取り付けつつ1910年に韓国を併合します。
一方、政友会とは「情意投合」し、政権禅譲をちらつかせつつ、次々と議会で法案を通していきます。
この後、歴史の教科書などでは、2個師団増設問題をめぐる上原勇作陸相の帷幄上奏事件によって第2次西園寺内閣が崩壊、内大臣であった「閥族」・桂による第3次桂内閣発足、第1次護憲運動の高まりによる大正政変となるわけですが、この本の記述はそうして「わかりやすい」ストーリーとは少し違います。
まず、桂自身は2個師団増設にそれほどこだわっておらず、海軍拡張や減税を取りやめるならば2個師団増設断念もやむなしと考えていたそうです(191ー192p)。さらに桂は陸海相の文官制さえ考慮に入れていたといいます(200p)。
そして桂は後藤新平の進言もあり、衆議院から貴族院、そして政府官僚組織を横断する「立憲統一党」の結成へと動き出します。
この「立憲統一党」構想は、貴族院の不参加、政友会からの脱党者がほとんどいなかったことなどにより、「立憲同志会」に収斂します。
しかし、この立憲同志会の結成によっても桂への逆風は止まず、第3次桂内閣は辞任。その後、桂は病床に伏し、1913年10月に67歳でこの世を去ることになります。
桂の構想した「立憲統一党」に関して、著者は具体的なものはわからないとしながらも、日露による満蒙分割、徹底した緊縮財政といったものが目指されたはずだとして、次のように述べています。
しかし、一方でこの「外に帝国主義、内に立憲主義」というのは晩年の桂の構想そのものでもあります。
こうしたことを考えると、桂太郎という人物は「藩閥政府」と「政党政治」にまたがる形で活動し、この時代の政治を体現したといってもいいほどです。
この本は、今までそれほど注目されて来なかった桂太郎という人物を紹介するとともに、日本の近代政治史というものを考えさせる材料を提供する本と言えるでしょう。
あと、完全に余談ですが、この本の8pの22歳の桂太郎の写真はかなりのイケメンです!
桂太郎 - 外に帝国主義、内に立憲主義 (中公新書 2162)
千葉 功
4121021622
けれども、そうなるとここ最近、政友会にくらべて評価の高い民政党(坂野潤治『日本近代史』などでは露骨に政友会を低く、民政党を高く評価している)の源流を桂がつくったこと、また、この本で触れられている桂の緊縮財政への取り組みといっものがうまく説明できません。
小村寿太郎、児玉源太郎、後藤新平といった「リアリスト」として評価の高い人々を見出し、抜擢したのも桂ですし、やはり桂を一人の独立した政治家として見る必要が出てきます。
そんな、「山県有朋の傀儡」にとどまらない政治家・桂太郎の軌跡と政治的な思想を丁寧に描いてみせたのがこの本です。
1848年生まれで戊辰戦争にぎりぎりで「間に合った」桂は、同郷の山県とのつながりやドイツ留学の経験などをいかして陸軍官僚として順調にその足場を固めていきます。一方で、政治的な面での出世は遅れ、1898年に第3次伊藤博文内閣でようやく陸相に就任。その後は隈板内閣、第2次山県内閣とつづけて陸相を務め、特に山県内閣の時に政党との地租増徴を巡る交渉役にもなります。
こうして政治的な実力も周囲から認められてきた桂は1901年に首相に就任。日英同盟締結、そして日露戦争へと時代は動いていくことになります。
この日英同盟締結に関して、司馬遼太郎『坂の上の雲』などでは、日英同盟よりも日露同盟を模索する伊藤博文らの元老たちを若い桂と小村寿太郎が押し切るような形で描かれることが多いですが、これは自らの功績を独占したい桂の自伝での描き方が問題であり、実際は桂も英露とのダブル・ディーリング(二股外交)を指向していたと著者は指摘しています。
また、日露戦争時の増税やポーツマス条約の締結に関して、政友会の総裁の西園寺、そして幹部の原敬と密接に連携していました。
特にポーツマス条約の賛成と引換に、桂は原に西園寺公望への政権移譲を約束。ここに桂園時代がスタートすることになります。
しかし、桂は西園寺の政権運営の、放漫財政と消極外交には常に不満を抱いていました。
そこで1908年に第2次桂内閣がスタートすると、桂は自ら蔵相を兼任して緊縮財政進めます。財政状況に関わらず陸軍の拡張を主張した山県とは違って、桂は日露戦争などの経験から、健全財政というものが国家全体の利益になるという考えがありました。
外交では韓国併合を決断。ロシアやイギリスの支持を取り付けつつ1910年に韓国を併合します。
一方、政友会とは「情意投合」し、政権禅譲をちらつかせつつ、次々と議会で法案を通していきます。
この後、歴史の教科書などでは、2個師団増設問題をめぐる上原勇作陸相の帷幄上奏事件によって第2次西園寺内閣が崩壊、内大臣であった「閥族」・桂による第3次桂内閣発足、第1次護憲運動の高まりによる大正政変となるわけですが、この本の記述はそうして「わかりやすい」ストーリーとは少し違います。
まず、桂自身は2個師団増設にそれほどこだわっておらず、海軍拡張や減税を取りやめるならば2個師団増設断念もやむなしと考えていたそうです(191ー192p)。さらに桂は陸海相の文官制さえ考慮に入れていたといいます(200p)。
そして桂は後藤新平の進言もあり、衆議院から貴族院、そして政府官僚組織を横断する「立憲統一党」の結成へと動き出します。
この「立憲統一党」構想は、貴族院の不参加、政友会からの脱党者がほとんどいなかったことなどにより、「立憲同志会」に収斂します。
しかし、この立憲同志会の結成によっても桂への逆風は止まず、第3次桂内閣は辞任。その後、桂は病床に伏し、1913年10月に67歳でこの世を去ることになります。
桂の構想した「立憲統一党」に関して、著者は具体的なものはわからないとしながらも、日露による満蒙分割、徹底した緊縮財政といったものが目指されたはずだとして、次のように述べています。
このように推測してみると、時代が下り、のちの立憲同志会ー憲政会ー立憲民政党が与党の内閣時に、加藤高明が対華二一カ条要求を行い、浜口雄幸が徹底した緊縮財政を行ったのも決して偶然ではない。そして、このような外交・財政政策など国内外の問題へ強力に対処していくには、安定的でかつ民意をくみとることができる政治体制でなければならないと、桂ないし後藤は考えたのである。(207ー208p)この本では、日比谷焼打事件の部分(124p)と最後の部分で、「外に帝国主義、内に立憲主義」というスローガンを紹介しています。これは日比谷焼打事件とそれ以降の民衆の政治運動を動かしたスローガンであり、桂を代表する「閥族」を攻撃するときにも使われました。
しかし、一方でこの「外に帝国主義、内に立憲主義」というのは晩年の桂の構想そのものでもあります。
こうしたことを考えると、桂太郎という人物は「藩閥政府」と「政党政治」にまたがる形で活動し、この時代の政治を体現したといってもいいほどです。
この本は、今までそれほど注目されて来なかった桂太郎という人物を紹介するとともに、日本の近代政治史というものを考えさせる材料を提供する本と言えるでしょう。
あと、完全に余談ですが、この本の8pの22歳の桂太郎の写真はかなりのイケメンです!
桂太郎 - 外に帝国主義、内に立憲主義 (中公新書 2162)
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- 2012年06月02日23:37
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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
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