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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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2020年08月

岩波新書〈シリーズ中国の歴史〉の第5巻にして最終巻になります。時代ごとの区分ではないシリーズ構成が特徴でしたが、この第4巻以降は時代順の構成で本巻は清〜現代までになります。
なぜ異民族である清王朝が長期に渡って支配を継続し、さらにモンゴル、チベット、新疆にまで支配地域を拡大させることができたのか? その清が傾くとともにどのようにして「中国」が出現くるのか? そして、その「中国」が抱えていた問題がどのように現代に持ち越されているのかということが論じられています。
内容としてはシリーズの他の巻に負けずに面白いです。ただし、本書に関しては同じ著者の『近代中国史』(ちくま新書)とかぶってる部分も多く、『近代中国史』を読んでいると、新しい発見はやや少ないかなという感じもします。

目次は以下の通り。
第1章 興隆
第2章 転換
第3章 「盛世」
第4章 近代
第5章 「中国」

まず、明清の交代ですが、満州から出た異民族の清が中国全土を制圧できたことには多くの偶然が重なっています。何といっても呉三桂が清に援軍を求めて、清軍を山海関の内側に引き入れたということが大きいですし、南部で興った明の後継政権が団結できなかったことも大きいです。
しかし、投降した呉三桂を重用し、呉三桂らが三藩の乱で反旗を翻すと、粘り強くこれを撃退し制圧するなど、順治帝を補佐したドルゴンや三藩の乱を鎮圧した康煕帝の行動もまた的確でした。
明朝の遺臣である鄭成功とその子孫による台湾の鄭氏政権にも手を焼きましたが、三藩の乱後にこれを降しています。

明は海禁政策を掲げ、清も鄭氏政権と対峙しているときは海禁政策をとりました。しかし、鄭氏政権が降伏すると、互市という形で貿易を認める方向に転換します。明は「中華」と「外夷」を峻別して関係を結ぶ「朝貢一元体制」にこだわりましたが、清は朝貢と貿易を切り離しました。
内陸では当時モンゴル高原で覇を唱えていたガルダンを破り、今のモンゴル国に当たる地域を版図に治めます。この戦いの中でチベット仏教の重要性に気づいた清は、康煕帝がチベットに親征しチベットを保護下に置きました。チベットの統治は基本的にダライラマに任せましたが、清はチベット仏教を利用して、満州人・モンゴル人・チベット人のつながりをつくり上げました。
さらにロシアに対してはほぼ対等な「隣国」としてのぞむ一方、朝鮮・琉球・ベトナムといった国々に対しては明の朝貢一元体制を引き継ぐ形で、それらの国を「属国」としました。

清は漢語世界とモンゴル・チベット世界の両方を治めましたが、満州人は漢人に比べればもちろん、モンゴル人、朝鮮人などに対しても大きな集団とは言えず、「因俗而治」(史料に出てくる用語らしくルビがふっていないけど日本語の読み方はあるですかね?)とも呼ばれる、その土地の習俗や慣例に即した統治を行いました。
漢人に対する支配としては、よく「満漢併用制」という言葉が使われますが、本書によれば「明代の制度をそのままにしながら、漢人官僚のそばに満州人をはりつけて監視、牽制させるシステム」(44p)と表現されています。確かに漢人の地域は直轄敵に支配されましたが、それは明朝のシステムに則ったからでもあり、モンゴルやチベットでも同じようにそれまでの政治システムに乗っかる形の統治を行っています。

康煕帝はこのようにして清朝の版図を大きく広げましたが、同時にさまざまな矛盾も生まれました。その矛盾を解消するために粉骨砕身したのが雍正帝です。
雍正帝は汚職などど防ぐために官吏の俸給を補う「養廉銀」や、皇位継承をスムーズにさせるための太子密建の法など、数々の制度を創始しましたが、本書では雍正帝の改革のポイントとして「奏摺政治」というものがあげられています。
「奏摺」とは個々の官僚、特に地方大官が皇帝に送る私信のことですが、雍正帝はこれにコメントを朱筆で書いて送り返しました。公式のルートではなかなか情報もあがらず、また改革が徹底しない中で、雍正帝はこうした非公式のルートを使って地方にはたらきかけました。これは皇帝独裁であるとともに、在地主義でもあり、画一的な中央集権とは少し違ったものです。
明代の学者顧炎武は、実地で行政にあたる「小官」が少なく、官吏の不正や非違を観察する「大官」ばかりが増えた現状を批判し、「盛世には小官が多く、衰世には大官が多い」(58p)という言葉を残しましたが、この問題は清にも持ち越されていました。これに対して、雍正帝は機能しない大官を飛び越えて、直接小官を把握しようとしたのです。

しかし、この「奏摺政治」は雍正帝の超人的な努力によって運営されていたものであり、後代の皇帝がそのまま引き継ぐことは不可能でした。しかも、次の乾隆帝の代に中国の人口は爆発的に増加していきます。
乾隆帝は故宮に残る美術工芸品からもわかるように贅の限りを尽くした人物ですが、その贅沢と人口増加をもたらしたのが経済の発展でした。康煕帝のころはデフレであった経済が乾隆帝のときにはインフレに転換したのです。
康煕帝は質素倹約の人であり、また、鄭氏政権のために海禁政策を行いました。そのために日本から流れ込む銀なども減少しデフレ状況となります。しかし、鄭氏政権が倒れ海禁が撤回されると、貿易によって銀が中国に流れ込み始めます。日本の銀の産出量は落ち込みましたが、インドや東南アジアとの貿易は好調であり、さらに18世紀には西洋との貿易が拡大していきます。陶磁器や茶、特に西洋での茶の需要が大きく伸びたことによって、中国には大量の銀が流れ込み、インフレと好景気がやってくることになります。

中国ほどの経済規模では貿易の影響はさほど大きなものではないように思えます、国民純収入に比した貿易額の割合は1.5%だったとの推計・試算があります(同時期のイギリスは26%(79p))。しかし、中国経済では、新たな需要、そして銀を海外に頼る構造が出来上がっており(79p以降で岸本美緒の「貯水池連鎖モデル」が紹介されている)、外との貿易が景気を大きく左右しました。
中国における貨幣は銀と銅銭の二重構造になっており、しかも銅銭は地域によって異なっていました。これは明代に出来上がったしくみですが、清もこれを引き継ぎながら、日本から銅を輸入して銅銭の鋳造に務めました。

乾隆帝の治世を中心に中国では人口が爆発的に増加しました。17世紀に1億以下になった人口は、19世紀に入ると4億人を突破したといいます。このためこの時期には経済成長が起こったものの、一人あたりで考えるとそれほど成長がなかったとも考えられます。
増えた人口は、まず江西・湖北・湖南・広西・四川・貴州・雲南の山地に向かい、新大陸からもたらされたタバコ・トウモロコシ・サツマイモなどの栽培で生計をたてました。さらに、モンゴル高原や東三省(満州)、台湾、そして海外への移民も起こります。満州人の故郷である東三省への入植に関してはたびたび禁令が出ましたが、東三省の森林は大豆畑に変わっていきました。
こうして農村でも都市でも貧民が増加しました。それとともに富者はますます富みましたが、中国ではイギリスのような産業資本は育ちませんでした。著者は、制度面の違いをあげ、「私法・民法・商法の領域・民間の社会経済に、権力が介入できるかどうか。西は是であり、東は非だった。そこに「分岐」の核心がある」(99p)と述べています。

この背景には中国における官と民の分離があります。そして、この分離をつなぎとめたのが郷紳と呼ばれる人々や中間団体でした。中間団体には宗族、同郷団体、同業団体などがあり、慈善事業を目的とした「善会」と呼ばれるものもありました。このように中国では社会福祉に関しても中間団体が担う場合が多く、「政府権力は納税と刑罰を強いるだけの存在」(103p)となっていました。こうした中間団体からは政府いて期待する宗教団体や秘密結社も現れてくることになります。
105pの図19に17世紀と19世紀の都市のおおよその数を示した図が載っていますが、この時期に大幅に増加したのは人口3000未満の小規模な都市で、行政権力が把握していない都市でした。こうして中央政府が把握できない人々・地域が増えていったのです。

乾隆帝は新たにジュンガル(新疆)をその版図に加え、チベット、モンゴル、ジュンガルを加えた新たな「中華」を打ち立てますが、同時に柔軟な支配構造は後退し、旧来の華夷秩序がせり出してくるようになります。
乾隆帝は英国の全権大使マカートニーに対して華夷意識を全面に出して臨みますが、これは旧来の互市の概念が後退し、朝貢一元体制が復活してきた現れと言えるのかもしれません。
このように「盛世」を誇った乾隆帝の治世にすでに乱れの徴候は見えており、乾隆帝が大上皇に退いた後の1796年には白蓮教徒の乱が起こっています。反乱を起こした白蓮教は終末到来を説く宗教で、四川や陜西などの山岳地帯の移民の間で広まりました。この反乱に対して清の正規軍である八旗・緑営だけでは鎮圧できず、乱の鎮圧に大きな役割を果たしたのは「団練」と呼ばれる自警団・義勇兵になります。
19世紀になると明らかに清朝は社会の変化についていけなくなります。「漢人社会が巨大化、多様化したのに対し、政府権力は相対的にも絶対的にも縮小し、無力化」(125p)したのです。

そしてアヘン戦争を迎えます。アヘンを持ち込むイギリスとの戦いでしたが、アヘンの密売が禁圧されれば困る中国内の秘密結社などもあり、彼らは外国勢力と内通し「漢奸」と呼ばれました。清朝が把握できなくなった部分が外国と通じるようになったのです。
清はアヘン戦争、アロー戦争に連敗し、賠償金を払って不平等条約を結びます。さらに太平天国の乱が広がり、淮水流域では捻軍が起こります。他にも陜西や甘粛、雲南でムスリムが反乱を起こすなど、未曾有の混乱に見舞われました。
このときに団練を率いて乱の鎮圧に大きな役割を果たしたのが曾国藩です。彼は湖南省で湘軍を組織し、10年以上かかって太平天国を滅ぼすことに成功しました。曾国藩のもとには李鴻章もおり、李鴻章は淮軍を組織して、江南デルタを制圧し、さらに捻軍を降しました。

ここでポイントとなるのは太平天国も湘軍も構成員の出自は似たようなものである点です。さまざまな中間団体を組織して軍がつくり上げられていきました。清朝はこうした中で曾国藩とその部下を各省の総督・巡撫に任命し、大きな権限を与えることで相次ぐ反乱を乗り切ろうとしました。いわゆる「督撫重権」と呼ばれる現象です。
中央政府では西太后が権力を握ります。政治を壟断した印象のある彼女ですが、本書によると皇帝に権力を集中させる体制はすでに不可能になっており、「清朝は自らの力を弱めることで、漢人に対する君臨の延命をはかったともいえる」(140p)と分析されています。

そして清朝の顔となったのが直隷総督・北洋大臣となった李鴻章でした。李は西洋式の軍隊をつくるために、軍需工場やそれに関連する事業を推進し、さまざまな事業を推進しました。保守派と見られる西太后ですが、李のこうした事業を守り、その力を利用したのが西太后でした。
一方、西のムスリムたちの反乱に対処したのは左宗棠でした。一時期はヤークーブ・ベクがカシュガルに独立政権を立て、イリ地方がロシアに占領されますが、左宗棠がこの地域の回収に成功しています。そして、西方でも今までの「因俗而治」が捨てられ「督撫重権」となります。
この時期、清にとって厄介な存在となったのが日本です。明治維新後の日本と清は日清修好条規を結びますが、交渉にあたった李鴻章は「所属の邦土」の相互不可侵の条項を入れて、「属国」を含めた安全保障を図ろうとします。
しかし、日本は台湾出兵を行い、さらにその後、琉球を領土に編入しました。清から見ると「属国」が奪い取られたことになります。そこで同じ「属国」であった朝鮮が焦点となります。日本は朝鮮にも進出を試みますが、壬午軍乱、甲申事変と清が介入し、名実ともに「属国」として介入をはじめました。
甲申事変後の天津条約によってしばらくこの地域は安定しますが、その安定は東学党の乱で破綻し、日清戦争で清が完敗することによって混沌状態となります。

日清戦争敗北後の1898年、光緒帝は康有為らとともに近代化を試みる戊戌変法を行います。ご存知のようにこの動きは西太后によって阻まれ、西太后は義和団の乱において義和団とともに列強に挑んで敗れます。片や改革、片や守旧で正反対の動きに見えますが、著者は「実情に通じない中央が、イニシアティブをとって地方を置き去りにし、あげくに挫折した、というしくみは共通していた」(157p)といいます。
ただし、一方で、「瓜分」と呼ばれる列強の分割にさらされる中、「支那」「支那人」という意識が生まれ、その「支那」に梁啓超によって「中国」という名が与えられます。そして、「中国」としての一体化を目指す動きが出てくるのです。

こうした動きとともに、従来の緩やかな支配から領土主権を意識した動きが出てきます、新疆は新疆省に台湾も台湾省となり、「因俗而治」ではない漢人による統治が始まるのです、チベットにおいてもイギリスのインド政庁が1904年ダライラマ政権との間にラサ条約を結ぶと、清はチベットに対する支配を強め、1910年にラサに侵攻します。
しかし、ここで辛亥革命が起こります。南京で中華民国臨時政府ができると、漢人たちは清朝の支配から離脱していきました。同時にチベットも事実上独立し、モンゴルも独立していきます。清は解体していくのです。ただし、ここで中華民国は漢人だけではなく、満・漢・蒙・回(ムスリム)・蔵(チベット)の五族の統合を掲げます。そして、この語族が統一されて「中華民族」になるというのです。この中華民国による少数民族の抱え込みが現在の中国の民族問題につながっていると言えるかもしれません。
一方、辛亥革命後、中国では地域ごとの分裂がいよいよ激しくなり、各地域ごとに通貨が乱立する「雑種幣制」と呼ばれる状況になります。例えば、満州である東三省では貴金属が乏しく、さまざまな紙幣が発行されるようになりました。これらの紙幣を奉天票という小額紙幣のは拘泥整理したのが張作霖政権であり、この奉天票と外の世界をつないだものが、日本の朝鮮銀行・横浜正金銀行が発行する銀行券でした。このように中国の各地は地域ごとに外国と結びついたのです。
こうした中で蒋介石は幣制改革を推し進めるわけですが、本書ではそれよりも共産党政権が外国との関係を断ち切ったことで人民元による全国一律の管理通貨制が可能になったという点を重視しています。さらに満州事変以降の「日本帝国主義という敵対者の出現と存在を通じて、国民国家の理念と行動の合致・一元化が、ようやく視野に入って」(180p)きました。
こうして一体化した「国民国家」としての中国が誕生したわけですが、上層と下層の二元構造、少数民族の問題などはそのまま抱え込まれています。

このように後半はかなり駆け足ですが、通史を語りながら清の盛衰を分析することで、現在の中国の抱える問題のありかというものを浮き上がらせています。このあたりはさすが著者ならではの分析です。
ただ、最初にも述べたように著者の今までの著作と重なる部分もあり、評価は少し難しいところがあります。個人的な評価としては『近代中国史』のほうが面白かったですが、本書のほうがコンパクトですし、民族問題などへの言及があるぶん、より総合的に中国の近代史を捉えることができると言えるかもしれません。


『日本軍と日本兵』『皇軍兵士の日常生活』(ともに講談社現代新書)などの著作で知られる著者による東條英機の評伝。生い立ちから処刑までを丹念に描いています。今までのイメージを大胆に覆すという形ではないですが、東條の航空戦への見方を詳しく見ることで「精神主義一本槍」的なイメージに関しては多少なりとも修正がなされていますし、父・英教の軍での処遇を詳しくとり上げることで東條のある種の硬直性の背景がうかがえるようになっています。
また、永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一と昭和期の陸軍を動かした人物は何人かいますが、十五年戦争を「完走」した人物というと、やはり東條になるわけで、東條を追うことで日本が長い戦争に突入し、敗北する過程もわかるようになっています。

目次は以下の通り。
第1章 陸軍士官になる
第2章 満洲事変と派閥抗争
第3章 日中戦争と航空戦
第4章 東條内閣と太平洋戦争
第5章 敗勢と航空戦への注力
第6章 敗戦から東京裁判へ

東條英機は1884年に東京で生まれています。父は陸軍軍人である東條英教、陸軍大学校の一期生として首席で卒業し、ドイツへ留学して参謀本部に配属されるという輝かしい経歴の持ち主でした。
しかし、1899年に後ろ盾であった川上操六が死去すると、英教は冷遇されるようになります。1900年、参謀本部第四部長(戦史編纂)だった英教は上司で参謀次長の寺内正毅と対立し、辞職を決意しますが、ここは親友の井口省吾のとりなしでなんとかなりました。しかし、1906年には韓国守備旅団長のポストを得ることになったものの、韓国駐箚軍司令官長谷川好道と衝突し、これを棒に振ります。結局、井口の奔走もむなしく1907年に英教は予備役編入となりました。寺内も長谷川も長州出身であり、英教、そして息子の英機にも長州閥への悪感情が残ったと考えられます。

一方、英機は1892年に学習院初等科3年に編入するもののわずか1年2ヶ月で中退、この背景には「身分」の壁のようなものがあったと推測されます。その後、99年に東京陸軍地方幼年学校に入り、日露戦争の影響もあって05年に繰上げで卒業し歩兵少尉になり、満州に渡っています。
英機は1909年に福岡出身の伊藤勝子と結婚、陸軍大学校の入学を目指します。ところが、翌年の試験には不合格、さらに翌年も不合格となります。落胆した東條を見かねて、小畑敏四郎と永田鉄山が勉強会を開いたこともあったそうです。12年に英機はついに陸大に合格、翌13年に父の英教は死去しました。

1915年、東條英機は陸大を56名中11番の成績で卒業、19年にはドイツ駐在を命じられます。このとき日本陸軍は第一次世界大戦に学ぶべく各国に視察者が派遣されましたが、ドイツへは歩兵科、フランスへは砲兵科が多く派遣されました。
1921年、ドイツのバーデン・バーデンで永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の3人が会合し、陸軍の将来について話し合いました。ここでは長州閥の打破や総力戦体制の構築が話し合われたと言われていますが、ここに東條も声をかけられ参加しました。
帰国後、東條は陸大の兵学教官に就任します。本書では同時期に教官をしていた梅津美治郎との比較が出てきますが、梅津は教官としても上司としても相手に考えさせるように行動したが、東條は教え込むか自分でやってしまうという点があったとのことです。ただし、梅津は記者会見などが嫌いで、大衆性はなかったが、東條にはその大衆性があったといいます(44-46p)。
1928年には陸軍省整備局動員課長となりますが、前任者は永田で、総力戦のために設立された部局でした。29年には東京の歩兵第一連隊長となり、部下をよくいたわり「人情連隊長」とあだ名されたと言われています。同時に食事の米が固さにこだわって指示を出すなど、かなり細かい部分もありました。

永田、小畑、岡村、東條らは27年頃に二葉会と称する中堅将校団体を結成し、同じ頃、鈴木貞一を中心に木曜会も結成されますが、東條はこの木曜会にも顔を出していました。こうした場で、次第に満蒙の領有といったことも語られるようになっていきます。
1929年には二葉会と木曜会が合流して一夕会が誕生します。永田、小畑、岡村、東條に板垣征四郎や石原莞爾、磯谷廉介、田中新一なども加わった顔ぶれで、陸軍人事の刷新や満州問題の「解決」を目指しました。この会合で、東條は長州閥排除は時代錯誤ではないかと問われ、「恨み骨髄に徹する長州人などは真平ごめん」といきり立ったそうです(67p)。東條は陸大の教官時代、長州出身者にはわざと厳しい質問などをしてそうですが、これは父の遺恨の影響という面もあるでしょう。
このころ、永田や東條は宇垣系の人物を排除し、真崎甚三郎らを担ごうとしていました。

1931年、満州事変が起こります。このとき東條は永田の意向を受ける形で石原らに早期撤兵を求めています。
また、このころから永田と小畑の不和が明確になり、いわゆる統制派と皇道派の対立の形となっていきます。東條は永田につき、第一次上海事件では軍の動員をめぐって東條が小畑に怒鳴り込むという一幕も起こりました。
東條は永田とともに総力戦体制の構築を目指しており、国民に防空を説いたり、航空軍備の充実を訴えたりしていました。34年に出たパンフレット『国防の本義とその強化の提唱』についても東條が周囲の反対があっても出すことを主張したといいます。

1934年、永田は陸軍軍務局長となりますが、熱心に永田を推していた東條は陸軍士官学校幹事(教頭)に回され、更に翌35年には久留米の旅団長へと左遷されました。この背景には人事についてさかんに口を出そうとする東條を真崎が嫌ったということもあるようです。
35年、永田が皇道派の相沢三郎に斬殺され、東條の皇道派嫌いは決定的になります。直後、東條は関東憲兵隊司令官として満州に渡りますが、これは永田と同じ運命を辿らせないための林銑十郎陸相の配慮だったともいいます。

東條は満州で憲兵隊を率い、共産勢力の討伐などを熱心に行いました。ここで東條内閣の書記官長ともなる星野直樹とも知り合っています。
1937年には関東軍参謀長に転じ、満州の資源開発や軍需工業の発展にも力を発揮しました。しかし、満州での飛行機や自動車の生産はうまくいきませんでした。
盧溝橋事件が起こると、東條は蒙疆地域への出兵を主張し、自ら兵を率いて中国軍を破っています。日中戦争拡大の中で失脚した石原が関東軍参謀副長として東條の部下になりますが、満州国をめぐる政策で2人の不和は決定的になりました。
38年、東條は陸軍次官となりますが、ここでは日中戦争の早期講和をめざす参謀本部の多田駿参謀次長と対立し、強硬論を主張しました。結局、喧嘩両成敗という形で、同年12月には多田は第三軍司令官、東條は航空総監に転出しています。
陸軍航空総監部の初代総監となった東條は、陸軍の航空部隊の拡張に務めました。学生鳥人大会にも出席して航空総監賞を贈るなど、国民にも航空部隊の存在をアピールしています。
1940年、東條は陸相に就任します。東條は陸相就任にあたって、「おれは次官をやって、水商売は懲りた」(133p)と漏らしており、必ずしも就任に前向きではありませんでしたが、就任後は職務に邁進することになります。

東條の仕事ぶりはカミソリ大臣、電撃陸相と呼ばれるほどで、戦死者の未亡人への就学支援、戦死者遺族の援護などについて矢継ぎ早に行っています。とにかくすぐさまに自ら指示を出し、行動するやり方でした。東條の陸相時代の問題として、「生きて虜囚の辱を受けず」という「戦陣訓」を出したことがありますが、これは39年の板垣陸相時代から準備されていたものであり、東條だけが責任を負うべきものではありません。
陸相に就任した東條が直面した問題は日中戦争の行き詰まりと、第2次世界大戦への対応でした。陸相になってまもなく北部仏印への進駐と日独伊三国同盟の締結がなされますが、これはアメリカの態度を硬化させ、日本はアメリカから経済的に追い詰められていくことになります。
陸軍内部でも北進論と南進論で揺れていましたが、その揺れを表すように41年の7月に北では対ソ戦に向けた関特演、南では南部仏印進駐が行われます。この両作戦を認めたということは東條も北進か南進かに確たる自信はなかったようですが、関特演には17億円ほどかかっており、それを聞いた東條は自らが裁可したにもかかわらず激怒したそうです(158p)。一方の、南部仏印進駐はアメリカの対日石油輸出禁止という予想外の措置を引き起こします。

陸軍としては中国からの撤兵や三国同盟破棄に応じるくらいなら対米開戦もやむなしという態度で臨みますが、対米戦やドイツの勝利に自信があるわけではありませんでした。及川海相から海軍は長期戦が自信がないと聞くと、東條は「九月六日の決定は、政府統帥部の共同責任で決定されたものである。かりに海軍が自信がないというならば考え直さねばならない」(172p)と述べており、海軍が「できない」と明言すれば、陸軍としても対米開戦は決意できないと考えていました。
東條は近衛と10月7日に会談していますが、ここでも東條は中国への駐兵は譲れないとしつつも、天皇の言葉があれば従うつもりだったともみられます(174-175p)。ただし、その後も東條は駐兵問題では譲れないということを繰り返し、結果的に近衛内閣を倒閣へと導いています。

そしてご存知のように東條にお鉢が回ってきます。これによって陸軍は全責任を負わされることになり、それは東條をはじめとする陸軍首脳部の考えではありませんでしたが、東條の性格的に断るという選択肢はなかったと思われます。
天皇からの御前会議の決定の白紙還元の意向を受け、海軍がダメだというなら戦争を避けるという選択肢も東條にあったと思われますが、新しく海相となった嶋田は戦争止むなしと見て、陸軍に対して鉄の割当を要求しました。
こうして退路を絶たれた感のある東條は開戦へ向けて動いていくことになります。東條の運転手を勤めた柄澤好三郎によると首相就任後の東條は引きつったような顔をしていましたが、「一度、宣戦を布告してしまったら、ずっと柔和な顔になりましたね。真珠湾攻撃が成功したという報告を聞いた直後は本当にほがらかな、うれしそうな顔をしていました」(203p)と述べています。他の陸軍の参謀などと同じく、東條にも早く決めて楽になりたいという思いがあったのでしょう。

ただし、開戦によっても東條の不安が完全に消え去ることはありませんでした。42年に軍務局帳の武藤章をスマトラの近衛師団長に転出させたのは、武藤が和平のための新内閣工作を行っていたからだとされていますし、シンガポール攻略を成し遂げた山下奉文を凱旋させずに満州にいかせたのは、それを契機に重臣の間で反東條の機運が高まることを恐れたからだともいいます。
一方、国民に対しては総力戦の指導者たるべく振る舞いました。転廃業者や戦死者遺族など、戦争で人生を狂わされた人を重点的に慰問し、「人情宰相」という面を強調しました。ゴミ箱の視察も自ら行っていますが、東條としてい見れば国民の生活の把握は重要であり、部下任せにはできなかったということなのでしょう。

しかし、戦局は次第に悪化していきます。42年8月からガダルカナルの攻防が始まると、当初は断固戦い抜くことを主張していた東條も、船舶の損傷が激しくなるとともにその方針を転換させていきます。船舶の要求をめぐって田中新一と東條の腹心の佐藤賢了軍務局長は殴り合いを演じ、さらに田中は東條に暴言を吐いて更迭されます。陸相兼任の東條は統帥部の作戦に口出しをすることはできませんでしたが、船舶の割当を使って統帥部をあきらめさせました。
首相兼陸相の東條は、陸軍と海軍、作戦と軍政というさまざまな対立に悩まされることになります。

東條は大東亜省を設置し占領地域の経営に当たろうとしますが、この大東亜省設置にあたって昭和天皇から中国側の面子に配慮せよとの言葉を受けた東條は汪兆銘政権への態度を変化させていきます。日本は租界の返還、共同租界の回収、治外法権の撤廃などについて協議に入ることとし、43年から始まった日華基本条約の改定協議では中国での駐兵権の放棄が盛り込まれました。あれほどこだわった駐兵権を取り下げており、清沢洌は「この事を二ヵ年前に実行すれば日支事変も解決し、大東亜戦争も起こらなかった」(246p)と日記に書いています。
東條はまた、現役の首相として初めて外遊した人物でもありました。43年に満州国、フィリピン、タイ、ジャワなどを訪問しています。11月には大東亜会議も開かれ、精力的に外交を行いますが、どこまでの将来的な見通しを持っていたのかというと疑問も残ります。

東條に対する批判は議会から起こってきました。中野正剛衆議院議員に批判され、その中野を自決に追い込むという事件も起こったように、議会からの批判に東條は強く反発します。
また、東條は航空機の増産に力を入れますが、そのためには資源を運ぶ輸送船が必要であり、作戦のために輸送船を要求する統帥部とも対立します。44年2月にトラック島の海軍航空部隊が壊滅すると、東條は参謀総長兼任の意思を固め、杉山参謀総長に退任を迫り、自ら参謀総長を兼任します。「何でも自分でやらねば気のすまない性格が、行きつくところまで行った」(279p)状況でした。
東條は絶対国防圏を設定するとともに、日本軍の精神力に期待をかけ、44年の3月に特攻が採用されることになります。

しかし、44年6月にはサイパンに米軍が上陸し早くも絶対国防圏は破られます。43年ごろから近衛らによる東條更迭の動きも活発になります。44年7月に木戸幸一から総長兼任の廃止、嶋田海相の更迭、重臣の入閣を求められた東條は、国務大臣の岸信介を辞職させて代わりに米内光政を入閣させようとしますが、岸が辞職を拒否し、米内も入閣を拒否したことから万事休すとなり、東條内閣は倒れました。
東條は陸相留任に意欲を見せますが、結局これも実現せず、自ら希望して予備役編入となりました。
1945年4月に小磯内閣が総辞職したときの重臣会議でも東條は戦争の継続を望んでいました。鈴木貫太郎の名があがると「陸軍がそっぽを向く虞れあり」(327p)と反対しています。聖断が下されたあとの重臣会議でも天皇の決定に従う意思を示しながら、武装解除反対論を述べています。
8月14日には「死を持ってお詫び申しあげる」とのメモを残し、実際に9月11に米軍のMPが逮捕に来た際に自殺を図り失敗します。これは国民の批判を浴び、文学者の杉浦明平は「演じそこないの日本的名君」(340p)と日記に記しています。
東京裁判が始まってからは、戦争が自存自衛のためだったこと、目的は東亜の解放だったことなどを堂々と主張しました。この態度に日本社会の一部は共感し、山田風太郎は「これで東條は永遠に日本人の胸中深く神となった」(360p)と賛辞を書いています。
しかし、その賛辞も一時的なもので東條は死刑判決を受け、48年の12月23日に処刑されました。

このように本書は東條の生涯を丁寧にたどっており、また、同時に昭和期の陸軍の動きもわかるようになっています。誰かが引っ張ったというよりも、皆(もちろん東條もその一人)が口々に強硬論を唱えた結果、ついに開戦にいたってしまった経緯がわかると思います。
また、「庶民派」としての東條の姿を描き出している点も印象深いです。東條の単純でわかりやすいパフォーマンスはインテリには受けませんでしたが、庶民には一定程度受けていました(このあたりは少し小渕首相を思い出しました)。また、数々のポストの兼任は機能不全を生むわけですが、それが「責任を負う」という姿勢にもつながっており、評価された部分も見えていきます。
政治家としての東條を知る上でも面白い本と言えるでしょう。


00年代になってからアフリカの経済成長に注目する論考や記事は増えてきています。アフリカは「最後の市場」だとも言われており、「遅れた」「未開」といったイメージで語るべき存在ではありません。ただ、一方で相変わらず紛争は多発していますし、ASEAN諸国のように安定した成長軌道に乗った感じもしません。
そうしたアフリカ経済に関して、その現状と問題点を教えてくるのがこの本です。スタンスとしてはやや悲観的というか、開発の歪みを指摘する傾向ですが、マリやマダガスカルやアルジェリアなど、新聞などで断片的に問題が報じられるもののまとまった情報を知る機会が少ない地域をとり上げてくれており、現在アフリカで進行中の問題がわかるようになっています。
平野克己『経済大陸アフリカ』(中公新書)のような、目から鱗が落ちるような分析はないですけど、資源や土地をめぐって起きるアフリカの新たな問題を教えてくれる本です。そういった意味で、松本仁一『アフリカ・レポート』(岩波新書)の後継的な本と言えるかもしれません。

目次は以下の通り。
第1章 紛争と開発
第2章 混迷するサヘル
第3章 蹂躙されるマダガスカル
第4章 「資源の呪い」に翻弄されるアルジェリア
第5章 絶望の国のダイヤモンド
第6章 「狩り場」としてのアフリカ農地

本書の35pにウプサラ大学平和紛争研究所によるアフリカの紛争数の推移を示したグラフが載っていますが、これをみると00年代なかばに一度減少した紛争は、近年再び増加傾向にあります。しかも、この紛争のデータは「政府が関与した紛争」のみをカウントしており、アフリカでは武装勢力が非武装の住民を攻撃するような、政府の関与しない形の暴力もしばしば起こっています。
その結果、難民も増え続けており、サハラ以南の難民の数は2017年末時点で627万人と、世界の難民の1/3がこの地域に集中しています。さらに国内避難民もアフリカで1650万人に達すると推定されています(36−37p)。こうした難民の一部はヨーロッパを目指してい移動しており、ヨーロッパへと流れ込む不法移民は年15〜18万人に上り、その中で14〜17年にかけて1万5千人以上が地中海で溺死しています(38−39p)。

アフリカの国の多くは第2次世界大戦後に独立しましたが、冷戦構造の中で、脆弱な支配体制しか持たない国がアメリカまたはソ連に支えられて存続するという状況も存在しました。しかし、冷戦が終結すると、それらの国は支えを失い、「権力の真空」の状態が生まれます。
そうした中で、国際的なテロ組織や、経済的な利益を目的とする武装集団など、今までになかったタイプの紛争のアクターが登場し、アフリカの混乱に拍車をかけました。
そして、こうした紛争はアフリカが国際経済に組み込まれ、資源の眠る大陸として注目されたからこそエスカレートしたとも言えます。武装勢力は手にした資源を簡単に国際市場へと売り、戦闘を継続するための資金を確保できるようになったからです。

第2章では、サヘル(サハラ砂漠南縁)にあたる地域が語られています。主にマリ、ブルキナファソ、ニジェールといった地域が中心ですが、2013年にアルジェリアのガスプラントが襲撃され日本人の犠牲者も出たイナメナス事件についてもとり上げています。
この地域にはトゥアレグと呼ばれる砂漠の民が住んでいてサハラ砂漠を縦断する長距離交易に従事していました。ところが、海運輸送の発達によって砂漠の交易は衰え、この地域に生まれた独立国は農耕可能なエリアを中心に発展し、トゥアレグたちは貧困化・周縁化されていきました。
トゥアレグたちは60年代から政府に抵抗してきましたが、この地域が大きく不安定化したのは2011年のアラブの春でリビアのカダフィ政権の崩壊以降です。

2012年1月にMNLA(アザワド解放民族運動)による武装蜂起が起こると、マリ〜アルジェリアにかけての広い地域を制圧し、4月にはアザワド国の分離独立を宣言します。このときマリの2/3がMNLAの支配下に入っていました。
短期間に勢力を拡大した背景には、カダフィ政権の崩壊とともにリビアにいたトゥアレグ傭兵がリビアから流出した武器を携えて帰国したからです。一方、マリ国軍の兵士は装備どころか食糧も不十分でMNLAの攻勢の前に敗れました。
さらにアルカイーダ系をはじまとするイスラム急進派勢力が加わったことにより、この地域はさらに混乱していきます。当初はMNLAとイスラム急進派が手を組んでいましたが、その後は分裂。イスラム急進派がMNLAを駆逐して、占領地域でのシャリーアの厳格な適用や文化財の破壊行為などをはじめました。その過程で多くの難民や国内避難民が発生しました。

この武装勢力の伸長に対して、マリは旧宗主国のフランスに救援を要請し、要請を受けたフランス軍が13年から「サーバル作戦」を行い、武装勢力を駆逐していきます。
しかし、この一連の流れと連動する動きが見られたのが13年1月のイナメナス事件です。この事件ではアルカイーダ系のAQIM犯行声明を出していますが、事件発生時、彼らはフランス軍のマリ介入を批判する声明を出していました。テロの準備期間から考えてサーバル作戦を止めるためのテロ行為とは考えにくいですが、アルジェリアの石油や天然ガス、あるいはニジェールのウラン、マリの金に対して、フランスをはじめとする欧米の企業がその利益を吸い上げるような構造があり、そうした構造が事件や武装蜂起の背景にあると著者は見ています。
また、この地域が一種の無政府状態になることで、この地域を使った麻薬の密輸もさかんになっています。南米から西アフリカ諸国に運ばれたコカインが、このサヘル地域を通ってヨーロッパに運ばれるというルートがあり、これがイスラム急進派の資金源にもなっています。

第3章はマダガスカルについて。アフリカ大陸の南東に位置する島国でさまざまな珍しい動物がいるということを知っている人は多いでしょうが、その政治や経済の状況が語られる機会は少ないと思います。
マダガスカル島には、まず東南アジアから渡ってきた人が住み着き、その後アフリカ大陸の人々との混血が進みました。19世紀末にフランスの植民地となり1960年に独立しましたが、2015年の1人あたりのGDPは402ドルに過ぎず、しかもその実質的な金額は1960年の独立当時から減少しています(109p図3−2参照)。
00年代はじめ、サファイアの原石、さらにルビーやアレキサンドライトが発見されたことから、イラカカという人口40人余りの集落は一時期は10万人をこえる都市へと発展しました。しかし、一攫千金を夢見てやってきた鉱夫たちは日当約150円ほどで働かされるだけど、大金を手にすることはできずブームは去りました。
マダガスカルには広大な熱帯雨林がありますが、そこでは黒檀、紫檀(ローズウッド)といった高級木材が違法伐採されており、法の抜け穴や政治的混乱を利用しながら輸出が行われていました。

そんな中で政治や経済の改革を掲げて2002年に大統領に就任したのが実業家出身のラヴァルマナナでした。ラヴァルマナナは外資導入による経済成長を目指しましたが、韓国企業やインド企業と手を組んだ大規模農地開発プロジェクトでつまづくことになります。韓国の大宇ロジスティックスとの間には130万ha、インドの23万haの農地開発が合意されましたが、いずれも農民たちの土地を収用するものであり、その契約も農民たちにとって不利なものでした。
これらのプロジェクトは大きな反発を呼び、抗議デモとゼネストにより09年にラヴァルマナナ大統領は国外に脱出します。代わってラジョエリナが大統領となりますが、暴力に政権交代は国際社会から批判を浴び、観光産業、繊維産業は大きな打撃を受け、外国直接投資(FDI)の流入も減少しました。
その後、マダガスカルのレアメタルやチタン鉄鉱を目当てに巨大プロジェクトが動き出していますが、そこで掘り出された富が国民に広く行き渡るかどうかは不透明です。

第4章はアルジェリア。アルジェリアは豊富な石油資源を持ちながら、その政治は安定していません。第2章に出てきたイナメナス事件が起こったのもアルジェリアです。
アルジェリアはアフリカで3番目の産油国であり、天然ガスの産出量はアフリカで最大、世界でも第10位です。しかし、アルジェリアではこの豊富な天然資源が経済発展を阻害している面もあります。いわゆる「資源の呪い」というものです。
埋蔵されている石油を売るだけで国家が運営できるという羨ましい構造に思えますが、豊富な資源は必ずしも経済成長を約束しません。資源部門が発達すると資本や労働力は農業や製造業から資源部門に移ります。さらに資源輸出は通貨高をもたらし、これも農業や製造業の競争力を弱めます。結果として、資源のある国ほど経済成長が難しくなる「資源の呪い」という現象が生まれるのです。

アルジェリアはフランスの直轄地であり、その独立の際には7年半にも及ぶアルジェリア独立戦争が起きました。1962年に停戦協定が成立した後も、フランスは石油の開発権益に関して一定の権利を維持しますが、65年にブーメディエンがクーデターによって大統領の座につくと、地下資源の全面国有化を断行します。
73年のオイルショックによって原油価格が値上がりするとアルジェリアには巨額の資金が流れ込み、ブーメディエンはこの資金を利用して社会主義的な計画経済のもとでの重工業化を進めました。しかし、80年後半になって原油価格が低迷すると、この路線は破綻し、88年には大規模な暴動が起きました。

88年の暴動後、憲法が改正され、91年には複数政党制のもとでの国政選挙が行われます。一党独裁を続けていたFLNには勝算があったと思われますが、選挙では穏健派イスラーム政党イスラーム救済戦線(FIS)が予想を覆して勝利します。
これに対して軍はただちに当時のシャリド大統領を追放して非常事態を宣言、FISに解散命令を出し、構成員をサハラのキャンプに収容しました。この措置を受けて一部の構成員は過激化、イスラーム武装集団(GIA)を設立し、政府との武装闘争を始めます。この闘争の中で、無差別テロや村落の襲撃と殺戮などが行われ、多くの国民が犠牲になりました。

99年にブーフテリカが大統領になると、投降したテロリストに恩赦を与えるなど和解政策をとって治安の安定化に成功します。さらに原油価格の高騰によって経済的な余裕もできました。
しかし、政権が長期化するにつれて政権運営は不透明さを増し、特に2013年に脳梗塞で倒れて以降、ブーフテリカはほとんど人前に出なくなってしまいました。結局、軍や諜報機関が権力を握っており、経済でも原油価格高騰で得た富を公共事業に費やすことしかできませんでした。そうした中で前掲のイナメナス事件なども起きています。

第5章では紛争ダイヤモンドについてですが、主にとり上げられているのは映画『ブラッド・ダイヤモンド』の舞台となったシエラレオネではなく、コンゴ民主共和国になります。
コンゴ民主共和国は元々ベルギー国王レオポルド2世の私有地「コンゴ自由国」として始まり、「自由国」とは名ばかりのひどい支配が行われていました。その後、ベルギーの植民地を経て、1960年に独立、65年にモブツがクーデターを起こして実権を握りますが、このモブツの支配もまたひどいものでした(国名は71年にザイールに変更)。ザイールは銅、そしてダイヤモンドという資源を有していましたが、その資源が生み出す富はモブツとその取り巻きによって浪費されました。
90年代に入るとモブツの支配は動揺し、1996〜97、1998〜2003と2度の内戦が起こります。1度目の内戦は、隣国のルワンダの虐殺事件とそこから流入した難民が引き金になって起こったもので、96年にローラン・カビラ将軍によってモブツ大統領が排除されます。
しかし、カビラがルワンダとウガンダを排除する政策に出たことから、ルワンダとウガンダがコンゴ民主共和国内に侵攻(97年にザイールから改称)、そこにカビラ政権を支持するジンバブエやアンゴラ、ナミビアが介入したことから「アフリカ大戦」とも呼ばれる紛争に発展します。

この内戦を支えたものの1つがダイヤモンドです。カビラ大統領はイスラエルのダイヤモンド会社にダイヤ買付の権利を売り渡して武器を調達し、一方、この時期にはダイヤの産出国ではないはずのルワンダや中央アフリカからのダイヤの輸出が伸びました。武力介入した各国は密かにダイヤを持ち出していたと考えられます。
ダイヤは原始的な手法では採掘が可能で、持ち運びが容易で高価です。そのために小規模な武装勢力でも資金源として利用しやすく、シエラレオネやアンゴラの内戦でもダイヤが武装勢力の資金源となっていました。
こうしたことを防ぐために03年にキンバリー・プロセス認証制度が発足し、紛争ダイヤの取引防止が図られていますが、その効果には不透明なところもあります(241p表5−1のアフリカのダイヤ輸出の表は2000年まででキンバリープロセスの効果は検証できないのが残念)。

第6章はアフリカにおける農地の取得、いわゆる「ランドグラブ(土地収奪)」についてとり上げています。
世界銀行は人口密度が低く、非森林地帯かつ非自然保護区域で農耕可能な地域を「未耕作地」と定義しており、世界には4億4600万haの未耕作地があり、その半分がアフリカ大陸に集中しているといいます(254p)。世界各国や企業はアフリカのこうした未耕作地に目をつけ、食糧価格の高騰などを背景に、次々と大規模な農地開発プロジェクトを打ち出しています。
しかし、未耕作地といっても現地の小農にとっては共同の放牧地だったり、移動耕作のための休閑地だったりします。また、広大な農地を取得するためにその土地の農民が移動を余儀なくされるケースも少なくありません。

本書では、インドのカルトゥリ・グローバル社によるエチオピアでの切り花生産、シエラレオネでのEUのバイオ燃料政策と連動したサトウキビ栽培、日本・モザンビーク・ブラジルの3カ国が推進しているプロサバンナ事業がとり上げられています。
いずれも、机上のプロジェクトとしては優れており、なおかつ日本の農業からは想像もつかないような広大な農地が対象となっているのが特徴です。
例えば、プロサバンナ事業では、日本がブラジルのセラード地帯で進めた農地開発の成功を活かして、同じポルトガル語を公用語とし、同じような緯度にあるモザンビークで大豆やトウモロコシの栽培を行おうとしたものであり、これまでの経験を踏まえた開発にも思えます。
しかし、その開発地域は1100万haという広大なものであり、現地の農民の強い抵抗を受けました。そして本書には書かれていませんが、ついに中止へ向けて動き出したそうです(舩田クラーセンさやか「日本の援助史に残る「失敗」/アフリカ小農が反対する「プロサバンナ事業」中止へ(上)」参照)。

アフリカにはさまざまな資源が眠っていますが、本書を読むと、その資源があるがゆえに現地の人々の生活がないがしろにされやすい構図が見て取れます。本書のトーンは開発に対してやや悲観的すぎるように思える面もありますが、本書のとり上げているさまざまな事例を見ると、「開発」というものがもつ問題点を意識せざるを得ません。
資源に注目するのではなく「最後の市場」という部分に注目した場合はどのように見えるのか? 中国というファクターについての言及が好きないのではないか、といった疑問も残りましたが、現在のアフリカの問題を概観する上で格好の本であることは間違いないと思います。

コンスタンティノープルの都とともにその名前はよく知られているビザンツ帝国。ローマ帝国の分裂に始まり、最終的には1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル奪取まで1000年以上の歴史があります。
そのビザンツ帝国について、7世紀から12世紀までの時代を中心に描いたのがこの本になります。世界史の教科書ではイスラム勢力の台頭、十字軍といった出来事のついでとしてとり上げられることが多いビザンツ帝国ですが、本書を読むとこの地域ならではのダイナミズムといったものも見えてきます。
ただし、史料の制約がある部分も多く、政治史をこえたマクロ的な変動に関しては見えにくい部分もあり、その点、同じ中公新書の小笠原弘幸『オスマン帝国』に比べると、社会構造の変化のようなものは見えにくいかもしれません。

目次は以下の通り。
序章 ビザンツ世界形成への序曲―四~六世紀
第1章 ヘラクレイオス朝の皇帝とビザンツ世界―七世紀
第2章 イコノクラスムと皇妃コンクール―八世紀
第3章 改革者皇帝ニケフォロス一世とテマ制―九世紀
第4章 文人皇帝コンスタンティノス七世と貴族勢力―一〇世紀
第5章 あこがれのメガロポリスと歴史家プセルロス―一一世紀
第6章 戦う皇帝アレクシオス一世と十字軍の到来―一二世紀
終章 ビザンツ世界の残照―一三世紀後半~一五世紀

本書の記述はコンスタンティヌス帝から始まっています。ご存知のようにキリスト教を公認し、ローマ帝国の首都をコンスタンティノープルに遷した人物です。
このコンスタンティヌス帝の前の皇帝ディオクレティアヌス帝から軍人皇帝の時代が終わり、専制君主としての皇帝が登場したと言われています。ただし、ローマが東西の分裂する前の最後の皇帝テオドシウス帝までは、皇帝たちは軍人出身かその子弟であり、戦場を行き来していました。ところがテオドシウス帝の長男にして東ローマを継いだアルカディウス帝から皇帝はコンスタンティノープルから離れなくなります。皇帝と彼を補佐する顧問会議による政治が定着していくのです。
6世紀の歴史に名を刻んだ皇帝がユスティニアヌス帝です。彼は将軍ベリサウスの活躍もあってササン朝との戦いに勝利すると、北アフリカへと領土を広げ、さらにローマも占領し、ローマ帝国の版図を取り戻しました。
ところが、帝国はこの領土を維持することはできませんでした。7世紀になると、この地域は本格的な変化をせまられることになります。

614年にはササン朝によってエルサレムが奪われるなど、ビザンツ帝国の領土は縮小します。このときビザンツの皇帝ヘラクレイオスは捨て身の遠征を行ってササン朝のホスロー2世の軍を破り、エルサレムを取り戻します。
しかし、ちょうどこの頃、アラビア半島ではイスラムが生まれ、急速に勢力を拡大させていきます。636年パレスチナのヤルムーク河畔の戦いでビザンツの軍はイスラムに敗れ、シリア、パレスチナ、エジプトといった地域を失います。アジア側で残された領土は小アジアのみとなりました。

655年にはコンスタンス2世がイスラム艦隊との決戦「帆柱の戦い」で敗北します。コンスタンス2世はその後、西に転じ、ローマを訪問し、シチリア島に腰を落ち着けてそこで暗殺されるという形になります。
つづくコンスタンティノス4世のとき、ビザンツの都・コンスタンティノープルはウマイヤ朝を開いたムアーウィヤの挑戦を受けます。このとき、「ギリシア火」と呼ばれる火炎放射器のような兵器を搭載した船によってビザンツ側はこれを撃退することに成功しました。
ところが、帝国の西側ではブルガリア人が勢力を伸ばし、ビザンツ軍を破ります。この後、ビザンツは東のイスラムと西のブルガリアによって悩まされることとなりました。

一方で、ビザンツ内部の権力争いも外部勢力と結びついて行われるようになりました。コンスタンティノス4世の跡を継いだユスティニアノス2世は、レオンティス将軍のクーデタによって捕らえられ、鼻を削がれ舌を切られた上で追放されましたが、彼はブルガリアにたどり着き、そこでブルガリア人を手引してコンスタンティノープル奪取に成功します。ユスティニアノス2世は皇帝に返り咲いた後、殺害されますが、この後も外部勢力と結びつきながら反乱が繰り返されることになります。

8世紀から9世紀前半は、本書の第2章のタイトルにもなっている「イコノクラスムの時代」だとも言われます。イコノクラスムとはイエス・キリストやマリアの画像であるイコンを破壊する行為であり、この時代にしばしば行われました。
このイコノクラスムが本格化したのは8世紀なかばのコンスタンティノス5世のときになります。コンスタンティノス5世は、特にイコンを作成する修道士たちを目の敵とし、彼らを鞭で打ったり、目を潰したり、殺害したと言われています。
その後も、たびたびイコノクラスムが起こり、最終的にイコンが復活したのは834年になります。

このイコノクラスムが起こった理由として、教科書的な説明としてはヘレニズムとヘブライズムの対立というものがあります。多神教的なヘレニズムと一神教的なヘブライズム、キリスト教ではこの要素が入り混じっていますが、この時代はヘブライズムの宗教イスラムの台頭もあって、キリスト教の中でもヘブライズムが活性化され、ヘレニズム的なイコンは弾圧されたというわけです。
これはよくできた説明ですが、著者はこの説には直接の史料上の裏付けがないと言います(76p)。修道士の財産をねらったものだというヘンリ8世を彷彿とさせる説もありますが、著者はそもそものイコノクラスムが吹き荒れたという話時代が大げさである可能性もあり、この時代を「イコノクラスムの時代」としてくくるのは不適当ではないかと考えています。
むしろ、地方軍団(テマ)が反乱を繰り返した「テマ反乱の時代」だったと著者は述べています(83p)。

本章では「皇妃コンクール」についても検討しています。ビザンツのユニークなエピソードとして知られる皇妃コンクールの実在性に対して、著者は史料の問題(皇妃コンクールが出てくるのは聖人伝などに限られる)から懐疑的です。
ただし、この時代は初の女性皇帝となったエイレネ、ミカエル3世を後見したテオドラなど、女性の活躍が目立った時代でもあり、そうした女性たちが自らの権力を維持するためにコンクールのような形を取りつつ、息子の嫁を選ぶというのはあり得るのではないかと、個人的には思いました。

第3章は、802年に即位し、811年にブルガリアとの戦いで命を落としたニケフォロス1世が中心的にとり上げられています。
かつては「最悪の君主」「暴君の典型」と評価されていたニケフォロス1世ですが、近年ではその評価がガラッと変わりつつあります。彼は財政の立て直しのための大規模な調査を行い、貧困化した小アジアの農民たちをバルカン半島に入植させ、そこから兵士を募りました。
この時期、ビザンツはバルカン半島で勢力を広げており、その勢力拡大と維持のために、小アジアのテマ兵士を入植させたと考えられます。しかし、これらの政策はブルガリアを刺激し、ブルガリアとの軍事衝突が起きます。
そこでニケフォロス1世は大軍を動員してブルガリアに向けて遠征を行います。ブルガリアは驚いて和平を請いますが、ニケフォロスはそれを無視して君主の宮殿を占領しますが、ブルガリア人の奇襲にあってニケフォロスは戦死します。
ニケフォロスは今までのビザンツの皇帝とは違い。ブルガリアを撃退するだけでなく、ブルガリを完全に征服することを考えていたようですが、それは挫折しました。ビザンツはこの後ブルガリアと友好関係を結び、キリスト教の不況などを通じてブルガリアをビザンツ世界に組み込んでいくことになります。

第4章では10世紀を中心とした時代がとり上げられています。867年、マケドニア出身のバシレイオス1世が皇位を簒奪して皇帝となると、しばらく皇位の簒奪がなくなり、この家系から皇帝が輩出されることになります。
皇位は安定しましたが、西ではイスラムによってシチリア島が奪われるなど苦戦が続いていました。そんな中で皇帝となったのがコンスタンティノス7世です。コンスタンティノス7世は幼い頃に即位し、最初は母ゾエの後見を受け、その後は共同皇帝となるロマノス・レカペノスが政治を行いました。
では、なぜコンスタンティノス7世が重要かと言うと、彼が学芸にのめり込み、さまざまな本や記録を残したからです。コンスタンティノス7世は歴史や儀式についての本を残し、多くの文献を集めました。
このことからこの時代を「マケドニア・ルネサンス」と呼んだりもしますが、この「ルネサンス」という言葉はビザンツ史の中で乱立してしまっている状況で、著者はその言葉を使うことに慎重です。

この10世紀末から11世紀はじめにかけて、混乱の中で即位し、帝国の版図を大きく広げたのがバシレイオス2世です。彼は生涯独身を貫き、戦場を駆け回った皇帝でした。貴族の大土地所有を制限し、貧困に陥って租税の払えない者の租税負債を近隣の有力者に負わせるアレレンギオンという制度を導入するなど、有力貴族層の勢力削減を行いました。
そして、ブルガリアとの戦いに執念を燃やし、1014年にストリュモン川付近でブルガリア軍を1万4千名を捕虜にし、100人に1人は片目をそれ以外は両目を潰してブルガリアに送り返したといいます。この結果、1018年に第1次ブルガリア王国は滅亡し、その領土はビザンツ帝国に併合されました。この流れの中でセルビアに加え、カトリックを信奉するクロアチアもビザンツ帝国の属国になりました。

第5章はアイスランドのサガの話から始まっています。その中で、アイスランドの若者はコンスタンティノープルに行き、戦士として活躍して財宝を持って帰ってきます。もちろん、これは創作かもしれませんが、この頃になると北欧やルーシ(ロシア)の人々もビザンツの歴史の中に登場するようになります。
ヴェネツィアの商人やムスリムの商人もコンスタンティノープルにやってくるようになり、帝国は国際色を強めますが、同時に軍事面でもさまざまな外部勢力が入り込むことになります。
バシレイオス2世は帝国の領土をユスティニアヌス帝以来で最大にまで広げました。しかし、1025年にバシレイオス2世が亡くなると、半世紀ほどで国家は存亡の危機に立たされることになります。
この衰退の原因としてあげられるのが、領土の東西への拡大と外部勢力への依存です。この外部勢力とは、具体的にはルーシをはじめとする外国人傭兵、そしてヴェネツィアへの商業特権に付与になります。
バシレイオス2世には子どもがおらず、共同皇帝のコンスタンティノス8世にも息子はいませんでした。そこで娘のゾエに婿を取ることで王朝を継続させようとしましたが、この婿が定まりませんでした。ゾエの夫・ロマノス3世、同じく夫ミカエル4世、ゾエの養子のミカエル5世と即位しますが、ミカエル5世はゾエと対立して最終的には摘眼刑の上で追放されています。
さらにその後ゾエの夫に指名されたコンスタンティノス9世が即位しますが、この頃から帝国の運命は傾き始めます。コンスタンティノス9世は辺境守備についていた軍隊を解散させ、代わりに住民から集めた金で傭兵を雇いましたが、これは各地の軍事反乱を招きました。東からはトルコ人が西からはペチェネグ人が侵入し、帝国の支配は動揺します。
ミサで使用するパンに酵母を入れるか入れないかで対立し、ビザンツ協会がカトリック教会を破門したのもこの時期です。

トルコの脅威は深刻で、1071年のマンツィケルトの戦いでビザンツ軍は大敗、当時の皇帝ロマノス4世が捕虜になり、帝国の小アジア支配は急速に解体へと向かいます。さらに西ではノルマン人ロベール・ギスカールによってイタリアでの最後の拠点バーリが陥落し、ビザンツは東西で大きくその勢力を縮小させました。
この後も、反乱や帝位の簒奪が続きますが、そうした中でトルコに援軍を求めることが当たり前になり、また、戦いも傭兵頼みになっていき、帝国の財政状況は悪化していきました。

そんな中で1081年に即位したのが第6章の主人公ともいえるアレクシオス1世でした。アレクシオス1世はロベール・ギスカールの軍に敗れるものの、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世にはたらきかけ、彼をローマに侵攻させることで教皇に忠誠を誓うロベール・ギスカールをイタリアに釘付けにします。また、ヴェネツィア艦隊の協力も得てロベール・ギスカールの軍を撃退しました。
このアレクシオス1世は十字軍の派遣を要請した人物としても知られています。アレクシオスは小アジア攻略のための傭兵を望んだようですが、教皇のウルバヌス2世は教皇軍の派遣を画策し、これが大々的な十字軍の派遣へとつながっていきます。
十字軍は兵士だけで3万人はいたとされており、彼らは小アジアを進撃し、アンティオキアに攻め寄せました。この攻防戦は長引き、ビザンツ軍は奪取は無理とみて引き返しましたが、十字軍はついにこれを攻略しました。こうしたいきさつもあって十字軍はビザンツにアンティオキアを引き渡すことを拒否し、そして、エルサレムを攻略してエルサレム王国をつくります。

こうした中、アレクシオス1世は、コムネノス家を中心とした支配構造をつくりだし、専制君主としての地位を確立していきます。爵位を新たに整備するとともに、爵位に付随する年金の支払額を減らしていきましたが、その代わりに特定の土地の行政権や徴税権を与える制度をつくりました。しかし、このしくみ(プロノイア)は拡大していくと帝国の支配自体を空洞化させることになります。プロノイアは国土の「切り売り」政策のようなものだったからです。
12世紀後半になると反乱が相次ぐようになり、ついに1204年に第4回十字軍によってコンスタンティノープルは陥落しました。

1261年、ビザンツの勢力がコンスタンティノープルを奪還するものの、もはや帝国とは名ばかりでした。本書ではこのパライオロゴス朝に関して、姻戚関係などを解説しながら簡単にその行く末をたどっています。
かつてはヨーロッパの君主の娘などが皇帝の妻となりましたが、この時代になるとバルカン半島の君主、さらには近隣の領主の娘などが皇帝の妻となっています。これはビザンツ帝国の地位が低下したことを表しています。
そして、1453年にオスマン帝国のメフメト2世によってコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツのその長い歴史に終止符が打たれるのです。

このように波乱万丈のビザンツ帝国の歴史を手堅くまとめた内容になっています。史料の制約などもある中で、入り組んだ歴史を丁寧に追っています。
ただし、通史として「大きな変化」をうまく取り出すことができていない感じもします。史料の制約があるにせよ、帝国の土地や民衆支配のしくみがどのように変化したのかは追いにくいです。また、例えば第5章でタイトルに歴史家プセルロスをあげていますが、そこまでプセルロスの重要性を指摘できていない感もあります。
学説などが丁寧に検討してあって、ビザンツについてある程度本を読んでいる人にはポイントがわかりやすいのかもしれませんが、あまり知識がないとややポイントを掴みづらい構成だと思いました。


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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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