2017年11月
西欧最大のキリスト教思想家とも言われるアウグスティヌス。その名は世界史の教科書にも載っていますし、『告白』、『神の国』といった著作を知っている人も多いと思います。
そんなアウグスティヌスの生涯を、当時の時代背景と主に描いたのがこの本。文献案内や「おわりに」も含めて180ページで、アウグスティヌスの生涯をコンパクトに知ることができます。
目次は以下の通り。
アウグスティヌスはローマ帝国の力が衰えつつある4世紀から5世紀にかけて生きた今から1500年以上前の人物なのですが、自ら前半生に関しては『告白』という本を書いていますし、晩年に93篇232巻におよぶ著作を読みなおし、コメント付きのカタログとして出版しています。しかも、そのカタログに書かれた著作はローマの教皇図書館にすべてが残されているという(v~vi p)、この時代の人としては例外的に資料の豊富な人物です。
アウグスティヌスは354年に、ローマの都市タガステ(現アルジェリアのスーク・アラス)という町で生まれています。平民階級の家で豊かではなかったようですが、父パトリキウスはタガステの名士で市会議員も務めていました。母のモニカもある程度資産を持つ平民階級の出身で、モニカは熱心なキリスト教徒でした。
しかし、アウグスティヌス自身は若い頃からキリスト教の信者だったわけではありませんでした。早くから修辞学の才能を見せていたアウグスティヌスでしたが、「私を喜ばせたのは「愛し愛されることだけでした」」(13p)と回想しているように、恋愛に夢中になり、身分の違いのため結婚はしなかったものの一人の女性との間に子どもも生まれています。
また、当初アウグスティヌスはマニ教に傾倒しました。
マニ教とは、二元論的な教義を持つ宗教で、「光の王国と闇の王国、善と悪の分離・対立・抗争・終結という二元論的な創世神話は、アウグスティヌスの関心を大いに引くものであった」(20p)といいます。また、マニ教は自分たちこそが真のキリスト教徒であるとも主張していました。
その後、アウグスティヌスは30歳のときにミラノの公立修辞学学校の教授の職を得ます。
ここでアウグスティヌスは司教アンブロシウスの説教などを聞き、徐々にキリスト教への関心を深めていきます。そして、ミラノで良家の息女と結婚するために、子どもをもうけた女性との別れを決意するのですが、この別れはアウグスティヌスに大きな苦悩をもたらすことになりました。
新しい伴侶を自分で選んだはずなのに別れの苦悩は消えない、この経験によってアウグスティヌスは「アンブロシウスから教えられた「自分たちが悪をなす原因は自分たちの自由意志(意志の自由選択)にある」という考え方が、身につまされて理解できるようになった」(46p)のです。
この後、新プラトン主義との出会いや様々な逡巡を経て、アウグスティヌスはキリスト教へと回心するのです。
その後、33歳のときに洗礼を受け、ミラノを離れます。アフリカに帰ろうとしたアウグスティヌスでしたが、途中に母のモニカの死や戦乱などがあり、しばらくローマに足止めされることになります。
ここでアウグスティヌスは自分がかつて傾倒したマニ教への論駁書を書いています。マニ教は善悪二元論の考えを持ちますが、アウグスティヌスは「神が善である以上、神が悪をなすということはない......悪人の誰しもが自分の悪しき行いの創始者なのである」(77p)として、悪を闇なる悪のエージェントの仕業とするマニ教の考えを退けました。
アウグスティヌスは34歳のときに故郷のタガステに帰り、37歳のときにヒッポの教会の司祭となります。アウグスティヌスはのちに「アウグスティヌスの修道規則」として知られる規則をつくり、のちの修道院生活の原型をつくり上げていくことになります。
ヒッポの司教となった後、43歳のときにアウグスティヌスは『告白』の執筆に着手します。『告白』は自らの前半生と『創世記』の解釈と人類の未来について書かれた本ですが、記憶(メモリア)や時間の問題などもとり上げられています。
「それが誰かに問われないとき自分はそれを知っていると思う。しかし、問われてそれを説明しようとすると、それが分からないのです」と書くアウグスティヌスの時間についての問題意識はのちにフッサールによってとり上げられました(101p)。
アウグスティヌスは著作を送り出すだけでなく、キリスト教の分派であるドナティスト分派と議論を戦わせたり、各地から寄せられる聖書解釈や教会運営などのについての手紙に返事を書いたり、説教をしたりと、司教としても目立った活躍をしました。
一方、ローマ帝国はこの時期、その衰退が明らかになっていきます。410年にはローマ劫掠が起こり、多くの難民が北アフリカに押し寄せたといいます。
こうした中、アウグスティヌスはアダムの罪はその後の人間には及ばないと考え幼児洗礼を否定するペラギウスと論争を行い(アウグスティヌスにとって「ペラギウスの主張は、人間の弱さに目をつむって自由意志に依り頼み、自力ですべて完全に成し遂げられると考える傲慢な主張以外の何物でもなかった(135p))、『三位一体』、『神の国』といった著作に取り組みます。
『神の国』において、アウグスティヌスは「国」(キィウィタス)について、「国とは何らかの社会的な紐帯で結ばれた人間の集団」であり、その紐帯は「法的合意」と「利益の共有」であると分析しつつ、人間は愛のあり方を通じて、「神の国」と「地上の国」の二種類の集団を形成するといいます(146ー147p)。
アウグスティヌスによれば、「二つの愛が二つの国を造った。すなわち、神を軽蔑するにいたる自己愛が地的な国を造り、他方、自分を軽蔑するにいたる神への愛が天的な国を造ったのである」(147p)とのことなのです。
アウグスティヌスは、ヴァンダル族がアフリカの西からヒッポの街に迫るなか、76歳でその生涯を閉じました。
最初にも述べたとおりに、アウグスティヌスの著作はローマで保存され、のちにルターなどの宗教家だけでなく、デカルトやフッサール、ウィトゲンシュタイン、アーレントといった思想家にも影響を与えました。また、西田幾多郎もたびたびアウグスティヌスに言及しています。
このようにアウグスティヌスの生涯をコンパクトにまとめており、アウグスティヌスに関して詳しく知らなかった自分には勉強になりました。
ただ、一方でもう少しアウグスティヌスの後世への影響を詳しく紹介してもらいたかったとも思います。自由意志の問題にしろ時間の問題にしろ、アウグスティヌスの考えや問題意識が後の思想家にどのような影響を与えたのかについてもっと説明してあると、宗教家としてのアウグスティヌスだけではなく、思想家としてのアウグスティヌスの大きさももっとよくわかったのではないでしょうか。
アウグスティヌス――「心」の哲学者 (岩波新書)
出村 和彦
4004316820
そんなアウグスティヌスの生涯を、当時の時代背景と主に描いたのがこの本。文献案内や「おわりに」も含めて180ページで、アウグスティヌスの生涯をコンパクトに知ることができます。
目次は以下の通り。
第1章 アフリカに生まれて
第2章 遅れてきた青年
第3章 哲学と信仰と
第4章 一致を求めて
第5章 古代の黄昏
終章 危機をくぐり抜けて
アウグスティヌスはローマ帝国の力が衰えつつある4世紀から5世紀にかけて生きた今から1500年以上前の人物なのですが、自ら前半生に関しては『告白』という本を書いていますし、晩年に93篇232巻におよぶ著作を読みなおし、コメント付きのカタログとして出版しています。しかも、そのカタログに書かれた著作はローマの教皇図書館にすべてが残されているという(v~vi p)、この時代の人としては例外的に資料の豊富な人物です。
アウグスティヌスは354年に、ローマの都市タガステ(現アルジェリアのスーク・アラス)という町で生まれています。平民階級の家で豊かではなかったようですが、父パトリキウスはタガステの名士で市会議員も務めていました。母のモニカもある程度資産を持つ平民階級の出身で、モニカは熱心なキリスト教徒でした。
しかし、アウグスティヌス自身は若い頃からキリスト教の信者だったわけではありませんでした。早くから修辞学の才能を見せていたアウグスティヌスでしたが、「私を喜ばせたのは「愛し愛されることだけでした」」(13p)と回想しているように、恋愛に夢中になり、身分の違いのため結婚はしなかったものの一人の女性との間に子どもも生まれています。
また、当初アウグスティヌスはマニ教に傾倒しました。
マニ教とは、二元論的な教義を持つ宗教で、「光の王国と闇の王国、善と悪の分離・対立・抗争・終結という二元論的な創世神話は、アウグスティヌスの関心を大いに引くものであった」(20p)といいます。また、マニ教は自分たちこそが真のキリスト教徒であるとも主張していました。
その後、アウグスティヌスは30歳のときにミラノの公立修辞学学校の教授の職を得ます。
ここでアウグスティヌスは司教アンブロシウスの説教などを聞き、徐々にキリスト教への関心を深めていきます。そして、ミラノで良家の息女と結婚するために、子どもをもうけた女性との別れを決意するのですが、この別れはアウグスティヌスに大きな苦悩をもたらすことになりました。
新しい伴侶を自分で選んだはずなのに別れの苦悩は消えない、この経験によってアウグスティヌスは「アンブロシウスから教えられた「自分たちが悪をなす原因は自分たちの自由意志(意志の自由選択)にある」という考え方が、身につまされて理解できるようになった」(46p)のです。
この後、新プラトン主義との出会いや様々な逡巡を経て、アウグスティヌスはキリスト教へと回心するのです。
その後、33歳のときに洗礼を受け、ミラノを離れます。アフリカに帰ろうとしたアウグスティヌスでしたが、途中に母のモニカの死や戦乱などがあり、しばらくローマに足止めされることになります。
ここでアウグスティヌスは自分がかつて傾倒したマニ教への論駁書を書いています。マニ教は善悪二元論の考えを持ちますが、アウグスティヌスは「神が善である以上、神が悪をなすということはない......悪人の誰しもが自分の悪しき行いの創始者なのである」(77p)として、悪を闇なる悪のエージェントの仕業とするマニ教の考えを退けました。
アウグスティヌスは34歳のときに故郷のタガステに帰り、37歳のときにヒッポの教会の司祭となります。アウグスティヌスはのちに「アウグスティヌスの修道規則」として知られる規則をつくり、のちの修道院生活の原型をつくり上げていくことになります。
ヒッポの司教となった後、43歳のときにアウグスティヌスは『告白』の執筆に着手します。『告白』は自らの前半生と『創世記』の解釈と人類の未来について書かれた本ですが、記憶(メモリア)や時間の問題などもとり上げられています。
「それが誰かに問われないとき自分はそれを知っていると思う。しかし、問われてそれを説明しようとすると、それが分からないのです」と書くアウグスティヌスの時間についての問題意識はのちにフッサールによってとり上げられました(101p)。
アウグスティヌスは著作を送り出すだけでなく、キリスト教の分派であるドナティスト分派と議論を戦わせたり、各地から寄せられる聖書解釈や教会運営などのについての手紙に返事を書いたり、説教をしたりと、司教としても目立った活躍をしました。
一方、ローマ帝国はこの時期、その衰退が明らかになっていきます。410年にはローマ劫掠が起こり、多くの難民が北アフリカに押し寄せたといいます。
こうした中、アウグスティヌスはアダムの罪はその後の人間には及ばないと考え幼児洗礼を否定するペラギウスと論争を行い(アウグスティヌスにとって「ペラギウスの主張は、人間の弱さに目をつむって自由意志に依り頼み、自力ですべて完全に成し遂げられると考える傲慢な主張以外の何物でもなかった(135p))、『三位一体』、『神の国』といった著作に取り組みます。
『神の国』において、アウグスティヌスは「国」(キィウィタス)について、「国とは何らかの社会的な紐帯で結ばれた人間の集団」であり、その紐帯は「法的合意」と「利益の共有」であると分析しつつ、人間は愛のあり方を通じて、「神の国」と「地上の国」の二種類の集団を形成するといいます(146ー147p)。
アウグスティヌスによれば、「二つの愛が二つの国を造った。すなわち、神を軽蔑するにいたる自己愛が地的な国を造り、他方、自分を軽蔑するにいたる神への愛が天的な国を造ったのである」(147p)とのことなのです。
アウグスティヌスは、ヴァンダル族がアフリカの西からヒッポの街に迫るなか、76歳でその生涯を閉じました。
最初にも述べたとおりに、アウグスティヌスの著作はローマで保存され、のちにルターなどの宗教家だけでなく、デカルトやフッサール、ウィトゲンシュタイン、アーレントといった思想家にも影響を与えました。また、西田幾多郎もたびたびアウグスティヌスに言及しています。
このようにアウグスティヌスの生涯をコンパクトにまとめており、アウグスティヌスに関して詳しく知らなかった自分には勉強になりました。
ただ、一方でもう少しアウグスティヌスの後世への影響を詳しく紹介してもらいたかったとも思います。自由意志の問題にしろ時間の問題にしろ、アウグスティヌスの考えや問題意識が後の思想家にどのような影響を与えたのかについてもっと説明してあると、宗教家としてのアウグスティヌスだけではなく、思想家としてのアウグスティヌスの大きさももっとよくわかったのではないでしょうか。
アウグスティヌス――「心」の哲学者 (岩波新書)
出村 和彦
4004316820
- 2017年11月27日22:42
- yamasitayu
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戸籍のない無戸籍児、その存在についてはテレビや新聞などでも報じられることがあるので聞いたことがある人は多いと思います。例えば、出生届を出すと父親が実際の父ではなく、離婚した相手になってしまうために届出ができず、無戸籍になってしまったケースなどです。
著者は、ジャーナリスト、そして衆議院議員などの政治家としてのキャリアも持つ人物なのですが、第4子が無戸籍になってしまっというこの問題の当事者でもあります。
その当事者として経験から始まり、無戸籍が引き起こす問題、戸籍の歴史、サハリンの無戸籍者、二重国籍問題など、この本はかなり幅広く戸籍にまつわる問題を扱っています。やや話が大きくなりすぎている部分もありますが、戸籍という制度と現実のズレを問い直す内容となっています。
目次は以下の通り。
まず、著者の子どもが無戸籍になってしまった経緯ですが、著者は前夫との間に3人の子どもを産んだ後、別居を経て離婚し、その後に現在の夫との間に4人目の子どもができました。
しかし、早産気味で生まれたこともあって離婚成立後265日目に生まれてきてしまいます。民法772条では離婚後300日以内に生まれたことは婚姻中の子どもと見なすという規定があり、これによって著者の子は法律上は前夫の子とされることになってしまったのです。
自宅出産も多かった時代には届出の日をずらすなどしてつじつまを合わせることができましたが、病院出産が中心の現在ではそのようなことはできません。一方、医療の発達などによりかなり早産気味で生まれる子どもも増えています。
結果的に、一度は全く血縁関係のない前夫の籍に入れない限り、子どもは無戸籍ということになってしまいます。
著者は、無戸籍になるケースとして、この1民法772条が壁となっているケース、2ネグレクト・虐待が疑われるケース、3戸籍制度そのものに反対のケース、4身元不明人のケース、5戦争・災害で戸籍が滅失したケース。6天皇および皇族、の6つのケースをあげています(6-7p)。
このうち4の身元不明人とは認知症などで身元不明となり住所や名前を思い出せないケースで、戸籍自体はあると思われます。
このうち、近年問題になることが多いのが1のケースです。著者は現夫を相手どった「認知調停」を起こすことで子どもの無戸籍状態を解消しましたが(著者はこれができるかどうかを法務省の民事局長に確認し、それ以降、この方法を使うことが増えているとのこと(17-19p))、今までは前夫と関わらなければ無戸籍状態を解消できなかったために、DVなどを恐れて戸籍が作れなかった場合も多かったのです。
では、戸籍がないとどんな問題が起こるのか? この本では2017年まで39年間戸籍がない状況で生きてきた男性のことが紹介されています。
バイクの免許を取りに行った16歳のときに自分の戸籍がないことに気づいたこの男性は、保険証がないから病院に行けない、結婚ができない、仕事に必要な資格が取れない、などの不便を被ったといいます(27-32p)。
実は戸籍がなくても住民票があれば健康保険には加入することができ、また、無戸籍で婚姻することも可能ではあるのですが(40-41p)、市役所などの窓口の対応にかかっている部分もあり、スムーズにはいきません。
また、マイナンバーによる身分の確認が職場でも進んでおり、マイナンバーのない無戸籍者が働いていくことは昔に比べて難しくなってきています。
このような無戸籍者の問題をなくしていくためには民法772条の改正か、戸籍制度の抜本的な改革が必要なのですが、2015年の12月に最高裁が女性の再婚禁止期間の100日を超える部分について違憲判決を出した際にも、再婚禁止期間を一種の「ペナルティ」のように捉える考え方が出てきたりしたように、この問題は日本人のある朱の「秩序観」とも結び付いている厄介な問題なのです。
実際、著者は芦屋市役所で「無戸籍になるのは離婚のペナルティだ」と言われたそうです(65p)。
その形骸化が指摘されながら、一方でしぶとく残り続け、ある種の「道徳的価値」にも結びつけられることがある戸籍。第3章ではその歴史を辿っていきます。
日本の戸籍は、大化の改新以降に公地公民制を目指す中で整備されますが、律令制の衰退とともにその事業は放棄されます。
明治維新後、政府は人民の把握の必要性から戸籍の編成を始め、1872年に壬申戸籍がつくられます。ちなみにこの戸籍では女性は実家の氏を使用することとなっています(80p)。また、旧身分や犯罪歴・病歴なども書き込まれているために、現在は非公開となっています(81p)。
戦後、民法が改正され戸籍も家単位のものから夫婦と子どもを単位とするものに変わり、1952年には住民登録制度が開始され住民票の作成が始まります。さらには戸籍の電算化、マイナンバー制度の導入などがあり、戸籍と現実の齟齬、戸籍の意義の希薄化なども進みましたが、抜本的な改革は行われていません。
前に述べたように無戸籍者は民法772条の問題だけから発生するわけではありません。第4章の「消えた戸籍を追って」では、さまざまなアクシデントによって戸籍が消えてしまったケースを紹介しています。
まずは地上戦によって戸籍が焼失してしまった沖縄です。沖縄では戦闘によって最終的に15万件を超える戸籍が滅失したと言われ(104p)、孤児が援護金のために父母ともに亡くなった戸籍に入れられるといったことがあったそうです。占領下の沖縄では戦前の旧制度が使い続けらており、戦後の戸籍にも関わらず「戸主」が記載されたりしていました(108-111p)。
また、1984年の国籍法改正まで日本は子の国籍を父の側からだけ認める父系血統主義をとっていたため、出生地主義をとるアメリカの兵士と日本人の母親の間に生まれた子ども(アメラジアン)はどちらの国の国籍も取れないという問題がありました(114-117p)。
戦争による戸籍の消滅はサハリン(樺太)でも起きています。
サハリンは戦後、ソ連に占領され、そこに暮らしていた多くの日本人が抑留されます。多くの人が日ソ国交回復後の1956〜58年にかけて日本に帰国しますが、このときにソ連人や朝鮮人の妻となった日本人女性など約1000名が帰国を許されませんでした。国籍がなかったからです。
この本では、生きていくために朝鮮人と結婚した女性の苦労が紹介されると同時に、同じように国家の都合で帰国できなかった朝鮮人の中の韓国側出身者の問題も紹介されています。
他にも東日本大震災では南三陸町の戸籍が流され、法務局に送ってあったバックアップで再製されたものの、2011年2月分と3月11日までの39日間の届出書はすべて滅失しました(153p)。
このようなさまざまなアクシデントによって戸籍が失われるケースもあるのです(現在ではバックアップは毎日行われるようになっている)。
第5章では、民進党の蓮舫代表の二重国籍問題をとり上げ、二重国籍の問題と、その解決策が「戸籍の公開」であったということをやや批判的に論じています。著者はこれを機会に二重国籍や戸籍の問題について正面から問題提起をしてほしかったという考えです。
第6章では、戸籍のない天皇・皇族の問題をとり上げ、そこから戸籍にまとわりついている明治的な家族観や秩序観をとり上げています。
戦後の民法改正にも関わらず残った「氏」の問題など、明治的な伝統のしぶとさをいくつかのエピソードを通じて浮き彫りにしようとしていますが、ここはやや話が拡散してしまっている気もします。
このようにこの本は無戸籍者の問題だけでなく、広く戸籍そのものの問題を問うものです。
全体的にややまとめきれていない部分もありますが、沖縄やサハリン、東日本大震災の問題などをとりあげることで、戸籍の問題を、特殊なケースだけではなく、もっと普遍的な問題として光をあてるような内容になっています。
日本の無戸籍者 (岩波新書)
井戸 まさえ
4004316804
著者は、ジャーナリスト、そして衆議院議員などの政治家としてのキャリアも持つ人物なのですが、第4子が無戸籍になってしまっというこの問題の当事者でもあります。
その当事者として経験から始まり、無戸籍が引き起こす問題、戸籍の歴史、サハリンの無戸籍者、二重国籍問題など、この本はかなり幅広く戸籍にまつわる問題を扱っています。やや話が大きくなりすぎている部分もありますが、戸籍という制度と現実のズレを問い直す内容となっています。
目次は以下の通り。
第1章 「無戸籍問題」とは何か
第2章 「法律」という壁
第3章 「戸籍」とは何か
第4章 消えた戸籍を追って
第5章 グローバリゼーションと戸籍
第6章 「戸籍」がなくなる日
まず、著者の子どもが無戸籍になってしまった経緯ですが、著者は前夫との間に3人の子どもを産んだ後、別居を経て離婚し、その後に現在の夫との間に4人目の子どもができました。
しかし、早産気味で生まれたこともあって離婚成立後265日目に生まれてきてしまいます。民法772条では離婚後300日以内に生まれたことは婚姻中の子どもと見なすという規定があり、これによって著者の子は法律上は前夫の子とされることになってしまったのです。
自宅出産も多かった時代には届出の日をずらすなどしてつじつまを合わせることができましたが、病院出産が中心の現在ではそのようなことはできません。一方、医療の発達などによりかなり早産気味で生まれる子どもも増えています。
結果的に、一度は全く血縁関係のない前夫の籍に入れない限り、子どもは無戸籍ということになってしまいます。
著者は、無戸籍になるケースとして、この1民法772条が壁となっているケース、2ネグレクト・虐待が疑われるケース、3戸籍制度そのものに反対のケース、4身元不明人のケース、5戦争・災害で戸籍が滅失したケース。6天皇および皇族、の6つのケースをあげています(6-7p)。
このうち4の身元不明人とは認知症などで身元不明となり住所や名前を思い出せないケースで、戸籍自体はあると思われます。
このうち、近年問題になることが多いのが1のケースです。著者は現夫を相手どった「認知調停」を起こすことで子どもの無戸籍状態を解消しましたが(著者はこれができるかどうかを法務省の民事局長に確認し、それ以降、この方法を使うことが増えているとのこと(17-19p))、今までは前夫と関わらなければ無戸籍状態を解消できなかったために、DVなどを恐れて戸籍が作れなかった場合も多かったのです。
では、戸籍がないとどんな問題が起こるのか? この本では2017年まで39年間戸籍がない状況で生きてきた男性のことが紹介されています。
バイクの免許を取りに行った16歳のときに自分の戸籍がないことに気づいたこの男性は、保険証がないから病院に行けない、結婚ができない、仕事に必要な資格が取れない、などの不便を被ったといいます(27-32p)。
実は戸籍がなくても住民票があれば健康保険には加入することができ、また、無戸籍で婚姻することも可能ではあるのですが(40-41p)、市役所などの窓口の対応にかかっている部分もあり、スムーズにはいきません。
また、マイナンバーによる身分の確認が職場でも進んでおり、マイナンバーのない無戸籍者が働いていくことは昔に比べて難しくなってきています。
このような無戸籍者の問題をなくしていくためには民法772条の改正か、戸籍制度の抜本的な改革が必要なのですが、2015年の12月に最高裁が女性の再婚禁止期間の100日を超える部分について違憲判決を出した際にも、再婚禁止期間を一種の「ペナルティ」のように捉える考え方が出てきたりしたように、この問題は日本人のある朱の「秩序観」とも結び付いている厄介な問題なのです。
実際、著者は芦屋市役所で「無戸籍になるのは離婚のペナルティだ」と言われたそうです(65p)。
その形骸化が指摘されながら、一方でしぶとく残り続け、ある種の「道徳的価値」にも結びつけられることがある戸籍。第3章ではその歴史を辿っていきます。
日本の戸籍は、大化の改新以降に公地公民制を目指す中で整備されますが、律令制の衰退とともにその事業は放棄されます。
明治維新後、政府は人民の把握の必要性から戸籍の編成を始め、1872年に壬申戸籍がつくられます。ちなみにこの戸籍では女性は実家の氏を使用することとなっています(80p)。また、旧身分や犯罪歴・病歴なども書き込まれているために、現在は非公開となっています(81p)。
戦後、民法が改正され戸籍も家単位のものから夫婦と子どもを単位とするものに変わり、1952年には住民登録制度が開始され住民票の作成が始まります。さらには戸籍の電算化、マイナンバー制度の導入などがあり、戸籍と現実の齟齬、戸籍の意義の希薄化なども進みましたが、抜本的な改革は行われていません。
前に述べたように無戸籍者は民法772条の問題だけから発生するわけではありません。第4章の「消えた戸籍を追って」では、さまざまなアクシデントによって戸籍が消えてしまったケースを紹介しています。
まずは地上戦によって戸籍が焼失してしまった沖縄です。沖縄では戦闘によって最終的に15万件を超える戸籍が滅失したと言われ(104p)、孤児が援護金のために父母ともに亡くなった戸籍に入れられるといったことがあったそうです。占領下の沖縄では戦前の旧制度が使い続けらており、戦後の戸籍にも関わらず「戸主」が記載されたりしていました(108-111p)。
また、1984年の国籍法改正まで日本は子の国籍を父の側からだけ認める父系血統主義をとっていたため、出生地主義をとるアメリカの兵士と日本人の母親の間に生まれた子ども(アメラジアン)はどちらの国の国籍も取れないという問題がありました(114-117p)。
戦争による戸籍の消滅はサハリン(樺太)でも起きています。
サハリンは戦後、ソ連に占領され、そこに暮らしていた多くの日本人が抑留されます。多くの人が日ソ国交回復後の1956〜58年にかけて日本に帰国しますが、このときにソ連人や朝鮮人の妻となった日本人女性など約1000名が帰国を許されませんでした。国籍がなかったからです。
この本では、生きていくために朝鮮人と結婚した女性の苦労が紹介されると同時に、同じように国家の都合で帰国できなかった朝鮮人の中の韓国側出身者の問題も紹介されています。
他にも東日本大震災では南三陸町の戸籍が流され、法務局に送ってあったバックアップで再製されたものの、2011年2月分と3月11日までの39日間の届出書はすべて滅失しました(153p)。
このようなさまざまなアクシデントによって戸籍が失われるケースもあるのです(現在ではバックアップは毎日行われるようになっている)。
第5章では、民進党の蓮舫代表の二重国籍問題をとり上げ、二重国籍の問題と、その解決策が「戸籍の公開」であったということをやや批判的に論じています。著者はこれを機会に二重国籍や戸籍の問題について正面から問題提起をしてほしかったという考えです。
第6章では、戸籍のない天皇・皇族の問題をとり上げ、そこから戸籍にまとわりついている明治的な家族観や秩序観をとり上げています。
戦後の民法改正にも関わらず残った「氏」の問題など、明治的な伝統のしぶとさをいくつかのエピソードを通じて浮き彫りにしようとしていますが、ここはやや話が拡散してしまっている気もします。
このようにこの本は無戸籍者の問題だけでなく、広く戸籍そのものの問題を問うものです。
全体的にややまとめきれていない部分もありますが、沖縄やサハリン、東日本大震災の問題などをとりあげることで、戸籍の問題を、特殊なケースだけではなく、もっと普遍的な問題として光をあてるような内容になっています。
日本の無戸籍者 (岩波新書)
井戸 まさえ
4004316804
- 2017年11月21日22:23
- yamasitayu
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フィンランドというと、日本ではまずムーミンを思い起こす人が多いでしょう。他にもマリメッコや進んだ教育のイメージ、あるいは映画『かもめ食堂』など、「平和でのんびりとした北欧の国」といった印象が強いかもしれません。
しかし、フィンランドはスウェーデンとロシアという大国の間で翻弄された地域でもあり、また冷戦時はソ連からのプレッシャーも強く、他国の衛星国となることを指して「フィンランド化」なる言葉も使われました。
そんなフィンランドの歴史を、主に戦間期のフィンランドを研究してきた国際関係学専攻の著者がまとめたのがこの本。特に19世紀以降の歴史については記述は非常に冴えており、面白いです。
目次は以下の通り。
まず、フィンランド人について、「ウラル=アルタイ語族に属するのでアジア系である」との説がありますが、これは俗説で現在は否定されているそうです。
フィンランド人について、遺伝子情報からは他のヨーロッパ人とは異なるという分析もあるそうですが(7p)、そのルーツについてはっきりとしたことはよくわかっていないのが現状です。
フィンランドの歴史にスウェーデンによる植民と支配によって始まっています。
ロシアに存在したノヴゴロド公国からの入植もありましたが、12世紀から13世紀にかけて、スウェーデンによるフィンランドへの十字軍遠征が行われ(3回あったとされるが第1回目はなかったとの説もある)、ノヴゴロドの勢力が駆逐されたことで、フィンランドの南西部はスウェーデンの支配下に入りました。
基本的にフィンランドはスウェーデンに従属しており、行政などもスウェーデン語で行われました。フィンランドのオーボ司教はスウェーデン王の選出に参加できる権利を持つなど、フィンランドはスウェーデンの一地域として基盤も固めていきます。
しかしまた、フィンランドはスウェーデンとロシアの争いの場ともなりました。
15世紀の末と16世紀半ばに、スウェーデンとロシアはフィンランドを主な舞台にして争いました。
17世紀にスウェーデンはグスタヴ2世アードルフ(グスタフ・アドルフ)のもとで勢力を拡大し大国となりますが、1700〜21年まで続いた大北方戦争ではロシアに押され、フィンランドの多くが一時的にロシアの支配下に入ることになります。
そして、ナポレオン戦争の流れの中で行われた1808〜09年のフィンランド戦争によってフィンランドはロシアの統治下に入ります。
この時期は「ロシアの圧政に苦しんでいた」と思われがちですが、ロシアが自治を厳しく制限したのは1890年代からであり、著者は「ロシア帝国統治時代にこそ、フィンランド人が自らのアイデンティティを模索することができたと見る」(55p)と書いています。
フィンランドは「大公国」として一定の自治を保障され、フィンランド総督のもとにスウェーデン統治時代からの身分制議会とともにセナーッティ(大公評議会、元老院などと訳される)が設けられました。貴族、平民出身のフィンランド人14人のメンバーが中心となり、フィンランドの行政を仕切りました(57-58p)。
特に1850〜70年代にかけてはロシア皇帝アレクサンドル2世のもとフィンランドでも自由化が進みました。今でもヘルシンキ中心部にはアレクサンドル2世の銅像が立っています(65p)。
しかし、1890年頃から「ロシア化」政策が進み、ニコライ2世の治世になると本格化していきます。
1899年にはフィンランドに関する法律はロシアで制定できるとする二月宣言が出され、1900年には言語宣言が発布されフィンランドの行政語としてロシア語を導入することが決まります。
こうしたロシアの動きに対し「アクティヴィスティ」と呼ばれる積極的抵抗派も生まれ、日露戦争時に明石元二郎はこれらのグループと接触を持っています。
1905年10月末〜11月にかけてフィンランドでは二月宣言の撤回を目指した大ストライキが起こります。日露戦争に敗北したロシア側はこの要求を飲み、1906年に議会法が制定されます。
身分制議会が廃止され普通選挙による議会が誕生するのですが、ここで女性の選挙権(世界で3番目)のみならず、女性の被選挙権(世界初)も認めたところが(93p)、フィンランドの思い切った部分と言えるでしょう。
その後、1909年頃から再び「ロシア化」政策が行われ、自治が制限されていくことになりますが、第一次世界大戦とロシア革命がフィンランドの運命を変えました。
第一次世界大戦時、ロシアはフィンランドを「防波堤」にするために要塞などを築きますが、一方、フィンランド人の中からはフィンランド独立を目指してドイツで軍事訓練を行う者も出てきます。
そうした中、1917年にロシア革命が起こるとフィンランドは独立に向けて動き、1917年12月6日にロシアからの独立を宣言します。
この独立をボリシェヴィキ政権も認めることになるのですが、なぜ独立を認めたのかということについて、著者はボリシェヴィキの綱領に民族自決が謳われていたこと、フィンランドでも革命が起こるとレーニンが考えていたことをあげています(103p)。
独立を果たしたフィンランドでしたが、資本家と労働者の対立が強まり、前者が白衛隊、後者が赤衛隊という自警団を結成し、ついには内戦が発生します。
ソ連から援助を受けた赤衛隊に対し、政府は白衛隊を政府軍と宣言し、指揮官にカール・グスタヴ・マンネルヘイムを迎えます。マンネルヘイムは日露戦争や第一次世界大戦ではロシア兵として従軍した軍人で、この後もフィンランドの危機を幾度か救うことになります。
マンネルヘイムによる指揮と、ドイツ軍の参加によって内戦は白衛隊の勝利に終わります。しかし、この内戦のさなかに両陣営による虐殺も起こり、フィンランド社会に影を落とすことになりました。
独立したフィンランドでは、当初は君主制が目指され、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の親戚であるヘッセン公フリードリヒ・カールを迎えることが決まりますが、ドイツの敗戦で挫折。共和制の国となります。
フィンランドでは大統領に強い権限が与えられ、拒否権だけではなく、議会の選挙結果にかかわらず首相を任命する権利も持っていました(117p)。
戦間期は欧州各国でファシズムの嵐が吹き荒れた時代でしたが、フィンランドも無縁ではありませんでした。
ソ連の支配するところとなったカレリア地方の併合を目指す「大フィンランド」建国を目指すカレリア学徒隊、女性奉仕団体ロッタ・スヴァルドなどの組織が生まれ、フィンランド語を国家の第一言語に据える純正フィンランド性運動が起こります。この運動ではスウェーデン風の姓をフィンランド風に改姓するキャンペーンも起きています。また、禁酒法も制定されました(1919〜32年まで)。
さらに世界恐慌語にはイタリアのムッソリーニに影響を受けた反共運動であるラプア運動も起こります。
ラプア運動は1930年に「農民の行進」と呼ばれる大規模な反共デモを行い力を示しますが、運動の過激化によって大衆の支持を失い、1932年のマンツァラ蜂起が失敗したことで運動は終息していきます。その後、フィンランドでは揺り戻しが起き、ヒトラーが首相になる(1933年)前に民主主義は安定するのです。
1939年、第2次世界大戦が勃発しますが、この大戦の間にフィンランドは2度、ソ連と戦火を交えることになります。1939年11月〜40年3月までの「冬戦争」と、41年6月〜44年9月までの「継続戦争」です。
以前は、フィンランドには戦争をする意思がなく巻き込まれたという解釈が一般的でしたが、近年の研究では「継続戦争」においてフィンランド側に領土拡張の意図があったことが明らかになっています(145p)。
ソ連は1939年にドイツとの間に不可侵条約を結びますが、ドイツへの警戒心は強く、フィンランドに防衛地帯を構築することが必要不可欠と見ていました(地図を見ればわかりますがフィンランドとレニングラード(サンクトペテルブルク)は目と鼻の先)。
ソ連はフィンランド領内の一部租借や国境線の引き直しを求めますが、フィンランド側は拒否。ここに「冬戦争」が始まります。
戦力的には圧倒的に不利なフィンランドでしたが、ここで「冬戦争の驚異」と呼ばれるほどフィンランドは善戦します。
その理由として、ソ連軍が1ヶ月以内にフィンランドを占領する計画を立てており冬の装備が十分でなかったこと、マンネルヘイムを中心としたフィンランド軍の周到な準備や伝説の狙撃手シモ・ヘイヘの活躍、スキー部隊などを使って地の利を活かしたことなどがあげられています(155ー158p)。
1940年3月の講和条約でフィンランドは領土や軍事基地をソ連に貸与し、賠償金の要求も受け入れますが、この時期にソ連に併合されたバルト三国とは違い、フィンランドは独立を維持したのです。
しかし、今度はドイツが軍の領内通過を求め、さらにはバルバロッサ作戦への参加を求めてきます。
バルバロッサ作戦が始まるとフィンランドは中立を宣言しますが、ドイツ軍がフィンランド領内からソ連を攻撃したことが明白だったため、ソ連はフィンランドを空爆。これに応える形でフィンランドは1941年6月にソ連に対して戦線を布告します。
形としては「巻き込まれた」戦争ですが、フィンランドには「大フィンランド」実現の野望もあり、占領したカレリア地域では「同化」政策が行われました。一方、ドイツから要請されたカレリア地峡からのレニングラード攻撃は拒否するなど、完全に枢軸側に入ることはしませんでした(164ー167p)。
その後、ドイツがスターリングラードで敗北し形勢が逆転すると、フィンランドはソ連との講和を模索します。そして大統領に就任したマンネルヘイムのもとで1944年9月に何とか停戦にこぎつけました。
フィンランドは再び領土を割譲し、賠償金を支払い、ソ連の海軍基地の建設も認めます。さらには戦争責任裁判も行いました。
1948年にはソ連との間に友好・協力・相互援助条約が結ばれますが、ここでもフィンランドは前文に「大国間の利害紛争の外に留まりたいというフィンランドの願望を考慮し」という一文を入れ込み、第2条では軍事的驚異に直面した場合に相互で協議するという文言を入れました。これは他の東欧諸国が結んだ条約にはなかったもので、フィンランドがある程度中立的な立場を取ることができた大きな要因となりました(190〜193p)。
そして、冷戦期の難しい国際情勢の中、フィンランドを率いたのが1956〜81年まで大統領を4期26年務めたウルホ・ケッコネンでした。
ケッコネンはソ連の干渉を利用して議会を解散させるなど、その強引な手法が批判されもしましたが、一方でソ連の圧力を巧みに交わしてフィンランドの自律性を守りました。ケッコネンは特にフルシチョフと個人的なパイプを築き、「サウナ外交」と呼ばれる親密な外交を繰り広げました。
こうして親ソ路線を取りつつも、東側陣営には完全には取り込まれない中で、ノキアやマリメッコといった企業やブランドも育っていくのです。
ソ連の崩壊は、フィンランドをソ連の圧力から開放しましたが、第2位の貿易相手国の経済混乱はフィンランドに経済危機をもたらしました。
1991〜93年の間不況が続き、失業率は20%をこえ、「党の資金を増やすために、資金の大部分を不動産に投資していた共産党も、1992年に破産宣告する事態となった」(235p)そうです。
そこでフィンランドはEUに加盟し、EU重視の路線を打ち出すとともに、1999年には憲法改正を行って大統領権限を縮小するとともに、教育の権利を保障しました。
その後、国の経済を支えてきたノキアの凋落や、反EU・反移民政党の台頭など、さまざまな問題が出現していますが、他の東欧諸国に比べるとおおむね順調に行っているといえるでしょう。
以上、長々と紹介していきましたが、この本では、大国の都合に振り回されながら、したたかに独自性を貫いたフィンランドの歴史が読み応えたっぷりに描かれています。
コラムなどではムーミンやサンタクロースへの言及もありますし、何と言ってもフィンランドを取り巻く国際情勢と、それにフィンランドがどう立ち向かったかということが面白く書かれている本です。
物語 フィンランドの歴史 - 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年 (中公新書)
石野 裕子
4121024567
しかし、フィンランドはスウェーデンとロシアという大国の間で翻弄された地域でもあり、また冷戦時はソ連からのプレッシャーも強く、他国の衛星国となることを指して「フィンランド化」なる言葉も使われました。
そんなフィンランドの歴史を、主に戦間期のフィンランドを研究してきた国際関係学専攻の著者がまとめたのがこの本。特に19世紀以降の歴史については記述は非常に冴えており、面白いです。
目次は以下の通り。
序章 フィンランド人の起源―「アジア系」という神話
第1章 スウェーデン王国の辺境―13世紀~19世紀初頭
第2章 ロシア帝国下の「大公国」―19世紀~第一次世界大戦
第3章 揺れる独立国家フィンランド―内戦~1930年代
第4章 二度の対ソ連戦争―第二次世界大戦下、揺れる小国
第5章 苦境下の「中立国」という選択―休戦~東西冷戦期
第6章 西ヨーロッパへの「接近」―ソ連崩壊~21世紀
終章 21世紀、フィンランドという価値
まず、フィンランド人について、「ウラル=アルタイ語族に属するのでアジア系である」との説がありますが、これは俗説で現在は否定されているそうです。
フィンランド人について、遺伝子情報からは他のヨーロッパ人とは異なるという分析もあるそうですが(7p)、そのルーツについてはっきりとしたことはよくわかっていないのが現状です。
フィンランドの歴史にスウェーデンによる植民と支配によって始まっています。
ロシアに存在したノヴゴロド公国からの入植もありましたが、12世紀から13世紀にかけて、スウェーデンによるフィンランドへの十字軍遠征が行われ(3回あったとされるが第1回目はなかったとの説もある)、ノヴゴロドの勢力が駆逐されたことで、フィンランドの南西部はスウェーデンの支配下に入りました。
基本的にフィンランドはスウェーデンに従属しており、行政などもスウェーデン語で行われました。フィンランドのオーボ司教はスウェーデン王の選出に参加できる権利を持つなど、フィンランドはスウェーデンの一地域として基盤も固めていきます。
しかしまた、フィンランドはスウェーデンとロシアの争いの場ともなりました。
15世紀の末と16世紀半ばに、スウェーデンとロシアはフィンランドを主な舞台にして争いました。
17世紀にスウェーデンはグスタヴ2世アードルフ(グスタフ・アドルフ)のもとで勢力を拡大し大国となりますが、1700〜21年まで続いた大北方戦争ではロシアに押され、フィンランドの多くが一時的にロシアの支配下に入ることになります。
そして、ナポレオン戦争の流れの中で行われた1808〜09年のフィンランド戦争によってフィンランドはロシアの統治下に入ります。
この時期は「ロシアの圧政に苦しんでいた」と思われがちですが、ロシアが自治を厳しく制限したのは1890年代からであり、著者は「ロシア帝国統治時代にこそ、フィンランド人が自らのアイデンティティを模索することができたと見る」(55p)と書いています。
フィンランドは「大公国」として一定の自治を保障され、フィンランド総督のもとにスウェーデン統治時代からの身分制議会とともにセナーッティ(大公評議会、元老院などと訳される)が設けられました。貴族、平民出身のフィンランド人14人のメンバーが中心となり、フィンランドの行政を仕切りました(57-58p)。
特に1850〜70年代にかけてはロシア皇帝アレクサンドル2世のもとフィンランドでも自由化が進みました。今でもヘルシンキ中心部にはアレクサンドル2世の銅像が立っています(65p)。
しかし、1890年頃から「ロシア化」政策が進み、ニコライ2世の治世になると本格化していきます。
1899年にはフィンランドに関する法律はロシアで制定できるとする二月宣言が出され、1900年には言語宣言が発布されフィンランドの行政語としてロシア語を導入することが決まります。
こうしたロシアの動きに対し「アクティヴィスティ」と呼ばれる積極的抵抗派も生まれ、日露戦争時に明石元二郎はこれらのグループと接触を持っています。
1905年10月末〜11月にかけてフィンランドでは二月宣言の撤回を目指した大ストライキが起こります。日露戦争に敗北したロシア側はこの要求を飲み、1906年に議会法が制定されます。
身分制議会が廃止され普通選挙による議会が誕生するのですが、ここで女性の選挙権(世界で3番目)のみならず、女性の被選挙権(世界初)も認めたところが(93p)、フィンランドの思い切った部分と言えるでしょう。
その後、1909年頃から再び「ロシア化」政策が行われ、自治が制限されていくことになりますが、第一次世界大戦とロシア革命がフィンランドの運命を変えました。
第一次世界大戦時、ロシアはフィンランドを「防波堤」にするために要塞などを築きますが、一方、フィンランド人の中からはフィンランド独立を目指してドイツで軍事訓練を行う者も出てきます。
そうした中、1917年にロシア革命が起こるとフィンランドは独立に向けて動き、1917年12月6日にロシアからの独立を宣言します。
この独立をボリシェヴィキ政権も認めることになるのですが、なぜ独立を認めたのかということについて、著者はボリシェヴィキの綱領に民族自決が謳われていたこと、フィンランドでも革命が起こるとレーニンが考えていたことをあげています(103p)。
独立を果たしたフィンランドでしたが、資本家と労働者の対立が強まり、前者が白衛隊、後者が赤衛隊という自警団を結成し、ついには内戦が発生します。
ソ連から援助を受けた赤衛隊に対し、政府は白衛隊を政府軍と宣言し、指揮官にカール・グスタヴ・マンネルヘイムを迎えます。マンネルヘイムは日露戦争や第一次世界大戦ではロシア兵として従軍した軍人で、この後もフィンランドの危機を幾度か救うことになります。
マンネルヘイムによる指揮と、ドイツ軍の参加によって内戦は白衛隊の勝利に終わります。しかし、この内戦のさなかに両陣営による虐殺も起こり、フィンランド社会に影を落とすことになりました。
独立したフィンランドでは、当初は君主制が目指され、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の親戚であるヘッセン公フリードリヒ・カールを迎えることが決まりますが、ドイツの敗戦で挫折。共和制の国となります。
フィンランドでは大統領に強い権限が与えられ、拒否権だけではなく、議会の選挙結果にかかわらず首相を任命する権利も持っていました(117p)。
戦間期は欧州各国でファシズムの嵐が吹き荒れた時代でしたが、フィンランドも無縁ではありませんでした。
ソ連の支配するところとなったカレリア地方の併合を目指す「大フィンランド」建国を目指すカレリア学徒隊、女性奉仕団体ロッタ・スヴァルドなどの組織が生まれ、フィンランド語を国家の第一言語に据える純正フィンランド性運動が起こります。この運動ではスウェーデン風の姓をフィンランド風に改姓するキャンペーンも起きています。また、禁酒法も制定されました(1919〜32年まで)。
さらに世界恐慌語にはイタリアのムッソリーニに影響を受けた反共運動であるラプア運動も起こります。
ラプア運動は1930年に「農民の行進」と呼ばれる大規模な反共デモを行い力を示しますが、運動の過激化によって大衆の支持を失い、1932年のマンツァラ蜂起が失敗したことで運動は終息していきます。その後、フィンランドでは揺り戻しが起き、ヒトラーが首相になる(1933年)前に民主主義は安定するのです。
1939年、第2次世界大戦が勃発しますが、この大戦の間にフィンランドは2度、ソ連と戦火を交えることになります。1939年11月〜40年3月までの「冬戦争」と、41年6月〜44年9月までの「継続戦争」です。
以前は、フィンランドには戦争をする意思がなく巻き込まれたという解釈が一般的でしたが、近年の研究では「継続戦争」においてフィンランド側に領土拡張の意図があったことが明らかになっています(145p)。
ソ連は1939年にドイツとの間に不可侵条約を結びますが、ドイツへの警戒心は強く、フィンランドに防衛地帯を構築することが必要不可欠と見ていました(地図を見ればわかりますがフィンランドとレニングラード(サンクトペテルブルク)は目と鼻の先)。
ソ連はフィンランド領内の一部租借や国境線の引き直しを求めますが、フィンランド側は拒否。ここに「冬戦争」が始まります。
戦力的には圧倒的に不利なフィンランドでしたが、ここで「冬戦争の驚異」と呼ばれるほどフィンランドは善戦します。
その理由として、ソ連軍が1ヶ月以内にフィンランドを占領する計画を立てており冬の装備が十分でなかったこと、マンネルヘイムを中心としたフィンランド軍の周到な準備や伝説の狙撃手シモ・ヘイヘの活躍、スキー部隊などを使って地の利を活かしたことなどがあげられています(155ー158p)。
1940年3月の講和条約でフィンランドは領土や軍事基地をソ連に貸与し、賠償金の要求も受け入れますが、この時期にソ連に併合されたバルト三国とは違い、フィンランドは独立を維持したのです。
しかし、今度はドイツが軍の領内通過を求め、さらにはバルバロッサ作戦への参加を求めてきます。
バルバロッサ作戦が始まるとフィンランドは中立を宣言しますが、ドイツ軍がフィンランド領内からソ連を攻撃したことが明白だったため、ソ連はフィンランドを空爆。これに応える形でフィンランドは1941年6月にソ連に対して戦線を布告します。
形としては「巻き込まれた」戦争ですが、フィンランドには「大フィンランド」実現の野望もあり、占領したカレリア地域では「同化」政策が行われました。一方、ドイツから要請されたカレリア地峡からのレニングラード攻撃は拒否するなど、完全に枢軸側に入ることはしませんでした(164ー167p)。
その後、ドイツがスターリングラードで敗北し形勢が逆転すると、フィンランドはソ連との講和を模索します。そして大統領に就任したマンネルヘイムのもとで1944年9月に何とか停戦にこぎつけました。
フィンランドは再び領土を割譲し、賠償金を支払い、ソ連の海軍基地の建設も認めます。さらには戦争責任裁判も行いました。
1948年にはソ連との間に友好・協力・相互援助条約が結ばれますが、ここでもフィンランドは前文に「大国間の利害紛争の外に留まりたいというフィンランドの願望を考慮し」という一文を入れ込み、第2条では軍事的驚異に直面した場合に相互で協議するという文言を入れました。これは他の東欧諸国が結んだ条約にはなかったもので、フィンランドがある程度中立的な立場を取ることができた大きな要因となりました(190〜193p)。
そして、冷戦期の難しい国際情勢の中、フィンランドを率いたのが1956〜81年まで大統領を4期26年務めたウルホ・ケッコネンでした。
ケッコネンはソ連の干渉を利用して議会を解散させるなど、その強引な手法が批判されもしましたが、一方でソ連の圧力を巧みに交わしてフィンランドの自律性を守りました。ケッコネンは特にフルシチョフと個人的なパイプを築き、「サウナ外交」と呼ばれる親密な外交を繰り広げました。
こうして親ソ路線を取りつつも、東側陣営には完全には取り込まれない中で、ノキアやマリメッコといった企業やブランドも育っていくのです。
ソ連の崩壊は、フィンランドをソ連の圧力から開放しましたが、第2位の貿易相手国の経済混乱はフィンランドに経済危機をもたらしました。
1991〜93年の間不況が続き、失業率は20%をこえ、「党の資金を増やすために、資金の大部分を不動産に投資していた共産党も、1992年に破産宣告する事態となった」(235p)そうです。
そこでフィンランドはEUに加盟し、EU重視の路線を打ち出すとともに、1999年には憲法改正を行って大統領権限を縮小するとともに、教育の権利を保障しました。
その後、国の経済を支えてきたノキアの凋落や、反EU・反移民政党の台頭など、さまざまな問題が出現していますが、他の東欧諸国に比べるとおおむね順調に行っているといえるでしょう。
以上、長々と紹介していきましたが、この本では、大国の都合に振り回されながら、したたかに独自性を貫いたフィンランドの歴史が読み応えたっぷりに描かれています。
コラムなどではムーミンやサンタクロースへの言及もありますし、何と言ってもフィンランドを取り巻く国際情勢と、それにフィンランドがどう立ち向かったかということが面白く書かれている本です。
物語 フィンランドの歴史 - 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年 (中公新書)
石野 裕子
4121024567
- 2017年11月15日23:09
- yamasitayu
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副題は「地べたから見たイギリスEU離脱」。イギリス人と結婚し、イギリスのブライトンに住みながら、保育士兼ライターとして活躍する著者がイギリスのEU離脱とその背景をリポート、分析した本。
著者に関してはネットの記事などでご存じの方も多いでしょうが、この本でもイギリスの労働者階級の只中で暮らしながら、彼らがどのような考えをもってEU離脱に賛成したのかということを的確に伝えています。
後半の第III部に関しては、著者が本などを読んで勉強したことがまとめてある感じでやや面白さは落ちるのですが、前半は金成隆一『ルポ トランプ王国』(岩波新書)に通じる面白さがありますね。
目次は以下の通り。
まずこの本は、いわゆる「ポピュリズム現象」を代表するとされているブレグジットとトランプの勝利の違いを指摘するところから始まります。
貧しい労働者階級の支持を受けたとされるトランプですが、データをみると支持の割合は富裕層のほうが高く、25pの表を見ると年収5万ドル以上はトランプ支持、5万ドル以下はクリントン支持という構図が見えてきます。
一方、EU離脱の国民投票において残留を支持したのはアッパー・ミドルクラスや、ドルクラス、離脱を支持したのが高スキル労働者のカテゴリーや、中スキルまたは無スキル労働者、失業者のカテゴリーであり、低所得者ほど離脱に賛成という構図がはっきりしています(もっとも示されているのは階級カテゴリーで実際の年収はわからない)。
また、トランプといえば「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」なわけですが、イギリスの労働者にイギリスを再び「グレイト」にしようという考えはなかったのではないかと著者は見ています(31p)。
大英帝国への郷愁や、移民に対するレイシズムではなく、まず何よりもキャメロン政権の緊縮政策に対する労働者階級の怒りであったというのが著者の見立てです。
確かに、EU離脱の国民投票において人々の最大の関心事は「移民問題」だったのですが、2番目に人々があげたのがNHS(医療制度)の問題です(45p)。「EUを離脱すればNHSにもっと資金を投入できる」という主張が人々の心を捉えたのです。
金融危機後の2010年に政権を獲得したキャメロン首相とオズボーン蔵相は、2014年までに総額810億ポンド(約12兆円)の歳出削減を掲げ、さまざまな公共サービスを削っていきました。
こうした緊縮政策への反発は、ヨーロッパの他の国、例えばスペインやギリシャでも起こっており、この「反緊縮」はEU離脱の国民投票だけでなく、2017年の総選挙における予想外の労働党の善戦にもつながったというのです。
他にも第I部の最後では、実在する2つの家庭の母親を入れ替えるリアリティー番組『ワイフ・スワップ』の「ブレグジット・スペシャル」を紹介しています。これは離脱派の母親が残留派の家庭へ、残留派の母親が離脱派の家庭に行って1週間生活するという、いかにもイギリス的な、趣味が悪い番組ではあるのですが、離脱派と残留派の違いを端的に示していて面白いです。
第II部は、著者の知り合いで離脱に賛成した人々へのインタビューから始まるのですが、ここがこの本の一番面白いところです。
例えば、配送のドライバーなどをしているサイモンは移民に関して次のように語っています。
ここにレイシズムとは違う「反移民」のロジックが現れています。
他にもタイ人の妻がいる塗装工のジェフはEU離脱がギャンブルだと認めた上で次のように述べています。
ちなみにこのジェフに関しては、自分の配偶者にはいろいろな手続が必要なのに、EU域内というだけでイギリスと何もかかわりのない人がやすやすと入ってくることにも不満を覚えています。
さらにNHSに勤務していたローラは、移民の同僚に対して次のように話しています。
こうした話を聞くと、著者は最初に否定していましたが、金成隆一『ルポ トランプ王国』で紹介されているトランプ支持者たちと共通する面もあると思います。また、ブレアの時代は好景気でよかったと懐かしむ話も出てくるのですが、ここもトランプ支持者におけるビル・クリントンの意外な人気と重なる面があります。
第II部の後半はジャスティン・ジェストの「ニューマイノリティ」という考えを紹介しています。
この「ニューマイノリティ」というのは白人労働者階級の人々のことです。白人に「マイノリティ」という言葉を使うことについては反発もあるそうですが、今、白人労働者階級はさまざまな面で無力感を深めているといいます。
そして、「有権者として連帯しようとしたとしても、彼らには旗印にできるアイデンティティが欠如している」(130p)のです。このあたりが今までの「マイノリティ」とは違っている部分になります。
また、イギリスとアメリカの労働者の世界観の比較も行われていますが、それによるとアメリカが金持ちかそうでないかというヒエラルキーを想定しているのに対して、イギリスでいまだに貴族などの階級のヒエラルキーが残っており、さらにそこに移民が労働者階級よりも上にくるといった、やや複雑なヒエラルキーを想定しています(141ー148p)。
第III部はセリーナ・トッド『ザ・ピープル イギリス労働者階級の盛衰』をもとにしたイギリス労働者階級の100年史。
ここは著者が勉強してまとめた部分なので、それほど面白くはなかったです。特に自分は長谷川貴彦『イギリス現代史』(岩波新書)を読んだばかりで、あまり新鮮味はありませんでした。
このように第III部は個人的にはいまいちではあったのですが、第II部のインタビューの部分は非常に読み応えがあり、テレビの報道などではわからないブレグジットの背景が見えてくると思います。
著者には比較的明確な政治的スタンスがあるのですが(コービン推し)、そうしたスタンスによってものの見方が変に固定されていないのがこの本の良い点でしょう。また、日本における「右/左」とヨーロッパにおける「右/左」のズレをわかりやすく示してくれる本でもありますね。
労働者階級の反乱 地べたから見た英国EU離脱 (光文社新書)
ブレイディ みかこ
4334043186
著者に関してはネットの記事などでご存じの方も多いでしょうが、この本でもイギリスの労働者階級の只中で暮らしながら、彼らがどのような考えをもってEU離脱に賛成したのかということを的確に伝えています。
後半の第III部に関しては、著者が本などを読んで勉強したことがまとめてある感じでやや面白さは落ちるのですが、前半は金成隆一『ルポ トランプ王国』(岩波新書)に通じる面白さがありますね。
目次は以下の通り。
第I部 地べたから見たブレグジットの「その後」
(1)ブレグジットとトランプ現象は本当に似ていたのか
(2)いま人々は、国民投票の結果を後悔しているのか
(3)労働者たちが離脱を選んだ動機と労働党の復活はつながっている
(4)排外主義を打破する政治
(5)ミクロレベルでの考察――離脱派家庭と残留派家庭はいま
第II部 労働者階級とはどんな人たちなのか
(1)40年後の『ハマータウンの野郎ども』
(2)「ニュー・マイノリティ」の背景と政治意識
第III部 英国労働者階級の100年――歴史の中に現在(いま)が見える
(1)叛逆のはじまり(1910年―1939年)
(2)1945年のスピリット(1939年―1951年)
(3)ワーキングクラス・ヒーローの時代(1951年―1969年)
(4)受難と解体の時代(1970年―1990年)
(5)ブロークン・ブリテンと大緊縮時代(1990年―2017年)
まずこの本は、いわゆる「ポピュリズム現象」を代表するとされているブレグジットとトランプの勝利の違いを指摘するところから始まります。
貧しい労働者階級の支持を受けたとされるトランプですが、データをみると支持の割合は富裕層のほうが高く、25pの表を見ると年収5万ドル以上はトランプ支持、5万ドル以下はクリントン支持という構図が見えてきます。
一方、EU離脱の国民投票において残留を支持したのはアッパー・ミドルクラスや、ドルクラス、離脱を支持したのが高スキル労働者のカテゴリーや、中スキルまたは無スキル労働者、失業者のカテゴリーであり、低所得者ほど離脱に賛成という構図がはっきりしています(もっとも示されているのは階級カテゴリーで実際の年収はわからない)。
また、トランプといえば「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」なわけですが、イギリスの労働者にイギリスを再び「グレイト」にしようという考えはなかったのではないかと著者は見ています(31p)。
大英帝国への郷愁や、移民に対するレイシズムではなく、まず何よりもキャメロン政権の緊縮政策に対する労働者階級の怒りであったというのが著者の見立てです。
確かに、EU離脱の国民投票において人々の最大の関心事は「移民問題」だったのですが、2番目に人々があげたのがNHS(医療制度)の問題です(45p)。「EUを離脱すればNHSにもっと資金を投入できる」という主張が人々の心を捉えたのです。
金融危機後の2010年に政権を獲得したキャメロン首相とオズボーン蔵相は、2014年までに総額810億ポンド(約12兆円)の歳出削減を掲げ、さまざまな公共サービスを削っていきました。
こうした緊縮政策への反発は、ヨーロッパの他の国、例えばスペインやギリシャでも起こっており、この「反緊縮」はEU離脱の国民投票だけでなく、2017年の総選挙における予想外の労働党の善戦にもつながったというのです。
他にも第I部の最後では、実在する2つの家庭の母親を入れ替えるリアリティー番組『ワイフ・スワップ』の「ブレグジット・スペシャル」を紹介しています。これは離脱派の母親が残留派の家庭へ、残留派の母親が離脱派の家庭に行って1週間生活するという、いかにもイギリス的な、趣味が悪い番組ではあるのですが、離脱派と残留派の違いを端的に示していて面白いです。
第II部は、著者の知り合いで離脱に賛成した人々へのインタビューから始まるのですが、ここがこの本の一番面白いところです。
例えば、配送のドライバーなどをしているサイモンは移民に関して次のように語っています。
「勘違いしないでほしいが、俺は移民は嫌いじゃないんだよ。いい奴もいるしね。嫌な奴もいるが。そりゃ英国人だって同じだ。
...おれは英国人とか移民とかいうより、闘わない労働者が嫌いだ。黒人やバングラ系の移民とか、ひと昔前の移民は...この国に骨を埋めるつもりで来たから、組合に入って英国人の労働者と一緒に闘った。でも、EUからの移民は、出稼ぎで来ているだけだから、組合に入らない。
この国の労働者たちの待遇改善なんて彼らにはどうでもいい。自分たちが金を稼げて、本国にそれを持って帰って家のローンを終わらせれば、それでOK。労働者の流動性は組合の力を弱めたと俺は思うね」(77-78p)
ここにレイシズムとは違う「反移民」のロジックが現れています。
他にもタイ人の妻がいる塗装工のジェフはEU離脱がギャンブルだと認めた上で次のように述べています。
「俺たちの階級は、賭けないと、何も変わらない。労働者階級はみんな賭けをやって、成功した奴は登っていくし、負けた奴は登っていけない。楽に生きられる階級の人間は何も賭けたくないけど、俺たちは賭けないとどうにもならない階級」(98p)
ちなみにこのジェフに関しては、自分の配偶者にはいろいろな手続が必要なのに、EU域内というだけでイギリスと何もかかわりのない人がやすやすと入ってくることにも不満を覚えています。
さらにNHSに勤務していたローラは、移民の同僚に対して次のように話しています。
「私は医療の現場では、ふつうの末端の看護師や介護士なら話は別だけど、カウンセリングをしたり、患者と話をしたりする医師は、きちんと英語を操れないといけないと思う。母国語レベルでね。健康のこと、特に命に関わるような病に関しては、80%話が通じればOKというような問題じゃないでしょう? 患者には100%わかる権利があると思う。(後略)
ー そういうことをNHSの英国人スタッフ同士で喋ったりしていた?
「しない。そういうポリティカル・コレクトネスに関することは、NHSのような職場では絶対に喋れない。(117p)
こうした話を聞くと、著者は最初に否定していましたが、金成隆一『ルポ トランプ王国』で紹介されているトランプ支持者たちと共通する面もあると思います。また、ブレアの時代は好景気でよかったと懐かしむ話も出てくるのですが、ここもトランプ支持者におけるビル・クリントンの意外な人気と重なる面があります。
第II部の後半はジャスティン・ジェストの「ニューマイノリティ」という考えを紹介しています。
この「ニューマイノリティ」というのは白人労働者階級の人々のことです。白人に「マイノリティ」という言葉を使うことについては反発もあるそうですが、今、白人労働者階級はさまざまな面で無力感を深めているといいます。
そして、「有権者として連帯しようとしたとしても、彼らには旗印にできるアイデンティティが欠如している」(130p)のです。このあたりが今までの「マイノリティ」とは違っている部分になります。
また、イギリスとアメリカの労働者の世界観の比較も行われていますが、それによるとアメリカが金持ちかそうでないかというヒエラルキーを想定しているのに対して、イギリスでいまだに貴族などの階級のヒエラルキーが残っており、さらにそこに移民が労働者階級よりも上にくるといった、やや複雑なヒエラルキーを想定しています(141ー148p)。
第III部はセリーナ・トッド『ザ・ピープル イギリス労働者階級の盛衰』をもとにしたイギリス労働者階級の100年史。
ここは著者が勉強してまとめた部分なので、それほど面白くはなかったです。特に自分は長谷川貴彦『イギリス現代史』(岩波新書)を読んだばかりで、あまり新鮮味はありませんでした。
このように第III部は個人的にはいまいちではあったのですが、第II部のインタビューの部分は非常に読み応えがあり、テレビの報道などではわからないブレグジットの背景が見えてくると思います。
著者には比較的明確な政治的スタンスがあるのですが(コービン推し)、そうしたスタンスによってものの見方が変に固定されていないのがこの本の良い点でしょう。また、日本における「右/左」とヨーロッパにおける「右/左」のズレをわかりやすく示してくれる本でもありますね。
労働者階級の反乱 地べたから見た英国EU離脱 (光文社新書)
ブレイディ みかこ
4334043186
- 2017年11月06日23:13
- yamasitayu
- コメント:0
EU離脱などで揺れるイギリスの戦後史を辿った本。イギリスの政治に関しては、今年、近藤康史『分解するイギリス』(ちくま新書)という非常に面白い本が出て、Brexitに至る政治過程や政治制度的な問題を分析してくれましたが、それはあくまでも政治面からのものでした。
この本はイギリスの社会の変動をほぼ10年単位で追いながら、Brexitに至るイギリス社会の変化を描き出しています。本文だけなら200ページ未満とコンパクトな構成ですが、通説の見直しを迫るような部分もあり、新しい発見もある本です。
目次は以下の通り。
第2次世界大戦後のイギリスはその「衰退」が謳われた時代でしたが、これは二大政党の対決の中で政争のために強調された面も強く、50年代から70年代前半にかけては順調に経済が成長し、人々が豊かになった時代でもありました。
そうは言っても、世界の「帝国」としてイギリスの地位は終焉したわけで、その再編が行われた時代でもあります。
チャーチルは1948年の演説で、イギリスの外交を捉える視座として、「コモンウェルスと帝国」、「英語圏」、「統合されたヨーロッパ」という「三つの輪」を示しましたが、歴史家のアンドルー・ギャンブルはこれに「連合王国内部」という空間を付け加えて「四つの輪」という枠組みを示しました(11-14p)。
こうした枠組みに沿って再編成が行われた、あるいはその再編成の途上にあるのがイギリスの戦後史と言えるでしょう。
第1章は福祉国家建設の動きを中心に1940年代をたどります。
「イギリスにとって第二次世界大戦は「よき戦争」であったといわれている」(22p)とあるように、イギリスにおける第二次世界大戦の評価は肯定的です。
それはファシズムに対する戦いという大義があったこともありますが、この戦争が「人民の戦争(People's War)と呼ばれ、福祉国家の成立を促したということからも説明できます。
1940年に成立したチャーチルの内閣には労働党からも閣僚が入閣し、特に労働・徴兵大臣となったアーネスト・べヴィンは戦時下の人的資源の管理を一任されました。
べヴィンは中央集権的な管理を行う一方で、労働組合に強力な団体交渉権を付与するなど組合の力を強めるような政策も行いました。
また、食糧の配給制度も進みましたが、その厳しい統制時代のパラドックスとして、保守党の食糧大臣ウルトン卿は、(国民が)「長年こんなにも健康だったことはなかった」(27p)という言葉を残しています。
また、イギリスの福祉国家の青写真となったベヴァリッジ報告が出されたのも戦時中の1942年です。
政府が国民に保障すべき「ナショナル・ミニマム」などを打ち出したこの報告書は60万部以上を売るベストセラーとなり、このベヴァリッジ報告に対する態度が1945年の総選挙での労働党の勝利とチャーチルの敗北をもたらしました。
労働党政権のもと、1946年に疾病、失業、退職、寡婦、孤児、妊婦、死亡のすべてをカバーする国民保険法と、無料で医療を受けられる国民保健サーヴィス(NHS)を構築する国民保健サーヴィス法が成立、さらに48年には保険からこぼれ落ちた人のための国民扶助法と、この年には国民年金法が成立します。イギリスでは普遍主義的な福祉国家が目指されることとなったのです。
しかし、第2次世界大戦の終結はイギリスに経済危機ももたらしました。戦時中のイギリスはアメリカからの武器の無償供与によって国際収支の赤字の半分以上を穴埋めしていたのですが、日本の降伏とともにこれが停止されます(41p)。
イギリスは「帝国」から撤退することで、こうした経済危機を乗り越えようとします。
第2章は経済成長が軌道に乗る1950年代について。
1951年の総選挙で、労働党は得票率で保守党を上回りながら議席数で及ばず、チャーチルが再登板します。
チャーチルは産業の国有化には否定的でしたが、福祉国家路線については大きな見直しはせず、その支出はむしろ増えていきます。
この保守党と労働党の間での福祉国家路線やケインズ的財政政策をめぐるコンセンサスは労働党時代の蔵相ゲイツケルと保守党時代の蔵相バトラーの名前を取って「バッケリズム」と呼ばれるようになります(49p)。
一方、「帝国」としてのイギリスの威信は1956年のスエズ事件によって決定的に衰退し、植民地の放棄が進んでいくことになりました。
第3章では、主に文化の変革を中心に60年代を見ていきます。
1950年代後半から70年代前半にかけてイギリスでは「文化革命」が進行したといいます。そこで起きたのは、消費主義の蔓延であり、世俗化であり、そして文化の担い手としての労働者階級の登場でした。
特に労働者階級からグラマー・スクールに入った者や、グラマー・スクールからドロップアウトしたもののアート・カレッジに進んだ者などが中心となります。ビートルズのポール・マッカートニーとジョン・レノンはどちらかというと中産階級の下層の出身ですが、グラマー・スクールで出会い、「労働者階級の英雄」として売りだされました(76p)。
また、女子解放運動などが盛り上がったのもこの時代で、それに呼応するかのように労働党のウィルソン政権のもとで妊娠中絶の合法化、男性同性愛の合法化、死刑制度の廃止、離婚手続きの簡素化などが進みます(83p)。
スコットランドやウェールズなどの連合王国の内部で自治を求める動きが高まったのもこの時期です。
しかし、ウィルソン政権は経済運営でポンドの切り下げ阻止に失敗し、労働の現場では非公式の「山猫スト」が頻発することになります。
この時代、女性や移民もストライキを行うなど、今まで声を上げなかった人々が声を上げ始めた時代でもありましたが、それは労働党政権の経済運営の行き詰まりを示すものでもありました。
第4書では70年代が「英国病」を中心にとり上げられます。
70年代=「英国病」というほどに、この時代のイギリスのイメージはあまり良くないですが、「1976年は1950年以降で最良の経済的・社会的指標を示していた」(99p)との報告もありますし、このイメージは再検討の必要があるといいます。
ウィルソン政権が経済運営に失敗すると、労働党内部では左派が力を持つ一方で、保守党内部では「自由市場の哲学」が前面に出てくることになります。労働党と保守党の「コンセンサス」が崩れ始めるのです。
また、EC加盟はそれぞれの党内で意見の分裂を生みました。
保守党のヒース政権を挟んで、74年には第2次ウィルソン政権がはじまりますが、経済状況は好転せず、76年3月に突然辞任を発表します。この理由として従来健康問題があげられてきましたが、マウントバッテン卿を黒幕とするクーデタを回避するためという説もあるそうです(116ー117p)。
新首相にはキャラハンが就任しますが、国際収支の悪化とポンド切り下げの中、ついにIMFへの融資要請へと追い込まれます。そして、IMFの主導のもとで緊縮的な政策がとられることになるのです(しかし、ダイアン・コイル『GDP』によると、しばらくたってから「貿易赤字とGDPの数値が修正され、「危機」が実はそれほど深刻ではなかったことが明らかになったとのこと)。
そしてサッチャーが登場します。第5章はサッチャリズムの時代についてです。
サッチャーは労働党政権に対するアンチであると同時に、保守党内部のエスタブリッシュメントに対するアンチでもありました。サッチャーは労働党政権だけでなく、保守党と労働党の間の「コンセンサスの政治」も否定しようとしたのです。
サッチャーの強硬な経済政策は当初それほどうまく行きませんでしたが、フォークランド紛争での勝利もあって人気を回復させ1983年の総選挙で勝利します。
サッチャーは「小さな政府」を目指しましたが、その過程で公営住宅を入居者に安く売却する住宅法をつくり、ローンを借りやすくさせました。こうして「財産」を得た人々がサッチャーの支持基盤の一つとなっていきます(134ー135p)。
サッチャーはクローズド・ショップを禁止し、1984〜85年の大規模な炭鉱ストライキにも強硬な姿勢で臨みます。こうして「鉄の女」のイメージを作り上げていきました。
しかし、3期目に入ったサッチャーは人頭税の問題とヨーロッパ統合をめぐる問題で失敗し退陣。メイジャーが後を継ぐ事になります。
第6章はブレアの登場した90年代半ばから00年代にかけてをあつかいます。
「労働組合とストライキの党」という労働党のイメージを払拭し、政権を奪い返したのがブレアとブラウンでした。
ブレアの労働党では、ジャーナリストや弁護士、女性や移民やLGBTが意識的に登用され、「多文化主義」がひとつの看板になります。
また、「第三の道」を掲げ、「福祉から労働へ」というスローガンのもと就労政策の推進をはかりました。「クール・ブリタニア」と銘打ち、イギリス文化の振興も行われました。
しかし、イラク戦争への参加でブレアの人気は失速し、後任のブラウンはリーマンショックの影響により2010年の総選挙で政権を失います。
第7章は2010年代、キャメロン首相が緊縮政策を打ち出し、そしてEU離脱の国民投票によって辞任する流れです。
この時期、ロンドンなどの大都市には海外などから資金が流れ込み開発が進みましたが、その開発とともにジェントリフィケーションが進み、貧困層はますます周縁化されていきました。ジェントリフィケーションへの反発から2015年にロンドンの東部の高級シリアルカフェが暴動の対象となったという話は興味深いです(179p)。
そして、こうした社会の分断が2016年6月のEU離脱の国民投票へとつながるのです。
このようにイギリスの戦後史を幅広く、なおかつコンパクトにまとめてあります。サッチャーやブレアに対する評価がやや辛い気もしますが、これが2017年の視点なのでしょう。そして、サッチャー、ブレアを超えたもっと長いスパンで見ることで現在のイギリスの置かれている場所が見えてくるということを教えてくれる本でもあります。
イギリス現代史 (岩波新書)
長谷川 貴彦
4004316774
この本はイギリスの社会の変動をほぼ10年単位で追いながら、Brexitに至るイギリス社会の変化を描き出しています。本文だけなら200ページ未満とコンパクトな構成ですが、通説の見直しを迫るような部分もあり、新しい発見もある本です。
目次は以下の通り。
序章 現代史への視座
第1章 福祉国家の誕生―一九四〇年代
第2章 「豊かな社会」への変貌―一九五〇年代
第3章 文化革命の時代―一九六〇年代
第4章 「英国病」の実像―一九七〇年代
第5章 サッチャリズム―一九八〇‐一九九〇年代
第6章 「第三の道」―一九九〇‐二〇〇〇年代
第7章 岐路に立つイギリス―二〇一〇年代
第2次世界大戦後のイギリスはその「衰退」が謳われた時代でしたが、これは二大政党の対決の中で政争のために強調された面も強く、50年代から70年代前半にかけては順調に経済が成長し、人々が豊かになった時代でもありました。
そうは言っても、世界の「帝国」としてイギリスの地位は終焉したわけで、その再編が行われた時代でもあります。
チャーチルは1948年の演説で、イギリスの外交を捉える視座として、「コモンウェルスと帝国」、「英語圏」、「統合されたヨーロッパ」という「三つの輪」を示しましたが、歴史家のアンドルー・ギャンブルはこれに「連合王国内部」という空間を付け加えて「四つの輪」という枠組みを示しました(11-14p)。
こうした枠組みに沿って再編成が行われた、あるいはその再編成の途上にあるのがイギリスの戦後史と言えるでしょう。
第1章は福祉国家建設の動きを中心に1940年代をたどります。
「イギリスにとって第二次世界大戦は「よき戦争」であったといわれている」(22p)とあるように、イギリスにおける第二次世界大戦の評価は肯定的です。
それはファシズムに対する戦いという大義があったこともありますが、この戦争が「人民の戦争(People's War)と呼ばれ、福祉国家の成立を促したということからも説明できます。
1940年に成立したチャーチルの内閣には労働党からも閣僚が入閣し、特に労働・徴兵大臣となったアーネスト・べヴィンは戦時下の人的資源の管理を一任されました。
べヴィンは中央集権的な管理を行う一方で、労働組合に強力な団体交渉権を付与するなど組合の力を強めるような政策も行いました。
また、食糧の配給制度も進みましたが、その厳しい統制時代のパラドックスとして、保守党の食糧大臣ウルトン卿は、(国民が)「長年こんなにも健康だったことはなかった」(27p)という言葉を残しています。
また、イギリスの福祉国家の青写真となったベヴァリッジ報告が出されたのも戦時中の1942年です。
政府が国民に保障すべき「ナショナル・ミニマム」などを打ち出したこの報告書は60万部以上を売るベストセラーとなり、このベヴァリッジ報告に対する態度が1945年の総選挙での労働党の勝利とチャーチルの敗北をもたらしました。
労働党政権のもと、1946年に疾病、失業、退職、寡婦、孤児、妊婦、死亡のすべてをカバーする国民保険法と、無料で医療を受けられる国民保健サーヴィス(NHS)を構築する国民保健サーヴィス法が成立、さらに48年には保険からこぼれ落ちた人のための国民扶助法と、この年には国民年金法が成立します。イギリスでは普遍主義的な福祉国家が目指されることとなったのです。
しかし、第2次世界大戦の終結はイギリスに経済危機ももたらしました。戦時中のイギリスはアメリカからの武器の無償供与によって国際収支の赤字の半分以上を穴埋めしていたのですが、日本の降伏とともにこれが停止されます(41p)。
イギリスは「帝国」から撤退することで、こうした経済危機を乗り越えようとします。
第2章は経済成長が軌道に乗る1950年代について。
1951年の総選挙で、労働党は得票率で保守党を上回りながら議席数で及ばず、チャーチルが再登板します。
チャーチルは産業の国有化には否定的でしたが、福祉国家路線については大きな見直しはせず、その支出はむしろ増えていきます。
この保守党と労働党の間での福祉国家路線やケインズ的財政政策をめぐるコンセンサスは労働党時代の蔵相ゲイツケルと保守党時代の蔵相バトラーの名前を取って「バッケリズム」と呼ばれるようになります(49p)。
一方、「帝国」としてのイギリスの威信は1956年のスエズ事件によって決定的に衰退し、植民地の放棄が進んでいくことになりました。
第3章では、主に文化の変革を中心に60年代を見ていきます。
1950年代後半から70年代前半にかけてイギリスでは「文化革命」が進行したといいます。そこで起きたのは、消費主義の蔓延であり、世俗化であり、そして文化の担い手としての労働者階級の登場でした。
特に労働者階級からグラマー・スクールに入った者や、グラマー・スクールからドロップアウトしたもののアート・カレッジに進んだ者などが中心となります。ビートルズのポール・マッカートニーとジョン・レノンはどちらかというと中産階級の下層の出身ですが、グラマー・スクールで出会い、「労働者階級の英雄」として売りだされました(76p)。
また、女子解放運動などが盛り上がったのもこの時代で、それに呼応するかのように労働党のウィルソン政権のもとで妊娠中絶の合法化、男性同性愛の合法化、死刑制度の廃止、離婚手続きの簡素化などが進みます(83p)。
スコットランドやウェールズなどの連合王国の内部で自治を求める動きが高まったのもこの時期です。
しかし、ウィルソン政権は経済運営でポンドの切り下げ阻止に失敗し、労働の現場では非公式の「山猫スト」が頻発することになります。
この時代、女性や移民もストライキを行うなど、今まで声を上げなかった人々が声を上げ始めた時代でもありましたが、それは労働党政権の経済運営の行き詰まりを示すものでもありました。
第4書では70年代が「英国病」を中心にとり上げられます。
70年代=「英国病」というほどに、この時代のイギリスのイメージはあまり良くないですが、「1976年は1950年以降で最良の経済的・社会的指標を示していた」(99p)との報告もありますし、このイメージは再検討の必要があるといいます。
ウィルソン政権が経済運営に失敗すると、労働党内部では左派が力を持つ一方で、保守党内部では「自由市場の哲学」が前面に出てくることになります。労働党と保守党の「コンセンサス」が崩れ始めるのです。
また、EC加盟はそれぞれの党内で意見の分裂を生みました。
保守党のヒース政権を挟んで、74年には第2次ウィルソン政権がはじまりますが、経済状況は好転せず、76年3月に突然辞任を発表します。この理由として従来健康問題があげられてきましたが、マウントバッテン卿を黒幕とするクーデタを回避するためという説もあるそうです(116ー117p)。
新首相にはキャラハンが就任しますが、国際収支の悪化とポンド切り下げの中、ついにIMFへの融資要請へと追い込まれます。そして、IMFの主導のもとで緊縮的な政策がとられることになるのです(しかし、ダイアン・コイル『GDP』によると、しばらくたってから「貿易赤字とGDPの数値が修正され、「危機」が実はそれほど深刻ではなかったことが明らかになったとのこと)。
そしてサッチャーが登場します。第5章はサッチャリズムの時代についてです。
サッチャーは労働党政権に対するアンチであると同時に、保守党内部のエスタブリッシュメントに対するアンチでもありました。サッチャーは労働党政権だけでなく、保守党と労働党の間の「コンセンサスの政治」も否定しようとしたのです。
サッチャーの強硬な経済政策は当初それほどうまく行きませんでしたが、フォークランド紛争での勝利もあって人気を回復させ1983年の総選挙で勝利します。
サッチャーは「小さな政府」を目指しましたが、その過程で公営住宅を入居者に安く売却する住宅法をつくり、ローンを借りやすくさせました。こうして「財産」を得た人々がサッチャーの支持基盤の一つとなっていきます(134ー135p)。
サッチャーはクローズド・ショップを禁止し、1984〜85年の大規模な炭鉱ストライキにも強硬な姿勢で臨みます。こうして「鉄の女」のイメージを作り上げていきました。
しかし、3期目に入ったサッチャーは人頭税の問題とヨーロッパ統合をめぐる問題で失敗し退陣。メイジャーが後を継ぐ事になります。
第6章はブレアの登場した90年代半ばから00年代にかけてをあつかいます。
「労働組合とストライキの党」という労働党のイメージを払拭し、政権を奪い返したのがブレアとブラウンでした。
ブレアの労働党では、ジャーナリストや弁護士、女性や移民やLGBTが意識的に登用され、「多文化主義」がひとつの看板になります。
また、「第三の道」を掲げ、「福祉から労働へ」というスローガンのもと就労政策の推進をはかりました。「クール・ブリタニア」と銘打ち、イギリス文化の振興も行われました。
しかし、イラク戦争への参加でブレアの人気は失速し、後任のブラウンはリーマンショックの影響により2010年の総選挙で政権を失います。
第7章は2010年代、キャメロン首相が緊縮政策を打ち出し、そしてEU離脱の国民投票によって辞任する流れです。
この時期、ロンドンなどの大都市には海外などから資金が流れ込み開発が進みましたが、その開発とともにジェントリフィケーションが進み、貧困層はますます周縁化されていきました。ジェントリフィケーションへの反発から2015年にロンドンの東部の高級シリアルカフェが暴動の対象となったという話は興味深いです(179p)。
そして、こうした社会の分断が2016年6月のEU離脱の国民投票へとつながるのです。
このようにイギリスの戦後史を幅広く、なおかつコンパクトにまとめてあります。サッチャーやブレアに対する評価がやや辛い気もしますが、これが2017年の視点なのでしょう。そして、サッチャー、ブレアを超えたもっと長いスパンで見ることで現在のイギリスの置かれている場所が見えてくるということを教えてくれる本でもあります。
イギリス現代史 (岩波新書)
長谷川 貴彦
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- 2017年11月01日23:24
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