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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2025年05月

本書の帯には次のように書かれています。
なんだ? この怪物は......
現在の警察庁+総務省+国土交通省+厚生労働省+都道府県知事+消防庁...

戦前に存在した巨大官庁・内務省、本書はその全貌を明らかにしようとした本です。
編者となっている「内務省研究会」は2001年に若手の政治学者や歴史学者が集めってできた研究会で、目次を見ればわかるように錚々たるメンバーが参加しています。
550ページ超えで、内容的には2分冊にしてもいいくらいですし、内容的には「ハードカバーでやっても」という感じではあるのですが、2分冊の新書は買いづらい、読みにくいですし、ハードカバーでこのボリュームだと値段はおそらく5000円近く、そう考えるとこのスタイルで正解かもしれません。
最新の研究を踏まえた記述もありますが、構成が大きな流れから細かい部分へと工夫されており、前提となる知識がなくても読み進められるように工夫されています。

内務省といえば、「有司専制」の大久保利通が自らの国家構想を実現するために強大な権力を集めてつくられ、その後は山県有朋が政党に対抗するための牙城として育成したというようなイメージがあるかもしれませんが、本書を読むとそのイメージは大きく修正されると思います。

また、後半のテーマ編は、さながら「近代日本内政史」といった感じで、近代国家としての日本のあゆみ、そして現代につづく官僚機構の経路といったものがわかるようになっています。
文句なしの歯ごたえ、読み応えのある本と言えるでしょう。

目次は以下の通り。

はじめに――なぜ、今、内務省を取り上げるのか 清水唯一朗
序 論 内務省――政治と行政のはざまで 清水唯一朗

通史編
第一章 「省庁の中の省庁」の誕生――明治前期 小幡圭祐
第二章 内務省優位の時代――明治後期~大正期 若月剛史
第三章 政党政治の盛衰と内務省――昭和戦前期 手塚雄太
第四章 内務省の衰退とその後――戦中~戦後期 米山忠寛

テーマ編
第一章 近代日本を支えた義務としての「自治」――地方行政 中西啓太
第二章 戦前の「国家と宗教」――神社宗教行政 小川原正道
第三章 権力の走狗か、民衆の味方か――警察行政 中澤俊輔
第四章 感染症とどう向き合ってきたか――衛生行政 市川智生
第五章 河川・道路政策の展開と特質――土木行政 柏原宏紀
第六章 救貧・慈善から「社会事業」へ――社会政策 松沢裕作
第七章 内務省の議会史?――内務省と帝国議会 原口大輔
第八章 国民統合をめぐる攻防――内務省と軍部 大江洋代
第九章 災害を防ぐ、備える――防災行政 吉田律人
第十章 省内外にひろがる土木技術者のネットワーク――港湾行政 稲吉 晃

コラム
1 内務省の官業払下げ 谷川みらい
2 内務省の人事と官僚の生き様――水野錬太郎と福原鐐二郎 松谷昇蔵
3 選挙権なき女性の政治参加――政治家の妻の視点から 手塚雄太
4 内務省とそのアーカイブズ 下重直樹
5 「人見植夫」――雑誌『斯民』に登場したシドニー・ウェッブ 白木澤涼子
6 府県課長のイスにこだわった井上友一 木下順
7 文化・芸術と検閲――演劇検閲のあり方から 藤井なつみ
8 社会の発見――田子一民 渡部亮
9 内務省出身者と政治教育 西田彰一
10 内務省と植民地 李炯植
11 北海道と沖縄 塩出浩之

まず、前半の通史編の面白さとしては、「発足当時の内務省は最強官庁ではなかった」「内務省の強大化と政党の台頭は車の両輪的な麺があった」という2点があげられると思います。

内務省は大久保利通の肝いりでつくられたこともあって、発足当時から内政の中心的な部分を掌握する最強官庁だったというイメージがありますが、むしろ明治初期の最強官庁といえば、廃藩置県を機に民部省を吸収した大蔵省でした。
井上馨の指揮のもと、大蔵省は民政から財政にわたる法整備を統一的に行おうとし、また、政府(太政官正院)や各省庁を統制しようとしました。
しかし、この大蔵省の肥大化は太政官正院の反発を生み、予算編成権は太政官正院へととり上げられ、井上も大蔵省を去ります。

こうした一連の動きのあと、岩倉使節団に参加していた大久保が帰国します。大久保は内務省の創設を建議しますが、これは大蔵省の分割と表裏一体のものであり、大蔵省の権限が分割される形で内務省は誕生しています。
こうした中で、大蔵省は内務省の設立に干渉し、経費のかかる案件については大蔵省との稟議を必須とするという制度が盛り込まれました。内務省は単独で意思決定ができない省庁としてスタートせざるを得ませんでした。

また、内務省といえば大久保の強力なイニシアチブのもとでつくられたと考えられがちですが、勧業行政についても、事務を担当した勧業寮の長官である河瀬秀治、松方正義、前島密はそれぞれ大久保とは違った考えを持っており、大久保の構想通りには進みませんでした。
大久保は内局を設け、そこに腹心の松田道之をおいて、内務省のコントロールを図りました。
大久保死後、内務省の卿には伊藤博文が就任します。内務省を率いる伊藤と大蔵省を率いる大隈がしのぎを削る状態となり、大隈は内務省の仕事に干渉しようとしますが、大隈が明治十四年の政変で失脚することにより、大蔵省からの圧力は弱まります。
そして、内務卿に就任した山県有朋が、内務省の意思決定から大蔵省を排除することに成功するのです。山県は地方行政と警察行政の仕組みを整えていくことで、内務省を頂点とするヒエラルキーを構築しました。

その後、警察を握った内務省は、品川弥二郎内相の選挙干渉に見られるように、民党を弾圧する側として存在感を発揮します。実際、政党嫌いの山県は内務省を中心に「山県閥」と呼ばれるグループを形成して政党の影響力を排除しようとします。
しかし、内務省が「省庁の中の省庁」としての地位を確立するのは政党の存在があったからでもありました。

警察と地方行政を握る内務省は、政党にとってはぜひ掌握したい存在になります。初の政党内閣である隈板内閣において自由党の党首の板垣退助が就いたのは内相でした。
こうした動きに対して山県は文官任用令の改正などで政党の影響力の排除を狙うわけですが、桂園時代になると、西園寺内閣のもとで原敬が内相を長期間勤め、次第に内務省の中に影響力を強めました(このあたりについてはテーマ編の第7章も参照)。

また、他の省庁からすると、地方に政策を実行させようとするときには、地方を握る内務省の力を借りる必要がありました。このことも内務省が「省庁の中の省庁」になっていった大きな要因です。

政党内閣期になると、内務省への政党の影響力はますます強まります。初の男子普選となった1928年の総選挙では内相の鈴木喜三郎が大規模な選挙干渉を行いましたが、これは政党の進出を防ぐためではなく、内閣の与党たる政友会を勝たせるためのものでした。
内務官僚や知事たちは党派性を帯びるようになり、政権交代のたびに大規模な人事異動が行われることになります。

こうした政党の干渉を嫌がって、1930年代になるといわゆる「新官僚」が登場します。元内務官僚で斎藤実内閣で農相として入閣した後藤文夫などがその代表です。彼は岡田内閣で内相に就任しました。
犬養内閣から斎藤実内閣への交代で政党内閣は終焉を迎え、内務省は自由を手にしたかに見えます。しかし、しばらくは政党の影響力は残りましたし、政党に代わって軍が内務省の行動を制約することになります。
また、後藤文夫をはじめとして内務官僚が内務大臣に就く例が増えてきますが、これは政党内閣期には副総理格だった内相の地位が低下した証でもあります。

1938年には内務省から厚生省が分離しますが、これも軍の意向を受けたもので、戦時改革の中で「おもちゃにされていた」(212p)状態でした。内務省は戦後に解体される以前から、解体されかかっていたと言えます。
最終的に内務省はGHQによって解体されるわけですが、当初、内務省はGHQからの要求によく応えていました。建設省の独立などはGHQの意向に内務省が応えたものです。
しかし、最終的に「内務省解体」という大きな成果を得るためにGHQは頑なに内務省の解体を進めていくことになるのです。

通史編の最後の第4章で米山忠寛が、内務省=「非民主的」、「保守的」といったイメージに対して、政党が警察を動かせた戦前のほうが「民主的」かもしれないし(「山県有朋や山県系官僚がもし公安委員会制度を利用可能であったならばその超然性にどれほど狂喜乱舞したことであろうか」(236p))、石川県では官選知事は62年間で38人いたのに民選知事は77年間で5人という数字を上げて、県知事の「終身制」、「殿様」化を指摘しているのは興味深いです。

後半のテーマ編も面白い論考が並びますが、いくつかしぼってとり上げます。
まずは第5章の河川・道路行政についてです。ここでは道路について見ていきます。
日本では鉄道に比べると道路が貧弱な状況が続きましたが、それは鉄道が鉄道員・鉄道省という国家主体で整備されたのに対して、道路については統一法の制定が遅れ、道路改良は地方の判断に任されている部分が多かったからです。道路法が成立したのはようやく1919年になってからでした。
土木政策全体については、1880年代に内務省と工部省の綱引きがありました。
工部省が内務省による土木行政の遅れを指摘し、工部省への移管を求めました。しかし、工部省主体となればこれらの費用は国家持ちとなり、莫大な費用がかかることになります。また、地域のそれまでの歴史的な蓄積などを踏まえる必要もありました。こうした歴史的な蓄積は非合理である場合もありましたが、河川工事などはこうしたことを無視することはできませんでした。
土木行政は地元との調整が必要であり、そうしたこともあって土木行政は内務省が管轄し続けることになったのです。ただし、同時に内務省が管轄したことで土木行政は政党や政治家からの影響を受けることになります。

次に第6章の社会政策と第8章の内務省と軍部を見ていきたいと思います。
明治になってつくられた救貧政策として恤救規則があります。これは高齢者、障がい者、病気の者、13歳以下の児童という4つのカテゴリーに属していて、扶養可能な者が戸籍上にいないという条件を満たしてはじめて適用されるものでした。
このように、他に救われる手段がない者だけに限って援助を行うというスタンスは内務省にも受け継がれており、1890年以降、内務省ではより救済の範囲を広げた法が検討されますが、こうした法は「惰民」を生むという議会の批判もあって成立しませんでした。
内務省の中でも、社会政策の推進を試みる官僚はいましたが、基本的には「救貧」よりも「防貧」に重きが置かれており、福祉を一種の権利として位置づけるような考えは希薄でした(大正期になると「社会連帯」を訴える田子一民のような内務官僚も出てくる(コラム8参照)。

これに対して、軍人の残された家族の援護を要求したのが軍です。この援護制度については、軍と内務省で主管の押し付けあいがあり、軍人の遺家族は軍人ではないということで最終的に内務省が引き取ることになりました。
基本的に困窮を自己責任と捉える内務省にとって、国家が責任を持って対処というスタンスは受け入れがたく、援護を「市の義務」とするものから「隣保相扶」に修正したうえでこの制度を成立させています。
その後も軍は軍事援護制度の拡充を訴え、内務省も次第にその拡大を認めざるを得なくなっています。

内務省から厚生省が独立する際にも、そこには戦時に必要な兵士の体力的な質を求める陸軍の意向がありました。日本の福祉政策については、軍事的な要請によって推し進められきた面もあるのです。

1930年代になると、内務省内でも親軍的な官僚が登場し、軍とともに革新的な政策を進めようとする動きもありましたが、1933年のゴー・ストップ事件では軍と警察の対立が表面化しましたし、戦時でも軍と内務省が対立することがありました。
本土決戦を想定した国民義勇隊構想では、内務省が道府県本部長を地方長官とするを主張し、また、軍人の座る総司令部の設置に反対したことなどによって、結局は内務省の行政補助機関のようになりました。1945年6月に持ち上がった地方総監府の構想でも、内務省が軍政機関とすることを阻止しました。
なお、第8章の東条内閣における軍人出身の内相・安藤紀三郎について書いている部分も面白です。

ちなみに国の事業について、どこの省庁が管轄するかという話は重要ですが、明治の初期においては海港の整備をどこが行うのかというのははっきりと決まっておらず、横浜港の第一次築港は外務省が、その後は大蔵省の税関が築港に乗り出したという話は興味深いです。
その後は内務省が港湾整備に乗り出し、築港も内務省の仕事という形になっていっていきます(第10章参照)。

他にも魅力的な論考が並ぶテーマ編ですが、詳しくは本書をお読みください。
最初にも述べたように、このテーマ編は「近代日本内政史」といった趣きもあり、日本の近代化について学べるような構成になっています。
また、日本の近代史を学ぶ入口としてもいいかもしれません。近年の研究の成果が取り入れられており、多くの人が持っている日本近代史のイメージを覆してくれるでしょう。

本書はほぼ2冊分の新書のボリュームになっていますが、例えば、通史編の第1章とテーマ編の第1章、通史編の第2章とテーマ編の第7章、通史編の第4章とテーマ編の第8章といった具合に、それぞれが補いながら歴史を複合的に見ていくことが出いるようになっており、1冊にまとめた効果も出ています。
内容、そして形式ともに成功している本だと思います。

自己啓発書の研究などを行ってきた社会学者による社会学の入門書。タイトルにあるように「「私」が、いかに社会的につくりあげられているのか?」という問題を、近年の調査や過去の研究から読み解こうとしたものになります。
ゴフマン、ギデンズ、フーコーといった社会学者・思想家の考えを丁寧に解説してくれているのが本書の特徴で、これらの人の考えをそれなりに知っている人にとっても理解がより深まると思います。
一方で、過去の社会学者・思想家の考えを紹介した部分が多いので、本書は社会学にすでに一定の関心がある人向きの本であり、「社会学って面白いのかな?」くらいの人にとっては少しハードルが高いかもしれません。

目次は以下の通り。
第1章 数字でみる「私」
第2章 他者と「私」
第3章 現代社会における「私」
第4章 つくられる「私」
第5章 語られる「私」

本書はまず、2012年と2022年に行われた若者調査の比較から紹介しています。
2012年から22年の変化を見ると、「今の自分が好きだ」「今のままの自分でいいと思う」という回答が増えている一方で、「自分がどんな人間かわからなくなることがある」「意識して自分を使い分けている」といった回答も増えています(19p表2参照)。
一見すると矛盾するような回答ですが、著者はSNSの普及がこの背景にあると見ています。今の若者は10年前の若者に比べて自己肯定感は高いかもしれないが、同時にSNS上でさまざまな自分を演じ分けている可能性があるのです。
男女の違いを見ると、「今の自分が好きだ」「他人とは違った、自分らしさを出すことが好きだ」は男性で高く、「自分がどんな人間かわからなくなることがある」「大切なことを決めるときに、自分の中に複数の基準があってこまることがある」「自分の中には、うわべだけの演技をしているような部分がある」は女性が高くなっています。
これは男性のほうがライフコースが見えやすい、女性の方がコミュニケーションが密であるといったことが影響していると考えられます。

さらに経済状況を見ると、暮らし向きについて「余裕がある」「やや余裕がある」と答えた人はそうでない人に比べて、「今の自分が好きだ」「今のままの自分でいいと思う」と答える人が多く、「自分がどんな人間かわからなくなることがある」「「死にたい」と思うことがある」と答える人が少なくなっています。
個人の考えはその人が置かれている状況からも大きな影響を受けているわけです。

「今の自分が好きだ」という自己肯定感は、現代社会では基本的に望ましいものとされていますが、調査を分析した結果を見ると、社会に対する態度とはあまり関わってはいません。一方、「自分自身についてじっくり考えることがある」という内省的態度は、学術への否定的傾向を弱め、社会貢献志向と政治関心を高める傾向がありますが、「権威ある人にはつねに敬意を払わなければならない」という権威主義志向も高める傾向があります(37p表7参照)。

第2章からは、「私」がいかに形成されるか? という問いに対する、さまざまな思想家たちの考えを辿っています。
第2章で中心的にとり上げられているのは、G・H・ミード、アーヴィン・ゴフマン、エリク・H・エリクソンです。
このあたりは、そのまま要約していると「要約の要約」になってしまうので、詳しくは本書をお読みください。

個人的にはゴフマンの言う、精神病院や刑務所などの「全制的施設」においては、衣料品や化粧品などの自分の外見を操作する「アイデンティティ・キット」が剥奪され、自己呈示の自由が大幅に制限されるという話は改めて興味深く読みました。

エリクソンのアイデンティティ論は有名で、高校の現代社会や倫理などの授業で習ったという人も多いでしょう。
エリクソンはアイデンティティの確立を重視し、社会の中で一定の安定したイメージを得ることが重要だと考えていましたが、社会の流動化が進むと、自己をその場の社会状況に応じて変えていかなければならないような状況が出現します。こうしたことについて書いているのが第3章です。

その1つがホックシールドが提唱した感情労働です。客室乗務員などは顧客サービスのために自分の感情を押し殺し、ときには演技をしながらサービスに努めます。さらに、研修によって「怒り」の感情の処理の仕方などを学び、深層演技と呼ばれる技法も身につけていきます(例えば、怒っている相手を子どもとみなすなど)。
一方、このような感情労働や深層演技が広がっていくと、「管理されない心」や「本当の自分」が希求されていくことになります。
日本では森真一『自己コントロールの檻』(この本は面白かった)などによって、00年代から「心理主義化」や「心理学化」といった現象が注目されました。
また、アメリカの社会心理学者のケネス・ガーゲンは、90年代にコミュニケーション・テクノロジーの発達が関係性の飽和を招いているということを指摘しました。
人々は相手や状況に応じて、さまざまな自己呈示を行う必要があります。こうした中で人々は「本当の自分」を求めるが、やがて「本当の自分」を想定することなく、自分というのは関係性の中で構成されているものだと気づくようになるだろうとガーゲンは考えました。

2000年前後以降、さまざまな論考を発表している浅野智彦もエリクソンの言うような自己の一元性、統一性が難しくなっていると考えています。
日本ではバブル崩壊以後の不景気による非正規雇用の増大、消費という活動が「自分らしさ」の感覚に大きな影響を与えるようになっていることを指摘し、エリクソン的な自己の統一性を支える社会条件が失われてきたと論じます。もともと、エリクソンの理論自体が19〜20世紀半ばのアメリカ社会に適合的だった自己のモデルであり、時代を超えた普遍的なものではないのです。

浅野の分析によれば、現在の日本の若者の自己は多元化しており、人に応じて自己を使い分けている(かといって浅い関係というわけではない)というのです。
これを聞いて、「「本当の自分」が抑圧されている」と考える人もいるかもしれませんが、それは「複数の自己のどれもが本当であるという「私」のあり方」(98p)だといいます。

時代とともに「私」のあり方が変わってくるという考えは、アンソニー・ギデンズの考えにも見られます。
ギデンズの社会学のキーワードは「再帰的」ですが、これは人間には自分自身や自らが置かれている状況を観察し、それにはたらきかけていくということです。
前近代の社会では、こうしたはたらきかけは共同体の慣習の内部で行われていましたが、近代社会では自らのあり方を何かに単純に委ねるということは難しくなります。個人はこれまでの経験や各種の情報をもとに、自己の「物語」を編成し、安定した自己理解を自ら作り上げる必要が出てきたのです。
こうした考えは、ウルリッヒ・ベックやジクムント・バウマン、アンソニー・エリオットなどにも引き継がれています。

第4章では「感情史」の研究を紹介しています。
「あはれ」「をかし」にぴったりくる現代語訳がないことからも、昔の人と今の人ではものの感じ方や感情の持ち方に違いがあったことがうかがえます。
他にも、19世紀のヨーロッパでは「名誉」のために決闘で命を落とす人が多くいましたが、これは現在の人からするとよくわからないことかもしれません。

ノルベルト・エリアスは、中世から近世の絶対王政期にかけて「礼儀作法」が重要視され、人々が「文明化」されていったこと論じ、現在の感情史の研究に大きな影響を与えました。
また、イーフー・トゥアンは家屋の分節化(寝室や個室がつくられていく)を通じて、プライバシーが確保され、自分自身に向き合う内省的な態度がつくられていったことを論じています。
4章の後半ではミシェル・フーコーの議論が紹介されていますが、かなり本格的な紹介で、まずは25ページ近くかけてフーコーの考えを追い、さらにフーコーの影響を受けた研究を紹介しています。
フーコーの思想の紹介についてはできるだけ平易に説明されていますが、もともとのフーコーの思想にあるわかりにくさは当然ながら残っています。

フーコー以後の展開については、ニコラス・ローズ『魂を統治する』についてやや詳しく触れ、さらに著者の自己啓発を巡る研究を紹介しています。
著者の研究は、ビジネス誌や女性のライフスタイル誌、就職対策書、あるいは「手帳術」本や「片づけ」本にも自己啓発的な意味付けがなされるようになってきたことを明らかにしたもので、「社会」ではなく「自己」を変化させることによって人生をうまく生きられるようにしようとする傾向を取り出しています。
こうした著者の研究の背景にはフーコーの考えがあるわけですが、個人的には著者の研究をメインに紹介し、フーコーをもう少し軽めに扱っても良いのではないかと思いました。

第5章は「語られる「私」」と題されており、まずはガーゲンの自己に関する「語り/物語(narrative)」の考えを紹介しています。人は自己について、他人にも受け入れたもらえるような「物語」を作り上げていくのです。
こうした物語は、アルコール中毒の患者の治療、病からの回復などさまざまなケースで見られ、分析が進んでいます。
自己を1つの物語として構成するということは例えば就活の場などでも見られます。著者の本である『自己啓発の時代』では、就活における「自己分析」の定型化がとり上げれています。
さらにその後の展開として、井口尚樹『選ぶ就活生、選ばれる企業』、妹尾麻美『就活の社会学』も簡単にとり上げられています。このあたりの研究はなかなか面白そうなので、もうちょっと突っ込んだ紹介があっても良かった気がします。

全体として丁寧な説明がなされており、個々の思想家についての解説は参考になりますが、「ちくまプリマー」という媒体を考えると、やや初心者にはとっつきにくいかもしれません。少なくとも本書を読んで社会学に導かれる高校生は、普段から学術的な本に親しんでいる生徒に限られるのではないでしょうか。
個人的には、著者の今まで研究してきた自己啓発の話や、第5章の就活の話などを前面に出したほうがより親しみやすい本になったのではないかと思います(あるいは、最後にもう1度冒頭で消化した若者についてのデータに戻っても良かったと思う)。
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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「西東京日記 IN はてな」で。
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