2024年09月
副題は「ネガティブ・リテラシーのすすめ」、2009〜24年にかけて著者がさまざまな媒体で書いてきた時評などを集めたものになります。
そのため、「輿論」と「世論」の区別や「ファシスト的公共性」など、著者の議論をそれなりに追いかけていた人にとっては新鮮さには欠けるかもしれません。
ただし、15年ほどの月日が経っても著者の分析枠組みは古びていませんし、文章の端々に鋭い洞察があります。「安倍一強」の政治状況が終りを迎え、再び政治が動こうとする中で、ここ15年の政治と社会の動きを一定の視座からたどり直すことができる本になっています。
目次は以下の通り。
第一章 ファスト政治1 政権交代選挙前、私はこう書いた(二〇〇九年七・八月)2 マニフェスト選挙の消費者感覚(二〇一〇年一月)3 ファスト政治と世論調査民主主義(二〇一〇年一〇月)第二章 メディア流言1 「想定外」の風土(二〇一一年五月)2 危機予言とメディア・リテラシー(二〇一一年一〇月)3 「災後」メディア文明論と「輿論2・0」(二〇一四年二月)第三章 デモする社会1 論壇はもう終わっている(二〇一四年二月)2 「デモする社会」の論壇時評(二〇一二年八月)3 ファスト政治と「輿論2・0」(二〇一〇年六月)第四章 情動社会1 世論調査の「よろん」とは?(二〇一六年二月)2 もうパブリック・オピニオンはないのか(二〇一六年六月)3 報道の自由度ランキング(二〇一六年一一月)第五章 快適メディア1 玉音から玉顔へ(二〇一七年一二月)2 「変化減速」時代の快適メディア(二〇二〇年五月)3 例外状況の感情報道(二〇二一年三月)第六章 ネガティブ・リテラシー1 戦争報道に「真実」は求めない(二〇二二年九月)2 AI時代に必要な耐性思考(二〇二二年三月)3 ネガティブ・リテラシーの効用(二〇二三年一一月)
まず、著者が以前から唱えていた「輿論」と「世論」の違いについて述べておきます。
現在は前者の「輿論(よろん)」を見る機会はほとんどなく、「世論」を「せろん、よろん」と読んでいますが、戦前はこの2つの言葉は区別されていました。
「輿論」はpublic opinion、「世論」は「せろん」と読みpopular sentimentsを指していたのです。ところが、戦後になって「輿論」の「輿」の字が表外字になってしまったため、「世論」という字で「せろん/よろん」と読ませるようになり、2つの概念は混同されるようになってしまったのです。
著者の持論は「輿論の復権」です。著者に言わせえば「世論調査」とは、その時々の国民の気分や感情を調べたものにすぎず、それで政治が動いてしまうのが現代日本の大きな問題です。
これに対して「人々の意見」である輿論による政治を著者は求めています。
家庭に突然かかってきた電話で、「首相にふさわしい政治家」を突然尋ねられ、その答えが首相の進退に直結してしまう、これが本書の時論が始まった00年代後半の政治状況でした。
小泉純一郎の長期政権のあと、安倍→福田→麻生→鳩山→菅直人→野田とほぼ1年毎に首相が替わりました。その後の第2次安倍政権は長期政権となりましたが、菅義偉内閣は内閣支持率の低迷により短命に終わっています。世論調査が主導する政治は今なお続いていると言えるでしょう。
本書には2011年の東日本大震災を受けて書かれた論考も収録されています。
東日本大震災では原発事故を中心に「想定外」の事態が起きましたが、それに対して「想定外を想定」すればいいわけではありません。「想定外の想定」は流言飛語へとつながります。
マスコミの報道を批判的に読み解くメディア・リテラシーは現代の重要なスキルですが、危機においてはネガティブな情報を優先して取り入れるようにもなりやすく、「マスコミの報じない」流言に飛びつくことにもなりかねません。
芥川龍之介は「大震雑記」の中に次のように述べているといいます。
再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシェヴィツキと◯◯◯◯[不逞鮮人]との陰謀を信ずるものである、もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。(44p)
ただし、東日本大震災後にさまざまな流言が飛び交ったものの、関東大震災における朝鮮人虐殺のような惨事を引き起こさなかったのも事実です。
ある種の情報過剰がメディア流言の影響力を低下させたとも言えます。ネットの過剰な情報が人々を行動にまで至らしめないという側面もあるのです。
著者は2012年4月から2016年3月まで、『北海道新聞』『東京新聞/中日新聞』『西日本新聞』の新聞三社連合の論壇時評を担当しています。
ただし、「論壇」なるものは過去からその衰退がたびたび指摘されており、1976年に見田宗介が「論壇の終焉」と題した論壇時評を『読売新聞』に発表しています。
戦後の論壇の中心にあったのが雑誌『世界』ですが、1950年前後は部数が低迷しており、発行部数が増加に転じるのは異例の5刷を重ね15万部を売り切った「講和問題特集号」(1951年10月号)からです。
しかし、これは全面講和を主張した『世界』が早期独立を目剤して単独講和を支持した国民と袂をわかった瞬間でもあったといいます。
この後、社会党支持団体と連携し『世界』は部数を伸ばしますが、小泉信三が「講和問題特集号」を「全面講和論者または中立論者の同人雑誌の如き」(74−75p)と述べたように、部数と反比例するかのようにその閉鎖性を高めたのです。
こうした論壇誌の閉鎖性を打ち破ることが新聞の論壇時評には期待されるわけですが、これも年々難しいことになっているのかもしれません。
著者の書いた論壇時評の中でもっとも注目を浴びたのが、2012年8月28日付『東京新聞』に掲載された「「孤立的民主主義」から「デモする社会」へ?」だといいます。
ちょうど、福島第一原発事故を受けて原発反対デモが盛り上がっていた時期で、柄谷行人も『世界』に掲載された「人がデモする社会」で「人々が主権者であるような社会は、代議士の選挙によってではなく、デモによってもたらされる」(81p)と書いていました。
しかし、著者はナチ党がデモや集会を通して台頭したことに注意を向け、「デモの称賛は「代議士の選挙」への絶望感の裏返し」(81p)だと指摘します。
これに対して、『朝日新聞』の論壇時評で高橋源一郎が今のデモはナチの時代とは違う「新しいデモ」だとデモを擁護し、この一連の議論はネットなどでも言及されました。
著者はデモには、ヘイトスピーチ・デモなどもあり、デモというだけで礼賛はできないと考えます。「新しいデモ」とされるサウンドデモ、「お祭りデモ」などもオープンなようでいて一定のノリを強制するものでもあります。
『ファシスト的公共性』という著作もある著者にとって、街頭での政治参加というのは大きな危険も秘めたものでもあるのです。
また、著者は政治にすぐに結果を求める「ファスト政治」にも警鐘を鳴らしています。民主党政権はまさにこの罠にハマりました。事業仕分けでもそうですし、普天間移設問題もそうです。これについて著者は次のように述べています。
普天間基地移設問題をめぐる迷走は鳩山ツイッター政治の未熟さに尽きるが、ほとんどの観客は5月末の決着が無理だと分かっていたはずである。無理を承知で見守りながら、期限がくれば見すてる観客、こうした有権者にも相応の責任はあるというべきではあるまいか。(99p)
一方、こうした著者の主張に対して、東浩紀は『朝日新聞』の論壇時評(2010年10月28付)で次のように述べています。
世論に対して輿論を、ネットに対して熟議を立てるこの提言はじつに良識的で、だれもが頷くものだろう。しかし、それだけに観念的とも言える。佐藤は熟議の導入を求めるが、現状はそもそも人々が熟議に背を向けたからこうなっている。(101p)
著者はこうした指摘を「痛い所を突いている」と認めつつ、即時的報酬ではなく遅延的報酬を重視する考えの必要性を主張しています。
そして、「速報性を必要とする新聞のウェブ化が不可避であるならば、総合雑誌や新書はいっそう遅延的報酬的、つまり教育的な「輿論2.0」のメディアをめざすべきなのではないだろうか」(102p)と述べています。
この遅延的報酬については、じっくりとした熟議で一定程度は考慮することが可能になります。
2012年に行われた「エネルギー・環境の選択肢に関する討論型世論調査」では、参考資料や専門家からの情報提供、グループ討議、全体闘技を経ることで、より長期的展望を持った意見が形成されるようになったといいます。
ただし、このようなやり方は時間がかかり、遅延的報酬についてより強い利害を持つ若者の参加が難しくなります。
第4章では佐藤俊樹からの批判にも応答しています。佐藤によれば、現代の民主主義において公共的 publicと大衆的 popularの区別はできず、現実に存在するのは感情的公共性に過ぎないといいます。また、世論(私的心情)こそが輿論(公的意見)の基盤であり、両者は補完し合うものだというのです。
さらに佐藤は、「とりわけ「戦後民主主義」のなかで、世論にはむしろ過剰な、道徳的意味づけがされてきたように思う。みんなの意見だから正しい、みんなの意見だから優れている ー そうした種類の思い込みである」(127p)と述べていますが、これについても著者はこの指摘に同意しつつ、だからこそ「輿論」の理想型を保持すべきだと考えています。
また、第4章では「報道の自由」の問題にも触れています。
2016年に亡くなったジャーナリストむのたけじは、戦時報道について「検閲官が社に来た記憶はない。軍部におもねる記者は一割に満たなかった。残る九割は自己規制で筆を曲げた」(130p)という回想を残しています。
むのは生前最後のインタビューで「国境なき記者団」による報道の自由度ランキングが世界61位にまで下がったことに対して、「報道機関の踏ん張りどころ」だと答えていますが、先程の回想を頭に入れれば、これは報道機関が自主規制することへの危惧だと言えるでしょう。
日本における「報道の自由」について、著者は「体感自由」度が大きく影響していると考えています。安倍政権のもとで政治家による居丈高な物言いもありましたが、それとともに比較的高かった安倍政権の支持率のもとで、ものが言いにくい雰囲気があったと思われます。
日本の「報道の自由度ランキング」は2003年の小泉純一郎政権のときが44位、2010年の鳩山政権のときが11位、2016年の安倍政権のときが72位と大きく変動しています。確かに民主党政権では記者会見のオープン化などの成果はあったわけですが、実態にここまでジャーナリストを取り巻く環境が変わったとも思えません。
森達也が「放送禁止歌」を通して明らかにしたように、鍵となるのはジャーナリズムの自己規制なのです。
第5章ではコロナ禍の中で書かれた文章が収録されています。
コロナは例外状況だったわけですが、そこではっきりしたのは「メディア報道とはそもそも客観報道ではなく感情報道だったという事実」(161p)だったといいます。
ウォール=ヨルゲンセンはピューリッツァー賞賞受賞記事を分析して、その大半が「感情的な語り」、取材対象の個人や集団の感情を浮かび上がらせるものだったことを明らかにしています。
一方で、客観的な事実、例えば、コロナでの死者はプライバシーへの配慮などから匿名化され、数字としてカウントされていきます。
著者は、個人が特定できないまでも、年齢や性別、既往症の有無などを正確に載せるべきではなかったかと考えています。
第6章の章題は本書の副題にもなっている「ネガティブ・リテラシー」です。
ネガティブ・リテラシーとは見過ごし、やり過ごす能力であり、ウィリアム・ジェームズも「読書術とは(ある程度の教育段階になると)読み飛ばし術であるように、賢明になる術は見過ごすべきものを見極める術である」(170p)と述べています。
2022年に露によるウクライナ侵攻が始まります。ロシアは「ウクライナの非ナチ化」など、荒唐無稽とも思えるさまざまな主張をしており、ロシア初の情報は信用できるものではありませんでした。
ただし、だからといってウクライナ側から発信される情報が正しいとは限りません。ウクライナ側からは大量の動画が発信されましたが、当然ながら、それはウクライナにとって都合の良い動画である可能性があります。
刻々と変化する戦況を正確に捉えるすべはないのです。
こうした情報の氾濫の中、期待されるものの1つが教育かもしれませんが、リップマンは1925年の『幻の公衆』の中ですでに次のように述べています。
教育への月並みな訴えは失望しかもたらさない。現代社会の諸問題は、教師たちが把握し、その実質を子どもたちに伝えるよりも速く現れ、変化するからである。その日の問題をどう解決するか、子どもたちに教えようとしても学校はいつも遅れてしまう。(187p)
現代はさらに情報は増え、伝達速度は上がっています。ますます教育は遅れざるをえません。
そこでネガティブ・リテラシーというわけです。もともとこうした状況に対処するために推奨されたのがメディアリテラシーの向上でしたが、メディアに対する批判的な態度は常に正しく機能するとは限りません。「「マスゴミ」批判もメディアリテラシー教育の意図せざる結果と言えなくもない」(189p)わけです。
そこで、著者は情報を批判的に吟味して真実を求めるのではなく、ときにあいまいな状況に耐え、あいまいな情報をやり過ごす能力が必要だといいます。これがネガティブ・リテラシーなのです。
このように、本書は10年以上の前の時論も含みながら、今でも刺激的な内容になっています。
時間が経ってみると、なぜあんなに盛り上がっていたのかよくわからないようなトピックというのもありますが、本書でとり上げられているのは現在にもつながる話題であり、解決できていない問題です。
時評には鮮度が求められますが、本書に収められた時間が経っても鮮度が落ちない時評を読むことは、まさに著者が要請する「遅さ」を体験するものと言えるかもしれません。
- 2024年09月28日23:12
- yamasitayu
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副題は「高度成長から社会運動、推し活ブームまで」。
本書は「消費者」という概念の捉え方の変化、特に消費者がいかに社会を変えられるのかという認識の変化を追うことで、消費とその消費を行う人々を取り巻く環境の変化を浮き上がらせようとしています。例えば、「「消費者主権」とは何なのか?」、「企業はある時期から「消費者」から「お客様」へのと呼称を変えていくのですが、それはなぜなのか?」といった具合です。
また、本書は消費を取り巻く社会運動を追い、その難しさを指摘した本でもあって、社会運動に興味がある人にもお薦めできます。さらに、一時期の「消費者=主婦」という言説の強さからは戦後社会のジェンダーというものも見てきますし、多面的な楽しみ方ができる本に仕上がっています。
目次は以下の通り。
序章 利益、権利、責任、そしてジェンダー第1章 消費者主権の実現に向けて―一九六〇年代〜七〇年代初頭第2章 オルタナティブの模索と生活者―一九七〇年代半ば〜八〇年代半ば第3章 お客様の満足を求めて―一九八〇年代後半〜二〇〇〇年代終章 顧客満足と日本経済―二〇一〇年代〜
「消費者」という言葉がさかんに使われるようになるのは1960年代以降になります。新聞記事のデータベースで「消費者」という言葉が使われている数を調べると、60〜70年代なかばにかけて伸びていき、2008年の消費者庁の設置をめぐって伸びた時期もありますが、それを除けば近年は低調です(2p図P-1参照)。
当然、消費者はいつの時代でもいるのですが、「消費者」という言葉に込められたニュアンスが強すぎるということで、この言葉は避けられるようにもなっていくのです。
1959年の『経済白書』では「消費革命」という言葉が登場しています。消費の量的な拡大だけではなく質的な変化も起こってることを表すためにこのような言葉がつくられました。例えば、「衣」の分野で言えば合成繊維の登場や既製服の拡大など、今までとは違ったフェーズが現れてきたというわけです。
これは一般の人々にとっては、よくわからない商品を向き合う必要が出てきたということでもあります。人々は便利さとともに不安も抱えることになりました。
一方、経営者側の経済同友会からも消費者に強い関心が寄せられました。
経済同友会は、戦後、GHQによって大企業の経営者が追放された結果、突如として中堅幹部が経営を担うことになったため、そうした少壮の経営者によって結成された団体でした。
経済同友会は修正資本主義の立場に立ち、所有と経営の分離を柱とする企業民主化を打ち出します。これは資本家中心の資本主義と労働者中心の社会主義の間にあって経営者こそが企業経営を司る者としてふさわしいという考えを含んでいました。
このときに消費者という概念が出てきます。消費者は労働者よりもより広い利益を代表しており、この消費者の期待に応えることこそ経営者の役割だというわけです。
この後も経済同友会の中からは「消費者主権」を主張する声が出てきますが、これも社会主義を批判する文脈で出てきます。社会主義国は生産者主権だが、自由と民主主義のためには消費者が主権を持つべきだというのです。
また、日本では消費者主権の理念が生産性向上運動とともに発展していきますが、これには生産性向上の果実を労働者ではなく消費者に分配するという経営側の考えもありました。
このように経営の側から消費者を持ち上げる言説が出てくるのですが、60年代に入ると「消費者は王様である」といった言葉に気をつけましょうといった記事なども登場します。企業におだてられているうちに危険な商品や粗悪品を買わされてしまうかもしれないというわけです。
「消費革命」は今までの生活経験では対応できない新たな課題を生んでおり、新製品の洪水に対して消費者も賢くならなければならないということになったのです。
1961年に日本消費者協会が発足しますが、これも日本生産性本部の取り組みの中から生まれたものであり、会長、理事長、専務理事を日本生産性本部が出し、それに主婦連や全地婦連も参加するような形でした。
日本消費者協会は商品テストなどを行いますが、機関誌の発行部数などは振るわず、資金難を打開しようと競輪の収益を受け入れる意向を示しましたが、これを批判して主婦連や全地婦連は脱退しています。
一方、この時期に商品テストを行っていた『暮しの手帖』の花森安治は、「消費者」という言葉から距離を取っていました。
日本消費者協会は消費者教育にも力を入れました。商品の知識を持ち計画的に買い物をする「かしこい消費者」を育てようというわけです。
しかし、この「かしこさ」の強調は、「消費者の責任」という形に流れやすく、企業や行政への働きかけ、あるいは消費者の権利といった方向に伸びていきにくいものでした。
花森安治は、どれだけ消費者がかしこくなろうとも商品の洪水の前では役に立たないとこの路線を批判しています。
著者は「かしこい消費者」について、一面において「権利なき主体化を促す規範として作用した」(52p)と見ています。
第1章の最後ではダイエー・松下戦争がとり上げられています。これは、1964年にダイエーが松下製品の安売りセールをしたところ値引きの範囲が許容限度を超えているとして松下がダイエーに製品の出荷停止の措置をとったことが発端になっています。
ダイエーはこの措置を独占禁止法違反だと公正取引委員会に訴え、67年に公取委が松下の違反を勧告します。これに対し松下は全面的に争う姿勢を示しましたが、70年からの消費者団体のカラーテレビ買い控え運動を受けて、71年に松下は韓国を受諾します。
商品の価格決定権を握るのは小売(ダイエー)かメーカー(松下)かということが争われた問題でしたが、著者はここにダイエーの中内功と松下の松下幸之助の「消費者の利益」観の違いを見出しています。
中内は「よい品をどんどん安く売る」安売り哲学を掲げており、生産のコストではなく消費者が求めるバリューを基礎とするバリュー主義によって価格は決定されるべきだと考えていました。
一方、松下の哲学として知られていたのが水道哲学で、これは水道の水のように生産量があまりに豊富であれば価格は安くなり貧困もなくなるというものでした。ただし、これはあくまでもコストの削減によって行われるべきでコストを無視した安売りは間違っているというのが松下の考えでした。
松下は公取委の勧告を受諾する際に「わしが考え抜いた商売のやり方がけしからんというて、しかも縁もゆかりもない松下電器と取引もないおばさんたちが土足で会社に上がり込んできて、わしが長年やってきた商売のやり方を変えろと言うんだ」(66p)と悔しがったといいますが、販売店を含めた繁栄を重視した松下のやり方は消費者(松下の目にはおばさん)主権の前に敗れ去ったのです。
1973年の石油危機によって高度成長が終わり安定成長の時代になると、中流意識が強くなるとともに、男性の長時間労働が定着し、家事やケアなどは女性に任される傾向も強まりました。
同時に公害被害などを受けて住民運動がさかんになり、経済成長を問い直す動きも現れてきます。
有吉佐和子の『複合汚染』やレイチェル・カーソンの『沈黙の春』なども出版され、農薬や化学物質への批判が高まってきたのもこの時期です。
新聞でも「消費者」から「生活者」へといった具合に、今までの生活を問い直すような記事が載るようになります。
こうした動きの中で、本書がまず紹介しているのが生活クラブです。
生活クラブの創始者は岩根邦雄で、60年安保を経て日本社会党に入党し、63年に社会党から世田谷区議選に立候補するも惨敗しています。これを受けて、もっと地域の人に浸透しなければならないと考えて、65年に始めたのが生活クラブでした。
生活クラブは牛乳の共同購入から始まりましたが、岩根は家に寝に帰るだけの夫ではなく主婦を組織せねばならないと考え、そのために毎朝配達される牛乳に着目しました。
最初は共同購入による安さが売りでしたが、牛乳配達店から安いのは質が悪いからだとの噂を流されるなかで、牛乳そのものについてもっと知らなければならないと考えるようになったといいます。
岩根は消費者のエゴを乗り越えなければならないと考えるようになり、商品ではなく消費材という言葉を使い、価格も生産者のコストを織り込んだものにしなければならないと主張しました。
生活クラブ生協は班別予約共同購入というスタイルを取り、手間のかかるものでしたが、このことに運動論・組織論上の積極的な意味付けがなされました。班活動によって、人間関係が形成され、「生き方を変える」きっかけが生まれると考えられたのです。
この後、生活クラブは合成洗剤追放などを訴えエコロジー的な運動にも接近しますが、90年代になると、性別役割分業規範を前提とする運動のあり方にフェミニズムからの批判が浴びせられました。
次に紹介されている大地を守る会も学生運動の経験者によって設立されています。
大地を守る会の立ち上げの中心人物は藤田和芳で、学生運動の経験者です。また、藤田が始めた地域の農業者とともに無農薬農業に取り組む活動に加わったのが、学生運動で実刑判決を受け、加藤登紀子と獄中結婚したことでも知られる藤本敏夫です。
藤本は「学生運動が一面で「ユートピアとしての共同体志向」を持ちながら、「具体的な展望が何もなかったこと」に限界を感じ、有機農業の実践にその限界を乗り越える可能性を見ていた」(105−106p)といいます。
生活クラブと同じように大地を守る会も消費者のエゴを問い直すことを1つの目的としており、消費者と生産者の共存が目指されました。
有機農業は手間のかかる農法であり、コストも掛かります。これを推進した一樂照雄が掲げた「生産者と消費者の提携の方法」(113p表2−6)を見ると、そこでは今で言う「応援消費」に近い心構えが列挙されています。
消費者には生産物の全量引取が求められ、一種の互恵的な贈与関係が目指されていました。
しかし、この大地を守る会も日本有機農業研究会では、産消提携こそが有機農業運動のあるべき姿で大地を守る会のような中間組織が入ったら意味がないとの批判を受けました。さらに一樂は大地を守る会が株式会社であることを痛烈に批判しています。
藤田は有機農業運動の閉鎖性に強い疑問を感じますが、一方、藤本は一樂に共鳴し、81年には鴨川自然王国を設立し、83年には大地を守る会の会長を辞任しています。
大地を守る会が株式会社というスタイルを取ったのは、生産者と消費者の双方の立場に立つためですが(生協では消費者の立場になってしまう)、のちに運動とビジネスの齟齬が生まれてくることにもなります。
80年に有機農産物の卸事業を担当する株式会社大地物産が設立され、デパートやスーパーでも会の農産物が販売されることになりますが、会員向けよりもスーパーでの価格が安いといった状況も生まれました。これには会員からも疑問が寄せられることになります。
第2章の最後にとり上げられているのがセゾンクループを築いた堤清二です。
堤清二は1948年に東京大学経済学部に入学すると青年共産同盟に入り、日本共産党へ入党しています。しかし、50年には内部の分派の影響で党中央から除名され、54年には父の経営する西武百貨店に入りました。
堤は流通業を、大量生産を志向する資本の論理と個人の消費生活という人間の論理をつなぐものと考え、資本の論理に回収されないものを目指すことになります。
堤は西武百貨店に入社するにあたって父・康次郎に、労働組合をつくること、大卒社員の定期採用をすることなどを求め、実際にそれを実現させました。
また、60年代以降になると宣伝でもイニシアティブを取るようになりイメージ戦略を前面に押し出しました。パルコでは徹底して前衛的な広告を打ち、また糸井重里のつくった「おいしい生活。」という西武百貨店のコピーは、個性的な消費を打ち出したものとして有名です。
しかし、堤はこうしたやり方が資本の論理に組み込まれてしまうことにも気づいていました。そこで打ち出したのが「無印良品」です。
この商品開発のコンセプトを支えたのが商品科学研究所で、初代所長には『婦人公論』の編集長も務めた三枝佐枝子が就きました。
無印良品は「わけあって、安い。」というコピーのもと、安さの理由を明示し、使用価値に即した商品展開を行おうとしました。
ただし、堤も警戒していたようにノーブランドである「無印」も常にブランド化する恐れがあるという難しい問題をはらんでいます。
このように70〜80年代には消費者の立場を問い直す動きがありましたが、バブル崩壊後はこのような流れが一変します。経済停滞の中で何よりも安さとお客様中心主義が追求されたのです。
また、規制緩和の流れの中で、しばしば消費者の利益が持ち出されましたが、同時に消費者に自己責任が求められ、消費者団体も対応に苦慮することになります。
さらに「消費者=主婦」という認識のもとで行動していた団体は、女性の社会進出などによって会員数を減らすことになり、主婦を主なに内定とした社会運動は曲がり角に立つことになります。
この時期に企業が追求したのがCS(顧客満足)です。特にこの顧客満足を徹底的に追求したことで不景気の中でも業績を伸ばしたオリエンタルランド、ヤマト運輸、セブン-イレブン、ユニクロなどが注目されました。
ただし、顧客満足と生産性はときに対立します。また、従業員に負担をかけるといった顧客満足のジレンマが発生することもあるのです。
こうした中で「消費者」という言葉に代わって「お客様」という言葉が用いられるようになります。イトーヨーカ堂の創業者の伊藤雅俊は、消費者という言葉を嫌い「お客様」という言葉を使いましたが、これには企業と利害が対立する消費者ではなく、企業と利害を共有する存在として捉えようとする意図などがあったと考えられます。
このイトーヨーカ堂に入社し、セブン-イレブンを立ち上げたのが鈴木敏文です。
鈴木がセブン-イレブンで成し遂げた流通革新の要点は、1多頻度小口配送、2魅力的な商品開発、3POSシステムによる単品管理の3つにまとめられるといいます。
特に鈴木はPOSシステムによって「お客様の立場」に立って考えられるとし、POSシステムを使い仮説と検証を繰り返すことが重要だと説きました。
鈴木は山崎製パンに日参して元旦にもパンを作ってもらったり、自分で食べてだめだと思った商品は全国の店舗から即撤去させるなど、「お客様の立場」を貫くわけですが、こうした行動は周囲の犠牲を伴うものですし、フランチャイズのオーナーにも大きな負担を掛ける形でセブン-イレブンは発展しました。
第3章の最後ではお客様相談室と、その整備に重要な役割を果たしたACAP(消費者関連専門家会議)という組織がとり上げられています。
ACAPはアメリカのSOCAP(企業内消費者問題専門家会議)をモデルに作られましたが、転職が盛んなアメリカでは消費者担当職が専門職として確立したのに対して、日本では2,3年ごとの部署異動を繰り返すので、ACAPも異動してきたメンバーに対して業務への理解を深め、相互の交流を図る組織として発展します。
こうした中で「企業即悪」(205p)と考えるような消費者団体の運動家ではなく、サイレント・マジョリティである「お客様」の声を掴もうとしました。
終章では、エシカル消費、応援消費、推し活といった近年の現象にも軽く触れています。
しかし、有機農業運動における互恵的贈与関係がときに消費者の権利を無視してしまったように、応援消費にしろ推し活にしろ、その関係性は不安定で危ういとも著者は見ています。
このように本書は「消費者」という言葉の語られ方を追いながら、戦後社会の変化を浮かび上がらせるような構成になっています。
個人的には、経営側が「労働者」に対抗できる言葉として「消費者」という言葉を持ち出し、この消費者が団体をつくって社会運動を始めると、企業が「お客様」という言葉を使うようになるという一連の流れは非常に興味深く読みました。
この他、ジェンダーの話題や互恵的贈与関係の難しさなど、いろいろな読みどころを持った本だと思います。
- 2024年09月20日23:02
- yamasitayu
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アメリカ合衆国の独立は世界史の教科書などでも「独立革命」という名称で書かれています。一方、例えば、インドの独立を「インド独立革命」と記載するケースはほぼ見ません。なぜ、アメリカの独立は「革命」なのでしょうか?
本書はこれを「成文憲法の制定」こそアメリカ独立革命の最大の功績とした上で、その憲法がいかにしてつくられ、そして以下に運用されて政治が定まっていったかを比較的長いスパン(ジャクソン大統領の登場あたりまで)で見ていきます。
煩雑にならないようにわかりやすく書かれていながら、それでいて今までの一般的な見方を覆す刺激的な議論が行われているのが本書の特徴で、「新書らしい」新書です。
入門書としても、それなりに知識がある人が読む本としても面白い内容で、フランス革命に比べて教科書の記述としては「わかりやすい」アメリカ独立革命の内実が見えてきます。
目次は以下の通り。
序章 国家が始まるということ―ローマ、アメリカ、日本第1章 植民地時代―一六〇七〜一七六三年第2章 独立―一七六三〜一七八七年第3章 連邦憲法制定会議―一七八七年第4章 合衆国の始まり―一七八七〜一七八九年第5章 党派の始まり―一七八九〜一八〇〇年第6章 帝国化と民主化の拡大―一八〇〇〜一八四八年終章 南北戦争へ
まず、本書はマキャベリを引きながら「国家の始まり」の重要性について触れています。国家の基礎となる法や原則などが定められれば、危機に際して原点に回帰することができるからです(このあたりはアーレントの議論にも通じるけど、本書はアーレントには触れていない)。
アメリカについて、近年では独立前/後の連続性を指摘する議論もありますが、本書はアメリカの独立は「革命」だったという観点に立ち、その革命的な点を連邦憲法という成文憲法の制定に求めています。アメリカの独立には、「アメリカという国家の始まり」と「成文憲法の始まり」という2つの始まりがあるのです。
アメリカの建国の歴史というと、「ニューイングランドにピューリタンが移住して〜」と語られることが多いですが、16世紀にすでに北米にはスペインとフランスが入ってきていました。
イギリスがニューイングランドに入植したのは、気候が温暖で肥沃な南部はスペインに、毛皮の交易に有利なカナダはフランスに押さえられていたからでもあります。
イギリス系の植民地は王領植民地、領主植民地、自治植民地の3種類がありました。王領植民地はヴァージニアやニューハンプシャー(ジャマイカやバルバトスも王領植民地)、領主植民地はウィリアム・ペンが設けたペンシルベニアやメリーランドやデラウェア、自治植民地はロードアイランドやコネティカットです。
このように植民地はそれぞれ性格が違い、その国制も違いました。
植民地は基本的にイギリス国王とその取り巻き(枢密院)が管理しており、イギリスの議会の権力は及ばないものと考えられていました。
ここでポイントになるのは特許状で、近年では特許状とそれを得た会社という枠組みでアメリカの植民地を理解する考えが出てきているといいます、植民地にわたった人々は特許状を後ろ盾として他のヨーロッパ人に対抗し、先住民と交渉したのです。
ですからピューリタン革命によって国王が処刑され、イギリスが共和政になると植民地は混乱しました。
1649年にチャールズ1世が処刑されると、メリーランドやヴァージニアは本国に反旗を翻し、クロムウェルによって鎮圧されています。
王政が復活すると、ニューヨークやニュージャージー、ペンシルベニアなどの新たな領主植民地がつくられますが、これらの植民地は民族的、宗教的多様性を持っていたのが特徴です。ペンシルベニアはクェーカー教徒のウィリアム・ペンに与えられた領地でした。
名誉革命によって王の力が制限されるようになると、枢密院の委員会が持っていた権力を継承する形で商務省がつくられ、各植民地の総督に指示を下しました。
しかし、ロバート・ウォルポールの長期政権では植民地に対しても自由放任の政策が取られ、総督は本国の支援を期待できず、植民地の有力者の協力を得て統治を進めることになります。
植民地内部での対立も絶えませんでした。まずは植民者と先住民の対立がありますが、この問題も単純ではなく、1676年にヴァージニアで起きたベーコンの乱では、大農園主によって辺境に追いやられて先住民といざこざを起こした植民者が、軍の派遣を頼んだがうまくいかなかったので反乱を起こすという流れになっています。
ヴァージニアでは男性の年季奉公人が多かったせいもあってジェンダーバランスも悪く、ヴァージニア会社は持参金も付与して女性の入植者を募りました。1692年には午後10時以降に外出した「品行方正でない」女性数十人がヴァージニアに送られたという記録もあります。
こうした中で人々をまとめていたのが宗教でしたが、ニューイングランドはピューリタン会衆派、南部諸州はイングランド国教会、メリーランドはカトリック、ペンシルベニアはクェーカー派といった具合に、信じる宗教はバラバラでした。
こうしたバラバラな植民地が独立に向けて動き出します。
イギリスが植民地にさまざまな課税をしようとし、それに植民地が反発したことが独立の原因であり、それは「代表なくして課税なし」というスローガンに表れていると言われます。
しかし、これにはやや一面的な面もあるといいます。例えば、「代表なくして課税なし」は常識のように語られていますが、当のイギリス議会も参政権は制限されており、庶民院の有権者は全人口の数%程度でした。こうした議会がイギリスでは主権を握っていたのです。
しかも、そのイギリス議会と植民地との関係も曖昧であり、植民地を支配するのは国王であり、議会は影響力を持たないとの議論もありました。
実際、イギリスとの対立が強まってからも、植民地の中には国王ジョージ3世に対しては信頼を置く人々がいました。
1770年3月、イギリス軍が投石などの抗議運動を行っていた市民を銃撃し5名が死亡した事件をきっかけにして イギリス軍と植民地側の対立はエスカレートしていきます。しかし、ここでも植民地側の王に対する忠誠は強く、アメリカの独立革命が古き良き国王による支配を望む「王党派革命」だったという議論もあるそうです。
1773年12月、ボストン茶会事件が起き、イギリスはこれにマサチューセッツ統治法などの強圧諸法で対抗します。これに対してマサチューセッツを助けるために13の植民地(厳密に言うとジョージアは不参加)は1774年の9月にフィラデルフィアに集まります。第一回大陸会議です。
マサチューセッツ統治法が撤回されるまで植民地からの輸出を停止するということで一致しますが、軍事的抵抗を認めるか否かは意見が一致しませんでした。
しかし、1775年、レキシントンで戦闘の火蓋が切られます。戦端が開かれると第2回大陸会議が開かれ、13植民地を束ねた軍隊の設立と、その総司令官にワシントンを任命することが決まりました。
1776年7月4日には独立宣言を出します。人間の平等、自由、権利などを謳ったものですが、イギリスからは奴隷の存在について反論されました。イギリスでは奴隷解放運動の動きが高まっており、その点でアメリカは遅れていたのです。
また、女性の存在も無視されており、ジョン・アダムズの妻のアビゲイルは夫への書簡でこの点を批判しています。
また、この時期ではそれぞれの邦(州)で憲法制定が進みました。
ジョン・アダムズの書いた『政府論』が1つのモデルとなりましたが、各邦独自の特徴も見られます。
ヴァージニア憲法は初めての成文憲法であり、権利章典の存在によっても有名です。一方、ペンシルベニアでは、一院制、白人男性の普通選挙など、かなり急進的な憲法がつくられました。
ニューヨークでは富裕な商人が牛耳っていることもあり、立法府を弱めて知事の権限を強化するような仕組みが取り入れられています。
一方、13の邦をたばねる連合のあり方については、連合の課税権を認めるかどうかで決着がつかずに持ち越されています。
戦いは大陸軍が苦戦を強いられ、1777年のサラトガの戦いの勝利でようやく戦局が好転します。
争いは大陸軍と英軍の間だけではなく、大陸軍と王党派の間でも行われ、戦いに敗れた王党派はカナダなどの落ち延びました。
また、アメリカはフランスとスペインを味方につける外交を展開し、英米の戦いはカリブ諸島、ヨーロッパ、南アフリカ、インド、フィリピンをも戦場とするグローバルなものとなり、イギリスも北米だけに兵力を集中させるわけにはいかなくなりました。そして、1781年10月のヨークタウンの戦いで英軍は決定的な敗北をします。
それでも、アメリカの独立がアイルランドなどへ波及することを恐れたイギリスは戦闘を続けますが、1783年9月にパリ条約が結ばれ、8年以上にわたる戦争が集結しました。この条約でアメリカは北西部の領土も手に入れています。
しかし、独自の財源を欠いていた連合はさまざまな危機も重なり機能不全に陥りました。
そこでマディソンとハミルトンは1787年5月にフィラデルフィアで連合規約の改正を話し合う会議を開くことを決めます。
この会議で連邦憲法が制定されることになるのですが、この憲法は紆余曲折を経て誕生しました。過去の偉大な立法者は一人というケースが多かったですが、アメリカの場合は各邦から55人ものメンバーが集まったのです。
当初はヴァージニアのマディソンが考えた素案をもとに、人口の多いヴァージニアの案が中心になるかと思われましたが、小さな邦の反発もあり、会議は二転三転します。
詳しい議論もポイントは本書を読んでほしいのですが、ポイントになったのは大統領のあり方とその選出方法でした。
当初は執行府(まだ大統領という呼び名は固まっていなかった)を3名で構成する案もあったそうです。今から考えると突飛ですが、ローマの三頭政治などが念頭にあったようです(考えてみれば同時期の日本の老中も月番交代で複数名で構成されていた)。
また、単独の大統領ということで固まったあとも、最後まで連邦議会が選ぶのか人民が直接選ぶのかという点で揉めました。
大きな邦と小さな邦の対立も根強く続きました。小さな邦は邦同士の平等を主張し、大きな邦は人口割での平等を求めたのです。この中で黒人奴隷を自由民の3/5としてカウントするという悪名高い憲法条文も誕生しています。
結局は、下院議員を人口に応じて選出する代わりに、上院議員を邦から一人選出し、下院に予算先議権をもたせるという形で決着します。
議論の中で、マディソンが邦議会への拒否権として連邦議会に与えたがっていた違憲立法審査権を連邦最高裁が持つことになり、最高裁の判事については大統領と上院によって選ばれることになりました。
そして、大統領の選出方法に関しては、選挙人団から選ぶ方法で決着し、大統領の任期も7年、再選なしから、4年再選ありになりました。
1787年9月17日、出来上がった連邦憲法への署名が行われます。妥協の産物であり、マディソンもハミルトンも内容に不満を漏らしていますが、その後は各邦での批准に向けて動き出すことになります。
憲法の批准は、デラウェア、ペンシルベニアを皮切りに順調に進みますが、マサチューセッツ、ニューヨーク、ヴァージニアといった州では賛否が拮抗していました。
反対派が勢いを増す中、ハミルトンはインディペンデント・ジャーナル誌で「パブリアス」という名を使い論駁のための連載を始めます。これが『フェデラリスト』になります。
ハミルトンはジョン・ジェイ、マディソンを執筆者に誘います。最初は互いに原稿を読みつつ執筆を進めたものの、ジェイが腰痛で離脱し、ハミルトンとマディソンが忙しくなると、お互いの主張を把握しないままに書きなぐっていくことになりますが、これが古典となりました。
マサチューセッツでは修正提案付きで批准され、ヴァージニアでも激論の末になんとか批准されました。
この批准の議論の中で権利章典の必要性が訴えられ、また、マディソンの選挙事情などもあって権利章典が修正条項として付け加えられることになりました。
1789年3月、初めての議会である第一議会が開かれ、ワシントン政権が船出します。ただし、大統領がはたしてどのような存在なのかすべてが手探りでした。
ワシントンは先住民との外交問題を解決するために上院に先例を送付して協議しようとします。憲法に条約締結について「上院の助言と承認」が必要だと書いてあったからです。しかし、上院はどう振る舞ったらいいかわからず、この問題を棚上げしました。
結果としてワシントンはヘンリー・ノックスやデイヴィッド・ハンフリーズといったかつての部下を使って問題の解決にあたりました。
また、公務員は「上院の助言と承認」を得て大統領が任命するとなっていましたが、では、罷免件はどうするのか? といったことも問題になりました。
1789年、大西洋を挟んでフランス革命が勃発すると、これをきっかけにしてアメリカ政治に党派が生まれることになります。
まず、フランス革命に対するジェファソンとアダムズの対立があり、さらに国内では合衆国銀行を創設し、商業立国を目指すハミルトンとそれに反発するがありました。
ハミルトンは強い連邦政府をつくろうとしますが、ジェファソンはこれに反対し、さらにはマディソンもこれに加わります。
ハミルトンは人々が多数派と少数派に分裂することを警戒し安定した強い権力が構築されることを望みましたが、マディソンは人民主権が「世論」という形で表れることを重視しました。この原理的な違いが両者の対立につながったのです。
フランス革命が進行し、ヨーロッパ各国が対仏大同盟を結成すると、その対応を巡っても意見が分かれます。ワシントンは中立を宣言しましたが、独立革命を支援してくれたフランスを支援すべきだとの声も上がりました。
また、この中でそもそも大統領に中立を宣言する権利はあるのか? という疑問も沸き起こり、ハミルトンとマディソンの間で論争となりました(ハミルトンの意見が通った)。
その後、イギリスとの対立に対してジェイ条約を結び、ウイスキー反乱を抑え込んだワシントンは、1796年に2期8年での大統領からの退任を発表します。これによって大統領は2期までが慣例にあり、第2代の大統領にはアダムズがつきました。
アダムズのあと、ジェファソン→マディソン→モンローとヴァージニア出身の大統領が続きます。
この時期、アメリカは西に拡大し、米英戦争の危機を乗り越えました。一方、奴隷制などをめぐる南北の対立は激化し、さらに西部の政治家たちが台頭してきます。
西部の人々の支持を背景に台頭していくるのは米英戦争の英雄でもあったアンドルー・ジャクソンです。
また、この時期はモンロー宣言に見られるようにアメリカが外交的な自立性を強めた時期でもあります。
ナポレオン戦争以後、欧州列強の新大陸での影響力は後退しました。一方、これによって先住民との力のバランスが崩れ、白人たちが西へとその土地を広げていくことになります。
この先住民への侵略への先頭に立ったのがジャクソンです。1824年の大統領選挙ではジョン・クインシー・アダムズに敗れたものの、28年の大統領選挙で当選します。ジャクソンは先住民の土地を取り上げて西部へと強制移住させ、取り上げた土地を支持者に無償で与えました。
ジャクソン政権時には、関税をめぐって連邦の課税は憲法違反だと副大統領のカルフーンが主張します。州主権が基本だとの主張で、一時はジャクソンも譲歩しますが、結局は連邦の課税権が確立して終わります。そして、このジャクソンの勝利とカルフーンの敗北に著者は革命の終わりを見ています。
このように本書はアメリカの独立の過程だけでなく、アメリカの憲法の成立とその憲法による支配が一定の安定を見るまでの長期の過程を扱いながら、それがいかに「革命」だったのかを描き出しています。
語り口もやわらかく、あまり煩雑にならないようにしつつ刺激的な論点も盛り込んであり、これぞ新書という1冊に仕上がっています。
- 2024年09月14日22:18
- yamasitayu
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賛否両論の的になりつつ、2023年6月にアメリカ連邦最高裁で違憲判決をくだされたアファーマティブ・アクション。そのアファーマティブ・アクションのアメリカにおける誕生から終焉までを追ったのが本書になります。
アファーマティブ・アクションというと、「差別是正のために必要か?逆差別か?」というようにディベートのテーマのような形で扱われることが多いですが、本書はアメリカでの歴史、そしてその語られ方を丁寧に追っており、非常に勉強になります。
日本でも大学の理系学部での「女子枠」の導入が進んでいますが、本書でアファーマティブ・アクションの歴史を知ることは、こうした日本での問題を考えるうえでも役立つのではないでしょうか。
目次は以下の通り。
序章 なぜアファーマティブ・アクションが必要だったのか第1章 いかに始まったのか―連邦政府による差別是正政策第2章 それは「逆差別」なのか―転換点としてのバッキ裁判第3章 反発はいかに広がったのか―「文化戦争」のなかの後退第4章 いかに生き残ったのか―二一世紀の多様性革命第5章 なぜ廃止されたのか―アジア系差別と多様性の限界終章 どのように人種平等を追求するのか
アファーマティブ・アクションは、技能職や大学の入学枠などに人種別の数値目標を求めたり、選考の際に人種の考慮を求めたりするもので、1960年代のアメリカで始まりました。
アメリカでは1964年に公民権法が成立することで公共施設、教育、雇用における差別が禁止されました。しかし、公民権法の成立後に表面化したのは、法的な差別や隔離の解消がすぐに人種主義的な体制の解体には結びつかないという現実です。
黒人の貧しい居住環境、貧弱な教育環境とともに、安定した仕事に就きにくい、住宅ローンを組みにくいなどの、さまざまな制度的人種主義が存在することが明らかになったのです。
これに対して、登場してきたのがアファーマティブ・アクション(以下AA)になります。
時代を遡ると、AAのような人種ごとの割当制度(クオータ制度)が過去にもありました。
19世紀後半から、南・東ヨーロッパからの移民が増え、カトリックやユダヤ教徒の割合が増えてくると、1924年に移民受け入れの国別割当制度が導入されます。これは移民の数を1890年の各国出身者の2%を上限として設定するもので、南・東ヨーロッパからの移民の締め出しを狙ったものでした。ちなみにアジア系は枠さえ設定されずに新規移民の受け入れが停止されています。
この時期に導入されたもう1つのクオータ制がアイビーリーグの大学などがユダヤ人の学生を制限するために導入した「ユダヤ人クオータ」です。
ハーバード大では、1925年にユダヤ人が入学者の1/4以上になり、学内の人種秩序が崩れると考えた大学はクオータ制を導入してユダヤ人の割合を15%にまで抑え込みます。
ニューディール政策でも南部では州政府の事業で黒人が排除され、戦後、復員兵の大学進学や住宅取得を後押しした復員兵援護法(GIビル)においても、黒人は大学や住宅ローンから黒人を排除する慣行に阻まれたといいます。
1961年に大統領に就任したケネディは雇用差別問題に取り組むために「雇用機会均等に関する大統領委員会(PCEEO)」を設置し、雇用差別の調査や指導に取り組みますが、この大統領令に「積極的な措置(affirmative action)」という言葉が使われていました。
ただし、その意味するところは「差別をしないこと」であり、人種による特別な取り扱いを求めているわけではありませんでした。
ジョンソン政権は公民権法を成立させると、司法長官に差別の禁止や平等を憲法上の権利として守るための権限を認め、差別案件について調査する公民権委員会や雇用機会の平等を求める雇用機会均等委員会(EEOC)の設置を決めます。
ただし、EEOCは殺到する案件に処理が追いつけませんでしたし、何を雇用差別とするかという基準がはっきりしていませんでした。
こうした中で1つの基準となったのは、1966年にニューポート・ニューズ造船社とEEOCの間で結ばれた和解合意における差別の解釈でした。ここでは上級職や管理職に黒人が圧倒的に少ないことを差別と認定したのです。EEOCは66年から従業員1000名以上の企業の人種構成を調査するようになり、雇用差別の実態を改善するように「積極的な措置(affirmative action)」を求めました。
それでも黒人の雇用が少ないのは能力に基づいた結果だという主張がありましたが、それに楔を打ち込んだのが1971年の合衆国最高裁判所によるグリッグス対デューク・パワー社判決でした。
デューク・パワー社は公民権法の成立とともに卒業証明に代えて昇進試験を導入しましたが、このやり方でも黒人が昇進できない状況は変わりませんでした。最高裁は「現状を『凍結』する」ような制度だとしてこれを差別だと認定したのです。
こうして過去の差別の補償のために政府が積極的に介入すべきだという「補償的正義」の考えが確立していきます。
こうした中でAAが導入されていくことになり、女性にも対象を拡大させながら進んでいくことになります。
このAAを大々的に勧めたのが共和党のニクソン政権でした。
ニクソン政権は、ジョンソン政権が導入したものの断念した連邦政府の事業に入札する建設業者のAAを求めるフィラデルフィア・プランについて、これを修正したうえで導入しました。
ニクソン政権のAAの推進については。民主党の支持基盤だった労組と黒人を分断させる戦術だったとの見方があります。確かに、結果としてこの分断は上手くいくのですが、著者はそれよりもAAが安上がりな人種政策であったことに注目しています。
ジョンソン大統領が進めた「貧困との闘い」はコミュニティ単位に予算の支援を行うものでしたが、AAは大規模な予算措置を必要としない福祉政策でした。「数値」の目標を定め、その「数値」の達成を求めるやり方は、わかりやすくコストのかからないものだったのです。
このAAですが、70年代になるとマジョリティの側から「逆差別」と訴えられることになります。
まず、1976年の合衆国最高裁のマクドナルド対サンタフェ輸送会社判決があります。これは従業員が積み荷の不凍剤を不正流用した事件でしたが、この事件に関与した従業員3名のうち白人2名が解雇され、黒人1名は解雇猶予となります。原告の白人従業員はこれを人種差別だとして訴えました。
これに対して合衆国最高裁は業務上の不正に対する罰に人種は関係ないはずであり、そこで人種によって異なる扱いをしたとすればそれは差別になると結論付けました。
また、1971年にワシントン大学法科大学院を不合格になったユダヤ系の白人学生マルコ・デフニスが起こした裁判が「逆差別」という言葉を世間に広めることになります。
デフニスは自分がマイノリティ枠よりも高い点数をとっていたにもかかわらず不合格になったのは「白人」であったためであり、平等保護原則に反すると訴えたのです。
71年にキング郡上位裁判所はデフニスへの差別を認定し、大学への入学を認めるように求めました。これに対してワシントン大学は入学を認めながらも控訴します。
結局、合衆国最高裁まで持ち込まれましたが、デフニスがすでに大学院終了間近だったこともあり、最高裁は合憲性についての判断を留保したまま審議を終えます。
しかし、キング郡の判決で「逆差別」という言葉が使われたこともあり、この事件をきっかけにこの言葉が広まっていくことになるのです。
そして、1974年からはバッキ裁判が始まります。
白人男性のアラン・バッキはミネソタ大学で工学を学び、その後NASAで働いたあと、1971年、32歳のときに医師を目指してカリフォリニア大学デイビス校医科大学院を受験しましたが不合格となり、翌年も不合格になりました。
デイビス校では定員100名のうち16名を非白人のための特別枠としていましたが、バッキはその枠で入学した学生よりもいい点数だったにもかかわらず不合格だったのは差別だとして訴えたのです。
裁判では郡の上位裁判所でも、州の最高裁でも違憲判決が下りました。特別枠を「クオータの一形式」として違憲とするとともに、1968年に大学院を開設したばかりのデイビス校が過去にマイノリティを差別したという証拠がなかったことも問題視されました。
カリフォリニア大学が合衆国最高裁に上告したことで、合衆国最高裁でAAについての何らかの判断がくだされることとなりました。
この裁判には過去に例のない注目が集まり、黒人団体や人権団体がAAを支持する意見を出すとともに、ユダヤ系アメリカ人の団体はAAを「人種クオータ」と呼んで反対しました。また、イタリア系やポーランド系も特定のマイノリティを救済するための措置が、他のマイノリティ(自分たち)のアクセスを否定することに反対しています。
論争で焦点となったのは、カラー・ブラインド(人種を意識しない)か、それともカラー・コンシャス(人種を意識する)というものです。
AAに反対する人は、しばしばマーティン・ルーサー・キングの「私には夢がある。私の3人の息子たちが、肌の色ではなく、人格そのものによって判断される日が来ることを夢見ている」(71p)という言葉を引用し、カラー・ブラインドを訴えました(キングは不平等是正のために連邦政府の介入を支持する立場だった)。
一方、大学側は人種差別によってつくられた不平等を改善するためには、カラー・コンシャスであることが必要だと訴えました。人種を考慮しない形式的な平等は現状を再生産するだけだというのです。
1978年6月28日、いよいよバッキ裁判の合衆国最高裁の判決の日を迎えました。
判決を導いた意見はルイス・F・パウエル判事のものでした。パウエルは「人種やエスニックによる区分」を疑わしいものとし、「人種やエスニックな地位に基づいて線を引いている」としてデイビス校のAAを「無効」とし、アラン・バッキの入学を認めました。
一方、AAは完全に否定されたわけではなく、制度的人種主義に対する是正措置としてのAAを否定はしましたが、「多様な学生集団を獲得するという目標」のために人種を用いたAAは認められるとの判断を示したのです。
パウエルは「多様性から学ぶこと」の意義を強調し、学生層のバランスを取るためのAA(ハーバードがこういう方法を用いていた)は認められると判断したのです。
この判決にはAAの推進派と反対派の双方から批判が出ましたが、「敗訴」したカリフォリニア大学の総長が「大学にとっては偉大な勝利」と表現したように、教育現場などからは歓迎されました。「逆差別」という批判を受けながらもAAは定着していくことになります。
1980年の大統領選挙で当選したレーガンはAAの見直しを公約にし、EEOCなどの連邦機関の予算を大幅に縮小しました、この流れは次のブッシュ政権だけではなく、民主党のクリントン政権にも受け継がれました。
80年代後半〜90年代にかけて、AAは「文化戦争」と呼ばれた対立の争点の1つとみなされ、人工妊娠中絶、同性愛者の権利といったトピックとともに取り扱われるようになります。そうした中でAAが人種的な分断を煽っているとの声も上がります。
黒人の中からもAAへの反対の声が出るようになります。社会学者のウィリアム・ジュリアス・ウィルソンは都市部のアンダークラスはAAでは救えないと考え(AAは次第に高等教育機関や大企業などに限られるようになってきた)、人種よりも階級を重視すべきだと主張しました。
一方、黒人エリートの中からもAAへの批判の声が上がります。法律家のクラレンス・トーマスはレーガン政権下でEEOCの委員長に就任しますが、AAには否定的な考えの持ち主でした。
トーマスによれば、AAのせいで黒人は「優遇」されたとみなされ、「優遇なしには対等な競争ができない存在」(99p)として認識されるというのです。
こうした人物をトップに戴いたEEOCは機能不全に陥りますが、これこそがレーガンの狙ったものでした。1991年にはブッシュ大統領がトーマスを最高裁の判事に任命します。
とは言っても、AAに反対する黒人はあくまでも少数派でした。
バッキ裁判でAAの息の根を止めることができなかった保守派は住民運動によってAAを廃止しようとします。
カリフォリニア州では1991年に「カリフォリニア公民権イニシアティブ(CCRI)」と呼ばれるAAの廃止を求める住民提案文書が作成され、保守系の政治家を中心に住民投票を求める運動が始まります。
この運動はなかなかうまく行きませんでしたが、95年11月から黒人実業家のウォード・コナリーを議長に迎えたことで運動は加速します。
当時のカリフォリニア州知事のピート・ウィルソンはAAに反対しており、カリフォリニア大学でのAAを廃止させましたが、さらにCCRIを成立させる運動に乗り出します。
ウォード・コナリーは提案文書を修正し、AAという言葉を使わずに一貫して「優遇措置(preferential treatment)という言葉を使いました。住民投票で多数を獲得するためには「優遇措置の禁止」というワードが効くと判断したからです。
コナリーは成功した人物であり、「努力すれば成功できる」という成功者のバイアスを持っていたと思われますが、黒人による「優遇措置」への反対という作戦は効きました。
1996年11月の大統領選挙に合わせて行われた住民投票では賛成54.6%、反対45.4%で「優遇措置」禁止の提案は承認されました。白人以外の人種/エスニシティ、女性では反対が多かったものの白人男性を中心とした賛成票が上回ったのです(116p表3−1参照)。
一方、出口調査によると「女性やマイノリティがよりよい職や教育を得るために民間・公的なアファーマティブ・アクション・プログラムを支持しますか」との質問については回答者の54%が支持すると答えました。
それでも、AA廃止の動きはワシントン州やフロリダ州にも広がりました。
2003年6月、ミシガン大学のAAをめぐって起こされていた2つの裁判の判決が合衆国最高裁でありました。
法科大学院への入学を巡って争われたグラッター対ボリンジャー裁判では、人種を入試の1つの要素として考慮するやり方を合憲としましたが、学部入学について争われたグラッツ対ボリンジャー裁判では、白人志願者と非白人志願者を分けて選抜する「グリッド制」と非白人学生や貧困層出身者に一律に加点する「ポイント制」はともに違憲とされました。
最高裁は、「多様性の確保」というAAの目的は認めたものの、実施できるAAはより狭くなりました。また、判決文ではAAの「期限」についても言及がありました。
その後、2006年にミシガン州でもAAを禁止する住民投票が可決され、ミシガン大学のAAは禁止されてます。
企業のAAについては企業の裁量が認められていましたが、白人から「逆差別」として告発されるリスクを避けるためにクオータ制などは採用されず、採用や昇進において人種などを考慮するなどの穏健なものにとどまりました。
一方で1980年代に研究者や人事コンサルタントが「多様性マネジメント」という考えを打ち出したこともあり、特にジェンダーの平等について意識された人事が行われるようになります。
2009年、オバマが非白人として初めての大統領になります。オバマ政権はAAを推進し、多様性確保のためのガイドラインを作成しました。
しかし、こうした中で白人の被害者感情に訴えて2016年の大統領選挙に勝利したのがトランプです。「白人に対する差別は、黒人や他のマイノリティに対する差別と同様に問題である」と考える人は2016年の大統領選時に白人で57%、とくに白人労働者階級では66%、トランプ支持者では81%にまで達しました。
これを受けて、トランプ政権はオバマ政権がつくったAAのガイドラインを廃止し、教育機関に「人種的に中立な方法で」選抜することを「強く推奨」しましたが、ハーバード大などはこれに従いませんでした。
しかし、トランプ大統領がなしたことで大きかったのは合衆国最高裁の判事に保守派を3人送り込み、保守派6名、リベラル派3名という保守は圧倒的優位の合衆国最高裁をつくりあげたことでした。
この保守派寄りになった最高裁が2023年6月にハーバード大とノースカロライナ大における人種を考慮する入学者選抜の方法を違憲と判断し、AAを終わらせることになります。そして、今度の原告は白人ではなく、マイノリティでありながらAAによって不利を受けたとするアジア系でした。
2020年の時点で「アジア系」とされた人はアメリカの人口の6.2%を占め、大卒以上の学歴を持つ者は61.1%と白人の41.3%を上回ります。そのせいもあって2022年の世帯あたりの年間実質所得の中央値は10万ドルを上回り、白人(8.1万ドル)、ヒスパニック(6.3万ドル)、黒人(5.3万ドル)よりも高くなっています。
2014年、「公平な入試を求める学生の会(SFFA)」がハーバード大とノースカロライナ大を訴えますが、ここでポイントになったのがAAは「アジア系への差別」だという主張でした。
この裁判で注目されたのは成績優秀でSATで満点近い成績を取りながらアイビーリーグの大学にことごとく不合格になったマイケル・ワンであり、また、公民権政策の停止をライフワークとしてきた白人活動家のエドワード・ブラムでした。
この裁判はメリトクラシーを信じるアジア系エリート移民と、白人優位の社会を維持しようとするバックラッシュ運動の利害の一致によって進められたのです。
そして、合衆国最高裁は、「人種」を考慮するステップを含んだハーバード大とノースカロライナ大の入試は、憲法に違反していると結論付けました。
最高裁の多数意見は両大学の入試が人種という「疑わしい区分」を用いてまで実現しなくてはならない利益があるのか。といった点を指摘し、さらにAAは目的達成のための一時的手段のはずなのにAAを終了する具体的なポイントを設定してないことも問題視しました。
リベラル派のソトマイヨル判事はアジア系の中の多様性(中国系やインド系だけでなくインドシナ難民のモン人などもいる)に配慮する際にもAAは有効だと主張しましたが、保守化した最高裁では少数意見にとどまりました。
ただし、AAが問題になっていたのは一部の難関大学だけであり、それ以外の大学ではすでにキャンパスの多様性は実現しており、AAのような措置は必要なかったという事実もあります。
また、人種を基準とした多様性確保の試みは消えることになりますが、難関大学でも卒業生の家族や親族を対象としたレガシー入試やスポーツ入試が「キャンパスにおける多様性の維持」という名目で行われています。
最後に著者は、AAのはじまりにもう1度目を向け、AAは1つの手段であり、目的としては構造的な不平等の解消であったことを指摘しています。確かにAAという手段は最高裁で否定されましたが、差別の解消という目的は未だに果たされておらず、原点に帰った取り組みがまだまだ必要なのです。
まとめを長々と書いてしまいましたが、それだけ読み応えのある面白い本です。
AAはよくディベートのテーマなどに使われますが、本書を読むことで「差別の解消か?逆差別か?」というような単純な理解では論じられないことがわかるはずです。
- 2024年09月07日23:05
- yamasitayu
- コメント:2
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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