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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2016年02月

訳は『イスラーム国の衝撃』(文春新書)の池内恵。著者のブルース・ ローレンスはアメリカの宗教学者です。
冒頭に置かれた新書版に向けた訳者解説(この本はもともと2008年に『名著誕生5 コーラン』というタイトルで刊行されている)の中で、池内恵はこの本の意義を次のように語っています。
日本語でイスラーム教について解説する入門書は探せばかなり多い。しかし一般向けに噛み砕いたそれらの本を、何冊読んでみても、「その先」に進むことはできない。そのように思っている人に、この本は向いている。この入門書を徹底的に読めば、イスラーム教やその思想史を読み進めていく手がかりがきっと得られる。(3p)

確かにこの本は一般的な入門書とは違います。「六信五行」や「ジハード」などの事項を解説しているわけではありませんし、「イスラームはじつは平和な宗教なのだ」といった主張をする本でもありません。

キリスト教について、私たちはキリスト教徒の行動やルールを学ぶよりも、むしろ、聖書の中のイエスの生涯や言行や、宗教改革を起こしたルターの思想などを学ぶ機会が多いかもしれません。それらを通じて、キリスト教の主張のようなものが理解されていることも多いでしょう。
一方、イスラーム教に関しては、ムハンマドの生涯や言行、主流派のスンナ派から別れたシーア派の思想などが学ばれることは少ないと思います(ムハンマドの生涯に関して映像化できないという問題点も大きいのでしょうが)。

そんな、普段触れることの少ないムハンマドの生涯や言行、そしてムハンマドによって著された『コラーン』という書物とその解釈の歴史を追ったのがこの本になります。
この本を読んでイスラーム教が「理解」できるかどうかはわかりませんが、現在に至る思想の「流れ」のようなものはつかめるのではないでしょうか。

目次は以下のとおり。
序章
I アラビア半島での発祥
第1章 商人ムハンマドへの啓示
第2章 預言者ムハンマドの戦いと政治
第3章 アーイシャ 敬虔な妻
第4章 エルサレムの岩のドーム
II 草創期の注釈者たち
第5章 シーア派の対抗思想 ジャアファル・サーディク
第6章 イスラーム史の大成 タバリー
III 解釈の試行
第7章 西洋中世とコーランの挑戦
第8章 イブン・アラビーの幻視的解釈
第9章 神秘主義詩人ルーミー
IV アジアへの伝播
第10章 楽園への入り口 タージ・マハル
第11章 イスラーム教と近代化 アフマド・ハーン
第12章 詩と真実 ムハンマド・イクバール
V 現代社会とコーラン
第13章 人種平等への導き
第14章 ビン・ラーディンとジハードの指令
第15章 病からの癒し
終章

まず、この本を読むとイスラーム教にとっては『コーラン』こそが「奇跡」だという印象を受けます。
イエスは病人を治したり水の上を歩いたりしましたが、ムハンマドにはこのようなエピソードはありません。部族内部での対立や戦闘、妻が不貞をはたらいたかどうかなど、ムハンマドを取り巻くエピソードは、イエスや釈迦に比べると宗教者としては俗っぽい感じを受けます。

しかし、この本を読むと、『コーラン』という神からの啓示こそが圧倒的な「奇跡」であり、わざわざムハンマドが新しい「奇跡」を付け足さなくても十分であったことが見えてきます。文盲だったと言われるムハンマドが、『コーラン』のような美しい詩句を示すことができた。それが「最後にして最大の奇跡」と言えるのでしょう。

次にシーア派の誕生について。
世界史の教科書などでは、シーア派は「ウマイヤ朝の創始者であるムアーウィヤがカリフを名乗ったことに対して、カリフはアリーとその子孫にしか認められないとするグループ」という形で説明されていますが、この説明だと、アリーへのこだわりや、シーア派がアリーの暗殺やアリーの息子のフサインの虐殺からしばらくたってから力を持つようになった理由がいまいちわかりません。

この本を読むと、アリーが特別な信徒(ムハンマドの妻ハディージャにつぐ2番目の信徒)であったことがわかりますし、また、シーア派がジャアファル・サーディクという人物によってその一歩が踏み出されたことがわかります。

ジャアファル・サーディクはフサインのひ孫であり、イスラム共同体の指導者であるイマームであり、比類なき学者でもありました。
彼は特に当時のアッバース朝の支配に反対していたわけではありませんが、760年、アッバース朝のカリフ・マンスールがイマームを名乗ると、ジャアファルは反発、イマームはムハンマドの血筋に連なるものでなければならないと主張し、『コーラン』の中にアリーの家の特別さを読み込んでいくのです。

他にもこの本では、『コーラン』をラテン語に翻訳したケットンのロバート、神秘主義者のイブン・アラビー、19世紀にイスラーム教と科学の両立を模索したアフマド・ハーン、1975年にアメリカの「ネイション・オブ・イスラーム」の指導者となったイマーム・W・D・モハメッド、そしてウサーマ・ビン・ラディンなどの『コーラン』の読み方、関わり方などを紹介していきます。

あくまでも「『コーラン』の読み方」にこだわっているために、一般的な入門書のようなわかりやすさはないですし、周辺的な知識についてもあまり説明していないことが多いため、やや歴史的な変遷がわかりにくい面もあります。
ただ、表面的な歴史の変遷とはまた違った知識を得られるのは確かで、イスラーム教を理解したい人にとって目を通す価値のある本だと思います。

(089)コーランの読み方: イスラーム思想の謎に迫る (ポプラ新書)
ブルース ローレンス Bruce Lawrence 池内 恵
4591149641
サブタイトルは「ホラーで人間を読む」。ホラー映画を題材としながら、「恐怖の機能」、「恐怖の正体」、そして「ホラーを楽しむということ」を徹底的に掘り下げようとしています。
著者が「まえがき」で「恐怖は意外にも哲学の主題になってこなかった」(16p)と書くように、「笑い」や「愛」などに比べると「恐怖」を論じた哲学は少ないはずです。ただ、その理由は想像しやすいもので、「笑いや愛といったはものは人間独自のものだが、恐怖は他の動物にもあるものだから」といったものがあがるでしょう。

しかし、実はそこが著者の狙い目でもあります。著者は「あとがき」の最後の部分で次のように書いています。
さて、本文の最後で書いたとおり、哲学は生物学や脳科学とシームレスでつながるべきだ。魂があるから、理性があるから、言語があるから、人間は特別なんだとハナから決めてかかるヘッポコ哲学者には、彼らの思惑に反して、人間のユニークさは決して理解できないだろう。そういう哲学者の首をチェンソーではねてまわりたい、と思う今日この頃。(445p)

著者の『哲学入門』(ちくま新書)(おすすめです!)を読んだ人はわかると思いますが、この「人間の特別さを認めない」というのは著者の一貫したスタイルです。『哲学入門』は、「意味」、「自由」、「道徳」といったものが生物の進化の過程の中で生まれてきたことを示そうとした本でしたが、この本も基本的には人間の「恐怖」という感情が生物の進化の中で生み出されてきたことを示そうとしています。

けれども、恐怖が動物にも共通する感情だというのは当たり前です。うちで昔飼っていた猫は犬に追いかけられてカーテンをよじ登りましたし、庭に出てきたヒキガエルに飛び上がらんばかりにビビっていました。そのとき、おそらくうちの猫は恐怖を感じていたはずです。

そこで持ちだされるのがホラー映画ということになります。
著者はヘビを見て恐怖を覚えて逃げ出す体験ような単純な恐怖の体験を「アラコワイキャー体験」と名づけています。人は、ヘビなどの恐怖の対象を認知し、心臓がバクバクするなど恐怖の「感じ」を味わい、逃げ出すという行動に出るわけです(ゴキブリなんかだととっさに叩くかもしれない)。
基本的に人は自分が恐怖心を抱くものに出会いたくないと思っています。ヘビやゴキブリが怖い人は基本的にヘビやゴキブリに出くわしたくないと思っているはずです。

ところが、ホラー映画はどうでしょう。ホラー映画を見るという行為は、わざわざお金を払って恐怖や嫌悪を味わう体験にほかなりません。ライオンがシマウマを襲う映画を見たがるシマウマはいそうにないですが、猟奇殺人者が人々を殺し回る映画を見たがる人はたくさんいます。これはなぜなのか?

さらに、「現実には存在しない怪物をなぜ怖がることができるのか?」、「怖いのになぜ人々は劇場から飛び出したりしないのか?」といった疑問も出てきます。
このように「ホラー映画を見て怖がる」というのは、極めて複雑な行為であり、探求すべき謎を含んだ行為なのです。

では、この謎はどのように解明されているのか?
それに関しては、450ページ近いこの本の要約は困難なのでぜひとも本書を読んでほしいのですが、一応、大雑把な見取り図だけを示しておきたいと思います。

『哲学入門』を読んだ人は「オシツオサレツ」という現象を覚えているかもしれません。これは哲学者のミリカンが『ドリトル先生』の中からとってきた動物の行動パターンで、ある入力があればかならずある出力(行動)をするようなものです。
例えば、カエルはハエが飛んでいるのを見ると必ず舌を伸ばして捕まえようとします。非常に単純なしくみですが、昆虫などはこうした「オシツオサレツ」の行為を組み合わせることで一見すると複雑な行為を行っているのです。

一方、人間はもう少し複雑なことをしています。映画館の中で怪物を見ても、飛び出さずにそこにとどまることもできるのです。
本書によると、恐怖は「表象」です。著者はそのことについて次のように述べています。
ヘビを怖がっているとき、私は二つの表象を持っている。ヘビの表象と恐怖の表象だ。前者は知覚の表象であり、後者は情動の表象だ。(152p)

「ヘビの表象」というのはわかると思います。一方、「恐怖の表象」は少しわかりにくいかもしれません。
情動には対象に対するさまざまな評価が含まれています。また、情動はさまざまな身体的な反応を伴います(恐怖なら心臓がバクバクする、血糖値が高まる、など)。情動はこれらの評価や身体的反応を表象しているというのが、この本で紹介されている哲学者プリンツの考え方です(本書での説明はもっと丁寧で、この要約はかなり乱暴です)。

そして、この「恐怖の表象」というワンクッションがあるので、そこに例えば「映画の存在は虚構である」という信念が介在でき、われわれは映画館から逃げ出さないのですし、また、実在しないものを怖がることができるのです。

では、なぜ人はお金を払ってまでわざわざホラー映画を見るのか?
これには古来、「怪物は抑圧された欲望だから!」という精神分析的や、「ホラーは確かに恐怖心や嫌悪を引き起こすが怪物の謎をとくというそれを上回る喜びがある」といったいろいろな説明があります。
これに対して著者はホラーのもたらす身体的反応そのものが快楽をもたらすのではないかと述べています。ドキドキする心臓やアドレナリンの噴出といった恐怖に対する身体的反応は一種の快楽でもあるのです。

さらに、この本は恐怖の「感じ」の「感じ」とはいかなるものなのかという問題に切り込み、いわゆる「哲学的ゾンビ」の問題(人間とまったく同じだが「感じ」を持たない存在)をとり上げます。
ここは簡単に要約しがたいので興味のある人はぜひ本書を読んで下さい。

このように書くと、かなり硬い本に思えるかもしれませんが、くだけた口調で『ゾンビ』や『スクリーム』や『ミスト』などのホラー映画に言及しながら話は進むので楽しく読めると思います。
また、さまざまな心理学の実験なども紹介されているので、下條信輔の『サブリミナル・マインド』(中公新書)あたりが好きな人にもおすすめです。
ちなみに評者はあまりホラー映画が好きではないのですが、ホラー映画が好きではない人でも面白く読めると思います。そして、ホラー映画好きならさらに面白く感じるかもしれません。

恐怖の哲学―ホラーで人間を読む (NHK出版新書 478)
戸田山 和久
4140884789
東浩紀と工場や団地についての写真や文章を発表している大山顕がゲンロンカフェで行ったショッピングモールについての連続トークをまとめたもの。
東浩紀は以前からショッピングモールに注目していて、自ら立ち上げた『思想地図β vol.1』では、特集として「ショッピングモーライゼーション」を持ってくるなど、ショッピングモールに将来の都市やライフスタイルの可能性を見ていました。
そこに、いろいろな建築物を「面白がる」ことを得意としている大山顕が加わったことで、全体として面白く読めると思います。
ただ、両者が同じ方向を向いているために、意見の違いからなにか新しい論点が出てくるということはあまりなく、東浩紀の持つ「空気を読まずに議論をひっくり返す力」のようなものは十分に発揮されていない感じでしょうか。

目次は以下のとおり。
第1章 なぜショッピングモールなのか?
第2章 内と外が逆転した新たなユートピア
第3章 バックヤード・テーマパーク・未来都市
付章 庭・オアシス・ユートピア

第1章から第3章までが東浩紀と大山顕の対談。付章はランドスケープデザイナーの石川初を迎えての鼎談となっています。

第1章では、まず、タイのバンコクやシンガポールのショッピングモールなどの様子から、「ローカルと思われている屋台が観光地であり、ショッピングモールこそがローカルである」という話に入っていきます。
ショッピングモールというと「どこでも同じ」、「無味乾燥」といったイメージが付きまといますが、地元の人が行くのはショッピングモールであり、そこに地方のリアリティがある言います。

また、ショッピングモールというのは「外部のない空間」で、それはアメリカのクルーズ船なども同じであるといいます。このクルーズ船には老人や障害者なども参加しており、その「外部のなさ」が、そういった弱者の観光を可能にしています。この章では明示されているわけではありませんが、ショッピングモールの可能性というの一つはそこにあるのでしょう。
そして、対談の終わりの質疑応答の中で東浩紀は次のように述べています。
言語も宗教も政治体制も違うのに、ショッピングの実践では同じというのはすごい。大げさではなく、これは人類にとって大きな可能性ではないでしょうか。今度世界で言語や宗教が統一されたり、連邦政府がつくられたりすることはありそうにない。しかしみながZARAを着るということはありうる(笑)。(58p)

第2章では、大山顕がショッピングモールについて「内と外が逆転した新たなユートピア」という考えを示し、そこから話が展開していきます。
普通、建築物というとその外観を思い浮かべますが、ショッピングモールの外観というのはだいたいのっぺりとしたもので、そこに何か個性を感じることはまれです。
ショッピングモールにおいて顔となるのは、吹き抜けを中心とした内装であり、一度中に入ると、窓がない構造になっていることが多いので外部を意識しません。
この「外部を意識させない」というのは、近年の空港や飛行機の乗り継ぎなどもそうですし、ディズニーランドも同じです。
そういった話から、東京にはストリートがない(住所を通りで把握できない」といった問題や、「ショッピングモールは曲線でできている」など、いろいろな論点がでてきますが、ややまとまらずに終わっている感もあります。

第3章は、東浩紀のディズニーワールド体験記から。空港から園内まで、いかに徹底的に「外部を見せない」構造になっているかが、自らの体験とともに語られています。行き帰りのバスから指紋認証による電子チケットまで、「外部のないユートピア」が実践されているのがディズニーワールドだと言います。

一方の大山顕は、イクスピアリのデザインや構造からショッピングモールとイスラム庭園の類似性を指摘し、2人は「ショッピングモール・イスラム起源説」で盛り上がります。
さらに質疑応答では、東浩紀が日本でコンパクトシティをやろうと思ったら「ショッピングモールのような形態を取らざるをえない」(187p)と述べています。

ここまで、いろいろと面白いアイディアが出てきていますが、最初に述べたように2人に対立軸はないので、そのアイディアが練られていく感は弱いです。
その点、付章では、石川初が加わったことで、植生の話なども出てきて地理的に面白い話が展開されています。
特にインドネシアではモール内の気候のほうがモールの外よりも植物にとっては厳しいために、バックヤードで植物を休めせている話は興味深いです。「モール性気候」なる言葉も登場しますが、この人工的空間と自然の折り合いというのは、普段は気づきにくいものかもしれません。

けれども、やはり一回はショッピングモールに批判的な人とのトークも欲しかったところ。
例えば、「外部のないユートピア」といっても「外部」の存在がなくなるわけではないので、「外部」との関係は問題になるはずです。この「外部を排除して成り立つユートピア」というのは、それこそ国民国家起源の福祉国家にもそういった側面があり、「排除はけしからん!」などと言うつもりはありませんが、このあたりの検討はもう少し欲しい所です(東浩紀の今までの議論に引きつけて言えば、家とショッピングモールが直結することで、「外部」が見えなくなり、ルソー的な「あわれみ」やローティ的な「想像力」を持つ機会がなくなるのではないか?といった疑問が浮かぶ。もちろん、東浩紀が別の場所で「観光」、特に「ダークツーリズム」という考えをプッシュしているのも知ってはいますが)。

その点、「ショッピングモールの思想」に対して、北田暁大が真摯に疑問を呈した『思想地図β vol.1』の座談会のほうが個人的にはずっと面白く感じました(この対談については別ブログの「3冊の思想地図」というエントリーで紹介しています)。
ただ、非常に楽しい対談ですし、小難しいことを考えなくても、街歩きが趣味だったりする人には楽しめる本になっていると思います。

ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都市 (幻冬舎新書)
東 浩紀 大山顕
4344984048


思想地図β vol.1
東 浩紀 宇野 常寛 千葉 雅也 速水 健朗 北田 暁大 鈴木 謙介
4990524306
独裁者ムッソリーニの退場とともに始まったイタリアの戦後。この本は、そのイタリアの現代史を主に政治を中心に描いたものになります。この本を読むと、イタリアのめまぐるしく動く政治情勢に驚かされるのですが、著者はそのめまぐるしく動くイタリアの政治を丁寧にたどっていきます。

この本の巻末のイタリア共和国歴代政権の一覧を見ると、ムッソリーニ失脚後に発足したバドリオ政権から現在のレンツィ政権まで、ざっと30人の首相の名前があがっています。なかなかの人数ですが、この人数だけであれば日本も同じようなものです(東久邇宮内閣から現在まで33人)。
ところが、この30人のなかには8回組閣したデ・ガスペリ、7回組閣したアンドレオッティ、6回組閣したファンファーニなどが含まれており(日本だと吉田茂の5回が最高)、いかに多くの組閣が行われたかがわかります。
しかも、ファンファーニは1954年から1963年にかけて4回組閣した後に、1982年、1987年に組閣という不死鳥のような復活ぶりを示しており(日本だと岸信介が大平死去後に出てきたみたいな感じか)、まさに複雑怪奇です。

そんな複雑怪奇なイタリアの政治情勢ですが、この本を読むとその要因が見えてきます。
まず連合国軍に完膚無きまでに敗れた日本やドイツと違って、イタリアは1943年7月のシチーリア上陸をきっかけにムッソリーニが失脚。その後、イタリアはドイツ軍の占領する北部と連合国に占領された南部に分断されます。
その後、レジスタンスによるドイツへの抵抗が続き、1945年4月末にイタリア全土が解放されるのですが、これによってイタリアでは第2次世界大戦中からのさまざまな勢力が温存されることになりました。
ドイツや日本では一掃された右翼的な勢力も残りましたし、また、共産党も占領軍に厳しく弾圧されたりはしませんでした。つまり、日本やドイツでは戦後処理や冷戦構造の中で切り捨てられた「右の端」と「左の端」が、イタリアでは残ったのです。

しかも、選挙制度では阻止条項のない比例代表制が採用されたために、小党の分立が進みました。
イタリアでは、1944年から1994年まで常にキリスト教民主党が政権に参加し続け、イタリア政治の中心を担ったのですが、日本の自由民主党とは違い、単独で上下両院の過半数を獲るようなことはなく、中道であるキリスト教民主党が、つねに左翼政党や右翼政党と連立しながら(あるいは大連立を組みながら)政治が進みました。

そうした中で1945年から1953年にかけて長期政権を築いたのがデ・ガスペリでした。
カトリック勢力の支持を受けたデ・ガスペリは、はじめは共産党や社会党などの左翼政党と提携しながら、1947年のアメリカ訪問を機に「右」へと旋回し、アメリカの援助を受けながら経済の立て直しを図ります。アメリカと駆け引きしながら、長期政権を運営した手腕は吉田茂を思い起こさせます。

この後、日本では60年安保の混乱などを経て、池田勇人内閣あたりから政治情勢は落ち着いていくのですが、イタリアではそうはなりませんでした。
日本では自民党が「左」へとウィングを広げていくことになるのですが、左翼政党の強かったイタリアでは、キリスト教民主党が左翼政党と提携する「左への開放」によって政権を安定させようという動きが起こります。1962年、ファンファーニ 政権は社会党などの左翼政党の支持を取り付けることに成功し、ファンファーニにからモーロへと、途中にキリスト教民主党単独の第1次レオーネ政権を含むものの、中道左派政権による比較的安定的な政治が実現します。
また、この時期はイタリアでも「経済の奇跡」と呼ばれる高度成長が実現した時期でもあり、貧しい南部から工業の発展した北部へ多くの若者が移住しました。このあたりも日本と重なる部分といえるでしょう。

1968年、世界的な動きとして学生運動の嵐が吹き荒れます。ここからしばらく学生たちによるデモなどの直接的な行動がさかんになるのはイタリアも日本も同じです。
しかし、日本では70年代前半をピークに学生運動は力を失っていき、暴力的な活動もいわゆる「内ゲバ」など内部闘争に移っていったのに対して、70年代を通じて「鉛の時代」とも呼ばれるテロの時代が続いたのがイタリアの特徴でした。
「赤い旅団」などで知られる左翼陣営の「赤いテロリズム」だけでなく、極右勢力を中心とした「黒いテロリズム」が吹き荒れたのも、この時代のイタリアの特徴で、大連合を主導した政治家モーロが赤い旅団に誘拐・監禁され、遺体で見つかった1978年のモーロ事件など陰惨な事件が続出しました。
一方、離婚が合法化され、1975年の国民投票でもそれが維持されるなど、カトリックの影響力が後退した時代でもありました。

1980年代になると正常も落ち着き、経済も第二の経済の奇跡と呼ばれる高い成長を遂げます。この成長の担い手となったのは、「第三のイタリア」とも呼ばれる中小企業群でした。こうした企業がデザイン性に優れた商品を生み出し、輸出を伸ばしていったのです(143-144p)。
日本も80年代は経済が好調な時代で、その中で自民党の中曽根政権が盤石の体制を築きますが、イタリアのキリスト教民主党はP2事件で激震に見舞われます。

P2とはもともとフリーメイソンの支部で、極右的な活動を行っていたため、70年代にフリーメイソンから認証を取り消されています。しかし、その後も政治家や軍人、ベルルスコーニなどの財界人たちの秘密結社として生き残り、テロ事件への関わりなどもあったとされる組織です。
P2事件とは、そのP2の名簿が公表された事件で、これによってキリスト教民主党は大きなダメージを受け、自らの党から首相を出せなくなります。

こうした中、83年から政権をになったのが社会党出身のクラクシでした。弁舌に優れた政治家であったクラクシは、第一共和政最長の政権を築きます。
80年代、日本やアメリカ、イギリスでは右派による改革が進みましたが、イタリアでは左派出身のクラクシが5党連合を率いて改革を進めていくこといなります。
しかし、この時期続いた大連立が政治腐敗を生み、また、この時期にマフィアの進出が進んだのも事実でした(クラクシも90年代に汚職の疑いをかけられ、チュニジアに亡命してそこで死んでいる)。

90年代のイタリアは、EU加盟やユーロ導入から求められることにあった改革と、マフィアとの戦いに追われることになります。
マフィアとの戦いの中、検察は「清い手」作戦と呼ばれる汚職摘発作戦を開始、この操作はクラクシ、アンドレオッティ、フォルラーニといった政界の中枢にまで及びます(169p)。
92年、法学者で社会党出身のアマートが首相となりますが、閣僚が疑惑で次々と辞職していったため、この内閣はテクノクラート内閣(非政党の専門家による内閣)のはしりとなります(176p)。
日本でもこの時期に、政治腐敗から自民党は政権を失っています。ただ、自民党がすぐに巻き返したのに対して、イタリアのキリスト教民主党は巻き返すことが出来ませんでした(結局93年に解党)。

1993年、小選挙区比例代表並立制を中心とする選挙改革が実現し(ここも日本と同じ)、イタリアも多数型民主主義へと舵を切ります。
小選挙区制のもとでは、右派も左派もある程度まとまって選挙に臨む必要が出てきますが、左派有利と言われた中で、右派の中心として名乗りを上げたのが実業家でメディア王、さらにはACミランのオーナーでもあるベルルスコーニでした。
清い手作戦からの追求から逃れるためにも左派政権を阻止したかった彼は、「フォルツァ・イタリア」という政党を結成し、1994年の総選挙において、メディアを使った選挙戦で右派を勝利に導きます。

この時の第1次ベルルスコーニ政権は1年も持ちませんでしたが、ベルルスコーニはこの後も政界の中心で在り続け、特に2001〜2006年、2008〜2011年にかけて長期政権を築きます。
メディアを上手く使って長期政権を築いたというと、日本の小泉首相が思い浮かびますが、この本を読む限り、そのパーソナリティや背景は随分と違う感じです。
一方の左派はプローディを中心に「オリーブの木」と呼ばれる連合を打ち出して対抗します。そして、ベルルスコーニからの政権奪還にも成功します。

ただ、ユーロ導入のためにEUから厳しい緊縮政策を求められるイタリアでは、右派だろうと左派であろうと緊縮政策を実行せざるをえないわけで、ここが特に「親EU」の左派としては辛いところだったのではないかと、個人的に思いました。
右派と左派がそれぞれ迷走する中で、2005年には下院の最多得票名簿に最低でも過半数の340議席を割り振る多数はプレミアム付きの拘束名簿式比例代表制の選挙制度が成立。小選挙区制でも安定した多数を作れなかったイタリアは、より人工的に多数をつくる制度を導入します。

この新制度のもと、プローディ、ベルルスコーニがそれぞれ一度ずつ政権を担当しますが、厳しさを増す経済情勢は好転せず、2011年のユーロ危機をきっかけに再びテクノクラートに政権が委ねられることになります。
既存政党への不信は収まらず、2012年の地方選挙ではコメディアン出身の政治家ベッペ・グリッロ率いる「五つ星運動」が躍進。2013年の総選挙では単独政党としては最大の支持を受けました(日本で言うと維新の会みたいな感じか?)。
政党連合の名簿としては中道左派が僅かに勝利し、中道左派を軸にして政権が運営されることになりますが、今現在に至ってもイタリア政治は安定の気配を見せません。

著者は終章でイタリアの抱える問題として、「老人支配」、「決められない国」「裁判の長さ」、「移民・難民問題」などをあげています。「移民・難民問題」はともかくとして、それ以外の問題は日本も同じように抱えている問題です。
このようにイタリアの政治や社会のあり方というものは、日本の問題を考える上でも重要な視点を提供してくれます。
それでいて実際の政治の運営のされ方ということに関しては、やはり日本とは大きく違うわけで、ここも興味深いところです。この本を読んで日本の自民党のしぶとさに感心しました。

全体的にはもう少し先に制度の説明をしっかり入れてくれるとわかりやすいと思った面もありますが(例えば、本書の終わりの方にイタリアの首相は「同輩中の首席」に過ぎないという表現が出てきますが(249p)、この言い方を37pのイタリアの政治制度の説明で入れてもらえるとわかりやすかったと思う)、全体の記述はバランスがとれていると思いますし、また、時代の状況をイメージしてもらうために数々の映画を紹介するなど工夫も見られます。
イタリアという国に興味がある人はもちろん、日本の政治に興味がある人にとっても読み応えのある本ではないでしょうか。


イタリア現代史 - 第二次世界大戦からベルルスコーニ後まで (中公新書)
伊藤 武
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