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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2022年12月

12月25
カテゴリ:
その他
去年の「2021年の新書」のエントリーからここまで51冊の新書を紹介してきたようです。
今年は中公と岩波の2強という感じで、ちくまが例年に比べてやや弱かった印象です。他のレーベルについてもそれほど目立ったものはなく、特に自分が好んで読む社会科学や歴史系の新書に関しては中公と岩波にほぼ尽きる感じでした。

相変わらず、過去の書籍を新書としてパケージし直す動きは結構見られて、角川新書などはそれを精力的にやっている印象があります。
また、価格に関しては講談社現代新書が明らかに上げてきている感じで、他社が税込み1000円以内にできるだけ収めようとしている印象なのに対して、講談社現代新書はそういったラインを引いていない用に見えます。今年の後半から刊行されはじめた100ページ程度で思想家を紹介するシリーズも特に価格は安くないですしね。
新書価格の上昇と新書の内容の高度化によって、選書とどう棲み分けるのかということが問題として浮上してくるかもしれません。

では、まずベスト5を上げて、その後に何冊かを紹介したいと思います。


稲増一憲『マスメディアとは何か』(中公新書)




ときにその影響力を持ち上げられ、ときに叩かれる現代のマスメディア。多くの人が知りたいであろう「マスメディアの影響力」について、さまざまな研究を紹介しながら検証し、さらにインターネットについても、今までの研究や著者らが行った研究も踏まえてその影響を分析しています。
「メディアについて何か言いたいなら、まずはこの1冊から」という内容になっており、何かと問題の減員がインターネットを含むメディアに求められがちな現代において非常に有益な本だと思いますし、しばらくはこの問題を語るときの基本書になると思います。


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濱本真輔『日本の国会議員』(中公新書)




国民の代表でありながら、多くの人がその姿に納得しているとは思えない日本の国会議員。そんな日本の国会議員の姿にデータを使って多角的に迫ったのが本書になります。
中公新書には林芳正・津村啓介『国会議員の仕事』という現職の国会議員がその活動について綴った本もありますが、本書はあくまでも外側から、どのような人物が国会議員になり、どんな選挙活動を行い、国会ではどのような仕事をし、政党の中でどのようにはたらき、カネをどのように集め、使っているかということを分析した本になります。
過去と現在、日本と海外、与党と野党といった具合に、さまざまな比較がなされているのが本書の特徴で、この比較によって、問題のポイントや解決していくべき課題といったものも見えてきます。
国会議員のダメさを嘆く前に1度読んでほしい本ですね。


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須田努『幕末社会』(岩波新書)




開国からはじまる社会変動がどのようなものであったのかということが庶民の目線から描いた本になります。
天狗党や渋沢成一郎のつくった振武軍など、去年の大河ドラマの「青天を衝け」と重なっている部分も多く、去年出版されていれば大河ドラマのよき副読本となったでしょう。また、新選組についての記述もありますし、土方歳三の義兄の佐藤彦五郎の活動もかなり詳細に追っています。新選組好きも面白く読めると思います。
「民衆史」というと、以前はどうしても「政治権力vs民衆」的な図式を描くものが多かったですが、本書は民衆の「衆」としての力に着目しつつも、さまざまな意志を持った「個人」を描き、それを幕末の社会情勢とリンクさせているところが面白く、非常に刺激的です。


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秦正樹『陰謀論』(中公新書)




ネットが普及して、あるいはSNSが普及して可視化されたことの1つが本書のテーマにもなっている「陰謀論」ではないでしょうか。
本書は、そうした陰謀論について、その内容を紹介するのではなく、「誰がどんな陰謀論を受け入れるのか?」ということを中心に実証的に論じています。ただし、陰謀論を信じているかを調べるのは実は難しいことで、陰謀論を信じていながら。そのふりを見せない人も多くいるからです。
そこで、本書ではさまざまな手法を駆使して陰謀論を信じている人々を浮かび上がらせています。 日本に広がる陰謀論受容の土壌を知ることができるとともに、さまざまな社会調査の手法を学べる一石二鳥の本と言えるでしょう。

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橋場弦『古代ギリシアの民主政』(岩波新書)





現在のデモクラシーの源流は古代ギリシアにあり、古代ギリシアのデモクラシーは直接民主制だったが、現代のデモクラシーは間接民主制になっているという理解がありますが、その「デモクラシー」には大きな違いがあるということを教えてくれる本。
現代のデモクラシーは、多数者の支配のことであり、政治的な意思決定ができるだけ多くの人々に支えられていることが重要ですが、古代ギリシアのデモクラシーは「順ぐりの支配」であり、誰しもが支配者の立場を経験することこそが重要だったのです。
また、歴史的に見ても通俗的な古代ギリシアの民主政への理解を修正しており、今までの理解を揺さぶる本になっています。

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次点は、今年のはじめに講談社選書メチエから『物価とは何か』を出した著者が現在のインフレについて分析した渡辺努『世界インフレの謎』(講談社現代新書)、人権侵害や強制収容が問題になっている新疆ウイグル自治区の問題について、中国共産党の支配の歴史から読み解いた熊倉潤『新疆ウイグル自治区』(中公新書)、タリバンがなぜ復活し、あっさりと政権を掌握したのかという理由を教えてくれる青木健太『タリバン台頭』(岩波新書)、経済圏としての大東亜共栄圏に焦点を合わせながら、それがいかに構想され、挫折したのかということを見ていく安達宏昭『大東亜共栄圏』(中公新書)、玉石混交のデータの洪水の中で、玉と石を見分ける手がかりを教えてくれる菅原琢『データ分析読解の技術』(中公新書ラクレ)といったところで、ここまでで10冊。
さらに上記の5冊と甲乙つけがたいところで、2021年のクーデター以来、内戦状態となりつつあるミャンマーについてなぜそうなってしまったかを教えてくれる中西嘉宏『ミャンマー現代史』(岩波新書)、20世紀に政治哲学を復興させたロールズについての理解を深めてくれる齋藤純一、田中将人『ジョン・ロールズ』(中公新書)といったところですね。


熊倉潤『新疆ウイグル自治区』、青木健太『タリバン台頭』、中西嘉宏『ミャンマー現代史』は、いずれも政治的な変動などで注目を集めた地域について、それぞれの地域をよく知る研究者によって書かれた本ですが、こういった内容が新書という手軽に読める形で世に送り出さされているのは非常によいことだと思います。

田中耕太郎という名前は、『世界』の創刊にも関わった言論人として、戦後まもなくの時期に文部大臣を務めた人物として、そして最高裁の長官として松川事件や砂川事件の処理をした人物として知られていると思います。
ただ、このように並べてみても捉えどころがないように感じる人も多いでしょう。『世界』の相関に関わったというと進歩的な人物を想像しますが、砂川事件の経過などを知る人にとっては、田中は日米安保条約を違憲だとする訴えを統治行為論で潰し、しかもそのことについてアメリカ大使館に説明していたという保守反動の人というイメージもあるからです。
さらに田中には戦前の東京帝国大学法学部教授としての顔、戦後の参議院議員としての顔、最高裁長官退任後の国際司法裁判所の裁判官としての顔もあります。
ただし、そんな田中を「カトリック」という切り口で理解することは可能です。戦前の軍国主義的風潮への抵抗も、戦後の共産主義への嫌悪感も、「カトリック」という言葉で説明可能だからです。
そうした中で本書は、カトリックという要素の重要性を認識しつつも、「制度の独立」のために闘った人物として田中を描き出します。
戦前〜戦中〜戦後という時代の大きな変化の中での田中の姿には非常に興味深いものがありますし、田中が直面していた状況も的確に説明されており、面白い評伝になっていると思います。

目次は以下の通り。
第1章 鹿児島生まれの「コスモポリタン」
第2章 法学とカトリックへの目覚め
第3章 技術・自然法・世界法―三つの視角を絡ませて
第4章 嵐の中の東京帝大―一九三〇年代〜敗戦
第5章 占領下の文相就任―教育権と憲法の「番人」
第6章 闘う最高裁判所長官の十年―判例と司法行政の確立
第7章 世界法へ―国際司法裁判所での九年

田中は1890年に鹿児島で生まれています。ただし、生粋の薩摩の人間ではなく、父・秀夫は佐賀の下級武士の家柄で、中農の田中家の養子になり、代用教員から司法官になった人物でした。その父が判事として鹿児島に赴任していた時に田中は誕生しました。
秀夫は西洋の法制度を学んでいましたが、儒学を重視しており、幼い田中にも儒学を教えたといいます。田中の母の喜意子は大庄屋の一人娘であり、芸術家肌の人物だったと言われます。

秀夫は任地を名古屋、松江、岡山、新潟、福岡と転じ、田中もそれについて引っ越しました。最終的には福岡県立修猷館中学校を卒業していますが、この修猷館は頭山満率いる玄洋社の影響を受けた校風で、田中も海外に行く機会を臨み、海軍兵学校を第一高等学校とともに受験しています。田中は両校に合格し、父の勧めもあって第一高等学校に進みました。

第一高等学校では2年次に結核性腹膜炎にかかりほぼ1年の療養生活を送りますが、これが田中を内省的な思索に向かわせたといいます。宗教への関心も芽生え、聖書を読むようになりました。
1912年、田中は東京帝国大学法科大学に入学します。法科に進んだのは父が司法官だったからという消極的な理由だったと回想しています。
田中は3回生のときにドイツから来たテオドア・シュテンベルクの通訳のためにその家に寄宿することになります。
シュテンベルクの講義はドイツ法の中の手形法などを論じたものでしたが、ローマから現代に至る法制史を概観するもので、田中の興味関心を法哲学や手形法に向けるきっかけになりました。
成績も優秀になり、教授たちからは大学に残ることを勧められますが、田中が選んだのは内務省でした。高等文官試験で1位の成績を取り、内務省に入省します。

しかし、田中は結婚を考えるようになる中で生活全般で自由度の高い大学での研究職を考え始め、松本烝治が満鉄に転出した後釜として商法講座の助教授になります。
法学の研究者になった田中でしたが、文学や音楽に親しむとともに内村鑑三を囲む柏会に参加するようになり、内村に傾倒しました。

1919年7月〜22年6月まで、田中は欧州に留学します。アメリカ、イギリスを見たあとに、フランス、イタリア、ドイツに居を移すというもので、のちに田中自身が「私は携帯して行った唯一の法律書 ―六法全書― を海中に投げ捨てて、荷を軽くした」(31p)と書くように、じっくり腰を据えての研究というよりは、見聞を広める形でした。
帰国した田中は1923年に教授に昇進します。田中は商法学を民法学から「独立」させることを目指すようになります。商法は民法の下位的な位置づけでしたが、これを独立した原理を持った一分野として打ち立てようとしたのです。

1924年に田中は松本烝治の娘の峰子と結婚します。一見すると同じ商法学講座の師が弟子に娘を嫁がせたようにも見えますが、松本は当初結婚に反対しており、民商統一論を唱えていた松本と田中では商法に対する考えも違っていました。
この結婚を通じて、田中は松本の妻が小泉信三の姉であったこともあって小泉とも親しくなり、人脈を広げていきます。

峰子は結婚をきっかけに前々から希望していたカトリックに入信します。一方、田中は傾倒していた内村に疑問を感じ始め、ついには内村の元を離れます。きっかけは内村周辺の人間関係ですが、信仰に専心する内村と、個人や集団による善行も必要だと考える田中の間に考えの違いがあったとも考えられます。
田中はその後、カトリックに改宗しています。

田中は活発な著述活動も行っていきます。田中は究極的には世界各国の法の統一を考えており、自然法と、手形法などに見いだされた技術がそのポイントになるとしました、
普遍的なものである自然法と、19世紀後半に始まった手形法の統一運動や、その他商業分野での法を統一する動きが世界法をもたらすと考えたのです。

こうした考えを持つ田中が批判したのが満州事変以降の「民族主義的傾向」です。田中は法は民族を超えた共通性を持つと考えていました。
田中の言動は批判も浴びますが、「日本固有法」を調査する委員会の委員への就任を「そんなものに学者が入ったら、後世の笑いを買いますよ」(76p)と言って拒否するなど、強い態度を見せています。

当時、1933年の滝川事件、35年の天皇機関説事件に見られるように大学の自治や学問の自由は危機にさらされてました。こうした中で田中は大学の自治を守ろうとします。
法学部長となった田中は、東大に対するさまざまな介入に対応し、1938年に陸軍出身の荒木貞夫が文相になると田中は荒木を前に司法の独立性と並べながら大学の自治の重要性を説いています。
経済学部に対する平賀粛学においては総長の平賀を支持し、平賀への批判を抑えるために田中は法学部帳を辞任しました。
ちなみに学部長時代の田中は教授会の発言について逐一メモを取っており、最高裁長官時代にも行っていたそうです。これは関係者への圧力ともなりました。

平賀粛学のあと、批判を浴びた田中はラテン・アメリカ諸国を訪問します。ここで田中はラテン・アメリカ諸国の制度の弱さや不安定さを強く意識しました。戦時中、田中はラテン・アメリカ論を通して日本に対する批判的な視点を持とうとしています。
また、戦局が悪化すると、田中は南原繁らとともに、木戸幸一や若槻礼次郎を手分けして訪問し終戦への道を探ったといいます。

1945年1月、「三年会」と呼ばれる会が重光葵外相のもとに発足します。会員は田中の他に、安倍能成、志賀直哉、武者小路実篤、和辻哲郎、山本有三、谷川徹三、富塚清で、今後の日本についての意見交換が行われました。
この会で田中はラテン・アメリカの不安定性を持ち出し、そのようにならないためにも天皇のような精神的権威が必要だと説いたといいます。
終戦後、三年会は柳宗悦や大内兵衛、鈴木大拙などのメンバーを加えて「同心会」と名称を変えます。そして、この同心会が岩波書店から刊行した総合誌が『世界』で、田中は「発刊の辞」を寄せています。『世界』が若い世代の書き手中心になると田中は離れていきますが、丸山真男を『世界』に紹介したのも田中です。
同心会には安倍、志賀、谷川など昭和天皇を囲むメンバーがおり、田中も昭和天皇にカトリックについて進講しました。
1945年9月、田中は文相になった前田多門から学校教育局長への就任を打診され、これを受けます。当時の東大教授の地位からすると文部省の局長への転身は異例でしたが、教育を重視していた田中はこれを受けます。
さらにこの流れで田中は第1次吉田内閣の文相に就任するのです。

田中は偏狭かつ排他的な国家主義や民族主義を是正し、健全な国際主義を育てるとともに、司法の独立を例に出しながら教育の独立を主張しています。一方で、教育における家長的権威の必要性も認め、教育勅語を擁護しています。
民間情報教育局(CIE)から教職員の適格審査を行うように求められると、田中はその基準に大東亜政策や東亜新秩序を学説として支えたことを入れるように強硬に主張し、東大では田中と対立した末広厳太郎と安井郁が不適格とされました。

憲法改正にあたって担当大臣となったのは田中の岳父の松本烝治であり、松本案は改正を最小限に留めるものでしたが、田中は思い切った改正が必要だと考えていました。同時に憲法改正に合わせた教育基本法の制定を主張します。
先ほど述べたように当初田中は教育勅語の維持を考えていましたが、憲法と抵触する勅語の廃止が決まると、教育勅語に代わる普遍的原理を打ち出す必要性を感じたのです(田中は教育勅語にも自然法に基づく普遍主義的性格があると見ていた)。
この時期に文相だったこともあり、田中は憲法の審議過程に巻き込まれ、その中で田中は憲法の擁護者となっていったのです。

田中は教育基本法に前文をつけることを主張し、そこに「人格の完成」という言葉を盛り込み、さらに条文の中に「政治的又は官僚的支配に服することなく」という文言を盛り込もうとします。
結局、前者は前文ではなく第1条に、後者は第10条の「不当な支配に服することなく」という形で盛り込まれます。「人格の完成」は田中の考える宗教的なものを排除する形で定義されますが、田中の個性が反映されたとも言えるでしょう。
文相を退いた田中は東大に復帰することも考えますが、これは大学の自治を守ろうとした南原繁総長に拒否されたとも言われています。
田中は1947年4月に行われた参議院選挙の全国区に無所属で立候補し、第6位の順位で当選しました。当選後、同志の山本有三と保守系無所属のグループをつくることを考え、河合弥八、和田博雄、佐藤尚武らと合流し、「緑風会」を結成します。

参議院では田中は文教委員長になり、文化財保護法の制定に力を尽くすとともに、学習院大学の教授ともなって大学にも復帰します。
1949年になると宗教を否定する共産主義を徹底的に批判するようになり、講和問題についても反共の立場から西側との単独講和を主張しました。
また、参議院では元号の廃止も提起しましたが、これは田中が最高裁の長官になったこともありたち消えになります。

1950〜60年にかけて田中は最高裁の長官を務めます。当時の首相の吉田は初代長官三淵忠彦の後任に小泉信三、田島道治を考えたといいます。吉田には法律家を最高裁のトップにもってくる考えはなく、最終的に田中に落ち着いたのも田中の文相としての行政経験が評価されたものと考えられます。

戦前は司法省が司法行政の監督権を持っていましたが、新憲法のもとではこれらを最高裁が担うことになります。田中には裁判官としての職務よりも司法行政の確立と、それによる司法の独立の確立が求められたのです。
また、占領下ではGHQとの交渉も最高裁長官の重要な役目で、田中もマッカーサーと会談しています。50年の9〜11月にかけて、田中らはマッカーサーの勧めもあってアメリカで司法制度を視察しています。

田中は最高裁長官就任後も反共産主義の発言をやめませんでした。レッドパージに関しては「マルクス主義は日本国憲法と相容れない」と明言し、現在の憲法のもとでも「国連警察軍」に加入することができるとの自説を展開しました。
1952年の『裁判所時報』の「新年の詞」では「人間の奴隷化においてナチズムやファシズムに勝るとも劣らない赤色インペリアリズム」(191p)という言葉まで使っています。
一方、翌53年の「年頭の辞」では「偏狭固陋なナショナリズムへの逆行をとくに警戒しなければならない」(192p)と説くなど、戦前回帰の動きに対しても批判しました。

同時に田中は裁判所に対する介入に対しても戦います。
当時、大きな問題となっていたのが裁判所の滞留件数の増加でした。田中は訴訟の迅速化のために裁判を裁判官の人格の発露と捉えるような考えを「裁判芸術論」と呼んで批判します。
ただし、なかなか成果は上がらず、1953年には最高裁に7000件もの事件が滞留します。この問題の解決のため、弁護士会は裁判員の増員と上訴範囲の拡大を、裁判所側は裁判官の減員と上訴範囲の制限を主張しました。
こうした中、衆議院法務委員会では、上告範囲を広げた上で最高裁判所裁判官を30名ほどに増員する案で議論が進みます。
これに対して最高裁は真っ向から反対し、57年4月には田中が国会に招致されました。田中が自ら国会に出席して、裁判官増員の弊害(合意に時間がかかる)を主張したことで、国会の議論は一旦止まり、法案は廃案になりました。田中が制度を守ったとも言えます。

一方、ジャーナリズムによる裁判についての報道に対して「我々、裁判官としては、世間の雑音に耳を貸さず」(207p)とこれを黙殺する姿勢を見せ、批判も浴びました。

田中が最高裁長官として対処にあたった有名な事件が松川事件と砂川事件です。
松川事件は国鉄労使対立のさなかに起こった事件でしたが、下級審では死刑・無期懲役の被告が多数出たものの、上告審では事実認定と反する新資料が提出され、冤罪の疑いも出ていました。
59年3月段階では最高裁の中で二審の破棄差戻6名、棄却4名、破棄自判2名と割れており、田中は棄却の立場でした。田中は、裁判が長くなりすぎる、破棄差戻の根拠は全体のごく一部に過ぎず採るに値しないといった論点を主張し棄却を主張しています。
結果は7対5で二審判決の破棄差戻となりました。

砂川事件は一審で日米安保条約を違憲とする判断が出た事件でしたが、検察は特別抗告を行い、舞台は最高裁へと移ります。
近年の研究でこのとき田中がアメリカ大使館の関係者とのやり取りの中で事件について説明していたことが明らかになっています。田中はこのときに全員一致の判決を目指していると述べたといいます。

59年12月の判決では、日米安保条約による米軍の中流を合憲とし、安保条約自体については統治行為論によって判断を避けました。
最高裁の「高度な政治的問題」に対する抑制的な姿勢は60年の憲法7条の解散が違憲かどうかを争った苫米地事件でも示されます。さらに地方議員の懲罰をめぐる問題でも田中は「法秩序の多元性」を説き、部分社会や団体の裁量を広く認める姿勢を見せました。

最高裁の長官を退任した田中は国際司法裁判所の裁判官となります。戦前の日本は常設国際司法裁判所の裁判官を輩出していましたが、敗戦国となった戦後はそうはいきませんでした。
日本は外交官を中心に候補を出していましたが当選はできず、最高裁の長官として国際交流の実績もあり、カトリックでもあった田中に白羽の矢が立ちました。

当時の国際司法裁判所ではアメリカ出身のジェサップ、イギリス中心のフィッツモーリスが中心的な人物でしたが、そうした中でドイツ法などの大陸法に通じており、司法行政にも通じていた田中は一定の役割を果たしました。
ただし、国際司法裁判所は1966年に出した南西アフリカ事件の判決をきっかけに窮地に陥ります。南アフリカ政府が委任統治先の南西アフリカ(現ナミビア)でアパルトヘイトを施行することの違法性が問われた事件でしたが、リベリアとエチオピアの提訴に対して裁判官が7対7に割れた末に提訴の資格がないとして棄却(田中は反対意見を述べた)したことがアジア・アフリカ諸国から大きな批判を浴び、国際司法裁判所は問題解決の場として期待されなくなってしまうのです。

国際司法裁判所での田中の役割も裁判官としてのものではなく、国際司法裁判所の信頼回復に向けた取り組みが中心になっていきます。田中は他の裁判官と協力しつつ、国際司法裁判所の地位を高めることに力を尽くしました。
田中は1970年に国際司法裁判所裁判官を退任し、1974年に亡くなっています。

このように本書は、非常に多面的な活躍をし、また一筋縄ではいかないスタンスを示した田中の生涯を追い、そこに「制度の独立」に尽力した人物という姿を見ています。これは説得力のある見方で、戦後における教育や最高裁など、まだ制度として確立しきれていなかった分野において、田中が果たした役割というのを改めて感じさせる内容になっています。
一方、かなり強いメッセージを含んだ裁判官への訓示は「裁判官の独立」の侵害であり、砂川事件は「国家の独立」を危うくさせたという議論の建て方もできるとは思います。
ですから、本書が田中への評価の決定版になるとは思わないのですが、論じるべき問題を多く持つ人物についてまずは一貫した像を示したという点で、本書は田中個人のみならず戦後について考える上で非常に有益なものになっていると思います。


政治においてアウトサイダーが大きな期待を集めて政権を獲得し、結局その期待に応えられずに支持率を落として政権後半はグダグダになる。これは民主主義においてよく起こることですし、例えば、フィリピンでもエストラーダ大統領などはそのパターンでした。
本書の主役であるドゥテルテ大統領も、なんとなくこのようなパターンをとるのではないかと思っていましたが、高い支持率を保ったまま今年大統領を退任しました。しかも、コロナの影響で経済が大きく低迷した時期を経験したにもかかわらずです。

本書は、そんなドゥテルテ大統領の人気の秘密と、フィリピンという国の現状を探った本になります。著者は共同通信でフィリピン支局勤務などを務めたジャーナリストで、マルコス時代のフィリピンから取材している人物になります。
評価としては「ドゥテルテびいき」ではあると思いますが、フィリピンでの人気を考えると、ドゥテルテの見方としては一定の説得力があるのではないかと思います。

ドゥテルテ退任後の出版ということで、やや時機を逸したようにも思えますが、今年当選したマルコスJr(ボンボン・マルコス)が圧勝した一番の要因がドゥテルテによる支持だったと考えると、まだまだタイムリーな本だと言えると思います。

目次は以下の通り。
序 章 いままでにない大統領
第1章 ドゥテルテの町ダバオ
第2章 麻薬戦争
第3章 左派的だった国内政策
第4章 親中に転換させた外
第5章 高度経済成長と新型コロナ
第6章 ドゥテルテ・ナショナリズム
第7章 ドゥテルテ後のフィリピン

ドゥテルテ大統領といえば、有名なのは強硬的な麻薬取締政策で、取締の中で警察の公式発表だけでも6000人以上が殺されたと言われています。このため、ドゥテルテは人権団体から批判され、国際刑事裁判所の捜査対象にもなっています。
ただし、フィリピン国民が評価したのが、この「麻薬撲滅政策と治安改善」でもあります。ドゥテルテは海外からさまざまな批判を受けながらも国内では高い支持率を維持し続けたのです。
また、強面の印象が強いですが、国民皆保険の実施(コロナによって全面実施ができず)や国公立大学の無償化など、政策面を見ると左派的なものも多いという特徴もあります。

執務スタイルは独特で、完全な夜型人間であり、午後2時に起きて午前6時に寝るような生活を送っており、記者会見なども夜に開いています。
また、週末にはほぼダバオに帰っており、外遊に出発するときもマニラからではなくダバオから出発することが多かったといいます。
第1章では著者がダバオで行われた記者会見に参加したときの様子が書かれていますが、夜の11時から始まった記者会見は途中で「反米」スイッチが入りドゥテルテの独演会となり、深夜2時まで続いたそうです。
饒舌になったドゥテルテは日本や天皇へのリスペクトの気持ちを記者の質問に答える形で話しています。ドゥテルテのフィリピン・ナショナリズムの核は「反米」であり、第2次世界大戦時の「反日」や「抗日」は核とはなっていないこともうかがえます。

ドゥテルテはフィリピンが日本の占領から解放された直後の1945年3月28日に生まれています。父は弁護士、母は学校の教師でした。
父は1951年にダバオ知事選に立候補して当選し、ドゥテルテは知事の息子としてダバオで成長することになります。
ところが、札付きの不良だったようで高校を2度退学処分になっています。大統領就任後の記者会見で「初めて人を殺したのは16歳の時だった」などと言っていますが、さまざまな犯罪行為に手を染めていたことは間違いないようです。
ドゥテルテは高校に7年、大学に計6年通っていますが、大学の頃から真面目に勉強するようになり、大学時代にはフィリピン共産党の最高指導者ホセ・マリア・シソンの指導も受けています。
1977年にダバオで検察官となり、1986年のマルコス大統領が失脚したアキノ政変が起きると、母とコラソン・アキノが知り合いだったこともあり、辞退した母に代わってドゥテルテがダバオの副市長となります。そして、1988年にダバオ市長選に立候補して当選しました。

当時のダバオはフィリピン共産党の軍事部門である新人民軍が市内のかなりの領域を支配下においており、住民から革命税を徴収しているような状況でした。そのために治安も悪化し、大学や高校のキャンパス内でさえ麻薬が堂々と売られていたといいます。
ただ、ドゥテルテにとって幸運だったのはドゥテルテが就任してからしばらくして新人民軍が撤退したことで、これによって市内での内戦のような状況はなくなりました。
ドゥテルテは徹底的な麻薬組織の取り締まりを始め、犠牲者も多く出ました。麻薬組織が追求を逃れるために末端の売人を殺してそれを警察によるものと見せかけることもあったといいます。
ドゥテルテはダバオの秩序回復に力を注ぎ、公共の場での全面禁煙も打ち出し、交通違反の取締を強化しました。一方、売春の取り締まりを警察の業務から外し、売春婦が警察からたかられないようにするなど、強面一辺倒ではないやり方も見せました。
市長時代にドゥテルテに何度も会っている日本の在ダバオの女性領事によると、ドゥテルテの政治信条は「法と秩序に尽きる」(64p)とのことです。

2016年5月の大統領選挙で大差をつけて当選したドゥテルテが看板政策として進めたのが麻薬撲滅政策でした。
前述のようにこの政策を推進する中で公式発表でも6000人が殺されており、人権団体の推計では1万5000人を超えるとも言われています。
著者が取材したケースにあるように、少量の覚醒剤を使用していた程度の人物が射殺されていることもあり、警察の腐敗などの相まって犠牲者が増えたと考えられます。

ドゥテルテはこうした警察の腐敗も認識しており、就任後に警察官と軍人の初任給を倍増させました。
こうした警察へのテコ入れもあってフィリピンの凶悪犯罪は減少しており、2014年に1万8000件を超えていた傷害致死を含む殺人事件は、ドゥテルテ政権下の2018年には9000件弱にまで減っています(85p)。

先ほど述べたように、ドゥテルテの信条は「法と秩序」であり、ドゥテルテの任期中に汚職などが減ってきたといいます。
経済に関しては前任のノイノイ・アキノの頃から比較的好調でした。ノイノイはイスラム武装勢力の「モロ・イスラム解放戦線」との和平合意を実現させ、教育制度を6・4・4制から6・4・2・4制にして高校までを義務教育化するなど教育を充実させました。
ドゥテルテ政権下ではパンデミックが起こるまで経済は順調に推移しましたが、その基盤はノイノイの時期につくられたとも言えます。

軌道に乗った経済を生かしてドゥテルテが推進したのが左派的とも言える政策です。
「法と秩序」という言葉や麻薬撲滅政策などを見ると「右派」的な印象のあるドゥテルテですが、先に紹介した国民皆保険、公立大学の無償化に加え、「エンド」と呼ばれていた6ヶ月での雇い止めの禁止、産休を60日から105日に延長するなど、左派的な政策を進めました。

ドゥテルテは政権発足時に共産党に近い左派系の閣僚を3人抜擢しています。農地改革相になったラファエル・マリアノ、社会福祉相になったジュディ・タギロワはいずれも軍事部門をもつ左派系反体制グループに関わっていた人物で、ドゥテルテの人事はフィリピン国内からも驚きを持って迎えられました。
さらにドゥテルテは、恩師でもあるホセ・マリア・シソンに呼びかけて共産党の軍事部門、新人民軍との休戦も成立させています。
ドゥテルテはミンダナオ島のもう1つのイスラム武装勢力「モロ民族解放戦線」との和平も成立させますが、共産党との和平交渉に関しては政権への参加を求める共産党側と折り合えずに断念されています。

ドゥテルテ政権下で報道の自由が低下したとの声もあり、オンラインメディア「ラップラー」を経営するマリア・レッサが「ドゥテルテ政権の言論弾圧と戦ってきた」として2021年のノーベル平和賞を受賞しています。
これについて著者は、フィリピンは地方に行くと地元の首長を批判したキャスターが殺害される事件なども起こっているが、マニラでは報道の自由は他の東南アジア諸国と比べても高いほうだといいます。
「ラップラー」が政権から攻撃されてきたのはフィリピン憲法の禁ずる「外国資本によるメディア」の疑いがあるからで、著者もこの見方に賛同しています。

外交に関してはドゥテルテはフィリピンを「親中」に転換させたといいます。
もともと「反米」はドゥテルテのスタンスであり、さらには中国の影響力を無視できないこともあり、ノイノイ政権下では険悪だった中国との関係改善に乗り出しました。
2016年10月にドゥテルテは北京を訪問し、対立の原因となっていたスカボロー礁の領有権問題を「棚上げ」することで習近平の同意を取り付けました。
ドゥテルテは任期中に5回中国を訪問しましたが、アメリカは1度も訪れていません。これは「親米」だったノイノイ政権に比べたときの大きな変化です。

ところが、2017年半ば以降、ドゥテルテは反米発言を控えるようになったといいます。
きっかけは2017年5月に起きたイスラム過激派によるミンダナオ島マラウィ市占拠事件だと言われます。ミンダナオ島に拠点を置くイスラム過激派のアブサヤフが蜂起を計画していることを知ったフィリピン軍は最高指導者のハピロンが潜んでいるとされたアジトを急襲しますが、予想以上の勢力を持つアブサヤフに反撃され、市内中心部を占拠されました。

このアブサヤフとの戦いに米軍は深く関与していたといいます。アブサヤフはISの影響も受けており、米軍は情報提供や作戦指導だけではなく、戦闘にも参加したという話もあります。
ドゥテルテはこの事件の後、反米的な発言を控えるようになりました。

ただし、2020年には上院議員のロナルド・デラロサがアメリカからビザ発給を断られたことをきっかけに、訪問米軍地位協定(VFA)の一方的破棄をアメリカに通告しています。
この協定自体には犯罪を犯した米兵の身柄が米大使館内に置かれること、判決を1年以内に出すことが求められるなど、以前から問題を指摘する声もありました。
結局は、身柄を拘束する場所などを変更するという米側の譲歩を受けて、協定は継続されています。

つづいて本書は日比関係についてもとり上げています。著者はフィリピンに対する印象は良いとしたうえで、その要因をフィリピン人女性がエンターテナーとして日本に渡り、成功して家を建て、日本の様子を伝えたから、さらに国際結婚の増加も両国の関係を深めたと書いています。
このあたりが真実かどうかは何とも言えないですが、現在、エンターテナーのビザはほとんど出ないが行った人の多くは福島県、特にいわき市が多く福島第一原発の作業員のための遊興施設が例外的に認められているという話は興味深いですね(173p]。

第5章ではフィリピン経済が扱われています。
フィリピンは東南アジア諸国の中でも経済が停滞しているイメージがありましたが、近年になって風向きが変わってきています。
マルコス政権下の輸出主導型の工業化はうまくいかず、その後もフィリピンでは製造業はいまいちでしたが、近年ではサービス産業に特化する形で経済成長が進んでいます。
コールセンターやセブ島などでの英会話留学、観光業などのサービス業が伸びており、それがノイノイ政権〜ドゥテルテ政権にかけての経済成長を支えるようになったのです。

また、少子化が進むアジアの中でもフィリピンの出生率は2019年で2.53と非常に高く、2021年の人口構成の中央値が24.5歳と非常に若い国でもあります(日本は48.4歳]。
個人消費も旺盛で、ここにドゥテルテ政権でのインフラ投資が加わったことで、コロナ前まで6%以上の経済成長が続いたのです。

ただし、若者を中心に失業率は高く、インフレ率も高いために実質賃金もあまり伸びていません。
そうしたこともあり、フィリピンの経済を支えている大きな要素が海外で働くフィリピン人による送金です。海外で暮らすフィリピン人は約1200万人で人口の1割を超えているとされています。
こうした状況においてコロナはフィリピン経済に大きな打撃を与えました。2020年の経済成長率は−9.75%で、医師や看護師の不足にも苦しみました(フィリピンでは医師や看護師も海外に流出してしまう)。

第6章では、ドゥテルテが依拠するフィリピン・ナショナリズムがとり上げられています。
2021年はマゼランのフィリピン来航500年であり、カトリック教会はこれを祝おうとしましたが、ドゥテルテはこれに不快感を示し、マゼランを殺したラプラプを「フィリピン最初の英雄」として祝うことにしました。
フィリピンはスペインの植民地となりましたが、東南アジアの植民地の中では最初に蜂起し、独立戦争を行った国でもあります。
独立を求めてスペインと戦っている中で、米西戦争が起こり、エミリオ・アギナルドがアメリカに協力する形でスペイン総督府を陥落させ、1899年にはマロロス憲法と呼ばれるアジアで初の民主的な憲法も制定されます。
しかし、フィリピンはスペインからアメリカに割譲され、米軍とフィリピン独立軍の間で戦闘が始まります。ダクラス・マッカーサーの父であるアーサー・マッカーサー率いる米軍にフィリピン独立軍は敗北し、フィリピン独立は未完に終わりました。
その後、1935年に自治政府ができ、1946年に独立するわけですが、「与えられた独立」というイメージとアメリカに対する複雑な感情が残りました。

独立後、フィリピン語(タガログ語)の普及に力を入れたマルコスのような例はありますが、基本的に歴代の大統領は「親米」です。そうした中でドゥテルテは正面から「反米ナショナリズム」を打ち出したことに特徴があるのです。

最後の第7章では、ボンボン・マルコス政権について述べています。
マルコスの息子が大統領選に出て圧勝したと聞いて、多くの日本人は意外に感じたと思います。マルコス政権はピープルパワーによって倒された「負の歴史」というイメージがあるからです。
ボンボン・マルコスの人気の要因は、本書によればマルコス政権の再評価が進んだからではなく、ボンボンをドゥテルテが支持したからです。さらにドゥテルテの娘で副大統領候補だったサラ・ドゥテルテとタッグを組んだことでドゥテルテ支持層をしっかりと捕まえました。

フィリピンの大統領は1期6年しかできずに再選は不可です。そのため、娘のサラが大統領候補になり、ドゥテルテ自身は副大統領に立候補するという観測もありました。裏技的なやり方ですが、大統領経験者が副大統領候補になることは禁じられていなかったからです。
ただし、このアイディアをサラは拒否したといいます。サラは父に代わってダバオ市長を務めたこともあり、ドゥテルテも政治家としての後継者はサラだと口にしていました。
サラは市長時代に違法占拠者に対する強制執行をしようとした職員を殴ったこともあり、父譲りの型破りな行動が人気を集めていました。国民からの人気が高いサラはボンボンの次を狙っているとも言われます。

最初にも書いたように著者のスタンスは「ドゥテルテびいき」であり、政権の問題点についての追求にはやや甘さも感じます。ただし、そのドゥテルテをフィリピン国民の多くが支持し続けたことは事実であり、ドゥテルテ支持の要因を考える上では役に立つ本と言えます。
また、フィリピンの経済状況や歴史についてもつかめるようになっていますし、フィリピンの現状について知るための1冊としても悪くないと思います。


戦後を代表する作家であり、また「歴史家」としても多くの人を魅了した司馬遼太郎。一方、その作品の内容については批判する研究者も多いです。
そんな司馬遼太郎について、個々の作品ではなく、その生い立ちと人気をえた時代背景を分析することで、作家と時代を描き出そうとした試みになります。
著者の専門は文学や歴史学ではなく歴史社会学やメディア史で、司馬遼太郎が受け入れられた理由についてはポイントを示しながらうまく説明できていると思います。
やや繰り返しが多いような部分もあるのですが、「司馬遼太郎の時代」を描くことで、同時に司馬遼太郎という個人のあり方にも迫ることができています。司馬遼太郎のファンの人も面白く読めるでしょう。

目次は以下の通り。
序章 国民作家と傍流の昭和史
第1章 傍系の学歴と戦争体験―昭和戦前・戦中期
第2章 新聞記者から歴史作家へ―戦後復興期
第3章 歴史ブームと大衆教養主義―高度成長とその後
第4章 争点化する「司馬史観」―「戦後五〇年」以降
終章 司馬遼太郎の時代―中年教養文化と「昭和」

まず、序章では、「「余談」と没落後の教養主義」、「サラリーマンの「教養」」、「メディアの機能と相互作用」、「「傍系」「二流」の軌跡」、「戦中派の情念」、「「司馬史観」をめぐって」という6つの論点が取り出されています。
その上で司馬の生涯を辿りつつ、上記の論点を深めていくような構成です。

司馬遼太郎(本名・福田定一)は1923年に大阪市浪速区の薬局の家に生まれました。
父は是定、祖父の惣八ですが、この惣八は激烈な攘夷主義者で髷を切ったのは日露戦争後だったといいます。惣八の是定に対する教育方針は独特で、当時就学率が9割を超えていた小学校に通わせず、漢文の初歩と和算は自らが教えるとともに、『四書五経』は近隣の氏族に習わせていました。
この結果、是定には学歴がなく、そのために学歴がなくても入れる薬学校に通い、個人薬局を開くしかなかったとも考えられます。

このような家庭に生まれた司馬でしたが、数学は苦手だったものの学校の成績は悪いものではありませんでした。ただ、学校に馴染めない体質で、読書に没頭していたといいます。
司馬は旧制高校の進学を考えますが、ここで失敗します。2年続けて受験に失敗し、やむなく進んだのが旧制専門学校の大阪外国語学校蒙古語部でした。

旧制専門学校への進学者も全体から見れば学歴エリートでしたが、その多くは卒業後就職しており、大学へ進むことが一般的だった旧制高校に比べると格差がありました。
旧制高校が「上流エリート」への道だとすると、旧制専門学校は「中流エリート」以下に甘んじることを意味しました。
ただし、大阪外国語学校のような官立の専門学校にはそれなりのランクがあり、早稲田や慶應のような私大トップと同じように評価されることも多かったといいます。

司馬が大阪外国語学校に合格した理由の1つが、入試に数学がなかったことです。
これも理由なのか、大阪外国語学校は作家の陳舜臣、言語学者の西田龍雄、京都大学東南アジア研究所所長の市村真一などの人材を輩出しています。いわゆる秀才とは少し違った学生が集めっていたと言えます。
旧制高校が教養を学ぶ場所であったのに対し、専門学校は専門知識を身につける場所という位置づけでしたが、大阪外国語学校は教養主義的な色彩を帯びており、軍事教練も厳しくなく、比較的リベラルな雰囲気だったと言われます。
それでも司馬にとって語学ばかりのカリキュラムは不満があったようですし、大学の文学サークルなどにも「文学青年ぎらい」から近づこうとはしませんでした。
1943年、学徒出陣が始まり、司馬も43年9月に大阪外国語学校を仮卒業し、12月には戦車第十九連隊に配属されることになります。さらに44年4月に満州の四平陸軍戦車学校に入校し、12月にそこを卒業して見習士官として戦車第一連隊に配属されます。
ここで司馬が痛感したのが、日本の戦車の貧弱さでした。装甲も砲の貫通力もソ連の戦車に大きく劣り、そこには「精神力」では埋められない厳然とした差がありました。
司馬はこうした戦車しかないのに戦争を進めようとした陸軍の上層部、特に参謀本部のエリートたちを強い反感を持つようになっていくのです。

戦争末期になると、戦車第一連隊は本土決戦に備えて栃木県の佐野に移ります。このとき、連隊のある将校が大本営から来た参謀に避難民と鉢合わせになったらどうするかを尋ねたところ、「轢き殺してゆく」と答えたというエピソードを司馬は紹介しています。
このエピソードについては秦郁彦らが調べたものの確認できていないために、その真偽は不明ですが、司馬はこうした机上の論理を優先する姿勢を嫌いました。

この戦争体験と、軍や国家に対する幻滅が小説のモチーフになっていくわけですが、まず、戦後に司馬が就いたのは新聞記者という職業でした。
まずは『新世界新聞』、次に『新日本新聞』の記者になりますが、いずれも終戦直後に生まれた新興紙でした。GHQは紙不足から用紙統制を行っていましたが、地方分権的な民主主義を育成する観点から新興紙に優先的に用紙を割り当てており、その波に乗って多くの新興紙が生まれていたのです。
ただし、当然ながら経営は不安定で、『新日本新聞』は1948年に倒産、司馬は『産業経済新聞』に移ることになります。

『産業経済新聞』は前田久吉が戦前に創刊した『日本工業新聞』に端を発しています。1947年の時点で発行部数は11万7000部で国内19位にすぎませんでしたが、系列氏の『時事新報』、『大阪時事新報』を加えると76万9000部になり、これは当時の第5位になります(70p)。
それでも当時300万部を超えていた『朝日新聞』や『毎日新聞』にはかなわず、「一流紙」とスキャンダルやエログロに重きを置く「三流紙」の間にある「二流紙」と著者は評しています。
53年に前田が参議院の全国区から当選すると、フジテレビの社長などを務め、またアンドレ・モーロア『英国史』の訳者としても知られる水野成夫が産業経済新聞社の経営を担うことになります。この点でも『産業経済新聞』はやや異色の新聞でした。

産経新聞社に入った司馬は京都支局で寺社や大学を担当します。花形とは言えない部署でしたが、時間的な余裕はあり、西本願寺の記者室で本を読んだり、龍谷大学の図書館や東本願寺教化研究所で資料を見たりしていたそうです。
ただし、1950年の金閣寺放火事件では、他紙に先駆けて修行僧の宗門への不満が原因だったことを記事にしています。
52年に大阪本社に転勤となり、文化部に配属されることになりました。このとき作家・寺内大吉のコラムが間に合わなかった際に司馬が無断で代筆し、それをきっかけとして寺内に小説の執筆を勧められます。

そこで書いた短編「ペルシャの幻術師」が第八回講談倶楽部賞を受賞します。時を同じくして職場では管理職となり、36歳で文化部長、出版局次長と出世していきますが、部下の文章を直しすぎるほど直し、本人が「部下の「技術採点者」といった程度の管理しかできなかった」(79p)と振り返るように、あまりいい管理職ではなかったようです。

1958年、司馬は『中外日報』で「梟のいる城」の連載を始めます。秀吉暗殺を狙う伊賀忍者を描いた作品ですが、作品のテーマは「無償の功名心」とも言えるもので、報いはなくても自分の技量を天下人相手に試してみたいという人物が主人公です。この作品で司馬は第42回直木賞を受賞します。
1961年に司馬は産業経済新聞社を離れ作家活動に専念することになります。
ここから「風神の門」「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「尻啖え孫市」といった作品の連載が始まっていきます。「竜馬がゆく」は産経新聞の社長の水野成夫から直々に依頼され、月額100万という破格の原稿料を提示されたといいます。
司馬の作品は伝奇ロマン小説から戦国期や幕末・維新期を舞台にした歴史小説になり、徐々に主人公よりも時代そのものに焦点を合わせたような作品も増えていきます。
司馬は変動期に生きた人物を好んで描きましたが、これは戦車兵として経験した老化した官僚秩序の問題点を描くために選ばれた側面もあります。
司馬は経済合理性や技術合理性を重視し、一方で死に美を見出すような軍事的な非合理性を批判的に書きました。

また、エリートや教養といったものには批判的であり、『国盗り物語』の明智光秀や『関ヶ原』の石田三成は教養があるがゆえに人の心をつかめない人物として描かれています。
さらに「正しさ」や「イデオロギー」に対する嫌悪も際立っています。『「明治」という国家』の中で「ありもしない絶対を、論理と修辞でもって、糸巻きのようにグルグル巻きにしたものがイデオロギー」(117p)と述べているように、イデオロギーを敵視しています。

第3章では司馬作品が人気を得た時代的な背景を探っていきます。
司馬の主要作品の多くは60年代に刊行されています。高度成長の中後期で、企業の人事考課などの制度も整ってきた頃でした。
労働者たちは出世のためには評価されなければならなかったわけですが、そのときに参考になったのが司馬作品に出てくる組織の中で活躍する人間たちでした。

また、メディア的には映画からテレビへと中心が移っていく時代でもありました。
司馬作品では『燃えよ剣』、『尻啖え孫市』、『幕末』などが映画化されていますが、それほど話題になった作品はありません。
一方、司馬作品は『竜馬がゆく』、『国盗り物語』、『花神』、『翔ぶが如く』、『徳川慶喜』、『功名が辻』と6本もNHKの大河ドラマになっています。

ただし、「司馬大河」が最初から人気だったわけではありません。『竜馬がゆく』の視聴率は14.5%で93年以前の大河で最も低い数字でした。『国盗り物語』は22.4%まで上がりましたが、『花神』は19%でした。
それでも大河ドラマは司馬作品の認知度を大きく上げました。

昭和50年代になると司馬作品の文庫化が進みますが、これも読者層を広げました。サラリーマンが通勤のときに読むものとして司馬作品は受容されたのです。
また、昭和50年代は、『歴史読本』「歴史と旅』『歴史と人物』などの歴史雑誌が人気となり、『プレジデント』が「歴史人物路線」をとるなど、歴史への関心が高まった時期でもあります。

著者はこの背景に教養主義の「遅延」があったと見ています。1960年代頃まで教養主義の流れがあり、それは必ずしも学歴エリートだけではなく、経済的な理由などで進学できなかった庶民の中にも広がっていました。
ところが、60年代後半になって大学進学率が高まると教養のあるがたみが薄れます。また、消費文化の高まりは若者を教養から遠ざけました。
ただし、社会の中堅は若い頃に教養主義を内面化した世代でした。この世代が昭和50年代の「大衆歴史ブーム」を支えます。抽象的な思想や哲学は仕事の合間に向き合うことは大変だが、「歴史」は手の出しやすい教養だったのです。そして、この需要に応えたのが司馬の「余談」でした。

また、終身雇用が広がる中で「人格」が評価されるようになり、こうした中で「組織人」としての振る舞いのモデルが司馬作品に求められました。
司馬が「経営者やビジネスマンが。私の書いたものを、朝礼の訓示に安直に使うような読み方をされるのはまことに辛い」(186p)と述べているように、司馬が書きたかったのは「組織で上手く生きる方法」などではないのですが、そのようにも読まれました。
また、司馬はナショナリズムとも距離をとっていましたが、司馬は「古き良き日本の再評価」の題材としても読まれるようになります。

司馬は基本的に文学の世界ではとり上げられていませんでした。本人も「小説らしさ」から逸脱していることに自覚的でしたし、『坂の上の雲』については小説でも史伝でもない単なる書物だと言っています。
こうした司馬のあり方に対しては歴史学者の間でに戸惑いが見られ、大江志乃夫も「実在の人物が歴史のうえに残しているたしかなアリバイを、作家が無視して創作しうる限界はどこまでか」(206p)と述べています。
また、渡辺京二は、司馬が大衆作家の習い性で、歴史を論じながら史上はじめてとか前代未聞といった修辞を使うことを批判していますが、これは確かにそうかもしれません。

1980年代に入ると司馬の仕事は次第に小説から史論へと移っていきます。87年に『韃靼疾風録』を書き上げると、史論・文明論・紀行文が仕事の中心になります。
知識人との対談なども多くなり、山崎正和、橋川文三、高坂正堯などと対談しています。著者が指摘するように司馬と積極的に対談したのは学際的な知識人であり、本流の歴史学者が司馬を遠ざける中で、従来の知の枠組みを越境をしようとする知識人は司馬を評価したのです。

90年代になると「司馬史観」という言葉もしばしば使われるようになります。
1996年に司馬は亡くなりますが、ちょうど同じ頃、教育学者の藤岡信勝が日本を一方的に悪く書いているとして歴史教科書の近現代史を批判し、「自由主義史観」を提唱します。
司馬の亡くなった96年には「新しい歴史教科書をつくる会」が結成されますが、藤岡がたびたび参考にしたのが司馬作品でした。明治以降の歴史を「暗く」描く教科書の記述に対して、司馬の描く「明るい明治」を持ち出したのです。

これに対してアカデミックな歴史学からの司馬批判が起こります。中村政則が1997年に岩波ブックレットで『近現代史をどう見るか ー 司馬史観を問う』を出して、司馬作品で加害の側面が描かれていないことや。「明るい明治」と「暗い昭和」の二分法を批判したように、歴史学者が司馬作品を批判するようになるのです。

×ばつ」と考える「従来の歴史学」に対して、藤岡らが「明治しろまる×ばつ」という歴史を描いた司馬作品を使って、「明治しろまる、戦前の昭和しろまる」という歴史を描こうとする面もあって、論争の中で司馬の持つ戦前の昭和、特に軍や官僚制に対する嫌悪は後景に退いてしまいました。
司馬にとって「明るい明治」は「暗い昭和」を写し出すためのネガでもあったのですが、そうした側面はおいていかれるようになります(第2章の131p以下にあるように、司馬はノモンハン事件などの戦前の昭和を直接描こうと試みたこともあったが、関係者がまだ生きており、できなかった)。

最後に著者は、司馬作品の問題点を押さえつつも、司馬の作品が人文知と大衆を緩やかに架橋するものだったのではないか? と述べています。
そして、最後は「司馬遼太郎の時代」は、困難や限界を伴った大衆教養主義の歴史であると同時に、現在そして未来の「人文知と大衆」のありようを問うものでもある」(254p)と締めています。

司馬遼太郎の小説に対する歴史学の立場からの批判というのは今後も続くでしょう。司馬にはサービス精神や誇張する癖があって、事実とはいえない記述もあるからです。また、研究は進展していくものであり、司馬が「史実」と考えたものが新しい史料の発見などによって塗り替えられてもいるでしょう。
そうした中で本書の魅力は「司馬作品がなぜ受容されたのか?」という部分を中心に議論を進めている点です。
「司馬遼太郎の功罪」を考える時、「罪」は「史実とは違う」とか「庶民が捨象されている」とかすぐに浮かぶと思いますが、「功」を言語化するのは意外と難しいのかもしれません。本書はその足がかりになる本と言えるでしょう。


今年の1月に講談社選書メチエから出た『物価とは何か』は、今年の経済書の中でもトップクラスの面白さだったと思いますが、本書は同じ著者による新書になります。
最初は、「このくらいのスパンだと焼き直しにしかならないのでは?」と思ったのですが、読んでみたら面白いですね。ここ最近、世界的に起きているインフレの謎を中心に、欧米各国と日本の違い、どのような処方箋があり得るのか? など、『物価とは何か』よりもアクチュアルな問題が論じられていて、新たな発見があります。
『物価とは何か』を読んだ人でも十分に楽しめる本であり、ここ最近のインフレの問題を考える上で必読の本と言えます。

目次は以下の通り。
第1章 なぜ世界はインフレになったのか――大きな誤解と2つの謎
第2章 ウイルスはいかにして世界経済と経済学者を翻弄したか
第3章 「後遺症」としての世界インフレ
第4章 日本だけが苦しむ「2つの病」――デフレという慢性病と急性インフレ
第5章 世界はインフレとどう闘うのか

本書の冒頭には「世界がインフレに見舞われるのは、実に久しぶりの出来事です」(8p)とありますが、確かにリーマン・ショック以降、各国の中央銀行が心配していたのはデフレであり、これを回避するためにさまざまな政策が行われてきました。
このデフレ基調の背景には、金融危機だけではなく、1グローバル化による生産費用の低下、2少子高齢化を背景とした貯蓄率の高まり、3技術革新の頭打ちと生産性の停滞、という構造的な要因があり、それゆえにデフレ基調は続くと考えられていました。

ところが現在、世界をインフレの波が襲っています。
原因として思い浮かぶのはロシアによるウクライナ侵攻ですが、著者は、影響はあったもののこれが主因ではないと考えています。米国・英国・ユーロ圏の専門家などのインフレ予測は2021年の夏頃から上昇しており、ウクライナ危機はそれを加速させてはいるものの、危機直前のインフレ予測は米国や英国ですでに5%を超えているのです(17p図1-1参照)。

では、インフレを起こした真犯人は誰なのか? 著者はそれを新型コロナウイルスによるパンデミックに見ています。
ただし、インフレが起こりはじめた2021年の夏頃はワクチン接種も進み、経済活動が戻りはじめた時期です。本来ならば経済活動が正常化していくはずの時期にインフレが起こったのです。
戦争や地震と違って、パンデミックは生産設備を破壊しません。多くの人が感染しましたが、致死率はそれほど高くはなかったですし、死者は高齢者が中心だったので、労働力も戻ると考えられていました

ところが、経済活動は元には戻りませんでした。
職を離れた労働者の一部はそのまま戻ってきませんでしたし、消費者の行動パターンも変わりました。
経済状況が変わってしまったことを表しているのが38p図1-2の「米国のフィリップス曲線」です。2020年まではかなり緩やかだったフィリップス曲線は、2021年1月以降、垂直に切り立つようになっています。
中央銀行は金融政策において最も頼りになる手がかりを失ってしまった状況なのです。

近年の大きな経済的なショックというとリーマン・ショックが思い起こされますが、リーマン・ショックは需要に大きな影響を与えたのに対して、パンデミックは供給に影響を与えたと考えられます。
供給にショックを与えた事例としては東日本大震災があります。このとき、多くの人々は供給がダメージを受けて物価は上がると予測しました。しかし、今回のパンデミックにおいて多くの人は需要が減って物価が下がると予測していました。多くの人が家に籠もって景気が悪くなると考えたのです。

100年前のパンデミックであるスペイン風邪では、多くの働き手が犠牲になったことで賃金上昇とインフレが起こりました。
しかし、新型コロナはスペイン風邪ほどの死者数をもたらしていません。100万人あたりの死者数とGDPの損失率を比較しても、特に死者数の多いところでGDPが下がったわけではありません(63p表2-1参照)。

ところが、新型コロナはインフレをもたらしました。著者は、この鍵を「情報」に見ています。
新型コロナの感染拡大の過程では、感染者数、死者数、クラスターが発生した場所が日々報道されていました。居酒屋、フィットネスクラブなどでのクラスターが報じられ、そういった場所を避けるようになったいう人も多いでしょう。
このときにポイントになるが、直接の健康被害や政府の介入がなくても多くの人々が行動を変容させた点です。

例えば、2020年4月の最初の緊急事態宣言が出ましたが、注目すべきは対象地域の埼玉県だけではなく、少し遅れて対象外の隣の群馬県でも外出自粛が起きている点です(75p図2-3参照)。
つまり、政府の介入がなくても人々はさまざまな情報をもとにして行動を変容させていたのです(日本のお願いベースの外出自粛要請が外出を8.6%減少させ、米国でのロックダウンが外出を約7%外減少させたというように強制力の有無はそれほど違いを生まなかった)。

ここでポイントになるのは人々の「恐怖心」であり、私たちは消費者であるとともに労働者でもあるという点です。
当初、「恐怖心」は外出を減らし需要を減らしました。ところが、それだけにとどまらず「恐怖心」は人々を労働の場からも去らせたのです。
アメリカでは景気の悪化に伴い解雇やレイオフが急増しましたが、経済が再開されるとそこで職を離れた人が戻ってこないという事態になりました。母国に帰った移民もいましたし、退職を早めた高齢者もいたのですが、多くの人が労働の場に戻りませんでした。
これは供給減をもたらし物価上昇の要因になります。

インフレというと1970年代に起こったインフレが思い起こされます。
その原因としてオイルショックがあげられることが多いですが、日本でもオイルショック発生前から物価は上がっており、経済学者の間では人々のインフレ予想がもたらしたと考えられています。
当時はニクソン大統領によってドルと金の交換が停止され、通貨を安定させるノミナルアンカーが失われた状況でした。こうした中で起こったインフレをFRBのボルカー議長は8ヶ月で9%ポイントも利上げをするという荒療治で抑え込みます。
この70年代の経験を経て、各国の中央銀行はインフレターゲティングという物価上昇の目安を示す政策をとり、物価は安定するようになっていきます。

では、今回のインフレが70年代のものと同じかというと、今回は人々のインフレ予想が落ち着いている点が違います。短期はともかくとして今後5年間のインフレ率については2.5%程度と落ち着いているのです(110p図3−2参照)。
ところがインフレは続いていますし、前にも述べたようにフィリップス曲線は変容してしまっています。

フィリップス曲線は次の式で表されます。

インフレ率=インフレ予想−a×ばつ失業率+X

この式のaは定数でフィリップス曲線の傾きを表します。Xはインフレの供給要因です。
著者によれば、今回のインフレの要因はXです。それが具体的に何なのかはよくわからないのですが、Xが増加してインフレ率を押し上げているというのが現在の見立てです。
もし供給要因がインフレの主犯だと中央銀行の対処は難しくなります。中央銀行は労働者を職場に引っ張り出したりはできないからです。そこで仕方がなく需要を冷やす利上げによってインフレを抑え込もうとしているわけです。

このファクターXの候補として最初に著者が提示するのが消費者の行動変容です。
パンデミックを経て大きく変わったのが消費におけるモノとサービスの割合です。パンデミック以前の2019年、米国ではサービス消費が69%程度を占めていましたが、21年の3月には64%に落ちました。その後少し持ち直しましたが65%程度で推移しています(125p図3−4参照)。
一方でそれまでシェアを低下させ続けていたモノ消費の割合は増えました。1970年に50%近くあったモノ消費は2020年を迎える頃には31%程度まで低下するという長期的なトレンドのもとにあったのですが、それが急に反転したのです(127p図3−5参照)。
しかも、この斑点が急に起こったために労働の資本の移動はこの変化についていけませんでした。

価格に関しても、モノの価格は上がり、サービスの価格は下がるという状況になります。
ただし、サービスの価格はモノに比べて価格硬直性があります。これはサービス産業のコストの大半を人件費が占めているためです。
モノの価格は需要の増大とともに上がるが、サービスの価格は需要の減少の割には下がらない。これがインフレの1つの要因だと考えられます。

そして2つ目の要因が労働者の行動変容です。
米国の非労働力人口はコロナ前の約9500万人から2020年4月には約1億400万人へと一挙に900万人近く増え、その後も約1億人とコロナ前を500万人ほど上回る状況が続いています(135p図3−7参照)。
過去のパンデミックを調べてみても、実質賃金はパンデミック収束後から20年近く上昇しているというデータもあり(142p図3−10参照)、労働者の職場からの逃避は意外と長く続く恐れもあるのです。

3つ目は企業の行動変容、具体的には脱グローバル化です。
今回のパンデミックではサプライチェーンが寸断されました。コンテナ不足などによる物流の停滞、半導体の不足などによって生産停止に追い込まれた企業も数多くありました。
2008年のリーマン・ショックによって、貿易のそれまでの伸びが止まりましたが、今回のパンデミックを受けて、生産拠点を国内に戻す動きも起きています。コストの低さよりもリスクを重視するようになったのです。
ただし、実は日本は様相が違います。IMFが2022年4月に予測した数字では日本は0.984%で192カ国中最下位なのです。トップのベネズエラの500%を超える数字は別にしても、米国で7.68%、英国で7.14%という数字が出ているにもかかわらずです(160p図4−1参照)。
実は、インフレ率において日本が取り残されているのは今に始まったことではなく、2000年以降、消費税の引き上げの影響を受けた2014年を除くと常に日本は下位にいます(162p図4−2参照)。

では、なぜ最下位なのでしょうか? 著者がまずあげるのが輸入品の値上げが進まないということです。
輸入物価インフレ率とCPIインフレ率を見てみると、日本は50%近い輸入物価インフレ率でありながらCPIインフレ率はほぼゼロという特異なあり方になっています(168p図4−3参照)。
輸入品である燃料価格や食料価格は上がっているのに、それをメーカーが製品価格に転嫁していないのです。

173pの図4−4として「渡辺チャート」なる著者が作成した品目別価格変化率のグラフが載っていますが、これを見ると都市ガスや電気代など大きく上昇している品目もある一方で、ほとんどの品目の価格が変化していないこともわかります。

この理由については『物価とは何か』に詳しい説明があるのですが、そこでは日本において価格が変わらないことが規範のようになってしまっていることが指摘されています。
以前はそうではなかったのですが、金融危機が起こった90年代末から日本人は「価格は変わらないもの」と捉えるようになり、デフレが慢性化してしまったのです。

これを変えようとしたのがアベノミクスであり、日銀の異次元緩和だったのですが、2015年6月に菅官房長官がこれ以上の円安は日本の利益にならないとの趣旨のメッセージを出し、日銀も同趣旨のメッセージを出すと、円高へと反転し、デフレからの脱出はなりませんでした。
しかし、今回のパンデミックはこのデフレを変えるかもしれません。
2022年5月に世界各国で行ったアンケートでは、「今後1年で物価はどうなると思いますか?」という問いに対して「ほとんど変わらない」という回答が2021年8月に比べて大幅に減ったのです(191p図4−9参照)。
行きつけのスーパーで値上がりしていたらどうするか? という問いに対しても、以前は「他の店に行く」との回答が他国に比べて顕著に多かったのですが、2022年5月の調査では他国と似たような水準になっています(192p図4−10参照)。

では、日本はこのままデフレから抜け出すのでしょうか? 著者は賃金というもう1つ大きな山があるといいます。
日本では消費者は価格が上がらないことを前提にして賃金が上がらないのを我慢するというノルムがあり、それが物価と賃金の凍結をもたらしていましたが、物価が上がったのに賃金が上がらなければ、再び物価の押し下げ圧力がかかると考えられるからです。
実際、日本では他の国と違って1年後のあなたの給与が「変わらない」と考える人が65%ほどいおり、さらに「下がる」と考えている人も他国に比べて多いです(198p図4−11参照)。

著者が考えるシナリオのその1はスタグフレーションで、物価が上がるのに賃金は上がらずに不況が到来します。
その2は慢性デフレからの脱却で、物価高が賃金上昇に結びつき、価格も賃金も変わらないというノルムが壊れるシナリオです。

では、このインフレにどう対処していけばいいのでしょうか?
今回は供給側に原因のあるインフレであり、中央銀行ができることは限られてます。それでもインフレを止めなければならないということで欧米では需要を引き締める利上げが行われています。
欧米では、物価上昇→賃金上昇→物価上昇という物価・賃金スパイラルが警戒されており、景気にブレーキをかけることもやむなしと見ています。
物価・賃金スパイラルに突入してしまうと、かなり強引な利上げで需要を冷やすか、政府が介入して賃金の凍結や価格転嫁の禁止を行うくらいしか手がなくなってしまうためです。

では、日本はどうすべきなのでしょうか? 日本はインフレ率が低く物価・賃金スパイラルが起こる可能性は低いです。ただし、物価と賃金が手を取り合って動かない日本は、手を取り合って上がっていく欧米と、手を取り合っているという点では同じです。
2000年から2021年のOECD加盟国の賃金の推移を見ると、日本は名目では最下位(唯一のマイナス)、実質では0.1%のプラスでギリシア、メキシコ、イタリア、スペインよりはましな位置になります(242−243p図5−5参照)。

「賃金が伸びないのは生産性が上がらないからだ」と言われており、これは間違いではないのですが、著者がこだわるのは名目賃金の伸びの低さです。例えば、イタリアの実質賃金の伸びは0%ですが、名目賃金は1.7%伸びています。
著者の主張はスウェーデンのように実質も名目も伸びるのが理想だが、まずはイタリアのように名目だけでも伸びる状況をめざそうというものです。イタリアでは、生産性はともかくとして、少なくとも物価の上昇分だけは賃金が上がっています。

アベノミクスはこうしたことを実現しようとしましたが、著者は、まずは2%の物価上昇を目指し、それに伴って賃金の上昇を目指すという順案がよくなかったのではないかと振り返ります。
賃金の上昇→価格の上昇のケースは企業に価格を上げなければならないという切迫感があり、労働者も賃金の上昇という果実を手にしていますが、価格の上昇→賃金上昇という経路では、価格を上げてライバルに出し抜かれることを警戒しますし、労働者も本当に賃金が上がるか信じられません。これが2%の物価上昇が実現しなかった理由だと著者は見ています。

というわけで、現在の物価上昇はピンチでもあり、チャンスでもあります。人々のインフレ予測が高まっている中で、うまく幅広い賃金の上昇が起これば慢性デフレから脱却できるかもしれないのです。そのためには賃金の上昇をコーディネートする政府の役割が重要になると著者は考えています。

このように本書は世界インフレの謎に迫るだけではなく、日本のデフレとその脱却についても迫っています。
長く読みつがれるのは『物価とは何か』かもしれませんが、本書も十分に面白く、今後の経済を考える上での多くの知見を教えてくれる本です。
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