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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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2022年11月

副題は「読む人の肖像」。「肖像」という副題からはスピノザという哲学者についてのスケッチのようなものかな? と一瞬思いますが。本書は400ページを超えるボリュームで、スピノザの主要な著作を「読んで」いきます。
スピノザはデカルトを徹底的に「読む」ことから哲学を始めたわけですが、本書はそれを追体験しながら、スピノザの主要著作である『エチカ』を「読む」という構成になっています。
スピノザの全体像をラフに描く前にいきなりテキストの読解に入っていくので、スピノザやこの時代について知らない人にとっては最初はややハードかもしれませんが、読み進めていくと徐々にスピノザという哲学者の特徴が見えてくると思います。
実は自分はスピノザの著作を読んでいないので、本書のスピノザの読解がどれくらい妥当性のあるものなのかということは判断できないのですが、少なくとも本書を読んでいく中で、現代になってもスピノザが言及され続ける理由というものは見えてきました。
以下の紹介は、あくまでもスピノザのことをあまり知らない人間が書いた、本書の気になった部分の紹介という程度のものになります。

目次は以下の通り。
序章 哲学者の嗅覚
第一章 読む人としての哲学者――『デカルトの哲学原理』
第二章 準備の問題――『知性改善論』『短論文』
第三章 総合的方法の完成――『エチカ』第一部
第四章 人間の本質としての意識――『エチカ』第二部、第三部
第五章 契約の新しい概念――『神学・政治論』
第六章 意識は何をなしうるか――『エチカ』第四部、第五部
第七章 遺された課題――『ヘブライ語文法綱要』『国家論』

スピノザは1632年にオランダのアムステルダムに生まれています。もともとのルーツはスペインのユダヤ人で、レコンキスタとともにカトリックへの改宗を迫られた「マラーノ」と呼ばれた人々になります。
スピノザの先祖は迫害から逃れるためにスペインからポルトガル、さらにフランスのナント、そしてアムステルダムという形で生活の場を移しました。

スピノザは若くして才能を認められていましたが、20歳を過ぎた頃から無神論者と疑われ、23歳のときにユダヤ教の律法学者から破門されています。
そうした中でスピノザはデカルトの哲学と出会い、31歳の時に『デカルトの哲学原理』を出版します。

本書はスピノザに「読む人」として特徴づけていますが、スピノザが熱心に読んだのは聖書を除けばデカルトの著作ということになります。
そして、スピノザは『デカルトの哲学原理』において、デカルト哲学のエッセンスを取り出すだけではなく、自らが不十分と思う点については改変しています。

例えば、デカルトと言えば、「私は考える、故に私は存在する(我思う故に我あり)」ですが、スピノザは、この原理は実際には、「考えるためには存在しなければならない」(大前提)、「ところで私は考えている」(小前提)、「故に私は存在している」(結論)という三段論法なのに、大前提が省略されてしまっていると言います(40-41p)。
そこで、スピノザは「私は考える、故に私は存在する」という命題を、「私は考えつつ存在する」という命題に置き換えようとします(ただし、著者も指摘するようにこの書き換えでデカルトの懐疑の問題が解決するわけではない)。

スピノザはデカルトの考えをまとめる時に、デカルトの『哲学原理』によるのではなく、『省察』に収められた「諸根拠」という短いテキストに依拠しています。
デカルトによれば物事を証明する方法は2つあり、結果を分析あるいは分解して原因に至る分析的方法と、原因あるいは原理を提示した上で、そこに諸々の結果を組み合わせて証明が行われる総合的方法があるといいます。
『省察』は分析的方法で、「諸根拠」は総合的方法で書かれています。デカルトは、総合的方法は真理の発見には向いておらず発見された真理を提示できるにとどまると考えましたが、一方、スピノザは後者の総合的方法を好みました。主著の『エチカ』もこのスタイルで書かれています。

その後、本書では神の存在証明や自然科学の問題についてとり上げていますが、ここでは割愛しておきます。

第2章ではスピノザが『エチカ』を書く時期までの様子が描かれています。
スピノザにはデッサンとレンズ磨きの技術があり、スピノザと同い年のフェルメールがスピノザの磨いたレンズを使ったのではないか? フェルメールの『天文学者』、『地理学者』のモデルがスピノザだったのでは? という話が紹介されています。

この時期の著作には『知性改善論』と『短論文』という2つの著作があるのですが(どちらが先に書かれたかというので論争もある)、本書では『知性改善論』からとり上げています。
『知性改善論』には伝記的な要素があり、所有欲・官能欲・名誉欲をなくそうとしたうまくいかなかったことが告白されています。感情を感情で抑えることは難しいからです。ただし、同時にスピノザは、これらの欲について考えているときは、これらの欲から逃れることができたとの書いています。認識には感情に引きずられた受動的な人間を脱出させる力があるのです。

スピノザは『知性改善論』において真理の基準を探し求めていますが、そこでは真理の基準を外部に求めることが退けられています。認識した後にそれが真かどうかを外部の基準を使って確かめるようなやり方はだめだというのです。
ここによって公共的な真理のあり方、他者と共有できるような真理のあり方が否定されます。認識は真であることは認識と同時に確かめられなければならないことなのです。

そして、然るべき出発点から、然るべき順序で観念が導き出されていくならば、観念を獲得していく行為それ自体が、それが真であることを教えてくれるといいます。これは数学の証明のようなものです。
では、どこから出発すればいいのか? 『エチカ』では、それは神になります。

『短論文』は『エチカ』のプロトタイプとも言われており、神の存在証明から始めています。それほど説得力がある議論には思えなかったので、詳しくは本書を見てください。

いよいよ主著の『エチカ』ということになりますが、この本は定義、定理、公理を積み重ねる総合的方法で叙述されています。
『エチカ』の冒頭には8つの定義が置かれ、さらに定理が続きます、『エチカ』は神から始まると言われていますが、定理において神が出てくるのは11番目からであり、それまでは「実体」、「変状」、「属性」といった言葉の説明が続きます。
このあたりは少し難しいのですが、1つのポイントして神の本質が自己原因であることがあげられます。神は他の何かを原因として存在するのではなく、それ自身を原因として存在しているのです。そして、この神は自然としてここに存在しているのです。

「すべては神の法則、すなわち、自然の法則にしたがって起こる。だから自然の法則に背く奇跡など存在しない」(153p)と本書が言うように、スピノザの言う「神」とは自然であり、それを貫く法則であり、「この自然ないし宇宙は、どこをとっても神の変状」(154p)ということになります。
『エチカ』の中でスピノザは「存在するすべての物は神の能力を ー 万物の原因である神の能力を一定の仕方で表現する」(155p)と書いています。

『エチカ』の第2部では人間がテーマになるのですが、やはり目を引くのは自由意志の否定の議論です。
1つの行為は無数の原因によって引き起こされます。それら無数の原因が身体に変状をもたらし、行為が行われます。このときに私が意識できるのは変状という結果だけであり、行為の原因は知りません。そのため変状が引き起こしている衝動を自由な意志と思い込んでしまうというのです。

スピノザによれば人間は目的と原因を取り違えているといいます。本当は無数の原因から行為がなされているのに、結果であるはずの目的が原因とされてしまっているというのです。
本書でも指摘されていますが、こうしたスピノザの考えはフロイトの精神分析に通じているかもしれません。人間の行為の原因は人間が意識できない部分にあるのです。
ただし、スピノザは我々が原因を知らないものの、目的を知っていると考えます。意識は全くの無知というわけではないのです。

『エチカ』の第3部で扱われているのは感情です。
スピノザによれば、おのおのの人間には固有の力が作用しています。これがコナトゥス(傾向性)です。
そして、スピノザはこのコナトゥスこそがその物の本質だと考えます(コナトゥスは人間以外の生物や物質にも存在する)。「その人間が存在しているということそのものがコナトゥスの表現であり、それがその人間の本質なの」(203p)です。

人間精神はこのコナトゥスを意識しています。スピノザは「欲望とは意識を伴った衝動」(204p)だと定義し、この欲望を人間の本質と考えます。
欲望を人間の本質と考える点は精神分析を思い起こさせますが、「意識を伴った」というところが違うところで、「人間の特徴とは何よりも、自らを突き動かす力を意識している点に見いだされること」(205p)にあります。

スピノザは感情にはプラスとマイナスがあるとし、前者を「喜び」、後者を「悲しみ」としています。人間が目指すべき方向は喜びを増やすことですが、スピノザは悲しみを避けることがその代わりになるとは考えていません。
『エチカ』が目指すのは能動性であり、自らが行為の原因となっていることを重視します。例えば、「ねたみ」という感情が否定的に扱われるのは、ねたみが何かをする動機を与えてくれるとしてもそれは受動的なものであって能動的なものではないからです。

『エチカ』は第3部の後に、第4部、第5部と続きますが、本書ではここで『エチカ』を読むことを中断して、『神学・政治論』の紹介に移ります。スピノザが『エチカ』の執筆を一時中断して、この『神学・政治論』を執筆したからです。

『神学・政治論』を書いた目的についてはタイトルに次のような説明が付されています。
「本書は、哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示してさまざまな論考からできている」(226p)。
スピノザが生きていた時代のヨーロッパでは、教会が公認する学説とは違ったことを唱える学者を弾圧することがありましたし、宗教的な対立も先鋭化していました。そうした中で、スピノザは匿名で本書を出版し、哲学する自由を擁護しようとしたのです。

本書において、スピノザは聖書の中の奇跡について、「自然のうちには自然法則に逆らうようなことは何も起こらないと述べ、奇跡のような我々の理解力を超えた出来事からは、神の本質や神の存在はおろか、自然に関わる事柄も何一つ理解できないと断言」(234p)します。
キリスト教の信仰について、スピノザは「神への服従とは、実質的には隣人を愛することに尽きる」(235p)と述べており、信仰の必要性を認めつつも、宗教の超越的な部分については否定するようなスタンスをとっています。

『神学・政治論』で後半で扱われるのはタイトルの通り政治です。
スピノザは「法 lex」について、これには「自然の必然性」と「合意による取り決め」という意味があり、後者に関しては「権利 jus」と呼ばれるべきだとしています。
この2つを区分しようとしたのがホッブズで、ホッブズは「法 lex」に先立つ「権利 jus」として自然権を見出しました。
しかし、スピノザはホッブズの「自然権を放棄する」という考えを否定しました。自然権を放棄せずに日々それを国家に信託する契約が行われていると考えるのです。

自然権を信託するということではスピノザはホッブズと同じなのですが、スピノザはさらに神との契約という考えを持ち出します。
神への服従も神との契約によって成立し、これによって人々は道徳心に従うようになる(自制するようになる)と考えるのです。
同時にスピノザは自然権が放棄できないということから、言論の自由や思想の自由に関しては国家が奪おうにも奪えないものと考えています。ただし、その自由はあくまでも個人的なものにとどまります。

『神学・政治論』は1670年に匿名で出版されたものの、すぐにスピノザの作だということがばれ、1674年には発禁処分を受けます。しかし、この本は4回版を重ね、しかも発禁処分後にも版を重ねるなど高い需要を示しました。
そして、本書は再び『エチカ』へと戻っていきます。

スピノザがまずとり上げているのが善悪の問題です。スピノザは善悪について、それ自体が善、それ自体が悪ということはなく、組み合わせによって決まると考えます。「音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない」(282p)というわけです。
この善悪を認識するのが意識なのですが、実はこの時代は「意識」と「良心」がまだ分離しておらず、スピノザも意識と良心を同一視しています。
スピノザは意識は中立的ではありえないと考えており、善いとか悪いとかの価値をふかされた状況でなければ世界と向き合えません。こうした意識は良心とは分離できないのです。

さらにここから意識と理性の問題を論じます。スピノザによれば、「理性的認識とは、観念の秩序の中に現に存在している自然法則から取り出された認識」(304p)であり、この理性的認識については善悪のような色がついていません。

スピノザによれば、それぞれの人間にはそれぞれの性質があり、「自己固有の本性の法則」(309p)があります。この本性に従っている時に人は有徳な存在となります。
そして、理性に支配され人間は、他人がされたら嫌なことを自分にしてしまうようなことがなくなるといいます。スピノザの考えでは、人間は自己の本質を知ることで道徳的な存在になるのです。

『エチカ』の第5部は最後に付け足されたような存在だといいます。第5部では「自由」が論じられているともいいますが。、著者は中心的に論じられているのは「永遠」だといいます。
スピノザは認識は身体の変状を伴うとしてきましたが、ここでは身体を離れた認識を考えようとしています。いわば言葉では説明できないことを示そうとしているのです。

スピノザの遺作は『国家論』になります。オランダでは、共和政を目指したヤン・デ・ウィットとその兄のコルネリス・デ・ウィットが群衆になぶり殺しにされた起こるなど、政情不安になっており、スピノザもこの事件に怒りを抱いていたとされています。
スピノザは『国家論』において、君主国家と貴族国家を論じていますが、民主国家については途中で中断されて終わっています。

スピノザの描く君主国家は立憲君主制に近く、貴族国家も統治者が選出されることをに重きを置いているなど、ある意味で民主的です。
そうした中で、スピノザの考える民主国家は具体化されないままに終わっています。これについては民主制の基礎づけに行き詰まったからだという考えもあります。

このように、本書はスピノザの著作を読み込んでいきます。ただし、個人的にピンとこなかった部分は落としてあるので、かなり不完全なまとめだと思ってください。
最初にも述べたように、自分はスピノザを読んでこなかったので、本書の内容はわかりやすいものではなかったですが、読みながらスピノザが今なおドゥルーズなどを通じて読まれている理由はよくわかりました。
スピノザ初心者にはもっと別の本がいいのかもしれませんが、スピノザという思想家のポテンシャルについて理解が深まる本です。


ペリー来航から太平洋戦争が終わるまでの近代日本外交史の歩みをたどったもの。著者は以前に同じ中公新書から『陸奥宗光』を出していますが、それとはまたガラッとスタイルが違います。
「あとがき」にも書いてあるように、『陸奥宗光』はぎっしりと情報の詰まった本で、「その感じで「近代日本外交史」をやったら500ページあっても足りないのでは?」と現物を見る前は思っていましたが、本書は本文で215ページほどとコンパクトな形になっています。
そのため、個々の出来事についてはそれほど深く追求せず、外務省を中心とした日本の外交の流れがわかるような形でまとめられています。
ただ、それでも読んでいいくと著者のこだわりが感じられる部分も多く、複数の著者による教科書的なものとは違う一貫した視座もあります。
さらに巻末には詳細な文献案内もついており、本書からさらに深く学んでいけるような構成になっています。
初めて近代日本外交史を学ぶ人も、かつて学んだ人も両方が楽しめる内容になっています。

目次は以下の通り。
第1章 国際社会への参入
第2章 東アジアと近代日本
第3章 大国の一角へ
第4章 動乱の一九一〇年代
第5章 第一次世界大戦後の世界と日本
第6章 国際社会との対決
終章 近代日本外交の歩み

幕末から明治期の外交課題としてまずあがるのが不平等条約の問題です。
もっとも、本書で指摘されているように江戸幕府の人々は自分たちが結んだ条約が「不平等」だとは考えていませんでした。例えば、治外法権の問題にしても、もしも外国人の犯罪を近代的な法制度のない日本で裁くなとなると、裁判自体が外国との新たな軋轢を生む恐れもあります。関税自主権の問題についても、その不平等性が高まるのは1866年の改税約書によってです。

それでも力で押し付けられた面はありましたし、明治政府にとってその改正が大きな課題となりました。
井上馨はいわゆる鹿鳴館外交を展開して、外国人に内地開放を行う代わりに法権を回復させようとしましたが、国内の反発もあってうまくいきませんでした。後任の大隈重信も同じで、たとえ外国との交渉が妥結しても、それで国内を説得できるかどうかが大きな問題になります。
大隈外相の時代にはメキシコとの間に相互に最恵国待遇を与え領事裁判権を含まない日墨修好通商条約が結ばれています。この交渉を進めたのが駐米公使の陸奥宗光です。

法権の回復は陸奥宗光外相によって成し遂げられましたが、このときも問題になったのは国内対策でした。陸奥は在外公使に交渉を進めさせることで国内に漏れる情報を管理し、条約改正にこぎつけます。
関税自主権が回復できなかったこと、条約が発効するのが5年後だったことなど、批判の余地もある内容でしたが、直後に日清戦争が始まったことで批判は抑え込まれました。
条約改正についてはイギリスのロシアへの対抗の必要性などが要因としてあげられることが多いですが、本書では日本が文明国化を推進し、それが欧米諸国に認められたことを指摘しています。
そして、これが日本の外交官に「西洋諸国を中心とする国際秩序のなかにあるある種の公正さを認め、積極的に適合して」(34p)いく姿勢を生むことになります。ただし、これは政治指導者や外交官の感覚で、一般の日本人の感覚とは乖離がありました。

第2章では、日露戦争前までの東アジアでの外交がとり上げられています。
当時の東アジアでは、中国を中心とする冊封・朝貢体制と西洋由来の主権国家体制が摩擦を起こしていました。
日本もまず、琉球の扱いをめぐって清と摩擦を引き起こすことになります。日本は琉球を完全な日本領としようとしましたが、清は属国であった琉球が日本領化されることに抵抗し、さらに重要な属国である朝鮮を注視することになります。
日本は清との間に日清修好条規を結びます。これは領事裁判権を相互に承認するある意味で対等なものでしたが、清が西洋諸国と結んでいたものと異なり、清での内地通商を認める規定がなく、最恵国条款もないものでした。

日本は1875年の江華島事件をきっかけに朝鮮を開国させ、朝鮮を「自主の邦」と位置づけますが、やはり宗主国の清の存在は大きなものでした。
1882年の壬午軍乱、1884年の甲申政変のいずれにおいても清が事態を収拾する形になり、清の影響力が強まります。1885年の天津条約で日本と清の軍事衝突は回避されますが、清に優位な状況が続きます。

1894年、東学党の乱をきっかけに日本と清が朝鮮に出兵し、日清戦争へつながるわけですが、当時の首相の伊藤博文は必ずしも戦争を望んでいませんでした。
ところが、朝鮮への出兵が空振りに終わると(反乱はすでに鎮圧されていた]、たんに撤兵するとうわけにはいかなくなり、日本は朝鮮の内政改革を要求します。
外相の陸奥の強硬的な姿勢もあって緊張は高まっていき、出先の大鳥圭介駐朝鮮公使の判断で日清戦争へとなだれ込んでいきます。開戦過程としてはやや危ういものがありましたが、その後の戦争指導において日本政府の立場は一致しており、戦争は日本の勝利に終わります。

下関条約では、清が朝鮮を独立国だと認め、遼東半島と台湾・澎湖諸島を割譲し、賠償金の支払い、清とヨーロッパ各国との条約を基礎とした新たな通商条約の締結などが決まります。
ただし、三国干渉によって遼東半島は還付を余儀なくされます。
また、清の属国ではなくなった挑戦においては、井上馨が駐朝鮮公使となって内政改革を進めようとしますが、朝鮮の抵抗を受けて行き詰まります。
その後、外交の素人である三浦梧楼が駐朝鮮公使となりますが、閔妃殺害事件を引き起こして朝鮮をロシア側に追いやりました。

日本は駐朝鮮公使に小村寿太郎を据えて不干渉方針をとるとともに、ロシアとの間に小村・ウェーバー協定、山県・ロバノフ協定を結んで事態を落ち着かせようとします。
さらにロシアが満州進出の構えを見せると、ロシアが満州、日本が朝鮮という棲み分けを図り、西・ローゼン協定を結びます。

しかし、北清事変後にロシアが満州を占領したことで、日本は交渉の材料を失います。そして、ロシアとの対決を見据えつつ日英同盟の締結へと動くのです。日本側はそれまで「利益の論理」で動いていましたが、それが「危機の論理」に転換したと著者は述べています。
ロシアは大国であり、日本がロシアを完全に屈服させることは不可能でした。外相の小村寿太郎は戦果をあげたことで講和に取り掛かる方針でしたが、奉天会戦の勝利でも腰を上げず、日本海海戦の勝利に賭けました。
ポーツマスの講和会議では、日本が韓国に対する優越権、日露両軍の満州からの撤退、南満州鉄道の割譲を要求し、これはあっさりと通ります。一方、賠償金と樺太の割譲についてはロシアが抵抗し、賠償金はなし、樺太は南樺太の割譲で決着しました。
これは日本政府としては満足できる結果でしたが、国民世論との乖離は大きく、日比谷焼き討ち事件が起こります。
一方、韓国の運命はほぼ決まり、伊藤博文が自らの手による近代化を模索するもののうまくいかず、併合という形になります。

ロシアから満州の権益を受け継いだ日本でしたが、その範囲をめぐって清と交渉する必要がありました。日本は清との交渉の中でできるだけ多くの権益を獲得しようとします。
帝国主義外交が行われる中で、日本も大国間で認められる正当性や公平性を意識しながら外交を進めていきました。一方、従属させられる相手のことは考えておらず、韓国をめぐる交渉でも日本が重視した相手はイギリスやロシアでした。

また、この時期の外交は一定数の有力な外交官によって担われていました。1889年に就任した青木周蔵以来、外相は外務次官か英米露での公使経験がある者がなり(青木以降、1918年までの間で例外は牧野伸顕と後藤新平、そしてそれ以前に外相を経験していた大隈重信)、外相退任後にも各国の公使や大使になる者も多くいました(103-107pの表参照)。
それぞれの外交官に個性はありましたが、かなり同質な集団によって日本の外交は担われていたのです。

ただし、1910年代になると今までのやり方ではうまくいかない部分も出てきます。
まず、1911年に中国で辛亥革命が始まり、清朝が倒れます。清との交渉で獲得した満州の権益の行方は不透明になりましたし、旅順や大連の租借の期限は1923年に迫っていました。
第一次世界大戦が始まると、外相の加藤高明の主導で日本は参戦し、中国に対して対華21か条要求を行います。租借の期限は99カ年まで延長されますが、当初の要求が過大だったこと、そして時代の変化を見誤ったこともあって、この要求は後々までアメリカや中国から批判されることになります。

シベリア出兵に関しても、積極的だったのは陸軍と外相の本野一郎です。本野は大戦後の利益や発言権につなげるために連合国への協力に積極的でした。日本の利益を伸長する機会があるならばそれを利用するというのは日本の外務省の基本路線でしたが、このシベリア出兵も国際的には評判の悪いものとなります。

日本は初の本格的な政党内閣である原敬内閣のもとでパリ講和会議に臨みます。日本が関わる主要な問題は南洋諸島領有、山東権益継承、人種差別撤廃といったところでした。
南洋諸島の問題については日本の主張が通りますが、山東権益の問題は主張が通ったものの紛糾します。帝国主義外交の論理はうまくいかなくなりつつありました。
人種差別撤廃の問題は、日本としてはアメリカの日経移民排斥の問題が中心で、アメリカを説得しようとしましたが、白豪主義をとるオーストラリアとイギリスの反対によって国際連盟の規約に盛り込むことに失敗します。
日本政府としてみれば予想できた結果でしたが、日本国内では大きな反発を生みます。

第一次世界大戦後、世界は大きく変化します。それまで中国は国際政治の場では「客体」でしたが、それが「主体」化して発言力を有するようになります。
また、アメリカが台頭し、第4次日露協約によって日本の中国におけるパートナーになっていたロシアは崩壊しました。
さらに秘密外交が批判され、設立された国際連盟では中小国も発言権を持ちました。

こうした中で、原内閣は大勢順応の方針のもと、他の大国に歩調を合わせるとともに、日本が進出保持すべき地域を改めて点検し、満蒙を重点地域としました。これが後の「満蒙は日本の生命線」というスローガンにつながっていくことになります。
ワシントン会議において、日本は九カ国条約を受け入れますが、ここでも日本は満蒙権益は特別なものだと考え、それが否定されなかったと認識しました。
中国の問題については、加藤高明内閣で外相に就任した幣原喜重郎が介入しない方針あった一方、田中義一内閣は北伐に対して山東出兵を行います。このように幣原外交と田中の外交は対立的に見えますが、イギリスとの関係では田中のほうが協調的でした。

ワシントン会議では海軍軍縮条約も結ばれます。原首相も加藤友三郎海相も海軍の軍備制限には前向きで、対米7割という数字にも拘る必要はないと考えていました。ただし、手の内を見せることで交渉が不利になるという考えもあり、国内には軍縮をアピールしないままで会議に臨みます。
会議ではアメリカから日本に対して対米6割という数字が示され、それで決着します。日本政府とすれば致し方なしと思える内容でしたが、国内世論は違いました。対米7割が達成できなかったことに対する政府への批判、そして軍縮を歓迎する側からは軍へのバッシングの風潮が生まれてきます。

この軍縮をめぐる議論は1930年のロンドン海軍軍縮会議ではさらにヒートアップします。
ここでも日本は対米7割を主張したものの、大型巡洋艦では対米6割に終わりました。当時の浜口雄幸内閣はこれを受け入れたものの、国内では海軍だけではなく野党の政友会などからも批判が出ます。
浜口はこれを強いリーダーシップで突破しますが、狙撃されて負傷し、辞職することになります。後継の若槻礼次郎内閣は満州事変を止めることができませんでした。

満州事変について、著者は満州事変→国際連盟脱退→日中戦争→太平洋戦争と一直線で進んだわけではないものの、これ以降の進路の変更はなかなか難しかったと見ています。それもあって日中戦争から敗戦までは10ページほどしかありません。

「満州」にしても「満蒙」にしても、それが指し示す具体的な地域ははっきりとしていないものの、日本にとっては死活的に重要だという言説の積み重ねがありました。
しかも、日本が満州に持っているのは鉄道に付属する利権などであり、「生命線」という割にはその支配の根拠は脆弱でした。さらに蒋介石の北伐や帝国主義的外交への批判もあって、これらの権益も維持するのが困難な状況になりつつあったのです。

同時にこの時期になると、外交は一部の政府首脳や外交官のものではなくなっていました。欧米列強の出方を見ながら、日本の利益を確保するというやり方が通じなくなっていたのです。著者はその一端を内田康哉外相が1932年に行った「焦土演説」に見ています。
1930年代になると、度重なるテロや、観念としての「天皇」が振りかざされることで、政治の行方も不透明になっていきます。

そうした中で起こった満州事変に対し、若槻礼次郎はリーダーシップを発揮できませんでした。
結局、日本は1933年3月に国際連盟を脱退します。5月の停戦協定で満州での戦いは一旦落ち着くのですが、政府が出先をコントロールできない中で、安定的な外交を行っていくこと自体が難しくなっていました。
日本は、日中戦争→太平洋戦争→敗戦という道をたどることになります。

終章で著者は「日本の外交の別の道はあったのか?」という問いに取り組んでいます。
ここで著者は第一次世界大戦後の世界の変化に対して、特に原敬がもっとうまく対応できたのではないか? という考えを打ち出しています。
原が満蒙権益を特別視する論理を打ち出したこと、事前の周到な準備がないままで人種差別撤廃の問題を打ち出したこと、海軍軍縮において結果的に国内の分極化を進めてしまったことなどがあげられています。原に対して厳しい評価と言えるでしょう。

ただ、これは著者が原まで戻らないと「別の道」はなかなか見いだせないという認識の現れでもあるのでしょう。
「三国同盟を結ばなかったら...」、「盧溝橋事件のあとに大規模な派兵をしなかったら...」、「満州事変において幣原がアメリカのスティムソン国務長官に「錦州攻撃の意図はないこと」を伝えたことが暴露されていなければ...」といった、いろいろな「歴史のif」はありますが、著者はそこから引き返せるとは考えていないのではないかと思います。

最初にも書いたように、本書は扱っているテーマの大きさに比べてかなりコンパクトであり、「あれが書いていない」といった感想を持つ人もいるかも知れませんが、その分、巻末に詳細な文献案内がついています。しかも、研究者の見解が分かれている部分について著者がどの説をとっているのかも書いてあり、疑問を持った場合は文献案内から先に進めるようになっています。
日本の近現代史に興味がある人であれば面白く読めると思いますが、特に大学の学部生にとって便利ですし、強くお薦めできる本だと思います。


ネットが普及して、あるいはSNSが普及して可視化されたことの1つが本書のテーマにもなっている「陰謀論」ではないでしょうか。
昔から「NASAは実はUFOと接触している」とか「M資金」とか陰謀論めいたことは語られてきたわけですが、SNSによって「ちゃんとしているはずの人」、例えば、大学の先生とか政治家が、陰謀論めいたことを発信したり紹介していることが可視化されました。
さらにトランプの扇動と「Qアノン」と呼ばれる陰謀論に乗せられる形で起こった2021年1月のアメリカ連邦議会襲撃事件は、陰謀論に人々を動かす力があることを見せつけました。

本書は、そうした陰謀論について、その内容を紹介するのではなく、「誰がどんな陰謀論を受け入れるのか?」ということを中心に実証的に論じています。
ただ、陰謀論について調べるには難しさもあります。「あなたは幕末に天皇が山口県の田布施出身の者と入れ替わって、それ以来、田布施出身者が日本を支配しているということを信じていますか?」と表立って尋ねた場合、実は信じていたとしても筋金入りの陰謀論者でない限り体面を気にして否定するでしょう。
そこで本書では、さまざまな手法を用いて、この隠れた本心を引き出そうとします。
日本に広がる陰謀論受容の土壌を知ることができるとともに、さまざまな社会調査の手法を学べる本でもあります。

目次は以下の通り。
第1章 「陰謀論」の定義―検証可能性の視点から
第2章 陰謀論とソーシャルメディア
第3章 「保守」の陰謀論―「普通の日本人」というレトリック
第4章 「リベラル」の陰謀論―政治的少数派がもたらす誤認識
第5章 「政治に詳しい人」と陰謀論―「政治をよく知ること」は防波堤となるか?
終章 民主主義は「陰謀論」に耐えられるのか?

まず、本書では陰謀論を「「重要な出来事の裏では、一般人には見えない力がうごめいている」と考える思考様式」(6p)と定義しています。
「新型コロナウイルスは中国が開発した生物兵器であり、わざと拡散された」、「ワクチンにはビル・ゲイツの開発したマイクロチップが埋め込まれており、接種すると行動を監視される」というように、重要な出来事の裏には何らかの意図が働いていると考えるのです。

世の中には筋金入りの陰謀論者がいて、世の中の重要な出来事を「ユダヤ人の陰謀」に関連付けたりしますし、マケドニアでは200〜300人の若者が収益を得るためにフェイクニュースをつくり続けていたこともあったそうです。
ただし、ここでポイントになるのは、陰謀論には「需要がある」ということです。陰謀論をクリックする人がいてフェイクニュースは成り立つわけですし、陰謀論者が出す本を売れるから陰謀論者はしぶとく生き残るのです。

では、日本人はどのような陰謀論をどの程度信じているのでしょうか?
著者はネットを使ったアンケート調査でどんな陰謀論が受容されているのかを調べています。15個も質問があるので、詳しくは本書を見てほしいのですが、例えば、「国家権力は、世界を実際に支配している小規模で未知の集団が持つ権力にはかなわない」を「きっと正しい」「たぶん正しい」と考える人の合計は24.4%、「ある種の病原体や病気の感染拡大は、ある組織による慎重かつ秘匿された活動の結果である」の「きっと」「たぶん」の合計が28.3%、「異星人からの接触の証拠は、一般市民には伏せられている」の「きっと」「たぶん」の合計が27.1%と、2〜3割り程度の人が陰謀論的な言説をそれなりに信じているのです(20−21p図1−2参照)。

しかも、この調査では「わからない」がどの質問でも2〜3割ほどいます。この中には陰謀論を信じているけど、「社会的期待迎合バイアス」(例えば、「選挙に行きましたか?」の問に対して行ってないのに「行った」と答えてしまう)によって「わからない」を選択している可能性もあります。

では、なぜこれだけ多くの人が陰謀論を信じる傾向にあるんでしょうか?
本書でまず行われている説明は、「あるべき現実」と現実の乖離です。例えば、自分ではいい成績を収めているのに出世できないといった場合、「上司が自分を嫌っている」、「学閥がある」などの理由を持ち出せばその不満は緩和できるかもしれません。
周囲とのコミュニケーションができている場合は「あるべき現実」が修正されたりもしますが、孤立している場合はますます陰謀論的な考えに固執するようになる可能性もあります。
こうした中でも政治は、永田町などの密室で決まるというイメージもあって、陰謀論が生まれやすいです。
さらに普段から特定の立場をとっている人の場合、「選択的メカニズム」というものがはたらきます。
政治などでは、そもそも自分のイデオロギー的な立場などから出来事を一種の「レンズ」を通してみていることが多いです。そのため、自分の立場にとって都合の悪いニュースに対して、自分の今までの世界観と整合性を取るために無理な解釈をするときもあります。
例えば、反自民の人は、自民の不祥事のニュースを熱心に見るかもしれませんが、それにもかかわらず選挙で自民が勝利すると、「選挙に不正があったのでは?」と考えがちになります。
この「何らかの結論が先にあって、その結論が崩れないように、自身の「レンズ」を通して整合的に解釈しようとする認知的なメカニズムのことを「動機づけられた推論」」(35p)と言います。

実際、著者が、A「反安倍勢力は外国とつながっている」とB「政府と大手広告代理店がつながっている」という2つの陰謀論について、どれくらい同意できるかを調べたところ、自民支持者はAを受け入れ、立憲民主党や共産党の支持者はBを受け入れる傾向にあります(38p図1−3参照)。
以上のことから、政治に一定の関心があり、なおかつ特定の立場を内面化している人ほど、陰謀論を受け入れる素地があると言えそうです。
ここまでが第1章。長々と紹介してしまったので、ここからはできるだけかいつまんでポイントを紹介したいと思います。

第2章は陰謀論とソーシャルメディアの関係を分析しています。多くの人が陰謀論が流行る背景としてソーシャルメディアの隆盛をあげると思いますが、それは事実なのでしょうか?
まず、伝統的メディアの凋落が指摘されていますが、今の所、NHKや新聞、民法報道といった伝統的メディアの利用頻度がTwitterやFacebook、ヤフコメを上回っています(55p図2−1参照)。
ただし、18−29歳に限るとTwitterがすべての伝統的メディアの利用頻度を上回るなど、世代によって差があります。そしてネットだと50歳以上で強いのはヤフコメです(56p図2−2参照)。

本章では、第1章でとり上げた15の陰謀論をどの程度信じているかということから「陰謀論的信念」を取り出して、それとメディアの利用頻度との関係を分析しています。
その分析の結果は以下の画像の通りになります(62p図2−4)。

NHKと新聞の視聴頻度は陰謀論的信念の低さに関連があります。一方、民法報道の視聴頻度と陰謀論的信念の高さに関連があります。
ソーシャルメディアに関しては、Facebookやまとめサイトの利用頻度と陰謀論的信念の高さに関係があるようにも見えますが、信頼区間が0をまたいでいるために、そうとは言えません。一方、ヤフコメは0をまたいでいないので、陰謀論的信念の高さと関連があると言えます。
そして、意外なのがTwitterです。陰謀論の巣窟のように思われているTwitterですが、実はTwitterの利用頻度は陰謀論的信念の低さと関連があるのです。
「おかしい!」と思う人も多いでしょうが、これは利用する世代と関連があります。
Twitterのユーザーには比較的若い層が多いのですが、彼らがTwitter上でやり取りする話題は日常的な出来事が多く、社会的・政治的な出来事についての情報を目にする機会は少ないと考えられます。
ただし、ミドル世代(30〜49歳)、高齢世代(50歳以上)では、Twitterの利用頻度と陰謀論的信念の低さという関連はなくなります(67p図2−5参照)。同じTwitterでも世代によって見ている世界はずいぶんと違うのです。

それでもSNSが陰謀論の巣窟に見える理由の1つとして著者は「第三者効果」をあげています。
これは、メディアが伝える情報について、「「私は冷静だからどのように情報が流されようとも自分は踊らされないが、世の中の(自分自身以外の)多くの人は、きっとメディアに誘導されたり、騙されたりしているのだろう」と考える心理傾向」(73p)です。
実際、著者が行った調査では、「私はウェブ上の陰謀論に騙されやすい」と考える人は、「そう思う」「ややそう思う」合わせて約21%ですが、「私以外の多くの人はウェブ上の陰謀論に騙されやすいと考える人は合計で約66%です(77p図2−7参照)。
さらに日常的にTwitterを使い人のほうが「第三者効果」をより強く感じていると考えられます。一方、ヤフコメは差別的な発言の排除や識者コメントの設置の影響か、第三者効果が弱まっているのが観察できます(79p図2−8参照)。

本書では第3章で「保守」の陰謀論を、第4章で「リベラル」の陰謀論を扱っています。
まず、「保守」ですが、本書が注目するのは「普通の日本人」を自認する人々です。彼らは「右翼」というほど強いイデオロギーは持っていないようなのですが、「素朴な排外主義」を持っているのが特徴です。具体的には「中国や韓国が日本を嫌っているならば日本も両国を嫌うべきだ」というような考えです。そして、彼らはしばしば自分について「普通の日本人」だと名乗っているのです。

もともと日本では「普通」が好まれる傾向もあるのですが、本書では「政治に関することについて、私は多くの日本人と同じような意見を持っている」などのいくつかの質問から「普通自認層」を取り出してその特徴を分析しています。
彼らは、それ以外の人に比べて、今のテレビ報道や安倍政権(調査時の政権)が「おかしい」と思っていませんが、野党や韓国についてはそれ以外の人に比べて「おかしい」と感じる傾向があります(103p図3−3参照)。
その結果なのか、「左派系政党が韓国とつながっている」、「マスコミは韓国寄りだ」といった陰謀論を信じる傾向があります(106p図3−4参照)。

さらに本書では、これをリスト実験によって確かめています。
最初にも述べたように、陰謀論はたとえ信じていても「信じている」とは言いにくいもので、アンケート調査でも本心を隠すかもしれません。
そこで直接賛否を聞くのではなく、「このリストの中に賛成できるものはいくつありますか?」といった形で隠された本心を暴こうとするのがリスト実験です。

本書では、「政府に都合が悪いことがあると北朝鮮からミサイルが発射される」(北朝鮮グル説)、「政府に都合が悪いことがあると広告代理店の力で芸能スキャンダルが発覚する」(広告代理店グル説)、「安倍政権を批判する勢力は外国とつながっている」(外国政府グル説)について調べていますが、いずれもリスト実験のほうが高い同意が示されており、特に北朝鮮グル説では普通に聞いたときとリスト実験では14%近い差があります(117p)。
さらに普通自認層は陰謀論をこうした陰謀論を受容しやすい傾向があり、外国政府グル説を信じる人は50%近くになります(118p)。

日本の「リベラル」には反米志向がある場合が多く、それが陰謀論を生み出すことがありますが、ここでは、日本の「リベラル」勢力が選挙で負け続けていることから生まれてくる陰謀論を中心的に分析しています。
民主主義では選挙の敗者が選挙結果を受け入れて。勝者の政府を正統なものだと認める「敗者の合意」が重要なわけですが、日本では野党が負け続ける状況が続いており、選挙そのものを疑いやすい状況になっているのです。

ただし、日本において選挙などの政治制度に対する信頼は大きく揺らいでいるわけではなく、例えば、本書で行われている調査でも、与野党の支持者(*本書では野党支持者の中からイデオロギー的に自民に近い、維新の会と国民民主党の支持者を抜いた、立憲民主党・共産党・社民党・れいわ新選組の支持者を(リベラル系)野党支持者と定義している)を問わず、選挙や国会のはたらきについては信頼しています(ただし、野党支持者は与党支持者に比べて政党への信頼感が低い(144p図4−4参照)。
野党支持者のほうが、郵便投票の緩和など、選挙に参加するハードルを下げる政策に賛成する傾向がありますが、これも現在の置かれた立場を考えると妥当でしょう(149p図4−5参照)。

本書では、「政府は、自分たちの都合が良いように18歳にまで選挙権を拡大させた」、「政府は、自分たちの都合が良いように期日前投票の期間を伸ばそうとしている」という2つに陰謀論について、前章と同じくリスト実験を使って分析しています。
その結果、特に18歳選挙権の陰謀論について野党支持者が信じる度合いが大きくなっています(159p図4−8参照)。
選挙権年齢の引き下げは中立的な政策のはずですが、若者に自民支持が多いとの報道もあり(これについては遠藤晶久/ウィリー・ジョウ『イデオロギーと日本政治』参照)、野党支持者が穿った見方をしやすくなっています。

このように近年での選挙結果に対するフラストレーションが、「リベラル」を選挙や制度についての陰謀論に引き寄せる可能性があるのです。
そして、これが選挙制度そのものへの不信にまで広がってくると、民主主義にとっては大きな問題になってきます。

第5章は「「政治に詳しい人」と陰謀論」、一般的に陰謀論に対するワクチンは啓蒙だと思われていますが、そうでもないんだよ、という内容になります。
今まで見てきたように一定の政治的な立場をとることはかえって陰謀論にハマりやすくなる可能性があります。特に首尾一貫したものの見方を維持しようとすれば、苦しい説明(陰謀論)に頼らざるを得なくなることもあるかもしれません。
もちろん政治に対する知識(政治的洗練性)が陰謀論をブロックすることもあるでしょうが、同時に陰謀論を引き寄せてしまう可能性もあるわけです。

本章では、まず政治的な関心と陰謀論の関係を探っています。12のニュースに対してそれぞれどれくらい関心があるかを聞き、それをもとに「政治的関心」「時事的関心」「社会的関心」「プライベート関心」に分類し、それぞれと陰謀論の関係を調べます。
それによると、「政治的関心」が強い層が「安倍政権を批判する勢力は外国と結託している」という陰謀論を信じがちなのに対して、「プライベート関心」(近くの料理店の話題などに関心を持つ)が強い層は陰謀論を信じにくいという傾向が出ています(183p図5−3参照)。

次に政治的知識と陰謀論の関係をヴィネット実験という手法で確かめようとしています。
これは質問文のある部分を回答者によって入れ替える形で提示し、それに対する反応を調べるもので、ここでは新型コロナウイルスをめぐる陰謀論を使っています。詳しくは本書を読んでほしいのですが、例えば、新型コロナウイルスの発生源について「武漢ウイルス研究所」、「米・大手製薬会社」などの語句を入れ替えて提示するわけです。
同時に政治的知識についての簡単な質問を行い、その正答率によって「低知識層」「中知識層」「高知識層」に分けて、陰謀論を信じる度合いを調べています。

その結果、「中知識層」「高知識層」のほうが「低知識層」に比べて、新型コロナウイルスの感染拡大に「武漢ウイルス研究所」や「中国政府」がかかわっているとする陰謀論を信じやすという傾向が出ています(204p図5−6参照)。
新型コロナウイルスの発生源については発生当初にさまざまな憶測が流れたために、政治的知識があったほうが「それらしい」陰謀論を信じやすいとうことなのかもしれません。

終章ではまとめとともに、陰謀論に関する展望が述べられていますが、政治家が支持調達ために陰謀論を発信する危険性、陰謀論とそうでないものの切り分けの難しさを指摘している点は良いと思います。
陰謀論にとびつくのは問題ですが、同時に政府に対する批判に対して「そんなの陰謀論だ」と切り捨てるのも陰謀論の裏返しなわけです。
そして、最後に著者は「「自分の中の正しさを過剰に求めすぎない」という姿勢こそが、今の社会に求められているように感じてならない」(231p)と結んでいます。

このように本書は非常に面白い本です。特に第3章〜第5章が示す知見にはキャッチーなところがあり、多くの人の興味を集めるのではないでしょうか。
ただ、個人的に良いと思ったのは、その前段階の第1章と第2章で丁寧な議論がなされていることで、ここで陰謀論が受け入れられる素地や、それが育つ土壌をきちんと説明することで、後半の議論が「驚きの事実!」ではなく、十分に納得できるものとして入ってきます。
2024年のアメリカ大統領選挙にはトランプの再出馬も噂されていますし、日本でも反ワクチンの言説が勢いを持つなど、しばらくは陰謀論と付き合わざるを得なくなる状況が続きそうです。
そんな中で、本書はまさにタイムリーであり、広く読まれるべき本と言えるでしょう。


「空想的社会主義」というカテゴリーでくくられている、サン=シモン、オーウェン、フーリエの思想と活動をまとめた本。
この3人は18世紀後半に生まれた同時代人で、資本主義と違った形の共同体を志向したという点では共通しているのですが、サン=シモンとフーリエはフランス人で、オーウェンはイギリス人、そして何よりも、著作活動を重視したサン=シモンとフーリエに対して、工場経営者から社会活動家のような形に転身したオーウェンでは、その人生のあり方が大きく違います。
そのため、この3人を一度に論じるというのはなかなか難しいものなのですが、本書では当時の社会状況などを紹介しながら、社会問題に対する3者3様の取り組みを追っています。

目次は以下の通り。
第1章 市民革命と産業革命―社会をめぐる動揺と混乱
第2章 ナポレオンのヨーロッパ―社会の安定を目指して
第3章 ウィーン体制としばしの安定―社会の理想を求めて
第4章 成長する資本主義の下で―出現した社会の問い直し

サン=シモン、オーウェン、フーリエの3人に付けられた「空想的社会主義」という名称は、マルクスとエンゲルスの「科学的社会主義」と対になるものですが、この3人は必ずしも社会主義の実現を目指した人物ではありませんでした。
ただし、この3人はいずれも当時の社会の有り様を問題視しており、違った社会のあり方を構想しようとした人物でした。
そして、死後に彼らは「社会主義者」というカテゴリーに入れられることになるのです。

3人が生まれた18世紀後半は、イギリスでは産業革命が起こり、フランスではフランス革命が起ころうとしていた時期でした。
3人の中で一番年長のサン=シモンは1760年に伯爵家の長男としてパリに生まれています。サン=シモンは17歳のときに父親に士官の地位を買ってもらって軍人になり、アメリカ独立戦争にも従軍しています。
ただし、主にカリブ海方面での作戦に従事し、アメリカ本土には2ヶ月ほどしか滞在していません。

フランス革命の勃発時、サン=シモンはフランス北部のソンムの一族の領地にいました。アメリカ独立戦争に参戦した影響もあったのか、サン=シモンは革命家として行動することとし、爵位を放棄します。
一方で革命政府が亡命貴族や教会の土地の払い下げを行うと、レーデルン伯爵というプロイセンの貴族とともにこれを買い集め、莫大な財産を築き上げます。

ロバート・オーウェンは1771年に北ウェールズで馬具商と金物商を兼ねた父親のもと7人兄弟の6番目として生まれています。母も裕福な農民の娘で、それなりに豊かな家だったようです。
1789年、オーウェンはジョーンズという男とともに紡績業を始め、その後、1人である程度の成功を収めます。その後、オーウェンは自らの事業を拡大させるのではなく、従業員が500人ほどの大工場の支配人となり成功します。
オーウェンは、当時、労働者をできるだけ低い賃金で働かせるのが一般的であった中で高賃金を保証し、品質の向上と増産を達成したのです。

フーリエは1772年に、フランス東部のブザンゾンの富裕の商人の家に生まれています。最初は学問を志しましたが、貴族でなかったために王立軍事工学学校に入学することができず、商人として働き始めます。
1791年にはリヨンで働き始めますが、ここで革命の嵐に巻き込まれます。リヨンでは革命政府に対する反乱が勃発し、それに対して国民公会は3万人の軍隊を派遣して徹底的に弾圧しました。
フーリエは命からがらブザンゾンへと逃げ帰りますが、このときの経験はフーリエに大きな影響を与えたと思われます。
サン=シモンも1793年に逮捕されますが、処刑される前にテルミドールのクーデターが起こり、釈放されることになりました。

ナポレオンが政権を奪取した1799年、オーウェンはスコットランドのニュー・ラナークに自分自身の工場をつくり、経営に乗り出しました。
この工場には1300人ほどが居住し、さらに400〜500人の子どもがいたといいます。こうした子どもは早くから労働の場に駆り出されていたわけですが、オーウェンはこうした子どもたちを含めた労働者たちの生活の向上を目指しました。

オーウェンは、工場に併設された小売店で扱う品物を大量購入して労働者に原価で提供し、アルコールの購入数を労働者ごとに記録して、労働者が酒に溺れることを防ごうとしました。
また、すべての労働者は平等であるべきだと考え、最低限の同じ設備をもった清潔な住居を用意しました。工場が休業せざるを得なくなったときも労働者を解雇せずに、賃金全額の支払いを継続しました。さらに子どもたちの労働を禁止し、幼児学校、初等学校を整備し、さらには大人のための「夜間学校」もつくりました。
オーウェンの工場は他の工場よりもコストのかかるものでしたが、生産性は上昇し、工場は大きな利益を上げたのです。

一方、サン=シモンは学問に打ち込み、1802年の『同時代人に宛てたジュネーヴの一住人の手紙』を皮切りに、次々と著作を刊行していきます。
サン=シモンは自然科学の方法を社会にも当てはめようと考えており、封建的な社会から近代的な社会へと変化していく中で、ニュートンの万有引力の法則の発見という科学革命のあとに続く、政治的な革命の到来を考えていました。

フーリエも1808年に『四運動および一般運命の理論』を刊行します。タイトルからも想像できるように、こちらも自然科学の法則を社会の問題に拡張しようとするもので、物質感に万有引力がはたらくように人間社会には「情念引力(および斥力)」が働いていると考えました。これを認識することで社会は混沌から調和へと移行するというのです。
さらにフーリエは人間の歴史を8万年とした上で、現在を5千年が経過したところだとし、今後7万5千年の人間の運命を予言しました(111p図5参照)。

これだけだと、フーリエは単なるトンデモ系の人物に思えますが、フーリエの考えが「社会主義」と接合するのは、著作の中の「ファランジュ」と呼ばれる農業協同体によってです。
古代ギリシアの歩兵集団「ファランクス」から名付けられたこの協同体は、800人のメンバーが競争心や自負心などを通じて労働に誘われ、調和の取れた社会生活を実現するとされています。フーリエは人々が完全に平等であることは否定しましたが、人工的な協同体の中で理想的な社会を実現できると考えたのです。

この3人の中で最初に名前が知られるようになってのはオーウェンでした。オーウェンには工場経営者としての実績がありましたし、フーリエはオーウェンの考えを知りましたが、納得できない部分があったようで1822年に刊行された『家庭的農業的協同体概論』の中でオーウェンを批判しています。
フーリエによれば、オーウェンの構想する協同体は規模が大きすぎ、財産の平等性は政治的に有害でした。フーリエの考えでは、人々の競争心や自負心が重要であり、財産の平等はこれを阻害すると考えたのです。

ナポレオンの命運が尽きようとしていた1813年末に、サン=シモンは『万有引力の法則に関する研究−イギリス人に航海自由を認めざるをえなくさせる方法』という論考をナポレオンに送っています。
内容は、フランスが占領地から撤退という形で譲歩すれば、イギリスだって公海自由の原則を遵守するようになるはずだ、というものです(論考のタイトルは「航海」と書かれ、本文132pでは「公海」になっているけど誤植かどうかは判然とせず)。
ナポレオンにシャルルマーニュの役割を果たさせることでヨーロッパに安定をもたらすというのがサン=シモンの考えなのですが、ナポレオンはまもなく失脚します。

その後もサン=シモンはヨーロッパ社会の組織化(現代風に言えばヨーロッパ統合)を志向し、「世襲のヨーロッパ議会の王と二院制のヨーロッパ議会の設置」、「英仏連合」、「経済の相互依存による平和」という3つからそれが成り立つと主張しました。
もちろん、これが実現することはなかったわけですが、「経済の相互依存による平和」というのはのちのヨーロッパ統合にも通じるものですし、これについての思索などを通じて、サン=シモンは「産業」に注目するようになります。

サン=シモンによれば、近代以前に人々が集結する目的は敵と戦うためで、その戦いによって富がもたらされましたが、近代になると平民は産業における労働という行為から富を獲得し始めます。
こうした「産業者」の新しい力が「コミュヌ(コミューン)の解放」の原動力となります。産業者は封建体制の解体を促し、自由社会の確立をもたらしましたが、一方で資本家と労働者の間の貧富の差をもたらしました。
それでもサン=シモンは産業の可能性を信じ、資本家と労働者が労働とコミュニケーションをとおして「産業者」として融和できると考えました。
サン=シモンは「小さな政府」を志向しており、政府による市場介入がなくても、それこそ「万有引力」のようなもので調和がもたらされるとしたのです。

一方、オーウェンは「工場法」の制定を提案し、現実の労働環境の改善を目指しました。
オーウェンは1日12時間労働、10歳に達しない子どもの工場労働の禁止、12歳に達しない子どもの1日6時間以上の工場労働の禁止などを訴えました。
しかし、最終的に1819年に成立した紡績工場法は、紡績工場のみが対象で、9歳に達しない子どもの労働が禁止され、16歳に達しない者にだけ1日12時間労働という制限がかかっただけでした。

そこでオーウェンは労働協同村の設立を模索し始めます。
オーウェンの構想した村は人口が500〜1500人程度で、村の中心に協同炊事場、食堂、礼拝堂、学校などが入った建物を置きます。子どもにはしつけと教育を行い、機械はあくまでも補助的に使い、人と人とが助け合って暮らしていくことを目指しました。
ただし、具体的にどのように生計を立てていくかは明確ではなく、ユートピア的な構想でもありました。
しかし、この協同村を構想していく中で、オーウェンは次第に宗教(キリスト教)に疑いの目を向けるようになり、宗教批判を公にしたことで支持者を失うことになります。
サン=シモンも「天上の道徳」から、労働を通した人間の発展という「地上の道徳」を唱えたことで読者や新聞から批判されています。

1821年、オーウェンはスコットランドのラナーク州の求めに応じて『ラナーク州への報告』を執筆しますが、ここでオーウェンは不況の原因を労働者の不当に安い賃金に求めました。賃金が低いので増産した商品が売れないのです。
これを解決するのは金銀に代わる価値尺度が必要だといいます。金銀は有限であるのでときに労働者の賃金が不当に安く抑えられてしまうからです。そこでオーウェンは労働の価値を表示する証券の発行を考えます。
さらにオーウェンは協同村の構想を推進し、アメリカに渡って1825年から労働協同村「ニューハーモニー」の建設を始めるのです。

この構想にフーリエも興味を持ちオーウェンに協力を申し出ますが、結果的にフーリエは無視されてしまいます。
フーリエは1829年の『産業的協同社会的新世界』という著作で再びオーウェンの平等主義を批判し、ファランジュを発展させた協同村を構想します。

一方、サン=シモンは晩年になると、キリスト教の「汝ら互いに愛し合い、助け合え」という言葉を援用するようになります。サン=シモンは自らの産業道徳を「新しいキリスト教」として解釈していくのです。
1925年にサン=シモンは64歳で死去しますが、その頃にはサン=シモン派やサン=シモン主義者と呼ばれる一大グループができるようになっていました。
このサン=シモン派の若者の中にはフーリエに接近するものもいました。フーリエは1837年に65歳で亡くなりますが、彼のファランジュの構想は各地で実践されていくことになります。

オーウェンは「ニューハーモニー」はアメリカのインディアナ州で実現します。ジョージ・ラップという宗教者が土地や建物を売ってくれることになったのです。
1825年、800人の人々が集まり「ニューハーモニー」が開村されます。しかし、オーウェンが一時イギリスに戻ったこと、既存の建物を利用しオーウェンの構想のようなつながりができなかったこと、住居が足りないのにいきなり800人を受け入れてしまったこと、職人などが足りなかったことでうまくいきませんでした。
オーウェンは自らに権限を集中させて立て直そうとしますが、結局はうまくいかずにイギリスに帰国することになります。

19世紀半ばにかけてイギリスでは普通選挙を求める運動が盛り上がりますが、まずは労働者の意識の改善が先だと考えていたオーウェンはこれに消極的でした。
オーウェンは1834年に全国労働組合大連合(グランド・ナショナル)の結成を主導しますが、対決姿勢を強める労働者たちと、資本家を含めた協同体の創出を目指すオーウェンの考えはずれていました。

1832年、フランスのサン=シモン主義者のルルーが運営する『ル・グローブ』紙に「社会主義」という言葉が登場し、イギリスでもオーウェン主義の言い換えとして「社会主義」という言葉が使われ始めます。
1840年にはレイボーが「現代の改革者、あるいは近代的社会主義者の研究』で、サン=シモン、オーウェン、フーリエを「社会主義者」として紹介しています。

オーウェンやサン=シモンは人々の意識を変えることを重視していましたが、「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」と考えたのがマルクスとエンゲルスです。
オーウェンのパターナリズム的な啓蒙に代わって、唯物史観や階級闘争といった考えが幅を利かせるようになったのです。

ただし、サン=シモンは意外な形で影響力を発揮します。1848年のフランス3月革命の後に現れたナポレオン3世が「馬上のサン=シモン」と呼ばれるサン=シモン主義者だったからです。
ナポレオン3世は資本家と労働者の融和を図ろうとしますが、これはサン=シモンの考えでした。さらにナポレオン3世は上からの産業振興を行い、労働者保護政策を進めるなどサン=シモン的な政策を進めたのです。
ちょうどこの頃、1858年にオーウェンは87歳で亡くなっています。

本書を読んだ感想は、興味深い部分はいろいろとあるが、やはりサン=シモン、オーウェン、フーリエの3人をまとめて論じるのは難しいというものです。
この3人は後から「社会主義者」としてくくられる同時代人なわけですが、著作を中心に活動したサン=シモンやフーリエと実践中心だったオーウェンは違います。
また、本書は歴史的な文脈を詳しく書くことで同時代を意識させる構成になっているのですが、この時期のイギリスとフランスは同時代といっても大きく違います。完全に資本主義が成立したイギリスと、まだ成立前のフランスでは状況が大きく違うわけです。
著者は自然災害をとり上げたり、さまざまな工夫をこらしていますが、企画自体が少し難しかったのではないかという印象を受けました。



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