[フレーム]

山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2017年06月

去年のBrexit(EUからの離脱の国民投票)によって一気に注目をあつめることになったイギリスの政治について、その制度と歴史、さらに現在の機能不全を分析した本。
長年、「ウェストミンスター・モデル」として日本の政治改革などのモデルとされてきたイギリスの政治ですが、近年ではBrexitに代表されるような問題も目立ってきています。その背景としてグローバル化や格差社会といったことがよくあげられていますが、この本では長年イギリスの政治を研究してきた著者によって、あくまでも政治制度を中心に機能不全の背景が分析されています。
そして、この政治制度にこだわった分析によって、イギリス政治の現在地や日本の政治への示唆がより明確な形で見えるようになっており、単純にイギリス政治の現状を知るだけではない面白さがあります。
イギリスの現状分析にとどまらず、政治学の知見から現代のデモクラシーの混迷に光を当てた本と言えるでしょう。

目次は以下の通り。
序章 モデルとしてのイギリス?
第1章 安定するイギリス
第2章 合意するイギリス
第3章 対立するイギリス
第4章 分解するイギリス
終章 イギリスはもはやモデルたりえないか?

政治学者のレイプハルトは『民主主義対民主主義』において世界各国の民主主義の分類を行いましたが、その中でイギリスは多数決型民主主義の典型とみなされています。
多数決型とは「一人でも多い多数派」の意見がそのまま決定につながるような民主主義のスタイルであり、対照的なのが「なるべく多くの人」の支持を得ようとするコンセンサス型民主主義になります(77p)。

ご存知のようにイギリスでは小選挙区制で選挙が行われています。小選挙区制のもとでは1位の候補者しか当選しないため、政党は二大政党に収斂していきます。
また、小選挙区制には民意をデフォルメする効果もあります。弱小政党の得票は議席に反映されることはありませんし、わずかな得票率の違いが大きな議席の差を生み出すこともあります。
こうして、選挙制度によってつくられた保守党と労働党の二大政党のどちらかが単独政権をつくり、政権交代を繰り返すことでイギリスの政治は動いてきました。

しかし、小選挙区制と二大政党制だけがイギリスの政治を特徴付けているわけではありません。
例えば、アメリカも二大政党制で議員は小選挙区制で選ばれていますが、その政治の様子はずいぶん違います。アメリカの議会は両院とも権力を持つ二院制ですし、選挙で選ばれる大統領もいます。さらには三権分立の考えのもと司法も大きな権力をもっています。トランプ大統領の政策が議会や裁判所の判断によって立ち往生しているのは記憶にあたらしいところです。

一方、イギリスでは議会主権の名のもとで政治権力は議会に集中するようになっていますし、その議会においても下院に権力が集中しています。さらにその下院の多数派から首相(執政)が選ばれるため、党内の分裂などがないかぎり首相は強いリーダーシップを発揮することができます。
政党に関しても、一体性の弱いアメリカの政党などに比べるとイギリスの政党は規律が強く、その一体性も高いです。
さらに連邦制の国家とは違ってイギリスは集権性の高い単一国家です(スコットランドなどについては後述)。
つまり、議会主権、小選挙区制、二大政党制、政党の一体性、執政優位、単一国家といったそれぞれの制度がそれぞれ噛み合うことによって典型的な多数決型民主主義のシステムをつくりあげているのです(80pの図2を参照)。

* ちなみに日本も90年代の政治改革以降、多数決型に近づいているが、衆議院議員選挙の比例部分、比較的強い参議院の存在もあってイギリスほど与党や執政に権力が集まるシステムにはなっていない。

勝ったほうが総取りともいうべき多数決型民主主義では、政権交代にともなって政策が右から左へ左から右へと大きく変わりそうなものですが、著者はそうではないと言います。
ダウンズの「中位投票者の理論」によって二大政党の政策は近づいていくといいますし(92p)、実際、戦後すぐに労働党が築いた福祉制度は保守党政権になっても引き継がれましたし、64年からはじまった労働党のウィルソン政権のもとでは経済停滞の中で福祉の制限や改革が行われました(97ー100p)

しかし、この「合意」の政治は79年に首相となったサッチャーのもとで変化していくことになります。
サッチャーは「小さな政府」を掲げ、労働党的な福祉政策を厳しく批判したのです。ただ、実際の数字を分析してみるとサッチャー政権において福祉分野への国家支出が大きく減ったわけではありません(106ー108p)。
サッチャーといえども、政策の「経路依存性」を無視することはできなかったのです。

この後、労働党の党首として保守党から政権を奪い返したのはブレアでした。ブレアは産業の国有化といった目標を捨て、保守党の新自由主義的な路線に寄ることによって新たな支持を獲得しました。
この政策転換を「ネオ・リベラルの合意」と位置づけることもできます(115p)。実際、保守党のキャメロン首相は「社会の重視」を打ち出し、サッチャーの路線から距離を取り、ブレアの路線に近づきました。

しかし、このブレア政権のころからイギリス政治を支えてきた制度が変化し始めます。
まずは地方分権の動きです。以前からスコットランドは分権を求めてきましたが、これに応えようとしたのがブレアでした。ブレアは立法権を持ったスコットランド議会、ウェールズ議会の設立についての住民投票を行うことをマニフェストに明記し、97年にはスコットランドとウェールズの議会が98年には北アイルランドの議会が誕生します。
これは住民の要望に応えた措置と言えますが、同時に単一国家であったイギリスの仕組みを変更し、またスコットランド国民党(SNP)が伸長する場を与えるものでした。

また、ブレア政権では内閣ではなくブレア個人に権力が集中しました。ブレアは他の閣僚や省庁のスタッフよりも首相官邸に集めたアドバイザーを重用し、リーダーシップを発揮しました。これを政治の「大統領制化」とも言います(163ー168p)。
しかし、このブレアのリーダーシップはイラク戦争で躓きました。労働党内部からの造反も出る中でイラク戦争への参加を強行したブレア首相でしたが、大量破壊兵器が見つからなかったこともあって厳しい批判に晒され、ブレアの党内での求心力は落ちていきます。
また、イラク戦争に関しては保守党も賛成したために、第三党の自由民主党が支持を集めることになりました。2005年の総選挙で自由民主党は22%の得票率で62議席を獲得しています(172-173p)。

さらに多党化の傾向はEUとの関係においても進みます。EUには欧州議会が設けられ、各国から議員が選ばれているのですが、1999年からイギリスでも比例代表制によって欧州議会の議員が選ばれるようになりました。
そこで伸長したのがUKIP(英国独立党)です。UKIPは反EUを打ち出す新興の単一争点政党で、大政党しか勝ち上がれない小選挙区では存続が難しいタイプの政党です。
ところが、欧州議会の比例代表選挙はUKIPのような政党が育つ土壌を提供しました。EUの作った制度が反EU政党を育てたというのは皮肉ですが、UKIPは欧州議会の選挙を通じて勢力を広げ、2014年の欧州議会選挙では小選挙区では得票率27.5%でついにイギリスでの第一党となりました(146-148p)(遠藤乾『統合の終焉』に「欧州議会選挙は、ヨーロッパ次元というよりも国内次元の政治争点をめぐって争われる「二流の総選挙」の傾向が強い」と書かれているように欧州議会選挙への関心は全体的に低い)。

この本では、こうした選挙制度の混合がどのような帰結を産むのかということや、第3の政党の出現によって一番議席を減らすのは第2党であり、一党優位化が進みやすいといった政治学の知見の紹介しています(194-202p)。
このあたりはさまざまな選挙制度が混合している日本の政治を考える上でも示唆に富むものです。

このような多党化が進む中で問題となるのが「民意の漏れ」の問題です。
イギリスの二大政党の得票率は低下しており、1970年までは90%近くあった得票率が60%代後半にまで落ちてきています。しかし、小選挙区制の仕組みもあって議席率は 依然として85%以上を占めています(189pの図9参照)。
得票レベルでは二大政党制は崩れつつあるのに、議席的には二大政党制が続いているという、有権者の意思が議会構成にうまく伝わらないような状況になっているのです。

こうした「民意の漏れ」に対応し、同時に政党内部の対立を抑えるために近年多用されるようになっったのが国民投票です。
国民投票は、「二大政党制に基づくイギリス民主主義の機能不全を、「究極の多数決」に基づいて補う役割」(228p)を持っているのです。
しかし、キャメロン首相が保守党内をまとめ上げ、UKIPに見られる反EU世論のガス抜きをはかるために行った国民投票は、まさかの「EU離脱」という結果に終わりました。

このようにイギリス政治は、今までウェストミンスター・モデルを支えてきた、二大政党制や議会主権、単一国家といったパーツの組み合わせが崩れ、機能不全を起こしています。
「EU離脱」という決定だけでなく、この政治制度の機能不全がイギリス政治を「分解」させていくことになるかもしれません。
一時期は、日本の政治改革のモデルとされたウェストミンスター・モデルですが、もはやモデルとしての輝きを失いつつあるのです(ただ、日本には欧州議会もスコットランドのような存在もないので純粋な多数決型民主主義を目指す道は可能性は残ってはいるな、と賛否は別にして個人的には思いました)。

以上のように、イギリスの政治状況を読み解くととともに、政治制度そのものを考えるためのさまざま知見が散りばめられた非常に面白い本です。
やや専門的な議論も登場しますが、語り口は平易で図などを用いた説明もわかりやすいですし、政治について興味のある人に幅広くお薦めしたいですね。

分解するイギリス: 民主主義モデルの漂流 (ちくま新書 1262)
近藤 康史
4480069704
副題は「好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」。この副題からも分かるように日本古代の対外戦争の歴史を扱った本になります。
ですが、日本古代史を知っている人ならわかると思いますが、基本的に古代において日本に行った対外戦争というのは、上記の好太王との戦い、白村江の戦い、刀伊の入寇くらいでその数は少ないです。そのため、この本も戦争の部分だけでなくそれに付随する外交に関する部分に多くの紙幅を割いています。
特に朝鮮半島との外交関係についてはかなり詳細に書かれており、「古代における日本と朝鮮半島の外交史」としても面白く読めると思います。

目次は以下の通り。
はじめに 倭国・日本と対外戦争
第一章 高句麗好太王との戦い 四〜五世紀
第二章 「任那」をめぐる争い 六〜七世紀
第三章 白村江の戦 対唐・新羅戦争 七世紀
第四章 藤原仲麻呂の新羅出兵計画 八世紀
第五章 「敵国」としての新羅・高麗 九〜十世紀
第六章 刀伊の入寇 十一世紀
終章 戦争の日本史
おわりに

古代における日本と朝鮮半島の関係に関してはわかっていない部分も多いですが、日本の朝鮮半島への軍事的進出を示す史料として、「高句麗好太王碑文」があります。
この史料についてはさまざまな読み方が言われていますが、著者は高句麗の圧迫を受けた百済が倭国に対して軍事的援助を要請し、それに応えた倭国の軍が好太王に敗れたといったかたちで解釈しています。
史料の中には倭国が百済や新羅を「臣民」としたという記述もありますが、これは倭国が対高句麗連合軍において指導的地位に立った局面があったからではないかと著者は推論しています(34p)。
また、倭国が敗北した要因としては、倭国の兵が短甲と大刀で武装した重装歩兵であったのに対して、高句麗には長い矛で武装した騎兵がいたことなどがあげられています(37p)。この敗戦のインパクトは、古墳の副葬品に馬具などが増えてくること、馬を駒=高麗(高句麗のこと)と呼ぶことなどに現れているといいます(38p)。

この後、倭の五王などの時代を経て、6〜7世紀になると朝鮮半島南部の任那と呼ばれる地域の帰趨が問題となります。
倭の五王の時代は日本国内で鉄資源が生産できなかったために倭国は朝鮮半島にこだわらざるを得ませんでしたが、6世紀になると日本でも鉄が本格的に生産できるようになりました。著者は中国への遣使が途絶えた背景の一つをここに見ています(63p)。

このころ半島南部の加耶諸国(ここが任那と呼ばれることになる)は百済、新羅の双方から圧迫を受けるようになっており、倭国への協力関係を強めましたが、磐井の乱などの影響もあり効果的な派兵を行うことはできませんでした。
結局、562年に加耶諸国は新羅によって滅ぼされます。倭国では反新羅の動きが強まりますが、新羅は倭国に「調(みつき)」(貢物)を送ることでこの動きを抑えようとします。
この「調」は「任那の調」と称されたそうですが、これが日本側の勝手な認識なのか、新羅もそう称したのかはよくわかりません。ただ、対百済関係の悪化もあって新羅が倭国に対して下手に出たのは確かであり、それが後の日本の新羅に対する優越感につながったと著者は見ています。

推古朝のときも新羅への出兵(任那復興)の計画は何度か持ち上がりますが、本格的な出兵は行われなかったようです(『日本書紀』にはそういった記述があるが著者は否定的に見ている(93-97p))。
その間に東アジアの国際情勢は大きく変化し、660年、倭国と友好関係にあった百済が唐と新羅の連合軍によって滅ぼされます。
しかし、滅亡したといっても王都が陥落し国王とその一族が唐に連行されただけであり、すぐに百済の遺臣たちによる反乱が起こります。そして、この反乱が一時期かなり力を持ったことが、倭国を白村江の戦いに引き込んでいくことになるのです。

白村江戦いの詳しい経過に関しては本書を読んでほしいのですが、倭国軍は地方豪族や国造の寄せ集めの軍であり、しかも決戦の地である白村江に倭国の軍船は長い帯のような状態で順番に到着したらしく、戦列を固めていた唐の水軍の餌食になりました(145p)。火攻めによって溺死したものも多かったとのことです(148p)。

この白村江の戦いは唐にとってはさしたる重要な戦いではなく、新羅にとっても主たる戦場ではありませんでした(152p)。しかし、倭国にとっては大きな意味を持つ戦いで、この戦いを機に中央集権国家をつくる動きが加速しています。
著者は、中大兄皇子や中臣鎌足にはたとえ敗北しても、戦争に向けた動員が中央集権国家をつくる好機になるという読みがあったのでは?という見方を披露していますが、個人的にはこれは後知恵で当時の情勢からするとあまりにも危険すぎる賭けではないかと感じました。

もっともこの後、中央集権国家の建設は進みますし、唐と新羅の関係が悪化したことによって事態は中大兄(天智天皇)の都合のいいように進みます。
671年には唐からの使節がやってきます。この使節は倭国に新羅への出兵を促したとも考えられており、実際に東国で徴兵が行われたようです。しかし、この兵は海を渡ることはなく、壬申の乱において大海人皇子の軍に接収されたというのです(173ー179p)。

先ほど、中央集権国家をつくるために白村江に兵を送ったという解釈は苦しいのではないかと述べましたが、出兵計画が国内の引き締めに使われたと考えられるのが藤原仲麻呂の新羅出兵計画です。
唐との関係が悪化した新羅は、日本に「調」を送っていました(新羅の贈り物を日本側が「調」と称した可能性が高い(187p))。しかし、8世紀になると唐と新羅の関係は安定し、新羅は日本に対して下手に出なくなります。

こうした中、751年に当時独裁的権力を握っていた藤原仲麻呂が新羅征討計画を表明します。仲麻呂は諸国に500艘の船を3年以内につくるように命じたのです(197ー198p)。
その背景には渤海のはたらきかけや安史の乱による唐の混乱などがあるわけですが、それにしても3年以内というのは悠長な話です。
著者は、軍事的な権力を仲麻呂に集中させるために対外的な要因が利用された(だから実際に出兵するかどうかの重要性は二の次)と考える鬼頭清明の見方をとっています。

この本の第五章、第六章では、その後の新羅、そして新羅に代わって朝鮮半島を支配した高麗との関係、さらには刀伊の入寇がとり上げられているのですが、読みどころの一つは朝廷の貴族たちの平和ボケぶりです。
刀伊の入寇に関しては、日本側の死者365人、拉致者1289人というかなりの被害が出た出来事なのですが、朝廷の対応は基本的には現地に丸投げで、都の予定でキャンセルされたものは摂政・藤原頼通の賀茂詣だけです(241p)。
また、勅符が届く前に戦闘で手柄を立てた者に対して行賞をおこなうべきかということが議論されています。藤原実資の意見により行賞がおこなわれることになりましたが、当時の貴族の認識とはこの程度のものなのです(逆に実資が有能な人物であったことはわかる)。

さらに終章では元寇や秀吉の朝鮮出兵に関してもそれなりに紙幅をとって説明しています。
近代以前の日本の対外戦争が、朝鮮への蔑視などを通じて近代以降の対外戦争へ影響を与えているという著者の主張に関しては判断がつきかねる部分はありますが、古代の戦争と外交をみとすことのできる面白い本だと思います。
歴史の教科書では短い出来事として語られてしまう戦争の前後にさまざまな背景や思惑があることを教えてくれる本です。


戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで (講談社現代新書)
倉本 一宏
4062884283
季刊誌『kotoba』に連載された文章に、「シン・ゴジラ論(ネタバレ注意)」と大江健三郎の『水死』を論じた「『水死』のほうへ」を加えて1冊としたもの。
新書という形になっていますが、以前であれば文芸評論の単行本として出版された企画でしょうね。

カバーの見返しやAmazonのページに載っている紹介文は以下の通り。
一九四五年、日本は戦争に負け、他国に占領された。それから四半世紀。私たちはこの有史以来未曾有の経験を、正面から受けとめ、血肉化、思想化してきただろうか。日本の「戦後」認識にラディカルな一石を投じ、九〇年代の論壇を席巻したベストセラー『敗戦後論』から二〇年。戦争に敗れた日本が育んだ「想像力」を切り口に、敗北を礎石に据えた新たな戦後論を提示する。本書は、山口昌男、大江健三郎といった硬派な書き手から、カズオ・イシグロ、宮崎駿などの話題作までを射程に入れた、二一世紀を占う画期的な論考である。

「二一世紀を占う画期的な論考」とありますが、加藤典洋の仕事を昔から読んできた者からすると「画期的な論考」ではないです。
加藤典洋はそれこそデビュー作の『アメリカの影』から一貫して「敗戦ときちんと受け止めていないこと」、「戦後の日米関係をきちんと受け止めていないこと」ことを問題視しつづけており、この本もタイトルから想像できるようにそうした著者の仕事の流れの中にあります。

著者の大まかなスタンスについては例えば以下の文章を読めばわかるでしょう。
(私は)誤りを反省し、先進の西洋思想から学ぶことを第一とする「戦後民主主義思想」に対し、いま自分たちに課せられた現実を基礎に、この第一の道に「抵抗」しつつ、自己形成する第二の流れをさして、これを「戦後思想」と呼んだことがある。前者の系列に並ぶ知識人には、丸山真男、加藤周一、桑原武夫、日高六郎がおり、後者の系列に並ぶ知識人には、吉本(隆明)、鶴見(俊輔)のほか、中野重治、竹内好、埴谷雄高、鮎川信夫、谷川雁、花田清輝、江藤淳、橋川文三といった知識人がいる。双方とも優れた知識人だが、流儀が違う。では両者の違いとはなんだろうか? 少し前まで英語で教えていた大学で、外国人の留学生を前に、こんな問にぶつかったとき、私に、それまでは私の語彙になかった、「敗者の想像力」という言葉が、ひらめいたのである。(160ー161p)

この文章を読めば、だいたい著者の立ち位置というのはわかると思います。基本的に、著者は「戦後思想」の流れ、特に鶴見俊輔や吉本隆明の考え方に拠りながら、敗者であるということはどのようなことであるかということを深く考える「敗者の想像力」を、さまざまな作品から取り出そうとしています。

ただ、著者の仕事の面白さというのはスタンスそのものよりも、そこからさまざまな作品を執拗に読み解いていく部分。
例えば、ゴジラに関してはゴジラが太平洋戦争で死んだ死者たちの体現であるという指摘から始まり(だからいつも日本にやってくる(87-91p))、さらにこの手の評論で触れられることはごとんどない1998年のローランドエメリッヒによる『GODZILLA』、2014年のギャレス・エドワーズによる『GODZILLA ゴジラ』の読み解きを行っています。

ローランド・エメリッヒ版『GODZILLA』については、ゴジラの誕生の原因がアメリカの水爆実験ではなくフランスの水爆実験にすり替えられている点を、「よくぞこんな破廉恥なマネができるものだ」(98p)とあきれつつ、そこに原爆投下に対する「うしろめたさ」を読み込んでいます(100-101p)。
一方、ギャレス・エドワーズ版の『GODZILLA ゴジラ』は今までのゴジラがなかったことにされている作品ですが、そこに庵野秀明の『シン・ゴジラ』につながるものを見ています。

「シン・ゴジラ論」については個人的にはそれほど鋭さは感じなかったのですが、第1作目の『ゴジラ』ができたばかりの自衛隊の戦闘行動を初めて描いた映画だという指摘は面白かったですね。航空自衛隊がこの時期には持っていなかったはずのF86セイバーを自衛隊機として登場させる一方、日本に駐留しているはずの米軍は一切出動していません(121ー123p)。

そして、この本で一番面白いのは大江健三郎の『水死』論と、デビュー当時から続く曽野綾子とのある種の「因縁」の話。
この本の第二章では、占領期の日本を描いた「第三の新人」がとり上げられています。
1950年代になると、「自分に「正しさ」などどこにもない」(68p)という主人公を登場させる「第三の新人」と呼ばれる作家たちがあらわれ、「占領期」を描き始めます。
その中の1人が曽野綾子であり、やや遅れて登場したのが大江健三郎でした。曽野綾子は「遠来の客たち」で箱根の米軍専用ホテルを舞台にアメリカ人との関係を「あっけらかん」とした筆致で描き、大江健三郎は「人間の羊」で占領期の屈辱を描きました。両者は「占領」という出来事にある意味で対照的なアプローチをしたのです。

その後、曽野綾子と大江健三郎は政治的にも対照的なポジションをとることになりますが、両者の因縁はそれだけではありません。
大江健三郎は1970年に『沖縄ノート』を発表し、沖縄の「集団自決」を告発しますが、その3年後の1973年、今度は曽野綾子が『ある神話の背景』を発表し、守備隊長が住民に自決を命じたことに疑問を呈します。
さらにこの「集団自決」をめぐる問題は2005年に裁判に発展します。旧守備隊長の遺族らが大江らを相手取り名誉毀損の訴えを起こしたのです。

著者は大江健三郎の現在のところ最後から2番目の小説にあたる『水死』を、この裁判に対する文学的な回答として読み解きます。
詳しくは「『水死』のほうへ」を読んでほしいのですが、この読み解きは面白いですし、ノーベル文学賞受賞後の大江健三郎の言動にやや退屈さを覚えていた自分にとっても刺激的で興味深いものでした。

『戦後入門』(ちくま新書)では、文芸評論的な部分はほぼ捨てられていましたが、やはり著書の本領は文芸評論であり、そこからはみ出してくるものなのだと思いました。

敗者の想像力 (集英社新書)
加藤 典洋
4087208826
タイトルは「ミクロ経済学入門」ではなく「ミクロ経済学入門の入門」。そのタイトル通り、「ミクロ経済学の世界に分け入っていく」というよりは「ミクロ経済学にはどんなアイディアあって、それは何に使えるのか?」ということを読者に見せるような内容になっています。

数式はほとんどなく、くだけた文体とグラフを多用する視覚的な説明を行い、本文150ページ未満のコンパクトな量。こういうと中学や高校で習う需要と供給のグラフに毛の生えた程度のものを想像する人もいるかもしれませんが、そこはマーケットデザインなどの研究をしている著者だけあって、随所にゲーム理論が埋め込まれるかたちで説明がなされており、ミクロ経済学についてそれなりの知識のある人にも新たな捉え方をもたらすような内容になっています。
また、150ページほどという量の部分については、前著の『多数決を疑う』(岩波新書)を読んだときも感じましたが、著者は高度な内容をコンパクトにまとめるのが非常にうまい書き手であるため、ページ数以上の読み応えは感じられると思います。

とりあえず、以下の詳しい目次を見れば、この本がどんな内容を取り扱っているかはわかるでしょう。
第1章 無差別曲線――ひとの好みを図に描く
無差別だということ/ペプシしか飲まない父/僕と父のあいだの普通の人/右の靴と左の靴(補完関係)/典型的な無差別曲線
第2章 予算線と最適化――何が買えて何を選ぶのか
購入できる買い物/予算線の作成と性質/予算線上の最適化/医療保険政策への応用
第3章 需要曲線――いくらなら、いくつ買うのか
最適解の変化/消費者余剰/独占販売店の価格設定/ベルトラン価格競争/弾力性/ギッフェン財
第4章 供給曲線――いくらなら、いくつ作るのか
限界費用の逓減/最適解/供給曲線
第5章 市場均衡――市場で価格はどう決まるのか
市場均衡/社会的余剰/従量税の下での市場均衡/狙い撃ち課税はなぜダメか
第6章 外部性――他人が与える迷惑や利益
負の外部性とピグー税/正の外部性/ネットワーク外部性と調整ゲーム
第7章 独占と寡占――さまざまな種類の市場
減産による価格の高騰/参入の阻止/展開形ゲーム/クールノー寡占市場
第8章 リスクと保険――確実性と不確実性
条件付き財/不確実性/リスク愛好とリスク中立/保険会社とリスクプレミアム/逆選抜
第9章 公共財――なぜ皆に大事なものは、いつも足りないのか
財の4分類/公共財の自発的供給
第10章 再分配――格差と貧困をどう測るか
所得再分配/ジニ係数/絶対的貧困と相対的貧困/市場、格差と貧困
読書案内

本書の内容紹介としては以上で十分なような気もしますが、いくつかの部分についてコメントしておきたいと思います。

まずは第2章の「予算線と最適化」における医療保険制度についての議論。
日本の医療保険制度では患者が医療サービスを受けたときにかかった費用の3割を払い、残りの7割は患者の加入する健保が払う仕組みになっています。
ここで紹介されるミクロ経済の考え方では、患者が医療サービスを受けたときに健保が残り7割を負担する制度(現物給付)よりも、患者になんでも使える見舞金を支給する制度(現金給付)のほうが、患者にとっても健保側にとっても好ましい状態を作り出せる可能性が示されています。
しかし、直後に著者は、「制度が悪用される(わざと怪我をするなど)おそれ」、「人々が支持するか(例えば病人がそのお金でパチンコに行く)」、「必要原理(医療は人間にとって必要なもので社会が供給すべき)」という3つの理由を上げて、「ミクロ経済学が有効な政策分析のツールたりえること、またミクロ経済学だけで政策を論じるのは不十分ということ」(40p)を指摘しています。
早い時期にミクロ経済学が「一つの見方」であることを示しているのです。

また、最初にも述べたように、ミクロ経済学の一般的な概念の説明にゲーム理論による説明を挟み込んでくるのも、この本の特徴のひとつです。
まずは第6章の外部性の説明の中で、SNSなどにおけるネットワーク外部性(利用者が多いほどユーザーが恩恵を受ける)を、調整ゲームを使って説明していますし、第7章では独占企業の行動を展開型ゲームを使って説明しています。
さらに第9章では公共財に関してもゲーム理論で説明しています。非競合的(大勢が利用しても影響を受けない)で非排除的(お金を払わない人を排除することが難しい)なものを公共財といい、一般道路や国防などが代表例とされています。
これらのものは多くの人にとって必要なものなので、個人個人が自発的にお金を出し合えば良さそうですが、そうなると費用を払わずにその財を利用するフリーライドの問題が出てきます。
これは昔から知られていることですが、この本ではこのフリーライドの問題も、ゲーム理論を使って説明しています。
本書は非常に初歩的な入門書なのですが、このようにミクロ経済学をできるだけゲーム理論で基礎づけようとする野心のようなものも感じさせます。

最後に、この本では再分配の問題を取り上げているのですが、記述の大半はジニ係数の求め方や絶対的貧困と相対的貧困の概念の説明に費やされており、現在の格差問題に対する処方箋のようなものについては触れられていません。
あくまでも「ミクロ経済学」という道具の中に禁欲的にとどまっている感じで、第2章の医療保険の例と同様に、この本のひとつの特徴を表していると思います。

経済学がどんなものか知りたいという人にはもちろん薦められますし、経済学の知識を改めて整理したいという人にもいいでしょう。また、進路として経済学部あたりを考えているけど、実際に何を勉強するのかイメージできないという高校生に強く薦めたいですね。


ミクロ経済学入門の入門 (岩波新書)
坂井 豊貴
400431657X
記事検索
月別アーカイブ
★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
人気記事
タグクラウド
traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /