2023年01月
日本人の洋装がどのように広がったのかをたどった本。文明開化とともに洋服が入ってくるわけですが、当然ながら、すぐに日本人が洋服を着るようになったわけではありませんし、特に女性については和服中心の時代が長く続きました。
この女性が洋服を着るようになったきっかけとして、「関東大震災」や、昭和7(1932)年の「白木屋百貨店の火災」があげられることがありますが、著者はこれらを「俗説」として退けた上で、「洋装の発展段階論」を示そうとしています。
「あとがき」を読むと、著者が家政学の服飾史研究に大いに不満を持っており、これに代わってしっかりとした資料に基づいた服飾史を打ち立てようとしていることがわかります。
文脈を知らないと、多少気負いすぎている感じもしますが、洋装の広がりというテーマは面白いもので、いろいろな発見がある本です。
目次は以下の通り。
第1章 幕末の海外渡航と洋服との出会い第2章 欧化政策の表と裏第3章 衣服改良運動第4章 服装改善運動第5章 昭和モダニズムの服装第6章 国家総力戦と服装第7章 洋服を着る時代の到来
最初に洋服を着た日本人は漂流民だと言われています(本書では中浜万次郎らの名前が挙げられているけど、大黒屋光太夫のほうが早いし、さらには天正遣欧少年使節とかもっといるのでは?)。
こうした人々以外で先駆けて洋服を着ることになったのが幕末に海外に渡った留学生らです。彼らは当然ながら羽織袴に髷を結っていたわけですが、現地の人々からあまりに奇異な目で見られるために洋服を着るようになりました。
国内では、洋式軍隊の導入にあたっても動きやすさを重視して筒袖の服を導入する動きがありました。
幕府は、留学生らに対しても洋装は現地に限り認めるという形でしたが、慶應2年にフランスとの間に軍事教官団の派遣の取り決めが行われると、軍服として洋服が導入され、徳川慶喜にも軍服が贈られました。
文久3(1863)年にイギリス人のミセス・ピアソンが横浜の居留地にドレスメーカーを開店したのが、日本での洋服仕立て業の発祥だといいます(明治2年にイギリス人のカペルが神戸に開いた店を発祥とする説もあるが横浜のほうが古い)。
その後、横浜には衣服輸入商なども開業しましたが、基本的には外国人向けの店だったと言います。
明治なっても日本人が洋服を着るのは軍服に限られており、他には造幣寮の制服、海外に行くときの「旅行服」などしかありませんでした。
こうした状況が動くのは廃藩置県後です。廃藩置県が行われた翌月の明治4(1871)年8月に洋服・断髪・脱刀姿で宮中や太政官へ行くことが許されました。
この背景には政府内で主導権を握った旧藩士層が外見から身分の差をなくそうとしてことが考えられます。
これには公家たちからの反発などもありましたが、このときに服装改革の内勅が出され、日本古代の「筒袖」、「細袴」に戻るのだという理屈で洋服の着用が正当化されています。
ここでは文明開化の結果として洋装が進んだという説が退けられています。
使節団の大使だった岩倉は和装で海外に向かいましたが、アメリカで見世物のようになってしまったために、断髪して洋服を着るようになり、イギリスでヴィクトリア女王に謁見した際には洋式の文官大礼服姿でした。
左大臣・島津久光の文明開化に反対する意見が退けられ、西南戦争で政府軍が勝利すると、「洋服・断髪・脱刀」への反発はおさまっていきます。
明治18(1885)年には奏任官以上が出仕する場合には洋服の着用が義務付けられ、翌年には判任官にも義務付けられました。
学生服としても洋服が導入され、特に学習院と東京大学のものは後のデザインに大きな影響を与えました。なお、学習院では生徒が華美な服装をすることを嫌って制服が導入されています。
一方、女性の洋装は遅れました。明治6年に撮影された御真影でも明治天皇が洋装なのに対して、美子(はるこ)皇后は御小袿・袴姿です。
女性の洋装がすすむきっかけとしてよく鹿鳴館の存在があげられます。確かに鹿鳴館外交を進めた井上馨は「欧化政策」を広めようとしていましたが、著者は伊藤博文のはたらきに注目しています。
明治17年に伊藤が宮内卿に就任すると、女性勅任官と勅任官の夫人に必要に応じて洋服で行事などに参加することを望み、宮中での女性の洋装化をはたらきかけました。その結果、明治19年に天皇が皇后の洋装を許可し、美子皇后は初めて洋服を着て、公の場にも姿を見せました。
「婦女服制のことに付て皇后陛下思食書」も出されましたが、ここでも洋装を1つの復古として正当化しています。衣と裳は西洋の服と同じだというのです
著者はこの「思食書」の存在を重視しており、ここから一部で女性の洋装化が進み、また、女性の服は上下一体でなければならないという固定観念が取り払われるきっかけになったとみています。
欧化政策によって女性華族や官僚夫人が洋服を着ましたが、明治20年代になると洋装をする女性は減っていきます。
これについては国粋主義の高まりで説明されることもありますが、著者は洋服が高価であったこと、コルセットなどもあって着心地が悪く健康にも悪かったこと、活動するに不便だったことなどが影響したと見ています。
ただし、活動するに不便なのは従来の和服も同じであり、ここから衣服改良の試みがなされていくことになります。
そうした中で女学生を中心に広がったのが、下田歌子が考案した袴姿です。袴姿は和服よりも動きやすく、また帯で締め付けないの健康的でもあります。こうして朝鮮袴などを参考にしながら、女子のはく袴というものが改良されていきました。
この他にもさまざまな改良服が提案されていますが、美的な面で支持を得られなかったこともあり普及はしませんでした。筒袖の採用も看護婦の制服など一部に限られています。
一方、着物に袴というスタイルは高女の学生の服装として定着していきます。袴は高女だけではなく小学校などにも広がり、さらに電話交換手など働く女性の間でも袴姿が一般的になっていきます。
ただし、袴スタイルは学生のうちに限られ、家庭に入れば和服になるというのが一般的でした。服装改良は一部に留まったのです。
日露戦争後になると、学生服以外にも鉄道関係の職員や銀行の小間使いなど、都市部では学生のような制服を着る者が増えてきます。
第一次世界大戦後の大正8(1919)年になると服装改善運動が盛り上がります。この背景には戦中に欧州で女性の職場進出が進んだことなどがあると考えられます。
また、文部省が生活改善運動に関与し、その一環として児童服や婦人服の改良も試みられました。
山脇高等女学校の創始者の山脇房子は大正8年に洋式制服を取り入れ、大正12年には全生徒が洋式の制服を着用するようになりました。和服に比べて経済的だったというのも着用が進んだ理由でした。
ただし、山脇の制服や改良服に対しては、その機能性を評価しつつも美的な面からするとどうか、という声が上がりました。
この美的な面というのは婦人向けの洋服の普及のネックになります。子どもや学生対象の洋服は普及するのですが、大人の女性が着るには物足りないものと考えられたのです。
女学生や子ども向けの服としてはセーラー服も普及し始めます。愛知の金城女学校では大正9年から洋服の着用を推奨しますが、そこで生徒の間に広がったのがセーラー服でした。翌年になるとフェリス女学院や福岡女学校がセーラー服を採用し、女子の制服としてセーラー服が広がります。
女学校では下級生のセーラー服を上級生が洋裁の授業で縫製する伝統も生まれ、経済的な負担も軽減されていたと言います。
このように大正期には子どもや女学生の洋装化はかなり進みますが、大人、特に既婚者において和服の優位はゆるぎませんでした。大正12(1923)年の関東大震災をきっかけに洋装が進んだとも言われますが、著者はこれを俗説として退けています。
震災から逃げる中で帯が解けて貴重品を落としてしまった、足を開くと裾が開いてしまうので貨車などによじ登ることができなかったことなどがあったと指摘されていますが、こうした言説は本書の152〜153pで指摘されているように、震災後数年経ってから、改めて洋装化を進めるために持ち出されています。つまり、関東大震災で人々の意識がすぐに大きく変わったというわけではないのです。
また、著者は昭和7(1932)年の白木屋百貨店の火災が洋装(下着を履くこと)を進めたという話とも矛盾があるといいます。関東大震災をきっかけに洋装が進んでいれば、白木屋百貨店の火災において和服の裾を気にして多くの女性が命綱から落ちてしまったということは成り立たないからです。
また、白木屋の火災をきっかけに下着を履くことが進んだという話も、多少は影響があった程度の話が確固たる「きっかけ」として語られるようになってしまっている状況だと言います。
大正後期〜昭和初期に登場したのがモダンガールとモダンボーイ、いわゆるモガとモボです。
モダンガールは耳下2、3センチくらいま髪を切る、顔には引き眉毛を書き、口紅を塗り、服装はもちろんワンピースなどの洋装でした。彼女たちの洋服姿は目立つものだったために、この時期に洋装が広がったという印象も受けます。
しかし、モガは基本的には「不良」とみなされたために、モガの存在は女学校の生徒が卒業後に洋服を着ることを逆に妨げる要因ともなりました。淡谷のり子はモガの代表的存在とされていますが、「モガというのは、不良性を帯びていると思われていたんです。札つき女ですね」(163p)と述べていますし、高い洋服を買い揃えるにはパトロンが必要でした。
一方、職業婦人向けの洋服も売り出されますが、いずれも制服っぽいのが特徴で、著者も「洋服というより洋式の制服といった方がよいくらいである」(166p)と書いています。
一方、この頃になると洋裁学校が生まれ始めます。
杉野芳子のドレスメーカー女学院は大正15年に始まり、徐々に生徒を増やしていきました。ただ、生徒は洋服を仕立てても学校には来てこなかったといいます。モガと誤解されることが怖かったのです。それでも昭和4年の卒業式の写真では全員ドレスを着ています(169p図27参照)。
文化服装学院も人気を集めた洋裁学校で、大正11年の文化裁縫学院に始まり、昭和11年に文化服装学院と改称しました。昭和11年に出版された服飾研究雑誌の『装苑』は昭和13か14年ころには1万5000部へと部数を伸ばしています。
また、この時期はシンガー・ミシンが普及した時代でもありましたが、文化服装学院の開設者の1人がシンガー・ミシン株式会社調査員だった遠藤政次郎です。
婦人之友社の調査によると、昭和12年5月1日の午後3時から4時まで、全国の都市で服装を調査したところ、婦人の洋服着用率は平均26%だったそうです。
この数字を見ると、ずいぶん洋服の普及が進んだようにも見えますが、著者はその内訳を見るべきだといいます。東京だと着用率25%のうち、女学生が48.6%、娘が27.5%、職業婦人17.9%に対して、若い主婦が4.4%、中年の主婦が1.6%であり(186p)、やはり洋服は若い世代中心のものなのです。
この背景には美的な問題以外にも、和服のほうが寒暖に対処しやすい、家が和室であるといった要因もありました。
昭和12(1937)年に日中戦争が勃発すると戦時ムードが強まります。国民精神総動員運動も始まり、大日本国防婦人会が活動を活発化させましたが、彼女らのスタイルは着物に割烹着というものでした。これは価格の差がわかる生地を隠す意味もあったといいます。
一方、百貨店では軍国調の服はあまり売れずに、華やかな洋服が売れるようになっていたといいます(もっとも全体としては和服が強かった)。
こうした状況に対して昭和15(1940)年のいわゆる七・七禁令で服の上限価格が指定されます。同年には国民服もつくられましたが、着用率は15%程度にとどまりました。
婦人標準服も模索されましたが、「日本的に」と考えると和服に近づき、「活動的に」と考えると洋服になってしまい、なかなかまとまらず、普及もしませんでした。しかも、戦争が長引くにつて、そもそも婦人標準服をつくる余裕もなくなっていきます。
女性の間では戦時中でもファッションへのこだわりが見られましたが、学生の服装はより軍国調に染まっていくようになります。男子はゲートルを巻くようになり、女学生はセーラー服にモンペという姿になっていきました。
モンペは大人の女性にも普及していきますが、「モンペ→ズボン→女らしくない」という男性からの批判も出ます。ただし、戦局の悪化とともにそういった事も言っていられなくなりました。
戦争が終わった昭和20年代後半に洋裁ブームが起こります。
戦時中、女性たちは工場や学校で軍服の縫製を行っており、また、自分たちの着る服の縫製も行っていました。こういった女性たちが時代の転換の中で洋裁の技術を身に着けたいと考えたのです。ドレスメーカー女学院では昭和21(1946)年1月に学校再開を決めたところ、1000人以上の志願者が集まったといいます。
さらにこの流れはアメリカからの洋服生地の流入、ナイロンやポリエステルなどの合成繊維の登場によって加速し、地方でも夏服を中心に洋服が普及しました。
合成繊維の登場は機能的でファッション性にも優れた下着を生み、さらに靴の普及が洋装化を後押ししました。
そして、ミニスカートやジーンズなどが流行し、若い世代は成人式や結婚式など、特別なときにしか和服を着なくなります。
『サザエさん』のフネのように日常的に和服を着る世代も残りましたが、世代交代とともに日常生活で和服を着る人は減っていきます。
昭和28(1953)年、和服の売上1632億円に対し、婦人服・子供服は139億円でしたが、昭和39(1964)年には和服5276億円に対し婦人服・子供服は1866億円、昭和51(1976)年には和服2兆477億円に対し婦人服・子供服は2兆2013億円と、ついに逆転し、昭和63(1988)年になると和服2兆4990億円に対し婦人服・子供服5兆2030億円と大きな差がつきました(278p表4参照)。
このように本書は、日本の洋装化の歴史をたどりつつ、その要因を関東大震災などの特定の出来事に求めるのではなく、世代交代を中心とした進展として描いているところに特徴があります。
若い頃に着ていたものをその後も着続けるというのは納得のいくもので、例えば、自分もクールビズ以前に社会人になったために今でも当たり前のようにネクタイをしていますが、下の世代になるとネクタイは特別なときにするものという認識になっているかもしれません。
また、本書にたびたびでてくる「日本らしさ」「女性らしさ」の和服と「活動的」「機能的」な洋服という対比も、明治以来の日本のジレンマの1つを象徴しているようで興味深いです。
- 2023年01月31日21:55
- yamasitayu
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「自傷的自己愛」とはちょっとわかりにくい言葉かもしれません。「自傷」とは自らを傷つけることであり、自分を愛することが「自己愛」だとすると、この2つの言葉は両立しないようにも思えるからです。
一方、帯には「自分をディスり続ける人たち」との語句がありますが、これはわかりやすいかもしれません。近年の通り魔的な犯行を行った若い人々の多くに「自分は何をやってもダメ」という強い確信のようなものがうかがえます。また、本書では『進撃の巨人』の作者の諫山創氏がとり上げられていますが、成功しているにもかかわらず「自分の自信のなさ」について語り続ける人もいます。
この自己への批判の根源に一種の「自己愛」があるというのが本書の主張になります。
この「自己愛」とは精神医学の中ではあまり良いイメージのない言葉ですが、著者は「自己愛は生きていく上で必要不可欠な要素であり、健康さの証とすら言えます」(40p)と述べています。
この「自己愛」がこじれたものが「自傷的自己愛」であり、これが今の時代の1つの病の形であるというのです。
目次は以下の通り。
はじめに第一章 「自己愛」は悪いものか第二章 自分探しから「いいね」探しへ第三章 過去からの呪いを解く第四章 健全な自己愛を育むために
「はじめに」にもありますが、自己否定を繰り返す人間への難しさは、「そんなことはない」と言えば、自分がいかに駄目かを繰り返し主張し、かと言って「そうだね」とも言えないところにあります。
一方、「自己愛」というのも一般的に問題含みのものと見られており、トランプ大統領は「自己愛性パーソナリティ障害ではないか?」とも言われました。自己中心的な言動を繰り返して我が身を省みず、少しでも批判されれば相手を罵倒して、問題の責任を他人に押し付けるようなあり方が、自己愛的だと言われたのです。
最初にも述べたように自己否定と自己愛は対象的にも思えます。
フロイトはナルシシズムを、他者がまだ存在していない段階の自己への愛である「一次的ナルシシズム」と、他者を認識したあとにその対象に幻滅して自分に向かう「二次的ナルシシズム」があるとしました。
著者が言う「自己愛」とは「病的ではない二次的ナルシシズム」(50p)になります。
ラカンは、一見すると自己愛が関係ないところにも自己愛を見出し、これが著者の「「自分が大嫌い」と言う人ほど自己愛的である」(56p)という逆説につながっていますが、ラカンやラカン派の人々は自己愛には否定的でした。
精神分析家の中で自己愛を肯定的にとり上げて注目したのがコフートです。
発達途上の人間には「向上心(野心)」と「理想」の2つの極があるといいます。「なんでもできる」という「野心」は母親からの無条件の承認によって育まれます。一方、「理想」の極には理想化された親のイマーゴ(イメージ)があるといいます。
コフートは発達において重要なのは「適度な欲求不満」だとしました。これによって親のイメージも現実的なものになっていき、子どもの成長を促します。
コフートによれば、「自己愛の発達にもっとも望ましい条件は、青年期や成人期を通じて自己を支持してくれる対象が持続することです」(67p)。この対象とは何でも受け入れてくれる存在ではなく、ときには批判されることもあるが相対的に受け入れてくれるような存在です。なお、この対象は1人に限るわけではなく、複数いたほうが健全だと言えます。
著者のいう「自傷的自己愛」において「自己愛」はしっかりとあります。ひきこもりの人が「死にたい」と言いつつ、それほど自殺するケースが多くないのは彼らの自己愛が〈健康〉だからです。
彼らは「プライドは高いが自信はない」といったもので、この「高いプライドと低い自信」のギャップが彼らの問題になります。「あるべき自分のイメージの要求水準が高すぎて、現実の自分を否定するしかなくなってしまう」(71p)のです。
自己否定は、どんなに貶めても誰も傷つかず、誰からも文句を言われないために奇妙な快感さえあります。自傷にもこのような性格があると考えられます。
この自己否定は承認を求めるアピールでもあり、意図せざる援助希求行動とも言えます。
また、自己否定は自己コントロールという側面も持ちます。自分が駄目な人間化は自分が一番良く知っており、自身を評価する権利は誰にも渡さないというわけです。
しかも、この無力感は訂正が困難であるという点でも厄介です。「つまり自傷的自己愛は、徹底して閉じているという点で、もっとも完結した自己愛と考えることもでき」(74p)るのです。
こうした自傷的自己愛を持ってしまうと、自分のようなダメな人間に突き合わせて申し訳ないという形で親しい人と距離を取るようになる一方で、家族を批判することもありますが、家族を自分自身の一部のように感じているので、家族への攻撃が自傷行為的なニュアンスを帯びてしまうこともあります。
第2章の冒頭で述べられていますが、この「自分が嫌い」と「自己嫌悪」には違いがあります。「自己嫌悪」は何らかの失敗をして一時的に自分が嫌いになる感覚ですが、今の若い人の「自分が嫌い」は常に自分という存在が許せない感じです。
精神的な病や障害には時代ごとの大きな流れがあり、著者はこれを86pで以下のように整理しています。
1960年代 「神経症の時代」70〜80年代中期 「統合失調症の時代」80年代後期〜90年代前期 「境界例の時代」90年代後期〜2000年代中期 「解離の時代」2000年代後期〜現在 「発達障害の時代」
これはあくまでも時代を象徴するものであり、「90年代になったら統合失調症がなくなった」というようなものではありません。
60年代は物質的な充足によって理想的な自己が実現すると考えられていました。この時代に代表的な病が内省的な自己意識と欲望の不合理さに苦しめられる「神経症」です。
70年代になると物質的なものは満たされるようになり、内面の充足が重視されるようになります。こうした中で、やや誤解をはらみながら浅田彰の「スキゾとパラノ」といった言葉とともに注目されたのが「統合失調症(精神分裂病)」です。
80年代後半になると、内面の充足は「自分探し」へとシフトし、「心理学」がブームとなります。こうした中で、「白か黒か」で物事を考え、自分の感情を相手に投影する「境界例」と呼ばれる症状が目立つようになります。
90年代後半からは「解離」が目立つようになりますが、これはトラウマやストレスから身を守るために自分の心を一時的な麻痺させるような形態です。この解離を代表するのが「多重人格」(「解離性同一性障害」)です。
このような中で若者の持つ望ましい自己イメージは「本当の自分自身」から「他者から承認される自分」へとシフトしていきます。著者に言わせると、この時代のキーワードは「承認」「コミュ力」「キャラ」です。「コミュ力」によって各人は「キャラ」化されて、そうした中で他者からの「承認」を得ていくわけです。
さまざまな行動の源泉が「承認」になるため、ある意味で打たれ弱くなります。行動の否定が承認の否定、つまり人格の否定につながるからです。
しかも人格は「キャラ」でもあるので、成長は想定されていません。引きこもりの若者には強い「変化への不信」があるといいます。
さらにSNSの流行などによって、承認は自己承認や親しい特定の人からのものではなく、不特定多数からの「集合的承認」となりつつあります。
「集合的承認」は流動的で双方向性を欠いており、コントロールが難しいため、たとえ現在承認が得られていたとしても、その地位は不安定です。
そのためか、承認も「本当の自分」に対してのものというよりも「キャラとしての承認」が求められているような形になっています。ただし、この「キャラ」は「自発的に「演ずる」よりも、子どもたちのコミュニケーション空間の中で「自認させられ」「演じさせられる」もののよう」(119p)だといいます。
お互いのキャラが定まれば、コミュニケーションが円滑に進み、空間において「居場所」ができるというわけです。
こうした中で現代の若者の校風の条件は「コミュニケーション」と「(仲間からの)承認」になっており、これが一部の若者を苦しめています。「「コミュニケーションと承認」は、ある種の若者たちにとっては、いつでも無料で容易く手に入れられるリソースであると同時に、いわゆる「コミュ障」の若者にとっては、どれほどコストをかけても手に入らない対象でも」(125p)あるからです。
近年、顕著に増えている(語られている)のが「発達障害」です。成功している人も実は「発達障害」を抱えていたといったナラティブは定番となっています。
このように才能に恵まれたイメージが広がったことで「発達障害」への承認は得られやすくなり、病気語りが「承認」を集める有効なコンテンツとして機能するようになりました。
著者は「発達障害」の誤診率は極めて高いと見ています。なぜなら先天的な脳の機能障害のはずなのに治ってしまうからです。
高いコミュ力が要求される中で、ちょっと空気が読めないだけで、「あの人はアスペ」となってしまうような状況があり、言われた方も「だから俺は何をしてもダメだ」という形で安定してしまうような状況があります。
では、自傷的自己愛はどのような要因で起こるのでしょうか?
自傷的自己愛の特徴は一時期話題になった「アダルトチルドレン(AC)」と似たところがありますが、ACには「「機能不全家族に起因する」という原因論がしっかりと組み込まれています。
一方、自傷的自己愛について著者は、必ずしも家族関係が原因とは限らず、いじめなどが原因でも起こると考えています。また、特徴としてもACの「嘘をつく」、「過度の事績」が自傷的自己愛には当てはまらないと見ています。
ただ、要因について、男性と女性を比べると、女性の自傷的自己愛は家族に起因するものが多いという印象を著者は持っています。
これは、「母−娘関係」が、「父−息子関係」よりも複雑で断ち切り難いからだといいます。「父−息子関係」を乗り越えるためには「父殺し」をすればいいわけで、例えば、社会的な成功で父を上回るなどなどのやり方が存在します。一方、「母殺し」は困難だというのが著者の見方です(このあたりは以前書いた著者の『母は娘の人生を支配する』のレビューをご覧ください)。
女性の中には、子どもの頃からずっと母親の愚痴のはけ口となってきた人も多く(息子がそうなるケースは稀)、子どもへの「否定」と「愚痴」がセットになると、娘は自尊感情は低いが、母親に対しては「ケアしなくればならない」という想いを抱くようになり、母から離れがたくなります。
こうして、母と娘の「同一化」が進むのですが、「「同一化」とは、簡単に言えば母親が娘に「自分の人生の生き直し」を求めること」(165p)だといいます。こうなると、ますます母親を否定することは難しくなります。
そして、この背景には父親が夫婦関係のメンテナンスを怠り、それが母子密着をもたらしている場合もあります。
では、健全な自己愛を育てるにはどうしたらいいのでしょうか?
近年、よく聞く言葉が「自己肯定感」ですが、著者は性急に自己肯定感を求めることは健全な自己愛を成熟させる妨げになる場合もあると考えています。
例えば、カルトは参加することで自己肯定感が大いに高められるかもしれませんが、同時にさまざまな不幸を生み出しています。
また、仕事などの成功によって自己愛を獲得するという方法も考えられますが、著者は、1高すぎる目標が行動を阻む、2成功しても意外と自身の糧にならない、3この発想自体が優生思想的である、という点から否定的です。
3については、「何もしてこなかった自分には価値がない」という自己否定が、自己愛を萎縮させ、「価値のない人間がいる」という優生思想的な発想に繋がりやすくなるという点を著者は危惧しています。
自己愛で苦しむのならば我執を捨てればよいという仏教的な考えもあります。ただし、これは一部の人にしか出来ないだろうというのが著者の見方です(これに近い人物として坂口恭平氏があげられている)。
自己愛が捨てられないとしたら、健康的な自己愛とはどのようなものなのでしょうか?
コフートは精神分析による治癒を「成熟した成人レベルでの自己と自己対象の共感的調和を確立すること」(201p)とし、中井久夫は健康な精神のあり方を「自分が世界の中心であると同時に世界の一部に過ぎない」(202p)と表現しました。
もう少し噛み砕いた表現として、著者は「他者に配慮しつつ、自分の言いたいことはしっかりと言う」(203p)というあり方を紹介しています。
そして、安心できる環境の中でこのような対話を繰り返すことが自傷的自己愛の修復にきっかけになると考えています。
著者は、「自傷性」をやわらげるために以下のような行動を推奨しています。
1尊厳を傷つけられない環境に身を置く
2家族以外に「親密な対人関係」を持つ
3損得で考える
これは自傷性自己愛者は自責感が強いために、しばしば自分が損をするような行動をあえてしていしまうが、そうならないように損得を考えて行動すべきだということです。
4「好きなこと」をする
好きなことが見つからないならば、散歩などの「すごく嫌ではないこと」をしてみるといいそうです。
5身体のケア
例えば、歯医者に通ったり、メガネを新調したりとかでもいいとのことです。
そして、最後にあげているのが近年著者が力を入れて紹介している「オープンダイアローグ(OD)」です。ODはもともとはフィンランドで生まれた統合失調症のケアの手法ですが、著者は自傷的自己愛の修復にも役立つと考えています。
ODでは「対話を続けること」を目的に対話が行われます。上下関係はなしで、専門家が参加する場合でも専門家として振る舞ってはダメで、アドバイスは禁物です。
対話は1対1ではなく2名のファシリテーターを含む多数で行われます。本人に向かってのアドバイスは行われず、ときに「本人を前にした噂話」のようになりますが、モノローグ的な観念をやわらげる効果があるとのことです。
このように本書は「自傷的自己愛」という現象の特徴を描き出しながら、その背景や、それをやわらげる方法まで一通り述べてくれています。
今までの著者が書いてきたことと被っている面もあり、時代を切り取る鋭さのようなものは以前の著作に比べて後退しているかもしれませんが、そのぶん、こうした問題に苦しんでいる人に対する処方箋となるような形で書かれており、対象となっているひとにとっては有益な本になっているのないでしょうか。
- 2023年01月25日22:40
- yamasitayu
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新型コロナウイルスの流行によって一時的に流れが止まったものの、日本で暮らす外国人は長期的に増え続けています。また、日本の少子高齢化を考えると外国人労働者の受け入れが必要だという訴えもあります。
そうした状況に対し、本書は日本が「移民国家」になることを必然と捉えた上で、現在の問題と対処すべき課題を検討した本になります。
特徴としては、外国人労働者以外にも、在日コリアン、国際結婚や移民の二世、難民といった幅広い移民についてとり上げている点です。また、在日コリアンについてとり上げていることからもわかるように、現在の問題だけではなく、近代以降の問題を幅広く取り扱っているのも特徴です。
欧州の移民政策をそんなに素直に持ち上げていいのかという感想や、その他少し引っかかる部分もあるのですが、問題を概観する上で役に立つ本だと思います。
目次は以下の通り。
第1章 「移民国家」日本へ――なぜ、いかにして、を考える第2章 外国人労働者の受け入れと日本第3章 外国人労働者の就労の現在第4章 定住、外国人労働者から移民へ第5章 差別、反差別、移民支援第6章 多文化共生の社会への条件
1990年代以降、国境を超えた大きな人の移動が起きています。要因としては先進国と途上国の経済格差が思い浮かびますが、それだけではなく、先進国の少子高齢化という構造的な要因もありますし、また、難民の発生もあります。
日本でも移民問題が浮上したのは1990年代辺りからという印象がありますが、歴史を紐解けば、日本はむしろ移民の「送り出し国」でした。
1868年に初めてハワイに約150人の移民が送り出されたあと、1973年に最後の移民船とよばれた「にっぽん丸」がブラジルをはじめたとした南米に出航するまで、多くの日本人が移民として海を渡りました。
また、移民の受け入れに関しても戦前に植民地支配を行っていた朝鮮半島や台湾からの「移民」を忘れてはいけません。
特に特に朝鮮半島からは多くの人々が日本にやって来ることになります。彼らは「日本人」ではありましたが、1952年4月のサンフランシスコ平和条約の発効とともに、日本政府の一存で日本国籍を失うことになります。
コリアンは就職などにおいて差別され、飲食業や遊戯娯楽業などで生計を立てる者が多くなりました。
また、1980年代には「ボート・ピープル」と呼ばれたインドシナ難民を受け入れいました。遅ればせながら難民条約も批准し、1982年に出入国管理令が出入国管理及び難民認定法に生まれ変わっています。
第2章では外国人労働者の問題がとり上げられていますが、日本の特徴はなし崩し的に外国人労働者が増えてきた点です。
バブル期から不法就労者が増えはじめます。日本人が肉体労働やマニュアル労働を敬遠するようになったからでもあります(ただ、「製造業、建設業、林業、水産業などのマニュアル・ジョブに就く者が減る」(40p)との記述があるけど、林業や水産業はマニュアル・ジョブなのか?)。また、円高も外国人労働者を引きつけました。
これに対して政府は1989年に入管法を改正し、外国人が滞在できる資格を拡大しつつも単純労働者の受け入れは拒否する姿勢を見せます。
一方で、研修の受け入れを拡大し、1993年には外国人技能実習制度をスタートさせました。
さらに、日系人は日本で就労することが可能だったために、90年代になると日系ブラジル人を中心とした南米からの外国人の流入が起きます。
また、中国人も増えましたが、労働者とともに留学生が急増しました。彼らの中には学位をとって日本で就職した者も多くいます。
フィリピンからは「興行」(エンターテイナー)、「日本人の配偶者等」という形で女性が多く入ってきました。他にも日系フィリピン人が製造業の現場などに入っていくことになります。
ただし、日本政府は「移民」を正式に受け入れようとはしませんでした。二国間協定を結んで移民を受け入れたり、積極的な統合策をとったり、家族の呼び寄せを認めることはしませんでした。
そこで単純労働者の需要を満たすために「留学」「研修」「日系人」といったいわゆる「サイドドア」からの受け入れがなされました。
このため、外国人は基本的にいずれ帰る存在として認識され、公的な形での日本語教育などは十分には行われませんでした。
第3章では外国人労働者に焦点が当てられています。
厚生労働省が発表している「「外国人雇用状況」の届出状況」によると、2020年10月現在で日本国内で働いている外国人は172万4328人になります。2017年は128万人でしたから、大きく伸びています(なお、在日コリアンはこの制度の対象外)。
この報告によると、34%が製造業、建設業で働いており、日本人の約23%に比べて高い数字になっています。
この製造業、建設業で働く約60万人の外国人のうち、おおよそ半分の約29万5000人が技能実習生です。
専門的・技術的分野の外国人労働者も増えています。欧米から、IT技術者としてインドからやってくるような人もいますが、日本の大学を卒業して就職した者も多いです。
就労外国人の数が多い都道府県は、東京、愛知、大阪、神奈川、埼玉と大都市圏が中心ですが、技能実習生に関しては三大都市圏で働く者は22%にすぎません。青森、岩手、徳島、香川、愛媛、高知、熊本、宮崎、鹿児島では働いている外国人の6割以上が技能実習生で宮崎では7割を超えます。農林水産業や各地の地場産業を技能実習生が支えていることがうかがえます(79−80p)。
また、「資格外活動」という形で37万人強の外国人が働いています、中心は留学生で長期休暇以外は週28時間という上限がありますが、コンビニや飲食業などを支えています。
ただし、留学生のアルバイトにしろ、技能実習生にしろ、解雇された場合などは失業保険などもなく生活は一気に不安定になってしまいます。
政府の考える外国人労働者の受け入れはあくまでも一時的なものでしたが、実際には定住する人が増えています。
ブラジルからの日系人も「デカセギ」という形に来日する人も多かったですが、そのまま30年近く暮らしている人もいます。いざ日本で働き始めると物価が高いためになかなか貯金ができず、仕事のために中古車を買えばそのローンを返済しなければなりません。さらに日系人は家族の呼び寄せが可能だったために、しばらくすると子どもの進学などが問題になります。妻や子どもが日本社会とのつながりを持つようになると、ますます帰国しにくくなります。
今まで「永住者」といえば「特別永住者」である在日コリアンが中心でしたが、21世紀になると「一般永住者」が急速に増え、2007年を境に逆転しています(97p図5参照)。
また、長期の不法滞在(オーバーステイ)をする外国人も出て行きています。こうした外国人は基本的に強制退去になるのですが、子どもが日本で長年にわたって教育を受けているケースでは、帰国させると子どもに問題が生じます。そのため、子どもについては特別在留許可を出すケースがありますが、親については認められないケースが多いです。
ヨーロッパでは労働者の家族の呼び寄せを権利と考える国が多いですが(ただし、ドイツはトルコ人の家族の呼び寄せを認めていなかった)、日本では技能実習でも、特定技能1号でも家族の呼び寄せは認められていません。
また、入管行政では、「家族滞在」の「家族」は配偶者と子であり、親の呼び寄せは認められていません(中国から子守のために来ている親は「知人・親族訪問」という最長90日間のビザで来ているらしいとのこと)。
技能実習については家族の呼び寄せ禁止は当然に思えますが、研修期間は2年から現在は最長5年にまで伸びており、また必ずしも未婚の若者ばかりとは限りません。本書では11歳の娘を残してきている38歳の中国人女性なども紹介されています。
また、技能実習中に妊娠する可能性もありますが、発覚すると中途帰国を命じられることも多く、密かに出産して死体遺棄の罪に問われてしまったレー・ティ・トゥイ・リンさんのような悲劇を生んでいます。
日本にいる外国人のどれだけが日本に定住する意思を持っているかを確定させることは出来ませんが、「永住者」、「定住者」、「日本人の配偶者」の資格を持っている外国人は143万人いるといいます。さらに日本人と外国人の夫婦の子どもは二重国籍となり、法務省のカウントする「外国人」には入りません。ですから、外国にルーツを持つといった形で定義すれば「移民」はもっと増えることになります。
ただし、中国人については日本社会に適応しつつも、より良い条件で働ける機会や場所があるならば移動する意識を持った人も多いといいます。
第5章では外国人に対する差別の問題がとり上げられています。
日本のメンバーシップ的な雇用システムにおいて、外国人はなかなか正当な評価がされないことも多いですし、社会生活を送る上でもさまざまな制約を受けることが多いです。また、ヨーロッパ諸国では認められていることが多い地方参政権などについても認められていません。
外国人に対する偏見もあり、静岡県ではブラジル人が自宅を建てるために土地を購入したところ周囲の住民から反対運動を起こされた事例もありますし、近年では在日コリアンが「在日特権」なるものを持っているなどとして、これを排斥しようという運動も起こっています。
一方、オーバーステイのまま日本人男性と結婚して一時を設け、その後離婚して母子で暮らしてところ、制退去を命じられたことについて、周囲の住民が「支える会」を結成して支援し、裁判の結果、特別の在留許可が出たケースもあります。
2012年までは外国人登録事務を市町村が行っていたために自治体の判断で「在留資格」の欄を空欄のままで受け付ける運用もあったそうですが、現在では市町村の外国人登録事務が廃止されたためにこうした運用は難しくなっています。
日本が他の先進国に比べて目立って少ないのが難民の受け入れ数です。
理由として、海に囲まれた地理的な条件というものもありますが、日本が難民条約の諸規定を固守しており、その結果として難民の定義を狭いものにしているという点もあります。
特に日本では難民条約に書かれている「迫害」「迫害のおそれ」を狭く解釈しており、政治的な弾圧についても、逮捕状が出た、取り調べを受けたなどの具体的な事実がなければなかなか認定されません。
また、出身国により難民認定に大きな差があります。難民申請上位の国に、スリランカ、トルコ、カンボジアがありますが、これらの国の出身者が認定されるケースは稀です。
特にトルコはクルド系の人々から難民申請が出されていますが、認定数はゼロです(人道的理由で在留資格が認められることはある)。この背景には「友好国」であるトルコ政府への配慮があるとも言われています。
ただし、ここ最近やや状況が変わりつつあります。
ミャンマーのクーデタを受けて、在日ミャンマー人に就労可の半年または1年の滞在資格を与え、難民申請が不認定でも在留、就労を認める方針を打ち出しました。さらにアフガニスタンやウクライナからの避難民も受け入れており、これが日本の難民政策の転換になる可能性もあります。
第6章では改めて著者の考えが述べられていますが、日本は少子高齢化が進んでおり、特に医療・介護の分野での人手不足は深刻で、外国人を正面(フロントドア)から受け入れなければいけないだろうという立場です。
そのためにもしっかりと二国間協定を結んで受け入れ体制を整え、その上で「多文化共生社会」をつくっていき、ヘイトスピーチなどの外国人差別を失くしていこうというのが著者の考えになります。
外国人労働者の受け入れについて政府が積極的にコミットし、外国人にも公正な社会をつくるべきだという著者の主張は「正しい」と思いますが、同時に途上国から看護師を大々的に受け入れることが「正しい」ことなのか? とは思いました。
例えば、フィリピンから看護師を永住資格を与えるような形で受け入れた場合、日本社会にとっても看護師個人にとってもプラスですが、フィリピン社会にとってはマイナスになるのではないかと思うのです。
日本における「移民」の問題を概観するにはいい本ですし、外国人に対する不公正な待遇を失くし、難民の受け入れを進めていくべきだという主張には賛成しますが、外国人労働者の受け入れに関してはもう少し検討すべき論点もあるように思います。
- 2023年01月17日22:39
- yamasitayu
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『行動経済学の使い方』(岩波新書)、『競争社会の歩き方』(中公新書)などの新書を書いてきた著者による新作。今までのものと同じようにスタイルとしては「経済エッセイ」とも言うべきものになります。
注目すべきは著者が2020年に新型コロナウイルス感染症対策分科会委員になったことでしょう。本書では第1章は今までの本の復習といった内容になっていますが、第2章以降では新型コロナウイルスに対する感染対策、感染対策と経済活動の両立、リモートワークなど、コロナ関連のトピックが並びます。
新型コロナウイルス感染症対策分科会では、著者の意見が必ずしも取り入れられているわけではない状況ですが、本書を読むと著者がどのようなスタンスをとっているかもわかります。
できれば、ここ最近の行動経済学批判(再現性がないなど)に対しての応答も欲しかったですが、全体として読みやすくアクチュアルな内容になっています。
目次は以下の通り。
第1章 日常生活に効く行動経済学第2章 行動経済学で考える感染対策第3章 感染対策と経済活動の両立第4章 テレワークと生産性第5章 市場原理とミスマッチ第6章 人文・社会科学の意味
まず、第1章ですが、ここでは人間の持つさまざまなバイアスが紹介されています。
基本的には『行動経済学の使い方』の復習的な内容でもあるので、ここでの紹介は割愛します(どんなものがあるかに関しては『行動経済学の使い方』のレビューを参照してください)。
そして、このバイアスを「ナッジ」というちょっとした仕掛けによって矯正することで人々の意思決定を手助けしようというのが行動経済学の考え方です。
例えば、臓器提供の意思表示でも、デフォルトを「提供」にしておけば、提供者は大幅に増えます。こうした意思決定の誘導によって望ましい社会を実現しようというのです。
あと、第1章で面白いのは「迷ったら変化を選んだほうがいい」という研究で、私たちには現状維持バイアスがあるので、本当に五分五分で迷ったら変化を選んだほうがよいとのことです。実際に『ヤバい経済学』でも知られるスティーヴン・レヴィットは自身が運営するお悩み相談コーナーを使って、変化を選んだ人のほうが幸福度が高まっていることを検証したそうです。
第2章からはいよいよ新型コロナウイルス関連の問題が検討されています。
まず、新型コロナウイルスの感染拡大を予防するためには、マスクの着用や外出の自粛など人々の行動を変えることが必要になります。
人々の行動を変えるためには、例えばマスクを付けないものや不必要な外出を行う者に罰を与える、あるいは、マスクの着用や外出自粛に補助金を与えるという手法が考えられます。ただし、補助金の運用は難しいため、海外で採用されたのは罰則でした。
一方、日本ではマスクの着用や外出の自粛が呼びかけられたものの、いずれにも罰則は付きませんでした。
市民への情報提供を行うことで行動変容を促すということが基本で、「三密の回避」や「外出自粛のお願い」などが行われました。
このとき、「自分だけでなく周りの人の命も守ることができる」というメッセージが添えられていましたが、これは行動経済学的に見ても妥当だといいます。
まず、多くの人は利他的な心を持っており、利他的な心を持たない人も周囲の利他的な人の行動に影響されます。さらに自分だけは感染しないという自信過剰バイアスを持つ人の行動を帰る可能性もあるのです。
また、「感染対策をしなければ○しろまる万人死にます」というようなネガティブメッセージは、短期的には効果があるものの、中・長期的な効果はあまりないと考えられています。
2021年8月15日に時点で、人流は36%減で目標の50%には達していませんでした。このとき、「36%減にとどまった」という表現よりも「目標の7割が達成されているので、もう少し頑張りましょう」という表現を使ったほうがいいといいます。
同じように飲食店に対する休業要請を報道する際も、従っていない10%を取材しがちですが、こうした報道は要請に従っていない人を可視化させるためにかえって逆効果だといいます。
ネガティブな部分を報道することで、かえって「周りはそうなんだ」と思わせてしまうかもしれないのです。
ワクチン接種に関しても同じようにポジティブなメッセージが有効だといいます。
2021年に著者らが行った調査では、高齢者の接種意欲は高く、副反応が10%という実際よりも高い確率で生じると思っている高齢者でも70%は接種意欲があり、感染状況や接種の進捗状況の情報を与えられていないケースだと平均で2026円払ってでも接種を受けたいと考えていたそうです。
これに対して新規感染者が減少傾向で同世代の接種が進んでいない状況では、接種意欲は70%台で変わらないものの、支払意思の金額はマイナス390年まで大きく下がります。一方、新規感染者が増加傾向で同世代の接種が進んでいる状況では接種意欲は80%台になり、支払意思の金額は4002円まで上昇します。
本書の記述では、感染状況と接種状況のどちらがより大きな要因なのかはわかりませんが、ここでも同世代の接種が進んでいることを伝えることが接種を後押しすると言えます。
この「周囲の人に合わせる」というスタンスはマスクの着用でも見られます。2022年の5月に厚労省は周りの人との距離を確保できるときにはマスクの着用は必要ないとの見解を示しましたが、少なくともその後4ヶ月は屋外でのマスク着用率は下がりませんでした。
自分では必要ないと思っていても、周囲が着用しているので着用していたという人も多かったと考えられます。
周囲の考えについては「思い込み」という面もあります。例えば、サウジアラビアの調査では「女性は家庭の外で働くことを許可されるべきだ」と考えている男性が87%いましたが、周囲の人でどのくらいの人が賛成しているかを聞くとその回答の平均は63%でした。
ここで男性に正しい情報を与えると、実験参加者の妻が採用面接を受けた比率は高まったといいます。
ワクチンの接種がある程度行き渡ると、それ以降は経済活動と感染対策の両立が課題となります。これについて書かれているのが第3章です。
新型コロナウイルスとある程度共存せざるを得ないということが明らかになったこともあり、さまざまなシミュレーションが行われましたが、感染状況などを見て人々がどのように行動するかを予測するというのは難しいものです。
著者は、こうした中で、1「医療提供体制をそのまま維持して、緊急事態宣言の発出を繰り返す(あるいは自発的な行動抑制)」、2「医療提供体制を拡充して、緊急事態宣言の発出を不要にする」という選択肢があった場合、2が望ましいと考えています(93p)。
ただし、日本では感染防止が重視され、なかなか経済活動が活発にならない状況がありました。
著者は2022年1月以降、新型コロナ対策に関わる委員として、オミクロン株の重症化率が低いこと、まん延防止等重点措置の効果が低いことなどを理由に、まん延防止等重点措置の延長に反対しました。
また、ワクチン接種とともに、医療提供体制の拡充、保健所による濃厚接触者の調査、全数把握作業を中止し、重症化リスクの高い人への対応に集中すべきだと主張しました。
ただし、当時を振り返ると著者の意見が採用されたとは言えません。
感染症の専門家からは、重症化リスクは感染の波が収まらないと計測できないといった意見もあり、オミクロン株だから対応を緩めるといった考えは賛同を得られませんでした。
さらに、強めの感染対策を国民が支持していたことも大きいです。著者はその背景として、新規感染者数や死者数といったデータがすぐに分かるのに対して、経済への影響、子供の自殺の増加、婚姻数の現象などは一定程度の期間がたって初めて出てくるデータであり、目立ちやすいデータに政治的決定が左右されてしまったからではないかと考えています(個人的には日本の医療制度のもとで著者の言う「医療提供体制の拡充」が非常に難しいという問題もあると思う)。
第4章ではテレワークなどの働き方が分析されています。
コロナ禍において広まったテレワークですが、通勤が不要になることによる生産性の向上や仕事と家事・育児の両立がしやすくなるといったプラスの面が期待できます。一方で、セキュリティなどに費用を掛ける必要がある、優秀な同僚に刺激されることで生産性が向上するピア効果が期待できない、同僚との協力が難しい、上司によるコントロールが難しい、自宅の環境がテレワークに向いていないといったマイナスの面も考えられます。
では、実際にはどうなのかというと、中国の大手旅行代理店で行われたテレワークとそうでない者をランダムに振り分けた実験では、テレワークが生産性を13%向上させたと報告されています。このうち9%は休憩時間の減少と病気休暇の減少からなる労働時間の増加によって発生しています。
しかし、ポルトガルで行われた調査では、テレワークは平均して2%ほど生産性を引き下げました。主に従業員が少なく、労働者の技能レベルが低い企業で生産性が低下しており、仕事の内容や労働者のレベルなどによってテレワークはプラスにもマイナスにもなるようです。
また、一緒に働くことで生じるとされるピア効果も単純にノウハウを教えればそれで代わりになるというものでもないようです。
アメリカのスーパーマーケットで行われた研究では、視界に入る自分の前に優秀な人が来たときではなく、自分の後ろに優秀な人が来たときに生産性が向上することが確認されました。これは前の人の仕事ぶりを見て学んでいるのではなく、後ろからの無言の同調圧力が生産性を向上させているからだと考えられます。
オンライン会議も普及しましたが、これにもやはり向き不向きがあるようです。
出社や出張のための時間を節約できるというのは大きなメリットですが、ブレインストーミングのような自由なアイディアを出し合う会議には向いていないとのことです。
Brucks and Levav(2022)によると、学生にフリスビーの創造的な使い方を考えさせる実験では、対面のほうがより多くのアイディアが生まれました、ただし、そのアイディアを選ぶ段階ではオンラインが良い成績を収めたそうです。
オンラインだと画面に集中し、部屋に置かれた他のものに気づきにくいですが、対面だと部屋全体に注意が払われ、その結果、さまざまなアイディアが出たものと考えられます。一方で、集中力は高まっているので何かを選ぶときにはオンラインは有効です。
第5章ではマスクの話こそ出てくるものの、大部分はコロナから離れたものになっています。
2020年2月〜4月頃にかけて、マスクとトイレットペーパーが店頭から消えてしまうという事態が起こりました。ただし、その原因は違うといいます。
マスク不足の原因は需要超過です。マスクを求める人が増えたのに店頭価格が上がらなかったために、需要超過の状態が続き、品不足となりました。ただし、ネットでは高値で転売されたように、匿名の場では価格は高騰しました。著者は店頭価格が適切な形で上がることが必要だったとかんげています(低所得者には給付金などで対応)。
一方、トイレットペーパーの品不足は予言の自己成就というものです。誰かがトイレットペーパーが品不足になると考えて買いだめを始めたら、品不足にならないと考えている人も買ったほうが合理的という形になってしまうのです。この場合は在庫がたくさんあることなどを伝えることが必要になります。
本章ではアダム・スミスの『国富論』の議論が紹介されています。スミスの考えは高校の政治経済などでも教えられているので多くの人が耳にしたことがあると思いますが、著者はスミスの主張が一般的に流布しているものとは違うことを指摘しています。
例えば、スミスは「安価な政府」を主張し、市場に任せておけばうまくいくと説いたとされていますが、実際には企業は常に独占や談合をしようとするためにそれを監視することが必要だと述べています。
また、労働市場についても雇い主が結託して賃金を抑制してしまうことの危険性も指摘しています。
有名な「見えざる手」についても、実は国内で生産できる商品の輸入規制を論じた部分で登場しています。貿易が自由化されると、みなが海外で投資するようになるのではないかという意見に対して、海外への投資には取引コストがあるので国内への投資が増えるはずだということを主張する文脈の中で出てきているのです。
また、スミスは個人の能力にはもともとそれほど違いはなく、分業やインセンティブの結果としてそれが現れると考えています。
この章では、最低賃金引き上げについての経済学の議論も紹介しています。最低賃金引き上げについては、一般的な状況では雇用を減らす傾向だが、労働市場で買い手独占が成立している場合はその限りではなく、特に地方で競争相手が少ないと買い手独占が成立してしまう可能性があります。
第6章では、「役に立たない」との批判にさらされる人文学や社会科学の意義が検討されています。
もちろん、人文学や社会科学は人生においてさまざまに「役に立つ」と考えられますが、税金を投入するからには、その「外部性」も主張する必要があると著者は考えています。
著者の考える「外部性」は、個人がよりよい選択ができるようになることで社会全体の意思決定がよりよくなること、個人のよりよい選択が犯罪などを減らし、社会保障にかかる費用を削減するというものです。
また、著者は反事実的思考力(実際には起こっていないケースを考えること)の重要性も指摘し、そういった能力は本を読むことによって培われると書いています。
このように、本書は新型コロナウイルスへの対策を中心にさまざまな興味深いトピックを扱っています。
欲を言えば、最初にも書いた最近の行動経済学批判への応答、そして、新型コロナウイルス対策において経済学者の意見がなかなか通りにくいことについてのもう少し突っ込んだ考察があるとさらに良かったですが(個人的に経済学者が新型コロナウイルスを「既知」のものとして捉えているのに対して、感染症の専門家は今後の変異を含めて「未知」のものとして捉える傾向があるんじゃないかと思う)、文章は読みやすいですし、1つ1つのトピックも簡潔にまとめてあるので、経済学の本を読み慣れていない人でも面白く読めると本だと思います。
- 2023年01月11日22:49
- yamasitayu
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2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻以降、テレビなどで引っ張りだこになり、2021年6月に出た『現代ロシアの軍事戦略』(ちくま新書)もベストセラーになった著者による待望の書。
今なお進行中の出来事を扱っており、なおかつ、かなりの突貫工事での出版だったと思いますが、さすがに侵攻前からこの問題をウォッチしてきただけあって内容は充実しています。
「ロシアとウクライナの対立はどのような経緯をたどっていたのか?」、「なぜ、プーチンは武力行使を決断したのか?」、「当初のロシアの狙いはどのようなものだったのか?」、「ウクライナが善戦できた要因は何か?」、「東部で主導権を取り返すかと思われたロシアが再び劣勢に追い込まれたのはなぜか?」、「これからどうなるのか?」など、誰もが疑問に思う問題について現在分かる範囲で著者が分析を示しています。
まだ本書の分析が正解なのかはわからない面がありますが、現在の世界において最重要とも思われる問題について、わかりやすい見取り図を与えてくれる本です。
目次は以下の通り。
第1章 2021年春の軍事的危機2021年1月〜5月第2章 開戦前夜2021年9月〜2022年2月21日第3章 「特別軍事作戦」2022年2月24日〜7月第4章 転機を迎える第二次ロシア・ウクライナ戦争2022年8月〜第5章 この戦争をどう理解するか
今回の戦争の兆候は2021年の春頃に現れていたといいます。ロシア軍が「演習」の名目で集結し、4月半ばにはロシア軍の主力部隊を含めた11万人以上がウクライナ周辺に集結していました。
さらにドンバス地域では親露派武装勢力による停戦協定違反の砲撃などが激増しており、これに対してウクライナ側も部隊を増強して緊張は高まりました。
しかし、このときは4月22日にショイグ国防相が部隊の増強は即応性をチェックするための「抜き打ち検査」であり、5月1日には撤退すると表明します。実際に部隊の撤退がある程度進んだことから国際社会の緊張は薄れました。
このときはアメリカでトランプからバイデンへと大統領が交代する中で、ロシアがアメリカの出方をうかがったという形で、5月にバイデン政権がロシアからドイツへ向けたパイプライン・ノルドストリーム2に対する制裁緩和を発表したこともあって、米ロ関係を含めて緊張緩和に向かうと予想されました。
一方、2021年1月にはロシアで野党指導者のナヴァリヌイの逮捕に対する抗議デモが広がっており、カラー革命の背後にアメリカを中心とする西側の存在があると考えていたプーチンにとって、この抗議デモもバイデン政権による揺さぶりと見た可能性はあります。
2019年に就任したウクライナのゼンレンシキー大統領は、当初ロシアと話し合いの姿勢を見せており、特にプーチンとの直接会談で事態を打開することを考えていました。
2019年の9月にプーチンとの間で電話による公式首脳会談が行われます。ところが、第2次ミンスク合意の履行方法をめぐってゼレンシキーはロシアに譲歩したとウクライナ国内から批判を受けます。
19年の12月にゼレンシキーはパリでプーチンとの会談のチャンスを得ますが、ここでも歩み寄りは進まず、直接会談で事態を打開する路線は行き詰まりました。
一方で、ウクライナ国内はプーチンの支援を受けた野党の党首メドヴェチューク(娘の名付け親がプーチン)が活動を活発化させていました。これに対して2021年になると、ゼレンシキーは親露派テレビ局を閉鎖するなど、メドヴェチュークの弾圧に乗り出しました。
2021年春のロシア軍による圧力はゼレンシキーの政策が上手くいっていないことをアピールするものだったとも考えられます。
このように2021年春のロシア軍の行動は「威圧」ととられましたが、9月に米国防総省がロシア軍がまだウクライナ国境に展開していることを明らかにし、さらに10月には米国の情報機関がロシアが本気でウクライナ侵攻を考えているとバイデンに伝えたといいます。
11月になると、ウクライナ国境付近に展開するロシア軍は10万人に迫り、モスクワやシベリアに駐屯していた部隊が集結していることも明らかになります。
12月にはブリンケン国務長官がロシアがウクライナに侵攻すれば「インパクトの大きな」経済制裁に直面するだろうと述べるなど、ロシアを牽制する発言も出てきます。
ここからアメリカはロシア軍の動きを次々と暴露することでロシアの意図をくじこうとする戦略を取ることになり、一方でロシアはドイツやフランスに外交的にはたらきかけますが、このときのロシアの要求が「旧ソ連をロシアの勢力園だと認める」ようなものであり、受け入れられることはありませんでした。
2021年7月にプーチンは、「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」という論文を発表します。
これはロシア・ウクライナ・ベラルーシは民族的に共通しており、ウクライナ人とロシア人が別民族というのはポーランドの影響で作られたフィクションにすぎないという内容でした。その上でプーチンは、現在のウクライナの混乱は西側のせいであり、ウクライナの発展はロシアとのパートナーシップのもとでのみ可能になると主張したのです。
2022年の2月になると集結したロシア軍は15万人ほどになり、侵攻に必要な兵力がほぼ揃います。衛星写真に大型の野戦病院が確認されるなど、ロシア軍が実戦の準備をしていることが明らかになります。
このとき著者は迷っていたといいます。「軍事屋」としてはロシアが戦争を始める可能性が高いと思いながら、「ロシア屋」として、プーチンの狙いがつかめず、そもそもウクライナをどうしたいのかがわからなかったといいます。
2月20日、著者はテレビ番組で「今回の事態の落とし所は、ロシアが軍事的圧力によって第二次ミンスク合意をウクライナに呑ませるということになると思います」(93p)と発言しましたが、翌日にプーチンが「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」を承認したことで、これは間違いだとわかります。
2022年2月24日、いよいよ戦争が始まります。
この日のビデオ演説でプーチンはウクライナの「非軍事化」と「非ナチ化」を持ち出し、狙いがゼレンシキーの退陣であることを示しました(ゼレンシキーはユダヤ人ですが、ロシアに言わせれば「ナチ」なので)。
作戦はアメリカの予想通り、北部、東部、南部に侵攻する全面的なものであり、さらにキーウ近郊のアントノウ空港に空挺部隊を送り込む作戦も行われました。
これは空港を占拠した上で、そこに後続部隊を送り込んで一気にキーウの占領を狙うもので、ロシアの狙いが電撃的にゼレンシキーの排除を狙う「斬首作戦」だったことがわかります。
ロシアはウクライナにいくつかの「民間警備会社」を設立しており、ロシアの協力者のネットワークはウクライナの諜報機関のSBU内部にも及んでいたといいます。
こうした内通者のネットワークがロシア軍の侵攻を手引することになっており、2014年のクリミア分離のような鮮やかな制圧を狙っていたと思われます。
実際に一部のSBU幹部が姿をくらましたことなどにより(例えば、チョルノービリ原発の警備責任者は開戦とともに姿を消したという)、一部では混乱が見られました。
しかし、裏切りは一部にとどまり、「民間警備会社」もそれほど役には立たなかったと考えられます。
そして、キーウ制圧に失敗したことでロシアの第一のシナリオは崩れます。
アントノウ空港の制圧には成功したものの、その後の反撃で空港は使用不能になり、後続部隊を送り込むことは不可能になりました。
しかも、ゼレンシキーが逃亡せずにキーウに踏みとどまり、自撮りの映像をネットに公開しました。これによってキーウを中心としたウクライナの組織的な抵抗が続くことになったのです。
当初、多くの国や専門家の見方はウクライナ軍はロシア軍に真正面からは対抗できないというものでした。アメリカからの援助もジャヴェリンやスティンガーなどの歩兵が携行できる兵器が中心で戦車や装甲車は含まれていません。
しかし、ウクライナ軍は主要都市の防衛に成功します。
この要因としては、開戦時に兵士が19万6千人、国家親衛軍が6万人、国境警備隊が4万人と30万近い兵力があったこと、国土が広く、湿地帯や森林が広がっているために天然の防波堤となったこと、そしてジャヴェリンなどの供与された兵器が活躍したことなどがあげられます。
そして、著者はウクライナには、クラウゼヴィッツの言うところの、政府、軍隊、国民の「三位一体」があったことが大きかったと見ています。
ウクライナは総動員をかけて7月には兵力を100万人規模に増強させますが、それを可能にするだけの国民の支持があったのです。
一方、ロシアは約36万人の地上部隊がいたとされていますが、そのうちの徴兵の20万強は戦時体制が発令されない限り戦場に送ってはならないということになっており、「特別軍事作戦」にこれを投入することはできませんでした。
また、著者も疑問を持っていますが、空軍が損害を恐れて激しい航空戦を避けたために、圧倒的な空軍力を持ちながら、ウクライナに対する航空優勢を確立できませんでした。
開戦から1ヶ月後の3月25日、ロシアは特別軍事作戦の第一段階が概ね完了したので東部の開放に注力すると発表します。そして、実際にキーウ周辺から撤退します。
また、停戦交渉も何度か行われ、3月29日にイスタンブールで行わた4回目の停戦交渉ではロシアが「非武装化」「非ナチ化」を引っ込めるなど、譲歩の姿勢も見せました。
しかし、4月になるとブチャでの虐殺が明らかになったことで停戦の機運はしぼみます。西側からの武器供与も本格化し、戦争は長期化の様相を見せます。
ロシアの東部解放作戦はある程度の成功を見せます。ロシアはマリウポリを陥落させ、クリミアへの兵站線を確保しました。さらにドンバス地域でもイジューム、ポパナス、セヴェロドネツク、リシチャンシクといった都市を占領し、ルハンシク州を完全に制圧しました。
ドンバス地域は開けた地形で戦いやすく、また兵站の確保も容易だったために、優勢だったロシアの火力が生きたのです。
しかし、5月には反攻の立役者と見られていたドヴォルニコフ上級大将が公の場に姿を見せなくなり、6月に統括司令官から解任されます。一度は統括司令官が置かれましたが、その後にまた各軍管区をモスクワが直接指揮する形になったようで、しかもプーチンが細かい作戦にまで介入するようになっていたようです。
さらにゲラシモフ参謀総長の失脚の噂やFSBでの大量更迭の噂が流れるなど、ロシアの内部ではさまざまなきしみが見られました。
一方、この時期ウクライナが巻き返しますが、その立役者となったのがHIMARSです。HIMARSは小型のミサイルを発射できる車両ですが、ウクライナはアメリカから供与されたこの兵器を使ってロシアの弾薬集積所、燃料集積所、橋などを効果的に破壊し、これによってロシアの火力の支援は大きく減退しました。
同時に西側がロシア軍の位置情報などを提供したことが、攻撃の成功につながったと考えられています。
夏以降、戦争の主導権をウクライナが握るようになります。
ウクライナの攻勢に合わせてロシアが軍の配置を変えるようになります。ウクライナはヘルソン攻略の構えを見せ、ロシアもそれに合わせて南部に軍を展開させますが、それはウクライナの偽装であり、9月にはハルキウ方面での大規模な攻勢でロシア軍は潰走します。また、ロシアは航空優勢も失っていきます。
ここまでが本書執筆までの状況になります。
ただし、ロシアにはまだ巻き返しの手もあります。その1つがさらなる動員であり、もう1つが核兵器の使用です。
ロシアには5年以内に兵役を終えた国民が約200万人いるとされ、彼らを戦場に送り込むことは可能です。実際に本書の脱稿直前の9月21日にロシアは部分動員に踏み切っています。
しかし、本来対象とならない軍務未経験者や高齢者、さらにはすでに亡くなった人にまで召集令状が届くなど大きな混乱が見られました。また、動員はシベリアや極東、カフカスなど、動員は貧しい地域で集中して行われているとも言われています。
モスクワなどの都市部で動員が控えられているのは国民の反発を恐れているためと考えられ、ウクライナにあった三位一体の「国民」の部分がロシアにはないことがうかがえます。
核の使用については、1戦術核によって通常戦力を補う、2大きな損害を出す目標を選んで限定的な核使用を行い停戦を強要、3第三国の参戦を阻止するためにほとんど損害のでない地域で威嚇のために使う、という3つのシナリオが想定できるといいます。
ただし、NATO諸国が核戦争のリスクを恐れて直接的な介入を抑えている中で核を使用すれば、NATOの全面参戦といったことも考えられます。核戦争のリスクは西側にもロシアにも同じようにあるといえます。
最後の第5章ではこの戦争の「性質」についての分析がなされています。
この戦争では両軍がさかんに無人航空機(UAV)を大々的に使用し、また、「スターリンク」や衛星写真など宇宙空間が戦争をバックアップしているなど、今までにはなかった光景も見られます。
しかし、メインになっているのは村落の取り合い、機甲戦力による大規模な突破、航空支援やそれを阻止する攻撃、兵站の鍵を握る鉄道への攻撃、さらには戦場のおける一般市民への非人道的行為、捕虜への虐待など、第2次世界大戦と変わらない姿です。
また、「ハイブリッド戦争」と言われるように軍事手段と非軍事手段を組み合わせ、戦場の外部で優位に立つ新しいスタイルが注目されています。
今回もロシアは、民間軍事会社や親露派武装勢力などの多様な非国家主体を戦争に関与させ、開戦前後には大規模なサーバー攻撃や偽情報の流布などを行っています。
しかし、今回の戦争の中心は戦場の内部であり、ロシアの戦争は「ハイブリッドな戦争」であっても「ハイブリッド戦争」ではない、というのが著者の判断です。
戦場の外部ということでいえば、ウクライナのゼレンシキーのほうが上手く立ち回ったと言えるでしょう。
著者はむしろプーチンが大統領就任前のインタビューでKGB志望の動機について、「「全軍をもってしても不可能なことが、たった一人の人間の活躍によって成し遂げられる」ところにプーチン少年の「心はがっちりとつかまれてしまったのだ」」(212p)と語ったことに注目しています。
クリミアで上手くいった内通者によって相手国のネットワークを崩壊させるような作戦がおそらくはプーチンの理想だったのでしょう。しかし、これが上手く行かなかったために伝統的な戦争へとなだれ込んでいったのです。
最後にプーチンが戦争に踏み切った理由を改めて検討しています。
まず、「非ナチ化」については、ウクライナにアゾフ連隊のようなネオナチ的な組織があるのは事実ですが、それが国民的な支持を得ているわけではありません。一方、ロシアの民間軍事会社ワグネルの組織づくりをしたのはネオナチ的な人物だとされています。
また、ウクライナ東部地域で「虐殺」が行われていたとの根拠も薄弱です。同じようにウクライナが大量破壊兵器(核兵器)がつくられていたとの主張の根拠も薄弱です。
また、ウクライナがNATOに加盟すればロシアの安全が損なわれるとの主張には一定の説得力がありますが、開戦後のスウェーデンとフィンランドのNATO加盟にロシアが戦争を辞さない構えで反発しているわけではありません。ロシアとフィンランドの国境が1400キロに及ぶにもかかわらずです。
やはり、プーチン個人の民族主義的野望のようなものを想定しないと今回の行動は説明し難いのです。
本書が扱っているのはあくまでも2022年の秋までの状況であり、今後どうなるかはわかりません。その意味で「決定版」とは言えませんが、それでも開戦の経緯、戦局の転換のポイント、そして「この戦争をどう見ればよいのか?」という点について、説得力のある見解が示されています。
著者の今までの研究の蓄積と、機動的な情報収集力が結実した本で、今回の戦争を語る上で「暫定的な決定版」とも言える本です。
- 2023年01月05日22:39
- yamasitayu
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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「西東京日記 IN はてな」で。
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