2015年08月
『近代中国史』(ちくま新書)、『李鴻章』、『袁世凱』(ともに岩波新書)といった良質の新書をたてつづけに送り出している近代中国史の専門家である著者による日中関係史。
中国史の専門家が書く「日中関係史」というと、「日本と中国の長い交流の歴史と近代における侵略の歴史をたどりつつ、その相互的な影響を紐解いて現在の冷えきった日中関係の打開策を探る」というような内容を期待するかもしれませんが、この本の内容はまったく違います。
著者は「おわりに」で次のように述べています。
ここまではっきりと書かれると、「遣唐使があったじゃないか」とか、「江戸時代はずっと儒学が研究されていたではないか」といった反論が出てきそうですが、当然、そういったことにもこの本は触れています。
ただ、16世紀まで、「日本にとって、東アジアはそれなりに必要な世界だったのに対し、東アジアにとって、日本はどうでもいい存在だった」(33p)というのが著者の基本的な認識です。
確かに、日本は遣唐使によって中国の文化や政治制度の輸入につとめましたが、律令制は安定的に運用されたわけではありませんし、何よりも中国が「唐宋変革」とも呼ばれる唐代から宋代への大きな変化によって変わっていってしまいます。
宋の時代に生まれた朱子学や禅宗は日本にも大きな影響を与えましたが、日本と宋の間には国家間の正式な国交は開かれず、民間の貿易にとどまりました。
この日本と中国の「ズレ」は鎌倉時代に入ると、さらに大きく広がっていきます。
著者は、元寇における日本側の元の国書に対する黙殺や使節の処刑を「非常識」であるとし、そもそも京都と鎌倉という二重政府体制自体がアジアの中ではきわだって特異だと述べています。
この日中の「ズレ」に対し、室町期に後醍醐天皇と足利義満という中国を強く志向した人物が現れましたが、日本がしっかりと明の朝貢貿易体制に組み込まれた時期は短く、この時期の日本と中国は「倭寇」という、(中国側から見れば)非合法な存在で結びついていました。
この後、秀吉の朝鮮侵略もあり、日本と明の関係は好転しないまま終わるのですが、「倭寇」による経済的な結びつきだけはしっかりと残りました。
「現物主義」をとっていた明の経済体制がいよいよそれでは回らなくなり、貨幣として銀が必要とされるようになったのです。そして、その銀を供給したのが、鉱山の技術の進展によって世界的な金銀の産出国となっていた日本でした。いわば現代に通じる「政冷経熱」の関係が出現することとなったのです。
17世紀になり、日本では徳川幕府が中国では清朝が成立しますが、大名と武士たちが民政に強く関わった江戸時代の日本と、官民乖離が進んだ清朝下の中国は対照的な社会を構成していくことになります。
また、徳川幕府と清朝の間には正式な国交は結ばれず、ここでも日本の銀を求める中国商人たちによって貿易が行われたのみでした。
しかし、18世紀になると日本の金銀の産出量は衰えを見せ、中国との経済関係も下火いなっていきます。一方、中国は西洋諸国との貿易によって銀を獲得し、空前の経済発展を見せます。
日本では、生糸・茶・陶磁器・木綿など中国から輸入していた商品の国産化が進み、中国との経済関係は疎遠になりましたが、文化面では儒教がさかんになり社会の「漢語化」が進みます(著者は「中国化」という言葉は「その内容があまりに曖昧で、多分にミスリーディングだからである」(159p]と退けている)。
教育の普及とともに、漢字・漢語の知識が日本人に行き渡るようになり、儒教の研究も進展します。ただ、吉宗以降、儒学だけでなく蘭学などの実用的学問も受容も進み、「むしろ、中国文化の影響下から離脱する方向に舵を切ってゆく」(165p)ことになります。
また、西洋の書物の翻訳の過程で、和製漢語が出現し、和文の漢文訓読体への転換が進みます。漢語を多用しながらも、本家の言葉とは異なったスタイルの文章が生み出されていくことになったのです。
疎遠だったがゆえに平穏であった江戸時代の日中関係は、日本の明治維新とともに崩れていきます。
西洋式の国家というものを受け入れた日本と、「属国」や「属邦」といったものが含まれる「華夷秩序」を維持しようとする清は、琉球や台湾、朝鮮をめぐって対立します。そして、この対立は日清戦争へと繋がり、日本と中国の立場は逆転することになりました。
日露戦争後、「日本に学べ」ということで大勢の中国人留学生が日本に来て、日中は「善隣の時代」を迎えますが、日本に学ぼうとする対象は、「日本固有の文化・文明ではなくして、日本に移植され、日本を強化した西洋文明」(216p)でした。また、中国人の学習スタイルは「和文漢読法」で、日本の漢文訓読体の書物をそのまま漢文に戻すような形であり、日本語そのものを学ぶものとは少しずれていました。
日本と中国はお互いにその表層だけを学んでいたとも言えるのです。
しかし、「善隣の時代」は1914年の二十一カ条のなどを機に終演を迎えます。
20世紀前半の日中関係は悪化の一途をたどっていくわけですが、その要因の1つとして著者は、日本の商社が中国商人を排して中国市場に入り込もうとしたことをあげています。これが中国商人の反発を生み、日本製品のボイコット運動につながっていきます。中国において一番の利権を持っていたのはイギリスでしたが、中国の「愛国主義」の矛先はイギリスではなく日本に向かうことになったのです。
そして、この日中対立は満州事変や日中戦争へとつながっていくことになるのです。
このようにこの本は1500年にわたる日中のズレを描き出します。250ページほどで1500年の歴史を追っているために、省略されている部分も多いですが、日中関係の肝をグローバル・ヒストリー的に描き出す腕は見事です。
記述が日中戦争の勃発で終わっているために、現在の共産党政権との関わりなどについても知りたいという人もいると思いますが、そこは歴史家として、現在のことにはあえて踏み込まない構成になっています。
日中関係に興味はある人はもちろん、「東アジア史の中の日本史」という視点もあるため、日本史が好きな人が読んでも十分に楽しめる本だと思います。
日中関係史 (PHP新書)
岡本 隆司
4569826520
中国史の専門家が書く「日中関係史」というと、「日本と中国の長い交流の歴史と近代における侵略の歴史をたどりつつ、その相互的な影響を紐解いて現在の冷えきった日中関係の打開策を探る」というような内容を期待するかもしれませんが、この本の内容はまったく違います。
著者は「おわりに」で次のように述べています。
日本人にとって、中国は常に身近な外国だった。文字・思想・文化のみならず、経済・政治・軍事もしかり。あらゆることに多大な影響を受けてきた。それはまちがいない。しかしそれをもって、親密だ、あるいは似ているとわれわれは勘違いしてないだろうか。
小著が描いてきたように、実際の日本と中国は、古来ほぼ疎遠な関係であった。「一衣帯水」というけれど、いかに距離は近くとも、知識人・民間レベルの密な交流など、ほとんどなかった経過が、日中関係史の大部分を占めている。したがって、われわれは驚くほど、中国のことを知らないし、その知らないことにも気づいていない。このあたり、いかにも錯覚しやすいところである。「同文同種」というのは、いかにも安直な考え方だった(238ー239p)
ここまではっきりと書かれると、「遣唐使があったじゃないか」とか、「江戸時代はずっと儒学が研究されていたではないか」といった反論が出てきそうですが、当然、そういったことにもこの本は触れています。
ただ、16世紀まで、「日本にとって、東アジアはそれなりに必要な世界だったのに対し、東アジアにとって、日本はどうでもいい存在だった」(33p)というのが著者の基本的な認識です。
確かに、日本は遣唐使によって中国の文化や政治制度の輸入につとめましたが、律令制は安定的に運用されたわけではありませんし、何よりも中国が「唐宋変革」とも呼ばれる唐代から宋代への大きな変化によって変わっていってしまいます。
宋の時代に生まれた朱子学や禅宗は日本にも大きな影響を与えましたが、日本と宋の間には国家間の正式な国交は開かれず、民間の貿易にとどまりました。
この日本と中国の「ズレ」は鎌倉時代に入ると、さらに大きく広がっていきます。
著者は、元寇における日本側の元の国書に対する黙殺や使節の処刑を「非常識」であるとし、そもそも京都と鎌倉という二重政府体制自体がアジアの中ではきわだって特異だと述べています。
この日中の「ズレ」に対し、室町期に後醍醐天皇と足利義満という中国を強く志向した人物が現れましたが、日本がしっかりと明の朝貢貿易体制に組み込まれた時期は短く、この時期の日本と中国は「倭寇」という、(中国側から見れば)非合法な存在で結びついていました。
この後、秀吉の朝鮮侵略もあり、日本と明の関係は好転しないまま終わるのですが、「倭寇」による経済的な結びつきだけはしっかりと残りました。
「現物主義」をとっていた明の経済体制がいよいよそれでは回らなくなり、貨幣として銀が必要とされるようになったのです。そして、その銀を供給したのが、鉱山の技術の進展によって世界的な金銀の産出国となっていた日本でした。いわば現代に通じる「政冷経熱」の関係が出現することとなったのです。
17世紀になり、日本では徳川幕府が中国では清朝が成立しますが、大名と武士たちが民政に強く関わった江戸時代の日本と、官民乖離が進んだ清朝下の中国は対照的な社会を構成していくことになります。
また、徳川幕府と清朝の間には正式な国交は結ばれず、ここでも日本の銀を求める中国商人たちによって貿易が行われたのみでした。
しかし、18世紀になると日本の金銀の産出量は衰えを見せ、中国との経済関係も下火いなっていきます。一方、中国は西洋諸国との貿易によって銀を獲得し、空前の経済発展を見せます。
日本では、生糸・茶・陶磁器・木綿など中国から輸入していた商品の国産化が進み、中国との経済関係は疎遠になりましたが、文化面では儒教がさかんになり社会の「漢語化」が進みます(著者は「中国化」という言葉は「その内容があまりに曖昧で、多分にミスリーディングだからである」(159p]と退けている)。
教育の普及とともに、漢字・漢語の知識が日本人に行き渡るようになり、儒教の研究も進展します。ただ、吉宗以降、儒学だけでなく蘭学などの実用的学問も受容も進み、「むしろ、中国文化の影響下から離脱する方向に舵を切ってゆく」(165p)ことになります。
また、西洋の書物の翻訳の過程で、和製漢語が出現し、和文の漢文訓読体への転換が進みます。漢語を多用しながらも、本家の言葉とは異なったスタイルの文章が生み出されていくことになったのです。
疎遠だったがゆえに平穏であった江戸時代の日中関係は、日本の明治維新とともに崩れていきます。
西洋式の国家というものを受け入れた日本と、「属国」や「属邦」といったものが含まれる「華夷秩序」を維持しようとする清は、琉球や台湾、朝鮮をめぐって対立します。そして、この対立は日清戦争へと繋がり、日本と中国の立場は逆転することになりました。
日露戦争後、「日本に学べ」ということで大勢の中国人留学生が日本に来て、日中は「善隣の時代」を迎えますが、日本に学ぼうとする対象は、「日本固有の文化・文明ではなくして、日本に移植され、日本を強化した西洋文明」(216p)でした。また、中国人の学習スタイルは「和文漢読法」で、日本の漢文訓読体の書物をそのまま漢文に戻すような形であり、日本語そのものを学ぶものとは少しずれていました。
日本と中国はお互いにその表層だけを学んでいたとも言えるのです。
しかし、「善隣の時代」は1914年の二十一カ条のなどを機に終演を迎えます。
20世紀前半の日中関係は悪化の一途をたどっていくわけですが、その要因の1つとして著者は、日本の商社が中国商人を排して中国市場に入り込もうとしたことをあげています。これが中国商人の反発を生み、日本製品のボイコット運動につながっていきます。中国において一番の利権を持っていたのはイギリスでしたが、中国の「愛国主義」の矛先はイギリスではなく日本に向かうことになったのです。
そして、この日中対立は満州事変や日中戦争へとつながっていくことになるのです。
このようにこの本は1500年にわたる日中のズレを描き出します。250ページほどで1500年の歴史を追っているために、省略されている部分も多いですが、日中関係の肝をグローバル・ヒストリー的に描き出す腕は見事です。
記述が日中戦争の勃発で終わっているために、現在の共産党政権との関わりなどについても知りたいという人もいると思いますが、そこは歴史家として、現在のことにはあえて踏み込まない構成になっています。
日中関係に興味はある人はもちろん、「東アジア史の中の日本史」という視点もあるため、日本史が好きな人が読んでも十分に楽しめる本だと思います。
日中関係史 (PHP新書)
岡本 隆司
4569826520
- 2015年08月30日22:53
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ワタミ過労自殺事件などの取材を行ってきた新聞記者による、日本の長時間労働とその問題点をめぐるルポ。
目次を見ればわかるように、政府の労働規制緩和に対しては批判的なスタンスで書かれていて、前半はやや煽り気味に感じるかもしれません。ただ、後半では、幅広い取材によって、煽られている危惧がそれなりに裏づけられており、全体としてはバランスのとれた内容になっていると思います。
目次は以下の通り。
第1章と第2章はタイトルからもわかるように、安倍政権が導入を目指す「ホワイトカラーエグゼンプション」などの労働規制の緩和の動きを追っています。
「ホワイトカラーエグゼンプション」とは、働いた時間で成果を測りづらい一部のホワイトカラーに対して、「1日8時間以上働いた場合残業代を払う」という規制から外すものです。
野党などはこれを「残業代ゼロ法案」と呼んで批判しており、この本でも基本的には「残業代ゼロ法案」と呼んで、その導入の動きを批判しています。
日本に「ホワイトカラーエグゼンプション」を導入する試みは、2006〜07年の第一次安倍政権のときにもなされましたが、「残業代ゼロ法案」との批判を受け失敗しています。
この本では、安倍首相の「世界で一番、企業が活動しやすい国にする」という発言を度々引用して、「ホワイトカラーエグゼンプション」は、企業の利益追求のために労働者を犠牲にする制度であり、その導入は安倍政権の宿願であるというトーンで書かれています。
「ホワイトカラーエグゼンプション」については、同じちくま新書の濱口桂一郎『日本の雇用と中高年』に書かれているように、「かなり年齢のいったホワイトカラーに残業代を出していると、残業代の出ない若い管理職よりも給与が高くなってしまう(当然、課長とかが労働基準法のいう管理職なのか?という問題もありますが)」という企業側の問題意識があり、単純に「企業の利益追求のために労働者を犠牲にする制度」と批判するのは偏った見方だと思います。
ただ、第3章以降に書かれている長時間労働や過労死をめぐる企業の姿勢を見ると、「ホワイトカラーエグゼンプション」が「企業の利益追求のために労働者を犠牲にする制度」に転化してしまう可能性というのも感じてしまいます。
第3章では、日本の大手企業の7割が「過労死ライン」を上回る残業時間を36協定で認めていることが書かれています。この「過労死ライン」とは1ヶ月80時間以上の残業で、過労死を認定する際の1つの目安となっています。
ところが、著者たちの調査によると、大企業の多くが労働組合との間に締結する36協定によって、この月80時間を越える残業の上限を設定しています。
この調査の結果は本書の91pに表としてまとめてありますが、それによると関西電力193時間、JT180時間、三菱自動車160時間、ソニー150時間、清水建設150時間、NTT139時間、東芝130時間、日立3ヶ月で384時間、パナソニック120時間など、誰もが知っている大企業で過労死ラインを大幅に上回る残業時間が設定されています(部署ごとに違う場合は最も長い部署を載せているとのこと)。また、日本一の企業であるトヨタ自動車も80時間と過労死ラインの残業時間を設定しています。
もちろん、繁忙期やトラブル時の対応などのためにできるだけ長い時間を設定しておきたいという考えは分かりますし、実際、この上限にまで達するケースは少ないのかもしれません。
それでも、これだけの残業時間を設定しておいて、「ホワイトカラーエグゼンプション」の導入を望むとなると、「社員をタダ働きさせるつもりだ、搾取するつもりだ」と思われてもしかたがないでしょう。
また、第5章では、サービス残業などの企業の違法行為を取り締まるべき労働基準監督署の実情が、労働基準監督官への聞き取りなどもまじえて紹介されています。
労働基準監督署の動きの鈍さというのは常日頃から感じていることですが、この本によると、とにかく現場での圧倒的なマンパワー不足だそうです。ILOは労働者1万人あたり1人以上の監督官が望ましいとしていますが、日本は0.53人。
人員不足から、きちんとした実態調査や摘発よりも文書渡すだけの指導が良しとされる現状があり、また、36協定が摘発を難しくしている現状もあるそうです。
さらに、この第5章では労働組合が長時間労働の是正に対して頼りにならない現状も報告されています。
過労死防止に対しては司法も及び腰な面があります。
第6章では、「全国過労死を考える遺族の会」が大阪労働局に労災認定に関する公文書を公開請求した所、企業名が黒く塗られていたため、企業名の開示を求めた裁判の経緯が書かれています。
国は「企業の社会的評価が下がる」「労働基準監督署の調査や監督に企業の協力が得られなくなる」などと主張しましたが、一審では原告側が勝ち、企業名の開示が認められました。
ところが、第二審と上告審では国の言い分を認め、原告側は逆転敗訴。企業名の不開示が認められたのです。
このように、この本を読むと「過労死」という大きな問題に対し、企業も国も及び腰であることがわかります。そして、長時間労働を問題視しない国や企業の態度が、「残業代ゼロ法案」といったヒステリックな反発を生むのでしょう。
まずは、残業時間の上限規制やインターバル休息制度(次の勤務までに一定の休息を義務付ける制度)なのだと思います。
ルポ 過労社会: 八時間労働は岩盤規制か (ちくま新書)
中澤 誠
4480068457
目次を見ればわかるように、政府の労働規制緩和に対しては批判的なスタンスで書かれていて、前半はやや煽り気味に感じるかもしれません。ただ、後半では、幅広い取材によって、煽られている危惧がそれなりに裏づけられており、全体としてはバランスのとれた内容になっていると思います。
目次は以下の通り。
第1章 「残業代ゼロ制度」の舞台裏
第2章 労働規制緩和を疑う
第3章 はびこる長時間労働
第4章 すさんだ職場
第5章 誰も守ってくれない
第6章 長時間労働からの脱却
第1章と第2章はタイトルからもわかるように、安倍政権が導入を目指す「ホワイトカラーエグゼンプション」などの労働規制の緩和の動きを追っています。
「ホワイトカラーエグゼンプション」とは、働いた時間で成果を測りづらい一部のホワイトカラーに対して、「1日8時間以上働いた場合残業代を払う」という規制から外すものです。
野党などはこれを「残業代ゼロ法案」と呼んで批判しており、この本でも基本的には「残業代ゼロ法案」と呼んで、その導入の動きを批判しています。
日本に「ホワイトカラーエグゼンプション」を導入する試みは、2006〜07年の第一次安倍政権のときにもなされましたが、「残業代ゼロ法案」との批判を受け失敗しています。
この本では、安倍首相の「世界で一番、企業が活動しやすい国にする」という発言を度々引用して、「ホワイトカラーエグゼンプション」は、企業の利益追求のために労働者を犠牲にする制度であり、その導入は安倍政権の宿願であるというトーンで書かれています。
「ホワイトカラーエグゼンプション」については、同じちくま新書の濱口桂一郎『日本の雇用と中高年』に書かれているように、「かなり年齢のいったホワイトカラーに残業代を出していると、残業代の出ない若い管理職よりも給与が高くなってしまう(当然、課長とかが労働基準法のいう管理職なのか?という問題もありますが)」という企業側の問題意識があり、単純に「企業の利益追求のために労働者を犠牲にする制度」と批判するのは偏った見方だと思います。
ただ、第3章以降に書かれている長時間労働や過労死をめぐる企業の姿勢を見ると、「ホワイトカラーエグゼンプション」が「企業の利益追求のために労働者を犠牲にする制度」に転化してしまう可能性というのも感じてしまいます。
第3章では、日本の大手企業の7割が「過労死ライン」を上回る残業時間を36協定で認めていることが書かれています。この「過労死ライン」とは1ヶ月80時間以上の残業で、過労死を認定する際の1つの目安となっています。
ところが、著者たちの調査によると、大企業の多くが労働組合との間に締結する36協定によって、この月80時間を越える残業の上限を設定しています。
この調査の結果は本書の91pに表としてまとめてありますが、それによると関西電力193時間、JT180時間、三菱自動車160時間、ソニー150時間、清水建設150時間、NTT139時間、東芝130時間、日立3ヶ月で384時間、パナソニック120時間など、誰もが知っている大企業で過労死ラインを大幅に上回る残業時間が設定されています(部署ごとに違う場合は最も長い部署を載せているとのこと)。また、日本一の企業であるトヨタ自動車も80時間と過労死ラインの残業時間を設定しています。
もちろん、繁忙期やトラブル時の対応などのためにできるだけ長い時間を設定しておきたいという考えは分かりますし、実際、この上限にまで達するケースは少ないのかもしれません。
それでも、これだけの残業時間を設定しておいて、「ホワイトカラーエグゼンプション」の導入を望むとなると、「社員をタダ働きさせるつもりだ、搾取するつもりだ」と思われてもしかたがないでしょう。
また、第5章では、サービス残業などの企業の違法行為を取り締まるべき労働基準監督署の実情が、労働基準監督官への聞き取りなどもまじえて紹介されています。
労働基準監督署の動きの鈍さというのは常日頃から感じていることですが、この本によると、とにかく現場での圧倒的なマンパワー不足だそうです。ILOは労働者1万人あたり1人以上の監督官が望ましいとしていますが、日本は0.53人。
人員不足から、きちんとした実態調査や摘発よりも文書渡すだけの指導が良しとされる現状があり、また、36協定が摘発を難しくしている現状もあるそうです。
さらに、この第5章では労働組合が長時間労働の是正に対して頼りにならない現状も報告されています。
過労死防止に対しては司法も及び腰な面があります。
第6章では、「全国過労死を考える遺族の会」が大阪労働局に労災認定に関する公文書を公開請求した所、企業名が黒く塗られていたため、企業名の開示を求めた裁判の経緯が書かれています。
国は「企業の社会的評価が下がる」「労働基準監督署の調査や監督に企業の協力が得られなくなる」などと主張しましたが、一審では原告側が勝ち、企業名の開示が認められました。
ところが、第二審と上告審では国の言い分を認め、原告側は逆転敗訴。企業名の不開示が認められたのです。
このように、この本を読むと「過労死」という大きな問題に対し、企業も国も及び腰であることがわかります。そして、長時間労働を問題視しない国や企業の態度が、「残業代ゼロ法案」といったヒステリックな反発を生むのでしょう。
まずは、残業時間の上限規制やインターバル休息制度(次の勤務までに一定の休息を義務付ける制度)なのだと思います。
ルポ 過労社会: 八時間労働は岩盤規制か (ちくま新書)
中澤 誠
4480068457
- 2015年08月24日23:34
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戦後70年を迎えても、いまだに収まる気配が見えない「歴史認識」問題、その問題について、従軍慰安婦に対する「アジア女性基金」の運営(この顛末については大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか』に詳しい)やサハリンの在留朝鮮人問題などに関わった著者が語った本。
クレジットに「聞き手:江川紹子」とあるように、ジャーナリストの江川紹子が質問をぶつけ、それに著者が答えるという形をとっており、非常に読みやすいです。
また、「わたしは、歴史をどう認識・解釈するかは、「俗人」、つまり普通の人の多くがどう感じたか、という視点から考えるべきで、自分ができもしない英雄的な行動や高い倫理水準の観点から考えるべきではない」(58p)とあるように、普通の人の感覚にもかなう議論がなされていると思います。
目次は以下のとおり。
目次を見ればわかるように、昨今、問題になっている「歴史認識」にまつわる問題を幅広くとり上げる構成になっています。
まず、この『歴史認識」にまつわる問題を幅広くとり上げ得ているというところが、この本の良い点です。
「日本の戦争責任」といった大きな話だけでは、また逆に「従軍慰安婦」や「南京事件」といった個々の事例にこだわっても、多くの人が納得する「歴史認識」というのは立ち上がってこないと思いますが、多くの問題をとり上げることで、「日本がきちんと取り組んだ部分」と「責任を十分に果たしてこなかった部分」がある程度見えてくるはずです。
例えば、「日本の戦争責任」という大きな話には否定的な「右派」の人でも、著者が取り組んだサハリンの在留朝鮮人問題などについては、90年代までの日本政府はその責任を十分に果たしてこなかったと思うのではないでしょうか(「「右派」の人でも」と書きましたが、この問題た朝鮮や台湾の軍属などの問題は、本来、「右派」の人こそとり上げるべきものだと思う)。
また、江川紹子があえて、「東京裁判は過酷な判決ではなかったか?」、「連合国の戦争犯罪が裁かれていないのは問題では?」、「欧米の植民地を解放したとの見方はどうか?」、「英仏はなぜ植民地支配を問われないのか?」といった、専門家同士の対話においては「素朴過ぎる質問」をぶつけていて、それにたいして大沼保昭ができるだけ丁寧に回答しようとしているのも、この本の良い所だと思います。
この本を読むと、「歴史認識」という問題が完全に「白か黒か」で割り切れるものではなく、歴史性や国際政治におけるパワーバランス、さらに人権意識の高まりなどの中で、揺れ動いてきた、また、揺れ動かざるをえないものだということを意識させられます。
あと、この本を読んで改めて興味深かったのが、先ほど紹介したサハリンの在留朝鮮人問題や細川首相による「侵略」を認める発言、さらには村山談話や従軍慰安婦に対する「アジア女性基金」など、90年代前半を中心に「戦争責任」にまつわる日本政府の踏み込んだ対応がなされている点です(「戦争責任」とは少しずれるけど定住外国人への指紋押捺制度の廃止も92年)。
90年代前半には、こうした動きとともにPKO協力法なども制定されるわけですが、これは対立する動きとしてではなく、経済大国となった日本が、その「大国としての責任」を果たそうとするための動きとしてとらえべきでしょう。
ところが、90年代後半になると、長引く経済停滞によって国民の中の「大国」意識は消えていく一方で、一部の政治家やメディアの中には相変わらず「大国としての責任」を声高に訴える声が残ります。
この「ズレ」00年代以降の「歴史認識」問題をややこしくしてしまったのかもしれません。
そんなことについても考えさせられた本でした。
「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて (中公新書 2332)
大沼 保昭 江川 紹子
4121023323
クレジットに「聞き手:江川紹子」とあるように、ジャーナリストの江川紹子が質問をぶつけ、それに著者が答えるという形をとっており、非常に読みやすいです。
また、「わたしは、歴史をどう認識・解釈するかは、「俗人」、つまり普通の人の多くがどう感じたか、という視点から考えるべきで、自分ができもしない英雄的な行動や高い倫理水準の観点から考えるべきではない」(58p)とあるように、普通の人の感覚にもかなう議論がなされていると思います。
目次は以下のとおり。
第1章 東京裁判―国際社会の「裁き」と日本の受け止め方
第2章 サンフランシスコ平和条約と日韓・日中の「正常化」
第3章 戦争責任と戦後責任
第4章 慰安婦問題と新たな状況
第5章 二十一世紀世界と「歴史認識」
目次を見ればわかるように、昨今、問題になっている「歴史認識」にまつわる問題を幅広くとり上げる構成になっています。
まず、この『歴史認識」にまつわる問題を幅広くとり上げ得ているというところが、この本の良い点です。
「日本の戦争責任」といった大きな話だけでは、また逆に「従軍慰安婦」や「南京事件」といった個々の事例にこだわっても、多くの人が納得する「歴史認識」というのは立ち上がってこないと思いますが、多くの問題をとり上げることで、「日本がきちんと取り組んだ部分」と「責任を十分に果たしてこなかった部分」がある程度見えてくるはずです。
例えば、「日本の戦争責任」という大きな話には否定的な「右派」の人でも、著者が取り組んだサハリンの在留朝鮮人問題などについては、90年代までの日本政府はその責任を十分に果たしてこなかったと思うのではないでしょうか(「「右派」の人でも」と書きましたが、この問題た朝鮮や台湾の軍属などの問題は、本来、「右派」の人こそとり上げるべきものだと思う)。
また、江川紹子があえて、「東京裁判は過酷な判決ではなかったか?」、「連合国の戦争犯罪が裁かれていないのは問題では?」、「欧米の植民地を解放したとの見方はどうか?」、「英仏はなぜ植民地支配を問われないのか?」といった、専門家同士の対話においては「素朴過ぎる質問」をぶつけていて、それにたいして大沼保昭ができるだけ丁寧に回答しようとしているのも、この本の良い所だと思います。
この本を読むと、「歴史認識」という問題が完全に「白か黒か」で割り切れるものではなく、歴史性や国際政治におけるパワーバランス、さらに人権意識の高まりなどの中で、揺れ動いてきた、また、揺れ動かざるをえないものだということを意識させられます。
あと、この本を読んで改めて興味深かったのが、先ほど紹介したサハリンの在留朝鮮人問題や細川首相による「侵略」を認める発言、さらには村山談話や従軍慰安婦に対する「アジア女性基金」など、90年代前半を中心に「戦争責任」にまつわる日本政府の踏み込んだ対応がなされている点です(「戦争責任」とは少しずれるけど定住外国人への指紋押捺制度の廃止も92年)。
90年代前半には、こうした動きとともにPKO協力法なども制定されるわけですが、これは対立する動きとしてではなく、経済大国となった日本が、その「大国としての責任」を果たそうとするための動きとしてとらえべきでしょう。
ところが、90年代後半になると、長引く経済停滞によって国民の中の「大国」意識は消えていく一方で、一部の政治家やメディアの中には相変わらず「大国としての責任」を声高に訴える声が残ります。
この「ズレ」00年代以降の「歴史認識」問題をややこしくしてしまったのかもしれません。
そんなことについても考えさせられた本でした。
「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて (中公新書 2332)
大沼 保昭 江川 紹子
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- 2015年08月18日00:07
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『戦後日本の国家保守主義』を著し、日本再建イニシアティブ『民主党政権 失敗の検証』(中公新書)の第6章 「政権・党運営――小沢一郎だけが原因か」(この分析は面白かった!)を担当した政治学者による、近年進む、日本政治の「右傾化」を概観、分析した本。
現在の安倍政権だけではなく、ここ30年ほどの歴史のなかでの「右傾化」をとり上げています。
この本が分析する日本の「右傾化」のポイントとは次の3つです。
1つ目は、日本の「右傾化」は社会主導ではなく政治主導(政治エリート主導)であること。2つ目は、何回かの揺り戻しを経ながら徐々に進んでいること。3つ目は、旧来の右派が勢力を伸ばしたというよりは「新自由主義」と「国家主義」が結合した「新右派」がその中心となっている点です(3-5p)。
著者は本書6pの「新右派転換の波」と題された表で、過去30年の「新右派転換の波」として、1982〜87年の「中曽根康弘「戦後政治の総決算」」、89〜94年の「小沢一郎「政治改革と政界再編」」、96〜98年の「橋本龍太郎「六大改革」「バックラッシュ」」、2001〜07年の「小泉純一郎「構造改革」安倍晋三「戦後レジームからの脱却」」、2012年〜の「安倍晋三「日本を、取り戻す。」「この道しかない。」」の5つを示しています。
そして、これらの波の間にあるのが89年の自民の参院選の敗北、94〜96年の「自社さ政権」、98年の自民の参院選の敗北、07年の自民の参院選の敗北、09〜12年の民主党政権であり、これらが「右傾化」に対する「揺り戻し」ということになります。
55年体制下の自民党政治は「開発主義」と「恩顧主義」の組み合わせでした。政治主導の経済発展を目指す「開発主義」と、公共事業などで地方に恩恵をもたらす「恩顧主義」が自民党政治の両輪であり、国民の指示を得るための手段でした。
しかし、70年代以降の財政悪化などによって、この組み合わせは維持できなくなります。また、経済大国化した日本は国際社会でもさまざまな役割を求められるようになります。
こうした中で、自民党の新たな中心となったのが「新右派」です。
「新右派」とは、著者によれば「新自由主義」と「国家主義」の結合です。
著者によれば、「新自由主義」は「経済的自由主義」、「国家主義」は「政治的反自由主義」と言い換えることが可能だとのことですが(19p)、この「自由」と「反自由」の結合はいかにして可能なのか? 著者は次の3つの理由をあげています。
1つ目は、自己利益を追求するアクターによって世界が構成されると考える「リアリズム」的な世界観を共有していること、2つ目は、どちらもエリートにとっては都合の良い理論だということ、3つ目は、「新自由主義」的な経済体制の実現のために「強い国家」が要請されるという政治的な補完性です(19ー22p)。
こうした理論的枠組をもとに、1980年代から現在に至るまでの政治の「右傾化」の流れをたどる部分が本書のメインになります。
ここ30年の日本の政治において、宏池会・田中派に代表される「旧右派」は主役を「新右派」に譲り、右派のカウンターである「革新」は退潮しました。
そして、中曽根康弘、小沢一郎、橋本龍太郎、小泉純一郎、安倍晋三といった政治家のもとで日本の政治は以前よりもずっと「右傾化」してしまったのです。
ただ、個人的には、この中曽根康弘、小沢一郎、橋本龍太郎、小泉純一郎、安倍晋三という5人の政治家を同じ「新右派転換の波」としていしまうところには違和感を感じます。
確かに安倍晋三については「右傾化」と言われても仕方のない印象を与えるものがあると思いますが、小沢一郎、橋本龍太郎、小泉純一郎という3人を同じ「新右派」としてまとめてしまっていいものなのでしょうか?
もし、そうならばなぜ小沢一郎と橋本龍太郎は袂を分かち、橋本龍太郎と小泉純一郎は自民党総裁選で激しく争ったのでしょう。また、小泉・小沢連合というのも「反原発」という部分を除けば考えにくい組み合わせです。
もちろん、この3人の政治家の打ち出した政策には「政治家主導」、「小さな政府」といった共通点はあります(小沢一郎に一貫した経済政策があるのかは謎ですが)。しかし、それは必ずしもこの3人がずっと持ち続けていた思想ではなく、社会からの要求を受け入れてのものだと考えたほうが自然なのではないでしょうか?
90年代から00年代にかけて、日本は「失われた20年」とも言われる不況の中で「改革」が要請され、小沢一郎、橋本龍太郎、小泉純一郎といった政治家はそれぞれのスタンスでそれに応えようとしたのでしょう。
ここから、「日本の「右傾化」は社会主導ではなく政治主導(政治エリート主導)である」という著者の主張は、「右傾化」に「新自由主義」的政策まで含めるのであれば、それは少し違うのではないでしょうか。
このように、この本の政治の捉え方はやや大雑把すぎると思います。
また、この本で描かれる「右傾化」という現象は否定的です。「寡頭支配」(26p)という言葉まで使われており、民主主義の否定へと突き進む現象です。
ただ、こうなると中曽根康弘、橋本龍太郎、小泉純一郎、安倍晋三といった首相の支持率が高かったことはどのように説明できるのでしょうか?
この本のなかでは「小選挙のマジック」という言葉が使われており、小選挙区制のもとでは、過半数に満たない得票率でも大きな議席を獲得できてしまう問題点が指摘されています。
確かにその通りです。しかし、小選挙区制というしくみは「右派」勢力以外にも適用されるわけで、実際、2009年の衆院選では民主党が小選挙区制のしくみを活かして圧勝しています。野党がまとまっていれば、小選挙区制は必ずしも自民党にだけ有利な制度というわけではないはずです。
やはり、著者が「新右派転換の波」とまとめる政治家たちがなぜ支持を得たのかという部分の分析がもっと必要でしょう。
個人的に、安倍首相の周囲にいる戦前の国家主義を賛美するような政治家の存在には危惧を覚えているので、著者の問題意識や危機感というものは分かりますし、興味深い論点もあるのですが、もう少し「新右派」的政策に対する国民の支持(特に「新自由主義」的な政策への支持)というものを受け止めて、その背景やリベラルの「失敗」を見ていく必要があると思います。
右傾化する日本政治 (岩波新書)
中野 晃一
4004315530
現在の安倍政権だけではなく、ここ30年ほどの歴史のなかでの「右傾化」をとり上げています。
この本が分析する日本の「右傾化」のポイントとは次の3つです。
1つ目は、日本の「右傾化」は社会主導ではなく政治主導(政治エリート主導)であること。2つ目は、何回かの揺り戻しを経ながら徐々に進んでいること。3つ目は、旧来の右派が勢力を伸ばしたというよりは「新自由主義」と「国家主義」が結合した「新右派」がその中心となっている点です(3-5p)。
著者は本書6pの「新右派転換の波」と題された表で、過去30年の「新右派転換の波」として、1982〜87年の「中曽根康弘「戦後政治の総決算」」、89〜94年の「小沢一郎「政治改革と政界再編」」、96〜98年の「橋本龍太郎「六大改革」「バックラッシュ」」、2001〜07年の「小泉純一郎「構造改革」安倍晋三「戦後レジームからの脱却」」、2012年〜の「安倍晋三「日本を、取り戻す。」「この道しかない。」」の5つを示しています。
そして、これらの波の間にあるのが89年の自民の参院選の敗北、94〜96年の「自社さ政権」、98年の自民の参院選の敗北、07年の自民の参院選の敗北、09〜12年の民主党政権であり、これらが「右傾化」に対する「揺り戻し」ということになります。
55年体制下の自民党政治は「開発主義」と「恩顧主義」の組み合わせでした。政治主導の経済発展を目指す「開発主義」と、公共事業などで地方に恩恵をもたらす「恩顧主義」が自民党政治の両輪であり、国民の指示を得るための手段でした。
しかし、70年代以降の財政悪化などによって、この組み合わせは維持できなくなります。また、経済大国化した日本は国際社会でもさまざまな役割を求められるようになります。
こうした中で、自民党の新たな中心となったのが「新右派」です。
「新右派」とは、著者によれば「新自由主義」と「国家主義」の結合です。
著者によれば、「新自由主義」は「経済的自由主義」、「国家主義」は「政治的反自由主義」と言い換えることが可能だとのことですが(19p)、この「自由」と「反自由」の結合はいかにして可能なのか? 著者は次の3つの理由をあげています。
1つ目は、自己利益を追求するアクターによって世界が構成されると考える「リアリズム」的な世界観を共有していること、2つ目は、どちらもエリートにとっては都合の良い理論だということ、3つ目は、「新自由主義」的な経済体制の実現のために「強い国家」が要請されるという政治的な補完性です(19ー22p)。
こうした理論的枠組をもとに、1980年代から現在に至るまでの政治の「右傾化」の流れをたどる部分が本書のメインになります。
ここ30年の日本の政治において、宏池会・田中派に代表される「旧右派」は主役を「新右派」に譲り、右派のカウンターである「革新」は退潮しました。
そして、中曽根康弘、小沢一郎、橋本龍太郎、小泉純一郎、安倍晋三といった政治家のもとで日本の政治は以前よりもずっと「右傾化」してしまったのです。
ただ、個人的には、この中曽根康弘、小沢一郎、橋本龍太郎、小泉純一郎、安倍晋三という5人の政治家を同じ「新右派転換の波」としていしまうところには違和感を感じます。
確かに安倍晋三については「右傾化」と言われても仕方のない印象を与えるものがあると思いますが、小沢一郎、橋本龍太郎、小泉純一郎という3人を同じ「新右派」としてまとめてしまっていいものなのでしょうか?
もし、そうならばなぜ小沢一郎と橋本龍太郎は袂を分かち、橋本龍太郎と小泉純一郎は自民党総裁選で激しく争ったのでしょう。また、小泉・小沢連合というのも「反原発」という部分を除けば考えにくい組み合わせです。
もちろん、この3人の政治家の打ち出した政策には「政治家主導」、「小さな政府」といった共通点はあります(小沢一郎に一貫した経済政策があるのかは謎ですが)。しかし、それは必ずしもこの3人がずっと持ち続けていた思想ではなく、社会からの要求を受け入れてのものだと考えたほうが自然なのではないでしょうか?
90年代から00年代にかけて、日本は「失われた20年」とも言われる不況の中で「改革」が要請され、小沢一郎、橋本龍太郎、小泉純一郎といった政治家はそれぞれのスタンスでそれに応えようとしたのでしょう。
ここから、「日本の「右傾化」は社会主導ではなく政治主導(政治エリート主導)である」という著者の主張は、「右傾化」に「新自由主義」的政策まで含めるのであれば、それは少し違うのではないでしょうか。
このように、この本の政治の捉え方はやや大雑把すぎると思います。
また、この本で描かれる「右傾化」という現象は否定的です。「寡頭支配」(26p)という言葉まで使われており、民主主義の否定へと突き進む現象です。
ただ、こうなると中曽根康弘、橋本龍太郎、小泉純一郎、安倍晋三といった首相の支持率が高かったことはどのように説明できるのでしょうか?
この本のなかでは「小選挙のマジック」という言葉が使われており、小選挙区制のもとでは、過半数に満たない得票率でも大きな議席を獲得できてしまう問題点が指摘されています。
確かにその通りです。しかし、小選挙区制というしくみは「右派」勢力以外にも適用されるわけで、実際、2009年の衆院選では民主党が小選挙区制のしくみを活かして圧勝しています。野党がまとまっていれば、小選挙区制は必ずしも自民党にだけ有利な制度というわけではないはずです。
やはり、著者が「新右派転換の波」とまとめる政治家たちがなぜ支持を得たのかという部分の分析がもっと必要でしょう。
個人的に、安倍首相の周囲にいる戦前の国家主義を賛美するような政治家の存在には危惧を覚えているので、著者の問題意識や危機感というものは分かりますし、興味深い論点もあるのですが、もう少し「新右派」的政策に対する国民の支持(特に「新自由主義」的な政策への支持)というものを受け止めて、その背景やリベラルの「失敗」を見ていく必要があると思います。
右傾化する日本政治 (岩波新書)
中野 晃一
4004315530
- 2015年08月09日00:24
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京都府天田郡(現在の福知山市)の天田郷開拓団の関係者からその資料を託されたことをきっかけにして満蒙開拓団について調べ始めた京都新聞の記者が、「満州移民とは何だったのか?」ということを明らかにしようとした本。
たんに京都からの満州移民のルポというようなものではなく、「国策」としての満州移民が、いかに立案・推進されたか、そして悲劇を生み出したのかということを幅広い視野で分析しようとした本でもあります。
満州移民という政策の問題点についての分析と、その政策が個々人にもたらしたものがバランスよく記述されており、非常に良い本になっていると思います。
1931年に満州事変が起こり、翌32年に満州国の建国が宣言されましたが、当時の日本の支配は「点」(都市)と「線」(鉄道)でしかなく、「面」の支配とは言えない状況でした。そこで、持ち上がったのは日本人の移民を屯田兵のような形で用いて、日本の支配を確立する政策です。
また、当時の日本の農村は零細経営と貧困にあえいでおり、満州への移民は満州の治安状況の改善と日本の農村の問題を解決する一石二鳥の政策でした。
特に「分村移民」は日本の農村問題を一気に解決するものとして注目されました。
例えば、農民がある程度豊かな暮らしをするために耕地が1町(約1ヘクタール)必要だとします。ところが、ある村では一戸あたりの耕地面積が0.5町だったとします。これでは農民は豊かな暮らしはできません。ところが、この村の農家の半数が広い未開拓地の広がる満州に移住したらどうでしょう。残った農家の耕地は倍に増え、移民した農家は満州でさらに広い耕地を手に入れることができます。これが「分村移民」です。
これはまさに「机上の空論」です。満州の広大な未開拓地といってもそこはもちろん無人の場所ではありませんし、気候も風土も違う満州で日本人の農民がうまくやれる保証もありません。
実際、自ら移民となって苦労した経験もある高橋是清は移民政策に予算をつけることを頑として認めず、「満州移民のトーチカ」(37p)とまで呼ばれました。この本には、東京帝国大学教授の那須皓(しろし)と京都帝国大学教授の橋本傳左衛門が満州移民推進のため高橋に面会を求めた際に、両人から「現地に行った経験がない」と聞くと軽く一蹴したそうです(39p)。
このエピソードからもわかるように満州移民の計画は、まさに「机上の空論」でした。
ところが、この「机上の空論」は、二・二六事件による高橋是清の死や、「国策」に協力しようとする「地方」によって実際のプロジェクトとして動き出してしまいます。
その時、「分村」の模範村として注目を浴びたのが長野県南佐久郡大日向村です。この大日向村は和田傳(つとう)の小説『大日向村』によって全国へと紹介され、満州移民の原動力の一つともなりました。
小説『大日向村』は、山に囲まれ貧困にあえいでいた「大日向村とは名ばかりの暗い日陰の村」が、満州移民を機に一つになり、満州の新天地をめざすというストーリーです。しかし、この本では、大日向村の財政危機が以前の村長らの使い込みなどが原因だったこと、歴史的にはむしろ裕福な農村だったこと、移民に行ったのは零細農家や家を継げない次男・三男だったこと、日中戦争が始まると周囲の鉱山が稼働しむしろ人手不足になったことなど、ストーリーには盛り込まれなかったもの、逸脱したものが紹介されています。
では、移民先の満州の様子はどうだったのか?
「満蒙開拓団」というと、無人の荒野を開拓するというイメージですが、彼らが入植した土地の多くは現地の人々を追い出して用意された土地であり、しかも実際の農作業も現地の「満人」任せという状態でした。
前述の天田郷開拓団の団長・和田昌純は故郷に次のように書き送っています。
このように、日本ではより貧しくより弱い立場に置かれていた移民でしたが、現地では「小さな権力者」でした。
しかも、「開拓」という名目はますます形だけのものになっていき、戦争がエスカレートし、民需向けの商工業者が失業すると、その失業者の受け皿として満州が着目されることになります。実際の農作業は中国人がやるということで、農業の経験はもはや必要とされなくなったのです。
一方、満州では関東軍の転出とそれを穴埋めするための現地招集によって人手不足となっており、新規の移民は歓迎でした(外村大『朝鮮人強制連行』(岩波新書)を読むと、本土と植民地の間で労働力の「奪い合い」が起きていたことがわかる)。
また、本土の人々は、空襲もない、本土決戦の不安もない、無敵の関東軍がいる、といった理由で、「安全な疎開地」(138p)と考える人も多かったのです。
しかし、この「安全な疎開地」は1945年の8月8日のソ連の日ソ中立条約の破棄によって吹き飛びます。関東軍は移民たちを守ることもせずに後方へと退却、軍や満鉄などの支配者層だけがいち早く前線から移動し、何も知らない移民たちがソ連軍と、日本人にとちなどをとり上げられて恨みをもつ中国人たちの中に取り残されました。
この本の第五章と第六章では、移民たちの厳しい逃避行や集団自決、収容所での悲惨な境遇などが描かれています。特に満州の各都市につくられた収容所の様子は悲惨で、改めて移民たちが日本という国家からも、また都市の居留民からも「棄てられた」存在だったことが見えてきます。
さらにこの本では引き揚げや、その後の日本での戦後開拓、シベリア抑留などについても触れています。結局、満州移民たちは戦争が終わった後も「国策の誤り」のツケを支払わされることになるのです。
著者はこの本の終章で次のように述べています。
また、同時に移民が中国人にとっては「加害者」であったことも指摘しており、この本は「満蒙開拓団の悲劇」を描くのみではなく、もっと大きな視野で満州移民という「国策」の失敗とその責任を問うものになっています。
「戦争責任」というと他国に対するもののみがクローズアップされますが、政府には自国の国民に対する責任というのもあるはずです(「戦争責任」という名称は当てはまらないかもしれませんが)。この本は満州移民の全体像を描くことで、その「責任」というものを鋭く問うものになっています。
移民たちの「満州」: 満蒙開拓団の虚と実 (平凡社新書)
二松 啓紀
4582857825
たんに京都からの満州移民のルポというようなものではなく、「国策」としての満州移民が、いかに立案・推進されたか、そして悲劇を生み出したのかということを幅広い視野で分析しようとした本でもあります。
満州移民という政策の問題点についての分析と、その政策が個々人にもたらしたものがバランスよく記述されており、非常に良い本になっていると思います。
1931年に満州事変が起こり、翌32年に満州国の建国が宣言されましたが、当時の日本の支配は「点」(都市)と「線」(鉄道)でしかなく、「面」の支配とは言えない状況でした。そこで、持ち上がったのは日本人の移民を屯田兵のような形で用いて、日本の支配を確立する政策です。
また、当時の日本の農村は零細経営と貧困にあえいでおり、満州への移民は満州の治安状況の改善と日本の農村の問題を解決する一石二鳥の政策でした。
特に「分村移民」は日本の農村問題を一気に解決するものとして注目されました。
例えば、農民がある程度豊かな暮らしをするために耕地が1町(約1ヘクタール)必要だとします。ところが、ある村では一戸あたりの耕地面積が0.5町だったとします。これでは農民は豊かな暮らしはできません。ところが、この村の農家の半数が広い未開拓地の広がる満州に移住したらどうでしょう。残った農家の耕地は倍に増え、移民した農家は満州でさらに広い耕地を手に入れることができます。これが「分村移民」です。
これはまさに「机上の空論」です。満州の広大な未開拓地といってもそこはもちろん無人の場所ではありませんし、気候も風土も違う満州で日本人の農民がうまくやれる保証もありません。
実際、自ら移民となって苦労した経験もある高橋是清は移民政策に予算をつけることを頑として認めず、「満州移民のトーチカ」(37p)とまで呼ばれました。この本には、東京帝国大学教授の那須皓(しろし)と京都帝国大学教授の橋本傳左衛門が満州移民推進のため高橋に面会を求めた際に、両人から「現地に行った経験がない」と聞くと軽く一蹴したそうです(39p)。
このエピソードからもわかるように満州移民の計画は、まさに「机上の空論」でした。
ところが、この「机上の空論」は、二・二六事件による高橋是清の死や、「国策」に協力しようとする「地方」によって実際のプロジェクトとして動き出してしまいます。
その時、「分村」の模範村として注目を浴びたのが長野県南佐久郡大日向村です。この大日向村は和田傳(つとう)の小説『大日向村』によって全国へと紹介され、満州移民の原動力の一つともなりました。
小説『大日向村』は、山に囲まれ貧困にあえいでいた「大日向村とは名ばかりの暗い日陰の村」が、満州移民を機に一つになり、満州の新天地をめざすというストーリーです。しかし、この本では、大日向村の財政危機が以前の村長らの使い込みなどが原因だったこと、歴史的にはむしろ裕福な農村だったこと、移民に行ったのは零細農家や家を継げない次男・三男だったこと、日中戦争が始まると周囲の鉱山が稼働しむしろ人手不足になったことなど、ストーリーには盛り込まれなかったもの、逸脱したものが紹介されています。
では、移民先の満州の様子はどうだったのか?
「満蒙開拓団」というと、無人の荒野を開拓するというイメージですが、彼らが入植した土地の多くは現地の人々を追い出して用意された土地であり、しかも実際の農作業も現地の「満人」任せという状態でした。
前述の天田郷開拓団の団長・和田昌純は故郷に次のように書き送っています。
「満人は本当に従順な可愛い人種です。少しも恐ろしいとか、不安だとか彼等から感じたことはありません。一人で三十人くらいの苦力を使うことも有りがちですが、素直によく命令通り働きます。入植前、何を怖がっていたのかと夢のようです。早く来てよかったとつくづく思っております」(116p)
このように、日本ではより貧しくより弱い立場に置かれていた移民でしたが、現地では「小さな権力者」でした。
しかも、「開拓」という名目はますます形だけのものになっていき、戦争がエスカレートし、民需向けの商工業者が失業すると、その失業者の受け皿として満州が着目されることになります。実際の農作業は中国人がやるということで、農業の経験はもはや必要とされなくなったのです。
一方、満州では関東軍の転出とそれを穴埋めするための現地招集によって人手不足となっており、新規の移民は歓迎でした(外村大『朝鮮人強制連行』(岩波新書)を読むと、本土と植民地の間で労働力の「奪い合い」が起きていたことがわかる)。
また、本土の人々は、空襲もない、本土決戦の不安もない、無敵の関東軍がいる、といった理由で、「安全な疎開地」(138p)と考える人も多かったのです。
しかし、この「安全な疎開地」は1945年の8月8日のソ連の日ソ中立条約の破棄によって吹き飛びます。関東軍は移民たちを守ることもせずに後方へと退却、軍や満鉄などの支配者層だけがいち早く前線から移動し、何も知らない移民たちがソ連軍と、日本人にとちなどをとり上げられて恨みをもつ中国人たちの中に取り残されました。
この本の第五章と第六章では、移民たちの厳しい逃避行や集団自決、収容所での悲惨な境遇などが描かれています。特に満州の各都市につくられた収容所の様子は悲惨で、改めて移民たちが日本という国家からも、また都市の居留民からも「棄てられた」存在だったことが見えてきます。
さらにこの本では引き揚げや、その後の日本での戦後開拓、シベリア抑留などについても触れています。結局、満州移民たちは戦争が終わった後も「国策の誤り」のツケを支払わされることになるのです。
著者はこの本の終章で次のように述べています。
満蒙開拓団は国策の犠牲者だったといわれる。国策には強制力があり、上からの支持に従うしかなかったと説明される。この見方に反論すれば戦争を体験していない者には分からないと諭される。もっともらしく聞こえるが、筆者は強い違和感を覚える。
「国策の犠牲者」という言葉は、想像力を奪い、思考を停止させる。犠牲者とは誰なのか、どこの何者が引き起こしたのかと、いま一度、厳しく問うべきではないか。言葉の使い方を誤り、加害の側に立つべき者の免罪符としてはならない。
満州移民は最後まで公募制を採用していた。表面上とはいえ、個人の意志が介在したのだ。強制力がある徴兵とは、根本的に異なっていた。国策だったが、地方には一定の裁量があった。積極的に推進するかしないかは、地方の判断であり、国情の空気を読みながら実行すれば事足りる世界だった。満蒙開拓事業において、国策の強制性とは、いかなる性質だったのか、時期と地域性を含めて詳細な検討が必要ではないかと思う。(255p)
また、同時に移民が中国人にとっては「加害者」であったことも指摘しており、この本は「満蒙開拓団の悲劇」を描くのみではなく、もっと大きな視野で満州移民という「国策」の失敗とその責任を問うものになっています。
「戦争責任」というと他国に対するもののみがクローズアップされますが、政府には自国の国民に対する責任というのもあるはずです(「戦争責任」という名称は当てはまらないかもしれませんが)。この本は満州移民の全体像を描くことで、その「責任」というものを鋭く問うものになっています。
移民たちの「満州」: 満蒙開拓団の虚と実 (平凡社新書)
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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「西東京日記 IN はてな」で。
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