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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2019年08月

日本史において中世と近世を分かつのが織豊政権であり、特に秀吉の行った太閤検地と刀狩に代表される兵農分離政策が大きな意義をもったと考えられています。
教科書的な知識だと、太閤検地は統一的な尺度を用いて行われ、また枡も京枡に統一され、土地の収穫量が石高で表されるようになった。戦国大名の行った検地の多くが申告制の指出検地であったのに対し、太閤検地は実際に計測された丈量検地であった、さらに検地帳に耕作者が記入されたことによって中世以来の複雑な土地所有の関係が整理され一地一作人の原則が確立した、といったところでしょうか。
では、この太閤検地は実際にはどのように進められ、どのような影響をもたらしたのか、これが本書の内容となります。本書を読むと太閤検地が長期にわたって試行錯誤を繰り返しながら行われたことがわかりますし、検地と大名の転封が相まって日本独自の近世封建社会が成立していったことが見えてきます。

目次は以下の通り。
序章 太閤検地と日本近世社会
第1章 織田政権下の羽柴領検地
第2章 「政権」としての基盤整備
第3章 国内統一と検地
第4章 大名領検地の諸相
第5章 「御前帳」「郡図」の調製
第6章 政権下の「在所」と「唐入り」
第7章 文禄検地の諸相
第8章 政権末期の慶長検地
終章 太閤検地の歴史的意義

まず、本書では「太閤検地」を「豊臣政権期に秀吉あるいは政権中枢が何らかの関与をして実施した土地調査」(5p)として、議論を進めています。
秀吉の検地に先行するのが織田信長により検地です。ただし、尾張では検知が行われた形跡がなく、主に新たに服属させた地方で検知が行われています。1577年(天正五年)の越前での検地では、村人すべてを立ち会いで村の領域を確定させ、指出に依拠しつつ場合によっては検地奉行が実検・丈量を行うなど、支配単位たる「村」とそこから取れる年貢である「村高」を確定させる作業が行われています。
1580年(天正八年)には秀吉によって播磨と但馬の検地が行われており、この検地に基づいて黒田孝高や加藤清正に知行が与えられています。

その後、いくつかの検地が行われますが、その性格が少し変わってきたと考えられるのは賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼしたあとにおこなれた越前での検地からです。増田長盛や伊藤秀盛のもとでかなり厳しい検地が行われたようで、寺領などの没収もあったようです。
また、このときに「検地の水帳」に記載された者が当該の耕地を「あいさばく」との原則が定められた地域もあり(28p)、土地の権利関係がある程度整理されていったこともうかがわれます。
ただし、丹羽長秀や前田利家といった僚将・盟友の収める地域に関しては、それぞれ独自の検地が行われたようで、統一的な検地が行われてはいませんでした。

秀吉の行う検地に対して、1585年(天正13年)の近江では大規模な逃散が起きるなど、在地社会の抵抗も根強くありましたが、この年に秀吉が関白に叙任されると、秀吉の立場は他の諸大名と隔絶したものとなります。
同年、丹羽長秀が没すると嫡子の長重が越前から若狭に転封となり、越前には堀秀政らが入ります。このころから大名の転封が相次ぎます。このあたりの事情について著者は次のように述べています。

ここで確認しておくべきは、秀吉自身はいうまでもなく、それを支えた家人たちの多くが土豪や在地の地侍、あるいはさらに下層の出身だったことであり、換言すれば彼らには確固として護るべき父祖伝来の地などもなかったという事実である。こうした存在の家臣たちにとって領地替え・所領替えといった措置も容易に受容しうるものだったと判断される」(47-48p)
さらに所領が石高という数値で示されることになったことが、その賞罰を明確にしました。また、検地によって「打出」と呼ばれる石高の増加が発生することが多いですが、その打出の分を没収するということも行われました(領主にとって石高は変わらないが領地の面積は減る)。

1587年(天正15年)秀吉は「国郡の境目にあり様については、双方の見解を充分に聞いて決定を下す」(56p)との方針に従わなかった島津氏を討ち、九州を平定します。さらに同年には丹波の検地を行い、公家たちの知行を丹波にまとめていきました。
さらに佐々成政に与えた肥後で国人一揆が起こると、秀吉はこれを鎮圧させるとともに肥後の検地を行って各郡の石高を確定させ、小西行長と加藤清正に与えました。この肥後国人一揆は刀狩令や海賊停止令を出すきっかけになったとも言われています。

1589年(天正17年)、東国平定をにらんで美濃一国の検地が行われます。この検地では300歩を基準面積とすること、京枡を用いて計量すること、地種・等級別で想定収量を設定するなど、統一的な基準で行われています。ただし、名請人(耕作者)に関する規定はありません。
1590年(天正18年)、北条氏が降伏し、伊達氏をはじめとする東北の大名が服属すると、秀吉は奥羽の検地を命じています。このとき秀吉は浅野長吉に対して、検地を受け入れない者は「撫で切り」しても構わないとの書状を出しています。新たな服属地に対する検地は非常に重要なものだったのです。ただし、この奥羽の検知では石高ではなく貫高が用いられるんど、現地の習慣に対する一定の配慮も見られます。
このころになると各大名領でもさかんに検地が行われるようになります。安房の里見氏の例のように秀吉配下の増田長盛が派遣されて行われるようなケースもありましたし、毛利領のように基本的に「私検地」ともいうべき豊臣政権が関わらない検地もありました。
こうした諸大名の検地を踏まえ、秀吉は「御前帳(ごぜんちょう)」と「一郡ごとの絵図」の調製と提出を諸大名に命じます。この「御前帳」は全国統一の基準で調整され、禁中に献納されました。
島津領のように検地ができず指出の収納量から逆算して石高を算出するようなケースもありましたが、この御前帳の作成を通じて。、京枡の使用がさらに広まり、「郷」という名前が「村」に変わってくるなど、さまざまなものの標準化が進みます。また、私検地の結果であってもそれが御前帳に調整され、禁中に献納されたことで、それは公的な性格を帯びてきます。

こうした中で、室町時代以来の在地社会のまとまりである「在所」のあり方も変化していきます。秀吉は1590年(天正18年)に在所から「侍」や「浪人」を追い払うように命じています。また、この侍や浪人が商人や職人になった場合でも同様に追い払うように求めています。
いわゆる「兵農分離」の政策のようにみえますが、著者は塚本学が指摘する「士農分離」という考えが重要だと指摘しています。兵は相変わらず農民からも徴収されましたが、それを率いる武士と兵卒の差がはっきりとしてきたのです。

1592年(天正20年)、秀吉は朝鮮へ軍勢を差し向けます。九州を中心とする西国の大名が動員されましたが、ここで大名が動員すべき軍勢の数は御前帳に書かれた石高が基になっています。
さらに「人掃い」が実施されます。これは先程の浪人停止の政策が全国に敷衍したもので、在所の奉公人、百姓を把握しようとするものでした。
さらに侵略した朝鮮半島でも指出を実施するなど、収納量と人口の把握に努めています。187−188pに書き出された朝鮮半島各道の石高を見る限り、きちんとした調査が行われたわけではないようですが、朝鮮半島の地も石高で表示し、その石高に応じて各大名に知行を与えようとしていたのです。

文禄の役が一段落したあとも、改易された大友吉統(義統)の領地をはじめとして各地で検地は行われます。このころになると検地のやり方もかなり統一的になり、それとともに打出が生じています。この打出を配下への加増に回すなどして、豊臣政権、そして各大名は支配力を強めていくのです。
1592年(天正20年)に行われた島津領の検地は石田三成の主導で実施され、36万石の打出に成功します。そして、改めて島津家中の者に配分されるとともに、豊臣氏の蔵入地、石田三成の知行も設定されています(216pの表参照)。島津氏の家中への支配力が強まるとともに、豊臣氏の島津氏への支配力も強まる仕組みでした。
他にも佐竹領などで同じような検地と豊臣氏の蔵入地の設置などがなされています。

1598年(慶長3年)に上杉景勝が越後から会津へと転封になると、玉突き的に大名の転封が行われます。越前や加賀でも大名の転封が行われ、越前と南加賀で大規模な検知が行われました。賤ヶ岳の戦い後の越前検地では1反=360歩だったのですが、今回は1反=300歩となるなど、より標準化された方法で行われ、検地後には豊臣家蔵入地が大きく増加しました。しかし、この検地が終わった直後に秀吉が没したことから、これが最後の「太閤検地」となりました。

終章では先行研究の検討などを行いながら、改めて太閤検地の意義が分析されています。
まず、よく言われる「一地一作人の原則」により、土地の権利関係が確定したとの考えですが、必ずしも耕作者の登録は徹底されておらず、むしろ村請制が確立する契機となりました。「すなわち、太閤検地は必ずしも農民の土地保有権や経営権の確保などを目論んだものではなく、「村」の立ち上げと「村請制」の始動を期したものと考えるべき」(258p)なのです。
秀吉が関白にまでなると、天皇の権威のもとでの国土の掌握といった性格が強くなり、ときに国郡の境目の確定が重視されるようになります。当時の争いの多くが境目をめぐるものだったからです。
また、領地が石高という数字で表されるようになったこと、「人掃い」によって武士とそれ以外の者の違いが明確になったことなどによって、大名の転封が容易になりました。結果として、「豊臣政権の末期にいたると、戦国以来の故地にいたのは中国の毛利氏と九州・奥羽などの遠隔地の諸大名に限られてくる」(263p)のです。そのうえで著者は本書を次のように結んでいます。

むしろ、故地にあり続けた毛利氏などが例外なのであり、原理的にすべての「国土」は天皇あるいは秀吉の手に帰し、以後江戸時代を通じて大名・給人は在地性を否定された「鉢植え」の領主として存在することになる。こうした世界史的にも稀有な「封建制度」を可能にし、それを根本で支えたのが一連の太閤検地と称される政策であった。(263p)
秀吉が主導した、またはその時期に各大名が行った検地について時系列的に多数取り上げているために、やや検地そのものについての大きな流れは捉えにくい面もあるのですが、時系列で論じることによって、上述のような戦国時代の中世的な封建制度が近世的な封建制度へと変化していく様子は見えてくるのではないかと思います。
太閤検地という政策を知る上ではもちろん、兵農分離や近世の村落といったことを考えていく上でも重要なことを教えてくれる本になっていると言えるでしょう。


キャッシュレス社会にシェアエコノミーに信用スコアと、ものすごい勢いでハイテクが普及しつつある中国。その姿はこれからのテクノロジー社会を予見させるようでありつつ、同時に多数の監視カメラや政府によるネット検閲などもあって近未来のディストピアを予見させるようでもあります。
そんな中国社会をどのように考えればよいのか? という問いに向き合ったのがこの本です。『なぜ、習近平は激怒したのか』(祥伝社新書)、『現代中国経営者列伝』(星海社新書)などの著作があるジャーナリストの高口康太が、誤解も多い現在の中国のテクノロジー社会の状況を紹介し、『「卵と壁」の現代中国論』『日本と中国、「脱近代」の誘惑』『中国経済講義』(中公新書)などの著作がある経済学者の梶谷懐が、功利主義や市民的公共性といった概念を使って中国社会をいかに考えるべきなのかということを分析しています。

まず現在の中国の監視社会の状況を把握する事ができる本ですし、中国で進行していることが中国という特殊な政治体制にのみ当てはまるものではなく、日本をはじめとする他の国々でもあり得るものだということを明らかにしています。さらに終章でとり上げられている新疆ウイグル自治区ではそのあり方が一線を越えてしまっており、非常に考えされられる内容です。
中国に興味がある人だけではなく、広く情報社会論に興味がある人(例えばローレンス・レッシグや東浩紀の情報社会論などを面白く読んだ人)にもお薦めできます。

目次は以下の通り。なお、第1章と第5〜7章を主に梶谷懐が、第2〜4章を主に高口康太が執筆しています。
第1章 中国はユートピアか、ディストピアか
第2章 中国IT企業はいかにデータを支配したか
第3章 中国に出現した「お行儀のいい社会」
第4章 民主化の熱はなぜ消えたのか
第5章 現代中国における「公」と「私」
第6章 幸福な監視国家のゆくえ
第7章 道具的合理性が暴走するとき

中国では多数の監視カメラが設置され、交通違反者の顔が大スクリーンでさらされるといったシステムがあり、さらには個人を格付けするようなスコアも開発されています。まさにジョージ・オーウェルの『一九八四年』の世界のようですが、実はこのイメージは的確ではないといいます。
実は個人を格付けする信用スコアは民間企業がやっていることで、政府が一元的に管理しているわけではありません。その他のテクノロジーに関しても利便性の追求のもとで生まれているものが多く、どちらかというとオルダ・ハクスリーの『すばらしい新世界』に近いイメージなのです。

世界を席巻しているGAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)ですが、中国市場には食い込めていません。もちろん、これには中国の「Great Firewall」とも呼ばれる一種のネット鎖国のようなシステムの存在が大きいですが、第2章ではそれ以外の要因も指摘されています。
例えば、アリババがAmazonに勝てたのは、「誰から買うか」を重視した「人軸のEC」の仕組みがあったといいます。粗悪品も流通する中国では信頼できる人や店舗を見つけることが重要なのです。
このEC(電子商取引)の拡大を支えたのがモバイル決済です。現在はこれがネット以外の場所でも使われるようになっていますが、このモバイル決済では、誰がいつ、どこで、どのようにお金を使ったがわかります。そして、このデータはGoogleやFacebookでも収集することが難しいデータです。こうしてアリババやテンセントといった中国のIT企業はデータの面でアメリカのIT企業に対して優位に立つことができたのです。
また、ウーバーなどに代表されるギグエコノミー(超短期の仕事で1回毎に報酬を受け取るスタイル)でも、中国はもともとそういった生活を送っていた人が多かったこともあって先行しています。そして、ここでもさまざまなデータが収集されていると考えられるのです。

こうしたことを踏まえて第3章では中国の監視社会と信用スコアなどの実態が語られています。
中国では行政の電子化が進み、煩雑だった行政手続きはアプリで行えるようになりました。さらに国中に設置された監視カメラは顔認証テクノロジーなどが強化され、中国社会の治安を向上させました。一時期の中国では一人っ子政策の影響もあり、子どもの誘拐が多発していましたが(身代金目的ではないので戻ってこないケースが多い)、監視カメラシステムによって未解決事件は激減しました。さらに殺人事件なども減っていおり、監視カメラは人々に安心をもたらしているとも言えるのです。

そうした中で日本からも注目を浴びているのが「社会信用システム」です。日本の報道だと中国が国家としてこうしたシステムを構築しているように捉えているものもありますが、実態は少し違います。
まず、登場したのは金融分野における信用スコアです。お金を貸すには相手が信用できる人物なのかを知る必要があり、例えば日本のサラ金でもお金を借りた情報を共有していました(『ナニワ金融道』に出てきたやつ)。中国ではクレジットヒストリーをもたない人が大量にいたために、彼らの信用度を図るものとしてネットショッピングやモバイル決済の履歴、さらには学歴やネットの人間関係などが利用され、それがスコアという形で点数化されるようになります。
そして、こうしたものが金融以外の分野にも使われ始めており、その代表がアリババの「芝麻信用」とテンセントの「謄訊征信」です。

一方で、個人情報を「懲戒」の仕組みとして利用しようというのが「失信被執行人リスト」です。中国では近年さまざまなブラックリストが作成され、2014年にはそれが連結され、一括して検索できるシステムの構築が始まりました。この中で法の執行に従わなかった者などを載せているのが「失信被執行人リスト」です。そして、この賠償金を支払わないなどしてこのリストに載った者には高速鉄道に乗れないなどのペナルティがあるのです。

さらに中国では地方自治体が独自の信用スコアを導入しようとする動きもあります。個人の道徳をスコア化して人々を望ましい方向へと誘導しようというのです。
例えば、山東省威海市栄成市では「お墓参りで紙銭を燃やしたり爆竹を鳴らしたりすればマイナス20点」「派手すぎる結婚式はマイナス10点」「栄成市を飛び越えて上級自治体に陳情したらマイナス10点」(96-97p)などと定められており、農民たちの生活習慣や行動を改めようという意図がうかがえます。
ただし、現時点で有効に稼働している自治体は少なく、あくまでも「紙の上のディストピア」(98p)に留まっているのが現状のようです。しかし、これが単なる「ディストピア」ではなく、リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンが主張するリバタリアン・パターナリズムの「ナッジ」の仕組みと近いものであることも押さえておく必要があるでしょう。

こうしたシステムはネットの普及と重なる形で進化しています。このネットの普及は、一時期中国の民主化をもたらすのではないかと期待されましたが、現在のところその予想は外れたと言っていいでしょう。
2009年に微博(中国版Twitter)がリリースされ、デモや騒擾事件の様子がまたたく間に拡散されました。2011年の烏坎(うかん)事件では地方政府に対する農民の抗議運動が微博で中継され、それが海外メディアにもとり上げられ、地方政府が譲歩を余儀なくされました。この時期、中国では地方政府の非法をネットなどを使って上級政府に訴えるというやり方が多発します。水戸黄門を待望するような形ではありますが、庶民が声を上げる動きが起こったのです。

ところが、2012年に習近平が国家主席になると状況は一変します。習近平は「反腐敗キャンペーン」によって共産党の大物を逮捕するとともに、有名ブロガーや人権派弁護士などを次々と逮捕し、世論を萎縮させます。さらにネットの監視員や世論誘導員を増員し、検閲を強化したのです。
しかもこの検閲は巧妙になっており、単に発言を削除するのではなく、検索されない、リツートできないなど本人も気づかないような形で行われていることもあります。さらにネットの書き込みにも信用スコアを導入しようという動きもあります。一定の点数を下回るとフォローされたりリツイートされなくなるなどの仕組みを通じて自己検閲をさせようというものです。しかも「祖国を熱愛することを栄光とし、祖国に害を与えることを恥とする」といった定型文を書き込むとポイントの回復が早くなるなど(134p)、いかにも共産党っぽい仕組みもあります。
こうした中で、ネットにおける社会問題に関する書き込みは減少していき、ネットの話題はエンタメ情報などへと移っているのです。

第5章からは理論的な考察に入っていきます。西洋社会において「市民社会」は、法の下で平等である個人の政治参加と、経済における私的利益の追求が重なる形で発展してきましたが、中国では「公」が正しく「私」は悪であるする儒教的な伝統が根強くあり、国家も市民社会も「天理」に従うことによって正当性を得られるのだという考えがあります。
こうした中で、市民たちが自ら従うべき規範を定めていく法の支配は確立されにくく、高い徳を持った者による正義の支配ともいうべきものが求められがちなのです。
中国の右派と左派は日本とは違い、右派がリベラリスト、左派がナショナリストとなります。左派が要求するのは経済的な平等であり、「経済面における「平等化」の要求は、国家権力を制限するのではなく、むしろパターナリズムを容認し、強化させるほうに働きがちです。」(165p)
ここに市民生活に対する政府の介入を受け入れる余地がありますし、市民社会による政府の「監視」といった働きも期待しにくいです。

第6章では、功利主義やカーネマンの「心の二重過程論」を手がかりに、監視社会がある意味で「理にかなったもの」であることを示しつつ、分析を進めていきます。
功利主義は帰結を重視します。ですから、場合によっては自由を制限することも正当化されます。例えば、車に乗るとついあおり運転をしてしまう人間がいるならば、先回りしてその人間には車を貸さない、運転をさせないといったふうにしたほうが、周囲にとってもその人にとってもいいことかもしれません。自由を制限することで「幸福」は増加するのです。
また、カーネマンは人間の脳内には直観的に判断を下す「システム1」と意識的な判断を下す「システム2」があると想定しています。「システム2」はかなりの注意力を必要とするものであり、人々は多くの場合、直観的に「システム1」に従い、ときに間違います。
しかし、将来はAIがこの「システム2」の代わりをしてくれるかもしれません。AIによる示唆や判断は人々が間違いを犯す可能性を低下させてくれるでしょう。

この「心の二重過程論」に関連する議論としてスタノヴィッチの「道具的合理性とメタ的合理性」という考えがあります。「道具的合理性」は目的を達成するために発揮されるもので、「メタ合理性」とは、そもそも目的の正しさなどを問うものです。
著者はこの考えを用いて、市民社会では市民が議会やNGOなどの「メタ的合理性」を担うシステムをつくり、それが「道具的合理性」を発揮する企業などを規制・監視するという仕組みを考えています。一般の人は「システム1」に従って直観的に生きていますが、議会などを通じて「道具的合理性」の正しさを問うことができるというわけです。
ところがビッグデータなどの解析によって、巨大IT企業が「システム1」に従って生きる人々からデータを吸い上げて、人々に快適な生活を提供する「アルゴリズム的公共性」(186p)とも言うべきものが生まれようとしています。
そして、著者はこの「アルゴリズム的公共性」が中国の「天理」と親和的だと考えています。データによって「可視化された人民の意志」(201p)もとに、腐敗を正しつつ、市民の不満の芽を摘み取るような政治が行われる可能性もあるからです。
そして、これは中国だけの問題ではありません。「市民的公共性」が弱いとされる日本をはじめとするアジア諸国では、この「アルゴリズム的公共性」が肥大化していく可能性が十分にあるのです。

最後の第7章では新疆ウイグル自治区の状況が語られています。2009年にウルムチで起きた暴動を機に中国政府はウイグル族の民族主義的な動きを「対テロ闘争」として抑え込んでいます。
新疆ウイグル自治区には「再教育キャンプ」と呼ばれる収容所がつくられ、テロの疑いをかけられた者だけでなく、ビジネスマンや大学教授までも収容され、共産党や習近平への忠誠を誓う言葉を毎日唱えさせられた上に、「職業訓練」という名で単純労働に従事させられているのです。
さらに地方政府の役人がテュルク系住民の家庭に滞在したり、住民のスマホにスパイウェアのインストールを義務付けるということも行っています。さらに住民からのDNAの採取、話し声や歩き方などの生体情報の収集も行われており、まさにディストピアが出現しているのです。

では、こうした監視社会にどう対峙すればいいのか?
第3章では、大屋雄裕の議論が紹介されています。大屋は考えられる将来像として、私企業のアーキテクチャによって個人の行動が制限され政府によるコントロールが及ばなくなる「新しい中世の自由主義」、一部のエリートや彼らに選ばれた公権力がデータを集中的に管理する「総督府功利主義のリベラリズム」、市民もエリートも政府もお互いがお互いを監視し合う「ハイパー・パノプティコン」の3つを提示しています。
しかし、中国のような権威主義体制では「ハイパー・パノプティコン」は機能しがたいでしょう。そんな中で、著者は王力雄の『セレモニー』という小説を紹介しながら、独裁者にもテクノロジーが見渡せなくなり、ある種の相互監視が生まれるような可能性を示唆しています。

このように本書は中国の実情を紹介するだけではなく、日本、そして全世界がこれから直面する問題を示しています。
日本でも導入当初こそ監視カメラは気持ち悪く思われましたが、数々の事件解決に寄与する中で、犯罪防止のために監視カメラを設置しようという考えは当たり前になっています。交通違反者をモニターに大写しにすることには抵抗を覚えても、あおり運転の車を自動的に割り出して、免許の点数を差し引くようなシステムなどがあれば歓迎する日本人も多いでしょう。本書を読むと、中国が「異なる世界」ではなく「地続きの世界」であることがわかります。欧米のような市民的公共性が弱い日本では監視テクノロジーに対するブレーキも弱いかもしれません(ただし、個人的には日本人の一般的な他者に対する不信、政府に対する不信がブレーキになると思う。羅芝賢『番号を創る権力』で指摘されているように日本での総背番号制は何度も挫折しており、特に政府によるビッグデータの把握は相当遅れるのでは)。
最初にも述べたように、中国に興味がある人だけでなく、これからの情報社会を考える上でも広く読まれるべき本でしょう。



新聞記者としてアフリカに駐在し、現在は大学教授となっている著者が、Webメディアの「朝日新聞GLOBE+」に書いたエッセイなどを中心に構成された本。巻末には『平和構築入門』、『ほんとうの憲法』(ともにちくま新書)などで知られる篠田英朗との長めの対談も掲載されています。
アフリカの現状を紹介しているエッセイも多いですが、それとともにポイントとなっているのが、タイトルにもある「アフリカから見る」という部分で、アフリカから国際情勢などを読み解くことによって、現在の日本が置かれている立場などがわかるようになっています。

目次は以下の通り。
1 アフリカを見る アフリカから見る
第1章 発展するアフリカ
第2章 アフリカはどこへ行くのか
第3章 世界政治/経済の舞台として
第4章 アフリカから見える日本
2 アフリカに潜む日本の国益とチャンス(篠田英朗との対談)

21世紀になり、資源価格の上昇もあってアフリカ経済は発展しました。今後の経済成長に関しては不透明な面もありますが、人口の増加などにより今後アフリカの国々のプレゼンスが大きくなってくることは確実です。2100年には人口上位10カ国のうち5カ国がサブサハラのアフリカ(ナイジェリア、コンゴ民主共和国、タンザニア、エチオピア、ウガンダ)になるという予想となっており、2100年には人類の3人に1人はサブサハラの住民になるというのです。
一方、アフリカの農業の生産性は低く、アフリカ全体の1ヘクタールあたりの穀物生産量は約1.6トンと、日本や中国の約6トンに比べると大きく見劣ります。
このようにアフリカには問題とともにビジネスチャンスもありますが、アフリカにおける日本の存在感は薄いです。アメリカのロサンゼルスの日本総領事館の管轄下だけで約9万6000人の日本人がいるといいますが、アフリカ54カ国にいる日本人の合計は7591人にすぎないのです(20p)。

本書では発展するアフリカ諸国の例としてエチオピアを紹介し(2016年、エチオピアのGDPはナイジェリア、南アフリカ、アンゴラに次ぐ第4位になった。ただし2017年に通貨切り下げがありケニアに抜き返された)、また、近年アフリカへの投資を積極的に行っている中国のプレゼンスについて触れています。
日本では比較的中国の進出によるマイナス要素が伝わりがちですが(「雇用や資源を奪っている」など)、現地の人びとの中国に対する印象は悪くなく、不満があるのは「安いが壊れやすい中国製品」についてです。日本で広がっている話の裏には「「中国はアフリカで嫌われていてほしい」という日本人の願望」(98p)があるのではないかと著者は見ています。

一方の日本は、アフリカへの投資に及び腰です。例えば、エボラ出血熱が西アフリカで流行すると、日本ではアフリカ大陸全体への渡航を自粛する動きが起こりました。西アフリカと南アやエチオピアは5000キロ近く離れており、ネパールで感染症が流行した時に日本への渡航を自粛するのと同じようなものです(39−40p)。
また、日本では「インフラも金融機関もないアフリカでどんなビジネスができるのか?」という声も根強くありますが、固定電話や銀行はなくても、携帯電話やモバイルマネーサービスがそれを代替しつつあります(120−124p)。アフリカにはアフリカなりのビジネスチャンスがあるのです。

ただし、やはりまだアフリカは多くの問題も抱えています。第2章の「アフリカはどこへ行くのか」では、そうした問題がとり上げられてます。
まずは著者がミャンマーに行ったときの経験が語られていますが、著者は畦があり稲が直線的に並んでいる(正条植え)ミャンマーの水田を見て感銘を受けたといいます。日本では当たり前ですが、アフリカでは畦もなく正条植えもされていないことが一般的なのです。ただ、だからこそまだまだ食糧増産の余地があるとも言えます。

また、政治の不安定性も大きな問題です。ここではコートジボワールとケニアがとり上げられています。
コートジボワールは60年の独立から80年にかけて高い経済成長率を誇りましたが、大統領の座を巡る対立の中でナショナリズムが台頭し、それが社会を不安定化させます。もともとこの地域の国境はフランスが勝手に決めたものですが、コートジボワール生まれを意味する「イボワリアン」というグループの優越を主張するものが現れ、それが内戦につながりました。
ケニアでは2007年の大統領選のあと、結果に不満を持つ集団による暴力行為が行われました。その担い手は角材や斧などで武装した一般市民であり、武装勢力などではありません。ルワンダでもそうでしたが、アフリカでは一般市民が集団的な暴力の担い手となることが多いです。もともと集団になると「集団極性化」といって行動がエスカレートすることが多いのですが、警察力の弱さがこうした行動にブレーキを掛けられない要因ともなっています。

さらに第4章では南アフリカで頻発する外国人への襲撃をとり上げています。暴力の担い手は黒人ですが、ターゲットは白人やアジア系ではなく、モザンビークやジンバブエなどからやってきた外国人労働者です。
雇用側にとって、権利意識が強い南アの黒人よりも外国人労働者のほうが使い勝手の良い存在であり、そのために南アの黒人の失業率は高く、その不満が外国人労働者へと向けられているのです。このあたりは今後日本が直面するかもしれない問題でもあります。

では、こうしたアフリカに日本が関わるべき理由は何でしょうか?
1つは国連中心の外交を行おうとした場合にアフリカが決定的に重要だからです。2004〜05年にかけて国連の安保理改革が叫ばれ、常任理事国入りを目指す日本・ドイツ・インド・ブラジルのG4が熱心に活動を行いました。
このときに鍵を握ったのがアフリカの動向です。日本はアフリカから2カ国の常任理事国を出すという案、ただし日本をはじめとする新しい常任理事国は拒否権をしばらく凍結するという内容でアフリカ諸国の取りまとめをはかります。AU(アフリカ連合)の議長であったナイジェリアのオバサンジョ大統領に働きかけ、2005年のAU首脳会議でアフリカを一本化しようとします。
しかし、ここで猛烈な反対を行って会議をひっくり返したのがジンバブエのムガベ大統領でした。そして、その裏には中国の働きかけがあったといいます(会議の9日前にムガベ大統領は中国を訪問し経済協力文書に署名している)。
また、PKOなどの活動に関わろうとするのであれば、アフリカに関わらざるを得ない状況です。最後の対談で篠田英朗も指摘していますが、「21世紀になってからできたPKOオペレーションはほほぼ全てアフリカ」(195p)であり、日本がPKOによる国際貢献を行おうとすれば、その舞台はアフリカにしかないのです。
しかし、日本の自衛隊は南スーダンから撤退してしまいました。南スーダンはアフリカの中で特に危険なオペレーションというわけではなく、中央アフリカやマリでの活動に比べれば、その危険性は小さいにも関わらずです(201p)。
著者は、90年代後半以降、ルワンダの虐殺事件などを受けてPKOの性格が変わってきているにも関わらず、日本が四半世紀前に決めたPKOの「参加5原則」に固執していることが問題だと言います。「日本の国連PKOへの参加は、派遣されている自衛隊員の練度や規律の正しさでは世界最高水準にあるものの、制度設計の点では国連の基準からも世界の紛争の現実からも遠くかけ離れている」(154p)のです。

この問題は篠田英朗との対談で、北岡伸一の言う「右の鎖国」と「左の鎖国」の問題に絡めてとり上げられています。「右の鎖国」とは、「日本すごい!」といって日本に閉じこもる右派であり、「左の鎖国」とは憲法9条を金科玉条としてPKOなどの危険な任務に反対する左派のことです。この2つの「鎖国」的態度のもと、PKOなどに関する議論が進まず、結果的には平和構築などで日本は存在感を示すことができていないというのが二人の見立てになります。
こうした考えに反論がある人もいるでしょうが、比較的現場に近い人の考えとして読み応えのある対談となっていると思います。

この他にも、アフリカから見ると北朝鮮は意外に孤立していなということをレポートした第3章の「北朝鮮は本当に孤立しているのか?」、日本の「英語公用語論」に疑問を呈した第3章のコラム「英語礼賛は何をもたらすのか」が面白かったです。
北朝鮮は日本の報道を見ていると「世界の孤児」のようにも見えますが、コンゴ共和国には2012年まで北朝鮮が建設した武器工場があり、ウガンダは北朝鮮との間でウガンダの警察官を北朝鮮が訓練をする取り決めを結んでいました。2014年に国連で採択された北朝鮮の人権状況を非難する決議でもアフリカ54カ国の半分以上の29カ国が反対・棄権・欠席に回っており、少なくともアフリカには北朝鮮に対する厳しい包囲網のようなもはないのです。
また、英語に関しては、著者は企業が英語を重視することや英語教育の充実には賛成だとしながら、英語公用語化には反対だと言います。アフリカ諸国では英語やフランス語が公用語になっており、高等教育を受けた人は流暢な英語やフランス語を話しますが、地方に行くと現地語しか通じない地域も多いです。こうなると国民は2つの層に分断されていきます。

もともと存在した現地諸語に英語を公用語として加えた言語環境は、英語を操る少数の知識層・富裕層・権力者層と、英語を解さず社会の意思決定過程から疎外された圧倒的多数の人々との格差を広げる方向に作用することはあっても、その逆ではなかったのである。(130p)

もともとがWeb媒体のエッセイということもあって、一つ一つのトピックに関する掘り下げはそれほど深くはないですが、そのトピックの着眼点に関しては非常に面白いと思います。
タイトルからすると「アフリカを見る」という点に関してはもう少し掘り下げてほしいという点もあるのですが、「アフリカから見る」という点に関しては非常に面白くオリジナリティのある内容になっているのではないかと思います。アフリカだけでなく、広く国際政治や国際協力について興味のある人におすすめできる内容と言えるでしょう。


第二次世界大戦の帰趨を決めたのは、日米の太平洋での戦いでもノルマンディー上陸作戦でもなく独ソ戦であったことは多くの人が認識していることだと思います。
だからこそ、独ソ戦に関してはよく「歴史のif」が語られます。例えば、小説ではありますがスティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』では、ヒトラーが対ソ戦を決断しないことでナチ・ドイツがヨーロッパを制圧している世界が描かれていましたし、作戦面に関しても、「ドイツが冬季の作戦にもっと慎重だったら...」とか「ヒトラーが作戦に介入しなければ...」といったような事が言われ、「第二次世界大戦においてドイツの勝った世界」という想像を刺激されるのです。
ところが、この本を読むと、ドイツにとって対ソ戦はヒトラーのきまぐれではなく必然であることがわかりますし、ドイツ敗北の理由も、ヒトラーの介入や冬の厳しさといった部分ではなく、もっと根本的なところにあることが見えてきます。
また、著者は防衛研究所講師や陸上自衛隊幹部学校講師なども務めた人物で軍事面の記述は当然ながら充実しているわけですが、248ページというテーマにしてはコンパクトな紙幅のなかに、軍事面にとどまらない独ソ戦の側面を盛り込んでおり、非常に読み応えのある内容となっています。

目次は以下の通り。
第一章 偽りの握手から激突へ
第二章 敗北に向かう勝利
第三章 絶滅戦争
第四章 潮流の逆転
第五章 理性なき絶対戦争

1941年5月、スターリンのもとには日本にいたゾルゲをはじめとしてさまざまなルートからドイツの侵攻が近いという情報が寄せられていましたが、スターリンはイギリスが独ソの仲を裂こうとしている謀略だと考え、ドイツに対する備えを固めませんでした。また、1937年から始まった大粛清によって軍の将校たちの多くが処刑されており、ソ連軍の弱体化は隠しようがない状況でした。
一方、ヒトラーは1940年の後半に徐々に対ソ戦の決意を固めていったと考えられています。もともと東欧からロシアにかけてドイツの「生存圏」を確保すべきだと考えていたヒトラーは、英本土制圧の行き詰まりもあり、ソ連を屈服させることでイギリスの抗戦意思をくじこうとしたのです。
1940年の12月18日にヒトラーから対ソ戦実行の指令が下りますが、国防軍もハルダー陸軍参謀総長のもとルーマニアの油田を確保するために対ソ戦の覚悟を固めていました。

ヒトラーはソ連を一撃で屈服させる作戦を望みましたが、陸軍が立案した作戦もかなり楽観的なものでした。陸軍のマルクス・プランではソ連侵攻作戦は「全部で9ないし17週で完遂されるとみていた」(25p)のです。
最終的に北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団の3つの軍集団による「バルバロッサ」作戦が決まりますが、ヒトラーだけでなく国防軍もソ連軍を過小評価しており、非常に甘い見立てとなっていました。

第2章は「敗北に向かう勝利」と題されていますが、この部分は読みどころの一つだと思います。
ドイツは緒戦で圧倒的な勝利を収め、中央軍集団は開戦1週間でソ連領内400キロの地点にまで進撃しています。ヒトラーだけでなく、ハルダーも「ロシア戦役は二週間のうちに勝利した」(38p)と豪語しました。
一方、ソ連は無謀な反撃によってかえって傷口を広げていきました。指揮官の能力、兵站、通信などに劣っていたソ連軍にはドイツに反撃する力はなく、ドイツ中央軍と対峙したソ連西正面軍は62万5000の兵力のうち、20日も経たないうちに41万以上の戦死者、戦傷者、捕虜を出したのです。

このドイツの快進撃を可能にしたは作戦は「電撃戦」という言葉で知られています。ただし、「電撃戦」という言葉はのちに使われるようになった言葉で軍事用語ではありません。第一次世界大戦中に完成された「浸透戦術」の考えをもとに、戦車や航空機を用いて大規模に行ったのでが「電撃戦」と呼ばれる作戦様態です。
突進部隊によって相手の通信・補給能力を寸断し、後続部隊が弱体化した敵を殲滅するこの作戦はフランスにおいて大きな戦果をあげました。
しかし、ロシアでは思うようにはいきませんでした。ロシア軍は補給路を絶たれてもしぶとく抵抗しましたし、「電撃戦」を可能にする道路状況も非常に劣悪で進軍のスピードは鈍っていきました。

6月下旬のミンスク包囲戦ではドイツは33万人余のソ連軍捕虜を得ますが、戦闘能力を持った部隊の脱出を許し、無視できない損害を得ました。頼みの装甲部隊に関しても、稼働できない戦車が増え、その攻撃力と機動力はダメージを受けていました。
7月のスモレンスクの戦いでも、ドイツ軍は個々の戦いで勝利を収めスモレンスクを占領するわけですが、ソ連主力の包囲殲滅に失敗し、大きな損害を被りました。オーストラリアの研究者デイヴィッド・ストーエルは「ドイツが「バルバロッサ」作戦に失敗したのは、大戦闘で惨敗したことによるものでもなければ、ソ連軍の善戦ゆえというわけでもない。彼らは、戦争に勝つ能力を失うことによって失敗したのである」(59p)と述べています。ストーエルによれば、41年8月の時点で「ドイツはもう対ソ戦の敗北を運命づけられていた」(61p)のです。

このように当初のプランが揺らぐなか、ドイツではヒトラーと国防軍の間で考えの違いが表面化します。国防軍がモスクワの早期攻略を主張したのに対して、ヒトラーはコーカサスの油田地域への進撃やレニングラードの孤立化などを主張したのです。
モスクワ進撃を主張する国防軍の移行を押し切って、ヒトラーはキエフでのソ連軍の包囲殲滅を目指します。このキエフ会戦の戦果は飛び抜けたものでソ連の4個軍を壊滅させましたが、ハルダーを始めとする国防軍のメンバーは、戦後になってこれは時間の浪費だったと主張しています。これによってモスクワへの進撃が遅れ、ドイツはモスクワ攻略に失敗したというのです。
ただし、近年の研究によれば補給などの問題により当時のドイツ軍にモスクワへの迅速な進撃は不可能であり、また、モスクワを攻略がソ連に致命的なダメージを与えたのかというと、それも確かではありません。
そして、ちょうどモスクワ攻略が失敗に終わった頃、日本の真珠湾攻撃とともにドイツはアメリカに対して宣戦布告を行います。

第3章では個々の戦闘から一旦離れて、独ソ戦の性格が検討されています。独ソ戦には「通常戦争」「世界観戦争」「収奪戦争」という3つの性格があり、徐々に「通常戦争」の面が後景へと退き、「世界観戦争」「収奪戦争」の色彩が濃くなっていくのです。
ヒトラーの構想によれば、まずはヨーロッパ大陸においてソ連を打倒して東方植民地帝国をつくり、その上で世界の覇権をかけてアメリカ(+イギリス)との戦争が行われることになっていました。つまり、独ソ戦はヒトラーの「プログラム」を実現するためには不可欠なものだったのです。

一方、独ソ戦は経済面から必要とされました。ヒトラーは第一次世界大戦において国民に負担をかけた結果、革命が起こって敗北したという「1918年のトラウマ」の影響からか、軍備拡張とともに国民の生活水準の維持を求めました。
しかし、この政策により資源も労働力も不足してきます。こうした事態に対しては、軍拡の抑制、または日本でも行われた厳し経済統制と国民の勤労動員の強化という方策が考えられますが、ドイツが選んだのは「他国の併合による資源や外貨の獲得、占領した国の住民の強制労働により、ドイツ国民に負担をかけないかたちで軍拡経済を維持」(88p)するというやり方でした。戦争は内政面からも要請されていたのです。
ドイツの食料供給の責任者であったヘルベルト・バッケは「戦争三年目に、国防軍全体がロシアからの食料によって養われるようになった場合にのみ、本大戦は継続し得る」(95p)と述べています。

このようにドイツの戦争目的の一つが収奪であったことから占領地域では厳しい収奪が行われたわけですが、さらに東部戦争ではナチのイデオロギーが前面に出た「世界観戦争」=「絶滅戦争」となったことから、占領は過酷、さらには不合理なものとなっていきます。
ラインハルト・ハイドリヒのもとに「出動部隊(アインザッツグルッペ)」が編成され、占領地域でユダヤ人の虐殺を行っていきました。この出動部隊の行動は国防軍によっても支援されており、国防軍も無関係だったわけではありません。
さらにソ連兵の捕虜に関しても、各部隊の政治委員は殺害の対象とされ、ユダヤ人将校も殺されていきました。その他のソ連兵に関しても「世界観」に基づいて過酷な取り扱いがなされ、570万のソ連兵捕虜のうち300万名が死亡したといわれています。
さらに東方での占領地域の拡大は、ユダヤ人を大量に抱え込むことにもつながりました。マダガスカルなどへのユダヤ人追放政策が挫折すると、各地に絶滅収容所が建設されていきました。

こうしたドイツの動きに対して、スターリンは対独戦を「大祖国戦争」と名付け、ナショナリズムを利用することで戦争を勝ち抜こうとしました。
また、ドイツがソ連の残存部隊を掃討するために住民を人質にしたり、ソ連兵をその場で射殺したりしたことが、パルチザン運動に火をつけました。こうした憎しみとナショナリズムの高揚はドイツ兵の捕虜への虐待を生み、多くのドイツ兵捕虜が命を落とすことになります。

第4章で描かれるのがスターリングラードの興亡を中心とした戦局の転換です。
41年12月〜42年1月にかけてのソ連軍の連続攻勢に対して、ヒトラーは現在地を死守せよとの命令を出し、退却を禁じました。国防軍の幹部はこれに反発しますが、ヒトラーは彼らを次々と解任し、ヒトラー自らが陸軍総司令官の地位に就きます。ソ連の攻勢は準備不足により失敗しますが、ヒトラーは死守命令のおかげだと考え、作戦への介入をさらに強めます。
42年の春、ヒトラーはモスクワ攻略を訴える国防軍の意見を退けて、コーカサスの石油を狙う作戦を推し進めます。
こうして立案された「青号」作戦は、黒海沿岸沿いに進軍しコーカサスを狙う作戦でしたが、ここが突出するとその側面が狙われやすくなります(133pの地図参照)。そこで、ドン川流域のソ連軍を殲滅し、スターリングラードを火砲の射程圏内に収め、ソ連軍の水運を絶つ作戦が立案されました。
一方のスターリンは、ドイツの目標はモスクワであると決め込んでおり、42年6月28日に始まった「青号」作戦は奇襲の形となり、緒戦はドイツが勝利を収めます。

この勝利の報を聞いたヒトラーは軍を2つに分け、コーカサス占領とスターリングラードへの進撃の2つの目標を設定します。しかも、スターリングラードは無力化するだけでなく占領するものとされました。
8月、ドイツ軍はコーカサスのマイコープ油田を占領しますが、設備は徹底的に破壊されており、油田が再稼働したのは戦後の1947年になってからでした。ヒトラーはA軍集団司令官のリスト元帥を解任すると、自らその地位に就き、さらにハルダー陸軍参謀総長も解任します。
一方、スターリングラードに向かった部隊はソ連の頑強な抵抗にあい、市街戦へと突入していきます。9月にはスターリングラードの80%を占領しますが、ヒトラーは完全占領にこだわります。ドイツはスターリングラード攻略のために戦力を集中しますが、その両翼は非常にもろくなっていました。

11月19日、ソ連軍の反撃が始まります。ソ連軍はスターリングラード攻略にあたっていたドイツの第6軍の包囲殲滅を目指しますが、この作戦は他の地域での攻勢とも連携したもので、連続的なものでした。本書ではこうしたソ連の行動を「作戦術」という用語で説明しています。
作戦術とは戦略と戦術の間にあって、「戦線方面に「作戦」、あるいは「戦役」を、相互に連関するように配していく」(153p)もので、ソ連の軍人たちが研究していた用兵思想でした。
第6軍が包囲されると、ヒトラーは救援のためにマンシュタイン元帥を派遣します。マンシュタインの救援部隊は第6軍に近づきますが、ヒトラーが現地の死守を命じていたこともあり、内側から包囲を突破することはできませんでした。1月31日、第6軍が降伏します。
その後、マンシュタインの反撃と泥濘期の到来によって一時期戦線は膠着します。その後、ドイツは新型戦車などを投入して「城塞」作戦を行います、局地的にドイツ有利に進んだ戦いでしたが、43年7月10日に連合軍がシチリア島に上陸したという知らせを聞いたヒトラーは作戦の中止を決断します。
その後は、物量で勝るソ連軍がドイツ軍を圧迫し続けました。ヒトラーは変わらず死守命令にこだわりましたが、この命令はいたずらに損害を増やしただけでした。
9月14日、ついにドイツ軍の南方軍集団の退却が始まります。マンシュタインは撤退を指揮するとともに徹底的な「焦土作戦」を行い、人びとや家畜も根こそぎ連れ去りました。その後もマンシュタインは部隊を撤退させつつ戦力を温存しようとしましたが、占領地域の維持にこだわったヒトラーと対立し、44年3月31日にマンシュタインは解任されます。これより以前、日本やイタリアが独ソの講和を望みますが、「世界観戦争」を戦っているヒトラーに講和の考えはありませんでした。

一方、戦後を睨んでスターリンはドイツに対する攻勢を強めます。44年6月22日、ソ連軍による大規模な攻勢である「バグラチオン」作戦が行われ、ドイツの中央軍集団が大敗し、ソ連軍はワルシャワに迫ります。
もはやドイツの敗北は明らかでしたが、ヒトラーは「世界観戦争」を戦い抜くつもりでしたし、収奪によって豊かな生活を享受していた国民からも戦争を止める動きは起こりませんでした。
45年1月にドイツ本土侵攻作戦が始まると、4月26日にはソ連軍はベルリンに突入します。そしてヒトラーが4月30日に自殺し、5月2日にドイツは降伏するのです。
こうした中、ソ連軍はドイツの各地で略奪や暴行を繰り返し、ドイツ人の集団自決も起こりました。また、東欧のドイツ系住民は追放され、その中でも多くの犠牲者が出ました。

このように本書は、最近の研究によって明らかになった独ソ戦の戦闘の実態を明らかにしつつ、「通常戦争」「収奪戦争」「世界観戦争」という3つの性格の重なりとして独ソ戦全体の姿を描き出しています。「質のドイツ軍」VS「量のソ連軍」といった形で理解されがちな独ソ戦のイメージを塗り替えつつ、独ソ戦で行われた蛮行の背景を説明することにも成功しています。
もちろん、ここには書かれていないことも数多くありますが、巻末の文献解題も充実しており、独ソ戦を理解するための最初の1冊としても良い本ですし、第二次世界大戦を考える上でも非常に有益な本だと思います。

この本の刊行が予告されたときは「小熊英二が「日本社会のしくみ」などという間口の広すぎる本を書いたら一体何ページになるんだ?」などと思いましたが(実際の本は601pでした)、実際に手にとって見てみたら、「日本的雇用の形成と展開」とも題すべき、かなり焦点を絞った本でした。
ただ、それでも読む前は「濱口桂一郎の一連の仕事をまとめた感じか?」と思いましたし、序章を読んだときには「筒井淳也『仕事と家族』(中公新書)と同じく「濱口桂一郎+エスピン−アンデルセンか?」とも思ったのですが、読み進めていくうちに、まさに総合的な形で「日本的雇用の形成と展開」を描き出そうとする野心作であることがわかりました。

もちろん、濱口桂一郎『日本の雇用と中高年』(ちくま新書)、『若者と労働』(中公新書ラクレ)などの一連の仕事や、菅山真次『「就社」社会の誕生』、ドーア『イギリスの工場・日本の工場』、アベグレン『日本の経営』、本田雪『若者と仕事』、金子良事『日本の賃金を歴史から考える』、神林龍『正規の世界・非正規の世界』といった元ネタはあるわけで、この本に何か抜群のオリジナリティがあるわけではないのですが、とにかく目配せの広さが尋常ではなく、「日本的雇用」についてある程度知っているつもりの人でもいろいろな発見があると思います。
さらに「日本的雇用」への官僚制の影響を明らかにするために、清水唯一朗の『近代日本の官僚』をはじめとする一連の仕事や大森彌や稲継裕昭などの仕事も引いていたり、高度成長期の日本の農業の変化について斉藤淳『自民党長期政権の政治経済学』を引いてくるなど、「日本的雇用」という企業の制度と外部のシステムの噛み合わせを意識しながら叙述がなされており、その部分からも新たな発見があると思います。
目次は以下の通り。
第1章 日本社会の「3つの生き方」
第2章 日本の働き方、世界の働き方
第3章 歴史のはたらき
第4章 「日本型雇用」の起源
第5章 慣行の形成
第6章 民主化と「社員の平等」
第7章 高度成長と「学歴」
第8章 「一億総中流」から「新たな二重構造」へ
終章 「社会のしくみ」と「正義」のありか

まず、この本では日本社会における暮らしのあり方を「大企業型」、「地元型」、「残余型」の3つに分類しています。「大企業型」は大企業や官庁に雇われ、「正社員・終身雇用」の人生を送る人とその家族。「地元型」は地元から離れずに農業、自営業、地方公務員、地場産業、建設業などに就く人々とその家族。「残余型」は「大企業型」のような安定した雇用に就いているわけではないが地元にも足場がないタイプそその家族です。
それぞれどのくらいの比率で存在するかを測定するのは難しいですが、著者は様々な統計や研究から、「大企業型」が26%、「地元型」が36%、「残余型」が38%と推測しています。
収入が高いのは「大企業型」ですが、「地元型」は家の相続や地域のネットワークの存在によって、ある程度の経済格差を補うことができます。しかし、「残余型」にはそうした地域の支えはないため、「残余型」の増大は経済格差の顕在化につながります。

ここから「大企業型」が減少し、非正規雇用の増大とともに「残余型」が増えていることを問題にするのかと思いますが、著者が指摘するのは「大企業型」の意外な安定性です。神林龍『正規の世界・非正規の世界』でも指摘されていたように、正社員の数はあまり減っておらず、非正規雇用の増大は自営業者と家族従業員の減少によって支えられているのです。
この正社員の安定性というのは実は新卒市場からも見て取れます。90年代後半〜00年代にかけて「就職氷河期」とよばれる時期が出現しましたが、90年代の大卒就職者数はほぼ35万人で安定しています。90年代の就職率の低迷は、企業が採用を絞ったというよりも、むしろこの時期に「団塊ジュニア世代」という世代人口の多い世代が就職することになったという要因が大きいのです(高卒の就職者数は明らかに減っている)。

実はこのことは政府も予測しており、1985年の経済企画庁の報告書には、「59年[1984年]の就職者数に比べて11%増の採用を12年間続けなければ、新卒者を吸収できない」、「結局のところ、内部労働市場に参入できない団塊二世たちのかなりの部分がアルバイト等外部労働市場での労働を余儀なくされるのではないだろうか」(58p)と述べています。もちろん、実際には不況がこれに追い打ちをかけるわけですが、人口動態的に就職難は予測されていたのです。

著者は日本社会の基本単位として「カイシャ(職域)」と「ムラ(地域)」という2つのものをあげており、それぞれ「カイシャ」に帰属意識を持つのが「大企業型」、「ムラ」に帰属意識を持つのが「地元型」であり、「残余型」はそういった帰属意識を持てないタイプになります。
「ムラ」はともかく「カイシャ」に強い帰属意識を持つというのが日本社会の1つの特徴で、日本とイギリスの工場を調査したドーアは、イギリスのEE社のブラッドフォード工場の鋳造工に、どんな仕事をしているか尋ねたら、おそらく鋳造工→ブラッドフォード→EE社の順に答えるだろうが、日立市の日立製作所の従業員に尋ねれば、日立の社員→工場の名前→鋳造工の順に答えるだろうと述べています(87p)。
こうした強い帰属意識をもたせる大企業の雇用慣行が日本社会の一定の部分を形作っているのです。

一方、欧米の企業は日本とは違った構造になっています。欧米の企業は一般的に上級職員(アメリカでは「エグゼンプト」、フランスでは「カードル」)、下級職員、現場労働者の三層構造になっています。
上級職員は大卒またはMBAなどを所得しており猛烈に働きます。下級職員は専門学校や2年制のカレッジ、近年では4大を卒業しており、命じられた定型的な職務を行っています。現場労働者は近年では高卒が多く、日給や週給で働いています。
欧米との比較ではこの層の違いに留意することが必要で、例えば、「欧米の企業は成果主義で競争が厳しい」といった話は上級職員のみに当てはまります。
日本では実際に給与の格差などもあるために、大企業か中小企業かというのは重要な問題ですが、欧米で問題となるのは職務の違いによる給与の違いです。

欧米の企業では給与は職務に応じて支払われます。会計、生産管理などの職務ごとに賃金の相場があり、給与はそれに基づいて決まります。また、下級職員の採用は課ごとに行われ、例えば会計係ならば経理課長が採用を行い、人事部はそれを追認するだけという形になります。上級職員の採用には幹部が関わりますが、下級職員は現場の労働者はあくまでも特定の仕事をこなすための存在であり、その仕事がなくなれば解雇されることも多いです。

また、欧米では「成果給」が一般的という印象もありますが、例えば、2005年のGMの現場では「工場で働く我々はみんな時給26.16ドルだ」(113p)とのことですし、大企業のエグゼンプト層でも査定結果はA〜Eの5段階のうち、95%がBかCだったという調査結果もあります。契約の時に業績目標を設定することはありますが、上司の評価などの恣意的な要素で給与が左右されると訴訟に発展する恐れもあるため、査定ではあまり差がつかないのです。
ですから、高給を狙うにはそれなりの職務に就く必要があり、そのためには学歴が必要です。なお、ここでの学歴は日本のように「しろまるしろまる大卒」ではなく、修士や博士といった学位のことです。例えば、大学職員でも課長になるには最低でも修士が必要で、その上に行くには博士が必要といった具合に、学位によって組織のどのポジションまでつけるのかが決まってくるのです。

このように職務が明確な欧米では個室での執務が多いですが、日本では大部屋が一般的です。この大部屋主義は日本の官僚制の1つの特徴でもあります。まず職務があってそこに人が充てられる欧米とは違い、日本ではまず職員がいて、そこに仕事が割り振られていくのです。
また、職務とは関係なしに新卒の一括採用が行われるため、定期的な人事異動が必要になってきます。こうなると、職務によって給与を決めることはますます難しくなります。例えば、経理から営業に移ったら給与が減ってしまったというようなことがあれば困るからです。
そして、多くの社員は一定の年数を務めると管理職となります。これは「「経理のプロ」といった職務契約をしているわけではないのだから、「部長」や「課長」につける以外に、従業員にアイデンティティを与える方法がない」(140p)からでもあります。
このように「社内のがんばり」が評価される日本企業において不利になるのは、出産や育児などで時間に自由が効かない女性です。また、企業が学位を評価しないために大学院への進学率などは低迷しており、日本は他国に比べて「低学歴化」しています。

ここまでが第2章までの要約で、ここから先は、こうした日本的な雇用慣行が生まれてきた歴史を探ることになります。
まずは欧米の社会を探っていくのですが、最初にとり上げられているのがドイツです。ドイツは職種が重要視される社会です。ドイツでは職業訓練法に基づく職業訓練と資格があり、労働組合も職種別の組合が一般的です。この背景にはギルドの歴史などもあるのですが、基本的には近代になって起こった運動の影響だとされています。
ドイツでは、例えば雑誌編集者も賃金協約によって賃金水準が決まっており、職歴ごとに最低限の賃金水準が決まっています(173p図3−1参照)。賃金だけでなく、人事異動に関しても組合の了承が必要であることが一般的です。また、フランスでは上級職員(カードル)も独自の全国労働組合をもっています。
ヨーロッパでは職能別の組織が強い求心力を持ち、労働や社会保障のあり方を規定していきました。

アメリカでは「職務(Job)」という概念が発達しました。アメリカではドイツのような職種別の組合は発展しませんでしたが、現場を仕切る職長による不公正に対処する中で「同一労働同一賃金」が目指されていくことになります。そして、この「同一労働同一賃金」を実施するためには職務の標準化が必要となったのです。
この動きはテイラーの主張した科学的管理法にも呼応するもので、第一次世界大戦時と、第二次世界大戦時に労働需要が逼迫する中で進展してきます。ただし、この過程でアメリカでは「職務保有権(ジョブ・テニュア)」と呼ばれるものが定着していきます。これは労働者が一度その職務に雇われたら職長や雇用主の気まぐれで解雇されない権利であり、これによってアメリカの労働者が長期勤続するようなっていきます。テイラーは効率の上がらない従業員は解雇されるべきと考えていましたが、「実際に実現したのは、一つの職務に平等の賃金を保障することであり、労働者にその職務を保障すること」(186p)でした。

さらに先述したような訴訟の問題もあり、アメリカでは「やる気」「態度」のような曖昧な基準で従業員を査定することは難しい状況となりました。また、労働組合もこうした査定に反対したことから、「職務をこなしていれば差別されない」(192p)という形の「平等」が目指されたのです。
こうした差別に対する感度が、学位の重視へとつながります。学位は明確な基準となりますし、また専門職団体と大学院が結びつくことで、職業に必要な教育プログラムが明確化されていきました。この専門職と大学の結びつきはヨーロッパの国々でも見られます。

第4章では、いよいよ日本的雇用の期限に迫っています。アベグレンは1955〜56年に日本で調査を行い『日本の経営』という本を出しましたが、この本の中では、いわゆる職務の無限定性や、終身雇用(アベグレンの使った言葉は「終生のコミットメント」)が指摘されている一方、日本の大手製造業では大卒(東大、京大、一橋、早稲田、慶応)の上級職員と、高卒、中卒の現場労働者の三層構造となってることも指摘されています。
高度成長前のこの時点では他国と同じような三層構造はあったのですが、この構造が職務ではなく学歴で決まっていたのが日本的な特徴となります。

日本の近代的な工場は官営、あるいは官営をモデルとして始まりました。ほとんどが未知の分野であり職種別の組合などがない明治期の日本において、一つの秩序として持ち込まれたのは官を模範とする学歴に応じた三層構造でした。
この官における三層構造は現在にも受け継がれており、それぞれキャリア、ノンキャリア、地方職員(非正規職員も含む)となります。戦前はそれぞれ高等官(親任官・勅任官・奏任官)、判任官、等外(雇・傭人・嘱託など)となっており、奏任官の賃金はいわゆる年功賃金に近いものとなっていました(229p図4−3参照)。当時の給与は官が圧倒的に高く、この官の給与体系は民間にも影響があったと考えられます。
また彼らは「国家に対し「終生のコミットメント」を誓う代わりに、終身保障を約束された人々」(235p)でもありました。さらに彼らの俸給は職務ではなく官等で決まりました。例えば、軍の少将は作戦立案をする場合も艦長となる場合もありましたが、俸給を決めるのは基本的には少将という身分です。

こうした官の秩序は民間にも持ち込まれます。241pに三菱の俸給表が紹介されていますが、俸給は職務ではなく「役名」と「等級」によって決まっています。ドーアは「日立の組織形態は決してイギリスと無縁のものではなく、イギリスの軍隊や官庁の型とよく似ている」(244−245p)と述べていますが、日本では民間企業の組織形態が官や軍隊をモデルに構築されていったのです。
ただし、戦前までは現場労働者は「社員」とはみなされておらず、親方が請負制で人を集める方法が取られており、「官庁の「等外」と同じく、秩序外の存在」(258p)でした。職工は日給制で、明文化された昇給規定もなく、彼らの処遇は職長や職員の気まぐれに左右されていました。職員と職工では門や食堂や便所も別で、この違いは「身分」の違いのようなものでした。そして、この「身分」の違いをもたらしたのが学歴だったのです。
第5章ではこの官のシステムが民間に広がっていく様子が描かれています。
まず、明治初期は圧倒的に高等教育を受けた人材が不足していました。省庁は帝国大学の卒業生を確保した上で、彼らに文官高等試験を受けさせるようになります。これが「事実上の新卒一括採用の始まり」(285p)でした。さらに、2年で部署を異動しながら昇進するというしくみも定着していき、この慣行は戦後になっても続きます。また、大部屋主義も戦前から戦後へと引き継がれました。
また、軍における「人物評価」を総合的に行う「考科(海軍は考課)」や、同じく軍において一定年齢で退役させる制度(退役する年齢は階級ごとに違う)の「停年」のしくみも民間の雇用慣行に影響を与えました。「停年」は海軍火薬製造所の職工規定から広まっていったとされています。
また、「社員」という呼称にも官からの影響があるといいます。「社員」とは基本的に出資者を意味する言葉でしたが、1890年に政府が出した役人に対して使い込み防止のために一定の身元保証金を預けることを義務付けた決まりが民間にも波及し、この慣行が職員を「社員」と呼ぶようになった起源ではないかといわれています。
官庁から始まった新卒一括採用は1900年前後から民間企業にも広まります。民間企業は一般的な能力や「人物」のスクリーニング機能を大学に求め、大学教授などの紹介によって採用が行われていきます。1918年の大学令発令前後から高等教育の卒業時期も3月に統一されるようになり、4月1日入社の原型もできあがっていきました。
一方、大学令によって大学が増加し卒業生が増加すると、大学の成績や紹介によるスクリーニング機能が落ちます。そこで、各社は「人物」を重視して面接などを行うようになり、大学側も就職課を設置して学生の就職活動を支援するようになります。
しかし、1920年代から30年代初頭にかけて大卒就職率は悪化します。29年には「大学は出たけれど」という映画がつくられますが、これは増えすぎた大卒者に求人が追いつかないことから生まれた減少でした(もちろん不況の影響もありますが)。そして、この数としてはわずかな大卒失業者が問題とされたのは、彼らが自由労働者の中に入り込み社会主義を思想を吹き込むことが懸念されたためでした。
また、女性従業員の採用も進みましたが、1938年の三井銀行では正規職員の待遇に準じて採用された女性事務員の定年は22歳であり、年功賃金のもとで安く使える労働者として若い女性が求められたことがうかがえます。
こうした官から民への影響はドイツなどにも見られますが、ドイツの官僚制が「専門的訓練と分業・明確な権限・文書主義」(333p)という特徴を持っていたこともあり、日本とは違い民間における職務の明確化と細分化を推し進めました。
一部では自社で人材育成を行う動きも見られましたが、企業横断的な職種別組織の力は強く、これが近代的な資格制度を生み出していくことになります。さらに三層構造の中間に位置する下級職員も独自の労働運動を組織し、労働者とは違う社会保険を求め、労働運動に対抗するために政府もこれを支持していくことになるのです。このあたりも日本とは違った展開でした。

日本における「社員の平等」の道が開かれたのが総力戦体制から戦後にかけての時期でした。この時期の変化を描くのが第6章です。
まず、戦争による軍需景気は労働者不足をもたらし、各社は労働者の待遇改善に動かざるを得なくなりました。日立や王子製紙では「職工」という名称が「工員」に改められ、一部では日給制に代わって月給制が採用されました。また、インフレによる金融資産の目減りや、「贅沢は敵だ」といったスローガンなどを背景に、ナショナリズムに基づいた平等思想が高まりました。このナショナリズムに基づいた平等思想は戦後になっても引き継がれていきます。

日本の労働慣行の形成の上で一つのポイントとなるのが企業別労働組合ですが、これはヨーロッパのような職種別の労働組合の伝統がなかったことと、戦時中に配給が企業経由などで行われたことにより企業が一種の生活共同体となっていたことが背景にあったと考えられます。
こうした中で組合は企業内の平等、職員と工員の差別の撤廃を要求していきます。この要求は戦後の混乱の中で困窮していた職員にも理解され、工員も「社員」と呼ばれるようになっていきます。「日本の労働者にとっての「戦後民主主義」は、全員を「社員」、すなわち大卒幹部職員と同等に待遇せよという要求として現れたといえる」(363p)のです。

こうした中で生み出されたのが生活給の考えです。1946年に電力産業の労組である電産協が打ち出した電産型賃金では、労働者の年齢と扶養家族で賃金の約7割が決まります。この能力ではなく必要に応じて決まる賃金という考え方は、当時のインフレと生活苦の中で受け入れられました。さらにこの背景には戦時中に政府が「「年齢、勤続年数ニ応ズル基本給制度」を確立して「勤労者ノ生活ノ恒常性」を確保することを掲げていた」(365p)こともあります。
そして、この年齢を重視する賃金体系は戦前の官の年功型の賃金体系に近いものでした。さらに多くの人々が軍隊経験をもったことで人物に対する「考課(考科)」も民間企業へと持ち込まれていきます。

ただし、この時点では賃金において勤続年数はそれほど重視されず、基本となったのは年齢を扶養家族でした。また、戦前からの三層構造もそう簡単には崩れませんでした。49年にドッジ・ラインによるデフレ不況が到来すると、各社は従業員を大きく削減し、戦前の旧構造を復活させようとしました。
また、労働者側も旧来の資格制度の復活を望んだということもあり、現場労働者も含めた資格等級制度が広がっていきます。同時に、従業員削減で労組と対立し疲弊した経営側は、組合と協調する道を選び、解雇の慎重になり、定期昇給制度を設けました。そして、「能力」を勤続年数で代替する動きも起きてきます。労組は、一方で「同一労働同一賃金」も目標としましたが、まずは家計の維持を優先し、勤続年数という指標を受け入れていきます。

しかし、大企業内での社員間の格差が是正されていくと、今度は大企業と中小企業の格差が問題視されるようになります。さらに社会保障制度もこれを追認・強化するような形で整備されていきました。1959年にできた国民年金は当初は全国民を対象とする形で構想されましたが、結局は戦中にできた小企業を除く雇用労働者を対象とする厚生年金の残余をカバーする形で制度が出来上がります。国民健康保険も市町村が運営する形で整備され、社会保障においても「カイシャ」と「ムラ(地域)」が基本単位とされたのです。

一方で、占領国であるアメリカの職務給を取り入れようという動きも起こります。経営側にとって職務給は中高年の賃金を抑制できる有効な手段でしたが、職務が企業ごとにばらばらだったこと、社会保所為が貧弱な中で中高年の生活が難しくなることなどを理由に組合は反対します。
こうした理由は政府にも認識されており、1963年に政府の経済審議会が出した『経済発展における人的能力の課題と対策』では、横断的労働市場の形成や技能資格の充実などとともに、公営住宅の整備、児童手当の創設、第三者機関による職務分析とその標準化などが謳われていましたが、結局、この路線が採られることはありませんでした。
第7章では高度成長と高学歴化の中で三層構造が崩れていく過程が描かれています。
日本の三層構造は学歴によって分かれており、賃金は学歴と年齢で決まっていました。こうした中で高学歴化が進むと、たとえ職務が同じでも賃金コストが上がってしまいます。
戦後、アメリカの教育制度を大きく受け入れた日本では、高校進学率が急上昇し、大学の大衆化も進みます。1950年代後半〜60年代前半の段階では、企業は工員の採用に関しては中卒にこだわっていました。その結果、中小企業は高卒を雇わざるを得ないような状況もあったそうです。
わざわざ地方に出向いて中卒の採用活動を行う大企業もありましたが、これは年齢で賃金が決まる構造では18歳の高卒よりも15歳の中卒のほうがコストが抑えられるからです。

これを受けて文部省は1960年に公立校では新設の60%程度、私立では新設の35%程度を工業過程とし、農業課程や商業課程も増設する方針を打ち出します。これは前述の横断的労働市場や職務給の導入を見据えた方針でしたが、これは世間からの批判を浴びます。子どもたちの進学を抑制するような政策は許しがたいものに写ったのです。多くの人びとにとって戦前の差別的構造を乗り越えるためのものが「学歴」であり、政府や財界の考えは受け入れられませんでした。
こうした中で、企業も新規高卒者を作業員として採用するようになり、それとともに学校紹介による就職が一般化しました。戦後になると現場の作業員も簡単には解雇できなくなり、一定の「人物」を保証するしくみが必要とされたからです。

一方、大学進学者も急増し、いわゆるマンモス私大がその受け皿となります。しかし、こうした大卒者に見合った職を社会が用意することはできず、一部の大卒者は販売員など今まで高卒者がしていた仕事に流れていきます。また、年功制をとる組織では管理職の過剰感が出てきます。民間企業では課長代理や課長補佐といったポストがつくられ、官庁でも部長・次長・参事官・審議官といったポストがつくられていきます。
日本の企業の特徴として「遅い選抜」があり、これが社員間の競争意識を高めたともいわれますが、企業がこうした効果を狙ったものか、単に大卒職員が増えたためにそうなったのかはよくわかっていません。
こうした中でついに三層構造が崩れていきます。そして能力のグレードが学歴に一本化されていくのです。今までは現場労働者と職員の間には待遇の差がありましたが、これを同じ学歴であれば職員でも工員でも同じ処遇にしていくという考えが広まっていくのです。例えば、八幡製鉄の労組は66年に「社員制度の一元化」と「初任給を学歴別にまとめ、定期昇給の適用を全社員同一テーブルにする」(466p)ことを要求しています。
この三層構造の崩壊とともに導入が広がったのが職能資格制度です。「職能」の語源は「職務遂行能力」の略だといわれていますが、次第にこれに「人物」を加味したものとなっていきます。この「職能資格制度とは、どんな職務に配置されても適応できる潜在能力によって、社内の等級を与える制度」(469)で、この「等級」が「資格」と呼ばれることになります。以前はこうした等級は職員のみに与えられていましたが、これが工員にも適用されていきます。
ただし、三層構造が崩壊する中で、あくまでも戦前からの臨時雇い的に扱われたのが女性でした。

この職能制度は経営側にとってはある程度「能力」で査定できるという点で裁量を広げるものでしたし、管理職の過剰に対しても対応できるものでした。「軍隊でいえば、艦長のポストには限りがあるが、大佐に昇進させることはできる」(479p)のです。
ここからもわかるように職能資格制度は軍隊の制度に近いものがあり、大企業の人事担当者もそれに自覚的でした。

しかし、「すべての社員の平等」は高度成長の中でこそある程度実現できましたが、石油危機後は行き詰まりを見せはじめます。大企業の雇用者数は1974年の926万人をピークに減少し、大企業は景気変動に対して、期間工や準社員を活用することで対応していくことになります。
高校を卒業しても高度成長期のようには就職できなくなり、人々はさらに上の学歴を目指します。ところが、76年から私大の設立と定員が抑制されるようになり、受験競争が加熱していきます。雑誌に高校別の大学合格ランキングなどが掲載されるようになったのもこの時期です。
そして、数学が得意でどの科目もこなすのが「国立理系」その残余が「国立文系」「私立理系」を選び、さらにその残余が「私立文系」を選ぶというようなコース分けも進みます。さらにその残余となったのが本来ならば就きたい職業への積極的選択であった職業科です。
ただし、この時期は自民党が農業や自営業を保護する政策をとったこともあって、いわゆる「一億総中流」と呼ばれる社会が出現します。
ただし、企業側では今までのような人事管理が行き詰まりを見せていました。管理職が過剰になり重荷となってきたのです。日本企業が選抜の目安とした「能力」は非常に曖昧なものであり、結局は学歴と勤続年数に応じて処遇せざるを得ませんでした。
そこで企業がとった対応が「「社員の平等」の外部を作り出すこと」(524p)でした。具体的には出向、非正規雇用、女性です。出向はポスト不足に対応するものであり、81年になると「非正規従業員」ということばが雑誌に登場します。そして、85年に男女雇用機会均等法が制定されたものの、やはり女性は若い時期(賃金が上がらない時期)に辞めることが期待されていました。
政府もこうした動きを認識していましたが、「現在の低賃金層の主力をなす女子パートタイマー、高齢者、定職につかない若年層の三つのグループは、それぞれ夫の所得、年金、親の所得という核になる所得を持っており、大部分は働かなくとも生活に困らない」(531p)という認識で大きな問題とは考えられていませんでした。

また、86年に大学の定員抑制措置が緩和されたこともあり、90年代には進学率が上昇します。同時に高卒求人は減少し、成績下位の普通科高校では30〜40%の卒業生が進学も就職もしないというような状況が出現します。
こうした状況の中で経団連は95年に『新時代の「日本的経営」』という報告書を発表し、従業員を「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」の3つに分ける「雇用ポートフォリオ」を打ち出しますが、これは日本型雇用を変えずに、それをコアな部分だけに限定する方法でした。この時期に財界はさまざまな改革案を打ち出しますが、それは60年代にあった社会保障や福祉制度を含んだ改革ではありませんでした。
また、90年代以降、導入が進んだ成果主義も、職務の曖昧さや、最初から賃金抑制が狙いだったことなどの原因で多くの場合はうまくいかずに終わっています。

終章では、これまで積み重ねてきた議論をもとに今後の展望がなされています。
雇用主の気まぐれで賃金や仕事内容が決まり、自由な解雇を行えるような19世紀的な「野蛮な自由労働市場」に対し、各国はそれぞれ運動の中でそうした経営側の横暴を制限してきました。ドイツでは「職種のメンバーシップ」、アメリカでは「制度化された自由労働市場」が成立したのに対して、日本で成立したのが「企業のメンバーシップ」です。
こうした雇用レジーム(「しくみ」)は、「歴史的過程を経て築かれた合意であり、慣習の束」(569p)であるため、変えることは簡単ではありません。しかし、新しい合意を結ぶことは可能であり、慣習も時代とともに変化します。

最後に著者は、スーパーで働く勤続10年のシングルマザーが「なぜ入ったばかりの高校生と時給がほとんど変わらないのか?」と相談してきたというエピソードが紹介されています。これに対してA「賃金が同じなのはおかしい、年齢や家族構成を考えるべき」と答えるか、B「同一労働同一賃金が原則で、彼女がキャリアアップできるような社会をつくるべき」と答えるか、C「労使関係ではなく、児童手当などの社会保障政策で解決すべき」という3つの回答例が紹介されています。
戦後の日本が選んだ答えはAでした。アメリカならばBです。著者はCを推しつつも、その答えを読者に委ねています。

というわけで、普通の新書の約2倍のページ数がある本書の要約はいつものほぼ2倍の分量となりました。やや繰り返しの部分もあり、もう少し削れなくはないと思いますが、600ページというボリュームに見合っただけどの内容と、細部の魅力を持った本だと思います。
日本社会を規定する「日本的雇用」というものを考える際、濱口桂一郎の『新しい労働社会』(岩波新書)(本書はなぜか参考文献にあがっていない)を読むが一番良いだろうと思っていますが、これらの本は法律面からアプローチが強く、ページ数は膨大でも、時代の動きなどを感じさせるエピソードが豊富に紹介されている本書のほうが読みやすいと感じる人もいると思います。
日本的雇用の問題についての議論をあまり知らなかった人にとっては、その見取り図と展望を与えてくれる本ですし、議論を知っている人にも日本的雇用形成の歴史を改めて教えてくれる本となっています。


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