2018年08月
世界初の組織的な先物取引市場とも言われる大坂堂島米市場。その実態と幕府が先物市場にいかに関わったのかということを掘り起こした本になります。
現代ではデリバティブなどの複雑な取引が行われていますが、そもそもそうした取引が存在することの意義というものがよくわからないという人も多いと思います。この本を読むと、まずはそうした取引の意義というものが歴史の中から見えてくると思いますし、さらには民間の商人たちの投機と、それに対してときには規制をかけ、ときにはそのシステムを利用して自らの利益の実現を図る幕府の姿も見えてきます。
歴史に興味がある人にも、経済学や投資に興味がある人にも楽しめる内容で、また、史料も現代語訳と原文をともに載せており、全体的に丁寧なつくりとなっています。
目次は以下の通り。
江戸時代の大坂が「天下の台所」と呼ばれ、商業の中心地であったことはよく知られていますが、大坂の町は大坂の陣で一度灰燼に帰しており、江戸時代のはじめから米をはじめとする諸産物の集積地だったわけではありません。
熊本の細川家を例に取ると、寛永期(1624〜43)は大坂のほか、長崎、小倉、下関などで米を売却しており、特に長崎で売却された米はオランダ商館を通じて1660年代まで輸出され、台湾などで備蓄されていました(19p)。
ところが、大坂の町が整備され市場としての機能を高めた18世紀中頃には、年間10万石近い米が大坂で売却されることになります。
17世紀の大規模な新田開発の影響もあり、17世紀中後半を通じて、諸大名が領民に米を作らせて大坂に運ぶというシステムが完成したのです。
大坂における米市は17世紀半ばに淀屋辰五郎の店先で自然発生的に始まったと考えられています。
当初から手形を用いた取引がなされていたようで、米そのものではなく米手形が取引されていました。幕府は当初これを禁止しようとしましたが、結局は米の代銀を全額払った後に発行される米切手の発行を認めることになり、この米切手の取引がさかんに行われることになります。
さらに17世紀末には、帳合米商いと呼ばれる一種の先物取引も生まれています。
帳合米商いの特徴は、現金と米切手の取引を伴わずに売りや買いの約束だけをすることで、一般的な先物取引と違って満期日に現物のやりとりをすることも想定していません。ちょうど日経225やTopixの先物と同じで、満期日まで買い待ちしても日経225なるものが手に入るわけではないのと一緒です。先物取引は一般にリスクヘッジのために生まれたとされていますが、大坂では取引の流動性を高める(当時の言葉だと「手狭」を避ける)ために生まれたのです(42p)。
こうした取引を当初幕府は禁止していましたが、風向きが代わったのが享保期です。この時期は新田開発や温暖化によってコメの供給量が増え価格が下落した時期で、米価の低迷に頭を悩ませていた幕府は堂島米市場の公認に踏み切ります。
帳合米商いに関してはその後も奉行所への訴えが認められないなど、幕府の態度は「勝手次第」というものでしたが、幕府は米の取引市場が一定の役に立つものと考え始めたのです。
では、こうした取引が大坂に米を供給する各藩にとって利点があったかというと、とりあえず米切手に関しては大きな利点がありました。
米切手を持参すると各藩の蔵屋敷では10石(1500キログラム)の米と交換してくれます。米切手の持ち主は保管のコストなしに好きなときに米を手に入れることができ、また、この米切手を堂島米市場で売ることもできました。
一方、米切手はあくまでも10石の米の請求権であり、各藩の蔵屋敷は現在手元にある米以上の米切手を発行することも可能でした。つまり、後で国元から送るという名目で米切手による金策が可能だったのです。また、蔵屋敷が堂島米市場の市場価格にもとづいて米切手を買い上がることもありました。手元に米がなくても米切手を処理することが可能だったのです。
堂島米市場の取引ルールに関しては第5章を見てほしいのですが、ここで注目したいのは毎年6月と7月には「こそ」と呼ばれる夜通しの夜間取引が行われていたことです。梅雨や台風のこの時期にはリアルタイムでの取引が求められたのです。
また、「立用(るいよう)」と呼ばれる面白いしくみもありました。当時は市場が終わるときに火縄が点火されそれが消えると取引が終了となっていましたが、この火縄が点火されたときから消えるまでに一件も約定がないと、その日に行われた取引がすべて無効になるのです。これは相場の加熱や市場操作を防ぐためのしくみだったようで、いわば取引参加者による裁量的なサーキットブレーカーの役割を果たしていたようです(119-122p)。
堂島米市場では、実際の米切手を売買する正米商いと先ほど紹介した帳合米商いが行われていましたが、帳合米商いの利点はどこにあったのでしょうか?
山片蟠桃はその利点を「売りから入ることができる」ことにあるとしています。正米商いではまず「買う」必要がありますが、帳合米商いでは手元に米切手がなくても「売り」の取引をすることができるのです(133p)。
一方、こうした実態を持たない取引を中井竹山は「詐術姦計」と批判しています(150-151p)。
堂島米市場において米は銘柄ごとに取引されており、特に代表的な銘柄は帳合米商いの大賞となる立物米に選ばれました。
この立物米に選ばれるか否か、市場で優良な銘柄として認められるかどうかは収入の多くを米の販売に頼っていた各藩にとって非常に重要なことでした。
そのために年貢米に対しては厳重な検査が行われ、大坂に運ばれていました。18世紀中頃の佐賀藩では、個々の米俵にどの村の誰が作成した俵かを明記した札を差し込むことを義務付けていたそうです(166p)。第6章では、こうした米穀検査の様子が紹介されています。
第7章以降では、こうした堂島米市場の取引を幕府がいかに統制しようとしたかが分析されています。
まずは空米切手の問題です。各藩は多くの場合、その時点で蔵に存在する以上の米切手を発行しています。国元からの米は一度に運ばれてくるわけではないのですし、米切手の持ち主が一度に引き換えを求めてくることも普通はないからです。
ところが、現在の銀行と同じように、米切手の持ち主が一斉に米との引き換えを求めればこの制度は破綻します。ちょうどすべての預金者が銀行預金を引き出そうとすれば銀行が潰れるのと同じです。
実際、1737年には広島藩の蔵屋敷が取り付け騒ぎを起こしています。蔵屋敷の在庫量が発行済米切手の三割に過ぎないことが発覚したのです。押しかけた商人たちは、このままでは今年の年貢米販売はうまくいかなくなると脅し、蔵屋敷は国元に家臣の俸禄米の取り崩しと、銀1000貫を送ることを求め、なんとかこの騒ぎを収めたようです(173-175p)。
こうした騒ぎはその後も起こり、幕府は1761年に空米切手停止令(「空米切手御停止之儀」)を出しています。空米切手とそれに伴う信用不安が米価の下落を招くおそれがあると考えたのです。
もっともこの命令の後も空米切手は発行されたようですが、その後の空米切手騒動においてこの規定は商人側に有利にはたらくことになります。
また、幕府はこの堂島米市場の取引をつうじて米価の下落問題に対処しようとしました。
江戸時代の後期、幕府は何度か米価を上げるための介入を行いますが、それはいずれも一石=60匁を下回ったときであり、幕府はこの水準以下を望ましくないものと考えていたのです。
幕府は米価が低迷すると大坂の商人たちに米の「買持ち」をさせる買米政策を行いました。強制的に買わせることによって価格を引き上げようとしたのです。
ただし、当然ながら商人たちも抵抗します。あれこれ理由をつけて引き延ばし、幕府の思うようにはいきませんでした。
さらに享保期には、1石=42匁以下での売買については上納金を納めよと命じたり(235p)、買持ちの目標達成するまでは帳合米商いを禁止するという脅しをかけましたが(236ー237p)、結局はうまくいかずに買米政策は放棄されています。
田沼意次が老中だった宝暦期にはさらに手の込んだ買米政策が展開されます。まずは大坂の商人から月0.1%という利息で強制的に資金を出資させ、それを大坂の各町に0.1%の利息で貸付、その2/3を米切手の買持ちに使わせ、1/3を1.5%以内の利息で大名や旗本への融資に使っても良いとしたのです。
たんに米切手の買持ちだけでは米価が値下がりしたときに損をかぶりますが、その損を貸付で埋めることが認められたのです。
かなり考えられた政策でしたが、商人たちから大量の資金を吸い上げたことが、金融逼迫を生み、大名の資金繰りが厳しくなったために、この政策は3ヶ月で停止されています。
さらに1806年(文化3年)にも幕府による大規模な市場介入が行われています。この時も幕府は大坂の商人たちに米を買うことを命じましたが、やはり商人たちはなかなかこれに従いませんでした。
そんな中、これに応じて1万石もの買いを引き受けたのが升屋平右衛門(升平)です。しかし、升平は単純に買うといったのではなく、年内に2000石、翌年2月までに1000石、4月までに2000石を1石=65匁を下回る限りにおいて買持ちし、5・6月までに残る5000石を1石=60匁を下回る限りにおいて買持ちすると申告したのです(258p)。
なんだかずいぶんセコいやり方にも思えますが、大坂町奉行所はこの升平の提案を褒めました。幕府の目的は米価を単純に上げることではなく、一定以上の水準を維持することであり、升平の提案は幕府の目的に合致していたのです(著者はこの升平の提案の影に当時の升平を主導していた山片蟠桃の存在があるのではと推測している(258ー259p))。
この介入政策は半年後に近畿地方で水害が発生したことによる米価の上昇で解除されます。帳合米商いがあってこそできた政策であり、幕府がなんだかんだで実態のない取引を認めた理由も見えてきます。
最後の第10章では、最新の米価を知るために江戸時代の人びとがいかなる努力をしたかが紹介されています。米の取引は各地で行われており、大坂の米価をいち早く知ることはときに大きな利益をもたらしました。
そこで、大坂からは米飛脚が各地へと走り、旗振り通信や伝書鳩なども用いられました。なお、幕府はこうした他人を出し抜いて儲ける行為を問題視しており、旗振り通信や伝書鳩を禁止しています。
しかし、禁令にも関わらずこうした行為は行われていたようで、本書では滋賀県の玉尾家という農家が情報をいち早く知って儲けたエピソードが紹介されています(292ー293p)。
このように江戸時代に生まれた市場と、そこに集まった人びとの投機熱、そして、規制一辺倒ではない幕府の政策と、さまざまなことを教えてくれる本です。
幕府の政策のある種の柔軟性には、藤田覚『勘定奉行の江戸時代』(ちくま新書)に書かれている身分にかかわらずに優秀な人材を取り立てた勘定所という役所の存在も大きかったのでしょう。
ここで紹介しきれなかった面白いエピソードも数多くあり、読み応え十分の本です。
大坂堂島米市場 江戸幕府vs市場経済 (講談社現代新書)
高槻 泰郎
4065124980
現代ではデリバティブなどの複雑な取引が行われていますが、そもそもそうした取引が存在することの意義というものがよくわからないという人も多いと思います。この本を読むと、まずはそうした取引の意義というものが歴史の中から見えてくると思いますし、さらには民間の商人たちの投機と、それに対してときには規制をかけ、ときにはそのシステムを利用して自らの利益の実現を図る幕府の姿も見えてきます。
歴史に興味がある人にも、経済学や投資に興味がある人にも楽しめる内容で、また、史料も現代語訳と原文をともに載せており、全体的に丁寧なつくりとなっています。
目次は以下の通り。
第1章 中央市場・大坂の誕生
第2章 大坂米市の誕生
第3章 堂島米市場の成立
第4章 米切手の発行
第5章 堂島米市場における取引
第6章 大名の米穀検査
第7章 宝暦11年の空切手停止令
第8章 空米切手問題に挑んだ江戸幕府
第9章 米価低落問題に挑んだ江戸幕府
第10章 江戸時代の通信革命
江戸時代の大坂が「天下の台所」と呼ばれ、商業の中心地であったことはよく知られていますが、大坂の町は大坂の陣で一度灰燼に帰しており、江戸時代のはじめから米をはじめとする諸産物の集積地だったわけではありません。
熊本の細川家を例に取ると、寛永期(1624〜43)は大坂のほか、長崎、小倉、下関などで米を売却しており、特に長崎で売却された米はオランダ商館を通じて1660年代まで輸出され、台湾などで備蓄されていました(19p)。
ところが、大坂の町が整備され市場としての機能を高めた18世紀中頃には、年間10万石近い米が大坂で売却されることになります。
17世紀の大規模な新田開発の影響もあり、17世紀中後半を通じて、諸大名が領民に米を作らせて大坂に運ぶというシステムが完成したのです。
大坂における米市は17世紀半ばに淀屋辰五郎の店先で自然発生的に始まったと考えられています。
当初から手形を用いた取引がなされていたようで、米そのものではなく米手形が取引されていました。幕府は当初これを禁止しようとしましたが、結局は米の代銀を全額払った後に発行される米切手の発行を認めることになり、この米切手の取引がさかんに行われることになります。
さらに17世紀末には、帳合米商いと呼ばれる一種の先物取引も生まれています。
帳合米商いの特徴は、現金と米切手の取引を伴わずに売りや買いの約束だけをすることで、一般的な先物取引と違って満期日に現物のやりとりをすることも想定していません。ちょうど日経225やTopixの先物と同じで、満期日まで買い待ちしても日経225なるものが手に入るわけではないのと一緒です。先物取引は一般にリスクヘッジのために生まれたとされていますが、大坂では取引の流動性を高める(当時の言葉だと「手狭」を避ける)ために生まれたのです(42p)。
こうした取引を当初幕府は禁止していましたが、風向きが代わったのが享保期です。この時期は新田開発や温暖化によってコメの供給量が増え価格が下落した時期で、米価の低迷に頭を悩ませていた幕府は堂島米市場の公認に踏み切ります。
帳合米商いに関してはその後も奉行所への訴えが認められないなど、幕府の態度は「勝手次第」というものでしたが、幕府は米の取引市場が一定の役に立つものと考え始めたのです。
では、こうした取引が大坂に米を供給する各藩にとって利点があったかというと、とりあえず米切手に関しては大きな利点がありました。
米切手を持参すると各藩の蔵屋敷では10石(1500キログラム)の米と交換してくれます。米切手の持ち主は保管のコストなしに好きなときに米を手に入れることができ、また、この米切手を堂島米市場で売ることもできました。
一方、米切手はあくまでも10石の米の請求権であり、各藩の蔵屋敷は現在手元にある米以上の米切手を発行することも可能でした。つまり、後で国元から送るという名目で米切手による金策が可能だったのです。また、蔵屋敷が堂島米市場の市場価格にもとづいて米切手を買い上がることもありました。手元に米がなくても米切手を処理することが可能だったのです。
堂島米市場の取引ルールに関しては第5章を見てほしいのですが、ここで注目したいのは毎年6月と7月には「こそ」と呼ばれる夜通しの夜間取引が行われていたことです。梅雨や台風のこの時期にはリアルタイムでの取引が求められたのです。
また、「立用(るいよう)」と呼ばれる面白いしくみもありました。当時は市場が終わるときに火縄が点火されそれが消えると取引が終了となっていましたが、この火縄が点火されたときから消えるまでに一件も約定がないと、その日に行われた取引がすべて無効になるのです。これは相場の加熱や市場操作を防ぐためのしくみだったようで、いわば取引参加者による裁量的なサーキットブレーカーの役割を果たしていたようです(119-122p)。
堂島米市場では、実際の米切手を売買する正米商いと先ほど紹介した帳合米商いが行われていましたが、帳合米商いの利点はどこにあったのでしょうか?
山片蟠桃はその利点を「売りから入ることができる」ことにあるとしています。正米商いではまず「買う」必要がありますが、帳合米商いでは手元に米切手がなくても「売り」の取引をすることができるのです(133p)。
一方、こうした実態を持たない取引を中井竹山は「詐術姦計」と批判しています(150-151p)。
堂島米市場において米は銘柄ごとに取引されており、特に代表的な銘柄は帳合米商いの大賞となる立物米に選ばれました。
この立物米に選ばれるか否か、市場で優良な銘柄として認められるかどうかは収入の多くを米の販売に頼っていた各藩にとって非常に重要なことでした。
そのために年貢米に対しては厳重な検査が行われ、大坂に運ばれていました。18世紀中頃の佐賀藩では、個々の米俵にどの村の誰が作成した俵かを明記した札を差し込むことを義務付けていたそうです(166p)。第6章では、こうした米穀検査の様子が紹介されています。
第7章以降では、こうした堂島米市場の取引を幕府がいかに統制しようとしたかが分析されています。
まずは空米切手の問題です。各藩は多くの場合、その時点で蔵に存在する以上の米切手を発行しています。国元からの米は一度に運ばれてくるわけではないのですし、米切手の持ち主が一度に引き換えを求めてくることも普通はないからです。
ところが、現在の銀行と同じように、米切手の持ち主が一斉に米との引き換えを求めればこの制度は破綻します。ちょうどすべての預金者が銀行預金を引き出そうとすれば銀行が潰れるのと同じです。
実際、1737年には広島藩の蔵屋敷が取り付け騒ぎを起こしています。蔵屋敷の在庫量が発行済米切手の三割に過ぎないことが発覚したのです。押しかけた商人たちは、このままでは今年の年貢米販売はうまくいかなくなると脅し、蔵屋敷は国元に家臣の俸禄米の取り崩しと、銀1000貫を送ることを求め、なんとかこの騒ぎを収めたようです(173-175p)。
こうした騒ぎはその後も起こり、幕府は1761年に空米切手停止令(「空米切手御停止之儀」)を出しています。空米切手とそれに伴う信用不安が米価の下落を招くおそれがあると考えたのです。
もっともこの命令の後も空米切手は発行されたようですが、その後の空米切手騒動においてこの規定は商人側に有利にはたらくことになります。
また、幕府はこの堂島米市場の取引をつうじて米価の下落問題に対処しようとしました。
江戸時代の後期、幕府は何度か米価を上げるための介入を行いますが、それはいずれも一石=60匁を下回ったときであり、幕府はこの水準以下を望ましくないものと考えていたのです。
幕府は米価が低迷すると大坂の商人たちに米の「買持ち」をさせる買米政策を行いました。強制的に買わせることによって価格を引き上げようとしたのです。
ただし、当然ながら商人たちも抵抗します。あれこれ理由をつけて引き延ばし、幕府の思うようにはいきませんでした。
さらに享保期には、1石=42匁以下での売買については上納金を納めよと命じたり(235p)、買持ちの目標達成するまでは帳合米商いを禁止するという脅しをかけましたが(236ー237p)、結局はうまくいかずに買米政策は放棄されています。
田沼意次が老中だった宝暦期にはさらに手の込んだ買米政策が展開されます。まずは大坂の商人から月0.1%という利息で強制的に資金を出資させ、それを大坂の各町に0.1%の利息で貸付、その2/3を米切手の買持ちに使わせ、1/3を1.5%以内の利息で大名や旗本への融資に使っても良いとしたのです。
たんに米切手の買持ちだけでは米価が値下がりしたときに損をかぶりますが、その損を貸付で埋めることが認められたのです。
かなり考えられた政策でしたが、商人たちから大量の資金を吸い上げたことが、金融逼迫を生み、大名の資金繰りが厳しくなったために、この政策は3ヶ月で停止されています。
さらに1806年(文化3年)にも幕府による大規模な市場介入が行われています。この時も幕府は大坂の商人たちに米を買うことを命じましたが、やはり商人たちはなかなかこれに従いませんでした。
そんな中、これに応じて1万石もの買いを引き受けたのが升屋平右衛門(升平)です。しかし、升平は単純に買うといったのではなく、年内に2000石、翌年2月までに1000石、4月までに2000石を1石=65匁を下回る限りにおいて買持ちし、5・6月までに残る5000石を1石=60匁を下回る限りにおいて買持ちすると申告したのです(258p)。
なんだかずいぶんセコいやり方にも思えますが、大坂町奉行所はこの升平の提案を褒めました。幕府の目的は米価を単純に上げることではなく、一定以上の水準を維持することであり、升平の提案は幕府の目的に合致していたのです(著者はこの升平の提案の影に当時の升平を主導していた山片蟠桃の存在があるのではと推測している(258ー259p))。
この介入政策は半年後に近畿地方で水害が発生したことによる米価の上昇で解除されます。帳合米商いがあってこそできた政策であり、幕府がなんだかんだで実態のない取引を認めた理由も見えてきます。
最後の第10章では、最新の米価を知るために江戸時代の人びとがいかなる努力をしたかが紹介されています。米の取引は各地で行われており、大坂の米価をいち早く知ることはときに大きな利益をもたらしました。
そこで、大坂からは米飛脚が各地へと走り、旗振り通信や伝書鳩なども用いられました。なお、幕府はこうした他人を出し抜いて儲ける行為を問題視しており、旗振り通信や伝書鳩を禁止しています。
しかし、禁令にも関わらずこうした行為は行われていたようで、本書では滋賀県の玉尾家という農家が情報をいち早く知って儲けたエピソードが紹介されています(292ー293p)。
このように江戸時代に生まれた市場と、そこに集まった人びとの投機熱、そして、規制一辺倒ではない幕府の政策と、さまざまなことを教えてくれる本です。
幕府の政策のある種の柔軟性には、藤田覚『勘定奉行の江戸時代』(ちくま新書)に書かれている身分にかかわらずに優秀な人材を取り立てた勘定所という役所の存在も大きかったのでしょう。
ここで紹介しきれなかった面白いエピソードも数多くあり、読み応え十分の本です。
大坂堂島米市場 江戸幕府vs市場経済 (講談社現代新書)
高槻 泰郎
4065124980
- 2018年08月31日22:39
- yamasitayu
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『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ)、『耳鼻削ぎの日本史』(洋泉社歴史新書y)などで、現代とは異なる価値観を持つ中世の人々のありようを史料を通して面白く描いてきた著者が、戦国大名の分国法を紹介し、その中身と意義を探った本。
「結城氏新法度」というマイナーな分国法から始まり、伊達氏、六角氏、今川氏、武田氏の分国法を見ていくこの本は、内容、構成、結論とどれをとっても面白く刺激的なものとなっています。
分国法のイメージを一新するとともに、中世の人々の意識や戦国大名のあり方も考えさせる内容です。
目次は以下の通り。
まず第1章でとり上げられるのが、最初にも述べたように結城政勝が制定した「結城氏新法度」という比較的マイナーな分国法です。その理由としては結城氏が戦国大名としてはマイナーな存在であることがあげられますが、それと同時に内容にも問題があります。その条文には分国法というよりも家臣への愚痴のようなものが混じっているのです。
例えば、78条には「他人から頼まれたといって、酒に酔って私の目の前に現れて、いいかげんなことを申してはならない。よく酔いをさまして素面のときに参上して、何事も言上するように」(15p、条文はすべて著者が訳したもの)とあります。おそらく結城氏の家臣の中には酔って政勝の前に現れてまくしたてた人物がいたのでしょう。
また戦場でも、「どんな急な事態であったとしても、鎧を身につけずに出撃してはならない」(68条)、「命じられてもいないのに偵察に出かけるというのは、まるで他人事のような振る舞いだな」(69条)という条文があるように、政勝は家臣の勝手な振る舞いに苦しめられていたようです。
この法度にも、例えば喧嘩両成敗のような分国法の代表的なきまりは入っていますし、戦国時代の慣習法である「古法」を取り入れたような条文もあります。また、撰銭の基準などを家臣に諮問したりもしています。
しかし、せっかく家臣に諮問して決めても家臣がそれを守らなかったこともあるようで、結城氏の領内の物流規制について決めた85条では政勝の愚痴が爆発しています。
このように「結城氏新法度」からは家中の統制に苦しむ弱小戦国大名の姿が見えてきます。
第2章は伊達氏の「塵芥集」、伊達氏といえば伊達政宗が有名ですが、この「塵芥集」を制定したのは正宗の曽祖父にあたる伊達稙宗です。
稙宗は婚姻政策によって周囲に影響力を拡大し、足利一門の大崎氏にかわって奥州探題への任官を求めた人物で(結局、それまではなかった「陸奥国守護」に任命されたが稙宗は無視)、伊達氏が戦国大名となる礎を築きました。
そんな稙宗が制定した「塵芥集」ですが、どうも稙宗が一人で「御成敗式目」を参考にしながら書いたもののようで、177条もあるのですが、構成が変だったり、書き間違いと思われる箇所があったりします。
中世の裁判には所領や年貢をめぐる「所務沙汰」と刑事事件に相当する「検断沙汰」がありましたが、「塵芥集」においては他の大名の分国法と比べて「所務沙汰」の規定が甘くなっています。
これは東北では農地開発が他の地域ほど進んでおらず、土地をめぐる厳しい対立が少なかったからだと考えられます。
一方、「塵芥集」には下人に関する規定があります。下人とは人身売買によって買われた奴隷的な人びとですが、東北ではこうした人びとが集められ、重要な労働力となっていたようです。
「検断沙汰」をめぐる規定では、「生口」(=証人)に関する規定が目を引きます。当時の裁判において大事なのは生口(証人)です。もし容疑者が自白すればそれはもっとも信用できる証言だということもあって、生口は容疑者を指す意味でも使われています。
当時の刑事事件は自力救済が基本で、例えばものを盗まれた場合でも、犯人を自ら捕縛して伊達家に突き出す必要がありました。一方、冤罪の疑いをかけられた者も、自らの無実を証明するための生口を連れてくる必要がありました。
49条に「生口を捕縛するとき、誤って殺害してしまった場合は、捕り手の落ち度である」(59p)という規定があるように、当時の事件解決への道は非常に血なまぐさいものでした。
一方、農業用水の問題に関しては、「万民をはごくむ(育む)」という理屈を持ち出して、用水の利用や堤の建設を認めるなど、公共の利益を実現しようとする姿勢も窺えます。
こうした稙宗の「塵芥集」が、のちの政宗の飛躍を準備したと思うところですが、実はそうではありません。稙宗は「塵芥集」を制定した6年後に嫡子の晴宗と対立し、晴宗に実権を奪われています。その後「塵芥集」の規定が使われた形跡はなく、「塵芥集」はほとんど使われることなくその役目を終えたのです。
第3章でとり上げられているのが六角承禎・義治父子の定めた「六角氏式目」です。
六角氏は近江源氏(佐々木氏〕の嫡流の名門で、居城の観音寺城にはいち早く石垣を採用し、1549年には楽市令を出すなど先進的な性格を持つ大名でした。
「六角氏式目」も、「結城氏新法度」や「塵芥集」に比べると構成もしっかりとしており、商業について踏み込んだ規定があるなど、先進的な内容と言えます。
さらにこの「六角氏式目」は、家臣と当主の六角承禎、義治がそれぞれ守ることを誓うという形式をとっており、「審理を行わずに一方的に御判や奉書を発給なさってはならない」(37条)、「代々の御判や奉書を変更なさってはならない」(38条)といった当主を縛る規定も見られます(88p)。
これはまさに「法の支配」を感じさせるもので、「法の支配」の源流とも言われるイギリスの「マグナ・カルタ(大憲章)」を想起させます(95p)。
「マグナ・カルタ」はジョン王のさまざまな失政の結果、家臣たちから押し付けられたものでしたが、実は六角氏も隣国の美濃の斎藤氏をめぐる承禎・義治父子の対立、家臣と義治の対立などがあり、承禎・義治父子は家臣たちに居城を攻められて一時は観音寺城から落ち延びるような状況でした。
そんな家臣たちの不満を抑えるためのものが、この「六角氏式目」だったのです。そして、この「六角氏式目」を制定して1年後に六角氏は織田信長の侵攻を受けて滅ぼされています。
では、なぜ六角氏は家臣に一度は愛想を尽かされながら再び当主の地位に戻ることができたのでしょうか?
著者はその理由に家臣たちの村落支配の難しさをみています。家臣たちは六角氏に仕えていますが、同時に村落を支配する領主でもあります。ところが、当時の近江は惣村と呼ばれた自治村落が発展した地域であり、百姓たちは逃散や土地の返上の申し出などによって領主の支配に対して頑強な抵抗を行いました。
この百姓たちの支配や、自力救済のための報復合戦を避けるために戦国大名の権力が必要とされたのです。
第4章は「今川かな目録」をとり上げています。「今川かな目録」を制定したのは今川氏親で、さらにその子の義元が「かな目録追加」を定めています。この「今川かな目録」は、この章のサブタイトルに「分国法の最高傑作」という名がついているように、構成もしっかりとしており、複数の法曹専門官僚が作成に携わっていると見られます。
また、この「今川かな目録」に関しては氏親ではなく、その妻の寿桂尼が定めたものだという説がありますが、著者はこの節を退けています(120-124p)。
もともと今川家は名門の守護大名で、関東への備えとして在京を免除されていたことから、九州に備えて在京を免除されていた大内氏とともに、守護大名から有力な戦国大名へと成長しました。
そんな今川家が京都との人的ネットワークなども活かしつつ制定したのが、この「今川かな目録」だと考えられます。
中身としては喧嘩両成敗や土地の再開発でもめたさいの中分の考えなど、他の分国法でもおなじみの規定がありますが、それだけではなく今川家の領国を「国家」として考えていく思想が見られます。「日本国」でも「駿河国、遠江国」とも違う、今川家の領国としての「国家意識」が見られるのです(1390-141p)。
さらに義元による「かな目録追加」には、寺社の「守護使不入」の特権の撤廃を宣言した条文も見られます。もともと、「守護使不入」の特権は室町将軍が天下を支配していた頃に定められたものであり、「現在はすべてにおいてわが今川家が自分の力量で法度を定め、平和を保っている(つまり、いまこの国で今川家は将軍と同じ立場にいる)。だから「守護使不入」を理由にして今川家の介入を拒否できるなどと考えたら、とんでもないことだ」(追20条)というわけなのです(149p)。
さらに義元が定めた「訴訟条目」には、領国内の民衆に対して「国民」としての意識を求めるような箇所もあり、自らを「国家」を守る存在として位置づけています。
第5章で最後に紹介されるのが武田信玄(晴信)が制定した「甲州法度之次第」です。
戦国最強とも言われた武田信玄の制定した分国法で、さては先進的な内容なのだろうと思う人もいるかも知れませんが、実はその多くの条文が「今川かな目録」の引き写しです。
「甲州法度之次第」には二六条本と五五条本が伝わっており、二六条本では26の条文のうち12の条文が「今川かな目録」の影響を受けています。
ちなみに二六条本と五五条本の関係については、さまざまな研究からまずは二六条本が成立し、その7年後に五五条本が成立したと考えています(170-176p)。
二六条本には、他国への贈り物や婚姻の禁止、喧嘩両成敗の規定、さらに浄土宗と日蓮宗の法論を禁止する規定などがあります。また、最後の26条には晴信自身がこの法度に背くような事があれば告発せよという規定もあります(168p)。
26条は「法の支配」を思わせる踏み込んだ規定ですが、基本的には家臣の統制を中心とした家中法の色彩が強いです。
一方、五五条本で追加された項目は税制についての条文や米銭の貸借トラブルに関する条文の追加が目立ちます。
このころ、晴信は信濃攻略の戦いで苦戦しており、度重なる戦いの中で家臣の中にも借財を重ねて破産する者が多かったと考えられます。そうした状況が条文の追加を要請したのです。
こうして「甲州法度之次第」は家中法から、領国や領民を統制する領国法へと成長したのです。
終章はまとめですが、ここで著者は石母田正が提唱した「分国法は戦国大名の自律性の指標(メルクマール)」(191p)という考えに疑問を呈します。
分国法を制定した戦国大名は10家ほどであり、織田も徳川も上杉も後北条も毛利も島津も分国法を制定していないのです。一方、この本でとり上げた戦国大名は伊達氏を除くと戦国時代が終わるまでに滅亡していますし、前にも述べたように伊達氏の「塵芥集」は政宗の頃には使われていません。
六角氏に代表されるように分国法は権力基盤の弱い大名がそれを補うために制定したという面もありましたし、戦国の舞台は法廷ではなく戦場でした。
つまり、分国法にもとづいた公平な裁きが実現しなくても、戦場で勝利し領地を拡大させることができれば、大方の問題は片付いたのです。著者は、「その意味では、結城・伊達・六角・今川・武田という、本書の主人公たちはみな上品すぎたのかもしれない」(203p)と書いています。
しかし、同時に「社会と切り結び、民間の法習慣に公的な位置を与えるという彼らの志向性は、最終的には、その後の近世社会に継承されていくことになる」(205p)のです。
このように中身も読んでいて面白いですし、結論も刺激的という、コンパクトながら読み応え十分の本です。
戦国大名や中世社会に興味がある人はもちろん、広く法律や政治に興味がある人にとっても面白く読むことのできる本だと思います。
戦国大名と分国法 (岩波新書)
清水 克行
4004317290
「結城氏新法度」というマイナーな分国法から始まり、伊達氏、六角氏、今川氏、武田氏の分国法を見ていくこの本は、内容、構成、結論とどれをとっても面白く刺激的なものとなっています。
分国法のイメージを一新するとともに、中世の人々の意識や戦国大名のあり方も考えさせる内容です。
目次は以下の通り。
第1章 結城政勝と「結城氏新法度」―大名と家臣たち
第2章 伊達稙宗と「塵芥集」―自力救済と当事者主義
第3章 六角承禎・義治と「六角氏式目」―戦国大名の存在理由
第4章 今川氏親・義元と「今川かな目録」―分国法の最高傑作
第5章 武田晴信と「甲州法度之次第」―家中法から領国法へ
終章 戦国大名の憂鬱
まず第1章でとり上げられるのが、最初にも述べたように結城政勝が制定した「結城氏新法度」という比較的マイナーな分国法です。その理由としては結城氏が戦国大名としてはマイナーな存在であることがあげられますが、それと同時に内容にも問題があります。その条文には分国法というよりも家臣への愚痴のようなものが混じっているのです。
例えば、78条には「他人から頼まれたといって、酒に酔って私の目の前に現れて、いいかげんなことを申してはならない。よく酔いをさまして素面のときに参上して、何事も言上するように」(15p、条文はすべて著者が訳したもの)とあります。おそらく結城氏の家臣の中には酔って政勝の前に現れてまくしたてた人物がいたのでしょう。
また戦場でも、「どんな急な事態であったとしても、鎧を身につけずに出撃してはならない」(68条)、「命じられてもいないのに偵察に出かけるというのは、まるで他人事のような振る舞いだな」(69条)という条文があるように、政勝は家臣の勝手な振る舞いに苦しめられていたようです。
この法度にも、例えば喧嘩両成敗のような分国法の代表的なきまりは入っていますし、戦国時代の慣習法である「古法」を取り入れたような条文もあります。また、撰銭の基準などを家臣に諮問したりもしています。
しかし、せっかく家臣に諮問して決めても家臣がそれを守らなかったこともあるようで、結城氏の領内の物流規制について決めた85条では政勝の愚痴が爆発しています。
荷留めについては、みなが規制したほうがよいと言われるので、家中のためを思い規制したのに、許可証のない荷物を没収したところ、また誰かに頼まれてはこれを返却したり、「この荷物は通すべきだ」などと、みなで言われる。本当に我が家中の方々は、老いも若きもわがまま勝手で、どうしようもない方々ですね。(29p)
このように「結城氏新法度」からは家中の統制に苦しむ弱小戦国大名の姿が見えてきます。
第2章は伊達氏の「塵芥集」、伊達氏といえば伊達政宗が有名ですが、この「塵芥集」を制定したのは正宗の曽祖父にあたる伊達稙宗です。
稙宗は婚姻政策によって周囲に影響力を拡大し、足利一門の大崎氏にかわって奥州探題への任官を求めた人物で(結局、それまではなかった「陸奥国守護」に任命されたが稙宗は無視)、伊達氏が戦国大名となる礎を築きました。
そんな稙宗が制定した「塵芥集」ですが、どうも稙宗が一人で「御成敗式目」を参考にしながら書いたもののようで、177条もあるのですが、構成が変だったり、書き間違いと思われる箇所があったりします。
中世の裁判には所領や年貢をめぐる「所務沙汰」と刑事事件に相当する「検断沙汰」がありましたが、「塵芥集」においては他の大名の分国法と比べて「所務沙汰」の規定が甘くなっています。
これは東北では農地開発が他の地域ほど進んでおらず、土地をめぐる厳しい対立が少なかったからだと考えられます。
一方、「塵芥集」には下人に関する規定があります。下人とは人身売買によって買われた奴隷的な人びとですが、東北ではこうした人びとが集められ、重要な労働力となっていたようです。
「検断沙汰」をめぐる規定では、「生口」(=証人)に関する規定が目を引きます。当時の裁判において大事なのは生口(証人)です。もし容疑者が自白すればそれはもっとも信用できる証言だということもあって、生口は容疑者を指す意味でも使われています。
当時の刑事事件は自力救済が基本で、例えばものを盗まれた場合でも、犯人を自ら捕縛して伊達家に突き出す必要がありました。一方、冤罪の疑いをかけられた者も、自らの無実を証明するための生口を連れてくる必要がありました。
49条に「生口を捕縛するとき、誤って殺害してしまった場合は、捕り手の落ち度である」(59p)という規定があるように、当時の事件解決への道は非常に血なまぐさいものでした。
一方、農業用水の問題に関しては、「万民をはごくむ(育む)」という理屈を持ち出して、用水の利用や堤の建設を認めるなど、公共の利益を実現しようとする姿勢も窺えます。
こうした稙宗の「塵芥集」が、のちの政宗の飛躍を準備したと思うところですが、実はそうではありません。稙宗は「塵芥集」を制定した6年後に嫡子の晴宗と対立し、晴宗に実権を奪われています。その後「塵芥集」の規定が使われた形跡はなく、「塵芥集」はほとんど使われることなくその役目を終えたのです。
第3章でとり上げられているのが六角承禎・義治父子の定めた「六角氏式目」です。
六角氏は近江源氏(佐々木氏〕の嫡流の名門で、居城の観音寺城にはいち早く石垣を採用し、1549年には楽市令を出すなど先進的な性格を持つ大名でした。
「六角氏式目」も、「結城氏新法度」や「塵芥集」に比べると構成もしっかりとしており、商業について踏み込んだ規定があるなど、先進的な内容と言えます。
さらにこの「六角氏式目」は、家臣と当主の六角承禎、義治がそれぞれ守ることを誓うという形式をとっており、「審理を行わずに一方的に御判や奉書を発給なさってはならない」(37条)、「代々の御判や奉書を変更なさってはならない」(38条)といった当主を縛る規定も見られます(88p)。
これはまさに「法の支配」を感じさせるもので、「法の支配」の源流とも言われるイギリスの「マグナ・カルタ(大憲章)」を想起させます(95p)。
「マグナ・カルタ」はジョン王のさまざまな失政の結果、家臣たちから押し付けられたものでしたが、実は六角氏も隣国の美濃の斎藤氏をめぐる承禎・義治父子の対立、家臣と義治の対立などがあり、承禎・義治父子は家臣たちに居城を攻められて一時は観音寺城から落ち延びるような状況でした。
そんな家臣たちの不満を抑えるためのものが、この「六角氏式目」だったのです。そして、この「六角氏式目」を制定して1年後に六角氏は織田信長の侵攻を受けて滅ぼされています。
では、なぜ六角氏は家臣に一度は愛想を尽かされながら再び当主の地位に戻ることができたのでしょうか?
著者はその理由に家臣たちの村落支配の難しさをみています。家臣たちは六角氏に仕えていますが、同時に村落を支配する領主でもあります。ところが、当時の近江は惣村と呼ばれた自治村落が発展した地域であり、百姓たちは逃散や土地の返上の申し出などによって領主の支配に対して頑強な抵抗を行いました。
この百姓たちの支配や、自力救済のための報復合戦を避けるために戦国大名の権力が必要とされたのです。
第4章は「今川かな目録」をとり上げています。「今川かな目録」を制定したのは今川氏親で、さらにその子の義元が「かな目録追加」を定めています。この「今川かな目録」は、この章のサブタイトルに「分国法の最高傑作」という名がついているように、構成もしっかりとしており、複数の法曹専門官僚が作成に携わっていると見られます。
また、この「今川かな目録」に関しては氏親ではなく、その妻の寿桂尼が定めたものだという説がありますが、著者はこの節を退けています(120-124p)。
もともと今川家は名門の守護大名で、関東への備えとして在京を免除されていたことから、九州に備えて在京を免除されていた大内氏とともに、守護大名から有力な戦国大名へと成長しました。
そんな今川家が京都との人的ネットワークなども活かしつつ制定したのが、この「今川かな目録」だと考えられます。
中身としては喧嘩両成敗や土地の再開発でもめたさいの中分の考えなど、他の分国法でもおなじみの規定がありますが、それだけではなく今川家の領国を「国家」として考えていく思想が見られます。「日本国」でも「駿河国、遠江国」とも違う、今川家の領国としての「国家意識」が見られるのです(1390-141p)。
さらに義元による「かな目録追加」には、寺社の「守護使不入」の特権の撤廃を宣言した条文も見られます。もともと、「守護使不入」の特権は室町将軍が天下を支配していた頃に定められたものであり、「現在はすべてにおいてわが今川家が自分の力量で法度を定め、平和を保っている(つまり、いまこの国で今川家は将軍と同じ立場にいる)。だから「守護使不入」を理由にして今川家の介入を拒否できるなどと考えたら、とんでもないことだ」(追20条)というわけなのです(149p)。
さらに義元が定めた「訴訟条目」には、領国内の民衆に対して「国民」としての意識を求めるような箇所もあり、自らを「国家」を守る存在として位置づけています。
第5章で最後に紹介されるのが武田信玄(晴信)が制定した「甲州法度之次第」です。
戦国最強とも言われた武田信玄の制定した分国法で、さては先進的な内容なのだろうと思う人もいるかも知れませんが、実はその多くの条文が「今川かな目録」の引き写しです。
「甲州法度之次第」には二六条本と五五条本が伝わっており、二六条本では26の条文のうち12の条文が「今川かな目録」の影響を受けています。
ちなみに二六条本と五五条本の関係については、さまざまな研究からまずは二六条本が成立し、その7年後に五五条本が成立したと考えています(170-176p)。
二六条本には、他国への贈り物や婚姻の禁止、喧嘩両成敗の規定、さらに浄土宗と日蓮宗の法論を禁止する規定などがあります。また、最後の26条には晴信自身がこの法度に背くような事があれば告発せよという規定もあります(168p)。
26条は「法の支配」を思わせる踏み込んだ規定ですが、基本的には家臣の統制を中心とした家中法の色彩が強いです。
一方、五五条本で追加された項目は税制についての条文や米銭の貸借トラブルに関する条文の追加が目立ちます。
このころ、晴信は信濃攻略の戦いで苦戦しており、度重なる戦いの中で家臣の中にも借財を重ねて破産する者が多かったと考えられます。そうした状況が条文の追加を要請したのです。
こうして「甲州法度之次第」は家中法から、領国や領民を統制する領国法へと成長したのです。
終章はまとめですが、ここで著者は石母田正が提唱した「分国法は戦国大名の自律性の指標(メルクマール)」(191p)という考えに疑問を呈します。
分国法を制定した戦国大名は10家ほどであり、織田も徳川も上杉も後北条も毛利も島津も分国法を制定していないのです。一方、この本でとり上げた戦国大名は伊達氏を除くと戦国時代が終わるまでに滅亡していますし、前にも述べたように伊達氏の「塵芥集」は政宗の頃には使われていません。
六角氏に代表されるように分国法は権力基盤の弱い大名がそれを補うために制定したという面もありましたし、戦国の舞台は法廷ではなく戦場でした。
つまり、分国法にもとづいた公平な裁きが実現しなくても、戦場で勝利し領地を拡大させることができれば、大方の問題は片付いたのです。著者は、「その意味では、結城・伊達・六角・今川・武田という、本書の主人公たちはみな上品すぎたのかもしれない」(203p)と書いています。
しかし、同時に「社会と切り結び、民間の法習慣に公的な位置を与えるという彼らの志向性は、最終的には、その後の近世社会に継承されていくことになる」(205p)のです。
このように中身も読んでいて面白いですし、結論も刺激的という、コンパクトながら読み応え十分の本です。
戦国大名や中世社会に興味がある人はもちろん、広く法律や政治に興味がある人にとっても面白く読むことのできる本だと思います。
戦国大名と分国法 (岩波新書)
清水 克行
4004317290
- 2018年08月22日21:33
- yamasitayu
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新書だけでも、『李鴻章』、『袁世凱』(ともに岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)、『日中関係』(PHP新書)、『中国の論理』(中公新書)など精力的に著作を発表している著者ですが、今回のタイトルはなんと『世界史序説』。近年、流行しているグローバル・ヒストリーに対し、東洋史の立場から「もう一つの世界史」を提示するという非常に野心的な内容となっています。
正直なところ、著者の描き出す世界史像がどれだけの実証性を備えているものなのかはわかりませんが、地中海→大西洋→グローバルといった形で描き出されることが多い「西洋史」からの「世界史」ではなく、農耕民と遊牧民が混ざり合うユーラシアから描き出された「世界史」は非常に刺激的です。
目次は以下の通り。
近年、さかんに「グローバル・ヒストリー」という言葉が使われるようになり、歴史を国別ではなく世界全体から見る、さまざまな地域の関係性を見る、といったことがさかんに行われるようになっています。
また、以前は大航海時代以降はずっと西欧が世界をリードしていたという視点が一般的でしたが、例えば、ポメランツの『大分岐』では産業革命前までは中国や日本も同じように発展しており、さまざまな偶然から起こった産業革命によって「大分岐」が生じたという見方が打ち出されています。
しかし、著者はこうした見方もあくまでも西洋中心の歴史であり、西洋と東洋のさまざまな質的な違いを無視した議論だといいます。
現在の「世界史」においては、時代区分なども西洋史のものを当てはめるような形で考えられており、いわば、西洋の歴史を説明するためにつくられたさまざまな図式に東洋の歴史を無理にはめ込んだようなものなのです。
そこで、この本ではまず、宮崎市定にならって文字の排列法に注目し、右から左の西アジア、左から右の南アジア、上から下の東アジアに分類します(46p図5)。
その上で、オリエント、インダス、黄河流域のいずれもが、農耕民族と遊牧民族の隣接地域であることに注目して、ここに古代文明の成立条件をみています。
例えば、中国では黄河と長江の流域に文明が誕生しましたが、最終的に勝ち残ったのは「中原」と称される黄河流域でした。これは中原が遊牧民族と隣接する地域で、その軍事力や商業ネットワークにアクセスすることが可能だったからだと考えられます。
4〜5世紀は西では西ローマ帝国が滅亡し、東では漢帝国滅亡後の争いが続くという混乱の時代でした。この原因は地球の寒冷化だと考えられています。
遊牧民族の南下によって西ヨーロッパや中原は混乱し、荒廃した農地を耕作させるために流民を土地に縛り付けて耕作させる制度が採用されました。東アジアでは均田制であり、ヨーロッパでは封建制になります(65p)。
また、この時代に発展したのが仏教、キリスト教、イスラームといった世界宗教でした。危機の時代にあって信仰の熱が高まったのです。
現在、仏教は他に比べ信者数などでマイナーな存在となっていますが、この時期には大乗仏教が東アジアに急速に普及しており、日本の遣隋使も「仏教」を一つの口実とした使者だったように(94p)、東アジアを覆う勢いを見せました。
オリエントでは6世紀になると、東ローマ帝国のユスティニアヌス帝、ササン朝のホスロー1世が、互いに和睦した上で東ローマは西にササン朝は東へと拡大し、繁栄しますが、7世紀になると再び両国は戦うようになります。
そんな中で誕生したのがイスラームです。アラビア半島で生まれたこの宗教は、シリア、エジプト、ペルシャを征服し、オリエントの統一を成し遂げました。そして地中海も支配するようになったのです。
一方、中央アジアでは、シルクロードの商業地帯に住んでいたイラン系のソグド人をトルコ系の遊牧民族の突厥が支配するようになります。
このソグドの商業経済力と突厥の遊牧軍事力の組み合わせは強力で、突厥は非常に大きな勢力となりましたが、7世紀になると唐が突厥を服属させます。唐はソグド人の商業ネットワークとつながるようになり、唐の影響力は中央アジアへと広がっていきます。
ここに長らく混乱してきた東アジアと西アジアは、唐とイスラームという形でまとまることになるのです。
しかし、唐は8世紀の安史の乱を境に衰えていき、東ユーラシアの統合は解体していきます。
一方、西ではウマイヤ朝にアッバース朝が取って代わりますが、アッバース朝からイベリア半島や北アフリカ地域が離脱していき、ウマイヤ朝に比べると東向きな政権となりました。
中央アジアではトルコ化が進み、ソグド人と融合する形で勢力を広げます。この背景には地球の温暖化があり、草原の再拡大とともにトルコ人の勢力が広がっていったと考えられます(112-114p)。
中国の北方では、モンゴル系の部族である契丹が勢力を伸ばし、華北に進出し、「遼」と称します。これに対抗するために、中国では「唐宋変革」と呼ばれる変革の中で皇帝に権力が集中するしくみが整えられ、北方の遊牧民族と対峙しました。
しかし、ここでその均衡を打ち破り、ユーラシアを統合する動きが起こります。チンギス・カン(この本はカン表記)とその子孫たちによるユーラシアの征服です。
チンギスは武力によってモンゴル高原と中央アジアの統合を成し遂げましたが、その子のオゴデイの代になると、駅伝制度が整えられるなど、巨大な領域を支配する仕組みがつくられていきます。
モンゴルはさらに金を殲滅させ、ロシアから東欧へと遠征し、アッバース朝を滅ぼしてシリアに進出し、エジプトを窺います。モンゴルの拡大は、南宋攻略を除くと、クビライが大カーンに即位したあたりで停止しますが、モンゴルによってユーラシアは一つになりました。
モンゴルのもとにはウイグル人やイラン系のムスリムなどが集まり、彼らの商業資本やネットワークを活かす形で広大な地域を支配していきます。
クビライは都を大都(今の北京)に定めましたが、北京のあたりは農耕世界の北限であり、遊牧世界の南限に位置します(149p)。クビライはこの大都と遊牧世界に位置する開平を拠点に、ユーラシアの商業ネットワークを支配しました。
税も商業の流通過程から取り立て、また、兌換紙幣を発行し、貨幣経済を拡張しました。
しかし、このモンゴルも14世紀後半に地球の寒冷化とともに訪れた「14世紀の危機」の中で崩壊していきます。
中央アジアではモンゴルはトルコ人ムスリムと混淆しティムール朝をつくります。このティムール朝は衰えていきますが、その末裔はインド方面に侵入しムガル朝をつくりました。
また、西アジアではサファヴィー朝やオスマン帝国が、それぞれモンゴル的な要素を取り入れながらイスラームによってさまざまな民族を包摂しました。
一方、中国では「 反モンゴル」色の強い明が成立します。明は反商業・反貨幣というモンゴルとは対照的な経済政策をとり、貿易も厳しく制限しました。また、遊牧民と農耕民を隔てる万里の長城を改めて構築しています。
しかし、中国における商業や手工業の発展は深刻な貨幣不足をもたらし、明の海禁政策を揺るがしました。いわゆる「北虜南倭」は北のモンゴルと南の倭寇を差しますが、これは中国経済が貴金属という貨幣を求める中で起こった動きとも言えます。
明に代わった清は、皇帝が中華の皇帝とモンゴルの大カーンを兼ねることで遊牧世界とのつながりを回復しますが、このころになると交易に中心は陸から海い移りつつありました。
そこで存在感を増してきたのが、今までユーラシアの中では孤立していたインドです。そして喜望峰をまわってインドに到達したヨーロッパ人たちもインドを中心とした海洋貿易に参加していきます。
また、ヨーロッパ人が新大陸で発見した銀は中国に流れ込み、中国社会の商業化を進めていきます。さらに中国には隣国の日本からも大量の銀が流れ込みました。
そして、ここでようやく著者はヨーロッパを論じ始めます(第4章)。ヨーロッパ世界は800年のシャルルマーニュによる西ローマ帝国の復興に始まりますが、ヨーロッパは地中海やオリエントからは切り離されていました。シチリア島は9世紀後半にイスラームの支配するところとなりましたし、ヨーロッパはユーラシアの中で孤立した存在だったのです。
しかし、温暖化が進むとヨーロッパの農業は生産力を増し、北方にいたノルマン人がシチリアと南イタリアを占領してシチリア王国を建てます。
このシチリアの王から神聖ローマ帝国の皇帝となり、ルネサンスを準備したと考えられているのが大帝フリードリヒ2世です。フリードリヒ2世はアラビア語やギリシア語を駆使して、近代的な官僚制を整備し、傭兵部隊をつくり上げました。
フリードリヒ2世の目指したイタリア統一はかないませんでしたが、彼の衣鉢を継ぐような形で北イタリアの都市が発展し、ルネサンスが始まります。商業や金融の技術も発展し、ヨーロッパは地中海、そして大西洋へと乗り出していくことになるのです。
ヨーロッパではまずスペイン・ポルトガルが世界へ進出し、やがてその地位はオランダ、そしてイギリスへと移っていきます。
その中でもイギリスは、たんなる海運・通商帝国から政治・軍事的な帝国へと発展していきました。著者はこの背景にイギリスの歴史の中で培われた「法の支配」の存在を見ています。
そして、産業革命が世界の商品の流れを変えました。今までのスペイン・ポルトガルやオランダはアジアに銀を運び、アジアの商品を買い付けていましたが、産業革命によってイギリスはついにアジアから富を流出させることに成功したのです。
このヨーロッパの優位をもたらした背景には、新大陸の富を背景にした経済力や軍事力といったものがありますが、それととに著者があげるのが「信用」の問題です。中国では法制度の問題もあって仲間内を超える「信用」はなかなか生まれませんでしたが、ヨーロッパの小国では小国ゆえのきめ細かな統治の中で、こうした法制度が整えられていきました。
「おわりに」で著者は日本についても簡単に触れていますが、日本には大陸のような遊牧世界と農耕世界のダイナミックな交流は存在せず、ヨーロッパに似た農耕一元社会の中で細やかな統治が行われました。
近世の成立過程における一向宗やキリスト教徒への弾圧は一種の政教分離を生み、また、鎖国は中国からの輸入を代替する産業(生糸や綿花)を生みました。こうして、日本社会は近代へと移行する準備を整えたのです。
著者の描く大きな見取り図をこの記事でどれだけ紹介できているかは自信のないところもありますが、壮大かつ、教科書に載っている、あるいは「グローバル・ヒストリー」と銘打つ本とは一味違う「世界史」が描き出されていることはわかると思います。
最初にも述べたように、この本で提示されている見取り図をどの程度実証できるのかということはわかりませんが、間違いなく面白いですし、世界史に対する新たな見方を提供してくれる本です。
世界史序説 (ちくま新書)
岡本 隆司
4480071555
正直なところ、著者の描き出す世界史像がどれだけの実証性を備えているものなのかはわかりませんが、地中海→大西洋→グローバルといった形で描き出されることが多い「西洋史」からの「世界史」ではなく、農耕民と遊牧民が混ざり合うユーラシアから描き出された「世界史」は非常に刺激的です。
目次は以下の通り。
はじめに 日本人の世界史を
第1章 アジア史と古代文明
第2章 流動化の世紀
第3章 近世アジアの形成
第4章 西洋近代
おわりに 日本史と世界史の展望
近年、さかんに「グローバル・ヒストリー」という言葉が使われるようになり、歴史を国別ではなく世界全体から見る、さまざまな地域の関係性を見る、といったことがさかんに行われるようになっています。
また、以前は大航海時代以降はずっと西欧が世界をリードしていたという視点が一般的でしたが、例えば、ポメランツの『大分岐』では産業革命前までは中国や日本も同じように発展しており、さまざまな偶然から起こった産業革命によって「大分岐」が生じたという見方が打ち出されています。
しかし、著者はこうした見方もあくまでも西洋中心の歴史であり、西洋と東洋のさまざまな質的な違いを無視した議論だといいます。
現在の「世界史」においては、時代区分なども西洋史のものを当てはめるような形で考えられており、いわば、西洋の歴史を説明するためにつくられたさまざまな図式に東洋の歴史を無理にはめ込んだようなものなのです。
そこで、この本ではまず、宮崎市定にならって文字の排列法に注目し、右から左の西アジア、左から右の南アジア、上から下の東アジアに分類します(46p図5)。
その上で、オリエント、インダス、黄河流域のいずれもが、農耕民族と遊牧民族の隣接地域であることに注目して、ここに古代文明の成立条件をみています。
例えば、中国では黄河と長江の流域に文明が誕生しましたが、最終的に勝ち残ったのは「中原」と称される黄河流域でした。これは中原が遊牧民族と隣接する地域で、その軍事力や商業ネットワークにアクセスすることが可能だったからだと考えられます。
4〜5世紀は西では西ローマ帝国が滅亡し、東では漢帝国滅亡後の争いが続くという混乱の時代でした。この原因は地球の寒冷化だと考えられています。
遊牧民族の南下によって西ヨーロッパや中原は混乱し、荒廃した農地を耕作させるために流民を土地に縛り付けて耕作させる制度が採用されました。東アジアでは均田制であり、ヨーロッパでは封建制になります(65p)。
また、この時代に発展したのが仏教、キリスト教、イスラームといった世界宗教でした。危機の時代にあって信仰の熱が高まったのです。
現在、仏教は他に比べ信者数などでマイナーな存在となっていますが、この時期には大乗仏教が東アジアに急速に普及しており、日本の遣隋使も「仏教」を一つの口実とした使者だったように(94p)、東アジアを覆う勢いを見せました。
オリエントでは6世紀になると、東ローマ帝国のユスティニアヌス帝、ササン朝のホスロー1世が、互いに和睦した上で東ローマは西にササン朝は東へと拡大し、繁栄しますが、7世紀になると再び両国は戦うようになります。
そんな中で誕生したのがイスラームです。アラビア半島で生まれたこの宗教は、シリア、エジプト、ペルシャを征服し、オリエントの統一を成し遂げました。そして地中海も支配するようになったのです。
一方、中央アジアでは、シルクロードの商業地帯に住んでいたイラン系のソグド人をトルコ系の遊牧民族の突厥が支配するようになります。
このソグドの商業経済力と突厥の遊牧軍事力の組み合わせは強力で、突厥は非常に大きな勢力となりましたが、7世紀になると唐が突厥を服属させます。唐はソグド人の商業ネットワークとつながるようになり、唐の影響力は中央アジアへと広がっていきます。
ここに長らく混乱してきた東アジアと西アジアは、唐とイスラームという形でまとまることになるのです。
しかし、唐は8世紀の安史の乱を境に衰えていき、東ユーラシアの統合は解体していきます。
一方、西ではウマイヤ朝にアッバース朝が取って代わりますが、アッバース朝からイベリア半島や北アフリカ地域が離脱していき、ウマイヤ朝に比べると東向きな政権となりました。
中央アジアではトルコ化が進み、ソグド人と融合する形で勢力を広げます。この背景には地球の温暖化があり、草原の再拡大とともにトルコ人の勢力が広がっていったと考えられます(112-114p)。
中国の北方では、モンゴル系の部族である契丹が勢力を伸ばし、華北に進出し、「遼」と称します。これに対抗するために、中国では「唐宋変革」と呼ばれる変革の中で皇帝に権力が集中するしくみが整えられ、北方の遊牧民族と対峙しました。
しかし、ここでその均衡を打ち破り、ユーラシアを統合する動きが起こります。チンギス・カン(この本はカン表記)とその子孫たちによるユーラシアの征服です。
チンギスは武力によってモンゴル高原と中央アジアの統合を成し遂げましたが、その子のオゴデイの代になると、駅伝制度が整えられるなど、巨大な領域を支配する仕組みがつくられていきます。
モンゴルはさらに金を殲滅させ、ロシアから東欧へと遠征し、アッバース朝を滅ぼしてシリアに進出し、エジプトを窺います。モンゴルの拡大は、南宋攻略を除くと、クビライが大カーンに即位したあたりで停止しますが、モンゴルによってユーラシアは一つになりました。
モンゴルのもとにはウイグル人やイラン系のムスリムなどが集まり、彼らの商業資本やネットワークを活かす形で広大な地域を支配していきます。
クビライは都を大都(今の北京)に定めましたが、北京のあたりは農耕世界の北限であり、遊牧世界の南限に位置します(149p)。クビライはこの大都と遊牧世界に位置する開平を拠点に、ユーラシアの商業ネットワークを支配しました。
税も商業の流通過程から取り立て、また、兌換紙幣を発行し、貨幣経済を拡張しました。
しかし、このモンゴルも14世紀後半に地球の寒冷化とともに訪れた「14世紀の危機」の中で崩壊していきます。
中央アジアではモンゴルはトルコ人ムスリムと混淆しティムール朝をつくります。このティムール朝は衰えていきますが、その末裔はインド方面に侵入しムガル朝をつくりました。
また、西アジアではサファヴィー朝やオスマン帝国が、それぞれモンゴル的な要素を取り入れながらイスラームによってさまざまな民族を包摂しました。
一方、中国では「 反モンゴル」色の強い明が成立します。明は反商業・反貨幣というモンゴルとは対照的な経済政策をとり、貿易も厳しく制限しました。また、遊牧民と農耕民を隔てる万里の長城を改めて構築しています。
しかし、中国における商業や手工業の発展は深刻な貨幣不足をもたらし、明の海禁政策を揺るがしました。いわゆる「北虜南倭」は北のモンゴルと南の倭寇を差しますが、これは中国経済が貴金属という貨幣を求める中で起こった動きとも言えます。
明に代わった清は、皇帝が中華の皇帝とモンゴルの大カーンを兼ねることで遊牧世界とのつながりを回復しますが、このころになると交易に中心は陸から海い移りつつありました。
そこで存在感を増してきたのが、今までユーラシアの中では孤立していたインドです。そして喜望峰をまわってインドに到達したヨーロッパ人たちもインドを中心とした海洋貿易に参加していきます。
また、ヨーロッパ人が新大陸で発見した銀は中国に流れ込み、中国社会の商業化を進めていきます。さらに中国には隣国の日本からも大量の銀が流れ込みました。
そして、ここでようやく著者はヨーロッパを論じ始めます(第4章)。ヨーロッパ世界は800年のシャルルマーニュによる西ローマ帝国の復興に始まりますが、ヨーロッパは地中海やオリエントからは切り離されていました。シチリア島は9世紀後半にイスラームの支配するところとなりましたし、ヨーロッパはユーラシアの中で孤立した存在だったのです。
しかし、温暖化が進むとヨーロッパの農業は生産力を増し、北方にいたノルマン人がシチリアと南イタリアを占領してシチリア王国を建てます。
このシチリアの王から神聖ローマ帝国の皇帝となり、ルネサンスを準備したと考えられているのが大帝フリードリヒ2世です。フリードリヒ2世はアラビア語やギリシア語を駆使して、近代的な官僚制を整備し、傭兵部隊をつくり上げました。
フリードリヒ2世の目指したイタリア統一はかないませんでしたが、彼の衣鉢を継ぐような形で北イタリアの都市が発展し、ルネサンスが始まります。商業や金融の技術も発展し、ヨーロッパは地中海、そして大西洋へと乗り出していくことになるのです。
ヨーロッパではまずスペイン・ポルトガルが世界へ進出し、やがてその地位はオランダ、そしてイギリスへと移っていきます。
その中でもイギリスは、たんなる海運・通商帝国から政治・軍事的な帝国へと発展していきました。著者はこの背景にイギリスの歴史の中で培われた「法の支配」の存在を見ています。
そして、産業革命が世界の商品の流れを変えました。今までのスペイン・ポルトガルやオランダはアジアに銀を運び、アジアの商品を買い付けていましたが、産業革命によってイギリスはついにアジアから富を流出させることに成功したのです。
このヨーロッパの優位をもたらした背景には、新大陸の富を背景にした経済力や軍事力といったものがありますが、それととに著者があげるのが「信用」の問題です。中国では法制度の問題もあって仲間内を超える「信用」はなかなか生まれませんでしたが、ヨーロッパの小国では小国ゆえのきめ細かな統治の中で、こうした法制度が整えられていきました。
「おわりに」で著者は日本についても簡単に触れていますが、日本には大陸のような遊牧世界と農耕世界のダイナミックな交流は存在せず、ヨーロッパに似た農耕一元社会の中で細やかな統治が行われました。
近世の成立過程における一向宗やキリスト教徒への弾圧は一種の政教分離を生み、また、鎖国は中国からの輸入を代替する産業(生糸や綿花)を生みました。こうして、日本社会は近代へと移行する準備を整えたのです。
著者の描く大きな見取り図をこの記事でどれだけ紹介できているかは自信のないところもありますが、壮大かつ、教科書に載っている、あるいは「グローバル・ヒストリー」と銘打つ本とは一味違う「世界史」が描き出されていることはわかると思います。
最初にも述べたように、この本で提示されている見取り図をどの程度実証できるのかということはわかりませんが、間違いなく面白いですし、世界史に対する新たな見方を提供してくれる本です。
世界史序説 (ちくま新書)
岡本 隆司
4480071555
- 2018年08月15日23:21
- yamasitayu
- コメント:0
日本でニュースを見ていると、日露関係、日中関係はわかります。そして米露係、米中関係というのもよく報道されるのである程度はつかめるでしょう。
では、中露関係はどうかというと、「反米で連携している」というくらいのイメージしか伝わってこないと思います。上海協力機構(SCO)の名前を知っている人もいるでしょうが、何をしているかというニュースはあまり流れてきません。
そんな中露関係の内実を主にロシアの立場から分析したのがこの本。著者は『強権と不安の超大国・ロシア』(光文社新書)や『コーカサス 国際関係の十字路』(集英社新書)などの著作でソ連崩壊後のロシアと周辺国の状況を分析してきた国際政治学者で、テレビや新聞などからはなかなか見えてこない「ユーラシア」をめぐる中露の駆け引きを知ることができる内容です。
目次は以下の通り。
中露の基本的関係については、第4章の199pに掲載されている図5がわかりやすいです。
中露の関係は「離婚なき便宜的結婚」と呼ばれていますが、これは中露がお互いに愛し合っている(価値観を共有している)わけではないが、国際政治において互いを必要としているということです。
まず、一致する利害として最大のものはアメリカの一極支配を許さず多極的な世界を維持するということがあげられます。中露が連携することでアメリカというスーパーパワーに対抗することができますし、安保理での孤立も避けられます。
また、ロシアはエネルギーを売る相手として中国を必要としていますし、中国は軍事技術を供与してもらう相手としてロシアを必要としています。
一方、上海協力機構やBRICS(中露印ブラジルにあとから南アフリカ(S)も参加)でどちらが主導権を握るか、ロシアから中国に供給される天然ガスの価格をめぐって両者は微妙な関係にあります。
さらに、中国の「一帯一路」政策はロシアの勢力圏に中国が入り込んでくることであり、地政学的には中露は潜在的な敵対関係にあるとも言えます。他にもロシアの軍事技術を中国がコピーすることに対してロシアは神経質になっています。
対アメリカという点では連携することの多い両国ですが、お互いに完全に信頼し合える相手というわけでもないのです。
この本では、こうした中露の複雑な関係を近年のさまざまなトピックを通じて読み解いていきます。
ロシアの前身であるソ連は、中華人民共和国成立当時は中国と非常に緊密な関係を築いていましたが、56年のフルシチョフによるスターリン批判以来その関係は悪化、1969年には国境をめぐって武力衝突も起きています。
しかし、ソ連崩壊後は1996年の上海ファイブ(のちの上海協力機構)の発足(発足時は中露とカザフスタン、キルギス、タジキスタンの5カ国)、2004年の国境問題の解決によって中露の関係はぐっと縮まりました。
イスラーム過激派への対応、そして何よりもアメリカの一極支配への対抗という点で両者の利害は一致したのです。
ただし、例えば上海協力機構内においても主導権争いはあり、ロシアがインドを加盟させようとするとインドとの国境問題を抱える中国はパキスタンの加盟を目指し、結局、2017年に両国が加盟するといったことも起きています(31p)。
2012年にプーチンが首相から大統領に返り咲くと、アジア・太平洋地域重視の戦略を打ち出しました。その中心となるのが2011年にプーチンが打ち出したユーラシア連合構想です。
これはまずロシア、ベラルーシ、カザフスタンによる「関税同盟」を創設し、そこにタジキスタン、キルギスといった小国を加え、共通通貨の発行なども視野に入れたユーラシア経済同盟(EAEU)を発足させ、やがてそれを「ユーラシア連合」へとつなげていこうというものです(49ー50p)。
これは「ソ連の復活」を目指すものにも思われますが、「中国への対抗」という要素も強いと考えられています。
近年、中国の動きとして注目されているのが「一帯一路」政策と、アジアインフラ銀行(AIIB)の創設です。
一帯一路の「一帯」は中国西部から中央アジアを経由してヨーロッパにつながる「シルクロード経済ベルト」、「一路」は中国沿岸部から東南アジア、スリランカ、アラビア半島の沿岸部、アフリカ東岸を結ぶ「21世紀海上シルクロード」を指すとされ、さらに「一路」には北極海を通じて中国とヨーロッパを結ぶ「氷上シルクロード」も含まれるとされます。
ただし、この「一帯」と「氷上シルクロード」の部分がロシアの勢力圏とバッティングするのです。
まず、「一帯」に含まれる中央アジア諸国ですが、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、アゼルバイジャンといった国々はいずれも中国が必要とする石油や天然ガスなどの資源を有する国であり、中国はこれらの国で油田の権益を獲得したり、パイプラインの敷設を行っています。
しかし、これらの地域はロシアが勢力圏として確保したい地域でもあります。以前は、これらの地域の天然ガスに関して、ロシアが「独占的に安価で天然ガスを輸入し、欧州に高く売りつけ、高いマージンで甘い蜜を吸っていた」(65p)のですが、中国の進出でそれも難しくなりました。
一方で、ウクライナ紛争以降、欧米から経済制裁を受けるロシアにとって中国からの投資は必要不可欠なものですし、この地域のインフラ整備にはロシアにとっての利点もあります。
ロシアとしてはこの地域における経済分野での中国の進出を許容しつつ、政治や軍事の麺ではロシアのプレゼンスを維持したいといったところでしょうが、そうした棲み分けができるかどうかは不透明です。
さらに新たな焦点となっているのが北極圏です。地球温暖化の進展とともに北極海航路の利用が可能になりつつあります。そこで中国が狙うのがこの北極海航路を利用した「氷上シルクロード」です。
今までのスエズ運河を通る航路では約45〜48日かかっていた日数が約2週間に短縮でき、おまけにソマリアの海賊もいません(116p)。北極海航路は中国に大きなメリットをもたらす可能性があるのです。
しかし、この北極圏はロシアの裏庭というべき場所であり、ロシアはこの北極海航路をコントロール下におきたいと考えているはずです。
近年、ロシアは北極圏でさまざまな軍事訓練を行い、北極海に面した地域に次々と基地を建設していますが、これらはロシアはこの地域で主導権を握っていこうとする意志の現れでしょう。
このようにロシアと中国は勢力圏をめぐって緊張関係にあるとも言えるのですが、2013年のウクライナ危機以降、ロシアが国際社会で孤立する中でロシアにとって中国はなくてはならない存在となっています。
経済的にも中国の力を借りなければロシアの経済やユーラシア経済圏の建設は立ち行かないわけで、プーチンと習近平はたびたび協調姿勢を打ち出しています。
ただし、中国とウクライナも実は緊密な関係にあります。ウクライナと中国はヤヌコーヴィチ大統領時代に中国ウクライナ友好協力条約を締結しており、「その中に、もしウクライナが核の脅威に直面した場合には、中国が相応の安全保障を提供するという条項があると言われてい」(139p)ます。
また、中国は長年ウクライナから軍事技術を得ていました。ソ連時代に軍需産業が立地していたウクライナにはさまざまな軍事技術が蓄積されており、中国はウクライナを通じてその技術を得ていたのです。
中国の空母「遼寧」も、もとはソ連時代にウクライナで建造されていた空母「ワリャーグ」であり、それを民間企業経由で使途を偽って購入し、「遼寧」へと改造されました。この「遼寧」の艦載機の殲15もウクライナから購入したロシアの戦闘機Su-33の無認可コピーです(153p)。
こうした兵器のコピーは中露関係の棘となっている問題の一つです。
ロシアの軍需産業にとって中国は大きな輸出先ですが、同時に自分たちの技術を勝手にコピーし、それをもとに輸出まで行う厄介な存在でもあります。
中国はロシアから戦闘機のライセンス生産を行いつつ、そのエンジンなどをコピーするということを行っており、ロシアから知的財産を侵害していると訴えられています。
このようなことを含む中国への警戒感もあって、戦闘機も中国向けにはSu-30MKKというダウングレート版が輸出されており、これはインド向けに輸出されているSu-30MKIよりも性能が落ちるそうです(159ー160p)。インド>中国というところに、ロシアの中国に対して秘めた不信感としたたかさが窺えます。
ちなみにこの軍事技術に関する部分は、戦闘機以外にも潜水艦、地対空ミサイル、弾道ミサイルなどについても詳述してあって、「廣瀬先生はミリオタなのか?」と思ってしまうくらいですね。
最終章では、日本の立ち位置と今後の外交についても触れています。
ロシア以外の旧ソ連の国々は、欧米とロシア、あるいはロシアと中国の間に挟まれた「狭間の国家」だと言えます。この「狭間の国家」に必要なのはバランス感覚で、例えば、欧米に寄り過ぎたジョージアやウクライナはロシアから報復されました。
著者は、日本は小国ではないといえ、この「狭間の国家」に似た位置を占めているといいます。米露の狭間にあって、ある程度のバランスを保つ必要があるからです。
著者はロシアと中国のバランスに関して、「中央アジアにおける覇権争いでも、中国に負ける兆候はすでに見え始めている」(227p)とロシアについて悲観的ですが、だからこそ、ロシアが日本にアプローチしてくるという展開もありえるでしょう。
全体的に構成がごちゃごちゃしていてやや読みにくい部分もあるのですが、アメリカがトランプ大統領のもとで迷走し、中国とロシアが存在感を増す中、この本に書かれている情報や、国際政治の見方は、非常に有益なものだと思います。
現在の世界情勢を把握する上でも、今後の日本の外交を考えていく上でも、役立つ本です。
ロシアと中国 反米の戦略 (ちくま新書)
廣瀬 陽子
4480071539
では、中露関係はどうかというと、「反米で連携している」というくらいのイメージしか伝わってこないと思います。上海協力機構(SCO)の名前を知っている人もいるでしょうが、何をしているかというニュースはあまり流れてきません。
そんな中露関係の内実を主にロシアの立場から分析したのがこの本。著者は『強権と不安の超大国・ロシア』(光文社新書)や『コーカサス 国際関係の十字路』(集英社新書)などの著作でソ連崩壊後のロシアと周辺国の状況を分析してきた国際政治学者で、テレビや新聞などからはなかなか見えてこない「ユーラシア」をめぐる中露の駆け引きを知ることができる内容です。
目次は以下の通り。
序章 浮上する中露―米国一極支配の終焉
第1章 中露関係の戦後史―警戒、対立、共闘
第2章 ロシアの東進―ユーラシア連合構想とは何か
第3章 中国の西進―一帯一路とAIIB
第4章 ウクライナ危機と中露のジレンマ
第5章 世界のリバランスと日本の進むべき道
中露の基本的関係については、第4章の199pに掲載されている図5がわかりやすいです。
中露の関係は「離婚なき便宜的結婚」と呼ばれていますが、これは中露がお互いに愛し合っている(価値観を共有している)わけではないが、国際政治において互いを必要としているということです。
まず、一致する利害として最大のものはアメリカの一極支配を許さず多極的な世界を維持するということがあげられます。中露が連携することでアメリカというスーパーパワーに対抗することができますし、安保理での孤立も避けられます。
また、ロシアはエネルギーを売る相手として中国を必要としていますし、中国は軍事技術を供与してもらう相手としてロシアを必要としています。
一方、上海協力機構やBRICS(中露印ブラジルにあとから南アフリカ(S)も参加)でどちらが主導権を握るか、ロシアから中国に供給される天然ガスの価格をめぐって両者は微妙な関係にあります。
さらに、中国の「一帯一路」政策はロシアの勢力圏に中国が入り込んでくることであり、地政学的には中露は潜在的な敵対関係にあるとも言えます。他にもロシアの軍事技術を中国がコピーすることに対してロシアは神経質になっています。
対アメリカという点では連携することの多い両国ですが、お互いに完全に信頼し合える相手というわけでもないのです。
この本では、こうした中露の複雑な関係を近年のさまざまなトピックを通じて読み解いていきます。
ロシアの前身であるソ連は、中華人民共和国成立当時は中国と非常に緊密な関係を築いていましたが、56年のフルシチョフによるスターリン批判以来その関係は悪化、1969年には国境をめぐって武力衝突も起きています。
しかし、ソ連崩壊後は1996年の上海ファイブ(のちの上海協力機構)の発足(発足時は中露とカザフスタン、キルギス、タジキスタンの5カ国)、2004年の国境問題の解決によって中露の関係はぐっと縮まりました。
イスラーム過激派への対応、そして何よりもアメリカの一極支配への対抗という点で両者の利害は一致したのです。
ただし、例えば上海協力機構内においても主導権争いはあり、ロシアがインドを加盟させようとするとインドとの国境問題を抱える中国はパキスタンの加盟を目指し、結局、2017年に両国が加盟するといったことも起きています(31p)。
2012年にプーチンが首相から大統領に返り咲くと、アジア・太平洋地域重視の戦略を打ち出しました。その中心となるのが2011年にプーチンが打ち出したユーラシア連合構想です。
これはまずロシア、ベラルーシ、カザフスタンによる「関税同盟」を創設し、そこにタジキスタン、キルギスといった小国を加え、共通通貨の発行なども視野に入れたユーラシア経済同盟(EAEU)を発足させ、やがてそれを「ユーラシア連合」へとつなげていこうというものです(49ー50p)。
これは「ソ連の復活」を目指すものにも思われますが、「中国への対抗」という要素も強いと考えられています。
近年、中国の動きとして注目されているのが「一帯一路」政策と、アジアインフラ銀行(AIIB)の創設です。
一帯一路の「一帯」は中国西部から中央アジアを経由してヨーロッパにつながる「シルクロード経済ベルト」、「一路」は中国沿岸部から東南アジア、スリランカ、アラビア半島の沿岸部、アフリカ東岸を結ぶ「21世紀海上シルクロード」を指すとされ、さらに「一路」には北極海を通じて中国とヨーロッパを結ぶ「氷上シルクロード」も含まれるとされます。
ただし、この「一帯」と「氷上シルクロード」の部分がロシアの勢力圏とバッティングするのです。
まず、「一帯」に含まれる中央アジア諸国ですが、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、アゼルバイジャンといった国々はいずれも中国が必要とする石油や天然ガスなどの資源を有する国であり、中国はこれらの国で油田の権益を獲得したり、パイプラインの敷設を行っています。
しかし、これらの地域はロシアが勢力圏として確保したい地域でもあります。以前は、これらの地域の天然ガスに関して、ロシアが「独占的に安価で天然ガスを輸入し、欧州に高く売りつけ、高いマージンで甘い蜜を吸っていた」(65p)のですが、中国の進出でそれも難しくなりました。
一方で、ウクライナ紛争以降、欧米から経済制裁を受けるロシアにとって中国からの投資は必要不可欠なものですし、この地域のインフラ整備にはロシアにとっての利点もあります。
ロシアとしてはこの地域における経済分野での中国の進出を許容しつつ、政治や軍事の麺ではロシアのプレゼンスを維持したいといったところでしょうが、そうした棲み分けができるかどうかは不透明です。
さらに新たな焦点となっているのが北極圏です。地球温暖化の進展とともに北極海航路の利用が可能になりつつあります。そこで中国が狙うのがこの北極海航路を利用した「氷上シルクロード」です。
今までのスエズ運河を通る航路では約45〜48日かかっていた日数が約2週間に短縮でき、おまけにソマリアの海賊もいません(116p)。北極海航路は中国に大きなメリットをもたらす可能性があるのです。
しかし、この北極圏はロシアの裏庭というべき場所であり、ロシアはこの北極海航路をコントロール下におきたいと考えているはずです。
近年、ロシアは北極圏でさまざまな軍事訓練を行い、北極海に面した地域に次々と基地を建設していますが、これらはロシアはこの地域で主導権を握っていこうとする意志の現れでしょう。
このようにロシアと中国は勢力圏をめぐって緊張関係にあるとも言えるのですが、2013年のウクライナ危機以降、ロシアが国際社会で孤立する中でロシアにとって中国はなくてはならない存在となっています。
経済的にも中国の力を借りなければロシアの経済やユーラシア経済圏の建設は立ち行かないわけで、プーチンと習近平はたびたび協調姿勢を打ち出しています。
ただし、中国とウクライナも実は緊密な関係にあります。ウクライナと中国はヤヌコーヴィチ大統領時代に中国ウクライナ友好協力条約を締結しており、「その中に、もしウクライナが核の脅威に直面した場合には、中国が相応の安全保障を提供するという条項があると言われてい」(139p)ます。
また、中国は長年ウクライナから軍事技術を得ていました。ソ連時代に軍需産業が立地していたウクライナにはさまざまな軍事技術が蓄積されており、中国はウクライナを通じてその技術を得ていたのです。
中国の空母「遼寧」も、もとはソ連時代にウクライナで建造されていた空母「ワリャーグ」であり、それを民間企業経由で使途を偽って購入し、「遼寧」へと改造されました。この「遼寧」の艦載機の殲15もウクライナから購入したロシアの戦闘機Su-33の無認可コピーです(153p)。
こうした兵器のコピーは中露関係の棘となっている問題の一つです。
ロシアの軍需産業にとって中国は大きな輸出先ですが、同時に自分たちの技術を勝手にコピーし、それをもとに輸出まで行う厄介な存在でもあります。
中国はロシアから戦闘機のライセンス生産を行いつつ、そのエンジンなどをコピーするということを行っており、ロシアから知的財産を侵害していると訴えられています。
このようなことを含む中国への警戒感もあって、戦闘機も中国向けにはSu-30MKKというダウングレート版が輸出されており、これはインド向けに輸出されているSu-30MKIよりも性能が落ちるそうです(159ー160p)。インド>中国というところに、ロシアの中国に対して秘めた不信感としたたかさが窺えます。
ちなみにこの軍事技術に関する部分は、戦闘機以外にも潜水艦、地対空ミサイル、弾道ミサイルなどについても詳述してあって、「廣瀬先生はミリオタなのか?」と思ってしまうくらいですね。
最終章では、日本の立ち位置と今後の外交についても触れています。
ロシア以外の旧ソ連の国々は、欧米とロシア、あるいはロシアと中国の間に挟まれた「狭間の国家」だと言えます。この「狭間の国家」に必要なのはバランス感覚で、例えば、欧米に寄り過ぎたジョージアやウクライナはロシアから報復されました。
著者は、日本は小国ではないといえ、この「狭間の国家」に似た位置を占めているといいます。米露の狭間にあって、ある程度のバランスを保つ必要があるからです。
著者はロシアと中国のバランスに関して、「中央アジアにおける覇権争いでも、中国に負ける兆候はすでに見え始めている」(227p)とロシアについて悲観的ですが、だからこそ、ロシアが日本にアプローチしてくるという展開もありえるでしょう。
全体的に構成がごちゃごちゃしていてやや読みにくい部分もあるのですが、アメリカがトランプ大統領のもとで迷走し、中国とロシアが存在感を増す中、この本に書かれている情報や、国際政治の見方は、非常に有益なものだと思います。
現在の世界情勢を把握する上でも、今後の日本の外交を考えていく上でも、役立つ本です。
ロシアと中国 反米の戦略 (ちくま新書)
廣瀬 陽子
4480071539
- 2018年08月10日21:58
- yamasitayu
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副題は「西洋の衝撃から誕生までの格闘」。帝国議会そのものの歴史を扱った本ではなく、帝国議会の開設史になります。
ペリー来航の衝撃に対処するために唱えられた「公議」が、西洋流の議会という形で定着するまでの40年弱の歴史を、帝国議会に先立つ立法組織の模索や、伊藤博文による議会制度の設計などに焦点を当てて描いています。
全体として手堅い内容ですが、このテーマに対してやや切り口を絞りきれなかった印象も受けます。
目次は以下の通り。
1853年のペリー来航により日本の政治は大きく変わっていくわけですが、その変化は欧米列強との対峙だけではなく、老中の阿部正弘が「公議」をもとに政治を行おうとしたことによってもたらされました。
今まで幕府の政治は徳川家と譜代大名に独占されていたわけですが、阿部正弘は広く天下の意見を聞こうと考えたのです。これによって今まで政治から排除されていた親藩・外様の大名、そして大名以外の武士からも政治参加を求める声が高まっていきます。
著者は、この時代に「公議」という考えが広く受け入れられていった背景として、もともと日本では合議によって政治的決定を行う伝統があったことをあげています(13-15p)。
明治新政府が発足すると、その政治方針が五ヶ条誓文として示されます。
当初の由利公正の案には第五条に「万機公論に決し、私に論ずるなかれ」という条文がありましたが、それを福岡孝弟が「列侯会議を興し、万機公論に決すべし」という形で第一条に置き、さらに木戸孝允が「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と改めました。
これによって「列侯会議」が「広く会議」に変更されたことで、この条文は近代的な議会へと通じるものとなりました。
1869年3月、法の制定を第一要務とする公議所が開設されます。この会議には諸藩から選ばれた公議人227名が出席しましたが、当時の日本においてこれだけの人数による会議が開かれている例はあまりなく、なかなか議論はまとまりませんでした(30-32p)。
69年に7月に公議所は集議院へと改称されます。ここでは人びとが提出した建白書が検討され、三条実美や岩倉具視、大久保利通などが列席することもありましたが、集議院の議員の志向が保守的すぎたこと、議論に慣れていなかったこともあって、やはりうまくいきませんでした。
1871年、新たな立法諮問機関として左院が設けられました。議長に後藤象二郎、副議長に江藤新平が就任し、議案の審議だけでなく、議会の開設や憲法の制定を模索する動きも起きました。
また、岩倉使節団に参加した木戸孝允も憲法や議会の必要性を考えるようになるなど、徐々に議会の必要性を訴える声が出てくることになります。
征韓論をめぐる対立から政府が分裂する明治六年の政変が起こると、下野した板垣退助や後藤象二郎らが考えたのが議会開設の要求でした。1874年に民撰議院設立建白書が提出され、いわゆる自由民権運動が起こってきます。
一方、守旧派からも元老院の設置を求める声が上がります。岩倉具視は島津久光の意向なども取り入れ、民撰議院設立建白書が提出された2ヶ月後に元老院の設置を構想しています。
1875年の大阪会議で木戸と板垣が政府に復帰するとともに、漸次立憲政体樹立の詔を出すことと、元老院を設置することが決まります。ただし、この元老院はメンバーが後藤象二郎、勝安芳(海舟)、陸奥宗光、加藤弘之らだったことからもわかるように、岩倉が構想したものとは少し違うものでした。
また、島津久光がこの元老院の議長に就任することに意欲を見せたこともあって(結局、就任はせず)、元老院の権限拡大は進みませんでした。
1877年、西南戦争で西郷隆盛が敗れると、武力による新政府転覆の可能性はほぼなくなり、代わりに自由民権運動が盛り上がっていくことになります。
一方、政府も1878年に地方三新法を制定し、地方議会への設置へと動きます。設置された府県会では自由民権派が台頭し、岩倉は府県会廃止の意見書を提出しますが、府県会は維持されました(90p)。
自由民権運動が盛り上がる中、1879〜81年にかけて参議たちは立憲政体についての意見書を提出していきます。
山田顕義、井上馨、伊藤博文は議会開設の必要性を説きましたが、例えば伊藤の考えは、まずは将来の議会解説に備えて上院(元老院)を強化するというもので、いずれも慎重なものでした(102-105p)。
その中で急進的な意見を示したのが大隈重信でした。大隈はイギリス流の議院内閣制を念頭に置き、82年までに憲法公布、83年までに議会開設というロードマップを示したのです。
他の参議たちはこの大隈の意見に反発、結局、大隈は明治十四年の政変で政府を去ることになります。そして、同時に9年後の国会開設を約束した国会開設の勅諭が出されるのです。
これを受け、憲法制定と議会開設のために伊藤博文が渡欧します。まずは、ドイツのグナイストに師事することを決め、グナイストや弟子のモッセから講義を受けることになるのですが、ドイツ語の通訳を交えた講義は理解がうまく進みませんでした。
伊藤の理解はウィーン大学のシュタインの講義を受けたことで大きく進みます。もともとシュタインは英字新聞で福沢諭吉の論考を読むなど、日本に関心を持っており、何よりも英語での講義を行いました。
イギリスに留学経験のある伊藤にとって、言葉の壁が取り払われたことは大きかったようです。
シュタインは君主の力を尊重しつつも、「君主も国家の一機関であると捉える」「君主機関説」を唱え、「法は議会に可決によって即座に成立するのではなく、君主が生殺与奪の権を握っていることを強調」しながら、「「議会の可決なくしてほうが成立しないことも「憲法の原則」であると説」きました(134p)。
1883年に帰国した伊藤は憲法制定と議会開設のための諸改革に乗り出します。
伊藤は将来の上院設置のために華族制度を創設し、内閣制度を創設し、自ら初代内閣総理大臣となります。
憲法に関しては、井上毅とロエスレルがつくったそれぞれの草案をもとに検討が進められ、1887年8月には「夏島草案」と呼ばれる原案ができあがります。この草案では、議会に「帝国議会」という名称が与えられ、「貴族院」「衆議院」という二院で構成されるとなっていました。
この草案をどのように公表し、審議するのか? 当時の制度からすると元老院に諮るという選択肢もありましたが、憲法制定の主導権を握り続けたいと考えた伊藤は枢密院をつくってそこで審議することを選択し、自ら議長となり、憲法制定のイニシアティブをとります。
議会制度については、まず、衆議院の議員選挙で直接選挙にするか間接選挙にするかという問題がありました。グナイストは伊藤に間接選挙を進めましたが、ロエスレルや井上毅が府県会議員を通した間接選挙の採用が、地方議会の党派性を高めることを危惧して直接選挙を主張しました。結果、伊藤は直接選挙を選択します。
また、貴族院の名称についても井上やロエスレルは功労者や学識経験者、高額納税者は貴族ではないという理由から貴族院ではなく元老院という名称を主張しましたが、伊藤は既存の元老院との連続性を立ちたいとの思惑から貴族院という名称を選びました。
一方、民権派は1886年に星亨の呼びかけで大同団結運動が起こり、井上馨の進める条約改正交渉への批判を中心に三大事件建白運動へと発展していきますが、政府はこれを保安条例によって押さえ込みました。ただし、三島通庸が退去の対象者にしようとした後藤象二郎と福沢諭吉は、議会開設後のことも考えて名簿から削除されています(187ー188p)。
憲法はいよいよ枢密院で詰めの審議が行われますが、ここで問題となったのが、法律が議会の"consent"によって制定されるという言葉の翻訳です。これは「夏島草案」の時から問題となっていた部分で、"consent"に「承認」や「承諾」という言葉を当てると、あたかも議会のほうが君主よりも立場が上に見えてしまうのです。
そこで、「翼賛」という言葉が当初候補として上がりましたが、最終的に伊藤は「協賛」というあまり使われない言葉が用いられることになりました。
選挙法についても同時に検討が行われ、衆議院の選挙権は25歳以上の男子で直接国税15円以上を納める者、257の選挙区で300名の議員といったことが決まっていきます。また、投票の結果、得票が同数の場合は年長者が当選するという決まりもつくられました(200p)。
1889年、大日本帝国憲法が発布され、翌90年には第一回衆議院議員総選挙が行われます。
制限選挙だったというのも今との大きな違いですが、もうひとつの大きな違いは立候補制ではなかったことで、福沢諭吉は選挙前日に自分は議員になる意思はなく自分への投票は無駄であるとの広告を出しています(217p)。
投票率は93.9%で、今なおこれを上回る投票率はなく、最多得票は松田正久の4548票、当選者の最低得票は浜岡光哲の27票でした(218p)。
貴族院議員も華族の間での互選や、当時の山県有朋首相のもとでの勅撰議員の選考が行われていきます。一方、元老院は1890年に閉院されました。
1890年11月、ついに帝国議会が召集されます。貴族院の議長は伊藤博文が務めることが決まっていましたが、衆議院の議長を選ぶのは大変だったようで、マイクもない中で10時間以上かかって中島信行が選ばれました。
政府と民党が激突した第一義会でしたが、ご存知のように山県内閣が自由党の土佐派を買収で切り崩し、予算を成立させます。ただし、この背景には外国の目もある中で何とかして議会を滞りなく終えたいという意識を政府と民党双方が持っていたことがありました(230ー231p)。
また、この第一議会を無事に終えたあとの園遊会で、貴族院書記官長の金子堅太郎と衆議院書記官長の曾禰荒助が胴上げされという話は明治国家の「若さ」を象徴するエピソードですね(235p)。
ここまでがこの本の本論という感じで、この後の動きについては終章で簡単にフォローされています。
ここまで書いてきたように議会開設の歴史を丁寧に追っており、議会というものをつくり上げるまでの先人たちの苦闘がよくわかる内容になっています。
ただし、ある程度この時代の政治について書かれた本を読んでいる者からすると、ややや新規性に欠けている感もあります(逆にこの時代にそれほど詳しくない人には丁度良いのかもしれませんが)。
個人的には、「議会と政府の対立がエスカレートする中で、なぜ伊藤博文をはじめとする藩閥政府の首脳たちが議会を停止しなかったのか?」というところまで筆をすすめるとより面白くなったような気もしますね。
帝国議会―西洋の衝撃から誕生までの格闘 (中公新書)
久保田 哲
4121024923
ペリー来航の衝撃に対処するために唱えられた「公議」が、西洋流の議会という形で定着するまでの40年弱の歴史を、帝国議会に先立つ立法組織の模索や、伊藤博文による議会制度の設計などに焦点を当てて描いています。
全体として手堅い内容ですが、このテーマに対してやや切り口を絞りきれなかった印象も受けます。
目次は以下の通り。
序章 発見―西洋の議会と維新の理念
第1章 始動―民選議院の要求、元老院の開設
第2章 抗争―自由民権運動、明治一四年の政変
第3章 西洋―英仏とは異なる議会の模索
第4章 設計―欽定憲法下の議会とは
第5章 完成―帝国議会の開会
終章 軌跡―日本にとっての議会とは
1853年のペリー来航により日本の政治は大きく変わっていくわけですが、その変化は欧米列強との対峙だけではなく、老中の阿部正弘が「公議」をもとに政治を行おうとしたことによってもたらされました。
今まで幕府の政治は徳川家と譜代大名に独占されていたわけですが、阿部正弘は広く天下の意見を聞こうと考えたのです。これによって今まで政治から排除されていた親藩・外様の大名、そして大名以外の武士からも政治参加を求める声が高まっていきます。
著者は、この時代に「公議」という考えが広く受け入れられていった背景として、もともと日本では合議によって政治的決定を行う伝統があったことをあげています(13-15p)。
明治新政府が発足すると、その政治方針が五ヶ条誓文として示されます。
当初の由利公正の案には第五条に「万機公論に決し、私に論ずるなかれ」という条文がありましたが、それを福岡孝弟が「列侯会議を興し、万機公論に決すべし」という形で第一条に置き、さらに木戸孝允が「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と改めました。
これによって「列侯会議」が「広く会議」に変更されたことで、この条文は近代的な議会へと通じるものとなりました。
1869年3月、法の制定を第一要務とする公議所が開設されます。この会議には諸藩から選ばれた公議人227名が出席しましたが、当時の日本においてこれだけの人数による会議が開かれている例はあまりなく、なかなか議論はまとまりませんでした(30-32p)。
69年に7月に公議所は集議院へと改称されます。ここでは人びとが提出した建白書が検討され、三条実美や岩倉具視、大久保利通などが列席することもありましたが、集議院の議員の志向が保守的すぎたこと、議論に慣れていなかったこともあって、やはりうまくいきませんでした。
1871年、新たな立法諮問機関として左院が設けられました。議長に後藤象二郎、副議長に江藤新平が就任し、議案の審議だけでなく、議会の開設や憲法の制定を模索する動きも起きました。
また、岩倉使節団に参加した木戸孝允も憲法や議会の必要性を考えるようになるなど、徐々に議会の必要性を訴える声が出てくることになります。
征韓論をめぐる対立から政府が分裂する明治六年の政変が起こると、下野した板垣退助や後藤象二郎らが考えたのが議会開設の要求でした。1874年に民撰議院設立建白書が提出され、いわゆる自由民権運動が起こってきます。
一方、守旧派からも元老院の設置を求める声が上がります。岩倉具視は島津久光の意向なども取り入れ、民撰議院設立建白書が提出された2ヶ月後に元老院の設置を構想しています。
1875年の大阪会議で木戸と板垣が政府に復帰するとともに、漸次立憲政体樹立の詔を出すことと、元老院を設置することが決まります。ただし、この元老院はメンバーが後藤象二郎、勝安芳(海舟)、陸奥宗光、加藤弘之らだったことからもわかるように、岩倉が構想したものとは少し違うものでした。
また、島津久光がこの元老院の議長に就任することに意欲を見せたこともあって(結局、就任はせず)、元老院の権限拡大は進みませんでした。
1877年、西南戦争で西郷隆盛が敗れると、武力による新政府転覆の可能性はほぼなくなり、代わりに自由民権運動が盛り上がっていくことになります。
一方、政府も1878年に地方三新法を制定し、地方議会への設置へと動きます。設置された府県会では自由民権派が台頭し、岩倉は府県会廃止の意見書を提出しますが、府県会は維持されました(90p)。
自由民権運動が盛り上がる中、1879〜81年にかけて参議たちは立憲政体についての意見書を提出していきます。
山田顕義、井上馨、伊藤博文は議会開設の必要性を説きましたが、例えば伊藤の考えは、まずは将来の議会解説に備えて上院(元老院)を強化するというもので、いずれも慎重なものでした(102-105p)。
その中で急進的な意見を示したのが大隈重信でした。大隈はイギリス流の議院内閣制を念頭に置き、82年までに憲法公布、83年までに議会開設というロードマップを示したのです。
他の参議たちはこの大隈の意見に反発、結局、大隈は明治十四年の政変で政府を去ることになります。そして、同時に9年後の国会開設を約束した国会開設の勅諭が出されるのです。
これを受け、憲法制定と議会開設のために伊藤博文が渡欧します。まずは、ドイツのグナイストに師事することを決め、グナイストや弟子のモッセから講義を受けることになるのですが、ドイツ語の通訳を交えた講義は理解がうまく進みませんでした。
伊藤の理解はウィーン大学のシュタインの講義を受けたことで大きく進みます。もともとシュタインは英字新聞で福沢諭吉の論考を読むなど、日本に関心を持っており、何よりも英語での講義を行いました。
イギリスに留学経験のある伊藤にとって、言葉の壁が取り払われたことは大きかったようです。
シュタインは君主の力を尊重しつつも、「君主も国家の一機関であると捉える」「君主機関説」を唱え、「法は議会に可決によって即座に成立するのではなく、君主が生殺与奪の権を握っていることを強調」しながら、「「議会の可決なくしてほうが成立しないことも「憲法の原則」であると説」きました(134p)。
1883年に帰国した伊藤は憲法制定と議会開設のための諸改革に乗り出します。
伊藤は将来の上院設置のために華族制度を創設し、内閣制度を創設し、自ら初代内閣総理大臣となります。
憲法に関しては、井上毅とロエスレルがつくったそれぞれの草案をもとに検討が進められ、1887年8月には「夏島草案」と呼ばれる原案ができあがります。この草案では、議会に「帝国議会」という名称が与えられ、「貴族院」「衆議院」という二院で構成されるとなっていました。
この草案をどのように公表し、審議するのか? 当時の制度からすると元老院に諮るという選択肢もありましたが、憲法制定の主導権を握り続けたいと考えた伊藤は枢密院をつくってそこで審議することを選択し、自ら議長となり、憲法制定のイニシアティブをとります。
議会制度については、まず、衆議院の議員選挙で直接選挙にするか間接選挙にするかという問題がありました。グナイストは伊藤に間接選挙を進めましたが、ロエスレルや井上毅が府県会議員を通した間接選挙の採用が、地方議会の党派性を高めることを危惧して直接選挙を主張しました。結果、伊藤は直接選挙を選択します。
また、貴族院の名称についても井上やロエスレルは功労者や学識経験者、高額納税者は貴族ではないという理由から貴族院ではなく元老院という名称を主張しましたが、伊藤は既存の元老院との連続性を立ちたいとの思惑から貴族院という名称を選びました。
一方、民権派は1886年に星亨の呼びかけで大同団結運動が起こり、井上馨の進める条約改正交渉への批判を中心に三大事件建白運動へと発展していきますが、政府はこれを保安条例によって押さえ込みました。ただし、三島通庸が退去の対象者にしようとした後藤象二郎と福沢諭吉は、議会開設後のことも考えて名簿から削除されています(187ー188p)。
憲法はいよいよ枢密院で詰めの審議が行われますが、ここで問題となったのが、法律が議会の"consent"によって制定されるという言葉の翻訳です。これは「夏島草案」の時から問題となっていた部分で、"consent"に「承認」や「承諾」という言葉を当てると、あたかも議会のほうが君主よりも立場が上に見えてしまうのです。
そこで、「翼賛」という言葉が当初候補として上がりましたが、最終的に伊藤は「協賛」というあまり使われない言葉が用いられることになりました。
選挙法についても同時に検討が行われ、衆議院の選挙権は25歳以上の男子で直接国税15円以上を納める者、257の選挙区で300名の議員といったことが決まっていきます。また、投票の結果、得票が同数の場合は年長者が当選するという決まりもつくられました(200p)。
1889年、大日本帝国憲法が発布され、翌90年には第一回衆議院議員総選挙が行われます。
制限選挙だったというのも今との大きな違いですが、もうひとつの大きな違いは立候補制ではなかったことで、福沢諭吉は選挙前日に自分は議員になる意思はなく自分への投票は無駄であるとの広告を出しています(217p)。
投票率は93.9%で、今なおこれを上回る投票率はなく、最多得票は松田正久の4548票、当選者の最低得票は浜岡光哲の27票でした(218p)。
貴族院議員も華族の間での互選や、当時の山県有朋首相のもとでの勅撰議員の選考が行われていきます。一方、元老院は1890年に閉院されました。
1890年11月、ついに帝国議会が召集されます。貴族院の議長は伊藤博文が務めることが決まっていましたが、衆議院の議長を選ぶのは大変だったようで、マイクもない中で10時間以上かかって中島信行が選ばれました。
政府と民党が激突した第一義会でしたが、ご存知のように山県内閣が自由党の土佐派を買収で切り崩し、予算を成立させます。ただし、この背景には外国の目もある中で何とかして議会を滞りなく終えたいという意識を政府と民党双方が持っていたことがありました(230ー231p)。
また、この第一議会を無事に終えたあとの園遊会で、貴族院書記官長の金子堅太郎と衆議院書記官長の曾禰荒助が胴上げされという話は明治国家の「若さ」を象徴するエピソードですね(235p)。
ここまでがこの本の本論という感じで、この後の動きについては終章で簡単にフォローされています。
ここまで書いてきたように議会開設の歴史を丁寧に追っており、議会というものをつくり上げるまでの先人たちの苦闘がよくわかる内容になっています。
ただし、ある程度この時代の政治について書かれた本を読んでいる者からすると、ややや新規性に欠けている感もあります(逆にこの時代にそれほど詳しくない人には丁度良いのかもしれませんが)。
個人的には、「議会と政府の対立がエスカレートする中で、なぜ伊藤博文をはじめとする藩閥政府の首脳たちが議会を停止しなかったのか?」というところまで筆をすすめるとより面白くなったような気もしますね。
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久保田 哲
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- 2018年08月01日23:35
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