2011年12月
現代史に関する新書が次々と出版されていますが、ありそうでなかったのがこの「ソ連史」。ロシア革命からソ連の解体に至る75年弱の歴史を描いています。
通史と見ると、フルシチョフ時代の記述が多くブレジネフ・アンドロポフ時代の記述が少ない。また、あくまでも国家としての歴史を描いているために、レーニンやトロツキーといった革命で活躍した人びとの人物像などはわからないという欠点はあります。
ただ、それを補ってあまりあるのが、ソ連の経済がなぜうまくいかなかったかということが、冷静にそして丁寧に分析されている点。
レーニンは革命後に発生した飢饉に対応するために、あまった農産物は農民が市場で自由に処分してもよいとするネップ(新経済政策)」を導入して、食糧の増産を図ります。この市場主義的な政策は富農(クラーク)を生み、食糧は増産されたものの共産党内部ではネップに対する反発も出てきます。
1920年代後半になると、スターリンは農民が余剰穀物を抱え込んでいるとしてその供出を命令、さらに
「階級としてのクラーク絶滅を言明します(32p)。スターリンはその強権によって反対派を粛清し、反発する農民をシベリアに追放、農業の集団化をすすめます。一方、この農村の収奪によって「原始的蓄積」がなされ、その資本でもって工業化が行われます。
しかし、ソ連の工業は第2次世界大戦によって大きな損失を受け、ドイツからの現物での賠償などがあったものの、結局は再び農村からの収奪によって工業の復興がなされました。
スターリンの死後、指導者の立場に立ったフルシチョフは国民生活の立て直し、食糧の確保を目指し、食料品の公定価格の引き下げ、農作物の買い付け価格の引き上げ、農業税の引き下げ、処女地の開拓などを行います。
これらの政策は国民生活の改善には役立ちましたが、日本の行った食糧管理政策と同じで政府は買い付け価格と小売価格の逆ざやに苦しむことになります。
このような経済のシステムを無視した失敗は他にもあり、例えば、「リャザン事件」では「畜産物の生産でアメリカを超す」とのフルシチョフの宣言に、リャザン州の第一書記のラリオノフが州内の家畜を繁殖の事も考えずに屠殺しまくって3倍の生産増を達成。その結果、その州の畜産業が壊滅するという事が起こっています(126ー127p)。
こうしてソ連の経済はさまざまな要因から停滞していきます。
ソ連、あるいは社会主義経済の停滞の要因というと、すぐに「みんな平等なため勤労意欲が低かった」とうことがあげられますが、この本を読むとそれ以外にもさまざまな要因が複雑に絡まり合って経済の停滞を生んでいたことがわかります。
ソ連では「ノルマの達成/未達成」によってボーナスやペナリティを課し、企業の生産を刺激しようとしましたが、経営者はペナリティを恐れて生産能力を隠しわざと低いノルマを受け入れようとします。しかし、たとえ低いノルマであっても原材料や燃料が計画通りに手に入るかわからないソ連の経済のもとでは安定的にノルマを消化することは困難でした。そこで企業が月末などに突貫的にノルマをこなせるように余剰人員を抱え込みます。この労働力の抱え込みは労働生産性を低下させ、労働規律を弛緩させます。あげくのはて「働かず勤務中に酔っ払っている労働者」が出現しますが、それでも企業はその余剰労働力を切ろうとはせず、ますます労働規律は弛緩していったのです(158ー160p)。
1985年に書記長となったゴルバチョフはこうしたソ連の経済を立て直そうとしますが、ソ連では食料品をはじめとする多くのものが、前述のように政府の買入価格よりも小売価格が安い逆ざや状態で得られていたために、「自由化=値上げ」となり、思うように国民の支持を得て改革をすすめることができなくなります。
ゴルバチョフのペレストロイカは「経済改革よりも政治改革を先行させたことで失敗した」と見られがちですが、これに対して著者は「当初の目的であった経済改革がうまくいかなかったため、政治改革にも着手せざるを得なかった」(220p)と述べています。
また、当時のソ連が「国力に見合わないほどの過剰な福祉国家だった」(222p)というのも、忘れずに抑えていくべきポイントでしょう。
こうして1991年にソ連は崩壊するわけですが、この本を読むとソ連がたんなる「独裁国家」「全体主義国家」だったわけではなく、(スターリンを除けば)指導者は国民の生活のことを(一応)考え、市場主義ではない社会主義経済というやり方を何とかして現実に適応させて国を発展させようとしていたかがわかります。もちろん、その試みは失敗に終わったわけですが、その失敗の歴史から得られるものも大きいと思います。
ソ連史 (ちくま新書)
松戸 清裕
4480066381
通史と見ると、フルシチョフ時代の記述が多くブレジネフ・アンドロポフ時代の記述が少ない。また、あくまでも国家としての歴史を描いているために、レーニンやトロツキーといった革命で活躍した人びとの人物像などはわからないという欠点はあります。
ただ、それを補ってあまりあるのが、ソ連の経済がなぜうまくいかなかったかということが、冷静にそして丁寧に分析されている点。
レーニンは革命後に発生した飢饉に対応するために、あまった農産物は農民が市場で自由に処分してもよいとするネップ(新経済政策)」を導入して、食糧の増産を図ります。この市場主義的な政策は富農(クラーク)を生み、食糧は増産されたものの共産党内部ではネップに対する反発も出てきます。
1920年代後半になると、スターリンは農民が余剰穀物を抱え込んでいるとしてその供出を命令、さらに
「階級としてのクラーク絶滅を言明します(32p)。スターリンはその強権によって反対派を粛清し、反発する農民をシベリアに追放、農業の集団化をすすめます。一方、この農村の収奪によって「原始的蓄積」がなされ、その資本でもって工業化が行われます。
しかし、ソ連の工業は第2次世界大戦によって大きな損失を受け、ドイツからの現物での賠償などがあったものの、結局は再び農村からの収奪によって工業の復興がなされました。
スターリンの死後、指導者の立場に立ったフルシチョフは国民生活の立て直し、食糧の確保を目指し、食料品の公定価格の引き下げ、農作物の買い付け価格の引き上げ、農業税の引き下げ、処女地の開拓などを行います。
これらの政策は国民生活の改善には役立ちましたが、日本の行った食糧管理政策と同じで政府は買い付け価格と小売価格の逆ざやに苦しむことになります。
このような経済のシステムを無視した失敗は他にもあり、例えば、「リャザン事件」では「畜産物の生産でアメリカを超す」とのフルシチョフの宣言に、リャザン州の第一書記のラリオノフが州内の家畜を繁殖の事も考えずに屠殺しまくって3倍の生産増を達成。その結果、その州の畜産業が壊滅するという事が起こっています(126ー127p)。
こうしてソ連の経済はさまざまな要因から停滞していきます。
ソ連、あるいは社会主義経済の停滞の要因というと、すぐに「みんな平等なため勤労意欲が低かった」とうことがあげられますが、この本を読むとそれ以外にもさまざまな要因が複雑に絡まり合って経済の停滞を生んでいたことがわかります。
ソ連では「ノルマの達成/未達成」によってボーナスやペナリティを課し、企業の生産を刺激しようとしましたが、経営者はペナリティを恐れて生産能力を隠しわざと低いノルマを受け入れようとします。しかし、たとえ低いノルマであっても原材料や燃料が計画通りに手に入るかわからないソ連の経済のもとでは安定的にノルマを消化することは困難でした。そこで企業が月末などに突貫的にノルマをこなせるように余剰人員を抱え込みます。この労働力の抱え込みは労働生産性を低下させ、労働規律を弛緩させます。あげくのはて「働かず勤務中に酔っ払っている労働者」が出現しますが、それでも企業はその余剰労働力を切ろうとはせず、ますます労働規律は弛緩していったのです(158ー160p)。
1985年に書記長となったゴルバチョフはこうしたソ連の経済を立て直そうとしますが、ソ連では食料品をはじめとする多くのものが、前述のように政府の買入価格よりも小売価格が安い逆ざや状態で得られていたために、「自由化=値上げ」となり、思うように国民の支持を得て改革をすすめることができなくなります。
ゴルバチョフのペレストロイカは「経済改革よりも政治改革を先行させたことで失敗した」と見られがちですが、これに対して著者は「当初の目的であった経済改革がうまくいかなかったため、政治改革にも着手せざるを得なかった」(220p)と述べています。
また、当時のソ連が「国力に見合わないほどの過剰な福祉国家だった」(222p)というのも、忘れずに抑えていくべきポイントでしょう。
こうして1991年にソ連は崩壊するわけですが、この本を読むとソ連がたんなる「独裁国家」「全体主義国家」だったわけではなく、(スターリンを除けば)指導者は国民の生活のことを(一応)考え、市場主義ではない社会主義経済というやり方を何とかして現実に適応させて国を発展させようとしていたかがわかります。もちろん、その試みは失敗に終わったわけですが、その失敗の歴史から得られるものも大きいと思います。
ソ連史 (ちくま新書)
松戸 清裕
4480066381
- 2011年12月30日23:28
- yamasitayu
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社会学者の橋本健二が東京の中の格差を探った本。理論・歴史・統計・フィールドワークのさまざまな方面からアプローチしているため、読んでいる章によってずいぶんと印象の変わる本ではありますが、それだけに人によっていろいろな楽しみ方が出来る本だと思います。
ある人は、今まで印象論で語られている東京の中の格差(「山の手は豊かで下町は貧しい」といった漠然としたイメージ)が統計で裏付けられていることにこの本の価値を見出すかもしれませんし、難しい理論はよくわからなかったけど最後のフィールドワークと、そのおまけとしてついてくる「東京の居酒屋名店紹介」は面白かったと感じる人もいるでしょう。
そんなさまざまな面を持ったこの本の目次は以下のとおり。
そして、第2章ではそうした第1章の問題を引き受けて都市社会学の成果や理論が紹介されています。ここでは、労働力が再生産される場所としての都市の役割、また、都市における階級の住み分け、それに再生産される格差の構造が、マルクスやエンゲルス、ハーヴェイ、ブルデューなどの理論によって説明されています。
第3章ではうってかわって文芸作品などに描かれた東京の様子がとり上げられます。ここでは「山の手」「下町」の歴史的文脈が明らかにされます。
ここまでは、まあよくも悪くもない感じなのですが、この本の売りとなるのは次の第4章と第5章。
第4章では数々の統計から東京23区内の格差の実態、そして格差のもたらすものが示されています。
一人あたりの課税対象額が都心や山の手で高く下町で低い、生活保護率も下町が高い(ただこれは例外的に新宿区も高い)などといったデータは、「まあ、そうだろうな」というものですが、この格差が中学国語のテストの点数や男性の平均寿命までに鮮やかに映し出されている様子は衝撃的(もっとも平均寿命に関しては最も低い台東区に日雇い労働者向けの宿泊施設があるということもある)。
また、都心、山の手、下町のいずれの地域においても地域内の格差が拡大傾向にあることがわかります(ただ、同時にリーマン・ショックによって富裕層がダメージを受け、格差が縮小した様子もわかる)。
第5章は、「階級都市を歩く」と題したフィールドワーク。
著者が実際に、六本木界隈、文京区、板橋区から練馬区の光が丘、世田谷区、足立区といった地域を歩きながら、そこの風景に格差を見ていきます。
このフィールドワークで明らかになるのは、「高台→高級住宅地」、「低地→貧しい人達のための木造住宅」という土地利用のあり方が、それこそ江戸時代から現代にいたるまで生きているということ。
そびえ立つ六本木ヒルズの周囲に点在する古い木造家屋、徳永直の『太陽のない街』の舞台ともなった文京区の伝通院周辺、東大から坂を下ったところにある下町的な根津、世田谷区の中の谷間にある下北沢など、「低地→貧しい人達のための木造住宅」という例がいたるところで見つかります。しかし、同時に下北沢、根津、あるいは麻布十番など周囲に比べて貧しい人もいたからこそ面白い街が出来上がっているのも事実で、そのあたりも著者の趣味である居酒屋を例に出してしっかりと説明してあります。
また、232ページの世田谷区の資本家階級の分布を表した地図は、見事に国分寺崖線の縁に沿うように高級住宅地が点在していることがわかるようになっています。資本家階級の分布によって地形がわかってしまうほどです。
第6章で提出される「交雑都市」の考えはまだ大まかなスケッチにすぎないもので、やや物足りなくも感じますが、第4章、第5章の内容に少しでも興味を持った人なら楽しめる本だと思います。
階級都市: 格差が街を侵食する (ちくま新書)
橋本 健二
4480066365
ある人は、今まで印象論で語られている東京の中の格差(「山の手は豊かで下町は貧しい」といった漠然としたイメージ)が統計で裏付けられていることにこの本の価値を見出すかもしれませんし、難しい理論はよくわからなかったけど最後のフィールドワークと、そのおまけとしてついてくる「東京の居酒屋名店紹介」は面白かったと感じる人もいるでしょう。
そんなさまざまな面を持ったこの本の目次は以下のとおり。
第1章 風景としての格差社会まず、第1章では、月島などの下町的な場所に巨大なタワーマンションなどが建てられた例などを見ながら、同じ風景の中に格差が生まれつつあることが指摘され、さらにサッセンやカステルの都市における格差の議論を紹介し、都市と格差の問題が世界的に現れている現象だということが確認されています。
第2章 なぜ「階級都市」なのか―都市構造と資本主義
第3章 異国の風景―「下町」と「山の手」の言説史
第4章 進行する都市の分極化―統計でみる階級都市
第5章 階級都市を歩く
第6章 階級都市から交雑都市へ
そして、第2章ではそうした第1章の問題を引き受けて都市社会学の成果や理論が紹介されています。ここでは、労働力が再生産される場所としての都市の役割、また、都市における階級の住み分け、それに再生産される格差の構造が、マルクスやエンゲルス、ハーヴェイ、ブルデューなどの理論によって説明されています。
第3章ではうってかわって文芸作品などに描かれた東京の様子がとり上げられます。ここでは「山の手」「下町」の歴史的文脈が明らかにされます。
ここまでは、まあよくも悪くもない感じなのですが、この本の売りとなるのは次の第4章と第5章。
第4章では数々の統計から東京23区内の格差の実態、そして格差のもたらすものが示されています。
一人あたりの課税対象額が都心や山の手で高く下町で低い、生活保護率も下町が高い(ただこれは例外的に新宿区も高い)などといったデータは、「まあ、そうだろうな」というものですが、この格差が中学国語のテストの点数や男性の平均寿命までに鮮やかに映し出されている様子は衝撃的(もっとも平均寿命に関しては最も低い台東区に日雇い労働者向けの宿泊施設があるということもある)。
また、都心、山の手、下町のいずれの地域においても地域内の格差が拡大傾向にあることがわかります(ただ、同時にリーマン・ショックによって富裕層がダメージを受け、格差が縮小した様子もわかる)。
第5章は、「階級都市を歩く」と題したフィールドワーク。
著者が実際に、六本木界隈、文京区、板橋区から練馬区の光が丘、世田谷区、足立区といった地域を歩きながら、そこの風景に格差を見ていきます。
このフィールドワークで明らかになるのは、「高台→高級住宅地」、「低地→貧しい人達のための木造住宅」という土地利用のあり方が、それこそ江戸時代から現代にいたるまで生きているということ。
そびえ立つ六本木ヒルズの周囲に点在する古い木造家屋、徳永直の『太陽のない街』の舞台ともなった文京区の伝通院周辺、東大から坂を下ったところにある下町的な根津、世田谷区の中の谷間にある下北沢など、「低地→貧しい人達のための木造住宅」という例がいたるところで見つかります。しかし、同時に下北沢、根津、あるいは麻布十番など周囲に比べて貧しい人もいたからこそ面白い街が出来上がっているのも事実で、そのあたりも著者の趣味である居酒屋を例に出してしっかりと説明してあります。
また、232ページの世田谷区の資本家階級の分布を表した地図は、見事に国分寺崖線の縁に沿うように高級住宅地が点在していることがわかるようになっています。資本家階級の分布によって地形がわかってしまうほどです。
第6章で提出される「交雑都市」の考えはまだ大まかなスケッチにすぎないもので、やや物足りなくも感じますが、第4章、第5章の内容に少しでも興味を持った人なら楽しめる本だと思います。
階級都市: 格差が街を侵食する (ちくま新書)
橋本 健二
4480066365
- 2011年12月27日22:31
- yamasitayu
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今年はここまでで63冊ほど新書を読んだようです(実際には書評をあげてない古い新書もこれにプラスして何冊か読んでます)。
というわけで少し早いですがここで今年の新書のベスト5をあげたいと思います。
個人的には今年は豊作の年。少なくとも去年よりはいい本がたくさんあったと思います。なんとなく過去の新書のベストを振り返ってみると2007年、2009年、そして2011年と奇数の年がいいような感じがします。
感染症と文明――共生への道 (岩波新書)
山本 太郎
4004313147
岩波書店 2011年06月22日
売り上げランキング : 23471
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今年のベスト1はこれ。久々に10点をつけました。
ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』に見られるように、「感染症」を人類の歴史を決定づけた一つの大きな要因としてクローズアップする考え方が出てきていますが、この本もそうした感染症と文明の関係を扱った本。ただ、ちょっと違うのは著者が歴史学者ではなく医師であるという点。感染症の特徴、そして感染のメカニズム、加えて感染症との「共生」という新しい考え方が打ち出されています。新書とは思えないスケールを感じさせる本です。
日本の国会――審議する立法府へ (岩波新書)
大山 礼子
4004312884
岩波書店 2011年01月21日
売り上げランキング : 62495
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日本の国会をめぐる問題の中でも特に審議の問題に焦点を当てて論じた本。
とにかくなにか政府や与党に問題が起こるたびに「審議拒否」のカードが 切られ、与野党による日程調整に終始している感のある日本の国会、「なぜそのようになってしまったのか?」「どうしたら変えていけるのか?」ということを イギリス、フランスの議会などとの比較から考えています。改革案に関しては、完全に明快なものを提示しているわけではありませんが、現在の問題点に関して はかなり的確にえぐり出していると思います。
大災害の経済学 (PHP新書)
林 敏彦
4569798748
PHP研究所 2011年08月12日
売り上げランキング : 206176
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今年のニュースといえばやはり東日本大震災ということになるのでしょうが、そんな震災からの復興を論じた本。著者は阪神・淡路大震災で被災し、兵庫県の都市再生戦略策定懇話会のメンバーとして実際に復興に関わっており、また、経済学者としてもミクロ経済や公共政策を研究してきた人物。「復興のポイントとは何なのか?」ということに答えてくれています。
実際に阪神・淡路大震災の復興に携わった経験があるだけにその指摘は非常に的を得ていてアクチュアルであり、復興構想会議でもこの本の内容のようなことが論じられるべきだったと強く感じました。
レーガン - いかにして「アメリカの偶像」となったか (中公新書)
村田 晃嗣
4121021401
中央公論新社 2011年11月24日
売り上げランキング : 8863
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面白い評伝というのは、とり上げられている人間の人生が面白い事と、著者の対象の人物に対する適切な距離感の両方が必要だと思うのですが、この『レーガン』は両者を満たしている本。
2001年にリンカーンやジョン・F・ケネディを抑えて「史上最も偉大な大統領」に選ばれ、翌年のネットの調査では「最も偉大なアメリカ人」にさえなってしまったロナルド・レーガン。現実の問題には目をつぶりつつも、輝かしい過去と未来を結びつける「政治的タイムマシーン」という一種の政治スタイル築き上げたレーガンの人気の秘密を知ることができます。
メディアと日本人――変わりゆく日常 (岩波新書)
橋元 良明
4004312981
岩波書店 2011年03月19日
売り上げランキング : 39000
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メディア論にありがちな威勢のいい言葉抜きに、実証的なデータに基づいて近年のメディア環境の変化、メディアの悪影響、メディアとメンタリティの問題などを解き明かした本。やや地味な本に見えるかもしれませんが、大規模なデータを元に議論が進められており、メディア論によくある、「筆者の目についた一部の印象を一般化してしまう」という陥穽を免れていると思います。
これ以外だと、荻上チキ『セックスメディア30年史』(ちくま新書)、野口雅弘『官僚制批判の論理と心理』(中公新書)、岡本隆司『李鴻章』(岩波新書)、ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語』(光文社新書)、田尻祐一郎『江戸の思想史』(中公新書)あたりが面白かったですね。
そして相変わらずバブル気味の新書において質の面で際立ったのが岩波新書と中公新書。岩波は明らかに過去の名前だけで書いている書き手が減ったことでラインナップが充実してきましたし、中公は歴史、政治、経済の分野で手堅くいい本を出してくれました。ちくま新書もやや持ちなおしてきた感がありますね。一方、光文社新書はお得意の若手の書き手を発掘できず。期待の大きかったNHK出版新書は企画的には良かったと思いますがヒット作は出なかった感じです。
というわけで少し早いですがここで今年の新書のベスト5をあげたいと思います。
個人的には今年は豊作の年。少なくとも去年よりはいい本がたくさんあったと思います。なんとなく過去の新書のベストを振り返ってみると2007年、2009年、そして2011年と奇数の年がいいような感じがします。
感染症と文明――共生への道 (岩波新書)
山本 太郎
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ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』に見られるように、「感染症」を人類の歴史を決定づけた一つの大きな要因としてクローズアップする考え方が出てきていますが、この本もそうした感染症と文明の関係を扱った本。ただ、ちょっと違うのは著者が歴史学者ではなく医師であるという点。感染症の特徴、そして感染のメカニズム、加えて感染症との「共生」という新しい考え方が打ち出されています。新書とは思えないスケールを感じさせる本です。
日本の国会――審議する立法府へ (岩波新書)
大山 礼子
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日本の国会をめぐる問題の中でも特に審議の問題に焦点を当てて論じた本。
とにかくなにか政府や与党に問題が起こるたびに「審議拒否」のカードが 切られ、与野党による日程調整に終始している感のある日本の国会、「なぜそのようになってしまったのか?」「どうしたら変えていけるのか?」ということを イギリス、フランスの議会などとの比較から考えています。改革案に関しては、完全に明快なものを提示しているわけではありませんが、現在の問題点に関して はかなり的確にえぐり出していると思います。
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林 敏彦
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今年のニュースといえばやはり東日本大震災ということになるのでしょうが、そんな震災からの復興を論じた本。著者は阪神・淡路大震災で被災し、兵庫県の都市再生戦略策定懇話会のメンバーとして実際に復興に関わっており、また、経済学者としてもミクロ経済や公共政策を研究してきた人物。「復興のポイントとは何なのか?」ということに答えてくれています。
実際に阪神・淡路大震災の復興に携わった経験があるだけにその指摘は非常に的を得ていてアクチュアルであり、復興構想会議でもこの本の内容のようなことが論じられるべきだったと強く感じました。
レーガン - いかにして「アメリカの偶像」となったか (中公新書)
村田 晃嗣
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面白い評伝というのは、とり上げられている人間の人生が面白い事と、著者の対象の人物に対する適切な距離感の両方が必要だと思うのですが、この『レーガン』は両者を満たしている本。
2001年にリンカーンやジョン・F・ケネディを抑えて「史上最も偉大な大統領」に選ばれ、翌年のネットの調査では「最も偉大なアメリカ人」にさえなってしまったロナルド・レーガン。現実の問題には目をつぶりつつも、輝かしい過去と未来を結びつける「政治的タイムマシーン」という一種の政治スタイル築き上げたレーガンの人気の秘密を知ることができます。
メディアと日本人――変わりゆく日常 (岩波新書)
橋元 良明
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岩波書店 2011年03月19日
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メディア論にありがちな威勢のいい言葉抜きに、実証的なデータに基づいて近年のメディア環境の変化、メディアの悪影響、メディアとメンタリティの問題などを解き明かした本。やや地味な本に見えるかもしれませんが、大規模なデータを元に議論が進められており、メディア論によくある、「筆者の目についた一部の印象を一般化してしまう」という陥穽を免れていると思います。
これ以外だと、荻上チキ『セックスメディア30年史』(ちくま新書)、野口雅弘『官僚制批判の論理と心理』(中公新書)、岡本隆司『李鴻章』(岩波新書)、ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語』(光文社新書)、田尻祐一郎『江戸の思想史』(中公新書)あたりが面白かったですね。
そして相変わらずバブル気味の新書において質の面で際立ったのが岩波新書と中公新書。岩波は明らかに過去の名前だけで書いている書き手が減ったことでラインナップが充実してきましたし、中公は歴史、政治、経済の分野で手堅くいい本を出してくれました。ちくま新書もやや持ちなおしてきた感がありますね。一方、光文社新書はお得意の若手の書き手を発掘できず。期待の大きかったNHK出版新書は企画的には良かったと思いますがヒット作は出なかった感じです。
- 2011年12月20日18:57
- yamasitayu
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ちょっと前に紹介した『レーガン』と比べると、とり上げられている人物の魅力という点ではこちらの『李鴻章』は劣るかもしれません。李鴻章は科挙の進士の試験に合格したエリートであり、近代中国史のあらゆる場面に顔を見せながらも、何ともつかみにくい人物です。
しかし、19世紀後半の中国史においてそのキーパーソンであった李鴻章の生涯を追うことは、アヘン戦争と中国の近代化、日清戦争に至る日本と清の関係、列強による中国分割、清の滅亡といった中国の近代史をそのまま追っていくことにつながります。
そういったことからこの本は、19世紀の中国史の大きな見取り図を与えてくれる本になっています。
18世紀、乾隆帝の治世だった清は世界のGDPの3分の1を占めたと言われるほどの繁栄を誇りましたが、その繁栄は人口増加をもたらし、それとともに増えた貧困層は大きな社会問題となっていきます。また、清朝は経済活動にほとんど介入しなかったため、各地で経済的な保証や利権を確保しようとするための秘密結社が数多くつくられました。特に18世紀末に起こった白蓮教徒の反乱をきっかけに、各地に「団練」と呼ばれる一種の自警団・義勇兵がつくられ、皇帝の圧倒的な権力は陰りを見せ始めます。
李鴻章が進士の試験に合格し官僚としてのキャリアをスタートさせたのはアヘン戦争の5年後の1847年。その直後に広西省で上帝会が決起、いわゆる太平天国の乱が始まったことで、官僚として出世していくはずの李鴻章のキャリアは大きく変わっていくことになります。
李鴻章の師である曾国藩は、清の政府から湖南省で「団練」を組織して太平天国に立ち向かうように命じられ、「湘軍」をつくりあげます。李鴻章もしばらくしてこれに加わり、さらに上海防衛のための「淮軍」の結成を指揮を任されることになります。
淮軍は外国人傭兵部隊の常勝軍とともに上海を死守。同時に李鴻章は新式の武器を揃え、上海の様々な利権を抑えて軍事費を賄おうとします。
太平天国の乱が治まった後も、曾国藩率いる湘軍が解散したのに対して、淮軍は解散せずに清国随一の軍隊となり、李鴻章は上海の税収をしっかりと握って豊かな江南地域を掌握していきます。そして、いわゆる洋務運動を推進、独自に近代化を進めていくことになります。
さらに師の曽国藩に代わって地方長官の筆頭格である直隷総督に就任。この直隷総督が天津での貿易の管理やそれに伴う外交交渉も「北洋大臣」として任されたことから、李鴻章はたんなる地方長官としてではなく、諸外国に対する清国政府の代表者としての顔も見せるようになります。
このあたりの李鴻章の出世と当時の清国の社会的、政治的な行き詰まりをこの本ではうまく絡ませて描いています。
「なぜ李鴻章はあれだけの権力を持ち得たのか?」「なぜ地方長官の筆頭にすぎない李鴻章が清の外交を一手に引き受けることになるのか?」ということは、世界史の教科書を読んでいるだけではわからないことですが、この本を読むとそういったことがクリアーになります。
さらに中国的な価値観と西洋的な価値観の違いによる外交的な軋轢についても焦点が当てられています。
いわゆる冊封体制において、朝鮮や琉球は中国の「属国」の立場でしたが、この「属国」とは西洋流の「中国が支配する国」というものではありません。ですから、中国からすると朝鮮は「属国」であるが、その外交に関しては「自主」的に行なってかまわないということになります。ところが、西洋の価値観ではこの考えは非常にわかりにくいものですし、「属国」であった琉球は日本によって領土に編入されてしまいます。
これに対して李鴻章は、何とかして「属国自主」という考えを条約などに盛り込み、冊封体制の対面を保ちつつも、そこで起こる争いになるべく巻き込まれないような体制をつくろうと努力します。
結局、この試みは日清戦争とその敗北によって破綻してしまうわけですが、この時に行わた李鴻章の外交というものは日清戦争へと至る日本と中国の関係を考える上でも欠かせないものです。
さらに「洋務」とその挫折。
外交において背景となる「力」が何よりも必要だと考えた李鴻章は、攘夷論でもある「清議」論の勢力を刺激しないようにしつつも、軍事や産業の西洋化に務めます。
しかし、「洋務」コースの試験と「洋学局」の創設は、旧来の科挙を擁護する勢力によって潰され、洋務運動は失敗に終わります。
李鴻章という人物は人間として共感を得られるタイプではないでしょう。この本を読んでも「人間・李鴻章」の素晴らしさのようなものは多分感じないと思います。
結局、彼は日清戦争の敗北後、日本への牽制のためにロシアを満洲に引き入れることで清朝滅亡の引き金を引いたとも言えます。また、政治家としての立ち回りにも、「敗北の美学」を体現したようなものはありません。
けれども、近代化の中でその矛盾を一心に引き受けた感のある李鴻章の立場には、日本人の中にも共感を持つ人がいると思いますし、この本はそういった矛盾と李鴻章の運命をしっかりと描き出すことに成功していると思います。
李鴻章――東アジアの近代 (岩波新書)
岡本 隆司
4004313406
しかし、19世紀後半の中国史においてそのキーパーソンであった李鴻章の生涯を追うことは、アヘン戦争と中国の近代化、日清戦争に至る日本と清の関係、列強による中国分割、清の滅亡といった中国の近代史をそのまま追っていくことにつながります。
そういったことからこの本は、19世紀の中国史の大きな見取り図を与えてくれる本になっています。
18世紀、乾隆帝の治世だった清は世界のGDPの3分の1を占めたと言われるほどの繁栄を誇りましたが、その繁栄は人口増加をもたらし、それとともに増えた貧困層は大きな社会問題となっていきます。また、清朝は経済活動にほとんど介入しなかったため、各地で経済的な保証や利権を確保しようとするための秘密結社が数多くつくられました。特に18世紀末に起こった白蓮教徒の反乱をきっかけに、各地に「団練」と呼ばれる一種の自警団・義勇兵がつくられ、皇帝の圧倒的な権力は陰りを見せ始めます。
李鴻章が進士の試験に合格し官僚としてのキャリアをスタートさせたのはアヘン戦争の5年後の1847年。その直後に広西省で上帝会が決起、いわゆる太平天国の乱が始まったことで、官僚として出世していくはずの李鴻章のキャリアは大きく変わっていくことになります。
李鴻章の師である曾国藩は、清の政府から湖南省で「団練」を組織して太平天国に立ち向かうように命じられ、「湘軍」をつくりあげます。李鴻章もしばらくしてこれに加わり、さらに上海防衛のための「淮軍」の結成を指揮を任されることになります。
淮軍は外国人傭兵部隊の常勝軍とともに上海を死守。同時に李鴻章は新式の武器を揃え、上海の様々な利権を抑えて軍事費を賄おうとします。
太平天国の乱が治まった後も、曾国藩率いる湘軍が解散したのに対して、淮軍は解散せずに清国随一の軍隊となり、李鴻章は上海の税収をしっかりと握って豊かな江南地域を掌握していきます。そして、いわゆる洋務運動を推進、独自に近代化を進めていくことになります。
さらに師の曽国藩に代わって地方長官の筆頭格である直隷総督に就任。この直隷総督が天津での貿易の管理やそれに伴う外交交渉も「北洋大臣」として任されたことから、李鴻章はたんなる地方長官としてではなく、諸外国に対する清国政府の代表者としての顔も見せるようになります。
このあたりの李鴻章の出世と当時の清国の社会的、政治的な行き詰まりをこの本ではうまく絡ませて描いています。
「なぜ李鴻章はあれだけの権力を持ち得たのか?」「なぜ地方長官の筆頭にすぎない李鴻章が清の外交を一手に引き受けることになるのか?」ということは、世界史の教科書を読んでいるだけではわからないことですが、この本を読むとそういったことがクリアーになります。
さらに中国的な価値観と西洋的な価値観の違いによる外交的な軋轢についても焦点が当てられています。
いわゆる冊封体制において、朝鮮や琉球は中国の「属国」の立場でしたが、この「属国」とは西洋流の「中国が支配する国」というものではありません。ですから、中国からすると朝鮮は「属国」であるが、その外交に関しては「自主」的に行なってかまわないということになります。ところが、西洋の価値観ではこの考えは非常にわかりにくいものですし、「属国」であった琉球は日本によって領土に編入されてしまいます。
これに対して李鴻章は、何とかして「属国自主」という考えを条約などに盛り込み、冊封体制の対面を保ちつつも、そこで起こる争いになるべく巻き込まれないような体制をつくろうと努力します。
結局、この試みは日清戦争とその敗北によって破綻してしまうわけですが、この時に行わた李鴻章の外交というものは日清戦争へと至る日本と中国の関係を考える上でも欠かせないものです。
さらに「洋務」とその挫折。
外交において背景となる「力」が何よりも必要だと考えた李鴻章は、攘夷論でもある「清議」論の勢力を刺激しないようにしつつも、軍事や産業の西洋化に務めます。
しかし、「洋務」コースの試験と「洋学局」の創設は、旧来の科挙を擁護する勢力によって潰され、洋務運動は失敗に終わります。
李鴻章という人物は人間として共感を得られるタイプではないでしょう。この本を読んでも「人間・李鴻章」の素晴らしさのようなものは多分感じないと思います。
結局、彼は日清戦争の敗北後、日本への牽制のためにロシアを満洲に引き入れることで清朝滅亡の引き金を引いたとも言えます。また、政治家としての立ち回りにも、「敗北の美学」を体現したようなものはありません。
けれども、近代化の中でその矛盾を一心に引き受けた感のある李鴻章の立場には、日本人の中にも共感を持つ人がいると思いますし、この本はそういった矛盾と李鴻章の運命をしっかりと描き出すことに成功していると思います。
李鴻章――東アジアの近代 (岩波新書)
岡本 隆司
4004313406
- 2011年12月19日18:50
- yamasitayu
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最近、次々と出版される科学リテラシーの本。この本もそんな1冊なのですが、著者が科学哲学者の戸田山和久ということで読んでみました。
本自体は2部仕立てで、第1部は「科学とは何か?」、「科学的に考えるとはどういうことか?」ということについての解説。第2部はそれを今回の原発事故での放射能汚染の問題に当てはめながら市民による科学リテラシーというものを考える内容になっています。
まず、充実しているのは第1部。
「理論」「仮説」「原因」「相関」「帰納」「演繹」「検証」「反証」といった「科学が語る言葉」の意味を解説しながら、「科学の営み」、「ニュートンはなぜ偉大なのか?」、「科学と疑似科学の違い」といったことが明らかにされていきます。
しかし、著者は同時に科学が完璧ではないこともきちんと示しており、場合によっては率直に科学と疑似科学の線引きが難しいことも認めています。ネットで見かける「科学的正しさ」を前面に押し出した「疑似科学叩き」の文章に比べるとやや頼りなく感じるかもしれませんが、科学が歴史的にたびたび間違ってきたこと、疑似科学的なものを科学に含んでいたということを知ることは、第2部で紹介される科学リテラシーの問題を考えていく上でも非常に重要だと思います。
そして第2部。ここでは原発事故による放射能汚染の影響を読み解きながら、市民の科学リテラシーの必要性が訴えられています。
「ベクレルやシーベルトといった単位は一体なんなのか?」「放射線の人体への影響をどう考えればいいのか?」といった、さんざんニュースで取り上げられた問題が改めてわかりやすく、そして科学的な思考のもとに解説されています。個人的にはこの本のシーベルトの説明は今までで読んだ中で一番わかりやすく、なおかつ詳細でした。
読む人によっては、ここでの説明について「歯切れが悪い」と感じる人もいるでしょうが、わからない部分を「わからない」と認めるのも科学的思考の一つ。その意味では誠実な解説です。
そして著者は市民が科学的リテラシーを持つべき理由を次のように述べます。
ここでは科学に対するコントロールが軍隊に対するシビリアンコントロールと対比されていますが、そもそも軍隊の規模や装備や作戦に対してそれをコントロール出来るだけの能力を持った一般市民はいるのでしょうか?
普通、シビリアン・コントロールはそれなりに政治に対する知識や経験のある政治家によって行われます(最近、一川防衛大臣のような人もいましたが...)。科学もやはり一般市民ではなく、何らかの知識や経験のある人びとによってコントロールするのが現実的でしょう。
著者は、「科学に対して物言わぬ「大衆」から科学リテラシーをもった「市民」へ」という理想を持っているのですが、その理想は少し高すぎるのではないかとも思います。
「科学的思考」のレッスン―学校で教えてくれないサイエンス (NHK出版新書)
戸田山 和久
4140883650
本自体は2部仕立てで、第1部は「科学とは何か?」、「科学的に考えるとはどういうことか?」ということについての解説。第2部はそれを今回の原発事故での放射能汚染の問題に当てはめながら市民による科学リテラシーというものを考える内容になっています。
まず、充実しているのは第1部。
「理論」「仮説」「原因」「相関」「帰納」「演繹」「検証」「反証」といった「科学が語る言葉」の意味を解説しながら、「科学の営み」、「ニュートンはなぜ偉大なのか?」、「科学と疑似科学の違い」といったことが明らかにされていきます。
しかし、著者は同時に科学が完璧ではないこともきちんと示しており、場合によっては率直に科学と疑似科学の線引きが難しいことも認めています。ネットで見かける「科学的正しさ」を前面に押し出した「疑似科学叩き」の文章に比べるとやや頼りなく感じるかもしれませんが、科学が歴史的にたびたび間違ってきたこと、疑似科学的なものを科学に含んでいたということを知ることは、第2部で紹介される科学リテラシーの問題を考えていく上でも非常に重要だと思います。
そして第2部。ここでは原発事故による放射能汚染の影響を読み解きながら、市民の科学リテラシーの必要性が訴えられています。
「ベクレルやシーベルトといった単位は一体なんなのか?」「放射線の人体への影響をどう考えればいいのか?」といった、さんざんニュースで取り上げられた問題が改めてわかりやすく、そして科学的な思考のもとに解説されています。個人的にはこの本のシーベルトの説明は今までで読んだ中で一番わかりやすく、なおかつ詳細でした。
読む人によっては、ここでの説明について「歯切れが悪い」と感じる人もいるでしょうが、わからない部分を「わからない」と認めるのも科学的思考の一つ。その意味では誠実な解説です。
そして著者は市民が科学的リテラシーを持つべき理由を次のように述べます。
科学は軍隊と同じくらいにパワフルで、だからこそ暴走すると危険だ。そこで、科学を市民社会のコントロール下に置く必要がある。コントロールするのは誰かというと、究極的には市民だ。したがって、市民は科学をシビリアン・コントロールできるだけの科学リテラシーをもっていないといけない。(209p)これは正しい考えだと思います。が、同時に「そんなすごいことを普通の市民に要求できるのかな?」という気もします。
ここでは科学に対するコントロールが軍隊に対するシビリアンコントロールと対比されていますが、そもそも軍隊の規模や装備や作戦に対してそれをコントロール出来るだけの能力を持った一般市民はいるのでしょうか?
普通、シビリアン・コントロールはそれなりに政治に対する知識や経験のある政治家によって行われます(最近、一川防衛大臣のような人もいましたが...)。科学もやはり一般市民ではなく、何らかの知識や経験のある人びとによってコントロールするのが現実的でしょう。
著者は、「科学に対して物言わぬ「大衆」から科学リテラシーをもった「市民」へ」という理想を持っているのですが、その理想は少し高すぎるのではないかとも思います。
「科学的思考」のレッスン―学校で教えてくれないサイエンス (NHK出版新書)
戸田山 和久
4140883650
- 2011年12月13日23:21
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小菅信子『戦後和解』、大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか』など、中公新書には戦争責任の問題を扱ったバランスがとれていて、なおかつためになる
本が多いですが、この『国家と歴史』も同じように冷静に偏ることなく戦後日本の戦争責任と歴史の問題の軌跡を追った本。
なにか斬新な主張があるわけではありませんが、戦後の戦争責任や補償の問題、靖国神社、歴史教科書などについて、その内容と議論になった文脈を丁寧に追っており、非常に勉強になります。この戦後責任の問題を考えていく上でこれからの基本図書となるであろう本です。
戦争が終わって60年以上がたった今も戦争責任の問題はくすぶりつづけています。
このくすぶりつづける火種は単に日本国内における右派と左派の対立だけにあるのではありません。日本が植民地帝国としてアジア・太平洋地域に君臨した時代から、サンフランシスコ講和条約においてすべての対外領土を捨て平和主義国家となる中でさまざまな問題が十分に処理されないままに終わりました。
例えば、サンフランシスコ講和会議に関しては韓国も参加を訴えました。このとき、日本は韓国が連合国としての地位を認められれば、韓国人が財産の回復や補償の権利を認められることになり耐え切れない負担となるという理由で反対の立場をとりましたが、アメリカのダレスは韓国の参加に乗り気だったとされています。
また、「戦争責任問題」といったときにクローズアップされることは少ないですが、朝鮮半島や台湾の人びとに大きな影響を与えたのが国籍の問題。
韓国・朝鮮人、台湾人などの旧植民地出身者は敗戦まで「日本臣民」とされながら、講和条約の発効にともなう通達で一方的に「外国人」とされることになります。
これによって約20万7千人の台湾出身の軍人・軍属、約24万2千人の朝鮮出身の軍人・軍属は、恩給制度の対象から外れてしまいます。台湾出身者に関しては1987年に議員立法によって特別弔慰金が支払われることになりますが、朝鮮出身者に関してはいまだにこの問題は解決していません。
しかも、講和条約の発効時に日本に残留する朝鮮人・台湾人に対して日本国籍を選択できる案が検討されながら、結局、この案は捨てられ、日本国籍を希望するものは「帰化」すればよいということになってしまいました。
この決定の背景には朝鮮半島の分断などの日本政府ではどうにもならない対外的要因があったにせよ、著者が次のように指摘する通り、大きな問題を残すことになりました。
このように現在、「戦争責任」、あるいは「歴史問題」としてとり上げられる問題の背景には、さまざまな政策決定の積み重ね、国際情勢、日本そして戦争や植民地支配で被害を被った人びとの意識などが複雑にからみ合っています。
この本ではこれ以外にも「靖国問題」、「歴史教科書問題」、「村山談話をはじめとする「侵略」をめぐる政府の対応」といった事柄が、その背景から丁寧に解きほぐされています。
引用される発言などは政治家や官僚など、公的な立場の人間に限られており、国民の意識を追ったものではありませんが、だからこそ日本が「国家」として直面している問題の輪郭がはっきりしているのがこの本の特徴です。
問題の背景が複雑なぶん、これらの問題に対する単純な解決策といったものはありません。
著者は最後に国民の多くが共有できる「パブリック・メモリー」の形成に期待をあけています。確かに情報の公開が進み、戦争の被害や植民地支配をうけた国々との対話が進めば、ある程度の事実に対する共通認識はできるのかもしれませんが、中国やドイツのようは一貫した「パブリック・メモリー」を構築するのは不可能なようにも思えます。
けれども、この本で著者の提起しているさまざまな問題はいまなお解決を必要していますし、今までの日本が戦争責任の問題を「平和国家論」によってある意味で逃げてきたという指摘もそのとおりだと思います。
何か鮮やかな展望を示しているような本ではないですが、戦争責任を考えるための出発点として広く読まれて欲しい本だと思います。
国家と歴史 (中公新書)
波多野 澄雄
4121021371
なにか斬新な主張があるわけではありませんが、戦後の戦争責任や補償の問題、靖国神社、歴史教科書などについて、その内容と議論になった文脈を丁寧に追っており、非常に勉強になります。この戦後責任の問題を考えていく上でこれからの基本図書となるであろう本です。
戦争が終わって60年以上がたった今も戦争責任の問題はくすぶりつづけています。
このくすぶりつづける火種は単に日本国内における右派と左派の対立だけにあるのではありません。日本が植民地帝国としてアジア・太平洋地域に君臨した時代から、サンフランシスコ講和条約においてすべての対外領土を捨て平和主義国家となる中でさまざまな問題が十分に処理されないままに終わりました。
例えば、サンフランシスコ講和会議に関しては韓国も参加を訴えました。このとき、日本は韓国が連合国としての地位を認められれば、韓国人が財産の回復や補償の権利を認められることになり耐え切れない負担となるという理由で反対の立場をとりましたが、アメリカのダレスは韓国の参加に乗り気だったとされています。
しかし、この韓国の参加は以下に引用するような理由で結局取りやめになりました。ヨーロッパの国々がまだ植民地の問題を清算していない中では、講和会議の場において植民地支配への責任問題はとりあえず棚上げされることになったのです。
韓国の要望は、正規の交戦国ではないとするイギリスの主張によって拒絶される。英仏などの連合軍は、戦後も多くの植民地を抱え、植民地支配それ自体を取り上げて日本に精算を迫る意思はなかったといえよう。韓国の署名を容認することは、自らの植民地支配を否定する意味があったからである。(72p)
また、「戦争責任問題」といったときにクローズアップされることは少ないですが、朝鮮半島や台湾の人びとに大きな影響を与えたのが国籍の問題。
韓国・朝鮮人、台湾人などの旧植民地出身者は敗戦まで「日本臣民」とされながら、講和条約の発効にともなう通達で一方的に「外国人」とされることになります。
これによって約20万7千人の台湾出身の軍人・軍属、約24万2千人の朝鮮出身の軍人・軍属は、恩給制度の対象から外れてしまいます。台湾出身者に関しては1987年に議員立法によって特別弔慰金が支払われることになりますが、朝鮮出身者に関してはいまだにこの問題は解決していません。
しかも、講和条約の発効時に日本に残留する朝鮮人・台湾人に対して日本国籍を選択できる案が検討されながら、結局、この案は捨てられ、日本国籍を希望するものは「帰化」すればよいということになってしまいました。
この決定の背景には朝鮮半島の分断などの日本政府ではどうにもならない対外的要因があったにせよ、著者が次のように指摘する通り、大きな問題を残すことになりました。
在日朝鮮人、在日台湾人が自動的に日本国籍を失ったことは、広汎な法的差別を招く源泉となった。国籍選択に代わる措置として考えられていたのは「帰化」であったが、帰化は法相の裁量の範囲にあり、その条件も「同化的帰化行政」と揶揄されたように、申請者に配慮したものとは言い難いものであった。(95ー96p)
このように現在、「戦争責任」、あるいは「歴史問題」としてとり上げられる問題の背景には、さまざまな政策決定の積み重ね、国際情勢、日本そして戦争や植民地支配で被害を被った人びとの意識などが複雑にからみ合っています。
この本ではこれ以外にも「靖国問題」、「歴史教科書問題」、「村山談話をはじめとする「侵略」をめぐる政府の対応」といった事柄が、その背景から丁寧に解きほぐされています。
引用される発言などは政治家や官僚など、公的な立場の人間に限られており、国民の意識を追ったものではありませんが、だからこそ日本が「国家」として直面している問題の輪郭がはっきりしているのがこの本の特徴です。
問題の背景が複雑なぶん、これらの問題に対する単純な解決策といったものはありません。
著者は最後に国民の多くが共有できる「パブリック・メモリー」の形成に期待をあけています。確かに情報の公開が進み、戦争の被害や植民地支配をうけた国々との対話が進めば、ある程度の事実に対する共通認識はできるのかもしれませんが、中国やドイツのようは一貫した「パブリック・メモリー」を構築するのは不可能なようにも思えます。
けれども、この本で著者の提起しているさまざまな問題はいまなお解決を必要していますし、今までの日本が戦争責任の問題を「平和国家論」によってある意味で逃げてきたという指摘もそのとおりだと思います。
何か鮮やかな展望を示しているような本ではないですが、戦争責任を考えるための出発点として広く読まれて欲しい本だと思います。
国家と歴史 (中公新書)
波多野 澄雄
4121021371
- 2011年12月10日14:06
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2001年にリンカーンやジョン・F・ケネディを抑えて「史上最も偉大な大統領」に選ばれ、翌年のネットの調査では「最も偉大なアメリカ人」にさえなってしまったロナルド・レーガン。
日本人の目からするとこのレーガン人気というものは理解出来ないものに思えますが、実際、共和党が強かった80年代から2008年のオバマ大統領誕生までは「レーガン的なるもの」の時代といっていいでしょうし、レーガンを模倣しようとしたジョージ・W・ブッシュはイラク戦争での失敗にもかかわらず2期大統領を務めました。
そんな「偉大な」レーガンの日本語で書かれた初めての本格的な評伝がこの本。著者は朝生などでもお馴染みの村田晃嗣です。 面白い評伝というのは、とり上げられている人間の人生が面白い事と、著者の対象の人物に対する適切な距離感の両方が必要だと思うのですが、この『レーガン』は両者を満たしている本。
とかく知識人からはバカにされやすいレーガンに対して、著者は「レーガンはしばしば過小評価され、それゆえ、予想以上の成果を挙げて賞賛される」(112p)と述べ、レーガンの知性や思想を馬鹿にする向きに釘を刺しています。
一方で、その受動的な性格や都合のいい記憶、その政策の失敗もきちんと指摘しており、バランスのとれた記述になっています。
そしてなんといっても面白いのがレーガンの人生そのもの。
アイルランド系の移民の家に生まれ、父はアル中、母は熱心な福音派の信者。そんな家に育ったレーガンは俳優を志し、まずはラジオのスポーツアナウンサーとなろうとします。当時のラジオアナウンサーは必ずしも現地で実況中継をするわけではなく、現地からの電信を使った情報提供を元にいわば架空の実況をすることもザラでした。
ここに著者はレーガンの機転や話術の原点を見ています。
さらにハリウッド時代。甘いマスクで数々のB級映画に出演したレーガンの足跡が当時の映画産業の動きや、ハリウッドにおけるアイルランド系の人びとの存在感などとともに語られていきます。
ここでは「レーガンは「ロナルド・レーガン」という役柄しか演じられなかった」というゲリー・ウィルズの言葉が引かれていますが(65p)、のちの大統領になってからの様子をみると非常に納得の行く言葉です。
そして俳優としてだんだんと売れなくなっていったレーガンはSAG(映画俳優組合)の委員長を務め、さらにはGEの移動親善大使としてテレビ番組の司会をし、全米各地で公演を行います。
この数々の講演でレーガンはスピーチの能力と人心掌握術を学び、そして政治的立場も民主党支持から共和党支持へと変わっていきます。
このあとレーガンはカリフォルニア州の知事となって政治の世界へと活躍の場を移していくわけですが、レーガンの「俳優から大統領」という突飛に見える経歴もこの本を読むと、レーガンがその時その時の仕事において政治家としての能力を見につけ、同時に周囲に流されるようにして保守派の象徴的な存在になっていったことがわかります。
1975年の共和党の大統領予備選でレーガンは現職大統領のフォードに敗北します。このときレーガンは65歳。誰もがレーガンの政治生命はここで終わったと考えました。
ところが、レーガンは復活します。カーターの度重なる政治的失敗、『ロッキー』、『スター・ウォーズ』、『スーパーマン』といった「強いアメリカ」や勧善懲悪的な映画の人気、イギリスでのサッチャーの登場など、時代は再びレーガンを政治の世界に呼び戻すこととなったのです。
このレーガンが必要とされた理由を著者は次のように述べています。
リベラル派が失速した1980年の大統領選挙でレーガンは現職のカーターに圧勝。1981年の暗殺未遂事件でも奇跡的に助かったレーガンは結局2期大統領を務め、冒頭に書いたように「史上最も偉大な大統領」と言われるようになります。
もっとのこの本でも描かれているようにレーガンの政策やその政策チームには多くの混乱があり、経済の面から見てもアメリカを立てなおしたとは言えません。
ただ、著者も指摘するように「冷戦の終結」においてレーガンの果たした役割が大きかったのも事実。もちろん主役がゴルバチョフであることはこの本も認めていますが、核軍縮などにおいては外交の素人のレーガンだからこそできた決断があったことが指摘されています。
また荒唐無稽な印象しかないSDIも、「SDIがソ連の没落を加速させた」という意見もあり、一概には否定できない面もあるようです。
おそらく、この本を読んでも多くの日本人はレーガンを「史上最も偉大な大統領」とは認めないでしょう。
けれども、レーガンがアメリカの多くの国民に支持されたのは事実ですし、この本に引用されている彼の演説はたしかに見事です。そして何よりも現実の問題には目をつぶりつつも、輝かしい過去と未来を結びつける「政治的タイムマシーン」という一種の政治スタイルを彼が築き上げたことは事実だと思います。
そしてそれはその後のアメリカの政治家によって模倣され、日本でも安倍晋三などは「レーガン的」な政治家であるといえるでしょう。
それを考えると、やはりレーガンの存在を抜きにして現在の政治は語れませんし、その「政治的タイムマシーン」を見事に演じてみせたレーガンの能力というのはやはり優れていたと言わざるを得ません。
ですから、政治的な立ち位置やレーガンへの好悪に関係なく、この本は広く読まれるべき本だと思います。
レーガン - いかにして「アメリカの偶像」となったか (中公新書)
村田 晃嗣
4121021401
日本人の目からするとこのレーガン人気というものは理解出来ないものに思えますが、実際、共和党が強かった80年代から2008年のオバマ大統領誕生までは「レーガン的なるもの」の時代といっていいでしょうし、レーガンを模倣しようとしたジョージ・W・ブッシュはイラク戦争での失敗にもかかわらず2期大統領を務めました。
そんな「偉大な」レーガンの日本語で書かれた初めての本格的な評伝がこの本。著者は朝生などでもお馴染みの村田晃嗣です。 面白い評伝というのは、とり上げられている人間の人生が面白い事と、著者の対象の人物に対する適切な距離感の両方が必要だと思うのですが、この『レーガン』は両者を満たしている本。
とかく知識人からはバカにされやすいレーガンに対して、著者は「レーガンはしばしば過小評価され、それゆえ、予想以上の成果を挙げて賞賛される」(112p)と述べ、レーガンの知性や思想を馬鹿にする向きに釘を刺しています。
一方で、その受動的な性格や都合のいい記憶、その政策の失敗もきちんと指摘しており、バランスのとれた記述になっています。
そしてなんといっても面白いのがレーガンの人生そのもの。
アイルランド系の移民の家に生まれ、父はアル中、母は熱心な福音派の信者。そんな家に育ったレーガンは俳優を志し、まずはラジオのスポーツアナウンサーとなろうとします。当時のラジオアナウンサーは必ずしも現地で実況中継をするわけではなく、現地からの電信を使った情報提供を元にいわば架空の実況をすることもザラでした。
ここに著者はレーガンの機転や話術の原点を見ています。
さらにハリウッド時代。甘いマスクで数々のB級映画に出演したレーガンの足跡が当時の映画産業の動きや、ハリウッドにおけるアイルランド系の人びとの存在感などとともに語られていきます。
ここでは「レーガンは「ロナルド・レーガン」という役柄しか演じられなかった」というゲリー・ウィルズの言葉が引かれていますが(65p)、のちの大統領になってからの様子をみると非常に納得の行く言葉です。
そして俳優としてだんだんと売れなくなっていったレーガンはSAG(映画俳優組合)の委員長を務め、さらにはGEの移動親善大使としてテレビ番組の司会をし、全米各地で公演を行います。
この数々の講演でレーガンはスピーチの能力と人心掌握術を学び、そして政治的立場も民主党支持から共和党支持へと変わっていきます。
このあとレーガンはカリフォルニア州の知事となって政治の世界へと活躍の場を移していくわけですが、レーガンの「俳優から大統領」という突飛に見える経歴もこの本を読むと、レーガンがその時その時の仕事において政治家としての能力を見につけ、同時に周囲に流されるようにして保守派の象徴的な存在になっていったことがわかります。
1975年の共和党の大統領予備選でレーガンは現職大統領のフォードに敗北します。このときレーガンは65歳。誰もがレーガンの政治生命はここで終わったと考えました。
ところが、レーガンは復活します。カーターの度重なる政治的失敗、『ロッキー』、『スター・ウォーズ』、『スーパーマン』といった「強いアメリカ」や勧善懲悪的な映画の人気、イギリスでのサッチャーの登場など、時代は再びレーガンを政治の世界に呼び戻すこととなったのです。
このレーガンが必要とされた理由を著者は次のように述べています。
通常、保守派は歴史に社会の統合作用を求める。しかし、共通の記憶としての歴史が浅いだけに、共有できる希望としての未来に統合作用を求めるのが、アメリカの保守派の特徴である。大衆文化を熟知した「幸福の戦士」、「救済ファンタジー」に駆られたレーガンこそ、保守派の糾合そして過去と未来の架橋に最適であった。その意味で、レーガンは政治的タイムマシーンであった。(166p)
リベラル派が失速した1980年の大統領選挙でレーガンは現職のカーターに圧勝。1981年の暗殺未遂事件でも奇跡的に助かったレーガンは結局2期大統領を務め、冒頭に書いたように「史上最も偉大な大統領」と言われるようになります。
もっとのこの本でも描かれているようにレーガンの政策やその政策チームには多くの混乱があり、経済の面から見てもアメリカを立てなおしたとは言えません。
ただ、著者も指摘するように「冷戦の終結」においてレーガンの果たした役割が大きかったのも事実。もちろん主役がゴルバチョフであることはこの本も認めていますが、核軍縮などにおいては外交の素人のレーガンだからこそできた決断があったことが指摘されています。
また荒唐無稽な印象しかないSDIも、「SDIがソ連の没落を加速させた」という意見もあり、一概には否定できない面もあるようです。
おそらく、この本を読んでも多くの日本人はレーガンを「史上最も偉大な大統領」とは認めないでしょう。
けれども、レーガンがアメリカの多くの国民に支持されたのは事実ですし、この本に引用されている彼の演説はたしかに見事です。そして何よりも現実の問題には目をつぶりつつも、輝かしい過去と未来を結びつける「政治的タイムマシーン」という一種の政治スタイルを彼が築き上げたことは事実だと思います。
そしてそれはその後のアメリカの政治家によって模倣され、日本でも安倍晋三などは「レーガン的」な政治家であるといえるでしょう。
それを考えると、やはりレーガンの存在を抜きにして現在の政治は語れませんし、その「政治的タイムマシーン」を見事に演じてみせたレーガンの能力というのはやはり優れていたと言わざるを得ません。
ですから、政治的な立ち位置やレーガンへの好悪に関係なく、この本は広く読まれるべき本だと思います。
レーガン - いかにして「アメリカの偶像」となったか (中公新書)
村田 晃嗣
4121021401
- 2011年12月03日19:27
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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