「人はなぜ結婚するのか?」、その答えとしては「好きだから」とか「一緒にいたいから」といったものがあるかもしれませんが、かつては政略結婚のような本人の感情を抜きにしたような結婚もありましたし、通い婚のように必ずしも同居しない結婚もあります。
また、昔から結婚と生殖は強く結びついてきましたが、基本的には子どもは生まれないと考えられる同性婚も広がりつつあります。
こうした状況の中で、今一度「結婚とは何か?」を問い直し、近年は何が変わろうとしているのかということを明らかにしようとした本になります。
著者は実証的な研究を行ってきた社会学者ですが、本書にはデータ分析の部分はほとんどなく、理論的に結婚を読み解こうとしています。
結婚について今一度根本に立ち返って考えたいという人向けの本と言えるでしょう。
目次は以下の通り。
はじめに――議論の見通しをよくするために1章 結婚のない社会?2章 結婚はどう変わってきたのか3章 「結婚の法」からみえる結婚の遷り変わり4章 同性婚、パートナーシップ、事実婚5章 結婚と親子関係6章 乗りこえられるべき課題としての結婚7章 残された論点
歴史的に見ると、結婚の意味の中でも重要だったものは「子に父を割り当てる」ことだといいます。
これだけでは「ちょっとよくわからない」という人も多いでしょう。「母は?」となるかもしれません。
ただし、母子関係は代理出産などでもなければ疑問が生じにくい関係で、母親が自分の産んだ子を見て「私の子だろうか?」と思い悩むことはまずありません。
一方、父に関しては生まれた子どもが自分の子であるかどうかを確かめるすべは、DNA検査が普及するまではありませんでした。
こうして父系社会では、女性を自らの近くに住まわせて目の届く範囲で共同生活を送るインセンティブが生まれます。
同時に女性からすると、人間の場合は出産直後の育児では他者のサポートが必要になります。男性が身勝手に親子関係から逃げ出さないようにする必要があり、これには近代の民法が規定する「嫡出推定」(結婚している間に生まれたこの父は結婚相手だと推定する)のような仕組みが有効です。
こうして結婚やそれに類する制度が要請されるわけです。
しかし、母系社会では「子に父を割り当てる」ことがそれほど重要ではないこともあります。
母系社会でも男性がトップであることが多いのですが、父系社会との違いは女性を迎え入れて子どもを産んでもらうのではなく、自分の姉妹に代わりに子どもを産んでもらうことになります。
父系社会ではトップの子が集団を引き継ぎますが、母系社会ではトップの甥が集団を引き継ぐことになります。この場合、父の存在はそれほど重要ではなく、一緒に生活するとも限りません。
父系社会では子と血がつながっているか?ということを気にする必要がありますが、母系社会では自分と姉妹の血のつながりは基本的に自明なため、子の父親についてあれこれ悩む必要はないのです。
こういった集団には例えばインドのナヤール・カーストがあります。ナヤールでは自集団よりも高貴だと考えられているカーストの男性を受け入れて父になってもらい、子どもは自集団で育てるということをしていました(生物学上の父は子育てにまったくかかわらない)。
ただし、こういったやり方では人は生まれた拠点から移動せず外の集団の男性を受け入れるだけであり、狭い地域の安定した社会でしか成り立たないといいます。実際にナヤールも現在は母系社会を維持できていません。
「結婚は「子に父を割り当てる」ことだ」などと言うと、そこにはロマンティックのかけらもないと感じてしまいますが、実際、中世のヨーロッパでは騎士がより上位の既婚女性に対して強い感情を抱く宮廷恋愛では結婚は想定されていません。
情熱的な恋愛はむしろ婚外において生じるものでもあったのです(古代ギリシアの同性愛とかもそうかもしれない)。
一方、結婚は今の企業のような家族的組織の経営と結びついていました。
古代ローマでは家長はファミリアの経営者として家族的組織に誰を組み入れるかを決めていましたが、そのための手段の1つが結婚でした。
中世のヨーロッパでは奴隷売買の衰退や生産単位の縮小によって家族的組織の規模は縮小しましたが、それでも結婚は家族的組織の経営の手段として使われました。
このように前近代の社会では、生殖は生産・経営と結びついており、結婚も生殖と強く結びついていましたが、近代社会になると家族的組織の「経営」といったものは重要視されなくなっていきます。
ただし、近代化が性別分業を伴って進展したこともあって、結婚という行為が下火になったりすることはありませんでした。経営のための結婚は減少しても、生殖と結婚は強く結びついており、生殖を支えるには男性が稼ぎ、女性が育児をするという性別分業のもとでの結婚が必要だと考えられたからです。
結婚の特徴として、国家がその制度を保障し、何らかの特権を与えていることがあげられます。
現在は結婚は当人同士の自由な意思に基づいて行われるとされていますが、例えば、結婚できるのは一定以上の年齢とする、複婚を許さないなどの一定の制限を国家が行っています。
近年では事実婚も広まっており、必ずしも国家の定めた法律婚をしなければならないわけではないですし、ヨーロッパでは法律婚を同棲の間に中間的なカップル制度を設けていたりもするのですが、それでも法律婚はなくなっていませんし、国家が一定の枠組みをはめています。
おおよそ国家は結婚について、その入口(結婚の要件など)、期間中(相互の協力義務など)、出口(離婚要件、死別の際の相続など)を決めています。
入口の要件としては年齢をはじめいろいろありますが、著者が注目するのは「愛し合う二人」といった性愛に関する要件がついていないことです。異性であれば(同性婚が認められている国であれば同性でも)、共同生活を送るために性愛抜きで結婚することも可能です。
結婚期間中については相互の協力や扶助の義務を課していることが多いです。法律は結婚においてある程度の共同生活を想定しています。
そのため共同生活の実態があれば事実婚であっても、一定の保護が認められるという面もあります。
また、結婚期間中の嫡出推定も重要なポイントですが、同性婚が認められれば、このあたりを含めて制度の設計をしていく必要があります。
出口は離婚と死別ですが、やはり重要なのは離婚です。
日本では離婚の理由として、配偶者の不貞、配偶者からの悪意ある遺棄、配偶者の生死不明の3つに加えて「その他婚姻を継続し難い重大な事由」をあげています。この「重大な事由」とは、「性的不調和」、「同性愛」、「性的不能」などであり、こうした事由に基づく離婚を有責離婚といいます。
一方、結婚生活が実質的に破綻しているなど、上にあげたような具体的な事由がなくても行われるのは無責離婚です。
無責離婚は、共同生活の有無と結びついていることが多いです。かつては有責離婚が中心だったことろは、信頼に基づいた共同生活の実態がまったく存在しないのに結婚が維持されてしまうケースがありましたが、近年ではこうしたことは少なくなってきています。
本書は近年の結婚の変化を「内部化」という言葉で表現しています。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、結婚の開始・継続・終了において当事者間で調整できない外部的要素の影響が小さくなっているということです。
例えば、かつては結婚には両家の意向や釣り合いが強く求められましたが、そういったものは減っていますし、離婚についても世間体やキリスト教的倫理による抑圧は以前よりも弱くなっています。
また、有責離婚の事由を見てもわかるように、かつての結婚は生殖と深く結びついていましたが、その結びつきもかつてのような強いものではなくなっています。結婚が生殖から切り離されているからこそ、同性婚が認められつつあるということでもあるのです。
結婚の重点が共同性に置かれるようになると、法律婚と事実婚の距離は縮まっていきます。
こうした中でヨーロッパなどでは結婚よりも拘束力の弱いパートナーシップ(シビルユニオン)の制度が導入されています。フランスのPACSなどがその代表例です。
かつては結婚という外箱の中に共同関係が入れられていましたが、現在は「共同関係のなかで結婚(法律婚)が選択肢として内部化されている」(97−98p)といいます。
二者の間の共同関係のなかで、人々は単なる同棲、シビルユニオン、法律婚といったスタイルを選択していくのです。
事実婚であっても、共同生活の実態があれば離別の際に財産分与などがなされるようになってきましたが、死別の場合は事情が異なっています。法律婚の場合と違って、事実婚では基本的に相続権が発生しません。
相続制度については、結婚や家族生活の内部化に組み込まれずに残っていると言えます。
シビルユニオン制度は基本的に同性愛者にも結婚のような法的保護を与えるためにつくられますた。シビルユニオン制度が最初に導入されたデンマークでは(1989年導入、同性婚が法制化された2012年にシビルユニオン制度を廃止しています。
一方、異性カップルの利用が多いのがフランスのPACS制度で、この背景には離婚の手続きが難しく事実婚と法律婚の距離があったフランスならではの事情があります。
結婚はますます当事者間の自由意志と自己責任で行われるようになっていますが、それで片付けられないのが親子関係です。
同性婚が認められるようになり、旧来のような父、母、子という家族のあり方は揺らいでいますが、そうは言っても父、母、子というステレオタイプの家族像は健在であり、そうではない境遇の子どもには一定の心的負担が発生することになります。
PACSと同性婚の導入に尽力したフランスの法社会学者イレーヌ・テリーは、はじめのうちはLGBT運動の中から出てきた結婚の要求について理解できなかったといいます。法社会学的には、結婚の中枢は「父子関係の推定」であり、この推定が必要のない同性愛カップルが結婚することの意味がよく掴めなかったからです。
ただし、近年ではDNA鑑定が可能になったことにより、この「父子関係の推定」というはたらきも小さくなってきたとは言えます。
一方、生殖補助医療の進化によって親子関係はバリエーションが増え、より複雑になりました。
ただし、親子関係の複数性をもたらすものは生殖補助医療に限りません。養子縁組もそうですし、離婚と再婚を介したブレンドファミリー(ステップファミリー)もそうです。
こうした中で、子どもから見ても、どのような人を「親」と見るかは個別の事例によって違ってくるかもしれません。親の再婚相手を「親」だと感じる人もいれば、そうでない人もいるでしょう。
そのため、親子関係については一律に決めるのではなく、個別に配慮していくべきものとなりつつあります。
例えば、ネットでも論争になっていた共同親権の導入についても、共同親権を認めることは離婚した二人に無条件に親権を認めるわけではなく、個別のケースに応じて判断することになります。
共同親権の問題とは、このような個別調整のための仕組みを用意できるかどうかであり、司法制度が不十分であれば時期尚早ということになるかもしれません。
共同親権に限らず、同性婚でも生殖補助医療でも、それらを導入するためにはそこで生じる問題を解決するための仕組みを整えることが必要になります。
ただし、一方で企業にとってこのような個別的な配慮はコストにもなります。そのために家族手当の支給に法律婚を条件とするなど一律の対応をするかもしれません。
また、個人としても多様な親子関係に配慮しながらコミュニケーションを進めるよりも、ある種のステレオタイプに乗っかったほうがラクな部分もあり、それが差別につながる可能性もあります。
最後に本書では同類婚とオンラインマッチングサービスの問題、選択的夫婦別姓の問題、複婚の可能性などが「残された論点」として簡単にとり上げられています。
このように本書は「結婚とは何か?」ということを原理的に考えた本になります。人によっては「残された論点」の部分や、近年の日本の結婚の変化についてデータを使って分析してほしいといった考えを抱く人もいるかもしれませんが、本書はあくまでも思弁的です。
個人的にはもう少し実証的な部分が読みたかった気もしますが、本書はそういった実証的な部分を考える土台となる部分を提供する本だと言えるでしょう。
- 2025年08月31日23:03
- yamasitayu
- コメント:0
コメントする