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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2015年05月

サブタイトルは「「愛国者」たちの憎悪と暴力」。師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か?』(岩波新書)がヘイトスピーチの定義や問題点、規制のための方策などを明らかにしようとしていたのに対して、こちらはヘイトスピーチを行っている者や、その現場を取材することによって、その問題点と、何よりもその「歪み」を浮かび上がらせています。

この本を読んで強く感じるのは、ヘイトスピーチとそれを行なう人間、その周囲に広がる「歪み」です。
師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か?』では、ある種の「正義の枠組み」によってヘイトスピーチが断罪されていましたが、それに比べるとこの本は著者の実感から出発しています。
著者はサッカーにおける韓国サポーターの過激な政治的言動に違和感を覚えていますし、ことさら歴史問題を持ちだしてもいません。
実際のところ、2002年ワールドカップでの韓国戦をめぐる不可解な判定に疑問を持ったり、李明博大統領の竹島上陸に怒りを覚えたりする日本人は多いと思いますし、著者もことさらそういう感情を否定して日韓友好を訴えたりはしていません、

しかし、それが在日コリアンへの罵詈雑言に結びついてしまうのが今の日本社会の大きな「歪み」です。
例えば、李明博大統領の竹島上陸に怒りを覚えたのであれば韓国大使館の前などでデモをすればいいのですが、それが大久保や鶴橋、あるいは都心部などでの在日コリアンへの聞くに堪えない言葉の暴力に結びついてしまう。その「歪み」をこの本は改めて感じさせてくれます。

この「歪み」の背景には、歴史的な在日コリアンへの蔑視などもあるのですが、それだけではありません。
この本の冒頭では、2009年の4月に行われた「カルデロン一家追放デモ」の様子が紹介されています。不法滞在を理由に強制送還を迫られていたフィリピン人一家のことをマスコミがとり上げると、ネットを中心に逆に「処分は当然」といった書き込みがあふれ、ついにはカルデロン一家の住む住宅街や娘の通う学校近辺への突撃でもへと発展します。
この「カルデロン一家追放デモ」は、現場への「突撃」という差別的デモのスタイルを確立したものでした。

また、2007年に不法滞在の中国人が警察から職務質問を受け、もみあいとあり、身の危険を感じた警察官から発砲を受け死亡した事件がありましたが、警察官が告訴された公判では、「発泡されて当然だ!」といったプラカードを持った人々が集結したそうです。

昔から、デモなどの社会運動は権力に抗議する目的で行われることが多かったのですが、これらの運動はむしろ権力側にたって、その行為を正当化する目的で行われています。いわば、弱者に石を投げるような行為です。
しかし、やっているほうは権力の尻馬に乗っているという意識はなく、むしろ「被害者」として自らを認識しているケースが多いことに驚きます。

この本では、ヘイトスピーチや排外デモ、排外的な言説を繰り返す人々にインタビューしているのですが、彼らの多くが自分たちを一種の「被害者」として認識しています。
ほとんど「認知の歪み」と言ってもいいと思うのですが、この本でもこの「認知の歪み」はいたるところに顔を出します。
例えば、著者は『嫌韓流』の作者である山野車輪にインタビューし、その「素朴で謙虚な人柄には好感を持っている」(209p)と言いますが、在日が何であるかわからなかったから怖かったが、最近そうでもなくなったといった後に続く、彼の次のような発言には唖然としたといいます。
「在特会が、朝鮮大学に対してデモをかけたじゃないですか。あれで、ああ、大丈夫なんだ、と思いました。だって、朝鮮大学っって、朝鮮総連の幹部養成学校じゃないですか。そうしたところでデモをやるってことは大変なことだと思ったんです。でも、たいした妨害もなくデモは無事に終わった。これで大丈夫なのだ、在日は怖くないんだと理解しましたよ」(210p)

また、別のところでは、在特会が京都の朝鮮人学校に行ったデモ(ヘイトスピーチ)の動画を見て在特会に入会した若者と話したあと、「彼にとって在特会とは、在日という「巨大な敵」に立ち向かうレジスタンス組織に見えるのであろう」(108p)と書いています。

しかも、こうした「認知の歪み」を持つのは若者だけではありません。この本に出てくるのはまさに老若男女であり、貧困のはけ口にヘイトスピーチを行っているわけでもありません。「認知の歪み」がもたらす「正義感」からヘイトスピーチを行っているのです(個人的には、この「認知の歪み」をもたらした一端がTV局のビジネスがらみの「韓流推し」と、夕方のニュースで垂れ流される「北朝鮮ネタ」のコラボだったのではないかとも思う)。

歴史認識やヘイトスピーチに対する法規制のあり方などでは、さまざまな立場があり、一概にどうのこうの言えるものではありませんが、この本を読めば少なくともヘイトスピーチの現場で現れている日本社会の「歪み」のようなものは多くの人が感じるのではないでしょうか?
そして、この「歪み」が周辺的なものとして終息すればいいですが、この本の最後には在特会と関係をもつ与党の有力政治家の姿も描かれています。
この本は、もちろん読んでいて楽しいものではないのですが、これからますます現れてきそうな「歪み」の症状に対処するために広く読まれるべき本だと思います。


ヘイトスピーチ 「愛国者」たちの憎悪と暴力 (文春新書)
安田 浩一
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高校生の頃から商店街の活性化プロジェクトに取り組み、その後数々の体験や挫折を経て、現在、「まちづくり」について活発に発言・行動している著者による、「まちづくり」の指南書。
副題は「誰も言わなかった10の鉄則」で、著者が自らの体験の中で会得した「まちづくり」の方法がわかりやすく、そして「熱く」示されています。

その鉄則とは次の通り。
鉄則1 小さく始めよ
鉄則2 補助金を当てにするな
鉄則3 「一蓮托生」のパートナーを見つけよう
鉄則4 「全員の合意」は必要ない
鉄則5 「先回り営業」で確実に回収
鉄則6 「利益率」にとことんこだわれ
鉄則7 「稼ぎ」を流出させるな
鉄則8 「撤退ライン」は最初に決めておけ
鉄則9 最初から専従者を雇うな
鉄則10 「お金」のルールは厳格に

これを見ると、「まちづくりではなくて起業の指南書では?」と感じる人もいると思いますが、著者の考える「まちづくり」はまさに起業であり、起業によって稼ぎ、事業を拡大させることで地域を活性化しようという方法です。

この本で「まちづくり」の主体となるのは行政ではありません。
もっとも、行政主体の「まちづくり」はすでに時代遅れのものであり、「地域住民こそが「まちづくり」の主体であり、幅広い住民参加が成功の秘訣である」といったことは、ある意味で常識です。そして、ワークショップなどを開いてみんなの意見を出し合うというのが、今現在の「正しいまちづくり」といったところでしょう。

しかし、この本ではそうした全員参加の「まちづくり」も批判の対象となっています。
著者はいわゆる「まちづくり」のワークショップに対して、「エンターテイメントとして面白いことは理解できますが、税金を使ってやることではありません」(113p)とバッサリと斬っています。
幅広い合意よりも、少数の仲間の覚悟こそが重要であるというのがこの本の一貫した主張です。

では、「まちづくり」の主体は誰なのか?それは不動産オーナーだといいます。
「まちづくり」によって、その街が魅力的になった場合、一番利益を得るのはそこに土地を持っている不動産オーナーです。街の魅力が上がれば賃料も上がるでしょうし、何よりも自らが所有する土地の価値が上がります。
ですから、「まちづくり」とは不動産オーナーにとって、将来の収益を上げるための投資なのです。

ただ、投資は必ずしも成功するわけではありません。投資はいつもリスクを伴うものであり100%確実な投資というものはありません。
この本では、この投資に伴うリスクをいかに小さくしつつ、いかにリスクを背負って一歩を踏み出すかということが著者の体験や、さまざまな成功事例などを通して紹介されています。
特に、改装してからテナントを募集するのではなく、まずテナントを見つけてから負担できる賃料をもとに改装プランを考える「先回り営業」の必要性などは、「まちづくり」だけではなく起業の場面などにおいても重要なポイントでしょう。

一方、そうしたリスクを軽減してくれるようで、実際には健全なリスクへの感覚を麻痺させ、事業の継続性を低めるのが行政の出す補助金です。
補助金のメニューの多くは、他の地域で成功した事例のコピーであり、それに従っていればもらえるというものです。しかし、地域によって抱える問題は違いますし、何よりも補助金があることで、「補助金の獲得」が目的となってしまいがちです。
「そもそも、補助金メニューのモデルとなった成功事例には、補助金が入ってないからこそうまくいったケースが非常に多い」(101p)のです。

このように「まちづくり」の本であると同時に起業の本としても有用な本だと思います。
あと、個人的に興味深かったのが、先日紹介した坂井豊貴『多数決を疑う』とまったく対照的なことが書かれている点。
『多数決を疑う』では、「陪審定理」などが紹介され、民主主義による「集合知」のはたらきが重要視されていましたが、この本では「みんなの意見を聞くこと」のマイナス点が指摘され、少数による独断専行が推奨されています。
おそらく、陪審では集合知がはたらくのでしょうし、企業経営に近い「まちづくり」の現場では少数による意思決定が有効なのでしょう。しかし、どちらも広くとればどちらも「政治」であり、政治的場面におけるテーマと意思決定のマッチングの問題はなかなか難しいものだと思いました。

稼ぐまちが地方を変える―誰も言わなかった10の鉄則 (NHK出版新書 460)
木下 斉
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この本の原書は、ドイツの出版社C・H・ベックの「ヴィッセン(知識)」叢書の1冊として、フランスの「文庫クセジュ」のようなシリーズの1冊として刊行されたもので(「訳者解説」による)、それを『アデナウアー』(中公新書)などの著作で知られる板橋拓己が訳したもの。
特徴はニュルンベルク裁判だけではなく、その後引き続いて行われた継続裁判を詳細に追っている点と、ニュルンベルク裁判に対するドイツの反響をフォローしている点、ニュルンベルク裁判の意義を現在の国際刑事裁判所にまで引きつけて考えようとしている点などです。

ニュルンベルク裁判そのものの記述に関してはやや薄いところもあるのですが、あまりとり上げられることがなかった継続裁判についての記述は興味深いです。また、訳者が詳細な注やブックガイドをつけ、さらに図表なども作成しており、たんなる訳書としてではなく、日本の読者に対する「ニュルンベルク裁判の入門書」として機能するように心を配っている所も良い点だと思います。

ニュルンベルク裁判については、裁判に至る過程についての記述が充実しています。
ナチの指導者を「無法者(Outlaw)」だとして、法の保護のもとにない者として銃殺しても構わない(そのほうが問題が起きない)と考えたチャーチルに対して、アメリカ側はあくまでも国際法廷による裁判を主張します(アメリカの中にもモーゲンソーのように一部の指導者の「即銃殺」を主張する者もいましたが)。
アメリカ側には、ジャクソン主席検察官のようにナチ指導部に対する裁判を「普遍的な法と正義の原理に基づく国際平和秩序を創出するまたとない歴史的チャンス」(25p)と考える者もいて、一種の使命感に燃えていました。

こうしたアメリカ側の働きかけもあり、国際軍事裁判所憲章において「平和に対する罪」(6条a)、「戦争犯罪」(6条b)、「人道に対する罪」(6条c)が国際法違反として条文化されます。
また、「共同謀議」という概念を導入することでナチスに関係した幅広い人物を訴訟対象とすることを狙いましたが、イギリスの反対もあって、この「共同謀議」の対象は「侵略戦争の共同謀議」に絞られることになります。
このような対立と妥協の中で絞りこまれたのが、ゲーリングやヘス、リッベントロップなど24人の被告であり、その中にはライヒスバンク総裁シャハトなど訴追に賛否がわかれた人物も混じっていました。

実際の裁判の様子に関しては比較的あっさりと終わっていますが、この本を読むと、丸山眞男の「悪びれずに自らの正当性語るドイツ人、責任逃れの発言を続けた日本人」といった対比が一面的であったことがわかります。
大部分の被告はヒトラーとヒムラーを悪魔に仕立て上げ自分たちの責任を矮小化しようとしたのです(78ー80p)。
裁判は判決を受けた22人のうち12人が死刑となり、3人が終身刑、4人が有期刑、3人が無罪となり、いわゆるニュルンベルク裁判は終結することになります。

しかし、これだけで終わらなかったところがドイツと日本の違いなのかもしれません。
東京裁判では最初の判決と刑の執行のあと、あらたな訴追は行われませんでしたが、ドイツではアメリカ単独の管轄のもと、継続裁判が行われました。
この継続裁判では、指導者レベルの政治家や軍人だけではなく、人体実験を行った医師や、法律家、親衛隊、行動部隊(アインザッツグルッペン)、企業家、官庁の高級官吏などが訴追され、裁きを受けました。

いずれも興味深い裁判で詳しくは本書を読んで欲しいのですが、特に高級官吏に対する裁判は興味深いです。
ドイツの大統として「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」という言葉を残したリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領の父で、外務次官も務めたエルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーは、ユダヤ人虐殺に加担したことに対して次のように供述しています。
「この恐ろしくも悲しいユダヤ人問題では多くのことがわたしの手を経なければなりませんでしたが、わたしは自分にとって不快だったが、より高次の命令に従ったのであり[...]、基本的にわたしはこの身の毛もよだつような事件においては、単なる郵便配達人に過ぎなかったのです」(153p)

官僚制国家では、この「上の命令に従ったまでだ」という言い分を完全に否定することは難しいですし、実際、この裁判に対するドイツ国内の反発あるいは同情は強く、継続裁判で有罪になった多くの者がしばらくしてドイツ社会に復帰していくわけですが、それでもこうした人々が裁かれた継続裁判の意義は大きいと思います。

このニュルンベルク裁判はジェノサイド条約や東京裁判に影響を与え、さらには現在の国際刑事裁判所につながっていきます。
ドイツ国内では反発のあったニュルンベルク裁判ですが、ドイツは「国際刑事裁判所の断固たる支持者」になり、一方、アメリカは「法による集団的な平和の確保という考えから離反していく」ことになります(193ー194p)。
そういった「歴史の皮肉」を教えくれる本でもありますね。


ニュルンベルク裁判 (中公新書)
アンネッテ・ヴァインケ 板橋 拓己
4121023137
サブタイトルは「社会的選択理論とは何か」。単純な多数決の問題点を指摘し、その代替案、さらには多数決に依拠している現在の政治のこれからのあり方を問う非常に面白い本になっています。
個人的にこの本が素晴らしいと思った理由は2つあって、それは(1)社会的選択理論を初歩から丁寧かつ明晰に説明している点、(2)明晰であるがゆえに著者との根源的な政治観や人間観の違いが明らかになって政治に対する認識がより深まった点、の2点です。

まずは(1)の部分から。
社会的選択理論の入門書というと、佐伯胖の『「きめ方」の論理』あたりが有名だと思いますが(佐伯胖の本では「社会的決定理論」となっている)、さすがにもう35年も前の本ですし、何よりも300ページ近い、それなりに専門的な本です。
また、社会的選択理論に触れた本の中には、いきなり「アローの不可能性定理」などを紹介して「民主主義の不可能性!」のような話を持ち出すものも目につきます(ちなみにこの本の「アローの不可能性定理」の説明は非常に良いと思う)。

その点、この本は全体で180ページほどにまとまっており、しかも、ボルダやコンドルセといった「社会的選択理論の祖」といった人物の考えから丁寧に紹介されており、何が問題で、どのような解決方法が模索されてきたのかということがよくわかります。

単純な多数決の問題の実例として、この本では2000年のアメリカ大統領選挙をとり上げています。
ブッシュとゴアの大接戦で、フロリダ州での票の数え直しなどにまでもつれこんだ大統領選挙でしたが、著者は第三の候補ラルフ・ネーダーの登場が選挙結果を歪めたのではないか?ということを問題視します。
ラルフ・ネーダーは社会活動を熱心に行ってきた弁護士で、既成政党を批判するために出馬しましたが、ブッシュ、ゴアの両者と比較すると政策的には明らかにゴアに近く、ラルフ・ネーダーが出馬しなければその票の多くはゴアに流れたでしょう。つまり、ラルフ・ネーダーの出馬は、ブッシュに漁夫の利を与えることになってしまったのです。

ラルフ・ネーダーの支持者の多くは「ラルフ・ネーダー>ゴア>ブッシュ」という選好を持っていたと思うのですが、結果的にラルフ・ネーダーに投票することがブッシュという最悪の選択肢を浮上させてしまう。これこそが多数決の大きな問題点の一つだというのです。

そして実はこの問題を解決する方法はいくつか見い出されています。
例えば、革命前のフランスで多数決に関する研究を行ったボルダの提唱したボルダルールです。ボルダルールでは選択肢が3つあった時、投票者は1番の選択肢に3点、2番めの選択肢に2点、3番目の選択肢に1点を投じます。
細かい説明はこの本を読んで確かめて欲しいのですが、これによってペア敗者(2択になれば負けてしまう者)が勝つ可能性がなくなります。つまり、先程の例だと、「ゴア対ブッシュ」ならゴアが勝つが、「ゴア対ブッシュ対ラルフ・ネーダー」だとブッシュが勝ってしまうということがなくなるのです。

この本では、このボルダルール以外にも、さまざまな方法の長所と短所が検討されています。
特にボルダルールを拒否したコンドルセの解決方法が、1988年にペイトン・ヤングによって定式化されたという話は学問のダイナミズムを感じさせるもので非常に面白いです。
そして、さまざまな方法を提示するだけではなく、著者がボルダルールを「推している」というのも、この本の特徴の1つでしょう。

次にこの本の後半の議論と(2)の部分について。
この本の後半の主人公はルソーです。ルソーは「一般意志」による政治を目指しましたということは知られていますが、この「一般意志」というのは謎めいた概念でもあります。
近年、東浩紀重田園江がこのルソーの「一般意志」をめぐって興味深い議論を行っていますが(この本での「一般意志」の捉え方は重田園江のものに近い)、ここでは基本的に個々人の私的利害を取り去ることで浮かびががるものとして「一般意志」を捉えています。
つまり、「一般意志」こそが、政治的問題における「正解」なのです。

「正解」という表現は強すぎるかもしれませんが、著者は第3章の冒頭で60%の確率で正しい判断ができる陪審員がいるとすれば、その数が増えれば増えるほど正しい判断ができるようになるという「陪審定理」を紹介し、次のように述べています。
つまり自分は「有罪」を投じたが、多数決の結果が「無罪」であったときには、自分の判断は高い確率で間違えていたというわけだ。自分の意に沿わない、気に入らない結果が出たと考えるべきではない、自分が間違えていたわけだから。(67p)

著者はこの「陪審定理」が政治の世界でも基本的に通用すると考えています。
「個人が特殊的な「私」の次元から一般的な「公」の次元へと思考を移すという、熟議的理性の行使」(76p)によって、「一般意志」を見出す、つまり「正解」を見つけることが可能であると考えているのです。
こうした態度はこの本において一貫しており、最後の第5章では國分功一郎『来るべき民主主義』(幻冬舎新書)でもとり上げられている、都道328号線の問題をとり上げながら、著者の専門でもある経済学のメカニズムデザインの知見を活かして、「建設すべきか/すべきでないか」という問題に答えを出す方法を提示しています。

確かに、「陪審定理」には納得しますし、そこから憲法改正のルールにおいて単純な多数決よりも3分の2以上の賛成が必要なルールのほうが優れているという話も納得できます
(著者は現在の衆議院がある一定の得票で多くの議席を獲得できてしまう小選挙区中心である以上、国会の発議だけではなく国民投票にも3分の2以上の賛成が必要であるべきだと考えている)。

ただし、政治において「正解」がない場面が多いのも事実でしょう。
例えば、外交などでは相手国のアクションに対して短い時間で決断を迫られる時があります。「正解」がわからなくても、その時点で「最善」だと思える手を打たなければならない場面は数多くあるはずです。
陪審では過去に起こったことについて判断を行うわけですが、政治においては未知の未来に対する判断を迫られることもあるのです。

その点で、著者やルソーは人間の理性にあまりに多くのことを期待しているように思えます。
「私」と「公」の区分にしても、例えば「公」の範囲をどう設定するかで結論は変わるはずですし(「公」が日本なのか全世界なのかで結論の違う問題は多いはず)、結局はどこかで問題を切断しなければ、あるいは複雑性を縮減しなければ、答えを出せない問題は多いはずです。

これは著者の推すボルダルールについても言えて、確かに選択肢が3〜6くらいのときはボルダルールが優れていると思いますが、選択肢が増えて2桁になればだんだんきちんとした順位は付けられなくなると思います。例えば、2002年のフランス大統領選挙では16人が立候補していますが、この順位付けは有権者にとって大きな負担となるでしょう。

著者の前著『マーケットデザイン』(ちくま新書)でも感じましたが、著者、というか社会的選択理論の想定する人間像というのは現実の人間とはずれているのではないかと思います(佐伯胖『「きめ方」の論理』では推移律に疑問を呈している部分があった)。

と、批判めいた事も書きましたが、それでも、というかそれゆえにこの本は素晴らしいと思います。
これだけ政治や人間について考えさせられたのは、この本の記述が明晰かつ一貫しているからであり、それだけ興味深い問題を扱っているからです。
政治、あるいは社会科学に興味がある人は必読の本といえるのではないでしょうか。


多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)
坂井 豊貴
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『ユーロ破綻 そしてドイツだけが残った』(日経プレミア)、『通貨「円」の謎』(文春新書)、『1997年―世界を変えた金融危機』(朝日新書)などの著作で知られる竹森俊平の新著は、現在進行中のギリシャ危機の問題を中心に、ウクライナ問題、AIIBの問題などを絡めて、現在の世界経済の矛盾点を分析した本。
ヨーロッパの問題が中心に置かれているという点で、『ユーロ破綻 そしてドイツだけが残った』の「その後」をフォローしたような形になってます。

目次は以下の通り。
第1章:「欧州統合」に欠けていた戦略的思考
第2章:危機の原因は共通通貨ユーロそのもの
第3章:ギリシャ救済はどこで間違えたのか
第4章:ドイツの過剰な「ルール至上主義」
第5章:アメリカとドイツの知られざる戦い
第6章:苦悩するIMF、揺らぐ世界秩序
第7章:日本がいま真剣に考えるべきこと

『ユーロ破綻 そしてドイツだけが残った』で著者はユーロ圏には次のようなトリレンマが存在すると指摘していました。すなわちそれは、(1) ユーロ圏をトランスファー(所得移転)同盟に転化させたくないリーダー国(ドイツ)の願望、(2) 共通通貨(ユーロ)を存続させたいとい う願望、(3) 北に比べて競争力の弱い南の産業が崩壊する結果、南から北への大量移民が発生し、北に移民のスラムが形成させるといった事態を避けたい欧州 全体の願望、の3つです(『ユーロ破綻 そしてドイツだけが残った』のエントリー参照)。

ギリシャ危機において特に前面に出たのが、(1)のユーロ圏をトランスファー(所得移転)同盟に転化させたくないドイツの意向です。
また、ヨーロッパ中央銀行(ECB)が、加盟国間の財政支援を禁止する「非救済条項」に縛られていたこともあって、ギリシャに対してはとりあえずIMFなどから融資を引っ張ってきて時間稼ぎをする(その間にドイツやフランスの銀行は逃げることができる)という対策が取られました。
これが2009年末に表面化したギリシャ危機がいまだに尾を引いている原因です。

この本では第4章で、この財政支援を頑なに拒むドイツの態度の原因を、第1次世界大戦後のハイパーインフレとヒトラーによる独裁の悪夢によって刻み込まれたドイツの「経済自由主義」に求めるわけですが、このドイツの「経済自由主義」についての説明に関してはいまいち説得力を感じませんでした。
ユーロ危機に関して言えば、現時点でも『ユーロ破綻 そしてドイツだけが残った』を読めばいいのではないかと思います。

けれども、第6章以降のIMFの問題点を指摘した部分は面白かったです。
IMFは基本的に短期の融資を行う機関であるにもかかわらず、ギリシャに関してはもうすでに長期的な支援となっていますし、ギリシャよりも返済のあてが不確実なウクライナにまで融資を行っています。
しかも、融資の条件は例えばアジア経済危機において韓国が突きつけられた条件などよりはるかに甘く、ダブルスタンダードになっています。

このダブルスタンダードをもたらす要因が、IMFにおける欧米の議決権の強さです。
IMFは第2次大戦後、戦勝国を中心につくられたためアメリカとヨーロッパ諸国のクォータ(出資割り当て)が強く、トップである専務理事は代々欧州出身者と決まっていました(今のラガルド専務理事はフランス出身)。
このIMFのクォータは本来、各国の経済力に応じて調整されていくべきものなのですが、アメリカ議会の反対もあって、いまだに欧米の力が強く、「ベルギーとオランダを足したクォータは中国よりも高い」(194p)状況です。

このIMFクォータの歪みが、IMFの政策の歪みにつながっているというのが著者の見立てであり、この状況が改善しないのであれば、中国のAIIBの設立なども十分に理解できる動きであるといいます。
また、ウクライナへの融資の返済が滞るようなことがあれば、アメリカで「IMF脱退論」が起こる可能性があるのでは?とも述べています。

途中にも書いたように本筋のユーロ危機の話は期待ほど面白くはなかったのですが、このIMFに関する議論は非常に興味深く読めました。


逆流するグローバリズム (PHP新書)
竹森 俊平
456982532X
韓国併合後、韓国の皇帝一族はどうなったのか?
伊藤博文が教育係を務め、のちに梨本宮方子と結婚した皇太子の李垠(りぎん、イウン)については知っている人も多いと思いますが、それ以外の人々の待遇やその後の人生に関しては知らない人も多いと思います。
そんな、日韓の歴史問題の中で忘れ去られている朝鮮王公族にスポットを当て、その成り立ちや地位と個々人の人生を追ったのがこの本。

目次は以下の通りです。
序章 帝国とは何か―東アジアの皇帝という存在
第1章 韓国併合と皇帝の処遇―廃位なれど臣従でなく
第2章 帝国日本に根を張る王公族―それぞれの処世術
第3章 「皇帝」の死と帝国日本の苦悩
第4章 昭和時代の王公族―祖国は韓国か、日本か
終章 帝国に在りて何を思う

韓国併合において大きな問題となったのは韓国の皇帝・純宗や太皇帝・高宗など皇帝一族の処遇でした。
できるだけ穏便に併合を行いたい日本側と、皇帝としての体面にこだわった韓国側。その妥協点が「王公族」という身分でした。当初、日本側は「大公」という称号を用意しますが、韓国側は「王」の称号にこだわり、結局は「李王」という形に落ち着きます。
また、日本側が純宗を李王として冊立する(高貴な身分を勅命によって正式に定める)際には、南面する中国皇帝の使者と北面する朝鮮王のような冊封体制下の位置関係ではなく、天皇の勅使と純宗が東西で向かい合うという形を取り、臣従のイメージを薄めています。このあたりは韓国側に対する配慮であったと同時に、欧米列強の外交システムに参入した日本が冊封体制下の秩序を重要視しなかったということでもあるでしょう。

朝鮮王公族の地位に関しては、皇室典範との兼ね合いもあって少しもめますが、基本的に「準皇族」と言える扱いに落ち着きました。
李垠と梨本宮方子の結婚に関しても、梨本宮方子の自伝には天皇家(宮内省)からの命令で仕方なくといった形で書かれていますが、この本では周辺の史料からむしろ梨本宮家から望んだと推定し、その理由に「皇族の礼遇」という魅力をあげています(ここで傍証としてあげられている、エチオピア皇帝の親族が日本人との結婚を望んだときに多数の女性が手を上げたという話も興味深い(97p))

この李垠夫妻以外にも、この本の第2章と第4章では朝鮮王公族それぞれの姿がゴシップ的なネタも含めて描かれており、難しい話は抜きにして興味深い人間ドラマを読むことができます。
高宗の五男として生まれた李堈(りこう、イカン)は、父への反発から外国を転々とし、韓国併合後に公族となったあとも放蕩を繰り返します。そして、ついには窮屈な生活から逃れるために1925年、摂政の裕仁親王に「公を廃し平民になりたし」との趣旨の陳情書を提出しています(122p)。
このように王公族という身分を窮屈に感じた者もいましたが、一方、李垠や、李堈の子どもである李鍵(りけん、イゴン)や李鍝(りぐ、イウ)は日本軍の軍人としての軍務に励みました。李鍝は陸軍中佐として広島に赴任し、そこで原爆の直撃を受けて亡くなっています(208p)。
また、戦後は王族という身分に未練を残しつつ、日本と韓国の関係の中で揺れ動くことになりました。李垠は1963年になって韓国に帰国して歓迎を受け、一方、李鍵は「桃山」という姓を名乗って日本人となり、再婚相手との子は完全に日本人として育てたそうです。

このようにまさに「数奇な運命」としか言いようがない朝鮮王公族のそれぞれの姿が描かれているのが本書の魅力です。
一方、王室に焦点を当てているため、例えば、日韓併合などに関してもやや日本寄り、つまり双方の交渉と同意を重視する形で書かれており、その当時の朝鮮の人々の姿などが見えにくい面はあります。

ただ、第3章の高宗の葬儀の模様を描いた部分では、朝鮮の人々の姿と日本の植民地統治の問題が浮かび上がっています。
日本は高宗の死に対して、国葬を用意し朝鮮人の懐柔をはかりますが、葬儀に向けて京城に人が集まると三・一独立運動が勃発、また、日本式の式典は朝鮮の人々の反発を呼び、国葬は失敗に終わりました。葬儀に参列した野田卯太郎は「日本の国葬式を慣習の違った朝鮮人に用いるのは、仏教信者に基督教の儀式を強いるものと同じだ。[中略]まったく失敗であった」(162p)との言葉を残しています。

このように日本の植民地支配の矛盾と歪みを教えてくれる本でもあります。


朝鮮王公族―帝国日本の準皇族 (中公新書)
新城 道彦
4121023099
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
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