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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2008年05月

法律では30日前に予告するか1月分の給料に当たる解雇手当を出せば労働者を解雇できることになっていますが、この本の第1章の「東洋酸素事件」で示された「整理解雇の四要件」をみればわかるように、日本の裁判ではこの四要件の高いハードルをクリアーできなければ解雇は認められないことになっています。
このように、裁判の判例が社会において大きな影響力を持っている事例は多く、存在感が薄いと思われている日本の司法も社会のシステムにに大きな影響を与えています。
そんな、世間からはあまり注目を浴びない裁判の判例を通じて日本社会と司法の問題点を探ったのがこの本。
非常によい着眼点の本だと思います。

ただ、着眼点がいいのに「個別の事件の判例」にこだわりきれなかったのがもったいない。
第1章の解雇の問題を扱った「東洋酸素事件」、単身赴任についての第2章の「東亜ペイント事件」、公務員は民間企業の社員とちがって民事で個人責任を問われないという「公務員バリア」の問題を「共産党幹部宅盗聴事件」を例に扱った第5章などは面白いですが、第4章の痴漢冤罪事件は具体的な事件に即していないのでいまいちですし、最後の最高裁改革を扱った第10章に関しては、「最高裁にマスコミが調べる支持率を導入する」など、正直レベルの低い改革案が並べられているだけだと思います。

時代からずれた判例を点検する、というのはいいのですが、国民の感覚を取り入れるということで裁判所が世論に迎合した判決を下すようになってしまっては、ある時には民主主義の暴走を押さえる役割を果たす「法の支配」が崩れ去ってしまうでしょう。

ただ、いい着眼点の本であることは確かですし、意外と知らない裁判の判例という世界をとり上げてくれているので興味を持った人にはおススメしたいです。

日本をダメにした10の裁判 [日経プレミアシリーズ] (日経プレミアシリーズ 4)
チームJ
4532260043


「反中vs.親中」とタイトルにはありますが、台湾の対中国感情に焦点を当てた本というよりは、今年の3月の行われ馬英九が圧勝した総統選挙とそこに至るまでの国民党と民進党の対立の歴史を述べた本。

長年の国民党の一党独裁が崩れ、なぜ民進政権が誕生したのか?そしてその陳水扁政権の人気はなぜ失速し、今回の総統選挙につながったのか?
こうした疑問に答える本と言えるでしょう。

著者は台北支局勤務の経験もある毎日新聞の記者。
台湾の先住民族の問題、日本と台湾のさまざまな関係など、いかにも新聞記者らしいジャーナリスティックな視点もあって、読みやすい内容です。

ただ、歴史的背景の分析などに関しては物足りない面も。
「反中」の根深い理由などを知るのは、少し古い本ですが、二・二八事件などについて詳述してある伊藤潔『台湾』(中公新書)のほうがいいでしょう。

反中vs.親中の台湾 (光文社新書 351)
近藤伸二
4334034543


竹中平蔵の懐刀として郵政民営化をはじめとする小泉改革のブレーンとなり、小泉退陣後は中川秀直の「上げ潮」路線の理論を生み出した高橋洋一が、日本の財政と政治制度に関して斬りまくった本。

帯に「高校1年生〜財務官僚・日銀マン向き」という皮肉たっぷりの煽り文句がありますが、確かにわかりやすい。
編集者が高橋洋一にインタビューした形なので、本自体は薄いですし、あっという間に読めてしまうものなのですが、内容は「埋蔵金」の話から、変動相場制のもとでは公共事業は意味がないというマンデル・フレミング理論、日銀総裁の人事と日銀の役割、公務員制度改革、地方分権と多岐にわたっており、読み応えはあります。

かなり乱暴に論じている部分もありますが、今までの「リフレ派」にはないわかりやすさで、この高橋洋一の本によって、「デフレが悪であって、デフレのもとでは経済成長も財政再建もままならない」という、常識的なことが世の中に広まることを期待したいです。

特に「低金利によって家計の所得が失われた」とか言って、日銀の副総裁人事で伊藤隆敏を拒否した民主党の先生方にはぜひ読んで欲しい!

霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」 (文春新書)
高橋 洋一
4166606352


カテゴリーを一応「社会」としましたが、「思想」のほうがよかったかもしれません。
今まで倫理学や分析哲学などの領域で活躍していた大庭健が「働くということ」について考察した本です。

考察の出発点は近年の非正規雇用の増大や職場環境の悪化といった具体的な問題ですが、ここから著者は「生きるためには、働かねばならない」という一つの正論に捕われたシニシズムを乗り越えるために、「働く」ということの根本から考え直していこうとします。

哲学の分野で「働く」ことを分析しようとすると、すぐ思いつくのはアーレントの「活動」・「仕事」・「労働」の区分ですが、著者はこうした議論を一切持ち出しません。
著者はアーレントなら「労働」として一段低く見た、人間の生命の維持に関わる活動を重要視し、そうした生命の維持や、あるいは生の再生産が市場化・商品化していく現状を批判します。

確かにこういった議論はそれなりに説得力のあるものですし、かなり原理的な部分から考えられています。
特に高史明の「いのちの上に、自我が誕生する」という指摘をもとに、あたかも「自我がいのちを所有している」と考えるような思考を否定する部分などは説得力があります。

ただ、「人間の生を大切にする」、「生態系を大切にする」といった考えが出てきた時に、「では、そこで何をすべきか?」という答えを市場以上に正しく導き出すことができるのか?という点には疑問が残ります。
例えば、この本で出ている環境問題についても、最近のバイオエタノールがもたらしている食糧危機などを考えると、政府が市場を歪めることがかえって大きな問題をもたらすことがあるのではないでしょうか。

たぶん、ここから先に進むには経済学的な知識が欠かせなく、このあたりが大庭健の限界であるのかもしれません。(個人的には彼の『他者とは誰のことか』とか『権力とはどんな力か』『はじめての分析哲学』といった著作は大好きなのですが)

いま、働くということ (ちくま新書 720)
大庭 健
4480064230

ホロコーストについて扱った本ですが、副題に「ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌」とあるように、ホロコーストの被害者ではなく、ナチスがどのようにホロコーストという政策にたどりつき、それがどのように行われたかということを書いた本です。

人種的反ユダヤ主義からヒトラーの登場、ユダヤ人の公職追放、「水晶の夜」、ユダヤ人の国外追放とエスカレートしていった反ユダヤ主義は、ポーランドへの侵攻とともに「ゲットー化」政策が始まり、ユダヤ人を緩慢に殺していく段階へとすすみます。
さらにソ連侵攻とともに始まった行動部隊(アインザッツグルッペン)によるユダヤ人の大量射殺へとエスカレートし、ついに「最終解決」である「絶滅収容所」へと行き着きます。

こういったホロコーストへ至る道を、主にドイツ側の動きから、ある意味たんたんと記述しているのがこの本の大きな特徴。
まるっきり狂った人物が引き起こしたのではなく、少しだけ常軌を逸した人物たちによって、行為がエスカレートしていく過程は、告発や非難なしにたんたんと記述されているからこそ、より恐ろしさを感じます。

ユダヤ人の大量射殺の現場について、アイヒマンでさえ「耐えられなかった」と述べていたと言いますが、その一方で、「労働不能なユダヤ人については、即効手段で片付けるのがもっとも人間的な解決ではないかと真剣に考慮すべきです」(ヘップナーからアイヒマンへの書簡、103p)というような手紙がやりとりされていた事実。
このあたりの転倒した価値観こそ、ユダヤ人の犠牲者の圧倒的な数とともに、この本の教えてくれるホロコーストの怖さであるような気がします。

ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書 (1943))
芝 健介
4121019431


インターネットが社会に広がっていく中でテレビをめぐるキーワードとして浮上してきた「放送と通信の融合」。 この言葉の意味は何なのか?
この問題がずっと問題になりなかなかすっきりとした解決に至らないのはなぜなのか?
そして、この「放送と通信の融合によってテレビはどう変わるのか?
こうした問題について考え、答えを出そうとしてのがこの本です。

この手の話題はネットでは散々に論じられていて、電波や著作権、地デジなどさまざまなネックとなる問題を知っている人も多いと思います。
この本も当然ながらそういった問題をとり上げているのですが、この本の特徴はそういった技術や法制度の問題でなく、いわゆる「ギョーカイ」のしくみといった部分までとり上げている点。

芸能プロダクションのしくみととテレビ局との関係、そしてこれに広告代理店を加えた「ギョーカイ」が流通の覇権を握る中で、その流通の覇権を脅かすものとして表れてきたネットと集合的な知によってつくり出されたコンテンツ。
そのあたりの緊張関係と古いシステムの限界がうまく描かれていると思います。

著者の打ち出す「次のテレビ」に関しては、「そんなにうなくいくものか?」という疑問もあるのですが、「ギョーカイ」の契約の透明化や著作権法の運用の改善に関してはその通りだと思いますし、今後のテレビ、通信、ネットを考える上で読む価値のある本だと思います。

テレビ進化論 (講談社現代新書 1938) (講談社現代新書 1938)
境 真良
4062879387


オウム事件をテーマにして書かれた『虚構の時代の果て』の続編とも言うべき本。
戦後の日本の中に「理想の時代」から「虚構の時代」の変化として捉え、オウム事件をその「虚構の時代の果て」とした前著を受けて、大澤真幸を現在を「不可能性の時代」と位置づけています。

本の構成としては、「理想の時代」と「虚構の時代」の分析から始まり、「不可能性の時代」の検討に入るわけですが、前著を読んでいる者にとってはやや「理想の時代」と「虚構の時代」の分析が長いと思います。
結局、半分程度をこの分析に費やしてしまっているので、肝心の「不可能性の時代」の分析と今後の展望が少し駆け足になってしまっていると思います。

さらに、今回の「不可能性の時代」という位置づけがうなく行っているかというと、やや疑問が残りますね。

「不可能性の時代」とは、不可能な<他者>が希求される時代だということなのですが、それって80年代から柄谷行人なんかが言っていたことではなかったでしたっけ?
<他者>が問題になるのは、いつの時代もそうであって、何も90年代以降の新しい潮流ではないのではないでしょうか?

もともと大澤真幸の社会学というのは一種のメタ社会学であって、自身の手によるフィールドワークや統計分析というのはほとんどなく、さまざまな日本の社会学者や思想家の言説を大澤真幸が分析し、配列し直すという形になっていて、そしてその時の中心となる理論は相変わらず「第三者の審級」というラカン=ジジェク的な否定神学の理論。

分析的にはジジェクやアガンベンを超えたものではないと思うので、一番最後に出てくる民主主義の可能性といった部分をもっと膨らまさない限り、大澤真幸なりのオリジナリティのいうのは出てこない気がします。

ただ、さまざまな問題がとり上げられているので思考の材料としては面白いですし、ある意味、ブックガイドとしてもいいかもしれません。
けっこう期待していたのでやや辛口の評価となりました。

不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 1122)
大澤 真幸
4004311225


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★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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「西東京日記 IN はてな」で。
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