2021年07月
藤原仲麻呂といえば、道長や鎌足ほどのネームバリューはないにしろ、奈良時代の政治を語る上で欠かせない藤原氏出身の有力政治家です。
ただし、高校の日本史だと、奈良時代の政治は「長屋王→藤原四兄弟→橘諸兄→藤原仲麻呂→道鏡」という、藤原氏とそれ以外の権力争いの歴史として整理されやすいために仲麻呂が行った政策というのは見えにくいですし、何よりも政治的権力や軍事力を一定に握っていたはずの仲麻呂が、孝謙上皇と道鏡という軍事力から縁が薄そうな勢力に乱を企てて敗死する藤原仲麻呂の乱という事件が1つの謎となっています。
本書はまさにそうした疑問に答えてくれる本です。比較的オーソドックスな評伝の体裁ですが、仲麻呂の事績や出生の理由がわかりますし、「藤原仲麻呂の乱」ではなく「孝謙上皇の乱」と呼ぶべきであるという踏み込んだ提言も行っており、藤原仲麻呂という人物と奈良時代の政治構造について理解が深まる内容になっています。
目次は以下の通り。
序章 藤原氏嫡系の「次男」第1章 藤原四兄弟の死―天然痘流行と政治危機第2章 叔母光明皇太后の寵愛―聖武から孝謙天皇へ第3章 恵美家政権の確立へ―淳仁天皇擁立まで第4章 仲麻呂の政策―七年間の大変革第5章 藤原仲麻呂の乱―天平宝字八(七六四)年終章 藤原仲麻呂は歴史に何を残したか
藤原仲麻呂は藤原南家の始祖・武智麻呂の次男として生まれています。生年は706年と推測され、兄の豊成と同じく母は阿倍氏の出身です。
仲麻呂は学問に優れた人物で、特に算術が得意だったとされています。この算術への関心は暦への関心にもつながり陰陽や暦算を重んじたとされています。
仲麻呂は734年に従五位下に叙任されたことが確認できます。この年、父の武智麻呂は従二位に進み右大臣となっています。当時、不比等の4人の子がすべて参議以上となり、いわゆる藤原四子体制が確立しており、仲麻呂の叙位もそうした藤原氏の権勢の現れかもしれません。
ただし、21歳のときに従五位下になった豊成に比べると昇進は遅れており、嫡子と弟の差は大きかったと考えられます。
737年の天然痘の流行により、まずは武智麻呂が、さらに兄弟の房前、宇合、麻呂の藤原四子が相次いで亡くなります。
この結果、形式的に太政官を騒乱する知太政官事に鈴鹿王、大納言に橘諸兄、中納言に多治比広政、参議に大伴道足という議政官が4人しかいないという寂しい体制になりました。
父や叔父という後ろ盾を失った仲麻呂ですが、これにはマイナスだけではなくプラスの面もありました。多くの官僚が亡くなったことで出生のチャンスも生まれたのです。
また、仲麻呂は房前の娘の袁比良(おひら)を妻としていましたが、彼女は女官として出仕していたと考えられ、この袁比良から光明皇后への働きかけが仲麻呂の昇進につながった可能性も指摘されています。
仲麻呂の急速な出世が始まるのは、聖武天皇の伊勢行幸で前騎兵大将軍(天皇を護衛する前方騎兵部隊の指揮官)に任命されてからです。これは藤原広嗣の乱に対応して行われたものでした。
乱自体は短期間で鎮圧されましたが、この乱が聖武天皇の5年にもわたる彷徨を生むことになります。
広嗣の支持者たちが平城京で決起するおそれがあったこと、東国には軍団制の停廃により防人などから帰還して動員可能な兵士が多数存在しており、それを鎮撫する必要があったこと、橘諸兄や聖武天皇に対する非難に動揺したことなどが理由として考えられていますが、伊勢への行幸から始まった移動は、広嗣が捕縛されても止まらず、恭仁京への遷都が宣言されました。
こうした中で仲麻呂は民部省での仕事をしており、河内と摂津の間を流れる淀川堤防の境界争いを見事に解決し、民部卿の巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)の信任を得ています。巨勢奈弖麻呂が恭仁京の造営卿に任命されると、仲麻呂もその下で働いており、仲麻呂の実務能力は評価されていたようです。
ところが、聖武天皇はさらに山間奥地の紫香楽宮を造営し、そこにしばしば行幸するようになります。聖武天皇は紫香楽の地での大仏造立を考えていたのです。
743年、仲麻呂は従四位下に昇り、議政官たる参議になります。743年といえば、大仏造立の詔と墾田永年私財法が出された年です。著者は墾田永年私財法については民部卿であった仲麻呂が関係していると見ています。
大仏造立については、大仏造立に否定的で恭仁京遷都を主導していた橘諸兄と、聖武天皇の意向を重視して紫香楽宮での大仏造立に積極的だった仲麻呂の対立があったと想定されていますが、大仏造立の財源を確保するための手段が墾田永年私財法であったと考えられます(墾田は私有されるとはいえ輸租田だった)。
こうして仲麻呂は聖武天皇の信頼を獲得していきました。
遷都の問題については、臣下は恭仁京遷都を支持したものの、聖武天皇は難波に行幸し、問題は再び混乱します。しかも、このときに聖武天皇唯一の男子である安積親王が亡くなったことから(仲麻呂による暗殺説もありますが著者はこれを否定している)、皇位継承の問題ももちあがってくることになります。
さらに紫香楽宮への行幸が行われ、聖武天皇はあくまでも紫香楽宮での大仏造立に執念を見せますが、745年になると地震が頻発したこともあり、ついに聖武天皇は平城京へと戻ってきます。
こうした中で、仲麻呂は曽祖父鎌足以来の由緒の地である近江守に任官し、さらに鈴鹿王が亡くなると式部省の長官の座も継ぎ、文官の人事権を掌握します。
こうした中、748年に後ろ盾だった元正上皇が亡くなったこともあって橘諸兄の劣勢は決定的になっていきます。
749年になると聖武天皇は正式な譲位を待たずに「太上天皇沙弥勝満」と名乗ります。この時期になると聖武天皇は政務をほぼ光明皇后に任せていたようで、この光明皇后の働きかけもあって孝謙天皇が即位します。
代替わりとともに中納言を経ずに大納言となった仲麻呂ですが、紫微中台の長官である紫微令にも任命されています。紫微中台は孝謙天皇と光明皇太后による命令を起案する役所であり、「光明皇太后が孝謙天皇の後見役として聖武上皇から一任された権限を背景に、仲麻呂が具体的に取り仕切る「光明子・仲麻呂体制」とも称される関係が成立したと」(70p)言えます。
太政官の中では、橘諸兄が仲麻呂より上の地位にいましたが、仲麻呂はそれをバイパスするようなしくみをつくったのです。
750年になると橘諸兄の側近の吉備真備が筑前国守へ左遷され、さらに遣唐使の副使に任命されています。任命当時は大使・藤原清河よりも位階が上という異例の人事であり、橘諸兄の勢力を削ぐものでした。
752年には大仏の開眼供養が行われていますが、この後、孝謙天皇と光明皇太后は仲麻呂の私宅である「田村第」に行幸しており、仲麻呂が二人の実力者を囲い込んでいる様子がうかがえます。
755年、宴会の席で聖武上皇に対する無礼の言動があったとの密告があり、翌年、橘諸兄は辞任します。この年の5月には聖武天皇が亡くなっており、さらに次の年に橘諸兄が亡くなることで、いよいよ仲麻呂を抑える者はいなくなりました。
聖武天皇の遺詔により道祖王が孝謙天皇の皇太子となります。道祖王は新田部親王の子で天武天皇の孫にあたりますが、特に支持する政治勢力がなく、その地位は不安定で、翌年にはあっさりと道祖王の廃太子が宣言されます。
次の皇太子に関しては、藤原豊成と永手が道祖王と同じ新田部親王の子である塩焼王を主張しましたが、孝謙天皇の意向により舎人親王の子の大炊王となっています。
大炊王は早世した仲麻呂の長男・真従(まより)の未亡人を妻とし、田村第に住んでおり、仲麻呂の身内とも言える人物でした。道祖王の廃太子と大炊王の立太子は仲麻呂が仕組んだものと思われます。
こうした仲麻呂の強引な手法は反発を生み、それが橘奈良麻呂の変につながっていきます。
この計画は、仲麻呂を殺害した上で、大炊王を退け、次に光明子の皇太后宮を襲って駅鈴と内印(天皇印)を奪い、藤原豊成に号令させて孝謙天皇を廃止、道祖王、塩焼王、安宿王、黄文王のいずれかを天皇にするというものでした。
次期天皇が決まってないことからもわかるように、さまざまな利害関係があるわけですが、「反仲麻呂」では一致していたわけです。
しかし、この計画は密告と拷問によって露見し、黄文王、道祖王、大伴古麻呂、小野東人などが拷問の杖に打たれて獄中死しています。安宿王は佐渡に配流、橘奈良麻呂も獄中死したと考えられてます。
さらに豊成も右大臣を罷免され、名実ともに仲麻呂が政権のトップになりました。
758年7月頃、光明皇太后が病臥に伏し、母に孝養を尽くすということで孝謙天皇が退位します。孝謙天皇の退位は仲麻呂が望んでいたことでもあり、これにより大炊王が淳仁天皇として即位します。
紫微中台を拠点として権力を振るってきた仲麻呂でしたが、光明皇太后も58歳で病気がちになっており、淳仁天皇のもとで太政官首座として権力基盤を固めることも考えたと思われます。
8月になると仲麻呂は大保(右大臣の唐名)に任じられ、「藤原恵美朝臣押勝」の名前が与えられました。「恵美」姓は藤原氏の中でも仲麻呂の家だけに認められたもので、天皇に近い准皇族としての地位を固めていくことになります。さらに功封3000戸、功田100町、私出挙の権利、銭の鋳造権なども獲得しており(私出挙も私鋳銭も禁じられていた)、仲麻呂がいかに特権的な立場に立ったかがわかります。
百官の名は唐風に改められ、760年に仲麻呂は大師(太政大臣)となります。ただ、淳仁天皇の父の舎人親王に天皇号を追号するかをめぐって、淳仁天皇・光明皇太后と孝謙上皇が対立するなど、不安な要素もありました。
では、これだけの権力を得た仲麻呂はどんな政策を行ったのか? 本書では第4章でそれがまとめられています。
学問を重視した仲麻呂は儒教の理念に基づく政治を行いました。中男と正丁の年齢をそれぞれ1歳繰り上げる仁政を意識した負担軽減策や、家ごとに『孝経』一巻を備え読ませ、孝行の人を表彰する政策、渡来人に姓を許す政策などが行われました。
国司の任期を6年に伸ばすとともに、不正防止のために3年ごとに巡察使を派遣し、国司の勤務態度を儒教の徳目に従って評価しました。
また、出挙による財源や、備荒貯蓄の義倉についても基準を定め、官人に「維城典訓」(則天武后が王族の訓戒のためにつくらせた書)と「律令格式」を読むことを義務付けるなど、ルールの整備や官僚の育成にも力を入れました。
さらに藤原氏の顕彰政策も行っています。曽祖父の鎌足については、それまでよりも乙巳の変での功績が強調されるようになり、祖父の不比等に関しても、その事績が顕彰され藤原氏の中心的存在に押し上げられています。鎌足が中大兄皇子と蹴鞠を通じて知り合ったというのも中国や朝鮮に類似の話が見られるものであり、仲麻呂が脚色したものである可能性があります。
東北経営と新羅征討計画も仲麻呂の政策としてあげられます。
東北に対しては、757年に陸奥守となった息子の朝獦(あさかり)を派遣し、多賀城から秋田城への駅路をつくらせ、雄勝城と桃生城を完成させました。このとき武力による蝦夷の討伐は行われなかったようです。
新羅征討計画に関しては、753年1月に唐の朝賀の席次で、大伴古麻呂が新羅は日本の朝貢国であるとして席次を交替させたことに新羅が反発し、関係が悪化したことがこの計画が持ち上がる直接の原因だったとされています。
さらに、安史の乱によって唐が朝鮮半島に軍事介入をする余裕がないこと、唐や新羅との関係を悪化させた渤海が日本との連携を求めていたことなどが加わり、新羅征討計画が動き出しました。
759年に大宰府に「行軍式」(軍隊の行動計画)をつくらせ、北陸・山陰・山陽・南海の四道に船500隻の建造を命じました。なお、この「行軍式」をつくったのは、仲麻呂にとってはかつての政敵でありながら、兵法に詳しかった当時の大宰大弐の吉備真備と思われます。
761年になると、東海・南海・西海の三道に、それぞれ藤原朝獦、百済王敬福、吉備真備が節度使として任命され、船393隻、兵士4万700人、水手1万7360人が動員されることとなりました。
ただし、763年になると征討計画は進まなくなります。これには唐と渤海の関係が改善し、渤海が新羅攻撃に消極的になったからだとも言われます。
また、新羅征討計画の取りやめは仲麻呂の権力基盤が揺らいできたからだとも考えられます。760年1月に大師となった仲麻呂ですが、6月に光明皇太后が亡くなり、最大の後ろ盾を失うのです。
光明皇太后を失った仲麻呂は、軍事力の掌握につとめ、過剰とも言える自己防衛体制を築きます。そして、762年2月には仲麻呂は正一位という極位に昇りつめました。
しかし、762年の5月に、淳仁天皇と孝謙上皇の関係が決定的に悪化します。これは淳仁天皇が道鏡のことを批判したからだといいますが、それだけではなく、光明皇太后が亡くなったことで、孝謙上皇が政治的に独立心を持ち始めた現れだと著者は見ています。
そんな中、仲麻呂の正妻の袁比良と、腹心の石川年足が亡くなったことが仲麻呂にとってさらなる打撃となりました。
763年にはそれまで仲麻呂が掌握していた造東大寺司に吉備真備が呼び戻され、藤原式家の藤原良継が仲麻呂暗殺を計画する藤原良継の変も起きています。さらに764年には娘婿で仲麻呂の軍事力の一翼を担っていた藤原御楯が亡くなります。
ここで藤原仲麻呂の乱が起きるわけですが、著者は「藤原薬子の乱」が「平城上皇の乱」と評価されるようになったのと同じように、「孝謙上皇の乱」と評価するのが妥当だと述べています(213p)。
764年、仲麻呂は孝謙上皇を排除する計画を立てますが、この計画が孝謙上皇に密告されます。これに対し、孝謙側は密かに駅鈴と内印の奪取を命じます。孝謙側の軍事力は授刀衛や造東大寺司の役人、渡来系氏族などであり、争奪戦の結果、駅鈴と内印を手にします。淳仁天皇の身柄も孝謙側が抑えたようで、仲麻呂の正統性は一気に奪われたのです。
この鮮やかな計画を立てたのは吉備真備だとも言われていますが、吉備真備は仲麻呂が近江に逃げると見て逃走経路を遮断し、越前に落ち延びることも防ぐなど、仲麻呂の行動を読み、琵琶湖畔で仲麻呂を討つことに成功します。
その後、淳仁天皇は淡路に流され、仲麻呂派の人物が粛清されていきます。墾田永年私財法も停止されるなど、仲麻呂の政策は否定されていきました。
ただし、仲麻呂の政策の多くは形を変えながらも継承されましたし、仲麻呂の顕彰によって上がった「藤原氏」のブランドも時代を超えて生き続けていくことになるのです。
このように、本書は藤原仲麻呂の事績をたどるとともに、一見すると理解しがたい藤原仲麻呂の乱の内実を明らかにしてくれています。また、墾田永年私財法の位置づけや、鎌足や不比等の業績が仲麻呂によって「つくられている」ことを指摘している部分も面白く、奈良時代の政治を考える上で新たな視点を与えてくれる本と言えるでしょう。
前後関係が少しつかみにくい部分もあるのですが、仲麻呂という人物だけではなく、奈良時代の政治についてもさまざまなことを教えてくれる内容になっています。
- 2021年07月28日00:05
- yamasitayu
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戦国時代研究の第一人者でもあった著者が、研究者人生の後半で取り組んだ戦国の「村」を対象とした一般向けのシリーズの1冊。もともとは、1997年に朝日選書の1冊として刊行されていましたが、今回、朝日新書に入ったのを機に読んでみました。
すでに四半世紀ほど前の本ですが、やはり面白いです。戦国時代の農民や村が、決して領主に支配されるだけのか弱い存在ではなく、村を守るために武装し、ときには領主との交渉も行うしたたかな存在であったことは、著者の研究やその後の研究から知っていましたが、それをさまざまな史料から明らかにしていく過程は刺激的ですし、そのディテールには想像以上の面白さがあります。
清水克行の解説が入ったことで、著者の研究の全体像や、研究が置かれていた文脈もわかりますし、名著が新書として手に取りやすい形で刊行されたのは喜ばしいことですね。
目次は以下の通り。
1 村の戦争戦場の荘園の日々―和泉国日根荘村人たちの戦場戦場の商人たち2 村の平和荘園の四季村からみた領主村の入札3 中世都市鎌倉鎌倉の祇園会と町衆
本書の「はしがき」では、「村から領主を見る」視点を導入するために、まずは戦場における「乱取り」という行為に注目しています。
乱取りとは戦場のおける人間の略奪で、あとから家族などに身代金を請求することもありましたし、奴隷として売り飛ばすこともありました(九州などでは、その一部は国外に売り飛ばされていたと考えられる)。
そのため、人々は戦争が始まると、領主の城に避難しましたが、それだけではありません。「村の城」とも言うべき、独自の隠れ家を用意していた村もあったといいます。
こうしたことを和泉国日根荘を舞台に具体的に紹介したのが「戦場の荘園の日々」です。
日根荘は和泉国と紀伊国の国境にあり、15〜16世紀にかけて、細川氏と根来寺・粉河寺の僧兵の勢力の衝突の場となっていました。
著者が注目するのは、現在の泉佐野市にあたる土丸・大木・菖蒲・船淵という山々に挟まれた「谷中」あるいは「入山田四か村」と呼ばれた地域です。
この四か村の結束は強く、佐野の市で大きの村人3人が和泉の守護(細川氏)の家来に逮捕されてしまうと、すぐに仕返しに放火しようか、守護の方から人質をとる(誰でもいいので守護方の人間を捕らえる)といったことが話し合われています。
この「人質」の話からもわかるように、戦国時代では敵対する人々をさらったりするのはよくあることで、特に戦ともなれば奴隷狩りのようなことも行われていました。
そこで、戦になれば村では自衛のための行動がとられました。文亀元(1501)年に細川方が攻め入るという情報を得たケースでは、「鹿狩り」と称して人を集め、山に昇っています。
この四か村では戦があるたびに村人がたびたび山に昇っており、著者は山に「村の城」とも言うべきものがあったと推測しています。
また、時には金で平和を買うこともありました。文亀2年に根来寺の僧兵が攻めてくると、村の代表者は根来寺に出向いて濫妨狼藉を禁止する制札を手に入れ、四か村を略奪や占領から守ります。
しかし、この制札を手に入れるために2千疋(銭でいうと20貫文=銭2万枚)の大金を使っており、そのうち500疋は領主の九条政基に出させましたが、残りは村人たちが分担して支払いました。まさに自力で村を守っていたわけです。
さらに四か村だけではなく、周辺の村と「クミの郷」という関係が結ばれ、地域防衛のための安全保障のしくみが取り決められていました。
つづく「村人たちの戦場」では、「荘園の城」という話から始まっています。「城=戦国時代=荘園制が完全に解体された時期」というイメージからすると、「荘園の城」という言葉はやや違和感のあるものですが、ここでいう「城」は、堀などの防御ラインに障害物や物見台を設けただけの簡単なものです。
正和4(1315年)には悪党が播磨の矢野荘(相生市)に乱入して城を築くといった事件も伝わっていますが、城をつくる=縄張りを主張するという性格もあったようです。
では、「荘園の城」たる荘園の政所はどのようなものだったのか?
13世紀中頃の丹波の雀部荘(ささきべのしょう)では、新しい地頭が立派な政所をつくろうとしたところ、百姓が豪華な建物はいらないと反発して裁判沙汰になっています。建物を百姓たちがつくることになっていたからです。
また、百姓たちは政所に日常的に出入りし、さまざまな仕事を行ったり、寄合を開いていたそうです。荘園の実務は百姓によって支えられていたのです。
時代が進むと、荘園の中に百姓たちが独自に「城」をつくろうとする動きも起こってきます。先に出てきた播磨の矢野荘では、百姓たちが耕地を潰して「城」を作ろうとしたことに対して、領主(東寺)がしぶしぶ認めたという記録が残っています。
村は武装しており、いわゆる「落人狩り」も村が主体になって行われました。永享6(1434)年には、比叡山の僧兵らに対する落ち武者狩りを幕府が周囲の村々に命じた記録が残っています。しかも、どこでどのように落ち武者狩りをするかは村の自主的な判断に任されています。
もともと武装した怪しいよそ者に対しては、村人の力で身ぐるみ剥いで追い出すというのが「村の平和」の掟でしたが、村の範囲を超えて活動することはないわけで、幕府の命令もそれも踏まえた上のものだと思われます。
この村の武力は村同士の争いにも用いられました。水や村は草刈場や山などのナワバリをめぐって村同士は武器を持って争い、ときには死者を出しています。
また、争いの結果、領主から罰せられるようなケースもありましたが、その場合は村の一人が処罰を受け、村がその子どものために夫役などを免除することもありました。さらに、村で養われていた乞食が村の代表として処罰を受けることもあったとのことです。
16世紀になると戦国大名が登場し、領内の一円支配が進みます。ただし、永禄11(1568)年に武田信玄に侵攻されそうになった北条氏の村への指令をみると、そうでもなかったことがわかります。
北条氏は、村に「人改め」(徴兵台帳の作成)を求めるとともに、最寄りの城での籠城を頼んでいます。籠城中の兵粮は支給するとしており、かなり下手に出ています。大名が村人を兵として動員できるのは危機的な場合に限られていたようなのです。
動員は村の貫高などに応じて決められていましたが、村の中には普請のときの人夫と同じように適当に日雇いの者を出すこともあったようで、大名側は「よき者」を出すように注文をつけています(91p)。
城の修繕なども村ごとに維持・修理すべき範囲が決められており、かかった費用は年貢から控除する形になっていました。その代わりにいざとなったら城へと逃げ込むわけですが、鎌倉の鶴岡八幡宮をはじめ、大きな神社や寺も百姓たちが避難する場となっていました。
ただし、百姓が城に籠もったままでは収穫が期待できなくなるわけで、春には種まきすることを命じ、そのために種子の給付や貸付なども行いました。
また、戦の行方によっては敵方に金などを払って制札を買ったほうがいいケースもあり、村は難しい判断を迫られることもありました。
こうした争いに終止符を打とうとしたのが秀吉です。ここから著者は秀吉が出した惣無事令と刀狩りについて触れています(惣無事令については解説にもあるように現在も論争がある)。
刀狩りによって、農民はすべての武器を奪われて無力化したイメージもありますが、集められた武器の多くは刀や脇差で、弓矢や鉄砲は残りましたし、江戸時代になっても脇差を持つことは許されていました。完全な非武装化は、それこそGHQによる武装解除令を待つことになるのです。
「戦場の商人」では、城攻めなどのとき周囲に立つ市と商人についてとり上げています。
「腹は減っては戦ができぬ」とあるように、多くの兵士を動員するには食糧の確保が必要でした。しかし、食糧を現物で戦場に送ることはなかなか難しく、一定の兵粮とともに銭を与えて現地で食糧を調達させるというやり方がとられていました。
ただし、多くの兵が米を買い求めれば当然米はなくなるわけで、戦場はいつも飢えていました。17世紀に書かれた『雑兵物語』では、具足や甲を売って米を買ったという雑兵の話が載っています。
多くの兵が米を求めていたということは、そこに商機もあるわけで、大きな戦では多くの商人が集まりました。ときには籠城する城に護衛をつけて商人が送るこまれたといいます。
大坂の陣のときは、普段は一石17、18匁程度だった米の価格が、兵庫では24〜32匁、京都では50匁近く、大坂城内では120〜130匁にまでなったといいます。こうした高騰する価格の中で、雑兵たちは自らの才覚で食糧を調達する必要があったのです。
「荘園の四季」では、年中行事について書かれた書物をもとに、領主と領民の関係を分析しています。
具体的な年中行事に関しては本書を読んでほしいのですが、読み進めていくと、領主と領民の間には領主が勧農をし、領民は年貢を納めるという双務的な関係があり、また、年貢の量をめぐるさまざまな駆け引きがあることがわかります。
「村からみた領主」でも、領主と村の双務的な関係がうかがえます。
鎌倉時代や室町時代は飢饉が相次いだ時代でもありましたが、飢饉が起きるたびに「都に向かう難民→乞食→餓死」ということが繰り返され、「御成敗の不足」(失政)を指摘する声があがっていましたが、荘園においても濫妨狼藉などを防げないと、領主の失政を問う声があがっていました。
庶民の手習いの教科書ともなった『庭訓往来』は、もとは中世の領主たちに必要な実用的な教養を往復書簡の形式で説いたもので、これを読むと領主のなすべき仕事がわかります。
『庭訓往来』には、荘園の代官に任じられた若い男にいろいろとアドバイスを送っている部分があるのですが、そこには土地や課税の台帳を把握すること、耕地を村人に公平に割り当てること、荒れ地があればよその農民を招いて復旧すること、村人に必要な種子や食糧、農器具などを貸し与えることなどが説かれています。
ところが、その返事では、領主と百姓の契約(領主は勧農を行い、百姓は年貢を納める)である「吉書」のは済ませたものの、村の土地や年部の状況を示した「差出」が出てこない事が書かれています。
荘園では領主が替わるたびにこの「差出」をめぐる駆け引きがあり、村の取り分と領主の取り分をめぐって激しいやり取りが行われました。領主権の売渡しが行われながら、村との交渉がまとまらずに売渡しが撤回されたケースもあったそうです。
激しい凶作が相次いだ中世において、領主による種子や食糧の供与や貸付がなければ、そもそも百姓の生活が成り立たないことも多く、秋の収穫を得るためには領主の協力も必要でした。種子の貸付である出挙に関しては、領主が個人に貸し付ける形式が、時代が下るにつれて村に貸し付ける形式に変わってきて、村の有力者も貧しい者を救うことを期待されるようになっていきます。
村から見ると領主の交替は「世直」のチャンスでもありました。琵琶湖の東岸のナワバリ争いの記録を見ると、領主が替わった時期に集中しています。今までの裁判で負けていた側が領主の交替をチャンスと見て訴えるのです。
さらに代替わりの「徳政」も期待されました。領主の持つ債権を帳消しにすることが期待されましたが、実際の記録を見ると、領主の貸付米は絶対に返させよとする一方で、年貢の滞納分については帳消しにする運用が多かったようです。この慣行は江戸時代になっても受け継がれています。
また、江戸時代には代官の替わり目に乗じて、村の隷属百姓が結束して村の有力者からの独立を勝ち取ると言ったことも起きています。さらに、代替わりに乗じて年貢の延納を求めるなど、村はしばしば領主を突き上げたのです。
そうした村の内部での意思決定について教えてくれるのが「村の入札」です。
村ではさまざまなことを入札(投票)で決めていました。新潟県の長岡では庄屋だった家から江戸末期の入札が大量に発見されています。
その内容を見てみると、1つは組頭などの村役人を選ぶものであり、1つは藩主の命で村の善行者や非行者を決めたものです。そして、さらにもう1つが「盗難入札」という村の盗人を決めた投票です。
投票は記名が原則で「とうそく(盗賊)△しろさんかく△しろさんかく」などと記入し、包み紙には自分の名前を書き捺印や封印もあります。似たような筆跡のものもあり、普段は投票しない小作人までが投票しているため、誰かが代筆していることも考えられますが、集票工作のようなものもあったのかもしれません。
また、入札には「小盗人の風聞 ×ばつ」のように風聞だと断るものもあれば、ずばり名前が書いてある実証票もあります。風聞なら何票、実証票なら何票というふうに基準を決めておいて、一定以上の票が集まると罰せられました。
越後の村では、明治期でも「地獄札」というものが行われており、本百姓14人の村で三票以上が入ると、村八分になり、村で葬式があるたびにタイマツをもち赤頭巾をかぶって葬列の供をさせられたそうです(215p)。
今から見ると、さすがにどうかと思われるやり方ですが、村を維持するため習俗して長年定着していたのです。
第3部の「中世都市鎌倉」は、鎌倉公方がいなくなると村になってしまった、と言われる鎌倉の町について、15世紀の『鎌倉年中行事』と16世紀の『快元僧都記』という2つの書物を用いながら、その姿を復元しようとしています。
著者は鎌倉に住んでおり、自分で見た町や地形の様子と史料を重ね合わせながら中世の鎌倉を読み解いていく内容は、特に鎌倉に詳しい人にとっては面白いと思いますが、ここでは具体的な内容の紹介は割愛したいと思います。
著者の描く「自力の村」については、この本をはじめとする著作などでかなり知られるようになってきており、戦場のおける乱取りなども大河ドラマなどでも描かれるようにもなっていますが、それでも具体的に史料から村の姿を描き出す本書は、今なお新鮮で面白いです。
戦場における商人の存在感や、村の「入札」に関しては、初めて知った部分も多いですし、著者の学説に触れたことがある人にとっても多くの発見がある本だと思います。
名著の復刊というと文庫のイメージがありますが、文庫が安定した書棚を確保できなくなっている現在、元の本のボリュームによっては新書で復刊というスタイルも定着してくるかもしれません。
- 2021年07月19日23:01
- yamasitayu
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本書は、「チャリティ」からみたイギリス史になります。
1980年代半ばのバンドエイドの活動、イギリス王室のチャリティへの関わりなど、確かにイギリスといえばチャリティに熱心であるイメージはありますが、チャリティに関するエピソードだけを拾ってきても一貫した「歴史」になるのかと疑問に思う人もいるでしょう。
ところが、本書は古代からのヨーロッパのチャリティ観から説き起こし、近世以降のイギリスのチャリティについて、社会や国家の変化と絡ませながら見事にその「歴史」を論じています。
チャリティの盛り上がりにはどのような文脈があったのか? その盛り上がりには現代の視点から見たときにどんな問題点があったのか? ということを冷静に書き起こしていくのです。
「チャリティ」という言葉に対して、好感を持つ人も反感を持つ人もいるかもしれませんが、どちらの立場の人が読んでも、面白く、得るものがある本だと思います。
目次は以下の通り。
はじめに 日本から見たイギリスのチャリティ第1章 世界史における他者救済―イギリスの個性を問い直す第2章 近現代チャリティの構造―歴史的に考えるための見取り図第3章 自由主義社会の明暗―長い一八世紀からヴィクトリア時代へ第4章 慈悲深き帝国―帝国主義と国際主義第5章 戦争と福祉のヤヌス―二〇世紀から現在へおわりに グローバル化のなかのチャリティ
本書では、「困っている人に対して何かしたい」、「困っている時に何かをしてもらえたら嬉しい」、「自分の事でなくても困っている人が助けられている光景には心が和む」という、3つの気持ちを軸にチャリティを描き出しています。
もちろん、この「困っている人」には時代によって限定がついていたりしますし、チャリティがある種の問題を温存していることもあるのですが、これは人間の普遍的な感情と言っていいでしょう。
古代ギリシアやローマには、「フィランスロピー(博愛)」の語源となる「フィラントロピア」という言葉がありました。
このフィラントロピアは同じ市民の間だけで成り立つもので、受け手は市民の中で比較的貧しいものであっても、供給者に対して「名誉」を付与することで一種の釣り合いが取れていました。
現在では、あからさまに「名誉」を求めるチャリティは褒められたものではないように思えますが、当時は当然のことだったのです。
キリスト教が登場すると、チャリティの様子も少し変わってきます。「神の前では皆等しく貧しい」と考えるキリスト教では富は必ずしも素晴らしいものではなくなり、これを貧者に分け与えることが求められました。そして、キリスト教が「貧者のケア」を引き受けるようになっていきます。
この「貧者のケア」をキリスト教が担うという構造は中世になっても続きますが、中世になると「どのような心で」与えたかが重視されるようになり、救済の対象は万人(ただしユダヤ人やムスリムは除く)となっていきます。
しかし、14世紀になって大飢饉やペストが起こると、貧者が急増したこともあって、彼らを「浮浪者」として問題視する動きも出てきます。
宗教改革が始まると、カトリックに代わって「公」が貧民に対処するようになりますが、貧者は「救済」の対象であると同時に「処罰」の対象でもあり、救うべき貧者の選別も始まってきます。不運な貧者は支援すべきですが、自業自得の者は処罰したり排除したりすべき者なのです。
ここからイギリスの話になります。イギリスでも、中世においては物乞いは一種の身分団体を構成しており、キリスト教的なチャリティを実践するための「職業」でしたが、16世紀になって宗教改革が始まると、浮浪者はジブシーと結び付けられて処罰されるようになります。
修道院が閉鎖されたことでこれらの人々を収容する施設も足りなくなり、それを補うために「慈善信託」と呼ばれるしくみや、兄弟会、あるいは「ギルド」とも呼ばれる自発的な互助組織などがつくられました。
さらに1598年と1601年には「エリザベス救貧法」が制定されています。同時代では、これだけの国レベルでの公的救貧のしくみはなく、その後、350年近くも維持されました。イングランド人はどれだけ困窮しても最終的には教区で救済されることになったのです。
そして、救貧法と同じ1601年には「チャリティ用益法」という法もつくられています。ここでは、貧困や病気からの救済だけでなくインフラの整備などもチャリティに含まれており、名誉心を満たすようなものもチャリティに含んでいるのが特徴です。
こうしてイギリスでは「公的救貧」と「私的慈善」が支える「福祉の複合体」が出来上がっていったのです。
1688〜89年の名誉革命以降、イギリスでは急速に都市化が進行していきます。
私的所有権が保護されるようになり、「自助(セルフ・ヘルプ)」が重要な徳目として示されるようになりました。ただ、イングランド人は「地球上でもっとも働かせにくく、税金をとりにくく、搾取しにくい人々」(48p)だという声もあったように、イングランド人が勤勉ではなかったからこそ「自助」といった徳目が唱えられたという面もあり、イングランド人が自らの不運を自助で解決できたわけではありません。
そこで互助や共助が広がります。英語ではフレンドリー・ソサイエティと呼ばれる友愛組合や協同組合がつくられていくことになります。
友愛組は相互扶助の目的を掲げて出資を募り、会員の拠出金を原資にして、会員の失業や傷病、死亡などのリスクに備えるものでした。ただし、地域で一気に失業率が高まると組合自体が破綻してしまうこともあり、全国レベルの友愛組合もつくられるようになります。
18世紀以降のイギリスのチャリティは、慈善信託、発起人たちが目的を掲げて資金を募り運営されていく篤志協会、友愛組合などの互助組織、貧しい人に落ち穂拾いなどを認める慣習、使用人の老後の面倒をみるなどの個人のものなどによって行われていました。
18世紀以降目立ったのは篤志協会ですが、前年の収支決算が総会で報告され、次期役員の選挙が選ばれ、さらなる寄付を募るという株式会社にも似た運営がなされていました。
公的な福祉では救貧法が中心となりましたが、費用は教区ごとの救貧税で賄われたため、豊かなイングランド南東部では手厚く、新興工業都市が多く貧困者も多かった北西部では手薄になりがちでした。
1834年には改正救貧法が制定されますが、原則として在宅ではなく救貧院での救済を掲げ、しかも、院内での生活は院外を下回るように定められたことから、かなり厳しいものとなりました。この公的な救貧制度の厳しさが私的なチャリティを発展させることにもなります
また、豊かな教区に貧者が流入することを抑えるために定住法が設けられ、浮浪者への収容や処罰も続きました。
こうした私的なチャリティが存在感を持つ中で、「誰を救うのか?」という問題が出てきます。近代イギリスで重視されたのは「有用な弱者」を救うことでした。
例えば、それは女性です。女性、特に既婚女性は将来の労働力を産み出す存在であり、出産支援のチャリティなどが行われました。一方、未婚女性はある意味で危険視されており、売春婦の救済を謳いながら、娼婦を真面目な男性を堕落させることがないように施設に閉じ込めたりしました。
また、当時、それなりに教育のある女性が働ける職種というとガヴァネスと呼ばれる住み込みの家庭教師くらいしかありませんでしたが、そのガヴァネスに対するチャリティも熱心に行われています。この時期、人口動態的に女性が男性よりも多く、結婚市場においてミドルクラスの女性は余っていました。そこでガヴァネスになるわけですが、供給が多いために賃金は上がらず、年齢が上がって困窮する例が多かったのです。そこでチャリティによってミドルクラスの対面を保ているように支援が行われたのです。
他にもイギリスを支えた船乗りの救助も熱心に行われ、遭難した船を助けるためのライフボードがイギリス全土へと広がっていきます・
一方、「無用」な弱者に対しては「助けない」ための活動がなされることになります。
1818年には「ロンドン物乞い撲滅協会」という「チャリティ」団体が誕生していますが、これは真に助けるべき物乞いを助けるために偽物を摘発するような組織でした。この組織の会員は寄付額に応じて一定のチケット(食事券)を与えられます。会員は真に困窮していると思われる人にこれを渡すのですが、受け取った物乞いはチケットを持って協会で審査を受けないと食事にはありつけません。この審査にパスすれば食事や宿を与えられる一方で、常習的な確信犯的物乞いは司法の手に引き渡されました。
他にもこの協会は無心の手紙を鑑定することも始め、援助を求めている者が果たして本当にそうなのかを判断し、救うべき者を選別しました。
また、チャリティは「楽しみ」でもありました。
19世紀になると都市で貧民街、いわゆるスラムが生まれてきますが、この貧民街の家庭を訪問する活動も熱心に行われるようになります。ミドルクラスの男女にとって貧民街は「異世界」であり、訪問の際に気をつけるべきマニュアル本なども出版されていました。貧民街の訪問は、善行をしたという満足感と異世界体験の療法を満たしていくれるものだったのです。
こうした状況の中から、従来の「上から下」へのチャリティを乗り越えようとするセツルメント運動も生まれてくることになります。
さらにチャリティには「選挙」としての「楽しみ」もありました。もちろん、篤志協会の次期役員の選挙などもあるのですが、驚くべきはチャリティの受給者を選挙で選んでいた点です。
これは「投票チャリティ」と呼ばれていますが、まず、救済を受けたい人(受けさせたい人)が申請し、それを運営委員会が審査して名簿にして公表。寄付額に応じた票を持った会員が投票してチャリティの受給者が決定という流れになります。
自分の子どもを孤児院に当選させるために投票会場で呼びかける未亡人もいましたし、会員の中には自分の「推し」の候補者のために運動する者もいました。当選を請け負うブローカーまで登場し、まさに模擬選挙のようなものであったといいます。
先程、篤志協会の運営が株式会社に似ていると書きましたが、イギリスでは1720年の南海泡沫事件という投機バブル以降、19世紀初等まで株式会社が禁止されており、篤志協会がその代わりをつとめたとも言えます。
チャリティ団体は、さまざまな救済対象を見つけ出し、軍隊風の位階や制服を採用し、「ライフボートの日」に見られるようなチャリティ・イベントを企画したり、あるいは舞台女優などを看板にすることで、資金の獲得と組織の拡大を狙ったのです。
このチャリティは、イギリス帝国の拡大とともに世界へ広がっていきます。
もともと、外国との戦争において「プロテスタント同胞の保護」などの「人道的」な理由が掲げられることは多かったですし、キリスト教の布教や保護というものも海外進出の目的の1つとなっていました。
さらに、イギリスでは18世紀後半から奴隷貿易や奴隷制度に対する反対運動が盛り上がり、海外の虐げられている人々を「保護」するチャリティが生まれてくることになります。
初期の奴隷制反対運動がクエーカー教徒中心だったように、海外向けのチャリティはまずは教会が中心となり、海外への宣教と結びつけて行われました。世界中で、教育や医療活動を使って宣教が行われていくことになります(1846年には那覇にもハンガリー生まれの帰化イギリス人が医師・牧師としてやってきて活動いている(152p))。
こうした中で、1837年には「アボリジニ保護協会」も生まれています。ここでいう「アボリジニ」はオーストラリアの先住民に限らず、イギリス領になった地域の幅広い先住民を指しており、彼らはヨーロッパの悪徳(酒や武器)によって危機的状況にあり、それを強大で富裕なイギリス人が「保護」しなければならないというのが、この協会の活動方針です。彼らは先住民の土地を守ることを主張しながら、文明化のために植民地自体は認めるというスタンスでした。
ただし、こうしたチャリティは植民地支配に巧妙に利用されることもあり、インド北部のドアーブ地方で1837〜38年にかけて起きた飢饉に際しては、飢饉で苦しみ犯罪に走る人を生来的な犯罪者だとして有産者層の家父長的救済義務を免除し、共同体のつながりを突き崩しました。そして、祖の空白を埋めるものとしてイギリスのチャリティ団体が入っていったのです。
他にも問題となるのがチャリティの資金源です。
2020年にアメリカでBLM運動がさかんになると、人種差別的な人物の銅像を撤去する運動が起こりましたが、イギリスのブリストルでは奴隷商人だったエドワード・コルストンの銅像が海に投げ棄てられました。なぜ、奴隷商人の銅像があったかというと、彼は救貧や学校の運営に巨額の私財を投じた慈善家でもあったからです。
他にもアームスロトング砲の開発で知られるW・G・アームスロトングも、武器製造業者であると同時に、公園を寄贈したり、さまざまな寄付を行った慈善家でした。
ただし、この時期には現在の国際人道支援の先駆けとなる運動も起こっています。
1845年から始まったアイルランドの大飢饉に際して、イギリス政府は公共事業や炊き出しの補助を行ったものの、1847年には改正救貧法を施行して、解決を現地の地主に丸投げしてしまいます。
これに対して、民間のチャリティは盛り上がりました。このときは「同胞」というよりも「近しい隣人」を助けるというスタンスでしたが、インドをはじめ、さまざまなイギリス領からの支援が行われることになります。
こういった国際人道支援の流れから、第一次世界大戦の休戦直後には敵国の子どもを助けようというセーブ・ザ・チルドレンが生まれ(関東大震災への支援も行われた)、1942年には大戦中に起きたギリシアの飢饉を救うためにオックスファムが誕生します。
しかし、20世紀になると公的な福祉が大きくせり出してくることになります。
第一次世界大戦では募金やオークションなどさまざまなチャリティが盛り上がりましたが、第二次世界大戦となると様子が違ってきます。もちろん、ダンケルクでの連合軍兵士の救出活動に尽力したライフボートのような存在もありましたが、世界恐慌やドイツの空爆による影響でチャリティを行う余裕や、チャリティの拠点も失われていったのです。
一方で、累進課税が導入され、ベヴァリッジ報告が出されるなど、国家主体の福祉が存在感を増していくことになります。イギリスはいち早く「福祉国家」となっていきますが、それとともに私的なチャリティは下火になっていくのです。
こうしてチャリティ団体の活躍の場は海外へと移っていくことになるのですが、1980年代になるとチャリティの復権が見られるようになります。
この背景にあるのがサッチャー政権による自助努力を強調する姿勢であり、公的な福祉の削減でした。1997年のブレア政権の頃になると、チャリティ団体の収入の増加が顕著になっていくのです。
また、エチオピア飢饉に対して起こったライブ・エイドは、現在のセレブとチャリティの関係をつくり上げたとも言えます。こうして再びチャリティは浮上してきたのです。
このように本書はチャリティという視点からイギリスの歴史と社会を見ています。「チャリティ」というと、どうしても「それは善だったのか?」といった問題を追求してしまいがちですが、善い悪いをひっくるめたチャリティの歴史をたどることで、見事にイギリス帝国の構造やイギリス社会の特徴を切り取っています。内容も問題設定も面白い本です。
- 2021年07月13日23:28
- yamasitayu
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1934年生まれで、長年、日本の農村社会学を牽引してきた著者による本。日本の今までの農村社会学の研究を引きながら、北は北海道から南は沖縄まで、さまざまな地域の農村のあり方について、主に経営のあり方や家族のあり方などに注目しながら論じています。
これまでの研究を紹介する概説的な性格が強く、何か目新しい考えが提示されているわけではないのですが、沖縄や鹿児島の農村のあり方は、私たちが一般的に持つ「農村」のイメージとは大きく違うもので、興味深いと思います。また、同じ地主と小作の関係といっても、地域によってそのあり方は大きく違うことなどもわかるでしょう。
単一的なイメージで語られがちな「日本の農村」の多様性を教えてくれる本です。
目次は以下の通り。
1 日本農村を見る視座第1章 「同族団」とは何か第2章 「自然村」とは何か第3章 歴史を遡って―農村はどのようにつくられたか2 日本農村の東西南北第4章 日本農村の二類型―東北型と西南型第5章 まず西へ第6章 南と北第7章 「大家族」(家)制と末子相続3 「家」と「村」の歴史―再び東北へ第8章 「家」と「村」の成立―近代以前第9章 「家」と「村」の近代―明治・大正・昭和第10章 「家」と「村」の戦後、そして今
本書でまず紹介されているのが、有賀喜左衛門による岩手県の「石神」という山村の集落に関するモノグラフです。
調査は1935年に行われていますが、この「石神」では「大家(おおや)」と呼ばれるS家中心に、「同族団」とも呼ばれる独特の集団が形作られていました。
S家には家族13人のほか、召使いの一家など13人、合わせて26人が暮らしており、田が1町3反(約130アール)、畑が約2町歩(約200アール)、他に漆器業と木地挽を経営していました。
S家は南部藩の士格の家だったようで、寛永年間(17世紀前半)にこの地に移り住んできたとのことです。
S家では、次男三男以下は婿にでも行かないかぎり長男に従い、嫁をもらっても父母の家に同居するのが普通でした。相当年配になって分家することもありましたが、そのときは本家から少額の財産を与えられ、以降は本家と対等な付き合いはできなかったといいます。
こうした分家以外にも、召使いが独立するケースもありますが。家を自力で建てた「分家名子」と、大家から屋敷を借用している「屋敷名子」がありました。他にもいわゆる小作人である「作子」と呼ばれる人びともいたといいます。
田打、田植、稲刈などのときは名子や作子は大家に「スケ」を出します。農作業を手伝うわけです。大家以外は、それぞれ「ユイコ」と呼ばれる助け合いを行っています。田植などでは、まず大家にスケを出し、その後に各家で「ユイコ」を調整したりしたそうです。
石神の総戸数は37戸ですが、そのうち34戸は血縁の別家、分家名子や屋敷名子、作子であったといいます。石神はS家を中心とした1つの経営体のようなものでもあったのです。
この関係は、戦時中の漆器業の衰えと戦後の農地改革で解体されていくのですが、大家が農業機械を購入したことで、それを使わせて貰う代わりにスケを出すといった関係は残ったそうです。
このように石神はかなり濃厚な関係によって成り立っていた「村」であり、共同体なわけですが、日本全国の農村がこのような共同体というわけではありません。
鈴木栄太郎は「自然村」という概念を提唱し、行政上のまとまり以外に「一つの自然的なる社会的統一」(37p)があることを指摘しました。
とは言っても、江戸時代の「村」でされ、領主の「村切り」によって生み出されたのですが、それでも用水や入会地の利用、祭礼や葬儀などを通じたつながりがありました。
そのつながりは「氏子集団」や「檀徒集団」のような宗教的なものであった場合もありますし、血縁的なものもありましたし、また「講」というさまざまな目的のための集団であったりしました。
では、村はいつ生まれたのか? 第3章では、入間田宣夫の中尊寺領骨寺村に関する研究に依拠しながら考察しています。
この村での水田の開始は10世紀頃と推定されていますが、初期は「田越し灌漑」という、最初の水田に引き入れた水を、隣接の水田に2枚目、3枚目という形で流していく方法がとられていたようです。
つまり、水田の耕作者が別であっても、水の利用を考えると共同作業が必要不可欠であり、そうした農作業における必要性と、神社を中心とした宗教的なつながりなどが「村」を生み出したと言えるかもしれません。
また、本章の後半では、竹内利美による三信遠(三河、信濃、遠江)の境にある地域についての研究がとり上げられています。
この地域は山々の間に小さな谷が点在するような地域で、「郷主」と呼ばれる小さな領主がそれぞれの小さな谷を支配していました。独立した「郷主」は「一騎立」とも言われましたが、徐々により大きな領主に従属するようになります。
そして、この地域に武田氏の支配が及ぶようになると、こうした郷主は軍役を拝辞して農民に戻っていったといいます。こうして独立した経済圏は従属地となり、生産物が武田氏に貢納されるようになったことで、経済的な打撃を受けました。
さらに検地によって、以前の郷主領は「村」という形になっていくのです。
ここまで紹介した村と、第4章の最初でとり上げられている、福武直が紹介する秋田県大館周辺の村では、本家ー分家といった同族関係が強いのですが、同じく福武が紹介する岡山県吉備町の旧川入村ではやや様子が違っています。
1947年の調査時点において、農家の経営はほぼ水田経営であり、また、裏作の藺草が重要でした。同じ面積あたりの収穫量は東北の村よりも多く、牛馬や機械の導入も進んでいました。
家族の人数は平均5.2人であり、東北に比べると少ないです。これは妻帯した次男・三男が同居していることが少ないためで、東北では妻帯後しばらくして分家が行われるのに対して、ここでは妻帯直後に分家が行われるからです。生産力が高いために狭小な農地でもなんとかやっていくことができる点と、貨幣経済の浸透によって下層農民の没落が度々起こるために土地の流動性が高く、分家の創出が容易だからだと考えられます。
狭小な農地での経営は楽ではありませんが、農外の就労も容易であるために、独立がなされていくのです。
川入村でも、「株内」と呼ばれる同族関係はありますが、同時に、同族関係とは離れた「組」や「講」の関係が結ばれており、共有の山を管理する「山総代」も、3,4年で改選されて頻繁に交代していくなど、東北に比べると流動的な関係となっています。
単純に西と東で類型化できるわけではありませんが、西と東で一定の違いが見られます。
第6章の「南と北」では、沖縄と北海道の農村がとり上げられています。
沖縄では北原淳・安和守茂の研究が紹介されていますが、ここでは現在の沖縄村落の起源は薩摩藩の侵攻以降の時代に出来上がったものだといいます。
沖縄では、土地の私有が進まず、地租、賦役などは人頭割で課されていました。沖縄にも「ヤー(家)」と呼ばれるものがあり、儀礼や祖先祭祀の面では同族集団が存在しましたが、家産が欠如していたこともあり、経済的不成的性格を欠いていました。多くの家は土地所有規模が1町未満で5反未満というものも多かったのです。
そこで、「門中」という同族の単位はあったものの、本家が経済的に優越するということは少なく、分家も比較的自由に行われました。
森林と焼畑耕地が混在していることもあって、村落の地域的なまとまりは弱く、人の移動や集落の興廃も激しかったといいます。そうした中で「模合(もあい)」と呼ばれる森林管理などのための結合が生まれました。
次は目を北に転じて北海道です。もちろん北海道の農村に関しては、アイヌの土地を奪って入植したという前提があるのですが、田畑保の研究を見ると他とは違った独自性が見られます。
まず、北海道では直営大農場が目指されましたが失敗し、小作農家の大量導入による開墾が進められることになりました。
まず、とり上げられているのが南空知の砺波部落です。ここは富山県の砺波地方出身者が移住してきた地域ですが、開墾を成功してうまく自作農になった家もあれば、失敗して退出する者、新たに小作として入ってくる者もいました。
大正期になると、地力の問題もあって畑作から稲作への転換が進みますが、自作農は比較手安定していたものの、小作の経営は安定せず、その入れ替わりは激しいものでした。こうした中で、共同事業などは組合をつくって行われました。
一方、旧阿波藩主蜂須賀茂韶を初代場主とする蜂須賀農場のような小作制大農場もありました。約6千町歩の貸し下げを受けて始まった農場で、初期は直営大農場が目指されましたが、小作制に転換しています。
ここでは小作に組合をつくらせて、そこに組長を置いて管理していました。農家は道路沿いに点在し、この道路組や、あるいは同郷同士の結びつきが生まれました。
ここでも小作の入れ替わりは激しかったのですが、これは北海道に置いては土地が本土ほど希少な資源ではなかったからです。また、こうした中で地主を目指す者もいました。
蜂須賀農場は大規模な小作争議が起きたことでも有名ですが、小作たちが闘争的だった背景にも北海道ならではの小作の流動性があったと考えられます。
第7章では大家族制と末子相続がとり上げられています。
大家族制の例としては、柿崎京一による岐阜県白川村の研究がとり上げられています。白川村では、戸主のキョウダイ、オジ、オバ、イトコなどの傍系親が大家族の構成員となっており、「ツマドイ」婚によって再生産されていました。さらに「ヤシナイゴ」と言われる養子、または奉公人・使用人もいました。
この大家族は明治30年代にピークを迎えたといいますが、大正中期以降に急速に縮小しています。白川村では、米の他に繭、薪、硝石などが重要な生産品でしたが、硝石の生産には大量の野草が必要となり、また一定上の規模の家屋が必要でした(家屋の床下でつくられる)。さらに養蚕にも労働力が必要であったこと、山林の利用の面から分家が抑制されたことなどが大家族制を生み出したのです。
また、養蚕では特に女性の労働力が重視されたことから「ツマドイ」の婚姻形態を生んだと考えられます。
一方、末子相続では内藤莞爾の薩摩地方を中心とした研究がとり上げられています。「末子相続」というと末子が必ず相続するように思えますが、実際は必ずしも長男ではない「不定相続」という性格が強いそうです。
薩摩では「門割制」というものがあります。これは16〜60歳の丁男に耕地が割り当てられ、公租徴収のために「門」が設定されるもので、門の長は「名頭」、メンバーは「名子」になります。農民は単位労働力として把握され、土地の私有は許されません。そして、この地域の水田率は非常に低くなっています。
また、薩摩の年貢はかなり重く、七公三民だったとも言われます。こうした中で、家産がないために長男は独立して新たな林野などを開墾し、家を出ていきます。そして、最終的に残った人間が家を継ぐという「末子相続」の慣行ができあがったと考えられるのです。
第8章からは著者による山形県庄内地方の農村の研究が紹介されています。
庄内といえば稲作がさかんであり、また日本一の地主とも言われた本間家があった場所でもあります。
庄内の酒田は西廻り航路における重要な港であり、17世紀後半以降になると庄内の農民たちは町に働きに出て賃金を得るようにもなりました。それとともに、大規模経営は姿を消し、家族労働力で経営しながら、必要な時に奉公人を給米で雇用するようなスタイルが生まれてきます。
同時に17世紀後半になると、本間家をはじめとして地主による土地集積が進んでいきます。
特に享保期になると奉公人の年給が高騰し、地主手作りから自立経営を行っている農家に預け作をするようになっていきます。本家ー分家のような関係ではなく、あくまでも経済的な関係が中心の地主と小作の関係が形成されていくのです。
この地方の村は、領主が検地と村切によって作り出したという側面の強いものでした。領主は村請制によって年貢の徴収を確実にしたかったため、「村」という単位をつくったのです。
そして、この村請制は人々に協議や契約による結合をもたらしました。人為的に設定された村が共同体になっていったのです。
明治になると、地租改正とともに、近隣地域との間で錯雑地の編出入が行われています。このときと郡区町村編制法によって村の再編が行われました。
明治初期のこの地域の村を見ると、意外に養子や聟が多いのですが、これはたとえ実子の男子がいたとしても、あまりに父親との年齢が離れているとその家では田打のような肉体労働をする人間がいなくなったしまうということから起きた現象だと思われます。当主が50歳前後になると、若い労働力が必要とされたのです。
ただし、明治30〜40年代にかけて定着する馬耕の導入と乾田化によって肉体的な力は以前ほどは必要ではなくなり、民法の施行もあって長男の相続が増えていったといいます。
この乾田家は地主の主導によって進みました。地主手作の家がリーダーとなったケースもありましたが、本間家のような大地主のもとでは水田の再編も伴いながら乾田馬耕が導入されていきました。馬耕ができるように狭小な水田はより広いまとまった水田に再編されていったのです。
一方、小作たちは水田で働きながら、生活に余裕がなくなると子どもを商家に方向に出したりしてしのぎました。こうした中で小作争議も起こり、大正末期に向けて農民組合運動がさかんになります。
最後には農地改革を経た戦後の動きも紹介しています。青年学級での学び、青年団での活動がさかんになり、農業や畜産の共同経営も試みられるのですが、「経営」と「経済」がくっついている「家」の存在がネックになって共同経営は挫折していきます。そして、共同田植、共同防除、機械の共同購入を通じた集団栽培という形に落ち着いていくのです。
このように本書は日本の農村のさまざまな姿を教えてくれます。本としてまとまり、あるいは、本書ならではの観点というのは少し弱いようにも思えますし、農村の現在の問題などについても書いてほしかったとは思いましが、本書で紹介されている研究はいずれも面白いものです。
歴史の授業で、「農民」や「農村」をとり上げるとき、われわれは無意識のうちの単一的なイメージをもって教えていたりするわけですが、本書は「日本の農村」がそうした単一的なイメージに収まらないものであることを教えてくれます。
- 2021年07月06日22:25
- yamasitayu
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